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集成版『夜ノアンパンマン』第五章

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 第五章。
 困ったことになったなあ、としょくぱんまんは改造カーナビ画面とにらめっこしながら思いました。その時しょくぱんまんの表情はいわゆる渋面を浮かべておりました。さてこの「渋面」ですが、木々高太郎という小説家が70歳の晩年(昭和42年)に刊行した処女詩集の題名でもありまして、その『序詩』にこうあります。「渋い奴とか、渋い面とかいう日本語はあったが、/渋面という日本語はなかった。//凡そ一九二〇年代に、詩人三富朽葉が、/友達と同人雑誌をつくった時に/フランス語のGRIMMACEを日本語にしようとして、/渋面という言葉をつくったのだ。//同人雑誌はおきまりの三号雑誌で終ったが、/「渋面」という言葉は、あとの若い詩人達の胸のうちに反響しつづけて、/今も、僕の胸に鳴っている。」
 詩はその後、「この詩集を『渋面』とつけたのは、そのためだが、/さてこの詩集を英訳するとしたら、何と訳そうか。/いまさらグリムマースとも言えまいというなら、/僕は、詩集 THE SOPHISTICATED としたいのだ。」と続きます。ギリシャ語本来の真剣な詭弁という意味はもうない、ちょっと気どりやがって、とからかえば女性なら怒るだろうし、男なら渋面になるだろう。だから最初の詩集に渋面とつけたのだ、と、なかなか機知の効いた詩です。そこでしょくぱんまんですが、かれの渋面はまさしくソフィスティケイテッドな渋面でした。アメリカの結婚式ソングNo.1はデューク・エリントンの、歌詞を気にせずインスト曲として演奏されれば甘美きわまりない『Sophisticated Lady』という皮肉な実話がありますが、すれた奴やこすい奴はいつの時代の、どんな社会にも一定の比率でおり、それなりに人の世の支えの一部になっているのでした。
 ですから、しょくぱんまんは改造カーナビでばいきんまんがしかけたパン工場の監視カメラの電波を傍受して、パン工場の仲間の中で自分だけトースター山ふもとの食パン専門工場に住んでいる孤立感を紛らわせていました、または情報弱者にならないように心がけていました、というと聞こえはいいですが、自分のいない間の方が当然多いジャムおじさんのパン工場には、しょくぱんまんはちょっとした疎外感を味わわずにはいられなかったのです。
 ですが今やしょくぱんまんが傍受すべきでないことを見てしまったのは明白でした。後悔先に立たず、です。


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 カレーパンマンは考えれば考えるほど、状況を整理して把握することが困難になってきましたが、ふとひらめいて慌てて打ち消したのが、ジャムおじさんとばいきんまんが実は裏で手を結んでいるという可能性でした。
 まさかそれはないだろう、とカレーパンマンは疑惑を追いやりましたが、最悪の可能性の有無は意識的に打ち消そうと決定的に気分を左右してしまうので、たぶんおれと同じ立場で去就を問い詰められているのは他にはしょくぱんまんだけ、ということだな、とカレーパンマンは普段はあまり感じない、アンパンマンが間にいてこそ成り立っていた3人組でしたからそれまで直接的には希薄だった同志的感情が、やにわにしょくぱんまんに湧いてくるのを感じました。それは同じ困難に直面したものどうしの仲間意識でもあり、カレーパンマンはすでに拘束監禁され、しょくぱんまんはパン工場の惨状を知らされずに外回りに出されている、という時間差で降りかかる罠ゆえでした。
 でもぼくはパン工場が今どんなことになってしまったか知っているわけだし、としょくぱんまんは、改造カーナビをモニターにばいきんまんの監視カメラ映像を傍受しながら、カレーパンマンへの盟友感や共闘意識は少しもない、高みの見物の立場にいました。いっそこのままトースター山のふもとの食パン工場を本拠に、ジャムおじさんのパン工場のメンバーからは独立したっていいのです。カレーパンマンと違うのはそれだけではなく、しょくぱんまんはアンパンマンの部屋のあの乳頭がアンパンマンのなれの果てであってもおかしくない、と柔軟に事態を受けとめていました。
 もし一連の騒動がすべてばいきんまんの仕業だとすると、ばいきんまんなりに一貫した手口と目的があってしかるべきだというのが犯罪心理学的な視点からの分析になりますが、仮にアンパンマン本人をあのような姿に変えるか、またはデコイだとしても、乳頭である必然性がまったくない。さらにジャムおじさんたちに入れ替わってしょくぱんまんとカレーパンマンをだまし、しょくぱんまんを外回りに出しカレーパンマンを乳頭に緊縛拘束する。本物のジャムおじさんたちは別室に監禁されている。
 ばいきんまんとしては手際が良すぎる上に、あまりに何をしたいか首尾一貫を欠いている。現にばいきんまんは監視カメラの電波をぼくが傍受していることを知っている。そしてジャムおじさんだけがいい思いをしているのだ。


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 ジャムおじさんだけがバタコさんを相手にいい思いをしているとしたら(今ジャムおじさんはバタコさんの漏らした水たまりに顔を寄せたりぴちゃぴちゃしたりして遊んでいるところでした)、いちばんひどいめにあっているのは言うまでもなく得体の知れない乳頭でした。これが一夜のうちにアンパンマンが変態した姿だという可能性を率直に受け入れているのはばいきんまんだけで(ドキンちゃんもいまーす)、パン工場の仲間たちはそうあってほしくないという理由からこの乳頭がアンパンマンのなれの果てとは認めたくないのです。
 それは一種の都合のようなものであって、仮にジャムおじさんが臨終の床に臥せるようなことになってもパン工場の仲間たちは乳頭は臨終の床には呼ばず、葬儀に参列させることもないでしょう。理由は簡単、単純明快で、乳頭が身内なんてみっともないからです。いわゆる親の死に目にも呼ばれない、というやつで、乳頭自身には責任はないことですが、世間体では身内に乳頭がいるなどというのは真人間のファミリーとは思われず、国勢調査の時期になろうものならしばらくは裏山のほこらの中にでも隠しておくしかありません。
 さもなければペットと言い張る、という手もあります。ペットとしては家畜並みの大きな体躯を誇るから、家畜というほうがいいかもしれない。しかし家畜は資産に数えられますが、川島なお美や壇蜜の乳頭ならともかく、ただでかいだけで出自の知れない乳頭にどんな資産価値があるというのでしょう。昔なら見世物小屋という商売がありました。現代なら?案外、巨大な乳頭に押し潰されたい、という性癖のフェティシストを顧客に会員制の秘密クラブの営業も成り立つかもしれませんが、風俗店だって表向きには飲食店やマッサージ店、特殊浴場として届け出を出してきちんと納税しなければならないわけです。
 古いタイプのSMクラブのように定期的に開催されるイヴェントの鑑賞会、というブルーフィルム上映会のライヴ実演版の催しをアマチュア写真の同好会名目で行う場合も未だにあって、こうして検討していくとこの乳頭の末路はもっともアンダーグラウンドなSMモデルあたりに落ち着く以外は、おおよそ役に立たないことがはっきりします。
 おまえは本当にアンパンマンなのか?とロープで乳頭に縛りつけられたカレーパンマンはくり返し問い詰めました。しかし返答は、まるで要領を得ないうなり声だけなのです。


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 いや、仮にあの乳頭が大きさに見合っただけの乳汁を出したとしたら、牧畜的な価値があるかもしれないぞ、としょくぱんまんは思いました。得体の知れない生き物の乳など自分たちで飲むのは願い下げだが、出所をごまかして加工乳にして売ればいい。通常乳腺は乳房に広がっているのだが、これだけ巨大な乳頭なのなら乳腺の末端部分だけでも人なら何十人、牛なら数頭分に値する乳腺くらいは組織の中に含んでいるだろう。せっかく縛りつけられているんだから、搾ってみればいいのになカレーパンマンのぼけなす、としょくぱんまんは思いましたが、立場が逆だったらしょくぱんまんだってそんなことは断固として拒絶したでしょう。ぼくのまっ白な顔や服装を変なミルクでよごすのは嫌です。ミルクだって食パンだって大して変わらないじゃないか、とカレーパンマンは言うでしょう、おれから見れば食パンよりミルクの方がよっぽど白く見えるぜ。
 それは偏光因子の相違によるものです、としょくぱんまんは答えました。しかしいろんなパンを作るにはミルクだって必要にもなるからねえ、と困り顔のジャムおじさん。粉末ミルクを使えばいいじゃないですか、あれならこぼれないし、保存もききますし。アンパンマンもそう思うだろ?突然自分に話が振られたので今夜のおかずは何にしよう、とグラビアアイドルに思いをめぐらしていたアンパンマンはついヘアヌード?と疑問を口にしてしまいそうでしたが、なぜヘアヌードを連想したのか自己分析してみると直前の「こぼれないし、保存もきく」というしょくぱんまんの言葉になぜか「ヘアヌード?」と思いついたのだ、と気づいて軽い衝撃を受けました。なぜならアンパンマンはこれまでいちどもヘアヌードをありがたく思ったことがなかったからです。なるほどね、としょくぱんまんは言いました、きみにとって白さの問題は(とやたらと白さにこだわるしょくぱんまんにも問題がありますが)アンダーヘアの有る無しと同程度でしかないんだね?
 しょくぱんまんさまが正しいわ、とドキンちゃんが言いました。あそこの毛なんて生えていてもいなくてもどうでもいいのよ。はいはい、とばいきんまんは、しょくぱんまんがパン工場に帰ってこないと次の作戦に移れないのに気づき、しょくぱんまんからの監視カメラ傍受を遮断しました。これでしぶしぶしょくぱんまんも、パン工場の様子を確かめに帰らないわけにはいかなくなるはずです。


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 そういうわけでしょくぱんまんは傍受していた監視カメラ映像が突然観られなくなってしまったので、ある程度まではパン工場の騒動を知ってしまったにしろだからといってのうのうとエスケイプするわけにもいかず、とにかく知らぬ存ぜぬで帰った方がいいか、とまるでやる気なしに帰り道につきました。雨の降る道だからといって気にせずぶっとばすのがしょくぱんまんさまたるところです。すると道を横切ろうとしていた女の子を轢きそうになり、しょくぱんまんは慌てて車を停めました。もしぶつかって死なせていたら遺体を隠滅しなければならないからですが、幸か不幸か女の子は腰を抜かしただけの様子でした。大丈夫かい、としょくぱんまんはおれに惚れたら危ないぜ的な口調で尋ねました。はい、と女の子はフルーツの香りを漂わせながら返答しました。女の子が手に下げていたバスケットが道のはしに転がって、まわりに散らばっているのはイチゴのようでした。こんな雨の朝にイチゴ狩りをしなくてもいいだろう、と思いながら、しょくぱんまんは女の子に名前を尋ねました。私、いちごミルクちゃんといいます、と女の子は答えました。
 しょくぱんまんは嫌な予感がしましたが、とにかくパン工場でからだを乾かすといいよ、といちごミルクちゃんをうながしました。ちょっと待ってください、すぐですから、と彼女が散らばったイチゴを集めるので、しょくぱんまんも傘をさしかけて協力しないわけにはいきませんでした。いちごミルクちゃんを乗りこませると、しょくぱんまんは昔読んだ『拳銃を持つヴィーナス』という冒険ハードボイルド小説を思い出しました。主人公が「パイロットが乗せない物が二つある。猿とイチゴだ。理由は臭いからだ、まるで」と言いかけて、「娼婦のように、という言葉は彼女の職業を思い出して差し控えた」というくだりでした。
 しょくぱんまん号はパン工場に着き、しょくぱんまんは今日も車庫入れでガレージのあちこちにガンガンぶつけながら、案外この子を連れて来て、当面の問題がうやむやになるかもしれないぞ、と思いました。かれ自身がいちごミルクちゃんが現れたので、パン工場のことから気が逸れていました。
 ちょっと私にやらせてもらえませんか、といちごミルクちゃんはしょくぱんまんと席を替わりました。いちごミルクちゃんはたくみな運転で一発できれいに車庫入れを決めました。では行きましょう、と彼女は言いました。


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 カレーパンマンはアンパンマンの行方に関するばいきんまんとのやりとりを思い出していました。アンパンマンをどこへやった?さあねえ、これじゃないの?と巨大乳頭を棒でつつくばいきんまん。あン、と情けない声(?)をあげる乳頭。これのどこがアンパンマンなんだ?おれたちだってこうなっているから来てみたんだもんね、と監視カメラをチラッと見るばいきんまん。そうか、とようやくカレーパンマンは冷静に考え直しました。監視カメラが24時間パン工場の様子をとらえつづけているのなら、ばいきんまんは何か知っているに違いないんだ。少なくとも、いつまでアンパンマンが夜のうちこの部屋にいて、いつからこんな乳頭がこの部屋に転がっていたのかを、ばいきんまんの監視カメラは映していたに違いない。
 だったらばいきんまんを締め上げればいいんだが、とカレーパンマンは思いました、もっと手っ取り早いのはしょくぱんまんが知っているかもしれない。あいつが監視カメラの電波を傍受してトースター山の自宅や自家用トラックで盗み見していることは、本人以外バレているとは気づいていない。おれたちだって仲間うちで野暮は言いたくないのだが、今回ばかりは事態が事態だ。現に朝の食パン配達とパトロールに出かけたにしては帰りが遅い気がする。もしおれとしょくぱんまんの立場が逆で、しょくぱんまんが今のおれみたいにわけのわからない拘束をされていると知ったらパン工場に戻るのは気が重いだろう。できれば事態が解決してからすいませーん、遅くなりました、と知らないふりをして戻りたいから、結局いつまでもあっちこっち寄り道しては途方に暮れることになる。そう思い、カレーパンマンもしょくぱんまんの逃げ腰に少しは同情する気分でした。
 その頃しょくぱんまんはパン工場の車庫でいちごミルクちゃんとカーセックスに励んでいました。どうせ工場のみんなが拘束されているわけだし、ばいきんまんたちも帰ってしまって、車庫はパン工場で唯一監視カメラの死角ができるのです。ついさきほどジャムおじさんとバタコさんの一部始終を監視カメラで観ていたしょくぱんまんとしては、いちごミルクちゃんは飛んで火に入る夏の虫でした。これをドキンちゃんが見てしまった場合しょくぱんまんに怒るのか、いちごミルクちゃんを憎むのか、その両方か、女心は複雑です。
 アンパンマンが乳頭になって初めての朝は、そういうさんざんな朝でした。


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 いや、一応ここでは一夜のうちにアンパンマンが乳頭に変わってしまった、という前提で話を進めているわけですが、パン工場の誰もがそれを確認し、確信できたわけではないのです。あるのはアンパンマンの寝室に、今朝はアンパンマンの姿はなく、巨大な乳頭がベッドから転がり落ちたような位置の床に転がっていた、ということだけでした。これは物的証拠をなさないのはもちろん、状況証拠にすらなるとは言えません。ひょっとしたら事態はアンパンマンの自作自演、つまり正義の味方であることに疲れたアンパンマン本人が自分の身替わりに乳頭を置いてどこかへ逃亡しただけなのかもしれません。パン工場の人たちにはそう疑うだけの資格がありました。ともに世界の平和と幸福を支える仲間たちでもありますし、その上アンパンマンだけには特殊な規則が定められていました。パン工場の他の人たちには許されているのですが、アンパンマンだけには許されていないこと。それは一切の飲食の禁止です。
 パン工場の人たちは食糧供給を通して平和と幸福を維持する活動を行っているわけです。これは一種の福祉理論であり、例えばリベタリアニズムの立場からは、行きすぎた社会主義として社会と個人の能力の発達を阻害するもの、と糾弾されかねないほど危険でラジカルなものでした。餓えのない社会の実現がもし達成されると、資本主義社会の競争原理そのものが崩壊する、というわけです。しかしパン工場の人たちのモットーは「餓えている人びとにパンを配って何が悪い」と単純明快なものでしたので、考え通りの福祉活動を行っていたのです。「そんなパンなどカビさせてやる!」というのがばいきんまんの存在ですが、古いパンにはカビが生えるのも自然の摂理であり、ぼくらはみんな生きている、生きているからカビるんだ、ならば、ばいきんまんとは戦いこそすれ共棲もしていかなければなりません。
 そしてパン工場の人たちも他人のためだけでなく自分のための食事をきちんととっていました。ですがアンパンマンだけは、餓えている人たちに食べ物や飲み物を与えても、自分自身は決して飲食しない定めだったのです。
 それはアンパンマンが自分を最後の一片まで他人のための食糧そのものとしていた信念のためで、その代わりパン工場の人たちには普通の食生活が許されていました。アンパンマンの身はパンで、血液は餡でした。もっともこれは象徴的な意味になりますが。


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 ドキンちゃんに取り残されたばいきんまんはまだ蹴り飛ばされた衝撃でクラクラしていましたが、大丈夫ですかホラー?とかがみ込んできたホラーマンの延髄を手刀でタン!と叩くと、ぺたりと座り込んだホラーマンのからっぽの両眼窩から壁に向かって監視カメラ映像が映写されました。しかも両目から映写しているから3D映像なのだ、とばいきんまんは誰ともなしに解説すると、リモコン操作でパン工場、トースター山、しょくぱんまん号とそなえつけてある各所の監視カメラ映像をひと通りチェックしました。ばいきんまんの監視カメラは人工知能(AI)を搭載しており、監視カメラごとに設置された範囲から情報として有用なものを選択して対象を追うのです。ばいきんまんの使用しているAIは従来型の、形式化と統計分析を基礎とした良識的保守型(GOFAI)人工知能でした。AIにはGOFAIの他に、計算知能型(CI)と呼ばれるものもあります。それはパンダにはジャイアントパンダとレッサーパンダがいるようなものであり、トイレ便器に洋式と和式があるようなものであり、毛沢東が蒋介石を政敵としていたようなものであり、漂白剤には酸性とアルカリ性があるようなものであり、イギリス由来の和風カレーがシチューをベースにしたようなものであり、一見似てはいてもすき焼きとしゃぶしゃぶでは大違いのようなものです。
 監視カメラ映像は客観的証拠とされてまず疑われませんが、ばいきんまんの監視カメラのようにデータの選択と編集まで行える狡知な機械の場合、操作次第で事実の偽造をなすのはいともたやすいことです。人が認識する現実は多くの場合その人にとって望ましい現実でしかありませんし、ばいきんまんは人ですらなく端的に擬人化された現象の総合体のようなものでしたけれど、現実に関わってそれを左右する能力は持ちあわせていました。その発明の才を基準とすれば現代文明は石器時代程度でしかないような超越した科学・化学者でありながら、誰からも必要とされていない点にばいきんまんの不運は凝縮されていました。
 ともあればいきんまんはホラーマンに仕込んだ映写モニターで(1)ジャムおじさんとバタコさんのわいせつ行為、(2)縛りつけておいたカレーパンマンの奮闘、(3)カーセックス中のしょくぱんまん、と順々に確認し、結局大して状況に変化がないのに安心もし、ならばこの先どうするものやら、困惑もしたのです。


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 しょくぱんまんがするセックスはすべてジャムおじさんのまねごとでした。それはしょくぱんまんがセックスについて傍受した監視カメラで盗み見したジャムおじさんのセックスしか知識がなかったからです。それほどこの世界には性知識というものが普及していなかったため、セックスは一部の特権的な住民のなかで極秘情報として高価で伝授されているものになっていました。にもかかわらず目立った人口減少が見られないのは、この世界ではセックスによらない妊娠や出産はごく普通のことでしたし、住民たちはほとんど不死に近い存在だったからです。さらに労働とはほとんど趣味のためにあるのにすぎず、銀行残高は無茶な浪費でもしないかぎり自動的に一定額に補充されていました。そもそも貨幣経済そのものがこの世界では貨幣というものがある世界のまねごとでしかありませんでした。これらの条件を持ってこの世界はユートピアと言えるのでしょうか?それともユートピアがあるとしたらこうした世界のことを指すのでしょうか?しかしユートピアの定義とは帰納的なものなのか、それとも演繹的なものなのかを誰が決められるのでしょうか?
 ですが今はそんなことはさておいて、しょくぱんまんがセックスに満足したかです。しょくぱんまんはカーセックスで背面騎乗位に挑むというきゅうくつな行為をいちごミルクちゃんに強要していましたが、しょくぱんまんの名誉のために念のためにおことわりしておくとカーセックス自体はしょくぱんまんが強要したものではありませんでした。パン工場に戻るのがおっくうで、なにしろパン工場では(1)ジャムおじさんとバタコさんが縛られたままセックスをしている、(2)カレーパンマンが人間大(?)の乳頭に縛られて悶々としている、(3)さっきまでジャムおじさんとバタコさんに変装していたばいきんまんとドキンちゃんが何か企んでいる、と本来なら正義の味方が正さねばならないことが待ちうけているからです。しょくぱんまんに落とされない女子は世界には既婚女性しかいませんし、既婚女性ですらしょくぱんまんが本気で攻めればいちころでしたから、いちごミルクちゃんが餌食になったのも不可抗力のようなものでした。いやー、処女だったかなとしょくぱんまんは体位を変える時に赤く染まった部位を見て思いましたが、いや、相手はイチゴだぞ、と思い直しました。いやはや、ひどい男です、しょくぱんまんさまったら(パンですが)。


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 そろそろこの膠着状態、すなわち(1)納屋に閉じこめられたジャムおじさんとバタコさんのわいせつ行為、(2)アンパンマンの部屋で縛りつけておいたカレーパンマンの奮闘、(3)ガレージでカーセックス中のしょくぱんまん、(4)ドキンちゃんも帰ってしまい、いまだドキンちゃんの蹴りと光線銃ショックで体がびりびりしているばいきんまん、という現状はパン工場内のエントロピーを著しく増大させていました。もしパン工場が完全に密閉された空間なら、上記4項目の状態は熱力学の第一法則、すなわちエネルギー保存によって加熱し続けることも考えられましたし、第二法則、すなわちエントロピーの概念によるエネルギーの減少によって徐々に沈静化していくものとも思えました。
 しかし全体的に見れば、事情はともかくこれは人も羨む乱交パーティの様相を現しており、(4)でのばいきんまん以外の誰もがパン工場では今とんでもないことになっている、と推測し、興奮をつのらせらながら行為に励んでいたのです。おそらく負のグループに属していたのは(2)縛りつけられたカレーパンマンと(4)びりびりしているばいきんまんの二組(というのは、カレーパンマンは乳頭、ばいきんまんにはホラーマンという相方がいましたから)で、その場合(1)ジャムおじさんたちとバタコさん、(3)しょくぱんまんといちごミルクちゃんは正のグループになりますが、水は低きに流れると言われるようにエネルギーは通常高い方から低い方に流れるのでその方向は(1)(3)グループから(2)(4)グループへとなり、これはポテンシャルの高低差があればあるほど効率が良いと言え、解説するほど事情は面倒なので一気に飛ばしますが、早い話パン工場という閉鎖系の中では一種のエネルギー循環が起こっていました。それはもし無理に節穴を空けようとしたら外世界を呑み込む逆転現象を起こしかねず、その逆転現象は世界のすべてをパン工場の内部とし、世界はパン工場の中のほんの一部に縮小しかねないほど危険極まりないものだったでしょう。
 かつてはその中心にアンパンマンがいました。アンパンマンがいてこそ保たれていた秩序ならば、アンパンマンが不在である今、どうにかなってしまいそうなのは当然です。ですが今、他でもなくアンパンマンの不在を望んでいるのは、巨大な乳頭をアンパンマンと認めたくないパン工場の人たちでもあったのです。
 第五章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

