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集成版『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』第二章

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 第二章。
 そろそろ出ないとヤバいんじゃない、と、それまで黙ってちびちびとオレンジジュースをすすっていたウインがボソッとつぶやいたのとハローキティのお出ましがほぼ同時だったので、おしゃべりに興じていたミッフィーたちはぴたり、と黙り込みました。そうね、まだ直接対決には時期尚早ね、と内心反発を感じながらメラニーも賛同せざるを得ませんでした。メラニーはこの仲間たちの中でウインだけは御し難し、と苦手意識を持っていました。ミッフィーを筆頭に、他のうさぎたち(バーバラはくまですが)の弱みは一通り握っているメラニーですが、ウインからは弱みと呼べるようなものがつかめないのです。逆にウインの方がメラニーに対して優位に立っていると思われるのは、彼女だけがいつもメラニーよりも早く的確な状況判断を下していると見えるからでした。
 一方ミッフィーは出口近いこのテーブルからはかなり遠いカウンターに、ついに現れた宿敵の姿を認めて怨恨の焔をめらめらと上げていました。それは老舗のヒロインたる自分が知名度では後発組に抜かれた嫉妬でしたが、ハローキティだって今や老舗の部類に入るのですから実情は住み分けが済んでいると言えるのです。仲良くやって行けばいいのになあ、とどちらのディヴィジョンの構成員にも敵対意識はほとんどありませんでした。しかしトップであるミッフィーちゃんとハローキティの間には晴らしがたい確執があり、それはもはやうさぎとねこのどちらが可愛いかを越えた問題でした。
 その時店内に『暁の空中戦』が鳴り響きました。撃墜王がいらしたわよ、とキャシーたちがざわめきました。何なの?この店の常連が来たみたいよ、たぶんVIP待遇の。店の前にガタガタと何か移動する小屋のような乗り物が横づけするのが見えました。む、とジョースターさんはすぐにでもハーミットパープルを発動できる態勢に入りました。ヤバいスタンドの臭いがするぜ、とイギーの野生のカンが働き、テーブルの下で唸って警告を発しました。かすかべ防衛隊はばばぬきをして遊んでいましたが、しんのすけは店の入り口をちらりと見て、何か犬小屋みたいだナ、と首を傾げました。
 カーペットがするすると店の床に延びてきました。ゴーグルつき飛行帽をかぶり、マフラーをしめたビーグル犬が、お伴の小鳥を連れて二足歩行で犬小屋から出てきました。撃墜王スヌーピーさまのご来店です、とミミィが告げました。


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 撃墜王、正確には「第一次世界大戦の撃墜王」ことスヌーピーは、テーマソング『暁の空中戦』すら捧げられた伝説の英雄でした。愛機ソッピース・キャメル号(普段は犬小屋)を操縦し、さっそうと大空を駆けめぐる操縦士として数えきれない戦勲を上げたその経歴は、第一次世界大戦から一世紀を経た現在も記憶されて、彼を不死の存在にしていました。フォッカー三葉機に乗る宿敵レッド・バロンとの空中戦の数々を経て、撃墜王の名声は死線をくぐるたびに高まったものでした。第一次世界大戦中は、夜になるとマーシーの小さなカフェへ行き、ルートビアを楽しんていたのも懐かしい思い出でした。相棒の小鳥ウッドストックは担当整備兵でもあり、またレッド・バロンの助手ピンク・バロンでもありました。また、ドイツ兵に占領された家のフランス娘を救助したらマーシーだったこともありました。
 思わぬ来客の出現に、ミッフィーちゃんとその仲間たちは不覚をとられた気分でした。あまり賢くないバーバラすらこのビーグル犬のことは何となく知っているのです。幼稚園児や荒くれ者たちは、どうやら常連客というわけではないらしい。つまり自分たちの店の売り上げにはさほど関係ないふりの客にすぎないようで、敵情視察に来たのですから収穫がないのでは意味がありませんが、客層が重ならないと確認できればそれもデータのうちです。しかし本当のVIPがこの店の常連客としたら、店柄の格付けにも大きな影響が生じないではいられないことでしょう。ハローキティ本人が接客に現れた以上、あまり長居をするのはミッフィーたちにはリスクが高すぎましたが、おそらくこれからVIPに続き来店するだろう関係者たちを見極めずに立ち去るのも忍びないことです。
 そうだ、とミッフィーは思いつき、バーバラにお勘定させている間にジョータローたちやしんのすけたちと談判しました。何してたの、と店を出て、バーバラ。これ渡してたのよ、とミッフィーは自分たちの店の地図入りチラシを取り出しました。うちの店に来たら、あの撃墜王とやらの話を聞き出さなきゃ。そう言いながらミッフィーは犬小屋ソッピース・キャメル号の屋根にもチラシを挟みました。
 その頃店内では、ハローキティが本気モードの接客に入っていました。素性には気づきませんでしたが、女性客がいる前では決してしないことでした。ミミィら従業員たちも皆、恐怖でその場に凍りついていました。


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 トトポトミー・クリークの戦いとは、南北戦争の4年目に入った1864年5月28日から30日に、バージニア州ハノーバー郡で、北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した戦闘を言います。
 グラントはリー軍の右翼に回り込む戦略を続け、開けた場所での会戦に持ち込もうとしましたが、リーはジュバル・アーリー中将の北バージニア軍第2軍団で、北軍ガバヌーア・ウォーレン少将の前進してくる第5軍団を攻撃する機会を伺いました。アーリーの指揮下、ロバート・E・ローズ少将とドッドソン・ラムスール少将の師団が北軍の部隊をシャディグローブ道路まで押し返しましたが、ラムスールの前衛隊が北軍歩兵と砲兵の激しい抵抗に遭って停止させられてしまいます。グラントは他の軍団長に南軍の全線に渡って攻撃を支援するよう命令しました。南軍はトトポトミー・クリークの背後の塹壕に入っていました。北軍ウィンフィールド・スコット・ハンコックの第2軍団のみがクリークを渡りましたが、すぐに撃退されました。決着のつかなかった戦闘の後、北軍は南東方面への動きを再開し、月末からのコールドハーバーの戦いに向かったのです。
 これがその時の武勲章じゃ、とジョースターさんは言いました。子どもたちはざわめきました。わお、おじいさんすごい人なんだねえ!とチャーリーもライナスも目を輝かせました。それでおじいさんどっちの軍にいたの?もちろん南軍さ!わあ!
 南軍なんて結局負けたんじゃない、とルーシーはサリーに同意を求めました。そんなこと言われても、とサリー・ブラウンは、そういえば男の子って何で南北戦争ごっこすると南軍の勝ちにしたがるんだろう、と思いました。
 さきほどまでのジョースターさんはかすかべ防衛隊を相手に、新選組には前身にあたる、文久3年(1863年)2月27日に集合し中山道を西上した200名余りの浪士からなる「浪士組」の時からおったよ、とためになるお話しをしていたのです。じゃあじゃーおじぃさん、近藤勇には会ったことある?ああ、わしは倒幕派からの二重スパイじゃったからな、時には敵の前で仲間を斬らねばならぬこともあった。聞きたいかね?……いいです、と風間くんはビビって血の気が引きました。
 しかしこの店、とジョースターさんは首を傾げました。一体わしらの目算は見当違いだったのだろうか?


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 ありがとうボリス、とバーバラはボーイフレンドをねぎらうと、ボリスは脱いだエプロンとレジの鍵を渡しながら、そう悪い売り上げじゃなかったよ、とミッフィーに報告しました。ミッフィーは受け取った鍵でレジスターからレシート総計を打ち出して、あんたテイクアウトだけじゃなくてバーテンダーもやってたの?うん、座って休ませてくれって客ばかりで断り切れなかったんだよ。ひとり入れたら後から来る客も断れないしね。バーバラ!とミッフィーは鋭く呼びました。はい、何あに?ボリスに接客させたら無資格民間人を使役した軍務違反になります。はい。ボリスの分はあんたが仕事した、ってことにしとくからね。
 でも私だけじゃ、と言いかけるバーバラに、くまのアリバイはくまにしか務まらないでしょっ?あんたがひとりでシフトをこなしていたのよ、いいわね、と言いながら、ミッフィーは内心穏やかならぬ気分でした。ミッフィーたちがハローキティの店を偵察していた間、ボリスはひとりでディヴィジョン♯1総員が稼ぎ出す注文を捌いていたのです。これはひょっとしたら、ハローキティの店に流れた客筋以上に由々しき問題でした。おかみの自分は残るとして、バニーズパブ・ミッフィーズからボリスのような従業員ばかりを置いて兄貴喫茶マッチョーズにした方が良い、と軍部上層部から編成変えが強要されるかもしれない。
 ミッフィーはさっき覗いてきたばかりのディヴィジョン♯2を思い出しました。どうもこれといって取り柄のないこねこちゃんパブのようで、サーヴィスの質なら老舗の自分たちが上という自信がある。それがまずいのではないか。ぼんくらのボリスひとりを置いておいた方が売り上げも上々なら、お客さんが求めているのはサーヴィスではなくて静けさと無関心なのではないか。ミッフィーには軍務を終えた兵卒たちが、どこの店に行く?落ち着いた店で休みたいな、あのうさぎの店?騒ぎたいならいいけど、ちょっとくつろぐにはうざいんだよな、と会話を交わしている様子が脳裏に浮かんでくるようでした。
 しんどいわあ、とミッフィーはため息をつくと、自分は事務仕事があるから適当に交替してやってて、指名があれば店に出るから、と事務室に引っ込みました。60年もやっていて後継者を育てなかった自分が悪いのかもしれない、とミッフィーはうさぎらしからぬ反省をしました。その時メラニーがノックもせずに部屋に入ってきました。


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 知られて困る秘密を握られるのは、親友であっても嫌なものです。もっとも些細な内緒ごとを知られて困るほどの相手まで親友と呼ぶのは無理があるとも言えますが、親しき仲にも礼儀あり、という言葉もありますからいちがいに何をもって親友か否かを線引きするわけにはいかず、人類みな兄弟と大きく括るならうさぎにも同じことが言えるでしょう。
 ただしうさぎのような攻防ともに心もとない小動物は、警戒心はとびきり強いのが普通です。こればかりは親友であろうと肉親であろうと隔てなく、四六時中寝首を掻かれないよう神経を張りつめさせていなければなりません。まして女友だちともなれば、親しいほどに距離感は微妙にならざるを得ません。
 ミッフィーちゃんとニナ、もといメラニーの関係はそういう種類のものでもあるば、さらにこじれたものでもありました。ミッフィーはプライヴェートではナインチェと呼ばれないと怒るのですが、実際はそうしてみせることで本名がナインチェ・プラウスであると確認させているだけで、源氏名、もといニックネームの方がはるかに世間には通りが良いのをアピールしているのが本心なのです。アギーことアーヒェもウインことウィレマインもバーバラことバルバラも、ナインチェがミッフィーでいるなら自分たちがアギーであり、ウインであり、バーバラであることに特に頓着はありませんでした。女の子の大半は本名よりもニックネームで呼ばれますし、結婚すれば名字だって変わります。家柄が良ければ何某家令嬢、何某家夫人と個人名すら問題になりません。
 ですがペンフレンドから始まったミッフィーちゃんとメラニーの仲は、基本的にはいつまでもナインチェとニナのままでした。それよりもニナはメラニーと呼ばないと感じが出ないほどメラニーになっていましたが、ナインチェは不安定にミッフィーとナインチェ、ともすればうさこちゃんという呼び名の間を移ろっていたのです。お父さんのファデル・プラウスさんやお母さんのムデル・プラウスさんは、ついついナインチェをうさこと呼んでしまうことがありました。妹のクライネ・プラウスが生まれると、ミッフィーちゃんはうさこと呼ばれても大胆に無視する口実ができました。どっちのうさこを呼んでいるのよ、というわけです。第二子ができると難しいのはうさぎの世界も同じですが、その上ミッフィーの場合は事実上、一家の大黒柱でもある、という事情もありました。


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 そんなミッフィーの惑いをよそに、入るわよナインチェ、とメラニーがオフィスに来たので、もう入ってるじゃないの、とミッフィーちゃんはあからさまに不興げなそぶりをしましたが、もちろんメラニーは旧友ナインチェの癪にさわりに来たので遠慮会釈もなければ悪びれた様子もなくつかつかと窓辺に歩み寄ると、せっかくのいい季節なんだから窓くらい開けなさいよ、とブラインド・カーテンのシャッター紐を引いてがらり、と防弾二重ガラスの窓を全開しました。とたんに激しい銃撃戦、立て続けの爆発音、怒号と悲鳴が部屋の中に流れ込んできました。何だかよくわからない、黒板に爪を立てるような音まで聞こえてくるのでした。
 のどかねえ、とメラニーは煙草をくわえると魔法で火をつけ(メラニーはできるのです)、ふーっとひと口喫うとまた聞こえてくる奇妙な音に、今日は変な音がするわね、何かしら、黒板に爪を立てているような音よね。ミッフィーは投げやりに黒板に爪を立てている音じゃないの?と答えると、じゃあさっきまで部屋で流していた場違いな音楽は?とメラニーは訊きました。ミッフィーはしぶしぶドビュッシー『月の光』のフルート編曲版とラヴェル『死せる王女のための孔雀舞(パヴァーヌ)』ピアノ独奏版、と音楽趣味を白状させられる羽目になりました。悪くはないけど、とメラニーは決めつけました、職場、特にうちみたいな職場で聴く音楽じゃないわね。キャバレーに流れる音楽はリヒャルト・シュトラウスやプロコフィエフみたいに満艦飾じゃなきゃ、というのがメラニーのうさぎらしからぬ持論でした。うさぎらしからぬ、とはこの場合、なかなか正鵠を獲ている、という意味合いです。
 それよりあんた何か用があって来たの?ふうん、どうして?みんなと一緒でもできた話題ならさっき話せたでしょ、とミッフィーはナインチェらしからぬカンを働かせました。そうねえ、とメラニーのわざと気をもたせるような返答に、ミッフィーはとっさにお給料なら上がらないわよ、と言わずもがなのことを口にしてしまいそうになりました。確かにこのディヴィジョン全体への手当ては規模に見合っただけの額しか下りませんが、約半額相当になるミッフィーのピンハネ分を平等にすればメラニーたちの給料は上げられるのです。
 やばい、とミッフィーは思いました。ですがメラニーはため息をまたひと息つくと、そろそろお店をたたまない?と言ったのです。


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 ナインチェがオフィスに引っ込んだので、アーヒェたちの話題は何となくナインチェについての話になりました。感謝しなくちゃね、と珍しくウィレマインが話題の口火を切りました、何だかんだ言っていちばん働いているのはナインチェだもの。そう言いながら清掃用具をかたづけているので、清掃用具は用具戸棚の前のバルバラに手渡すことになります。全員の視線がバルバラに集中しました。バルバラはじわっ、と発汗するのを感じ、いっそ清掃用具ごと戸棚の中に隠れてしまいたくなりましたが、そういえば今日は営業前のミーティングがまだなのに気づきました。朱に交わればうさぎと同様なバルバラとはいえ、素がくまですから仲間たちよりは少しは物おぼえが良いのです。
 だからバルバラは、ナインチェはミーティングもしないでどうしたのかしら、とだけ言えば良かったのですが、それは先ほどのウィレマインの発言を受けるというよりも別方向にかわしてしまうことになり、さらには今日の営業はナインチェからの指示なしで動いてしまっていいいと任せられているのか、単なる物忘れか、下手に訊きにいくと私がいなくちゃ何もできないわけ?と開き直られて叱責されかねないか、どのみちミーティングをしたとしてもその内容はいつまで経っても変わり映えのしないものですから週に一回でも、月や年に一回でも、何かあった時だけにでも行えばいいのです。
 要するに気がつかないで普段通りに店を開ければ、ミーティングをしたもしないも関係なく、そのことでナインチェは何か言ってくるかもわかりませんが、ナインチェを除く4人が4人ともミーティング、何それ?とすっとぼければナインチェと言えどもそれ以上の追求はできないはずで、バルバラは束ねた矢の譬えを思い出しました。ひとりは弱くても徒党を組めば強い、というあれです。
 そう上手くいくといいけどね、と窓拭きをしていたニナがつぶやいたので、バルバラを含めた全員が大混乱に陥りました。ニナの独白はウィレマインの発言への感想か、それとも誰かの心を読んだとも解釈できるものだったからです。バルバラにとってはミーティングなしでも問題ないか、でしたが、アーヒェはウィレマインの発言には素直に肯けない以上そうはいかない、と思い、ウィレマインは口ではああ言うものの、本心では何を考えているかわからない種類の少女でした。そして彼女もまた、ニナを見透かしているとも見えました。


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 アーヒェは子どものころ、たぶん赤ちゃんの頃からナインチェちゃんのお友だちのアーヒェちゃんとして知られていました。記憶にないほどの昔からでもあり、今ならそれを利用してどれだけ自分に有利な状況を工作できたかを思うと、もっと子どもの頃から策略に長けていれば良かったとだけは悔やまれるのです。
 彼女は気弱でしたが、それはアギーという名のペルソナをかぶっている時に演じるべき役割であり、現実のアーヒェはむしろ彼女の年頃としては平均的な少女でした。それはウインがどこかしら生まれつきの巫女的存在感を放っていたり、メラニーが斜に構えた都会的な態度と田舎育ち風の押しの強さを併せもっていたり、バーバラが疑いもなく一匹のこぐまだったりするのと事情は変わらないことでした。
 ではミッフィーは?あのナインチェは、ナインチェであろうとミッフィーであろうと一見して変わらないように見えました。アギーの記憶ではほとんど物心ついた頃から、この世界的なマスコット・キャラクターの幼なじみはミッフィーであろうとナインチェであろうと変わらずに6色だけ、つまり白い紙面に黒い線以外には紫、青、緑、黄、灰、朱でできた世界の住人でした。彼女は正方形に配置またはトリミングされた空間に住み、真正面でなければ後ろ姿で、決して横顔は見せずに佇んでいました。それは遠近法からも自由な世界でした。アギーはミッフィーを羨むことはまったくありませんでしたが、アーヒェとしての彼女は(またはアーヒェが想像するにウィレマイン、バルバラ、ニナたちもアーヒェと同様のはずですが)、ナインチェはなぜキャラクターの見直しもされずミッフィーになり得ているのか、これまでともにした60年間の半分近くにおよぶかなり長い間、不可解なままでした。
 ようやくアーヒェが最近理解できた説明は、ナインチェは世界の中心点としてミッフィーちゃんと呼ばれても不動の同一性を持つ。それに対してアーヒェたちはミッフィーとの関係性によって各自の持ち場についているから、そのキャラクターは相対的なものにならざるを得ない、という解釈です。それも一応は論理的でしょう。ですが仮説に過ぎない点では決定的なものではなく、この説明はあまりに状況を固定的・静的にとらえていて、実存主義的立場からの形而上学批判に類した反発さえ感じさせました。それは自由をめぐる問題であり、まず勝ち目がないことでもあったのです。


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 だいたい私たちが戦場で働いている自体無理がなくない?とメラニーが言うので、そうでもないわよ、やってることはそれまでの私たちと大して変わりはないじゃない、とつとめて冷静にミッフィーは答えました。窓の外では味方・敵軍入り混じっての殺戮戦が繰り広げられていましたが、この店は一種の次元断層で外界から護られているので危険が及ぶようなことはなく、窓外の激戦は三次元式テレビ・モニターのようなものでしかありません。また彼女たちは軍事要員といっても赤十字社のように非戦闘員と位置づけられていましたから、もしこの地帯が敵軍の占領地になっても俘虜にはならず、軍務に変化はないのです。その意味ではミッフィーたちのディヴィジョンには敵も味方もなく、お客さまがいるだけ、とも言えます。うさぎがナイチンゲールというのも変な話ですが、慰安部隊には一応非戦闘員特権がありました。はむかわなければ、の話ですが。
 だいたいここは戦場よ、って言っていたのはニナじゃない?とミッフィーは立ち上がり、窓を閉めながら説明を求めました。あんたにああ言われてハロー何たらの店に偵察に行ってきたんじゃない、なのにあんたが真っ先に折れていたら、何のために偵察に行ってきたのかわからなくなるわ。実際自分でそう言いながら、ミッフィーちゃんはメラニーへの八つ当たりめいた憤怒がむらむらと湧いてくるのを感じました。メラニーは彼女にしてはしおらしいとも、またはあえて感情を抑えているようにも見えましたが、そうね、とあっさりと前言を認めたのでミッフィーとしては拍子抜けした思いでした。それならあんたは何をどうしたいってわけ?そうねえ、とメラニーは慎重に言葉を選んでいる様子です。そうねえ……。
 もし私たちが戦っていて、とうてい勝ち目のない戦いだとわかったらどうする?問いかけられて、ミッフィーは耳を疑いました。それってハローキティの店のこと?メラニーは答えませんでしたが、沈黙そのものが返答とも言えました。勝ち目がないってどういうこと?どうしてそんなことが言えるわけ?とミッフィーは質問をたたみかけたくなりましたが、うかつに訊き返してわからないの?と混ぜかえされるのも癪に障ります。早呑み込みをしてからかわれるのもご免です。それに本来うさぎは無口ですから、黙っているのは根くらべのようなものでした。根くらべなら負けないわ、とミッフィーは×の口を*に結びました。


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 確かにミッフィーは私たちのリーダーよ、自分から私たちの分まで働いてくれるわ、とメラニーは変装用のリボンを外しながら言いました、それに私たちは全員友だちだし(とウインをちらっと見て)、友だちのことを悪くなんか言えるかしら。そう言ってメラニーが顔を向けたのがアギーとバーバラが並んでメイクをしていた席の方だったので、アギーとバーバラは思わず顔を見合わせました。アギーたちは最近の流行りに乗って全席禁煙のお店にするのってどうかしら、いきなりじゃ何だからまず半年は分煙で、ついでにゴミ箱も撤去してゴミは持ち帰りで、そしたら手抜きできて一挙両得よね、といかにも昨今のサーヴィス業者らしい会話に花を咲かせていたのです。
 つまりはほとんど話を聞いなかったので、メラニーとウインの間に何か意見の行き違いがあり、それについて意見を求められているんじゃないかと考えました。当たらずとも遠からずと言うべきか、まるで的外れと言うべきか、メラニーとウインはまったく別々のことを考えてはいましたが、意志の疎通すらなかったのですからそもそも論議そのものが存在していなかったのです。ミッフィー不在では彼女たちはセーラームーンのいないセーラー戦士たちのようなものでした。うさぎちゃん!
 ええと何かしら、とバーバラとアギーは顔を上げると同じようなことを口を揃えてつぶやきました。ミッフィーのことよ、どう思う?どう思うって……。わからない?何を訊かれているのかも、確かにアギーたちにはわかりません。ミッフィーは頼りになるリーダーってことよ。ええ、そうね、それに友だちだし。そこよ、とメラニーは言いました。
 そこよ、とメラニーは言いました、ミッフィーは頼りになるリーダーで、それに何より友だちだわ。でもナインチェはどうかしら?
 あの、私よくわからないんだけど、とアギー、ミッフィーはナインチェよね。そうそう、とうなずくバーバラ。それにナインチェはミッフィーよね。そう思っていたのが間違いだったのよ、とメラニーは言いました。
 そう思っていたのが間違いだったのよ、とメラニーは言いました、さっきの店にみんなで行って、初めて気がついた気がする。私たちはお客で行ったから、もともとの名前に戻っていて、あのお店ではミッフィーはナインチェだった。でもハローキティはきっと私たちの店にお客で来ても、やっぱりハローキティのままに違いないのよ!
 第二章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2019年5月1~3日/蔵原惟繕(1927-2002)と日活映画の'57~'67年(1)

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 今年はロイドとキートンの短編サイレント喜劇、小林正樹監督作品、アステアのミュージカル映画にソヴィエト連邦末期のパラジャーノフ監督作品、長編アニメのしんちゃん映画、サイレント時代のソヴィエト映画の古典プドフキンとドヴジェンコの代表的三部作ときて5月は何を観ようかな、とたまたま持っている日本映画のDVDを整理していたら'50年代後半~'60年代末の製作縮小までの日活映画が意外と集まっていたのでそこから選んで観直すことにしました。'70年代にロマンポルノ作品を主力とする日活映画は世界的にも類がないメジャー映画社のポルノ映画路線によって世界映画の尖端を行く飛躍を見せますが、それに先立つ'50年代後半~'60年代後半の10年前後の日活映画もどこか日本映画、メジャー映画社製作の規格を逸脱した挑発性で異彩を放っています。戦時中には統合されていた戦後の日本映画界はまず松竹・東宝・大映・東映・新東宝のメジャー5社が五社協定を結んでおり、俳優やスタッフは当時映画会社の専属社員制だったので5社間での貸し借りはできましたが、日活は松竹と並ぶ日本最古からの映画会社でありながら戦後に再建されるも外国映画の配給のみで戦後の製作スタートが遅れて、ようやく昭和29年(1954年)に製作を再開するも五社協定を結んでいたメジャー5社からは圧力がかけられ、スタッフもフリーのヴェテラン監督以外は他社の助監督をスカウトした新人たちでしたし、俳優もスターとは呼べないフリーの舞台人ばかりを専属俳優に招いたものでした。その日活が一躍メジャー5社に並んだのが昭和31年('56年)5月の『太陽の季節』に始まる「太陽族」映画のブームで、同作で端役デビューを飾った新人俳優・石原裕次郎(1934-1987)は次作『狂った果実』'56.7で初主演し、昭和31年だけで7作、昭和32年('57年)には10作に出演し、特に『俺は待ってるぜ』'57.10と『嵐を呼ぶ男』'57.12は大ヒットしてスターの地位を固めます。画期的作品『狂った果実』が松竹の助監督から引き抜いた中平康(1926-1978)の監督デビュー作、また『俺は待ってるぜ』も松竹の助監督から引き抜いた蔵原惟繕の監督デビュー作であり、さらに昭和33年('58年)1月の石原裕次郎主演作『心と肉体の旅』も新東宝の助監督から引き抜いた桝田利雄(1927-)の監督デビュー作と、日活が他社での実績のあるフリーのヴェテラン監督に混じって新鋭監督をデビューさせたのは当時の他社にはない特色になりました。昭和32年~昭和33年の日活の勢力は従来のメジャー5社に迫ったので昭和33年8月には日活は五社協定から新たに六社協定に迎えられ、以降特色の薄かった新東宝が'61年には倒産し、時代劇を主とする大映は映画以外にまで広げた事業展開が裏目に出て経営が悪化の一途をたどりましたが('71年製作休止)、ホームドラマと喜劇の松竹、娯楽に徹した東映、大作主義と企画性に富んだ東宝に互して日活は昭和34年('59年)~39年('64年)まで東映または東宝に次ぐ業界2位の業績を上げるも、昭和40年('65年)には業界全体の東京オリンピック開催・テレビ普及による興行大減収に伴い東宝・東映に次ぐ3位、さらに昭和42年('67年)には経営陣内部対立による人事大異動のため製作公開に混乱が生じ興行収入大激減となり業界4位に低下し、翌年には製作方針を純愛青春映画中心とする急激な路線変更が始まります。日活はヴェテラン監督による保守派路線ももともとあったのですが、'50年代後半~'60年代後半の日活ならではの異色作は中平康の『狂った果実』または蔵原惟繕の『俺は待ってるぜ』から監督解雇問題にまで発展した鈴木清順(1923-2017)の『殺しの烙印』'67.6までの時期の、日活が監督デビューさせた監督の作品から採りたいと思い(つまり川島雄三監督作品、日活での監督デビューながら川島雄三の助監督として一緒に松竹から移籍してきた今村昌平は入れず)、また15作を選んだらシリーズものはあえて入れず(つまり「渡り鳥」シリーズは入れず)、たまたま蔵原惟繕監督作品が半数近い7本になったので優先し中平康、鈴木清順作品は1、2本になりました。『赤い波止場』は入れて『紅の流れ星』が入らない、小林旭ばかりか赤木圭一郎、和田浩治の主演作もないのに川地民夫の主演作はある、という変なセレクトになりましたが本腰を入れるなら10年間の日活映画から選べば100本は選ばねばならず、さすがにそれだけまとめて観直すのはきびしいので、たまたま手持ちにあった中から蔵原惟繕監督作品を主に15本を選んだということで勘弁してください。なお、歴史的意義を鑑みこれら日活映画については初公開時のキネマ旬報の紹介文を引用させていただきました。

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●5月1日(水)
蔵原惟繕(1927-2002)『俺は待ってるぜ』(日活'57.10.27)*91min, B&W : https://youtu.be/7xHcW-4mZ1c (Fragment)

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 併映『花嫁は待っている』(監督=青柳信雄、主演=小泉博・青山京子、92分)との2本立てで公開された本作は石原裕次郎の15本目の出演作ですが、前年昭和31年('56年)5月に古川卓巳(1917-2018)監督の『太陽の季節』に端役出演(太陽族の実物として)でデビュー、次の『狂った果実』(同年7月)では主演、昭和31年だけで7作の日活映画に出演すれば歌手デビューも果たし、本作が8作目になった昭和32年('57年)には年末の『嵐を呼ぶ男』(同年12月)まで10作の出演作を数えるという多作ぶりです。顔見せ的なゲスト出演作品、オールスター作品も含めてですが、年間10作の出演ペースは昭和33年('58年)、昭和34年('54年)にも続き、昭和35年('60年)も9作に出演しましたが翌昭和36年('61年)は初頭にスキー場の事故で骨折したため回復を待って4作にとどまるも、昭和37年('62年)は大ヒット作『銀座の恋の物語』『憎いあンちくしょう』を含む9作と復調します。昭和38年('63年)には4作、昭和39年('64年)には6作、昭和38年('63年)には5作と作品を絞るようになったのは昭和38年に石原プロモーションを設立して日活専属俳優を辞したからですが、デビューから昭和37年までの7年間に59作(第2作から主演)とは東京オリンピック開催・テレビ普及以降の日本映画界では考えられない現象です。また石原裕次郎は'70年代~'80年代は映画を離れテレビドラマ出演に移り「大都会」'76-'78(日本テレビ)、「西部警察」'79-'84(テレビ朝日)なども人気番組でしたが最大の長寿ヒット番組になったのは「太陽にほえろ!」'72-'86で、昭和31年のデビューから病状悪化による番組降板の昭和61年まで「太陽」が看板だったと思うと、52歳の早逝(肝臓癌)を免れたとして映画への復帰はあり得たか考えさせられます。石原裕次郎は昭和9年12月生まれなのでトップスターの地位を築き、日活を業界2位の映画会社に押し上げ既定の五社協定に六社目として六社協定を結ばせる功績のあった昭和32年~33年にはまだ22~23歳という若さでした。新しい映画が現れる時には新しい監督・スタッフ、新しい俳優の出現が見られますが、前後10年を経た昭和30年代には俳優からはまず石原裕次郎が従来にはないタイプの俳優として現れたことになる。中平康監督による石原裕次郎の初主演作『狂った果実』はフランス公開時に映画批評同人誌時代のフランソワ・トリュフォーが絶讃したというのも、トリュフォーの同人誌仲間のクロード・シャブロルが監督に進出して作った第2作『いとこ同志』'58はほとんど『狂った果実』の翻案とも言える内容になっていることでも直接間接の影響がうかがえるので、中平康と同様に石原裕次郎主演作の本作『俺は待ってるぜ』で監督デビューした蔵原惟繕も昭和35年('60年)9月の第6作『狂熱の季節』では同年3月末日本公開されたばかりのジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』を強く意識した作品を作る。一方観客層の若年化に対応しようとした松竹が若手助監督の監督昇進を早めて大島渚が『青春残酷物語』をヒットさせたのが同年6月で、松竹は篠田正浩、吉田喜重らを次々監督デビューさせます。吉田喜重の第1作『ろくでなし』(同年7月)は日本公開前から『勝手にしやがれ』の内容や評判を聞き製作されたものでしたが、松竹の意図とは違って松竹の若手監督たちは連帯意識はほとんどなく各自が強い方法論を持っていました。また松竹の若手監督の出現がフランスのヌーヴェル・ヴァーグ映画の台頭になぞらえられたのに対して日活の鈴木清順、中平康、蔵原惟繕、桝田利雄らはそれに先んじてヌーヴェル・ヴァーグと比肩し得る作風でデビューを飾っており、また日活に続いて石原慎太郎原作の太陽族映画を送り出した大映(市川昆『処刑の部屋』'56.6)、東宝(堀川弘通『日蝕の夏』'56.9)に続き、市川昆(大映)、増村保蔵(大映)、今村昌平(日活)、堀川弘通(東宝)、岡本喜八(東宝)、沢村忠(東映)ら有力な昭和30年代監督の出現があって松竹のヌーヴェル・ヴァーグ路線が企画されたというのが通説です。戦後監督デビューとはいえ戦時中からの映画人で年長だった古川卓巳監督の『太陽の季節』は長門裕之・南田洋子主演の青春メロドラマ調のもので、起点とすべきは中平康監督の衝撃的傑作『狂った果実』でしょうが、少し飛んで次々作『嵐を呼ぶ男』(井上梅次監督作品)とともに石原裕次郎の人気を決定づけたこの『俺は待ってるぜ』を蔵原惟繕の初々しい監督デビューとともに最初に取り上げたいと思います。初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 石原慎太郎が弟の裕次郎の歌ったヒット・ソングにヒントを得て書き下したサスペンス・ドラマ。監督は新人、蔵原惟繕が昇進第一作として当り、「危険な年齢」の高村倉太郎が撮影した。主演は「鷲と鷹」の石原裕次郎、「勝利者」の北原三枝。二人を中心に菅井一郎、二谷英明、草薙幸二郎らが助演する。
[ あらすじ ] 波止場の近くの小さなレストラン"リーフ"のマスター譲次(石原裕次郎)は元ボクサーだった。喧嘩で人を殺したのを苦にしてやめたのだ。彼の兄(河合健二)はブラジルにいて、一年後には彼を呼んでくれる約束だっだ。約束の日も近い或る夜、兄への手紙を出しに行った帰り、港をさ迷っていた歌手早枝子(北原三枝)を救った。彼女は働いていたキャバレー"地中海"の経営者、波止場の顔役柴田弟(波多野憲)に言い寄られて、花瓶で頭を殴りつけ、殺したと思いこんでいた。翌日から、彼女は"リーフ"で、はたらき始めた。互いに二人は心ひかれた。映画見物の帰り、柴田弟に見つかった早枝子は譲次にかばわれ難を逃れた。彼女は店の常連の年老いた医者内山(小杉勇)から譲次の身上話をきいた。内山は一年前酔って手術をし、誤って一人の男を殺して以来大酒飲みになってしまった男だった。譲次が兄と約束した日が来ても、何の音さたもなかった。彼の手紙が返送されてきた。譲次の心は疑惑でおおわれた。その夜、店に柴田兄弟が現れ早枝子を返せと迫った。ボクサーくずれの柴田兄(二谷英明)が譲次をなぐりつけた。譲次はそのままそれに耐えた。人を殺した記憶が蘇ったからだ。彼らの一人が持っていたメダルは彼が兄にやったものと似ていた。調査すると、兄は船に乗っていず、何者かに一年前殺されていた。"地中海"に連れ去られた早枝子から例のメダルは兄のものと確認してきた。警察で彼は兄の殺された現場写真を見た。死体のそばに内山医師が写っていた――。譲次が手がかりの人竹田(草薙幸二郎)を探しているのを知った柴田は竹田を殴り海へ放りこんだ。彼を救った譲次は兄が金のため柴田兄に殺されたことを知った。彼は単身"地中海"に乗りこみ、凄じい殴り合いの末、復讐を遂げた。――彼は早枝子と結ばれた。
 ――石原慎太郎書き下ろし脚本は話に起こすとブラジル渡航を果たせず殺された兄の仇討ちをする弟、というプロットに黒澤明の『醉ひどれ天使』'48風の人物配置をしたもので、グランドキャバレーの格闘が本作のクライマックスですが『醉ひどれ天使』にもグランドキャバレーのシーンがあれば(クライマックスではありませんが)、同作の志村喬がヒューマニストの初老の医師を演じたように本作にも小杉勇が同じような医師役で登場します。主人公の三船敏郎の破格の演技とともに『醉ひどれ天使』は戦後の日本映画で最初の衝撃的作品になったので、日活の太陽族映画への対抗企画でもあった松竹の小林正樹の『黒い河』'57.10(同月の前週公開!)同様、本作も『醉ひどれ天使』に脚本・演出とも発想を得ている作品とすることができる。また日活戦後作品に全編の半分を割いた西脇英夫氏の名著『日本のアクション映画』'96(『アウトローの挽歌』'76改題改訂版)の指摘で初めて知りましたが、太陽族映画と石原裕次郎出演作で本作では仇役とはいえヤクザの世界に乗りこんでいく作品は日活映画では初めてになるそうで、これも三船敏郎が捨て駒にされるヤクザの幹部候補の役の『醉ひどれ天使』由来でしょうが(松竹としては異色作の『黒い河』の仲代達矢も地元ヤクザでした)、東宝は戦時中から軍部と、戦後は東映とともに警察や自衛隊(!)ともパイプが太かったので反社会的な懲罰対象としては(もちろん観客へのアピールも高い)ヤクザを題材にしやすかった事情があります。外国映画のようにピストルや刃傷沙汰が日常茶飯の世界を描くにはアメリカのギャング映画に相当するヤクザを導入するのが手早い。しかし石原裕次郎をいかに派手に見せていくかとなると、本作ではボクサー崩れの前科者にしてヤクザの二谷英明と対決させ、翌昭和33年5月の『錆びたナイフ』では汚職シンジケートのボスを暴くやはり前科者の実質的にヤクザに近い水商売の男、同年9月の『赤い波止場』ではついにみずからヤクザの次期組長の座にある大物殺し屋を演じます。本作も波止場のある港町を舞台にしているのは『赤い波止場』ではずばりですし『錆びたナイフ』も海が近隣の町が舞台になっている。裕次郎が港で膝をつく北原三枝に出会うとヒロインの頬には海からの波の揺らめく反射光がたゆたっていますし、実在のモデルがあるかもしれませんがクライマックスのグランドキャバレーの床はガラス張りの床下照明で、光る床の上の格闘という異様な舞台となっています。こうした細部の演出は脚本指定ではないスタッフの創案と思われ、ロマンス絡みの復讐譚としては生硬な抽象概念語の台詞が耳障りなドラマに一触即発の雰囲気をもたらしています。また本作は今回観直した日活映画でも唯一B&Wのスタンダード・サイズで、次に取り上げる『錆びたナイフ』からはワイドスクリーン(シネマスコープに近い「日活スコープ」)ですが、スタンダード・サイズならではの画格のまとまりがクライマックスまで主人公が耐えに耐えるガマン劇に適合しているとも言えて、これがワイドスクリーンでは我慢に次ぐ我慢では映画が持たなかったろうとも思えます。本作は仇役も二谷英明と波多野憲の兄弟に分かれているのが作劇上の工夫とも辻褄合わせとも見えて復讐の焦点がぼけている気味があり、また人情家の医師も物語の展開上必要としても本作の主人公の立場からすれば仇役と同等以上に日和見的で偽善的な人物像です。そうした具合に本作はテーマの集中では『狂った果実』におよびませんが、太陽族映画から一歩踏み出してアウトローの主人公によるアクション映画に性格を進め、それにふさわしい映像スタイルを提示した功績が確かにある。本作の監督手腕はデビュー作相応に慎重な面もありますが、それも日活の同僚の中平康、桝田利雄ら同世代監督の大胆さに較べて本作を瑞々しい情感ある仕上がりにしていて、蔵原惟繕もすぐに一癖もふた癖もある監督になりますが、本作はまだ小品規模で瑕瑾も目立つとはいえ監督第1作ならではの愛らしさがあります。また全盛期初期の日活映画=石原裕次郎のステップアップの過程と着目して選ぶなら本作を起点として『錆びたナイフ』『赤い波止場』の3作で最短距離でたどれる点でも重要作であり、外国映画の翻案ぽさが意図せずしてフランスのヌーヴェル・ヴァーグと並行現象となっていたのを示す作品でもあります。また歌うアクション・スター、裕次郎の魅力を生かした構成は日活映画の歌謡映画としての大衆性の最大の強みとなったのものちの日活映画の路線を先んじたものです。

●5月2日(木)
舛田利雄(1927-)『錆びたナイフ』(日活'58.5.11)*90min, B&W : https://youtu.be/ta_up-NnOao (trailer)

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 舛田利雄はこの昭和33年('58年)1月の監督デビュー作『心と肉体の旅』から5月の本作で早くも3作目、11月の石原慎太郎原作で前年の映倫規定強化の原因になった『処刑の部屋』'57.6(大映・市川昆)を継ぐスキャンダラスな作品『完全な遊戯』(原作小説の中心である「知的障害者女性を監禁・輪姦する」設定は削られ、太陽族の破滅という内容に改められていますが)まで監督デビュー年だけで6作の監督作品を手がけますが、犯罪ミステリー・サスペンス(アクション)作は第3作のこの『錆びたナイフ』が初めてになります。前年の蔵原惟繕の監督デビュー作『俺は待ってるぜ』、本作から1作置いた舛田利雄の第4作『赤い波止場』(9月)とも物語や技法、ムードはデュヴィヴィエ、カルネら'30年代フランスの「詩的リアリズム」派にアメリカ戦後映画、黒澤明らの影響が強いものですが、アメリカの犯罪サスペンス映画=フィルム・ノワール(ヒューストン『マルタの鷹』'41を起点としウェルズ『黒い罠』'58までを区切りとする)を軸とした見方で『マルタの鷹』以前のギャング映画・探偵映画類をプレ・ノワールとし、フランス映画をフレンチ・ノワールとする視点ではこれらの日活映画はポスト・ノワール作品として再評価する欧米の批評家評価があり、アメリカの古典映画復刻レーベルCriterion社では2009年には『俺は待ってるぜ』『錆びたナイフ』ら5作の日活作品をまとめた『Nikkatsu Noir』、2011年には'60年代の蔵原惟繕の日活作品5作をまとめた『The Warped World of Koreyoshi Kurahara』のDVDボックスをリリースしており、昭和30年代まだフィルム・ノワールという評価基準は生まれていませんでしたが、フランスのヌーヴェル・ヴァーグ作品がアメリカ映画の摂取と従来型のフランス映画の革新から生んだ映画が偶然日活作品と似た作風になったように、官僚の腐敗を扱ったテーマとクライマックスの廃工場の対決の2点で本作は他でもない本場アメリカのフィルム・ノワールの終着点と目される『黒い罠』'58と似ているのも注目されます。しかも『黒い罠』はアメリカ公開'58年4月下旬、日本公開同年7月末ですから公開予告や原作小説があっても同年5月上旬公開の本作への直接影響は考えられないので、偶然に起こった着想や演出の類似としてもかたや怪物オーソン・ウェルズの主演・監督作、かたや監督デビュー年の新鋭監督の第3作ですから尋常ではありません。また本作は石原裕次郎に小林旭がいかにもチンピラ然とした弟分、すぐ殺されますが裕次郎と旭の仲間役に宍戸錠の日活ダイヤモンドラインの揃った作品であり、裕次郎の歌う主題歌が売り上げ180万枚を越える大ヒット曲のミリオンセラーになるという具合に、前年10月公開の主演作『俺は待ってるぜ』、1作置いた12月公開の主演作『嵐を呼ぶ男』で確立した歌う主題歌タフ・ガイ石原裕次郎の人気をさらに押し上げる作品になりました。本作の裕次郎はレイプ事件にあって自殺した恋人絡みで関係者を刺殺した前科のある、陰のあるバー経営者で、『俺は待ってるぜ』の仇役兄弟がグランドキャバレー経営者とガードマンのヤクザ兄弟だったように裕次郎、旭、錠は裏稼業の兄弟分なのが暗示されており、本作も密告、謀殺、強姦、自殺強要と陰惨なムードに満ちた内容です。舛田利雄の脚色が決定的に陰惨な事件は暗示に留めているので目立ちませんが、石原慎太郎という人自体がこうした陰謀を政治性=ヤクザの世界ととらえる感覚があり、もっとあとの石原慎太郎原案の松竹作品『乾いた花』'64(監督・篠田正浩)でもヤクザの賭博場面があきれるほど延々描かれますが、太陽族が権力志向になると政治権力とヤクザを同列のシンジケートに描くようになるのが透けて見えるようで、本作が際どい場所で成立しているのが改めて感じられる。本作はまだリアリズム作品の次元で登場人物たちが描かれているので、逆にそれが縛りとなって主人公の裕次郎は追究はしますが復讐の手はすんでのところで下さないことになっている。本作と9月公開の舛田=裕次郎作品『赤い波止場』を分けるのは微妙かつ大胆な匙加減によるリアリズムからの飛躍なので、本作はまだアメリカ流ギャング映画の変奏の次元で描かれている。ですから偶然アメリカ映画『黒い罠』との類似が起こったのはゆえなしとは言えません。本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ] 石原慎太郎の原作を、彼自身と舛田利雄が脚色、「夜霧の第二国道」の舛田利雄が監督、「佳人」の高村倉太郎が撮影したアクションドラマ。主演は「夜の牙」の石原裕次郎、「嵐を呼ぶ男(1957)」の北原三枝、「麻薬3号」の白木マリ、「夜の牙」の安井昌二。他に小林旭、清水将夫らが出演。
[ あらすじ ] さる新興の工業都市。勝又運輸の社長勝又(杉浦直樹)が、検察庁に召喚された。狩田検事(安井昌二)の鋭い追求も、後難を怖れた被害者と目撃者の沈黙の前には無力だった。その殺人事件はまたも迷宮入りとなった。が、五年前自殺した西田市会議長は他殺だという投書が届いた。投書の主、島原(宍戸錠)は目撃者として自分の他に橘(石原裕次郎)、寺田(小林旭)という二人の男を知らせてきた。しかし、島原は西下の途中、何者かに列車から突き落されて死んだ。橘は町はずれのバー・キャマラードの支配人だ。かつて、やくざであり、恋人のために人を殺した。前科者。彼は平凡な市民になることが念願だった。アナウンサーの啓子(北原三枝)がこのバーに遊びにきて、この男に惹かれた。彼女の許婚者は橘と学校友達で間野明(弘松三郎)といい、紳士として評判の高い市会の実力者間野真吾(清水将夫)の息子だ。啓子が持参した街頭録音のテープで、橘は五年前の自分の恋人が暴行された事件は大勢の男が関係していることを知った。寺田が彼にかくれて、勝又から金を貰い、ズべ公の由利(白木マリ)と遊び廻っていたことを知り、橘は寺田を怒鳴りつけた。寺田は兄貴の恋人暴行事件の張本人は勝又だと捨ぜりふして飛び出して行った。勝又は何者かから無線機による指令を受けていた。小僧ヲ整理シロ。寺田は勝又に死のトラックに乗せられたが、橘が追ってきて救った。橘が勝又を縛り上げ、検察庁に着いたとき、先に知らせにきた寺田は、どこからか飛来してきた銃弾に倒れた――護衛に高石刑事(高原駿雄)がいたのに。新聞は勝又の逮捕で町が明るくなるだろうと一斉に書きたてたが、勝又が差し入れの毒まんじゅうで自殺し、あっけない幕切になった。が、はたして、そうか。橘は勝又の後に黒幕がいることに気づいた。彼は警察の裏庭で高石刑事が怪しい男と連絡しているのを見た。彼はイヌだったのだ。橘は無線機を使って、黒幕の男を海岸におびきだした。啓子は無線機のその声に思い当り、間野邸の真吾の居間へ行き、そこに無線機を見た。間野が仕込杖で高石を殺した直後、橘は海岸に着き、間野を面罵した。乱闘。彼が錆びたナイフを振り上げた時、啓子が必死にとめた。間野は自分の子分の車にひかれて死んだ。危く罪を重ねかけた自分――橘は砂山をトボトボとたどった。啓子は狩田検事に励まされ、彼の後を追って行った。
 ――あらすじを一読してもあまり一貫した筋が追えないように、本作はまず石原裕次郎が登場するまでが長く、さらに事件の焦点が二転三転するため主人公は一体何をどんな行動原理で追究しているかわかりづらい、という難があります。すっきりしたシークエンス単位で進行していくのは小林旭が殺され、それまで主犯と思われた杉浦直樹が差し入れの毒饅頭で詰め腹の自殺を強要されたあたりからで、さらに黒幕がいるというのと主人公の恋人を自殺に追いやったレイプ事件が結びつくまでが伏線不足のまま次々と事件が起こるのでいったいどこに話が収斂していくのか予想し難い。『俺は待ってるぜ』があまり動かない筋で結末の爆発まで生硬な台詞劇が目立ったとすれば、本作は事件はふんだんな分話が割れないように迂回の連続で、宍戸錠が殺され、小林旭が殺され、杉浦直樹も自殺を強要されと、裕次郎と北原三枝のロマンスの進行とともに進んでいく展開は飽きさせませんが、『俺は待ってるぜ』同様ストーリーより各シーンの映像処理が勝っているので持っている映画とも見えます。舛田利雄の演出は蔵原惟繕とも違ったモダンさがあり、テンポの良さがワイドスクリーンの画格とともに陰惨なドラマを風通し良くしており、観たあと人にどういう話の映画だったか説明するには困るような込みいった展開のストーリーですが、裕次郎が仇の巨悪を追いつめて巨悪が自滅する話、と後半1/3で収束していく部分だけなら明快です。前半は宍戸錠→小林旭と狙われる主人公がバトンタッチしていく展開のため、前半での裕次郎は主役というよりヒロイン役の北原三枝との出会いを通じて、実は後半の伏線を担うヒロインをドラマに誘いこむ役なのですが、歌謡映画としてのムード作りとともに陰惨な真相のドラマをドライかつムーディーに見せていく監督手腕は脚色段階から発揮されているのが感じられ、30歳の新鋭監督にして技巧の冴えにはまだまだ飛躍の可能性が期待されます。俳優・石原裕次郎の人気の裾野の広さは青春ロマンス映画、ホームドラマ、芸能映画、正統派アクション映画と多彩に主演していていたことにもあったのですが、際立っていたのはやはり太陽族映画以降のアウトロー役の路線であり、実際、1作置いて次に舛田利雄が撮った『赤い波止場』は、蔵原惟繕の『俺は待ってるぜ』から本作『錆びたナイフ』を経て石原裕次郎主演のアウトロー映画として理想的な発展を遂げた完成型とも言えます。この3作を三部作と見ると前2作ではまだ外せなかったリアリズムの桎梏が『赤い波止場』でついに映画そのものを別次元の世界に展開して虚構世界の一貫性にリアリティの水準を移す達成があったと認められるので、以降裕次郎主演作の名作は、'61年の負傷事故によるブランクを経て日活専属最後の年に放った大ヒット作、蔵原惟繕の恋愛ロマンス作品『銀座の恋の物語』'62.3や『憎いあンちくしょう』'62.7でもリアリティの基準は『赤い波止場』と同様に現実の世相を映画的虚構の水準に巧みにずらしたものになっている。『錆びたナイフ』はその一歩手前にありますが、しかし来るべき発想の転換を予兆させる作品として、犯罪ミステリー・サスペンス・メロドラマの課題をトリッキーな構成で乗り切った難も魅力も多い映画です。しかし従来型のリアリズムによっては映画自体も裕次郎のアウトローとしてのキャラクターもこれが限界、と早くも臨界点を見せたと同時に犯罪映画の裕次郎作品は次には新たな段階へ進まずにはおれまい、と予感させるだけの本作ならではの危うさがあり、裕次郎みずから手を下さず仇役が自滅するあっけなさや都合の良さも『錆びたナイフ』の裕次郎の性格設定では順当で、シャープでスタイリッシュな映像と全編に漂う犯罪ムードともども本作ならではの魅力には支持者も多いと思われます。

●5月3日(金)
桝田利雄(1927-)『赤い波止場』(日活'58.9.23)*99min, B&W : https://youtu.be/JppZs7c9AIY (trailer)

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 舛田利雄の監督デビュー作『心と肉体の旅』'58.1は石原裕次郎主演作ながら残念にも未見のためどういう方向性の作品なのか文献から推察するだけでは無理があるのですが、同年2月の第2作『夜霧の第二国道』は50分弱の添え物用の小品ながら小林旭の初主演作品で、これが舛田利雄にとっても初の犯罪サスペンス・アクション映画になるそうです。チンピラの旭は姉御の女に騙され組から命を狙われて保険屋のフランク永井に救われる、というアンチ・ヒーロー的主人公で、続いて5月の『錆びたナイフ』でやはり命を狙われて今回は殺されてしまう裕次郎の弟分の役になる。公開は『錆びたナイフ』より先になる4月末の60分弱の中編『羽田発七時五〇分』は『錆びたナイフ』より後に完成した第4作に当たるそうで、フランク永井と岡田眞澄が主演の犯罪アクション映画です。第5作『赤い波止場』は石原裕次郎主演によるヒーロー型アウトロー映画の完成型と言える作品で、舛田利雄は昭和33年最後の『完全な遊戯』(11月)を経て翌昭和34年最初の『女を忘れろ』(1月)ではともに小林旭主演によるアンチ・ヒーロー型アウトロー映画で鮮やかな達成を見せることになります。蔵原惟繕の『俺は待ってるぜ』から舛田利雄の『錆びたナイフ』で、クライマックスの爆発までの長い長い抑圧では共通しながらも増幅されているのは強い疲労感と倦怠感であり、『俺は待ってるぜ』も『錆びたナイフ』も決定的なのは私怨による復讐心ですが、兄の行方を追ううちに兄がヤクザに殺された事実を知る『俺は待ってるぜ』より物語開始以前にレイプ事件により自殺に追いやられた恋人を持ち、さらに汚職絡みの謀殺を知る弟分が次々と殺されていく『錆びたナイフ』の主人公は警察内部にすら内通者がいて復讐と自衛のためにも自分自身が事件を決着させねばならない立場に追いこまれるので、石原裕次郎の主演ではヒーロー型の人物像に描かれたものがまだ頼りない小林旭の主演ではアンチ・ヒーロー型の人物像の主人公になるのも的確な描き分けでしょう。さて本作は、ポスト太陽族映画の俳優として『俺は待ってるぜ』でアウトロー型主人公による犯罪サスペンス・アクション映画に踏みこんだ石原裕次郎が『錆びたナイフ』を経て一気に完全なアウトローの主人公を演じた作品で、まず原作・脚本に石原慎太郎が関与せず池田一朗(のちの作家・隆慶一郎)と舛田利雄の共同脚本に無駄がなくアイディアと見せ場も豊富なら構成も巧妙と脚本段階で十分に練られた作品なのが感じられます。本作がジャン・ギャバン主演のジュリアン・デュヴィヴィエの『望郷』'37を下敷きにした一種の翻案なのは有名で、『望郷』が世界一愛されている国は日本なのも有名ですから日本版『望郷』の本作も大ヒット作となり、舛田利雄自身が本作を渡哲也主演の『紅の流れ星』'67.10にリメイクしているほどですが、本作もストレートな『望郷』の翻案に終わらず、『赤い波止場』の裕次郎はギャバンよりも、舛田利雄や池田一朗が意識していたかどうかわかりませんがラオール・ウォルシュの『死の谷』'49(昭和25年日本公開)のジョエル・マクリーの大列車強盗、それより『死の谷』のウォルシュ自身のオリジナルである『ハイ・シェラ』'41の銀行強盗のハンフリー・ボガート(同作は昭和63年まで日本未公開でしたが)を連想させるキャラクターになっている。ウォルシュ作品との親近性について言えば『錆びたナイフ』のクライマックスの廃工場はジェームズ・キャグニー主演の『白熱』'49(日本公開昭和27年)のクライマックスにも出てくるもので、『望郷』と本作で決定的なのは港町という背景での潜伏ですが、アメリカ映画からの摂取が本作を『望郷』の焼き直しではない戦後10年以上を経た新しさを感じさせる映画にしています。のっけからクレーン事故に見せかけたらしい殺人シーンで始まり、白いスーツで決めた裕次郎が平然と現場を通りかかる場面は本作公開後全国のヤクザの若い衆が一斉に白いスーツ姿で決めるようになったと言われる鮮やかな登場で、この神戸の港町に裕次郎が現れてからずっと裕次郎をマークしている刑事の大坂志郎(小津安二郎の『東京物語』'53の大坂の国鉄勤務の末弟役でお馴染み)ととぼけた会話を交わして笑い飛ばす。本作の裕次郎は東京の大きな組のNo.2格のヤクザで「レフトの二郎」と呼ばれるピストルの名手の殺し屋であり、身代わりの裁判が終わるまで神戸に身を潜めているのですが、やがて謎の殺し屋(土方弘)に狙われるようになり、神戸でできた弟分の岡田眞澄(どの文献でもDVDでも「タア坊」という役名なのですが、映画では「チーコ」ないし「チコ」と呼ばれています)も殺される。殺し屋を追いつめると実は組の兄貴分の二谷英明に差し向けられていたことがわかり、捕らえられていた岡田眞澄の恋人(清水まり子)が激昂して殺し屋を射殺したので裕次郎はその罪をかぶって二谷英明を訪ねて問い詰め、組の親分の危篤で次期組長の座を奪うため親分のお気に入りの裕次郎殺害を企てたのがわかる。そこから先は裕次郎は一直線にみずから仇敵を始末していく犯罪者となるのですが、その前に本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 神戸を舞台に、裕次郎がピストルの名手に扮して活躍するアクション・ドラマ。「明日を賭ける男」の池田一朗と舛田利雄の脚本を、「羽田発7時50分」の舛田利雄が監督、「星は何でも知っている」の姫田真佐久が撮影した。「風速40米」の石原裕次郎・北原三枝のコンビに、「明日を賭ける男」の中原早苗・岡田眞澄・大坂志郎、その他轟夕起子・二本柳寛・二谷英明・新人清水マリ子らが出演する。
[ あらすじ ] 神戸の桟橋で、杉田(弘松三郎)は落ちてくるクレーンの下敷きとなって死んだ。この麻薬売買のいざこざから過失と見せかけた殺人の現場に、偶然いあわせたのは通称左射ちの二郎こと富永二郎(石原裕次郎)だった。彼は東京で五人のヤクザをバラして神戸に流れついたのだ。今は松山組にワラジを脱いでいる。二郎の愛人マミー(中原早苗)が働くキャバレーの用心棒をしているタア坊(岡田眞澄)は、二郎を兄貴と呼んで慕っていた。死んだ杉田の妹・圭子(北原三枝)は、東京の大学をやめて、神戸へ帰って来た。二郎は圭子にひと目惚れした。彼の動静に絶えず眼を向けているのは、野呂刑事(大坂志郎)である。だがある晴れた日の桟橋には、二郎とタア坊と野呂の三人が並んで散歩している奇妙な風景が見られた。ところで、タア坊は今までの部屋を松山組の客人にとられて宿無しになった。その男は、土田(土方弘)という殺し屋だった。彼をさし向けたのは、神戸にやって来た東京藤田組の代貸・勝又(二谷英明)である。勝又は、藤田組の親分が世を去ると、二郎が東京にいるのを幸い、自分が親分におさまろうと考えたのだ。それには、目の上の瘤の二郎をバラす必要がある。折も折、タア坊が土田に殺された。恋人のミッチン(清水まり子)が土田に脅かされたので、果し合いを申しこみ、土田の拳銃に負けたのだ。二郎は土田がミッチンを閉じこめて暴行を働いている現場をつきとめ、土田の右手を狙って拳銃をたたき落した。ミッチンはその拳銃で土田のドテッ腹に撃ちこんだ。土田を失って逆上した勝又の挑戦を受け、勝又を殴り殺した二郎は、松山組の親分と幹部をも射殺、香港へ出航する手筈を整えた。が、二郎が圭子に惹かれていることを知る野呂は、圭子を囮にして、二郎をおびき寄せる計画をめぐらした。インチキ新聞を売収「港の暴挙、松山組杉田屋を襲う。圭子さん重傷、山手病院に収容」という記事を書かせてバラ撒かせたのだ。そして圭子を病院に軟禁、警戒の陣を布いた。二郎を乗せた車は、神戸港に向っていたが方向転換、病院の方角に走った。罠とは知りながらも、二郎は圭子の元気な顔をたしかめたかったのだ。圭子を窓ごしに見た二郎は、野呂刑事に素直に手を差し出した。
 ――本作ではついに石原裕次郎が意識的な犯罪者として描かれるのが『俺は待ってるぜ』『錆びたナイフ』を踏み越えた点であり、信頼していた兄貴分の二谷英明の裏切りを知って殴り殺した裕次郎はそのまま二谷の銃を奪い(自分のピストルは殺し屋の現場に清水まり子による殺害の身代わりのため証拠に置いてきたので)、組の幹部たちが集まっているバーに乗りこむと無言で全員を射殺します。キャバレーのママの轟夕起子の手配で香港への密航まで裕次郎は指名手配状態で潜伏しますが、この轟夕起子の役割は物わかりの良い世話焼きの年長者で『俺は待ってるぜ』の小杉勇の初老医師に相当し、本来裕次郎の立場の人間にとっては日和見の欺瞞的な人物なのが作劇上の都合とはいえ瑕となっています。また本作が『望郷』の翻案に終わらず鮮やかにヒーロー型アウトロー主人公の石原裕次郎を描いている名作としても『ハイ・シェラ』『死の谷』にはおよばないと思えるのはヒロイン像と犯罪サスペンス・アクション映画の中のロマンスの導入であり、本作の北原三枝は冒頭事故死に見せかけて殺された男の妹で、兄が死んだために東京から兄嫁の手伝いにレストランと港の荷揚げのため大学をやめて神戸に帰ってきており、兄の遺児に通りすがりの裕次郎がハーモニカで「青い目の人形」を吹いてやり、そのあとその少年を通して知り合います。実は男は麻薬密輸取引のもつれで裕次郎の組の者に殺されており、刑事は裕次郎と親しくなっていく北原に「あんたの知らない世界の男や」と忠告し、ついに殺人犯となって手配された裕次郎を誘い出す餌として刑事は偽の新聞記事で北原がヤクザに襲われ重傷入院中の報を流して裕次郎を誘い出します。実はキネマ旬報のあらすじの「二郎の愛人マミー(中原早苗)が働く(キャバレー)」という部分は筆者の加筆で、裕次郎が北原三枝に惚れてしまいつれなくされても、また抜き差しならない状況になっても裕次郎に惚れぬいていり中原早苗は裕次郎に尽くし、香港密航に同行するため待ちます。偽の新聞記事を見た裕次郎は夜の病院に忍びこみ、ここで素晴らしい横移動の長いカットがあり撮影の姫田真佐久カメラマンがのちの日活ロマンポルノでも見せた長回しの冴えが堪能できますが、本作も波の光が北原三枝の顔に揺らぐショットが効果的で、夜の病院の庭の照明効果ともども岩木保夫の照明、木村威夫の美術が光り、裕次郎がようやく見つけた北原の病室では北原が甥の少年にハーモニカでやはり「青い目の人形」を吹いている、という音楽的モチーフの活用は脚本由来としても音楽の鏑木創の仕事の的確さを示します。病院の門で待つ刑事の大坂志郎に中原早苗が「あの人は来なかった!」と訴え、大坂が病院の庭に踏みこんで裕次郎の後ろ姿に近づくと、晴ればれした顔でゆっくり振り向いた裕次郎に大坂が手錠をかけて映画は終わります。しみじみ余韻を残す結末ではあるけれど結局裕次郎の北原への純愛が罪を懺悔させる具合になっていて、追っ手に殺されるまで最後まで逃亡を諦めない『ハイ・シェラ』のボギー、『死の谷』のマクリーとは違う。また『ハイ・シェラ』ではアイダ・ルピノ、『死の谷』ではヴァージニア・メイヨがボギーやマクリーと対等かそれ以上に強い意志で共犯をまっとうするので、本作で言えば裕次郎が北原三枝への未練を断ち切り中原早苗と決死の逃避行に向かうとしたら、その場合は北原と中原の配役が逆になるか、北原は裕次郎を売る手助けをせず中原に代わって裕次郎と密航する決意をすることになりますが、真に目覚めたヒロインとして『ハイ・シェラ』『死の谷』に並ぶものになるとしてもヒロインを立てて際立ってしまうと裕次郎の位置は下がってしまうので(『ハイ・シェラ』『死の谷』はともにヒロインの方が配役では上です)、『赤い波止場』が石原裕次郎主演作として一貫するにはヒロインは従属的な役割にとどまるしかなかったとも言えます。しかし圧倒的な緊張感、苛烈な死生観、真の対等な関係から生まれる命がけの愛など『望郷』や『赤い波止場』はアウトロー映画として『ハイ・シェラ』『死の谷』ほど徹底していない、ロマンスすら男性優位型の発想でしかない不満もあるので、本作では刑事と裕次郎の会話で「神戸じゅうの女をメロメロにする気やんか?」「セックス・アピールってやつはどうしようもないんでね」と呑気な台詞がありますが、良くも悪くもそのナルシシズムが魅力でもあり限界でもあるのが石原裕次郎のアウトロー映画をヒーロー型の性格にとどめているとも言えそうです。

