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ちゃんぽん&焼きちゃんぽん&ジャージャーちゃんぽん麺

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 とかく貧乏人が食費を工夫しようとすると、思いもよらない種類の料理をするハメになることもある。もっともこの程度が料理と呼べればの話だが、食材の見切り処分品コーナーには半額ほどで賞味期限の迫った食材が並ぶので、これはいつもの食材を選ぶよりお買い得だなと思えるものはこれまで調理の経験がなくても、よほど手に余るものでなければ1度は試してみることにしている。特に麺類の場合は添付スープやソースがなくても何とかなるのではないか。というか見切り処分品コーナーに並ぶ麺類は添付スープやソースのつかない生麺だけのものが多いので、調理の目算なしに購入すると買ったはいいがただでさえ残り短い賞味期限はあっという間に迫ってくる。マフィアだって犯行前には証拠の処分方法くらい決める。楽な手段に越したことはないが、料理は食材の入手からすでに始まっている。取り越し苦労なくらいに用意周到でもいいではないか。

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 そこで今回のお買い得はちゃんぽん用生麺添付スープなしなのだった。仕上がりから言うとキャベツをケチったのが慚愧のいたりだ。加熱するとキャベツは劇的にショボくれてしまうので少ないよりは山ほど用いるべきだった。ちゃんぽんスープそして炒め用調味料はですね、なんとかとんこつスープや焼きちゃんぽんらしいものをでっち上げた。つまり前の食事で豚肉のソテー料理をおかずに作り、フライパンに残った豚脂をラードがわりにして具材を中華調味料(牛豚鳥エキス・ミックス)と塩・胡椒で味を整えた。タコとエビは安い時買って(タコは生のうち刻んで)冷凍しておいたのを小分けして使う。カマボコとかコーンとか欲を言えばきりがなく、海鮮がとんこつスープに合うのなら最初から豚コマも具材に合わせれば良かったな、と思うが次回の課題にする。さすがに自己流のありあわせ調味料では市販のちゃんぽんスープや焼きちゃんぽん用ソース(あるのか?)には及ばずの感だったが、紅しょうがは添えると添えないでは全然違う。紅しょうが(多すぎ?)のおかげで風味の面でも見かけでもどうにか一応ちゃんぽんの体裁が整ったほどだった。

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 ジャージャーちゃんぽん麺は市販の具材入りジャージャー麺用レトルトソースを使ったので料理と言うほどのものではない。麺を茹でてキュウリの短冊切りを乗せ、紅しょうがを添えただけだ。長ネギの錦糸切り(?)を乗せればなお良かったが、生憎こういう時に限って切らしている。麺を茹で始めてからようやく気づいてももう遅い。だがちゃんぽん用の生麺をジャージャー麺にするのはイケた。市販の具材入りレトルトソースだからそれなりの味は保証されているわけだが、市販の生麺でもラーメン用中華麺や焼きそば用中華麺より相性がいいのではないか。レトルトソースの袋にはうどんや素麺にも、とあり、うちは素麺ですと教わったこともあるが、レトルトソースと素麺の原価比率を考えるとレトルトソースに素麺は頭が高いというか、素麺はやはりめんつゆに刻みネギとおろしわさびをたっぷり入れてつけ麺にして食べるのが最高、という習慣から抜けられない。ではなぜちゃんぽん麺なら合うと思うかといえば、要するに持て余していたのだ。しかし結果オーライなだけ今回のちゃんぽんチャレンジはまだマシだった。少しは経験値も稼いだ気がする。まあ今回だけで次回はないかもしれないが。
 ちなみに偶然かはたまた理由があってか、ちゃんぽん麺は入院食や刑務所食でたまに出される中華麺の味がした。中華太麺は伸びにくい、というだけでなく加水率やアルカリ成分(かんすい)もちゃんぽん麺はラーメン用中華麺とは違うのかもしれない。入院も入獄もお勧めしないが、たまに週末の昼食に出るスープが薄くてぬるいラーメンは忘れられない。うまい。そして早くシャバに出たいなあ、と思うのだ。

リザード Lizard - リザード Lizard (Windmill/King, 1979)

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リザード Lizard - リザード Lizard (Windmill/King, 1979) Full Album : https://youtu.be/uWOKqNKL6IE
Recorded at Eden Studios and Mixed at Air Studios in U.K, July, 1979
Produced By Jean Jacques Burnel For Change 2000
Manufactured and Released by King Record Co. Ltd. Japan NPc /King Records-Windmill GP-766, November 21, 1979
All titles Composed by Yohsuke Sugahara
(Side one)
A1. ニュー・キッズ・イン・ザ・シティ New Kids In The City - 4:27
A2. プラスティックの夢 Plastic Dreams - 2:22
A3. ラジオ・コントロールド・ライフ Radio Controlled Life - 3:05
A4. ガイアナ Guyana - 3:15
A5. 記憶/エイシャ Asia - 3:34
(Side two)
B1. T.V.マジック T.V.Magic - 3:18
B2. マーケット・リサーチ Market(Ing) Research - 4:02
B3. そのスイッチに触れないで Don't Touch The Switchboard - 2:24
B4. モダン・ビート Modern Beat - 3:46
B5. ラヴ・ソング Love Song - 2:17
B6. 王国 Kingdom - 4:43
[ Lizard ]
Momoyo (Yohsuke Sugahara) - vocals
Katsu - guitar
Koh - synthesizer
Waka - bass
Belle - drums
Jean Jacques Burnel & Rowena Doe - additional back vocals
Cover concept by Lizard
Photography by Yuichi Jibiki

 リザードは前身バンドの「紅蜥蜴」の結成からは45年、紅蜥蜴の自主制作シングル発表からは40年にもなろうという日本のロックの最古参バンドのひとつで、ウィキペディアの項目をほぼ全文引用してみると以下のようになる。読みやすいように文章や段落は少々手を加えて、全体を第1期~第5期に再構成した。

第1期●リザードは1970年頃、灰野敬二の即興演奏のライブにて初ステージを踏んだモモヨ、カツを中心に「幻想鬼」「通底器」「エレクトリック・モス」などのバンド活動を経て1972年に結成された「紅蜥蜴」を前身バンドとし、シングルを2枚リリースした後、以後の「LIZARD」に改名する。音楽性は、所謂東京ロッカーズムーヴメントを牽引したパンク・ロックでありながら、キーボードやシンセサイザー、ヴォコーダー等の電子機器を駆使したテクノポップ寄りのニューウェイヴサウンドであった。また当時のLIZARDには「リザードアーミー」と呼ばれる親衛隊が存在した。

第2期●1978年、貸スタジオ「S-KENスタジオ」を中心として活躍していたバンドであるフリクション、ミラーズ、ミスター・カイト、S-KENとともに「東京ロッカーズ」と称し、シリーズ・ライブを開始。
 1979年、オムニバス・アルバム『東京ROCKERS』に2曲参加。そして11月21日、キングレコードより1st.アルバム『LIZARD』、シングル『T.V.MAGIC』をリリースしメジャーデビュー。プロデューサーはストラングラーズのジャン・ジャック・バーネルが担当した。

第3期●1980年、モモヨのプロデュースによる2nd.アルバム『BABYLON ROCKERS』、シングル『浅草六区』をリリース。そして、インディーズのジャンク・コネクションより「MOMOYO&LIZARD」名義でシングル『SA・KA・NA』をリリース。また「紅蜥蜴」時代の音源がインディーズのシティ・ロッカーよりアルバム『けしの華』としてリリースされた。しかしその後、メンバーの交通事故や相次ぐ脱退、フロントマンであるモモヨが麻薬取締法違反容疑で逮捕される等、様々な理由が重なり、以後、断続的な活動となる。1981年、その混乱の中、完成した3rd.アルバム『ジムノペディア』をトリオレコードよりリリース。

第4期●1983年から1984年にかけて、モモヨは元P-MODELの秋山勝彦との「夢幻会社」、そして「MOMOYO&PSYKICKS」「VISIONARY FRONT」などで活動。1985年から翌年にかけて、インディーズのテレグラフ・レコードより、モモヨのソロ・シングル3枚『聖家族』『虚空遍歴』『空花』を立て続けにリリース。1986年、テレグラフより「LIZARD」名義でミニアルバム『変易の書』をリリース。1987年、同じくテレグラフよりアルバム『岩石庭園』をリリースした後、活動を休止。

第5期●2009年、長い活動停止の後、オリジナルメンバーであるモモヨ、ワカ、コーに元ARBのキースをドラムスに迎え復活。未発表音源を含む1973~2008年の全トラックを網羅したCD 10枚組に加え、未公開ライブ映像を収録したDVDがセットになったコンプリートBOX『Book of Changes Complete Works of Lizard』をリリース。そして、1st.アルバム発売と同じ日の11月21日に、22年ぶりのスタジオ・アルバム『リザードIV』をリリースした。
 2010年4月5日には、新宿LOFTにおけるワンマンライヴ「LIZARD SHINJUKU MEETING PREMIUM LIZARD VS JJ」で30年ぶりにストラングラーズのジャン・ジャック・バーネルと共演を果たした。

●アルバム・ディスコグラフィー
『けしの華』(1980年・紅蜥蜴/1977年~1978年録音)
『LIZARD』(1979)
『BABYLON ROCKERS』(1980)
『ジムノペディア』(1981)
『LIZARD III』(1982, ミニ・アルバム)
『彼岸の王国』(1985, 録音1978東京・1979ロンドン)
『変易の書』(1986, ミニ・アルバム)
『岩石庭園』(1987)
『LIVE AT S-KEN STUDIO '78 and more!』(2002, 録音1978)
『東京ROCKERS '79 LIVE』(2005, 録音1979年)
『リザードIV』(2009)
『Book of Changes Complete Works of Lizard』(2009, 10CD+1DVD+Booklet)
(Original Windmill/King "Lizard" LP Side 1 & Side 2 Label)

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 上記アルバム・リストを見ると長いキャリアの割には寡作に思えるかもしれない。2009年のボックス・セットはほぼ完全な全集と言えるものだが、前身バンドから数えて35年あまりにCDで10枚とはいえ時期に偏りが激しい。リザードはメンバーが流動的になった第3作『ジムノペディア』以降は実質的にヴォーカルでソングライターの菅原庸介=モモヨのソロ・プロジェクトになっており、菅原氏は不動産業の傍ら音楽活動を続けて今日に至るので、いわゆる専業音楽家ではないという事情がある。ロック(しかもパンク・ロック)ミュージシャンと不動産業の取り合わせには意表を突かれるが、モモヨは親衛隊を従えるほど組織力に長けた性格で知られ、東京ロッカーズでもリザードはもっとも精力的にメディア進出を企てたバンドだった。当時ロンドン・パンクのバンドでダムドはおろかクラッシュ、セックス・ピストルズよりも日英ともに好セールスを上げていたストラングラーズはミュージシャンシップでもビジネス面でもパンク・バンド中一番プロフェッショナルだったが、グラム・ロック的だった紅蜥蜴から一変して日本版ストラングラーズ的な音楽性のバンドに転換したのも積極的な戦略性を感じさせる。セカンド・アルバム『バビロン・ロッカーズ』は紅蜥蜴時代のグラム・ロック的作風への揺り返しが見られ、『ジムノペディア』は専任キーボード奏者不在で作られたアルバムだがギターの比重はもともと高くないだけに、よりベースとドラムスの空間性を生かしたネオ・サイケ的な作品になっている。『変易の書』『岩石庭園』は2作1組で『ジムノペディア』の作風をより熟成させたもので、『ジムノペディア』『変易の書』『岩石庭園』がリザードのもっとも優れた作品だろう。
 ただし『ジムノペディア』系列の作風は派手さのない渋いもので、『LIZARD』『バビロン・ロッカーズ』の頃のキッチュなキャッチーさ、商業的成功への意欲的な挑戦は断念してアーティスティックな達成に向かったものとも言える。東京ロッカーズでは商業的成功に挑んだ音楽性のバンドはリザードが唯一で、アーティスティックな評価はむしろ徹底して反商業的なフリクションが高かったという皮肉があった。モモヨにとっては内省的でサイケデリックな音楽に回帰したと言える『ジムノペディア』も『岩石庭園』は飽きのこない良いアルバムだが、『岩石庭園』の初回プレスにはボーナス・トラックにデビュー・アルバムから2曲のリミックス・ヴァージョンが追加されていたように、デビュー作とセカンドには満載されていたようなライヴで観客を乗せるタイプの曲が見当たらない。作風が瞑想的になっており、自宅でアルバムをじっくり聴くにはいいがライヴには向かない。10枚組のCD全集からすぐに発表された22年ぶりの新作『リザードIV』では初期の躍動感と円熟期の味わいを調和させる試みが見られ、リザードの長い経歴を知るリスナーほど感慨深いアルバムになっている。
(Reissued "Lizard" CD Front Cover & Replica Original Lyric Sheet)

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 このデビュー・アルバムの発表された1979年末~翌年の次作『バビロン・ロッカーズ』の時期、日本のロックで最大の話題作はイエロー・マジック・オーケストラの『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』1979.9だったと言ってよい。ニュー・ウェイヴ系のバンドのアルバムではA.R.Bのデビュー作が79年2月、シーナ&ザ・ロケットのデビュー作が3月、同月PANTA & HALのデビュー作『マラッカ』、オムニバス『東京ニュー・ウェイヴ '79』と『東京ロッカーズ』(ライヴ)が4月、アーント・サリーの唯一作が5月、新月の唯一作が7月、P-Modelのデビュー作が8月に出ており、新月はプログレッシヴ・ロックではないかと異論もありそうだが当時の日本のロック状況では独自に80年代ロックを指向したものだった。P-Modelも前身バンドのマンドレイクはプログレッシヴ・ロックのバンドであり、10月にシングル・デビューしたヒカシュー、11月にイギリスのラフ・トレードから海外先行デビュー・シングルを発表したプラスチックスもプログレッシヴ・ロック出身の音楽的リーダーがポスト・パンク的なパフォーマンス・メンバーをフロントマンにテクノ・ポップを標榜したものだった。またRCサクセションがフォーク・グループのイメージを一新し80年代のロック・バンドとして再デビューを成功させたのも1979年~1980年であり、1980年2月にはアナーキー、3月には佐野元春、9月には横浜銀蝿がデビューしている。地道な活動をしてきたシャネルズ、ジューシー・フルーツが歌謡界でヒットを放ったのも1980年だった。1979年のリザードは前述の第2期で上り坂にあったが、1980年~1981年の第3期には優れたアルバム2枚の成果を残したもののバンドの内情は確実に解体へと歩んでいた。
 P-Modelとリザードの初期3枚には共通点があって、デビュー作は安易なほどわかりやすいディストピア化した近未来SF的な社会批判を歌詞の内容にしていた。音楽も意図的にキャッチーでヒット性のあるロックを狙っていたが、新しさはあっても底は浅いもので、『LIZARD』はP-Modelのデビュー作以上に歌詞の陳腐さや通俗性からたちまち風化してしまったといえる。ただし安っぽいものにも安っぽさからしか生まれない楽しさがあり、両者のセカンド・アルバムはデビュー作の軽薄さの延長で開き直った開放感がある。だが売り上げ不振、累積赤字、先行き不安からバンドは解体に向かい、非常に不安定な状態から生み出されたサード・アルバムはサイケデリックでプログレッシヴ的な内省性が高まり歌詞はストレートなメッセージ性が払底され、地味で謎めいたムードのアルバムになった。P-MODELは80年代いっぱいで一旦解散するまでにサード・アルバムの延長上にさらに5枚のアルバムを残し、それらは初期2枚よりも格段に優れたものになったが、リザードはP-Modelほど作風転換後に順調にアルバムを制作できなかった。P-Modelのリーダー平沢進は社会批判的なパンクから変化した理由を「批判はしょせん天秤の上にいることで、もう天秤から下りたかった」と明言している。リザードはそこまで明晰でなく、初期の作風と中期の作風は単に音楽的振幅(または深化)としている節があり、P-Modelほど質的転換を掘り下げる方向へは進まなかった。『LIZARD』は力作だが、どこかロック好きのアマチュア趣味の産物で、名作『ジムノペディア』も必ずしも初期からの批判的発展とは思えない観は否めない。

真・NAGISAの国のアリス(74)

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 まだ続くの?と、アリスは不貞腐れました。

春陽堂明治大正文学全集全60巻
出版年 : 昭和2年(1927)-昭和7年(1932)
(承前)

●第43巻里見惇篇河岸のかへり手紙勝負晩い初恋夏絵善心悪心俄あれ失われた原稿銀二郎の片腕恐しき結婚朴の歌留多札毒蕈夜桜ムス武遺聞不貞夢みたいな話多情仏心

●第44巻小山内薫篇大川端
久米正雄篇破船受験生の手記敗者良友悪友大人の喧嘩虎金魚山鳥

●第45巻芥川竜之介篇鼻芋粥煙草と悪魔偸盗戯作三昧地獄変るしへる奉教人の死あの頃の自分の事きりしとほる上人伝蜜柑舞踏会秋南京の基督杜子春藪の中将軍トロッコ庭六の宮の姫君おぎん百合三つの宝神神の微笑白一塊の土糸女覚え書少年湖南の扇年末の一日三つのなぜ春の夜点鬼簿彼第二玄鶴山房蜃気楼河童手紙三つの窓或阿呆の一生西方の人続西方の人或る旧友へ送る手記
室生犀星篇幼年時代地下室と老人蒼白き巣窟性に眼覚める頃或る少女の死まで一冊のバイブル

●第46巻菊地寛篇新珠慈悲心鳥恩を返す話忠直卿行状記藤十郎の恋恩讐の彼方に蘭学事始入れ礼肉親我鬼父帰る屋上の狂人義民甚兵衛恋愛病患者

●第47巻戯曲篇1河竹黙阿弥篇三人吉三廊初実戻稿盲長屋梅加賀鳶
依田学海篇吉野拾遺名歌誉
福地桜痴篇侠各春雨傘大森彦七
榎本虎彦篇名工柿右衛門
右田寅彦篇生嶋新五郎紀国文左大尽舞

●第48巻戯曲篇2岡本綺堂篇屋上伊太八 室町御所番町皿屋敷鳥辺山心中箕輪の心中修禅寺物語小栗栖の長兵衛権三と助十佐々木高綱俳諧師伊原青々園篇出雲の阿国
岡鬼太郎篇御存知東男深興三玉兎横櫛
高安月郊篇桜時雨飴買土平関ケ原序曲醍醐の春関ケ原
松居松翁篇茶を作る家淀君と三成
山崎紫紅篇甕破紫田歌舞伎物語
島村抱月篇運命の丘清盛と仏御前

●第49巻戯曲篇3中村吉蔵篇戯曲淀屋辰五郎
木下杢太郎篇柏屋伝右衛門和泉屋染物店南蛮寺門前
吉井勇篇狂芸人俳諧亭句楽の死髑髏尼
秋田雨雀篇国境の夜手投弾喜劇アスパラガス
池田大伍篇茨木屋幸斎男達ばやり根岸の一夜滝口時頼
鈴木泉三郎篇生きてゐる小平次美しき白痴の死次郎吉懺悔谷底火あぶり心中の始末