集成版『夜ノアンパンマン』第六章

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 第六章。
 アンパンマンはベッドからそのまま床に転げ落ちたのではなく、足の足の方を下にして滑り落ちるように転がったので、ベッドの縁に支えられて斜めに転げ落ちたのでした。どうやらこの感触は、さっきまで考えていたようなスマキのような状態ではないと一瞬で気づき、さらにアンパンマンは部屋の壁かけ鏡に倒れる自分が映った瞬間を見逃しませんでした。茫然としたアンパンマンは自分でも納得のいく弾力に富んだ倒れ方に、今、鏡で見た通りの自分の姿を認めざるをえませんでした。
 ぼくは、とアンパンマンは思いました、一晩寝て起きると何だかわからないものになってしまった。手足も頭もないずんぐりした筒のような肉のかたまりだ。力をこめると少し伸縮できるが……アンパンマンは試してみました、駄目みたいだ、匍匐前進できる作りにはなっていない。以前顔面だった箇所に視聴覚の感覚器はあるが、たぶん外見は見分けがつかないようになっている。今ぼくは横向きに寝ているが、それも外見は前も後ろも横もないだろう。倒れた時の感触からすると、頭の方と足の方ではほとんど太さに違いはない。
 あー。とりあえず声は出る(どう響いているのかは分からないが)。呼吸をしている感覚はあるが、どこで呼吸しているのかはわからない。もともとアンパンマンは呼吸などしなくても大丈夫で、たとえばばいきんまんの真空パック攻撃にも耐えられたから、今は呼吸していないのかもしれない。声を出す時だけは息を吸って吐いている。どこから?
 口、正確には喉だろう。でも喉は外からは見えない。もしぼくが三角錐か、さもなければ円錐形だったらまだしも天地がわかるのに、とアンパンマンは思いましたが、実はアンパンマンはずんぐりした筒状でこそあれ一応は紡錘形だったので、それでなければパン工場の人たちの「何だこの乳頭は」という認識もなかったでしょう。ほどなくアンパンマンも他人から見た自分は乳頭の姿である、と知ることになりますが、知るまでの困惑は素直なアンパンマンの感受性には相当なストレスを与えました。
 その頃しょくぱんまんは朝のミーティングにしょくぱんまん号でパン工場にやってくる途中でした。遅れたな、ちょっとショートカットコースを通ろう、と藪の中を走っていると、きゃっ、と女の子が飛び退きました。大丈夫かい?きみは?大丈夫です、と女の子は言いました、私はいちごミルクちゃんといいます。
 続く。


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 ばいきんまんはばいきん城の作戦会議室、または居間とも食事室とも言えますが、とにかく部屋の壁一面に広がるモニターの前であまりの事態に唸っていました。何にしろ、これからパン工場に乗り込まなければならんぞ、とばいきんまんは身構えましたが、具体的な作戦は浮かびません。手近にいるのはホラーマンだが、こいつは攻守ともにさっぱり当てにならん。だいたいどちらの味方かもはっきりしない。困っている側の方と一緒に困るのがホラーマンの流儀でした。そして、一緒に困ってくれるからといって何かの役にたつわけでもなく、ホラーマンの分までお荷物が増えるというだけのことなのです。ホラーマンが何を考えて生きているのか、ばいきんまんはときどき考えることがありました。その都度たどり着く結論は、考えるだけ無駄、ということです。
 ホラホラホラー、おはようごさいますホラー、とその無意味がやって来ましたが、待ちなさいよホラーマン、とドキンちゃんが追ってきたのはばいきんまんには好都合か、さもなくば不幸の前触れでした。ドキンちゃんに限っては、あらゆることがただで済む問題ではないのです。どうしたのドキンちゃん、とばいきんまん。ダイエットゼリーよ、とドキンちゃん、見当たらないのよ、心当たりはホラーマンしかないの、受け取ったのはホラーマンで、ホラーマンしか注文したダイエットゼリーが届いたのは知らないはずなんだから。
 あれがダイエットゼリーだったのか、とばいきんまんは背筋が凍りました。というのは、実験室の冷蔵庫にそんなものが冷やしてあり、オレさまこんなところにおやつを隠してあったっけかな、実験室の冷蔵庫に触れるのはオレさまだけなんだから、きっと仕事中に手っ取り早く手に届くように、台所じゃなくこっちで冷やしておいたんだろう。ばいきんまんはゼリーが好物というわけではなく、決して大食漢でもありませんが、その場にあるものを食べ尽くすまで食べるのが本性なのです。特に発明に没頭中の夜ノバイキンマンの場合は食事などと生ぬるいものではなく、それは侵食とでも呼びようのないすさまじい食い気でした。
 ド、ドキンちゃんおはよう、とぎこちなくばいきんまんはあいさつすると、ンー!?とあからさまに不機嫌な様子のドキンちゃんに、ばいきんまんはどうやってパン工場の異変を相談しようかと混乱のあまりクルクルパーになりましたが、ダイエットゼリーの件よりはマシです。


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 で、どこがいつもと違うというのよ!?とドキンちゃんはむくれてふてくされました。ドキンちゃんの反応について言えば、これはいつものドキンちゃんのばいきんまんに対する態度そのままでした。ばいきんまんは内心この糞ビッチと悪態をつきませんでしたが(畏れ多くも、誰がドキンちゃんにそんな侮辱を与えられますでしょうか)、観てよドキンちゃん、と、朝のパン工場のあちこちを監視カメラを切り替えて映し出しました。納屋ではジャムおじさんがせっせとバタコさんを凌辱している真っ最中でした。何よ、いつものことじゃない。というのは、ジャムおじさんはいい歳をしていまだに寝起きの勃起がありますので、身近なところでバタコさんを相手に出すものを出しておかないと、頭に血が上って仕事が手につかないのです。それがあまりに習慣化しているためにジャムおじさんの精力はオナニー盛りの中坊くらいありました。バタコさんが月経?で相手ができない時などは、仕事中にこねているパン生地の弾力にいてもたっても勃起してしまい、あろうことかパン生地にねじ込んでオナニーしてしまう、という失態すら犯しかねないので、月経の時でもあらゆる手段で(あらゆる手段です)ジャムおじさんの精力を抜いてあげるのがバタコさんの朝一番の役目なのです。
 次にカレーパンマンの部屋。パン工場にはカレーパンマンの部屋があり、カレーパンマンはパン工場の仲間の一員です。ところがメロンパンナちゃんやクリームパンダちゃん同様、パン工場に部屋があるパン工場の仲間たちにも関わらず、カレーパンマンは必要な時にしか現れないのでした。いったい普段は何をしているのか、それはジャムおじさんやアンパンマンにもわかりませんでした。それでもメロンパンナちゃんやクリームパンダちゃんよりは登場の頻度が高く、朝などはパジャマ姿のまま部屋から寝ぼけ顔で現れたりもします。しょくぱんまんにはトースター山のふもとの食パン工場があり、パン工場の仲間たちの中では唯一自立した存在とも言えました。
 そうよ、しょくぱんまんさまよ、とドキンちゃんは声を弾ませました、しょくぱんまんさまはどうなさっているの?
 しょくぱんまんさまはいちごミルクちゃんとせっせとカーセックスしていました。ドキンちゃんは黙ったままばいきんまんに向き直ると、ちょっ、ちょっと待ってドキンちゃんとの声も聞かずばいきんまんの額にピストルで風穴を空けました。


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 困るのだドキンちゃん、とものかげから現れたばいきんまんは、代わりはいくらでもあるけどもったいないじゃないか、と自分の死体をむしゃむしゃと平らげながらボヤきました。なぜ食べてしまうかというともたいないからでもありますし、死んでいるばいきんまんと生きているばいきんまんが両方いるとややこしいからです。同一性の条件では同じ場所を複数の存在が占めることはできず、ひとつの存在は同時に異なった場所に並存することはできませんし、ましてや同時に生者と死者であることができるのはゾンビと呼ばれて、ばいきんまんより怖い存在とされます。
 ドキンちゃんはモニターに何を観たのでしょうか?それは前回の通りですが、その方向に話が進むと肝心のアンパンマンに話題が向かわなくなります。朝いちばんのしょくぱんまん号でしょくぱんまんさまが拾った女の子とカーセックスにふけっているのは珍しいことではありませんでしたし、ドキンちゃんほど嫉妬で手を血に染めてきたヒロインはめったにないでしょう。その若さは若い女性の血で手を染めて保たれているのかもしれません。
 それはそれとして、ばいきんまんはさっさと死体を血のしみひとつ残さず平らげると、これからばいきんUFOでパン工場に向かわねばならないのだ、と宣言しました。どうしてよ!?とドキンちゃん。ドキンちゃんは語尾に常に!?がつかないしゃべり方以外できないのです。それはこういうことなのだ、とばいきんまんはアンパンマンの寝室を映しました。ジャーン。
 寝室はからっぽでした。何よ!?とドキンちゃん、こんなの観せて何だっていうのよ!?おかしいと思わないかドキンちゃん、とばいきんまん、これはアンパンマンの寝室だが、普通個室は寝室以外にも、用途を足すだけの設備があるものだ。今さらながら気づいたが、この寝室には書き物机もなければ簡単な本棚も洋服箪笥もない。CDラジカセもなければパソコンもテレビもない。窓には一応カーテンがかかっているが、それだけだ。壁紙は灰色の無地で、絵なんて洒落たものもなければカレンダーすらかかっていないではないか。
 そうねえ!?とドキンちゃん、ベッドしかないわ、でもそれが何なのよ!?
 わからん、とばいきんまんは首をひねりました。ただ、アンパンマンはオレさまが思っていたよりも幸福ではないらしいのは確かだ。ひょっとするとあいつは、虐待に近い扱いを受けているのではなかろうか?


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 アンパンマンが修行僧のようにストイック、または受刑者のような日常生活を送っているのは、パン工場では当たり前のようになっている慣わしでした。しょくぱんまんやカレーパンマンでさえ夕食後にはのんびりし、週末は夜更かしを楽しみ、当然土日祝は休みをとっていたのに、正義超人の中でアンパンマンだけがアダルトサイトも覗かず、エロゲーもせずに精神統一で正義感を高めていたのです。ですがアンパンマン自身は富士山で言えばまだ3合目、観光バスだって普通に登るよりまだ下で、5合目を超えてようやく観光バスを超えます。頭が雲の上に出るのはまだまだなのです。
 もちろんアンパンマンは飛行能力がありましたが、それはあとづけみたいなもので、バタコさんが縫ってくれたマントで空を飛べるようになる前からアンパンマンはマントをつけて空を飛んでいたのですが、バタコさんの飛行能力つき特製マントをつけるようになってからはアンパンマンは特製マントの力なしでは飛べなくなってしまいました。マントが破れると、このマントは損傷と同じ度合いで飛行能力も低下するのです。それなら何のしかけもないマントで飛んでた方が良かったろうに、とジャムおじさんですら思いましたが、そんなことをしたらバタコさんの針仕事で復讐をくらうのが恐ろしくて口にはしませんでした。
 ジャムおじさんは何がバタコさんを怒らせたか、ズボンを履いたまま前ボタン(ジャムおじさんは肥満しているので、よく飛ぶのです)を縫い直してもらっていたら仮性包茎まで巾着綴じに縫い絞られてしまったつらい思い出があるのです。ひょっとしたらその前日にでも、疲れているからちょっと頼むよと指技でスッキリさせてもらった時に、噴射の勢いのせいで顔射どころか目潰しになってしまったのを恨まれていたのかもしれません。男女のことは本人たち同士でも公平な判断はつかないものですが、ジャムおじさんとバタコさんは男女関係というより労使関係ですから、これを一般の男女関係に置きかえるのは無理があります。
 そこでアンパンマンの修行的生活ですが、そもそも富士山などという架空の山を喩え話に出したのが間違っていました。この世界中でいちばん高い山はトースター山を中心とするトースター山山脈で、その向こうにはどんな世界があるか誰も知りませんでした。
 トースター山山脈の裏側はおさびし山山脈でした。そこにはあのムーミン谷が広がっていました。


  (56)

 だいたいこの部屋なのだが、とばいきんまんは言いました、ベッドしかないこと自体が不自然だが、一応窓はありカーテンはかかっているから寝室の体裁ではあるのだが……。はっきり言いなさいよ、どこがおかしいのよ!?とドキンちゃんは急かしました、まだるっこしい説明じゃわかんないわよ!?では言うが、とばいきんまんは前置きを言いかけ、慌てて言葉を継ぎました。こんな寝室はないのだ。はあ!?とドキンちゃん、何言ってるのばいきんまん、だってベッドがあるじゃない!?
 そこが虐待を臭わせるのだ、よく見てドキンちゃん、この部屋は四角い3畳間だろう。畳なんてないじゃない!?そうじゃなくて大きさが3畳間の、正方形の部屋だろう、普通3畳間の広さにベッドは入らないのだ。でもベッドがあるじゃない!?そうなのだ、シングルベッドでさえも3畳間に置くには……と、ばいきんまんはモニターを真上に切り替えました。通常真上からモニターする必要はないので、この件を詳細調査するためにばいきんまんはハエ型飛行カメラ端末を特別にあつらえていたのです。観てごらんドキンちゃん。
 あらかじめわかっていた通り、部屋は正方形でした。そしてベッドは3畳間の広さぎりぎりに、部屋の対角線に置かれていました。ベッドの左右にできた三角形の片側が窓、片側がドアのある空間でした。空間といっても大半ベッドが対角線に占めていますから、床などろくに物が置けないのがわかります。
 もともとこれは寝室なのではないのだ、とばいきんまん、たぶんロッカールームといったところだろう。それが証拠に無駄に北向きの窓があるのは、換気だけできればいい窓だからだ。こんな部屋に、しかも頭を窓側にしてもドア側にしても落ちつかない対角線置きのベッドで寝起きさせられて、アンパンマンは大事にされていると言えるだろうか。というより、自分の待遇に疑問を持たない奴には常識的な人権意識もなく、そんな野郎が正義を振りかざしてまかり通っているのは何かが腐敗し始めているのではなかろうか。世界の誰もがこんな部屋で寝起きしてもいいと言うのだろうか。
 ですが実際、世界の部屋がみんな北向きで、じめじめしているのを望んでいるのはばいきんまんの方でした。だからこそアンパンマンがパン工場で非常識な待遇を受けていることがよけい気に障るのです。人並み以下にされて当然、という相手には、いったいどうやって接すればいいのか?


  (57)

 ようやく床に転がった乳頭、おそらくかつてアンパンマンだった記憶を持つものは、どうやら声を出せると思っていたのは意志疎通には役立たないのを痛感しないではいられませんでした。なんとか発声くらいはと試みてみましたが、おそらくけものの唸り声のようにしか響かないのは明らかでした。まさかそこまで機能が退化しているとは予期していなかったので、怒りに任せて思わず卑猥な言葉を連呼してしまいそうになりましたが、具体的にどういう言葉だったのかは聞き取りようもなかったことですし、立腹して猥褻語を連呼するのはあまり品の良い行為とは言えませんから、教育上それは不問に伏すことにすべきでしょう。
 それにどうせアンパンマンのボキャブラリーだとすれば大して豊かなものであるはずはなく、仮にこの乳頭がかつてアンパンマンだったならますます期待はできません。何とか打開策はないか、と乳頭は考えました。もしぼくが自分の記憶通りに昨夜までアンパンマンだったのなら、夜ノアイダニナニカガオコッタノダ。でもそれがどんなことかを突きとめる前に、ぼくはなんとかして自分がアンパンマンだと認めてもらわねばならない。
 しかしゼスチャーどころか筆記用具も持てず、ガラケーのキーすら押せず、発声能力も奪われている自分に何がアピールできるでしょう。ただ床に転がっているだけ、少しはからだを反らせることもできるが、生まれたての赤ん坊と変わらない。もしかしたらぼくはいま蛹化したさなぎの状態で、やがて羽化するとスーパーアンパンマンになっているのかもしれない。もしそうなら、なおのことジャムおじさんたちには気づいてもらわなければならない。
 ぼくがアンパンマンなのは、毎日、時には1日のうち何度も(ばいきんまんのいたずらを阻止するために戦う時には)ジャムおじさんに焼きたてのあんパンを作ってもらい、バタコさんが傷んだ頭をはじき飛ばして新しい頭に替えてくれるのだ。今ぼくは頭のあんパンを失っているのは確からしい。それならば、ジャムおじさんが新しい頭を焼いてくれて、今は乳頭でしかないこのからだにも頭がつけばアンパンマンに復活するのではないか。
 ぼくというヒーローの存在基盤から類推してそれ以外に復活の方法は想定し難い、と乳頭は直感しました。新しい頭をつけてもらう、それで一気に解決し、やっぱりアンパンマンだったのかとみんなが喜んでくれる。だけど、それをどうやって?


  (58)

 不安な夢から目覚めると、カレーパンマンは自分が一個の巨大な乳頭になっているのに気づきました。普通起きると乳頭になっているなどということはほとんどありませんから、カレーパンマンもこれは悪夢の続きか、何かの冗談かと思いました。冗談だとしたら手がこんだものです。きっと顔面だけ出してポリウレタン製の着ぐるみでも着せられているのだろう、とカレーパンマンは思いました。手足はまっすぐ伸ばしたまま動かすことができず、なんとか首を倒すようにしてからだを見ることができるだけです。ですがカレーパンマンの部屋は和室換算で約12畳と広かったので、ベッドの向かいの壁に全身鏡が設置してありました。筒のような乳頭になっていても寝返りくらいは打てましたから、カレーパンマンは全身鏡に映った自分の姿を見た時も、それまでの観察と感触でだいたい予想はついていたので、それほど慌てることはありませんでした。
 誰がやったのだろう、とカレーパンマンはいかぶりましたが、こんな手のこんだことをできるのは、実行犯はともあれ、主犯はばいきんまんかジャムおじさんしか考えられません。ばいきんまんだとすれば嫌がらせでしょうし、ジャムおじさんだとすれば悪い冗談です。ですがばいきんまんだとすればこんなことはいたずらにもならず、ジャムおじさんならカレーパンマンの能力はわかっているのですから、やはり大したことではありませんでした。カレーパンマンはベッドから床に落ちて、部屋のいちばんひろびろとしたところまで転がっていくと、カレーファイアーで全身を燃え上がらせました。これはカレーパンマンの必殺技で、消耗も激しい究極の業なのですが、全身をカレーパンを揚げる温度に上昇させて周囲を巻き込む大業です。当然接触していればいるほど効果があるので近接戦闘の突撃向けであり、まして乳頭の着ぐるみなどは、一瞬のうちに嫌な臭いをさせながら溶解してしまいました。
 これでよし、とカレーパンマンは全身鏡にいつもの姿が映るのを確認しました。ですがカレーパンマンは勘違いしていたのです。乳頭の姿になっていたカレーパンマンは実際に乳頭そのものでした。それがカレーファイアーで再び焼き上げられたことで、カレーパンマンの姿に再生しただけに過ぎなかったのです。
 その可能性に気づき、悪寒のような気味悪さを感じるとともに、カレーパンマンは悪夢から覚めました。何て夢だろう、と思いながら。


  (59)

 不安な夢から目覚めると、ジャムおじさんは自分が一個の巨大な乳頭になっているのに気づきました。普通起きると乳頭になっているなどということはほとんどありませんから、ジャムおじさんもこれは悪夢の続きか、何かの冗談かと思いました。冗談だとしたら手がこんだものです。きっと顔面だけ出してポリウレタン製の着ぐるみでも着せられているのだろう、とジャムおじさんは思いました。手足はまっすぐ伸ばしたまま動かすことができず、なんとか首を倒すようにしてからだを見ることができるだけです。ですがジャムおじさんの部屋は和室換算で約64畳と広かったので、寝室部分にはベッドの隣りの床に全身鏡が立ててありました。
 筒のような乳頭になっていても寝返りくらいは打てましたから、ジャムおじさんは全身鏡に映った自分の姿を見た時も、それまでの観察と感触でだいたい予想はついていたので、それほど慌てることはありませんでした。
 誰がやったのだろう、とジャムおじさんはいかぶりましたが、こんな手のこんだことをできるのは、実行犯はともあれ、主犯はばいきんまんかバタコさんしか考えられません。ばいきんまんだとすれば嫌がらせでしょうし、バタコさんとすれば悪い冗談です。ですがばいきんまんだとすればこんなことはいたずらにもならず、バタコさんならジャムおじさんの権力はわかっているのですから、やはり大したことではありませんでした。
 ジャムおじさんはベッドから床に落ち、部屋のいちばん隅まで転がっていくと、念力をこめて部屋じゅうの調理用具を全身に突き立てました。これはジャムおじさんの必殺技で、消耗も激しい究極の業なのですが、どんな調理器具でも念力で操り周囲を巻き込む大業です。当然調理器具の数が多いほど効果があるのでパン工場で迎撃するのに向いており、乳頭の着ぐるみなどは、一瞬のうちに包丁やへらで削ぎ落とされてしまいました。
 これでよし、とジャムおじさんは全身鏡にいつもの姿が映るのを確認しました。ですがジャムおじさんは勘違いしていたのです。乳頭の姿になっていたジャムおじさんは実際に乳頭そのものでした。それがジャムおじさんの念力発動の気合いで、ジャムおじさんの姿に戻ったということに過ぎなかったのです。
 その可能性に気づき、悪寒のような気味悪さを感じるとともに、ジャムおじさんは悪夢から覚めました。何て夢だろう、と思いながら、しかしそう悪くも感じずに。


  (60)

 不安な夢から目覚めると、めいけんチーズは自分が一個の巨大な乳頭になっているのに気づきました。普通起きると乳頭になっているなどということはほとんどありませんから、めいけんチーズもこれは悪夢の続きか、何かの冗談かと思いました。冗談だとしたら手がこんだものです。きっと顔面だけ出してポリウレタン製の着ぐるみでも着せられているのだろう、とめいけんチーズは思いました。手足はまっすぐ伸ばしたまま動かすことができず、なんとか首を倒すようにしてからだを見ることができるだけです。ですがチーズの小屋は中型犬1匹が寝られる程度ですし、普通は犬小屋には鏡は置かないので自分の姿は見られません。
 筒のような乳頭になっていても寝返りくらいは打てましたから、めいけんチーズは転がった痕跡から自分の姿を確信した時も、それまでの観察と感触でだいたい予想はついていたので、それほど慌てることはありませんでした。
 誰がやったのだろう、とめいけんチーズはいかぶりましたが、こんな手のこんだことをできるのは、実行犯はともあれ、主犯はばいきんまんかジャムおじさんしか考えられません。ばいきんまんだとすれば嫌がらせでしょうし、ジャムおじさんとすれば悪い冗談です。ですがばいきんまんだとするならこんなことなどいたずらにもならず、ジャムおじさんならチーズが秘密は握っているのですから、やはり大したことではありませんでした。
 めいけんチーズは小屋から外へと、犬ならではの巧みな体重移動で転がっていくと、さらにカーブを切ってパン工場裏の井戸へとたどり着きました。リスクは非常に大きなものでしたが、チーズは転がった勢いで井戸のつるべに飛び込むと、これで駄目ならどうせ助かる見込みもなし、なぜなら乳頭になったチーズなどパン工場の人たちは食材にしか見ないのは明白です。ですがこれが乳頭の着ぐるみならば、とめいけんチーズは井戸に飛び込んだのでした。
 やっぱり、とめいけんチーズは井戸の水面にぽっかり浮かんでいました。ですがめいけんチーズは勘違いしていたのです。乳頭の姿になっていためいけんチーズは実際に乳頭そのものでした。それがめいけんチーズの必死の行動で、奇蹟がチーズをもとの姿に戻したということに過ぎなかったのです。
 その可能性に気づき、悪寒のような気味悪さを感じるとともに、めいけんチーズは悪夢から覚めました。暗喩のようだ、と思いながら。
 第六章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2018年5月20日・21日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(4)