集成版『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』第三章

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 第三章。
 私が10歳で、私たちの町のラテン語学校に通っていた頃の体験から話を始めよう。当時のいろいろなものが私に向かって匂ってくる。暗い路地、明るい家や塔、時計の音、人の顔、住み心地のよい温かな快適さに満ちた部屋、秘密と幽霊に対する深い恐怖に満ちた部屋などが、心の内から痛みやおののきをもって私を揺り動かす。……もう片方の世界は生まれた家だった。いやそれはもっと狭いもので、実際は両親を含んでいるにすぎなかった。
 ラテン語学校?何の話?もっとわかりやすく話してくださいませんか?
 ……では10歳になり、ふるさとの町のラテン語学校に通っていた頃のある体験から、ぼくの話を始めることにしよう。あの頃のにおいが、どっとぼくに吹きつけてくる。何やかや、悲痛な思いと快いおののきで、ぼくを内からゆさぶるものがいろいろあるのだ。薄暗い横町もそうだし、明るい家や塔もそうだ。時計の音やさまざまな人の顔、ぬくぬくとして居心地のいい部屋も、おばけの出そうな、神秘に包まれた部屋もそうだ。……もう一方の世界は、父の家だった。といっても、もっと狭い世界で、本当はぼくの両親だけしか含んでいないのだ。
 そうですかあ、とミミィは言いながら、私もう一杯いいですかあ、とりんごサワーをダニエルに取ってこさせました。酔っ払いの繰り言には慣れていますし、えんえんひとり言をつぶやいているようなお客さんほど店には儲けになるのです。私こんどの休みにはどこか日帰りでのんびりしようと思ってるんですよ、お客さんどこかいい所知りませんかあ?
 しかし客は自分が10歳で、故郷のラテン語学校に通っていた頃云々という話題に執拗に固執して譲りませんでしたので、ミミィはトイレに立つふりをしてデイジーに接客を替わってもらいました。デイジーも自分の受け持っていたお客の相手に飽きて席を立っていたのです。客を替えれば少しは飽きずに接客もできますし、余分にお客にお金を使わせることもできますから、自分のお客に飽きてきた時はだいたいこういうふうにして入れ替わっているのです。
 ミミィがハローキティの双子の妹であるように、キャシーの姉のデイジーも妹にそっくりでした。もっともミミィたちがこねこなのに対して、デイジー姉妹はこうさぎという違いはあります。そしてミミィは、さきほどお店に来ていたうさぎの女の子たちはデイジー姉妹の友だちなのかな、と漠然と考えていました。


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 アギーはひと見知りで、仲間うちでつるんではいてもウインとバーバラとはミッフィーやメラニーを間にしてしかあんまり会話したことがありませんでしたが、ハローキティのお店を視察して戻ってからはバーバラとは何となく親しくなっているのに気づきました。化粧室は特に席は決まっておらず各自持参の化粧品箱をロッカーから出してくるのですが、ウインやメラニーはやたら手早いか入念か神経質なところがあり、たいがいはのろのろとやっているアギーは隣あわせると落ちつかないのです。のん気なバーバラもアギーと同じように感じているようでした。特に今日、敵情視察(?)から戻ってからは、クールなウインはいつも以上に人を寄せつけない雰囲気で、世話焼きのメラニーは捕まったら最後この先々の人生設計までこと細かにアドヴァイスされそうでした。
 つまりウインとメラニーは、ハローキティの店を覗いてきて内心の動揺が激しく、ふだん通りにふるまおうとしている分だけ身ぶりが大きくなっていると思われました。私は鈍いだけかもしれないけど、とアギーは思いました、バーバラがいつも通りなら私もそうしていよう。化粧室での仕事の支度はお掃除(仕事上がりは散らかしたまま帰ってしまうので)とお化粧ですが、鏡のついた化粧台は2席、化粧台が埋まっていたらテーブルに化粧箱を置いて箱の裏蓋の鏡でお化粧することになります。掃除との順番や席順は特に決まっていません。今はみんな外出から戻ってきて、耳に変装用のリボン(こねこに化けるならこれよ、とミッフィーが調べてきたのです)をつけたままでひじをついてテーブルを囲んでいました。
 飲み物持ってこようか、とウインが言いました、みんな好きなのを言ってよ。あ、私が行くよ、とメラニーが先に立ち上がったので、みんなはにんじんジュース、バーバラはりんごジュースにしました。飲み物を取りに行ったのがメラニーだったので、アギーは少しほっとしました。ウインが取りに行ったらアギーとバーバラはメラニーの餌食です。ウインはウインで威圧感を感じさせますが、ウインの無口は悪気があってのことではないはずです。メラニーも自分が飲み物を取りに立ったところで陰口をたたくほど度胸のある連中ではない、となめきっている面もあるのがわかりましたが、いない仲間の陰口など叩くのは誰しも後で嫌な気分になることでした。幸いメラニーはすぐに飲み物を持って戻ってきました。


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 ミッフィーちゃんは自分のカリスマ性があっさり一蹴されてしまったような屈辱を感じました。そんなのってないじゃない、と自信を喪失していく時の彼女は、確かに一介のナインチェにすぎませんでした。でもどうして彼女の方からお店をたたまなければならないのでしょう?もともと元祖と呼べるのはこちらの店の方なのです。肩身の狭い思いをするいわれなどひとつもないはずで、なるほどお客は減っているかもしれない、その分売り上げも落ちているのは認めないではない。しかしひところに較べればこれでも持ち直した方で、大人になったからと言って縁が切れるお客さんばかりではなくなってきた。戦場とはひとつのテーマパークなら、その中にはミッフィーのシマがあり、さきほど見てきたばかりのハローキティのシマがあり、たぶんあのビーグル犬のシマもあると思われました。二足歩行する犬、というだけであの犬は自分たちの同類らしき匂いがしました。二足歩行するねずみの王国、というのもきっと世の中にはあり、さすがにねずみまでが擬人化の対象になるとねずみをねずみと呼ぶことさえきわどい禁忌にもなり、犬ならば擬人化しなくともかなりの知性と協調性があるとされますから犬であることは問題にはなりません。ねことうさぎではかなり差別されていますが、帰巣本能のあるなしで差別するなら人間だって怪しいものです。一定の条件下なら帰巣本能がないとされる生物にすら帰巣本能は後天的に芽生えます、と断言してまずければ、起こり得る、と言い換えてもいいでしょう。それを言えば巣作りをする動物の範疇に入る以上、ねずみにも一定の人格を認めないと公平を欠くとも言えますが、たとえハローキティを認めざるを得ないとしても、また、あのビーグル犬とはかぶらないからいいや、という根拠のないカンが働くにせよ(もっとも、もし本当にビーグル犬だったとしたら本来狩猟犬ですから、近づくと命に関わりますが)、ねずみだけはどうしてもミッフィーの美意識を逆なでするのです。だとしたらハローキティはどうなんだろう?初めてお店を見てきたばかりですが、お客さんはといえばギラギラしたマッチョのグループにアジア人の幼稚園児と、何だかよくわからないものでした。そしてあの軍人きどりのビーグル犬です。もしあんな連中がうちの店に来たら、と思うとナインチェは想像しただけでもげっそりしました。しかしこれでは負けを認めたも同然です。


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 つぎの角を曲がると、まっすぐな二車線の対向車線の側に連なるように灰色の高い建物が建っているのが見えました。刑務所ですか、とキティちゃんが訊くと、運転手は女子校ですよ、と答えました。それなら私は何をさせられるんだろう、とキティちゃんは首をひねりました。徴用されて来はしたものの、どんな任務が与えられるのか、キティちゃんは知らされないままに連れて来られたのです。運転手ならそれを知っているかもしれない、と空港で迎えの車に乗った時には期待しましたが、ここまで来る途中にも空港乗務員、税関、窓口係員とおよそキティちゃんの徴用に伴う移動に関わった相手の誰もが軍事乗務とは知る様子はなく、さすがに最終目的地(と思われる乗り継ぎ地点)まで近づくにつれ、まるで雨ざらしの乗り逃げ放置自転車みたいな気分になるのでした。
 旅程の途中からキティちゃんにはもみ上げの長い中年男が随伴することになりました。私は警視庁の銭形と申します、と警部だというその男は帽子を取りもせずに名乗りました。私は護衛なんかいらないわ、とキティちゃんが言うと、護衛ではなく監視です、と銭形警部はむっつりと真面目くさりました。監視!ならばいっそう、なおのこと、従順に徴用に応じている自分が監視の対象にならねばならないのでしょうか?普通に考えれば、逃亡を企てる可能性のある相手でもなければ監視する必要はないはずです。ならばキティちゃんに対する監視はほとんど拘置押送と変わらず、これから待ち受けているのは徴用よりも懲罰、いっそ刑罰というような性質の処遇であると思われてくるのです。
 私はどこに連れて行かれるんですか、とキティちゃんはほぼ回答を諦めながら尋ねました。さあ、私はただ、あなたの監視だけが職務ですからな。警部は煙草に火をつけると、意地悪でしらばっくれているのではない、と釈明したいのか、お仲間も現地で合流するようですよ、それかが目的地のようです、と多少は詳しく教えてくれました。現地合流、とキティちゃんはおうむ返しに、それしか教えてもらえないんですか、と詰め寄りました。そんなの道徳的に許されることでしょうか。
 道徳はわかりませんな、と銭形警部は先端しか喫っていない煙草を乱暴にもみ消しました、それは私の職務にはない言葉です。あるのは法規だけです、それが唯一この世の中のすべてに公平な基準です。
 そして車はどうやら、目的地に着いた様子でした。


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 ミッフィーちゃんのようにあからさまに冷戦下に咲いたアイドルとは違い、ハローキティは東西情勢の指標を経済学に置くようになったプレ超国際高度資本主義の生まれでしたから、その本格的ブレイクもキティちゃん自身が体現し、予告していた無国籍性が大衆的消費活動に自然に浸透するまでほぼ20年あまりの歳月を要することになりました。つまり彼女は、それだけの長い間、銭形警部に監視されながら駅から駅への日々を強いられていたのです。もちろんキティちゃんとは個別のキャラクターというよりもひとつのコンセプトであり、いくらでも再生産可能なものでした。ハローキティの圧倒的な強みと不特定性はそこにあり、それゆえ彼女は誰よりも軽んじられ、にもかかわらず恐れられていたのです。いかなる時にも決して真実性のある実在にはならないという点で、ハローキティはミッフィーばかりか、ムーミン、スヌーピーその他もろもろの先人たちをおびやかしていました。キティちゃんは誰ともかぶることができるとともに誰ともかぶらないのです。
 唯一彼女が踏み込めなかった領域にあの夢の国があり、そこはねずみによって支配されていました。ねことねずみでは最初から相性も最悪なばかりか、あのねずみはねずみでありながらねずみではない、そして実在する、という強引な前提で笑顔を貼りつけていました。笑顔が彼の無表情であり、それがあのねずみをひときわ不気味な自信で満たしていました。おそらくあの自信こそが、ウンコにハエがたかるように夢の国へと人びとを惹きつけているのです。
 しかし20年もの待ち時間と言ったら!監視されているキティちゃんだけが唯一のハローキティではありませんから、彼女はあちこちで文房具になり、枕かばーになり、ぬいぐるみになり、食玩グッズになってきました。そのうち自分はいったい何をやりたいのかわからなくなってきたほどです。幼児のころに彼女を愛した女の子たちが母親になり、自分の娘にキティちゃん柄のお洋服を着せるようになるほど、すでに彼女は気づくとそこにいる存在でした。たぶんそうなるまでの時間として20年もの間、キティちゃんは待たされ続けていたのです。
 そうでも考えないとつじつまがあわないほどに、もう彼女は自分の措かれた状態に飽きあきしていました。あまりに長い待機は人の心を放下に向かわせますが、キティちゃんの心はむしろ鬱積で内圧が高まるばかりだったのです。


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 前向きに検討してみるわ、とミッフィーちゃんは苦しまぎれに返答しましたが、まさか身内から営業権を手離そうなんていう話が出てくるとは、とアトピー性疥癬でも診るような目つきでメラニーの表情を読み取ろうとしました。するとメラニーはさりげなく片手で自分の目もとを隠しましたが、見えている顔の下半分はどう見ても笑いをこらえているように見えました。わざとほくそ笑んでいる表情を、目だけ隠して見せつけているんだわ。だとしたら、いましがた口にしたばかりのことだって、いったい本当はどこまで本気なのかわからない。動揺させ、気落ちさせるようなことを言って反応を楽しんでいるのかもしれない。ひょっとしたらこれは一種の陽動で、こちらから何かボロが出るのを予想して揺さぶっているのかもしれない。かまをかけている、ってやつ。たちが悪いのは、この話がメラニー個人の考えなのか、メラニーが店のみんなの意見を代表して述べているのかもよくわからない、ということ。わざわざ1対1になる状況を作って話を持ち出してきたのも、その判別には役に立たない。
 強いてわかることと言えば、とミッフィーちゃんは考えました、他の子がいないサシになった場面でこの話を持ち出したこと自体にメラニーの狙いがあること。メラニーはこういう場合ぜったい彼女自身に有利な状況を選ぶに違いないけれど、二人きりの密談であることがミッフィーにとっても好都合だと暗に匂わせているのに違いない。つまりトップであるミッフィーの決断次第で最善の策が決まること、メラニーが相談相手になる以上それは独断ではないしミッフィー個人が利するためでもないこと。そういう風に誘導していく気なのに違いない、としか思えませんでした。
 ただしこれらはすべて正反対のやり口とも考えられるので、つまり左右どちらにもものごとが振れると予期される時に、本来の保守派が先に現状改革的な指向の強い選択肢を強く推してしまうという手口もあります。するとそれに対して本来の改革推進派の方が急進的な方策について慎重になりますから、保守派の方では改革案を修正するとともに本題からは隠蔽させていた別の目的の方も承認させてしまう。これもよくあるやり口で、しかも決着がつくまでいくらでも修正していけばいいのですからほぼ先手必勝の手口です。
 ならば素直に出るしかないでしょう。みんなの意見も聞かないと、とミッフィーちゃんは答えました。


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 今年のパインクレスト小学校のサマーキャンプは、とペニマン先生は言いました、戦場です。クラスのみんなは爆笑しました。パインクレスト小学校の先生はヴィトキェヴィッチ先生、リーブマン先生、オッターバーグ先生、シュルツ先生と冗談のきついユダヤ系の先生が揃っていますし、ペニマン先生はアフロ系とユダヤ系のハーフでその上ゲイと教育委員会でも人種差別撤廃のテストケースとして適性を注目されているような人ですから、生徒たちからの人気も高い先生でした。学校がもっと面白くなるのに異論はないからでもあるし、ペニマン先生のジョークは実際面白かったのです。
 はいはい、皆さん静かに、とペニマン先生は言いました、ここは笑うところではありませんから。ところで中沢くん、とペニマン先生は手前の席のロイを指して(その席に座っていればペニマン先生には「中沢くん」なのです。ちなみにクラスは自由席でしたので、ルーシーが「中沢くん」と呼ばれたこともありました)、戦場とはどういうところですか?中沢くんことロイは、これは普通に答えた方がいいのかな、と、利害を争って軍隊と軍隊が戦うところです、と答えました。では具体的には?それは連合国軍とドイツ軍とか、北軍と南軍とか。
 そうですね、それからアメリカとヴェトナム軍というのもありました。これはどこに利害があったんでしょうね?それからドイツ軍でもそうですが、戦争においては利害がはっきりしないのに戦っていると負けます。これは負けた時のことを考えずに戦ってしまうと負けるということでもあります。南北戦争などは負けても勝っても北軍の勝ちでした。私たちが今でも南軍を英雄視するのは外国の表現では判官びいきと言います。負けるとわかっているのに戦うのはロマンをそそりますからね。
 まあ小学生には難しい話は置いておいて、と先生は、サマーキャンプが戦場というのは本当です。理屈を理解するのは難しくても、現場の空気に触れる体験は貴重なものです。もちろん戦闘に参加するにはみなさんはまだ歳が若すぎますから、ちょうどおあつらえ向きの休戦地がありました。斬ったはったの戦闘は見学できませんが、休戦中で待機している人殺しから体験談がうんざりするほど聞けるでしょう。兵士どうしでは飽きあきした話でも、みなさんが教えを乞えば生い立ちから自慢話までうんざりするほどお話ししてくれるはずです。任意参加ですが、ぜひ出るように。


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 ではまずこれに乗ってみてください、とミッフィーちゃんの前に置かれたのは、人間ならば小学校低学年向けだろうと思われる自転車でした。ミッフィーちゃんはつま先立ちしてサドルになんとかつかまりましたが、足をかけてよじ登り、またぐことはできません。無理みたいですね、ではこれはどうでしょう。
 今度は一輪車でした。これなら高さを調節できますからね、と腰の高さ程度に座高を調節してもらい、でも私、一輪車なんて乗ったことないんですけど。そんなの気になさらずにいいんです、乗れなければ乗れないのも大事なことですから、と係官を名乗る女性は言い、ミッフィーちゃんをうながしました。なるほど、要するにデータを取りたいわけね、と合点はいきましたが、ミッフィーちゃんだってそんなふうに、まるで実験どうぶつのように扱われるのは、いくら子うさぎとはいえあまり気分の良いものではありません。
 乗りなさい、と係官の女性の口調が変わりました。しぶしぶミッフィーちゃんは、やあっ、と一輪車に乗ってみました。うまくまたげず、横むきですが、まるでパズルの破片がはまるように一輪車のサドルの上でミッフィーちゃんは微動だにしませんでした。カメラらしきシャッター音がしました。何で私、こんなことやらされているのかしら、と初めてミッフィーちゃんは思いました。
 では進んでみてください、と係官は言いますが、ミッフィーちゃんには一輪車の進め方が、わかりません。だいいち、足がペダルを踏んでいないのです。係官はミッフィーちゃんの困惑を察したか、体重を移動させてごらんなさい、と言ってきました。ミッフィーちゃんはそうしようとしましたが、体重どころかからだ全体がスライドしてしまい、サドルからころげ落ちてしまいました。
 痛ったーい、とミッフィーちゃんは大げさに声を上げました。ですが女性係官は意に介さず、では三輪車に乗ってください、三輪車なら乗れますよね?とミッフィーちゃんにだめ押ししました。三輪車ならミッフィーちゃんも乗ったことがあります。女性は三輪車を横に置きました。ミッフィーちゃんは横に置かれた三輪車をまたげませんでした。
 ではこれならどうでしょう、と係官は三輪車を真正面に向けました。乗れます。次に三輪車を後ろ向きにしてみました。乗れます。そうでしょう、と係官はうなずきました。これではっきり確認が取れました。あなたは、いつも平面のうさぎなのです。


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 キティちゃんは三輪車に乗りそこなうと、まだ試されるんだろうか、と思いました。いったい何を調べられているのかもわかりませんが、サーカスの入団試験ならキティちゃんには一輪車より他に向いた仕事があるはずです。たとえば、と言われても困りますが、向き不向きで言うなら絶対キティちゃんには向き不向きがあるはずです。
 では今度はモニターを観てください、と係官が言いました、まずこれから流れる4本のテレビアニメを観てください。観るだけですか?この装置を持って(とコントローラらしきものを渡され)意味のわからない画面だな、と思ったらボタンを押してください。知能テストだろうか?キティちゃんはちゃんとした説明がほしいと思いましたが、最初から拒否権もないのでは質問しても無駄と悟りました。テレビアニメは『俺様のハーレムが少しずつ崩壊してるかもしれないけどたぶん気のせいかもしれない(仮)』『背徳ロボ・サドカ☆マゾカ』『もんもんびより』『野球のプリンス様』と続きました。キティちゃんは正直にモニタリングすべきか迷いましたが、後で追及されてボロが出るとかえって面倒なので言われた通りにボタンを押すことにしました。つまり二時間弱ほどボタンを連打するはめになりました。
 なるほど、と係官、一応どういうアニメなのかはわかりましたか?キティちゃんは文章題なので困りましたが、ラノベ系青春ラブコメと、制御不能暴走巨大ロボットものと、四畳半日常萌えアニメと、学園スポーツボーイアイドルものだと思います。それだけわかれば大したものです、と係官、でもわからない画面ばかりだったんですね?画面というか……。ストーリーがわからない?それもあります、それに……。どこが面白いのかわからない?そうなんですが、そもそも……。誰が何をしているのかがわからない?はい、そうです。どういう場面かわからない画面ばかりです。
 あの、すいません、トイレに行かせてもらえませんか、とキティちゃんは申し出ました。面接もかなり長引いたので、係官は許可をくれ、廊下に出て場所を説明してくれました。簡単に言えばフロアの廊下は回廊状になっているから、一周すれば必ずある、ということです。戻ってくる道筋も同じです。はい、とキティちゃんは急がず歩き出しました。まだ用件は済んでいないとはいえ、中座すると緊張がどっ、とほぐれるようでした。ただし残念ながらトイレは和式だったのです。


  (30)

 自由参加のサマーキャンプとはいえパインクレスト小学校は公立校ですから、授業はすべて義務教育です。私立校ならレジャー授業もあり、必修科目ではないものもあるでしょうが、公立小学校の場合は欠席科目には何らかの理由が必要になるでしょう。宗教的信条の場合は信教の自由上詳細を明かす必要はないでしょうし、政治的な理由の場合でも不参加は認められるでしょうが、微妙な場合もあり得ます。たとえばご両親がフリーメーソンであるとか。成人であれば思想的理由というのもありでしょうが、小学生の場合お父さん・お母さんの思想的立場と児童教育の平等とは一応別にすべき、とする学校側の教育方針もあるのです。そうでなければ義務教育としての学校教育自体が無意味ということになります。
 あとは生徒自身の希望ですが、夏休みくらい学校のことを忘れてのんびり過ごしたい、という生徒だっているわけです。サマーキャンプに出る出ないでそう大したこともなければ、気乗りしない生徒は出なければいいだけです。が、戦場見学となるとあまりに大きな経験の差がつきすぎて、出ると出ないでは大人と子どもほどの差があるのは明らかでした。友だちづきあいとは別の次元で、純粋に社会勉強としてもそうです。それにこうした体験は、個人で負うには重すぎます。こうした行事は団体学習だからこそ咀嚼できる側面が大きいと、学校側も配慮しているでしょう。
 どう思う?とみんなはフランクリンのまわりに集まりました。なぜなら前回の非公式選挙で、生徒会非公式会長選にはフランクリンがプレジデントに選ばれたからです。ちなみに対抗候補はルーシーで、アフロ系生徒にしろ女の子にしろ、パインクレスト小学校裏プレジデントがアーリア系男子以外の決戦投票になったのは初めてでした。もっとも、選挙しなくてもフランクリンほどかしこい少年はおらず、強烈なリーダーシップなら(反リーダーシップ、破壊力、つまり事態を滅茶苦茶にするのも含めて)ルーシーに勝る少女はいなかったからです。
 そうだね、とフランクリンは慎重に言葉を選びました。サマーキャンプに出たい人を基準にするか、出ない人を基準にするかで意見をまとめた方がいいと思う。ぼく自身は、自由参加という学校側の建て前には抵抗がある。
 ならどうすんの?とルーシー、全員参加か全員不参加?サボタージュ突入ってわけね。パインクレスト小の叛乱!上手くいくかしら?
 第三章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2019年5月4~6日/蔵原惟繕(1927-2002)と日活映画の'57~'67年(2)

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 今回の3作中鈴木清順作品は米Criterion社のDVDボックス『Nikkatsu Noir』2009収録、蔵原惟繕の2作はやはり同社のDVDボックス『The Warped World of Koreyoshi Kurahara』2011で世界初DVD化されたもので、公開時もほとんど注目されず再上映の機会も少なく、従って言及されることもあまりなく、蔵原作品2作は公開当時もあっという間にスクリーンから消えたので幻の名作の評判が映画マニアの間で囁かれるようになるもやはりめったに再上映されないしDVD化もされないうちにアメリカの古典映画復刻レーベルから初DVD化されてしまったというもので、おそらく今後も日本で国内盤映像ソフト化される可能性は限りなく低いものです。日本映画に限らず本国より他国での方が再評価が進む例は映画では珍しくありませんが、大衆的なプログラム・ピクチャーの娯楽映画として製作・公開されたこれらの日活作品が意外な芸術的評価を欧米の映画批評家から受けているのも面白い現象で、古い日本映画への妙な先入観もなければ従来欧米に紹介されてきた日本の巨匠監督の作品とも違った作風が興味を惹き、また同時代の欧米諸国の映画との比較でも際立った特色が認められる、ということでしょう。蔵原惟繕?『南極物語』の?(これも今や40代以上の人の先入観になりますが)ということもなく観ればこれらの蔵原作品はまるでクロード・シャブロルみたいなので、溝口・小津・黒澤ら、また当初からヌーヴェル・ヴァーグとの対応を前提に紹介されていた大島渚や吉田喜重らとは違った意味で驚嘆の念を持って発見されたと思われます。なお、歴史的意義を鑑みこれら日活映画については初公開時のキネマ旬報の紹介文を引用させていただきました。

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●5月4日(土)
鈴木清順(1923-2017)『~13号待避線より~その護送車を狙え』(日活'60.1.27)*79min, B&W : https://youtu.be/Njj2m2E14cQ (Full Movie)

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 鈴木清順は松竹助監督から日活に移籍し本名・鈴木清太郎名義で昭和31年('56年)に歌謡映画『港の乾杯 勝利をわが手に』で監督デビュー、昭和33年('58年)の7作目『暗黒街の美女』から鈴木清順と改名するとともにアクション映画路線の作品が増え、昭和35年('60年)には14作目となる本作を筆頭に5作を監督します。監督自身がノンクレジットながら脚色にも関わるようになったのは本作前後からと言われており、本作の主演は水島道太郎(1912-1999)で、大映~松竹~新東宝~日活とキャリアを重ねてきたヴェテラン俳優ですが('61年よりフリー)、他でもない清順改名最初の作品『暗黒街の美女』でも主演しており、日活のアクション映画路線の中では石原裕次郎ら青年俳優よりも20歳以上年長の俳優(それまでもほとんどの出演作が時代劇)なのがかえって異彩を放っているので、二枚目ながら渋い中年俳優が主演を張る、それも不祥事の犯罪に巻きこまれた中年男の意地を賭けた越権行為に踏みこんでまでの名誉挽回というテーマで本作はアメリカのフィルム・ノワールの典型例(フリッツ・ラング『復讐は俺に任せろ』'53・日本公開昭和28年12月など)と同系列の作品なのが欧米の批評家の興味を惹いたのでしょう。ラング作品もそうですがアメリカには'50年代初頭から汚職警官や犯罪シンジケートを題材にしたドキュメンタリー調の推理小説のブームとその映画化があり、本作の原作者・島田一男も前後すぐ本格推理小説でデビューしながらいち早くドキュメンタリー調推理小説に移った人ですから、アメリカの新しい犯罪ミステリー映画の潮流に対応するものとして島田一男の原作に目をつけたのが本作の企画と思われますが、そこで面白い現象が起こってくる。ドキュメンタリー、すなわち実話調というのは全貌のはっきりしない謎を視点人物が追究していく具合に展開しますから全能の視点が排除されているところに真髄があり、本作のように主人公が手がかりとなる線を追ううちに次々と新たな事件に遭遇して一歩一歩真相に近づいていく話法になりますが、結末までたどり着いてみるとあちこちで解明されない謎や辻褄の合わない人物関係が残ってしまうことにもなります。視点人物が全能者ではなく視点が限定されているためにこうしたことが起こり、結末にいたっても主人公が完全に事件の全貌とその証拠を細部までつかめないために観客は描かれた出来事から背後の真相を推察するしかないのですが、これは実話調という設定による一種のイカサマであってアメリカのハードボイルド小説『大いなる眠り』'38、その映画化であるハワード・ホークスの『三つ数えろ』'46(日本公開昭和30年4月)でも当たり前のようにザコの殺人は犯人不明のままだったり動機が不明だったりする。ラングやホークスのような大監督になると映画のハッタリ性やイカサマ術を知りぬいているので堂々とこういうことをやるのですが、鈴木清順の本作が面白いのも島国的律儀さから大陸的ハッタリに映画が踏みこみつつあるからで、囚人移送車が襲撃され囚人が謎の暗殺を受け、護送担当の刑務官が懲戒処分を受けて捜査権もないのに面子をかけて保釈金を積んで出所した生き残りの囚人の足どりを追うと、水商売女性を売春婦としてアジア圏に人身売買(ポスターの「女体密輸」)する組織の存在とその組織内の抗争に巻きこまれるのが本作の大筋ですが、なぜ殺されたのか動機不明の殺人も続出すれば人身売買組織も一枚岩ではなく内部抗争していますから誰が味方で誰が敵か、内部抗争の実情も主人公視点では全貌がつかめません。原作がもともとこういう内容であっても、あるいはきちんと解明される原作であっても、映画ではそれをすっきりまとめるか波乱万丈のまま放り出すかは監督・脚本次第で、波乱万丈のままでいいじゃないかとプロデューサーのOKも出たのが本作ということになったのが鈴木清順の'60年代作品の大きな飛躍のきっかけになったのだとすれば80分弱の小品の本作は充実した面白さに満ちた映画で、裕次郎・旭・錠のダイヤモンド・ラインではなく中年俳優・水島道太郎の主演だからこその魅力がある。本作も公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 島田一男の原作を、「暗黒街の対決」の関沢新一が脚色し、「素っ裸の年令」の鈴木清順が監督したアクション・ドラマ。撮影は「おヤエの初恋先生」の峰重義。
[ あらすじ ] 護送車が襲われた。二人の囚人が即死し、犯人は逃亡した。死んだ囚人は冬吉(岩崎重野)と竜太(上野山功一)である。護送責任を問われた看守長の多門(水島道太郎)は、六カ月の停職命令を受けた。彼は犯人の追求に乗り出した。第一の手がかりは、車に乗っていた囚人の五郎(小沢昭一)だ。彼は保釈金をつんで出所していた。ストリッパーの恋人津奈子(白木マリ)と熱海にいた。多門も熱海に出向いた。津奈子とマリ(久木登紀子)が旅館でショーを開いている最中、マリが殺された。マリは死んだ竜太の姉だった。多門はストリッパーを斡旋している浜十組を訪れた。浜十(芦田伸介)は入院してい、娘の優子(渡辺美佐子)が現われた。美しく、好意的だった。五郎の車が崖から落ちた。現場には彼の鞄があった。――多門の下宿に、上京した優子がやって来た。優子の情熱を帯びた視線が多門にはまぶしかった。ある時、多門は一台のトラックを追跡したが、いつのまにか数人の男に囲まれていた。浜十の乾分赤堀(安部徹)もその中にいた。気がついたところは病院の一室だった。優子がいた。現場にいた彼女が、工場の非常サイレンを鳴らして救ってくれたのだ。五郎の死は偽装だった。現場にあったライターに、五郎の指紋が残っていたのだ。優子の部屋に現われた赤堀を多門は倒した。多門は五郎とその黒幕がいるという御殿場に優子と急いだ。――女体密輸の黒幕は、優子の父親の浜十だった。
 ――本作はいきなり囚人移送車襲撃から始まって、この囚人暗殺事件がないと担当刑務官の水島道太郎が事件の真相を追う主人公にならないから仕方ないのですが、どうも口封じのため殺されたらしいとしか動機がはっきりしない。同房だった囚人の小沢昭一はあとで偽装暗殺され実は人身売買組織の一員だったのが判明しますが、小沢昭一から洩れたのを恐れて殺されたのか組織の一員で裏切りを恐れて殺されたのかわからない。また小沢昭一の恋人のストリッパー役の白木マリの同僚ストリッパーが殺されますが、殺された囚人の妹であるとともにストリップ一座は人身売買組織の末端の水商売女性集めに従事していたらしいので、これも殺された動機がはっきりしないというか、主人公が白木マリを突きとめ妹の所在に感づきそうになったから殺され、またストリップ一座を管轄するヤクザの親分の娘の渡辺美佐子に水島道太郎が近づいたので渡辺美佐子まで狙われるほど内部抗争が激化したとしか思えないので、主人公が越権捜査(刑務官には警察権はありません)を始めたために一連の事件がドミノ倒しのように発生したというのが合理的解釈になるので、そう思うと本作は実にとんでもない話です。人身売買組織摘発にしても主人公には捜査権限がないので、ストリッパー殺害のあたりで地元熱海の警察に委ねるのが現実事件では限度と思われる。そこが実話と「実話調」の違いで、主人公があくまで黒幕の正体に迫るまで越権捜査を止めないがために事件は転がり続けるので、一つひとつの事件の真相や動機はますますはっきりしなくなる。組織の内部抗争と渡辺美佐子の関係も実ははっきりしないので、渡辺美佐子が水島に好意を見せ始めたので親分の娘でも危険視して渡辺を狙う一派が内部抗争を始めたように見える。そんな具合に辻褄合わせしようとすればするほど無理の連続を積み重ねて出来上がっているのが本作ですが、観ている最中には渋滞感はちっともなく事件また事件の連続なので、実は主人公視点の実話調を生かして全然リアリズムではないホラ話を観せられていたのに気づくのは観終えてしばらく経ってからです。鈴木清順の'60年代作品は傑作揃いですから本作が話題になることはめったにありませんし、以降の傑作と較べると本作はまだ助走段階でもありますが、全盛期の傑作からさかのぼってこの作品を観てもちゃんと納得のいく作風なのはさすがで、また本作の辻褄の合わなさも現実事件ではごく普通に起こり得ると思えば何ら作品の瑕にはならないのではないでしょうか。

●5月5日(日)
蔵原惟繕(1927-2002)『ある脅迫』(日活'60.3.23)*65min, B&W : https://youtu.be/vbQt82tWF5M (Fragment)

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 本作は併映用の中編映画のため公開当時ほとんど話題にならず観逃した観客も多く、再上映される機会も極端に少なく、わずかなマニアの間で幻の名作とされてきた作品で、現在でも国内では映像ソフト化されず往年の日活映画、蔵原惟繕監督作品特集でまれに上映されるのみですが、前書きのように米Criterion社の'60年代蔵原監督作品DVDボックスで世界初DVD化されており、古典映画の復刻に定評ある同社ですが渋いところに目をつけるものです。併映用作品だけあってまともなポスターが出回らなかったようですが、画像掲載した昇り風ロング・ポスターが地味に謳っているように本作は心理派スリラーの推理作家・多岐川恭(1920-1994)の直木賞受賞短編集『落ちる』'58のうち受賞対象になった3編(「落ちる」「ある脅迫」「笑う男」)から同題作品を映画化したもので、最初から中編映画用企画だったでしょうが主演が金子信雄と西村晃!と長編映画では考えられないキャスティングが小粒で辛い原作の映画化にぴったりはまっており、2本立て3本立ての新作公開が当たり前に行われていた、所有撮影所と専属スタッフ・俳優時代の日本映画ならでは可能だった、現代の感覚からすると(また当時のアメリカ映画でも)、インディー製作の地味な犯罪映画の小品佳作という雰囲気が漂う異色作になっています。華のあるスター映画の蔵原惟繕作品のイメージからすると本作の陰湿な心理スリラー路線はもっとも意外な一面が見られる作品として「幻の名作」は誇張としても一度観れば忘れられない緊迫感があり、あざとい技法を排している分65分の中編ノン・スター映画としても重く皮肉の効いた心理スリラー作品になっている。本作は同期生の友人で銀行の同僚ながら一方は絶好調の出世コースの金子信雄、一方はうだつの上がらない平社員の西村晃(しかも妹は金子の愛人)の立場が金子の致命的な失策を握った西村の脅迫によって力関係が逆転していく粘着質なドラマに心理スリラー要素があり、追い詰められて自社の銀行から強盗を計画する金子も西村の策略の手の内にあり、構成も緊密なら展開に逐一意外性に飛んだ逆転に次ぐ逆転がある。この路線で一家を築いてもおかしくない巧さがあり、蔵原作品としては傍系ですが本作のような地味ながら密度の高い心理スリラーをものした才気には華々しい著名作で名を残すこの監督の意外な側面を見る面白さがあり、しかも日本映画には本作のような心理スリラーは少ないと思うと独自の再評価がなされてしかるべき作品でしょう。本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ] 多岐川恭の原作を、川瀬治が脚色、「われらの時代」の蔵原惟繕が監督した推理映画。撮影は「~キャンパス110番より~学生野郎と娘たち」の山崎善弘。
[ あらすじ ] 北陸××銀行直江津支店次長滝田恭助(金子信雄)は、本店の業務部長に栄転することになった。彼の妻(小園蓉子)は頭取の娘で、このことも出世を早める原因らしかった。滝田の送別会で、一人離れて座っている男があった。中学時代に滝田と同級だった庶務係の中池(西村晃)だ。滝田の妻はもとはといえば中池の恋人だった。それを滝田が奪ってから彼の人生街道が開いたのだ――。宴会の帰途、滝田の前に立った男がある。ヤクザの熊木(草薙幸二郎)だ。滝田が女(白木マリ)を養うために印鑑を偽造、浮貸しをしている秘密を握っているのだ。三百万円よこせと脅迫した。そして、拳銃を渡して金庫破りをすすめた。ある夜、レインコートを着、ハンチングと黒いスカーフで顔を隠した滝田は、小使(浜村純)を縛って銀行へ押し入った。宿直の中池が帰って来た。滝田は拳銃をつきつけ、金庫の前に中池を引っ立てた。しかし、中池は滝田の正体を見破っていた。滝田は急に笑い出し、防犯週間だから銀行ギャングの予行演習を考えついたのだと言った。この場は何とかつくろったが、熊木が三百万円を待っている。二人は断崖の上でもみあい、足をすべらした熊木は悲鳴を残して落ちていった。翌日、滝田は中池に呼び止められた。中池は自分が熊木を使って脅迫させていたのだと言った。――妻や子と任地へ向う滝田は汽車に乗っていた。しかし、隅の方の席には中池が座っていた。「これからあんたの行くところへはどこまでもついて行く。銀行はやめたよ」と滝田を見上げて言うのだった。
 ――あらすじを知らない方が本作は意外な展開が楽しめ、さらにキネマ旬報のあらすじでは省略されている痛烈なオチで映画は締めくくられるのですが、何にしても同級生の出世男の金子信雄と万年平社員の西村晃という、性格俳優の名優ながら映画の主役には絵にならない二人のしがらみ劇を小品心理スリラーの佳作に仕上げた本作の企画は大したもので、原作自体も今ならテレビの2時間ドラマですらも地味すぎると判断されるような渋い話です。しかも舞台は新潟県直江津市(当時)の銀行の地方支店と、直江津市は現上越市で新潟県では由緒ある(「山椒大夫」の舞台!)町ですが都会派サスペンスでもない。また本作では脅迫が事件の焦点で、最初の脅迫者ともみ合いになり海岸の岩壁にずり落ちた脅迫者を金子信雄は見殺しにしますが、脅迫者殺害容疑がかかるわけではないので焦点が殺人に切り替わる展開でもありません。最大のサスペンスは金子信雄が脅迫者に強要され自分の銀行に夜間に強盗に入る場面で、金子は宿直の西村晃を飲み屋の座敷に誘い酔いつぶさせて浜村純(!)の小使一人の銀行に覆面とサングラスで押し入るのですが、サングラスを落として割ってしまう。しかも長いつきあいの西村晃が酔いつぶしたはずが宿直に遅れてやってくる。なおも強盗を遂行しようとするも西村に正体がバレてしまった金子は抜き打ちの防犯訓練だと誤魔化し、支店次長とは言え銀行側が金子の言い分を認めて称賛するのもサスペンスものならではの展開ですが、金子が訓示で当直の西村の遅刻を非難するのも皮肉なら結局脅迫者に渡す金を用意できなかった金子が脅迫者との格闘で脅迫者を断崖から落ちるのを見殺しにするのも悪夢めいていれば、ほっとしていいのか未必の故意の殺人の嫌疑を恐れることになるのか不安を抱えたまま栄転異動が迫る寸前に真の脅迫者が姿を現す悪夢の連続は、一つひとつの事件が不発に終わる地味な悪夢だけに逆に累積効果は大きく、犯罪映画が悪夢に接近した例としてアメリカのフィルム・ノワールの古典、エドガー・G・ウルマーの『恐怖のまわり道』'45やジャック・ターナーの『過去を逃れて』'47に近似しており、これらの犯罪らしい犯罪の起こらない悪夢的異色フィルム・ノワールの評価はアメリカ本国でも'80年代以降定着したもので『恐怖のまわり道』『過去を逃れて』(ともにアメリカ国立フィルム登録簿選定登録作品)とも日本劇場公開は映像ソフト発売に伴う2012年(平成24年)です。本作の世界初DVD化がアメリカ盤で2011年と思うと、『ある脅迫』はウルマーやターナーの作品を知らずに偶然作られた日本映画の突然変異的悪夢系フィルム・ノワールの佳作ということになり、それもメイン作品ではなく併映用中編、メイン作品にはなり得ない渋く地味な企画と渋く地味な性格俳優のW主演、しかも地方都市のごく限られた人物配置と舞台設定という具合に条件がそろったからこそ狙ったわけでもないのにアメリカのマイナーな低予算犯罪映画そっくりな佳作が生まれたと見られ、こういう映画があるから量産時代の日本映画は底が知れない。日活映画で蔵原惟繕監督作という先入観があってもなくても本作が今なお面白い映画として観るに値するゆえんです。なお本作の結び、オチというかサゲはご覧になる方によって是非が分かれるようなもので、蛇足と取るか見事などんでん返しと見るか、いずれにせよ観客を最後に煙に巻いて終わる結末(原作由来にせよ)には違いなく、これもあり(悪夢度アップ)なのではないでしょうか。

●5月6日(月)
蔵原惟繕(1927-2002)『狂熱の季節』(日活'60.9.3)*76min, B&W : https://youtu.be/-JXvrq0o1E8

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 本作も『南海の狼火(のろし)』(監督=山崎徳次郎、主演=小林旭・宍戸錠、81分・カラー)の併映作品で、小林旭主演作(「銀座旋風児」シリーズ5作に続く「流れ者」シリーズ6作の第4作)で宍戸錠とのコンビ主演作でもあり、カラーで尺も長いアクション映画の『南海の狼火』の方がどちらかと言えばメイン作品だったでしょうが、この頃の旭は「アクション・唄・コメディ」が三本柱で、旭と錠はのちにさらに強力な主演俳優として活躍します。またシリーズものの1作ですからプログラム・ピクチャーなので単独作品というよりシリーズのファンのための作品でもあります。実際注目されることになったのはこの『狂熱の季節』の方で、路線としては太陽族映画の系譜には違いないのですが、石原慎太郎に刺戟されて登場した推理小説畑のハードボイルド作家でも大藪春彦と並んで河野典生は傑出した小説家で、大藪春彦が文学性糞食らえで石原慎太郎を突き抜けたとすれば河野典生は石原慎太郎とは次元の違う圧倒的な文学的才能の持ち主で、戦後世代の感覚を突き放して描きだす客観的視点や客観性ゆえの徹底した認識と想像力がある。大藪がそれこそいわゆる中二病的想像力でスーパーマン的殺し屋の跋扈する世界を歌い上げたとすれば、河野は石原のように太陽族が芸能界・ヤクザ・政治と結びつくような権力志向はなく、太陽族が世相風俗的な流行現象には違いないながら戦争体験者までの世代と断絶した青年世代であることを、石原太陽族のような富裕階級の子息ならずともごくありふれた街の不良青年たちの生態に材をとって追究しており、これはほとんどドストエフスキーの『悪霊』1872のロシア青年層のアナーキズム流行の描出の小型版とも言える構想で、『悪霊』の場合背徳的な巨大な陰謀劇の背景がそういうものでしたが、単に不良少年(青年)映画としても本作は原作の意図を強烈に映画に生かすのに成功した、虫酸が走るほど嫌な映画になっている。本作は半年前の3月に日本公開されたばかりのゴダールの『勝手にしやがれ』'60の生硬な模倣ではないかと公開時に批評家の評価は低く、観客の一部からは松竹の大島渚、吉田喜重ら新人監督の作品と並んで支持されるも以降めったに上映されず(稀に'60年代日活映画、蔵原惟繕監督作特集などで上映されるのみ)、日本盤の映像ソフトも出ていませんし、BSやケーブルテレビなどでも差別用語の多用やあまりに反社会的内容のためまず放映できないと思われます。本作も米Criterion社の蔵原惟繕監督作ボックスで世界初DVD化されていますが、『ある脅迫(Intimidation)』『狂熱の季節(The Warped Ones)』に『憎いあンちくしょう(I Hate But Love)』'62、『黒い太陽(Black Sun)』'64、『愛の渇き(Thirst For Love)』'67の世界初DVD作品3作を含む5作品を収めた'60年代日活の蔵原惟繕監督作品のこのDVDボックスは『The Warped World Of Koreyoshi Kurahara』と本作の英題からタイトルが採られているのも興味深く、「狂熱」という言葉の訳にCrazyやCrashed、Heatedではなく「狂い歪んだ」ニュアンスであるWarpedを当てている。狂気や熱狂ではなく歪んでいるのであって、『ある脅迫』や本作、また他の蔵原作品も主人公や周囲の人間は常軌を逸した行動に走りますが狂気ではなく理性的に異常行動に出るので、歪んだという解釈は正当な訳語でしょう。本作の川内民夫(1938-2018)が演じる主人公・明は徹底したエゴイストで反社会的・反倫理的な青年ですがアウトローとしての目的や理想も持ちあわせないので、盗みや復讐のための強姦、売春幇助など平気でするし、その方が合理的と気づけば妊娠した恋人交換をレイプ相手のカップルに平気で持ちかける。裕次郎、旭、錠ら日活のヒーロー俳優がヒーロー型・アンチヒーロー型アウトローらしい理想像を体現していたのに対して本作の川内民夫は何のモラルも持ちあわせていないのが全盛期の太陽族映画と較べても際だっていて、シャブロルの『いとこ同志』'59やゴダールの『勝手にしやがれ』の主人公らでも何らかの勝手なダンディズムがあったのが、本作の川内民夫には微塵もありません。これを批評家が一蹴しごく一部の観客が強く支持したのも本作が当時(たぶん今も)あまりに挑発的な内容の作品だったからで、これも初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 河野典生の「狂熱のデュエット」を、「青年の樹(1960)」の山田信夫が脚色し、「ある脅迫」の蔵原惟繕が監督したもので、現代の若者たちを描く。撮影は「刑事物語 小さな目撃者」の間宮義雄。
[ あらすじ ] 二人の少年、明(川地民夫)と勝(郷英治)が少年鑑別所の門を出た。外は真夏だった。車を盗み出した二人は、ユキ(千代侑子)をさがして繁華街を飛ばした。ユキは外国人相手のパンパンで、明とは古いつき合いだった。白人を連れ立ったユキをみつけると、二人はホテルにパトカーを呼んだ。寸前、ユキは白人の財布を持って逃げ出した。その金で三人は海に向かった。海岸で明は一組のアベックに目をとめた。明を鑑別所に送り込んだ新聞記者の柏木(長門裕之)と恋人の文子(松本典子)だった。柏木を倒すと、明は文子を草むらの中で犯した。車を売った金で三人は安アパートを借りた。勝とユキは愛し合った。バーで明がビート・ジャズに酔っていると、文子が妊娠を知らせて来た。柏木の変らない愛情が苦しい、と文子は言った。勝は土地のやくざ、関東組に入った。ユキと世帯をもちたいからだった。文子は明に、柏木を汚してくれと頼んだ。傍のユキがニヤリと笑った。ユキは柏木を誘惑し、妊娠した。勝は怒らなかった。関東組の幹部になって楽をさせてやると慰めた。夜、明は文子のアトリエに入った。文子と柏木が帰って来た。精神的な平等を得た二人は幸福そうだった。明の姿を見た文子の心に、殺意が湧いた。事故を装って眠っている明をガス死させようとした。しかし二人の出ていった後、明は何事もなく目覚めた。明がアパートに帰ると、血だらけの勝がかけこんで来た。やくざのボスを殺して幹部になった、と叫びながら勝は死んだ。ユキは子供を始末することにした。明とユキが医者をたずねると、柏木と文子に会った。突然、明は青ざめる柏木にユキをおしつけ、文子を自分の方に引き寄せた。狂ったように笑う明とユキ、硬直したように立ちつくす柏木と文子、そのまんなかには、現代の虚無がビート・ジャズにのって吹きまくる。
 ――この作品は蔵原惟繕が脚本に山田信夫、撮影に間宮義雄を迎えたことでも画期的な意義があったもので、蔵原監督・山田脚本・間宮撮影のトリオは'62年の『銀座の恋の物語』(3月)、『憎いあンちくしょう』(7月)、『硝子のジョニー 野獣のように見えて』(9月)の3作を送り出すことになります。本作の続編と言うべきやはり河野典生原作による蔵原監督・山田脚本の『黒い太陽』'64.4は川内民夫が再びジャズ狂の「明」として登場し、『狂熱の季節』では在日黒人兵役のチョイ役だったチコ・ローランドとともに主演する幻滅とディスコミニュケーションの逃亡劇ですが、撮影は金子満司に代わっている。『黒い太陽』も見所の多い作品ですが川内民夫の「明」のキャラクターが下敷きなだけに『狂熱の季節』を先に観るのが順当ですし、『狂熱の季節』の時代の最先端を行くタイトルデザイン処理、圧倒的な美術、シャープな構図やB&W映像の露出の妙(特に逆光処理の腕前)、手持ちカメラ撮影の素晴らしさなど間宮カメラマンの成果の上に『黒い太陽』の映像もあるので、原作者からの意見もあったでしょうが昭和35年の日本の黒人ジャズのリスナーの感覚を正確にとらえている。ラップやヒップホップどころではないやばい音楽だったのが伝わってくる。石原裕次郎を発掘した水の江滝子(1915-2009)は太陽族映画の生みの親でもあるすごいプロデューサーでしたが、さすがに本作や『黒い太陽』など太陽族映画の究極型といえる作品は別のプロデューサーがついている。裕次郎も本格的なジャズ歌手の才能がありましたが、本作が数年前に作られていたとしても裕次郎主演の企画にはまずならなかったでしょう。しかし『狂った果実』の裕次郎が正統に発展したら本作になる可能性は十分にあったので、本作は川内民夫という共感しづらいキャラクターを演じて光る主演のためにマイナーな作品の宿命がつきまとい、さらにあまりに感覚的に反市民性の領域に踏みこんでしまったためにまともに観客の不快感を刺戟する映画になっており、主人公の行動原理に観客がついて行けないため映画全体が散漫に見えかねない、という不利も抱えています。松竹の大島渚や吉田喜重らは極度に方法的な自覚や反ヒューマニズム意識があったので、観客を市民的な共感に誘いながら市民的倫理の欺瞞の攻撃にまわる、強靭な論理性がありました。本作と同年の大島の『青春残酷物語』(6月)や『日本の夜と霧』(10月)、吉田の『ろくでなし』(7月)や『血は渇いてる』(10月)はフランスのヌーヴェル・ヴァーグへの明確な回答で、フランス映画には感覚はあっても論理や思想性は欠落しているではないかと日本のインテリ監督(大島・吉田は東西の日本の国立大学の主席卒業者でした)が反撃したものです。しかしあからさまな背徳性を許容する主人公の無軌道な行動をひたすら感覚だけ、しかも観客がまるで共感できない主人公の視点から徹底的に一貫して描いた本作は破壊力にかけては内外に匹敵する同時期の映画が見当たらないほどで、『ある脅迫』本作と連続する蔵原惟繕作品を観ると資質・指向性ともに'60年の2作『気のいい女たち』『伊達男たち』以降のクロード・シャブロルが真っ先に思い浮かびます。蔵原惟繕の食えないところは翌年には『破れかぶれ』『この若さある限り』『海の勝負師』『嵐を突っ切るジェット機』とあっけらかんと青春・アクション映画に戻ってしまうところで、さらに昭和32年('62年)には『銀座の恋の物語』『憎いあンちくしょう』『硝子のジョニー 野獣のように見えて』とメロドラマにもアクション映画にも傑作を連発する(『何か面白いことはないか』'63、『執炎』'64、『黒い太陽』'64と続きますからさらにややこしくなりますが)。ただし山田信夫脚本だけはある反骨精神がそれらメロドラマ作品にも筋を通していて、シャブロルには『銀座の恋の物語』や『憎いあンちくしょう』は撮れまいと思うと、以降も嫌みな映画を作り続けたシャブロルと照らして才能の生かし方というのが考えさせられる。やがて蔵原惟繕は『キタキツネ物語』'78や『南極物語』'83に行きつくので、『狂熱の季節』の監督だったこと自体が偶然だったように見えてしまうのです。

集成版『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』第四章

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 第四章。
 いけない、エゴサーチを済ませておかなくちゃ、とミッフィーちゃんははたと思い出しました。毎日の仕事の前にはそれを済ませておかないと、彼女は落ちつかないのです。ただし自分でやるのは面倒なので、職務上は部下である友人や妹にやらせるのはミッフィーちゃんもキティちゃんも同じでした。エゴサーチとは?