●第50巻戯曲篇4山本有三篇嬰児殺し生命の冠女親同志の人々海彦山彦大磯がよひ雪父親西郷と大久保
小山内薫篇亭主吉利支丹信長息子森有礼第一の世界公園裏俊寛三人と三人西山物語緑の朝
岸田国士篇古い玩具命を弄ぶ男ふたりぶらんこ紙風船麺麭屋文六の思案葉桜屋上庭園驟雨村で一番の藁の木チロルの秋

(以下次回)


Kenny Burrell and John Coltrane (Prestige/New Jazz, 1963)

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Kenny Burrell and John Coltrane (Prestige/New Jazz, 1963) Full Album : http://www.youtube.com/playlist?list=PLd56fNeWVkFkX2m4Ip1wiExdxQB5hdN1d
Released by Prestige Records, New Jazz NJ 8276, May 1963
Reissued as The Kenny Burrell Quintet with John Coltrane (PR 7532, 1968)
Recorded at Van Gelder Studio, Hackensack, March 7, 1958
(Side one)
A1. Freight Trane (Tommy Flanagan) - 7:18
A2. I Never Knew (Ted Fio Rito, Gus Kahn) - 7:04
A3. Lyresto (Kenny Burrell) - 5:41
(Side two)
B1. Why Was I Born? (Oscar Hammerstein II, Jerome Kern) - 3:12
B2. Big Paul (Tommy Flanagan) - 14:05
[ Personnel ]
Kenny Burrell - guitar
John Coltrane - tenor saxophone
Tommy Flanagan - piano
Paul Chambers - bass
Jimmy Cobb - drums

 ジョン・コルトレーン(テナーサックス/1926-1967)は前回までも触れた通り自己名義のアルバムだけでも45作、参加アルバムや発掘音源を含めるとその5倍ものアルバムが残されているのだが、生前に故人が発売を了解していたスタジオ録音・ライヴ録音アルバムはほぼ100枚といったところになる。ロック・アーティストでこれだけ多作だったのはフランク・ザッパくらいだが、ザッパは25歳でデビュー作を発表し享年は50歳、対してコルトレーンのデビュー作は30歳で享年40歳になり、マイルス・デイヴィスのバンド・メンバーに抜擢され本格的なレコーディング・キャリアを始めたのもせいぜい28歳だから、ザッパとコルトレーンでは活動期間が倍ほど違う。そしてコルトレーンのディスコグラフィーを見ていると、コラボレーション・アルバムがけっこう多いのが目を惹く。発掘音源(代表的かつ重要なものでは、1957年と1958年のセロニアス・モンクとのライヴ)は除いて、コルトレーン自身が生前公式アルバムとしたもので、他アーティストのアルバムでコルトレーンがメイン・フィーチャリング・ソロイストに起用されたもの(ジャムセッション作含む)、また他アーティストとのコラボレーション作品を録音順にリストにしてみた。

1. Paul Chambers - Chambers' Music (Jazz West, 1956.3)
2. Elmo Hope - Informal Jazz (Prestige, 1956.5)
3. Sonny Rollins - Tenor Madness (Prestige, 1956.5/Jam Session, title track only)
4. Various - Tenor Conclave (Prestige, 1956.9/Jam Sessions)
5. Paul Chambers - Whims of Chambers (Blue Note, 1956.9)
6. Tadd Dameron with John Coltrane - Mating Call (Prestige, 1956.11)
7. Various - Interplay For Two Trumpet and Two Tenors (Prestige, 1957.3/Jam Sessions)
8. Red Garland with John Coltrane - Dig It! (Prestige, 1957.3)
9. Johnny Griffin - A Blowing Session (Blue Note, 1957.4/Jam Sessions)
10. Tomny Flanagan - The Cats (Prestige-New Jazz, 1957.4/Jam Sessions)
11. Mal Waldron - Mal 2 (Prestige, 1957.4,5)
12. Mal Waldron - The Dealers (Prestige, 1957.4/Jam Sessions)
13. John Coltrane - Dakar (Prestige, 1957.4/Jam Sessions)
14. John Coltrane and Paul Quinichette - Cattin' (Prestige, 1957.5/Jam Sessions)
15. Various - Blues For Tomorrow (Riverside, 1957.6/Jam Session, one track only)
16. Thelonious Monk - Monk's Music (Riverside, 1957.6/Jam Sessions)
17. Sonny Clark - Sonny's Crib (Blue Note, 1957.9)
18. Frank Wess and John Coltrane - Wheelin' & Deelin' (Prestige, 1957.9/Jam Sessions)
19. Various - Winner's Circle (Bethlehem, 1957.10/Jam Sessions, four tracks only)
20. Red Garland - All Mornin' Long (Prestige, 1957.11/Jam Sessions)
21. Red Garland - Soul Junction (Prestige, 1957.11/Jam Sessions)
22. Red Garland with John Coltrane - High Pressure (Prestige, 1957.11/Jam Sessions)
23. Ray Draper Quintet featuring John Coltrane (Prestige/New Jazz, 1957.12)
24. Art Blakey Orchestra - Art Blakey's Big Band (Bethlehem, 1957.12)
25. Gene Amons - Groove Blues (Prestige, 1958.1, three tracks only)
26. Gene Amons All Stars - The Big Sound (Prestige, 1958.1, one track only)
27. Kenny Burrell and John Coltrane (Prestige/New Jazz, 1958.3)
28. Wilbur Harden Quintet - Mainstream 1958 (Savoy, 1958.3)
29. Wilbur Harden - Tanganyika Strut (Savoy, 1958.5,6)
30. Michel Legrand Orchestra - Legrand Jazz (Columbia, 1958.6, three tracks only)
31. Wilbur Harden - Jazz Way Out (Savoy, 1958.6)
32. George Russell - New York N.Y. (Decca, 1958.9, one track only)
33. Cecil Taylor - Hard Drivin' Jazz (United Artists, 1958, reissued as John Coltrane - Coltrane Time)
34. Ray Draper Quintet - A Tuba Jazz (1958.11)
35. Milt Jackson and John Coltrane - Bags and Trane (Atlantic, 1959.1)
36. Cannonball Adderley Quintet in Chicago (Mercury, 1959.2)
37. John Coltrane and Don Cherry - The Avant-Garde (Atlantic, 1960.6,7)
38. Miles Davis - Someday My Prince Will Come (Columbia, 1961.3, two tracks only)
39. John Coltrane (with Orchestra) - Africa Brass (Impulse!, 1961.5,6)
40. Duke Ellington and John Coltrane (Impulse!, 1962.9)
41. John Coltrane and Johnny Hartman (Impulse!, 1963.3)
42. John Coltrane - Ascension (Impulse!, 1965. 6/Jam Sessions
43. John Coltrane - Om (Impulse!, 1965.10/Jam Sessions)
44. John Coltrane (featuring Juno Lewis) - Kuru Se Mama (Impulse!, 1965.10)
45. John Coltrane (duet with Rashied Ali) - Interstellar Space (Impulse!, 1967.2)
(Original Prestige/New Jazz "Kenny Burrell and John Coltrane" LP Liner Notes)

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 ついでに(発掘音源は除き)コルトレーンがメンバーとして参加した公式アルバムも網羅しておきたい。1957年にはセロニアス・モンクのメンバーだったが『Monks Music』はジャムセッション作品のため先にゲスト参加アルバムに上げた。マイルスのアルバムへも『Someday My Prince Will Come』は独立後のゲスト参加アルバムなので先のリストに上げた。コルトレーンが渡り歩いてきたバンドはディジー・ガレスピー(1949-1951)、アール・ボスティック(1952)、ジョニー・ホッジス(1953-1954)、マイルス・デイヴィス(1955-1956、1958-1959)、セロニアス・モンク(1957)となり、マイルスのツアーには1960年にも同行しているが後任サックス奏者が決定するまでのゲスト参加で、このツアーはコルトレーンにとって翌年の自分のバンドでのヨーロッパ・ツアーの下見のようなものだった。独立してバンドリーダーになるまでのバンド遍歴が聴ける公式アルバムは、

1. Dizzy Gillespie Orchestra - Capitol Recordings (Capitol, 1949-1950, not included Coltrane's solo)
2. Dizzy Gillespie Sextet - School Days (Regent/Savoy, 1951.2, two tracks only)
3. Dizzy Gillespie Quintet - The Champ (Savoy, 1951.2, two tracks only)
4. Earl Bostic and His Alto Sax (King, 1952.4,8, eight tracks only)
5. Johnny Hodges Orchestra - Used To Be Duke (Norgram, 1954.7)
6. Miles : The New Miles Davis Quintet (Prestige, 1955.11)
7. Relaxin' with the Miles Davis Quintet (Prestige, 1956.5,10)
8. Workin' with the Miles Davis Quintet (Prestige, 1956.5,10)
9. Steamin' with the Miles Davis Quintet (Prestige, 1956.5,10)
10. Cookin' with the Miles Davis Quintet (Prestige, 1956.10)
11. Miles Davis and the Modern Jazz Giants (Prestige, 1956.10, one track only)
12. Miles Davis - 'Round About Midnight (Columbia, 1955.10, 1956.6, 1956.9)
13. Thelonious Monk - Thelonious Himself (Riverside, 1957.4, one track only)
14. Thelonious Monk with John Coltrane (Riverside, 1957.7, new three tracks only)
15. Miles Davis - Milestone (Columbia, 1958.4)
16. Miles Davis - Jazz Track (Columbia, 1958.5, three tracks only)
17. Miles Davis at Newport 1958 (Columbia, 1958.7)
18. Miles Davis - Kind of Blue (Columbia, 1959.3,4)

 これで『Soultrane』のご紹介でリストにしたコルトレーン自身の名義のアルバム(遺族公認による正式リリースの発掘音源含む)、一部重複するがコルトレーンのセッション・ゲスト参加アルバムと共作アルバム、またバンドリーダーとして独立するまでに在籍してきたバンドのアルバムを上げたので、これがコルトレーンの全アルバム(プライヴェート録音やラジオ放送音源を除く)と見做すこてができる。マイルスのバンドに加入するまでの5枚は資料的価値としても、以降の12年間でコルトレーンはほとんど強迫的なまでに急進的なジャズマンであり続けた。その姿勢はメイン・ソロイストとしてのフィーチャリング・ゲスト作品、コラボレーション作品でも変わらなかったわけで、コルトレーンはそれだけ腕前を買われていたということでもあるし、ほとんどの場合はその期待に応えた。また、黒人ジャズ自体が非常な多産を許した時代だったという背景もある。プレスティッジ・レーベルはレッド・ガーランド(1923-1984)、マル・ウォルドロン(1925-2002)、トミー・フラナガン(1930-2001)らといったピアニストをハウス・バンドのリーダーにして片っ端からジャムセッション・アルバムを制作しており、プレスティッジほどは粗製濫造ではなかったリヴァーサイド、ブルー・ノートでも専属のセッション・ピアニスト中心にメンバーの組み合わせを変えて新作の企画を立てていたことでも当時もっとも効率的にインディーズのジャズ・レーベルを運営していく方法だった。今日のように1作ごとに周到なプロモーションがされ、ツアーを連動させるようになったのは1970年代以降のメジャー・レーベルによるもので、とにかく契約期間中に大量の録音をストックして小出しにリリースし、リリース済み作品のプロモーションを兼ねる。そんなやり方で名作佳作が続出したのは奇跡的で、40~60年代のジャズにはそれができた。だから奇跡が起こらなくなった時にジャズは存亡の危機に立たされたのだが、コルトレーンの急逝はちょうどそんな節目に当たっていたとも言える。
(Original Prestige/New Jazz "Kenny Burrell and John Coltrane" LP Side 1 & Side 2 Label)

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 このアルバムはケニー・バレル(ギター/1931-)とコルトレーンの共作扱いになっているが、コルトレーンもバレルもプレスティッジの専属から離れた後に発売されたもので、もともとプレスティッジではアーティストのアルバム内容の決定権はない。1年前にトミー・フラナガンのジャムセッション・アルバム『The Cats』でコルトレーン、バレル、フラナガンの顔合わせがあるように、このアルバムも参加メンバーが均等にフィーチャーされたジャムセッション・アルバムとして録音されたと思われる。例えばB2「Big Paul」はフラナガンのオリジナルで14分におよぶが、ポール・チェンバース(ベース/1935-1969)をフィーチャーしたブルースで、典型的なジャムセッション・ナンバーの構成を持っている。ベースの無伴奏ソロのイントロからユニゾン・リフによるテーマ提示もなしにピアノ・トリオ演奏になり、このピアノ・トリオだけのパートもまた長い。ピアノ・ソロに続くソロはテナーサックスで、コルトレーンはプレスティッジ時代でも1957年後半には格段に力量を上げ、1958年にはそろそろスタジオ・ライヴ的なジャムセッションでは表現しきれない実験性に向かっているのが、特にこの曲のソロ後半の性急さから感じられる。
 コルトレーンに続くケニー・バレルのソロは落ち着いたもので、バレルはチャーリー・クリスチャン派のバップ・ギターを出発点にジャズ・ギタリストとしてはブルース色が強いが、端正で軽やかなブルース感覚にブルース・ギタリストではないジャズ・ギターならではの洒脱さがある。コルトレーンもリズム&ブルースを経由してきてはいるが、バレルのようにブルースとバップを上手く調和させたスタイルというより、ブルースとしてもバップとしても過剰なものを同時に表現しようと苦心していたのがプレスティッジ時代でも1958年には目立ってくる。この年、マイルス・デイヴィスのバンドに復帰したコルトレーンは凄腕アルトサックス奏者キャノンボール・アダレイとバンドメイトになり、マイルスもアルバム『Milestones』1958.3でコルトレーンとアダレイから画期的な名演を引き出す。マイルスのバンドはライヴで忙しいレギュラー・バンドだったから1958年のコルトレーンはマイルス・セクステットに雇われながらスケジュールの空きをプレスティッジやサヴォイの録音に当てていたので、マイルスのバンドで演っている音楽的水準にインディーズの制約の中で挑む無理をすることになった。本作など『Milestones』録音3日後の録音になる。コルトレーン参加のマイルス・デイヴィスのアルバムがコルトレーンにとってコルトレーン自身のアルバムと同等かそれ以上の重要性を持つ、とはそういう意味でもある。
(Reissued "The Kenny Burrell Quintet With John Coltrane" LP Front and Liner Cover)

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 バレル、フラナガン、コルトレーン、さらにチェンバースとジミー・コブ(ドラムス)とは1958年には黒人モダン・ジャズのマニアにしか通じないメンバーだったが、5年寝かせて1963年春に発売する頃にはもはや同じ顔ぶれで新作を制作するのは不可能なほど全員が大物ジャズマンと認められていた。名をなした後のイメージからはこの人選、特にバレル、フラナガン、コルトレーンの3人の取り合わせには何の接点があったかといかぶしげに思うが、バレルとフラナガンはデトロイト出身で少年時代からの親友だったという。また、コルトレーンがディジー・ガレスピーのバンドに在籍中の1951年の『School Days』と『The Champ』に収録されたセクステット録音は、録音地はデトロイトでガレスピー、コルトレーン、バレル、ミルト・ジャクソン(ピアノ、ヴァイブ)、パーシー・ヒース(ベース)、カンザス・フィールド(ドラムス)というメンバーになっている。コルトレーン25歳、バレル20歳で、ライヴ録音も同メンバーで残されているが(発掘音源にてリストには掲載せず)、この時期のガレスピーは良いレコードを作ってライヴの出来もいいのにリスナーからもジャーナリズムからも注目されなかった。ガレスピーはリズム&ブルースへ接近していたので、おそらくガレスピーのバンド在籍中に知りあったと思われるリズム&ブルースの人気サックス奏者アール・ボスティックのバンドに移籍する。それからデューク・エリントン楽団のスター・ソロイスト、ジョニー・ホッジスのバンド・メンバーを経てマイルス・デイヴィスのバンドに抜擢されるのだが、ガレスピーのバンドでジャクソンやヒース、バレルと共演していたのは本人たち以外ほとんど忘れていた。ガレスピーのオリジナル「Tin Tin Dio」「Birk's Works」「We Love To Boogie」などはこのメンバーでガレスピーの定番レパートリーになったくらいで、人気と注目に後押しされていればもっと実績を残せたかもしれない。
 だが20代のジャズマンだった彼らには1951年と1958年では大きな変化があって当然で、コルトレーンやバレルほど自分のスタイルに磨きをかけてきたならなおのことになる。フラナガンもデトロイトからニューヨーク進出後の『Kenny Burrell Vol.2』(ブルー・ノート1956.3)以来本作でまだ満2年目にして参加アルバム36枚目、と引っ張りだこの辣腕ぶりを発揮していた。チェンバースはプレスティッジ専属ベーシストでマイルス・セクステットの同僚でもあり、ジミー・コブ(1929-)はマイルスのバンドでバックレ癖に問題があったフィリー・ジョー・ジョーンズの代わりにライヴをこなしているうちに、ちょうどこのアルバムの録音翌月からフィリー・ジョーに代わる正式ドラマーになっている。プレスティッジのセッション・ドラマーはアート・テイラーの起用が多いのだが良くも悪くも堅実で、このアルバムを聴くとコブで良かったなあ、としみじみ思わせる。天才フィリー・ジョーの後任に抜擢されただけのセンスの良さに気づかされる。
(Reissued "The Kenny Burrell Quintet With John Coltrane" LP Side 1 & Side 2 Label)

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 レコーディングはA3「Lyresto」、B1「Why Was I Born?」、A1「Freight Trane」、A2「I Never Knew」、B2「Big Paul」の順番で行われた。フラナガンのオリジナル・ブルースがA1B2でA1緊密なアレンジだがB2は意図的にルーズなジャムセッション。ケニー・バレルの40小節(16小節×2+8小節)のオリジナルA3は「How High the Moon」を参照したものだろう。A2とB1はスタンダード・ナンバーで、B1がギターとテナーサックスだけのデュオ編成によりギターだけのバックアップによるテナーをフィーチャーし、A2はバンド編成でギターが単独でテーマと先発ソロをとる。このセッションでは全5曲以外の予備曲は録音されず、バランスのとれた選曲と構成はフラナガンが仕切ったのに間違いはないだろう。1968年のステレオ・ミックス盤再発で本作は『The Kenny Burrell Quintet With John Coltrane』と改題されたが、コルトレーンの逝去翌年で参加を強調していてもはっきりケニー・バレル・クインテットと改題したのはプレスティッジには珍しい良識で、セッションを仕切ったのはフラナガンだが狙いはケニー・バレルのリーダー作だったのがアルバム全体のムードからも感じられる。
 コルトレーンとバレルは両者とも良い演奏をしているが、抜群の安定感のあるバレルに対してコルトレーンが勢い余ったプレイを見せるのが玉にきず、といったところか。後のミルト・ジャクソンとの『Bags & Trane』1959.1ほどは成功していない。もっともセシル・テイラーの『Hard Drivin' Jazz』1958.10、ドン・チェリーとの『The Avant-Garde』1960.6,7ほど無理なアルバムにはならなかった。そこはトミー・フラナガンの手腕によるところが大きい。プレスティッジのハウス・ピアニストとしてレッド・ガーランド、マル・ウォルドロンらも優れたジャズマンだったが、ソロイストそれぞれの個性を引き出すよりはガーランドはいつもガーランドだったし、ウォルドロンはいつもウォルドロンだった。フラナガンはソロイストのバックでは最小限にリズムを刻み、ピアノのソロでも分厚いコードやアルペジオは避けてベースとドラムスの躍動感を生かした効果的なシングル・ラインのソロを弾いた。アルバム全体では佳作止まり、ギターとテナーのデュオ「Why Was I Born?」もケミストリーというほどのものは生んでいない。コルトレーン唯一のギタリストとの本格的コラボレーションと思うと物足りないが、実態はバレルのリーダー作と思うとこんなものかな、という気もする。