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 '53年度のベティカー作品は5作品ありますが最初の『海底の大金塊』(2月公開)と最後の『East Of Sumatra』(11月公開)は海洋SFアドベンチャーなので西部劇は『最後の酋長』『平原の待伏せ』(前回紹介)と『黄金の大地』の3作で、ユニヴァーサル社とは2年契約だったらしいベティカーは翌'54年にはテレビの探偵ものの演出アルバイトを手がけ、'55年にはモーリーン・オハラとアンソニー・クイン主演の闘牛ロマンス映画の大作『灼熱の勇者』を20世紀フォックス社で監督します。原案もメキシコに渡ってプロの闘牛士をやっていた経験を持つベティカーが手がけた同作は、やはりベティカー原案・監督の『美女と闘牛士』'51と同じメキシコを舞台にしたメキシコ・ロケの作品で、『美女と闘牛士』の原題が『Bullfighter and the Lady』なら『灼熱の勇者』は『The Magnificent Matador』と『The Brave and the Beautiful』の二種類のタイトルでアメリカ本国公開されているのもややこしいのですが、おそらくベティカーの映画で予算も最大規模かつもっともハリウッド映画らしい作品でしょう。クレジット上はモーリーン・オハラが先に来るもフェリーニの『道』'54で一躍世界的な大スターになった風格のあるクインのための企画と言える作品で、クインはメキシコ系の両親から生まれたメキシコ系アメリカ人俳優なのでメキシコの国民的スポーツの闘牛士(マタドール)チャンピオンを演じるのはメキシコの国民的英雄を演じることであり、それまでインディアンやメキシコ人の悪漢役で個性的な性格俳優だったクインの一枚看板映画になっています。ベティカー映画の真の画期作は翌'56年に『美女と闘牛士』以来再びジョン・ウェインのバトジャック・プロ製作(ワーナー配給)でランドルフ・スコット主演で監督した『七人の無頼漢』からですが、その直前に『平原の待伏せ』(前回紹介)、『黄金の大地』に『灼熱の勇者』とメキシコものが集中して作られているのはベティカー自身の意向が反映されたと見られるので、『黄金の大地』は西部劇というより歴史アドベンチャー、『灼熱の王者』は現代ロマンスですが、ともに作りたくて撮ったのが伝わってくるような熱意が伝わってくる作品になっています。ベティカーのキャリアがB級映画のプログラム・ピクチャー監督だったとしても来たるべき『七人の無頼漢』以降の力作群へのつゆ払いになったのがメキシコものの『平原の待伏せ』『黄金の大地』『灼熱の勇者』だったと見るのはあとづけですが、映画監督も創作家ならばやる気と熱意ははっきり表れるので、今回の2作は完成度や仕上がりはともあれベティカーがさらに次の段階に進もうとしているのが感じられる好作です。

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●5月22日(水)
『黄金の大地』Wings of the Hawk (ユニヴァーサル'53.Aug.26)*77min, Technicolor, Standard : 日本劇場未公開(テレビ放映・パブリック・ドメインDVD発売)

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 本作は'53~'54年にアメリカで流行した3D映画として製作されたようで、同年のラオール・ウォルシュの『決斗!三対一』や'54年のヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ!』もそうですが、当時の3D映画は左右赤緑フィルムの簡易紙メガネをかけて観るというわずらわしいもので鑑賞の負担・邪魔と観客には歓迎されず、'53年中には早くも飽きられヒッチコック作品の公開時の'54年5月には流行遅れだったので3D版でない通常版も同時公開されその方が好評だったほどです。当時の3D映画は現行映像ソフトも3D版でないプリントから起こされるのが通例ですが、非3D版プリントでも元の映画に構図やアクションには3Dを意識した痕跡が残っていて、具体的には縦の構図やアクションを多用して3D効果をアピールした映像だったのがうかがえる。本作では主人公とヒロインの地下牢からの脱出時の戦闘が垂直の通路からの仰角・俯瞰を生かしたショットで、効いているけどベティカーにしてはかなりトリッキーな構図だな、と思ったら3D用の演出だったわけです。本作の日本盤DVDはコスミック出版の廉価版パブリック・ドメイン10枚組ボックス・シリーズ「西部劇パーフェクト・コレクション」の『ガンスモーク』の巻(2017年発売)収録でしかリリースされていませんが、オーディ・マーフィ主演作をタイトル作にした同セットにはヘンリー・ハサウェイ監督&ランドルフ・スコット主演のゼイン・グレイ連作最終作『最後の一人まで』'33やブロデリック・クロフォードとバーバラ・ヘイル主演&アンドレ・ド・トス監督『廃墟の守備隊』'53にベティカー作品が『ロデオ・カントリー』と本作の2本も入った10枚組で1,500円のお徳用廉価版なので、他社から出ている『ロデオ・カントリー』単品よりも安いくらいです。使用プリントの状態も良く字幕スーパーやチャプターも十分な品質の上、何より他に日本盤DVDリリースがないとあってはさりげない稀少作品なので、パブリック・ドメイン版の超廉価版といえどもあなどれない。本作でもちゃんとフィルターをかけていない2D版を原盤プリントに使っています。前回の『平原の待伏せ』でやや詳しく、今回も前書きで少々触れた通りアメリカとメキシコには複雑な歴史的確執があり、かつてスペイン領だった時代にメキシコはメキシコに進出しようとするアメリカ南部人とスペインの戦争の戦場でした(『平原の待伏せ』)。アメリカはスペイン(メキシコ)からカリフォルニアを譲渡されることで手を打ち、メキシコはやがてスペイン貴族系の独裁政権によって独立国となりましたがメキシコ原住民にとってはスペイン人による侵略国である状態が続いたので、本作では反独裁政権に協力するアメリカ人探検家が主人公です。19世紀初頭にはアメリカはメキシコへの侵略者でしたが20世紀初頭にはスペイン領時代からつづく利権独占者のスペイン貴族による独裁政権からの解放協力者になった(本作のメキシコ革命)という変化があるも、メキシコ民族自治国になった方がアメリカには都合がいいという事情もあるので、本作の主人公は個人的な信条によって行動しているのですがアメリカの国策上都合の良い線に沿っているには違いなく、現アメリカ政権の大統領が無茶な政策によって民意を得ようとしているのもそうした歴史的要因によってアメリカ・メキシコ間の密入国・密輸への南部・西部人の警戒感を政権支持率に利用しようとしている背景がある。観光国としてはメキシコは南部・西部人にとって身近で魅力的な国ですがメキシコへの密売が非合法組織の資金源になっているのも南北戦争直後が舞台の『征服されざる西部』に描かれたのが今なお容易に起こりうるので、国境に壁を築こうなどというとんでもないことをアメリカ大統領が言い出してまかり通っている国がアメリカで、そうした背景を知るにも、また知った上で観るにもベティカーの西部劇はメキシコとの関わりが大きく反映されており、ベティカーは大学卒業後メキシコに渡ってプロの闘牛士(マタドール)をやっていた、特異な経歴の映画監督です。主人公がアメリカ人でもメキシコ側の視点を理解して描く客観性があり、『平原の待伏せ』でも実際の市民虐殺はメキシコ人を装った火事場泥棒的な白人組織だったのをきちんと描いている。本作『黄金の大地』は本格的にメキシコが舞台ですが政治的にはいわゆる"South of Border"で、独裁政権と革命軍の抗争中のメキシコですから国家としては無法地帯化しており、そこでアメリカ人主人公の活躍が描かれるのでジャンルとしては異国冒険映画ではなく西部劇と見なされていますし、内容的にも冒険映画色が強いものの西部劇として作られている映画でしょう。本作はDVD記載の内容紹介と英語版ウィキペディアからのあらすじを引いておきましょう。
○解説(メーカー・インフォメーションより) 主演 : ヴァン・ヘフリン、ジュリー・アダムス (あらすじ) : メキシコに金鉱を持つアメリカ人のアイリッシュ。ついにある日、大量の金が出る。ちょうどその頃、メキシコでは革命が起き、政府軍と革命軍が対立。政府軍は戦争資金のため、アイリッシュの金鉱を奪い……。
○あらすじ(英語版ウィキペディアより) 1911年、革命最中のメキシコ、「アイルランド人」として知られるアメリカ人ギャラガー(ヴァン・ヘフリン)はメキシコの革命家と協力し、パートナーのマルコ(マリオ・シレッティ)とともに金鉱を発見し所有権の金メダルを打ちますが、すぐに独裁者パコ・ルイス大佐(ジョージ・ドレンツ)に気づかれ押収されたのを分け前を要求しに来ていたゴメス大尉(リコ・アナニス)から聞きます。マルコはルイス大佐の部下に殺されました。反逆者の一団がギャラガーを危機一髪から救い、特に勇敢な女、ラケル・ノリエガ(ジュリー・アダムス)が流れ弾で負傷します。反政府勢力はギャラガーの身元に確証がないので、リーダーのアルトゥーロ・トレス(ロドルフォ・アコスタ)に会わせます。ラケルが負傷から意識不明と知ったギャラガーは銃弾の摘出を申し出ます。ラケルはアルトゥーロと結婚するために仕えていますが、彼女の妹エレナ(アビー・レイン)は誘拐され行方不明になります。中立派のペレス神父(アントニオ・モレノ)に相談しながらエレナを捜索していたラケルとギャラガーは、ルイス大佐によって捕虜にされて、独房に閉じ込められます。アルトゥーロの部下カルロス(ポール・フィエロ)に救出されて三人はルイス大佐の部下の典獄の屈強なオロスコ(ノア・ビアリー・ジュニア)に阻まれ、一方エレナは捕虜ではなく、ルイスと結婚するつもりで仕えています。アルトゥーロの忠実な反逆者グループの一員、トーマス(ペドロ・ゴンザレス)の母親コンチャ(ローザ・チューリッヒ)を冷たく処刑するルイス大佐の悪魔的行為すら、エレナは秩序を守るための為政的判断として信頼しています。アルトゥーロはギャラガーとラケルの釈放を要求しますが典獄のオロスコは多額の銃器代を要求し、革命軍は金鉱を襲って釈放代を調達しルイス大佐は激怒します。ギャラガーとラケルはペレス神父から状況を知り、ラケルはエレナを説得に面会しますがエレナは権力者には逆らえないとラケルを拒みます。ギャラガーとラケルはアルトゥーロ率いる反逆者たちによって刑務所から救出されましたが、アルトゥーロは殺されます。ギャラガーはルイス大佐の金鉱への執着に気づき、ダイナマイトの罠を金鉱のあちこちに仕掛けて爆発を起こしてルイス大佐の軍団を混乱させ、トーマスは処刑された母の復讐にルイス大佐を殺します。硝煙がおさまり、なぜ自分の金鉱をわざと破壊したのかラケルから尋ねられて、ギャラガーはもっと貴重なものがあるとラケルを抱きよせ、二人はキスをします。
 ――本作の快調な展開やまとまりの良さは西部劇的構図としても秘密の金鉱をめぐる敵味方のはっきりしたアドベンチャー映画色の強さにあるので、その点ではキャラクターに『征服されざる西部』『最後の酋長』『平原の待伏せ』のような陰陽に飛んだ深みが欠けるきらいがあります。ユニヴァーサル時代の'52年~'53年にベティカーが監督した6本の西部劇では『征服されざる西部』が破滅の道を歩むロバート・ライアンの鮮明なキャラクターで突出していて、次いで『平原の待伏せ』がグレン・フォードの配役で活き演出も冴えるも大団円型の結末にややあっけなさがあり、『最後の酋長』はロック・ハドソンとアンソニー・クインの苦渋の友情劇がクイン殺害の西部劇ミステリーにすり替わってしまう主題の一貫性に欠ける難があり、逆に『黄金の大地』はヴァン・ヘフリンの主人公のヒーロー冒険譚にきれいにまとまっているのが気楽に楽しめるけれど物足りないということになる。『シマロン・キッド』は『征服されざる西部』の原型といえる内容ですがまだ未熟ですし『ロデオ・カントリー』はバディ・ムーヴィーの変型なのでまとまりは良いもののベティカー西部劇の本流ではないでしょう。『征服されざる西部』1位、『平原の待伏せ』2位としても破綻の大きい『最後の酋長』とこぢんまりした完成度の高い『黄金の大地』は同点3位と思え、『最後の酋長』は途中で木に竹を継いだような脚本で破綻してしまっているものの前半は意欲的な小傑作を予感させるキャラクター造型があり、それに較べると設定・プロット・ストーリーに無理がなく一定の完成度をクリアした作品ではあるものの本作のヴァン・ヘフリンは映画冒頭と結末でも死線をさまようドラマを経てきたようには見えない。敵を罠にかけるために占拠された自分の金鉱を爆破する、金鉱より大切なものがあるとヒロインを抱きよせるのももともとの英雄的性格と見えるので、アイルランド系アメリカ人(ギャラガーは典型的なアイルランド系姓名ですし、「アイリッシュ(アイルランド人)」というのが主人公の愛称です)に設定しているのはアイルランド自体が内紛をくり返している政情不安な国ですので主人公に革命的政治感覚があるのを暗示している(これがスペイン系・フランス系南部・西部人だったら侵略的ニュアンスになってしまいます)のでしょうが、革命軍リーダーのアルトゥーロが殺害されてしまう前に、行方不明のヒロインの妹を捜索しているうちに早くも主人公とアルトゥーロの婚約者のヒロインは恋に落ちてしまうので、この主人公は革命軍の協力者なのに革命と恋なら恋を選ぶ頼りない主人公で、何に信念を置いているのか疑わしくなってくる。主人公とヒロインが監禁されてからの脱出劇で映画はがぜん冒険映画色を増しますが、むしろ活躍するのは主人公たちを救出しようとするアルトゥーロたち革命軍のメンバーなので、アルトゥーロが殺されたあと主人公はようやくクライマックスの罠を仕掛けますが、主人公を視点人物として見てこそ(実際映画はそうなっていますが)ストーリーは首尾一貫して快調に進み大団円を迎えますが、退治された独裁者たちはともかくとして革命軍まで組織崩壊に近い多大な犠牲を出している。しかも主人公(とヒロイン)を救うためにです。映画を観ている最中は気にならず話に乗せられて観ていられるのに振り返ってみると本作にはそうした調子の良さがあり、主人公(とヒロイン)だけに都合良く運ぶ映画になっている観は否めません。メキシコ人役のキャストも生き生きと描かれているだけにいっそうあとからそれが気になるので、本作は冒険映画タイプのメキシコ西部劇とベティカー自身も割り切った作品と見るのが順当でしょう。

●5月23日(木)
『灼熱の勇者』The Magnificent Matador (20世紀フォックス'55.May.24)*94min, Technicolor, Standard : 日本公開昭和32年('57年)2月18日

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 本作は日本で公開された初のベティカー作品『美女と闘牛士』'51(昭和27年='52年)に次ぐ二番目に紹介された作品で、その5年間の間のベティカーのユニヴァーサル時代の作品は本作以降の日本公開です。20世紀フォックス製作のモーリーン・オハラとアンソニー・クインの2大スター競演のテクニカラー・シネマスコープ大作として封切られた割には本国アメリカでもあまりヒットしなかったらしく興行収入非公表ですが、一応話題性はあると1年半あまり経って日本公開が実現したようで、『美女と闘牛士』と本作だけが紹介された時点ではベティカーはメキシコ・ロケの闘牛ロマンス映画の監督、と特殊な監督に見えたでしょう。本作はなぜか'96年と早い時期にアダルト・ビデオ・メーカーの印象の強いシネマ・サプライから日本盤のDVD発売がされていますが、明らかにテレビ放映(ハイビジョン化前)用かホーム・ビデオ用、または民生上映用の16mmデュープ・プリントを原盤にしており、左右を切ったスタンダード・サイズかつ褪色の進んだプリントで、十分発色を保っているユニヴァーサル時代の諸作の原盤プリントより数等落ちる保存状態ばかりかスタンダード・サイズへのトリミングによって台無しになっており、こんなヴァージョンでしか観られないのは残念極まりない限りですが、古典・旧作映画の丁寧な市販ソフト用のレストア作業はまだ映像ソフト会社全般に定着しているとも言えないので、ましてやDVD初期のものとなるとこんなビデオテープからのストレート・コピーみたいな画質のものが出回っていた実例で、しかもまだDVD再生機器もDVD再生ソフトが使えるパソコンも普及していない時期になんでベティカー作品なんか出したんだろうと逆に不思議になってくる。本作は『美女と闘牛士』以来のベティカー原案だけあってメキシコ・ロケで撮りたい映画を撮る企画が実現できたベティカーの意欲がはっきり言って空振りしている出来損ないの人情ドラマで、しかも着想が古くさい素性を隠した親子の生き別れ再会もので、国民的英雄のチャンピオン闘牛士(マタドール)の愛弟子の新進青年マタドールが実は産褥で死んだチャンピオン闘牛士の内妻との一粒種なのを闘牛士という職業の危険を息子の将来に抱く不安感と、親子の名乗りを息子に打ち明けられずに苦しむ葛藤を抱いたチャンピオン闘牛士役がアンソニー・クインで、クインの陰のある様子に貴婦人のモーリーン・オハラが想いを寄せるというロマンス絡みで、クインが教会で息子のために祈るシーンも実際のメキシコのカトリック教会が舞台で本物の神父さまが映画出演に協力しているのがエンド・クレジットで1枚タイトルでメキシコのカトリック教会総本部に協力の感謝を捧げています。実際にメキシコ在住していたベティカーとしてはこのクレジットは外せない、とメキシコ人側の立場に立って謝辞をクレジットしたのでしょう。そういう意味では、見過ごしてしまうような箇所でもすみずみまでメキシコに失礼にならないような配慮がされた映画だろうと想像されます。先に『黄金の大地』で冒険映画と割り切った作品ではないか、と書きましたが、スペイン貴族の末裔の独裁者が残忍に描かれているとはいえその死に恋人がとりすがって泣く、また先立つ革命軍リーダーも威厳と誇りを持った人物と行動が描かれている具合にメキシコ人を蔑視するような描き方は律儀に避けていて、その割には革命軍リーダーの恋人と主人公があっさり相思相愛になってしまうではないかと都合の良いところもあるのですが、主人公はアイルランド系アメリカ人でも親メキシコ革命軍派だからメキシコ民族の味方に描かれているので良しとしたのでしょう。『平原の待伏せ』でメキシコ人の孤児カルロス少年を純真で疑心暗鬼な市民たちと主人公の媒介になる存在に描き、メキシコ人に偽装した火事場泥棒的白人組織の悪事を描いたのと同様『黄金の大地』でもベティカーの立場はメキシコ民衆に寄り添ったものであり、そういう意味で『黄金の大地』はベティカーが撮りたくて撮ることができた映画になっている。ただし映画の仕上がりはご都合主義的な冒険映画に近いものになってしまったので、『平原の待伏せ』や本作『灼熱の勇者』と並べないとベティカーのメキシコへの思いが伝わらないきらいがある。メキシコ人登場人物をカルロス少年しか登場させず民衆レベルでのメキシコとアメリカとの関係を暗示してみせた『平原の待伏せ』はなかなか大した手腕だったと言えますが、そのものすばりアメリカ人ベティカーがハリウッド映画として撮ったメキシコ映画の『灼熱の勇者』がベタな人情メロドラマ(エンド・クレジットでエンディング主題歌が流れる文字通りの「メロドラマ」)になったのもベティカーのメキシコ愛、闘牛士讃美が強すぎて通俗メロドラマを本気でやってしまったので、スペイン人のルイス・ブニュエルがメキシコの映画界でメキシコ人好みの通俗娯楽映画のフォーマットを借りながら巧みにブニュエル好みのひねった趣向を折衷していました。しかし本作ではベティカーは『最後の酋長』を含む'53年度作品ではまだ大スターではなかったアンソニー・クインの『道』'54での国際的スターへの大出世こみで(クインはメキシコ系アメリカ人二世の俳優です)直球勝負のメキシコ・メロドラマに挑んだので、ベタだろうとメロドラマだろうとこれが本気でやりたい企画を撮った結果が本作でしょう。本作も日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 「美女と闘牛士」のバッド・ボーティカーが原案を書き監督した闘牛をめぐる親子の愛情物語。脚本担当はチャールズ・ラング、「誇り高き男」のルシエン・バラードが撮影を受持った。音楽はラオール・クロウシャー。主な出演者は「リスボン」のモーリン・オハラ、「ノートルダムのむせし男(1957)」のアンソニー・クイン、チリー生まれの新人マヌエル・ロハス、「空中ぶらんこ」のトーマス・ゴメス、「チャンピオン」のローラ・オルブライ。ほかにメキシコの闘牛士が特別出演。
○あらすじ(同上) メキシコきっての闘牛士サントス(アンソニー・クイン)は、自らの芸に行き詰まりを感じ、18歳の愛弟子レイエス(マヌエル・ロハス)に闘牛士最高の階級マタドールを名のらせることにした。サントスは一夜、神の前にレイエスの前途を祈った。たまたま、その姿を見た社交界の女王カレン(モーリン・オハラ)はなぜか心が妖しくふるえた。翌日、サントスは再び祈りを捧げたが不吉な予感にレイエスの身を案じ、その出場を取り消した。騒然となった観衆に、報道陣に追い回されるサントスに逃げ場所を提供したのがカレンであった。2人はカレンの農園に人目を避けた。しかしカレンの愛人マーク(リチャード・デニング)によって、この隠れ家は人々に知れたため、2人はさらにサントスの友人ダヴィド(トーマス・ゴメス)の牧場へ行く。やがて2人は互いの愛情をはっきりと知り、サントスは彼女に、秘められた自分の過去を語った。サントスは18年前、愛人を失ったが、その死因は、出産の床でサントスが死んだという誤報を聞き、そのショックからであった。その時生まれたのがレイエスで、それがダヴィドの手で育てられてきたのである。この秘密を聞いたカレンは、レイエスの将来のために打ち明けようとサントスを説得する。しかしレイエスは既にダヴィドから、これを聞いていた。サントスは我が子の栄達のためと引退を決意した。次の日曜日、サントスとレイエスの妙技に大観衆は沸き、2人も晴れて親子の名乗りをあげた。
 ――自身がプロ闘牛士だった経歴を持つベティカーにとって本作は心底からの闘牛士(マタドール)とメキシコ人讃美だったに違いなく、それは社交界の席上で心因性の体調不安を起こしてうつむいたクインを酔っぱらいか、と近づいた給仕長がクインの顔を見て「……マタドール」といずまいを正す場面があるようにチャンピオン闘牛士というのは国民的英雄というメキシコ人の心情にかつてのメキシコ在住・闘牛士経験から通じているからであって、また本作のようなベタな父子人情メロドラマがメキシコ人の琴線に触れるとも信じていて(実際は筆者などのとうてい知り得ないところですが)、こういう映画になっているがベティカー自身は意図通りに仕上げられた満足のいく自信作なのではないかと思われます。ベティカーの場合ヒロインを描くと門切り型の域を出ない欠点が成功した作品でもあり、本作はクレジット上はモーリーン・オハラの方が主演なのですがだとしたら「テクニカラーの女王」オハラのもっとも魅力に乏しい主演作ではないかという難もあり、はっきり言って主人公のクインを心配して母性的に慕うようになる貴婦人の役にはまるなら別にオハラでなくてもいい役です。クインの方はさすがの存在感で、体躯の威容を誇りながら知的でデリカシーのある役をこなしてクインでなければできない役柄ですし、他のキャストも適切にメロドラマの役柄にはまっている。しかしそこが企画と題材以外に取り柄のない松竹メロドラマの標準的仕上がりみたいになっているので、メキシコ・ロケのオールメキシコ人設定のメロドラマを松竹メロドラマみたいというのも変ですが、粗悪なプリント原盤のDVDでも本格的なメキシコ・ロケの鮮やかさは伝わってくるというか屋外の自然光ロケでも平均的なハリウッド映画より陽射しの質感が一段と鮮やかなのはわかる。本物の現役スター闘牛士を半ダースばかり出演させて本物の観客をエキストラにいれた闘牛場のシーンも迫力はありますが、闘牛ドキュメンタリーを映画規模の予算で組みこんだ効果はあっても肝心の親子の名乗りが実は息子の方は育ての親から聞いていてとうの昔から知らされていた、とあっさりかたづいてしまう。満席の観衆に愛弟子を自分の息子と明かしチャンピオンを襲名させるラストはそれはそれで決まっているのですが、舞台劇の人情劇みたいな決まり方なのでこれは原作にひねりがないだろと言えばベティカー本人が原作者なので、シナリオは脚本家が起こしていますがフォックス社もベティカーもこれでよしとした上での人情劇なので、クインの苦悩は結局親子の名乗りを切り出せず息子を愛弟子に育て上げたクインひとりの取り越し苦労だったことになる。観客の眼が涙で曇る前に監督・原作のベティカー自身が涙で滑ってしまったので、直球勝負の力作が何だか間の抜けたメロドラマに終わった作品で、これだったらクインがイヌイット(エスキモー)の勇者を演じた『バレン(The Savage Innocents)』'60(監督=ニコラス・レイ)の方が印象的で、同作はゴダールの『勝手にしやがれ』'60の主人公が上映館の前を通りかかり、ボブ・ディランにノヴェルティ(コミック)曲「クイン・ザ・エスキモー(ザ・マイティ・クイン)」'67を書かせた佳作です。しかし次作『七人の無頼漢』'56に始まる西部劇7連作こそがベティカーの名を映画史に輝かせることになるので、本作で『美女と闘牛士』、いや映画界入りのきっかけになった『血と砂』'41(監督=ルーベン・マムーリアン)以来のメキシコへの借りは返したのが、ベティカーを西部劇専心に吹っ切らせる役目を果たしたのかもしれません。