[エゴサーチ]
 エゴサーチ(egosearching)とは、インターネット上で、自分の本名やハンドルネーム、運営しているサイト名やブログ名で検索して自分自身の評価を確認する行為のことである。エゴサーフィン(egosurfing)ともいう。
(概要)
 自分の知らないところで個人情報が書かれていたり、また、誹謗・中傷されている場合があり、それを発見するためにも定期的にしておいたほうがいい行為とされる一方、インターネット依存症の症例の一つとされる。(日本語版ウィキペディアより)

 というものでございます。ある調査では、エゴサーチを行ったことのある6割弱の人が自分についての情報を発見した、とあります。ただし、エゴサーチをしようと思うほどインターネット環境に浸っている人であればそれだけ自分から自己の情報をたれ流している割合も高いわけで、風俗通いが多い男性ほど性病罹患率が高いのと事情は大差ありません。それはさておき、ミッフィーちゃんやキティちゃんがエゴサーチをやりだしたらどういうことになるか。膨大なヒット数の中から更新分、初出分をチェックするだけでも24時間寝ずの番で交替しながらこなしでもしなければ(それをしてでも)間に合わないくらいなので、ミッフィー部屋の仲間たちもキティちゃん部屋の仲間たちも適当に観ているふりだけで適当な報告をしてお茶をにごしていました。もしきちんと命令どおりにお嬢さまのエゴサーチを代行しようものなら、それこそネット依存症に拍車をかけかねないでしょう。時には上司に代わって怠けてあげるけらいも必要なのです。本当かよ。
 そういう具合にしてミッフィーちゃんたちは仲良くやっていましたし、これからも仲良くやっていく定めでした。たまには誰でも今ある自分以外の生き方に憧れたりするものですが、そう望めば望むほど自分以外の自分にはなれないと気づくのは人でもうさぎでも同じです。またはねこ、はたまたビーグル犬でも。もっともスヌーピーが本気で自分以外の存在になりたいなどと考えるとは思えませんが。


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 そんな具合に敵視している者どうしがだんだん似てくる現象はこんな休戦場でもあるもので、だんだんどころかチェブラーシカから見ればうさぎとこねこ以外にどう違うんだろう、というくらいにミッフィーちゃんとキティちゃんは似たり寄ったりに見えました。強いて言えば小市民度でしょうか?しかしチェブラーシカは小市民ぽさについては誇張されたイメージしか持っていないので、いじわるおばあさんのシャパクリャックさんに教わった知識しかありませんでした。シャパクリャックさんは若い頃はアメリカでスパイ活動をしていて、今ではFBIから、バットマンの自動車のタイヤをパンクさせ、バッグス・バニーのにんじんに農薬をかけて駄目にし、ミッキーマウスのしっぽに空き缶をゆわえつけた容疑で国際指名手配されて再入国できないのです。少なくとも本人はそう言って、毎週のようにチェブラーシカとわにのゲーナにミッフィーちゃんのお店から、やみ酒をたんまり買ってこさせるのでした。
 持ち帰りで、とチェブラーシカが空の一升瓶を1ダース、ゲーナが曳いてきた荷車から取り出すと、お家の人はよくめしあがるのね、とアギーは空き瓶をバーバラにリレーしながら不思議そうに言いました。チェブラーシカはお酒は飲むもんじゃないよ、とシャパクリャックおばあさんが言っているのを打ち明けてしまいそうになりましたが(飲むもんじゃないよ、闇で売ってボロ儲けするもんだよ)、あやういところで口外せずに済みました。ゲーナがくしゃみをしたからです。チェブラーシカは慣れっこですが、近くでわにがくしゃみをして黙りこまないいきものはいません。
 いつものように力のあるゲーナが荷車を曳き、チェブラーシカは足元を注意して小石をどけたり方向を示したりしながら帰り道につきました。もう一軒あるお店の前を通りかかると、あれは?犬小屋に見えるよ。犬小屋が二足歩行して見えるのは、どうやら底に穴があって、犬小屋をかぶった犬が歩いている様子でした。いっしょに数人の少年少女たちも歩いてきました。ぼくらには気づかないみたいだね、ゲーナはあの人たち知ってる?うむ、向こうの人たちだろうな。帝国主義の犬?今はそうは言わんのだよ、とゲーナはわにのにが笑いを浮かべ、彼らはこの店から出てきたな。われわれもあまり同じ店からばかり仕入れていると足がつくかもしれないな。そうかなあ、とひと見知りのチェブラーシカは思いました。


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 ところでなぜチェブラーシカがやみ酒を買いにここまで出向いてくるのかというと、チェブラーシカの住む町では未成年がお酒を買うと売ったお店も50万円以下の罰金に処せられるから売ってもらえないのです。なぜそんな罰則があるかというと、たばこ同様依存性が強いお酒は常に高い消費が見込めて高い税率でも売れるので安定した売り上げ税収が見込め、それには摂取によってトラブルをおこしやすい未成年者には販売を禁止して成年の飲酒人口を保つ必要があるためで、国家によるアルコール飲料や向精神効果のある薬物認可の独占化は国家に利益をもたらし、国家の利益=国民の利益という錯覚の浸透により経済の独占も人権の制限も、または人権の蹂躙さえ(他人事ならば)人民の支持を得る実例があります。誰しも法に不正はないと思うことで法により保護されている側にいると安心したくもあり、人民が国家にいつでも個人をひねり潰す強権を与えているのは、自分は蹂躙されない側にいる、と盲信しているからでもあります。
 そしてチェブラーシカがわざわざこの休戦地までやみ酒を買いに来るのは、ここがやみ物資特区だからと決まっていました。だいたいうちに来るお客さんは、とミッフィーちゃん、ワザとかかけひきとか、そうしたものがちょっと足りないわよね。持ち帰りの客は店内では飲んでいられない理由があるからで、当然店内価格も知りませんから、ミッフィーちゃんはアギーたちに持ち帰りの客に出す酒は水で薄めて、しかも店内価格よりも3倍あまりの売価で販売させていました。それでも気づいているのか気づかないのか、粗悪な水割りやみ酒を言い値で買っていくチェブラーシカらはいいカモでした。まったく、ありがたいカモでしたが(アギーたちは時たま罪悪感を抱くこともありましたが、うさぎだからすぐ忘れてしまうのです)、チェブラーシカとゲーナもシャパクリャクおばあさんにはさらに3倍に水で割り、差額をせしめているのです。でもシャパクリャクおばあさんは当然それには気づいていて、本来のアルコール度に濃縮してやみ市場で目玉の飛び出る値段で売りさばいていましたから、結局全員に利益がゆきわたることになります。シャパクリャクおばあさんから買った客だって業務用に使用、または転売してボロもうけしているに決まっているのですし、あからさまなねずみ講よりはやみ取引の限度に控えているだけ独占資本主義よりはましでした。


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 スヌーピーは戦場、正しくは休戦中の中立地帯の夜空を、犬小屋の屋根の上であお向けになりながらのんびり眺めました。夜空の星はきれいでした。ただし今はもう眠るためにコンタクトレンズを外しているのでひとつひとつの星のつぶを見分けることはできません。あれら星の光がここにいる自分とは数万年前を隔てて見えていると考えると、スヌーピーはなんだか気が遠くなりそうでした。スヌーピーは以前に較べればずっと謙虚になり、自己顕示欲も落ち着いてきたので、太陽系より広くまで自分の名声が届かなくても仕方ない、と思うようになってきました。たぶんエルヴィスよりはちょっと上、くらいでがまんしなければなりません。それでもスヌーピーは、あのネズミーランドにいる連中よりは自分のキャラクターはインテリジェントだという自信がありました。それについてはキティちゃんからも賛同を得ており、スヌーピーは本来ねこなど天敵のように思っていましたが自分の賛美者であれば別です。
 ウッドストックはスヌーピーのお腹の上ですでに他愛もなく眠っていました。昼寝ならともかく、夜にはちゃんと木の枝につかまって寝ないと本能が低下してしまうと、普段はスヌーピーは夜にはお腹の上は禁じているのです。しかしうっかり眠りこませてしまったのを起こすのも悪いので、今夜は特別に許すことにしました。スヌーピーはといえば、閉所恐怖症なので犬小屋の屋根の上で寝ますが(雨の日は犬小屋ごとブラウン家の中に入れてもらいます)、鳥の足と同じように耳の筋肉が収縮するので犬小屋から落ちないのです。スヌーピーはまたぼんやり見える星ぼしにまなざしを向けて、今あの星の群れは昼なのだろうか、夜なのだろうか、それを自分は見分くることができるのだろうか、と思いました。
 もちろんそれはできます。スヌーピーになれないものはなく探偵王から射撃王、撃墜王から天才外科医、大預言者にして大作家、酒豪から性豪にだってなれるのですから、天才天文学者にだってその気になればなれるのです。ただ、天体の気象まで観測できるとなると世間はその才能をギャンブルや軍事戦略に悪用するでしょう。だからスヌーピーは能ある鷹のたとえ通りにあまたある才能を隠しているのです。
 ですがこの休戦地にいると、スヌーピーは無用な功名心に駆られるような気がしてくるのでした。いけないと思いつつ、何か自分が活躍できるような気がしてくるのです。


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 飲む・打つ・買うは当たり前の猛者どもが普段の客層なのはミッフィーちゃんのお店もハローキティのお店も事情は変わりませんでした。当然ミッフィーちゃんのディヴィジョン♯1もハローキティのディヴィジョン♯2もそれに見あったサーヴィスを提供していました。慰安施設、しかも戦地派遣といえば、いつの時代も売防法特区と決まっています。
 波のある売り上げに較べれば優遇された固定給(軍務の上に年金の加算も込み、従軍中は保険も負担されています)につられてミッフィーちゃんもハローキティも仲間を呼び寄せて酌婦となりましたが、仲間にはアイドルユニットみたいなものだから、と大嘘をついて引き込んだのでした。こうさぎ・こねことはいえ、友だちを騙してまで水商売に引きこんでいいのでしょうか、というと水商売を悪く言うようですが、問題は水商売だからではなく嘘勧誘したことにあります。もっともアイドルユニットだって広義の水商売ではありますし、キャバクラのショータイムなどを思えば水商売の方こそアイドルユニットの生みの親だと理屈はこねられないでもなく、それにミッフィーちゃんやハローキティの行くところミッフィー組、キティ組の構成員(と言うとヤクザみたいで怖いですが)は着いてこないわけにはいきません。
 そこで飲む・打つ・買うが目当てのお客さんを接客するわけですが、飲むのは客のおごりですから店の女の子は高いカクテルを頼んで、実はただのノン・アルコールのジュースをがぶかぶ飲んで売り上げを上げていました。打つ方は店内ではまずいので、バイヤーさんとお客さんは外で取り引きしてもらいます。買うというのについては、買うのはお客さんでお店は売る側です。売防法特区なのは休戦中とはいえ、ここは戦地には違いないからです。一応それなりに法的な抜け穴はあり、動物とは器物扱いですからたとえばスヌーピーを絞殺しても刑事罰では損壊罪・賠償金5ドルで済み、チャーリーが精神的苦痛の賠償を求めるには民事訴訟を起こさねばなりません。
 スヌーピーは別として、売る方はミッフィーやキティ自身は相手になれないので、電話一本で飛んでくる人間のアルバイトを多数抱えておりました。いわゆる女衒の役どころです。しかし彼女ら自身はそれに十分納得していませんでした。自分たちはなぜもっとセクシーと言われないのか、ミッフィーもキティも不満でした。そんなところまで二人は似ておりました。


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 きゃあ、とネネちゃんは頭に座布団をかぶって悲鳴を上げました。空襲警報だわ、早く荷物をまとめて避難の支度をしなきゃ。ほら、昨日の残り物をお弁当箱に詰めて。ぼくがやるの?とマサオくん。そうよ、パパとおじさんは荷物をまとめてるでしょ。ぼくたちのこと?と風間くん。ボー、とボーちゃん。オラがお弁当詰めてもいいゾ、としんちゃんがおしりに器用に箸をはさんでケツだけ星人の踊りを踊りながらカニ歩きしてきました。なによ!そうだよしんのすけ、汚いなあ。オラのおケツもお箸も汚くないゾ、としんちゃんは巧みに箸を開閉させながら風間くんの耳たぶをつまむと、おならをスーッと吹きかけました。ああああ……と風間くんは弱点の耳を攻められ、しかも強烈に臭いすかしっ屁にへなへなと座りこみました。
 ちょっとお、しんちゃん、真面目にやってよ!リアルおままごとにならないじゃない!とネネちゃんは怒りますが、男の子たちにしてみればネネちゃんのリアルおままごとにつきあわされるのとしんちゃんの悪ふざけにつきあうのでは大差ないのです。むしろネネちゃんにあれこれ指図され、そればかりか自分たちから気をきかせたリアクションをしなければならないリアルおままごとの方が面倒くさいと言えるでしょう。どちらがイノセントかといえば、オトナの真似をしてふざけたがるとはいえしんのすけがイノセントなのに疑いはありません。
 あっ、雪だゾ、としんのすけが言えば、今は夏なのに本当に雪は降っているのです。ネネちゃんが同じことを言ってもそれは単にリアルおままごとの中の設定です。あっ、雪だゾ。風間くんとマサオくんは空を見上げ、手のひらをかざしましたが、雪は降ってきませんでした。ホントだ、とボーちゃんが空を見上げると、ようやくみんなは自分たちに雪が降っているのに気づきました。戦場っていうのはいろんなことが起こるんだね、と風間くんは感慨ひとしおでした。積もるのかな、とマサオくん、ぼく冬の服持ってきてないよ。心配ない、とボーちゃん、雪が降っても夏は夏だから。そうかしらねえ、と不満げに、ネネちゃん。
 しんのすけ、いつまでも尻出してると風邪ひくぞ、と風間くん。おっ、常識あふれるオトナの発言ですナ。まだ5歳だよ、と風間くんが返すと、それはわかってるゾ、としんちゃんはズボンも脱がさずに風間くんの魔法少女もえPのパンツを抜き取っていました。しんのすけはその技を最近覚えたのです。


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 その夜ミッフィーちゃんはなかなか寝つけず、ハローキティの店をみんなで偵察にいったことからメラニーが急にお店を畳もうと言い出したことまでを、順番もばらばらに思い出していました。そうして思い出しているうちに、ハローキティの店の偵察もこれが初めてではなく、従って(それと因果関係があるのだとしたら)メラニーから水商売から足を洗おうと言われたのも最初ではないような気がしてきました。だってミッフィーちゃんはうさぎだし、うさぎは忘れっぽいからです。
 ぞうは決してものごとを忘れないといいますが、あれだけ図体もでかければそれもありかもしれません。でもミッフィーちゃんたちのようなこうさぎがいちいち記憶を貯めこんでいたら頭がはじけてしまいます。もしぞうのお客さんが来たら、とミッフィーちゃんは思い、さぞかしノリが合わないだろうとゾッとしました。ミッフィーたちののん気な接客に怒って暴れ出すかもしれません。暴れたぞうは店を見わたすと、まず気の弱いアギーを踏み殺します。アギーは一瞬何が起こったのか理解しようとして思いつくことを口にしようとしますが、ことばを発する前に踏み殺されてしまうのです。
 それからぞうはどしどしと歩いて来ると、くまのくせにうさぎのノリになじんでいるのん気なバーバラに腹を立てて踏み殺します。バーバラはきっとよくわからないまま圧死してしまうのですが、うっかりメラニーと目を合わせてしまったのが次の犠牲者を決めました。私の順なんておかしいわ、と思いながらメラニーは、ひょっとしたら残ったやつの陰謀かもしれない、と思います。でも残っているのはミッフィーとウインしかいません。
 違うわメラニー、とミッフィーは呼びかけようとしますが、間にあいません。ウインはカウンター席に、ミッフィーはカウンターの中にいました。この順序ならウインからだわ、とミッフィーのxの口が*になりました。ウインはいつも大概は冷静で、殺気立ったぞうが迫ってきても表情ひとつ変わりません。
 そしてウインがふっ、とミッフィーの方を向くと、ぞうもつられてミッフィーに向き直ります。えっ、と思う間もなくミッフィーの頭上にぞうの大きな足の裏がハンマーのようにふりかぶり、まさか自分がぞうに踏まれて死ぬなんて、仲間たちが次々先に殺られても実感もないまま、こんなの嫌ーっ!とミッフィーちゃんは思いました。こんなことを考えていては、寝つけません。


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 メデューサの髪は生きている蛇で、彼女の顔を見ると呪いで石に変えられてしまうといいますが、キティちゃんにはそんな恐ろしい髪は生えていませんでした。生えているのはねこのひげで(ねこだから女の子だってひげはあります)、そのひげの一本いっぽんは実は個体をなすワームなのでした。これら群棲するワームはいつもはありきたりな細さの、寄生しているねこの頭の幅に縮小していましたが、宿主の欲求を操作して獲物を捕らえるとストローほどの太さに膨張し、長さも数メートルまで自在に伸ばすことができるのです。
 このワームが分泌する体液は獲物にも宿主にも脳内のセロトニンなどを過剰に放出させ、精神に多幸感、他者との共有感などの変化をもたらし、その効果は3~4時間持続しますが、もっとも強いのは肉体的な快楽も高まる最初の1~2時間です。ワームが得る栄養はこの獲物が持続的なエクスタシーに陥っている状態での神経電流で、これはワーム単独ではできず、寄生する宿主と獲物をワームが中継することで得られます。ワームはそういう生物でした。
 ねこのひげは密集したものではなく比較的まばらなものですが、ワームは機能しない時にはマイクロファイバー並みに細くなれましたから数十尾ほどが絡みあって一本のひげになり、活動し始めるとキティちゃんの顔面全体からうねうねとしたワームの群れが広がり、獲物の咽喉や頸椎、口腔など効率の良い箇所に尖端をもぐり込ませるのでした。もちろん見ていて気持の良い光景ではありませんから普段はハローキティもお客さんと二階の部屋に引っ込んでやるのですが、ワームは宿主の精神状態を察知して自分の都合良く操作することもあります。訳あり風の女性客(がミッフィーちゃんたちだったわけですが)が出て行き、どうやら今日はふりの客が多いとわかるとワームは一斉にキティちゃんの頭にドーパミンを発生させました。それはジョータローのスタープラチナよりも、しんのすけのケツだけ星人の舞よりも、スヌーピーの盗塁よりも早かったのです。
 男性客全員が恍惚のあまりパンツに漏らしてへたりこみ、女性客と女性従業員は恐怖に凍りつきました。男性従業員、つまりダニエル・スターですが、ダニエルはカウンターにしゃがみこみながらみっともなく手淫して手っ取り早くわれに帰ると、これが店の繁盛につながっているとはいえ、違法ぎりぎりじゃないか、と心配でならない気分になりました。


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 どろぼうは警官を見ると角を曲がって逃げました。曲がり角の先は広大な荒野が開けており、そのあまりにとほうもない眺望のあまり、誰もが引き返してくる時のためのマーキングを素早く残していくのでした。しかし彼女はとっさにマーキングの手段を思いつかず、そのまま荒野に逃げて行っても戻り道に迷うばかりのはずで、引き返せない場所に迷いこんでしまっては魔にさらわれてしまうのと同じことです。すなわちどろぼうである彼女自身がロストになってしまうばかりか、そのロストにはファウンドの可能性もありませんでした。もう戻ってはこないと決まっている行方不明なら、それは死と変わりのない状態です。
 そこではどんな素質も才能も経験も、持ち物も意味をなしませんでしたから、誰もが生まれたままの姿に帰る場所とも言えました。つまりへその緒のつながったまま全身血まみれで、胎盤を引きずった姿でいるようなものです(哺乳類の場合ですが)。
 それで、盗られたものは何ですか?と警官は訊きました。泣きじゃくりながらハローキティは、リボンです、と返答しました。どんな?赤い蝶結びのリボンです、左の耳に結んでいたんです。正面から見て左、それとも右利き左利きのように、ご自分にとっての左ですか?こっちです、とキティちゃんは自分で自分の左耳をつまみました。たったそれだけの動作が、今のハローキティにとっては多大なストレスを引き起こしました。リボンを失ってしまった今、キティちゃんはあるべきキティではなく、双子の妹ミミィと同等か、またはリボンがない分それ以下(ミミィは右耳にリボンをつけていますから)の、単なるこねこにすぎないとすら言えるのです。ハローキティにとって左耳のリボンとはおしゃれ以上に深刻なアイディンティティのかかった装身具でした。また一般論ではありますが、個人的な不幸ほど他人にとってどうでもいいことはありません。
 ハローキティと消えたリボンの謎の噂は、すぐにミッフィーちゃんの店でも話題に上るようになりました。幸か不幸かミッフィーちゃんたちのお店のチラシを見たあの時のキティの店のお客さんたちが、ミッフィーちゃんのディヴィジョンにも出入りするようになったからです。幸はキティ・ディヴィジョンの噂話が筒抜けになってきたこと、不幸は逆にミッフィーのディヴィジョン事情がお客さんを介してキティ側にだだ漏れになっている可能性もある、ということでした。


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 やれやれじゃわい、とジャコウネズミ博士は大儀そうに立ち止まると、こういうところじゃ飲む・打つ・買うは当たり前、どころかそれをせなんでは出て行かされそうだな、と周囲に同意を求めました。どう思うかね、ヘムル署長?名指しですか、とヘムル署長は苦笑しながら、公人として私に言えるのは、法に従うは市民の義務だということですな。そして、とヘムル署長は、私が護っているのはムーミン谷の法です。ムーミン谷を一歩出れば、そこには別の土地の法があるだけです。トロールたちはざわめきました。ヘムル署長が言外に匂わす意味は明白だったからです。
 ですが署長、とスノーク。何かね?いや言ってみただけです、とスノークは本当に何も考えずに言いました。何でもいいから合いの手を入れるのがスノークのキャラクターだからです。スナフキンはずっと偽ムーミンの手を引いて歩いてきましたが、立ち止まってもまだ握っていた手をすっ、と放すと、考え深げに腕組みをしました。偽ムーミンはスナフキンに肩を抱かれたり手を取られたりとスキンシップされるのには閉口していましたが(本物のムーミンとはそれがいつものことなのでしょう)、いざ手を放されると自分が偽ムーミンなのがバレたのだろうか、とドキドキしました。ムーミン谷で偽ムーミンが偽者だと気づいているのはおそらくスニフだけですが、臆病なスニフにはバラしたらどうなるか体で教えこんであるからまず大丈夫です。他の連中といえば、ムーミン谷の住民でありながらムーミンには本当のところ関心はなく、自分勝手に好き放題にしている不埒者ばかりでした。ムーミンパパ、ムーミンママにしてもそうです。お節介かけてくるミーなどは偽ムーミンを偽者と気づく知能はまずありえず、唯一恐怖の対象といえるのはフローレンでした。フローレンはムーミンのいいなずけとして、偽ムーミンの正体を見破れば即座に瞬殺する大義名分があるのです。
 または爪を一枚一枚剥がされてムーミンの居場所とこれまでの罪状(フローレンにとって)を苦痛の限界までもてあそばれながら自白させられるかもしれない。それもありでしょう。偽ムーミンが背筋の凍る思いでいると、大人たちはとにかく着いたんだから飯でも食おう、店は二軒あるから二手に分かれて較べてみるのはどうだ、と話していました。偽ムーミンは行く前から、片方はミッフィー、片方はハローキティの店と知っていました。
 第四章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2019年5月7~9日/蔵原惟繕(1927-2002)と日活映画の'57~'67年(3)

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 これだけは恥ずかしい懐メロ曲の筆頭に上がるのはGS歌謡の代表曲「小さなスナック」、デュエット曲なら「銀座の恋の物語」なのは昭和生まれの日本人なら誰しもが知ることで、歌っている本人は楽しくても聴かされる方は恥ずかしくて仕方がないからですが、意外にも「小さなスナック」のパープル・シャドウズの同曲収録アルバムは日本の'60年代ロックのなかなかの名盤で、同曲のヒットを受けて製作された松竹映画「小さなスナック」'68.9も斎藤耕一監督・藤岡弘主演の歌謡青春メロドラマの小品佳作です。斎藤耕一は今井正作品のスチール・カメラマン出身で日活でも活躍し中平康の『月曜日のユカ』'64の脚本も手がけた才人で、テンプターズ~PYGのあと映画助監督をしていた萩原健一が主演俳優の降板のあと岸恵子の相手役に代役出演したら俳優として出世作になってしまった(それ以前に東宝の内川清一郎監督のテンプターズ出演映画『涙のあとで微笑みを』'69で主演していましたが)『約束』'72で'70年代日本映画のヒットメーカーになった監督ですから『小さなスナック』も顧みられていい作品ですが、公開当時大ヒットし観た人はみんな良さを知っているにもかかわらず、後世では主題歌(というか、曲のヒットを機に同曲をモチーフとして作られたから原案曲というべきか)の嫌々ながら女性が男につきあわされて歌っているパワハラ的かつセクハラ的イメージの強い曲の認知度のせいで怖いもの見たさを乗り越えないと素直に観られない敷居の高い映画になってしまったのが歌謡メロドラマ『銀座の恋の物語』で、これが同年早くも2作目でさらに続けて『憎いあンちくしょう』『硝子のジョニー 野獣のように見えて』と送り出した蔵原惟繕は監督デビュー5年目で絶頂期に達した観があり、東京オリンピック前の銀座を舞台にした都会映画としても文化財的価値があります。作品としては『憎い~』『硝子の~』でさらに冴えるのですが、これだけ通俗的な題材を大衆性たっぷりに展開し、締めるところはきちっと締めた手腕は並々ならぬ自信あってこそと思われ、映画を観たあとだと「銀座の恋の物語」という曲への偏見も洗い流されるほどで、ご覧の方には何を今さら、未見の方には何でそんなものと思われる映画でしょうが、'60年代の日活映画にこれがあるのとないのでは大きく違う。宍戸錠主演の『硝子のジョニー~』も観直したかったのですが今回は石原裕次郎主演の2作に蔵原作品はとどめ、近年再評価の進んだ古川卓巳の宍戸錠主演作『拳銃残酷物語』を続けて観直しました。なお、歴史的意義を鑑みこれら日活映画については初公開時のキネマ旬報の紹介文を引用させていただきました。

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●5月7日(火)
蔵原惟繕(1927-2002)『銀座の恋の物語』(日活'62.3.4)*93min, Color : https://youtu.be/Xa7aMt2rvVI (trailer)

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 このブログの映画感想文はいささか長すぎるんじゃないかと毎回反省しているのですが、筆者は学生時代映画を観て帰宅するといつもこのくらい長さの映画日記をつけていたので、雀百までではありませんが癖というのは抜けないものです。本作の石原裕次郎はプライドの高い貧乏画家で、ジャズ・バンドでキャバレーの箱バン仕事をして生計を立てているピアニストで作曲家のジェリー藤尾と二人で共同のアパート暮らしをしており、顔の広いジェリーがたまに引き受けてくる銀座の店の装飾デザインが裕次郎の数少ないアルバイトです。裕次郎は洋裁店に勤める恋人の浅丘ルリ子がおり、ジェリーもキャバレーをクビになって月賦のアップライト・ピアノを回収されそうになれば、ジェリーの曲に歌詞(これが「銀座の恋の物語」になる)をつけて自分たちの愛の歌だと囁いていた浅丘に対してもいじらしくなってくる。結局裕次郎は誘いのあったデザイン事務所に就職を決めて自信作で二人の宝物だった裕次郎自作の浅丘の肖像画を画商に売り、浅丘の長野の実家に結婚申しこみのあいさつに行こうと駅で待ち合わせるのですが、浅丘は職場で駆けこみ仕事に追われて待ち合わせに遅れそうになり、急いで駅に向かう道すがら車に跳ねられてしまいます。出発する列車に乗らずにプラットフォームで茫然とする裕次郎。浅丘はそのまま行方不明となり、裕次郎は警察に事故者の女性はいないか訪ねますが、交通事故死した女性の所在を知らされ駆けつけると浅丘とは別人でした。浅丘は行方不明のままで裕次郎はヤケ酒に浸り、やがて裕次郎とジェリーはピアノを回収しに来た月賦屋と乱闘して留置場に入れられますが、釈放されてみるとアパートは取り壊されビル建設用の更地になっている。ジェリーは去ってしまい(先にバンドがキャバレーをクビになった時楽屋裏で密造酒を発見し闇組織に勧誘される伏線が敷いてあります)、やがて裕次郎は浅丘がデパートのアナウンス嬢になっている浅丘を発見すると、浅丘は別名を名乗っていて事故以前の記憶をすべて失っているのが判明します。つまり本作は『哀愁』や『君の名は』のすれ違いメロドラマに『白い恐怖』風記憶喪失を絡ませた仕組みで、記憶喪失というのはフィルム・ノワール作品にはよく出てくる趣向ですが本作ではメロドラマ内のサスペンス展開に結びつけてある。そういう意味では先行作品のおいしいとこ取りの焼き直しでできているのが本作ですが、ここまででおおよそ見当がつくように浅丘の記憶を取り戻す鍵がジェリーの伴奏で裕次郎と浅丘が歌う「銀座の恋の物語」の歌で、また裕次郎の描いた浅丘の肖像画なのは映画の物語法則というもので、だったら一見簡単そうな歌と肖像画をなかなか取り戻せないじれったさが本作後半のサスペンスになってくる。いくら何でもハッピーエンド以外に裕次郎と浅丘のロマンス映画がならないわけはないのでサスペンスといっても微温的なものですが、どうせハッピーエンドだろうと余裕を持って観られるからこそ観客も適度にリラックスして展開を楽しめるので、映画の大衆性の高さにはこのくらいがちょうど良いことになります。本作も公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ]「アラブの嵐」の山田信夫と、「男と男の生きる街」の熊井啓が共同で脚本を執筆、「メキシコ無宿」の蔵原惟繕が監督した歌謡メロドラマ。撮影もコンビの間宮義雄。
[ あらすじ ] 伴次郎(石原裕次郎)はジャズ喫茶のピアノひきの宮本(ジェリー藤尾)と一つ部屋を仕切って同居する絵かきで、「銀座屋」の針子秋山久子(浅丘ルリ子)を愛していた。そして二人は一緒に考えた"銀座の恋の物語"を大事に胸に秘めていた。次郎と宮本は苦しい生活の中で助けあった。次郎は久子の肖像画作成に没頭した。一方宮本はバーテンたちの企みで、クラブをクビになってしまった。次郎は久子と結婚するために信州の母のところへいくことになった。田舎いきのため、次郎は今まで売ろうとしなかった久子の肖像画を春山堂に売り払った。出発の日新宿へ見送りにいった久子は、横からとびだした車にはねられてしまった。久子は事故現場から姿を消したままになっていた。次郎にはやけ酒の日が続いた。ある日宮本のピアノをひきあげにきた月賦屋(峰三平)を次郎と宮本は悪酔いが手伝って殴り、留置所にいれられた。次郎と宮本が釈放されて帰ってみると、二人の家は消えてなくなり、「銀座屋建築用地」の立札。宮本は憤り、次郎のとめるのもきかず、何処かへきえ去った。幾週かがすぎ次郎は久し振りで宮本にあった。宮本は豪華なアパートに住み、次郎の描いた久子の肖像画をもっていた。宮本の部屋からでた次郎はデパートに流れる久子の声を耳にした。久子は記憶喪失症になっていた。次郎は久子の記憶回復につとめ、二人の記憶がつながる肖像画を買いとりに、宮本の所へ行ったが彼は絵を手ばなさないといった。その時電話がなり、宮本は蒼然と外へとび出していった。彼は偽スコッチ製造の主犯だった。彼はひそかに久子をおとずれ、例の肖像画をおいて、そそくさとでていった。数日後、春山堂で次郎の個展がひらかれ、会場に流れる"銀座の恋の物語"のメロディに久子の記憶は回復した。
 ――キネマ旬報のあらすじでは触れられていませんが、本作では裕次郎とジェリーの共同貧乏生活のエピソードにジェリーを通して裕次郎にファッション店の装飾デザインを頼んでギャラを持ち逃げする詐欺エージェント「公衆社」社長役の深江章喜(裕次郎とジェリーが公衆社の住所を訪ねると公衆便所が立っています)や、浅丘の働く洋裁店のおかみさんの清川虹子や妹分の和泉雅子の役所、さらに唄の上手い(街頭のど自慢で1曲披露する)婦人警官(笑)の江利チエミが浅丘の行方を探す助けをしてくれるうちに裕次郎に惚れてしまう、など細かい役のキャラクターも多く、ジェリー藤尾の率いるバンドはテナーのワンホーン・カルテットですがジェリー以外のテナー、ベース、ドラムスのメンバーも売れないジャズマンらしさが漂う好演で、また裕次郎と浅丘の住まいのどちらからもよく見えるビルの屋上でトランペットの早朝練習をしている青年(小島忠夫)がいて、毎回地上からのロングでしか映らないのですがこの青年の登場も映画全体のモチーフになっている。ジェリーが作曲した設定の主題曲もジェリーの演奏では本来まったくソノリティやハーモナイズが異なるアブストラクトな楽曲を裕次郎が勝手にジャズ歌謡風に解釈して歌詞をつけて歌ったことになっており、奇しくもこの映画の成り立ち自体を語っているようです。つまり素材自体は原型をアブストラクトの次元にまで解体したようなものなのですが、それをパッチワークのように歌謡メロドラマの構成に組み立ててあるのがこの映画で、満遍なく歌謡メロドラマでありながら実は発想はメタ映画であって、すれ違い型メロドラマのパロディすれすれの線をいきながらパロディを感じさせない作品に仕上げている。山田信夫脚本・間宮義雄撮影と『狂熱の季節』では蔵原惟繕とともに全力で観客の神経を逆なでする映画に向かったのが、今回は観客を乗せるくらいわけはないという余裕で裕次郎と浅丘の歌謡メロドラマで観客を手玉にとってみせたので、感覚的なテクニシャンの蔵原惟繕だからこそ『ある脅迫』や『狂熱の季節』から本作までの振り幅が可能だったとも言え、大島渚や吉田喜重のような硬派の監督ではこうはいきません。本作が惜しまれるのは本物の銀座の野外ロケと思われるシーンが期待されるほど多くはないことで、裕次郎のような多忙なスター主演だと室内セット、屋外でも撮影所のオープンセットのシーンがどうしても主要になる。川内民夫主演の『狂熱の季節』のように野外ロケを多用して本物の不良青年ののさばる映画はもう裕次郎では作れないのをスタッフも了解しており、では本作のような歌謡メロドラマではない狂暴な裕次郎と浅丘ルリ子のロマンス映画は作れないのか、という回答には早くも次作『憎いあンちくしょう』が出てくる。傑作『憎いあンちくしょう』は本作の構想と平行して生まれた発想ではないかと思われるのです。

●5月8日(水)
蔵原惟繕(1927-2002)『憎いあンちくしょう』(日活'62.7.8)*105min, Color : https://youtu.be/iwyuhZhLG3U (Fragment)

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 本作の石原裕次郎は無名の文学青年から2年前に書いた歌詞の流行歌の大ヒットで一躍時代の寵児となったマルチタレントの大スターを演じており、歌謡曲全盛時代とはいえまさかここまではと思えるのですが、案外これには青島幸雄や永六輔といった実在のモデルがあるのかもしれません。日本語版ウィキペディアでは本作を「マスコミの寵児である主人公とそれを追うマネージャー兼恋人がジープとジャガーで東京から一般道で日本列島を縦断、阿蘇に辿り着くまでを描く。山田信夫のオリジナル・シナリオによる青春映画であり、日本初のロードムービーともいわれる」と簡潔に紹介しており、また「蔵原惟繕監督の浅丘ルリ子による典子三部作の第1作目に当たる(他は『何か面白いことないか』1963年、『夜明けのうた』1965年)」ともしています。3作とも山田信夫脚本、間宮義雄撮影ですが石原裕次郎主演の『何か面白いことないか』はともかく『夜明けのうた』は岸恵子のヒット曲から企画された歌謡メロドラマで浜田光夫が相手役、さらに蔵原惟繕監督作品は『何か面白いことないか』と『夜明けのうた』の間に川内民夫主演の問題作『黒い太陽』'64と浅丘ルリ子出演100本記念作品『執炎』'64を挟みますから、裕次郎が昭和38年を最後に石原プロモーションを設立して独立し出演がかなわなかったとしても『夜明けのうた』はちょっと違うのではないか、という気がします。本作が宍戸錠主演の『硝子のジョニー 野獣のように見えて』'62を挟んでも『何か面白いことないか』につながっていくのは金も名声も女もつかんだ主人公がなお物足りないというテーマで、早い話は石原裕次郎は成り上がり太陽族のなれの果てというセルフ・パロディぎりぎりの役を演じているので、これは観客にはそんな倦怠した裕次郎なんか見たくない、という反発を抱かせかねないかなり危険な企画です。それを『銀座の恋の物語』が春先に大ヒットしたすぐあとの初夏にやってのけるあたりが機転の速さであり、また前年は怪我のせいで出演作は正月の1本と年末の3本にとどまった裕次郎も俳優デビューが5年を越えてすでに日活から独立して自己ペースの活動に切り替えたいとプロダクション設立を準備していたと思われ、専属俳優時代に年間10作以上のペースで映画出演していたのが翌昭和38年('63年)からは年間4~5作ペースかそれ以下になる。昭和37年のうちは来る企画拒まずどころか『銀座の恋の物語』から本作の振幅に受けて立ったとも思えます。また石原慎太郎脚本の監督第1作『俺は待ってるぜ』'57から第18作の本作では何が違うって脚本の集中力が違う。山田信夫の腕前でもありますが同じ脚本でも狙いの生かせない監督・カメラマンだったらこうはならなかっただろうと、あまり使いたくない言葉ですがプロの仕事を感じさせる。石原慎太郎脚本でヒューマニズムなどという台詞が出てくるとやれやれと悩ませられますが、山田脚本では生硬な台詞はちゃんと多義的な意味を持つのでそれに見合った演出が可能になる。もっとも本作は着想の類似点がある著名作があり、裕次郎主演映画のため一見して気づきづらいのですが、新旧世代の純愛を対比させて反純愛映画から純愛を描きだすという本作は大島渚の『青春残酷物語』'60への『狂熱の季節』の監督からの2年遅れの回答とも言えます。この作品も、初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ]「上を向いて歩こう」の山田信夫のオリジナル・シナリオを「銀座の恋の物語」の蔵原惟繕が監督した青春ドラマ。撮影はコンビの間宮義雄。
[ あらすじ ] 北大作(石原裕次郎)はマスコミから追いまわされる「現代のヒーロー」で、映画出演、テレビ座談会、司会、原稿執筆等々、一分一秒まで予定で埋っている。そんな彼を支配するのは、マネジャー兼恋人の榊典子(浅丘ルリ子)という近代娘。二人は二年前から「ある瞬間」がくるまで、指一本ふれないという約束をかわしている。時間で動く機械のような生活に倦怠を感じている大作の前に、井川美子(芦川いづみ)が現れて情勢は一変した。「ヒューマニズムを理解できるドライバーを求む。中古車を九州まで連んでもらいたし。但し無報酬」という奇妙な三行広告が、大作の受け持つテレビ番組にとりあげられたのが事の始まり。美子の恋人で医師の敏夫(小池朝雄)は、九州の片田舎に住んでもう二年も離れたままだが、今なお二人の間には純愛が続いている。大作の体中の血がたぎった。「僕が運びます!」彼が本番最中のテレビ・スタジオを飛び出したので、典子やディレクターの一郎は大あわて。典子はスポーツ・カーで、ジープを飛ばす大作を追った。いち早くこの事件から新番組を企画した一郎たちの取材班、新聞社の車がそれに続いた。静岡、豊橋、名古屋、京都――。典子は愛する大作の突飛な行動を正当化し、話題の焦点にしようと一芝居打つが、それは失敗に終った。大作の心には、井川美子の純愛をたしかめることしかないのだ。幾多の困難を排してジープは一路九州へ。福岡の山笠まつりの混乱の中で、群衆にもまれた典子は大作に救い出された。大作は典子との間にあった倦怠が崩れ、ついに「ある瞬間」がやってきたのを知った。阿蘇の大噴火口を越えると、目的地は近い。洗川村では美子と敏夫が大作を待っていた。ジープを渡した大作は、東の空にのぼる太陽を見つめて、典子に叫んだ。「さあ、きょうから僕たちの第一日目だ!」と――。
 ――実はこのキネマ旬報のあらすじはシノプシス段階の日活の広報資料によるものではないかと思われる点が多々あり、実際の映画と違いすぎる箇所が多すぎるので試写段階より前に作成された紹介文なのは間違いないでしょう。あえて映画の内容に即して修正を加えず引いた次第です。実際の映画のニュアンスはこのあらすじよりもっと激情的なもので、一介の無名詩人から一躍分刻みのスケジュールに追われるマルチタレントになった裕次郎はマスコミ世界の虚飾に飽きあきしており、マネージャー兼恋人の浅丘ルリ子(『銀座の恋の物語』の純朴な洋裁店店員ヒロインから一転して最先端ファッションに身を包んで現れます)とも「730日の交際」を経てなお関係を留保している。浅丘がマスコミの虚飾をそのまま甘受している女だからですが、そこで無報酬で中古ジープを東京から九州の山奥まで届ける運転手募集をしている芦川いづみの存在を知る。たまたま出演するテレビ番組の話題に取り上げられたので興味を持っただけですが、裕次郎や浅丘より一回り年長の芦川は3年前に九州の無医村地帯で働く恋人の医師の小池朝雄のために東京に出て働きようやく巡回医療のために欠かせない中古ジープを購入し、3年間一度も会う機会がなく文通のみで愛を育んだという芦川に裕次郎はあきれますが、3年間の手紙を書き写したというノートを渡されて芦川と小池の愛の行方を確かめたくなりジープの輸送を承諾します。スケジュールに穴を空けるこの依頼の承諾に浅丘は猛反対しますが、裕次郎がジープを取りに行くと老若男女のファンが裕次郎を讃えに押し寄せマスコミは美談として大ニュースにする。裕次郎は売名行為じゃないかと怒って話を断ろうとしますが、今度は浅丘が社会的責務よと乗ってしまう。そして裕次郎はジープで出発し、浅丘は世話と監視のためジャガーで裕次郎を追うのですが、結局約束の時間と場所に中古ジープは届けられない事態になり二人はジャガーで九州の山岳地帯を進み、ジャガーは崖から転落してしまい裕次郎はかろうじて浅丘を助け出す。現地では特別番組のためにテレビクルーに囲まれた芦川と小池が3年ぶりに再会して待っている。ボロボロの姿でようやく到着した裕次郎は芦川に手紙の写しのノートを渡し、アナウンサーは芦川と小池から談話を取ろうと前口上に芦川らの愛を讃えますが浅丘は思わず「そんなの愛じゃない!」とボロボロの姿で叫びます。芦川と小池はひと言も発せず取材陣に囲まれて立ちすくみ、ディレクターはこれじゃ番組にならないじゃないか!と地団駄を踏みます。裕次郎と浅丘は小高い丘に駆け上がって草むらに倒れこみ、ついに熱烈な抱擁とキスを交わします。そのままカメラは上にパンして大陽を映して終わります。……と、『銀座の恋の物語』の直後に同じ監督・脚本・カメラマンで、同じ主演コンビの恋愛映画でもこうも違うかと驚き感嘆させられるのが本作で、日活専属時代最後の年の石原裕次郎主演作の傑作であり、大陽の真下で結ばれるラストも鮮やかです。ロード・ムーヴィー形式の作品のため野外ロケが多用されているのも良く、裕次郎主演作のため予算も潤沢だったかシークエンスごとの美術や撮影も非常に手がこんでいる。裕次郎自身が実際に分刻みのスケジュールの大スターだったため撮入段階以前に綿密なプリプロダクションが行われているのは間違いなく、シノプシスや脚本では華やかで明朗な青春ロマンス映画としておいて撮影台本ではちゃっかり挑発的な内容にすり替えて出来ばえで押し通してしまったと思われますが、本作の裕次郎・浅丘と芦川・小池の二組の新旧世代のカップルの対比は川津祐介・桑野みゆきと久我美子・渡辺文雄(やはり貧困街の医師です)で新旧世代のカップルを対比させた大島渚の『青春残酷物語』が念頭になかったはずはなく、昭和35年6月公開の『青春残酷物語』の大ヒットが同年10月公開の蔵原惟繕監督作品『狂熱の季節』の企画実現に結びついて、『狂熱の季節』は蔵原作品に初めて山田信夫脚本・間宮義雄撮影のトリオが揃った作品でしたが、川地民夫・千代侑子と松本典子・長門裕之の新旧世代のカップルを対照させる手段に川内民夫の無軌道な野生味が勝ちすぎてドラマの構成は弱くなりました。しかし本作では芦川いづみと小池朝雄の登場場面はそれこそ『青春残酷物語』の久我・渡辺の登場場面より少ないのですが、裕次郎と浅丘の行動が芦川・小池との対面に向かうためであるため芦川と小池はクライマックスで取材陣に囲まれ無力に立ちつくすだけで十分役割を果たしている。何しろ直前に崖下に転落するジャガーからすんでのところで脱出した裕次郎と浅丘の姿が観客の脳裏には鮮明に焼きついているので、芦川と小池の純愛を讃えるアナウンサーの紹介に「そんなの愛じゃない!」と叫ぶ浅丘のボロボロな姿には説得力があり、細かい説明はせず「あんたにこれを届けに来た」とノートを渡す裕次郎は憔悴しきったボロボロの姿だけで雄弁です。ツッコミを入れるとすれば本作の大スターの裕次郎ならわざわざ自分で芦川の買った中古ジープを九州まで届けなくてもスポンサーに呼びかければ電話1本で新品のジープを九州の小池に寄贈できるではないか、売名行為だと言って一度は止めようとするのなら売名と割り切るのも合理的ではないかと思いますが、裕次郎の行為はジープを九州まで運転して運ぶこと、浅丘がどこまでついてこれるか、芦川と小池の愛とはいったい何なのかを自分の目で確かめることにあるので、電話1本で新品ジープを寄贈と観客のツッコミが入る流れには決してならない映画になっている。本作は単独でも傑作ですが、『銀座の恋の物語』を先に観ていて、また『青春残酷物語』と『狂熱の季節』を観ているとさらに蔵原惟繕の達成が感じられる作品です。

●5月9日(木)
古川卓己(1917-2018)『拳銃残酷物語』(日活'64.2.1)*87min, B&W : https://youtu.be/MwC21kHLWOE (Full Movie)

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 古川卓巳監督は監督デビューは日活ですが戦中すでに映画界入りしていた、中平康や蔵原惟繕、舛田利雄らと較べても10歳あまり年長の監督で、それを言えば鈴木清順も古川卓巳と中平・蔵原・舛田らの中間の生まれですが川島雄三と同様新しい感覚を持っていたのに対して古川の場合は大陽族映画第1弾『大陽の季節』'56,5がプロデューサーの水の江滝子も監督手腕の古くさい失敗作と見なした(しかし原作の話題性から大ヒット作になります)のももっともかな、と思えるので、同作の端役出演でデビューした石原裕次郎の初主演作で中平康監督の『狂った果実』'56.7と観較べると古川卓巳がかわいそうになるのですが、プログラム・ピクチャーの監督としては堅実な手腕を買われ日活の経営陣交代まで作品を量産します。ところが近年これは隠れた傑作ではなかろうかと欧米の映画批評家から再評価されることになったのがエースの錠こと宍戸錠主演の本作で、同年の『死にざまを見ろ』と並んでハードボイルド・アクションの佳作として西脇英夫ら諸氏からは古川卓巳作品でも出色の出来と語られてきたものですが、欧米の批評家は鈴木清順&宍戸錠経由で日活作品を当たって本作や野村孝の『拳銃は俺とパスポート』'67に行き着いたとおぼしく、監督違いでもありそれぞれ異なる特色を持つ作品であっても『拳銃残酷物語』『拳銃は俺のパスポート』、そして鈴木清順作品『殺しの烙印』'67をつなぐ線は確かにあるので、宍戸錠という主演俳優の強烈な個性が鮮烈に開花した作品として充実した本作を観るとあまりぱっとしなかった『大陽の季節』は古川卓巳の腕前というより題材とキャスティング、企画の不徹底さが具合悪かったという気がします。あれはあれでヒット作になったので良しとすれば、本作はアクション映画監督としての古川監督の腕が冴えた作品で、鈴木清順級とまでは行かずより若い世代の野村孝の感覚にはおよびませんが、清順作品のけれん味の強さとは違う抑制が本作の美点になっている。また当時の日活のアクション映画は原作や監督、脚本家が違っても一定のムードや人物配置があって、宍戸錠主演の『拳銃は俺のパスポート』に本作が似ているだけでなく清順監督の渡哲也主演作『東京流れ者』'66にも一部似た人物配置があるので混乱しますが、影響関係というよりも当時裏稼業の世界を描くと大なり小なり似たような設定が出てきてしまったということでしょう。本作は清順監督の高名な『野獣の青春』'63の翌年作で観きれないほどある宍戸錠主演・出演作の1編ですが、脚本も撮影も標準的ながら美術にも手抜きはなく(連続して作られた日活作品からの転用かもしれませんが)、また悪夢度の高さが妙に唐突かつ安易なためにかえって効果的になっている作品です。本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 大藪春彦の同名小説を「男の紋章 風雲双つ竜」の甲斐久尊が脚色、「俺は地獄の部隊長」の古川卓巳が監督したアクション・ドラマ。撮影は「学園広場」の伊佐山三郎。
[ あらすじ ] 仮保釈になった登川(宍戸錠)とに、伊藤(山田禅二)は早速仕事をもちかけて来た。日本ダービーの売上金一億二千万を頂こうというのだ。仲間は白井(小高雄二)とボクサーあがりの岡田(井上昭文)、用心棒の寺本(草薙幸二郎)。現金輸送車を襲う計画は雑木林に誘いこみ、車ごと大型天蓋トラックに巻きあげるという案に決った。登川には療養中の妹梨枝(松原智恵子)がいた。やくざ稼業ながら肉親の妹に対する愛情は細やかだった。やがて目的の日がやって来た。寺本の誘導で輸送車を雑木林に乗り入れた登川らは、護衛を射って輸送車を廃墟に運んだ計画通りだ。輸送車に乗っている二人の警官を排気ガスでいぶし出した白井らは、そこで事の次第を見ている圭子(香月美奈子)を見た。伊藤の言いつけで監視していたのだ。犯罪史上空前の大事件を起した登川らも、伊藤ら大ボスの金もうけの道具にすぎなかったのだ。警官とのうちあいで肩に傷をうけた白井をかばいながら、登川は捜査陣の包囲の中をショットガンを撃ち続けた。凄絶な拳銃戦のすえ冷くなった白井の死体を引きずりながら下水坑まで逃げた。ボス松本(二本柳寛)の仕組んだ罠を見破った登川は松本と挙銃戦の末目的の金を手にパスポートを取りに「セントルイス」に来た所を、弟のように可愛がっている滝沢(川地民夫)の拳銃で誤殺された。命を賭けた巨額の札束が無残な登川の死顔にふりかかっていた。
 ――一介のプログラム・ピクチャーだからかキネマ旬報の紹介は粗っぽいもので、草薙幸二郎の裏切りも省いていれば結末で忠実な弟分の川内民夫に誤射されるてんまつもこれではわけがわかりません。錠は二本柳寛から命は取らず金を取り戻し川内に用意させたパスポートを取りにアパートに戻るのですが、二本柳は先に川内を銃撃して錠を待ち伏せしており、錠は待ち伏せていた二本柳を今度こそ射殺します。錠は川内を探しますが瀕死で目のかすんだ川内は近づいてくる錠を二本柳と錯覚して撃ちます。錠は胸を押さえ、ハッと気づいた川内が「すまねえ、兄貴」と謝るのを「当たっちゃいねえよ」と嘘をつき、川内はそのまま絶命します。なおも「当たっちゃいねえよ」と言いながら錠はよろけて灯油缶を倒し、錠が倒れて鞄が開くと紙幣が舞います。灯油缶の灯油は石油ストーヴに引火し、錠は燃えあがる紙幣とともに木造アパートの炎に包まれます。本作の錠は拳銃を上に放り投げて敵を油断させるや落ちてきた銃で速撃ちをするアクションを見せており、ピストルが当たり前に懐にある世界の住人なので、日活アクション映画も大陽族映画の延長から日本を舞台にした西部劇の世界に入っていることを如実に示す作品ですが、今回シリーズ作品として外した系列ながら昭和34年('59年)からの小林旭主演の「渡り鳥」シリーズ、翌年の赤木圭一郎主演の「拳銃無頼帳」シリーズで裕次郎主演の『赤い波止場』'58以降のアウトロー路線は定着しており、どちらのシリーズでも名物男のガンマン役は宍戸錠でした。早い話が次元大介が宍戸錠のキャラクターから派生したコミックスの人物です。宍戸錠はバイプレーヤー意識の強い俳優だったので何を持って宍戸錠初主演作としたらいいのかわかりませんが、蔵原惟繕の『硝子のジョニー 野獣のように見えて』'62に先立つ昭和36年の三部作「ろくでなし稼業」シリーズが初主演作と見なしたらいいのでしょうか。ただ「ろくでなし稼業」シリーズはまだアクション・コメディ要素が強かったので、コメディではないハードボイルドなキャラクターになってからがさらに宍戸錠の本領発揮とも言えて、本作の主人公など裕次郎や旭には想像もつきません。『硝子のジョニー~』や『野獣の青春』を経て本作の主人公のキャラクターはあるので、日活の'70年代初頭のニュー・アクション路線は破滅する主人公を多く描いてアメリカン・ニューシネマとの対応で観られがちですが本作の宍戸錠はその先駆とも言えるので、観る人によってはチープなプログラム・ピクチャーの珍品とも異色の佳作とも、はたまた再評価されるべき傑作とも見える本作ですが、ドキュメンタリー・タッチなのか荒唐無稽なのかわからない、拳銃フェティシズムにリアリティがあるのかも銃刀類にはさっぱり興味がない筆者には見当がつかないのですが、ああ宍戸錠を観たなあという満足感だけでも十分な映画があるとすれば本作は期待を満たしてくれる1作です。原作由来か脚本由来か演出手腕の問題か、副人物のあつかいは生かしきれていない印象もありますが(松原智恵子などまったく別撮りの場面でしか出てきません)、ハードボイルドの世界はモノセックスであって女不要と思うとしても宍戸錠以外の俳優に存在感がなさすぎる。それも悪夢的、とするなら本作は宍戸錠の見た悪夢に純度の基準を置くべきかもしれません。

集成版『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』第五章

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 第五章。
 この町でうっかりすると失ってしまうのは、ハローキティのリボンに限ったことではありませんでした。怪奇現象に法則性を求めても仕方ないことですが、社会のルールでは重要なものほど法的な所有権が厳重化されているものです。たとえば親権など。離婚する親Aと親Bが子どもの両腕を左右から引っ張りました。子どもが痛がって泣き出したので親Bは子どもの手を放しました。子どもは最後まで手を放さなかった親Aのものになるのが社会のルールというものです。かように法は親どうしが別れることになれば片方の親は法的に親子ですらなくなるような処置すら行いますし、遵法義務が国民の総意であれば国家と剥き身で対立した個人には何の権限もありません。大事なものほど失われやすいのは、当然その値打ちが高いからに他ならず、誰かが失う分誰かが得をするのが世界の均衡というものなのです。
 ミッフィーちゃんのお店は、再びハローキティの店ができる前のような活況を取り戻していました。これはどういうことかしら、とアーヒェは思いました、まるでうちしかお店がなかった頃みたいに賑わっているということは、キティさんのお店に何かあったんじゃないかしら。そうね、きっとそうだわ、とニナが鏡台をピシッと閉めながら言ったので、アーヒェはまた頭の中を読まれたんじゃないかとゾッとしました。しかしこの場合のニナは必ずしもそうではないらしく、無口なウィレマインもぼんやり屋のバルバラも、何よりニナ自身がもともとアーヒェと同じことを考えていたようでした。社長室(正確には師団長室ですが)にいるミッフィーことナインチェを除き、全員が顔を見合わせました。よりそれを細かくいえば、アーヒェがニナをびっくりして見つめ、それに気づいたウィレマインがアーヒェを見つめ、その気配にニナがアーヒェとウィレマインを見渡し、それから三人がバルバラを見つめてバルバラもハッとして顔を上げ、そうして全員が顔を見合わせることになったのでした。
 気になるわね、と簡潔にウィレマインが言いました。また偵察に行く?とニナ、でも前みたいならともかく、今はお店が忙しすぎるわ。実際そうでした。開店前に皮を剥いておかなければならないじゃがいもだって、あの頃と今では比較になりません。お客さんに訊く?バレたらヤバいわ、それより、とニナ、ボリスに行ってもらってみたらどうかしら?もちろんナインチェには内緒でね。


  (42)

 ボリスはくも男のボリスと呼ばれていました。くも男ボリスとはジョー・クールと同じくらい謎めいて、生麦生ゴミ生ミミィと同じくらい語呂が良いからでもありますが、ボリスはくもが糸の上を歩くように物音もたてず獲物に近づき、捕食することができるのです。もちろん捕食とは比喩的な意味で、ボリスは文明化されたくまでしたから(うさぎと同じ水準を文明化と呼べればですが)、この場合探偵・諜報活動ならうってつけというような意味合いでした。その上ボリスはくまのぶんざいで、くまにしては、くまにもかかわらず、くまのくせに地味な野郎だったのです。
 メラニーたちは月遅れの「ゼクシィ」を回し読みしていましたが、何かそれにはハローキティのお店に感じたのと同じ印象がありました。単純にその「ゼクシィ」がハローキティのお店のマガジンラックから盗んできたものだったからかもしれません。もちろん万引きは犯罪ですが、ハローキティの店のようなチャブ屋で置いてあった雑誌を持ってくるのは犯罪に当たるのでしょうか?チャブ屋ならばミッフィーたちのディヴィジョンだって同じです。チャブ屋Bにあった雑誌がチャブ屋Aに移動した、というだけのことにすぎません。そしてどちらのディヴィジョンも同じ戦地の施設なのですから、大きく戦地全体から見ても、また小さく雑誌自身の立場から見ても、あちらのお店にあったものがこちらのお店に来たところで役割的には何ら変わりないのです。
 私も見ていい?とウインが珍しく興味を示したので、メラニーは作り笑顔を浮かべながらどうぞ、と雑誌を手渡しました。しかし動作がぎこちなかったので手から手に渡されるあいだに雑誌のページがばさり、と開いてしまいました。挟まれていたらしい一枚の紙片がひらひらと床に落ちました。紙きれは、サングラスをかけ黄色い長袖のトレーナーを着て、歯を見せた笑顔を浮かべている、立ち姿の犬が写ったサービス判の写真でした。垂れた両耳はその犬がビーグル犬である素性を証していました。トレーナーの胸には黒い文字の楷書で、

J O E
C O O L
 
 と大書きされていました。うさぎたちに困惑の空気が流れました。どうやらこれはキャンパス・ボーイを気取った姿のようですが、水商売のお店に置かれた雑誌に挟みこむような写真ではありません。挟んだのは当然ナンパ目的の本人でしょう。何か勘違いしてるんだわ、とアギーは思いました。


  (43)

 こんにちわぁ、あそびに来たよ、とマイメロディが入ってきました。ミミィやキャシーたちはストゥールから腰を浮かしかけ、カウンターの中にいたデイジーもハッと椅子から立ち上がりましたが、お客さんではなくただの友だちとわかると落胆して、また腰をおろしました。どうしたの、元気ないよ、とマイメロディ、そういえばキティちゃんは?これは言うべきか隠しておくべきか、とミミィたちは顔を見合わせましたが、果たしてどこまで噂がひろがっているかは想像もつきません。マイメロ風情が知っていてとぼけているとは思えませんが、もし自分たちが何も知らないそぶりをして、後からマイメロがよそで聞いたらどう思われてしまうでしょうか?相当な薄情ものたちか、さもなくばうすのろか、せいぜい良く言って仲間割れと思われるのがおちです。たしかにミミィはこねこ、デイジーとキャシーはうさぎですからその程度のうつわしかありませんが、マイメロディなどはメンヘル、いやメルヘンランドから来たうさぎ型ぬいぐるみ妖精で、未来の世界のネコ型ロボットよりいかがわしい存在ではありませんか。その時、ミミィたち3人の頭に同時に釣り糸みたいなものがひらめき、自分以外のふたりも同じことを考えているのを3人の誰もが気がつきました。
 ねえ、とミミィはまむし酒をおちょこでマイメロに渡すと、最近マイメロは忙しいか(マイメロはいつものんびりしていると知っての質問ですから、これは誘導というものです)、困った人がいたら助けになれるか(これも誘導)、とどのつまりはお願いマイメロディ、うちのお店で働いてくれない?とキャシーとデイジーと3人がかりでマイメロを取り囲みました。うーん、うーん、うーん、とマイメロは3人をかわるがわる見回しながらさすがに即答には困った様子で、何しろ風呂に沈められるかどうかという願ってもない話ですから一も二もなく飛びついても良さそうなものですが、キティちゃんが今お休みしているからなのかナ?と案外痛いところを突かれて、このぬいぐるみのくせに妙なせんさくしやがって、とキティ屋一堂。
 休んでいるわけじゃないのよ、とデイジーはお姉さんの威厳で言いました、何ていうか……マイメロはいつもかぶっている赤ずきんがなくなっちゃったらどうする?マイメロおおかみさんに食べられちゃう、とカマトトのマイメロは言いました。人の前でずきんを脱げる?だいたいそういうことなのよ。


  (44)

 何かにつけて忙しいがくちぐせの人ほど本当にやりたいことを見失っているものです。人に限らずミッフィーたちのようなうさぎたちにも同じことが言えますが、うさぎの場合はやりたいことなど始めからない生涯ですし、人以外の生き物は生きている以外に目的はない実存主義的存在ですから、忙しいなどと言い出すのは人間がそうなる以上に異常な状態で、いったい私たちは何のためにこんな忙しい思いをしているんだろう、という不服がミッフィーちゃんたちのお店ではくすぶりつつありました。たしかハローキティのお店にお客さんを持っていかれる前にはこのくらいの繁盛は普通のことで、ただしその頃はミッフィーのお店以外に遊び場はありませんでしたから、みんながそれを普通のことだと思っていました。ライヴァル店の出現に客足が遠のいたり戻ってきたりを繰り返してきて、初めて忙しいとか閑古鳥とかいう意識がめばえてきたのです。ミッフィーたちこうさぎにとっては、それは明らかに認識の限界を超えた種としてのデカダンスでした。
 それとともに、ハローキティと消えたリボンの一件以来、これまであった均衡が急激に崩れ始めていることに、ぼんやりのんきなバーバラでさえもが気づかないではいられませんでした。ウインはますます無口になり、メラニーすらも用心深げな様子なのがアギーの不安をかきたてずにはいられませんでした。単に私は心配性なだけかもしれない(とアギーは思いました)、でも、誰もがあえて具体的には触れないこのもやもやした感じはどうすればいいのだろう。こうした夜の職業につきもので、お店で働く全員が各種の大量の服薬で心身を維持していましたが、それも以前にはなかったことでした。もしこれがハローキティの消えたリボンのせいで、キティのお店の子たちがリボンを見つけられないでいるならば、手を貸さないでは自分たちまでおかしくなってしまうのではなかろうかと思われました。しかしお店が繁盛していること自体はけっこうなことなので、誰もが言い出せない雰囲気だったのは事実です。ボリスに偵察させたところで、根本的な解決にはならないのは誰もが感じていました。おたがいの店のボス抜きで、結託して解決に当たる以外に事態の改善は望めないと、おそらくハローキティの(キティ以外の)お店の子たちも思っているはずです。架け橋としてはボリスでは役に立たない。どうにか上手く交渉できる人材が必要です。


  (45)

 偽ムーミンの一行がすれ違うと、ポルナレフは今何かヤバい気配を感じなかったか?と仲間を振り返りました。うむ、とジョースターさん。ええ、でも特殊な戦意は感じませんでした、と花京院が応えると、アヴドゥルもうなずいて、何か自然現象のようなものかもしれないな、と言いました、イギーの様子を見るがいい。イギーも何かに気づいた様子でしたが、特に身構えたそぶりは見せません。それもまあ順当な話で、偽ムーミンたちとジョータローたちはおたがいに不可視の、異なる次元の存在だからでした。ジョータローたちほどのスタンド使いだからこそ多少の気配を感じとったものの、まったく干渉不可能ならば危険性があろうはずはありません。そんなことよりわれわれには使命がある、とジョースターさんは帽子をグッと押さえました。そうだ、こうしているところじゃあないじゃあねえか、とポルナレフ。やれやれだぜ、とジョータローは言いました。
 偽ムーミン一行、とはいえ率先しているのは大人たちでしたが、とにかくムーミン谷の田舎者たちは休戦地とはいえ戦場などを訪れたのは初めてでしたから、興奮を抑えながらも浮き足立っていました。テレビで観るほど派手じゃないんだね、とムーミンパパが無難な感想を口にすると、そうでもないぞ、あれを見たまえ、とヘムレンさんやジャコウネズミ博士、ヘムル署長らが破壊と殺戮の痕跡に気を惹き、スナフキンはため息をつき、スノークとムーミンパパはのぼせあがり、女性たちは子どもたちからその景色を隠しました。社会勉強にしてもこんなに生々しい現場は刺激が強すぎます。
 チェブラーシカは荷台を曳いたわにのゲーナと、今日も国際手配中のシャパクリャクおばあさんに頼まれたやみ酒を仕入れにやって来ました。ずっとミッフィーのお店で買ってきたけれど、初めてハローキティのお店で仕入れてみようか、と試すつもりで来たのです。ミッフィーのお店では3倍に水で割ったお酒を3倍の値段でつかまされていましたが、キティのお店ができる前からの取引先だったのでやみ酒の売り買いとはそういうものだ、とシャパクリャクおばあさんからも文句は言われませんでした。でも考えてみれば、ハローキティのお店で持ち帰り酒が売ってもらえるならミッフィーのお店より悪い、ということはなさそうで、もし駄目でも今まで通りミッフィーのお店で買えばいいだけのことです。こうしてチェブラーシカは何も知らずに


  (46)

 それじゃあ次のモンダイだゾ、と野原しんのすけは言いました、織田信長が明智光秀に討たれたおシリは?おシリじゃないだろしんのすけ、と風間くん。そうだよしんちゃん、とマサオくん。お城……とボーちゃん。そうともゆう、としんちゃんはとぼけてみせると、ネネちゃんならきっと知ってるゾ。ネネちゃんは当然そんなの知りませんでしたが、答えられないのも癪なので風雲たけし城、と答えました。男の子たちはぎょっとして後ずさりをして、ひょっとしてネネちゃん昭和生まれの人?みんなと同じ5歳よ!とネネちゃんは答えましたが、1992年にもネネちゃんは5歳だったのです。
 そこに変な直立歩行のカバを含む妖怪めいた団体が通り過ぎていくと、こんどはたぬきのぬいぐるみのような生き物が荷車を曳いたわにと一緒にシュールおままごとをしている(いつもはリアルおままごとなのですが)しんのすけたちの方に近づいてきました。とはいえ、目標はしんのすけではなく、しんのすけたちのいる場所を通り過ぎすぎたどこかなのは間違いないようです。オラたちがここで会ったのは、だいたい有名な人たちばかりのようだから、としんのすけは声をひそめました、きっとあれも有名なのに違いないゾ。
 ハローキティのお店はこのあたりにあるはずなんだけどね、とチェブラーシカ、困ったなあ、どこまでが廃墟でどこにお店があるのか、よくわからないや。地の利で言えば先発のミッフィーの店の方が良い場所を押さえているわけだな、とわにのゲーナ、後発で地の利も悪い、その割に先発店に迫る繁盛ぶりとは、なかなかやり手なんだろうな。まだチェブラーシカたちはリボンをなくした後のキティーズ・ディヴィジョンの凋落ぶりを知らなかったのです。それにぼくたちは持ち帰りでやみ酒を仕入れてくるだけだし、何の心配もいらないや、とチェブラーシカたちは考えていました。本来なら事実その通りだだったでしょう。チェブラーシカもわにのゲーナもお色気に惑わされるような歳ではありません。たとえそれがエクスタシーとともに生命エネルギーを落命ぎりぎりまで吸収されてしまうようなものですら、チェブラーシカとゲーナにはロシアの大地に根を張った強力な耐性がありました。
 しかし最初の取引というものは緊張が伴うことです。いいかいゲーナ、と、チェブラーシカは相棒に声をかけました。そうでもしなければチェブラーシカ自身が思い切れなかなったのです。


  (47)