真・NAGISAの国のアリス(75)

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(承前)

●第51巻江口渙篇恋と牢獄
小林多喜二篇東倶知安行
林房雄篇林檎繪のない繪本新いそつぷ物語
徳永直篇豊年飢饉「赤い恋」以上
片岡鉄兵篇綾里村快挙録
窪川いね子篇キャラメル工場からいろは長屋の耳目別れ幹部女工の涙
黒島伝次篇橇氾濫渦巻ける鳥の群
山田清三郎篇小さい田舎者紙幣束幽霊読者
橋本英吉篇労働市場メキシコ共和国の滅亡没落者の群
立野信之篇四日間アスフアルトの仲間施療産院にて
中野重治篇砂糖の話波のあひま
村山知義篇処女地理髪脱走少年の手紙

●第52巻細田民樹篇黄色い窓
細田源吉篇大都
下村千秋篇瀕死の浮浪女群ドナウ・ホテルの殺人
牧野信一篇村のストア派吊籠と月光と歌へる日まで

●第53巻加藤武雄篇東京の顔
中村武羅夫篇瑠璃鳥

●第54巻大仏次郎篇かげろふ噺山の娘半身仲間同志
牧逸馬篇水晶の座白仙境

●第55巻現代作家篇1横光利一篇日輪機械
十一谷幾三郎篇あの道この道街の犬
滝井孝作篇ゲテモノ養子結婚まで父来たる
佐々木茂索篇おぢいさんとおばあさんの話ある死・次の死兄との関係或冬の日に魚の心是好日所謂生き死に
川端康成篇伊豆の踊子死体紹介人十六歳の日記
中河与一篇肉親の賦
稲垣足穂篇天体嗜好症青い箱と紅い骸
坪田譲治篇正太の馬子供の憂鬱正太樹をめぐる
龍胆寺雄篇放浪時代
久能豊彦篇シャッポで男をふせた女の話
井伏鱒二篇朽助の居る谷間丹下氏邸
堀辰雄篇眠つてゐる男音楽のなかでルウベンスの偽画
嘉村礒多篇業苦秋立つまで
小林秀雄篇おふえりあ遺文

●第56巻江戸川乱歩篇心理試験二廃人白昼夢屋根裏の散歩者人間椅子押絵と旅する男百面相役者幽霊
大下宇陀児篇情獄盲地獄決闘街爪死の倒影十四人目の乗客毒蛞蝓綺譚リウ・キノウの不思議な夢生きていた靴下の話痛ましき庄作蒲鉾紅座の庖厨真夏の殺人
甲賀三郎篇琥珀のパイプ恋を拾った話錬金術亡霊の指紋悪戯或る夜の出来事空家の怪
小酒井不木篇恋愛曲線肉腫印象暴風雨の夜謎の咬傷愚人の毒呪はれの家秘密の相似

●第57巻佐々木邦篇ぐうたら道中記
辰野九紫篇恋の警笛女優極楽
中村正常篇日曜日のホテルの電話阿五家の家風幸福な結婚我が家の幸福チエコ・チャコ株式会社従順な夫をもつ妻と隣家の奥さん理窟っぽい妻が風邪をひいた晩アパートの花嫁の料理三人のウルトラ・マダムユマ吉とペソコと二人の愛G酒場の女給たちの向上心超現実派の花嫁結婚の害について
正木不如丘篇木賊の秋法医学教室銀河時に棹さす

 ……まだ続くの?とアリス。
 あと1回です。


現代詩の起源(3); 過渡期の詩人たち (a) 新潮社・昭和4~5年版『現代詩人全集』

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 まずはこの現代詩全集の顔ぶれをご覧ください。今から85年前に、明治以降の現代詩の代表詩人と考えられていたのはこの全集に収録されていた詩人たちでした。
新潮社『現代詩人全集』全12巻(昭和4年=1929.7~昭和5年=1930.7刊、各巻カッコ内は刊行年月日)

第1巻●初期十二詩人集(1930.5.5)
湯浅半月集/山田美妙集/宮崎湖処子集/中西梅花集/北村透谷集/太田玉茗集/國木田獨歩集/塩井雨江集/大町桂月集/武島羽衣集/三木天遊集/繁野天来集
*附録・現代詩の展望 (明治、大正、昭和詩史概観) 河井酔茗

第2巻●島崎藤村・土井晩翠・薄田泣菫集 (1930.1.15)

第3巻●蒲原有明・岩野泡鳴・野口米次郎集 (1930.7.10)

第4巻●河井酔茗・横瀬夜雨・伊良子清白集 (1929.11.15)

第5巻●北原白秋・三木露風・川路柳虹集 (1929.7.15)

第6巻●石川啄木・山村暮鳥・三富朽葉集 (1929.8.15)

第7巻●日夏耿之介・西條八十・加藤介春集 (1930.2.18)

第8巻●生田春月・堀口大學・佐藤春夫集 (1929.9.15)

第9巻●高村光太郎・室生犀星・萩原朔太郎集 (1929.10.15)

第10巻●福士幸次郎・佐藤惣之助・千家元麿集 (1929.12.15)

第11巻●白鳥省吾・福田正夫・野口雨情集 (1930.3.25)

第12巻●柳澤健・富田砕花・百田宗治 (1930.6.10)

 この全集はいわゆる「円本」ブームに乗って刊行されたもので、円本とは大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で深刻な不況に見舞われた出版界が、大正15年末に予約販売を始めた改造社の「現代日本文学全集」の驚異的なヒットを受けて次々と各社の企画が立ち上げられたもので、1冊1円の価格設定から当時のタクシーの大阪・東京市内1円均一料金の「円タク」になぞらえて呼ばれるようになりました。10数社がそれぞれ数種の全集を刊行し、昭和5年=1930年には沈静化しましたが、いわゆる円本の総売り上げ部数は300万部以上ともいわれ、当時の会社員の平均給与500円でも従来の書籍は高価なものだったので、1冊で単行本数冊分を収録した円本は関東大震災で蔵書を焼失した首都圏の読者にも、部数の少ない文芸書の入手困難だった地方読者にも歓迎されたのです。代表的なものに(刊行順)前述の改造社「現代日本文学全集」(全63巻・25万部)、新潮社「世界文学全集」(全57巻・40万部)、春秋社「世界大思想全集」(全126巻・10万部)、春陽堂「明治大正文学全集」(全60巻・15万部)などがあります。また定価1円ではありませんがアルス「日本児童文庫」(全76巻・30万部、50銭)、興文社「小学生全集」(全88巻・30万部、35銭)も円本ブームから生まれたもので、円本ブームのあおりで一時は書籍、雑誌の売り上げが落ちたとすら言われます。また最盛期には円本による印税で海外旅行してくる作家が続出して話題になったほどでした。昭和2年の岩波文庫発刊も円本の登場に刺激されたものと言われます。円本ブームの終焉期には予約解約者も現れ、再販制確立前の流通事情から在庫・予定分の新刊まで値引き販売されましたが、それもこれまで本の購入など高値の花だった読者層には歓迎されました。

 この新潮社の『現代詩人全集』の編集名義人は新潮社創立者・佐藤義亮(1878-1951)でしたが、新潮社では大正年間では小説並みの売り上げがあった詩歌にも力を入れており、特に新体詩以降の自由詩は複数のシリーズ出版をするほど新潮社の主力商品のひとつでした。新潮社の前身は主に自然主義小説を刊行していた新聲社でしたが、自然主義の小説家たちがもともと新体詩の詩人上がりだったのを思い合わせれば、流行をそのまま反映していたのが新聲社~新潮社の特色だったとも言えます。新潮社は『現代詩人全集』に前後して日夏耿之介の上下巻計1000ページ以上、別冊年表・索引150ページあまりの大著『明治大正詩史』を刊行しており(上巻昭和4年1月、下巻昭和4年11月)、同書は明治期~大正初期の現代詩史観として決定的な影響を後世に与えます。明治大正詩人はまだ昭和4年には現役が多く、また日夏自身も詩人でしたので(処女作『転身の頌』大正6年=1917年刊)『明治大正詩史』では明治詩人たちの業績については客観性を保った史観が保たれていますが、大正期の詩人については強いライヴァル意識がうかがわれ、必ずしも日夏の評価が妥当とは言えない面も目立ちます。しかしそうした偏差も含めて現代詩史としては日夏の著作は初めて明治以降の新体詩史を体系化したものであり、この全集に日夏が直接携わったかは不明ですが伊良子清白、石川啄木、高村光太郎など1冊の既刊詩集しか持たない詩人にほぼ全詩集に近い紙幅を与え、生前刊行詩集すらない三富朽葉は歿後出版の詩集全編に未収録詩編も加えて全詩集とするなど『明治大正詩史』の高い評価がなければなかなかできない人選です。日夏は後に『日本現代詩大系』(河出書房1950)の明治期の編者になりますが、『現代詩人全集』の5~6巻あたりまでとの重複を見ても『現代詩人全集』との共通性がわかります。
 明治期の詩人では、森鴎外と与謝野鉄幹は新体詩プロパーではないということで外されたとしても(第1巻の北村透谷、國木田獨歩、第2巻の島崎藤村は「詩人時代の作品」としても)、日夏が北原白秋以上と再評価を求め激賞した木下杢太郎が採られていない。だから必ずしも厳密に『明治大正詩史』の評価に沿った編集とは言えず、巻が下るにつれ当時の詩壇の有力者たち、有力詩誌の主宰者たちが増えていくのですが、当時は好企画だったはずのこの全集は、むしろ現代の読者にはほとんど読まれなくなった詩人が過半数を占めることで、全集そのものが当時過渡期にあった現代詩史を反映しているように見えるのです。さらに言えば、明治以降の日本の詩史は常に過渡期でしかないのではないかと感じずにはいられません。

 そこでわかりやすく先の収録詩人を表示してみましょう。現代でも読まれている詩人はゴシック体にし、特に今でも読者の多い詩人はさらにアンダーラインを引きました。名前は知られている、詩に興味のある読者にはかろうじて読まれている詩人はアンダーラインだけを引きました。無印はほとんど忘れ去られているか、現在再評価の対象にされない詩人たちです。

第1巻●初期十二詩人集
湯浅半月集/山田美妙集/宮崎湖処子集/中西梅花集/北村透谷集/太田玉茗集/國木田獨歩集/塩井雨江集/大町桂月集/武島羽衣集/三木天遊集/繁野天来集
第2巻●島崎藤村土井晩翠薄田泣菫
第3巻●蒲原有明岩野泡鳴野口米次郎
第4巻●河井酔茗横瀬夜雨伊良子清白
第5巻●北原白秋三木露風・川路柳虹集
第6巻●石川啄木山村暮鳥三富朽葉
第7巻●日夏耿之介西條八十加藤介春集
第8巻●生田春月堀口大學佐藤春夫
第9巻●高村光太郎室生犀星萩原朔太郎
第10巻●福士幸次郎佐藤惣之助千家元麿
第11巻●白鳥省吾・福田正夫・野口雨情集
第12巻●柳澤健・富田砕花・百田宗治

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 こうしてみると「第9巻●高村光太郎・室生犀星・萩原朔太郎集」だけが飛び抜けているのがわかります。『現代日本詩人全集』は昭和5年=1930年の完結ですが、現代から詩史を見ると遠近法は逆になるので、おおよそ1925年~1935年の10年間に初期の業績を残した詩人たちによって昭和の詩の方向性が生まれ、それは第二次大戦敗戦後の詩にも批判的に継承されながら現在まで続いている、といえるでしょう。昭和の詩人たちが直接強い影響を受けたのは高村光太郎、萩原朔太郎、室生犀星でした。三好達治のもとに集まった「四季」の詩人や、草野心平が集めた「歴程」の詩人はみんなそうなります。ですから新潮社『現代日本詩人全集』全12巻のうち第9巻以外は、極端に言えば歴史的資料として今日の読者のほとんどには顧みられないのです。「第2巻●藤村・晩翠・泣菫集」など明治新体詩最良の古典なのですが、それは明治の読者だけでなく後世の詩人に継承者が現れるような永続性はなかった。岩野泡鳴に有明・野口と等分のページを割いた「第3巻●有明・泡鳴・野口集」では意識的なアヴァンギャルドとして明治新体詩の限界を突破する企てがあり、革新性がありながらも、いまだにその意義と方法が解読され尽くしたとは言えない。同様に藤村、晩翠、泣菫が西洋ロマン派文学の移入による作風で脚光を浴びる中、日本の風土で日常言語による新体詩を模索していた「文庫」派3人集の「第4巻●酔茗・夜雨・清白集」は評価の定まらないうちに北原白秋、三木露風の登場で終息してしまった流派でした。
 その白秋以降の詩人たちは第5巻~第8巻を経てようやく「第9巻●高村・室生・萩原集」になるのですが、第10巻から第12巻はいずれも大正詩壇の著名詩人や詩誌主宰者とはいえ、現代でも読むに値するのはこの中で唯一アウトサイダー的存在だった千家元麿しかいません。さらに第5巻~第8巻収録詩人にも、各巻著名詩人と忘却詩人の落差が大きい。第5巻なら北原白秋と三木露風では格が違い、川路柳虹は忘れ去られている。第6巻の石川啄木・山村暮鳥・三富朽葉というのも関連性といえば詩界の主流から孤立していたくらいで朽葉などは生前刊行詩集すらなく、啄木と他の2人では知名度が開きすぎる(とはいえ、啄木も生前は一介の無名詩人でしたが)。第7巻の日夏耿之介と西條八十は大正期に華やかな詩人で、日夏は熱心な崇拝者を集めて畏敬され、八十は露風の後継者となり投稿詩選者を勤めアマチュア詩人の指導者を経て大流行作詞家になりましたが、加藤介春は萩原、めったに褒めない日夏の賞賛にも関わらず知る人ぞ知る渋い存在です。第8巻の堀口大學・佐藤春夫はともに慶応大学教授時代の永井荷風に学び、明治~大正~昭和と長い詩歴を持ち、互選集まであるほど私生活でも学生時代からの親友と知られますが、生田春月は大正期に感傷的な抒情詩で多くの少女読者を持ち、苦難な生い立ちと真率な人柄で詩人仲間からの友情は篤かったものの、その詩は現代詩の水準では評価されなかったのです。春月は痛ましい投身自殺を遂げましたがこの時代までの詩人たちはほぼ例外なく致命的な挫折を経験していると言ってよく、この詩人全集は43人の詩人を含みますが、高村・萩原・室生の3人だけが生きた影響力を持ち続けただけで40人は捨て駒になった。確率的にはそんなものかもしれません。

 この全集には秀抜な編集が光る巻がありますが「第2巻●藤村・晩翠・泣菫集」の不動の評価、「第9巻●高村・室生・萩原集」が結果的に予言的なほど決定的な3人集になったのと同様、「第4巻●酔茗・夜雨・清白集」「第6巻●啄木・暮鳥・朽葉集」は「第3巻●有明・泡鳴・野口集」と同等以上に日本の詩を変える可能性のあった詩人たちでした。また「第5巻●白秋・露風・柳虹集」「第7巻●日夏・八十・介春集」「第8巻●春月・大學・春夫集」「第10巻●福士幸士郎・佐藤惣之助・千家元麿集」は明治末~大正期を代表する詩人たちには違いなく、同時期ながらいわゆる民衆派詩人と呼ばれる「第11巻●白鳥省吾・福田正夫・野口雨情集」「第12巻●柳沢健・富田砕花・百田宗治」は第5巻~第10巻収録詩人たちの力量には明らかに一段見劣りがします。第5巻でも三木露風、川路柳虹は明治末の詩から大正の詩を安易で通俗的な方向に導いた詩人たちで、それが本来もっと優れた詩人になり得た西條八十、生田春月、百田宗治に悪い影響を及ぼしていた、と言えます。白秋は明治末の象徴主義新体詩を極端に装飾的に継承してまったく別物に変化させてしまいましたが、露風の手法は平易な通俗化によって素人でも書ける象徴主義新体詩の路を開いたことでした。象徴主義新体詩の批判者だった新進詩人たちから新たな口語詩運動としてほとんど行分けのスケッチやエッセイを詩作として発表し、容易に模倣の可能なスタイルから人気を博して大正詩壇のボスになったのが川路柳虹でした。三木露風が潰してしまった、象徴主義新体詩とはまったく異なる発想による明治末新体詩の可能性こそは雑誌「文庫」に依った「文庫派」3人集の「第4巻●河井酔茗・横瀬夜雨・伊良子清白集」にあり、柳虹と同世代詩人で本質的に新しい詩を実現して優れた正確を残しながら、生前ほとんど注目されなかった夭逝詩人たちが「第6巻●石川啄木・山村暮鳥・三富朽葉集」の3人です。この第4巻と第6巻の間に「第5巻●白秋・露風・柳虹篇」が入るというのは、皮肉を意図しているとは思えませんが、すでに全員が物故詩人となり歴史のパースペクティヴを通して見ると、現代的評価はむしろ『現代詩人全集』でもマイナーな詩人たちの復権の可能性にあるとも言えます。
 第1章・蒲原有明、第2章・高村光太郎と金子光晴と来て、唐突に包括的かつ無謀に専門的な題目になりました。これが前述の河出書房『日本現代詩大系』昭和25年~26年・全10巻(増補版・河出書房新社、昭和49年~51年・全13巻)や、創元社『全詩集大成・現代日本詩人全集(昭和28~30年・全15巻)ならば現代の詩につながってくる昭和詩まで視野に入ってくるのですが、昭和4~5年刊行の『現代日本詩人全集』は本当に大正詩人止まりなので、大正詩の不毛と可能性の挫折をそのまま反映している。特に文庫派3人集「第4巻●酔茗・夜雨・清白集」、口語詩初期の挫折詩人「第6巻●啄木・暮鳥・朽葉集」は現代詩が別の方向に発展していたかもしれないスリルを感じさせます。また第7巻の3人集を日夏・西條の人気詩人となぜか分けあった加藤介春も本格的な検討と位置づけがなされていない存在です。萩原朔太郎に加藤介春と日夏耿之介は自分と近い、と親近感を寄せられ、点の辛い日夏も介春の風格を認め、生田春月も『現代詩人全集』月報で敬愛の念を表明した詩人ですが、現在読まれているとはとても言えない。アンソロジーに代表詩が採られることすらありません。また第10巻の3人、福士幸次郎・佐藤惣之助・千家元麿は同世代の詩人に愛された詩人で、生田春月同様作品の良し悪しを置いても詩への純真な打ち込みから高い好感を寄せられていました。今や高い評価はできないこうした詩人の作品にも、当時一定の敬愛を集めただけのことはある温もりがあり、それは捨てるにしのびないものです。作品をご紹介する前にこうした長い前置きを書いたのは、古臭さや稚拙さにとらわれないで読んでいただきたい一心からでした。次回以降、具体的に作品を引例・ご紹介いたします。

ストロベリー・パス - 大烏が地球にやって来た日 (Philips, 1971) / フライド・エッグ - グッドバイ・フライド・エッグ (Virtigo, 1972)