集成版『夜ノアンパンマン』第七章

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 第七章。
 不安な夢から目覚めると、ばいきんまんは自分が一個の巨大な乳頭になっているのに気づきました。普通起きると乳頭になっているなどということはほとんどありませんから、ばいきんまんもこれは悪夢の続きか、何かの冗談かと思いました。冗談だとしたら手がこんだものです。きっと顔面だけ出してポリウレタン製の着ぐるみでも着せられているのだろう、とばいきんまんは思いました。手足はまっすぐ伸ばしたまま動かすことができず、なんとか首を倒すようにしてからだを見ることができるだけです。ですがばいきんまんの部屋は機能的な作りだったので、身だしなみのためにベッドの隣りに全身鏡が立ててありました。
 筒のような乳頭になっていても寝返りくらいは打てましたから、ばいきんまんは全身鏡に映った自分の姿を見た時も、それまでの観察と感触でだいたい予想はついていたので、それほど慌てることはありませんでした。
 誰がやったのだろう、とばいきんまんはいかぶりましたが、こんな手のこんだことをできるのは、実行犯はともあれ、主犯はドキンちゃんかアンパンマンしか考えられません。ドキンちゃんだとすれば嫌がらせでしょうし、アンパンマンならば悪い冗談です。ですがドキンちゃんならばこんなことは他愛ないいたずらにもならず、アンパンマンならばいきんまんとは実はなあなあの八百長試合の仲ですから、やはり大したことではありませんでした。
 ばいきんまんはベッドから床に落ち、部屋のいちばん隅まで転がっていくと、かあーッと全身のばいきん力をたぎらせました。これはばいきんまんの必殺技で、消耗も激しい究極の業なのですが、辺りかまわず周囲を汚染する大業です。当然距離が近いほど効果があるので接近戦で迎撃するのに向いており、乳頭の着ぐるみなどは、一瞬にしてばいきん効果で削ぎ落とされてしまいました。
 これでよし、と場所は全身鏡にいつもの姿が映るのを確認しました。ですがばいきんまんは勘違いしていたのです。乳頭の姿になっていたばいきんまんは着ぐるみではなく、実際に乳頭そのものでした。それがばいきんまんのばいきん力の発動で、本来の姿に戻ったということに過ぎなかったのです。
 その可能性に気づき、悪寒のような気味悪さを感じるとともに、ばいきんまんは悪夢から覚めました。何て夢だろう、しかしそう悪くも感じず、これは使えるかもしれないぞ、とひそかに企みすらしていました。


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 内容がきわどいので毎回びくびくものでお送りしている夜ノアンパンマンですが、この作文がリアリズムを尊び現実暴露を目的とするからにはそれも仕方がありません。その頃、朝の早いしょくぱんまんはいちごミルクちゃんとまだカーセックスをしていました。相手がいちごミルクちゃんに限らず、若い女の子なら誰でも車に乗ればしょくぱんまんの毒牙にかかるのですから、いっそしょくぱんまん号はカーセックス仕様にすれば良い、とも思われるほどですが、さすがにそれは公衆道徳上はばかられるとあっては、しょくぱんまんも今ある設備でがまんしなければいけません。しょくぱんまんはしょくぱんまん号とセットで存在するからこそしょくぱんまんなのであり、それ以外にしょくぱんまんのあり方は考えられませんでした。たとえばカレーというものなしにカレーパンマンがあり得ないようなものです。
 しかし世界にはその逆の可能性もあり得たので、カレーパンはあってもカレーのない世界、をも想像できないことはありません。つまりカレーパンの具としてしかカレーの存在しない世界ですが、その場合なかなかカレーだけをパンから取り出して料理と供しようという発想にはいたらないのではないか。生理用品やコンドームを買うとどこのお店の店員もわざわざ中の見えない紙袋に入れてくれますが、カレーパンだけがありカレーだけでは存在しない世界とはこれと同じではないかと思われ、シールで結構ですとはいかないのではないか。
 一方、ティッシュペーパーのように汎用性の高いものは、性交時に大量消費されるにもかかわらずシールでよろしいですか?で済まされます。赤ん坊の紙おむつもシール。ですが介護用の紙おむつならばプライヴァシーと人間の尊厳がかかっていることも少なくないでしょう。もっともそれを言えば、婦人用化粧品ほどあられもないものはないわけで、男性が隠れて通信販売でアダルトグッズを購入するのと同等以上に隠蔽されるべきものでなければならないはずです。世界の性差の均衡には明らかな偏差があると言わざるを得ません。
 ですが均衡の崩れがまったくなければすべてのものは不動になり、朝になってもアンパンマンは起きてけないでしょう。正確には起きてこなかったのではなく、目は醒めていても起きられなかったのですが。
 こうしてる場合じゃないぞ、とばいきんまんは思いました。世界を救えるのはもうばいきんまんだけなのです。


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 一方その頃(この前置きを真に受けないでください)、めいけんチーズは犬小屋の中にいました。ばいきんまんの監視カメラがパン工場で唯一見逃しているのがこの犬小屋の中でした。めいけんチーズはパン工場じゅうに乱交がはびこっていてもペースを崩さない唯一のめいけんでした。それはチーズが偉いからというより、単に犬だから発情期以外にはその気にならないというだけです。チーズの彼女のレアチーズちゃんとも、発情期以外には顔をあわせても無関心な仲でした。それにひきかえ……
 もとよりパン工場の人たちにはなべてずぼらな面がありました。特に目立つのがジャムおじさんですが、このおやじはパン工場では神のごとき存在なのであげつらうことはできません。どの辺が神かというと、まず性欲からしてそうでした。生理中のバタコさんとの交接をなおさら好む、という困った性癖もあったのでバタコさんが音を上げた時にはしょくぱんまんやアンパンマン、カレーパンマン(順不同)を掘る、しゃぶらせるという悪趣味すらありました。しかし本題はジャムおじさんの性豪(!)ぶりではなく、パン工場の人たちがいかにずぼらであったかということなのです。
 まずトイレの後に水を流さないなどは基本中の基本で、追い炊き式のお風呂はもう何年も水替えしていないのはエコロジー的にも良しとすら思われていました。生肉をさばいた包丁をすすぎ洗いもせずあらゆる調理パンに使うので、ジャムおじさんのパンを主食としている町の人たちはサルモネラ菌、リステリア菌、ボツリヌス菌などにはすっかり耐性が出来ており、肝炎持ちなど当たり前というありさまでした。しかしこうしたことはすべて自然界の掟みたいなものですから、ジャムおじさんが原因でなくても多かれ少なかれ起こることなのです。天国では誰も病気にならず、歳も老いないというのが本当なら、この町の人たちは天国に住んでいて、それはジャムおじさんのずぼらな謎の不老不死パンのおかげでした。
 めいけんチーズは退屈のあまり伸びをしました。数代前のチーズが数代前のレアチーズちゃんと交尾中に腹上死して以来(二足歩行もできるので、正常位もするのです)、犬小屋は二匹がつるむのは無理なサイズに改築されたのでした。まあ犬小屋だけが縄張りではありません。しぶしぶ起き上がると、めいけんチーズはパン工場の要所要所に放尿してまわりました。マーキングはめいけんの証ですからね。


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 心が!叫びたがっているんだ、とばいきんまんは言いました。何を叫びたいんですかホラー?とホラーマン。かびるんるんたちも当惑して身を寄せ合いながらばいきんまんを遠巻きにしました。内心では彼らも大したことはないと舐めていましたが、ばいきんまん自体は大したことなくても、ばいきんまんが騒ぎ出すことで過剰反応して先攻防衛してくる正義が出てくると甚大な被害が出るのです。特にかびるんるんたちなどは個々の人格を持たない攻守両用兵器と見做されていましたから、早い話が使い切りの捨て駒扱いでした。捨て駒……
 心って何ですかホラー?だいたいそんなものばいきんまんさんはお持ちになっているんですか、とホラーマンは当たり前のように訊ねました。良い質問だ!とばいきんまん、そんなものあるわけないではないか。ただ言ってみただけだい!かびるんるんたちはホッと胸(比喩的な意味ですが。なにしろカビですからそんなものはありません)をなでおろしました。それでは何でそんなことをいうんですかホラー?それはだな、このおれさまには青春時代というものがなかったのだ。青春とはどんなものか、それらしいことを叫んでみたら少しは青春というものも理解できるかと思ったのだ。そうですかあ、とホラーマン、私にはたぶん青春時代というのもありましたよ、ガイコツになるまでそれ相応の人生があったはずですから。お前に青春?忘れちゃいましたけどねー、だってガイコツしか残ってませんからホラー。
 そこに作戦会議室(であり、食堂であり、居間)のドアを蹴飛ばしてドキンちゃんがずかずかと入ってくると、タオルを巻きつけたバットでホラーマンの大腿骨を水平にスコーン!とかっ飛ばしました。ありゃー、と床に小山のように崩れ落ちたホラーマンの骨にいちべつをくれると、ドキンちゃんはフン!?と吐き捨てて出て行きました。ホラーマンは自動的に復元すると、何だったんでしょうかねホラー?女心はわからん、とばいきんまん。あら、じゃあドキンちゃんには心があるんですねえホラー。いンやそれは言葉のアヤというものだ、とばいきんまん、女心と心とは等価でも部分集合でもないものだ。まー言うならば、一種のキツネ憑きみたいなものだな。
 性差別的な発言はヤバいですよホラー、とホラーマンは慌てて取りつくろいました。ところでまだ、心が、叫びたがっているんでらっしゃるんですか?
 おれさまがか?冗談じゃないや!


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 クソったれ!とジャムおじさんは言いました。環状にジャムおじさんを取り囲んで追い詰めたかびるんるんたちは、意表を突かれもしましたし、さらには自分たちが敵対しているものが自分たち以上に下品な存在だったのにショックを受けないではいられませんでした。もっともジャムおじさんはかびるんるんたちの衆目を意識して悪態をついたのではありません。ジャムおじさんは股間に当てていた左手の握りこぶしを胸元にゆっくり上げると、右手のライターに着火しました。左手の握りこぶしから一瞬、青い炎が破裂しました。握りっ屁に火をつけたのです。よしよし、とジャムおじさんはひとり言を言いました、うむうむ。
 かびるんるんたちはずっと不可視のままジャムおじさんを監視していましたが、便秘のジャムおじさんが奮闘しながら指でほじくり出す姿や、ついでに前立腺オナニーにふけるのやら、トイレの壁に貼ってある「水を流すのは寝る前だけ」というエコロジーな標語やら、ほじった指をわざわざ嗅いで恍惚の表情を浮かべるジャムおじさんをどこまでばいきんまんに報告すべきか、次第に暗鬱な気分になっていきました。かびるんるんたちの総帥たるばいきんまんも気まぐれなことは組織の長のご多分に洩れず、つまんないことばかり調べてきやがって、と逆切れされないとも限りません。ではばいきんまんはどんな報告を期待しているのかというと、バタコや新発明のパンが焼けたよ、食べると誰でもテストで100点がとれる天才パンだ、というような大ニュースなのでした。
 そんなパンを配られでは世の中の偏差値が発狂するではないか、おれさまがぶっつぶしに行くのだ、とばいきんまんは言うでしょう。しかしパンはつぶせても、ジャムおじさんが健在な限りいくらでも新しいパンは焼かれるわけで、根本の解決法はジャムおじさん暗殺計画でしかないことは、ホラーマンには無理でもかびるんるんたちでさえ理解できることでした。ですがそこで発生する問題は、ジャムおじさんを本当に抹殺してしまえば、ばいきんまんにもすることがなくなる、ということでしょう。
 つまりばいきんまんにとってジャムおじさんとパン工場は必要悪のようなもので、ごめんで済んだら警察要らないみたいなものでした。それを知ってか知らずにか、ひたすらパン作りに励むジャムおじさんの側では、ばいきんまんの存在を必要とはしていなかったところに最大の不均衡があったのです。


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 スノークくんはご存知ないかもしれんが、とジャコウネズミ博士は言いました、ヘムレンさんと私は併せて69もの学位を取得しておるのだ。これはわれら二人でムーミン谷に国際大学を開校するに十分な資格があると意味する。
 なるほど、私はその唯一の生徒というわけですなはっはっは、とスノークは謙譲して答えましたが、どうやら今は社交辞令など問題ではない議題にさし掛っているのにすぐ気づきました。それで博士、おっしゃりたいことは…。
 まあこれから話すことは、すべて一種の比喩と考えてくれたまえ、とヘムレンさん。わしらは二人ともR.D.の学位を持っておる。つまり修辞学博士だな。修辞とは時として論理的思弁より真実に近づくことがあるということさ。
 たとえば真実には二種類ある、とジャコウネズミ博士がすかさず言いました、雨の日は雨降り、これは帰納的真実で、雨が降ると雨の日、これは演繹的真実。だがスノークくんが一日中部屋に閉じこもっていた場合はどうかね?
 博士、私だってインターネットくらいはしますよ。そしたら気象情報くらいは見ます。
 ではそのインターネットに流されている気象情報が偽情報だったらどうかね?
 当然違反申告します。とんでもない!
 それでは違反申告した先が必ずしも適切な対応をしてはくれず、そればかりか矛盾しあう情報のいずれも自己責任として放置しているような状態だったらどう判断するね?
 ええと、何を?
 天候!今日が雨降りかどうか。言っておくがきみは部屋の中にいるんだぞ。窓の外を見るのも駄目だ。
 テレビを観ます。
 テレビは広域気象情報しかやっとらんよ。
 じゃ、地方局。ムーミン谷TVを観ます。
 あそこは自社番組は天気予報やローカル・ニュースすらやらんぞ。島根県松江市や神奈川県座間市の天気を観てどうする?
 じゃあ117番に電話……
 駄目、ルール違反。そもそもきみは、質問の主旨がわかっているのかね?
 自分は何もせずに部屋にいながら天気を知る方法なんでしょう?あ、これはルール違反ではないですよね?……フローレンに訊く。
 ピンポーン、とヘムレンさんとジャコウネズミ博士は微笑みました。だがそれはきみがフローレンの兄だからだ。全世界がきみなら、きみにとってのフローレンに当る存在。それが世界とムーミンの関係なのだよ。つまり、真実を媒介する唯一の存在。
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 何このクソつまんない番組!?とドキンちゃんは激怒しました。


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 続きだ、とばいきんまんは言いました。たぶんこの古文書に謎の鍵があるのだ。
 ムーミン谷にレストランが出来たそうだよ、とムーミンパパが新聞から顔を上げると、言いました。今朝のムーミン家の居間には、
・今ここにいる人
・ここにいない人
 が共に集まっています。それ程広くもない居間に全員収まるのは、ムーミン谷の住民は人ではなくトロールで融通が利くからです。
 そうだ、我が家は食事のふりはずっとして来たが、それは家庭的雰囲気の演出の為であり実際に食事をした事はない。そうだねママ?
 そうですよ、とママはおっとりと答えます。
 私がパイプを燻らせ安楽椅子で新聞を読むのもそうだ。魁新報ムーミン谷版は半年に一度しか出ない。半年に一度の紙面を年中読むのを新聞と呼べるだろうか。ムーミン谷にはタウン誌という物もないのだ。
 ねえパパ、それで新聞にレストランが出来たって載ってたの?と偽ムーミンが無邪気を装って尋ねます。その頃ムーミンは全身を拘束され地下の穴蔵に幽閉されていました。
 かなり冷え込み、また拘束のストレスもあり恒温動物なら苦しむ環境ですが、トロールなのでただ動けないだけです。容貌は瓜二つなので、なにか弱みを握るたび偽ムーミンはムーミンを脅して入れ違い遊びを強要しましたが、弱みを握られる側にも落ち度があると考え屈服してしまう卑屈さがムーミンにはありました。
 ねえレストラン行くの?と再び偽ムーミン。よく見ると頭部の旋毛の部分からアホ毛が三本生えている事でも偽物だと気づく筈ですが、ムーミン谷の人々は細かい事は気にしません。
 そこだよ問題は、とムーミンパパ。レストランに行くには予め幾つかの条件がある。まず正当な連れがいる事、これは問題はない。ムーミン一家だからな。正当な連れ?おかしな組み合わせでレストランに行くと変だという事だよ。例えばママがスナフキンとミイの三人でレストランに行ったらミイをアリバイにした不倫のように見えるだろう?
 あなた止めてくださいよ、とムーミンママがおっとりたしなめます。
 なら簡単に言おう。ムーミン、きみはお腹が空いたことがあるか?
 うん。そうか。でも一家で食卓につくともう空腹ではなくなるだろ?私たちムーミントロールは食事のふりをするだけでいいのだ。だがレストランでは実際に料理を食べなければならないのだぞ。
 全然わかんないわよ!とドキンちゃん、これがいったい何だっていうの!


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 つねづねジャムおじさんは新しい刺激を求めてきましたが、それには相手を変えるのがいちばん手っ取り早いとわかっていながら面倒くさがりの性分なのとせっかちなのとで、もっとも身近なバタコさんを相手にことを済ますのがほとんどでした。バタコや、お前も女の子なんだから女友だちくらいパン工場に呼んでいいんだよ、おいしい菓子パンをふるまうからね、と食い気につられてパン工場にやってきた女の子たちはことごとくジャムおじさんのえじきになりました。催淫剤くらいならともかく、気に入った女の子にはジャムおじさんは特に効果が切れると禁断症状をきたす危険なスパイスすら調合したパンすら与えるほどでした。
 バタコや、とジャムおじさんの呼ぶ声にぶどうの実の種とりをしていたバタコさんがジャムおじさんの部屋に行くと、最近毎日、ともすれば朝晩のようにパン工場に立ち寄る友だちのズベコさんが意識を失って半裸で椅子に座らせられていました。口を開き、半眼になった目は飛び出しそうで、顔から首まで真っ赤に紅潮していました。どうしちゃったんだろうねえ、とジャムおじさん。ひょっとして、とバタコさんはテーブルの上のパンに目をとめると、少しちぎって味をみると吐き出し、これを食べさせたんですか?この子が欲しがるんだよ、とジャムおじさん、このパンを食べると元気が出るってね、それで今日はいつもよりも、もっと元気が出るパンを食べたいと言うのでね……。
 ジャムおじさんはバイアグラの常用者でした。しかしバタコさんが味見したパンは、バイアグラどころではない効果をもたらす成分が高い純度かつ高濃度で含まれており、少し確かめてみただけでもバタコさんの舌を痺れさせるほどでした。とにかく横にして、それから胃を洗浄しなければ、とバタコさんは思いましたが、さすがのバタコさんも食事が不自由な人に食べさせてあげることは得意でも、吐かせるのは得意ではありません。
 血圧計で測ってみると、上は300を越えていました。お医者さんを呼ぶ?駄目、未必の故意とはいえジャムおじさんの不名誉になる。内々でどうにかしなくては、とバタコさんはアンパンマンたちを呼ぼうとしましたが、その時ヒッ!と大声を上げると、ズベコさんは椅子から転げ落ちていたのです。
 バタコさんは友だちに駆け寄りました。どうだね?とジャムおじさん。亡くなりました、とバタコさんは、自分ではなくて良かったと思いました。


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 夜ノアンパンマンは80回で終わることになる、とジャムおじさんは言いました、つまり今回を含めてあと12回だな、私たちがやってきたことは一種の我慢大会みたいなもので、いかに真実から目を逸らし続けるかを競っていたようなものかもしれないが……「ミートボール1つ」という歌を知っているかな?男がふらりとレストランに入った、所持金とメニューを見較べて、男はウェイターに向かって頼んだ、ミートボール1つ、ウェイターがキッチンに向かって怒鳴った、ミートボール1つ。われわれが口に出せないでいるのはそれだ、たかだかミートボール1つと言えずにいるようなものだ。
 でも、とカレーパンマンはのどもとまで出かかって、やめました。おいらの言いたいことくらい誰だって言わなくてもわかることだ。おいらの立場はいちばん辛い、なにしろ変な乳頭に縛りつけられて誰も来てくれない。誰も今朝は様子が変だと思わないのだろうか?アンパンマンがいない、身の丈ほどもある乳頭がアンパンマンの部屋にある、そのことを誰も気づいていないとしても、今朝はカレーパンマンはどうしたのだろう、と誰も心配している様子がないのはどういうことか。カレーパンマンはせっかちだからね、きっとひとりで先にパトロールに行ってるんだよ。おおかたそんな風に納得しているのだろうか?だとすれば普段のおいらのせっかちな態度が悪いのか?それにしても、とカレーパンマンは考えこみました。
 おいらが来た時に部屋にいたジャムおじさんとバタコさんはばいきんまんとドキンちゃんの変装だった。ばいきんまんはおいらを縛り上げて、この部屋の様子を観たから来た、というようなことを言ったのだ。ばいきんまんが言っているのは監視カメラで観て飛んで来た、ということで、この乳頭の化け物を指しているとしか思えない。ばいきんまんだけが24時間モニターでこの部屋で夜ノアンパンマンに何が起こったかを知っている。それはミートボールのように誰もが知っているものとは違う。
 その頃しょくぱんまんは最近朝寝坊ばかりだ、やっべえと思いながらしょくぱんまん号でパン工場に向かっていました。道を渡ろうとしていた女の子がびっくりして転び、バスケットを道に落としてしまいました。
 ごめんなさいお嬢さん、としょくぱんまんは車を停めてバスケットを拾い上げました。はじめまして、きみの名前は?いちごミルクちゃんです、と女の子は答えました。