 私って不幸だわ、とハローキティはぼやきました、人生は一度きりだっていうのにどうしてこんなまずいお茶を飲まなきゃならないの?また始まった、とデイジーたちはげんなりしましたが、好きほうだい言わせておくしかありません。誰が淹れたの?ミミィ、ミミィ!まともなお茶を淹れなおしてきてちょうだい。やっぱり私に来たか、とミミィは思いました。やっぱりミミィに行ったわ、とデイジー姉妹は思いました。ミミィならともかく、これがキャシーやデイジーにまでおよぶとキティのメランコリーも容易に引き返せないほど重傷、ということになります。不幸なのは私たちの方だわ、とデイジーたちは思わずにはいられませんでした。こんな地の果てみたいなところまでハローキティにつきあわされてきたあげく、幼稚なわがままにまで相手をしないわけにはいかないとは、腐れ縁どころかとんだとばっちりです。
 私って不幸だわ、とハローキティは今度は自分に言い聞かせるように言うと、左耳にリボンを結んでいた頃はあんなに自信に満ちていて、世界は自分の思い通りのものみたいだったのに、とますます悲嘆の念に駆られるのを感じました。あれは単なる錯覚だったのでしょうか?もし錯覚だとしたらあのリボンにはなんというキティちゃんにおよぼす強大な力があり、錯覚でないとしたらあのリボンはどれほどキティちゃんから力を引き出していてくれていたことでしょう。ところがハローキティのリボンは謎のように消えてしまったのです。まさしく謎、他に呼びようもないことでした。
 ミミィが台所で紅茶の支度をしていると、キャシーたちもやってきました。やばいよ、入っちゃってるよ、とデイジー、あんなんじゃマイメロの話、切り出せないよ。紅茶にラム酒でも入れる?とキャシー。いや、お酒はなおさらやばいでしょ、とデイジー、それより今はあの私って不幸だわから気を逸らさなきゃ。
 双子の妹ならわからない?と訊かれて、ミミィはうちは特殊だから、と困ったように答えました。特殊って?私は正確には普通に言う双子じゃないの。じゃあ何なの、と長いつきあいなのにそんなの初耳のデイジー姉妹は訊きました。バックアップみたいなもの、と言ったらいいかしら。もちろんさらにバックアップもいるけど、双子以上は不自然でしょ?
 デイジーとキャシーは慄然としました。バックアップ!?もしもそんなことが本当なのなら、私たちだってやろうとすれば……


  (48)

 恒星磁場とは、恒星の内部にある、伝導性を持つプラズマの運動によって形成される磁場のことを言います。プラズマの運動は対流にともなって形成されます。この対流とは、物質の物理的運動を含む、エネルギーの移動の形態のひとつです。局所的な磁場はプラズマに大きな力をおよぼし、密度の類を見ない増大とともに圧力を極めて効果的に引きあげます。その結果、磁化された領域は残りのプラズマに応じて、その恒星の光球に達するまで膨れ上がります。これが光球面の恒星黒点やコロナループに関連した現象を生むのです。
 それが今、ミッフィーちゃんのディヴィジョン#1とハローキティのディヴィジョン#2が営業中のこの戦場に起こっていることでした。戦場といっても休戦地ですが、それも恒星磁場になぞらえられる現象を引き起こしている鍵なのです。簡単に言えばプラズマの流れとはお客さんの出入りを指していると置き換えれば、その変動が二つの恒星にどんな磁場を発生させているのかおわかりいただけますでしょうか。
 天文学なご講義ありがとうございました、とスノーク、つまりわれわれもそのプラズマXのうちに含まれる、いやすでに含まれてしまっているということなんですね。私はちょっとのん気すぎていたようです。
 いやそれも当然さ、とジャコウネズミ博士、私たちだってヘムレンさんと検討を重ねなければたどり着かなかった結論だからね。ついでに言えばこれは天文学的と言うよりは地質学的な考察とする方がより実態に即していることになるだろう。もっとも考察自体は何ら事態の解決にはならん。しかし本来この戦場で保たれていた均衡状態があの二軒の店の間では崩れ始めていることは確かだ。これをそのまま放置しておくとどうなるか?
 どっちかの店が潰れるんじゃないですかね、とスティンキー。きみはどろぼうだからあっさりそう言うが、とヘムル署長の警棒の一撃でぱっくり頭蓋を叩き割られたスティンキーに(いつものことだからすぐ回復するのです)ヘムレンさんは、歴史的に見てみると、店が一軒しかなかった状態というのは極めて危険なことなのだ。つまりそれは、ここが休戦地ではなく本当の戦地だった時代以来のことになる。可塑的に考えれば、どちらかの店が潰れるというのは戦争の再開の予兆を示しているとも言えることなのだよ。つまり私たちはやばいところにうっかり来てしまい、役割まで背負わされてしまったことになる。


  (49)

 股旅が一本道を歩いてくると道をふさいでいる一頭の馬がいました。馬の眼は鋭く、股旅と馬の間にはまたたく間に殺気が走りました。どかんときる、と股旅。お前にワシはきれんよ、と馬、なぜならワシはきーきーきるきるきれないだーら、と馬、おそれいったか。おそれいらん、と股旅、なぜならオレはおーおーおそれおそれおそれいらないだーら。
 そういう風に昔の勇者は闘ったものじゃ、とジョースターさんは言いました。なるほど、勉強になります、といつでもわかりの良い風間くん。なにそれ、ちっともわからないわよ、バカじゃない?といつでも傍若無人なネネちゃん。やれやれ、女の子はどこの国の子もおなじじゃな、男のロマンを知らん、とジョースターさんが言うのは、同じ話をチャーリー・ブラウンたちパインクレスト小学校の子どもたちにも先にしており、チャーリーやライナスらは武士道の神秘におそれいったにもかかわらず、ルーシーやサリーからは大ブーイングをくらったからです。マーシーだけは日ごろからスヌーピー流のヒロイズムの理解者ですから黙って真剣に聴いていましたが、理解できたかといえば心もとない話としか言えません。
 ジョースターさんは何やっているんだい、とポルナレフはカウンター席で足もとのイギーにビーフジャーキーをやりながら(前もって塩抜きを頼んでおいたのです)こぼしましたが、ジョースターさんの行動にも意味があるのだ、とアヴドゥルが説明しました。無防備かつ無垢で中立的な子どもほど自分たちでは知らないうちに重要な秘密に立ち会っているものなのだ。それに耳を貸すのが東洋の知恵というものだ。そういうものかねえ、とポルナレフは、そういやおれたちのチームは東洋人の方が多いんだな、と今さらながら気づきました。おれやジョースターさんだって家系をさかのぼれば純血種とは限らないかもしれねえし、本当に純血種なのはイギーだけ、ってことか。
 お客さんたち、料理できましたからテーブルでどうぞ、とうながされて、ジョータローたちはテーブルに移りました。人数分のピザ、ブイヤベース、パエリアがテーブルに並びました。イギーの分を追加注文せねばならないですね、と花京院。どうしてだい?犬や猫はシーフードを食べると腰が抜ける、と日本の言い伝えにあるんです。だって猫は魚が好物じゃないのかい?そうともいう、としんのすけが突然ポルナレフの膝の間から現れました。またお前か。


  (50)

 チェブラーシカとわにのゲーナは裏口に回るよう指図されました。ぼくたちこのお店は初めてだしね、お酒の持ち帰りもたいていは断られても仕方がないことだもの、それに子どもだし。チェブラーシカとゲーナは素直にお店の裏口にまわりました。あたりにはチェブラーシカたちの姿を隠すようなものもなく、お店には彼ら以外お客さんはいませんでしたから、なんのためにわざわざ裏口まで回ったものやら無意味としかいえません。空にはチェブラーシカたちの知らない星ぼしがまたたいていました。名前なら小学校で教わったんだけどなあ、とチェブラーシカ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル、こと座のベガ。それは何だい、とわにのゲーナ。夏の大三角だよ、とチェブラーシカ、でもどれがそうなんだろう?夜空の空気が透明すぎて、ぼくにはわからないや。確かにそうだな、とわにのゲーナ、スターが多すぎるとどれもただの星くずに見える。
 あれが天井なら雨漏りがひどいだろうな、とわにのゲーナは言いました、改革前の昔を思い出すよ、もっともおれはわにだから雨漏りがしていても眠れるが。ぼくは困るよ、とチェブラーシカ。おれの口の中に入って寝ればいい、とわにのゲーナ。うっかり喰っちまいやしないか保証はできないが、おれはわにだからその辺は自己責任としてくれ。
 改革前が話の引き合いに出てきたのはひさしぶりでしたので、チェブラーシカたちの話題はひさしぶりに旧体制と新体制の比較になりました。なるべく公平に見て、とわにのゲーナ、昔も悪いところばかりじゃなかったよ。健全であればナショナリズムも悪いことじゃない。もし旧体制下でナショナリズムの確認がなかったら、改革はもっとグローバリズムに呑み込まれてしまうような性質のものだったかもしれない。それに、おれたちのかつての政府は本格的な国際戦争と内戦はかろうじて回避してきた。これもスラブ民族のナショナリズムがあったからおれたちは無理はできないとわかっていたんだ。それを思えば、おれたちが一種の文化的鎖国をしていた50年間にはそれなりの必然があり、効用もあったと言える。
 あ、誰か出てきたよ、とチェブラーシカがゲーナのチョッキのすそを引っ張りました。チェブラーシカはコートのフードを立てて顔を隠しました。やみ酒を買いに来る時はいつもシャパクリャクおばあさんに、右手を人間の手にしてもらっているのも確認しました。
 第五章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

集成版『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』第六章

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 第六章。
 初めて車輪にペダルをつけた自転車の一般販売はフランスで1861年、ペダルによって後輪をチェーンで回転させる現在のような自転車が発売されたのはイギリスで1869年のことでした。それらに先立ち、直接足で地面を蹴って進ませる自転車の元祖が商業発売されたのは1817年のドイツで、これが近代自転車の始まりと見做されています。ただしここでは自転車の歴史をたどりたいのではありません。一般に販売された自転車は、1817年の初期モデルすらすでにサドルを備えたものでした。これがペダル式の1861年モデルが出ると一気に普及したのですが、当時にあっては最新式の個人移動車両である自転車は現代の自動車並みに高価なものであり、ブルジョア階級や貴族階級以上の財力がないと購入できないものでした。
 このフランス製ペダル式自転車の普及から、婦人用自転車のサドル盗難が急増しています。自転車そのものを盗むのではなく、サドルだけを狙った盗難が相次ぎました。もちろん自転車のサドルだけでは換金性が目的とはほとんど考えられません。つまりこれは婦人用自転車のサドルに対するフェティシズムを背景にしたものであり、その動機は見も知らない貴婦人のドテがぐりぐりと押しつけられたサドルであることに偏向した性的フェティシズムが刺激された結果によるものと思われます。現代でも婦人用放置自転車のかなりがサドルを持ち去られている現象があり、自転車の発明とともに婦人用自転車サドル窃盗犯が発生したのは歴史的事実となっています。おそらく人類の男女比と婦人用自転車の比率が今後も変わらない限り、婦人用自転車サドル窃盗犯も人類の数と比例した数だけ潜在することでしょう。
 そんなのん気なことを考えながら、スヌーピーはウッドストックを呼び寄せて、この休戦地にやってきてからの見聞をエッセイ風の小説にまとめようとしていました。書き出しだけはとっくに決まっています。「嵐の吹く暗い夜でした……」それは町のいたるところで婦人用の放置自転車からサドルが盗みとられる時刻です。スヌーピーにとってそれは理解を絶していましたが、理解のできないことを書くうちに包括的な認識にたどり着くのが優れた作家というものです。チャーリーたちで試してみるのもいいかもしれないな、とスヌーピーは思いました。変態とは案外身近なところに潜んでいるものなのだと、スヌーピーは予感していました。


  (52)

 しかし精神年齢面ではるかにパインクレスト・キッズより成熟したスヌーピーから見ると、まず連中には貴婦人というものがいない。庶民のガキどもですから仕方のないことですが、素質としてはかろうじてマーシー(スヌーピーはつきあいの良いマーシーについては点が甘いのです)くらいのもので、貴婦人としてのルーシーなどを想像するとへそが茶を沸かします。ですがサドル泥棒とは特定の女性の婦人用自転車サドルを狙うのではないのですから、痴漢や覗き見のような色情狂的行為と見做す方が自然でしょう。ならば彼らのうちに色気に満ちた女の子がいなければサドル泥棒が発生しない、とは言い切れません。
 ですがスヌーピーから見ると、チャーリーたちには永遠に第二次性徴期などやってこないのではないかと思われてならないのでした。なるほどルーシーはシュローダーにぞっこんですし、チャーリーやライナスもシーズンの行事ごとにロマンスが芽生えそうになってはしくじっています。ですがあれは、ついこないだ知りあったばかりの日本人の幼稚園児たちがやっているようなリアルおままごとなのではないか。そうした環境からは、理解はできないが全世界的に普遍的な現象らしい婦人用自転車のサドル窃盗という現実を認識すらできないのではないか。つまり死という概念のない世界では誰も他人の死を認識できず、自分の死を想像することもできませんが、それと同じなのではないか。
 スヌーピーは愚鈍について考えをめぐらしました。愚鈍、それは知性や理解力、理性や機転、または判断力の欠如を指すものでしょう。それは先天的だったり、擬態であったり、状況に反応して起こったりするものだったりします。そしてそれは、悲しみや精神的外傷などの状況に対する反応として自分を防御するものでもあるのです。この場合、愚鈍は無垢(イノセンティ)と呼び替えることもできそうです。それがパインクレスト小学校の子どもたちにとっての無垢に他ならないでしょう。
 その頃パインクレスト町のブラウン理髪店では、チャーリーのお父さんがお客さんのひげを剃っていました。お父さんの名前もチャーリーでしたから(つまりチャーリーはジュニアで、お父さんはシニアです)、お客さんにはチャーリー・ザ・バーバーと呼ばれるチャーリー・シニアは、入念にボウルに泡立てたしゃぼんをお客さんの顔面に塗ると、よく研いだ剃刀を手慣れた手つきで斜めに当てました。


  (53)

 私たちに欠けているものは何かしら、とデイジーは私って不幸モードに入っているハローキティに言いました、例えば博識や哲学よね。それに本当の意味で成熟した女の魅力や母性、包容力にも欠けているかもしれない。洗練された物腰や気品、溢れる才能にも欠けているかもしれない。でも、そんなものが私たちに本当に必要なのかしら?
 もちろん、とデイジーは続けて、ツキというのは誰だって必要よ、そして私たちは今ツキに見離されていると認めるしかない。でもそれって自分でどうにかなる場合と、自分ではどうにもならない場合があるじゃない?これまで私たちはついていたのよ、それが今ではついていない。こんなことを嘆いていたって始まらない、私たちの仕事はお客さんの入り不入りで賃金を下げられるわけじゃないし、これまでもらえていた特別手当がつかなくなるかもしれないけどもともと大した額じゃあなかったじゃあない?基本給だけで十分稼げている上に、ヒマならヒマで働いている分以上にお給料をもらっていると考えればいいのよ。少なくとも私たちには不満はないわ。どうかしら?
 私が不幸なのはそんなことじゃない、とハローキティ、お金とかお客さんの入りとか、そんなありふれたことだってもちろん大切だけど、私の不幸はそんなことじゃないのよ。
 それはもうみんなわかっているから、とデイジーはのど元まで言葉が出かかりましたが、それを言ってはお終いです。ハローキティの不幸の核心をつつくことになってしまいます。めんどくさい女、とデイジーは妹の親友で自分も親友ということになっている、このカマトトこねこの表情を斜めにちらりと眺めました。
 キャシーはそのやりとりを聴いているうちに、自分の姉は本当はキティを追い詰めるのが目的でまくしたてているのではないかと思わずにはいられませんでした。年長者でもあり実質的にお店の営業を任されているだけあって、本来ならキティの苦境はデイジーの苦境でもあるはずです。しかしデイジーはキティの自虐癖につけこんで、同情し慰める様子をしながらも、こうなったのはすべてハローキティのせいであるようなムードに持ち込んでいました。自分の実姉とはいえ、そのあざとさには目にあまるものがありました。
 もしキティの不幸をみんなで解決できれば、今までどうりになるかしら、と思い切ってキャシーは口にしてみました。それはこれまで誰も、思いつかなかったことでした。


  (54)

 どう、いつもの私と違う気がしない?とミッフィーちゃんは化粧台から振り向くと、下士官たちの注意を惹きました。下士官たち、つまりアギーやメラニー、バーバラやウインはおのおのの流儀で顔を上げると、つまりアギーはおどおどと、メラニーはふてぶてしく、バーバラはのん気に、ウインは無表情に師団長を見つめましたが、とたんに全員に気まずいような、しかし何かしら無難な反応を見せてこの場をやり過ごさなければならない空気が流れました。われらがミッフィーは賛同以外のどんな反応も求めていないことは明らかでした。彼女は左耳に赤いリボンを蝶結びにしていたのです。どうかしら、とミッフィーは重ねて訊きました。
 可愛いんじゃないの、とメラニー。彼女は要らないことまで口にする性格ですが、自分以外に口火を切る仲間がいないのに気づいたので損な役を買って出たのです。普段はわずらわしがられている短所がなせる業ですから、どんな人でも美点はあるものです。なんだかハローミッフィーっていう感じもするわね。
 言っちゃったよ、とアギーはびくびくしました。メラニーの性格ならばストレートなもの言いはいつものことなのですが、それにしてもあまりにそのものずばりを言ってしまうにはまだ時期尚早すぎるのではないだろうか、とアギーには思われました。たとえば1714年7月20日、金曜日の正午に、ペルーでもっとも美しい橋が崩落し、ちょうど橋を渡っていた男女5人が深い谷間に落ちて即死しました。イタリアのイエズス会から派遣されていた宣教師がその時、橋につながる広場で宣教をしていましたが、事故の瞬間を目撃した彼は派遣期間の6年間を、神父職のかたわら5人の事故死者の親族や関係者に面談し、膨大な記録を残しました。それは神父に、人間は偶然に生まれ偶然に死ぬのか、神の御心によって生まれ神の御心によって死ぬのかを、この橋の崩落事故が問いかけてきたからです。メラニーなら間髪入れず、関係あるわけないじゃん、と一笑に付すでしょう。
 ハローミッフィー、それもいいわね、とあっさりミッフィーが受け流したので、他ならぬメラニーもおや、と思いました。メラニーが思うにミッフィーには一定したキャラクターがなく、幼児の自我が場面場面で大きく変わるようにいくつかの引き出しがあるような状態だと考えられるのです。ですが今左耳にリボンを結んだミッフィーは、いつもの彼女とは違っていました。


  (55)

 目が醒めて枕もとの時計を見ると、長短二本の針は5時半をまわったところだった。カーテンごしの光からは屋外はどんより曇っているように思われた。数分間、それまで眠っていた頭にまだねむ気があるか探っていたが、どうやらもう眠くなさそうだと思うと友だちのことが心配になってきた。電車で30分ほど離れた町に住むその友人とは6年前に入院先の病院で同じ病室になって知りあい、偶然だが入獄・離婚・発症と似たような経歴でもあり、退院後もたまに電話で話したり会って食事したり、ピンサロやヘルスに行ったりする仲だった。
 4年前まではおたがい半年ごとに入退院をくり返すほどの障害二級の病人だったが、こちらがようやく入院するほどの病状の悪化がなくなり満4年を過ぎても、友人の方は相変わらず毎年決まって入退院をくり返していた。障害等級も現在は一級だという。普通、障害一級でひとり暮らし、自由に町を歩いている病人はいないと言われる。介助が必要か、または入院が推奨される病状と診断されているのだ。
 それからは電話するとついこの間まで入院していたり、突然入院先から電話をかけてきたりというのが2年に3回くらいの頻度であった。急性症状の入院は平均入院期間は3か月が単位だから、24か月のうち9か月は入院生活を送っていることになる。
 先週、ひさしぶりに元気か様子を見ようかと電話すると、お客さまの都合で電話ができなくなっております、というアナウンスが流れた。メールを送ってもReturnd Mail、ユーザーが見つかりません。@以前をご確認ください。User Unknown、という自動返信しかこない。また入院したのだろうか。こないだの退院は昨年11月下旬、まだ半年程度しか経たない。
 5時半なら早からず遅からずちょうどいいだろう。やはり確かめなければ心配になる。急性入院なら3日間~1週間も隔離室で安静にさせられればもう病棟に出られているはずだし、こないだの電話は滞納して止められていただけかもしれない。恐るおそる電話してみた。
 はい、とモゴモゴした声で友人が出た。良かった、電話つながらないから入院かと思ったよ。滞納してたんです。やっぱりそうか、ところで体調は大丈夫、少し舌がもつれてないか?いや、こんな時間だから、と彼。
 そこでようやく、昼寝から起きた夕方5時半ではなく、早朝だと気づいた。自宅療養中の病人どうしなんて、こんなものだ。


  (56)

 顔が割れてないのはあなただけだから必要はないかもしれないけど、とデイジーはまじまじと相手の顔を見つめ、でもやっぱり変装はしていった方がいいかもね、何がきっかけであなたがうちの店から来たってバレないか、予期できないから。あなたがうちの店と何か関わりがあるんじゃないかと疑われたら、探り出したいものも探れない。警戒されるに決まっているわ。あなたが私たちと同じ種族だと思えば、そういうブランドに見えてくるのはどうしても隠しきれないでしょう。だから用心のためにも変装していった方がいいわ。
 マイメロ変装なんかしたことないから、どうすればいいかわからないよ、とマイメロディは言いました。このカマトトうさぎ(のぬいぐるみ妖精)、とデイジーは苛立ちましたが、あなたの場合簡単よ、とずきんを脱がせにかかりました。いやーん、とマイメロが悶えて逃げようとするのでデイジーが目くばせすると、左右からキャシーとミミィがマイメロの腕を取って押さえつけました。ひい、とマイメロはうめき声をあげると大声で泣き出しましたので、心優しいキャシーとミミィは罪悪感に責められましたが、今さら乗りかかった船というものです。デイジーは頭をぐらぐらさせているマイメロにはかまわず、ずきんに手をかけて力まかせに脱がせようとしました。
 ところが一見単純な構造のかぶり物のように見えて、なかなか上手くいきません。ずきんは頭の後ろと顔の側面を覆って、あごの下で左右が襟のように合わさっていました。見たところホックやボタンもないので、ずきん自体が伸縮性に富んでいてすっぽりとかぶるような仕組みになっていると思われます。それならかぶる時と同様に引っ張れば伸びるはずなのですが、耳の部分を引っ張っても、頭の部分を引っ張っても、あごからめくり上げようとしてもマイメロの顔ごとついてくるので、脱がすどころかまったくらちがあきません。
 ミミィはお客さんが置いていったマンガ雑誌の侵略!イカ娘を思い出しました。イカ娘のヒレつきの帽子は彼女の頭部の一部なのです。ひょっとしたら……それ、彼女のからだの一部なんじゃないかしら?えっ、じゃあ脱げないの?マイメロは泣きじゃくってまともに返答が返せません。それじゃあマイメロってバレバレじゃない?役にたたない子!
 いや、でも他にも使いようはあるか、とデイジーは企みをめぐらせました。ミッフィーの店に潜り込ませればいいんだわ。


  (57)

 チェブラーシカとわにのゲーナにやみ酒を仕入れさせているシャパクリャクおばあさんは謎のいじわるおばあさんで、悪いことをしなければ有名になれない、とまわりの人間の嫌がることをしては喜ぶ性格でした。冷戦時代にはアメリカに渡ってスパイ活動に暗躍していましたが、東西の壁が崩壊した現在でもスパイ時代にバットマンの自動車のタイヤをパンクさせ、バッグス・バニーのにんじんに農薬をかけてだめにし、ネズミーマウスのしっぽに空き缶をゆわえつけた容疑でFBIから国際手配手配されているため、国外には出られないのです。
 チェブラーシカとゲーナがやみ酒を仕入れての帰り道、すれ違ったスヌーピーは人間の数万倍の嗅覚でチェブラーシカたちから間接的にシャパクリャクおばあさんの臭いを嗅ぎつけました。それはチェブラーシカたちがシャパクリャクおばあさんから賃金と一緒にロシアの郷土料理をふるまわれているからで、かつてスヌーピーの自慢の犬小屋が何らかの目的で就寝中に滅茶苦茶に荒らされた時も(スヌーピーは閉所恐怖症のため夜は屋根の上で眠るのです)、翌日の昼間に留守中むざんにも犬小屋が爆破されていた時も、確かにこの臭いが現場に残されていました。バットマンやバックス・バニー、ネズミーマウスの件も同じ頃に起こった事件でしたが、スヌーピーはマスコミ全体に裏から圧力をかけ自分の事件だけは漏洩しないようにしました。バットマンやバックス・バニーはまだしも、ネズミーランドでボロ儲けしているあのネズミーマウス、生意気にも飼い犬まで飼っているあのねずみと同列に並べられるのは撃墜王のプライドが許しませんでした。
 もちろんスヌーピーにはいかした大学生ジョー・クール、小説家、辣腕弁護士、ビーグルスカウト団長など他にもさまざまな顔があります。天才外科医、登山家、船長、ロックスター(の天才マネージャー)、危険物取扱者、簿記三級そろばん二級、チェス名人、ビーグル・オブ・フェイム(ビーグル犬の殿堂)、Ph.D.(哲学博士)、考古学博士、美術品鑑定士、天文学教授。これだけの才能に恵まれ素人探偵の素質がないわけはあろうか、というものです。ここで会ったら百年目、ついに屈辱の犬小屋爆破事件の真相をつきとめる糸口がみつかり、あの時はチャーリーらに犬小屋が気に入らないからって爆破しちゃ駄目だよ、もっと気に入る新しいの作るからね、と犯人あつかいまで受けたのです。


  (58)

 捕まえておいて、数か月間監禁しておき、適当に事務処理したら何のフォローもなく放り出す……〓〓〓〓〓はこうして効率良く再生産される……〓〓〓とは〓〓〓というだけで数か月を正当な法的効力で監禁できるので、世間ではそれなりに根拠があるんだろう、と思うだけだ……それは法の適用が無謬であり、自分は法に守られている側にいると盲信しているからで、そんな無謬はどの国のどんな法でもあり得ない……法はいつでも無作為に無辜の個人を蹂躙し得る……法に守られた個人など存在しない、常に法に拘束されているだけだ……これを言えるのは、尻の穴をガラス棒で探られ、大きな指で潰される蟻のようにむき出しで法と対峙した経験のある個人だけで、お前らにはそれを否定できる権利も賛同する資格もない……これは言葉の真の意味での戦争なのだ……完全な勝ち目はない、殺るか殺られるか、という対照性すらない……相手が巨大すぎるので(それは民意に支えられたもの、すなわちわれわれそのものだから)、いかに回避して低い程度の懲罰で済ませるかしかなく、そのための自由を奪い事態を不利にさせるために任意拘置という名目の強制的監禁がある……親指に否が応でも朱肉を当てられ任意拘置同意書に拇印を捺印させられ、10日ごとに期限が来ればそれがまたくり返される……夏でも冬でも5日おきの入浴、衣類の替えと洗濯は下着も含めて10日おき……カレンダーも時計もない……ベルトと靴紐も取り上げられる……捕まえられた時の格好、トランクスにTシャツ、ジーンズのパンツで夜も昼も過ごす……毛布はじゅうたんみたいにごわごわして、タグを見ると20年前の日付が書いてある……食事のトレイは足もとの横長の小窓から出し入れされて、三度の食事以外に時間の感覚がない……空間の感覚もおかしくなっている……自由に出入りもできず好きな気晴らしもできないと……一応図書はあるが、牢獄の蔵書に推理小説ばかりとは笑わせる……空間の感覚、日常生活では正常な遠近感を喪失していくのがわかる……ついこの間まで毎日普通に会話していたのだが、監禁されてからは定時の点呼以外には一日じゅうひと言もしゃべらない毎日が続く……3036番、ここでは番号が名前の替わりに与えられる……取り調べ室への移動にも手錠と腰縄で拘束される……これが人が人にすることか?……これらすべてを容認しているのはわれわれ自身なのだ……経験してみるがいい。


  (59)

 お客さんが減ってから客の質も悪くなったわ、とキャシーがぼやきました。さっきなんか女ひとりに男ふたりの3人組みのお客さんだったんだけど、〓〓〓〓なんか帰化させるな、帰化〓〓〓は恥も仁義も知らない野蛮人で八百万の神を畏れないから事件を起こす、あいつらの蛮行がこれ以上ないように身を清めて着物で神社に参拝してきた、だってさ。古式ゆかしく信仰篤い日本人は大昔から大陸の文化を敬っていたはずでしょう?大らかな八百万の神がおわして、日常的に謙虚に参拝するくらいの人なら、隣国からの帰化人を〓〓〓〓だとか帰化〓〓〓呼ばわりして、恥も仁義も知らない劣等民族なんて決めつけるようなはしたないことはしないわ。こないだデイジーが言ってた……
 ああ、共産主義ユダヤ人陰謀説ね、とミミィが受け、あれは私が相手したお客さんよ。そのお客さんの説だと共産主義は全世界のユダヤ人支配のための陰謀だったんですって。ナチ政権がユダヤ民族のホロコーストに取り組んでいたのとまったく同じ論拠よね。デイジーが聞いた話っていうのは……
 ジョン・レノンはFBIによって偽装策殺された(笑)……真面目な顔でそう言われてもねえ、どうしたらいいっていうのよ。世界は陰謀と人種抗争に満ちている、というのが酔っ払いの思考パターンなのかしら。酔っ払うと普段は用心して塗装している差別意識や固定観念になっている疑念がだだ漏れしてしまうのかしら。何にしろ、主張する内容が荒唐無稽なのは知性の欠如で済むことだけれど、それを主張する本人に誠意や主張の一貫性が欠けている。ただの思いつきだけで、発言に責任感がない。そうなるとますます手に負えない、としか言いようがない。私たちはそうですねえ、そうなんですか、勉強になりましたぁとフンフン聞き流してお客さんを悦に入らせるのが仕事なんだから。
 それにしてもいまだに〓〓〓〓だとか〓〓〓とか〓〓〓とか、本心から蔑称のつもりで、憎悪と悪意をこめて口にする人がいるのね……私たちはどこの国でも愛されているのに、とミミィがつぶやくと、劣等感の裏返し、それと品格と教養のなさ、要するに馬鹿なのよ。でも馬鹿のご機嫌取ってなんぼの私たちには批判的なことは言えた資格はないわ。せめて本心まで汚染されないように馬鹿を見抜くだけの観察力と教養がなくては。これは自分たち自身を守るために必要なことよ。劣等民族と口にするような劣等人種からね。


  (60)

 行進曲はぴたりと止みました。あれはなんじゃい?とジョースターさんがマイメロディに訊くと、マイメロはさあ、と困った顔になりました。ちょうど食器を下げに通りかかったメラニーが、軍楽隊がたまにああしているんですよ、この子は入ったばかりの新人なのでよく知らなくてすいません、と替わりに答えました。一応答えはしましたが、メラニーのおざなりの回答はかえってジョータロー一行の疑念を深めました。ここは今休戦中なわけだろ、とポルナレフ、じゃあ今この地帯を統治しているのはどこの国なんだ?で、あの軍楽隊はどこの国の軍隊だ?普通に考えれば、とアヴドゥル、古典的な戦争では植民地化や領土拡張、資源奪取というのが主な目的になる。ここは本来自治区としてどこかしらの大国と同盟を結んでいて、大国どうしの争いでそれまでの政情が大きく崩れた。大国Aの衛星国から大国Bの衛星国に、またはまったくの独立国化に対して大国Bから干渉を受け、それを大国Aが妨害しようとする場合もあるだろう。この地帯ではどうなのかね、マイメロディさん?
 マイメロは困って近くに替わって答えてくれる先輩はいないかきょろきょろしましたが、メラニーはさっきのひと言だけでとっくにムーミン谷ご一行さまの接客についてしまい、アギーやバーバラもふたば幼稚園ひまわり組やパインクレスト小学生たちを相手におおわらわでした。マイメロディはこのお店をスパイするためにアルバイトに入ったので、接客のノウハウどころかここがどういうお店かも知らずにハローキティたちに送り込まれたのです。もしマイメロディに接客の心得があったとしても、ムーミン谷の人たちやチャーリー・ブラウンたち、ひまわり組の幼稚園児たちならまだしもジョースターさんたちをお相手するのは手にあまることでした。マイメロはずきんの中が冷や汗でびっしょりになりました。あの、とマイメロはメニューを広げて、こちらもお薦めになっていますが召し上がりませんか?
 トンビのズンドコ揚げとボンジリのパッパラ炒めを人数分のホッピーと追加注文すると、しかしそれは古典的概念の戦争でのことですよね、と花京院。うむ、とジョースターさん、われわれが追っている相手には、従来の価値観では予測できない目論見があるかもしれん。それを忘れてはいかん。
 それはどんなものでしょう?予測できないからわしにもわからん。やれやれだぜ、とジョータローは言いました。
 第六章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2019年5月10~12日/蔵原惟繕(1927-2007)と日活映画の'57~'67年(4)

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 昭和39年('64年)、日本の映画界は最大のピンチを迎えました。日本の映画人口が史上最大を記録したのは昭和33年('58年)で12億2,745万人、年間映画観覧数人口比12.3倍となり日本人一人当たり年に12.3回映画を観ていたことになりますが、翌昭和34年('59年)からテレビの普及で映画人口は減り続け、昭和36年('61年)には大手6社のうち新東宝が製作中止してテレビ放映権を売却、事実上倒産します。昭和38年には映画観客数は昭和33年の47%まで減少し、全国の映画館数も減少してしまいます。そして昭和39年('64年)は映画界が最大に懸念していた東京オリンピックが開催されました。日本は世界有数のテレビ普及国となり、大手5社トップの興行収入を誇った東映も減産体制に入ります。松竹が武智鉄二を監督に迎えて『白日夢』『紅閨夢』を製作・公開して物議をかもしたのもエロティック路線で活路を開こうとしたからですが、インディー映画のピンク映画の興隆もこの頃で、翌昭和40年には日活が武智鉄二を迎えて製作・公開した『黒い雪』は猥褻罪で日活の担当者と監督の武智が起訴されてしまいます。昭和40年('65年)日本映画空前のヒット作になったのが東宝の公式記録映画『東京オリンピック』だったのも皮肉な現象でした。同作のヒットにより昭和34年から昭和39年まで東映に次ぐ業界2位だった日活も昭和39年の業績は東映、東宝に次ぐ3位に下がり、『黒い雪』起訴事件が発端で管理職の人事異動から希望退職者の募集や人事関連の確執が拡大し、昭和42年('67年)から翌年にかけては管理職トップの一斉退社・監督馘首を始め大混乱の中で所有物件を次々売却、日活全体の路線変更が打ち出されます。今回、往年の日活映画を観直すのに昭和32年から昭和42年までの作品に限ったのはそうした背景からですが、'70年代には日活は世界の映画界で例がないメジャー映画社のポルノ映画路線を打ち出すまでになったので、松竹とともに日本でもっとも早くから発足したメジャー映画社でありながら日活の栄枯盛衰は安定した松竹とは対照的で、日活映画での映画全盛期の最後の残り香が見られるのも昭和39年~42年の時期の作品です。なお、歴史的意義を鑑み、今回もご紹介する日活映画については初公開時のキネマ旬報の紹介文を引用させていただきました。

●5月10日(金)
中平康(1926-1978)『月曜日のユカ』(日活'64.3.4)*94min, B&W : https://youtu.be/CI5yWQ3IQis (trailer)

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 本当は同年作でもさらに過激な『砂の上の植物群』にしたかったのですが、同作は未DVD化で5年ほど前に中平康の日活作品のセレクションDVD化が行われた時にラインナップに上がっていながら発売中止になり、いまだ発売のかなわない作品です。中平康没後20周年の記念上映では好評で同時期にNHK-BSでも深夜放映され、当時はまだ家庭用DVDレコーダー普及前(DVD自体も普及前)だったのでVHSテープに録画したのを持っているはずですが、肝心なビデオプレーヤーが壊れてからは修理も買い直しもしていないのでビデオテープも死蔵状態にある。日活が発売中止にしたのは同作が吉行淳之介の原作通りですが、女子高生を買春した中年男が女子高生に異母姉を誘惑してほしいと頼まれ関係したあとでその姉がマゾヒストの上にどうも死んだ自分の父の愛人の娘らしい、という近親相姦疑惑ポルノ小説なのですが、近親相姦よりも女子高生というのが都条令に引っかかるわけです。歴史的作品でフィクションなんだからいいじゃないかというところですが日活は『黒い雪』、ロマンポルノ時代とぴりぴりしてきたので用心深くなっている。『月曜日のユカ』がヌーヴェル・ヴァーグ的作品だとすれば『砂の上の植物群』はアントニオーニに張りあって見事な成果を見せた作品で、'60年代の映画でも最先端を行った傑作です。しかし中平康の損な点はどんな企画でも易々と抜群の出来の映画に仕上げてしまうことで、『狂った果実』『牛乳屋フランキー』『紅の翼』『あいつと私』と何を撮っても快作になる。日活解雇直前に残したGS映画『スパイダースの大進撃』'68などまったくやる気がなく酒をあおりながら監督したと伝えられますが、それでも数ある当時のGS映画中最高の出来ばえになっています。GS映画でちゃんとリップ・シンクしている映画は『スパイダースの大進撃』を除けばほとんどないのは当時の日本の映画監督がGS映画などしょせん企画物と侮っていたからですが、中平康はなげやりにGS映画を撮ってもリチャード・レスターのビートルズ映画と遜色ないものを作る。尊敬していた川島雄三らにはともかく同僚・後輩、俳優、批評家には傲岸不遜な自信家だったのが生前の正当な評価を妨げた節があり、ましてや最先端の外国映画の向こうを張る技巧家となるとかえって反発を招いたとも思われ、一部の代表作を除くと再上映の機会も少なければ国内外での再評価もたち遅れ、映像ソフト化も進んでいない監督です。昭和39年の中平作品は本作『月曜日のユカ』を始め『猟人日記』『砂の上の植物群』『おんなの渦と渕と流れ』と背徳エロス路線で、この中では頭一つ抜けて『砂の上の植物群』がいい。ラストのエレベーター内の長い固定ショットのキスシーンのシークエンス(キスを続ける仲谷昇と稲野和子のアップの背景で1階ごとにエレベーターのドアが開閉してフロアが映る)だけでも戦慄が走るもので、アントニオーニの映画もラストの1シークエンスで映画全体がひっくり返るものでしたが、『砂の上の植物群』ではあざといまでに鮮やかにアントニオーニの本家取りをやって大成功を収めており、ちなみに脚本は中平康と池田一朗(のちの作家・隆慶一郎)にのちのロマンポルノ時代の巨匠・加藤彰です。原作小説より優れた映画になるのも当たり前なのですが、同作公開(8月29日)の3週後の斎藤武市監督・吉永小百合&浜田光夫主演のベストセラーの実話映画化『愛と死をみつめて』(9月19日公開)が昭和39年度の日活最大のヒット作になったのは皮肉で、『黒い雪』の猥褻罪告訴事件とともにアクションが駄目ならエロスと仕掛けたらエロスもコケて純愛映画が受けてしまったのがのちの純愛映画路線への製作変更につながるのもこの年始まっていたことになります。娼婦の娘の無邪気な生態を描いた『月曜日のユカ』が人気作品なのは'60年代のポップ・イコン加賀まりこが主演したスタイリッシュな映画に仕上がっているからですが、加賀がヒロインの篠田正浩作品『乾いた花』'64、本作、大島渚作品『悦楽』'65など加賀まりこじゃなかったら良かったのに、と思わせられるようなところがある。安川実ことミッキー安川の原作は実在のモデルに材をとったものだそうですし、加賀まりこは役柄によくなじんでいるのですが、このヒロインは新しいタイプの女に見えて古典的な娼婦型女性の類型から大して出ておらず、そこが古くさく見えるのです。本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 安川実の原作を「学園広場」の斎藤耕一と倉本聰が共同で脚色、「光る海」の中平康が監督した風俗ドラマ。撮影もコンビの山崎善弘。
[ あらすじ ] 横浜の外国人客が多い上流ナイトクラブ"サンフランシスコ"では、今日もユカ(加賀まりこ)と呼ばれる十八歳の女の子が人気を集めていた。さまざまな伝説を身のまわりに撒きちらす女、平気で男と寝るがキスだけはさせない、教会にもかよう。彼女にとっては当り前の生活も、人からみれば異様にうつった。横浜のユカのアパートで、ユカがパパ(加藤武)と呼んでいる船荷会社の社長は、初老の男だがユカにとってはパパを幸福にしてあげたいという気持でいっぱいだ。ある日曜日、ユカがボーイフレンドの修(中尾彬)と街を歩いていた時、ショウウィンドウをのぞいて素晴しい人形を、その娘に買ってやっている嬉しそうなパパをみた時から、ユカもそんな風にパパを喜ばせたいと思った。ユカの目的は男をよろこばすだけだったから。だが、日曜はパパが家庭ですごす日だった。そこでユカはパパに月曜日を彼女のためにあげるようにねだった。月曜日がやって来た。着飾ったユカは母(北林谷栄)とともにパパに会いにホテルのロビーに出た。今日こそパパに人形を買ってもらおうと幸福に充ちていた。だが、ユカがパパから聞されたのは、取り引きのため「外人船長と寝て欲しい」という願いだった。ユカはパパを喜ばすために、船長(ウィリアム・バッソン)と寝る決心をした。その決心を咎める修にユカはキスしても良いと告げる。ユカを殴り出て行く修。ユカは幼い頃母親の情事を見ていたのを牧師(ハロルド・S・コンウェイ)に咎められたことを思い出すのだった。修が死んだ。外人船長に抗議するために船に乗り込もうとして事故死したのだった。ユカは修にキスをして波止場を立ち去る。パパとの約束通りユカは船長に抱かれた。落ち込んだユカだったが埠頭でパパと踊り狂う。踊り疲れたパパは海へ落ちてしまう。溺れ沈むパパをしばらく見ていたユカだったが、やがて無関心に去って行った。
 ――ヌーヴェル・ヴァーグ的、というよりはブリジット・バルドー映画の日本版みたいに見えると言っても悪口ばかりにはならないはずですが、本作は新しいようで単に世代が若いだけで古いタイプのヒロインを新しく見せようとして映像に凝った作品のように見える。中平康に本作のユカがいつの時代にもいるありふれた娼婦型の女と気づいているのはユカが「女の生きがいは男を喜ばせること」という私娼の母の言いつけに忠実で信じて疑わず、まったく同じタイプの母娘に描いていることでも明白で、そこから結末ではユカが「パパ」を見捨てたように見えてもパパの喜びは自分の価値にではないと気づいたからにすぎないので、加賀まりこの演じるユカの性格に本質的な変化が起こったとは感じられません。中平康はヒットを連発しても映画賞とは無縁だったのでヒッチコックだって映画賞には選ばれないじゃないかと毒づいていたそうですが、本作はヒッチコックを引きあいに出すわけにはいかない。ヒッチコックは映画観客とは目的を持った主人公が犯罪者であれ被疑者であれ目的を達成しようとするのを観たがるものだ、という持論がありました。ずるずると自分の異母妹かもしれないマゾヒスト女とのSM性愛に溺れていく男を描いた『砂の上の植物群』にサスペンスがあって『月曜日のユカ』にサスペンスが不足しているのはヒロインがまったく受動的だからで、どうも本作前後の加賀まりこのヒロイン作を見ると加賀をなるべく動かさないことで周囲が動く仕組みのドラマにして新味を狙ってしくじっているようで、ヒロイン映画として本作の加賀のキャラクターを見ても『狂った果実』の北原三枝の女性像の新しさ、主要人物全員が破滅する壮絶さにはおよばない。ヌーヴェル・ヴァーグより早くヌーヴェル・ヴァーグを先取りした『狂った果実』よりも本作が後退して、その分映像だけは凝った作品になったのは人物の運命を追究するだけの構想がこの映画には欠けていたからで、それは『砂の上の植物群』では挽回されたと思えるだけに『月曜日のユカ』が手軽に観られて『砂の上の植物群』が容易に観られないのは残念です。また中平康は昭和36年~昭和43年の間の日活映画でも最重要監督だけに、鈴木清順や蔵原惟繕のDVDボックスが海外盤で出るなら中平康はまだかともどかしく、本作1作だけで語るにはもっとも不本意な監督です。

●5月11日(土)
蔵原惟繕(1927-2002)『黒い太陽』(日活'64.4.19)*95min, B&W : https://youtu.be/gQZlLTSb1Og (Full Movie)

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 これまた米Criterion社の蔵原惟繕作品DVDボックスで初DVD化された作品で、同ボックスには『ある脅迫』『狂熱の季節』『憎いあンちくしょう』に本作と『愛の渇き』'67の5作が収録されていますが、日活が国内盤を出している石原裕次郎主演の『憎いあンちくしょう』と浅丘ルリ子主演の『愛の渇き』以外の3作は稀に特集上映されることはあってもテレビ放映はおろか国内盤DVD化が望めない作品で、『ある脅迫』は1時間強の中編かつ金子信雄と西村晃主演という渋すぎるキャストに現在のセキュリティー常識では話が古すぎてマニア向け作品すぎるからですが、『狂熱の季節』は未成年買春が堂々と描かれれば差別用語もびしばし飛びかう不良青年もの、と反社会要素に満ちみちており、本作『黒い太陽』は原作も『狂熱の季節』と同じ河野典生なら脚本も同作と同じ山田信夫が手がけており、主演も川内民夫なら役名も「明」でキャラクターも『狂熱の季節』の明の延長と、直接同作とのつながりは語られませんが明の女友だちで出てくるユキ(千代侑子)も『狂熱の季節』のヒロインでしたから、直接の続編ではなくても同一キャラクターを使ったヴァリエーションと言えます。本作で描かれるのは殺人犯の黒人脱走兵ギル(チコ・ローランド)と明(本人は脱走兵に自分の名を「メイ」と名乗ります)のディスコミュニケーションと幻滅の逃避行であり、ユキは冒頭少しの登場だけですぐに明が廃教会に隠れていた黒人兵との邂逅に移り、クライマックスでついに追っ手に追いつめられるまでドラマは主人公と脱走兵二人だけの逃避行に絞られます。本作はポスターが現存しないらしく中平康監督・仲谷昇&戸川昌子(兼原作)の『猟人日記』との2本立て興行で封切られ、『猟人日記』も20年前にBS放映されたきりDVD化されませんがなかなかの淫靡な犯罪サスペンスで、『猟人日記』と『黒い太陽』の2本立てとは東京オリンピック半年前の微妙な時期とはいえとても映画創生期からの歴史を持つメジャー映画社の企画とは思えません。インディペンデント映画社の持ち寄り上映、つまり中平プロダクションと蔵原プロダクションの新作合同公開の観があり、『猟人日記』はまだしも国内盤DVD化は可能でしょうが『黒い太陽』は差別用語はもとより駐留アメリカ軍人、しかも黒人兵を犯罪者として描いた内容が製作国の日本では人種偏見や反米感情を助長する内容として自粛の対象になっていると思われ、にもかかわらずアメリカの映画批評家は本作を文化的衝突を描いた特異なアンチ・バディ・ムーヴィーとして注目している。Criterion盤DVDの解説では本作を『狂熱の季節』を大島渚の『太陽の墓場』'60と鈴木清順の『肉体の門』'64のカオスに進めたもので、さらに大島渚の『飼育』'61と短編ドキュメンタリー「ユンボギの日記」'65の間に位置づけています。また1964年前半にはまだアメリカの南部の州の大半はアパルトヘイト制度をとっており、黒人女性や児童への白人のリンチは暴行・殺害にいたらしめても無罪でした。マーティン・ルーサー・キング牧師をリーダーとする黒人公民権運動によってアメリカ政権が公民権法を制定したのは'64年7月であり、キング牧師は同年末ノーベル平和賞受賞者になりましたが、非暴力主義のキング牧師に対して闘争派の黒人運動のリーダーだったマルコムXは'65年2月に暗殺され、またヴェトナム戦争反戦運動に進んだキング牧師も'68年4月には犯罪常習者の白人に殺害されてしまいます。ソニー・ロリンズが'63年に初来日公演を行った際、記者会見で「国外ではジャズ演奏家としてあつかわれていますが、アメリカではただの黒人です」と発言したそうですが、本作はそういう時代が背景なのを留意する必要がある。アメリカ盤DVDの解説は本作からそのニュアンスをきちんとくんでいる的確な批評ですが、それをご紹介する前に本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 河野典生の原作を「駈け出し刑事」の山田信夫が脚色、「何か面白いことないか」の蔵原惟繕が監督した社会ドラマ。撮影は金宇満司。
[ あらすじ ] 明(川地民夫)は黒人のジャズに憑かれたファンキー族だ。衝動だけが明の行動を支配していた。バイタリティに溢れる黒人のムードを彼は敬愛していた。街に出た明はポンコツ車を手に入れると、ドライブへ出た。折しも、白人二人を射殺して逃走中の黒人兵ギル(チコ・ローランド)を追って、MPと日本警察が躍起になっていた。その夜、廃墟で黒人兵ギルに会った明は、黒人を見た感激に震えながら親愛感にひたったが興奮したギルは、明の黒人に対する強いあこがれを完全にくずした。姿を消していたギルが戻って来た日、やはり機関銃をつきつけて横柄な態度のギルと明はにらみ合っていた。激しい疲労の末、睡魔に襲われたギルのすきに、機関銃を奪い取り形勢を逆転した明は、その日からギルを完全にロボットにした。白ペンキでギルの顔を塗りつぶして逃走する明、臨時ニュースは、白人に変装して逃走するギルのニュースを告げていた。海に面した海岸で突然、強気なギルが泥水で顔を洗いながら嗚咽するさまをみて、明は今迄の憎しみがうすらいだ。警察の包囲のサーチライトの光りの中、明は機関銃で応戦しながらギルを抱きあげてビルの屋上に登り海を見せようとした。「海へ行かせてくれ!神さまのところへ……」広告用のアドバルンに身体をつけて黒いキリスト、ギルは太陽に迎えられて空中へと舞い上った。
 ――本作の音楽は黛敏郎で、'70年代以降は保守右派の文化人となった黛ですが大学生時代はジャズ・バンドを率いていた経験もあり、黛がマックス・ローチ・カルテットに依頼した音楽を全編に使用しています。映画冒頭で川内民夫がマックス・ローチ(ドラムス)のアルバム『Black Sun』のジャケットをレコード店店頭で手にとる場面があるのですが、実はそんなレコードは存在しなくて本作のサントラは'64年のローチのワンホーン・カルテット(クリフォード・ジョーダン=テナー、ロニー・マシューズ=ピアノ、エディ・カーン=ベース)と、ジョーダンがローチのバンドとチャールズ・ミンガスのバンドをかけもちしていた頃の録音(このメンバーでのローチ・カルテットは公式録音を残さず'90年代にヨーロッパ公演のライヴが2種出回っただけです)で、2007年に日本のジャズのインディー・レーベルから黛敏郎/マックス・ローチ名義の2枚組CD『黒い太陽/狂熱の季節』としてリリースされるまで存在しないアルバムでした(もちろんジャケットも違います)。初回プレスのみの発売だったため現在4万円近いプレミア価格でコレクターズ・アイテム化しています。この頃のローチ・カルテットは当時ローチ夫人だった歌手アビー・リンカーンが帯同していたので映画サントラでもアビー・リンカーンのヴォーカル曲があります。『狂熱の季節』の明も黒人ジャズの心酔者でしたが本作でも同様で、飼い犬に(セロニアス・)モンクと名をつけており、廃教会でマシンガンを抱えて負傷し隠れていた黒人兵に出会うと初めて近づいた本物の黒人に興奮し、カタカナ英語でアイ・ラヴ・ニグロ・ジャズ、アイ・ラヴ・マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ、セロニアス・モンク、チャールズ・ミンガス、マックス・ローチ、アビー・リンカーン、アイ・アム・ユア・フレンドと熱狂的に話しかけるのですが、脱走の際に上官か民間人を殺害してきており自分も狙撃され負傷し興奮かつ焦燥している黒人兵には明のカタカナ英語は通じないしそもそも冷静な判断力を失っている。ここからディスコミュニケーションと幻滅のうちに明は黒人兵の逃走を助け、悪化する負傷の世話を焼くことになるのですが、自分が世話している黒人兵が感謝の様子もなくまるで気持が通じないので明は「歌も歌えねえ、ジャズもできねえ!ただの黒んぼじゃねえか!」と怒りを爆発させて放置してしまう。負傷した脚に蛆がわき膿が溜まって苦痛にのたうつ黒人兵が「マザー!」と叫んで、伝承歌「マザーレス・チャイルド」をうめきながら歌い出すのはその時で、明と観客はこの時初めてこの黒人兵が一人の人間であり戦勝国アメリカの駐留兵である以前に日本に連れてこられた黒人奴隷なのだ、と気づきます(アメリカ盤DVDの解説が強調しているのもこの点です)。明はナイフで黒人兵の脚を切開して銃弾を摘出しウィスキーで消毒し(この描写も違法医療に抵触します)、痛みの鎮痛した黒人兵ギルはようやく明と名前をかわすまでに信頼を寄せるようになります。しかし逃避行はついに港に二人が追いつめられるまでつづくので、十分なコミュニケーションが取れず打つ手もない明とギルは明の思いつきにギルが従う具合に真の平等な友情には発展せず、嫌がるギルの顔をペンキで白塗りにする方法を取らざるを得ない。それでも波止場に追いつめられた二人は、ギルが広告用アドバルーンの綱に昇り明がマシンガンで応戦してクライマックスを迎えますが、ギルはアドバルーンの綱を切ってくれと明に叫び明はマシンガンで綱を切ります。なおも応戦する明は組み伏せられ、ギルを下げたアドバルーンは海の彼方に消えて綱をつかんだ逆光のシルエットが十字架にかけられたまま飛んでいくように見える。カメラは太陽にパンして終わります。同じ太陽にパンして終わるラスト・ショットでも『憎いあンちくしょう』とは大違いで、山田信夫の脚本は『狂熱の季節』からさらに冴えており、本作のような黒人像を描いた映画は逆に当時アメリカでは作り得なかったと思えばこの映画は歴史的価値以上のものがあり、ヒロイン不在の逃走劇という作りといい、観客に要求される鑑賞力の高さといいプログラム・ピクチャー枠でメジャー映画社が送り出した作品としては極限まで迫った野心作であり、蔵原惟繕・山田信夫とも『狂熱の季節』の川内民夫の「明」の延長にこの黒人ジャズ心酔者の青年像から日本人が黒人ジャズに心酔するという皮肉をもっと過酷に描けないか、と再び難解な河野典生の原作に挑んだと思われます。おそらく上層部には同種の企画の成功した先例にはアメリカのヒット作『手錠のままの脱獄』'58があると通したのでしょうが、本作の川内とローランドの自発性と断絶は『手錠のままの脱獄』の図式性とはまったく異質で徹底したものであり、観客の容易な理解を拒む映画だけに娯楽映画としては失敗作とされても仕方ない作品ですが、これだけは作りたかったというモチベーションの高さと切迫感は伝わってくる点では本作には無類の価値があります。

●5月12日(日)
鈴木清順(1923-2017)『東京流れ者』(日活'66.4.10)*88min, Color : https://youtu.be/0wRw7DQK7Sk (Full Movie)

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 数ある鈴木清順の監督作の中でも明快なかっこ良さとけれん味が無理なく両立し、映画的な荒唐無稽さが設定・キャラクター・物語にも満ちみちているにもかかわらずわざとらしさを感じずすっきり観せられてしまう、それでいて鈴木清順監督作ならではの面白い感覚にあふれている点では初めて鈴木清順監督作を観るにはこの『東京流れ者』はもっともお薦めできる作品ではないかと思います。傑作というなら本作より『探偵事務所23』『野獣の青春』『肉体の門』『春婦伝』『河内カルメン』『けんかえれじい』などより奔放な作品が思い当たりますし、ブランク後の復活作『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』はようやく鈴木清順をプログラム・ピクチャーにとどまらない映画監督と認知させたものでした。また日活馘首問題にまで発展した『殺しの烙印』は結果的に日活時代の鈴木清順の代表作と見なされるようにまでなっている。日活初期~中期の監督作は膨大なので筆者も全部は観ていないのですが、鈴木清順の映画をDVDで何か観直そうかなという時に真っ先に思い浮かぶのが筆者の場合はこの『東京流れ者』で、テレビ放映頻度も昔から高かった作品ですし録画したビデオテープ、入手したDVDで何度観直したかわかりません。主題歌の「東京流れ者」が一度聴けば忘れられない怪作曲ですし、「月光仮面」「七色仮面」「太陽仮面」「アラーの使者」から'70年代の「愛の戦士レインボーマン」「ダイヤモンド・アイ」「正義のシンボル・コンドールマン」までヒーローものの原作者である川内康範が原作・脚本(日活作品では先に小林旭主演の「銀座扇風児」シリーズを手がけています)と、鈴木清順以上に頭のネジの飛んだ人による原作・脚本だったのがちょうど良い加減を生んだように思います。本作でも突拍子もないサウンド処理や美術、照明、撮影が平然と行われていますが映画の内容があまりに門切り型であるためにエレクトリック紙芝居たる映画としては技巧的な実験性がかえって浮いて見えない。銃声一発、撃たれた女が床に崩れたとたんにカメラは真上からのショットになり照明も黄色一色になっている、というのが不自然ではないのも本作はリアリズムの映画ではまったくないからで、川内康範の想像力の中では現実の出来事はバットマンとジョーカーの戦い(の日本版)と等価ですから、この人の考える正義や愛や仁義というものはリアリズムではなく一種のイデアなので、そうしたイデアの世界の中のドラマとして『東京流れ者』のリアリティの水準は設定されています。本作の渡哲也は「戦わない、耐える、赦す」ことを選んだヒーローであり、それゆえに戦いを避ける流れ者にならざるを得なくなった渡が親分の裏切りにより敵味方の両方に狙われてみずからの信念の虚しさを知り、事態を解決して改めて今度は自己の意志で流れ者の道に戻っていく話で、意外にも主人公の自己認識の変遷を描くというドラマ構造の明確さではあまたある日活映画でも基本になる主人公の価値転換がしっかり描かれている。これは裕次郎・旭・錠らダイヤモンド・ラインの主演俳優たちが映画冒頭から結末まで性格は不変なのとは違っており、本作の渡哲也は映画冒頭の無抵抗主義を貫く人物から結末までには無抵抗主義は選択肢の一つと自己客観性を持つ強固な意志的人物に成長しており、自分を慕う松原智恵子を助けてなお「流れ者に女はいらないぜ」と颯爽と去っていくのであり、渡哲也の良いところはこの台詞がちっとも情緒纏綿としないところで裕次郎だと湿っぽく、旭だと痩せ我慢ぽく、錠だと陰気に響くと思うと渡哲也だとごく当然な別れの言葉になる。おおっと思うような突出した感覚、異様な展開、眩暈感や高揚感では他の清順作品の傑作に譲りますが、まんべんなくムードの行き届いた心地よさが本作を外せない作品にしていて、これがもっと高カロリーな『春婦伝』や『肉体の門』だと観客にもっとフラストレーションを残したまま突き放されたような感じのある傑作なので観直したい気は本作ほど起こらないのです。本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引きますが、例によって一介のプログラム・ピクチャーとして粗略な紹介です。
[ 解説 ] 川内康範が原作とシナリオを執筆、「河内カルメン」の鈴木清順が監督したアクションもの。撮影もコンビの峰重義。
[ あらすじ ] 流れ者の歌をくちづさむ本堂哲也(渡哲也)を、数名の男がとり囲んだ。彼らは、哲也の属する倉田組が、やくざ稼業から不動産業にかわったのを根にもち、ことごとく倉田組に喧嘩をうろうとする大塚組のものであった。だが哲也は倉田(北龍二)の無抵抗主義を守りぬいた。哲也は恋仲の歌手千春(松原智恵子)と結婚して、やくざをやめる決心をしていた。倉田は経営が苦しく金融業の吉井(日野道夫)からビルを担保に金を貸りていた。哲也はそれを知ると単身吉井に会い手形延期を申し込んだ。これを大塚(江角英明)のスパイで、事務員の睦子(浜川智子)から聞いた大塚は、部下を使い吉井に担保のビルの権利書一切を渡せと脅した。電話で権利書をとられ、吉井が殺されたことを知った哲也は、怒りに身をふるわせた。大塚は邪魔者の哲也を殺すため殺し屋辰造(川地民夫)を雇った。だが辰造は哲也の敵ではなかった。その頃大塚は倉田に哲也とひきかえにビルの問題から手をひくともちかけた。かげでこれを聞いた哲也は単身大阪に発った。だが辰造はしつこく哲也を追った。一方東京では大塚が、権利書を戻すかわりに、ビルの地下で千春にクラブ商売をさせて欲しいと申し出た。倉田は自分の利益のために哲也を見殺しにしようとしていた。東京に帰った哲也は、千春を捜した。しかし千春は、哲也が殺されたと聞かされ大塚のクラブに出ていた。哲也と千春を慕う敬一(吉田毅)は、千春に哲也の健在を知らせ哲也に千春のいる場所を知らせた。怒った哲也は、倉田、大塚に銃弾をむけた。悽惨な死闘の末、哲也はやくざのみにくさを思い知らされた。夢をなくした哲也は、千春に書置きを残すとどこへともなく去っていった。
 ――本作も人物配置に『錆びたナイフ』『赤い波止場』や『拳銃残酷物語』など日活の先行作品との類似がありますが、これら外国のギャング映画の日本版(さらに西部劇的要素も含む)はドラマの組み立てに大なり小なり重複する要素が入りこみやすいとも言えて、似通った要素が入ってきても相互影響や模倣とは言えないでしょう。しかしまあ、この映画日記は歴史的参考文献として初公開時のキネマ旬報の紹介を参観することが多いですが、ヨーロッパ映画の紹介など煩瑣なほど細かくあらすじが書かれているのに対し日本映画、それもプログラム・ピクチャーとなると一応記録に載せておくといった程度に映画会社のプレスシートをそのまま載せただけと思われるもので、本作は準主演級で「流れ星の健」の二谷英明が「不死鳥の哲」こと渡哲也の兄貴分として登場してきますが、敵役ならともかく渡を見守る役なのであらすじには関係ないと割愛されてしまっています。確かにあまり印象に残る役ではなく、二谷英明だからこの兄貴分は主人公の乗りこえなくてはならない何らかの役割なんだろうなと思っていると同じ英明でも日活の悪役は江角英明の担う時代になっていて、7、8年前なら二谷(昭和5年生まれ)が担っていた悪役を江角(昭和10年生まれ)が演じているのを観るとああそうだったっけと思い、忘れた頃に本作を観直すごとに渡哲也の若さに驚きます。本作出演時24歳だから当然なのですが、映画を観てしばらく経つと内容や貫禄からも本作の渡の印象は若くても20代後半くらいに変化していくので、本作作中の時間経過は3か月~半年未満でしょうが、映画冒頭から結末までの渡の精神的成長が5年分あまりに感じられるためこの印象が起こると考えられる。キネマ旬報のあらすじは意図的な歪曲ではなく日活のプレスシートをそのまま載せただけでしょうが、結末部分はこのあらすじに書かれているのとはまったく違う映画になっています。ネタバレというのではなく本作の結末は文字に起こすのが非常に困難で、映像で描かれたものを文章にするとニュアンスやこめられた意味そのものが変わってしまうようなものです。しかもおそらく台詞やト書きは脚本に忠実なので、脚本を推定して台詞と動作を文章で描いても紋切り型の果たし合いと救出した女との別れではないか、となってしまう。鈴木清順はその紋切り型の脚本だからこそ絶妙の腕の振るいがいがあったに違いなく、本作が安定したムードの持続した好作になったのも脚本全編がそういうものだったから、と言えそうです。主題歌「東京流れ者」が作曲者不明の伝承歌(歌詞違いヴァージョン多数)というのも良い話ではありませんか。また本作のジャズ喫茶(ディスコティーク)場面では'66年4月にデビュー・アルバムを出したばかりのザ・スパイダースの「フリフリ'66」が流れます。渡哲也が歌う「東京流れ者」同様テイチク盤で日活がテイチクと提携していたからですが、ここでゴダールの『軽蔑』'63(日本公開'64年11月)を思わせる音声処理がさりげなく使われているのにもご注意ください。

集成版『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』第七章

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 第七章。
 マイメロからの報告は毎回ハローキティのお店の仲間たちを落胆させました。どうせマイメロだから、と過大な期待は持たないようにしても藁にもすがりたい気持の時にはせめて希望のかけらだけでももたらしてはくれないか、と思うのが人情というものですが、その都度来るのは空しい知らせだけなのです。マイメロがハローキティのお店に出入りしたり外で会うなり、マイメロを訪ねて行ったりするのはバレるとまずいから潜入スパイ中は絶対不可なので、報告や連絡は電子メールを使って行われていましたが、マイメロはメールを打てないのでデイジーたちは音声入力のやり方を教えました。ところがマイメロが音声入力するとメールが絵文字と顔文字だらけになって読みづらいことこの上ないうえに、その上内容空疎となると(マイメロに限っては絶対あり得ないことですが)馬鹿にされているんじゃないだろうか、という気までしてくるのでした。
 ハローキティはというと、実はマイメロ潜入スパイ計画はデイジーたち従業員の独断専行で、キティに先に打診などしたら私よりあの子を目立たせたいの!と自己愛が目覚めて逆ギレされかねません。そうなったら説得はまず不可能だし、どうせ今ハローキティは魂が抜けたように気を落としてしまっていますから、妙に刺激せずに放っておくに限ります。幸いマイメロディは教えた通りにミッフィーの店でアルバイトを打診させると、ねこの手も借りたいくらいだから(私が行く?とミミィ。あんたじゃ駄目でしょ、とデイジー)と不審がられもせずにあっさり採用されました。
 まただわ、とキャシー。マイメロのメールはいつもだけど、今日のは特にひどいわ。顔文字と絵文字だけで何かの暗号文みたいになってる。いったん音声にしてみて単語や構文を再構成しないと意味もとれないわ。小学生の遊びじゃないんだから、とキャシーはぶつぶつこぼしながら鉛筆でメモをとっていましたが、ちょっと重要なことかもしれないわ、とミミィたちに呼びかけました。
 あのお店の従業員のうちアギー、ウイン、メラニーはうさぎでメラニーはアフロ系、それからバーバラというくまで、時たまバーバラのヒモのボリスというくまが手伝ってる。ふむふむ、とデイジー。ところがマイメロはまだ一度もミッフィーを見たことがない。他の従業員は出入りしている、師団長室にこもったきりらしいのよ。なんだかこれ、秘密の臭いがプンプンしない?