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ストロベリー・パス Strawberry Path - 大烏が地球にやって来た日 When The Raven Has Come To The Earth (Philips, 1971)
Released by Philips Records Philips? FX-8516, June 1971
(Side A)
A1. I Gotta See My Gypsy Woman (C.Lyn, S.Narumo) - 5:20 *no links
A2. Woman Called Yellow "Z" (C.Lyn, S.Narumo) : https://youtu.be/Q3VLxvIEHAE - 5:52
A3. The Second Fate (H.Tsunoda) - 4:50 *no links
A4. Five More Pennies (C.Lyn, S.Narumo) : https://youtu.be/tUgXvouLd-g - 6:47
(Side B)
B1. 45秒間の分裂症的安息日 Maximum Speed Of Muji Bird (S.Narumo) - 1:10 *no links
B2. Leave Me Woman (C.Lyn, S.Narumo) - 4:42 *no links
B3. Mary Jane On My Mind (C.Lyn, H.Tsunoda) : https://youtu.be/zg-DDtefFkE - 5:10
B4. 地球の幻影 Spherical Illusion (S.Narumo, H.Tsunoda) : https://youtu.be/lM7t7g3AEjQ - 5:55
B5. 大烏が地球にやって来た日 When The Raven Has Come To The Earth (S.Narumo) : https://youtu.be/OVwAp8wKGcs - 6:40
[ Strawberry Path ]
成毛シゲル Shigeru Narumo - guitars, keyboads, bass
角田ヒロ Hiro Tsunoda - drums, vocals
with
江藤勲 Isao Eto - bass on A2,A3,B2,B3,B4,B5
柳ジョージ George Yanagi - vocal on A1
中谷望 Nozomu Nakatani - flute on B5
*

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フライド・エッグ Flied Egg - グッバイ・フライド・エッグ Goodbye Flied Egg (Virtigo, 1972) Full Album : https://youtu.be/a3pnTMum7X0
Released by Philips Records Virtigo-FX8606, December 1972
(Side A) Live Side
A1. Leave Me Woman (C.Lynn, S.Narumo) - 4:27
A2. Rolling Down The Broadway ? (C.Lyn, S.Narumo) - 4:03
A3. Rock Me Baby (B.B. King, J. Josea) - 3:38
A4. Five More Pennies ? (C.Lyn, S.Narumo) - 12:11
(Side B) Studio Side
B1. Before You Descend? (P.Sky, S.Narumo) - 3:59
B2. Out To The Sea (M.Takanaka) - 2:36
B3. Goodbye My Friends (H.Tsunoda) - 1:40
B4. 521秒の分裂症的シンフォニー 521Seconds Schizophrenic Symphony (S.Narumo) - 8:41
? a )The 1st Movement: Promnade
? b )The 2nd Movement: A Rock Beside The Gate
? c) The 3rd Movement: Strawberry Path
? d )The 4th Movement: Finale
[ Flied Egg ]
成毛シゲル Shigeru Narumo - guitars, keyboads
角田ヒロ Hiro Tsunoda - drums, vocals
高中マサヨシ Masayoshi Takanaka - bass, guitar
with
柳ジョージ George Yanagi - vocal on B1

 70年代日本ロック界でトップ・ギタリストといえば成毛滋、そして成毛がリーダーだったバンドでは、70年代の日本のロックの代表作には必ず上げられるストロベリー・パスの『大烏が地球にやって来た日』1971.6と、ストロベリー・パスの改名バンド、フライド・エッグの2作(『グッドバイ~』1971.12の前にスタジオ録音アルバム『ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』1972.4がある)が知られるが、本当に多くの人が聴いているのだろうか、と常々疑問視される「名のみ名盤」の日本ロック部門の最有力候補でもある。
 いや、少なくともストロベリー・パスのアルバムで初出した「メリー・ジェーン」は45年もの間有線放送スタンダードであり、つのだ☆ひろ(角田ヒロ改め)による再録もあるがストロベリー・パスのヴァージョンのつのだ名義によるシングル再発がもっとも高いセールスを記録していると言われ、各ヴァージョンのトータル・セールスは200万枚というから日本のロック・オリジナル曲では最大のヒット曲になる。「メリー・ジェーン」を含むだけでも『大烏~』は70年代の日本のロックでは数少ない大ヒット・シングルを生んだアルバムと言えて、フォーク、ポップス系ではない純ロック畑からのヒット曲としても「メリー・ジェーン」に並ぶものはすぐには思いつかない。せいぜいキャロルの一連のヒット曲くらいだろうか。ロック寄りのSSWでも最大のヒットメイカー井上陽水はまだ1972年春にデビューしたばかりだった。
(Original Philips "When The Raven Has Come To The Earth" LP Liner Cover)

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 商業的成功を基準にすると日本の70年代ロックは「メリー・ジェーン」と「ファンキー・モンキー・ベイビー」に集約されてしまう、という事実は日本へのロックの根づき方を語ってもいるだろう。『大烏が地球にやって来た日』からはリンクが9曲中5曲しか引けなかったが、引けなかった4曲のうちA1,B2はA2,A4と同タイプのハードロックで、B1はB2の前奏的インストのオルガン・フーガでタイトル通り45秒しかない。英語タイトルの「Muji Dori」は谷岡ヤスジの「アサーッ!」という、アレです。A3はピンク・フロイド風牧歌的インスト。リンクを引いた曲で触れていない曲を見れば、B4はギターソロとドラムソロの応酬によるジャズロック、B5はインストのプログレ大作で、よくよく聴けば、いや誰でも気づくが、♪メリー・ジェーン~につながっていくものはアルバム収録の他の曲には何もないのだった。
 てか全曲がメリー・ジェーンなアルバムなどあったらその方がたまらないのだが、本作で聴くかぎり肺活量すごいんだろうなあ、と毎回感心する角田ヒロの大味なヴォーカルに統一感があるためメリー・ジェーンだけが浮いてはいない。ストロベリー・パスのアルバムはハードロック曲はレッド・ツェッペリンとユーライア・ヒープ、プログレ・インストではピンク・フロイドの影響が観られて、だいたい少し前のブリティッシュ・ロックをなぞった内容だが、するとやっぱり「メリー・ジェーン」は本来のコンセプトから外れている。だが日本のロック・リスナーはアニマルズの「The House Of The Rising Sun」からビッグ・ブラザー&ホールディング・CO.(ジャニス・ジョプリン)の「Summertime」、グランドファンクの「Heartbreaker」、ツェッペリンのアレやイーグルスのアレなど、品格のない短調のバラードを好む傾向があり、それもロックの幅広さには違いない。成毛が音楽監督の映画主題歌に採用されシングル発売予定もあった(後述)。アルバム収録にバンド側も逡巡はなかったのだろう。
(Original Philips/Virtigo "Goodbye Flied Egg" LP Gatefold Sleeve)

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 ストロベリー・パスは成毛滋(ギター/1945-2007)と角田ヒロ(現つのだ☆ひろ、ドラムス&ヴォーカル/1949-)が中心になって活動していたメンバー流動型のセッション・バンド、ジプシー・アイズ(録音作品なし)から中核メンバーの成毛と角田が本格的にデュオ形態のバンドに移行したもので、ジプシー・アイズには当時の東京の本格的洋楽指向のロック・ミュージシャンのほとんどが参加していた。成毛は60年代に学生バンド・コンテストで次々優勝して勇名を馳せた、プロ・デビューしたザ・フィンガーズの花形ギタリストだったにも関わらずキーボードを兼任させられ、ストロベリー・パスの頃には左手の押弦だけでギターを弾きながら右手でキーボード、同時にキーボードのベース・ペダルを演奏していた。成毛は日本でもっとも早くギターのベンディング奏法(チョーキング)を始めたギタリストとして知られ、当時の日本のロック・シーンでは最速の速弾きギタリストとして驚嘆された存在だった。
 角田は18歳で渡辺貞夫グループに抜擢された天才少年ドラマーで、渡辺グループ加入と同時に海外公演で絶賛を浴びていた注目の若手ミュージシャンだった。年齢が若いのでロックにも理解のある渡辺とは円満なまま後期ジャックス、休みの国、加藤和彦、セッション・バンドの「フード・ブレイン」等でロック畑に進出。ジャックスでは加入してすぐリード・ヴォーカルを取るなどヴォーカリストとしての力量も早くから披露していた。ライヴは成毛と角田のデュオでこなしたがストロベリー・パスのアルバムではNo.1セッション・ベーシストの江藤勲が大半のベースを弾くことになった。毎回リード・ヴォーカル曲でゲスト参加していた柳ジョージはジプシー・アイズではベースで参加することもあったがレギュラー参加はスケジュール的に無理だったため、アメリカ駐留軍基地の高校生バンド「Brush」(自主制作盤あり)でギターを弾いていた現役高校生の高中正義(1953-)を正式ベーシストに迎えて、バンドはフライド・エッグに改名する。
(Original Philips/Virtigo "Goodbye Flied Egg" LP Side A & Side B Label)

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 フライド・エッグの真の代表作は唯一の全曲スタジオ録音アルバム『ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』を上げるのが妥当と思われるし、次回でご紹介したいと思う。ストロベリー・パスの唯一作(1971年6月)から数えても、A面に解散ライヴ、B面にスタジオ録音の新曲を収めたフライド・エッグの解散アルバム『グッバイ~』は1972年12月発売と、ジプシー・アイズの活動を含めても満2年の短命バンドだった。解散後成毛滋はジプシー・アイズ活動以前に3年間滞在していたロンドンへ戻り(成毛はブリジストンの石橋財閥令息、鳩山兄弟の従兄弟に当たる)、つのだ☆ひろはバンドリーダーになってスペース・バンドを結成、活動する。つのだの場合は、71年夏にATG映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(監督=清水邦夫・田原総一朗)主題歌にシングル『メリー・ジェーン』が使われ、フライド・エッグ存続中の1972年7月には編集ヴァージョンのシングルがつのだのソロ名義で発売されているのが、すでにフライド・エッグ解散後の布石となっていたものと思われる。
 フライド・エッグの解散ライヴは日比谷野外公園で1972年9月19日に行われた。フライド・エッグ名義の第1作『ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』が1972年4月なのだから、アルバム発売時には解散までのスケジュールはほぼ確定していたとしか思えない。『~フライド・エッグ・マシーン』より先に『大烏~』と『グッバイ~』をご紹介したのは、やはり今でも「メリー・ジェーン」は問題の1曲なのと、『グッバイ~』はライヴのストレートなハードロック・バンドぶりとスタジオ録音のギャップにこのバンドの振幅が表れていると思えるからで、『~フライド・エッグ・マシーン』はその点バンドが統一感に留意した成功作になっている。ただし真の問題は、ストロベリー・パス~フライド・エッグの音楽はまったく感動に欠けることだ。面白さがないのではないが、これはどういうことなのだろうか。

真・NAGISAの国のアリス(76)

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(承前)

●第58巻長谷川伸篇沓掛時次郎股旅草鞋中山七里関の弥太っぺ町の入墨者瞼の母舶来巾着切掏摸の家九郎の関人斬り伊太郎
白井喬二篇新撰組

●第59巻佐々木味津三篇右門捕物帳
直木三十五篇仇討浄瑠璃坂

●第60巻現代作家篇2葉山嘉樹篇淫売婦セメント樽の中の手紙出しやうのない手紙労働者の居ない船乳色の靄浚渫船
前田河広一郎篇三等船客太陽の黒点旗が振られる
金子洋文篇天井裏の善公
平林たい子篇施療室にて夜風西向の監房足音投げすてよ私の友人
小島政二郎篇 一枚看板月二回生理的腫物子にかへる頃家
浅原六朗篇深見のヘレニズム青きドナウ軽蔑されたドン・ファン木馬舘ビルの生活者と表情
犬養健篇亜刺比亜人エルファイ南国改作
池谷信三郎篇橋マクダレナ忠僕後妻の気持
岡田三郎篇妻の死と百合公母

 以上春陽堂明治大正文學全集全60巻でした。ご存知の作家は何人いらっしゃったでしょうか?僭越ながら推察するに、あなたの場合は全然なんではないかと。
 本を読んでいないのが悪いって言うの?とアリスは腹を立てました。私だってたまには本くらいは読むし、それに学校では毎日教科書を読まされているわ。
 それに、とアリスは強調しました、私は本なんか読まなくてもハリー・ポッターより有名なのよ。ハリー・ポッターで足りないならホビットを足してもいいわ。その私が、どうして今さら本なんか読まなきゃならないの?
 有名な童話のヒロインなのと、ろくに本すら読まないJSなのは違います。
 JSって何よ?
 女子小学生の略称です。最近日本ではそう呼ぶことになったのです。
 私は日本の女子小学生じゃないわ。それに19世紀のイギリス人には日本人は猿と同じか、世界地図のどことも知らない未開の土地の原始人だと思われていたのを忘れないで。
 肝に銘じます。しかしあなたは1854年生まれで1934年に亡くなりました。日本の年号なら嘉永5年生まれで、昭和9年までご存命でいらした。1868年~1912年までが明治、1912年~1926年が大正年間です。
 だから何よ?
 最初にあなたのお話が紹介されたのは1899年=明治32年でした。明治41年=1908年には初めての翻訳がなされ、大正9年=1920年には正続合わせた初の全訳が出ました。1927年=昭和2年には芥川龍之介の遺稿からも日本語訳が刊行されました。
 つまり、そういうことなのです。あなたは生前すでに日本語で読まれていたのです。



John Coltrane - Coltrane's Sound (Atlantic, 1964)

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John Coltrane - Coltrane's Sound (Atlantic, 1964) Full Album: http://www.youtube.com/playlist?list=PL1MWkj3cYCK1R1r9FUmdVIF_Fe1nRZV0f
Recorded at Atlantic Studios, New York City on October 24(A2,B1,B3), 1960; the remainder on October 26, 1960.
Released by Atlantic Records Atlantic
SD 1419, Late June/early July 1964
(Side one)
A1. The Night Has a Thousand Eyes ( Buddy Bernier, Jerry Brainin ) - 6:51
A2. Central Park West (John Coltrane) - 4:16
A3. Liberia (John Coltrane ) - 6:53
(Side two)
B1. Body and Soul ( Edward Heyman, Robert Sour, Frank Eyton, Johnny Green) - 5:40
B2. Equinox (John Coltrane ) - 8:39
B3. Satellite (John Coltrane) - 5:59
[ Personnel ]
John Coltrane - tenor saxophone and soprano saxophone on "Central Park West"
McCoy Tyner - piano expect B3
Steve Davis - bass
Elvin Jones - drums

 本作はジョン・コルトレーン(1926-1967)がアトランティック社専属時代に録音されたが、発売はコルトレーンのインパルス社移籍後になった。コルトレーンのアトランティック社へのアルバムは、発表順にリストにすると、
●Atlantic Era (1959-1961)
・1960-01; Giant Steps (rec.1959-05-04, 1959-05-05, 1959-12-02)
・1961-02; Coltrane Jazz (rec.1959-11-24, 1959-12-02, 1960-10-02)
・1961-03; My Favorite Things (rec.1960-10-21, 1960-10-24, 1960-10-26 )
・1961-12; Milt Jackson - Bags & Trane (rec.1959-01-15)
・1962-02; Ole Coltrane (rec.1961-05-25 )
(Released after Atlantic Era Albums)
・1962-07; Coltrane Plays the Blues (rec.1960-10-24)
・1964-06; Coltrane's Sound (rec.1960-10-24, 1960-10-26)
・1966-00; The Avant-Garde (co-leader with Don Cherry) (rec.1960-06-28, 1960-07-08)
・1975-03; Alternate Takes (Various Atlantic Outtakes)
 アトランティック社との契約は1959年と1960年だったので、1961年録音の「Ole Coltrane」はインパルス社へ移籍した後にリリース枚数満了のために作られたアルバムで、録音後急いで発売された。アウトテイク集はアナログ盤時代にはボーナス・トラック収録できなかった別テイク、アルバム未収録曲集だからCD化以降は各アルバムに分散収録されている。「Bags & Trane」はミルト・ジャクソンの、また共作名義の発売だが「The Avant-Garde」はドン・チェリーのアルバムとして制作されたものだから、コルトレーン自身のアルバムは6枚になる。
 録音年月日を見ると「Giant Steps」セッション(1959年5月)の半年後に「Coltrane Jazz」セッション(1959年11月・12月)が行われ(ただし一部混合している)、「My Favorite Things」「Coltrane Plays the Blues」「Coltrane's Sound」は1960年10月21日、24日、26日の集中セッションから編まれたものとわかる。「The Avant-Garde」は1960年6月・7月で、「Coltrane Jazz」と60年10月セッションの間になる。また「Bags & Trane」は「Giant Steps」に先立つアトランティックへの初録音だが発売は「Giant Steps」「Coltrane Jazz」「My Favorite Things」の次、「Ole」「Plays the Blues」「Coltrane's Sound」の前になったのはアトランティック社のアピールの巧妙さを感じさせる。アトランティックはインディーズのプレスティッジ、大手レコード会社傘下の新設レーベルだったインパルスのようにジャズ専門レーベルではなく、黒人大衆音楽全般を扱っていたインディー・レーベルが大手レコード会社の配給網と提携していた中堅的な位置にあった。コルトレーンも明らかにプレスティッジ時代よりも広範なリスナーを意識したアルバム制作に意欲的に取り組んでおり、アトランティック時代ならではの成果を残している。
 (Original Atlantic "Coltrane's Sound" LP Liner Notes)

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 また、アルバム制作についてそれまでのコルトレーンのアルバムでリハーサルが行われたと思われるのはブルー・ノート社との単発契約作品『Blue Trane』だけで、プレスティッジはリハーサルなしにリーダーによる指示だけのぶっつけ本番で録音し(凝ったアレンジや構成の場合やオリジナル曲では楽譜も用意された)、このヘッド・アレンジはジャズの面白さである即興性の上では長所もあったが、ツメの甘さ、冗長さ、粗雑さなどの弊害も大きかった。サヴォイやプレスティッジはリハーサルしたりリテイクする時間があるなら1曲でも多く録音せよ、という方針だったし、ベツレヘムやリヴァーサイドはヘッド・アレンジではあってもOKテイクまで可能な限り時間をかけ、ブルー・ノートは本番の録音日に先立ってリハーサル・セッションを設けてリハーサル日のギャラもジャズマンに支払い、しかもアルバム内容をジャズマン自身の発案に任せた。ブルー・ノートはインディーズとしては異例だった。アトランティックに移籍後は、ゲスト参加作の「Bags & Trane」と「The Avant-Garde」を除いたコルトレーン自身のアルバムは、すべてリハーサルなしでは不可能な内容になっている。インパルスに移籍後は逆に意図的にセッション的なアルバムも挟むようになるので、アトランティックの6作には独自の完成度が感じられる。録音もプレスティッジやブルー・ノート、またインパルスでも依頼していたフリーランスのルディ・ヴァン・ゲルダーとヴァン・ゲルダー所有スタジオでなく、アトランティック時代だけがアトランティック社の社内スタジオで社内エンジニアのトム・ダウドが勤めており、ダウドは後にアトランティックの大プロデューサーになるほどもともとはポピュラー畑の人だった。だからアトランティックのコルトレーン作品はプレスティッジやインパルス時代よりもポピュラー寄りの安定感のある録音で聴きやすい。
 だがポピュラー寄りとはいえアトランティック時代のアルバムも時代の先を行くもので、コルトレーンは働き盛り(40歳)で急逝したが作品数は膨大で、生前の作品発表は録音順とはかけ離れていたために、没後には作品の順列は録音順に整理されて聴かれるようになった。だが生前の発表時期は重要で、このアルバムのA1は後進のテナー奏者に愛され、1964年録音のウェイン・ショーター「Yes or No」(アルバム『Ju Ju』収録)、ジョー・ヘンダーソン「Night and Day」(アルバム『Inner Urge』収録)に影響が現れている。1964年のコルトレーンは6月に『Crescent』、12月に『A Love Supreme』を録音して大きな転機を迎えており、翌年の爆発的な創作活動の予兆を見せている。むろん余命3年もないことは誰も予期していなかった。それほどコルトレーンのスタイルが変貌していた時期に、5年前の録音の『Coltrane's Sound』が新鮮な新作として通ったのは当時どれほどコルトレーンの作風が新しいジャズの指針として聴かれていたかを物語る。
 (Original Atlantic "Coltrane's Sound" LP Side 1 Label)