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 ここはどこですか、とアンパンマンは訊きました。どこだと思うかい、と人ほどの身の丈があるウサギが訊き返しました。そうですねえ、とアンパンマンは辺りを見回すと、どうやら幸せそうとはとても見えない人や動物たちが、自分以外にはまるで誰もいないかのように足もとにうつむきながらうろうろしていました。かつては何かしら目的や理由があったのに今はそれをなくしてしまい、失ったものに代わる何かを探しているとも、探すこと自体が目的であり、理由になってしまって、もうそのことにも疲れ果てているとも見えました。
 ぼくはここで何をすればよいのだろう、とアンパンマンはふと考えると、自分も今、ここにいる人たちと同じように目的を見失いかけているのに気づいて慄然としました。この人たちはどう見えるかね、とまたメガネのウサギは訊いてきました。不幸せに見えます、とアンパンマン。なら不幸せなのも喜ばなくてはいけない、とウサギは腰の後ろで手を組んで、ふい、と横向きになりました。こんなに痩せたウサギだったのか、とアンパンマンが唖然とするくらい、横を向いたウサギのからだはうすっぺらでした。それはまるで印刷物の紙面から抜け出てきたようでした。
 そのページをめくると、次に出てくるのは無人になったしょくぱんまん号でした。ついさっきまでしょくぱんまんがいちごミルクちゃんを同乗させ、ついでにカーセックスにはげんでいたしょくぱんまん号は、今は事故や故障の様子があるわけでもないのに、狭い2車線道路の中央をさえぎるように真横にふさいでいました。悪事の最中に止めに来るアンパンマンたちに来たな、お邪魔虫!とかんしゃくを起こすのはばいきんまんの習性ですが、しょくぱんまん号が今、日中の公道のど真ん中に駐車中なのは、ばいきんまんが逆切れするまでもなく公衆のお邪魔虫そのものでした。しょくぱんまんはカーセックスは着衣のままするのを好みましたが(通行人が通ってもごまかせる利点もありますし)、今しょくぱんまん号には、いちごミルクちゃんの摘んでいたいちごのカゴだけでなく、しょくぱんまんといちごミルクちゃんの着衣も座席に落ちていました。
 ジャムおじさんはふと、バタコや、お前もいつでもお嫁に行ってもいいんだよ、と言いました。私は死ぬ前に冗談は言わんよ。
 わかりました、とアンパンマンは言いました。ここは地獄です。
 地獄じゃない場所なんてあるかね?
 第七章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2018年5月24日・25日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(5)

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 ついにベティカーの名を映画史に刻みこんだバート・ケネディ(1922-2001)脚本、ランドルフ・スコット(1898-1987)主演の、のちに「ラナウン・サイクル」と呼ばれるようになった7連作の第1作『七人の無頼漢』'56と第2作『反撃の銃弾』'57をご紹介できる番になりました。記念すべき第1作はジョン・ウェインのプロダクションのバトジャック・プロでプロデューサーにアンドリュー・V・マクラグレンとロバート・E・モリソン、ノンクレジットながらジョン・ウェインが当たっており、当初はウェイン自身の主演作として企画が立てられていたのが先輩俳優スコット主演に変更されたものでした。この第1作と第6作『決斗ウエストバウンド』'59はワーナー配給ですが、第2作~第7作はすべてハリー・ジョー・ブラウンが製作を勤めて第2作~4作はプロデューサーズ&アクターズ・カンパニー名義の製作=コロンビア配給、第5作と第7作はラナウン・ピクチャーズ名義の製作=コロンビア配給(第6作はハリー・ジョー・ブラウン製作ながら製作・配給ともワーナー)と、第2作以降は意欲的に製作ハリー・ジョー・ブラウン、監督バッド・ベティカー、脚本バート・ケネディ、主演ランドルフ・スコットという布陣によるシリーズ化が行われたものです。ベティカーは'52年~'53年にユニヴァーサル社に6作の西部劇を残しているのはこれまでご紹介した通りですが、『七人の無頼漢』での強靭な作風は目を見張るものがあり、20世紀フォックスでの闘牛士メロドラマ『灼熱の勇者』'55でセンチメンタルな方面を突きつめたのがこの作風への転換のためのつゆばらいにつながったのではないかと思うと、徹底してベタな人情メロドラマだった同作を作り上げたのがベティカーを吹っ切らせた結果がもうたいへんな『七人の無頼漢』という画期的作品に向かう遠因になったと思うと『灼熱の勇者』も無駄ではなかったということで、『灼熱の勇者』がまだユニヴァーサル時代のベティカー作品の延長とすれば『七人の無頼漢』は一気にユニヴァーサル時代の西部劇とは隔絶している。さかのぼって「ラナウン・サイクル」のベティカーのルーツを探ろうとすれば共通する発想もあるのですが、スタンダード・サイズからシネマスコープ、ほんの2年ほどの経過でここまでというほどまず映像からして違うのです。すぐあとにサム・ペキンパーやセルジオ・レオーネ、のちにピーター・ボグダノヴィッチやマーティン・スコセッシ、クリント・イーストウッドがベティカー西部劇の跡を追うのは『七人の無頼漢』からの「ラナウン・サイクル」連作があるからであって、ユニヴァーサル時代の作品(またはその延長上の作品)だけでは小佳作を数編残した旧時代末期の監督として忘れられていたでしょう。逆に『七人の無頼漢』や『反撃の銃弾』の監督の旧作として観ればユニヴァーサル時代の作品もそれぞれ見所があるのは見てきた通りで、ここからがベティカー西部劇のフル・スロットル突入期です。'56年(第1作)から'60年(第7作)が、ランドルフ・スコット60歳前後の、俳優生活最後期の連作主演作になったのも特記すべきで、『七人の無頼漢』がジョン・ウェイン主演で作られたらこうはならなかった運命的な作品群なのも不思議な感慨を誘われます。

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●5月24日(金)
『七人の無頼漢』Seven Men from Now (バトジャック・プロダクション=ワーナー'56.Aug.4)*78min, Technicolor, Widescreen : 日本公開昭和32年('57年)6月22日 : https://youtu.be/hB-IdQfiS9o (Trailer)

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 岩山だらけの荒涼とした西部。本作を始め「ラナウン・サイクル」は映画冒頭から主人公が西部を移動する過程で事件に遭遇しますが、出発地点では町並みがあっても事件の場所は荒野で、立ち寄り舞台となる家があっても外も中も大差ないような掘っ建て小屋みたいな粗末なバラックです。町並みはオープン・セットとしても本編のほとんどは岩山地帯に掘っ建て小屋を建てただけのアラバマ・ロケで行われているそうで、また途中インディアンの襲撃を受ける場面がありますが(2008年ユニヴァーサル復刻版DVD)、各種映画サイトを見ると2016年の国立近代美術館上映を観た方の感想で「先住民の襲撃の知らせが入るシーンはあるが実際の襲撃シーンはないのは人種問題への配慮か」という記載があり、本作含め「ラナウン・サイクル」全7作は2017年に日本盤初DVD化されていますが、筆者が揃えている2008年のアメリカ盤DVDではインディアンの襲撃シーンはあります。現行日本盤DVDは未確認ですが、そうしたカット版ヴァージョンも出回っているという証言として参考になります。本作のインディアン襲撃は侵入者である白人の馬車を撃退しようとする様子ですから差別的な意図は絡まず、むしろ未開の西部はインディアンの仕切る土地であって白人にとっては危険な地域だったことを歴史的観点から描いているので「先住民族のインディアンは白人に敵対的」という偏見を助長することには必ずしもなりませんが、所蔵フィルム交換でアメリカの公的映画アーカイヴから取り寄せた本作のプリントがカット版だったらしいのは現代の一部のアメリカ人には本作のような内容であってもインディアン描写を問題視する態度がある、ということでしょう。それはともかく、本作が成功しているのはアラバマの荒野ロケがドラマのほぼ全編を占めているからで、ユニヴァーサル時代の西部劇は屋外シーンもおそらくオープン・セットだったのでことさらサボテンなど生やしてありましたが、本作の荒野は本当にもう岩山と少し芝みたいな草しかない荒涼とした西部で、おそらくこんな鼠一匹ハエ一匹いない荒涼とした西部はサイレント時代の一部の映画以来なのではないか。トーキー初期では同録の必要がありましたしダビング技術が開発してからも撮影の利便性からはオープン・セットの方が便利ですし、広大なハリウッドには地平線まで続く西部のオープン・セットくらい何壺もあるわけです。サイレント時代の『キートンの西部成金』'25などは大規模な撮影班を組んだ本格的な西部ロケですが猛暑でフィルムが溶けてしまうのでカメラを氷嚢で包んで撮影したそうで、クライマックスが西部の死の谷で終わる『グリード』'24というすごいのもありましたがシュトロハイムやキートンのようないかれた監督だから過酷な西部ロケなどを決行するので、普通は美術的に整理された西部のオープン・セットを使う。ベティカーもユニヴァーサル時代は会社所有のオープン・セットを使って事たれりとしていたのですが、本作はワーナー配給とはいえ独立プロ製作です。バトジャック・プロは主宰者ジョン・ウェインの主演作などは配給会社と提携して大作企画を立てますが、本作はランドルフ・スコット主演と決まった時点でB級映画予算だったと思われる。原作・脚本のバート・ケネディはジョン・フォードのジョン・ウェイン主演作『捜索者』'54のイメージでロバート・ミッチャムを主演に想定して書いたそうですが、結局ミッチャムにも自分が出ようかと思ったウェインにも決まらず、大御所なのにあまり偉くない「B級西部劇を代表するスター」ランドルフ・スコットに決まった。スコット撮影時の'55年秋には57歳です。フレッド・アステア映画やスクリューボール・コメディの助演で二枚目性格俳優の演技派の実績もあるのにスコットは出世作の「ゼイン・グレイ連作」'32ー'34(全8作)からB級西部劇スターのイメージが抜けない不思議な人で、どの辺がB級かというとスクリューボール・コメディの名作『ママのご帰還』'40でプールから上がってくると女性客たちが「ジョニー・ワイズミュラーさん?」と二枚目の肉体美っぷりに騒然となる、と、B級西部劇だけでなく特大ヒットしたアステア&ロジャース映画の『ロバータ』'35や『艦隊を追って』'36のロマンス・パートでは主役を張っているのに、ターザン役者と間違われてしまう役をコメディ映画でやっている。二枚目で長身のスタイルいい好漢なのにあまり特徴のない二枚目なので観客にすらランドルフ・スコットの顔が浸透していないので、しかもスコットの出世作でヘンリー・ハサウェイ監督の初期作品「ゼイン・グレイ連作」はスコットはもっぱら受動的に事件の成り行きに立ち会っているうちに悪漢同士が自滅するような話が多く、むしろスコットの相棒役の初老保安官役のハリー・ケリー(サイレント時代から西部劇スターのシニア)の方が渋い魅力で印象に残るほどです。'30年代後半~'50年代前半もスコットはB級西部劇の主演、一般映画の助演で名のみ高くして印象は稀薄という不思議な俳優だったので、10歳あまり年少のジョン・ウェインがB級西部劇から出てアメリカ映画を代表するスターになるような存在ではなかった。同年輩のハンフリー・ボガートやフレッド・アステア、ゲーリー・クーパーや、ウェインと同年輩のジェームズ・スチュワート、スコットとウェインの半ばの年配のケーリー・グラントやヘンリー・フォンダと名を上げていくとスコットの落ちこぼれ具合は気の毒なほどで、上記の面々で「ジョニー・ワイズミュラーさん?」と間違われるような俳優がスコット以外にいるでしょうか。逆に特徴がないようなのが特徴というのがスコットの宿命だったので『七人の無頼漢』から始まる「ラナウン・サイクル」連作はスコットの俳優キャリア最後期の畢生の代表作となったとも言えます。『灼熱の勇者』に続いて日本公開された、その日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 愛妻を殺した7人の無頼漢を追う元保安官が主人公の西部劇。バート・ケネディの原作・脚本によって「灼熱の勇者」のバッド・ボーティカーが監督、「中共脱出」のウィリアム・H・クローシアが撮影監督を担当した。作曲指揮はヘンリー・ヴァース。主演は「勇者の汚名」のランドルフ・スコット、「密輸空路」以来久々のゲイル・ラッセル。「攻撃」のリー・マーヴィン、テレビ・スター、ウォルター・リードらが助演。
○あらすじ(同上) 7人組の無頼漢に愛妻を殺され、大金を奪われた元保安官ストライド(ランドルフ・スコット)は、一味を追って馬を進めるうち、幌馬車に乗ったジョン・グリーア(ウォルター・リード)とその妻アニイ(ゲイル・ラッセル)と出会い、カリフォルニアの宿場まで同行することになった。駅馬車中継所に着いたストライドは、マスターズ(リー・マーヴィン)とクリート(ジョン・ベラディーノ)という2人の男と知り合い、彼らも加えて一味の潜むと思われるフロラ・ヴィスタの町へ向かった。翌朝、一行はインディアンに襲われる牧童らしい男を助けるが、インディアンが去って間もなく折角助けた男をマスターズは射殺した。彼は、この男こそ7人組の1人だと、不気味な笑みを浮かべてストライドに告げた。その夜の露営で、マスターズは、しつこくアニイに戯れ始めた。怒ったストライドはマスターズを殴りクリートとともに追出した。そのマスターズはフロラ・ヴィスタの町に入り7人組の首領ボディーン(ジョン・ラーチ)と知り合った。ボディーンは、奪った金をグリーアの幌馬車で運んでくることを漏らし相棒になれとマスターズに奨めた。が胸に一物あるマスターズは即答を避けた。一方、ストライドは単身フロラ・ヴィスタに向かったが、途中ボディーンの部下2人に狙われ相手を倒すが自分も重傷を負った。後から着たグリーアとアニイに彼は助けられたが、親身に介抱するアニイは、夫にすら示さなかった愛情にあふれていた。ところが馬車の中でストライドは、グリーアがボスのボディーンに大金を届ける途中だとアニイに語る言葉から総てのカラクリを知った。開き直ったストライドは、7人組の残りを引寄せるため、金が欲しいならここまで来いとボディーンへの伝言を持たせ、グリーアを町にやった。町で、事の次第を告げたグリーアは直ちにボディーンに射殺された。そして間もなく部下を連れて現れたボディーンとストライドとの間に戦いが始まった。が、ボディーンは後から来たマスターズに射たれ、部下は逃げ去った。ほっとしたストライドがマスターズの助太刀を感謝しようと思った一瞬、そのマスターズが金を寄こせと迫った。大金を独り占めにしようとするマスターズは遂に馬脚を現したのだ。睨み合いの数分、一瞬早くストライドの抜打はマスターズを倒した。家へ帰るストライド。アニイも彼との愛の巣を求めていくだろう。
 ――本作こそがベティカー西部劇の黄金パターン、すなわち平和ながら荒涼とした西部の情景→人妻または未亡人との出会い→悪党が加わる→そしてドロドロの死闘へ、と殺伐とした展開を見せる、一般的な西部劇のイメージよりさらに西部劇くさいベティカー西部劇を強烈に打ち出した作品です。ユニヴァーサル時代の西部劇もこの図式を頭に置いて観れば原型はそこかしこに見られたものの本作から始まる「ラナウン・サイクル」連作の諸作ほど意識的なパターン化はされていないので、これは本作の成功でベティカー監督・ケネディ脚本・スコット主演の連作を企画した次作~最終作の7作までを手がけたプロデューサーのハリー・ジョー・ブラウンの手柄でもあるのですが、本作ではアンドリュー・V・マクラグレンのプロデュース、バート・ケネディの脚本がベティカーとスコットの潜在能力を引き出したと言ってよく、また本作はコンパクトな尺の中にウォルター・リード演じるヒロインの夫の秘密の役割、敵なのか味方なのかわからないリー・マーヴィンの行動など意外性も富んでおり、ゲイル・ラッセルの人妻ヒロインぶりともどもジョン・ウェインもしくはロバート・ミッチャムが主演でもおかしくない風格がある。つまり本作では視点人物は主役のスコット以外にリードやマーヴィンに割れるサブ・プロットがあるので、次作『反撃の銃弾』以降は主演のスコットに視点は統一されるようにりますから、まず独立した作品として本作があって本作を精製して2作目以降が作られた分、本作では以降のシリーズの要素は出そろっているもののスコット以外の人物の比重も高いドラマ構成を取っているとも言えます。ウェインやミッチャムなら副人物がどれだけ重要でも主役たる強烈な存在感がありますが、スコットの場合はリードと大差ないかマーヴィンには負けてしまいそうな存在感なのでかえって本作の土壇場で強いスコットには意外性がある。スコットだって風格のある西部男を演じてさまになっているのですが、あまり強そうに見えないのに危機に見まわれるのでそれがサスペンスになっている。これはつづく第2作以降でもそうなので、一見平凡そうな主人公が逆転劇に賭ける図式に意識的に特化されます。初期の「ゼイン・グレイ連作」からスコットのキャラクターはあまり変わっていませんが、勘と機転と気合いで窮地を切り抜ける役柄が50代後半の年齢に見合っており、演技に燃焼感がある。マーヴィンの二挺拳銃の早撃ちのアクションは見せてもスコットの対決シーンでは早撃ちで撃たれた相手を見せ、撃った銃を構えたスコットに切り替わるという具合に激しく機敏なアクションは演出上の処理で割愛していますが、全身を使った体技はしっかり見せています。敏捷というより慎重かつ判断が早い様子をきちんと描いているので身のこなしそのものがスコットのキャラクター描写になっており、またゲイル・ラッセルも5年後にアルコール依存症由来で病死してしまうのが惜しまれる愁いのあるヒロインぶりが本作では女性を上手く描けなかったベティカーがようやく上手く描けたヒロインになっており、本作以降に描かれるヒロイン像の原点と言えるのも注目されます。

●5月25日(土)
『反撃の銃弾』The Tall T (プロデューサーズ&アクターズ・カンパニー=コロンビア'57.Apr.1)*78min, Technicolor, Widescreen : 日本公開昭和33年('58年)2月21日 : https://youtu.be/BEqrN4l6mqM (Full Movie) : https://youtu.be/S4SJ_NS1fS8 (Trailer)