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 秘密の臭いがプンプンするところにはカネの臭いもプンプンするのが世のことわりというものです。ミッフィーのディヴィジョンはハローキティより20年あまり先立って設備されたものですから、年季の分だけ棒給も高いとも、基本給自体は新旧に隔てはなく勤続年数手当がついている程度ではないかとも思われました。ここでは公共施設として売り上げよりは利用者数が目安になっていると考えられますが、二軒目であるキティのディヴィジョンが設立された時点ですでにその需要は認められているのですから、客足が偏りを見せたところでミミィたちはそれほど心配することはないはずなのです。ついこの間まではハローキティの店だけでミッフィーの店の常連客までもさばいていて、それでもミッフィーの店は施設として営業を続けていたではありませんか。
 流行りすたりとはどこの世界にもあって、そのほとんどは根拠も原因も法則性もないものです。今自分たちが流行りに見離されているにしても、明日のことはわかりません。ミミィやデイジー、キャシーたちはそう思うことにしました。しかし師団長室に引きこもって陰々滅々に運命を呪っているハローキティについては、どうしてやることもできません。お店が急に不景気になったのは何もハローキティに責任がある、と糾弾する気はデイジーたちにはほとんどありませんでした。ほとんど、というのは消えたリボンの件以来キティがすぐさま職場放棄して閉じこもっているからで、マダムみずからがそんな具合では職場の志気も下がる一方です。せめて今はスパイに差し向けたマイメロディからの情報を待ち、なぜ自分たちの常連客はおろか一見さんたちまでもミッフィーの店ばかりに取られてしまうのか、対策を練るくらいしか突破口はなさそうでした。
 一方、スパイとも知らずにマイメロディをアルバイトに雇ったミッフィーのお店は、天然ボケのかたまりのようなマイメロを新たな看板娘にいよいよ大盛況でした。あんた何でこんな忙しい店に来る気になったの、とメラニーが尋ねると、マイメロは悪びれもせず、キティちゃんのお店の人にどうしてこっちのお店が大繁盛しているか、アルバイトに化けて調べて来い、って頼まれたの、と悪びれもしません。そう、とメラニー、それで何かわかった?ううん、全然。キティのお店の人に言わないなら教えてあげようか、とメラニーが言うと、うん絶対言わない、とマイメロは答えました。


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 乳母車が波打ちぎわに横転していました。岩場には海の生物はおらず、どろどろのオイルが浜辺に打ち寄せていました。水槽がでかくなると当然、水圧も上がっていくからね、とメラニー、水槽も数十cmの厚さのガラスを使わなけりゃならない。もっともそれは水族館の話で、ガラスは透明度は高いし浸食性には強いけれど、他人に見せる必要なんかなければもっと安い素材で強度の高い隔壁は作れる。浸食性については、もろくなってきたらその都度もろい箇所を補修すればいい。そうやってきたない海ときれいな海の境界は引かれてきた。私たちの商売はそういう種類のものよ、とメラニーはマイメロディに説明すると、こんな遠まわしな説明じゃどんなに言っても意味をなさないんだろうな、と思いました。
 マイメロは真面目な顔で聞いているようでしたが、基本的に愛玩動物は無表情なので黙ってさえいれば真面目に見えるのです。マイメロは愛玩動物ですらなく愛玩動物を模した無生物でしたから、真面目さもいっそう真剣に見えました。また、マイメロは無生物である分、生存条件に限界を持たざるをえない生き物一般よりも各段に一貫性には無責任でいられましたから、真面目に聞いているのは何ひとつ真面目に聞いていないのと大差のないことでした。唐突にメラニーにバカじゃないの?と返事を返してもマイメロとしては普通の反応にすぎませんし、通常言われる意味ではマイメロディは思考しない、というか、思考力自体がマイメロの本質に備わっていないのです。
 ところであんた、とメラニーは化粧室で言いました、お店とはいえ室内なんだからね、ずきんくらい取りなさいよ。みんな……つまりアギーやバーバラ、ウインはびくっとして動きを止めました。実はマイメロのずきんはバイトの面接直後から話題、というか問題になっていたのです。あれはどうなんでしょうね、うちの店にはこれという服装規定はないけどね。髪が落ちないようにと言うなら衛生的な理由もあるし……バイトだからってそれは止めなさい、と言うのはパワハラにならない?
 そんなふうに店の仲間たちでもマイメロのずきんについては不文律になっていたのです。しかしついにメラニーが言ってしまいました。言うとしたらメラニーだろうな、という期待感と不安感がミッフィー・ディヴィジョンの誰にもあり(ミッフィーを除く、メラニー本人を含む)ついにそれが実行された、というだけでもあります。


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 チェブラーシカがわにのゲーナとハローキティの店でやみ酒を仕入れて外に出ると、通りを吹き抜ける風が頬に当たりました。風はしわくちゃの新聞紙を通りに吹き寄せていましたが、通りかかった野良犬がちょっと新聞紙の臭いを嗅ぐと、すぐに興味をなくして曲がり角に消えていきました。食い物を包んでいた新聞紙なんだな、とゲーナが言いました、おれは水の中しか鼻が利かないからわからないんだが。ぼくだってわからないよ、とチェブラーシカ、じかに鼻に持ってくれば少しは臭いも嗅げるかもしれないけど。大方ベーコンとかニシンの干物とか、だいたい燻製や乾物の類だろう、とゲーナ。シャパクリャクばあさんが知ったらそんなものまで仕入れてこさせられるかな、もっとも酒ほどボロ儲けになる闇市商売は、他にもないことはないがリスクが高すぎるからな。他のって?とチェブラーシカ。大人になればわかる、とゲーナ、それにあんまりあれこれ手を広げすぎると、商売がたきを作りかねない。酒のつまみ程度が関の山だろう。だったらぼくはビーフジャーキーがいいな、とチェブラーシカ、子どもだからお酒は飲めないけれど、ビーフジャーキーならいくらでも食べられるよ。
 結局おれたちはシャパクリャクばあさんの手下はやっているが、自分たちで商売となるとなかなか踏ん切りはつかないものだな、とわにのゲーナ。彼が思い描いていたのはミッフィー屋やキティ屋のような中途半端なものではなく、本物の女衒商売でした。つまり本当にアダルト対象のお店です。これだけはどこへ行っても需要があるはずなんだが、とゲーナには不思議でならないのでした。本当にそれだけに特化した店がとっくにあってもいいはずだ。それが存在しないということは、つまりそれを求める客もいないということか?
 しかしゲーナが観察したところ、二階に通じる怪しい階段があるのはどちらの店も同じでした。結局チャブ屋じゃないか。だがチャブ屋として儲かっているとはどうしても思えないような客ばかり出入りしているようにしか見えないのです。何か秘密があるはずだ、とゲーナは思いましたが、自分から探るより自然に向こうから内情を明かしてくるのを待つ方が得策でしょう。そのくらい、ゲーナは過去に痛い目にあってきもした慎重なわにでした。ですがゲーナにも、そろそろ何かに勝負を賭けてみたいところで、そうでなくてもこのままなのには、少々飽きてきていたのです。


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 ところで問題なのは、とヘムレンさんは後ろ手を組み、われわれは子ども向けのキャラクターだからうかつに酒盛りなど出来ない、ということだ。一堂驚愕。そうだったんですか、とスノーク。まあ一応、この場合の子どもとは0歳から150歳の子どもまで、と範囲は広くなるのだが、とヘムレンさん、この言い方は気持ち悪くはないかね?つまり子どもとは気の持ちようだとは、子どもの類型化と偽善的な性善説がプンプン臭うではないか。
 世の中には悪意に満ちて性根がねじくれ、卑しい品性の子どもも大勢います(とスノークは言いました)、自分がそういう子どもだったと認めないではいられない大人も相当数いるでしょう。明けても暮れても大殺界、これじゃ人生毎日日曜というろくでもない余生を生きているのは、結局生きていないのも同じだと感じる人も多いでしょう。ですが、だからこそ、ファンタジーとしてわれわれムーミン谷の住民は存在するのではないでしょうか?
 きみの存在は確かにファンタジーだろうさ、とムーミンパパはパイプに葉を詰めながらせせら笑いました。ムッとするスノーク。それは私もきみもだよ、とジャコウネズミ博士がとりなしました。まあファンタジーとは言えないのは、とヘムル署長もスティンキーの右手とつないだ左手首の手錠を指して、ムーミン谷にも法はある、ということかな、必ずしも正義とは言わないが。正義ですか、とムーミンパパ、そんな言葉も聞いたことはありますが、この目で見たことはありませんな。
 じゃあ、あなたはうちのミッフィーのことを探りに来たわけね、とメラニー。マイメロはこくん、とうなずきました。いいわよ、会わせてあげるわ。その代わり、私たちがハローキティの店について知りたいことも教えてくれなくちゃ。


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 この休戦地でもまた、大地には太陽が北から差していました。それは運命的なこととすら思えました。チャーリーは南に長く延びる影を見てもう正午が近いのに気づき、これから日没までにどれだけ歩けるか考えていました。この荒地は乾ききって日差しを遮るものもないので、気温がピークに達する午後2時~4時頃には摂氏40度を越える高さになります。ですが日没後の冷え込みも激しく、摂氏で言えば零下20度にはなるので、凍え死なない方法は唯一地面に穴を掘って埋もれて眠ることでした。土中なら、灼熱の日中に照らされてそこそこの暖かさが保たれているのです。それは日中でも言えることで、夜間に冷えた土中の方が大気にさらされるよりも涼しいのですが、それではチャーリーはいつまでたっても土に埋もれていなければなりません。幸い湿度が極端に低いため摂氏40度は体感温度ではさほどに感じずには済みますので、凍える夜よりはなんとか活動できました。夜、星空の明かりは人工の光のない荒野では景色をフィルムのネガのように照らしていました。それはチャーリー・ブラウンから時間の感覚を奪い、起きるとチャーリーは自分が一晩眠っていたのか、それとも何日も意識を失っていたのかわからなくなる気がするのでした。
 チャーリー・ブラウンに起こっていることと似た危機が、誰の身にも起こっていました。はっ、と偽ムーミンはようやく、このままムーミンを放置して自分と入れ替わったままにしておくとそのまま元に戻れなくなる可能性に気づいて、激しく動揺しました。可能性はいくつかあり、自分がこのままムーミンを演じつづけなければならない場合もあれば、ムーミンを失えば偽ムーミンは何者でもなくなる可能性もあると考えられました。しかも偽ムーミンにはどちらにも既視感があったのです。つまりそれはこれまでも何度となく偽ムーミンがムーミンに取って代わるなり、ムーミンの消滅ともども偽ムーミンの消滅があり、その都度ムーミンと偽ムーミンは新たな存在に更新されてきた痕跡とも思えました。おそらくムーミンにはその記憶はなく、偽ムーミンは偽者だからこそかすかに上書きされた記憶を残していたのでしょう。または、自分の存在はその役割のためなのではないか、と偽ムーミンは唖然としました。
 それはミッフィーちゃん、またはハローキティによるシナリオだったかもしれません。この休戦地ならどちらもあり得ることでした。


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 やっぱり大事なのは貞操観念よね、と飲むだけではあまりにヒマなので、デイジーがいかにも唐突に言い出しました。それって例えばどんな?とダイキリをデイジーのカウンター席に置きながら、メラニー。項でも目でも属種でも、まあ多少の違いはあるでしょうけど、とデイジー。ハローキティとハローミミィはねこだし、こちらのお店のあなたたちは(くまもいるけど)私やキャシーと同じうさぎよね。でもあなたはアフロ系のうさぎだし、私たちはアーリア系のうさぎ。それでも貞操観念というのは人種や文化を超えて絶対的なラインがあるんじゃないかと思うのよ。ねえキティ、とデイジーがいきなりミミィに振ったので、ミミィはようやくミッフィーのお店に入る前に耳のリボンを右耳から左耳に結び直させられた意味を察しました。これは敵をだますにはまず味方からという、いかにもデイジーらしい作戦です。
 留守のあいだのお店はダニエルにお願いするとしても、こんなにライヴァル店の私たちがぞろぞろ押しかけて大丈夫かしら、とミミィは心配したのですが、たかだか3人だけじゃない、しかも私とキャシーはうさぎだし、とデイジーに丸めこまれて、ハローキティの店の3人はミッフィーのお店にやって来たのです。お店に入る直前に、デイジーはキャシーに持たせた金属バットをギュッと握ると、金属バットは魔力をおびて色鮮やかにでこぼこな武具に変型しました。これで身を守るくらいの役には立つの?とミミィが訊くと、マイメロが出てきて私たちと知りあいのような口をききそうだったらぶっ飛ばすのよ、とデイジー。
 幸いマイメロは日ごろの働きが認められて、裏口でひたすらじゃがいもの皮剥きを命じられていました。ミッフィーのお店にとってはマイメロの冷遇はマイナスで、元祖カマトト萌えキャラのマイメロディは「お・ね・が・い?」ひとつでお客さんにどんな高いオーダーでもばしばし追加させられるのです。ちなみにお店の最低料金は水割り1杯2500円で、歌舞伎町のキャバクラよりはまだ良心的といったところでした。そんなマイメロを接客に出さないのは、ミッフィーが調子を取り戻した今、ひとつのお店に女王さまはふたりはいらないという従業員一同の暗黙の判断からでした。こういう女社会のルールは合理性とは別物なので、部外者が口を挟むものではありません。また、マイメロを秘密の切り札にしておくのも営業方針としては悪くありません。


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 聞き捨てならないデイジーの発言に、チャブ屋ミッフィーズの空気にはにわかに殺気が立ちこめました。ある種のタイプの女性には公衆便所という古典的な差別的かつ女性蔑視的悪罵がありますが(男性に対してはそれに相当する蔑称がない分余計に差別的でもあります)、今このお店にいるどの女性も単に職業的に性的奉仕活動に従事しているだけで、それはスパイとともに最古の職業とされているほどです。ただし多くの国ではそれは文化的(宗教的・倫理的・思想的)に、また経済的に(徴税対象としての労働の実態が把握困難なため)公的には法的禁止が施行されており、それでも完全には防止できないため性的サーヴィスを隠蔽した形式の公式営業形態は許容せざるを得ない、というのが近代国家でのこの業種のあり方でした。まわりくどくてめんどくさいことですが、もぐら叩きのようなゲームと考えればどんな職業にも社会悪としての側面があります。それを思えばこのお店など可愛いもので、今さらデイジーが貞操観念など言い出した真意を勘ぐれば、売れていないお店の女の子が売れているお店に嫌がらせを言いに来た、以外に考えられません。
 ただしミッフィーのお店のみんながデイジーたちの正体に気づいていたか、それはデイジーたちが名乗らなかったと同じくメラニーやウインたちもしらばっくれたか、あるいは気づいていないのかおたがいに事なかれ風にふるまっていましたから、何とも言えないことでした。すぐ顔に出る性格のアギーやバーバラですらポーカーフェイスのすまし顔でしたが、これはもっぱらデイジーが性を売り物の職業について抽象的な外郭から中傷した(デイジーにとっては自嘲的な誹謗でもありましたから、余計にそれはまわりくどい表現となったという事情もありますが)ためでもあり、要するにピンとこなかっただけかもしれません。
 その頃ぼくたち、つまりチェブラーシカとわにのゲーナは路上でコイントスをすると、コインは地面に落ちて道端の下水溝の中に落ちて行ってしまいました。しまった、コイントスなんかするんじゃなかったな、とわにのゲーナは言うと(わにだからって下水まで入るのは勘弁してほしいからな)、今日はどっちの店でやみ酒を仕入れるか別のやり方で決めることにしました。ゲーナの口の中にぼくが頭を入れる、気づいて通行人が踏まなければいつもとは別の店、気づかずに踏まれればぼく、チェブラーシカは死にます。


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 野営地でキャンプ難民生活をしていたムーミン谷の一行は外食ばかりではお金がかかって仕方ないのに気づいていました。それは野原家が引率するふたば幼稚園ひまわり組でもジョースターさんたちスターダストクルセダーズでも、また林間学校中のパインクレスト小学生たちも同じでしたので、結論から言えば全員が集まって炊き出しをすればいいんじゃないか、というのが手っ取り早い解決策になります。幸い無許可で使用できそうな敷地・建物ともに校舎並みの広さの廃屋がこの休戦地ではあちこちにありました。彼らはたがいに異なる次元に存在している幻覚のようなものでしたから、誰も集団の全体を把握できている立場にはいませんでしたが、認識しあえる集団を組み合せていけば全員がとりあえず意志の疎通可能ではあり、それに彼らは「そこにはいない誰か」などという存在には慣れっこになっていたのです。10人集まったはずが11人いてもそれが現実なら受け入れないわけにはいきません。
 ムーミンママ、野原みさえ、マーシー(パインクレスト小代表はもめたようですが)、ジョースターさんはとりあえず基本的な食材から検討を始めまました。ぼく、チェブラーシカはあいまいな国境を越えれば日帰りの町に家があるので、こうしたことには一切無関係でも良かったのですが、それはちゃんと商売に結びついた理由があったのです。
 玉子、白砂糖、バター、小麦粉、牛乳、まずこれだけは必要だろうな、とジョースターさんが言いました。塩・胡椒といったところも当然だが。もちろん玉子、バター、小麦粉、牛乳とすでにアレルゲンまたは宗教上の忌避に抵触するものもすでに含まれているが、ヒンドゥー教でも牛乳とバターは教義上の菜食主義には触れないものとされている。食の制約に意味づけするのは一種のトレンドで、これら基本食材は人類4000年の歴史から自然に考案されたものだ。ただ問題は、とジョースターさんは首をひねりました、このあたりには飲み屋はあっても食品店はまるでないことだな。しかもわれわれはヴィザの制約でこのテリトリー以外に出入りすることができん。
 あの、とぼく、チェブラーシカはおずおずと話に割り込みました。ぼくは元々隣町の住民で、旅行者じゃないから行き来も自由なんです。よければ隣町のお店から代理のお買い物をしてくることもできますよ。
 こうしてぼくは割の良いピンハネ商売をまたひとつ、増やしたのです。


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 ミッフィー屋ジュークボックス常備CD。『バッハ/トッカータとフーガ集』『ベスト・オブ・マディ・ウォータース』『モーツァルト/レクイエム』『ハウリン・ウルフ/モーニン・イン・ザ・ムーンライト』『ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ集』『ボビー・ブランド/トゥ・ステップス・フロム・ザ・ブルース』『シューベルト歌曲集』『ジョン・リー・フッカー/トラヴェリン』『シューマン/ピアノ協奏曲イ短調』『ロッキン・ウィズ・ジミー・リード』『ベルリオーズ/幻想交響曲』『ジョニー・ギター・ワトソン/スペース・ギター・マスター』『ヴァーグナー/トリスタンとイゾルデ』『レイ・チャールズ/ハホワット・アイ・セイ』『ブラームス/交響曲第一番』『プロフェッサー・ロングヘア/ノー・バッツ、ノー・メイブス』『ブルックナー/交響曲第九番』 『ビリー・ホリデイ/レディ・バード』 『マーラー/大地の歌』『サム・クック/ライヴ・アット・コパ』『ヤナーチェク/シンフォニエッタ』『ヒアズ・リトル・リチャード』『シベリウス/交響詩タピオラ』『ロックン・ローリン・ウィズ・ファッツ・ドミノ』『ムソルグスキー/展覧会の絵』『チャック・ベリー/ベリー・イズ・オン・トップ』『リムスキー=コルサコフ/シェヘラザード』『ボ・ディドリー/ハヴ・ギター・ウィル・トラヴェル』『チャイコフスキー/交響曲第六番ロ短調・悲愴』『ジェームズ・ブラウン/シンク!』『セザール・フランク/ヴァイオリン・ソナタ』『エルヴィス・プレスリー』『フォレ/レクイエム』『エディ・コクラン12ヒッツ』『ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲』『カール・パーキンス/ダンス・アルバム』『ラヴェル/死せる王女のための孔雀舞』『ロイ・オービソン/ロンリー・アンド・ブルー』『サティ/ピアノ曲集』『エタ・ジェイムス/アト・ラスト!』『バルトーク/弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽』『チェット・ベイカー・シングス』『シェーンベルク/浄夜』『メアリー・ウェルズ/バイバイ・ベイビー』『スクリャービン/法悦の詩』 『マイルス・デイヴィス/カインド・オブ・ブルー』 『ストラヴィンスキー/春の祭典』『アイヴス/交響曲第四番』 『 B.B.キング/マイ・カインド・オブ・ブルース』 『メシアン/世の終わりのための四重奏曲』。『佐村河内守/交響曲第一番《HIROSHIMA》』=〓〓。
 第七章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
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フランス最大のロックバンドへの間違いだらけのアメリカのロック誌の酷評

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MAGMA
マグマ
★Mekanik Destruktiw Kowmmandoh / A&M 4397 (1973) : https://youtu.be/7hDOK-IN_cU

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〓Kohntarkosz / A&M 3650 (1974) : https://youtu.be/7FjkLffnQjw

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★Udu Wudu / Toma. 6001 (1976) : https://youtu.be/igqUcXaPG-s

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 クリスチャン・ヴァンダーはエルヴィン・ジョーンズ、チェット・ベイカーにドラム演奏を学び、チック・コリアやジョン・コルトレーンとともに演奏したこともあるドイツのジプシー。彼は"ゲザムクンストヴェルク"、つまり全人類のための音楽、大多数のレベルに理解できる音楽を具体化する音楽アンサンブルを創り出すという典型的チュートン(ゲルマン)人のコンセプトを持ち、マグマはその媒体だった。
 ヴァンダーはまた、彼独自の言語、エスペラント主義者がコバイヤ語と呼ぶ言語を発明した。コバイヤ語は、革命の存在する余地があり、"ユニヴェリア・ゼクト"、つまり新人類がより偉大なエネルギーと意義深さを見い出すことができるという想像上の惑星コバイヤに由来している。
 ヴァンダーは、彼の音楽がポーランドおよびバルト海の森の奥深くからやってきたと主張する。確かにあたかも岩の真下からはいあがってきたようなサウンドである。彼はヴードゥー、悪魔祓い、ドイツおよびロシアのネオ・ロマン主義、そして古代ギリシャの悲劇にも凝っている。彼の音楽からその主張を取ると、ディープ・パープルやタンジェリン・ドリームの、最悪にも低速化したクローンが腸炎の発作を起こしているようなサウンドだ。マグマの世界に旅するのも悪くはない。(現在廃盤)
(文=ブルース・マラマット)
(『ローリングストーン・レコードガイド』1979年版より、翻訳=講談社・昭和57年3月刊)

集成版『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』第八章(完)

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 第八章。
 近代西洋文化における音楽の把握は通常メロディ(旋律)、ハーモニー(和声)、リズム(拍子)の3要素の組み合わせとして把握されます。和声と旋律、拍子が有機的に複合するには旋律をなすモード(もしくはスケール、音階)が一定の規則に基づいていなければなりません。むしろ音階こそが旋律の上位概念にあると言ってよく、和声も拍子も音階から導き出された必然性がなければそれは自然な音楽には聴こえません。ですが音階からも上位概念といえるものの、さらにその音楽的位置づけが難しい要素があり、トーン(音色)をいかに一定に理論づけるかは音楽どころか聴覚という感覚の特性の根本をなすものです。音色自体が音の波動であり、波動とは一定の振幅を示すものであるなら、音色はそれに相応しい拍子を継起していくか、または音色自体が拍子を暗示するものといえるでしょう。ただしこれを聴き分けるには資質と十分な訓練の両方が必要です。
 現実に音楽がいかに未分化に聴かれているかは、旋律と和声進行が混同されがちなことにも現れています。これは物語について筋書き(ストーリー)と構成(プロット)が別物であるのと似ており、旋律=筋書きは水平的な推移であるのに対して和声=構成は垂直的な変化として表されます。旋律=筋書きがどれほど累積しようと和声=構成的な役割を与えられなければ物語は進展しません。ストーリーとプロットの違いについて無自覚な作者の作品の場合、物語は実質的に何も進展せずに始終することになりますが、逆に結果的にはプロットを放棄しているだけ再生産性には適しているので、消費者はいつでもスタートラインに戻ることができる、という利便性があります。それはジャンクフードのようなものでしかありませんから、まさに繰り返しの消費には向いています。
 つまりプロットとは質的転換であり、骨のおれる代謝です。ストーリーはそれ自体には質的転換を含まない。同じところをぐるぐる回っていてもストーリーは成立しますが、プロットはストーリーに含まれる価値基準を徐々に別の次元へと解体・再構成していく。よくある例を引くなら、愛や正義への認識は最初考えられていたものとは別のものへと変化する。それが質的転換であり、この過程を経ない物語はプロットを欠いた不十分なストーリーと言えるのです。一応それだけでも物語は成立しますが、それが不完全なことは論じるまでもないことです。


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 そこでだ、公然猥褻を例にとってみよう、とジャコウネズミ博士は言いました。ヘムレンさんはうなずくと、では私が適切な合いの手を入れることにしよう。公然猥褻とわれわれは当たり前のように言うが、具体的にはどんなことだね?そりゃもちろん、公序良俗に反する卑猥なものを公衆の面前にさらすことだと言われておる。だが公序良俗に反するものとは具体的には何か?スノークくんあたりにはきっと意見があると思うが、どうかな。
 どうして私に振るんですか?当然きみの健全な市民モラルに敬意を表してさ。さらしてはならない卑猥なものとは、この場合何かね?性器じゃないですか、とスノーク。もちろん恋人や夫婦、家族の間では違うでしょうが、町中をフリチンで歩いていれば捕まってしまいます。女性の場合も上半身や下半身を公衆の前でさらけ出していれば同罪でしょう。
 だがきみが言っているのは生殖器のことで、公然猥褻が性器全般に適用されるならわれわれは指や唇、舌声帯なども実用的な性器として使うのは言うまでもない。セクシーな唇や声、肢体はそのまま性的刺激に直結する。ある種の宗教圏では女性は素肌をさらすことも禁じられ、髪や顔立ちを覆うのが規範となっている。そういう文化であれば、公然猥褻の忌避からすればこれらはみな仕方あるまい。
 だが猥褻の基準は見る側にある、とも言えないかね?とヘムレンさん、誰にとっても猥褻、というほど性的アピールを感じさせる立ち振る舞いの人物はそういないだろう。だから分かりやすいところで面前での生殖器の露出が基準になっている。どうかね?
 そこだが、とジャコウネズミ博士、実際にはめったにあり得ないことだからうかがいたいが、単に生殖器を次々と見せられたところでありがたみはあるかね?やはり特定の人格と結びつけないでは、生殖器は単なる器官でしかないんではなかろうか。無論バストとなると女の乳、たいがい尻とセットだが、まあ乳の方が本命という場合が多いだろう。とにかく顔立ちや全身のプロポーションを置いてでも、ひたすら乳に固執する男というのは考えられる。こればかりは仕方がないではないか、実際乳房に自信のある女性は乳房のヴォリュームを誇示する傾向があるし、見事な乳房は女性からも肉体美として賛美される。性的猥褻とも重なりつつ別の意味で、ある種普遍的なセックス・アピールをなしていると言って良いだろう。なんだか話が逸れてしまったぞ。


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 昼間、太陽の光が地表面に当たっている時、地表面は太陽放射を受けて温度が上昇します。逆に夜間は、地表面から宇宙空間に向けての放射があり、地表面の温度は低下します。このとき、大気中に雲が存在すると、雲からの放射を地表面が受けることにより、地表面の温度低下が妨げられる状態になります。一方、大気中の水蒸気が少ないよく晴れた夜間(日本では冬季間が代表的)には、地表からの放射はそのまま宇宙空間に放出されるため、地表付近の温度が低下しやすいのです。放射冷却と呼ばれる現象はこの状態を指します。
 デイジーとキャシーの姉妹は交差して倒れたグラスを挟んでカウンターに凭れて身動きしませんでした。キャシーの右隣にはミミィが突っ伏し、だらりと下げた手から落ちたグラスがストゥール席の足元で粉々に砕けていました。デイジー、キャシー、ミミィの口もとには溢れ出るまではいかない吐瀉物が滲んでいました。それは古典的なアーモンドの香りのする毒薬によるものと思われました。
 一方、アギー、バーバラ、ウインたちはもっと効果の遅い分だけ苦しみの長い中毒死の様子が見られました。苦しみながらどうにかしてこの窮地を逃れることは出来ないだろうかと、もがきながら大量の水を飲んで無理に吐瀉したり、水盥に水を汲んで顔面を浸したりと無駄な悪あがきの最中に結局、努力の効果がまったく徒労に帰したのを悟り、大きく驚愕の眼を開き二度と動くことはなくなっていました。
 メラニーすら「従業員も使用します」と貼り紙のある女子トイレの個室にこもって、誰にも看取られることのない最期を迎えていました。肩まで上体を西洋式便器の中に突っ込み、排水管に潜れば最後の望みがあるとでも言わんばかりに見えましたが、そんな望みは現実にはかなうまでもないことでした。
 ボリス、ダニエルのふたりは後頭部を鈍器の一撃で一瞬に頭蓋骨骨折を負わされ、事実上の即死殺害された遺体となってうつぶせに倒れていました。毒殺よりはまだ親切な殺され方と見えるのは、女の子たちより苦悶の様子が比較的軽いことでした。こうして従業員たちは、アルバイトのマイメロディ以外の全員が死んでしまったのです。
 違う、とハローキティは思いました、私が望んだのはこんな結末じゃない!確かに私はリボンを失ってしまったけれど、何もかもを失いたいわけじゃない。
 でもミッフィーちゃんは、この結末にまんざらでもなかったのです。


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 あなたと会うのはできればこれきりにしたいわね、とミッフィーちゃんは言いました、話し合いで済むのはこれが最後でしょうから。そう言うミッフィーちゃんの口ぶりは勝者の余裕に満ちていました。彼女にとってゲームは終わったのです。もし次に顔をあわせることがあるなら話し合いでは済まない実力行使になり、早い話が殺しあい以外にはないので、戦う前からミッフィーちゃんは勝ち誇っていました。彼女には自分が属する分野では史上最高のイコンという自負があったのです。
 あなたがどんなに強くても、とハローキティは思いました、根くらべなら負けないわ。たとえリボンを無くして、今では仲間たちを全員失っても、と彼女は後には引けない思いでした。仲間たちを全員失ったのはミッフィーの側も同様で、逆に言えば係累のいない、キャラクターとしてはふたたび元の一匹狼に戻ったことで、ハローキティとミッフィーは初めて一対一になることができたのです。
 これまでずっとあなたの存在を無視し続けてきたけれど、とミッフィーちゃんは淡々と述べました、だんだんそれも難しくなってきた。お客さんたちはあなたの側に持っていかれたり、また私たちの方へ戻ってきたりするのが長い時間を経つほどにはっきりとしていて、その時間は疑いもなくあなたたちと奪いあうように共有してきた時間だったのよ。
 わからないわ、とハローキティは応えました。あなたたちと私たちは重なるものは何もなかったはず。もしお客さんの取り合いのことを言っているのなら、古典的な命題がその誤解を解いてくれるでしょう。一、ひとつのものは同一時にふたつの場所を占めることはできない。二、ふたつのものは同一時にひとつの場所を占めることはできない。古代ギリシャでも老荘思想でもこの命題はとっくに明らかだったはず。だからもしあなたが、私たちはずっと敵対しあっていたというなら……
 あっははは!ミッフィーちゃんはハローキティの言葉の途中で唐突に笑いだしました。キティちゃんは彼女なりに誠心誠意を込めて話していたので、その笑いには深く心を傷つけられる思いがしました。ミッフィーの笑いはすぐには止まらず、その間ずっとハローキティはミッフィーちゃんの左耳に結ばれたリボンを虚脱感とともに見つめていました。
 ねえキティ、ここはどこだかわかるわよね?休戦地、とキティは答えました。そう、そして休戦していたのは私たちの戦いだったのよ。


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 というのはね、とミッフィーちゃんは言いました、つまり私が勝利を確信したのはってことだけど、シンメトリックの原理が私たちの敵対関係には働いているってことよ。私の予想では、たぶんこのお話しは80回で終わるでしょう。40回目までは窮地に陥っていたのは私たちの陣営だった。情況は41回目から劇的に反転し、あなたたちと私たちの勢力争いは再び私たちの優位に戻った……それはこのお話が始まるよりずっと以前の力関係だけれど、40回ずつが対称をなすように仕組まれたお話なら、あなたたちにはあともうわずかな残り回数でもう挽回の余地があるとは思えない。
 それは誰が決めているの?とハローキティは声をひきつらせました。あなたの言う通りなら、私たちは第1回、第2回と順を追ってここまで進んできたことになる。そんなことを誰が決めて、そういうふうに仕組んで、その通りに実現してきたというの?私が言いたいのは……つまりそれは、ぜんぶ今のあなたにとって都合の良い妄想と変わりはないんじゃないかしら。そうやってあなたは私を、私たちを心理的な罠にかけようとしているようにしか思えない。そうなんじゃないの?
 ミッフィーちゃんは再び笑い出しました。何がおかしいっていうの、と憮然とするハローキティに、あなたは罠と言ったわね、とミッフィーちゃん。それはもう、自分から負けを認めているようなことだってあなたは気づかないの?私は仮の話をしているのよ、とハローキティは反撥しましたが、だからよ、とミッフィーはうす笑いを浮かべました。仮定でもそれがあり得ることなら、それは現実の可能性のひとつということだわ。あなたが可能性を口にするなら、もうそのことは起こったのも同然なのよ。あなたは私が仕組んだ罠にかかった。実際は私がかけた罠ではないかもしれない。偶然のなりゆきにしか過ぎないかもしれない。でもあなたは自分にかけられた罠という可能性に気づいた。だとすれば、あなたはどうするのかしら?
 私はあなたのように汚い手は使わないわ、とハローキティは強い口調で言いました、たとえそれで優位を挽回できるとしても、卑怯な手を使うのは自分を相手の汚い手口と同じにしてしまうことだから。
 ずいぶんプライドがお高いのね、とミッフィーちゃんはせせら笑いました。でもそんなことを言っている余裕がまだあなたにはあるかしら。たとえば、あなたにリボンを返して差し上げると言ったら?


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 ぼく、つまりチェブラーシカと親友のわにのゲーナは何もない丘に立っていました。つまらん仕事を請け負っちまったんじゃないかい、とゲーナは言いました。どうして、とチェブラーシカは訊き返しました。簡単な損得勘定だよ、とわにのゲーナ、おれたちのやることは密輸だろ?下手したらそれは盗品売買より危険だぜ、しかも盗品売買よりも売り手と買い手の共謀性が高いと見做されかねない。盗品売買なら客は知らぬ存ぜぬのフリの客で押し通せもできようが、密輸品となると知らないでしたで済まされるもんじゃないだろう。このあたりでは売買されていないものを売り買いしているんだから、売る側も買う側もどちらも含めて組織犯とされても抗弁しようもない。
 チェブラーシカは黙ってゲーナの説教を聞いていましたが、でももうぼくたち請け負っちゃったんだから仕方ないよ、と歩き出しました。待てよ、とゲーナは荷車を曳きながら、おれも下りるとは言っていないよ。受けてしまった以上仕事は仕事だ、そのくらいは筋は通すさ。だがそれがどう危険かはさっき言った通りだし、おれたちは考えなしに下手をしたらやばい、ということだ。つまりおれたちは。
 つまり長い目で考えるべきだ、と言いたいわけね、とミッフィーちゃんは言いました、もし私たちが共存を望むならば。でも私たちはどうやったらあなた方を信用することができるかしら。あなたの店に行ったお客は、あなたの店さえなければ私たちのお店に来るはずだったお客さんだった。そうでしょ泥棒猫!
 繰り返しの話になるけれど、とハローキティは徐々に強まる頭痛を意識しながら、話は逆でも同じよ、あなたのお店にお客さんが入れば、その分私たちのお店にはお客さんが少ない。それはどうしようもないことだわ。たとえあなたと私が和平したとしても、そればかりは均衡の原理が働いているんだから。質量保存の法則?私たちは同じてんびんの左右にいるのだから、そこから下りるのは不可能なのだから、私のリボンがなくなろうが見つかろうが私たちは同じてんびんから下りられないままなのよ。これであなたも少しは勝者の気分を味わえたかしら。もしそれがお望みなのなら。
 ビジネスはビジネス、しっかりやろう、とゲーナは言いました。要するに密輸でもなく売買でもなければいいんだろ?いい手を考えた。国境線ぎりぎりに賭場を開くんだ。荒れ地にゴザを敷くだけでいい。これは儲かるぞ。どうかな?


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 急いで仕度するんだ、と野原ひろしは言いました、早く子どもたちを集めるんだ。緊急避難命令が出たぞ、勧告じゃなくて命令だぞ。せっかくまとめて休みを取ってきたのにねえ。しんのすけの友だちたちをみんな連れてきてやった時から嫌な予感はしてたんだ、とひろしはみさえにこぼしました、みんな良い子たちではあるんだが、とかく揃うと何かの面倒に必ず巻き込まれる。とにかく急ごう。
 あの人たちと一緒に避難したら?とみさえはジョータローたちを横目で指しました、わからないけど強そうじゃない?きっと格闘技のコーチか何かして世界を回っているのよ。うーん、そうだな、しかし強すぎる人は敵も多かったりするぜ、かえってトラブルに巻き込まれたらどうする?あの人たちなら守ってくれるんじゃない?それは本末転倒だぜ、トラブルは遭わない方がいいに決まってるじゃないか。
 そうねえ、と生返事を返しながら、みさえは荷物を包むために出してきた古新聞の料理記事に心を奪われていました。いわく、イルカのすき焼きとはイルカをすき焼き風に調理する日本料理である。和歌山県東牟婁郡太地町の郷土料理。太地町とその周辺や、日本の幾つかの地で食される。イルカだけでなく、クジラの肉を用いた同様の料理もある。太地では地場産のスジイルカなどを主に刺身やすき焼きの様な鍋物として食す習慣がある。この鍋物の起源は、紀伊半島の漁師町において魚介類のすき焼き風の料理を指す「じふ」だと考えられている、というものでした。イルカのすき焼き!いつかわが家でも食べる機会があるかしら?
 おい急げよ、と急かす夫の声でみさえ29歳は我に帰りました。そういえば変なやつらが他にもいたよな、犬を連れたアメリカ人の小学生たち、それからカバの妖怪みたいなお化けの集団。ああ、まともなのなんてもうおれたちくらいしかいないじゃないか。おれたちが避難の引率する義務なんかあるのか?あのマッチョたちなら自力で切り抜けられるだろうが、連中は一種の超人集団だからまだしも、おれたち平凡な市民が一家だけ避難したのでは槍玉に上がるに決まってる。
 だったらマッチョのお兄さんたちにリーダーになってもらえばいいじゃない、とみさえ。それはそれでデンジャラスだってさっき話したろ?とにかく早く子どもたちを集めるんだ。
 なんだか儲けるあてが外れたね、とチェブラーシカは言いました、ここは元どおり、戦場になっちゃったんだ。


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 そういうことだったの、とメラニーはひとりごちましたが、例によってメラニーのひとり言は周囲の反応を見るためのようなものだったので、アギーやバーバラ、ウインの間にはかすかな、しかし確かな抵抗感のようなものが生まれました。こちらが何か返せばきっと、メラニーにはどのようにも揚げ足をとる用意があるのです。つまりひと言で彼女を満足させる返答などまずあり得ないということで、何を好き好んでそんな面倒くさい役割を買って出なければならないでしょうか。
 だからメラニーの同僚たちはわざと聞こえないふりをしていましたが、フリの客だったデイジーたちにはそんなことはわかりません。何言ってるのよ、とデイジー、私たちはみんな死んでしまったじゃないの!デイジーの隣ではキャシーとミミィも釈然としない顔をしています。あーやっちゃった、とアギーたちはびくびくしました。これはメラニーには飛んで火に入る馬の脚というべき展開だからです。
 つまりしばらく前から、気がつくとアギーたちもデイジーたちも皆殺しになっていて、明瞭な他殺の痕跡はありませんがほとんど同時に絶命した様子からは自殺や事故死の可能性は少ない。飲食物への毒薬混入や毒ガス、細菌兵器などの化学兵器の殺傷でもこうはいかないでしょう。もしイメージするなら滝壷に流れ落ちるように、または時報とともに彼女たちの春の時間は消滅したのです。腑に落ちないままではすっかり成仏できないので、魂はまだ体の中に半分とどまり、霊だけが漂いながらおたがいの様子をうかがっていました。
 まあカルペ・ディエム、Carpe Didmという警句もあるしね、とメラニー。何それ?ラテン語だそうよ、明日のことはわからない、今日を生きようって意味だって。ずいぶん教養がおありだこと、とデイジー(アギーたちも同感でしたが)。いえいえ、仕事柄耳年増なだけ。明日は知らない、とデイジーは反復しました、今日を生きよう。何だか歌の題名みたいだけど、それで何だって言うのよ?
 さあ、とメラニーはとぼけると、私たちは生きているうちには他人の死しか知らないわよね、そして明日自分に何が起きるかもすべてを予期することはできないし、いつか明日という日もなくなる。ちょうど今の私たちみたいに、とメラニーは言いました。
 ちょっと待ってよ!何で私たちまで全員ここで死ななきゃならないの、とデイジーは声を荒げましたが、もう遅かったのです。


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 まずその頭のかぶりものを取って本当の姿をさらしなさい、とミッフィーは言いました。ハローキティは命じられるがままに頭部をさらけ出しました。その黒髪は腰まで長く、キティはミッフィーをキッと見つめました。なかなかいいじゃない、とミッフィーは上っ面だけ感心してみせると、三食パックの納豆を取り出すとハローキティの髪に和えて、ヘアブラシでじっくりと粘りを立てました。鏡をご覧なさい、今あなたの髪がどういうことになっているか。ミッフィーちゃんは自分が凌辱したハローキティの写真を撮影すると、今度はあらかじめ用意してあった果物ナイフを取り出しました。心配しなくていいのよ、とミッフィーちゃんは言いました、ちょっとは痛いかもしれないけど、ほんとにちょっとだけだから。
 その頃、ドアを開けて診察室に入ってきたのはきたのはなかなかの美青年と、明らかに健康を害している老婦人でした。よろしくお願いします、と美青年は言いました。お母さまはどのようなご心配ですか。いえ、母ではありません、と青年は老婦人を振り返りながら、妻です。それは失礼しました、と私は言いながら、診察机の影になって患者からは見えない位置で、受付から回ってきた身元照合書類に目を通していました。治療の必要はない患者であることは老婦人の出生から明らかでした。すでに開戦から事態は急激な内政政策が施行されており、この患者は人種的に、また階級的にも国家の庇護をほぼ完全に剥奪されており、おそらく十分な医療を受けられるほど政情が安定するまでには、健康の回復は望めないでしょう。ここは名ばかりの慈善病院ですから毎日のようにこんな患者が困窮して訪ねてくるのですが、風邪薬や咳止めを渡すか、せいぜい栄養・鎮痛点滴を打つ程度の対応しかできません。慈善医療ではそれ以上本格的な治療は禁じられているのです。もし本格的な入院治療を行えば生涯入院の患者の受け入れもできることになり、現在のような戦時下では病院には死に場所を求める人が列をなすでしょう。認めざるを得ませんが、それは慈善病院には荷が重すぎることなのです。
 ぼく、チェブラーシカは親友のわにのゲーナと、せっせとハローキティの店の酒蔵からお酒や缶詰を盗み出して荷車に積んでいました。こっちの店はもう営業再開しないんだろうね、誰もいないし。もう一軒はどうだろう、とワニのゲーナ、今度来る時には、行ってみようか?
 次回最終回。


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 最終回。
 自分にはまったく理解できないことが予期しないまま起こって、もはや決定的に以前と同じ境遇ではいられなくなってしまったのをマイメロディは感じ取っていました。そもそもマイメロは、何のために自分がここに差し向けられたのも要領を得ませんでしたし、秘密というものを理解することのできないマイメロディには極秘の任務を遂行するどころか、自分が探り出さなければならない秘密さえも最初から会得していなかったのです。ならばなぜハローキティの店からマイメロをミッフィーちゃんの店に潜入させたかと言えば、マイメロという双方にとってつつぬけの穴を通すことで信用できない情報がどちらからも漏洩し、結果的に情報の飽和によって攪乱されてしまうのならば現状では調子の良いミッフィーの店ならば振り回されることになり、逆に不景気なハローキティの店では何も変化しないよりは変化があった方がまし、という思惑からでした。ですが、マイメロは今やひとりぼっちで、探るべきミッフィーのお店とも、報告すべきハローキティの店とも無関係にたったひとりでからっぽのお店に座り込んでいました。ここはハローキティのお店のようでもあり。それは勘違いでやはりミッフィーのお店のままのようでもありました。どちらにしてもマイメロディの役割は終わったのです。
 カウンターの上には、ミッフィーの〓とハローキティの〓がきれいに並べて置いてありました。マイメロはすることもないので、入念にふたりの〓〓〓を作り上げて、きれいな死化粧を施してあげました。化粧を施すごとにふたつの〓は見分けがつかなくなっていきました。夜になると閃光弾が屋外の路上に降りそそぎ、大きく窓をとった店内には花火が照り映えているように見えました。もうお客さんが来ることはなさそうでした。休戦は終わったのです。今ここは再び正真正銘の戦地でした。マイメロは目をつぶればいつでも生まれ故郷のメルヘンランドに帰れましたから、急ぐ必要はありませんでした。もうお店はやっていません、という目印作りを最後の仕事にして、せっせと死化粧に磨きをかけていたのです。
 ぼくたち、チェブラーシカとわにのゲーナが次に来た時には、もう誰もお店にはいませんでした。ただ、カウンターにはふたつの〓だけの人形が並んでいるだけでした。それば誰の〓とも知れず、左耳に結ばれたリボン以外に、ふたつの〓〓〓は見分けがつきませんでした。
 完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
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映画日記2019年5月13~15日/蔵原惟繕(1927-2002)と日活映画の'57~'67年(5)

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 昭和29年('54年)に戦後ようやく製作再開を果たした日活(明治45年='12年設立)がメジャー5社(松竹・東宝・大映・東映・新東宝)に並ぶ業績を上げるようになったのは昭和31年('56年)の『太陽の季節』と石原裕次郎主演作『狂った果実』に始まる太陽族映画のヒットがきっかけで、つづく日活の栄枯盛衰は前回の前書きに述べた通りです。ほぼ5年あまり東映に次ぐ業界2位の業績を上げていた実績も昭和39年('64年)以降は悪化の一途をたどり、昭和41年('66年)には実質的には業界最下位の経営状態に転落します。次々と所有物件を売却しながら会社上層部の分裂・混乱も激しくなる中で戦後全盛期の日活を支えた監督たちが最後の力作を残したのが昭和42年('67年)であり、この年を最後に翌年日活は大きな路線変更を図り、専属監督やスタッフ、俳優が一斉にフリーになる、または馘首される事態になるので、石原裕次郎がスターの座を確立した昭和32年('57年)を起点としても昭和42年を日活映画は一旦区切りを迎えたと見てよく、その後日活は純愛映画路線、ニュー・アクション路線と記憶に残る作品を生み出しながらも全盛期の業績は取り戻せず前代未聞のメジャー映画社によるロマン・ポルノ路線を打ち出して成人映画ジャンルで名作・傑作の数々を放つのですが、'50年代~'60年代作品同様'70年代~'80年代の日活映画もほとんどがプログラム・ピクチャーなので顧みられる機会が少なく、またプログラム・ピクチャーとしての性質から1作単位よりもジャンル映画の性格が強いためまとまった数を観ていないと特色がつかめないということも起こってくる。それほど昔のものではない自国の映画なのに現存する絶対的すら少ない昭和10年('35年)までのサイレント時代の日本映画と大差ないくらい限られた作品しか容易に観られないので、'50年代以降の戦後日本映画ですらまだ本格的な評価は定まっておらずその途上にあると言えます。日活は他社と較べても極端に自社のカタログの価値に冷淡な映画会社なので系統立った映像ソフト化も粗略であり、そんな調子ですから日活映画の隠れた名作の数々すらも今後も一部のマニアの間でしか観られず忘れ去られていくのかもしれませんが、それだけに隠花植物のような隠微な魅力がおそらく公開時よりも増していると思える面が昭和42年度の日活作品にはあり、今回の3作で日活戦後全盛期の作品紹介はひと区切りになりますがこの3作は必見の価値のある断末魔的作品です。なお歴史的意義を鑑み、今回もご紹介する日活映画については初公開時のキネマ旬報の紹介文を引用させていただきました。

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●5月13日(月)
野村孝(1927-2015)『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(日活'67.2.4)*85min, B&W : https://youtu.be/jhT40e6VYvM (Full Movie)

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 2本立て用に急遽代用作品として企画され脚本執筆期間4日・撮影期間20日で完成されたという本作は公開後数年間のうちに日活アクション映画史上の画期的傑作とマニアの間で評価が定着し、主演の宍戸錠も主演作中最高の1本、これが主演デビュー作だったらと発言するほど本作を愛好し、ビデオ時代には国内リリースされるもDVD化は米Criterion社盤のボックスセット『Nikkatsu Noir』2009が世界初で2012年に日活からようやく国内初DVD化されるもキネマ旬報あらすじに転載された公開時の日活のプレスシートにある展開の間違いが訂正されずそのままパッケージに載っており、また本作はめったに再上映されずテレビ放映もされなかったためホームビデオ普及前の'70年代に本作に論及した批評家がキネマ旬報あらすじのプレスシート由来の間違いを踏襲したためいまだに各種映画感想サイトや通販ショップのユーザー評では間違いをそのまま引き写した評が出回っている幸運なんだか不運なのかわからない作品で、この件ひとつ取ってもプログラム・ピクチャーに対する日本の映画ジャーナリズムのずさんさ、日活の自社カタログのあつかいの粗略さがわかります。日本盤DVDがリリースされてからは本作は日本語版ウィキペディアでも裕次郎主演作、鈴木清順監督作の代表作と並んでもっとも詳細に解説項目が設けられた'60年代日本映画、日活アクション映画の最重要作と目されるようになり、ウィキペディアでは上記の従来の本作の紹介の間違いも特記して訂正しています。もっとも従来、渡辺武信や西脇英夫ら'50年代~'70年代の日本のアクション映画について労作の論考を残してきた評者がついキネマ旬報の紹介を踏襲した勘違いをしてきたのも同時代に膨大な新作を観てきた評者だからこそと言えるので、本作と類似した設定でプレスシート由来の間違い通りに展開する映画も無数にあり、むしろ展開としてはその方が多いので記憶に混同が起こりキネマ旬報のバックナンバーで確認して勘違いの方に行ってしまったと思われ、西脇氏なども名著『日本のアクション映画(アウトローの挽歌)』で相棒の惨死、死体に群がる蠅の強烈なイメージを書いていますが相棒というより弟分のジェリー藤尾は捕らわ拷問こそされますが宍戸錠に密航船(ダルマ船)に救出されますし(その代わり宍戸はジェリーを気絶させた間に敵との交換条件で出航する密航船から降り、最後の対決に向かいます)、蠅は宍戸自身のアイディアで真冬の撮影だったのにスタッフが日活の社内食堂から集めてきたそうですが、群がるのは死体にではなく宍戸が最後の対決の場で罠を仕掛けるために掘った穴で掘り起こした土の中(冬眠中?)から出てくるのです。本作は同一原作が原題名(『逃亡者』)のまま古川卓巳監督(長門裕之主演)で昭和34年('59年)に初映画化されたもののリメイクに当たるそうですが、ヴェテラン山田信夫と新鋭の永原秀一の共同脚本で原作とも前回の映画化ともまったく違う、ほとんどオリジナル脚本と言えるものになっているそうで、原作未読・『逃亡者』未見ですが、古川卓巳監督・長門裕之主演(箱根が舞台で、『必死の逃亡者』'55の設定を踏襲した内容だそうです)で本作のような映画になるとは思えません。Criterion社盤DVDの解説でも本作は同年の鈴木清順の『殺しの烙印』とジョン・ブアマンの『殺しの分け前 ポイント・ブランク』に匹敵する作品と評価されており、またイタリア製西部劇の影響(音楽もエンリコ・モリコーネ調)には誰もが気づくことで、これはアメリカではスパゲッティ・ウェスタンと呼ばれますが'60年代のイタリア製西部劇をマカロニ・ウェスタンと呼んだのは日本の映画観客の方が先です。またジャン・ピエール・メルヴィルに似たタッチもあり、メルヴィルの『サムライ』'67とやはりメルヴィル張りの森一生の『ある殺し屋』'67が本作と同年作ですが、『サムライ』以前のメルヴィル作品を参照しているとしても'67年初頭でこの作風は斬新で、古川卓巳の『拳銃残酷物語』'64で萌芽を見せていた宍戸錠主演によるハードボイルド路線でついに決定打が出た観がある。野村孝はほぼ同年生まれの中平康、蔵原惟繕、舛田利雄らと較べてもアクション映画(裕次郎主演作『夜霧のブルース』'63)以外に歌謡ロマンス映画(『いつでも夢を』'63)や青春映画と手練れながら決定的な代表作に当たらない、会社企画に順応していた監督でしたが(なので路線変更後の日活にもロマン・ポルノ発足の'72年まで残留することになります)、本作は宍戸錠ならず野村監督にも会心の1作だったでしょうし、'60年代日本映画中でも世界に誇り得る作品が当時の日活でももっとも低予算かつ圧縮された製作環境から生まれたのも記憶されていいことで、それが決して拙速には陥ってはいないわけです。2本立てのメイン作品だった高橋英樹主演作『新・男の紋章 若親分誕生』(監督・井田深)が今日ほとんど顧みられないのに併映用作品の本作が燦然と日本のアクション映画史に輝き、同年6月効果の『殺しの烙印』、9月公開の『みな殺しの拳銃』(本作の助監督である長谷部安春が監督)の3作は昭和42年の宍戸錠主演三部作として語り継がれる作品になっている。本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 藤原審爾の原作『逃亡者』を、「帰らざる波止場」の山田信夫と永原秀一が共同で脚色し、「暗黒航路」の野村孝が監督したアクションもの。撮影はコンビの峰重義。
[ あらすじ ] 大田原組と島津組は横浜を根城に勢力を争っていた。殺し屋の上村(宍戸錠)が相棒の塩崎(ジェリー藤尾)と共に横浜に現われたのは、大田原(佐々木孝丸)から頼まれて島津(嵐寛寿郎)を暗殺するためである。綿密な計画と確かな腕を持つ上村は、ある日、マンションの屋上からライフルで島津を射殺した。上村は直ちに凶器を始末し、塩崎と車に乗ると、羽田空港に向った。高飛びするためである。しかし島津組も黙ってはいず、二人は脱出寸前のところで捕われてしまった。だが、塩崎の機転で逃亡に成功した上村は、大田原の秘書金子(本郷淳)の指示で、大田原組傘下の津川組に逃げ込んだ。ところが、それと知った島津組二代目(杉良太郎)が上村たちのいる渚館を取り囲んだため、脱出は不可能となった。そんな時、上村は渚館のウェイトレス美奈(小林千登勢)と知り合ったが、美奈は水上生活者からはいあがった薄幸の女で、上村は彼女の暗い面影に惹かれていった。美奈がダルマ船に食事の配達に行くことを知った上村は、ダルマ船で脱出することを計画し、船長(山田禅二)を口説き落した。しかし、その頃、塩崎は津川(内田朝雄)に殺されていた。大田原は上村たちが厄介になり、島津組と手を組んだのだった。島津組はその代償に、マフィア団との密輸交渉権を大田原に譲った。塩崎の死と大田原の裏切りを知った上村は怒り狂い、必死にとめようとする美奈を振り切って、三組の待つ埋立地に向った。上村は手製の時限爆弾を手に持っていた。ちょうど夜が明けようとする時刻、殺し屋や大田原、島津組二代目、津川を乗せたベンツが、上村に向って疾走してきた。しかし、上村ははねとばされながらも、強磁力の時限爆弾を投げつけた。そして数秒後、ベンツはふっ飛んだが、上村は、朝日が昇りはじめた埋立地を、虚し気に去っていった。
 ――本作は弟分にジェリー藤尾がいるものの宍戸錠が単独行動する場面がほとんど、またはほとんど他人と宍戸が会話するシーンがなく、モノローグも最小限に切り詰められています。心情を語るモノローグは一切なく敵は何人がかりで来るか、拳銃で殺れるのは何人が限度で散弾銃なら何人まで足止めできるかと方策を練るモノローグだけで、最初の無言の暗殺同様宍戸は無言で敵のボスの庭園の防弾仕様のベンツの防弾実験を双眼鏡で偵察します。本作の宍戸は最後の対決の前に敵の幹部の江角英明から逃げているダルマ船界隈の女給の小林千登勢を弟分のジェリーとともに東南アジアへの密輸船に逃がしているので、対決に勝っても負けてもたった一人の友も唯一心を通わせた女も海の彼方にいて二度と会えることはないわけです。これほど孤独な主人公はないので、最後の対決は刺客をボスごと全滅させることだけに向けられる。クライマックス15分は主人公が黙々と時限爆弾を組み立てる作業から対決の場で地面に黙々と棺大の穴を掘る作業へと無言で進み、一味が攻めてきてから主人公が反撃し、裏切った親分連中と幹部が乗った防弾仕様のベンツからカービン銃の乱射を受けながら主人公がベンツを誘導し穴の中に滑りこんで強力磁石に装着した時限爆弾を瞬間車の車体の底に投げつける。通りすぎた車は数メートル先で爆発炎上します。主人公の無言の時限爆弾製作、穴を掘った下準備の意味がこのクライマックスで初めて観客に明らかになります。硝煙の中で穴から上がってきた主人公はベンツの中の一味の全滅を確かめて脚を引きずりながら去っていくのですが、主人公を待つ唯一の友も女もいないのは先に述べた通りです。ハードボイルド作品としても本作の宍戸錠のキャラクターは際立っていて、小林千登勢が可憐なヒロイン役で華を添えているのでまるっきりロマンス要素の欠けた作品ではありませんが、捕らわれたジェリーを見捨てても二人で出航しようとする女の嘘を見抜き敵との取り引きでジェリーの釈放・乗船と引き換えに対決のため船を降りているので(ジェリーを気絶させ小林に託し、船はすぐ出航して起き出したジェリーは海洋上の甲板で絶叫する)、敵を壊滅させた主人公はただ友と女を守り抜き生き延びた成果を得たきりで映画冒頭で登場した時よりさらに孤独な人物になっている。しかも主人公はみずからの意志で孤独に戦うことを選んでいくので、愛や友情の成就を自分自身への報酬ともしません。目的の遂行だけが主人公の行動原理なので同年の宍戸錠主演のハードボイルド三部作でも『殺しの烙印』にはあるエロスやブラックユーモア、『皆殺しの拳銃』の生の燃焼感すら本作は拒絶しており、太陽族映画の延長上のアクション映画とも違う日本版西部劇調の「無国籍アクション」路線(欧米の映画批評でも日本映画への批評に「Mukokuseki」は一般用語として使われています)が内実ともに頂点に達した作品と認められる。ちなみにタイトルが「拳銃」と書いて「コルト」と読ませるのに主人公愛用の銃はベレッタなのを始め本作の銃器類考証はガンマニアが見ると辻褄の合わないところも多々あるそうですが、小道具の不備より執筆期間4日の脚本で、ダルマ船労働者相手のレストラン兼宿屋・渚館女将役の武智豊子、最初の暗殺の相手となる嵐寛寿郎、その暗殺に使われるマンション管理人の親父役の中村是好、追っ手の殺し屋の草薙幸二郎、さらに敵の若頭に新人時代の杉良太郎と、よくまあ多彩なキャラクターを盛りこんだのを賞賛する方が本作への正当な評価と思えます。

