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Channel: 人生は野菜スープ(または毎晩午前0時更新の男)
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60年代のアメリカ小説(序)

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筆者が高校生の頃に熟読したアメリカ小説の参考書が六冊ある。そのうちの四冊は、高橋正雄の「二十世紀アメリカ小説」全四巻(1973~1979・冨山房)で、これに取り上げられている小説で翻訳があるものは国会図書館から取り寄せまでして全て読んだ(町の図書館に取り寄せてもらうと、県立図書館の本は期限厳守で借りられるが、国会図書館の本は館内でしか読めない。そんな条件でも読んだ)。

また、大学時代は神田まで徒歩15分だったので、古本で未訳の洋書が買えたし、大学図書館の蔵書も読めた-アメリカ文学専攻の学生になるつもりはなかったが大学なら文学部が楽そうだし、大学時代は自活して映画と芝居を観まくるのが目的だったから、日本文学も海外文学も高校生のうちにひととおり知っておこうと思った。数種類の文学全集や叢書を全巻読んだ。
実際大学に入学してみると先生方の個人的なエピソード以外今さらぼくが学ぶことはほとんどなかった-院生レヴェルならともかく学費の援助を受けられるのは四年生までという親との約束があったし、生活費は完全に自活していたから、バイトと映画と芝居でどの授業もろくに出なかった。結局四年間では単位を取りきれず、そのままバイト先の雑誌編集部に勧められて正社員となり、大学は学費未納で除籍となった。

そういうわけで、ぼくは典型的な文学少年あがり(崩れ)のフリーライターになるわけだが、出版の世界でプロになってみると編集者もライターも基本的な文学知識すらない(ぼくは高校の国語便覧に載っている内外の文学作品はぜんぶ読んだ)、文学以外の諸文化についても通俗的な知識しか持ちあわせていないか、ごく偏った知識でなにもかも知った気でいるのに唖然とした。もちろんぼくだって満遍ない知識など持ちあわせてはいない。だけどこの人たちは本来の意味で勉強してきていないのだ。
それは「飢え」をくぐってきたか、ということかもしれない。ぼくは飢えていた-切実に文学や哲学、社会学や現代思想に、音楽や芸術一般に飢えていた。人生経験は年齢相応でしかなくても、必死で自分を高めようとしてきた。

トニー・タナー「言語の都市」(画像1・原著1971、翻訳1980・白水社)
レイモンド・M・オールダマン「荒地の彼方」(画像2・原著1972、翻訳1981・評論社)
次回からこの二冊をテキストにしたい。

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