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 アメリカでは古典映画を文化財指定する法律「アメリカ国立フィルム登録簿」が'89年から施行され、毎年25編の映像作品(劇映画、ドキュメンタリー、アニメーション、自主製作映画の長短問わず、公開から10年以上を経過したアメリカ作品)が選出されていますが、本作『反撃の銃弾』は第12回の2000年にアメリカ国立フィルム登録簿に選定されており、第12回の時点で登録作品はちょうど300作ですから2000年時点のアメリカ映画ベスト300に入ると真っ先にベティカー作品から永久文化財保存指定されたのが本作なのは妥当ともちょっと意外な気もします。『七人の無頼漢』からの「ラナウン・サイクル」7連作はどれも工夫と見所があって甲乙つけ難いのですが、1作選ぶなら第1作『七人の無頼漢』か特例のワーナー作品『決斗ウエストバウンド』か最終作『決闘コマンチ砦』あたりになりそうなのを、あえて第2作の本作が選ばれたのは意図的なシリーズ化では本作から「ラナウン・サイクル」が始まったとも、'80年代半ば以降ようやく名声が高まったエルモア・レナード(1925-2013)の初期短編が原作なのも要因かもしれません。本作の特徴は「ラナウン・サイクル」連作でも極端に舞台と登場人物が限られていることで、おおむねシンプルな設定・プロット・展開のシリーズ中でも本作の凝縮度は非常に高く、冒頭に出てきて主人公のスコットが戻るとすでに殺されている旧友の駅馬車宿駅番の親子や町で会う親友や牧場主以外は新婚旅行に出たばかりの夫婦と駅馬車駅を乗っ取った3人組の強盗しか出てこない。主人公と夫婦、3人組の強盗だけの監禁対決ドラマです。このパターンは現代劇ならルイス・アレンのフランク・シナトラ、スターリング・ヘイドン主演の小傑作『三人の狙撃者』'54があり、それより前に西部劇の駅馬車宿駅への強盗籠城ものにヘンリー・ハサウェイの『狙われた駅馬車(Rawhide)』'51 (アメリカ/20thC.フォックス'51)があり、B/W86分の小品ながらに主演タイロン・パワーとスーザン・ヘイワード、脚本はダドリー・ニコルズのオリジナル、撮影は当時『イヴの総て』直後のミルトン・クラスナー、音楽監督はライオネル・ニューマンで、ヘイワードは孤児の姪の幼女連れなら4人組の強盗団にはヘイワードに手をだそうとする下卑たジャック・イーラムがいる、と小粒ながら見事なサスペンス西部劇でした。パワーとヘイワードの共演は他ならないベティカーの本格的映画界入りのきっかけになった(闘牛技術指導)『血と砂』'41の踏襲であり、またハサウェイがスコットの出世作のゼイン・グレイ連作の監督だったのを思うと本作『反撃の銃弾』が『狙われた駅馬車』が下敷きではなくても何かこんなのあったなあ、とスタッフなりキャストなりが思い出してもおかしくなく、本作がベティカー飛びきりの傑作と見なされたなら同じくらい決まっている『狙われた駅馬車』が平均点のハサウェイは過小評価ではないかと当たり外れのない一流中堅大家のハサウェイが器用貧乏に見えてくるのですが、ベティカーの本作は過酷で殺伐かつ荒涼としたムードでは'60年代映画を先取りしているので、そこが高評価のポイントになっているのでしょう。コロンビア配給ではあってもプロデューサーのハリー・ジョー・ブラウン主宰のプロデューサーズ&アクターズ・カンパニー(のちラナウン・ピクチャーズ)によるインディー映画であることも評価に加算されていると思われ、本作の成功からか次作『デシジョン・アット・サンダウン(日没の決闘)』、次々作『ブキャナン・ライズ・アゲイン(ブキャナン馬に乗る)』はそれなりに都合もついたか室内セット、オープン・セット撮影が中心の映画になりますが、本作は指摘した資料はないものの『七人の無頼漢』のアラバマ・ロケとほとんど同じロケ地を使っているのが岩山の景観からわかります。映画冒頭で主人公が町に用事に向かい、新婚夫婦と同乗するまでは西部の町の屋外セットでしょうが、そのあとの駅馬車宿駅行きや強盗団に乗っ取られた宿駅は荒野に掘っ建て小屋を建てただけの完全な屋外荒野ロケで展開されるので、ほとんど砂ぼこりをかぶって紗をかけたように色彩のない、空が青いだけの岩石地帯の西部がシネマスコープ画面のカラー撮影だけにかえって殺風景さが際立つのも登場人物の多かった『七人の無頼漢』よりいっそう効果を上げており、メジャー会社製作ではそれなりに彩りを加えるのが慣習ですが本作ではおそらく『七人の無頼漢』より低予算しか組めなかったため俳優の出演も最小限なら舞台、構成ともほとんどミニマムな実験的手法のインディー映画に近づいている。アメリカのBC級映画のあなどれないのはそれが大衆娯楽映画のフォーマットで平然と作られていることで、ヨーロッパ映画や日本映画で同じことをやると意図的なアメリカ映画の換骨奪胎という感じがどうしてもつきまといます。ベティカー映画の場合は本当に丸裸の西部劇らしいリアリティがあるので、中堅のイメージがつきまといながらもハリウッドの一流監督のハサウェイからベティカー映画が一歩を進めた観があるのがこの従来のハリウッド映画とは違う西部劇世界で、そこがニコラス・レイやサミュエル・フラーと並んで次世代の映画を予見するような、従来の撮影所システムでは描かれなかったような映像を作り出したと言えそうです。'50年代のベティカー作品の半数は日本未公開ですが、本作は新作のうちに日本公開された数少ないベティカー作品のひとつなので初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) エルモア・レナードの原作を「七人の無頼漢」のバート・ケネディが脚色、「灼熱の勇者」のバッド・ボーティカーが監督した西部劇。撮影はチャールズ・ロートン・ジュニア、音楽は「赤い連発銃」のミッシャ・バカライニコフ。主演は「七人の無頼漢」のランドルフ・スコット、ターザン映画でジョイ・ワイズミューラーの相手役をつとめ、「大時計」などにも出演したモーリン・オサリヴァン。それ「星のない男」のリチャード・ブーンなど。
○あらすじ(同上) 荒涼たる西部の荒野。その荒野の中に、停年を間近にひかえたやもめのハンク(フレッド・E・シャーマン)と、息子のジェフ(クリス・オルセン)が2人で暮らしている、駅馬車の駅があった。ある日、町でわからずやとして有名な牧場主テンボーデ(ロバート・バートン)の牧童頭であったパット・ブレナン(ランドルフ・スコット)がやって来た。テンボーデのところに種牛を買いに行く途中であった。飴を買ってくれというジェフのたのみを快く引き受けて町に向かったブレナンに、テンボーデは気の荒い牛をのりこなしたら種牛をやろうといった。牛からブレナンがふり落とされ、ケガをしたら、そこで口説こうという計画だった。ところが、ブレナンは牛からふり落とされたが、ケガはしなかった。しかしカケに負けたブレナンは馬を取りあげられてとぼとぼと引きあげて来た。ちょうどそこへ駅馬車が来た。ところが、この馬車には今朝結婚したばかりの鉱山主の娘ドレッタ・ミムス(モーリン・オサリヴァン)と夫の番頭ウィラード(ジョン・ハバード)が貸し切りで乗っていた。この結婚は、男まさりで縁の遠いドレッタにウィラードが財産目当てで求婚したと噂していたが……。ともかくブレナンはいさいかまわず乗り込んだ。そうしてハンクの家の前まで来た時、おりようとするブレナンの耳に、「銃を捨てろ!」という声が入った。馭者が銃をとろうとしたとたん、2発の銃声が起こって、馭者は倒れた。中からハンク親子を殺したアシャー(リチャード・ブーン)以下3人の強盗チンク(ヘンリー・シルヴァ)、ビリー・ジャック(スキップ・ホメイヤー)が現われた。金がないと知ったアシャーが3人を殺そうとした時、ウィラードは妻の父が財産家であるから、ドレッタを人質にして身代金を払うといって命乞いした。これを聞いて、アシャーも取り引きの有利なことを知ってこれを認め、部下の1人をつけてウィラードを町にやった。そのあとで、もう1人の部下はブレナンとドレッタを殺そうとしたが、アシャーはそれをゆるさなかった。なぜか、アシャーはブレナンという男に好意をかんじはじめていたためだった。やがて帰ったウィラードは、ドレッタの父が身代金を払うことを約束したといって、ドレッタをのこしたまま去った。そのうしろから銃声が起こった。アシャーの部下の1人が撃ったのだった。夫の死をなげくドレッタに、アシャーたちはウィラードの夫にあるまじき行為を非難して嘲笑するのだった。夫が自分に愛のないことは知っていたが、自分にプロポーズした唯一の男性としてウィラードを愛していたドレッタはなげき、やけになってしまった。そんなドレッタをブレナンはやさしく元気づけた。翌朝、アシャーが身代金を取りに行った。ブレナンはアシャーが行ったすきに、ドレッタとはかって彼の部下を2人とも射殺した。やがて帰ったアシャーを、昨日救われたお礼に見逃してやったが、一瞬アシャーの銃が火をふいた。しかし倒れたのはアシャーだった。ブレナンはドレッタをやさしくだいて牧場へ帰って行った。
 ――実際の作品に必ずしも即していない場合の少なくないキネマ旬報の紹介ですが、本作は極端にシンプルな作品なのでこのあらすじでも十分に詳細なくらいです。ヒロインがモーリン・オサリヴァン(1911-1991)、つまり往年のジョニー・ワイズミュラーのターザン映画で「ユー・ターザン、ミー・ジェーン」とジェーン役をやっていたオサリヴァンがヒロインで好演しているのもアメリカ本国で本作が「ラナウン・サイクル」を代表する名作とされている理由のひとつかもしれません。冒頭で駅馬車宿駅番のおじさんがスコットと昔なじみらしい会話をかわし、息子の少年が「町に出るならチェリー・キャンディを買って来てよ」とスコットに銅貨を渡しますが、スコットが夫婦と馬車で宿駅に戻ってくるとあっという間に友人の馬車の御者(アーサー・ハニカット)が射殺され、宿駅を占拠した強盗3人組が出てくる。強盗の頭がリチャード・ブーン(1917-1981)で、スコット、オサリヴァン、ブーンがメインキャストですから知名度はある俳優とはいえ華のあるキャスティングではなく、実年齢46歳のオサリヴァンは金持ちの娘ながら行き遅れで資産目当ての男とようやく結婚したという役です。この噂をスコットは馬車の御者をしている友人のハニカットから聞くのですが、ハニカットは真っ先に殺されてしまいますし、宿駅番も先に殺ったよ、と言って井戸をちらっと見る手下にスコットが息子もいただろ、と言うと「一緒だ」と返事が返ってくる。「ラナウン・サイクル」連作では映画冒頭からスコットが復讐者として登場する設定(『七人の無頼漢』がそうでした)と映画が始まってからスコットの復讐の動機ができる場合のどちらもがありますが、本作では友人の御者、宿駅番とその息子を次々惨殺されたスコットの無念が痛切なので、物語の開始前からスコットに行動の動機がある前者の型を捜索者型とすれば本作のような話は巻きこまれ型で、スコットの本来のキャラクターかつ観客が感情移入しやすいのは『七人の無頼漢』より本作の方かもしれません。同作のヒロインの夫が土壇場で尊厳を発揮していたのに本作のヒロインの夫は卑劣とは言わずとも最期まで逃げ腰のままなので、微妙なニュアンスは『七人の無頼漢』のヒロインの夫の方が富んでいますし、『七人の無頼漢』のリー・マーヴィンの本音の見えない怖さと本作のリチャード・ブーンの残虐非情なんだかお人好しなんだかわからない悪党ぶりではもともとキャラクターが違うので、ブーンの末期も悲惨と愛嬌半ばするものになっていますが、ロケ地を踏襲しスコット主演しないシリーズ化を狙った作品として『七人の無頼漢』からつながる面とあえて本作では変えてみた点がプロデューサーのブラウン、監督のベティカー、脚本のケネディ、主演のスコットの合議で検討されたのが極力シンプルにすっきり見せる本作に結実したと思われ、主人公のスコットが視点人物として筋の通った、完成度の高さでは副人物に視点の割れていた『七人の無頼漢』よりも練れた作品になっています。しかし本作で時点でシリーズが7作にもおよぶ構想があったのかどうか、本作の時点でも58歳のランドルフ・スコットには西部劇アクション映画俳優としてはもう年齢的な限界を感じていたと思われるだけに、「ラナウン・サイクル」連作は1作1作スコットの存在感と演技に強い燃焼感が感じられ、それまでの全キャリアを投入した観が深いので、ブラウン(製作)・ベティカー(監督)・ケネディ(脚本)の覚悟のほどが想像されます。

集成版『夜ノアンパンマン』第八章(完)

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 第八章。
 今日もこれから降りかかってくるばいきんまんの策略などいざ知らず、アンパンマンはジャムおじさんのパン焼き場に入っていきました。ジャムおじさんおはようございます、やあアンパンマンおはよう。おはようアンパンマン、とバタコさん、わんわわおーん、とチーズ。パン焼き場はいつもの通り、あらゆる種類のパンの焼きたての入りまじった薫りでむせかえるようでした。この薫りの中で一日中働き、くつろいですらいられるジャムおじさんとバタコさんにはアルコールを含めた酵母に常人を超えた耐性があり、それを言えば人間の数万倍の嗅覚を持つはずのチーズは犬として超めいけんの域に達していると言っても過褒ではないでしょう。アンパンマンの正義の背後にはこうした超人集団(犬も含む)がついているのです。アンパンマンは焼きたてパンの盛り合わせをちらりと見ると、それではお願いします、と自分の頭を外しました。
 大人が言葉を失い、幼児には何の疑問もないのがアンパンマンのこの特性です。頭が欠けたと言っては頭を取り替え、頭が濡れたと言っては頭を取り替え、頭が汚れた、カビた(ばいきんまんの手下のかびるんるんにたかられるとすぐカビます)と言っては頭を新しいあんパンに替えてもらわないと必殺技のアンパンチを繰り出すパワーが出ないどころか、全身の力が抜けてヘナヘナになってしまうのですが、とすれば全身の力そのものが頭のあんパンをエネルギー源にしているらしい。古くなったり味が落ちたりしただけでもパワーは低下するらしい。とすると、アンパンマンにとって真のアイディンティティは頭と身体のどちらにあるのか。そもそも簡単に交換可能なものを頭と呼べるものなのだろうか。
 そうした疑問もやはりスルーして、アンパンマンはジャムおじさんの「ほら、新しい顔だよ」を待ちました。いつもならこのやり取りはあうんの呼吸で進みます。ところがアンパンマンの肩は頭の重みを感じず、いったいどうしたのかな、と一旦外した頭を小脇に抱えると、ジャムおじさんがエプロンの端をねじりながら何か言おうとしているのに気づきました。どうしたんですか、とアンパンマン。ふと見ると、バタコさんも何だか硬い表情です。チーズはといえばしょせん犬畜生ですから、いつものニヤニヤ笑いのままです。
 アンパンマンや、とジャムおじさん、今日は新作をつけてみないかね。何ですかこれは?見ての通りさ、乳頭じゃよ。


  (72)

 ジャムおじさんとバタコさんがいなくなった調理室の中は、喪の明けたような安らかさが漂っていました。やりかけのまま放り出してあるパン種はじっくり時間の流れのままに醗酵してゆき、やがて酵母それ自体がみずからを分解しつくして、さらさらの灰へとたどりついていくでしょう。窓から差しこんだ光は誰の手もとも照らさず、部屋に闇が満ちても明かりを灯すひともおらず、そうして日差しと闇を交互にくり返しながら日づけのない月日が流れていくはずです。もう誰もこの部屋を訪ねてくることはなく、世界のすべての空腹を支えてきたほどのパンを焼いてきたかまどには二度と火は入らず、いつかここがパン工場だったのも忘れ去られていくでしょう。このパン工場をみなもととしてきた命のかずかずが役目を終え、小川にそよぐ水もすっかり澄みわたって、なにごともなかったかのように世界が始まる前の光景に戻っていくのをくい止められる手段はもう残されていないのかもしれません。
 それは本来おれさまがやるべきことだったのだ、とばいきんまんはじたんだを踏みました、でなければ、これまでおれさまは何のために暴れまわり、お邪魔虫どもに妨害され、最後はいつも青空の彼方にバイバイキーン、とぶっ飛ばされてきたのかすら、ただの徒労にすぎなかったということになってしまうではないか。正義はいつも無責任だ、とばいきんまんは思いました。確かにばいきんまんには、そう思うだけの資格がありました。いつから自分がアンパンマンに勝ち目のない戦いを挑み続けてきたのかもばいきんまんにははっきりわからなくなっていましたが、毎週のように連敗記録を塗り替えてきたことは確実で、ばいきんまんはそのたびにアンパンマンとのきずなが深まっていき、もはや引き返せないほどの関係になっているのを感じていました。しかしそれも、もはや思い出のなかにしかありません。戦いは一方的に終わらされてしまったのです。
 いまならこのいまいましいパン工場をぶち壊し、焼き払うこともできるのだ、とばいきんまんは思いました。そうすれば二度とアンパンマンは生まれ変わってこなくなる。だがジャムおじさんの野郎やバタコさんがが見捨てて行ったパン工場を今さら破壊したところで、おれさまには負け犬の遠吠えでしかないのは明らかだ。すべてはおれのひとり相撲だったとしても、おれはおれさまにしかできないことをしてきたのだ。もしそうでなければ……。


  (73)

 第73回。予定通りなら夜ノアンパンマンは今回を入れてあと8回で終わります。このお話しももう終わりに近づいてきました。
 ばいきんまんはドキンちゃんもいなければホラーマンもいないばいきん城の作戦会議室、それは居間でもあり食堂でもあり客間でもありトレーニングルームでもありかびるんるんたちの繁殖場でもあった場所ですが、今ではばいきんまんを出迎えてくれるのはあれほどこの部屋には似つかわしくなかった沈黙だけでした。えーいうるさい静かにしろ!とばいきんまんは何度怒鳴ってきたことでしょう。私に向かって何よその態度!とドキンちゃんが凄み返してくるのもいつものことでした。あーいや、ドキンちゃんは違うのよ、とばいきんまんはそのたび下手に出たものですが、甘やかしてるとつけあがりやがってこのアマ、という憤怒と痒いところに手の届く被虐感で、ばいきんまんにはドキンちゃんほど恰好の小悪魔はいませんでした。過去形です。いませんでした。
 ホラーマンはばいきんまんの手下でアンパンマンの味方という変なやつでしたが、つねに困っている方の味方につくという点ではこれほど信念のぶれない、言行一致の骨格標本はないと言えました。いなくなってみれば、あれほどわずらわしかった同盟関係にも感傷的な美化が伴うものです。お前は来なくていいんだよ!そんなこと言わないでくださいよ~、私にも手伝わせてくださいよ、と、しぶしぶホラーマンを連れて行った作戦で、何度せっかく窮地に陥れたアンパンマン側にどたんばで寝返りされたことでしょう。ほとんど毎回です。あっ私用事思い出した、先に帰るわねー!ま、待ってよドキンちゃん!アンパーンチ!バイバイキーン、とお空の星になるのがいつものばいきんまんでした。バイバイキーン、とばいきんまんはつぶやいてみました。ひとりきりの部屋でばいきんまんがふと洩らしたひとり言といえば、他にはなかったからです。
 だがそれではまるでおれさまもこの世からバイバイしてしまうみたいではないか。そんなわけはない。おれさまの生まれは人よりも古い。当然パンよりも古い。人は妖精を空想したが、その妖精よりも古く、神や悪魔よりも古いのだ。世界が存在する限りおれさまは存在し、おれさまが存在する限り世界は続く。それがおれさまをアンパンマンたちよりも優位に立たせる唯一絶対の根拠なのだ。
 しかしおれさまだけが世界に取り残されたら、どうだろう?


  (74)

 特別回・夜ノジャムオジサン。
 大河をさかのぼる地獄の観光船は突然の嵐にあっけなく転覆しました。ジャムおじさんは例によって客室でバタコさんを犯しながら船旅中の猥褻行為もオツだわいと悦に入っていましたが、扉が激しく開いたと思う間もなく船室中が浸水したので、さすがのジャムおじさんにもワケがわからず、ただ本能だけがジャムおじさんを必死で船室からの脱出に向かわせました。ジャムおじさんは左手でバタコさんの二の腕をつかんで離さなず、何とか岸に近づいて失神しているバタコさんの呼吸を確かめて肩を組み(溺死していたら助けるだけ無駄ですから)、振り向くと観光船は舳先だけ水面から出して完全に沈むのも時間の問題でした。そこでフッとジャムおじさんは意識を失いました。
 目が醒めると、ジャムおじさんは上流の村落でゴザの上に寝かされていました。やあ、目を覚ましたぞ、と村人たちがジャムおじさんを取り巻いているのがわかりました。他にも生存者がいるのだろうか、と訊きたいことはありましたし、船を沈めたのは彼らの仕業だった疑惑もあります。しかし細かいことまでは会話は通じないので、ジャムおじさんは村人たちに導かれて村の中央広場に連れられていきました。村民たちは車座になってバーベキューや大釜のシチュー料理を取り分けていました。自然発生的コミューンなんだな、とジャムおじさんは食事の様子から推察しました。というよりも、いわゆるサヴェージという奴等にサルヴェージされる羽目になるとはな。
 食事の後は歌と踊りの、ちょっとした宴会が始まりました。いつもの習慣なのか、ジャムおじさんをもてなしてのことなのかは、ジャムおじさんから見ても微妙な調子にうかがわれました。そして結局、この連中はいつもこんな風にしているに違いない、と憔悴しきった頭でジャムおじさんは考えました。大河の上流の岸に住むのは、まあ未開人というやつだ。それでも私が助かったからには、船の乗客全員が溺死したということもあるまい。
 するとジャムおじさんは、焚き火の周りで踊っている男のひとりがバタコさんの調理帽をかぶっているのに気づきました。ジャムおじさんは男を呼び止めました。
 その帽子はどうした、とジャムおじさんは訊きました。ああ、これは女の帽子、と男は身ぶり手ぶりで答えました。
 それでその女はどこだ、とジャムおじさんは訊きました。さっき食ったじゃないか、あんたも、と男は答えました。
 暗くて風の吹く夜でした。


  (75)

 助けを求めに川を下ったバタコさんのカヌーは滝壺に沈みました。その頃……。
 密林をさ迷っているうちジャムおじさんの意識は次第に朦朧としていきました。トード村長に外国人がいました、と報告が来たのは、ちょうど村長が本棚の前で腕組みをしていた時でした。ジャムおじさんを見つけたのはキノコ狩り人夫で、この密林はプロの人夫でさえも命がけの危険地帯なのです。
 熱病から回復したジャムおじさんは村長に丁寧な礼をし、密林に迷い込んだいきさつを説明しました。そうですか、と村長は親切に、ではしばらく村でお休みされたらいかがでしょう、と申し出てくれました。
 村長は村で唯一の外国人との混血で、この村が外国の植民地だった頃生まれたので、いわば世襲村長でした。ジャムおじさんは図書室に案内されました。あなたは本は読めますかな?と村長。ジャムおじさんがうなずくと村長は大喜びし、実は自分は文盲で村に唯一いた識字民は数年前に死んでしまいまして。はあ、とジャムおじさん。私は山本周五郎が好きでしてな、と村長、あなたがご滞在の間、良ければ本をご朗読願えませんでしょうか。
 それから毎日ジャムおじさんが「ながい坂」「さぶ」「季節のない街」と読んでいく日が続きました。これは宿泊費みたいなものだからな、とジャムおじさんは「青べか物語」の朗読を聞きながらはらはらと涙を流すトード村長を見ながら思いました。
 とっておきの名酒があります、と村長がご馳走を振る舞ってくれました。爆弾みたいな名酒とはこのことで、ジャムおじさんは泥酔して医療所へ運ばれました。それから村長は面会人を庁舎へ通しました。
 この人が来ませんでしたか、とジャムおじさんの写真を出されて、こちらです、と村長は村の墓地にアンパンマンとしょくぱんまん、カレーパンマンを案内しました。アンパンマンたちは1輪ずつ花を捧げて、ジャムおじさんの調理帽を遺品に持って帰って行きました。
 翌日、ジャムおじさんは二日酔いのまま起き出しました。見舞いに来た村長が、あなたのお知りあいが3人見えましたよ、今回は残念でしたがまたお見えになるでしょう、と言いました。今日はゆっくりお休みください、よければ次は「五瓣の椿」「天地静大」を、そして「樅ノ木は残った」と「赤ひげ診療譚」は最後のお楽しみにしたいものですね。なに、まだ時間はたっぷりあります。この村にはクリスマスもお正月の祝いもありませんのでね。


  (76)

 さて今年もあと5日、われわれの話も残り5回というと、この先は毎日1話ずつ駆け抜けなければならないぞ、とジャムおじさんは言いました、あと5回で片がつくような不始末ならいいのだが、それにはみんなが心を一つにしてかからねばならん。だが肝心なアンパンマンの姿が見えないではないか、とジャムおじさんは憤怒に堪えないというポーズをしました。具体的には握りこぶしを胸の前に持ち上げ、殴れるものがあるなら殴りたいと言わんばかりにぶるぶる震わせるという実にガミガミ親父的なジェスチャーで、実際ジャムおじさんには自分が怒ればみんなが着いてくると思っているような単純バカというか、飯場の親方みたいなところがありました。てかパン工場のボスなんて飯場の親方以外の何者でもないじゃない、といつもニコニコした表情でいながら、愛人1号(他にいませんが)のバタコさんですら腹の中では肝に据えかねていたのです。
 とにかく話はまた振り出しに戻ったというわけだ。アンパンマンはいったいどこへ行った、そしてアンパンマンの部屋にデンと出現したあのでかい乳頭みたいなものは何だ?ジャムおじさん、とバタコさんが口を挟みました、しょくぱんまんもまだ到着していませんけど。ああ、どうせ彼のことだから、食パンの配達中に拾った女の子とカーセックスでもしてるんだろうさ。しょくぱんまんは思わずくしゃみをすると、後背位で挿入していた逸物がニュルッと抜けて臀部に弾けました。どうしたの、といちごミルクちゃん。うん、たまにちょっとアレルギーっぽい時があってね。
 ジャムおじさん、ぼくならここにいます、とアンパンマンは心の声をどれほど上げてきたでしょう。しかしその声は届かず、巨大な乳頭に変化した体を動かすすべもなく、アンパンマンは床ずれの痛みにすら無感覚になってきたのを感じました。ぼくは何か悪いことでもして、その報いがこれなんだろうか、と典型的な罪業妄想がアンパンマンに訪れました。この状態から先へ進むと話は「詩」のカテゴリーから「メンタルヘルス」のカテゴリーへ移動させなければならないのでアンパンマンの心の声は無視して話を進めると、その頃ばいきんまんの、たぶん最後の大作戦は、確認を済ませてスイッチを押すばかりの段階へ入っていました。ばいきんまんにとってはこれは真剣な戦争で、ばいきんまんなりの正義がそこにはあったのです。それは少なくとも真実ではありました。


  (77)

 特別回・夜ノショクパンマン。
 ふむ、とジャムおじさんはひげをひねりました、おまえさんの発明の才は前々から承知しておったが、ここまで手広くやっておったとはシャッポを脱ぐよ、と本当に調理帽を脱いで禿げ頭を出しました。そうなのだ、とばいきんまんは注射針を慎重にバタコさんの腕から抜き、この薬が効いている間は心肺停止状態が続き、脳波も停止して医学的には完全に死亡したのと同じになる。しかし薬の効き目が切れるとすぐに完全に蘇生して、薬物の痕跡も残らないから、一定時間注射した相手を実質的に剥製も同然にしておくことができるのだ。そういう発明だがどうだろう、商品化できるだろうか?つまり、売れるかだが。
 売れると思うよ、とジャムおじさん、コスト、つまり原価次第でもあるが、こういう悪用しがいのあるものは闇で売る方が高く売れる。供給過剰では末端価格が下がるから、大量生産してコストを下げるにしてもちまちま売ってがめつく儲けるのが良かろう。おまえさんなら、どうせ原料はタダみたいなものだろう?ジャムおじさんとばいきんまんは顔を見合わせ、企むような笑いを交わしました。
 人類の歴史は毒薬の歴史とはよく言ったものだ、とジャムおじさんは注射器を手に取ると、これは要するにジュリエットが使ったという、アレだろ?そうそう、とばいきんまん、実はばいきん家先祖代々秘伝のやつをちょっとアレンジしてみたものなのだ。ほお、とジャムおじさんは感心した様子で、当時私の先祖もそこにおったよ、つまりわれわれは先祖代々からの縁があったのだな。
 では手を組むか、つまり見逃してくれるか?もちろんだとも、上前次第だが。再び両者は哄笑するといそいそと変装して、町の盛り場に飲みに行きました。
 誰もいませんね?入っていいよ、としょくぱんまんはいちごミルクちゃんと調理室に入ってきました。今日はパン工場はみんな出かけているみたいだな。しょくぱんまんも調理室でジャムおじさんがバタコさんとやっているようなことをやりたいと思っていたのです。これはきっといいものだぞ、としょくぱんまんはいちごミルクちゃんに置いてあった注射器を打ち込みました。いちごミルクちゃんは声も上げずにぐにゃりとなりました。
 しょくぱんまんは冷静な性格でしたから、すぐに事態の深刻さを理解しました。これは効きすぎちゃったってことだな、としょくぱんまんは判断すると本人の手に注射器を握らせ、素早く現場を立ち去りました。

