この作品が復刊、または新訳されてもおかしくないタイミングが80年代に二度ありました。まず82年刊行のベストセラー、大江健三郎の連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』は作者本人をモデルにしたアメリカの大学の客員教授がラウリーを研究しており、作中事件の進展と『火山の下』への理解の深まりが同等の比重で語られます。
また84年にはジョン・ヒューストン監督により映画化され、『火山のもとで』という邦題でロードショー公開されます。アルバート・フィニーとジャクリーン・ビセット主演で、白水社の旧版『活火山の下で』は絶版でしたが80年代ならまだ旧訳のままで新装発売する手もあったでしょう。
この小説は第一章で事件の顛末が不完全ながら語られますし、読者はそこで物語の規模も予想がつきますから概要を明かしてもいいでしょう。メキシコのイギリス領事だったアルコール依存症の男が祝祭日、メキシコの「死者の日」にやはりアルコール依存症の別れた妻と再会し、カーニヴァルの混乱に巻き込まれて別々に無残な事故死を遂げる、というのが事件から一年後の夫妻の友人の回想で語られる第一章の内容で、第二章は事件当日の朝から始まりますからこの長編小説はその一日だけを克明に追ったものと早々と予想はつきます。夫妻の過去はさまざまなかたちで回想されますが、作中の進行時間は「死者の日」の朝から晩までです。一見人物も事件も舞台と時間も簡略で限定されたものに見えますが、これが訳者解説にすら「一読しただけでは何が起こっているのか理解しづらいと思うので」と全編のあらすじが書かれているほど読者の読解力に挑戦した、唖然とするような作品なのです。