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 アナログ時代の旧邦題はA1から取って『夜は千の眼を持つ』と呼ばれたほどA1は鮮やかな解釈で、原作はコーネル・ウールリッチ(別名ウィリアム・アイリッシュでも有名)が数少ないジョージ・ホプレイGeorge Hopley名義で発表したサスペンス小説(1945年)の映画化主題歌だった(1948年)。ビング・クロスビー(ヴォーカル)のレパートリーになり、ジャズマンではコルトレーンに先立ちホレス・シルヴァー(『Silver's Blue』1956.7)、コルトレーンより録音は後だが発売は先になったソニー・ロリンズ(『What's New?』1962.4)、コルトレーン盤の発売を受けた時期にロリンズ盤でもギターを弾いたジム・ホールの参加でアレンジを踏襲したポール・デスモント(『Bossa Antigua』1964.7)などいずれも素晴らしい。だが他のジャズマンに影響力を持ったヴァージョンはコルトレーンが唯一になった。これは演奏の優劣というよりも、コルトレーンのアプローチが若手テナー奏者にはもっとも訴えかけたということだろう。ロリンズやデスモントのヴァージョンもワン&オンリーの魅力を放っているが、逆に言えばワン&オンリーすぎてそこから学び、発展させるには完成されすぎている。
 A1がロリンズ、コルトレーン、デスモントらによって新しくスタンダードになった曲ならば、1930年の気で「ジャズ・テナーの父」コールマン・ホーキンス(1904-1969)の1939年ヴァージョンがジャズ史上に決定的名演として輝くB1「Body and Soul」はいわば管楽器、なかんずくサックス(テナーの場合は必須)奏者の試金石とも言うべき名曲で、器楽ジャズとヴォーカル・ヴァージョンが拮抗するくらい誰からも愛されている曲になる。アトランティックの1960年10月セッションは初めてマッコイ・タイナー(ピアノ/1938-)、エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス/1927-2004)が加わった録音で、コルトレーンはこの2人をバンドのレギュラー・メンバーに望んでいたのがやっと実現した(ベースがジミー・ギャリソンに決定するのはインパルス移籍後になる)。この曲のメリハリの効いたアレンジや鮮やかなキメもプレスティッジの主にレッド・ガーランドとのセッション録音や、アトランティック初期の「Giant Steps」「Coltrane Jazz」がトミー・フラナガンやウィントン・ケリーなど手練れのピアニストには要求できなかっただろう。マッコイ、エルヴィンというピアニストとドラマーを得て、バンド全体をコルトレーンのサウンドにするのが、1961年10月セッションの『My Favorite Things』『Coltrane Plays the Blues』『Coltrane's Sound』3部作でようやく実現したのを「Body and Soul」ほど堂々と宣言した演奏はない。
 (Original Atlantic "Coltrane's Sound" LP Side 2 Label)

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 アルバムの後4曲はコルトレーンのオリジナル曲になるのだが、3回のセッションからアルバム3枚に分割して先に『My Favorite Things』『Coltrane Plays the Blues』の2枚が出ているのに、『Coltrane's Sound』の出来の良さには驚く。スタンダード曲集『My Favorite Things』も、演奏は充実、楽曲はやや渋い『Coltrane Plays the Blues』もコンセプトがあり、その点では『Coltrane's Sound』はコンセプトの統一はないのだが、AB面とも1曲目にスタンダードを置き2、3曲目には意欲的なオリジナル曲を演奏しているので、アルバムの緩急ではむしろ『My Favorite Things』『Coltrane Plays the Blues』を上回るバンド作品になっているのではないか。A2のソプラノ・サックスのバラード、B2の重いリフ・ブルースも瑞々しい名演で、コルトレーンのオリジナル曲の代表曲になっている。また意図的にサブ・トーン(息もれ)を混ぜた音色はこれまでのコルトレーンがあえて禁じ手にしてきたことだった。
 A3とB3は実験的な演奏で、A3はコード・チェンジをシンプルにしてモード手法の楽曲にしているが、30分あまりのライヴ・ヴァージョンも残されている「A Night in Tunisia」(ディジー・ガレスピー)の改作。マイルスのバンドやプレスティッジ時代の抑制はどこへの捨て身の演奏で、「Giant Steps」でもまだ禁じ手にしていたサブ・トーンを駆使しているのが大きな変化で、これだけ吹き倒すようなプレイをするためには音色の変化も厭わなくなったのだろう。インパルス時代のサウンドがすでに現れてきており、アルバム収録が遅れたのも先進的すぎたのかもしれない。B3も過激なピアノレスのテナー、ベース、ドラムスだけの演奏で、チャーリー・パーカーの「Ornithology」の原曲としても有名なスタンダード「How High the Moon」のコード進行に乗せた改作で、だからタイトルも「Satellite」とわかりやすくなっている。ただし曲は寸分のスキもない高速アドリブの爆走が圧倒的で、A3のモード手法に対してB3はコード進行の細分化によるシーツ・オブ・サウンド奏法(ビバップからの発展だが)になるが、1960年秋にはこれは急進的すぎて1964年でも最新作で通るものだった。オーネット・コールマンに刺戟された1960年春から半年ほどで、コルトレーンは自分のスタイルの革新を成し遂げていたことになる。3部作のうちもっとも先進的な本作の発表が後回しになったのも、順当だったのかもしれない。

袋麺焼きそばvs.カップ焼きそば

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 何だか音楽、童話、アニメに次いで焼きそばの記事がなぜか多いような気がする。音楽については聴かない日はないのでまあ古いジャズとロックを守備範囲として書いている。アニメはほぼ毎日観る。テレビで放送しているものは片っ端から観ているが、これは療養生活では曜日や時間帯の確認という療法的目的もある。テレビ番組を毎週きちんと観られるうちは様態も安定しているというわけ。実は映画も、それも1910年代~1980年代のものだが、DVDやブルーレイ鑑賞ながら月に10本~20本は観ている。ところが映画についてはあまり書く気がおきないのは、あちこちのサイトをのぞけはわかるが好き嫌いだけで一刀両断をまねき寄せる性質が映画というジャンルにはあるようなのだ。アニメはそれほどではないのは、好きな人だけどうぞという作りのものが多いからだろう、糞アニメがあっていいようにクズ映画だってあってもいいではないか。ちなみに童話は何も考えないで書いている。これを惰性といい、基本的かつ普遍的な物理法則に属する。

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 つまりブログに書くのは好き嫌いとは違うと言いたいのだが、焼きそばに限らず丼物や麺類、特に焼きそばをお膳に上げると写真に残したくて仕方なくなるのだ。これはカメラ機能のついた携帯電話の普及以来世界中に蔓延した伝染病といっていいと思う。手軽に写真に撮れるのは手軽に写真を撮る習慣に直結したことで、たぶんほんの最初のうちだけ遠慮やためらい、羞恥心があった。だが周囲を見回せばもう当たり前のようにハンバーガー店や喫茶店、ファミレスで誰もが記念写真を撮っており、1990年代までの飲食店やショッピングセンターには店内撮影禁止の貼り紙があったと思うがフィルム式カメラではフラッシュを焚かなければならない、という問題があり、それは迷惑行為だったから根拠があった。今では撮影禁止にしても取り締まりようがない。せいぜい医療機関の施設内くらいか、という話題をしたかったのではなくて、昨夜は雨だったから(理由になっていない)3食入り特売78円の袋麺焼きそばを炒めて食べた。具はキャベツとウインナーの短冊切りで、青のりをふりかけ、紅しょうがとからしを添えてある。ついついカップ焼きそばの写真と並べてみたくなった。カップ焼きそばだっておいしく、何より手軽なのだが、並べるとどうひいき目に見ても不利なのが不憫でならない。

眞・NAGISAの国のアリス(77)

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 あと4回。
 甲冑の騎士の一群は泥濘地を越えた草叢とその奥の森を厳重に警備しているようでした。
 見ろや鉄兜や、と大ノッポは感に堪えたように言いました、しかも全身甲冑や。あれは総重量は何10kgもあるんやで。しかも、当然動けなければ意味ないから肝心な関節や首周りは露出しているかせいぜい革つなぎにするしかあらへん。中距離、遠距離で石つぶてや槍を防ぐには丈夫でも、近接戦闘だと甲冑の重さによろけながら首の斬りあいになるのがオチや。人間魚雷が突進する棺桶ならば、甲冑なんぞは死闘用の拘束具や。まともな精神状態で着られるものやあらへん。
 敵を近づけなくちゃいいんじゃないの?とチビ。大砲とか銃撃戦にすれば、近接戦闘にはならずに済むんじゃないかなあ。
 時代が違う、と大ノッポ、全身甲冑は火薬兵器の開発よりも前の時代の防具やで。それに仮に爆弾で攻撃されてみい。手足も首も吹き飛んで血だらけの中身の詰まった樽のような甲冑がごろごろ転がるだけや。
 戦艦大和の最後のように?
 戦艦大和の最後のように。直接爆撃を受けて被弾した士官室に下士官が駆けつけると、手足も首もないダルマのような胴体が血を噴いていた。それでも民間人殺傷と較べれば戦死に分類されるだけいい。
 1944年11月24日~翌3月9日 通常兵器による空爆第一期。軍需工場を主要な目標とした精密爆撃の時期。ただし、焼夷弾爆撃も実験的に始められていた。
 1945年3月10日~6月15日 通常兵器による空爆第二期。大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃の時期。
 1945年3月10日 東京大空襲
 1945年3月12日 名古屋大空襲
 1945年3月13日 大阪大空襲
 1945年3月17日 神戸大空襲
 無差別爆撃。
 1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイ投下。
 1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が八幡空襲による靄で視界不良だったため、第2目標の長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマン投下。
 戦争は知らない、と大ノッポがつぶやきました。だってぼくらは……
 私は知っている、とアリスは言いました。1852年生まれの私は28歳で結婚して3人の息子アラン、レックス、キャリルを生んだ。第1次世界大戦は1914年に始まり、1918年の終戦前にアランとレックスは戦死した。そして私は戦争未亡人と再婚した私の三男を生涯許さなかった。許せるものですか。


フライド・エッグ - ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン (Philips/Virtigo, 1972)

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フライド・エッグ Flied Egg - ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン Dr. Siegel's Fried Egg Shooting Machine (Philips/Virtigo, 1972) Full Album : https://youtu.be/QPfhrk9Ux74
Original album recorded at Victor Studio 1971-72.
Released by Philips Records Virtigo-FX-8603, April 1972
Produced by Masaharu Honjo & Shigeru Narumo
(Side A)
A1. ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン Dr. Siegel's Fried Egg Shooting Machine (C.Lyn, S.Narumo) - 6: 06
A2. ローリング・ダウン・ザ・ブロードウェイ Rolling Down The Broadway (C.Lyn, S.Narumo) - 4: 33
A3. アイ・ラブ・ユー I Love You (C.Lyn, H.Tsunoda) - 3: 32
A4. バーニング・フィーバー Burning Fever (S.Narumo) - 3: 14
A5. プラスティック・ファンタジー Plastic Fantasy (C.Lyn, M.Takanaka) - 6:09
(Side B)
B1. 15秒間の分裂症的安息日 15 Seconds Of Schizophrenic Sabbath (C.Lyn, S.Narumo) - 0: 16
B2. アイム・ゴナ・シー・マイ・ベビー・トゥナイト I'm Gonna See My Baby Tonight (C.Lyn, M.Takanaka) - 5: 33
B3. オケカス Oke-Kus (S.Narumo) - 4: 36
B4. サムデイ Someday (C.Lyn, H.Tsunoda) - 3: 59
B5. ガイド・ミー・トゥー・ザ・クワイエットネス Guide Me To The Quietness (C.Lyn, S.Narumo) - 8:12
[ フライド・エッグ Flied Egg ]
成毛滋 Shigeru Narumo - guitar, keyboards, vocals
角田ヒロ Hiro Tsunoda - drums, lead vocals
高中正義 Masayoshi Takanaka - bass, guitar, vocals
with
葵まさひこ Masahiko Aoi - orchestra arrengement on A3,B4

 前回は成毛滋(1945-2007)とつのだ☆ひろ(1949-, 当時角田ヒロ表記)の組んだデュオ、ストロベリー・パスの唯一のアルバム『大烏が地球にやって来た日』1971.6と、当時高校生の高中正義(1953-)をベースに迎えてトリオ編成のフライド・エッグに改名し、その2作目で解散アルバムになった『グッバイ・フライド・エッグ』1972.12の2作をご紹介した。『グッバイ~』はA面ライヴB面スタジオ録音のアルバムだったから、フライド・エッグの第1作『ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』は唯一のフル・スタジオ録音アルバムになる。ストロベリー・パスの前身バンドのジプシー・アイズは録音を残していないので、当時日本ロック界のNo.1ギタリストとNo.1ドラマーの盛名高かった成毛と角田コンビが聴けるのはこの3枚だけ。しかもポップスやフォークとは隔絶した純正ロック・バンドとしてストロベリー・パス~フライド・エッグは一切の妥協のない音楽をやっていた。と、そういう日本ロックのオリジネーターで、祠を祀ってお詣りしなければいけないほど偉い人たちなのだった。ちなみに『大烏が~』のジャケット画は(当時)石森章太郎、『ドクター・シーゲル~』のジャケット画は(故)景山民夫の各氏になる。
 アルバム全3枚にはどれも欠かせない注目点があり、ストロベリー・パスの唯一作は当初日本フィリップス社の本城和治氏プロデュースによる成毛滋中心のオムニバス盤として企画され、角田ヒロも参加することになった時点でジプシー・アイズの単独アルバムに企画が変更され、メンバーの流動的なジプシー・アイズでのフル・アルバムの制作は不可能だったため成毛&角田のデュオによるアルバムになったという。成毛はハード・ロックで統一したかったが角田はハード・ロック1本路線には抵抗があり、「メリー・ジェーン」はあえて英語詞の歌謡曲ならいいんじゃないか、とアルバム完成直前に収録が決まった曲だった。ライヴでは成毛は右手でキーボード、ギターは左手の指の押弦だけでこなし、さらにフット・ペダル式ベース・キーボードを同時演奏していたが、アルバムではさすがに楽器ごとのオーヴァーダビングを行い、ベースは当時のNo.1セッション・ベーシストの江藤勲が弾いている。アルバム発表後からアメリカン・スクールのハード・ロック・バンドで活動していた高中正義がライヴ・ステージに呼ばれるようになり、間もなく高中を正式メンバーにすると決めてバンドはフライド・エッグとして再デビューすることになった。フライド・エッグの『ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』は日本のニュー・ロックを代表するアルバムになる。
(Original Philips/Virtigo "Dr. Siegel's Fried Egg Shooting Machine" LP Front & Liner Cover)

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 60年代末~70年代初頭のこの時期、60年代的ビート・グループから脱して新しい70年代スタイルを模索していたバンドの音楽はニュー・ロックと呼ばれたが、後のニュー・ウェイヴ同様この呼称は時代的なもので、ニュー・ロックには特定のスタイルはなかった。平均的にはニュー・ロックはフォーク・ロックやブルース・ロックをサイケデリック・ロック経由で誇張させ、ハード・ロックやプログレッシヴ・ロックへ整理したもので、英米のバンドで言えばクリームやSRC、ヴァニラ・ファッジから始まり、マウンテンやユーライア・ヒープで頂点に達するとともに急速に古いスタイルとして廃れることになる。ただしアメリカではブルー・オイスター・カルト(ヴァニラ・ファッジやマウンテンと同じくニューヨーク出身)や、ローカル・バンドのスティクスやカンサスなどがニュー・ロックのスタイルを継承しており、ファッジ~ヒープの影響力はヨーロッパ大陸では絶大なものだった。成毛はジプシー・アイズ以前にはヴァニラ・クリーム名義で活動しており、ストロベリー・パス~フライド・エッグは楽曲によってもろEL&P(キーボード・インスト曲)だったりレッド・ツェッペリンだったりするが(ギター・リフ主体のキーボードレス曲)、全体的に中心となっているのはユーライア・ヒープで、『ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』で言えばB2、B5などヒープ本家以上にヒープしている。
 また高中正義は『グッバイ~』でもキング・クリムゾンの「Epitaph」そっくりのバラード曲を提供していたが、『ドクター・シーゲル~』A5もエピタフで、もろヒープのB2も高中提供曲だが当時18歳としては楽曲が模倣的でも健闘している。A5は後半ビーチ・ボーイズ的な小組曲になるが、これはクリストファー・リンの歌詞が先にあったのではないか。成毛はツェッペリン風でもヒープ的でも俺の勝ちといわんばかりにパワフルで押しまくるが、さすがにもろEL&PのB3はタイトルはダジャレでネタバレする。角田のオーケストラ入りバラードはA面B面1曲ずつはやりすぎに思えるが、フライド・エッグのポピュラー路線というと角田のバラード以外になかったのだろう。今では普通だが、ピアノとオーケストラ入りパワー・バラードでディストーションの効いたリード・ギター、という取り合わせは純ポップスにはなかった手法だった。だがこのアルバム最大の聴きものは、オープニング曲A1とクロージング曲B5だろう。どちらも成毛の作品で、楽曲自体もアイディアが豊富で良くできており、成毛のギターとキーボードがどちらも凝りに凝ったアレンジで聴きどころ満載になっている。
(Original Philips/Virtigo "Dr. Siegel's Fried Egg Shooting Machine" LP Gatefold Cover)