  (78)

 われわれにも盆も正月もない、とジャムおじさんは吐き捨てるように言いました、人はパンのみにて生きるにあらず、さりとてパンなしに生きられずだからだ。私としては盆などは店屋物で済ませ、正月には餅でも食っていれば良いと思うのだが、人間50年も生きれば全歯義歯という老人もおかしくない。餅は危険だから法律で禁止すべきだというのも一部の人にとっては正論だろう。パンがないならケーキを食べればいいじゃない、という正論もある。ケーキが常食の家ではそれも通るだろう。年越しそばは毎年緑のたぬきしか食べられないといって、年末だけスーパーの海老天が暴騰価格になるのを恨むのは用意が足りない。安い時に買って冷凍しておけば1か月くらいは持つものだ。私が言いたいのは、ネズミが逃げた船やカナリアが死んだ炭坑に居残る馬鹿はいないし、子どもを懐柔するには食い物を食わせるのがいちばんということだ。私の言いたいことが何だかよくわからない?そんなの私にだってわかるものか!はぁはぁ、いつまで私にばかりしゃべらせるのだ?誰か意見のある者はおらんのか。
 くうーん、とめいけんチーズは困惑した鳴き声を上げました。それはパン工場全員の意見を代弁したものでしたし、言葉で言うと角が立つのでめいけんチーズが鳴き声で表すのがひとまず穏便だからです。ジャムおじさんは同意以外を他人に求めませんし、めいけんとはいえ犬の鳴き声などいくらでも解釈、または曲解することができます。仮にジャムおじさんが自分への反抗を鳴き声から聞きとったとしても、めいけんとはいえたかが犬ですから蹴っ飛ばして気を晴らせば良い。少なくとも誰彼かまわず怒りまくって目につくものはみんなぶち壊し、挙げ句に全員がボコボコにされる、もちろんチーズもそれに含まれるならば、先手を打って平身低頭しておいてジャムおじさんの暴発を防げるなら犬の謝罪など安いものでしょう。
 相変わらず馬鹿なことをやってやがる、とばいきんまんは監視カメラのモニターでパン工場の様子を観察しながら嘲りました。一方、乳頭に変貌したアンパンマンは、全身拘束同然による極度の無感覚状態から精神に異常をきたしつつありました。もはやアンパンマンは自分の肉体的存在に実体感を持てなくなり、精神だけがエーテルのように浮遊している感覚に陥り始めていたのです。
 その頃しょくぱんまんは、まだいちごミルクちゃんとカーセックスしていました。


  (79)

 ついに何もかもがなかったことにするしかなくなったな、とジャムおじさんは言いました。まずまだ来ていないしょくぱんまんを消そう、知らないうちに消されてしまうのは一種の慈悲みたいなものだからな。そしてジャムおじさんは宣言通りしょくぱんまんの存在を消し去りました。それとともにしょくぱん山も食パン工場も、しょくぱんまんのパン配達車も消滅しました。われわれの記憶にはまだしょくぱんまんの思い出がある、だが全員がこれから思い出もろとも消えていくのだから、どのみち同じようなことだからな。
 次にほとんどこの物語には関わりがなかったが、メロンパンナちゃんとクリームパンダちゃんに消えてもらおう。メロンパンナちゃんはアンパンマンの妹、さらにクリームパンダちゃんは末っ子としてパン工場のアイドルキャラクターを目的に作られた非戦闘用員で、いわばいてもいなくてもいいパン工場のお飾りでした。メロンパンナちゃんとクリームパンダちゃんもまたジャムおじさんによってその存在を消し去られました。これでよし、なかったことになった、とジャムおじさんは静かに、なにごともなかったようにひとりごちました。
 つぎにバタコや、お前ももう思い残すことはないはずだ。私がもう何十代目のジャムおじさんなのかわからないのと同じく、お前もいったい何十代目のバタコなのかは私にもわからない。だがその連鎖も今のお前の代で終わる。もうお前はバタコである必要はなく、そればかりかどのようにもお前の存在そのものがこれ以上の存続を必要としていないのだから。それはお前自身もその日が近いとうすうす感づいていたはすだ。ジャムおじさんが宣告するまでもなく、バタコさんの姿は時空のすべてから、あとかたもなく消滅しました。
 カレーパンマンはアンパンマンの寝室で巨大な乳頭に縛られていました。当然カレーパンマンはジャムおじさんの目的を知りませんでしたから、ようなくジャムおじさんがにっちもさっちもいかない現状をどうにかしてくれるものと思い、疑いのかけらもない喜色満面なおももちで口を開きかけました。ジャムおじさんは無造作にぶら下げていた散弾銃をカレーパンマンに向けると、次の瞬間カレーパンマンの首はあとかたもなく吹き飛んでいました。
 次はお前だぞアンパンマン!とジャムおじさんは叫びましたが、その声は静まり返ったパン工場に響くだけでした。アンパンマン、隠れていないで出てこい!


  (80)

 バタコさんはいつ目的地に着くとも知れない岩山を登っていました。休憩するたびに次に休むべき岩棚を視界ぎりぎりまで探しては、再び岩石がごろごろする危険な急斜面を這い上がり目的の岩棚にたどり着くのでした。それは直線距離にすれば十数メートルでしかありませんでしたが、家屋に置き換えれば数階建ての高低差をよじ登るのですからアンパンマンたちのような飛行能力や跳躍力、何より人間離れした不死身の肉体の持ち主ならぬバタコさんには身のほど知らずな大冒険とすら言えました。アンパンマンやしょくぱんまん、カレーパンマンなら雑作もなくなし得ることがバタコさんには命がけの決意であり、この役目がバタコさんにしかできない由縁もそこにありました。バタコさんの使命は山頂にただ石を積んでくるというだけのものであり、ただそれだけの行為が世界に再び奇跡をもたらす糸口だったからです。
 ばいきんまんですらすでに意を決したバタコさんには対抗するすべがありませんでした。アンパンマン、そしてジャムおじさんはばいきんまんにとってはっきり敵対勢力として存在していましたが、ドキンちゃんやホラーマンがそうであるように、バタコさんは直接にはばいきんまんとの敵対関係はない中立的立場だったからです。そしてバタコさんが今ごろになってしゃしゃり出てきた以上、ばいきんまんが準備を進めてきたアンパンマンたちとの最終決戦も実行に移されないまま全80回が終了してしまうのは目に見えていました。
 それではこれまでばいきんまんがやってきたことは何のためだったのでしょう。たぶんこうして水の泡になる皮肉のためです。ぼくにしてもそうだ、とアンパンマンは思いました。誰もがぼくを巨大な乳頭のような肉塊としか思っていない。実際のぼくがその通りだからで、ぼくが乳頭から元のアンパンマンに戻っとみせないことには話は終わらないはずだったのだが、もうその機会すらないままに夜ノアンパンマンは終わってしまうのだ。
 ジャムおじさんはバタコさんがいなくなったことにすら気がついていませんでした。
 そしてそれらのすべてがバタコさんには預かり知れず、知ったところでどうしようもないことでした。ですから、バタコさんは時間をかけて一人きりの険しい山登りを続けていたのでした。その時巨大な肉食鳥が急降下してくると、怪力で押さえつけたバタコさんの心臓をくちばしのひと突きでえぐり出したのです。
 完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第四部・初出2015年8月~12月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

中国初(?)のパンクロック・バンド!ドラゴンズ(龍=Dragons)

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ドラゴンズ 龍(Dragons) - 熱烈火焰 Ardent Flame (Barclay / Polygram, 1982)

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Originally Released as 7", 45rpm by Barclay / Polygram Records SO7B 1006, Japan, 1982
(Side A)
A1. Ardent Flame (Zedletski) : https://youtu.be/SiJm2xrPwLo
(Side B)
B1. Anarchy In The U.K, (Sex Pistols) : https://youtu.be/dA1u_QvUD5A

 1982年に突然フランス、日本だけで発売された謎のパンクロック・バンド、ドラゴンズ(龍=Dragons)。フランス盤がまず「中国からの流出テープ」として発売され、日本でもアルバムのみならずシングル・カットまで発売されたのですが、乏しいインフォメーションによると短波放送でパンクロックを聴いた中国のバンドが国内ではアルバム発売不可能なため香港軽油で流出してきた音源とのことで、発売時日本でもちょっとだけ話題を呼びました。ヴォーカル&エレキギター、胡弓、ドラムスという3人編成で中国語のオリジナル曲以外にもセックス・ピストルズとローリング・ストーンズのカヴァーをでたらめな歌詞で歌っており、中国語オリジナル曲は「Zedletski」となっていますがこれはフランスのレーベルが楽曲の著作権登録をした際の匿名ペンネームのようです。ドラゴンズのアルバム『ドラゴンズ・レヴォリューション』はその後一度もLP、CD再発売されず廃盤のままで、初発売時にも「でっち上げバンドではないか?」と疑われたのを裏づけるかのように新情報はまったくなく、やっぱり実在のバンドではなかったのではないかと思われますが、今聴いてもけっこう面妖で面白い怪作になっている。ピストルズやストーンズ・カヴァーのでたらめぶりもいいですが、中国語オリジナル曲の方が爆発力は強くて激烈な演奏が聴けます。今後再発売されるようなことがあったら案外再注目を集めるかもしれません。


龍(Dragons) - Parfums De La Revolution (Blitzkrieg Records, 1982) Full Album : https://youtu.be/QLbI3O2JfeM

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Originally Released by Blitzkrieg Records 200.333, France, 1982
Also Released as "Dragons Revolution" by Barclay / Polygram Records L28B 1030, Japan, 1982
All Songs written by Zedletski, expect noted
(Side A)
A1. Flamme Ardente - 2:24
A2. L'ile Du Temple Maudit - 6:04
A3. Eaux Vives - 4:28
A4. Anarchy In The U.K. (Matlock, Rotten, Cook, Jones) - 2:38
(Side B)
B1. Dazhai - 3:18
B2. Torche Rouge - 3:06
B3. Force Des Eaux Et Des Monts - 5:04
B4. Nouvelle Chine - 3:41
B5. Get Off Of My Cloud (Jagger/Richard) - 3:06
[ 龍(Dragons) ]
Kuo - vocals, electric guitar
Li - chinese violin (胡弓)
Liu - drums

映画日記2018年5月26日・27日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(6)

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 バッド・ベティカーの映画は『美女と闘牛士』'51以前の作品は日本では未公開で、それ以降の作品も半数は日本劇場未公開だったのですが、2010年代になって初期作品はDVD発売で初紹介され、2017年には『七人の無頼漢』からの「ラナウン・サイクル」7連作の日本盤DVD化がようやく実現しました。アメリカ本国でのDVD化は2008年に一斉にワーナー配給の『七人の無頼』『決斗ウエストバウンド』が単品、コロンビア配給の5作はボックスセットでいずれも廉価版発売されましたが、日本盤DVDは7作それぞれ単品しかも廉価とは言いがたい新作並みの価格の発売で、アメリカ本国のように再上映館やテレビ放映でちょくちょくベティカー西部劇が観られる具合にはいかない日本ではせっかくDVD化されてもよほどのマニアではないと手にしないのではないか、そうしたマニアはとっくに既発売のアメリカ盤DVDを持っているのではないかと思います。'53年以前の作品はパブリック・ドメイン化していますから廉価版発売もされていますが「ラナウン・サイクル」連作は'56年の『七人の無頼漢』から始まるので、ワーナーとコロンビア混成の全7作の一括ボックス化などもパブリック・ドメイン化の年限があと10年は進まないとかなわない。その頃には'50年代西部劇の、しかもB級映画規模予算の西部劇の愛好家などますますごく一部の映画マニアに限られている可能性も大きいので、再評価されたかに見えるベティカーも今が再評価の絶頂でまたしても観られず語る人もなく忘れ去られた監督になるのも十分にあり得ます。「ラナウン・サイクル」7連作は最初の2作『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』と最後の2作『決斗ウエストバウンド』『決闘コマンチ砦』が日本劇場公開され、第3作~第5作が日本劇場未公開で、今回の2作と次回のうち1作は日本ではかつてはテレビ放映され、映像ソフト発売でようやく正式紹介された作品です。映像ソフト発売以前にフィルム上映の機会も少なかったのであまり話題に上らない作品でもあり、また日本公開が見送られたのも何となく納得のいく、連作中ではカタルシスや爽快感の少ない凝った設定と展開に特徴があり、そこが連作でも代表作には上げづらい内容ながら見所にもなっています。連作全7作を観ると似通った作品ばかりに見えながらこれらは、実は連作にもかなりの幅があるのも改めて感じさせてくれる、連作中の異色作として異彩を放つ作品でもあります。

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●5月26日(日)
『ディシジョン・アット・サンダウン(日没の決断)』Decision at Sundown (プロデューサーズ&アクターズ・カンパニー=コロンビア'57.Nov.10)*77min, Technicolor, Widescreen : 日本劇場未公開(テレビ放映・映像ソフト発売) : https://youtu.be/bCFdacwdJ50 (Full Movie) : https://youtu.be/fp2PqAaSYo0 (Trailer)

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 本作と次作『ブキャナン・ライズ・アローン(ブキャナン 馬に乗る)』、その次の『ライド・ロンサム(孤独に馬を走らせろ)』はのちテレビ放映、特殊上映はされてもアメリカ本国公開時に日本劇場公開されなかった作品で、代わりに『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』から連作最後の2作『決闘コマンチ砦』までが日本公開された時期にユニヴァーサル時代の'52年~'53年作品が『平原の待伏せ』『シマロン・キッド』『征服されざる西部』『最後の酋長』の順でいずれも'58年作品として日本公開されたのが記録に残っています。監督なり主演俳優なりが共通する外国映画が製作順に日本公開されるとは限らず、むしろ注目作が公開されたのをきっかけに旧作・新作が平行または交互に公開されるようになるのはよくあることですが、7連作の間に57歳から63歳になったスコットにとって「ラナウン・サイクル」がキャリア最後の主演シリーズになったように、'50年代初頭から映画会社(製作プロ)の移籍ごとの契約期間の空白にテレビドラマの演出のアルバイトをしていたベティカーは、「ラナウン・サイクル」最終第7作と実話ギャング映画『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』をもって'60年を最後に映画界を離れてテレビに移ってしまいます。テレビの仕事を数年続けて事実上引退に入る間際にベティカーの西部劇第1作『シマロン・キッド』に主演したオーディ・マーフィが独立プロでベティカー作品の製作を買って出、テレビ規模の低予算で作られた『今は死ぬ時だ(A Time for Dying)』'69のあと30年あまりの逝去まで監督作はなく、同作がベティカーの遺作になりました。本作に戻ると、「ラナウン・サイクル」7作でも日本劇場未公開に終わった3作は連作中でも主人公スコットの立場(行動原理・動機)がわかりづらく敵味方も入り組んでいれば話の成り行きも観客の予想をはぐらかすように進み、結末もすっきりしない、と手がこんだひねり方をしています。『七人の無頼漢』もリー・マーヴィンに視点が分かれる話法がありましたが本作の場合はスコットの行動を追う視点とスコットが仇と狙う町の名士役のジョン・キャロルを中心にした人々の動向を客観的に描いていく視点に分かれており、何しろ相棒のノア・ビアリー・Jr.ともども町に乗りこんできたスコットはキャロルが資産家の娘と結婚を控えていると知るや結婚式に踏みこんできてキャロルにとある町と女の名前を問いつめて、キャロル殺害を予告し結婚式をぶち壊すのが冒頭の展開です。西部劇の主人公が復讐者=探索者型と巻きこまれ型に大別されれば本作のスコットはいきなり復讐者として現れるのですが、動機たる過去の因縁がなかなか明かされないため、ジョン・キャロルが観客の共感を誘うような人物像ではないので主客転倒とまではなりませんが、スコットの行動の正当性を明かすのが先送りして話が進むためスコットとビアリーの無法者二人が町の平和を荒らしに来たようにしか見えない。前回「ラナウン・サイクル」を製作ハリー・ジョー・ブラウン、監督バッド・ベティカー、脚本バート・ケネディ、主演ランドルフ・スコットが不動のチームのように書きましたが、実は本作と次作ではバート・ケネディは脚本を外れていてチャールズ・ラングがベティカーと共作で脚本を担当しており、この2作は原作小説の映画化ですから製作のブラウンによる企画でケネディが乗り気でなかったためラング脚本になったのかもしれません。また本作と次作は原作者は別ですが、西部アクション小説でもサスペンス・ミステリー要素が強い内容と思われ、プロットは大枠としては「ラナウン・サイクル」のパターンから外れないものですが展開・話法はクライマックスまで観客のストレスとフラストレーションが高まっていく手口を使っています。試写用プリントが配給会社までは来たのかもしれませんがそうした内容から内部試写だけで「これは当たらないだろう」と見送られたのではないか。2017年に「ラナウン・サイクル」連作7作が日本盤初DVD化された際のプレス資料の紹介を引きましょう。
○解説(メーカー・インフォメーションより) ランドルフ・スコットが凄みを見せる異色ウエスタン、本邦初公開!【スタッフ】 監督・脚本:バッド・ベティカー、製作:ハリー・ジョー・ブラウン、脚本:チャールズ・ラング、撮影:バーネット・ガフィ、音楽:ハインツ・ロームヘルド 【キャスト】 ランドルフ・スコット、ジョン・キャロル、カレン・スティール、ヴァレリー・フレンチ
○あらすじ(同上) 南北戦争後のサンダウンの町の教会で、町を牛耳る実力者テイト・キンブロウ(ジョン・キャロル)とルーシー(カレン・スティール)の結婚式が行われようとしていた。キンブロウの目当てはルーシーの父の財産で、愛人のルビー(ヴァレリー・フレンチ)を平気で式に参列させるような男だった。 祝宴に沸く町にバート・アリソン(ランドルフ・スコット)と相棒のサム(ノア・ビーリー・Jr)が現れた。バートは酒場でキンブロウの息のかかった保安官スウィード(アンドリュー・ドゥーガン)らに因縁をつけた。不穏な空気が漂う中で結婚式は始められたが、教会に乗りこんできたバートは、新郎のキンブロウに殺害予告をし、結婚式をぶち壊して馬屋に立てこもった。 町医者のドク(ジョン・アーチャー)はバートの行動にいわくがあると感じとる。バートは妻メリーを3年前に失い、その原因がキンブロウとの関係にあると信じ、復讐に来たのだった。だが、サムがスウィードの手下に背後から撃たれて死に、バートの怒りは頂点に達する。 いつものユーモアを封印し、アウトロー役に凄みを見せたスコットの演技。お決まりの対決は描かれず、曖昧な善と悪の対立、苦みの残る結末など西部劇の定番を覆した内容にスコット自身が製作を熱望したと言われ、正統派のヒーロー役から一転して新境地に挑戦した異色作。
 ――これでもよくまとめたもので、別に難しいことはない娯楽西部劇の小品でありながら、本作(また次作)を一見して家族や友人にどんな映画か簡単に筋を話せる観客はほとんどいないのではないかと思われ、それは何より主人公のスコットの行動の善悪がわからないからでもあれば、スコットと仇のキャロルの対決というかたちで決着がつかないからでもあります。スコットが殺害予告という形で行ったキャロルへの告発は町の雰囲気をキャロルに対する猜疑心に変え、相棒のビアリーは殺されてしまいますが町医者のジョン・アーチャーによってキャロルとスコットの過去の因縁、キャロルがスコットの妻を誘惑し自殺の原因を作ったのが明らかにされるので、ビアリーを殺されたスコットはキャロルの息のかかった保安官とその手下を撃退しキャロルと対決に向かいますが、すでに資産家とその娘の婚約者にも見限られて町の名士の座から失楽したヤケになっているキャロルはスコットの対決を進んで受けようとする。撃ち合いになるその寸前にキャロルは愛人のルビー(ヴァレリー・フレンチ)に脚を撃たれてしまい、愛人は待たせた馬車にキャロルとともに乗りこんで、町の人々の冷たいまなざしを浴びながら去っていきます。保安官たちとの銃撃戦で負傷したスコットも茫然とキャロルが出て行くのを見送ると、映画はそのままスコットが脚をひきずりながら町から歩み去る場面で終わります。キャロルが結婚しようとしていた資産家の娘のルーシー(カレン・スティール)はキャロルを見限りますが、この設定では土台無理ですがスコットと結ばれる展開にはならないのでヒロインの役割でもありません。仇の男を社会的に破滅させる具合にスコットの復讐は済んだと言えばいえますし、本当に殺害という手段で仇討ちしたら主人公もまた罪人になってしまうので、この話は原作からして主人公の極端な告発によって仇相手の過去の所業が露見し仇相手は社会的信用をすべて失い町から追放されてしまう、そんな筋立てのスモール・タウンものサスペンス・スリラーを西部劇で企てた作品と見るのが妥当でしょう。西部劇では普通こうした解決にはならずもっとばっさりと罪業は断罪されますから、本作も観客はそういうつもりで観始めて、それにしてもこれじゃランドルフ・スコットが言いがかりをつけに来たならず者みたいじゃないか、変な映画だなと思うと結局妙に陰湿な展開で停滞状態が続いて、婚約者が男に見切りをつけ情婦が決闘に割りこんで男と町から出て行く、と女が決着をつけることになります。一般的な西部劇なら何だこのグダグダの展開は、と突っ込みたくなるところですが、『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』と並べて観てくるとこれもスコット西部劇のヴァリエーションとしてありかな、という気がしてくる。ハッピーエンドでもバッドエンドでもない反ドラマ的ななし崩しの結末で、つじつまだけは一応合っている皮肉なものです。プレス資料の「お決まりの対決は描かれず、曖昧な善と悪の対立、苦みの残る結末など西部劇の定番を覆した内容にスコット自身が製作を熱望したと言われ、正統派のヒーロー役から一転して新境地に挑戦した異色作」とはよくまとめたもので、連作の1編としても本作についての正当な評価はまだまだこれからと思われます。また今後も改めて本作が突出した評価を得ることはないかもしれません。

●5月27日(月)
『ブキャナン・ライズ・アローン(ブキャナン 馬に乗る)』Buchanan Rides Alone (プロデューサーズ&アクターズ・カンパニー=コロンビア'58.Aug.1)*79min, Technicolor, Widescreen : 日本劇場未公開(テレビ放映・映像ソフト発売) : https://youtu.be/rHFFO3qe4Ic (Trailer)