●5月14日(火)
蔵原惟繕(1927-2002)『愛の渇き』(日活'67.2.18)*99min, B&W/Color : https://youtu.be/_erDeoFRISY (Fragment) : キネマ旬報昭和42年日本映画ベストテン7位

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 三島由紀夫の生前に映画化されてキネマ旬報の年間ベストテン入りしたのは市川崑の『炎上』'58(4位)と本作の2作きりのようですが、三島は日本映画の水準が国際的にも上位なのを大いに認めていて日本文学の水準などよりよほど高いと看破しており、そもそも三島は舞台(音楽・演劇)・映画への尊敬は文学よりも高いような人でした。劇作家としても多作だった三島の戯曲中もっとも大衆的人気を博したのは江戸川乱歩原作の『黒蜥蜴』の戯曲化で'62年・'68年に三島の戯曲原作とクレジットされて映画化されたあとテレビ・ラジオドラマに無数に改作されているので、作者を意識せず口承化するほど作品が一人歩きしたのは映画誌のベストテンなどよりよほど冥利に尽きると思われます。ましてや三島は頭のよすぎる技巧家でしたから小説には作り物すぎるという批判がついて回っていた弱みがある。本作の原作は前年の本格的デビュー長編『仮面の告白』'49に続く第2の本格的長編で、『仮面の告白』は擬自伝的作品の体裁でしたから本格的なフィクションを指向した長編としては初の試みになった作品ですが、まだ25歳の青くささが感受性と想像力のバランスを保っていて発表時好評だった佳作で、三島より7歳年長ながらやはり早熟な小説家だったカーソン・マッカラーズの第2長編『黄金の眼に映るもの』'41を連想させる陰鬱な抑鬱感に富んだ心理小説です。マッカラーズ、三島とも異性婚していた同性愛者という共通点があり、さらにマッカラーズはリューマチと卒中から30代以降は半身不随の健康状態で何度も自殺未遂をくり返し、アルコール依存症のまま50歳で早逝しています。生涯に4冊の長編小説、1編の戯曲、1冊の短編集と1冊の詩集というのは主流文学の小説家としては標準的なので、欧米諸国の文学では主流文学の小説家は詩人と同様に生涯で数冊~十数冊の著作というペースが当たり前で、年間数冊を書き百冊以上を書くのは通俗小説家と見なされます。三島由紀夫は文学作品と娯楽小説を平行して書きましたが日本では欧米型の文学者のあり方ではジャーナリズムの要求に応えられなかったからで、マッカラーズはアメリカの女性作家ですが三島も欧米の小説家であれば生涯10冊前後の力作に尽力していたかもしれない。その場合でも『愛の渇き』は『仮面の告白』に続く第2作として書かれていたでしょうが、マッカラーズ作品未紹介の当時性差と年齢差こそあれ鮮烈なデビュー長編につづく第2作にマッカラーズの『黄金の眼に映るもの』、三島の『愛の渇き』が類似した指向性の作風を示しているのは面白く、マッカラーズ(1917年生まれ)の逝去は'67年9月ですが、『黄金の眼に映るもの』が邦題『禁じられた情事の森』としてジョン・ヒューストンによりエリザベス・テイラーとマーロン・ブランド主演で映画化・公開されたのも同年で(アメリカ公開10月、日本公開12月)、同作はヒューストンの前作『天地創造』'66につづいて黛敏郎が音楽を担当しています。2月公開の本作『愛の渇き』も蔵原惟繕作品にレギュラー参加している黛敏郎が音楽担当なので、映画好きで新婚旅行先でも映画館に足を運び主演映画『からっ風野郎』'60(大映・監督=増村保造)まであり、『ゴジラ』シリーズと「ウルトラマン」と『もーれつア太郎』『あしたのジョー』は見逃さなかったという三島が『禁じられた情事の森』を観なかったとは思えず、まるで20代の頃の自分が書いたような原作(当時まだ未訳)に映画化されたばかりの自作『愛の渇き』を思い出さなかったはずはない。米Criterion社盤蔵原惟繕作品DVDボックスの本作の解説は蔵原による浅丘ルリ子主演作品として『執炎』'64の主題を継ぎ同年の日活作品では鈴木清順の『殺しの烙印』と偶然両監督のキャリアの総括作となったものとし、同年の日本映画でも吉田喜重の『情炎』、大島渚の『日本春歌考』、今村昌平の『人間蒸発』に並ぶ尖鋭的アート・フィルムとしています。川島雄三、今村昌平作品以外(鈴木清順、中平康さえも)で'50年代末~'60年代の日活映画がキネマ旬報ベストテン入りすることはなかったのですが本作は非常に批評家には好評で蔵原惟繕作品では初のベストテン入り作品になりましたが、昔のキネマ旬報ベストテンは『銀座の恋の物語』や『東京流れ者』はおろか『憎いあんちくしょう』や『野獣の青春』でもベストテン入りさせない敷居の高いコンテストで、同年のベストテン1位『上意討ち 拝領妻始末』は名作ですがそれなら『拳銃は俺のパスポート』だって甲乙つけ難く同点1位でもおかしくない。しかし日活のプログラム・ピクチャーはプログラム・ピクチャーというだけで選外なので、現在のように映画単位で製作委員会が組まれメジャー会社は実質的にインディー映画を配給しているだけ、という日本の映画界の状態からは考えられないような身分制度がありました。このプログラム・ピクチャーへのアパルトヘイトは'70年代には崩壊するのですが、本作は文芸映画としての企画だったのでベストテン選出の対象にもなり、並べてしまうと『情炎』や『日本春歌考』の方がずっと優れた映画だと思いますが本作は本作の行き方で成功している。『情炎』や『日本春歌考』はどんな映画か即座に説明できるような代物ではない難物ですが、その点『愛の渇き』は原作由来の図式性をうまく生かして焦点の明確な仕上がりにしているので、技法の感覚的集中力が日活監督蔵原惟繕の流儀とも思えますし、大島渚や吉田喜重が試みた多焦点的な前衛性と映画の性格を分けているとも言えます。本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 三島由紀夫の同名小説を藤田繁夫と「夜明けのうた」の蔵原惟繕が共同で脚色、蔵原惟繕が監督した女性ドラマ。撮影もコンビの間宮義雄。
[ あらすじ ] 松本悦子(浅丘ルリ子)は夫良輔の死後も杉本家に住み、いつか義父の弥吉(中村伸郎)とも関係をもっていた。杉本家は阪神間の大きな土地に農場をもち、広い邸宅の中には、元実業家の弥吉、長男で大学でギリシャ語を教える謙輔(山内明、楠侑子)夫妻、2人の子連れ未亡人の次女の浅子(小園蓉子)、園丁の三郎(石立鉄男)、女中の美代(紅千登世)、そして悦子が、家庭のぬるま湯の中で、精神の飢えを内にひめながら暮していた。その中でも悦子は弥吉との関係を断ちがたく、その心は愛に渇ききってしまっていた、その悦子がある日ふと心を動かしたのは園丁の三郎であった。若くひきしまった身体粗野なたくましさは、悦子のいる世界とは異質であるが、何か彼女の渇いた心を満たす湧水のようであった。買物のついでに三郎に靴下を買いあたえた悦子は、三郎に深く魅かれていった。また三郎もそんな妖艶さをひめた悦子に心まどわされるのであった。だが悦子は女の直感で女中の美代が三郎と恋仲であることを見破った。美代は三郎の子供をみごもっていた。表面静かに見える杉本家にとってこれは重大事であった。とりわけ悦子には、美代が三郎の子供を妊ごもったことに、深い嫉妬を覚えていた。胎児を始末させた悦子を恨みながら美代は郷里へ帰った。美代から愛を奪った悦子。だが三郎も家族も何もなかったように働いている。その頃、弥吉は農園を売り悦子を東京に連れてゆく計画をたてていた。その東京行がせまった頃、悦子は三郎に会った。その頃邸では、財産をとられた謙輔夫妻を中心に、人間の空虚なうめきが狂い泣いていた。三郎と会った悦子は自分の心の渇きを訴えたが三郎の強い抱擁がただ男の暴力だと知った悦子は、三郎をつき放した。弥吉が血相を変えてかけつけた。鍬をふりあげた弥吉の手をとった悦子は自から、三郎の肩に下した。絶命した三郎の始末を済ませた悦子は、弥吉に別れを告げると自分を始末するため去っていった。
 ――いかにも性的抑圧下の旧家のヒロインの見事な破滅ドラマだなあ、とテーマへの緊張感の持続と集中力に関心する一方、つい半月前に観直した革命直後のソヴィエト映画『聖ペテルグルグの最後』'27(プドフキン)や『武器庫』'28(ドヴジェンコ)の体制と真っ向から対立を辞さない志の高さを思うとやはり本作のヒロインのドラマは個人的なスケールにとどまって、原作が意図しただろう古典悲劇的な人間の根源的な宿命観まではやはり原作同様届いていないと思える。三島の原作も図式性を超えた訴求力のあるマッカラーズ作品にはおよばないものです。封建主義的な家長制度のブルジョワ家庭内での姦通状態に置かれたヒロインが抑圧に耐えかねて自滅的な破滅にいたる本作のドラマは、原作小説も三島の初期傑作として広く外国語訳されている通りそれなりに普遍的な内容ではありますし、浅丘ルリ子演じるヒロインの傲慢さと性的な脆さもよく描かれていて、ヒロインを視点人物に一貫させながらも突き放した話法で描く腕前は『俺は待ってるぜ』から『ある脅迫』『狂熱の季節』、『銀座の恋の物語』『憎いあンちくしょう』や『黒い太陽』とそれぞれ趣向の異なった映画でも貫かれてきたので、本作はその集大成的作品たる風格がある……と言えそうでいて、微妙に隔靴掻痒なところがある。大ロングで浅丘と園丁の石立鉄男(!)を映し、固定ショットのまま会話を字幕挿入したり、また浅丘一人きりのシーンも多いので時間経過と出来事を字幕挿入で示すのはまだしも、ナレーションで浅丘の葛藤を語るのは文芸映画としても不必要か苦肉の策に見えます。アート・フィルム的映像ではヨーロッパ映画のような手法を取っていて完成度は高いのですが、『狂熱の季節』『憎いあンちくしょう』や『黒い太陽』のような挑発性や爆発力は後退していて、これも完成度と引き換えに抑制された作品になったと思える。一家全員の食卓で出戻り未亡人の次女役の小園蓉子の小学生くらいの子ども二人(姉娘と弟)にも細かい演技をつけてあり、徹底した演技指導や場面の照応が伏線となりカタストロフに進む計算は映画全体・登場人物全員におよんでいるのでこの手抜きのない演出には舌を巻くしかないのですが、文芸映画としての仕上がりに万全をつくすのが本作の目標で、これもテレビドラマではできない過激さこそあれ(おそらく当時の映倫審査では成人指定されたと思われます)映画として限界を逸脱した過剰さにはいたらず、ほど良くまとまった作品にとどまるように思えます。ただし本作ほどの出来ばえの映画が普通に見えるのも贅沢なので、戦後日本の'60年代までの文芸映画でも本作は最高水準の作品には違いなく、蔵原惟繕は松竹助監督から日活に移籍し監督デビューした人ですが、松竹で監督になっていたら本作のような文芸映画で巧みな腕を振るっていたのではないかと想像させられる作品でもあります。

●5月15日(水)
鈴木清順(1923-2017)『殺しの烙印』(日活'67.6.15)*91min, B&W : https://youtu.be/_Jv4ctdCX-U (Full Movie)

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 鈴木清順監督第40作の本作が監督馘首にまで発展する問題作となり、のちには鈴木清順の日活時代の最後の作品にして代表的傑作と目されるようになったのはご周知の通りですし、それだけ際立った魅力と特異な内容の作品なのはご覧の方は誰しもご存知でしょう。海外での評価も絶大な本作ですが、『野獣の青春』『春婦伝』『肉体の門』『東京流れ者』『けんかえれじい』など十分人を食った鈴木清順の名作を観てくると本作は本質的にちょっと異質なのではないかと思える印象があり、上記の作品やもっと初期の『あの護送車を狙え』や『探偵事務所23』をその時期ごとの代表作としても『殺しの烙印』を代表作と見ると他の作品と断然してはいないかという気がしてくる。本作の脚本の具流八郎とは鈴木清順を慕う若い映画人8人(メンバーは流動的)の共同ペンネームですが、本作は元日活助監督から若松孝二の独立プロでピンク映画を撮っていた大和屋竺(1937-1993)が書いた脚本にメンバーがアイディアを加えて成立したオリジナル・シナリオによるそうで、大和屋自身の監督・脚本による傑作『裏切りの季節』'66、『荒野のダッチワイフ』'67に似すぎている。鈴木清順よりも大和屋竺の映画なんじゃないかと思えてくるので、ピンク映画の製作規模や環境では追いつかない内容を大和屋が敬愛する鈴木清順に託して出来上がったのが本作なのではないかと考えられます。『裏切りの季節』『荒野のダッチワイフ』は続く『毛の生えた拳銃』'68とともに大和屋竺の傑作で、以降大和屋はほぼ脚本家専念に転身し『愛欲の罠』'73しか監督作を残しませんが、立ち上げから没年までテレビアニメ「ルパン三世」のメイン脚本家だったのも原点には本作前後の監督・脚本作があったからで、本作をご覧になって大和屋竺自身の監督・脚本作、特に『裏切りの季節』『荒野のダッチワイフ』を未見の方はさらなる楽しみが待っています。ただしそのあと『殺しの烙印』を観直すとあまりに大和屋色の強さが目につき、鈴木清順の代表作とするのはちょっと違うなと思えてくる。ちなみに本作は客足の落ちる梅雨時公開のため西村昭五郎監督のエロティック作品『花を食う蟲』との2本立て成人指定公開だったそうで、同監督はのちにロマンポルノ路線の日活のヒットメーカーとなる監督です。また現行DVDは無修正ですが初公開時はヌードシーンのたび画面の半分が自主規制どころではない黒ベタだったそうで、このベタには意図的なギャグもあったそうです。いずれにせよ必見の本作にこれ以上の感想も野暮でしょうから、大和屋竺監督作品の(全編でないのが残念ながら)抜粋紹介と公開時のキネマ旬報の紹介を引くにとどめます。
[ 解説 ] 新人の具流八郎がシナリオを執筆し、「けんかえれじい」の鈴木清順が監督したアクションもの。撮影は「続東京流れ者 海は真赤な恋の色」の永塚一栄。
[ あらすじ ] プロの殺し屋としてNo.3にランクされている花田(宍戸錠)は、五百万円の報酬である組織の幹部を護送する途中、No.2とNo.4らの一味に襲撃された。花田の相棒春日(南廣)は倒れたが、組織の男の拳銃の腕前はすばらしいもので、危うく危機を脱した花田は、その男を無事目的地に送り届けた。仕事を終えたあとの花田は緊張感から解放されたためか、妻の真美(小川万里子)と野獣のように抱き合うのだった。ある日、花田は薮原(玉川伊佐男)から殺しの依頼を受けた。しかも、四人を殺して欲しいというのだ。花田は自分の持つ最高のテクニックを用いて、次々と指名の人間を消していった。しかし、最後の一人である外国人を殺すのに手間どり、結局失敗してしまった。殺し屋に失敗は許されない。組織は女殺し屋美沙子(真理アンヌ)を差向けてきた。家に逃げ帰った花田に妻の真美が拳銃を向けた。真美も殺し屋だったのだ。九死に一生を得た花田は美沙子のアパートに転げこんだ。そんな花田を美沙子は射つことが出来なかった。その夜、二人は殺し屋の宿命におびえながらお互いを求めあった。やがて花田殺しに失敗した美沙子は組織に捕われ、彼女を救いに行った花田は組織の連中と対決したが、そこに現われたのは、かつて花田が護送した男大類(南原宏治)だった。大類こそ、幻の殺し屋といわれるNo.1なのだ。大類は対決の場所として後楽園ジムを指定した。花田は腕は大類の方が一枚上であることを悟り、捨身戦法で対決しようと覚悟した。それが効を奏し、大類は花田に倒されたが、花田も大類の一弾を受けていた。ジムの中によろめき立っている花田の前に美沙子が現われたが、すでにその見分けのつかない花田は彼女を射った。そして花田も、「No.1は誰だ!」と絶叫してその場に崩れ落ちていった。

大和屋竺『裏切りの季節』『毛の生えた拳銃』DVD予告編 : https://youtu.be/TfYUoNIurSA
大和屋竺『荒野のダッチワイフ』オープニング・タイトル : https://youtu.be/dqmB79my8-A

集成版『夜ノアンパンマン』第一章

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 第一章。
 あんパンが初めて製菓店の店頭に並んだのは1874年とされており、翌1875年(明治8年)4月4日には花見のために向島の水戸藩下屋敷へ行幸した明治天皇に山岡鉄舟が献上し、お気に召された天皇によりあんパンは宮内省御用達となりました。以降、4月4日は「あんぱんの日」となりました。
 創世当時のあんパンはホップを用いたパン酵母の代わりに、酒まんじゅうの製法にならって日本酒酵母を含む酒種(酒母、こうじに酵母を繁殖させたもの)を使っていました。中心のくぼみは桜の花の塩漬けで飾られます。パンでありながらも和菓子に近い製法を取り入れ、パンに馴染みのなかった当時の日本人にも親しみやすいように工夫して作られていたのが成功につながり、1897年(明治30年)前後には全国的に大ブレークして、製菓店の本店では1日10万個以上売れ、長蛇の列で30分以上待たさせることもあったといいます。
 現代では中の餡はつぶあん、こしあんの小豆餡が一般的です。いんげんまめを使った白あんパンや、イモあんパン、栗あんパンなどの豆以外の餡を使ったもの、桜あんやうぐいすあんを使った季節のあんパンもあります。
 典型的な形状、つまり顔に当たる部分は平たい円盤で、ケシの実(ケシの種)、塩漬けの桜の花(ヤエザクラ)、ゴマの実が飾りに乗せられます。ただし必ずしもそれがあんパンの必須条件とは限りません。
 いつ彼が人格を持ち、人びとを飢えから救うのを自分の使命とするようになったかは、本当のところよくわかっていません。バットマンがジョーカーを必要とするように、ばいきんまんが現れるまでは彼はパッとしない絵本のヒーローでした。取り柄といえば空腹な人に、あんパンでできた頭をちぎって差し出すだけ。ちぎられた頭は完全になくなっても替えの頭を乗せればいいだけのようですが、ではアンパンマンの魂のありかとはいったいどこにあるのでしょうか?というのは、人間に限らず哺乳動物の身体構造からすればアンパンマンにとってあんパンには目鼻がついた頭部をなしているように見えますし、頭部が欠損して餡が露出すると脳漿以外の何物にも見えず、そのような状態で生命に支障がないとは擬似ヒューマノイドとしか考えられないからです。
 今夜はそんな謎に包まれたアンパンマンの、あまり面白くもない真相に肉迫してみたいと思います。ではばいきんまんさんからお話をうかがってみましょう。


  (2)

 窓辺に小鳥がさえずる鳴き声でアンパンマンは目を醒ましました。今日もいつもの平和な朝です。アンパンマンはうーん、と伸びをすると、パジャマを脱いでいつもの姿になり、マントをはおりました。マントとブーツ以外は、アンパンマンはいつでも同じ姿なのです。就寝する時はマントとブーツを脱いでパジャマをはおる、というだけです。今日もがんばるぞ、とアンパンマンは習慣的に意味もなく思うと、ジャムおじさんに朝いちばんの焼きたてあんパンと頭を取り替えてもらいに行きました。アンパンマンの朝いちばんの仕事はしょくぱんまん・カレーパンマンと分担しているパトロールなので、毎朝新鮮な焼きたてパンに頭を取り替えてもらわなければならないのです。
 ジャムおじさんはパン工場で、誰よりも早く起きて働いていました。助手は居候のバタコさん、見張りは(まだアンパンマンたちは起きてこない時間なので)めいけんチーズです。チーズはなかなか賢く人の言葉を解して知能も小学生並みにありますが、畜生の悲しさか人間の言葉は話せません。しかしこの世界で起きることで、チーズのうなり声とジェスチャーで伝達できないことなどめったにありませんでしたから、むしろ人権など顧慮しないでかまわない分チーズは便利な万能犬でした。
 やっぱりひと晩たつと皮も堅くなるなあ、とアンパンマンは思いながら、鏡に向かって自分の顔を乾拭きしました。朝起きて顔を洗うのは人間の習慣ですが、アンパンマンたちがそれをするとパン生地が水を吸って無惨なことになるのです。アンパンマンなんかまだいいよ、とカレーパンマンは言いました、しょくぱんまんなんかもっとガサガサでひび割れている時まであるってさ。もちろんおいらもコロモがボロボロ、そうでなければベタベタで、まくらカバーのかわりに新聞紙を敷かなきゃならないよ。
 だからぼくがリーダーなのかな、とアンパンマンは思うのでした。食パン頭とカレーパン頭、あんパン頭では、比較的標準的ヒューマノイドに近いのは形状・構造的にあんパンマンになるでしょう。ジャムおじさんの直営ファミリーには後から妹分のメロンパンナちゃんも加わりましたし、末っ子キャラのクリームパンダちゃんも比較的新顔でしたが、彼らはせいぜいアンパンマンたちをおびき寄せるためにばいきんまんの罠にかかるのが主な役割です。
 そう、ばいきんまん!その頃ばいきんまんは、今日も秘策を練っていました。


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 今日もこれから降りかかってくるばいきんまんの策略などいざ知らず、アンパンマンはジャムおじさんのパン焼き場に入っていきました。ジャムおじさんおはようございます、やあアンパンマンおはよう。おはようアンパンマン、とバタコさん、わんわわおーん、とチーズ。パン焼き場はいつも通りあらゆる種類のパンの焼きたての入りまじった薫りでむせかえるようでした。この薫りの中で一日中働き、くつろいですらいられるジャムおじさんとバタコさんにはアルコールを含めた酵母に常人を超えた耐性があり、それを言えば人間の数万倍の嗅覚を持つはずのチーズは犬としてツァラトゥスータラタッタの域に達していると言っても過褒ではないでしょう。アンパンマンの正義の背後にはこうした超人集団(犬も含む)がついているのです。アンパンマンは焼きたてパンの盛り合わせをちらりと見ると、それではお願いします、と自分の頭を外しました。
 大人が言葉を失い、幼児には何の疑問もないのがアンパンマンのこの特性です。頭が欠けたと言っては頭を取り替え、頭が濡れたと言っては頭を取り替え、頭が汚れた、カビた(ばいきんまんの手下のかびるんるんにたかられるとすぐカビます)と言っては頭を新しいあんパンに替えてもらわないと必殺技のアンパンチを繰り出すパワーが出ないどころか、全身の力が抜けてヘナヘナになってしまうのですが、とすれば全身の力そのものが頭のあんパンをエネルギー源にしているらしい。古くなったり味が落ちたりしただけでもパワーは低下するらしい。とすると、アンパンマンにとって真のアイディンティティは頭と身体のどちらにあるのか。そもそも簡単に交換可能なものを頭と呼べるものなのだろうか。
 そうした疑問もやはりスルーして、アンパンマンはジャムおじさんの「はい、新しい顔だよ」を待ちました。いつもならこのやり取りはあうんの呼吸で進みます。ところがアンパンマンの肩は頭の重みを感じず、いったいどうしたのかな、と一旦外した頭を小脇に抱えると、ジャムおじさんがエプロンの端をねじりながら何か言おうとしているのに気づきました。どうしたんですか、とアンパンマン。ふと見ると、バタコさんも何だか硬い表情です。チーズはといえばしょせん犬畜生ですから、いつものニヤニヤ笑いのままです。
 アンパンマンや、とジャムおじさん、今日は新作をつけてみないかね。何ですかこれは?見ての通りさ、乳頭じゃよ。


  (4)

 アンパンマンは一瞬言葉を失いましたが、つとめて平静に、でもぼくはこれまであんパン以外のパンを頭にしたことはいちどもありませんよ、と主張しました。アンパンマンや、乳頭はパンではないよ、とジャムおじさん。でもジャムおじさんが焼いたんですよね。
 私だけじゃないよ、バタコも焼いたんだよ。アンパンマンは同じ乳頭ならバタコさんのほうがいいな、とちらりと思いましたが、そういうことではないのに気づくのに時間はかかりませんでした。ジャムおじさんはパンを焼く人でしょう?私はケーキやパイも焼くよ。蒲焼きやサンマも焼きますよね、とバタコさん。うむ、バーベキューも焼きとうもろこしも焼くし、もちろん焼き芋だって焼く。
 だから乳頭も焼いてみたんですか、と喉もとまで言葉にしそうになりながら、アンパンマンはいけない、ぼくはジャムおじさんに逆らっちゃいけないんだ、と自戒しました。ジャムおじさん以外にも世の中にはパン屋さんはいますが、アンパンマンの頭になるあんパンを焼けるのはジャムおじさんだけなのです。
 ジャムおじさんがアンパンマンの創造主ということではありませんが(ジャムおじさんもまた想像主によって生まれてきたのですから、しかし)、ジャムおじさんなくしてアンパンマンがないのは事実で、一方アンパンマンがいなくてもジャムおじさんは開業しているパン屋さんですから、パン屋さんの仕事はいつでもあります。もしジャムおじさんがアンパンマンを毎日あたらしい頭に交換してくれなくなったら、アンパンマンは遭難したり迷子になったり、びんぼう暮らししている人たちを飢えから助けに行けなくなってしまいます。
 パトロールから帰るたび、アンパンマンやしょくぱんまん、カレーパンマンの頭は四分の一か、すさまじい時には頭をまるごと失っていました。飢えている人たちに分け与えてきたからです。しょくぱんまんはいいよな、とカレーパンマンがこぼすこともありました、ぼくカレー嫌い、って断られたりもするんだぜ。そういえばあんパンなんかじゃなくてもっと食べごたえのあるもの、中華まんのほうがいいなあ、と言われたことはあるよ。いや、ぼくだって苦労はしてるんだ、としょくぱんまん、食パンだけ?と言われる気分がきみたちにわかるかい?
 だからジャムおじさんは乳頭を焼いたのかもしれない、とアンパンマンは思いました、哺乳類はすべて乳頭によって育つ、そういうことだろうか。


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 それにじゃ、とジャムおじさんは湿気を帯びて癖のついたひげをととのえながら言いました、乳頭ならば今日みたいな雨の日でも面倒な支度もいらないばかりか、吸ってもらえばいいだけなのだからどうしても食べてもらう時には濡れてしまうパンに較べて便利ではないかね?はあ、とアンパンマンは歯切れの悪いあいずちを打ちました。なるほど言われてみれば、今朝は小鳥も鳴かない雨降りで、アンパンマンたち正義のトリオはそんな朝でもパトロールは欠かしませんが、頭を透明なヴィニール袋に包んで町や野山を巡回するのです。以前はプラスチックやガラスのヘルメットを試したこともありましたが、重い上に最大頭位まで収納口が開いているため雨水がすきまから入りこんで濡れてしまいやすく、アンパンマンたちは頭が濡れると頭をちぎって人にパンをわけてあげるどころか、からだに力が入らなくなるのです。これは濡れたパンしかあげられない、というヒーローにあるまじき無力感から来る心因性の症状かもしれません。だいたい原因不明の身体症状は心因性か加齢ということになるのです。閑話休題。
 だからいちばん濡れない、しかも簡単で軽い方法というと頭をヴィニール袋で包むことなのですが、教育上の配慮から止めてほしい、と町の人たちから遠まわしに苦情が寄せられて、それじゃどうしたらいいんだろう、とアンパンマンたちは頭を悩ませていました。どのように教育上望ましくないというと、頭をヴィニール袋で包むのは自殺や殺人の手段にはもっとも労を要せず簡単で、証拠も隠滅しやすいからです。殺人の手段ならあらかじめ拘束して自由を奪う面倒もありますが、この方法なら数分で窒素死は確実で、しかも絞殺や溺死のように明確な殺害方法が特定できません。
 アンパンマンたちはヒーローですから、子どもたちがヴィニール袋をかぶって遊ぶ危険がある。ばいきんまん役の子が水鉄砲で攻撃すると(実際にばいきんまんがよくやる手です)アンパンマン役の子はすかさずヴィニール袋をかぶる、もちろん数分もたたず死んでしまう。さすがに子どもたちが真似ると危険だから止めてほしいと言われると、アンパンマンたちも納得せざるを得ません。そんなことになっては逆に正義の味方失格です。だからといって雨降りだからパトロール中止とはいかない。かえって遭難している人も多いかもしれない。
 だが乳頭とは?それではアンパンマンではなく、別物にならないか?


  (6)

 そこは私もちゃんと考えてあってだ、とジャムおじさん、乳頭とは言っても本物の母乳が出るわけではない。だいたい天然の母乳など作れるものではない。あくまでアンパンマン仕様にしてある。つまりミルク状のあんパンだな、チューブ状にパン粥の芯の部分にこしあんが入っているという、流動食にアレンジしたあんパンが仕込んである。残念なのは粒あんにすると詰まるのでこしあんでしか作れなかったことじゃが、これで全天候対応あんパンを遭難したり飢えたりした人びとに供給することができる。
 これは医療用エンシュアリキッドにヒントを獲た摂食困難者用栄養食でもある。具体的にはたとえばの話だ、
 とジャムおじさんはもったいぶってひと息つき、心因性で摂食障害に陥り、いわゆる固形物を食べられない人や、さらにはいわゆる植物人間と言うような状態の人じゃな。自分で飲めない場合は鼻孔からチューブで摂食させるわけじゃ。エンシュアリキッドは完全栄養流動食なので、さすがにあんパンでは糖分一辺倒ではあるが、甘食に特化しているだけに即効性はある。疲労や衰弱には甘いものに勝るものはない。だからして、今後荒天の日は乳頭をつけてパトロールしてもアンパンマンがアンパンマンであることには変わりはないのだぞ。
 でもジャムおじさん、とカレーパンマン、アンパンマンはそれでいいかもしれないけれど、おいらたちはどうしたらいいんですか。なあ、しょくぱんまん、どうだよ。とつぜん名前を呼ばれてしょくぱんまんはギクッとしました。しょくぱんまんはジャムおじさんの話を聞きながら、それじゃぼくもパン粥まんにされてしまうのだろうか、具も味つけもないよ、とろくに感謝もされないただのパン粥になってしまうのだろうかと、ハンサムなだけの食パンの身を呪いたくなっていたからです。
 うん、きみたちの場合はちょっと難しいねえ、とジャムおじさんはエプロンで手を拭うと、たとえばスープカレーという手もある。だがスープカレーはそれだけで食べものと呼べるものではなかろう。そこで私が考えているのは、しょくぱんまんはパン粥、カレーパンマンはスープカレーを分担して、ふたりでコンビを組めば良い、と思うがどうだろうか。
 それも乳頭の頭でやらなきゃならないんですか?当然じゃよ。なあに町の人たちも衣装できみたちを見間違えるようなくことはないさ。だから余計恥ずかしいのだ、とは、通用しそうにはありませんでした。


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 それほど大きくはないんですね、とトレイに並んだ焼きたての乳頭の前に連れて行かれ、それに一応色あいもあんパンの皮の褐色をほんのりピンクにしたくらいだな、とアンパンマンは思いました。かたちも普通のあんぱんと変わりはなく、顔もいつものアンパンマンの顔立ちです。なーんだ、とカレーパンマンも自分の新しい顔を見て、違うのは表面がゴムみたいになっているだけじゃん。しょくぱんまんもそうだろ?そうですね、といつも二枚目呼ばわりされているのでナルシシストの気がないでもないしょくぱんまんは、まあ小さな違いなら気にすることはないか、と思いながらしぶしぶ肯定しました。いや、ゴムではないんじゃよ、とジャムおじさん、もっと吸水性と発散性のある、人肌に近い柔軟な仕上がりにしておる。哺乳瓶の乳首みたいなものというか、そのものじゃな。この成形技術完成には6年の歳月がかかっておる。小学校に入学した児童が中学校に進学するほどの時間じゃぞ。
 大変だったのよ、とバタコさんもにこにこしていました。わん、とチーズ。バタコさんは永遠の17歳(推定)だけど、チーズっていったい何歳なのかな、とアンパンマンたちは思いましたが、気づいた時にはもうここにいた、としか思い出せないのです。
 カレーパンマンの顔はやっぱりカレーパン色に、しょくぱんまんも同様に、ただしやはりほんのりピンク色が透けていました。それは乳頭じゃしな、とジャムおじさん。でもどうやって人にあんパンリキッドを吸わせればいいんですか?ああ、こんな具合じゃ、とジャムおじさんはバタコや、と声をかけました。はい、とバタコさんはトレイの上に天井向きに置かれたアンパンマン乳頭に近づくと、むんずと頬の部分を両手でつかみ、揉みしだきながらアンパンマン乳頭の中央付近、ほぼ鼻に当たる部分に唇を寄せると、舌でたっぷり中央部分を唾液で湿し、唇をかぶりつかせると舌でなぶりながら、音を立てて吸い上げました。それまで丸みをおびた程度に平たかった乳頭の中央がみるみるうちに隆起し、顔を紅潮させながらバタコさんが口いっぱいに頬ばってもさらにはちきれんばかりに膨張して、乳頭の中央以外の全体もふっくらとひと回り以上にふくらんでさらにピンク色を増し、バタコさんが飲み込みきれないほど溢れた液汁が唇のまわりからこぼれ、トレイの上のアンパンマン乳頭が思わずああーん、とあげるむせび声がパン焼き場に響きました。


  (8)

 バタコさんは咥えていたアンパンマンの突起から顔を上げると、頬を上気させたまま唇の端から垂れた液汁を手の甲でぬぐい、舌先でチュルっと吸い込みました。バタコさんが唇を離した後もまだアンパンマンの突起は硬く突き立ち、うっすらと、やや水っぽくなった液汁を先端から滲ませていました。そして先ほどからの一部始終をパン焼き場の天井のかた隅からうかがう監視カメラがあり、遠く離れたばいきん城のダイニングルームではばいきんまんとドキンちゃんが、巨大な液晶モニターを観ながら固まっていました。はーいお持ちしましたよ、ホラホラホラー、とホラーマンが台所から朝食のワゴンを押してきました。今朝の当番はドキンちゃんだったのです。ホラーマンは勝手に野宿していることもありましたから、そういう時にドキンちゃんが当番ならばいきんまんがやることになり、つまりはなはだ不本意ながらも、頻度ではばいきんまんが朝食の係をすることがいちばん多かったのでした。
 観た?とドキンちゃん。観た、とばいきんまん。何よあれ?わからん、観たことだけしか、とばいきんまん。しょくぱんまんさままであんな風になっちゃうの?そうみたいだナ、とばいきんまんは抑揚のない返事を返しましたが、内心の動揺は隠せませんでした。なになにどうしたんですう、とホラーマン、何かすごいものでも観ちゃったんですかあ?
 監視カメラはまだパン焼き場の光景を写しつづけていました。ばいきんまんの設置した監視カメラが24時間稼働しているのをジャムおじさんたちもみんな気づいていましたが、写されて恥ずかしいような秘密は何もない、という自負が半分、盗撮されているという快感が半分なので放置しているのです。ジャムおじさんがバタコさんのお尻をむき出しにしてバタコや、犬におなりと事におよんでいる光景などもばっちり盗撮されていましたが、これなど盗撮されていなければ快楽半減というものです。
 ハッとアンパンマンはわれに返りました。今頭に乗っているのはひと晩たった普段通りのあんパン、バタコさんに揉みしだかれながら液汁を吸われていたのはあんパン代わりにジャムおじさんが作った新作の乳頭です。まるで自分のことのように錯覚していたのは気が早すぎるというものです。それなのに頭ぜんたいがじいんじいんと痺れたような、気だるいような、ひと仕事終えたようなボーッとした感じになっているのは、どういうことでしょうか。


  (9)

 ジャムおじさん、とアンパンマンはおどおどしながら、どうしてもそれ……。乳頭かい?はい、どうしてもそれをつけなければいけないんでしょうか?アンパンマンが好きなようにしていいんじゃよ、とジャムおじさんは言いました、しかしわしの命令は絶対じゃ。思わずカレーパンマンはジャムおじさんに食ってかかるところでしたが(彼は熱血漢なのです)、しょくぱんまんが肩にそっと手を置いてカレーパンマンを制止しました。しょくぱんまんは理性的な紳士なんだから、おいらが感情にまかせて何か言うより円満に事を治めてくれるかもしれない。それでカレーパンマンも、ひとまずここはおとなしくすることにしたのです。
 ジャムおじさん、としょくぱんまんは言いました、確かにぼくたちは雨の日のパトロールには困っていました。頭のパンは食べさせてあげられたものではなく、ぼくたちは力も弱ってフラフラで、助けた人をパン工場に運んできてあげるか、ほら穴でも仮の避難所にして、ジャムおじさんに焼き直してもらったパンを袋詰めにして届けてあげるくらいのことしかできなかったのです。なにを偉そうに、とばいきんまん。何よ、文句あるの、とドキンちゃん。ホラー?朝ご飯食べないんですかあ?とホラーマン、冷めちゃいますよお?そんなのまた作り直させればいいでしょっ、とドキンちゃん。ばいきん城の食事はかびるんるんたちが作っているのです。ただし配膳はばいきんまんやホラーマンがやっているのは、調理させるのはともかく、かびるんるんに配膳させると料理が不衛生でまずそうだからでしたが、それは先入観による偏見というもので、細菌レヴェルまで計算された正確で繊細なかびるんるんの料理はすべての有機生命体の頂点を極めた極上品でした。ところがばいきんまんはきれいはきたない、おいしいはまずいという感覚の持ち主ですから、せっかくのかびるんるん料理は素直においしく食べてくれる人の口には入る機会はめったにない、というありさまでした。
 ただ、ばいきん城に拉致された被害者だけがかびるんるんの極上料理を食べるチャンスがあり、あまりのおいしさに幻覚まで見るありさまですが、シラフに返ると監禁食だからうまかったんだよな、とたかをくくってしまうのです。もしもばいきんまんが気づいていれば、かびるんるんの料理の前にはジャムおじさんのパンの数々など敵ではなかったでしょう。民意はばいきんまんに傾いたはずです。


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 ただぼくがひとつだけ心配なのは、としょくぱんまんは自信なさげに、これは今までのぼくたちとはあまりに変わりすぎていて……いや、見た目はこれまでのぼくたちと変わりはないわけですが、変わらないからこそ妙に思われて敬遠される、ということはないでしょうか。たとえばカレーパンマンに助けられた人は、当然いつものカレーパンを期待します。それはアンパンマンでもそうだし、ぼくが助けた相手は焼きたてのプレーンな食パンを期待するでしょう。もし最初からリキッドタイプの栄養食が望ましいなら、ぼくたちの存在意義だってなくなってしまいます。そうよそうよ、とドキンちゃん。そんなもんかねえ、とばいきんまん。ばいきんまんは悪さやアンパンマンたちの邪魔をするのがいわば公務ですので、アンパンチやトリプルパンチをくらってばいきんUFOごとばいきん城までぶっ飛ばされて帰ってくるのが日課ですから、アンパンマンたちの容姿や働きよりも正義の救援活動さえしてくれていればいいのです。または善良な市民や子どもたちの楽しみの邪魔をしているところにアンパンマンたちが駆けつけてくれば、来たな、お邪魔虫とばいきんメカで戦って負ける。なぜ無尽蔵の資源と最高の科学力を持っている自分がいつも負けてしまうのか、本来ならその根本の理由をばいきんまんも考えるべきでした。いや、これまでだってアンパンマンたちに何度もとどめを刺す機会はありましたし、事実上とどめを刺したことも一度や二度ではないのです。
 根本の理由はアンパンマンたちがいくらでも再生産のきく複製品、不死の存在であることにもよりました。ジャムおじさんは人間ですから寿命もあり、また限界もありますが、世界各地の津々浦々にアンパンマンとジャムおじさんがいて、ジャムおじさんはもう何代にも渡って代替わりしているのです。ですから、ばいきんまんが狙うべきはジャムおじさんの遺伝子の根絶なのですが、アンパンマンの生まれてくることのない世界で、ばいきんまんは何をして生きていけばいいのでしょう?
 私は考えたんじゃよ、とジャムおじさんはさり気なく話題を逸らし、私はこれまで味覚だけを追求してきた。ただし人は味覚だけで満足していけるものだろうか。どういうことですか、とバタコさんがサクラ代わりに訊きました。つまり味覚とはすべての感覚の本質でなければならぬ、ということじゃ。それは、性感以外に何があろうか?
 第一章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

集成版『夜ノアンパンマン』第二章

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 第二章。
 アンパンマンは唐突、かつあまりにも飛躍したジャムおじさんの発言に、ジャムおじさんはどうかしてしまったのではないかと思いましたが、考えてみればこれまでもジャムおじさんは極端に感情や行動の振幅が激しく、かつまた自分の固執する信念には一点の妥協もない人でした。常識に欠ける面があるのも認めざるを得ません。もし今、ジャムおじさんがどうかしてしまっているなら、これまでのジャムおじさんもずっとどうかした人だったのです。そしてジャムおじさんに否と言うことはアンパンマン自身の存在に否と言うのと変わりはない、と気づくと、好きなようにしていいんじゃよ、しかし命令は絶対じゃ、というジャムおじさんの宣告の絶対性は文字通りの最終通告と甘んじて受け入れないわけにはいきませんでした。そしてアンパンマンの見たところ、しょくぱんまんもどうやら同じようにこの事態を考えているようでした。それを思えば、無茶苦茶な、人権無視の、パンをパンとも思わないジャムおじさんがさらにわけのわからないことを言い出しても今さら何を驚くことがあるでしょうか。
 というよりも、アンパンマンたちがジャムおじさんの突拍子もない意見に途方に暮れたのは、味覚とは栄養摂取の喜びであり満腹感につながるものであって、それがなぜ性感の満足と軽重を問われるのか、と素朴な疑問につまづいたからでした。アンパンマンとしょくぱんまんは思わず同時にカレーパンマンに無言の問いを向けました。自分たちにはさっぱり見当がつかないけれど、カレーパンマンなら何となく味覚と性感の関係に思い当たるのではないか、という心当たりからです。正義を愛する気持はともかく、総菜パンという性格上カレーパンマンは自分たちよりも世慣れているのではないか、とアンパンマンとしょくぱんまんには思えたのでした。しょくぱんまんの親族には、おそらくカレーパンマンより世慣れたサンドイッチマンもいましたが、今ここにいない人物(パンですが)に意見を聞くことはできません。
 カレーパンマンはすぐに仲間たちの事問いたげな視線に気づきましたが、無言の問いに無言で答えるには性感ほど説明困難なものはないだけではなく、カレーパンマンの理解する性感がいったい普遍的な意味で性感と呼べるものなのか、と考えると軽々しく持説を披露するのはためらわれるものがありました。カレーパンマンがこれほど躊躇するのは珍しいことでした。


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 とにかくわかったことがある、とばいきんまんは朝食のハムエッグ定食をたいらげながら、やつらはこれまで食い物で正義を主張してきたが、これからは食い気ばかりでなく色気まで正義のために利用しようという魂胆なのだ。目的のためには手段も選ばないなんて何て身も蓋もない連中なんだろうか。そうですねえ、と何も考えていないホラーマンがあいずちをうちました。そうだそうだ!とばいきんまんは自分自身の意見に大賛成すると、しかし色気とは何だ、と手も足も出ない疑問に襲われました。
 少なくともこれまで色気という土俵ではアンパンマンたちと戦ったことはないのは確かなことですが、唯一あれかな、と思い当たるのはメロンパンナちゃんのメロメロパンチくらいのもので、パンチとしてはへなちょこなのですが軽く食らっただけでも全身から力の抜けていく脱力感に襲われ、これはやばいと退散しようとしても間に合わずとどめのアンパンチを食らって空のお星さまへと消えていくのです。なぜあんな、目をつぶっていても避けられるようなパンチを食らってしまうかといえば、どうせこんな小娘とメロンパンナちゃんをあなどっているからで、時たま思い出すことはあっても基本的な戦略上では、メロンパンナちゃんを敵の勢力としてはとるに足りないものとしていつも不覚をとってしまうのは、ばいきんまんに学習能力というものがほとんど欠如しているか、常に事態を自分に有利に解釈して疑わない天性の楽天主義によるものでした。
 でも問題は性感なんですねえ、とホラーマン。いったい私には性感なんてあるんでしょうか、というその体は、純粋に骨格からでだけできた動く骸骨でした。ふとばいきんまんはホラーマンが骨格だけになる以前の時代は存在していたのだろうか、と考えましたが、ホラーマンはどうせ肉体ごと記憶力を失っていてこそホラーマンなのでしょうから確かめるすべはなく、そもそも取るに足る存在ではないホラーマンについて考える不毛こそが現実に直面した問題からの逃避かと思えるのです。
 ですがめったにないことに、今もっとも切迫した事態と本質的にむすびついていたのはホラーマンの素朴な疑問でした。骨格だけを肉体とするホラーマンが性感とは無縁であるなら、ジャムおじさんの計画が通じない相手が少なくとも一体ここにいて、すべての住民をホラーマン化する作戦だってあるのだ、とばいきんまんは思いつき、背筋を凍らせました。


  (13)

 カレーパンマンは強さとは辛さのことと考えており、ふだんからアンパンマンの戦い方をフッ、甘いぜとからかうこともよくありましたが、正義感は一直線なので、柔和なハンサムでどんな女性にでもモテるしょくぱんまんよりも深い両思いになる回数は多く、シュークリーム姫のような高貴な身分で、しかも甘食系の女性と交際していたこともありました。過去形で語らないわけにはいかないのは、カレーパンマンやアンパンマンたちの住む世界では時間の流れは神話のように雄大で、その場かぎりの矛盾も呑み込み、さまざまな過去が累積して遠近感を失っているからです。カレーパンマンはアンパンマンに較べればややイレギュラーな存在で、カレーパンそのものよりはカレーの普及に正義を尽くしており、辛さ100倍カレーパンマン!という決め台詞通り、ややその正義は偏向してピント外れな時もありました。カレー丼まんには冷ややかなのにシチューおばさんのカレーシチューには母性を感じてほだされてしまう、という甘さもありました。しかしすべてにおいて的確な正義など神話的世界ですらありえないので、カレーパンマンはアンパンマンの世界では、なくてはならないスパイス役なのです。
 ところでめいけんチーズですが、バタコさんが名前をつけていつもパン工場でバタコさんといっしょにジャムおじさんの助手をしたり、番犬として手柄を立てたりしているこの犬は実のところ出生不明で、アンパンマンが子どものころ(!?)森で拾ってきた子犬だったのです。バタコさんがチーズと名前をつけるや子犬はバタコさんそっくりの顔立ちになり、今ではレアチーズちゃんというガールフレンドもいて発情期には二匹そろって行方不明になるのでした。ばいきんまんの監視カメラがとらえたジャムおじさんとバタコさんの件以外では、発情期のチーズとレアチーズちゃんは唯一この世界で観測される性的存在でした。
 データが少なすぎる、とばいきんまんはボヤきました。ばいきんまんがアンパンマンたちに今後の対策を立てるためには性の世界を知らねばならない、と予想される現在、ではそのために活用できる知識も世界の現象も、あまりに性的要素が欠けているのです。ばいきんまんは棒の先に黒いものをつけた糸を結んで垂らすと、草むらでゆらゆら振ってみました。すると黒いものをメスと間違えたオスのバッタが飛びついてくるのです。ですが、それが何だというのでしょう?


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 それで実際の経験にしくはないと、こういうものを買ってみたんだが、とばいきんまんは届いたばかりの大小さまざまな箱を積み上げてカタログと照らし合わせました。一口にこの手のものと言ってもいろいろある。たとえば、手足のない胴体だけのものはトルソと呼ばれるらしい。これかな、とばいきんまんはホラーマンに命じて箱から取り出させました。へえ、何だかねえ、とドキンちゃん、一応おっぱいはついているのね。下の方が大きくえぐれているのは、どうしてなのよ?
 それは別売りのオナホールというパーツをはめ込むためらしいのだ、とばいきんまんはやはりホラーマンにオナホールを別の箱から取り出させました。それはぶよぶよしたピンク色の筒状のもので、オナホールだけでも種類はいろいろあるらしい、とばいきんまん。どうして別売りなの?いくつか理由があるそうなのだ。トルソなり、これから見せる人形型のものに最初から組み込んであると猥褻物として取り締まりの対象になるが、別売だと言い逃れがきく。また、お湯で温めてからはめ込んだり、ローションを塗って使ったり、使うと汚してしまうので、使用後は取り外してよく洗浄し、丁寧に手入れして乾かす必要がある。使用頻度にもよるが、半消耗品なのだな。
 オナホールはこれだけでも使用できるが、やはりボディにはめ込んで使ってこそ醍醐味があるらしい、とばいきんまんはホラーマンに各種ボディ、つまり風船式、ぬいぐるみ式、ウレタン製、ソフトヴィニール製、ラテックス/シリコン製と次々と取り出させ、トルソじゃないものは頭も手足もついた人間型なのだ。高価なものほど見た目も実際の女性に近いし、ソフトヴィニール製の高級仕様のものやラテックス/シリコン製品となるとラヴ・ドールと呼ばれて実際の衣服を着せて等身大の美女人形として楽しんだり、鑑賞用としても使われる。
 実用的には、ほら、人間型でも股の間がエグれているだろ?オナホールとボディのどちらが本体と見るかで予算のかけ方も違ってくる。 お値段は、まずオナホールは必須だが素材は弾力性と伸縮性のあるシリコンや塩化ビニール、熱可塑性エラストマーなどで、形状や性能によって1,000円未満~数万円と幅がある。オナホールはオナニー補助用具だが、通常のオナニーより強い快感やや異性間性交渉に類似した快感を得られる以上の快感すらあるとされるのだ。金と闇の臭いがプンプンしてくるではないか。


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 ほら、人間型でも股の間がエグれているだろ?とばいきんまんは強調すると、オナホールとボディのどちらを重視するかで予算のかけ方も違ってくるのだ。まずオナホールは必須だが、素材の弾力性と柔軟性、十分な耐久性と性能の高い形状を追求するとますます高価になるのだな。優れた機能のものになると名器と言われる女性性器でも比較にならないほどの快感が得られるらしいのだ。
 どうして?本物より作り物がいいなんて変じゃないの、とドキンちゃん。それは本物の性器は生殖機能に基づくのだが、オナホールは純粋な性的快感に特化されたパーツだからなのだ。へえ、そういうものなの、とドキンちゃん。うむ、監視カメラで観ていると、時たまジャムおやじがバタコにいろいろ使っているだろ?長いのとか丸いのとか。女性向きにはああいうのがあって、指や舌でされるより大人のおもちゃを好む女性も多いというのだ。
 ボディでは、風船式が3,000円~5,000円。いちばん安価で手軽だが、女体の再現性ではもっとも劣るのはふくらませたビニール風船なのだから仕方ない。ぬいぐるみ式は女体を模した形状の、オナホールを装着する抱き枕のようなもので、頭部から全身一式50,000円~70,000円。風船式から一気に高くなるが、大量生産品ではないから非常に工賃が高くつくわけだ。ウレタン製は全身をポリウレタンで成形したもので、ぬいぐるみ式より軽量で、少女くらいの体長ならば4kg程度らしい。表面をラテックスでコーティングした高級品などもあり、60,000円~100,000円で、このランクだと外見上はほとんど人体と変わらない。
 ソフトビニール製はいわゆるソフビフィギュアの人体大のもので、高級品はラテックス/シリコン製品と同様ラヴドールとされるが価格はシリコン製の1/3程度と比較的安価になる。それでも100,000円~200,000円なのだが、関節の可動は可能なもののシリコン製より見た目は人形ぽく、手触りも硬くて冷たく、乳房や臀部も固い。だがいよいよ本格的なラテックス/シリコン製のボディとなると、これが現在ではもっとも実際の女体を再現するラヴドールとされ、等身大では重量20~35kg、価格は500,000円~600,000円と高価だが、オーダーメイドであつらえればどんな好みの美少女でも好きな衣装でM字開脚させて、オナホールを装着してまぐわうこともできるのだ。


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 都合よく雨は止んだので、今朝のパトロールはいつも通りにパンを頭にして(賞味期限切れになったアンパンマンたちの頭は頭脳としての機能を失うので、そのまま廃棄され、新しい頭にその記憶と人格、精神が移転します)、アンパンマンたちはとりあえずパン工場から外に出ました。彼らの出自やPKO活動の手段はそれぞれ微妙に異なり、アンパンマンとカレーパンマンはジャムおじさんが生みの親ですが、今でもパン工場を活動拠点にしているアンパンマンとカレーパンマンが違うのはカレーパンマンがはカレーが丘に住んでおり、顔面の揚げパン部分以外、つまりカレーは自作しており、ふだんはカレーを補充するだけでも回復できることです。人びとにふるまうのも緊急時以外は自分の顔ではなく、いつもご飯とカレーの仕切りがあるズンドウ一杯に作り置きしたカレーをカレーライスにして配ります。
 しょくぱんまんの出生はジャムおじさんのパン工場ではなく、アンパンマンとカレーパンマンとは仲間であり、ジャムおじさんは師範かつ協力者のような関係でした。しょくぱんまんはトースター山の小規模噴火から生まれ、トースター山のふもとに自分のパン工場(食パン専門)を持っており、水陸両用のしょくぱんまん号で小中学校やドヤ街、ブラック企業にパンを配るのが日課です。カレーパンマン同様、緊急時には自分の顔を食糧に提供できますが、しょくぱんまんは顔の表面からスライスするように剥がす、というダンディな態度をよほどの危機以外は回避していました。ただし賞賛を求めてながらサーヴィス精神もあり、一瞬でオゾン層上空まで行って戻ると顔をトーストして分け与える、と奇抜なこともすることがありました。
 要するに、雨の日パトロール対策に顔を乳頭にする、とジャムおじさんが言い出しているのは、アンパンマン以外のふたりは必ずしもその必要がないのです。カレーパンマンはズンドウを持って飛びますから顔を保護する必要はあるかもしれないが、救援食糧が頭である必要はない。しょくぱんまんはしょくぱんまん号がある。ただし朝に限らずパトロールは上空からだからこそ、とも言えるのですが、そこを突かれたらしょくぱんまんは開発中のしょくぱんまん号飛行形態をたちどころに完成させてしまうでしょう。水陸空、きっと宇宙飛行仕様にだってできるに違いない。アンパンマンたちは、望んだだけで望みが実現する世界に住んでいるのですから。


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 時々、前々から考えてたんだけどさ、とパトロール中の連絡地点に集合すると、カレーパンマンが空中であぐらをかきながら言いました、おれたちってどうしていつもジャムおじさんの言いなりにならなきゃいけないわけ?言いなり?アンパンマンはまったくそんなことは考えたことがなかったのでびっくりしました。カレーパンマンはたまに羽目を外す時はありますが、正義の味方の仲間どうし気持は通じあっていたはずです。アンパンマンは困惑し、だってジャムおじさんはぼくたちを作った人で、ジャムおじさんが教えてくれることは正義に乗っ取ったことばかりじゃないか。ぼくたちは言いなりなんじゃなくて、ジャムおじさんと同じ正義を守ろうとしているんだよ。
 そこなんだな、とカレーパンマン、しょくぱんまんはどう思う?どう思うというと?正義と、ジャムおじさんと、おれたちとジャムおじさんの関係についてさ。しょくぱんまんはう、っと詰まりました。しょくぱんまんはプライドが高いので他人には同意しか求めないのですが、温厚な性格なので他人から同意を求められると反論できないのです。
 カレーパンマンがジャムおじさんと自分たちの間には正義に対するスタンスにおいて明らかに溝がある、と言おうとしている、それを問いかけのかたちでアンパンマンやしょくぱんまんから引き出して同意させようとしているのはわかりますが、この場合もっとも無難に済ませるにはカレーパンマンの問いを適当に受け流して、問いかけ自体をあやふやにするのがいちばんでしょう。カレーパンマンは起源はインドですが性格は江戸っ子気質なので、三歩歩けば忘れるというか、宵越しの金は持たないというか、要するに深追いはしないのが漢の美学と心得ているような面があります。
 誰に似たんだろう、としょくぱんまんは思いました。少なくともアンパンマンには似ていない。しょくぱんまんはトースト山で生まれましたが、アンパンマンとカレーパンマンはジャムおじさんが作ったんだから兄弟そのもので、しかしそれを言うならメロンパンナちゃんやクリームパンダちゃんもいる。いや、問題はカレーパンマンの性格形成ではなくて、としょくぱんまんは問題に立ち返りました。
 どうしてだい?としょくぱんまんは軽く受けました。ジャムおじさんは前からあんな人だし、それで困ったことなんてないじゃないか。なら訊くけどさ、とカレーパンマン、性感ていったい何なんだよ?