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 このアルバムは日本の音楽スタジオに16トラック・レコーダーが導入されて制作された、もっとも初期のアルバムになるらしい。フィリップスの本城氏は日本のジョージ・マーティンと呼ばれたほどの業績を持つプロデューサー(60年代~70年代の呼び方ではレコーディング・ディレクター。フライド・エッグのアルバムで「プロデュース」とクレジットされたのは、成毛側の欧米スタイルの制作意識による特例)で、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズを始め日本フィリップスのGSが他社のGSのしょぼいレコードとは一線を画した、しっかりしたバンド・サウンドだったのも本城プロデューサーの理解と指導力の功績だった。
 今聴くとA1はニュー・ロックというよりビートルズの『Sgt.Pepper's~』やストーンズの『Satanic Majesties~』影響下の、1967年~1968年のイギリスのサイケデリック・ポップに近い楽曲とサウンドに聴こえる。ふんだんに盛り込まれたサウンド・エフェクトもシリアスな要素の強くなった70年代ロックよりは遊びの要素の強いサイケデリック・ポップ期のものだろう。A1のサイケデリック・ポップ趣向はA5の後半にも現れるから、A面はサイケデリック・ポップで前後を挟んだ面と言える。一方B面は15秒のアカペラ・コーラス曲B1からそのままB2になだれ込み、このB2とB5はユーライア・ヒープなのでB面はヒープ・サイドという印象が強い。AB面とも角田バラードがあり、A面ではツェッペリン風ヘヴィ・ロック、B面ではEL&P「Tarkus」のパクり曲「オケカス」(笑)もあるのだが、アナログ時代のアーティストが各面の冒頭曲・最終曲をどれだけ慎重に配置しているかを思えば、AB面の色分けはだいたい今見た通りになると思われる。
(Original Philips/Virtigo "Dr. Siegel's Fried Egg Shooting Machine" LP Side A & Side B Label)

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 だがフライド・エッグは1972年4月に本作が発売された時にはすでに半年後の解散が決まっていた。前年にはすでにデュオ編成のストロベリー・パスからトリオ編成のフライド・エッグに変わってライヴ活動を行っていたのだが、アンプ持参で来日する欧米ロック・バンドに劣らないP.A機材をバンドの経費で維持するのは当時の日本の国内バンドの集客力では無理だった。当時サディスティック・ミカ・バンドを立ち上げたばかりの加藤和彦は機材の維持費のためにバンド所有の機材をレンタルもしていたが、フライド・エッグの所有機材はレンタルしても維持できる規模のものではなかっただろう。ハード・ロックのギター・トリオならまだしも、欧米プログレッシヴ・ロック並みにキーボード器材まで揃えていた。
 フリーの来日公演に感化されたというフライド・エッグは、1972年9月19日の解散コンサートをA面に収めた『グッバイ・フライド・エッグ』1972.12では『大烏が~』と『ドクター・シーゲル~』からツェッペリン系のハード・ロック曲のライヴ・ヴァージョンが聴ける。スタジオ盤よりストレートに躍動感が伝わってくる好ヴァージョンで、『グッバイ~』というのはもちろんライヴとスタジオ録音半々の『Goodbye Cream』だが、どうせなら『Wheels of Fire(クリームの素晴らしき世界)』のようにライヴ盤とスタジオ盤で2枚組にしてほしかった。スタジオ録音のB面では柳ジョージ参加の4人編成で1曲(柳作)、高中、角田、成毛がそれぞれ1曲ずつ持ち寄っている。前回ご紹介したのでよければ『ドクター・シーゲル~』に続けてお聴き返しください。ちなみにフライド・エッグは欧米では日本を代表するプログレッシヴ・ロックとして知られているが、実際聴いてみるとヒープじゃん、と外人さんも拍子抜けするらしい。それでもこのアルバムは45年近く聴かれ続けているのだから成毛滋の勝利なのだった。

眞・NAGISAの国のアリス(78)

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 あなたの前半生はおおむねヴィクトリア女王(1819-1901、在位1831-没年)朝下のイングランドとその連合王国の安定期にそっくり収まるものです。ヨーロッパの大国は産業革命以降の経済構造にも軍事的にも、文化的そして外交的にも、また植民他経済にも不安は抱えていた。アメリカ合衆国の南北統一がやがて世界経済も政治においても東のロシア(ソヴィエト)と中国、西にアメリカ合衆国が超大国としてヨーロッパ諸国を挟みうちにし、19世紀末にそろそろ破綻を見せ始めたヨーロッパ諸国の政治的・経済的位置(そしてもちろん軍事的・文化的・外交的位置)は1914年~1918年の第1次世界大戦と1917年のロシア革命以後急激に立場を危うくしていったのです。
 現在かろうじてイギリスはアメリカ合衆国、フランス、ロシア連邦、中華人民共和国とともに国連安保理で拒否権を持つ列強に数えられています。それは国連安保理で拒否権を持たない列強である日本やドイツよりは、よほど世界に幅をきかせているということにもなるでしょう。あなたが逝去された1934年は、前年にドイツ首相になったアドルフ・ヒトラーが指導者と首相を兼ねる総統の地位に就きました。ムッソリーニがスペイン王党派と秘密協定を結び、この年に国連に加入したソヴィエトではスターリンによる粛正が始まります。あなたは82歳で亡くなりましたが、あと5年長生きすればイギリスは第2次世界大戦にも参入し、それは6年も続くものになりました。あなたが第2次世界大戦を生き延びたら92歳の高齢です。あなたよりも後に生まれた人の多くが、あなたよりも先に死んでいきました。あなたはアリス・リデルでした。不思議の国をさまよい、鏡の国に迷いこんだアリスでした。
 あなたは少女の頃あまりにドジソン先生の理想でありすぎたので、そのお話が自分を永遠化して人生の妨げになっているとすら感じ、結婚式にはルイス・キャロルを招かないことで報復しました。ドジソン先生にはそれはあなたの期待した通りの精神的打撃を与えました。結婚してアリス・ハーグレイヴスになったアリスはかつてのアリス・リデルではありませんでした。だからアリス・ハーグレイヴスがたどった1880年、日本でいえば明治13年以降の歴史はアリスの世界のものではない。平行宇宙の歴史でしかない。
 だがそれはなんてあなたの世界そっくりに気ちがいじみていたのでしょう?


現代詩の起源(3); 過渡期の詩人たち (b) 河井醉茗

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 今回も新潮社『現代詩人全集』全12巻(昭和4年=1929.7~昭和5年=1930.7刊)の収録詩人一覧を見ながら、明治以降の現代詩史の盲点を考えてみたいと思います。この全集は後に文庫化された時、3人集は1人1冊のほぼ全詩集のヴォリュームがありましたから、3人集収録の詩人が33人、明治新詩初期の詩人12人の選詩集(これも作品の少ない詩人が多いので、実質的に全詩集に近い)を足して45人の詩人が収録されています。本来は明治後期にさらに12人集、大正期に12人集、まだ昭和5年ですが昭和期に12人集を加えた全15巻でもいいでしょう。むしろその方がまだしも現在でも知られた詩人が増えたはずで、そのくらいこの1929年~1930年刊行の詩人全集は古びてしまっています。現代詩史の研究者以外はまず読まない詩人が半数以上を占めているものが85年前にはポピュラーな読者を想定した詩人全集として通用していたのは、歴史の風化作用を痛感せずにはいられないとともに、日本の現代詩がいかに貧弱な土台の上に歴史を築いてきたかを思い知らされるようです。単純に出版状況から参観しても、この45人の詩人のうち新刊書店で手軽に手に入る詩人がどれほどいるかを思えば一目瞭然です。読まれないものは忘れられていくのも自然の道理で、全12巻のうち奇跡のように第9巻の高村光太郎・室生犀星・萩原朔太郎集がある。逆に言えば、昭和5年当時この3人が分散せずに集められたのは、詩質の高さではなく高村・室生・萩原1組で他の巻と等価だったことを示します。

新潮社『現代詩人全集』全12巻(昭和4年~5年)
第1巻●初期十二詩人集
湯浅半月集/山田美妙集/宮崎湖処子集/中西梅花集/北村透谷集/太田玉茗集/國木田獨歩集/塩井雨江集/大町桂月集/武島羽衣集/三木天遊集/繁野天来集
*附録・現代詩の展望 (明治、大正、昭和詩史概観) 河井醉茗
第2巻●島崎藤村・土井晩翠・薄田泣菫集
第3巻●蒲原有明・岩野泡鳴・野口米次郎集
第4巻●河井醉茗・横瀬夜雨・伊良子清白集
第5巻●北原白秋・三木露風・川路柳虹集
第6巻●石川啄木・山村暮鳥・三富朽葉集
第7巻●日夏耿之介・西條八十・加藤介春集
第8巻●生田春月・堀口大學・佐藤春夫集
第9巻●高村光太郎・室生犀星・萩原朔太郎集
第10巻●福士幸次郎・佐藤惣之助・千家元麿集
第11巻●白鳥省吾・福田正夫・野口雨情集
第12巻●柳澤健・富田砕花・百田宗治集

*
 トルストイの大長編小説『アンナ・カレーニナ』1877の有名な書き出しは「幸福な家庭はどれも似ているが、不幸な家庭はさまざまである」というものでした。また、20世紀イギリス文学の名作『ノッティング・ヒルのナポレオン』にはそのものずばり「悪人でも人間には違いないように、へぼ詩人でも詩人には違いない」と心優しい警句があります。『アンナ・カレーニナ』の書き出しをその伝で置き換えれば「非凡な詩人の作風はさまざまだが、へぼ詩人はたいがい似たり寄ったりである」となるでしょう。もっとも詩歌の優劣を見分けるには読解力にも相当な鍛錬が必要になります。一応学校教育でも優れた詩歌をテキストに教養はつけさせようとしますが実はそれでは駄目で、名作も凡作も浴びるように読まなければ名作が名作たるゆえんも詩とすら言えない凡作との違いもわからないので、これは詩歌というジャンルに限ったことではないでしょう。
 しかし問題は、芸術において歴史的な水準を示すのは時流を抜いた才能ではなく、模倣者と指導者の区別もつかないほど凡庸な流派こそ時代の本流であり基準と見るべきであって、大正~昭和初期にかけては三木露風(1989-1964)と川路柳虹(1888-1959)が少年詩人たちにとってもっとも模倣の対象になった主流詩人だったと言えます。小林秀雄・中原中也との交流で知られる夭逝詩人・富永太郎(1901-1925)の遺稿詩集には刊行後50年あまり三木露風作品の筆写稿が富永作品として載っており、また少年詩人時代の三島由紀夫(1925-1970)が師事したのは川路柳虹でした。柳虹・露風亡き後は日本の現代詩史にこの2人は形ばかり名前を残しているだけになっています。柳虹や露風でなければ似たような詩人が指導的存在になっていたでしょう。彼らの作品は創造性においてはまったく不毛でしかなく、いつの時代でも不毛な詩人は一定の割合でいるという意味で存在意義を担っており、『明治大正詩史』や『日本現代詩体系』の索引を見るとさながら屍の山の観すらあります。それは当然今日生産されつつある詩にも免れられない運命であり、その大半は明日には顧みられなくなると思えば詩に限らず創作とは常に徒労感との闘いであるとも言えます。

*
 高校の国語教科書で教わる明治期の詩人の名は北村透谷(1868-1894)、島崎藤村(1871-1943)、土井晩翠(1871-1952)、薄田泣菫(1877-1945)、蒲原有明(1876-1952)の5人ほどで、高村光太郎(1883-1956)や北原白秋(1885-1942)は明治40年代には活動を始めていますが作風は大正以降の詩人ととらえるべきでしょう。明治の現代詩が明治22年(1889年)之新聲社同人(代表・森鴎外)『於母影』でアンソロジー、北村透谷『楚囚之詩』で個人詩集の本格的な幕開けが始まったとすれば、先駆的な詩集にはアンソロジー『新體詩抄』(明治15年=1882年)、山田美妙編『詩體詩選』(明治19年=1886年)、個人詩集に湯淺半月『十二の石塚』明治18年(1885年)、落合直文『孝女白菊の歌』明治21年=1888年)があり、明治24年(1891年)の磯貝雲峯『知盛卿』、中西梅花『新體梅花詩集』、北村透谷『蓬莱曲』(中学生時代の蒲原有明は学校で持っている生徒を探し当てまでして読んだそうです)、山田美妙(単独詩集)『青年唱歌集』、明治26年(1893年)の宮崎湖處子『湖處子詩集』を経て、当時考え得る限りの詩型をすべて駆使した与謝野鉄幹の実験的な第1詩集『東西南北』明治29年(1896年)に至ります。辛辣なエッセイスト斎藤緑雨が流行詩人5人のパロディ「新體詩見本」(明治27年・新聞発表)を収めたエッセイ集『あま蛙』明治30年(1897年)が示すように、この年までが明治新詩運動の第1期と言えるでしょう。明治30年には島崎藤村の第1詩集『若菜集』が刊行されて、同詩集が大正期までの文語自由詩の抒情詩スタイル(叙事詩は衰退しました)の標準になったからです。またこの多いとは言えないリストに、精神疾患を発症し急逝した詩人が2人(北村透谷・中西梅花)も判明しているのは異様な気がします。
 もちろん藤村のスタイルだけが唯一ではなくて、すでに鉄幹の「ますらおぶり」調もあり、藤村スタイルに対して晩翠の叙事詩スタイル、泣菫の擬古典調、上田敏の翻訳詩、有明の象徴詩までさまざまな試みがあり、北原白秋は明治30年代以降のスタイルすべてを総合して登場した詩人でした。石川啄木はまず現代詩の詩人としてデビューしましたが、詩人としては白秋と同じ発想でした。また、高村光太郎はそれらをすべて拒否して独自のスタイルを持って登場しました。ただし『若菜集』以降の自由詩に『若菜集』に対抗するでもなく、ほとんど時流と関係なしに活動していた詩人たちがいます。詩誌「文庫」主宰の河井醉茗(1874-1965)、「文庫」の主力詩人だった横瀬夜雨(1878-1934)、「文庫」で醉茗に随一の有力詩人と目されながら注目されず不遇をかこっていた伊良子清白(1877-1946)の3詩人は明治30年代のロマン主義~象徴主義詩の流れにはうまく位置づけられないことから詩史的には軽視されがちですし、有明の親友の象徴詩人、岩野泡鳴(1973-1920)は有明の4詩集と同時期に4冊の詩集を上梓しましたが、あまりに特異な発想と文体から有明以外の詩友からもまったく理解されず、自然主義小説に転じて小説家として成功しました。泡鳴の象徴主義理解は同時代の詩人では有明を圧倒するほどで、没後に小林秀雄、河上徹太郎、中原中也らに再評価されることになったのです。それは伊良子清白が日夏耿之介によって醉茗、夜雨以上に明治30年代最高の詩人、泣菫や有明の最高の達成と匹敵するという再評価と同時期の、昭和初年になってからのことでした。

*
 この『現代日本詩人全集』で欠落しているのは、前述の通り第1巻に相当するマイナー・ポエットの巻が明治後期(30年代以降)、大正期、昭和期にも設けられるべきだった、というのもありますし、明治期に限っても森鴎外、与謝野鉄幹、上田敏は3人集で入れるべき大物でした。鴎外は訳詩と創作詩の比重が難しい上に自由詩以外の短歌、長歌、俳句、漢詩などあらゆる詩型で作品があり、鉄幹も同様です。上田敏は訳詩と創作詩では訳詩の比重が高く、しかもその訳詞は明治後期の自由詩に指導的役割を果たしました。訳詩集ならば永井荷風の『珊瑚集』も上田敏『海潮音』と双璧です。また上田敏、永井荷風の関連からは木下杢太郎が一家を成す詩人で、日夏耿之介は白秋の初期作品より木下杢太郎の詩業を優れたものと賞賛しています。また、石川啄木を収録しているこの詩人全集の人選ならば、歌人の余技以上の業績として与謝野鉄幹とともに与謝野晶子も入選してしかるべきでしょう。鴎外、鉄幹、晶子、劇作家として高名だった杢太郎を外したのは文業が自由詩主体でないからとして(それを言えば鴎外は生涯本業は軍医でした)、また『海潮音』と『珊瑚集』は翻訳詩として外すと、それだけでも明治~大正の詩は貧しくなってしまいます。『海潮音』と『珊瑚集』の文体は明治40年代~大正期の詩の背骨になり、精神的には昭和年代のモダニズム詩の先例となるものでした。
 それはこの全集のうち高村光太郎・室生犀星・萩原朔太郎集だけが飛び抜けて光っているのと同じ理由でもあり、昭和期の詩の特色がようやく出揃った昭和5年~10年の間に「四季」や「歴程」などの有力な若手詩人たちの詩誌では「四季」は室生犀星、「歴程」では高村光太郎を擁立し、それは大正期までは必ずしも高い評価を得られなかった彼らこそが自分たちの詩の先達詩人であることの表明であり、萩原朔太郎は党派を越えて現代詩最高の革新者として萩原を乗り越えるスタイルが模索されるほど重要な存在でした。戦後詩の「荒地」や「列島」では「四季」「歴程」が掲げていた詩観がモダニズムやマルキシズムとともに批判的検討をされることになります。中立的な立場の詩人たちが多く集まって、おおむね穏健な作風で広い支持を得たのが「櫂」同人でした。「櫂」の詩人たちは一致した主張を持たない点で「荒地」や「列島」とは異なり、むしろ「四季」や「歴程」のもっとも柔軟な部分を継承した新しい世代(と言っても1950年代)でしたが、ふと気づくと1965年の逝去まで、89歳の最長老詩人だった河井醉茗が往年主宰していた「文庫」のあり方に近いのです。明治34年(1901年)の第1詩集『無弦弓』から晩年まで常に温厚な作風との定評を崩さなかった醉茗の、点の辛い日夏耿之介も賞賛する初期代表作2編と日夏が「ここから駄目になった」と指摘する日本初の口語散文詩集『霧』から1編、また小学校教科書への採用や合唱曲でも知られる「ゆずり葉」を上げてみましょう。有明と同世代とは思えない平易さにもご注目を。現代詩の長所にも短所にもつながる醉茗詩の市民的特色がわかります。
*

  稚児の夢  河井醉茗

そらに きみの こゑを きけり
むねと むねと かげと かげと
そらに あひて こゑを きけり

たびの ひとの みては かへる
ふるき かべに うたを のこし
きみと ともに そらを あゆむ

ふかき もやは ゆくに ひらけ
うみは とほし しまか やまか
うごく ものは みえず なりぬ

きしと きしの はやき しほを
およぎ こえし こひの もさは
ひとの くにの ものに みえぬ

われら ふたり いかに はてん
われの すがた くもと きえて
きみは たかき ほしと なるか

そでは まどひ おびは のろひ
ひとの きぬを とみに ぬぎて
きみは ちさく ちさく なりぬ

ちゝを さがす ちごの ごとき
きみを だけば わがて かろし
まこと こひは ちごの ゆめか

(初出・明治34年=1901年「文庫」秋号/第2詩集『塔影』明治38年=1905年6月・金尾文淵堂)
*

  落葉を焚くの歌  河井醉茗

秋晴(しうせい)の朝、庭守(にはもり)
黄なる樺なる雌黄(しわう)なる
(こ)の葉草の葉うづたかく
火をうつさんとかゞまりぬ

(よ)にうるほひし露霜も
一葉ゝゝに乾きゆく
畑のかげに立ち添ひて
葉守(はもり)の神やあらはれむ

眞夏大野を覆ひたる
國つ鎭めの公孫樹(こうそんじゆ)
光に透いて金葉(きんえふ)
皆地に落つる響きかな

櫻の精は遠春(とおはる)
海を渡りて去(い)にゝけり
朽ちては輕き乾き葉(ば)
梢はなるゝ力かな

常磐なるべき檜葉(ひば)杉葉
うらがれたるがめらゝゝと
火になりやすき秋のはて
地の美はそらに収まらむ

(はた)にかかれる織絹の
自然の彩(あや)のまばゆきも
捲かるゝまゝに彼方なる
はてしなき手に渡されぬ

あゝ落つる葉に驚いて
烟を擧ぐる庭守よ
萬葉焚いて盡きせざる
林に入らば悸(をのゝ)かむ

(初出・明治38年=1905年「中学世界」/詩文集『玉蟲』明治39年=1906年5月・女子文壇社)
*

  ある朝  河井醉茗

我身の上に苦しい事件(こと)がふりかゝつて來た、けれども自分には勤めがある。
いつもの同じ時刻、同じ電車に乘る。
今朝は妙に人の顔が遠くで動いてゐるやうに見える、毎(いつ)の朝も馴染(なじみ)のやうな意(き)がしてゐる乘客(のりて)の人々が、何だかそらぞらしく、急に他人になつたやうで、自分一人だけ運ばれてゆくやうだ。
女學生が掛けて居る幅廣のリボンも、中學生の帽子の徽章(しるし)も一向(いつかう)氣に留まらぬ、動いてゐるものに見えぬ。
車掌も運轉手も旗振も、皆自分に關係の無いことをしてゐるやうで、坂は上(のぼ)つたのか、下りたのか、今は何處を通つて居るのか、考へてみないと分からぬ。
兩側の家並(やなみ)も、街路(まち)の日影も、今朝に限つて知らぬ顔をしてゐる、世の中と、うとゝゝしくなつた、よそゝゝしくなつた。
明るい光線が不思議になつて來た、新聞を讀んで居る人が羨ましくなつた、皆、人が苦勞なささうな顔して居るのが嫉(ねた)ましくなつた、昨日まではそんなことは何ともなかつた、只(ただ)明るいものは明るく、美しいものは美しかつた。
今朝は明るいものに暗い影があるやうに思ひ、美しいものに僞(いつわ)りがあるやうに思はれてならぬ。
違つた道を歩くやうに思ひながら、毎朝來る自分の勤め場所に入つた。

