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われわれは文学史というと学問的で客観的なものとの先入観があります。それは例えば統計などに対する盲信に似て、偏差を伴わない純粋に公平な統計などあり得ないのです。
ましてや一国の文学史ですら膨大な文献の累積があるばかりか、概要は知らされているものの作品そのものは手稿のままで代々の遺族が秘蔵し公開を許さない、印刷術普及以前の重要作品が実に多い。王朝時代の重要作品には昭和初期にようやく遺族が公刊を許可した女流日記の異色作『問はずがたり』があり、『蜻蛉日記』も同時期だったはずです。江戸時代には『源氏物語』は『源氏物語湖月抄』という木版本で読まれ、異文だらけの『源氏』から辻褄のあう本文を作成し異文を併記する、という力作で明治時代にも活版本で読み継がれていた本です。
そうなると文学史は読者による受容史という側面を抜きにしては語れない。『湖月抄』の本文は今日では先駆的業績以上には評価されません。文学史家がすべての対象作品を新作として精読し、時代の反響を生身で実感するのは到底不可能であり、ゆえに文学史はどれも「知ったかぶり」以上のものにはなり得ない宿命を持っています。
木版印刷は八世紀後半、木版活版(活字)印刷は11世紀初頭、金属活版(板字)印刷は1445年頃に開発されましたが、仏典、儒教書、教科書、聖書がその対象であり庶民に文学書が印刷物で普及したのはせいぜい近世からの現象なのも念頭に置くべきでしょう。市民文学の起源はせいぜい16世紀後半~17世紀初頭に形成されたものなのです。