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 性感とは何か、とカレーパンマンに訊かれ、ちゃかすのが好きなカツドンマンあたりなら、ミーの知識ではクラシックとブルースとジャズとロックが本質ざます、とケムにまいたかもしれません。ですがアンパンマンとしょくぱんまんは意味ありげでその実何も内容のないような冗談を思いつく性格ではありませんでしたから、カレーパンマンが不思議がっているのをまともに受けとめた格好でした。つまり今ピンチなのは乳頭や性感うんぬんの危機ではなく、パン工場の正義の味方トリオの結束の方なのです。ものごとを冗談にしてしまう精神の衛生術では、パン工場トリオはふだん三バカトリオのようなあつかいを受けているカツドンマン、かまめしどん、てんどんまんのどんぶりまんトリオの器量にはかないませんでした。どんぶりまんトリオは自分たちがすることなすこと、一度でもまともに受け取られるとはまったく思っていなかったからです。要するに、かまめしどんたちはパン工場のルールや世界観からは自由な存在で、アンパンマンたちとばいきんまんの戦いではいつでも邪魔なだけでした。
 もう雨は止んだみたいザンス、とカツドンマンは傘から腕を出し、空に手のひらをかざしました。てんどんまんはザンスね、と目をぱちくりさせると、かまめしどんはあんまり関係ないザンスか、とうらやましそうにかまめしどんの頭のふたに目をやりました。そんなことはないダス、ふたはついていても傘はささないと濡れてしまうダス、とかまめしどんも傘をたたむと、晴れるにこしたことはないダスよ。ミーも同感ザンス、とカツドンマンが空を見上げると、ちょうど視界に、あっ、アンパンマンたちがパトロールしてるザンス、とカツドンマンは手を振りました。おーい。てんどんまんとかまめしどんも嬉しくなって手を振りました。おーい。アンパンマンたちがいるかぎり、どんぶりまんトリオは永遠の道化でいられ、道化とは悲劇でも喜劇でも決してドラマの主人公にはなり得ず、ドラマの主人公になり得ないとは何の責任も負わないことなのです。
 その頃ばいきんまんは、今朝は雨上がりでかびるんるんたちも調子がいいぞ、と良い予感を抱きながら通販サイトにがんがんアダルトグッズを注文していました。ばいきんまんの壮大な計画は世界的な凄腕ハッカーの腕の見せどころで、一夜にして全世界を崩壊に導く、アンパンマンたちにも止めようもないはずの、空前絶後の策略なのでした。


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 それでこんなのどうやって使うのよ、ばいきんまん、とドキンちゃんがあからさまに不審げな表情なので、ドキンちゃんも試してごらん、使っている人の映像もあるから同じようにしてみればいいのだ、とドキンちゃんはどさん、と目の前に電動バイブレータをひろげられました。これはディルド型と言われる陰茎を模したものになるそうだ、たとえばこれ、とばいきんまんはうねり・首振り型を手に取り、これは内部にモーターとロッド、カムが仕込んであって棒部分をうねらせるものだな。こちらの三点タイプと言われるものは内部モーターの振動を利用し、棒の付け根に2つの突起をつけて肛門と陰核を刺激するために作られている。「熊んこ」に代表される歴史の長い仕様らしい。パールタイプなんてのもある。内部に小球を詰め込み、それを攪拌することでバイブレータ表面をうねうねさせる作りだな。
 ローター内蔵式というのは棒状の本体にローターを仕込むもので、振動は少ないが価格は安い。変わったものには双頭タイプというのがあり、振動部が中央にあり両端が挿入可能になっている。これは、女性同士が松葉崩しの体位のように互いの外陰部を近づけ、互いの膣口にバイブレータの両端をあてがい、挿入し合うものだそうだ。ただし男のアナルセックスを含めれば男同士、または男女の交接にも使えることになるだろう。同じく同性間・異性間のどちらにも使えるのが、バイブレータ機能を持ったペニスバンドというのもある。防水タイプなどはほとんどがシンプルなスティックタイプで、Oリングなどで防水しているため、入浴しながらでも使用できるのが便利らしい。
 また、多くの電動バイブは乾電池式だが、ACアダプターが使える家庭用電源式もある。家庭用電源式まであるなら当然だろうが、リモコンでスイッチのオン・オフ、強弱の変更を可能にしたリモコン式もある。他に野菜や彫像、自分の逸物など好きな好きな形状のものを型取りし、シリコーンを流し込んで自作が可能なキットで、振動はローターを組み込む自作タイプ、という手間のかかるものもある。それで最後のはかびるんるん型に作ってみたんだが、と最後まで言わせてもらえずばいきんまんはドキンちゃんの回し蹴りをくらいました。ドキンちゃんは空手四段なのです。
 ドキンちゃん、話はまだ終わりではないのだ、とばいきんまんはほうほうの体で、さらにカプセル型、いわゆるローターの話があるのだ。


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 でかく定義すればだ、とばいきんまんはドキンちゃんの蹴りの入った腰を慎重に起こしながら、これまで説明したバイブレーターとは、振動や手動による操作により快感を得られる性具のことを指す。女性の膣に挿入できるようになっており、女性器や性感帯をその振動や動きで刺激し性的快楽を得ることができるというものなのだ。男の方もバイブレータを相手に使用することで普段より強い性的興奮を得ることができるということらしいな。また、勃起力の弱まった中高年男性が補助具として使用する、というのもあるだろう。女性のマスターベーションにも用いられているくらいだから、セックスで得られる快感が少ないタイプの女性にはバイブレータを使用したセックスが効率的、というのもある。よく使われる用法では男性器の挿入中に女性の陰核をローターで振動刺激するやり方だな。正常位でも可能だし、横臥位ならなおやりやすいが、後背位がもっとも行いやすいだろう。また、同時に両方に指を入れるとわかるが、膣と肛門は皮一枚しか隔てていないので、ローターを膣に挿入したままアナルセックスすると男根にもローター振動が伝わってきて具合が良い。ただし奥入れ・長時間は身がもたないので無理は禁物だが。
 それで、とドキンちゃんは、ばいきんまんもそれを全部やってみたっていうの?と痛いところを突いてきました。ばいきんまんは聞こえなかったそぶりで、バイブレータにも立派な起源があるのだ、と解説を続けました。それまでは女性特有の子宮の鬱血が原因と考えられていた疾病症状、ヒステリー、倦怠感、抑うつ症状などの治療目的から、19世紀初頭まで骨盤振動マッサージによる医療行為として器具を用いた治療が行われていたのがバイブレータの起源とされるのだ。古くは施術者の手技によって女性器を刺激する治療が行われていたが、これは重労働を伴い手首を痛める医者が続出したために、水流を女性器に直射する道具やゼンマイ駆動の振動器、蒸気駆動で下腹部を打突する診療台などが開発されるようになった。それが小型化した手動式、やがて電動式になる頃は女性器の鬱血による疾患、という医学的所見自体が過去になったが、性具としてのバイブレータは世界中の文化に残ったのだ。
 それでばいきんまんはどうしようっていうのよ。おれさまはひらめいたのだ!とばいきんまんは山のようなアダルトグッズを前に意気軒昂に咆哮しました。
 第二章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2018年5月16日・17日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(1)

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 映画界入り以前に異色の経歴を持つ俳優は多いですが監督となると俳優ほどではないとはいえ、アメリカの戦後監督バッド・ベティカー(1916-2001)は大学卒ながらメキシコでプロの闘牛士をしていたという人で、ルイス・マイルストン監督の『二十日鼠と人間』'39年で馬の世話係を勤めたのをきっかけにリタ・ヘイワースとタイロン・パワー、リンダ・ダーネル主演の20世紀フォックスの闘牛メロドラマ『血と砂』'41(監督=ルーベン・マムーリアン)の技術顧問で本格的に映画界入りして映画人になり、MGMの『カヴァーガール』'44ほか数本のメジャー作品で助監督を勤めるかたわらコロンビアのノンクレジットの中編戦争映画『Submarine Raider』'42とやはりコロンビアの中編戦争映画『U-Boat Prisoner』'44が後者はルー・ランダース監督とクレジットされるも実際はベティカーの監督作品と推定されており、正式にクレジットのある監督デビュー作は『ミステリアスな一夜』'44で、コロンビアでは『消えた陪審員』'45、『Youth on Trial』'45、『A Guy, a Gal and a Pal』'45、『霧の中の逃走』'45と5作のフィルム・ノワール系B級映画を監督します。'46年には兵役に就いて映画班でドキュメンタリー映画を数本撮り、除隊後はコロンビアを離れインディー映画社のイーグル・ライオン社で『Assigned to Danger』'48と『閉ざされた扉の陰』'49を監督、次にやはりインディー映画社のモノグラム社でロディー・マクドウォール主演の『Black Midnight』'49と『Killer Shark』'50に『The Wolf Hunters』'49の同社の怪奇映画路線の作品を作りましたが(ここまで邦題表記した作品は日本劇場未公開ながら日本盤映像ソフト発売されています)、ベティカー最初の重要作となったのはジョン・ウェインのバトジャック・プロダクションに招かれて監督したベティカー自身が原案の『美女と闘牛士』'51(日本公開翌年)とされ、翌年メジャーのユニヴァーサル映画社の専属になって監督したユニヴァーサルでの第1作『シマロン・キッド』'52から'60年の『暗黒街の帝王 レッグス・ダイヤモンド』がベティカーが映画界で第一線に立っていた時期であり、'60年以降ベティカーはモノグラム~バトジャック時代から関わっていたテレビ界に移ってしまいます。'60年代末にインディー映画社でテレビ界のスタッフによりテレビ規模で撮った70分弱の小品『今は死ぬ時だ(A Time for Dying)』 (FIPCO'69)がベティカーの遺作となり、以降ベティカーは数作の原案、カメオ出演以外はほぼ引退状態のまま晩年の30年間を送りましたが、クリント・イーストウッドやマーティン・スコセッシらの呼びかけによって再評価の声が高まり、ニコラス・レイやサミュエル・フラーと並ぶ'50年代アメリカの最重要監督と目されつつあります。しかしベティカーの場合は'50年代作品のほとんどが西部劇ということもあり西部劇自体が今日の観客にはあまり親しみの持てないジャンルで、しかもベティカー作品の傑作佳作は西部劇に集中しており、プログラム・ピクチャーとインディー映画に足をかけながら多彩なジャンルに名作のあるレイやフラーよりあまり顧みられないのもその辺に大きな原因がある。またかつて日本公開されたベティカー作品は当時の日本の批評家からは非常に評判が悪く、戦前からの映画界のご意見番である双葉十三郎氏にはベティカーの映画は「"心"がない」と切り捨てられている。しかしそのあたりもむしろ今観るとベティカーの映画がどう見えるか問われるところなので、西部劇第1作にして低予算製作の映画ながら興行収入125万ドルのなかなかのヒット作になった『シマロン・キッド』から遺作『今は死ぬ時だ』までDVDで観られる作品16作をまとめて順に観直してみることにしました。「ラナウン・サイクル(Ranown Cycle)」と呼ばれ西部劇の金字塔と一部のマニアには名高い『七人の無頼漢(Seven Men from Now)』'56から始まるランドルフ・スコット主演の7連作(~'60年)まで先は長いですが、この映画日記ではヘンリー・ハサウェイ監督&ランドルフ・スコット主演の「ゼイン・グレイ連作」'32-'34(全8作)も以前ご紹介しているので、西部劇どんと来いの覚悟で観直していこうと思います。

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●5月16日(木)
『シマロン・キッド』The Cimarron Kid (ユニヴァーサル'52.Jan.13)*84min, Technicolor, Standard ; 日本公開昭和34年('59年)2月12日

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 ベティカーの映画に長々しい前置きは不要と思いますが、それでもベティカーの記念すべき西部劇第1作である本作はオーディ・マーフィ(1924-1971)主演であることでも記憶される運命的作品なのは特記しておきましょう。第二次世界大戦では個人で最多の勲章を授勲された国民的英雄だったマーフィは戦後映画俳優・カントリー・ミュージック作曲家となり、出演映画はジョン・ヒューストンの傑作『勇者の赤いバッヂ』'51を筆頭に航空機事故で亡くなるまで45作あまりにおよびます。第一線を退いて10年近く経ったベティカーに遺作『今は死ぬ時だ』'69を作らせたプロデューサーでもあり、ノー・スター映画の同作ではマーフィはカメオ出演ながらジェシー・ジェームス役で出演もしています。ベティカー西部劇はマーフィで始まりマーフィで終わったとも言えるので、その意味でも本作はベティカー作品を一巡してなお興味を持って観られる映画です。ただしベティカー西部劇はアメリカ公開からだいぶ遅れて'58年(昭和33年)に旧作あつかいで日本公開されたので、日本においても最初からB級映画と目されていたと思われる。'50年代末新作映画はワイドスクリーンが常識化していたので、カラーでこそあれスタンダードサイズの本作はそれだけで数年遅れ(実際数年遅れでしたが)に見えたでしょう。ベティカー作品は日本劇場公開作と未公開作が半々なので、本作のように日本公開されたものは貴重な文献として初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 実在した無法者シマロン・キッドの生涯に材をとる西部劇。ルイス・スティーヴンスとケイ・レナード共作の原作をレナードが自分で脚色、「平原の待伏せ」のバッド・ボーティカーが監督した。撮影は「幌馬車隊西へ!」のチャールズ・P・ボイル、音楽ジョセフ・ガーシェンソン。出演するのは「静かなアメリカ人」のオーディ・マーフィ。TV出身のビヴァリー・タイラー、新人イヴェット・デュゲイ、ノア・ビアリー・ジュニア、パルマー・リー、ランド・ブルックス等。製作テッド・リッチモンド。テクニカラー・スタンダードサイズ。1953年作品。
○あらすじ(同上) シマロン・キッドと呼ばれるビル・ドーリン(オーディ・マーフィ)は3年前、強盗団のドルトン(ノア・ビアリー・ジュニア)を友達のよしみでかくまい、入牢し、やっと仮出獄を許された。オクラホマへ帰る列車がドルトン強盗団に襲われた。ビルが強盗団を手引きしたと、鉄道公安官スワンソン(デヴィッド・ウォルフ)は、ビルの幼馴染みサットン警察署長(リーフ・エリクソン)に彼の逮捕を迫った。サットンは彼の無実を信じ、公平な尋問をする約束で出頭させた。スワンソンは、拷問にかけ、ドルトン一味の所在を白状させようとした。ビルはスキを見て逃げ、ドルトンの隠れ家に向かった。強盗団はコフィビルの銀行を襲撃する計画をたて、ビルも参加した。町民の反撃で、ドルトン3兄弟は死に、残りが昔の仲間の牧場主・パット(ロイ・ロバーツ)の家に集った。その娘キャリー(ビヴァリー・タイラー)は美しかった。首領がビルと決り、レッド(ヒュー・オブライエン)はビルに敵意を抱いた。ビルたちは牧場を去り、次々と列車や銀行を襲った。サットンの捜査網と、鉄道の探偵たちがビルの迫っていた。強盗たちは悪事に疲れ金をこさえて地道な生活に入りたいと思い始めた。最後の銀行襲撃が失敗し、そのドサクサにビルを射とうとしたレッドはかえり討ちにあった。山の隠れ家に、キャリーが訪ねてき、ビルに足を洗うように頼んだ。彼を愛し始めていたのだ。手下のダイナマイト(ジョン・ハドソン)が帰ってき、その義兄の鉄道輸送係の手引きで、列車輸送の金塊を強奪しようと持ちかけた。ビルは列車に乗りこみ、金塊を1つずつ落していった。が、待っていた仲間はスワンソンらに片はしから殺される。懸賞金ほしさの罠なのだ。レッドの情婦・シマロンのバラ(イヴェット・デュゲイ)の知らせで、ビルはダイナマイトを金塊と共につき落すと、パットの牧場に逃げ帰った。彼が眠っている間に、パットはサットンを呼び寄せた。彼と娘キャリーのためだと思ったからだ。サットンは公平に裁くと誓った。ビルはひかれていった。キャリーは彼の自由の日まで待つつもりだ。
 ――ベティカーを知る人にはよく言われることですが、一般的な西部劇のイメージよりもコテコテに西部劇らしい西部劇なのがベティカー西部劇で、物語が進むほど殺伐とした展開になるのがその常套手段です。のちの「ラナウン・サイクル」と呼ばれる7連作ではそれが極まっており、どれもランドルフ・スコットが主役ならば上映時間も70~80分とコンパクトなら、ストーリーの流れも大体同じです。まず平和な西部の情景に事件が勃発して始まり、訳あり美女(多くはオールドミスか人妻または未亡人)と出会い、いつの間にか悪党が一向に加わっており、そしてドロドロの死闘へと向かうのがベティカー作品の黄金パターンです。これでは何を観ても同じではないかと思いきや、意外と多彩かつ多種多様で作品ごとに見応えがあるのがこのマンネリ西部劇監督のあなどれないところで、「ラナウン・サイクル」7作を観てしまうと印象が重層化して実はとんでもない映画的実験の成功例なのではないか、という気になる。本作から遺作『今は死ぬ時だ』まで16本のベティカー映画を観直す予定ですが80分を超えるのは4本しかなく1本は80分ちょうどで90分台は1本のみ、11本は70分台であり遺作『今は死ぬ時だ』などは67分しかない。「ラナウン・サイクル」など78分、78分、77分、79分、73分、72分、73分とまるでかつてのピンク映画か日活ロマンポルノのようで、というよりアメリカのB級映画のシステムを真似たのはそれこそサイレント時代の日本映画からあるのですが、本作は西部劇第1作にまだ神妙な手つきが感じられ、先に述べたようなのち(と言ってもほんの数年後)のベティカーの大胆さはまだまだ片鱗程度です。それでも通常観客が感情移入すべきマーフィが演じる主人公通称シマロン・キッドのビリーは当初冤罪犯として現れますが映画が進むにつれ旧友兄弟の強盗団に大した躊躇や葛藤もなく加入するばかりか、実力行使してボスの座にのし上がる。主人公たちは追われて今はカタギになっている元無法者老人の牧場にかくまってもらいますが、主人公は改心するというより元無法者老人が主人公と娘の恋に気づいて主人公が裁判を受け更正するために娘ともども駆け落ち逃走と騙して保安官と自警団を待機させ主人公を堪忍させるので、主人公への共感や感情移入から生まれるストーリー展開へのサスペンスは稀薄というより話は冒頭の冤罪から通常考えられる冤罪の解決には向かわず、加入した旧友兄弟の強盗団内部でのぎすぎすした主導権争いに移るので、主人公に反感を抱く手下の一員の情婦のローズ(イヴェット・デュゲイ)と足を洗った元無法者老人牧場主の娘キャリー(ビヴァリー・タイラー)とWヒロインの対照もあまり効いておらず(この善悪Wヒロイン設定はのちの日活アクション映画にも多用されるクリシェです)、結局おとなしく逮捕される主人公はたまたま冤罪に怒ってエスカレートした根っからの無法者なのか、冤罪に怒って無法者の一味に身を投じた司法の犠牲者の善良な青年なのかはっきりしない。善良な青年にしては冤罪をかけられるきっかけ通り無法者の世界と元々つきあいが深すぎるし、冤罪に怒って強盗団に加入するや虎視眈々とボスの座を狙ってリーダーの座を奪うばかりか積極的に強盗稼業に精を出すので元々カタギの人間らしい人格とは思えないので、牧場主の娘との逃避行(実際は牧場主と娘によって保安官に引き渡すための罠ですが)も純愛というより逮捕の危機からの逃走が目的に見え、また保安官と自警団に包囲されて降参し、牧場主の娘「あなたのためなのよ」主人公「待っていてくれるかい?」娘「いつまでも待ってるわ」エンドシーンでは牽かれていく主人公を牧場主一家が見送りながら老牧場主の老妻(娘の母)が「私たちもあんなにきれいに出直しできていたなら……」と嗚咽して映画は終わりますが、あれ、これってそういう結論の映画なのかと大いに疑問が起こります。本作はまだ新人のロック・ハドソンが強盗団の手下の一人でのちのベティカー作品にも出演、また主人公マーフィを敵視する強盗団の古株役のヒュー・オブライエンはベティカー西部劇のレギュラー悪役になる具合に西部劇第1作でかなりの要素がそろい、西部の情景に事件が勃発~悪党一味との合流~訳あり美女との出会い~ドロドロの死闘(本作の場合内紛)、とのち「ラナウン・サイクル」第1作『七人の無頼漢』'56で確立されるベティカー黄金パターンの萌芽がそれなりに見られるのも同一監督の作品を系統的に観て浮かび上がってくるたのしみになっている。本作はまだまだおとなしくぎこちない作品ですが、翌月(ベティカーは'52年だけで4作の監督作があります)の『ロデオ・カントリー』では題材がベティカーの勝手知ったるロデオの世界だけにもっと娯楽映画として練れた作品が観られます。本作の生硬さが目立つ仕上がりは、のちにベティカー本流となる作風につながるだけに慎重な第1歩だったのかもしれません。

●5月17日(金)
『ロデオ・カントリー』Bronco Buster (ユニヴァーサル'52.Feb.?)*77min, Technicolor, Standard : 日本劇場未公開(テレビ放映・映像ソフト発売)

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 ユニヴァーサル以前のベティカーは(全部は観ていませんが)フィルム・ノワールと怪奇映画のB級映画監督であり、唯一ユニヴァーサル入り前年にジョン・ウェインのバトジャック・プロダクションで作った『美女と闘牛士』が闘牛士経験のあるベティカー自身が原案の唯一の闘牛映画になるようですが、同作はセミドキュメンタリー調のメキシコ・ロケ作品なので闘牛映画・スポーツロマンス映画ではあっても西部劇とは見なされません。本作『ロデオ・カントリー』はドラマ部分は中西部ネブラスカ州オハマで、ロデオ場面はアリゾナ州フェニックスでロケーションされているため時代は現代('52年当時)ですが闘牛西部劇とされるので、勝手知ったる牛馬の世界とあって前作の『シマロン・キッド』より各段に練れた映画です。現在は知りませんがロデオは本作当時プロ・スポーツ競技だったこと、馬の柵飛びどころか暴れ牛と格闘して捕縛する技までロデオ競技の種類にあるのは本作の見もので、ロデオ競技の賞金で生計を立てているプロまで存在する世界ですから競技の多彩さたるやこれをスポーツとして喜ぶアメリカ人とその文化には驚嘆を通りこして唖然とさせるところがあり、20世紀中葉といえばまだ祖父母の世代には南北戦争の体験者がいてもおかしくなく、最西端のカリフォルニア州あたりはまだ開拓・植民されて半世紀ちょっとです。東部や南部のアメリカ人は家族と牛馬を連れて西部を開拓したので、牛馬の乗りこなし・捕獲・調教術がプロ・スポーツ化したのはそういう下地のある文化だったからです。本作と同年のニコラス・レイ監督作『不屈の男たち(死のロデオ、ラスティ・メン)』もロバート・ミッチャム主演のハードボイルドなロデオ映画でしたが、レイ作品では曲乗りや高跳びは出てきてもロデオ=乗馬のイメージでしたが、本作のロデオはアメリカ版の闘牛(&馬)そのものです。競技自体は架空ではないでしょうからレイ作品とベティカー作品では地域によるロデオ競技の違いがあると思われ、レイ作品では乗馬の延長にある東部に近く、ベティカー作品では闘牛に由来した南部・西部に近いのではないかと思われるので、ちょっと文献だけ調べてもレイ作品の舞台がわからなかったので(一応ジャンルは現代西部劇とされています)、またレイ作品を観直す楽しみにもなります。出来は率直に言って『不屈の男たち(死のロデオ)』圧勝で、ロバート・ミッチャムとスーザン・ヘイワード主演でニコラス・レイ監督なら何を撮っても名作にならないわけはありませんし、それに較べて本作のキャスティングはビリー・ワイルダーの『異国の出来事』'48のジョン・ランド、ニコラス・レイの『大砂塵』'54の敵役を勤めたスコット・ブラディ、本作以外には数作のヒロイン作がないジョイス・ホールデンと華がなく、ヒロインの父親で主人公の年長の親友役のチル・ウィルスがのちのベティカー作品の佳作『平原の待伏せ』'53で重要な助演を勤めたほかジョージ・スティーヴンスの『ジャイアンツ』'56、ジョン・ウェイン監督作『アラモ』'60、スタンリー・キューブリックの『スパルタカス』'60と助演俳優として重用されていますが、このメイン・キャストで観たくなる種類の作品でもないでしょう。ただし本作はほとんどぎりぎりまでスタントなしに主役のランドとブラディがロデオをこなしているのが実際の乗馬、落馬、投げ縄、補牛、捕縛、闘牛などサーカスの曲芸並みの競技内容全般に渡ってくり広げられるので、ドラマ自体は明快な実力派ヴェテラン・ロデオチャンピオンと野心的な新人ロデオスターのロデオと恋の二重のさやあてとシンプルかつ狙いのはっきりしたものながら、荒唐無稽なまでのロデオ競技の実技描写によってアクション映画としての面白さで見所満載の作品になっている。日本未公開でテレビ放映(「ロデオ・カントリー」はテレビ放映題に由来するようです)、映像ソフト発売のみなのは特殊な題材やキャストの知名度の低さからも仕方ないと思われますが、一応映像ソフト発売時のプレスを引いておきましょう。
○(メーカー・インフォメーションより) 主演 : ジョン・ランド、スコット・ブラディ : (あらすじ)有名なロデオ騎手トム・ムーディ(ジョン・ランド)に弟子入りした新人のバート(スコット・ブラディ)。あっという間に賞金王を争うまでに上達し、スター気取りのバートだったが、ある大会でトムの年長の親友で婚約者ジュディ(ジョイス・ホールデン)の父、ピエロのダン(チル・ウィルス)に重傷を負わせてしまい……。
○内容(「キネマ旬報社」データベースより) 有名なマタドールに弟子入りし、若手闘牛士としてデビューした経験を持つバッド・ベティカー監督によるロデオ映画。若い見習いの指導を引き受けたベテランのロデオ騎手は、闘牛士への道を教授する。だが、遂には彼と対決することになり……。
 ――劇映画としては本作は最低限の主要人物しか出てこず、ランド演じるヴェテラン・ロデオ・チャンピオンの主人公はロデオ競技場近くのバーのオヤジのチル・ウィルスと昔からの親友で、ウィルスの娘役のジョイス・ホールデンとは婚約して長いのですが巡業生活が続いてヒロインは焦れている、という設定です。ランドのロデオ仲間にはドビー(ドン・ハガティ)やディック(ダン・プール)といったヴェテランのプロ・ロデオ騎手がいるのですが、巡業から帰ってくると新人ロデオ騎手のブロディが憧れのチャンピオンに弟子入りしたいと会いに来る。ブロディは子どもの頃からプロのロデオ・カウボーイになるため鍛えていて、低姿勢ですが自信満々で実際すぐプロ・デビューできる実力があり、チャンピオンのランドの弟子になったのは注目されてデビューしたい野望のためとすぐに見破られますが、実力は十分なのであとは場数だけとランドはブロディをデビューさせます。ブロディはランドが巡業から帰ってきて弟子入り志願する前にロデオ会場近くのバーのオヤジ兼ロデオ大会でピエロに扮して牛馬の世話係をするチル・ウィルスとその娘でバーの仕事を手伝っているジョイス・ホールデンと知りあいランドに紹介してもらうのですが、ホールデンをランドの婚約者と知らずすでに何度もデートしており、ランドに放っておかれているホールデンもブロディの誘いに乗っているのでブロディがランドとホールデンの婚約を知ったあとには、ロデオ大会で出世するほどブロディは強引にヒロインに迫るようになる。やがて新人スターになったブロディはランドの制止も聞かずブロディの経験や技量では無謀な難易度の高い競技にも出場するようになり、鞍をつけない暴れ裸馬に手を触れずどれだけ長時間振り落とされないかという最高難易度の競技のひとつに出て(ここで本物のプロ・ロデオ騎手たちのすごいパフォーマンスが続出します)、すぐ振り落とされて負傷したブロディは手当てを受けて再挑戦して成功し喝采を浴びますがランドはブロディの負傷は芝居で、わざとすぐ振り落とされて負傷したふりをして再挑戦して成功してアピールしたと見抜いて師弟の縁を切ります。ブロディのランドを追い落とそうという挑戦はヒロインへの誘惑ともども露骨になりますが、さらに暴れ牛を誘導し捕縛する最高難易度競技に出場したブロディは派手に見せようとランドの制止も聞かず牛を挑発しすぎて、ブロディに向かって暴走した牛はブロディが避けたため世話係のピエロのウィルスを突き飛ばし大怪我を負わせてしまう。ウィルスは救急搬送され、自分の番が来たランドはあっさり暴れ牛を誘導捕縛して、待機場に戻ると弁明しようとするブロディを「二度と俺に口を利くな!」と一撃で叩きのめします。意気消沈したブロディは病院へウィルスの見舞いに行き、父親ほども年長のウィルスから深い含蓄のこもった言葉をかけられます。さて、ニコラス・レイの映画ならここからクライマックスに向かって沈痛な悲劇的展開になるところですし、ジョン・フォードでも深い情感に持っていき、ラオール・ウォルシュなら急展開にドラマが収束していくでしょうが、本作のクライマックスへの展開と結末はハワード・ホークスを思わせるあっさりしたもので、これはRKO(レイ)やフォード(フォックス→RKO→ワーナー)、ウォルシュ(ワーナー)とは違うユニヴァーサルらしい結末とも言えます(ホークスもワーナーですが、製作はホークス自身のプロダクションで、ホークス映画はあっけらかんとした結末が特徴でした)。ユニヴァーサルは娯楽路線の会社で怪奇映画や冒険・SF映画も名物でしたが基本的にはハッピーエンドの映画を作る会社なので、本作のベティカーは会社の企画意図通りかベティカー自身の指向か、はたまた脚本由来かわかりませんが、同年10月公開のニコラス・レイのRKO作品の『不屈の男たち(死のロデオ)』と本作は脚本が小説家ホレス・マッコイ(ゴダールが『メイド・イン・USA』'68でオマージュを捧げたハードボイルド作家、代表作『彼らは廃馬を撃つ』'35は『ひとりぼっちの青春』'69の原作、『明日に別れの接吻を』'48も'50年に同名映画化)がどちらも共同脚本に加わっています(ベティカー作品は女性脚本家と共作、レイ作品は5人チーム)。レイ作品が必見の名作と言えるほど本作は際立った作品ではありませんが、題材がもろにかぶり脚本家が共通するだけに見事に対照的な映画になっているのは面白く、どちらか一方をご覧になったら『ロデオ・カントリー』と『不屈の男たち(死のロデオ)』は2本あわせてみてますますニコラス・レイの被虐的な繊細さ、ベティカーの丁寧な豪放さが楽しめます。丁寧な豪放さ、というのも変ですが、さすが元闘牛士、ロデオ競技場面の克明な描写がドラマはシンプルな本作を十分豊かなものにしています。

集成版『夜ノアンパンマン』第三章

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 第三章。
 地獄と現実の地続きのような夢から目醒めると(アンパンマンはいつも現実的、または地獄の夢しかみません。かまどから生まれてきたからかもしれません)、しばらくしてアンパンマンは自分が乳頭になっているのに気づきました。それまではどこかからだの具合がおかしいな、しかしアンパンマンの場合は頭だって交換可能ですから、からだが変形することだってあるだろう、でなければからだに何か異常があって臨時に頭だけ別のからだに載せられているのかもしれない。どっちみちジャムおじさんが治してくれるだろう、とアンパンマンはもう少しうたた寝を決め込み、寝返りを打とうとしましたが、重心の移動がうまく行きません。アンパンマンは介護保健福祉士の資格を取得しているので(国際的には通用しませんが、それを言えば資格のほとんどがそうです)、寝たきりの病気やお年寄りのお世話をした経験もあり、リハビリテーションのお手伝いをしたこともありました。どうもぼくのからだは、今寝たきりの状態に近くなっているみたいだぞ、とアンパンマンは思いました。
 とにかく今、自分がどういう格好で寝たきりになっているか、とアンパンマンはからだのあちこちを部分的に力んでみて、どこを力んでも均等にしか力が入らず、どうも自分はうつ伏せでもあお向けでもない、ましてや横向きでもないのに気づいて事態がすでに尋常ではないのを知りました。それでもまだアンパンマンは、これは寝たきりだが、無意識な状態でのカタレプシーによるものではないか、と考えていました。カタレプシーとは、受動的にとらされた姿勢を保ち続け、自分の意思で変えようとしない状態をいいます。これは緊張病症候群の一つで、意欲障害に基づくものとされ、パーキンソン病、てんかんや統合失調症など、特定の神経障害または状態の症状であるとされています。アンパンマンはジャムおじさんが寝ておれ、と命じればいつまでも寝ているでしょう。アンパンマン自身は単純なロボット的ヒューマノイドではありませんが、かえってアンパンマン自身の意思があるだけストレスが発生する可能性もあり、正義漢もつらいのです。
 それからアンパンマンは今、通常の視界はあり、音も聞こえ、声も出せるようなのに、どうやら自分には目も耳も口もないのに気づくのと、四肢すらもないのに気づくのがほぼ同時でした。あまりのことに、にわかにはとうてい信じられないことでした。


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 そこからただちに自分が一夜のうちに乳頭に変身した、とはさすがのアンパンマンにも思いつかず、四肢もない、目鼻も口もない、つまり頭がない(でも声は出せる、周囲も見えるし朝の空気の匂いもする)、というのは客観的には今、自分はどのような状態かを考えました。アンパンマンがまず案じたのは、これまで自分の生命維持は頭のすげ替えという新陳代謝によるもので、四肢もない、知覚のありかが頭ではなくいわばからだ全体で感知している様子から、おそらく頭と胴体は一体化しているものと思われました。アンパンマンはロールケーキを思い浮かべ、一応頭らしき一端と足先らしき一端はあるようだ、と寝たきりのままあちこちを力んでみて判断しました。うん、このへんが腰だから、その下がお尻のはずだ。
 もしお尻ならからだの前後の区別はあるわけです。また、お腹らしい場所はわかる。ではお尻を踏ん張って下肢(に相当する部分)を蹴り上げれば上体を起こせるはずですし、腹筋を締めれば上体が持ち上がるはずですが、お尻とかお腹というのも位置から見当がつくだけで、大臀筋も腹筋も反応がない。ひょっとしたら今、自分はうつぶせになっているかもしれない。だとしたら自分が見ているこの室内は、どうやって自分の知覚で観察しているのだろうか。だいたいアンパンマンは、自分の背中とお腹がどちら向きかもよくわからないのです。
 でも声は出せる。それはさっき、あーあと寝起きの声が出ましたから判明していました。ですがパン工場にいるのはジャムおじさんとバタコさんとめいけんチーズだけです。こんな風に起きたら寝たきりになっていた、という事態にどんな解決策があるでしょうか。あーこのアンパンマンは駄目だね、頭だけじゃなくて丸ごと、作り直そう。バタコや、こっちはゴミに出しといておくれ。
 ゴミにされてはたまりません。たぶんこれは一時的なものなんだ、寝ている間にばいきんまんにスマキにされたとか、そんな風な、とアンパンマンは割と現状に近い認識に至りました。ばいきんまんとは夜間は戦わない協定を結んでいるから、犯人がいるとしたらぼくが味方と思っている誰かだ、とアンパンマンはスマキ説から出直すことにしました。どうやらぼくはスマキにされてしまった。声を出すと犯人にばれる可能性がある。何とか動いて、確実な味方を見つけて拘束を解いてもらわなけりゃならない。そして乳頭はウズウズと動き出しました。


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●決断疲れ
 (判断疲れ、決定疲れ)とは、意思決定と心理学の分野において、意思決定を長時間くり返した後に個人の決定の質が低下する現象を指します。これは、現在では不合理な意思決定の原因の一つとして理解され、職務中の裁判官を例にとると、午前中より午後に好意的な判決が少なくなることが明らかになっています。決断疲れは、消費者に本来必要でない物を購入させるなど、粗末な選択をさせることにもつながるでしょう。選択肢のない人々はそれを望み、そのために戦うこともよくあるはずですが、多くの決断を下すことに(心理学でいう)嫌悪感を覚えうることにパラドックスがあるのです。
 両立しないものの間の妥協、いわゆるトレードオフは高度でエネルギー消耗の激しい意思決定です。精神的にすりきれた人はトレードオフに対して億劫になったり、大変粗末な選択を行います。決断疲れがどのように人をセールに弱くし、またセールの時間の設定にどのようにマーケティング戦略がデザインされるべきかも、決断疲れによって説明できるのです。
 また、経済的なトレードオフを常に迫られることで生じる決断疲れが人々を貧困層に押し留める大きな要因であるとする根拠として、もし経済状況が貧者にとても多くのトレードオフを迫るとすれば、貧者は他の活動に使う精神的エネルギーがほとんどなくなってしまいます。スーパーへの外出が、各商品により多くの心的トレードオフを要することから、もし富裕層より貧困層の決断疲れをより早めるとすれば、レジに至るまでに貧困層はチョコバーとフルーツキャンディに抵抗する意志力をほとんど失っていることになります。これらの商品は衝動買いと呼ばれるに違いありません。
 さらに、決断疲れにより決断を全くしない状態に陥ることがあり、これを決断忌避と呼びます。より多くの選択肢がある人の方が何も買わない決断に消極的で、少数から選んだ場合より多数から選んだ場合のほうが最終的な満足度は低いという統計分析があり、これは選択という行為が、つねに選択肢の中から大きな意思決定を行うことを求める限り、重荷になり、ついには反生産的にもなりうることを示唆しているでしょう。トレードオフと意思決定の感情的コストを回避するために使われる決断忌避の方法には、可能なら既定のもの、または現状維持を選ぶ、などがあります。
 その頃、乳頭となったアンパンマンはまさに上記の状態にありました。


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 まだある、とばいきんまんは読んでいきました。こうなると、性感というのも面倒くさいものだな。
 決断疲れはスーパーマーケットでの理不尽な衝動買いに大きく影響します。スーパーへの外出中に値段と特売に関するトレードオフの決断が決断疲れを生むのです。こうして買い物客がレジにたどりつく頃にはキャンディーやスナックを衝動買いしたい欲求を抑える意志力はなくなっているのです。甘いおやつがよくレジに備え付けられていますが、これは多くの買い物客がそこに至る前に決断疲れを起こしているのを見込んでいるのです。最近の研究では衝動買いと低いグルコース濃度に直接の関連があることが指摘し、また、グルコースを補給することで良い決断を下す能力が復活することを示しました。これは、なぜ(教育の程度によらず)貧しい買い物客が、外出中にたやすく買い食いするかを解明することになりました。
 決断疲れに陥る人は、自分の決断力を低く考える傾向がある、という調査結果もあります。同程度の労力を伴う作業でも、意志には限度があると考えている人ほど疲労しやすい一方で、一部の例では、意志の力を信じる人ほど骨の折れる作業の後でさえ、より優れた結果を出したと報告されています。
 選択の過程自体がエネルギーの浪費となり、それにより実行機能が他の活動を実行する能力を低くしている場合もあります。決断疲れが自己調整を損ねてしまうのはそのためです。一部の自己調整の失敗が、ほとんどの大きな個人的・社会的な問題の原因となっています。例えば借金、仕事や学業の不振、運動不足、女難などがそうでしょう。また、衝動に対する自己管理能力が決断疲れに直面して低下していくような実験で、決断疲れと自己消耗は相互関係があると判明しています。
 権力者が私生活での衝動を抑えきれず破滅的な失敗をまねく理由は、日々の意思決定の重荷に由来する決断疲れによるものだと考えられています。同様に、権力者は(意思決定の続く長い一日の後に)破滅的な深夜の遊びに身を投じる傾向がある、とも指摘されています。
 司法関係者の自己調整について、裁判官の下す判決は最後にとった休憩時刻から判決時刻までの長さに強く影響される、という調査結果もあります。裁判官のほとんどは、決断を行う時間帯ごとに好意的な判決の割合が約65%から徐々にゼロ近くにまで下落し、休憩後あっけなく65%近くに戻ることが判明したのです。


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 誰もが気づかないふりをしていますが、アンパンマンのIQ、または偏差値なりで測定できる知性は、どのような尺度でも地を払うようなものでした。もっとわかりやすく言えば、そこ抜けのバカということです。その責任は多大に(歴代)ジャムおじさんにあり、歴代ジャムおじさんは(たぶん)初代のアンパンマンからずっとおんなじあんパンを焼き続けてきました。そもそも頭部交換式という作り自体に問題があったのです。知性とは経験の蓄積にあり、知識の適切な摂取にあります。アンパンマンは正義と引き換えにそれらを犠牲にして生まれてきたのです。今もなお、アンパンマンはまだ自分が何に姿を変えているかに気づきませんでした。
 そこで君に訊こう、と理事長は言いました、君は乳と尻のどちらが好きかね?キヨシはためらいましたが、理事長の趣味を察して尻です、と答えました。ほう、そうか、君とは趣味が合うようだ、と理事長。では、なぜ尻が好きなのかね?キヨシは無難に受け流そうとしましたが、待った、理由などないだとかそこに尻があるからだ、などというのは答えにならんよ、と釘を刺されました。隣のガクトが見るに見かねて、これはスフィンクスの問いのようなものでござるな、朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足なのはなあに、つまり人は生まれた時は四つん這い、そして二足歩行になり、歳をとれば杖をつく……。いいから黙っていてくれないか、とキヨシは言いましたが、四つん這いから二足歩行、待てよ、と閃きました。それは四足歩行の類人猿時代、男が最初に見たのが女性の尻だったからです、とキヨシは理事長にかぶりつくように訴えました、それから人類は二足歩行になったので、替わりに女性の乳が尻に代わって発達した。でもそれは尻の代用でオリジナルじゃない、コピーよりオリジナルの方がいいのは当然です!とキヨシは絶叫しました、だから尻が!……気がつくと理事長はキヨシの肩に手を置いていました。もういい、君はグレートだ、尻の好きな男に悪い人間はいない。
 アンパンマンは自分のからだに正面と背中の区別がないことに気づいた時点で、これはスマキどころではないことに気づくべきでした。また、全身が性感帯と化していることきも鈍感すぎたと言うべきですが、乳首の存在理由は性感帯だけではないので、いくらアンパンマンでもペニスやクリトリスに変態していたら感覚の異常にはもっと早く気づいたと思われます。


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 腕や脚も使えない状態に慣れてきて、ようやくアンパンマンは重心の移動によってからだを少しずつ動かす要領をつかめてきました。ベッドといえども完全な平面ではなく、床面と平行ではないので、重心を移すにつれクッション部には均等ではない、傾斜した凹みができます。最初のうちアンパンマンのからだは左右に小さく揺れているだけでしたが、そのうち揺れも大きくなり、アンパンマンは左右に揺れるリズムを振り子をイメージしながらとらえることに集中しました。揺れ幅が最大の時に可能な限り弾みをつけて全体重の重心を移せば、ベッドの端まで転がることもでき、うまく転がり落ちることができるならばベッドの脇にすとん、と立てるかもしれない。横転したならしたで、ベッドよりは堅い木の床の方が転がるには容易でしょう。万が一、本来頭部だった方を下にして落ちてしまった場合ですが、頭部を認識できないのは自分が袋詰めのような状態でスマキになっている、と考えられます。幸か不幸か念入りな拘束のおかげで、直接頭部をぶつけたり、首を痛めたりする事態は避けられるだろう、とアンパンマンは踏んでいました。
 ハヒー、とんでもないことに鳴っているゾ、とばいきんまんは監視カメラ映像のモニターに釘づけになっていました。なになーに、とドキンちゃんが割り込んでくると、モニターを一瞥するやばいきんまんをぶっ飛ばしました。何ヒワイな物を見てんのよ!違うのだドキンちゃん、これはアンパンマンの部屋なのだ。
 アンパンマンもあんなもので遊ぶヘンタイだったわけね。いや、そうじゃなくて、あれがアンパンマンの現在の姿なのだ。えーっ?だってあれって……。そうなのだ、乳頭、平たく言えば乳首だが、どっちにしてもあまり変わらんな。とにかくあの巨大な乳頭はアンパンマンが変身したものなのだ。
 セミは幼虫から直接成虫に成長しますので不完全変態、一方蝶をはじめほとんどの昆虫は幼虫からサナギを経て成虫になりますので、これを完全変態と呼びます。しかしアンパンマンは虫ではなく、菓子パンから突然の巨大乳頭に変化するのは昆虫の成長と同日の談では語れないことなのも明らかです。アンパンマンとばいきんまんは一種のギヴ・アンド・テイクの関係でした。ところがアンパンマンが一個の巨大な乳頭と化した現在(なぜ乳頭、という疑問は後のことでした)、ばいきんまんは何を指標にして悪事を働けばいいのでしょうか?


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 やれやれ、とジャムおじさんは言いました、これからは専用の巨大オーブンを用意しなければならないねえ。これだけの大きさの乳頭を焼くとなると、今までアンパンマンの顔を焼いてきたオーブンでは入りきらないよ。新しい顔を焼くだけでは駄目ということなんですよねえ、とバタコさん、じゃあどうやって新しいアンパンマンと入れ替えてあげたらいいんでしょうか?うむ、そもそも今やこれをアンパンマンと呼べるのかも疑問だが、とジャムおじさん、アンパンマンの顔を投げるのは今までずっとバタコの役目だったしね。ばいきんまんの攻撃で使いものにならなくなったアンパンマンの様子を見たら、私の焼いた新しい乳頭をこれまで通り投げつければ良いのじゃないかね?そうすれば、古い乳頭から新しい乳頭がパワーを回復したアンパンマンになるに違いない……この乳頭をアンパンマンと呼べるとすればだが。
 そうジャムおじさんは言いながら、バタコさんやめいけんチーズと床に転がった人体大の乳頭を堪忍した様子で眺めました。チーズが不安そうにくくーん、と鳴きました。今朝のアンパンマンは遅いねえ、とジャムおじさんとバタコさんが首をひねっていた時、アンパンマンの部屋で何かがばたん、と倒れるような音を聴きつけたのがめいけんチーズで、チーズは何度も床に倒れる仕草をしてはアンパンマンの部屋を指してわわーん、と鳴いて異変を知らせたのです。バタコさんはパン生地をこねるための麺棒を持ったままチーズの先導でジャムおじさんとアンパンマンの部屋に向かいましたが、ドアを開けたとたん床に転がった巨大な肉塊に、ぎゃッと麺棒を力まかせに投げつけました。痛ッ!と悲鳴を上げた肉塊に、ジャムおじさんは弾んで床に落ちた麺棒を手に取ると、バタコや、こうした方がいいよ、と棒を振り上げて何度も肉塊を打撲しました。苦痛の声が肉塊から上がり、どうやらこれはまったく無力のようだね、ところでアンパンマンは……そうジャムおじさんとバタコさんが顔を見合わせると、チーズがまだ苦痛に呻いている肉塊に近づいて、くくーん、と訴えかけました。チーズには犬の嗅覚と聴覚でわかるのです。チーズや、これがアンパンマンだというのかい?
 ぼくです、とアンパンマンはようやくのことで返答しました。不意打ちを食らってそれまでまともにしゃべれなかったのです。ぼくはどんな姿になってしまったのでしょうか?
 乳頭、それが答えでした。


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 アンパンマンはどっこいしょ、とジャムおじさんとバタコさんに抱えられ、鏡台の前までひきずっていかれました。アンパンマンがぼくです、と答えた声は、アンパンマンが自分で思っているようには普通の声に響かず、野生動物のうなり声のようでしかありませんでしたが、状況からしてこの物体がアンパンマンの替わりに出現している以上これがアンパンマンの変化した姿だ、と受け入れるだけの柔軟さはジャムおじさんたちにもありました。
 麺棒でぼこぼこにして外から鍵をかけ飢え死にするのを待つ、というのも手っ取り早い手段で、もっとグロテスクな、例えばゴキブリのような姿であればジャムおじさんたちですらそうしたかもしれず、むしろ積極的に殺虫剤を噴霧して閉じ込めたに違いありません。しかし実際にベッドから転げ落ちた痕跡があるこのかつてのアンパンマンと等身大のものは、あろうことか見事に勃起した乳頭そのものでした。脱力した状態ならばそれはもっと張りのないものだったかもしれません。ですがこの乳頭は散々の努力となんとか自力でベッドから転げ落ちた刺激に反応してすっかり硬く勃起しており、仮にこれがアンパンマンのなれの果てではなくてもジャムおじさんとバタコさんの興味をそそってやまないものでした。ただチーズだけが、めいけんの知覚でこれを変化したアンパンマンだと見抜いていたのです。
 いったいこれは、見たり聞いたりする能力をもっているのかね?とジャムおじさんはひとりごちました。もしこれがアンパンマンのなれの果てならば、どちらかの一端が頭、もう一端が足にあたるのだろう。チーズや、わかるかい?めいけんチーズの嗅覚は人の数万倍ですから、粘膜の密度が発する匂いからこの辺が顔です、と判別してジャムおじさんに教えました。なるほど。これでは、自分がどうなってしまったのかは当然わかるまいな。そしてバタコや、おいで、とバタコさんを引き寄せると、乱暴かつ手慣れた様子で乳首を露出させ、勃起するまでつまみ上げました。バタコさんの乳首は長く、指の第2関節くらいあるのです。見えるか?そして鏡台の前にアンパンマンを抱え上げ、どうだい同じだろう。アンパンマン、きみは乳頭になってしまったのだぞ、と宣告しました。
 アンパンマンはそこでようやく目覚めからの違和感の正体を知るとともに、乳頭になってしまったことの当惑よりも、乳頭として正義を貫く困難へと思いを馳せたのです。


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 アンパンマンは、まだジャムおじさんから乱暴に麺棒でめった打ちにされているうちにも、必死でぼくですジャムおじさん、どうしてそんなことをするんですか、ぼくはいったいどうなってしまっているんでしょうか、と訴えていましたが、まだジャムおじさんたちが来る前にひとり言を試して、どうやらしゃべるのは大丈夫みたいだぞ、と考えていたのは楽天的にすぎたことを思い知ることになりました。メタモルフォーゼというのはそんなお手柔らかなものではなく、しゃべられる、という機能さえもすでに乳頭の姿に変わってしまった異常感覚で認知しているのにすぎなかったのです。ジャムおじさんとバタコさんにとってそれは、得体の知れない人体大の乳頭が発するおぞましいうめき声でしかありませんでした。ただめいけんチーズの聴覚だけが、アンパンマンのかつての声紋がかすかに倍音の中に拡散しているのを聴きとるにとどまりました。もし犬がしゃべれたら!しかししゃべれる動物など(物真似ならともかく)誰がペットにするでしょうか。それではプライヴァシーの危機にしかなりません。
 しかしチーズの渾身のミミックでどうやらアンパンマンがベッドから落ちた、それが部屋の床に転がる巨大乳頭だというのが判明すると(なにしろチーズの知能は人間をしのぐものでしたから)、ジャムおじさんとバタコさんにもだんだんうめき声からアンパンマンの言おうとしていることが、逐語的にはわかりませんがニュアンスからは通じてくるような気がしました。それにアンパンマンが自分たちに黙って朝からいなくなっているのはよほどのことで、なるほど乳頭になっていては仕方ない、とかえって納得がいくようでした。
 ジャムおじさんはベッドに近づき、何やら考え深げでした。どうしたんです、とバタコさん。バタコや……いや、これは後でカレーパンマンかしょくぱんまんにでも頼もう。何か思い当たることがあるんですか?うむ、チーズによるとアンパンマンはベッドに寝ていた、転がり落ちた、それがこの姿だという。だとすれば、アンパンマンはいつ乳頭になったのだろうか。ベッドから転落すると乳頭に変化してしまう現象がこの部屋では起きるのだろうか?
 違うんですジャムおじさん、目が醒めたら、とアンパンマンはうめきましたが、さすがにそんな細かい伝達まではチーズにすらも伝わったかどうか怪しく、ジャムおじさんたちもますます首をひねるばかりでした。


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 あー、しょくぱんまんさまぁ、とドキンちゃんがモニターにがぶり寄りしました。監視カメラはちょうどアンパンマンの部屋に入ってきたしょくぱんまんとカレーパンマンの姿をとらえ、その顔を交互にパンニングしていました。ばいきんまんの科学技術は世界的に抜きん出たもので、監視カメラには人工知能が搭載してあり、この知能は自己学習能力もあって状況に応じた適切な被写体を選択し、アップもロングの構図も判断して臨機応変に撮影するのです。おなじみばいきんUFOのエネルギー消費ゼロの反重力飛行回路といい、ばいきんまんの科学技術をもってしてこの世に実現不可能なことなど数える方が難しかったでしょう。ですがばいきんまんはそれをばいきんまんにとっての「悪いこと」にしか使わない、という確固たるポリシーを持っていましたし、仮に宿敵アンパンマンを倒す手助けの見かえりに一部でも技術提供を、と申し入れがあったとしても、やなもんだい、べべべのべー、と門前払いにしたことでしょう。アンパンマンはおれさまがひとりで倒すもんねー。でも倒せないのはなぜでしょう?
 それでこの倒れているものは何ですか?としょくぱんまんは顔色ひとつ変えずに尋ねました。しょくぱんまんはクールではありませんが、スマートな色白なのです。カレーパンマンは同じことを訊こうとしていましたが、しょくぱんまんに先を越されてしまったのでしゃがみこんでそれに近づくと、指先でツンツン、と突ついてみました。ひッ、と変な声をもらしてその物体が転がったままのけぞったので、カレーパンマンは反射的に(さすがに必殺技のカレーパンチとカレーキックは自制しましたが)少量のカレービューをくらわせました。カレービューとは目くらましや牽制、威嚇に口からカレーを飛ばして相手に吹きかける攻撃です。
 本来軽い牽制にしかならないはずの攻撃ですが、効果はすさまじいものでした。それは床から飛び跳ねんばかりにのたうち、カレー汁まみれの半身をくねらせながら汁を飛び散らせ、何度も引きつったかのように痙攣するとあッ、あッと息を詰まらせ、横たわった紡錘形の細い方の先端から白く濁った汁をにじみ出しているのがわかりました。
 何なんですか、ジャムおじさん、とカレーパンマンは混乱して、問い詰めるような調子で尋ねました。ああ、あれは乳汁だろうな。第二次性徴期の始めによく起きることだよ。
 第二次性徴期?
 ……うむ。
 第三章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2018年5月18日・19日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(2)

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 1952年度アメリカ本国公開のベティカー作品は4作ですがそのうち西部劇が3作を占めるので、ユニヴァーサルでもベティカーは西部劇担当の監督とされていたのでしょうが、ノンクレジットながら監督デビュー年の'44年以前に2作の第二次世界大戦戦争映画を手がけているのも後世に判明しており(『Submarine Raider』'42と『U-Boat Prisoner』'44、ともに65分の中編で後者はルー・ランダース監督名義)、戦争映画の製作は徴兵年齢だったベティカーにとって軍務代わりだったのもあるでしょうが、正式な監督デビュー前の他人をアゴで使える度胸試しの修行には、群像劇でありそれなりの規模や明確な目的遂行の内容を要求される戦争映画はもってこいの題材だったと思われます。ユニヴァーサル社に所属して初の西部劇『シマロン・キッド』'52を撮る前の'44年(監督デビュー)~'51年の8年間に軍務の1年を挟んでベティカーは12作のB級映画(フィルム・ノワール、怪奇映画)を監督しており、唯一'51年の『美女と闘牛士』がジョン・ウェインのバトジャック・プロに招かれて撮ったメキシコ・ロケの闘牛ロマンス映画で、ベティカーの転機がやはり再度ウェインにバトジャック・プロに招かれて撮った'56年の『七人の無頼漢』になると思うと、右翼的姿勢で問題になるウェインですが映画人としては偉い人だったと(俳優としては言うまでもありませんが)改めて気づかされます。『七人の無頼漢』までのベティカーは西部劇だけでなく『海底の大金塊(City Beneath the Sea)』'53(日本劇場未公開・テレビ放映)や『East of Sumatra』'53など海洋SFアドベンチャー、『灼熱の王者』'55は西部劇というより闘牛ロマンスですし、『七人の無頼漢』のあとも『殺し屋は放たれた(The Killer Is Loose)』'56(日本劇場未公開・テレビ放映)はジョセフ・コットン主演のB級フィルム・ノワールで、テレビ界に転身する前の最後の作品はギャング映画『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』'60ですが、ほとんど西部劇メインなので野郎ものの戦争映画『レッドボール作戦』'52や闘牛ロマンス『灼熱の王者』は西部劇マナーで作られていると言えます。それを言えば先に『美女と闘牛士』があり、また海洋SFアドベンチャー『海底の大金塊』や『East of Sumatra』はアンソニー・クイン出演と『殺し屋は放たれた』『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』同様落とすに惜しいのですが、手持ちの映像ソフトにそろえていないのでまたの機会にしました。では今回も1作は日本劇場未公開、1作は日本劇場公開と相変わらずのB級映画あつかいだったベティカー映画ですが、楽しんでご紹介いたします。

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●5月18日(土)
『レッドボール作戦』Red Ball Express (ユニヴァーサル'52.May.24)*80min, B/W, Standard : 日本劇場未公開(映像ソフト発売)

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 前回ご紹介した作品でもそうでしたが横長のカードの図版が並べてある画像がありますが、これはポスターではなくロビー・カードといってサイレント時代からあり、現在は知りませんがかつてアメリカでは日本のようにブックレット型パンフレットではなく劇場で上映映画の名場面集のハガキ大のブロマイドが束ねて宣伝も兼ねてポップコーンやコカコーラのオマケに無料配布または販売されており、観客は観た映画が気に入ったらブロマイド集をもらって映画の記憶を楽しみブロマイドを見せて口コミで評判を広げるわけです。意外にもベティカー映画の場合このロビー・カードが非常に多い。ユニヴァーサル社の方針だったのかもしれませんが、他社の場合ロビー・カードは1本の映画につき2~4枚程度しか現存が確認されておらずそれが通例だったとされるのに、ベティカー映画には並べるとポスター大になるくらいロビー・カードが確認されている。コレクターが大事に保管してトレードしたりしていた(2回以上観ればダブります)からですが、ユニヴァーサル社は本作のような、企画やプリプロダクションはともあれ撮影期間は3週間で作ったB級映画の場合メディア広告には金をかけずロビー・カードで口コミに頼ったと思われ、広いアメリカのことですから2本立ての組み合わせは地域ごとの観客の嗜好に合わせて違ったでしょう。たとえば前作『ロデオ・カントリー』は南部・西部と東部では観客の入りがはっきり分かれたと思われます。日本でロビー・カード方式が導入されずパンフレットが重視されたのは中綴じの冊子とはいえ日本人観客はブロマイドより冊子を好んだということでもありますが、もしロビー・カード方式が日本映画に普及していたら(導入されたが普及しなかったのかもしれませんが)往年の日本映画のロビー・カードなどものすごいコレクターズ・アイテムになっていたと惜しまれ、オークション・サイトなどで「『殺しの烙印』ロビー・カード8枚セット」などと考えると空恐ろしい気がします。アメリカでロビー・カードによる口コミ宣伝効果がどれだけ高かったかと想像されるのは製作費非公表ながら『シマロン・キッド』が125万ドル、本作が150万ドルのヒット作となっていることで、製作費自体に100万ドル以上かけるMGMみたいな会社と違ってユニヴァーサル社のB級映画はせいぜい製作費30万ドル未満であり、飲食物のオマケにつけるロビー・カード以外広告費もかけないなら収益率500%の大ヒットです。日本ではちっとも受けなかった、本作などは劇場公開もされなかったベティカー映画がアメリカ本国ではメディアではぜんぜん話題にならなくてもごく普通の観客に好まれていたというのはなんだか心暖まるような話で、今では'40年代~'50年代の重要監督とする再評価も定着している。では低予算ヒット作のB級戦争映画である本作がどんな映画かというと、先に資料からご紹介しておきましょう。
○(メーカー・インフォメーションより) 主演 : ジェフ・チャンドラー (あらすじ) : バット・ベティカー監督が史実に忠実に描いた戦争アクション。1944年。フランス侵攻が進む中、パリに向かって前進していたパットンの第3軍は、備品不足に陥ってしまう。そこで連合軍司令部は急遽、特別に選ばれた軍用トラックルートを切り開く。ドイツ軍の執拗な妨害をものともせず、補給部隊の決死の輸送作戦が始まった……。
○解説(英語版ウィキペディアより)『レッドボール作戦』(「急行貨物部隊(Red Ball Express)」)は、シドニー・ポワチエとヒュー・オブライエンによる初期の映画出演をフィーチャーした、ジェフ・チャンドラーとアレックス・ニコルが主演するバッド・ベティカー監督による1952年の第二次世界大戦戦争映画です。この映画は、1944年6月にノルマンディー上陸作戦のDデイのあとに行われた実際の急行貨物部隊護送船に基づいています。本作に描かれる急行貨物部隊の運転手の約75%は、屈強な兵士であるアフリカ系アメリカ人が他の任務のためにさまざまな部隊に所属していた中から選抜されたという設定です。国防総省は本作の人種関係について「前向きな角度が強調される」ように修正すべきであるとユニヴァーサル映画社に要求しました。監督のベティカーは次のようにコメントしています。「政府は兵士を消耗品と考えていたので、軍隊は映画で黒人軍隊についての真実を描かせたくないのでしょう。アメリカ政府は兵士たちがパットン将軍とパットン戦車隊を救うための神風パイロットだったと認めたくなかったのです」。
○あらすじ(同上)  1944年8月、ドイツ占領下のフランスへの侵攻を進めながらも、パットン将軍の第3軍戦車隊はパリに侵攻できないままでした。侵攻を促進するために、連合軍本部はエリート軍用運輸ルートを確立します。この急行貨物部隊の1つの(さまざまな人種混合の)小隊は、民間ゲリラ、ドイツの抵抗、地雷原を越えて、ますます危険な任務に遭遇します。小隊の長であるチック・キャンベル中尉(ジェフ・チャンドラー)はカレック軍曹(アレックス・ニコル)と、カレック軍曹の兄を含む民間人の犠牲死事件をきっかけに衝突するようになります。ハワード・ペトリーが演じるゴードン将軍は、パットン将軍をモデルにしているようですが、パットン将軍も作中で特に言及されています。戦時中実際に急行貨物部隊を担当していたフランク・ロス少将は、本作で技術顧問を務めました。
 ――英語版ウィキペディアの解説にもある通り、本作は一兵卒役のシドニー・ポワチエやヒュー・オブライエンの方が今では有名なくらい地味なキャストで、主演のジェフ・チャンドラーの著名作はデルマー・デイヴィス監督の『折れた矢』'50の副主人公役くらいでしょうし、ジェフ・チャンドラーと対立する軍曹役のアレックス・ニコルもアンソニー・マン監督の『ララミーから来た男』'55の助演が代表作、と助演クラスの俳優を主演に起用したノン・スターのB級映画の典型みたいなキャスティングです。またベティカーは先に再評価が進んでいたニコラス・レイ(1911-1979)やサミュエル・フラー(1912-1997)とベティカーを同等の大家と見なすようになったのですが、ほぼ5歳あまり年長のレイ('48年監督デビュー)やフラー('49年監督デビュー)は監督デビューは'44年監督デビューのベティカーより遅いもののレイは演劇界からエリア・カザンの助監督、ジャーナリスト出身のフラーは'30年代後半から原作者・脚本家として映画界に関わっており、レイはハンフリー・ボガート設立独立プロ専任監督の諸作以降、フラーもリチャード・ウィドマーク主演の『拾った女』'53でヴェネツィア国際映画祭受賞(アメリカ国立フィルム登録簿2008年度登録)と早くからヨーロッパの批評家に注目され、デビュー初期のトリュフォーやゴダールらヌーヴェル・ヴァーグの監督たちから讃辞を捧げられていた戦後監督です。またレイやフラーは必ずしもB級映画の監督ではなくスター俳優主演の大作も任されており、監督デビューが早かったベティカーへの注目がレイやフラーよりずっと遅れたのもベティカー作品の代表作がレイやフラーよりあとだった、しかも相変わらず低予算B級映画だったのもある。唯一大作と言えるのはアンソニー・クイン主演の『灼熱の王者』'55くらいです。さらにレイやフラーは名作からさかのぼって初期作品を観ても確かな風格が感じられる佳作があるのにベティカーの初期作品はまだまだの観があり、レイの第1作『夜の人々』'48はB級フィルム・ノワールながら個性の明確な名作なのにフィルム・ノワール時代のベティカー作品は特徴も乏しく出来もあんまりとか、さらにようやく本領発揮のはずの西部劇に取り組んでからも『七人の無頼漢』以前はレイやフラーの西部劇ほど冴えない、まだ作風の確立途上に見えるのが弱く、戦争映画の本作も150万ドルのヒットがへえ?というあまりパッとしない作品です。フラーの朝鮮戦争映画『鬼軍曹ザック』『折れた銃剣』はともに'51年作品ですがフラー監督作らしい厳しい個性が際立っている。較べてしまうと本作『レッドボール作戦』は呑気な実話映画で、先に引いた紹介では市民を巻きこむ戦況に際した隊長と軍曹の対立、作戦遂行の困難といかにもドラマティックな内容になっていそうなものですし、西部劇第1作『シマロン・キッド』に幾分見られる『七人の無頼漢』で確立されるアウトロー同士の対決から応用が効くはずの混沌状況の中の対立、前作『ロデオ・カントリー』の起承転結の効いたドラマ性が本来なら活かせるはずの本作ではちっとも効いていない。プロット上では英語版ウィキペディアの紹介にある通りの展開をするのですが見せ方が淡泊なのでぜんぜんドラマティックに見えず、兵士たちがフランス娘のアントワネット・デュボア(ジャクリーン・デュバル)をめぐっていちゃいちゃ恋のさやあてをしている天下太平ムードの方が強いのです。本作のヒットは従軍体験のある、または家族に従軍経験者を持つ観客に支えられたものと思われ、ヨーロッパ戦線の戦勝の決定打になったパットン戦車隊上陸作戦を讃える内容にとどまっている。戦後7年目にしてなお戦勝を景気良く喜ぶ気分で映画のムードが呑気なものになっており、現在進行形で泥仕合と化している朝鮮戦争を描いてヴェトナム戦争以降の戦争映画の先駆となっているフラーの『鬼軍曹ザック』『折れた銃剣』のジャーナリスティックな尖鋭さにはおよびもつかないのですが、国防総省に干渉されなかったらもっと黒人兵を描いた映画にしたかった、とベティカーが語っているとなると本作には偶像破壊的な要素は描きたくても描けない妥協が強いられたとも推定されるので、かえって何でもありの無法者世界が描ける西部劇より制約されることにもなったと思われ、ベティカーの西部劇指向をますます強めたのではないか、とも考えられます。本作の位置づけはそうしたものになるのではないでしょうか。