(第4詩集『霧』明治43年=1910年5月・東雲堂書店)
*

  ゆずり葉  河井醉茗

子供たちよ。
これは讓り葉の木です。
この讓り葉は新しい葉が出來ると
入れ代つてふるい葉が落ちてしまふのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを讓つて----。

子供たちよ。
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前たちに讓られるのです。
太陽の廻るかぎり
譲られるものは絶えません。

(かゞや)ける大都會も
そつくりお前たちが讓り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど----。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに讓つてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを
一生懸命に造つてゐます。

今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑つてゐる間に気が附いてきます。

そしたら子供たちよ
もう一度讓り葉の木の下に立つて
讓り葉を見る時が來るでせう。

(第7詩集『紫羅欄花』昭和7年=1932年7月・東北書院)

高柳昌行ニュー・ディレクション・フォー・ジ・アート - ラ・グリマ (涙) ~ 完全版 (ダウト, 2007)

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高柳昌行ニュー・ディレクション・フォー・ジ・アート Masayuki Takayanagi New Directions For the Art - ラ・グリマ (涙) ~ 完全版 Complete "La Grima" ("Tears") Full Album : https://youtu.be/GJV4mraNs1E - 41:46
Recorded at Genya-sai of Sanri-zuka, August 14, 1971
First appearance in 6:19 min. edit version on『幻野 - 幻の野は現出したか '71日本幻野祭 三里塚で祭れ』創世記レコード/URC GNS-1001~2 (1971.12)
Complete Version released by Doubtmusc Doubt DMH113, March 11, 2007
1. La Grima - 41:46
[ 高柳昌行ニュー・ディレクション・フォー・ジ・アート ]
高柳昌行 - guitar
森 剣治 - saxophone
山崎 弘 - percussion

 高柳昌行(ギター/1932-1991)は日本のジャズ・ギター界の第一人者でビバップの研究からレニー・トリスターノ(ピアノ/1919-1978)の反ビバップ的手法に傾倒、第一人者にしてジャズ界最大の実験派ミュージシャンになり、通常のジャズ・コンボ編成から大きく逸脱した編成の「ニュー・ディレクション・ユニット」活動を経てアルバート・アイラー(テナーサックス/1937-1970)のコンセプトの研究を経て制作した1982年の「ロンリー・ウーマン」から最晩年までは主にさまざまなエフェクターを駆使したソロ・ギターの可能性を追求した。音楽的にはビバップ、クール・ジャズ(レニー・トリスターノ派)、ボサ・ノヴァからクラシック、フリー・ジャズ、完全なインプロヴィゼーション音楽まで手がけている。しかもすべて本格的で、トリスターノ・コンセプトのクール・ジャズでは世界有数のプレイヤーだった。
 知らない音楽はない、という理想を追求しておりNHK-FMで放送されるクラシックのコンサート中継はバロック音楽からレコード未発売の現代音楽まで1日たりとも録音を怠らなかった(聴いていたかは不明)と言われる。音楽的姿勢が強固なあまりミュージシャンやライヴ主催者、会場側と対立することも多く、ギターの私塾の門下生に渡辺香津美、廣木光一、安藤正容、山本恭司、飯島晃、今井和雄、大友良英の各氏を輩出する一方、人間関係悪化も辞さないエゴの強さで知られた。ジム・オルークは高柳没後のファンとして知られるが、生前に知遇を得ていたとしたらどうだったか。

 このライヴは成田空港建設反対闘争のための集会「71日本幻野祭」で、1971年8月14日(土)~16日(月)の初日14日に行われた野外音楽フェスティヴァルからのもので、トップのニュー・ディレクションから順にブルース・クリエイション、布谷文夫DEW、落合俊トリオ、阿部薫(テープ紛失により未収録)、頭脳警察、ロスト・アラーフ(灰野敬二)が出演して1971年12月発売の2枚組LPアルバムに収められた。もっともニュー・ディレクションの演奏は冒頭6分だけで観客の怒号にカットアウトされる、という編集のされたものだった。
 長年この時の演奏は伝説化していたが、高柳昌行自身が保管していた完全版のテープが没後発見され、故人晩年の門下生によりインディー・レーベルのダウトミュージックから発売されたのは2007年のことで、冒頭の「1時間くらいの演奏」との高柳のMCは実際は45分ほどで終わったのが明らかになった。だが45分も1時間も関係なく、この演奏は素晴らしい。高柳は当然セシル・テイラー(ピアノ/1929-)のベースレス・トリオを意識していたと思われ、日本のジャズマンでも山下洋輔(ピアノ/1942-)はテイラーと同じ(アルトとテナーサックスの違いはあるが)サックス、ピアノ、ドラムスの編成でデビューしていた。

 しかしエレクトリック・ギターとサックス、ドラムスのトリオでは質感がまったく違う。45分間レッド・ゾーンに振り切れた完全即興などフリー・ジャズでもめったにあることではなく、思いついても実行するにはリスクが高すぎる。この野外フェスティヴァル自体はロックとジャズの両方の精鋭たちが出演し、オムニバス・アルバムで聴くと頭脳警察の演奏では観客は最高の盛り上がりを見せているが、高柳昌行ニュー・ディレクションには演奏前の短いMCからもう野次がとんでおり、最初から観客からは歓迎されていないステージだったのがわかる。ロック出せ、ジャズ帰れという雰囲気だったのだろう。1971年夏は中津川フォーク・ジャンボリー(フォークてロック両ステージがあった)、箱根アフロディーテ(日本からはフライド・エッグら、海外からはピンク・フロイドが出演した)が行われており、期待されていたのはロック・バンドのステージだった。ではニュー・ディレクションの演奏はつまらないジャズだったか、というととんでもない。
 ここで聴ける高柳の演奏がジャズであるだけでなく最高にロックだと理解されるには90年代のロック観までかかったと思われるが、もしこの完全版がLPのAB面で1曲のアルバムとして当時発売されていたら世界レヴェルの再評価がされていただろう。オムニバス・アルバムに短縮版を収めて済む演奏ではなかった。ジャズとしてもロックとしても空前絶後かもしれない名演がノーカットでアルバム化されるまで35年あまりかかったのだ。高柳昌行のアルバムは参加作を入れて100枚近いが、これは生前に出るべきアルバムだった。だが故人は常に制作中のアルバム、次のアルバムが頭にあったのだろう。アーティストというのはそういうもったいないところがあるので、これも歿後に炸裂した時限爆弾かもしれない。

眞・NAGISAの國のアリス(79)

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 わかった、と大ノッポが言いました、つまりぼくたちはアリスが見ている夢なんだ。つまりさ、と大ノッポが言いました、ぼくたちはドジソン先生のつくり話なんだ。だからさ、と大ノッポが言いました、ぼくたちは同じところをぐるぐる回っているんだ。それはさ……
 またいきなりようわからんことを言いよる、と中ノッポが遮りました。だいたいその外人さんは何や?ドジソン先生なんて会うたこともあらへんで。いいかげんヨタ飛ばすんでも、もっと真面目にやれー。
 ヨタやないで、と大ノッポ。チビはふたりの間でためつすがめつ考えている様子だったのが、ふと思い当たる節があるようでしたが、考えている時には考えているようには見えず、考えていない時には考えていないのがチビのキャラクターですから、いわば卓球をしている大ノッポと中ノッポの間に張られたネットみたいなものです。卓球というのはね、インドではなくて中国のスポーツですよ。ついでに言えばインドの国技はカバディといって、競技中に攻撃者はカバディ、カバディ、カバディと連呼し続けなければならないというルールがあるのです。インド帰りのお友だちに会ったら訊いてみてごらんなさい。
 変なの、とアリスは言いました。カバディカバディカバディ、とエディス。止めなさい、とロリーナはたまにはお姉さんの威厳を効かせようとしましたが、ドジソン先生は笑うと、サンスクリットにも良い言葉がありますよ、ダッター、ダーヤズワム、ダーミヤータ(捧げよ、同情せよ、自制せよ)。
 シャンティ、とチビが言いました、シャンティ、シャンティ。
 その意味は知っとるわ、と中ノッポ、平安あれって言うんやろ、決まり文句や。でもどうして3回言うんや?
 夢の途中だったんだろ、と大ノッポ、きっとぼくたちが何度も見てきたアリスの出てくる夢さ。いつもぼくたちが追いつめられた時、そこにはアリスがいた。もしそれがいつも同じアリスなら、今度のもそうだ。
 待ってくれ、と中ノッポが言いました、ぼくらがアリスの見る夢の中におるんなら、何でぼくらがアリスの夢を見るんや?
 現在形じゃないよ、と大ノッポ、たぶんこれはもう終わったことなんだ。もし現在形なら話は進んでいいはずなのに、同じところを回っているんだから。
 答えになっておらへん、と中ノッポ、ぼくが知りたいんは、どっちがどっちの夢を見とるんかや。つまり……
 終わった方さ、と大ノッポは言いました。


Jeff Beck - 1971 Final BBC On The Air (June 29th, 1972)

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Jeff Beck - 1971 Final BBC On The Air (June 29th, 1972) Full Album : https://youtu.be/cy7FA0HXA_Q
Recorded at BBC In Concert, Paris Cinema, London, U.K., June 29th, 1972
Released by Scarecrow, SCARECROW001(unofficial), date unknown; possibly '90s
*London BBC 1971 (miscredited)
01. 00:00 Ice Cream Cakes (Jeff Beck) - 6:49
02. 06:49 Definitely Maybe (Jeff Beck) - 7:37
03. 14:26 Ain’t No Sunshine (Bill Withers) - 4:29
04. 18:55 Morning Dew (Bonnie Dobson) - 5:07
05. 24:03 Keyboard Solo - Going Down (Don Nix) - 4:11
06. 28:14 New Ways (Jeff Beck) - Plynth (N.Hopkins, R.Wood, R.Stewart) - Train Train (Jeff Beck) - 7:44
07. 35:58 Got The Feeling I (Jeff Beck) - 12:05
*‘71 BBC Studio Session (date unknown)
08. 48:03 Going Down - 3:35
09. 51:38 Got The Feeling II - 5:04
*Rare Version (TV on air / date unknown)
10. 0:56:42 Got The Feeling III - 4:48
11. 1:01:30 Situation - 5:05
[ Jeff Beck Group ]
Jeff Beck - guitar
Bob Tench - vocals
Max Middleton - keyboards
Clive Chaman - bass
Cozy Powell - drums

 ジェフ・ベックの傑作ライヴと言えばこれ。イギリス国営放送局BBC名物のイン・コンサートはレコード・デビューしたほとんどのイギリスのバンドが出演しているが、第2期ジェフ・ベック・グループのこれほど名演と聴きつがれ語りつがれてきた音源はないだろう。その点ではキング・クリムゾン1973年11月23日のオランダ・アムステルダム・コンセルトヘボウ公演を収録したBBCイン・コンサートと双璧をなし、NHK-FMからのエア・チェック・テープは人から人へとコピーされてきた。80年代になっても70年代音源を周期的に再放送していたBBCイン・コンサートはもとよりアナログ時代からブートの定番だったが、90年代になるとCDでより良い音質・編集のものが出回るようになった。そこでキング・クリムゾンやホークウィンドからキリング・ジョークに至るまでかなりのアーティストがBBCイン・コンサート音源を公式発売し、ほとんど最後の砦だったローリング・ストーンズまで限定版公式発売したのだが、それでも出さないアーティストと言えばピンク・フロイドとジェフ・ベックになる。70年代からブート発売された回数、各種レーベルからの発売を総合するなら並みの中堅アーティストの人気作くらいの枚数売り上げには余裕で達しているのではないか。
 アナログ時代に初めて買ったブートもこのジェフ・ベック・グループのBBCイン・コンサートだった。JBG#2のスタジオ盤2枚は中学生同士の貸し借りで聴いていたが、NHK-FMの再放送でまだベックを聴く機会はなかった(クリムゾンは強烈に覚えている)。印刷の汚い黄色い紙を表に貼り付けただけのジャケットにも参ったが(アナログ・ブートはそんなものだった)、ライヴなのはジャケットでわかるとして中古盤屋で安く買ってきてぶっとんだ。そもそも安いから買ったのと、ストーンズのライヴ盤『Got Live If You Want It』で音質がひどかろうがライヴ盤ならではの魅力はあるのを知ったからでもあり、ザ・フーの『Live at Leeds』やディープ・パープルの『Made in Japan』、クリムゾン『USA』よりストーンズ『Got Live~』やザ・ドアーズ『Absolutely Live』、フリー『Free Live』、レッド・ツェッペリン『The Song Remains the Same』みたいにどこか破綻している方が好きだった。さてアナログ・ブートはジャケットも粗悪だがレコードの材質やプレスも粗悪で、要するに物理的に粗悪だったために、現在CDブートで聴ける正規盤でも通用するBBC制作のマスターテープのエア・チェック版をマスターに使っているにしても客席ラジカセ録り、しかも左チャンネルのギターがやたらでかく、他の4人のメンバーの音が束になってもギターの音がさらにでかい、という冗談のようなバランスになっていた。だがJBG#2のスタジオ盤2作よりもBBCのライヴは素晴らしかったのだ。誰もが通る必聴音源と知ったのは、もっと後になってからだった。
(Unofficial Scarecrow "1971 Final BBC On The Air" CD Liner Cover & CD Label)

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 第2期ジェフ・ベック・グループの2枚のアルバム『Rough and Ready』1971、『Jeff Beck Group』1972は最高のメンバーとこれまでにないベックのオリジナル曲の多さでコンテンポラリーなソウル・ミュージックにハードなロック的アプローチを試みた意欲作だったが、ロッド・スチュワート(vo)、ロン・ウッド(b)、ニッキー・ホプキンス(key)を擁した第1期ジェフ・ベック・グループの2作『Truth』1968、『Cosa Nosta Beck-Ola』1969ではブルース、ジャズ、ロックン・ロールが未消化なまま力業でバンド・サウンドにごった煮状態で完成度は低かったとはいえ、テンションには凄まじいものがあった。第2期JBGのメンバーはプロフェッショナルすぎて演奏にゆとりと円熟は感じるが、どこかスタジオ盤では力を出し切っていない様子があった。『Jeff Beck Group』発売翌月(リンク先の「71」はミスで、1972年6月が正しい)の、第1期と第2期のJBGの代表曲を網羅してさらにビル・ウィザースのカヴァーを含んだBBCイン・コンサートを聴けば、JBG#2のスタジオ盤2作はこのメンバーにとってデモテープ程度の演奏だったのがわかる。
 もちろんライヴだから不安定な箇所もなくはない。「New Ways / Plynth / Train Train」のメドレーではベックが合図になるアドリブ・フレーズを弾くまで様子見ムードになるし、名曲「Got the Feeling」で顕著だがボブ・テンチのヴォーカルのピッチが全体的に低い。楽器だったらチューニングをちょっと上げたいくらい微妙に低い。CDになってオリジナル音源はギターも実際は適正なバランスだったのが判明した。さすがBBCイン・コンサートだけあって録音もミックスも当時の正規ライヴ・レコーディングで通用するが、アナログ・ブートがギターの振られた左チャンネルをブーストしていたのもわかるようで、演奏メンバーのうまい演奏がピアノ、ベース、ドラムスとも分離の良い録音ではっきりとらえられていて、自然で好ましいミックスだがもう少しメリハリがついていたらなお良かった、と欲も出る。具体的にはコージー様のドラムスをもっとラウドにしてもベースやピアノとはかぶらなかったのではないか、とリクエストしたくなる。それと主役のベック様のギターだが、このライヴほど繊細さと暴力性、豪快さと抒情味の相反する要素が一気に爆発した演奏はスタジオ盤にはない。それはアナログ・ブートの極悪ミックスの方が良く出ていたように思える。なお現在このBBCイン・コンサートを聴くには、他2回の放送音源とカップリングした『Flying High』 (Grexit Records, GREX033, 2015)が最新で音質最高、データも正確でラジオ放送されなかった2曲も含んだ完全版になっている。ジャケットと1972年6月29日BBCイン・コンサートの全曲はこうなる。曲順もマスターテープによればこれが正しいらしい。

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Jeff Beck Group - Flying High (Grexit Records, GREX033, 2015)
Complete BBC In Concert, Paris Cinema, London, U.K., June 29th, 1972
1. Introduction
2. Ice Cream Cakes
3. Morning Dew
4. Going Down
5. Definitly Maybe
6. Tonight I'll Be Staying Here With You (Bob Dylan)
7. New Ways / Plynth / Train Train
8. Ain't No Sunshine
9. Got The Feeling
10. Let Me Love You (Jeffrey Rod aka Jeff Beck & Rod Stewart)

 ザ・フーの『Live at Leeds』やストーンズの『Get Yer Ya-Ya's Out』のように海賊盤が出回ったので正規ライヴ盤が発売された例は1970年代初頭からあり、1980年代末にフランク・ザッパの『Beat the Boots!』シリーズや、1990年代初頭のボブ・ディランの『The Bootleg Series』のように長いキャリアを持つアーティストが海賊盤と競ってアーカイヴ音源をリリースするのはごく一般的になっているが、ローリング・ストーンズやジェフ・ベック、ピンク・フロイドなどのようにほとんど発掘音源を公式リリースしないアーティストもいる。この場合アンオフィシャル・リリースが膨大なのに公式リリースしない比率が高いほどリスナーの飢餓感は高くなるので、ベックの場合はストーンズやフロイドほどはブート音源は音源自体が少ないため比較的少ないのだが、ベックのブートの中には楽屋でギター練習している音源まである(カヴァーデイル-ペイジの来日公演からはローディがセッティングとサウンドチェックする様子をブート化したものまであったが)。BBCイン・コンサートなどは出しても構わなそうだが、ジェフ・ベックのアーカイヴ音源というと3枚組アンソロジー『Beckology』に数曲入っているくらいだろう。
 とにかく『Rough and Ready』と『Jeff Beck Group』が一気に霞むほど演奏のテンションが違う。名手マックス・ミドルトンやクライヴ・チェアマンなどスタジオ盤の「Got the Feeling」ではリハーサル録音レヴェルの演奏しかしていなかったのがわかる。何でこれほどのポテンシャルを持ったバンドがしょぼい(とあえて言う)スタジオ盤2枚しか残さなかったのか。それはジェフ・ベックがJBGでアルバム2枚作ったら解散してベック・ボガート&アピスをやるんだ、とさっさとかたづけたかったからだが、ライヴでは本気の演奏をしていたのがわかる。あと今さらだが、ベックのアメリカや日本での大人気はマイナー(短調)の曲が多いからだ。このライヴでも半数以上がそうで、普通短調の曲は1~2割しかないしジャズでもソウルでもロックでもポップスでも短調の曲ばかりやるのはださいのだが、ベックの場合は湿っぽくならないのでださくない。運動神経と感覚に優れているからだろうが、ベック級のスーパー・ギタリストでもついついギターを泣かせてしまうところを、そうはならない。もっとも90年代以降のベックはどんどん情感を削ぎ落とす方向に行って、70年代の適度な抒情味が懐かしくなりもする。しかしやはり、ベックほど前向きなアーティストはアーカイヴ音源など出さない見本なのだろう。前ばかり向いていないでたまには過去の業績も整理してほしいと思うが。

麻婆丼の初日・2日目

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 何か以前も似たようなどころかまったくおなじ趣向の作文を載せた気がうっすらするが、麻婆豆腐に前回も今回もない。イタリア近世の歴史哲学者ジャンバティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico, 1668-1744)は歴史の直線的発展というそれまでの西洋歴史学の常識(もちろんインドや中国ではとっくに喝破されていた)を覆した人だが、ヴィーコ学説には閉鎖環境下における歴史の周期性も示唆されており、これを卑近に置き換えると昨日も今日も明日も朝食と昼食はお茶漬けや納豆だったり、あと先月の食生活だが10日連続夕飯の主菜を焼売で過ごした記憶も新しい。焼売と餃子は大好物だし、スーパーで焼売が特売だったからだが、いくら好物でも10日も続くとこんなに安い永劫回帰には飽きてくる。市販の焼売や餃子は蒸したり焼いたり揚げたりするだけだが(餃子には中国では主流の水餃子という手もある。中華だしを入れてかき玉スープにするとなお美味しく、老後はこれだなという気になる)、麻婆豆腐の素となると少しは料理らしくなってきて、挽き肉入りの濃縮スープのレトルトに豆腐を加えて添付の片栗粉を水で溶き、流しこんでとろみをつけるだけだが、第1の難関は豆腐の賽の目切り、これは不揃いでもいいとしても、第2で最大の難関は弱火または火を止めてダマにならないように均等にとろみをつける。理想を言えば糸のように細く鍋に円周状に流し入れながらかき混ぜるのだが、ドボッとついついこぼしてしまうと片栗粉の茹でたダマができてしまうのだ。確実に失敗しない方法としては火を止めて水溶き片栗粉がすぐ固まらない程度に熱が冷めてからそこそこ均等に回し入れて、とろみの素を鍋全体によく混ぜてから弱火で再加熱して、とろみがつくまで煮直す。これならダマができるという失敗はない。その代わり全体的に濁った色で、風味にキレがない麻婆豆腐になる。だが他人に出すわけではなし、ダマができるよりはよほど良い。

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 ご飯少なめにすれば3食分にはなるのだがもう季節も梅雨、麻婆丼にして食べた初日の残りは土鍋ごと冷蔵庫に納め、2日目で食べきることにする。どうせ食べきるのなら土鍋のままでご飯を投入するが、これしも麻婆丼と呼べるのだろうか。むしろ麻婆リゾットと呼ぶべきではないか。しかし日本人の食習慣には鍋物の最後には残りご飯をぶち込んで汁の一滴まで余さずいただく(麺類の場合もあるが)、という美徳があるのだからカレーやシチューの最後の1食は鍋にご飯、という食べ方はむしろ庶民食の伝統なのではないか。中華風リゾットとしては大いにあり得る。例えば先に例を出した水餃子だが、日本では餃子は点心ではなくほぼ副菜という位置づけだから水餃子にそのままご飯をぶち込む、という食べ方も不自然ではないだろう。餃子に対して礼を欠いていないかと気の弱くなる人もいるかもしれないが、日本人はカレーをご飯にかけ、餃子だって蒸し焼きにしてご飯のおかずにしてきたりしているの、だ。土着とはそういうものだろう。郷に入らば郷に従え、とは食の世界にも通じるはずであり、某有名料理マンガのように「明太子は日本の恥」などと何様な主張はとかくものごとに上下をつけたがる成金趣味というもので、崎陽軒の焼売は日本一美味いと思うがいや吉野家の牛丼だという人がいてもいい。そして焼売や牛丼や麻婆豆腐に直線的発展などなくてもいい、また好きなときに食べられればそれでいいではないか。

眞・渚の國のアリス(80・完)

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 ほな行こか、と中ノッポがうながすと、水泳パンツ1枚になった大ノッポ、チビの3人は波打ちぎわに沿って遊びに手ごろな浅瀬を探しに歩き出しました。カモメがカーと鳴きました。海水パンツ1枚になった大ノッポ、中ノッポ、チビの3人は波打ちぎわに沿って遊びに手ごろな浅瀬を探しに歩き出しました。カモメがカーと鳴きました。海水パンツ1枚になった大ノッポ、中ノッポ、チビの3人は(人と呼べるとすればですが)波打ちぎわに沿って遊びに手ごろな浅瀬を探しに歩き出しました。あるいは歩き出しませんでした。カモメがカーと鳴きました。または鳴きませんでした。
 波が岩に砕けました。
 もういいかしら、とアリスは訊きました。白ウサギはさっきまでとはうって変わって気乗りのしない様子で、まあいいでしょう、と返事をよこしました。アリスは無責任だわ、と白ウサギの態度を不満に思いましたが、ここで仲間割れを起こしても、と言い出しっぺの追及はしないことにしました。でもよく考えてみたら仲間割れも何も、白ウサギとアリスは仲間どころか友だちですらなく、むろん仇敵というほど恨みあう仲ですらありません。一緒になって地球の裏側(?)まではるかな時間をかけて落っこちてきただけです。
 カモメが鳴きました。カー。
 ぼくらは何でまた海遊びしなければならんのや、と中ノッポがこぼしました。こないなことしていても、いっこう何もはかどらんのやで。またじわじわと真綿で首を絞められるような目に会うだけや。
 チビが小声で言いました。カー。
 ぼくらが服を置いておかないと、と大ノッポ、アリスたちが盗めないじゃないか。そうしないといつまでたってもこの話は始まらない。
 そなこと、これで何度目や?と大ノッポ、ぼくたちが服を盗まれるのは。いくら10歳の少女とウサギやからって学習能力ないんか?
 同じアリスが落ちてくるとは限らない、と大ノッポが言いました、それでもアリスと白ウサギは次から次へと落ちてくる、そういうふうになっているんだから仕方がないよ。
 まだ待つの?とチビ。
 急ぐことはないさ、と大ノッポ、いつまで待っても今すぐにでも、同じことだ。
 アリスと白ウサギは砂の中にひそんだまま機会をうかがっていました。まだ待つの?とアリス。急ぐことはないさ、と白ウサギ、いつまで待っても今すぐにでも、同じことだ。
 腹話術でも習おうかしら、とアリスは思いました。
 第8章完。終わり。


Tad Dameron with John Coltrane - Mating Call (Prestige, 1957)

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Tad Dameron with John Coltrane - Mating Call (Prestige, 1957) Full Album
Recorded at the studio of Rudy Van Gelder in Hackensack, New Jersey, November 30, 1956
Released by Prestige Records Prestige PRLP7070, March 1957
All music composed by Tadd Dameron
(Side A)
A1. Mating Call : https://youtu.be/9rw6jYeZ_Ok - 5:57
A2. Gnid : https://youtu.be/3wJLiKGYrWo - 5:07
A3. Soultrane : https://youtu.be/DwsH9pyzNNI - 5:24
(Side B)
B1. On a Misty Night : https://youtu.be/JSKdLaK8iNA - 6:23
B2. Romas : https://youtu.be/91hbYE8Vlvw - 7:45
B3. Super Jet : https://youtu.be/BYqohmc4tm0 - 6:00
[ Personnel ]
Tadd Dameron - piano
John Coltrane - tenor saxophone
John Simmons - bass
Philly Joe Jones - drums
 (Original Riverside "The Magic Touch" LP Front Cover)

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 タッド・ダメロン(Tadd Dameron)ことタドリー・ユーイング・ピーク・ダムロン(Tadley Ewing Peake Dameron, 1917年2月21日 オハイオ州 クリーヴランド - 1965年3月8日)はアメリカ合衆国のジャズ・ピアニストおよび作曲家・アレンジャー。ミュージシャンとしてはジョージ・ガーシュインとデューク・エリントンの影響を公言し、デクスター・ゴードン(テナーサックス/1923-1990)からも「ビバップのロマン主義者」と評される一方で、allmusic.comのジャズ部門主筆批評家のスコット・ヤーノウをして「ビバップ時代を決定した作編曲家」と言わしめている。ビバップ時代最高のアレンジャーだったがスウィングやハード・バップのアーティストにもヒット曲を提供しており、カウント・ベイシーやアーティ・ショウ、ジミー・ランスフォード、ディジー・ガレスピー、ビリー・エクスタインらのバンドのアレンジを手がけた。R&Bの大物ブル・ムース・ジャクソンにもアレンジを提供している。
 というのがウィキペディアのタッド・ダメロンの項目の前文になっている。1917年生まれとはディジー・ガレスピー(トランペット/1917-1992)と同年で、ダメロンが名を上げたのもディジーが1944年12月にサラ・ヴォーン(ヴォーカル/1924-1990)を専属歌手に立ち上げ、チャーリー・パーカー(アルトサックス/1920-1955)とのクインテットを挟んで1949年7月まで率いていたビッグバンドの主力アレンジャーの業績だった。ディジーとの仕事から独立して1948年に小規模~中規模バンドを興すと次々と有望な新人を輩出し(後述)、作曲家としてもサラ・ヴォーンの代表曲「If You Could See Me Now」、ガレスピー&パーカー・クインテットの代表曲「Hot House」、ガレスピー・ビッグバンドの「Our Delight」、カウント・ベイシーに提供した「Good Bait」、自己のバンドで名演を残した「Lady Bird」など少なくともこの5曲はさまざまなジャズマンが取り上げ、改作を生み出し、現在でも演奏され続けられている。
 (Original Prestige "Mating Call" LP Side A & B Label)

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 ではダメロン自身の音楽が広く聴かれているかというと、聴かれてもいるしいないともいえる。変なことになっているのだ。ダメロンのバンドは当時の先鋭新人だったファッツ・ナヴァロ(トランペット/1923-1950)、マイルス・デイヴィス(トランペット/1926-1991)、クリフォード・ブラウン(トランペット/1930-1956)、アーニー・ヘンリー(アルトサックス/1926-1957)、ワーデル・グレイ(テナーサックス/1921-1955)、デクスター・ゴードン、チャーリー・ラウズ(テナーサックス/1924-1988)、ソニー・ロリンズ(テナーサックス/1930-)を輩出し、作編曲家でもあるベニー・ゴルソン(テナーサックス/1929-)はダメロンに私淑していた。しかし彼らが夭逝(ナヴァロ、グレイ、ヘンリー)、一時的引退(ゴードン)、失踪(ロリンズ)、重鎮(ゴルソン)、スター化(マイルス)していた頃には、ダメロンを録音に迎えたレーベルはインディーズのプレスティッジとリヴァーサイドがわずかな枚数を制作しただけだった。
 ダメロンの全盛期は1951年のLPレコード実用化前のもので、1947年~1950年の脂の乗った録音はシングル盤に相当する片面3~4分のSPレコードだった。この時期の多くの録音はLP化される時に、バンドのスター・ソロイストだった夭逝の天才ファッツ・ナヴァロ名義の追悼アルバムにまとめられている。その中には元々ナヴァロ名義の録音もあるから、リスナーはダメロンのバンドの録音なのを忘れてしまう。さらに2番トランペットにマイルスが加入して共演していたり、病弱なナヴァロが穴を空けた時にはマイルスがメイン・ソロイストに昇格もして、旧規格盤CDの『Complete Birth of Cool』のボーナス・トラックや発掘盤『The Miles Davis and Dameron Quartet in Paris - Festival International du Jazz, May 1949』(Columbia, 1977)でマイルスをフィーチャーしたダメロン・バンドが聴けるが、ブルー・ノート盤『The Fabulous Fats Navarro, Vol. 1 & Vol. 2』同様みんなナヴァロやマイルスのアルバムだと思って聴いているのだ。そして夭逝したナヴァロに兄事していたクリフォード・ブラウンが1953年にダメロン・バンドを離れると、ダメロンはレギュラー・バンドが立ちゆかなくなってしまう。アルバム制作は続けたが、1959年~1961年には麻薬禍でケンタッキーの刑務所に入っている。実刑判決が執行されたということは執行猶予中に再犯してしまったということだから、よほど私生活にも問題を抱えていたのだろう。
(Reissued Prestige PR7247 "Mating Call" '1962 LP Front Cover)

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 先に上げたマイルスをフィーチャーしたコロンビア盤は発掘盤で、他にも数枚ナヴァロ時代・マイルス時代の発掘ライヴが非公式のインディーズ盤で出ているが、前述の通りSP時代の録音はブルー・ノートやサヴォイのファッツ・ナヴァロ名義のアルバムに吸収されているので、純粋に最初からLPとして制作・発売されたダメロンのアルバムは、
1953: A Study in Dameronia (Prestige)
1956: Fontainebleau (Prestige)
1956: Mating Call with John Coltrane (Prestige)
1962: The Magic Touch (Riverside)
 の4枚しかない。このうち10インチ・アルバムの6管ノネット作品『A Study in Dameronia』はクリフォード・ブラウンの歿後(またもや!)『Clifford Brown Memorial Album』としてライオネル・ハンプトン楽団のヨーロッパ公演中に録音された現地ジャズマンとのセッションとAB面にカップリングされている。『Fontainebleau』はケニー・ドーハム、サヒブ・シハブ、セシル・ペインら5管フロントのオクテット作品で、『Mating Call』を挟んだ『The Magic Touch』はフル編成のビッグバンド作品だから、数少ないダメロン作品中『Mating Call』は例外的にテナーサックスのワンホーン・カルテットだったのがわかる。『The Magic Touch』は2年間の刑期を挟んだからか、ピアノはほとんどリヴァーサイド専属のビル・エヴァンスに任せ、ダメロンは作編曲とリーダーシップに専念している。アルバム4作すべてダメロン自身によるオリジナル曲で(『The Magic Touch』は集大成を目指して再演もあるがほとんど新曲、『A Study in Dameronia』~『Mating Call』は全曲新曲)、4作とも初期のナヴァロ時代・マイルス時代に劣らず高い評価を受けているが、『The Magic Touch』を遺作に3年後には48歳で亡くなってしまう。晩年は癌で闘病中だったが、死因は心臓発作だった。ブラウン25歳、ナヴァロ26歳、ヘンリー31歳、グレイ34歳、パーカー34歳と並べていくと、当時ジャズマンの平均寿命は40歳未満とされたのも物故者を閲すればあながち根拠がないとは言えない。
(Reissued Prestige PR7745 "Mating Call" '1970 LP Front Cover)

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 ダメロンはピアニストとしては可もなく不可もなくであまり評価されない分作曲家・アレンジャーの才能は抜群で、ただしビバップはシンプルな作曲と最小限のアレンジで可能な音楽だったからダメロンのバンドは作曲やアレンジよりもスター・ソロイストの力量で記憶されることになった。ダメロンが白人だったらウェスト・コースト・ジャズのような中規模バンドによるオリジナル・レパートリーがセールス・ポイントにもなっただろう。中規模バンドは人数分に見合った集客力がないとレギュラー・バンドの維持が難しく、マイルスの加わったパリの音楽祭への招聘コンサート(対バンはパーカー・クインテットだった!)にもクインテット編成だった。タイトルは『The Miles Davis and Dameron Quartet in Paris - Festival International du Jazz, May 1949』だがマイルスのワンホーン・カルテットではなく、ジェームス・ムーディ(テナーサックス)入りのダメロン・カルテットにマイルスのゲスト参加、というこじつけタイトルなので、実際はダメロン・クインテットが正しい。作曲とアレンジ命のダメロンにとってテナーのワンホーン・カルテットは勇断だったろう。まずよほど自信のある新曲を揃えなければいけないし、ピアノ・トリオ+ワンホーンとはほとんどホーン奏者にはヴォーカリストとメイン・ソロイスト両方の表現力と力量が要求される。ジョン・コルトレーン(テナーサックス/1926-1967)にとって本作はプロ・デビュー以来初のワンホーン・アルバムとなり、ピアノ・トリオとのワンホーン・カルテットは生涯コルトレーンのソロ活動の基本フォーマットになった。その点でも両者にとって重要なアルバムで、仕上がりはやや小粒で地味だが名作と呼ぶに足るものになっている。
 録音はA1、A3、A2、B3、B1、B2の順に行われた。コルトレーンとドラムスのフィリー・ジョーは当時マイルスのバンドのバンドメイトで、マイルスは先月10月の3時間12曲一気録音のセッションでプレスティッジとの契約を満了しコロンビア移籍の条件を満たしたばかり、コルトレーンはプレスティッジとソロ契約を継続し、フィリー・ジョーはすぐ後にプレスティッジとケンカしてリヴァーサイド専属になる。コルトレーンも翌1957年春には飲酒癖が原因でマイルスのバンドをクビになるのだが(すぐにセロニアス・モンクのバンドに誘われてマイルス時代以上の注目を集め、1958年には呼び戻される)、『Mating Call』は佳曲ぞろいのアルバムA面をまず録音したのはリテイクの可能性を考えたか、録音前の打ち合わせで入念だったのはA面曲に集中していたのだろう。後半をB3から始めたのはアルバム中もっともスウィンギーなアップテンポ曲で肩をほぐし、再びB1のミディアム・バラードをじっくり演奏する。録音順で最後のB2はピアノ・トリオ主導のレイジーなブルースだからお手の物で、このアルバムは5分~7分台の曲がAB面3曲ずつという構成だが、全6曲でミディアム・バラード3曲、ファスト・スウィング2曲、スロー・ブルース1曲という配分はありそうでない。この構成も小粒で地味な印象につながっているのだが、B2などは案外そういやブルースやってないな、と苦笑しながらセッションの終わりになって即興的にストック曲の中から出してきたのかもしれない。名作とはいえジャズ史に欠かせないアルバムというほどではないし、これほど肩の力を抜いたコルトレーンも珍しいがコルトレーンを知るには必聴のアルバムとも言えない。だがこのアルバムにしかない、ほんのりとしたいいムードがあるのだ。なくても構わないが(?)、これがあるのはダメロンにとってもコルトレーンにとっても幸福な記録になったとほのぼのする。
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