●5月19日(日)
『征服されざる西部』Horizons West (ユニヴァーサル'52.Oct.11)*78min, Technicolor, Standard : 昭和35年('60年)5月1日

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 ベティカー'52年度最後の作品になる本作は日本では1958年製作とされて公開されたそうですが、どうもこの頃日本初公開されたベティカー作品はアメリカでの再公開に伴い製作年のサバを読んで日本公開されたようです。日本公開されたユニヴァーサル時代のベティカー作品全般がキネマ旬報の紹介記録ではそうなっているようで、のちに映像ソフト化に伴って製作年だけは訂正されたようですが劇場初公開時の製作年は訂正されていない。アメリカ側でサバを読んだのか日本の配給会社がサバを読んだのかわかりませんが、どちらにせよこれはちょっと面白い、B級西部劇ならではというかB級西部劇でもめったにないことで、'52年ならまだスタンダード・サイズで当たり前ですがシネマスコープ普及後の'58年製作でスタンダード・サイズなどそれだけでもB級感が増したと思われ、ベティカー映画は公開時日本の批評家にはB級西部劇と一蹴されたのですが製作年のサバ読みもまずかったと思われる。本作はロバート・ライアンとロック・ハドソンが対立する義兄弟役で主演と、『シマロン・キッド』や『ロデオ・カントリー』も見所ある映画でしたが'52年のベティカーの4作なら本作が屈指の出来で、なかなかの秀作です。権力者にのし上がっていくロバート・ライアンが素晴らしいのはもちろんライアンに対立する肉親思いの正義漢の義弟がロック・ハドソンと、もう設定とキャスティングだけでラオール・ウォルシュの傑作かとわくわくさせるようなもので、ライアン、ハドソンとも受動型の俳優なので多数の名作に主演していても何となくスターとしては小粒で、ライアンにはロバート・ミッチャムに通じる抑圧性があるもミッチャムほど狂おしくなく、ハドソンはウォルシュの『決斗!一対三』'53のような西部劇の傑作でも受動型ならダグラス・サークのメロドラマ作品ではヒロインより女性的な繊細な柔和さがあり、つまりライアンやハドソンは親近感を持てる名優ではあってもアメリカ人の理想的男性像とはちょっとズレているのが大スターとは呼べないので、強烈な個性で極まっているというほどでもない。しかしアンソニー・マンの『怒りの河』'52ではあまりパッとしないヒロインだったジュリー・アダムス(『決斗!一対三』でも好演)が本作では見違えるようになっているのもライアンやハドソンが主演だから、と言えるので、本作も平和で牧歌的な西部→訳あり人妻との出会い→悪党一味との因縁→ドロドロの死闘、という『七人の無頼漢』'56からの7連作「ラナウン・サイクル」で円熟する殺伐ムードのベティカー西部劇の黄金パターンが、『シマロン・キッド』よりもさらにはっきり表れてきた作品です。ドラマを展開させる副人物の伏線的役割の描き方もごたごたしていた『シマロン・キッド』よりはるかに上手く、レイモンド・バーやデニス・ウィーヴァーらハドソン同様'70年代にはテレビ畑でスター俳優になる顔ぶれも重要な助演という具合に、「鬼警部アイアンサイド」と「警部マクロード」と「署長マクミラン」が一堂にそろった映画で、これでピーター・フォークが出ていればさらに見ものですがフォークの映画デビューはずっと遅れてニコラス・レイの『エヴァグレイズを渡る風』'58です。またライアンはルノワールの『浜辺の女』'47やエドワード・ドミトリクの『十字砲火』'47、ジョセフ・ロージーの『緑色の髪の少年』'48からニコラス・レイの『生まれながらの悪女』'50と『危険な場所で』'51やフリッツ・ラングの『熱い夜の疼き』'52、アンソニー・マンの『裸の拍車』'53、サミュエル・フラーの『東京暗黒街・竹の家』'55、ラオール・ウォルシュの『たくましき男たち』'55、ロバート・ワイズの『拳銃の報酬』'59、レイの『キング・オブ・キングス』'61、ケン・アナキンの『史上最大の作戦』'62や『バルジ大作戦』'65、リチャード・ブルックスの『プロフェッショナル』'66にロバート・アルドリッチの『特攻大作戦』'67やジョン・スタージェスの『墓石と決闘』'67、サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』'69やルネ・クレマンの『狼は天使の匂い』'72、ダルトン・トランボの『ダラスの熱い日』'73ともうライアンなしではアメリカの戦後映画は骨抜きではないかというほどの陰の重要俳優で、ちなみに筆者の同級生で地元酒屋の主人のクマキリくんが中年になったらロバート・ライアンに似てきたのは本人も気づいていないと思いますが、似てると言っても「誰それ?」でしょうし似てると言われて嬉しいタイプの俳優でもないでしょう。上記重要作・ヒット作に較べると本作はライアン主演作・出演作でも知られない作品でしょうし興行収入非公表だから『シマロン・キッド』や『レッドボール作戦』ほどヒットしなかったと思われますが、典型的な南北戦争後のテキサスが舞台の下克上西部劇ながらライアンとハドソンの好演を筋の通った演出で押さえ、第二次大戦後のアメリカのムードと重ねることで戦後西部劇らしい現代性をちゃんと打ち出している。ベティカーらしい殺伐とした雰囲気も『シマロン・キッド』に萌芽が見られましたが、本作の富裕階級に反逆して無法者となっていくライアンの主人公は破滅的な生き方に向かっていくことで平和共存主義のハドソンを圧倒しているので、本作は西部劇版ギャング映画としても佳作になっています。日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) テキサスを舞台に、義兄弟の抗争を描いた西部劇。ルイス・スティーヴンスの脚本を「レッグス・ダイヤモンド」のバッド・ボーティカーが監督した。撮影はチャールズ・P・ボイル、音楽はジョセフ・ガーシェンソン。出演は「拳銃の報酬」のロバート・ライアン、「夜を楽しく」のロック・ハドソンのほか、ジュリー・アダムス、ジョン・マッキンタイアら。製作アルバート・J・コーエン。
○あらすじ(同上) 南北戦争が終り、ダン・ハモンド少佐(ロバート・ライアン)、ニール・ハモンド中尉(ロック・ハドソン)、ティニー・ギルガン(ジェームス・アーメス)の3人はテキサス州のオースティンに戻って来た。ダンは附近の牧場主イラ(ジョン・マッキンタイア)の長男で、ニールは養子。ダンは牧場経営より一獲千金を狙っていた。彼はオースティンに行き、ボスのハルディン(レイモンド・バー)の妻ローナ(ジュリー・アダムス)と恋におちた。ダンにはサーリイ(ジュディス・ブラウン)という彼を慕う女性がいた。が、ダンは彼女を嫌った。やがてニールはサーリイの美しさにひかれ、愛しあうようになった。ダンは友人の役人フランク(トム・パワーズ)と賭博場に行った。そこでハルディンに5千ドル負けた。借金を申しこんだダンはハルディンに罵倒され、夫の非情な仕打ちを見たローナはダンに好意を持った。ダンは戦友ダンディ(デニス・ウィーヴァー)と家畜泥棒の仲間に入った。盗んだ家畜はメキシコ領で売った。ハルディンはダンの勢力が強くなるのを恐れ、ニールを捕らえ彼からダンの情報を取ろうとした。ローナはダンにニールのことを知らせた。ダンはハルディンを襲い射殺した。盗賊団の首領になったダンは州内の牧場を荒しまわった。ニールは正義のために立ちあがった。保安官になって群集のリンチからダンを救い留置した。が、ダンディがダンを救い出した。ダンの父イラは牧場主の代表クラブ(ジョン・ハバード)と共にダン逮捕に向かった。しかし、イラはダンのためにニールと共に逆に一身に捕った。クラブはローナをみつけて彼女をタテにしてダンを追いつめた。ダンは誤ってローナを射ってしまった。しかし、自らもクラブの弾丸に当たって死んだ。ニールは牧場へ帰り、サーリイと結婚した。
 ――キネマ旬報の紹介は歴史的文献として興味深いもので、まず昭和35年にはまだ監督名はベティカーが定着せずボーティカーと呼ばれていたのがわかる。また役名も現行映像ソフトで原音表記に直っているのと違い、タイニーとすべき名前がティニー、アイラがイラ、ハーディンがハルディン、サリーがサーリイだったのがわかる。ライアン演じる主人公は豪農の跡取りなのですが、テキサス州はもともとスペインからの植民領なのでスペイン貴族の末裔の富裕階級が非常に威張っており、農業だけでなく実業界に進出したいというライアンはレイモンド・バー演じる富裕階級のボスに公然と侮辱されてしまう。それを見たバーの妻のジュリー・アダムスは夫にかねてからの反感をいよいよ募らせライアンに惹かれていき、ライアンも帰郷した時街で見かけたアダムスに惹かれていて婚約者のジュディス・ブラウンから心が離れてしまう。ライアンはバーへの復讐もあって脱走兵や南軍・北軍の脱落者たち無法者のキャンプを見つけて強盗団のボスとなり、バーを筆頭に富裕階級の所有牧場から夜間に大量牛泥棒をしてメキシコ国境で売りさばきます。バーはライアンに目星をつけライアンの義弟のロック・ハドソンを監禁・暴行しますが、アダムスから知らされたライアンはハドソンを救出に向かい、バーを正当防衛で射殺することになる。バーの妻のアダムスの証言もあってライアンは無罪で不起訴となりますが、これをきっかけにライアンの強盗団はますます牧場荒らしを続けて、遂には市民もライアンをリンチにかけようとする。保安官補になったハドソンは兄の身柄を守るために入獄させますが、ライアンは脱走してしまい、ここから先は破滅への一直線で、ともに服役しようという老父アイラ(ジョン・マッキンタイア)の懇願も振りきり、逃走がてらライアンを制止しようとする妻子持ちの戦友のタイニー(ジェームス・アーメス)をも射殺せざるを得なくなる。映画冒頭で敗戦により兵役を終えて帰郷したライアン、ハドソンを穏和な老父アイラが迎え、タイニーをいかにも仲むつまじい妻子が迎えるのが印象的だっただけに、ここまで来ると観客もライアンの窮地と内面的崩壊がひしひしと迫り、守るべきものも味方してくれる者も何もかもを捨ててしまった孤独な無法者になってしまった主人公が前面に押し出されてくる。ヒロインを人質におびき出されたライアンは実際には誤射とはいえアダムスとの心中覚悟で現れるので、アンチ・ヒーロー型アウトロー映画として感覚的には'60年代映画を先取りしている作品です。映像文体の面では『シマロン・キッド』や『ロデオ・カントリー』の方が躍動感に富んだ映像なのですが、本作では逆に映像の方はぐっと抑制した落ち着いたショットに抑えて破滅へと向かう主人公をじっくり描いており、小品感はぬぐえませんしギャング映画(『民衆の敵』'30など)の西部劇版の型からもっとさらにより飛躍の余地がある分名作・傑作とまではいかずまだ秀作・佳作の域にとどまる作品ですが、本作の枠ではこれは十分充実し、高い完成度の感じられる好作です。本作のハドソンは引き立て役ですが、ライアン主演作としては隠れた逸品ではないでしょうか。

集成版『夜ノアンパンマン』第四章

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 第四章。
 わかりました、としょくぱんまんはあまりの話に腕組みをしそうになりましたが、スマートなぼくには似つかわしくないな、と思い額に手を当てました。少しうつむき加減のそのポーズは山型パンの輪郭にばっちりきまっていたので、こいつこんな時にでも格好つけだけは忘れやしないんだな、とカレーパンマンのしゃくに障るのに十分でした。きっと家でも全身鏡が置いてあって、その前で決めポーズの研究とかしていやがるに違いない。
 というのは、いつぞや自分たちも3人組で登場ポーズと決め口上をそろえるトレーニングをしよう、としょくぱんまんが言い出したことがあったからです。カレーパンマンは何で今さら、だってアンパンマンには「元気100倍、アンパンマン!」がもうあるし、カレーパンマンには「辛さ100倍、カレーパンマン!」がある。ちなみにジャムおじさんのパン生地をこねる呪文は「美味しくな~れ……美味しくな~れ……」だ。そうか、食パンのやつには決め台詞がないんだ、そんなの自分で勝手に決めればいいじゃないか、と思うのですが、食パンが言うには立ち位置を決めてひとりますま決めポーズと名乗りを上げる、それから3人で組み合わせたポーズを決めて全員で声をそろえる。シルエットだけでも芸術的に美しくなければならない、たとえば?中央のひとりが片膝を着いて片腕を突き出し、向かって右側が左腕を斜めに上げたポーズで右手を中央の肩にかけ、向かって左側は多少アシンメトリーにからだ全体を外側にのけぞらせるようなポーズで、イメージとしては3人組で翼型のポーズになるような感じで……。それで?イメージカラーに基づいた名乗りを決めます。どんなだよ?……赤いハートはあんこの印し、甘さたっぷりアンパンマン!とか、白いマントは正義の証し、さわやかハンサムしょくぱんまん!とか……。おれは?……黄色いスーツはウコンの香り、スパイスどっさりカレーパンマン!なんてどうでしょう?カレーパンマンはよほどこの食パンには虫が湧いてるぞと違反報告してやろうかと思いましたが、こいつはもともとこういうやつなんだ、と大人の態度で、そんなことよりパトロールの時間だぞ、あっそうですねえ、とその話題はそれきりでした。
 そんなことよりジャムおじさんにはなぜこんなことになったのか、わかっているのだろうか?どうもそうではなさそうだ。ならば夜のアンパンマンに何が起こったんだろうか?


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 夜のアンパンマンに何があったのかって?とジャムおじさんは呵々大笑しながら答えました、そんなの私だってわからん。カレーパンマンはあまりの無責任さにあきれましたが、しょくぱんまんは素直というか、良くも悪くも白いだけあって順応主義的な面があるので、そうなんですか、とすんなり受け止めている様子でした。頼りにならないなこいつら、とカレーパンマンが落胆するのも当然なくらいパン工場の誰もがこの異常事態に直面して、あまりにのんびりした反応しか示していなかったのです。唯一事態の深刻さを真面目にとらえているのはめいけんチーズだけのようでした。問題は、カレーパンマンとチーズは仲は良いのですが、カレーパンマンのコミュニケーション能力の低さではチーズと正確な対話ができないことで、チーズの側に責任はなくカレーパンマンの頭が悪いからなのですが、各種スパイスのミックスで作られたカレーパンマンはいわば万年スパイス漬けの中毒症なので論理的な思考が苦手なのは仕方がないことでした。
 とりあえずおれたちはどうしたらいいんでしょうか、とカレーパンマンは訊きました、朝のパトロールだけでも済ませてきますか?うむ、そうだなあ、とジャムおじさん、今日はあいにくの悪天候でもある。しょくぱんまんはしょくぱんまん号で他のふたりの受け持ち地域も回ってきてくれないか。カレーパンマンは私とバタコを手伝っておくれ。まあ順当だろうな、とカレーパンマンは思いました。
 しょくぱんまんは乳頭になったアンパンマンが気がかりでしたが、食パンの配達とパトロールも大事な仕事です。それにこんな巨大な乳頭は持ち上げるだけでも数人がかりでしょう。はい、としょくぱんまんはジャムおじさんに答え、カレーパンマンとよろしく頼むよ、おお、とやりとりして出て行きました。しょくぱんまん号が快調なエンジン音をたてて走り去るまで、カレーパンマンはジャムおじさんとバタコさんが黙っているので自分も黙って、さてどうするのかな、と考えていました。
 カレーパンマン、ちょっとそいつを持ち上げて立ててみてくれんかね?こうですか、とカレーパンマンは天地に気をつけて巨大乳頭を床から抱き上げました。
 するとすかさずカレーパンマンは輪にしたロープで乳頭に縛りつけられ、さらに厳重に縛り上げられると床に転がされました。やったあ、戦力分断!とジャムおじさんの変装を解いたばいきんまんが叫びました。


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 なんでばいきんまんなんだよ!とカレーパンマンは縛り上げられたまま、無駄に地団駄を踏みました。ドキンちゃんもいまーす、とバタコさんの仮装を解いてドキンちゃんも正体を現しました。まさかチーズも?ハヒヒのヒー、とばいきんまんはチーズの耳をつかんで引っ張ると、現れたのはかびるんるんでした。なら本物のジャムおじさんたちをどこに隠したんだ!とカレーパンマンは叫びましたが、最初から入れ替わっていたんなら、アンパンマンがこんな具合になってしまったというのもばいきんまんたちの作り話なんだな、とようやく納得がいったように思いました。ジャムおじさんたちはどこにいるんだ!?それに、アンパンマンをいったいどこにやったんだ!?
 教えるもんか、とばいきんまんはせせら笑うと、最初からお前らはだまされていたのだ、と会心の破顔一笑で、さーてどう料理してやろうかな、と揉み手をして喜びを抑えきれない様子でした。カレーパンマンはいつからばいきんまんたちがジャムおじさんたちと入れ替わっていたのかわかりませんでしたが、自分が縛りつけられているこの乳頭がアンパンマンの変化などではなく、ばいきんまんの用意していたデコイならば簡単な脱出策があります。カレーパンマンの必殺技、相手には致命的なダメージを与えられるカレーファイヤーという全身炎上攻撃があり、これを使えばカレーパンマンを縛りつけているこの人間大乳頭などロープもろとも焼きつぶしてしまえるでしょう。
 しかしうかつにこの技が使えないのは、カレーパンマン自身にもすさまじいダメージがあることです。相討ち覚悟の攻撃なので、拘束から自由になり、ばいきんまんをひるませることはできても、さらに自力でばいきんまんたちを撃破することは難しい。せいぜいサポートくらいの役にしかたてない。そうなると、しょくぱんまんがパンの配達とパトロールから帰ってくるまで待たなければなりません。
 カレーパンマンは気が短いので、もどかしさのあまり抱きつくような格好で縛りつけられたこの乳頭にやつあたりするようにきつく抱きしめました。すると乳頭は、本物の乳首がつねり上げられるように悩ましげなうめき声をあげるのです。ばいきんまんはこんなもの作ってどういうつもりだ!?とカレーパンマンは再び怒りがこみ上げました。
 しかしカレーパンマンは勘違いしていたのです。この乳頭は変化したアンパンマンそのものだったのですから。


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 今カレーパンマンが陥っているジレンマは、自分がばいきんまんの罠にはめられた、これはまったく自分がうかつだったからに過ぎない(同じような手に何回も引っかかってきたような気がする)、この状況を冷静に考えれば考えるほど事態はカレーパンマンひとりで切り抜けなければならない、ということから始まりました。ジャムおじさんたちは当てにならない、しょくぱんまんが帰ってくるのも……おれがこんな目にあっているくらいだから、ばいきんまんはしょくぱんまんをだます手口も用意してあるはずだ。さらにカレーパンマンを縛りつけているのは、文字通り小柄な大人ほどのたけのある、そしてそのたけに見合うほどのたっぷりとしたスリーサイズをそなえた(スリーサイズと呼べればですが)、乳頭としか見えないものでした。これがアンパンマンだって?アンパンマンとは昨夜、おれはどういう会話をしただろう?明日の天気は崩れそうだね、雨の日のパトロールは難儀だよな、しょくぱんまんみたいにおれたちもアンパンマンカーとかカレーパンマンジェッターとか作ってもらえないかなあ。誰に作ってもらうの?とアンパンマンが言うので、ジャムおじさんの仕事じゃないだろ、ばいきんまんにでも作ってもらうか、とカレーパンマンは廊下の監視カメラに笑いかけながらウィンクしました。そう、ウィンクした。しまった、あれが挑発になっちまったのかな?
 しかし問題はこの気味の悪い物体の方だ。体温らしきものも確かにある。生き物らしく微妙に膨らんだり縮んだりしている様子もある。なにしろ縛りつけられているんだから間違いない。生き物、というか乳頭ならではのなんだか甘い体臭もする。これが乳頭ならこの乳頭をつけている生き物はどれだけでかいんだ?というより、肉体の一部だけが肥大してほとんどを占める生き物というのもないことはないらしいが、これもそれなのか?で、朝からアンパンマンがいなくて、乳頭が部屋に転がっていた。いや、それはばいきんまんがジャムおじさんに化けておれに説明したことだ。
 それでも一考すべきは、ばいきんまんでなくてもそうだが、有利な立場にいる時のばいきんまんが嘘をつく可能性はほとんどない、ということだ。本当にこの乳頭がアンパンマンのなれの果てで、監視カメラで見つけて好機とばかりにパン工場を荒らしに来た。ばいきんまんの性格からして、それより面倒な計画を立てていたとは思えないのだし。


  (35)

 とんだことになったわい、とジャムおじさんはいつもの口調でつぶやきました。いつもの、というのは例の、他人事のような悠然迫らないのんびりした口ぶりということです。ここはどこなんでしょうか、とバタコさんがまるで答えを期待していない口調で訊きました。さあねえ、とジャムおじさん。こんなに真っ暗では、わしにもわからん。とすれば頼りになるのはめいけんチーズだけなのですが、後ろ手と両脚を縛られているだけのジャムおじさんとバタコさんと違って、チーズは全身をズタ袋に入れて縛られた上に顔面も厳重にふさがれているようで、嗅覚や聴覚どころか鳴き声すら封じられている様子でした。もちろん全身拘束ですからいつものミミック(身ぶり手ぶり)もできません。まるで八方ふさがりというものだな、とジャムおじさんはぼやきました。
 すると、突然壁がぱあっと照らされました。メスらしき犬が発情期に入ったらしく、性器を自分で舐める仕草が大写しになりました。この時期からメスは性器からフェロモンを発して周囲のオスに発情期を察知させるようになります、とテロップが重なりました。他のオスを興奮させない意味でも、不特定多数のイヌがいる場所に発情期に入ったメスを連れ出す事は控えましょう。次いでメスは性器が充血して出血(生理)が始まる時期に移行します。この期間はおおむね10日前後で、この時期にパートナーとなるオスと同居させる事で交配が行われるのです(何だこれは、とジャムおじさん、犬とその飼い主向けの性教育映画かね?)。
 映像は続きました。交尾の際は、他の多くのイヌ科の動物と同様に交尾結合が見られ、後背位で結合した後にオスがメスの尻をまたいで反対向きとなり、尻同士を向かい合わせた状態で長い時は30分以上交尾が継続します。交尾中はオスの陰茎は根元付近が特に大きく肥大してメスの膣から抜けなくなるため、射精が終了するまでは人の手でも引き離すことは難しいほどです。ブリーダーによる血統証明書の申請の際には、この交尾中の「尻を向かい合わせた姿勢」の写真を根拠として交配証明書を作成することが一般的となっています。
 映写の間、めいけんチーズはたいした反応を示しませんでした。発情期でなければこんなことは犬自身には無関心なことでした。ですが、映写が進むにつれジャムおじさんがバタコさんを見る目は明らかに欲情を秘めたものになっていきました。一触即発寸前です。


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 ふたりとも両脚と後ろ手を縛られたままで、ジャムおじさんがバタコさんを犯した手順。
 まずバタコや、私は尿意がこらえきれないよ、とジャムおじさんがバタコさんの背後にまわり、後ろ手のバタコさんにズボンの前を開けてもらう。早くも怒張していきり立つジャムおじさんの逸物。
 用をたしたいから後ろを向いていてくれんかね。はい、と素直に後ろを向いたバタコさんの作業ズボンに後ろ手をかけて一気に引きずり下ろし、その勢いで前傾姿勢になり床に手をついたバタコさんが動けないうちにすぐに向きなおり、歯でバタコさんのパンティを倒れこむように引き下ろす。
 バタコさんのお尻のわれ目から膨らんだヴィーナスの丘。むむむむむむっ、と(手で押さえられないので)顔面を左右に振り唾液をたっぷり塗りたくるジャムおじさん。ああっ、と吐息めく悲鳴をあげるバタコさん。ジャムおじさんの逸物の先端たっぷりのガマン汁。
 手を使えないので、逸物の怒張だけに成否を任せてバタコさんの尻に腰を押しつけるジャムおじさん。そうしないと倒れるので、床に手をついて結果的に立位後背位に最適なポーズで硬直しているバタコさん。
 少しずつ角度を修正しながら、ようやく小陰唇の内側に亀頭がぬめる感触をとらえたジャムおじさん、もといその逸物。うっ、と声にならない気合を入れて一気に腰ごとバタコさんのぬめる陰唇を突く。
 あッ、とバタコさんの吐息とともに、バタコさんの膣に深々と挿入されたジャムおじさんの逸物。あッ、あッ、あーッ、と突かれるごとに徐々にバタコさんも腰をくねらせ、バタコや、具合はどうだい?はい、大丈夫です。
 ではもっとやりやすい場所に移ろうか、とジャムおじさんは抜けないように注意しながらバタコさんと歩調をあわせて調理台の前に進み、これなら床に手をつかなくてもよかろう。バタコさんがはい、と答えると、ジャムおじさんはまた猛然とバタコさんの尻を突いて突いて突きまくりました。あッ、あッ、あーッとさらにバタコさんのあえぎ声が高まります。ううっ、バタコや、出していいかね?はい、ジャムおじさん。出すよバタコ、うっ、うっ、出た。
 バタコさんの膣内で痙攣しながら射精するジャムおじさんの逸物。
 はぁーっ、とジャムおじさんは勃起がほぼおさまり、べとべとになった逸物を引き抜きながら大きく息をつきました。バタコさんの陰唇からは腺液と精液の混じった液体が大腿をつたっていました。


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 全部お前の仕業だったんだな、本物のアンパンマンをどこへやった!?とカレーパンマンはいちるの期待を込めて詰問しましたが、さあねえ、これじゃないの?とばいきんまんは棒の先でカレーパンマンと一緒に縛られている巨大乳頭を突つきました。あン、と情けない悲鳴をあげる乳頭。とぼけるな、これのどこがアンパンマンなんだよ!?とカレーパンマンも食い下がりましたが、おれたちだってこんなことになっているからやって来たんだもんね、とばいきんまんはちら、と監視カメラの方を見ました。パン工場の中には、あらゆるところにばいきんまんの監視カメラが仕掛けてあるのは、仲間の誰もが知っています。私たちには隠すことなどないからね、かえってこちらの様子がつつぬけの方がばいきんまんの出方も予想ができるというものだ。というのがジャムおじさんの意見であり、ジャムおじさんがこうと決めたらもう、誰もそれには逆らえません。
 その頃別室では監視カメラが、せっせと後背位でバタコさんをいそいそ犯すジャムおじさんを録画しておりました。ほーらバタコや、こんないやらしい姿が隠しカメラで撮られているんだよ、と鼻息も荒いジャムおじさん、どうだい、恥ずかしいだろう?いやッ!……と期待通りの反応を返すバタコさん。こうした状況でいっそう興奮するのも、ジャムおじさんとバタコさんが露出症の性癖のある変態気味の性的嗜好を共有しているからであって、あながちばいきんまんが悪いとはいえません。ただしジャムおじさんたちから思わぬ変態性癖を発現させてしまったとはいえますが、こんな隠し撮りをしておきながら大して悪用もしないのがばいきんまんの悪の器量の小ささではありました。もっともジャムおじさんはこの世界では神聖にして不可侵な存在ともいえ、スキャンダル映像が出回ろうが本人に何の反省もなかろうが、誰ひとり心配しないことでした。
 ガレージでは、しょくぱんまんがまた車庫入れにしくじってケッ、っと悪態を吐き捨てていました。しょくぱんまんはひとりきりの時までエレガントではないのです。今朝の事態を考えるとパン工場に戻ってくるのは憂鬱でしたが、パン配達とパトロール中に何か好転しているかもしれません。カレーパンマンに見張りをさせて、ジャムおじさんがバタコさんを犯しているかもしれないな、としょくぱんまんは考え、くすりと笑いました。それも特に珍しくはない。ただしあの乳頭は別です。


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 つまりおれのカレーファイヤーを使ったらロープは焼き落とせるが、この乳頭がアンパンマンだというのなら大やけどをさせてしまうということか。もしおれがばいきんまんにだまされているならこの乳頭はアンパンマンではないということになるから、カレーファイヤーを使うのに遠慮はいらない、ただし自分にもダメージが大きいことを除けば。だからしょくぱんまんの帰り待ちなのだが、ジャムおじさんに化けていたばいきんまんの言っていた通り、これがアンパンマンの変態した姿ならうかつなことはできない。ちぇっ、おれは学校行かなかったからなあ。幼虫→サナギ→成虫、たしかこれが完全変態で、蝶々や蛾がそれだ。不完全変態は幼虫からサナギを経ずに成虫に変態するもので、セミとか甲虫がそうだった。変態せずに幼虫がそのまま成虫に成長するものもある。アンパンマンのこれ(アンパンマンだとするなら)はどうなるのか?いままでのアンパンマンは幼虫とすると、この姿はまさか成虫ではあるまいから、サナギに相当する状態なのだろうか?
 考えるほどに悩ましいばかりでした。部屋のドア付近では、ばいきんまんがフフフのフー、しょくぱんまんが戻ってきたらコレだもんね、とばかでかい光線銃を構えています。しょくぱんまんさまに何するつもりよ!とスコーン!と宙に水平線を描いてとび蹴りを食らわすドキンちゃん。いや違うのだ、とほうほうの体で、ばいきんまん。見た目はいつもと同じだが(そういやいつもそうだよな、とカレーパンマンも思いました)、こんどのやつはからだの動きを止めてしまうだけだからドキンちゃんが心配するようなことはないのだ。ホント?じゃあ私に貸してみてよ、とドキンちゃん。ひったくるようにばいきんまんから光線銃をうばい取ると、ちょっと待ってよドキンちゃん、と前のめりになったばいきんまんにドキンちゃんは光線銃を発射しました。ハヒ~、と全身を硬直させてばたん、と倒れるばいきんまん。
 けっこう面白いわねえ、それでこれ、どうやって元に戻すの?それは、とばいきんまんは息もたえだえに、自然に戻るまで待つしかないのだ。じゃあそれまでばいきんまんはどうするのよ。うむ、だからしょくぱんまんが来たら光線銃はドキンちゃんにお願いするしかないのだ。そんなの私イヤよ!とドキンちゃんはふくれっつらをすると、ドキンちゃん用のばいきんUFOに乗って飛びさってしまいました。
 気まずい沈黙。


  (39)

 ふう、とジャムおじさんは性交の後の充足感と倦怠感の入り混じった息をつき、後ろ手と脚を縛られていても何とかなるものだな、もっとも猿ぐつわまでされていたら下着を引き下ろせなかったな、とばいきんまんのはからいに感謝しないでもない気分でした。そうだバタコや、私のをきれいにしておくれ、とジャムおじさんはバタコさんをひざまづかせ、放出直後で敏感になっている逸物が舌技でなぶられる余韻のような快感を味わいました。バタコさんはひとしきりしゃぶりつくすと、口の中に陰毛が入って困っている様子でしたが、ジャムおじさんはヒゲが邪魔してキスは不得意なので、バタコや、私の服で口をぬぐって構わないよ、と申し出ました。どうせ作業着だからね。
 バタコさんの作業ズボンと下着を引き下ろすのは比較的簡単に勢い任せでしたが、逆に履かせるとなると両手両脚を縛られていては、バタコさん本人もジャムおじさんにも困難きわまりないことでした。それでもジャムおじさんは後ろ手でなんとかやってみようとしましたが、無理なものは無理とわかっただけです。普通こんな状況でまぐわってみせたことも大したものですが、普通はそんな気にならなそうなものですが、そこはジャムおじさんだけあってそのビッグ・ハートには限度というものがございませんでした。人の3大欲求は睡眠、食欲、そして正義だとずっとジャムおじさんは考えておりましたが、実は正義とは欲求ではなくて理念なのではないか、とすれば眠りや食事と並ぶものは何なのだろうか、とピシャピシャとバタコさんのお尻を責めているうちに(ジャムおじさんにとって性行為は背位以外に念頭にありませんでした)、そうだ、性欲もとい性感なしに人は人と言えるだろうか、とオナニー盛りの青少年のような結論にたどり着いたのです。それというのもジャムおじさんは第二次性徴期なしにいきなりジャムぼうやからジャムおじさんに不完全変態する種族だったからですが、この話は長くなるのでまた今度にします。
 バタコさんがいつの間にかもじもじし始めました。どうしたのかね?スースーします。そりゃそうだろう、ズボンも下着も大腿までずり落ちているんだから。ジャムおじさんはふと気づいて、欣喜雀躍しました。まさかおしっこを我慢しているんじゃないだろうね。……。ガマンは良くない、とジャムおじさんはこれから始まる光景に胸を踊らせました。縛られて開脚できないままの放尿!


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 ごめんなさいジャムおじさん、とバタコさんは申し訳なさそうに言いました、でもスースーするんです。そりゃそうだ、私が下着を脱がしてしまったからな、と思いながら、でも後ろ手で縛られていては改めて下着を履かせようもないので、バタコや、スースーするならガマンは泌尿器によくないよ、とジャムおじさんは愛想良くうながしました。後で床を拭けばいいんだから、そのまま出してしまいなさい。でもしゃがんで脚を開けないんです。まあなあ、縛られてしまっているからなあ。
 立ったまますればよい、とジャムおじさんは断言しました、膀胱を傷めるより少しばかり恥ずかしいことに耐えた方が良い。それに、とジャムおじさんは内心わくわくしていました、女が立ったまま脚を閉じて放尿すると、前後どちらに尿が吹き出るのか興味もある。
 少しじゃないです、とバタコさんは心許ないような声で訴えました、どうか堪忍してください。バタコさんは思わず口にしただけですが、この「堪忍して」がジャムおじさんの脳内興奮物質を一気に放出させました。堪忍だって!?何を堪忍するというんだね……!?バタコさんは無言ですが、明らかに息は荒くなり、腰から膝までがこらえた尿意でクネクネとしています。ええ?バタコや、何を堪忍してほしいというんだね?……ぉしっこ……。堪忍したいならするが良かろう。だがスースーしていたら遅かれ早かれだよ。いや、とバタコさんは喘ぎました。すかさずバタコ!とジャムおじさんの一喝。あああ、とバタコさんの全身の緊張が解け、聖水は前にも後ろにも飛ばずだらだらと大腿をつたって足元に水たまりになりました。
 その様子を見ているうちに、ジャムおじさんの逸物はもう一戦可能な怒脹を回復しましたので、バタコさんは再び作業台に押し倒され、今度は漏らしたばかりの聖水で下肢をびしょびしょにしながら肉壺の奥までジャムおじさんの放出を浴びたのです。それからジャムおじさんは当然のようにバタコさんにふたり分の潤滑液でぬるぬるの、まだ火照っている逸物を袋の裏まで舐め清めさせました。
 その頃カレーパンマンは冷静に、ばいきんまんたちはいつジャムおじさんたちと入れ替わったのだろう、と考えていました。それはアンパンマンがこの姿になってしまったのと切っても切り離せない因果関係があるはずです。昨夜のうち?では昨夜のアンパンマンには、何か変わったことはあっただろうか?
 第四章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2018年5月20日・21日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(3)

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 いつ頃から「ベティカーを知らないやつは西部劇を知らない」と言われるようになったかを思うと'80年代になってからでしたが、各種文化会館の古典・日本未紹介映画上映サークルが盛んになったのも同時期ながら、ベティカー作品は民生上映用16mm版もあまり出回っていなかったようでほとんど上映されない名のみ高まって幻のままの映画監督の筆頭みたいな監督でした。ニコラス・レイやサミュエル・フラーの配給権切れ作品が民生用16mmプリントでそれなりに観る機会があったのに較べてもベティカーの映画はなかなか観られなかったしビデオ化もされなかったので、「ラナウン・サイクル」からの代表作以外の作品も観られるようになったのは低コスト・プレスの可能なDVDソフトの普及以降で、それを言えば21世紀になるまでベティカーは40年あまり幻の映画監督のままだった、とも言えます。'80年代~'90年代にはレイやフラーですら主要作品をひと通り観るのに稀な上映会に注意して駆けつけて5年~10年かけないと観られない、という環境でしたが現在では40作あまりあるベティカー作品のうち主要な20作以上がDVD視聴できるようになりましたが、ベティカーのような'50年代西部劇を好んで観る人はごく一部の西部劇好きの映画趣味の人に限られてくるのではないか。現代映画では西部劇自体が大して人気もなければ製作数も少ないジャンルになっているのは日本映画で時代劇が衰退しているのと同様の現象で、西部劇なり時代劇なりを観て育った世代がすでに高齢化して後継世代が育たないとすればベティカーはおろかジョン・フォードって誰?となっていても仕方ないので、フォードを知らなければジョン・ウェインもどういう映画俳優かわからないように代表作がランドルフ・スコットの壮年作でもあるベティカー映画など興味・関心のカヤの外なのではないか。末期の三百人劇場(2006年閉館)でベティカー特集上映会があったとしても百人も客は入らず日本全国でもベティカー映画の観客は200人くらいしかいないのではないか、とも思えるので、ベティカーを知らないどころか西部劇自体に関心がない人が多くても今では当たり前なのかもしれません。そういう一抹の空しさはあるのですが、まだベティカーのあとにペキンパーという壮絶な人がいたとはいえベティカーはアメリカ西部劇の黄金時代末期に西部劇黄金時代の終わりとともに映画界から去っていった監督であり、それはペキンパーの映画の西部がもはやペンペン草とサボテンとタンブルウィードしか転がっていない荒涼とした西部であることでも痛感します。ベティカー映画は死臭漂うペキンパー映画(またはモンテ・ヘルマンの映画)の一歩手前の最後の西部劇なので、ペキンパーの陰気な『ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』'73や『ガルシアの首』'74をご存知の方ならベティカー西部劇の味はわかります。今回の'53年の2作はともに前年度作よりさらに陰気な作風に進んでいく佳作です。

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●5月20日(月)
『最後の酋長』Seminole (ユニヴァーサル'53.Mar.20)*87min, B/W, Standard : 日本公開昭和35年('60年)9月16日

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 '53年アメリカ本国公開のベティカー作品は5作ありますが2月公開の『海底の大金塊』(日本劇場未公開・テレビ放映)はロバート・ライアンとアンソニー・クイン主演、9月公開の『East of Sumatra』(日本劇場公開)はジェフ・チャンドラーとアンソニー・クイン主演でともに海洋SFアドベンチャーらしく、また筆者も未見の上に映像ソフト化もされていないので見送らざるを得ませんが、3月公開の本作『最後の酋長』、8月上旬公開の『平原の待伏せ』と下旬公開の『黄金の大地』は西部劇で幸いどれもDVD化されており、『East of Sumatra』がベティカーのユニヴァーサル最終作になりますから2作の海洋SFアドベンチャーはユニヴァーサルのアドベンチャー映画路線の企画があてがわれた節があります。それでもともにアンソニー・クイン出演、特に『海底の大金塊』はロバート・ライアン主演とあっては気になりますが、'53年に本作『最後の酋長』を含めて3作もアンソニー・クイン出演作を撮っているのも特筆すべきで、翌'54年にはベティカーはテレビ作品しか関わっていませんが'55年にはモーリーン・オハラとアンソニー・クイン主演の闘牛ロマンス『灼熱の勇者』が20世紀フォックスの大作として封切られるので、長らくインディアンの酋長役やメキシコ人の悪人役が役所だったアンソニー・クイン(1915-2001)は『革命児サパタ』'52で'53年度アカデミー賞助演男優賞、主演したイタリア映画『道』'54がアカデミー賞最優秀外国語映画賞を獲得する世界的ヒット作となっていたので、おそらくアカデミー賞助演男優賞受賞以前に出演契約数を結んでいたユニヴァーサルには'53年の集中的な3作は契約消化的な意味があり、『灼熱の勇者』は『道』の大ヒットを受けて本格的な主演作(クレジット上はモーリーン・オハラが先ですが、そこはギャラの差・スターの格あってのことでしょう)が企画されたと思われ、日本で最初に劇場公開されたベティカー(当時ボーティカーと表記)作品は昭和27年('52年)の『美女と闘牛士』'51、次に昭和32年('57年)の『灼熱の王者』'55で、最新作『七人の無頼漢』'56が『灼熱の勇者』より数か月遅れて公開され、ユニヴァーサル時代の西部劇作品はベティカーの新作西部劇の公開にあわせて昭和33年('58年)以降に5年以上遅れて公開されています。『美女と闘牛士』『灼熱の勇者』の2本までの公開では闘牛映画の監督で、『七人の無頼漢』でようやく西部劇監督の面が知られたので『反撃の銃弾』'57(昭和33年='58年)からやっとユニヴァーサル時代(といっても'52年~'53年の2年に9作、うち西部劇6作)のベティカー作品が半数ほどは日本公開されるも、新作も旧作も批評家受けも悪ければ観客にも受けなかったので、『七人の無頼漢』に始まる7連作「ラナウン・サイクル」は最初の2作『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』、最後の2作『決斗ウエストバウンド』'59、『決闘コマンチ砦』'60といった具合に中間3作は未公開に終わっています。新作旧作入り乱れての公開も印象の混乱を招いたのではないでしょうか。映画監督でも俳優でも年代を順序だてると成長や変遷がわかりやすいのに対して、本作などは実質的な映画界引退作品『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』'60(日本公開昭和35年='60年5月)よりあとに公開されています。前年度作『征服されざる西部』ではロバート・ライアンの義弟役の副主人公だったロック・ハドソンが今回は訳あってインディアンのセミノール族の酋長になっていた旧友のクインと再会するが、インディアンと白人側双方の立場で困難に直面した二人の運命は……となかなか面白い映画になりそうな設定で、西部劇はもともときちんと白人を侵略者、インディアンを誇り高い被害者に描いてきた伝統がありますが、これは西部劇では南北戦争の北軍(東部人)と南軍(南部人)の寓意だからでした。戦後型西部劇ではさらに複雑になっているのが本作にも反映していて、それぞれのアイディンティティが揺らぐような描かれ方をする。本作も製作年のサバを読んで日本公開されたようですが、日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) セミノール族インディアンと白人の抗争を描く西部劇。チャールズ・K・ペック・ジュニアの脚本を、「レッグス・ダイヤモンド」のバッド・ボーティカーが監督した。撮影と音楽は「黒い肖像」のラッセル・メティとジョセフ・ガーシェンソンがそれぞれ担当。出演は、「夜を楽しく」のロック・ハドソン、「黒い肖像」のアンソニー・クインのほか、バーバラ・ヘイル、リチャード・カールソンら。製作ハワード・クリスティ。
○あらすじ(同上) 1835年、士官学校を卒業したコールドウェル少尉(ロック・ハドソン)はフロリダのキング砦勤務を命じられた。彼はこの近くの出身で、セミノール族インディアンに詳しかった。合衆国政府は南部のインディアンを西部保護地に移す計画を立てた。が、セミノール族の酋長オシオラ(アンソニー・クイン)は頑強に反対し、砦の守備隊長ディーガン少佐(リチャード・カールソン)を困らせた。コールドウェル自ら説得役を買って出た。彼は交易所で幼馴染みのレビーア(バーバラ・ヘイル)と再会した。単身カヌーに乗ってコールドウェルは奥地のオシオラに会った。オシオラは昔の親友パウエルだった。2人は問題を平和に解決しようと誓った。頑迷な少佐は討伐隊を率いて集落に向かった。が、逆襲を受けコールドウェルはオシオラに捕まり、少佐はやっとのことで砦に逃げ帰った。少佐はレビーアを使者にオシオラに和睦を申し込んだ。彼はコールドウェルを伴って砦にやって来た。少佐はすきをみてオシオラを土牢に閉じこめ、コールドウェルを営倉に入れた。その夜、一族の青年ケジャック(ヒュー・オブライエン)はオシオラが白人と妥協したと誤解し、暴風雨をついて砦に忍び込んだ。オシオラを刺そうとしたが、コールドウェルが止めた。ケジャックは逃げ、オシオラは牢内で溺死した。砦の軍法会議でコールドウェルは反逆罪に問われた。銃殺刑執行の直前レビーアとケジャックの一隊が急襲した。真相が明らかになり、コールドウェルは無罪、ディーガンは逮捕された。ケジャックは平和を約し、コールドウェルとレビーアは結ばれた。
 ――本作も西部劇第1作『シマロン・キッド』同様ヒュー・オブライエンの犯行が発覚するのですが、どうも違う脚本家の『征服されざる西部』でもそうでしたが(あちらはレイモンド・バーが強烈な悪役でした)、映画冒頭1/3は快調な展開なのに中盤1/3でテーマが割れて焦点があいまいになり強引な方向に話が向かい、後半1/3はばたばたしすぎてとにかく形だけでも勧善懲悪に持っていくような脚本の無理や追究の浅さが難点になっています。『シマロン・キッド』や『征服されざる西部』の場合アンチ・ヒーロー型アウトローと化していくオーディ・マーフィやロバート・ライアンに収束していったため中盤の混乱や後半のばたばたはまあいいか、と思えますが、本作の場合真の主人公はセミノール族の酋長になっていたアメリカ軍人出身のクインなので、もと旧友だったハドソンとクインのたがいの立場の苦悶がどうなっていくか、というのが本作の最大の焦点なのに映画中盤1/3はクインが暗殺され、ハドソンに冤罪がかかるということになってしまう。映画冒頭が軍法会議にかけられるハドソンの姿から始まり中盤1/3の終わりでクインが暗殺されハドソンが冤罪逮捕される、と回帰するのですが、後半1/3はクインの死が駐留軍内部の陰謀かセミノール族内の抗争かがハドソンの独自捜査で二転三転し、結局軍内部の陰謀とセミノール族の内部抗争が偶然重なりあったタイミングでクインが暗殺される隙が生まれたのが明らかになります。いや、これを西部劇ミステリーとすれば謎解き映画に展開するのもいいのですが、だったら前半1/3で鮮明に打ち出され、中盤1/3で雲行きのあやしくなったハドソンとクインのアイディンティティの危機をめぐる人種問題劇はミステリー展開にするためクインを暗殺させてしまったことで霧消してしまったのに本作の物足りなさがあり、真の主人公たるクインが殺されてしまってからの後半1/3だってハドソンが謀叛を起こす展開もあり得たでしょうがハドソンはそういうキャラクターの俳優ではなく、平和共存を望む穏和な女性的な受動型キャラクターの俳優です。ハドソン自身は好演ですしもともとそういうキャラクターのタイプの俳優ですから、逆にハドソンが旧友クインの謀殺に激昂して軍に謀叛を起こしたらその方がミスキャストなのですが、だったら本作前半~中盤の2/3のハドソンとクインの対照劇は『折れた矢』'50のようなインディアン側に立った戦後西部劇の風潮を中途半端に取り入れただけに終わってはいないか。ハドソンとクインがともに名優でキャラクターに見あった好演で中盤までは進むためにますます本作の不徹底は惜しまれ、2月公開の前作の海洋SFアドベンチャー『海底の大金塊』は興行収入125万ドル、本作も140万ドルとユニヴァーサル社のB級予算映画としては『シマロン・キッド』(125万ドル)や『征服されざる西部』(150万ドル)と同等のヒット作だけに、観客もクインが中盤2/3で殺されてしまう展開には意外性があるとも、何でクイン殺しちゃうんだよと悔しがるのと両方の反応があったのではないでしょうか。娯楽映画のユニヴァーサル社はミステリー映画でも西部劇でもアドベンチャーでも怪奇映画でも結末は勧善懲悪ハッピーエンドなのがお約束なので、クインやハドソンの人物像を突き詰めてしまうと本作では両者とも破滅を免れない。そこでクインは中盤2/3までで殺され、ハドソンの無罪が証明される作劇にしたのがユニヴァーサル流なのでしょうが、本作はベティカー自身も本当はこうじゃないんだがなあと思っているのが透けて見えるような面があり、結末のあわやハドソン処刑か、という時に突如現れたセミノール族が矢を構えて処刑場を囲んで真相を明らかにする、という場面には後半ようやくベティカーの本音が表れたような手際が見られます。しかしヒロインにせっかくのバーバラ・ヘイルを得ていながら本作のヒロインは存在感皆無で、そんなところもベティカーらしい愛嬌を感じます。

●5月21日(火)
『平原の待伏せ』The Man from the Alamo (ユニヴァーサル'53.Aug.7)*79min, Technicolor, Standard : 日本公開昭和33年('58年)12月24日

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 本作はアメリカ・メキシコ戦争、いわゆる「アラモの戦い」に材を取った作品で、1836年2月23日~3月6日の13日間におよんだアラモ砦のアメリカ軍の全滅にいたる籠城戦が背景にあり、もっとも有名なのはジョン・ウェイン製作・監督・主演の『アラモ』'60でしょう。この戦闘はアラモの戦い100周年に映画化されてから今日まで幾多の映画化があり、本作はその中でも知名度の低い作品ながらベティカー作品らしい負け犬型主人公(負け犬になっていくのではなく、本作の場合は最初から負け犬呼ばわりされている)を冒頭から描いた点で注目され、撮影がダグラス・サークの『愛する時と死する時』'58のカメラマンなら主演は本作と同年にフリッツ・ラングの傑作『復讐は俺に任せろ』に主演したグレン・フォードと、もう悪かろうはずはない布陣で、日本公開昭和33年('58年)12月の本作のキネマ旬報の紹介が「『決斗ウエストバウンド』のバッド・ボーティカー」とあるのが当時慣習のボーティカー表記はともかく『決斗ウエストバウンド』がアメリカ本国公開は'59年4月なのに日本公開は昭和33年('58年)11月なのは『決斗ウエストバウンド』に関する謎ですが、『決斗ウエストバウンド』や本作が陸続と日本公開されたのに日本の映画批評家や観客には不評だったというのがベティカーには不運だったとしか言いようがなく、本作などは5年遅れの公開なのに製作年を'58年とサバを読んで公開されたらしいのもついていないなら(本作はスタンダード・サイズですが、アメリカ映画は'50年代半ばからベティカー作品も含めてシネマスコープ(ワイドスクリーン)が一般的になりましたから、'58年作品なのにスタンダード・サイズなのはB級映画のさらに下ではないかと見えたでしょう)、また当時の映画界は勢いがありましたから2~3年のズレでも「これは古い」という感覚があったと思えるので、5年前の旧作までサバを読んで新作と交互に公開されてシネマスコープだったりスタンダードだったりとまちまちなベティカー西部劇は何だか印象の定まらないように当時の日本の観客には見えたとも、作風自体が日本人の嗜好に合わなかったとも考えられます。戦前からの映画界のご意見番・双葉十三郎氏がベティカー西部劇は「"心"がない」と評して映画雑誌の読者も賛同したのは、日本では『駅馬車』より『荒野の決闘』の方が名作視され、また戦後西部劇のヒット作は『シェーン』や『真昼の決闘』だったので、日本の観客の好むような情感や主人公像とはベティカー西部劇はだいぶ異なるものだった、と思えます。ベティカーの西部劇は従来の西部劇世界の理想の終焉を告げるものであり、ベティカー引退後の'60年代にはかつての西部劇世界の崩壊後の西部劇の時代になる。いわゆるアメリカン・ニュー・シネマはそうした'60年代西部劇から始まったので後世の映画観客にとってものちのアメリカ映画からさかのぼると'60年代西部劇には抵抗なく観られるのですが、ベティカー西部劇は古い西部劇の残滓があって黄昏期の西部劇といっても旧時代の西部劇ではないか、しかも旧時代の西部劇基準で観るとグダグダなのではないか、とどこか狭間のところに位置する映画に見えてしまうのです。ところが現在ではベティカー映画は意外な現代的テーマを浮き彫りにしている面があって、アメリカ本国'53年8月7日公開の本作『平原の待伏せ』は次作で8月26日公開の『黄金の大地』と対になるメキシコ連作と言ってよく、『黄金の大地』は1911年のスペイン領時代からの独裁政権打倒革命中のメキシコが舞台ですが、メキシコというのは南米最北端の自然発生的な民族国家がスペインに占領されて植民地国家になっていた国で、南部テキサス移民のスペイン系アメリカ人がメキシコに乗りこんでメキシコの権力者と手を結びスペインから独立を果たした国でした。しかしメキシコ国内ではスペイン領時代からの独裁政権が続いたので、それを背景にしたのが1911年の独裁政権打倒革命中のメキシコが舞台の『黄金の大地』なら、先立つ本作『平原の待伏せ』の1836年のアメリカ・メキシコ戦争は過去にアメリカ南部軍がメキシコをアメリカ領にしようとした戦争で、結局メキシコのアメリカ領化はかないませんでしたがアメリカは当時未開の地だったカリフォルニアをメキシコから手に入れます。カリフォルニア州はもともとメキシコ領だったので植民したアメリカ人も混血率70%以上と人種差別が低いのもそうした由来からで、ただしメキシコへの出入りは観光としては人気ながら密入国や密輸は厳しく取り締まられている。現アメリカ合衆国大統領トランプの馬鹿げた「メキシコとの壁」政策もそうしたメキシコとの歴史的確執によるので、1836年が舞台の『平原の待伏せ』と1911年が舞台の『黄金の大地』ではアメリカとメキシコの関係は侵略・略奪者(1836年)から解放協力者(1911年)に変わっている。両作とも『シマロン・キッド』や『征服されざる西部』に続いてジュリー(ジュリア)・アダムスがヒロインで、アダムスといえば真っ先に上がる代表作はユニヴァーサル戦後怪奇映画の大ヒット作『大アマゾンの半魚人』'54ですが、ベティカーのユニヴァーサル契約は'52年~'53年とはいえ9作中西部劇6作以外に戦争映画1作、海洋SFアドベンチャー2作を撮っているのでユニヴァーサルに残留していたら『大アマゾンの半魚人』も直前のアダムスのヒロイン作を多く手がけたベティカーに振られた可能性は十分にある、と思うと面白い。本作も日本劇場公開作なので、初公開時のキネマ旬報の紹介を引きます。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 米墨戦争中に、アラモの砦にたてこもり、メキシコ軍を迎えうって全滅したアメリカ守備隊の史実をもとに、その砦から抜け出して卑怯者の汚名をきせられた男を主人公とする西部劇。ナイヴン・ブッシュとオリヴァー・クロフォードの原作を「決斗ウエストバウンド」のバッド・ボーティカー監督が映画化した。脚色はスティーヴ・フィッシャーと「黄金を追う男」のダニエル・D・ビューチャンプ。撮影監督は「愛する時と死する時」のラッセル・メティ。音楽はフランク・スキナー。近頃西部劇によく出演する「偽将軍」のグレン・フォード、「全艦発進せよ」のジュリア・アダムスが主演し、「ジャイアンツ」のチル・ウィルスズ、「アリババの復讐」のヒュー・オブライエン、ヴィクター・ジョリー、ネヴィル・ブランド、ジョン・デイ等が助演する。製作アーロン・ローゼンバーグ。
○あらすじ(同上) 1936年。メキシコ侵入軍に対して、少数の米軍がアラモの砦を死守していた。オックス・ボウの町がメキシコ軍の攻撃を受けようとしていることが知らされ、家族をそこに残している兵達は苦しんだ。そして、クジによってジョン・ストラウド(グレン・フォード)が、秘かに砦を脱して急を知らせに行くことになった。事情を知らぬ人々にとっては、彼は卑怯者に見えた。ストラウドが町についた時、既に妻子は殺され町は全滅していた。生存者のメキシコ少年カルロス(マルク・キャベル)から、虐殺の犯人はメキシコ人を装う白人だと聞いた彼は、フランクリンの町に向かった。逃れた老人や女子供はそこに集結していた。護衛のラーマ中尉(ヒュー・オブライエン)はストラウドを脱走者として牢にぶちこんだ。カルロス少年は新聞社社長ゲージ(チル・ウィルス)と金持のアンダーズ未亡人(マイラ・マーシュ)にあずけられた。ラマー中尉の妻ケート(ジーン・クーパー)と姉妹の、娘のベス(ジュリア・アダムス)は彼を可愛がってくれた。避難民の馬車隊は北方に旅立った。牢の中でストラウドはドーズ(ネヴィル・ブランド)という白人匪賊の仲間の1人を知り、妻子の仇を討つため彼に加担し、町を襲ってきた一味に助けられて親分のジェス(ヴィクター・ジョリー)を知った。一味は避難民の馬車隊を襲った。急を告げるためストラウドは仲間の1人とわざと喧嘩して発砲し、目的を達したが、自分も撃たれて傷を負った。その彼をベスとカルロス少年が助けた。はじめてストラウドは自分の脱走の理由を語り、本隊を救援に行くラマー中尉の後を引き受けて馬車隊護衛の任についた。そして老人や婦人にも銃をもたせて待機させ、機略をもって、襲ってくるジェス一味に対戦した。護衛隊の去ったことを知ったジェスは一味を二手に分けて街道と裏山から襲撃して来た。機転を利かしたストラウドは馬車で街道をふさぎ婦人達に銃をもたせ至近距離に入ったら発砲するよう云いつけ老人達を裏山の岩陰に配置させた。時機を見たストラウドの合図で勇敢な馬車隊の人々は一斉に火蓋を切った。意外の反撃にひるんだ匪賊達は浮き足立ったが憎しみをこめた銃弾は彼らを倒していった。驚く首領ジェスを追いつめ、ストラウドは宿敵を倒し、仇をとって汚名をそそいだ。援軍に加わるために出発する彼を、婚約したベスが見送った。
 ――いきなりアラモ砦の戦いを「1936年」と間違っていますが、本作の場合おそらく英語版プレスシートに「In the Year '36 of Nineteenth, ~」とあるのを19世紀(つまり1800年代)の36年ではなくNineteenthの'36年だから「1936年」と誤訳してしまったのでしょうが、これを配給会社もキネマ旬報編集部もおかしいと気づかず指摘されてもいないのかいまだにキネマ旬報の映画データベース・サイトにそのまま載っているのは問題で、'36年のアラモ砦映画が知られていなかったとしてもジョン・ウェインの大作『アラモ』'60のあとでは歴史的なアラモ砦の籠城戦は日本のアメリカ映画観客にもはっきり印象づけられたでしょう。本作のグレン・フォードは籠城戦の全滅がほぼ決定的になった局面でアラモ戦の敗北を市民に知らせ避難させるためにくじ引きで戦線を離脱して避難勧告の使命を受けた兵卒なのですが、すでに国境近辺のアメリカ・メキシコ人混淆の町は全滅して主人公の妻子も殺されており、しかもメキシコ側についてメキシコ人を装った白人組織の仕業なのが助けた生き残りのメキシコ人の少年カルロスから知らされる。主人公はまだ戦火のおよんでいないフランクリン市に着いて危機を知らせますが、市民はとまどい、市の護衛軍の隊長(またもやヒュー・オブライエン)は主人公をデマを流すアラモ戦線からの脱走兵と見なします。主人公は逮捕されカルロスは町の新聞社社長役のチル・ウィルスが後見人となって裕福な未亡人とその娘のジュリー・アダムスに可愛いがられますが、カルロスは主人公を第二の父のように慕っており主人公の主張の証人でもあるので、未亡人やアダムス、アダムスの姉で護衛軍隊長の妻、新聞社社長はカルロスを通して主人公を信用するようになる。牢に入れられ押送される主人公は戦争に乗じた白人組織の一員と知り合い仲間になるふりをして組織からの町への襲撃に乗じて組織に加わり、その襲撃によってようやく護衛軍は町への脅威に気づき市民を避難させるのですが、市民を避難させる馬車隊を急襲しようとする組織に護衛軍の注意を向けるため主人公はわざと組織内で内紛を起こし、馬車隊の危機を救って脱出してくる。護衛軍や市民たちはようやく主人公を信用するようになりますが、その時別の急襲された町へと護衛軍に急遽呼び出しがかかる。躊躇する護衛軍に主人公は行かなきゃまた全滅する町が出る、自分の妻子の住む町が全滅したようにとうながし、護衛軍を出発させ避難民の馬車隊の自衛軍の指揮を執る、と鮮やかに物語は展開し、負け犬から始まった主人公が汚名をそそぎ危機的状況の救世主となるまでを珍しく首尾一貫して描いており、『シマロン・キッド』や『征服されざる西部』『最後の酋長』で中盤から後半にかけて前半の設定がどうもあらぬところに行ってしまっていた脚本上の無理がないのが本作を筋の通った作品にしており、その代わりエモーションの濃度では『征服されざる西部』や『最後の酋長』より主人公への抑圧がストーリーによって解消されている分きれいに流されてしまった観もあります。妻子を虐殺された男の執念の復讐譚という構図ではフィルム・ノワールと西部劇の違いこそあれ『復讐は俺に任せろ』と本作のグレン・フォードは同じ境遇の主人公で、本作も主人公は妻子の復讐を果たすのですが、新たな恋人アダムスが早くも現れて行動原理は市民全員の避難・救出に拡大されているので、虐殺された妻子の復讐は付け足しになってしまっている。緊張感の持続、躍動感と緩急に富んだ映像、特にクライマックスの見事な構図の連続とユニヴァーサル時代の6作の西部劇中でも完成度は随一の作品なだけに、主人公の怨恨の掘り下げが足りないのだけは本作の不足点になっている。もっともそれを入れると映画が渋滞するのであえて軽く流したとも思えますが、犯罪マフィア映画の『復讐は俺に任せろ』よりも話の規模が戦争西部劇と大きい分だけ主人公の行動原理を私怨に限定できなかったと思えば、闊達かつなめらかな本作の仕上がりにそこまで求めるのは欲張りすぎかもしれません。
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