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 前作『ディシジョン・アット・サンダウン(日没の決断)』が先立つ『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』とまず違ったのは、映画のほとんど全編が荒野の岩山地帯(アリゾナ・ロケ)で展開される前2作と違って撮影所の西部の町のセット内で展開されることで、室内はもちろん屋外も町中なのでオープンセットでしょう。さすがに2作連続アリゾナ・ロケのあとではハリウッド内の通える距離のセット撮影にしたいと主演のランドルフ・スコットからの要望もあったかもしれませんし(本作はついに60歳の作品です)、前2作の業績でベティカー、スコットともに出資者のプロダクション製作でも配給のコロンビアと話をつけて撮影所が使えるようになった、とも思われます。それではアリゾナ・ロケの荒涼とした西部が画期的だった『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』より後退ではないか、とする見方も当然あるでしょうが、ベティカーやスコットにすればそれらの作品で獲得したものを従来型のスタジオ撮影システムの中で試したい意欲もあったのが前作と本作のスモール・タウンもの西部劇であり、前作『ディシジョン~』が復讐者=捜索者(追究者)型主人公がネガティヴなかたちで登場する作品ならば、本作は形式的には典型的な巻きこまれ型主人公の話です。その名もアグリータウンという白人アグリー一族が仕切ってメキシコ人を搾取している町があり、若いメキシコ人が親族を殺された復讐のため支配者一族の青年に発砲する事件が起きる。リンチにあいそうになったメキシコ人青年を酒場に居合わせた流れ者のスコットが助けますが、メキシコ人青年もリンチから助けようとしたスコットもアグリー一族の保安官に逮捕され、絞首刑になりそうになる。そこにアグリー一族の先の青年の父親で町の判事(しかも保安官の兄)が処刑を止めにやってくる。何ら正義感でも何でもなくて、州議会が近いので公正な法執行のアピールのためにリンチ処刑を止めさせただけで、結局メキシコ人青年は死刑判決を受け、スコットは釈放されるも傭兵をして稼いだ所持金を保安官に没収されてしまいます。その上スコットは保安官に命じられた手下に命を狙われますが、判事が保身のために公平な人事アピールをと任命していたメキシコ系保安官助手がスコットを助け、さらに拘置中のメキシコ人青年死刑囚の脱獄の手助けを条件にスコットの財産(袋一杯の金貨)を取り戻す助けをしよう、と手を組むことになる。だいたいこういう話ですから撮影所内のスタジオ、室内セット、町中のオープンセットだけで話は展開されますし、それで過不足ないスケールの話です。本作も前作同様クレジット・タイトルではチャールズ・ラング単独脚本ですが、前作も実際はベティカーが共同脚本を手がけていたように本作でもベティカー、そしてバート・ケネディがノンクレジットながら共同脚本に参加しているそうで、原作小説の選択も前作より明快なものだったか『ディシジョン~』よりずっとすっきりしています。本作も日本盤初DVD化の際のプレス資料を引いておきます。
○解説(メーカー・インフォメーションより) 二転三転する面白さ!バッド・ベティカー監督×ランドルフ・スコット主演の秀作アクション・ウエスタン!【スタッフ】監督・脚本:バッド・ベティカー、製作:ハリー・ジョー・ブラウン、脚本:チャールズ・ラング/バート・ケネディ、撮影:ルシアン・バラード【キャスト】ランドルフ・スコット、クレイグ・スティーブンス、バリー・ケリー、ピーター・ホイットニー
○あらすじ(同上) トム・ブキャナン(ランドルフ・スコット)は、傭兵で稼いだ報酬を手にして西テキサスの故郷への道すがら、メキシコとの国境の町アグリータウンに入った。宿を取り、食事のために酒場に出向くが、そこで若いメキシコ人青年ホアン(マニュエル・ロハス)がロイ・アグリー(ウィリアム・レスリー)という若者を突然撃つという事件が起きた。 取り押さえられ袋叩きに合うホアンを助けようとしたブキャナンも共に捕らえられ、ロイの叔父で保安官のルー・アグリー(バリー・ケリー)によって、裁判もなく絞首刑にかけられることになってしまう。あわやという時、ロイの父でルーの兄の判事サイモン・アグリー(トル・アベリー)が現れ、公正な裁判を受けさせると言って私刑を止めさせた。 一人息子が殺されたのにサイモンがそうしたのは、州議会選を控え、法と秩序を守る人物像をアピールする絶好の機会だったからだ。しかし、サイモンによる裁判の結果ブキャナンは釈放されるが、弁明を一切しなかったホアンは死刑の宣告を受けてしまう。保安官はブキャナンから金を没収した上に、二人の手下に命じ、町はずれで殺害しようとするが……。 ハリー・ジョー・ブラウンとランドルフ・スコットの共同プロダクション製作によるウエスタンの秀作。「ラナウン・サイクル」と呼ばれる傑作群の中でも特に起伏に富んだストーリーで、二転三転する展開に目が離せない一本。未公開ながら西部劇ファン必見の娯楽作である。
 ――先に書いた通り本作後半はメキシコ系保安官助手のエイブ・カルボ(クレイグ・スティーヴンス)がスコットの危機を救う相棒になり、アグリー一族への復讐を図った同朋ホアンを救出する手助けをします。アグリー一族はメキシコ系アメリカ人を弾圧・搾取する権力者として描かれており、これがユニヴァーサル時代の'53年作品『平原の待伏せ』『黄金の大地』から持ち越してきた親メキシコ派アメリカ人監督ベティカーのテーマなのは、本作で十分に活かされていて頼もしい感じがします。本作はメキシコ人青年死刑囚ホアンの救出、さらにアグリー一族の青年ロイ(ウィリアム・レスリー)を人質に捕ったスコットの金貨袋(相当な金額、数年分の年収以上なのが暗示されています)との交換がクライマックスになっていますが、ロイの父の判事と保安官はアグリー一族の兄弟ながらたがいに強欲で仲も良くないのもこのクライマックスの伏線だったのか、と舌を巻くくらい活きていて、スコットは受動的な巻きこまれ型主人公がもともと似合いますが、スコットが防御と牽制だけしているうちに悪党同士が同士討ちで自滅していくパターンが本作では見事に決まっています。連作中例外的にヒロインに当たる女性が皆無という男ばかりの西部劇ですが、同性愛的な意味ではなく(カトリックのメキシコでは同性愛者はもっとも嫌悪・侮蔑の対象です)健康なメキシコ人青年ホアンが救うべき相手になっているので、本作にヒロイン登場の余地はなかったのでしょう。異色作という点では前作『ディシジョン~』と対をなし、また副人物が意外な役割を担うなど展開にも共通点があり、また全体としては連作中色艶の不足した作品ながら、『ディシジョン~』より積極的に良い所を見つけようという気にさせるのは、やはりバート・ケネディの脚本参加が要所要所をきっちり引き締めているのが作品に表れているからだと思います。そしてケネディが正式に脚本に復帰した次作『ライド・ロンサム(孤独に馬を走らせろ)』は新たにプロダクション名も「ラナウン・ピクチャーズ」となるのです。

集成版『NAGISAの国のアリス』第一章

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 10歳のアリスはお姉さんのロリーナ(13歳)と妹のエディス(8歳)といっしょに川のほとりに座り、ドジソン先生のお話を聞くのが好きでした。ドジソン先生は当年とって30歳、男ざかりの数学の先生で、年ごろの男性にはよくあることですが同年輩の男も苦手なら女ざかりの女性はなお苦手で、くつろげるのは第2次性徴期前の少女を相手にしている時だけ、というタイプでしたが、そんなことはアリスたちにはわかりません。ドジソン先生にとってこの三姉妹は、13歳のロリーナはぎりぎり相手にできる年ごろで、8歳のエディスは姉たちと並ぶと幼なすぎる。ですからちょうど真ん中の歳の、10歳のアリスが先生にはいちばんのお気に入りでした。さすがにそれは少女たちにも感づかれていて、アリスは靴の中に画鋲を入れられたり、砒素を盛られて髪がごっそり抜けたりしましたが、ドジソン先生が姉妹どうしの嫉妬に気づいていたかどうかはわかりません。
 「学生時代最後の夏休みに」と先生は話し始めました、「大ノッポ、中ノッポ、チビの3人は田舎の海に遊びに行きました。暖い陽気に誘われて3人は泳ぎましたが、その隙に服を盗まれ、かわりに軍服がありました。3人はそのため先々で密入国者扱いされ、パトカーに追われる破目になったのです」。
 そして、たまたまセクシーなおねいさんから温泉で服を盗んだらいいわ、とアドヴァイスされましたが、謎の青年たちに拳銃を突きつけられ、元の服に戻されてしまいます。彼らには何か事情があるらしいものの、3人には何が何だかさっぱりわかりません。ただただパトカーと青年たちを逃れて走り回らねばなりませんでした。追われているうちに3人は次第に逃げ方も隠れ方も上手になりましたが、今は都会が平和で天国のようなところに思えるのでした。三人の逃走に協力してくれたおねいさんは毒虫のような悪者の情婦でしたが、3人には天使のように親切でした。そんなうちに中ノッポがおねいさんに恋してしまいました。ですが3人はパトカーと、消えてはまた現われる謎の青年たちの拳銃におびえながら首都に向って逃亡を続けていかなければならなかったのです。
 先生、とロリーナは首をかしげました。そのお話にはどういう教訓があるのですか?
 いや、これは正確にはお話ではなく、と先生、動物ならば骨に相当する、プロットと言うものです。そして骨はそれだけでは動物にはならず、教訓もありません。


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 2016年は平成28年でしたよね、と姉のロリーナが訊きました。……
 2016年は平成28年ですよ、とドジソン先生は答えました。……
 平成28年は2016年なの?と妹のエディスは訊きました。……
 平成28年は2016年よ、と10歳のアリスは答えました。……
 玄関のドアポストには宅急便の不在配達票が入っていました。ずっと部屋にいたはずなのにどうして気づかなかったんだろう、とドジソン先生は思いました。ドジソン先生は不在配達票を手に取り、発送元・海外、内容・成人映画と記載されていましたが思い当たる節がないので、自分が注文したのではないからには誰かが自分に配達されるよう手配したのに違いない、と考えました。ならば誰が何の意図で、ということの方が重要なはずですが、ドジソン先生にとってはそれよりも、成人映画とはいったいどんな成人映画なのだろうかと気になって、気持が動揺したのでした。
 成人映画ってなあに?とエディス(8歳)。お話は黙って聞きなさい、とロリーナ(13歳)。きっとおとなの観る映画よ、とアリス。ドジソン先生、どんな映画だったの?
 先生は不在配達票の裏からバーコードをスマホで読み取り、在宅だからいつでも再配達してほしいと連絡しようとしましたが、サーバーがダウンしているとしか思われないエラー表示しか出ません。時間を置いて再接続するしかないか、とドジソン先生は思いましたが、その時ドアに硬いノックの音がしました。宅急便の再配達かな、とドジソン先生は、はーい今行きます、と三文判を台所の引き出しから取り出しました。どうしてチャイムを鳴らさないのだろう、たぶんさっきも今みたいにノックして、ノックの音は部屋の中には実はあまり響かないから気がつかなかったのだ。三文判を探しながらドジソン先生は再び大声で、今出ます、ハンコは要りますよね、と訊きました。宅急便ではなく認め印不要の普通郵便で、ポストに入らない大きさのものを郵便配達員が手渡しで届けに来る場合があるのです。しかしドアの向こうからは返答はありませんでした。
 聞こえなかったのかしら、とエディス。気持悪いわ、とロリーナ、私だったら居留守を使います。私は平気よ、とアリス、先生はどうしたんですか?
 ドジソン先生はドアの向こうにはもうノックの主はいない、と感じました。だが訪ねてきたのが何者だとしても、それはきっとその成人映画に関わることなのです。


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 ノックの音に気づいてドジソン先生がドアを開けると、そこに立っていたのは小さなエディスでした。こんばんわ、と小さなエディスは言いました。
 私そんなの知らないわ、とエディスは言いました。いいから黙ってなさい、とロリーナは妹をたしなめました。先生、それから?
 ドジソン先生はきみは少し小さすぎるみたいだね、と言い、ほら、お菓子を持ってお帰り。小さなエディスはうなずくと、チョコビのトロピカルフルーツ味を選んでドジソン先生に見せました。おや、そんなお菓子があったのかい。ドジソン先生はエディスにチョコビを渡すと、持ってお帰り、と言いました。
 それからドジソン先生が作りかけだった数学の問題に戻ると、また遠慮がちなノックの音がしました。どうしてチャイムを鳴らさないんだろう、とドジソン先生は思いました。うちのチャイムのボタンは、そんなに鳴らしづらいところについているのだろうか。ですがその理由は、ドジソン先生には思いもよらないことでした。なぜなら、部屋の主であるドジソン先生本人は自分の借りている部屋に入るのにチャイムを鳴らすことはなかったからです。
 よくわからないわ、とアリスは言いました。だって先生は理由がわかったんでしょう?そうでなければチャイムのことなんか話題にするわけないもの。
 いいから口を挟まないで、と姉のロリーナは妹をたしなめました。先生のお話にはまだ続きがあるのよ。ちゃんと聞いていればわかるわ。アリスは不服で、妹のエディスとせっせっせでもしたい気分でしたが、それも子供じみているので止めました。ドジソン先生は意にも介さない様子でお話を続けました。
 誰もがチャイムを鳴らさずドアをノックしたわけは、チャイムが酒臭かったからです、とドジソン先生は言いました。酒臭いチャイム?とロリーナは訊き返しそうになりましたが、話の腰を折っては駄目と妹たちに注意してきた手前、口を挟むわけにはいきません。
 ドジソン先生がドアを開けると、立っていたのは大きなロリーナでした。こんばんは、とロリーナは言いました。
 妹のアリスとエディスはロリーナのこわばった顔を見つめました。ドジソン先生はロリーナに真面目な口調で、きみは少し大きすぎるみたいだね、何か果物を持ってお帰り、と言いました。いりません、とロリーナ。そうかい、それなら手ぶらでお帰り。
 それから再びノックの音がしました。ドジソン先生は大根を構えました。


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 大根をどうする気なの?とエディスが訊きました。てにをはが間違っているね、とドジソン先生。大根を、ではなく大根で、が正しい。もちろん大根で人を殴るんだよ。
 暴力はいけないと思います、とロリーナ。それに食べ物をそんなふうに、粗末にするのも良くないわ。
 大根を棍棒がわりに使ってはいけないという決まりでもあるのかね、とドジソン先生。杖やレンガやブロックで殴るのは普通で、大根を使うと変態扱いされるのは公平を欠いてはいないかと私には思えてならないよ。
 変態とは言っていません、とロリーナ、私が言いたいのは暴力と、それから食べ物は粗末にしては……。
 そこだよ、とドジソン先生、どうしてパイなら人に投げてもいいが、大根で人を殴ってはいけない?
 それは暴力が……。
 そこよ、誤解は、とドジソン先生。私は暴力ではなく正当防衛のために練馬大根を握ったのです。
 正当防衛?とアリスは突っ込みました、先制攻撃の間違いじゃないの?だってまだドアも開けていなかったんでしょう?誰がいるのかもわからなかったはずじゃない。
 ドアの外で、酒臭いチャイムに顔をしかめながらドジソン先生に招き入れられるのを待っていたのはアリスでした。エディスが訪ねて帰され、ロリーナが訪ねて帰された後ではアリスが最終兵器になるしかありません。ところで、姉妹たちはなぜ、代わるがわるドジソン先生を訪ねたのでしょうか?
 エディスはロリーナを見ました。ロリーナはそしらぬ顔でアリスを見ました。アリスはエディスを見つめていましたが、ロリーナの視線を感じるとエディスの視線を誘導してロリーナにはちあわせさせました。ロリーナは姉の威信がないがしろにされた気持で末妹の助力を借りると、エディスとふたりでアリスに責めるような視線を浴びせました。アリスは伏し目がちでいましたが、ロリーナとエディスにはアリスの様子が姉妹の中で唯一、まだドジソン先生に追い返されてはいないのに由来する自信のように見えて、激しい嫉妬に襲われました。
 わかった、とアリスは言いました、私はドジソン先生を殺しに訪ねたのよ。だから先生は正当防衛で先制攻撃するために練馬大根を手に取ったんだわ。違いますか?
 おおむね違いません、とドジソン先生は言いました、ところで大根には、殴る以外の使い道もあります、とドジソン先生は練馬大根を振り回しながら言いました。練馬大根は変態倶楽部です。それをお忘れなく。


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 犬のメスの発情周期は6か月から8か月ですが、犬種により差があります。発情期間は約3か月で、この期間のうち前期1か月間が実際に交尾によって繁殖できる可能性のある期間です。発情期に入ると、メスは性器を自らなめる仕草が多くなり始めます。この時期にメスの性器が発するフェロモンが周囲のオスに発情期を察知させるので、余計なオスを興奮させないためにも、発情期のメスをドッグランなど不特定多数のイヌがいる場所に連れ出すのは控えた方が良いでしょう。次いで性器が充血して出血(生理)が始まる時期に移行します。その期間は平均10日前後で、この時期に相手のオスと同居させることで交配が行われます。
 交尾の際にはほかの多くのイヌ科の動物と同様に交尾結合が見られ、後背位で結合した後にオスがメスの尻をまたいで反対向きとなり、お尻とお尻を向かいあわせた状態で、長い時は30分以上交尾が継続します。交尾中はオスの陰茎は根元付近が特に大きく肥大してメスの膣から抜けなくなるため、射精が終了するまでは人の手でも引き離すことは困難です。ブリーダーによる血統証明書の申請の際は、この「お尻を向かい合わせた姿勢」の写真を根拠に交配証明書を作成することが一般的です。
 いっぽう練馬大根は、東京の練馬地方で作り始めた大根を言い、練馬区の特産品にもなっています。この地域の土壌が関東ローム層であり、栽培に適していたのです。練馬大根とは白首大根系の品種で、重さは通常で1~2kg前後、長さは約70~100cmほどにもなります。首と下部は細く、中央部が太い形状が特徴で、辛味が強く、沢庵漬けに適した「尻細大根」と、その改良型で煮て食べたり、浅漬に用いられる「秋詰まり大根」の2種類があります。
 利用法としては漬物、特にたくあん用として重宝されます。辛味が強いことから、大根おろしにも利用され、その他煮物、干しダイコンなどに使われます。
 現在生産量が少ない理由としては、収穫時の重労働があります。練馬大根の特徴が、首と下部は細く、中央が太いということがあり、収穫で練馬大根を引き抜く際に、非常に力が必要になります。ある調査によれば、練馬大根を引き抜くには、青首大根の数倍の力が必要であるといいます。そのため、高齢の農家への負担が大きいと言われます。
 ドジソン先生は目をつぶると、意地でも大地から抜けない明るい青空の下の練馬大根に思いをめぐらせました。


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 それが先生のおっしゃりたいことでしたの?とロリーナが受けました。こういう時に姉妹を代表するような態度に出るのが、いかにも3人姉妹の長女らしいロリーナのこざかしい面で、アリスやエディスが従順なのは決してロリーナに賛同してではありませんでしたが、いざ事がこじれた場合に長姉を矢面に立たせるのは得策なこともあるのです。その辺はアリスたちもちゃっかりロリーナのでしゃばりに便乗しているところがありました。もしロリーナが地雷を踏んでもそれは自爆というものです。
 遠くで汽笛が鳴りました。ポー。
 おおむね違いません、とドジソン先生は言いました、ところで大根には殴る以外の使い道もあります、とドジソン先生は練馬大根を振り回しながら言いました。練馬大根は変態倶楽部です。それをお忘れなく。
 ロリーナはエディスを見ました。エディスはそしらぬ顔でアリスを見ました。アリスはロリーナを見つめていましたが、エディスの視線を感じるとロリーナの視線を誘導してエディスにはちあわせさせました。エディスは妹の特権がないがしろにされた気持で長姉の助力を借りると、ロリーナとふたりでアリスに責めるような視線を浴びせました。アリスは伏し目がちでいましたが、アリスの様子がロリーナとエディスには姉妹の中で唯一、まだドジソン先生に追い返されてはいないのに由来する自信のように見えて、激しい嫉妬に襲われました。
 わかった、とアリスは言いました、ドジソン先生は私を殺しに呼び出したのよ。だから先生は不意打ちしようと練馬大根をつかんだんだわ。違いますか?
 違うわ、とロリーナは口をはさみました。先生ならそんな回りくどいことはなさらないわ。回りくどいこと?とエディス。そう、先生なら堂々とドアを開けてアリスが入ってきてから撲るわ。だって不意打ちする必要なんかないじゃない、そうでしょ?
 これはもちろん暗にロリーナならそうする、ということをドジソン先生に託して言っているのです。これを一般的には「当てこすり」と言います。いやあ先生も買いかぶられちゃったなあ、とドジソン先生は笑ってみせました。少女といえども女同士、しかも姉妹同士で揉めるとなると、博愛主義者のドジソン先生ですら手に余るというものです。
 そうだ、とドジソン先生はつぶやきました、犬でも練馬大根でもない、この姉妹たちにいま必要なのはウサギ、しかも食えないほどにとびきり腹黒いウサギなのだ。


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 昔アリスという女の子がお姉さんのロリーナ、妹のエディスと川辺にピクニックに来ていると、とドジソン先生は語り始めました、川の向こうに大きな樹がそびえ、その緑陰で3人のお婆さんがさっきからずっとひそひそ話をしているのに気づきました。
 アリスは気になってロリーナとエディスにも知らせようとしましたが、姉も妹もドジソン先生にきびしく命令されているので気づきません。どんな命令ですか?とロリーナ。もちろん何もしないでアリスのキャラを立てろ、という命令です。
 ブーイングするエディス。
 仕方なくアリスは自分ひとりで探りをいれに行こうと考えました。でもこの川は穏やかな小川に見えて、実はけっこう深いのです。アリスはとりあえず木の棒を野原から拾ってくると、これで水深を測りながら渡って行けるかな、と思いました。アリスが裸足になったつま先を伸ばした、その時です。
 バカだなあ、そんなことで渡れるわけないじゃないか、という声にアリスが振り向くと、ジャージの上下を着たウサギが立っていました。左手首にはピカピカ光って不似合いな高級腕時計をつけています。
 あ、今お前、時計が不似合いだと思っただろ?とウサギ。確かにこのロレックスは2,500万円するからな。おれだっていつもは夜会服が普段着だが、今日はたまたまそうしてもいられない事情があるのだ。
 どういう事情?とアリス。
 教えなーい、とウサギ。ところでウサギさん……。イナバって呼べ、とウサギ。イナバさん、とアリス、この川を渡るには、いったいどうしたらいいかしら。
 それをあんたに教えて、おれさまに何か得があるのか?アリスは当惑して黙り込みました。メルヘンの世界ではたかが相談は損得抜きだと思っていたからです。
 ただし得がないでもないな、とイナバさんは言いました。お前ちょっと、足を水につけてみろ。アリスは言われた通りにしました。するとたちまち上流下流対岸から、水面がワニだらけになりました。きゃあ、とアリスはあわてて川から飛び退きました。
 なかなかいいぞ、とウサギ。今の要領で川の水面がワニだらけになったら、すかさずワニの背中を飛び移って向こう岸に渡るんだ。ちょうどおれも渡る用があった。それじゃもう一度頼むよ。もう一度?
 それが私に何の得があるかしら、とアリスはイナバさんを川に突き落とすと、時計だけは惜しかったかも、と思いながら押し寄せるワニの背中を跳び渡りました。


  (8)

 ひどいな君は、とウサギはずぶ濡れの体をブルッと震わせながらボヤきました、いったい他人の命を何だと思っているんだい?
 アリスは何言ってやがるんだこのウサギ、と思いましたが、こうして川を渡りきってみれば川のこちら側には一度も来たことがないのに気づきました。今来た通りにまっすぐ戻れば姉妹たちとピクニックしていた場所に戻れるはずですが、見渡してみても川の向こうは遠すぎてよくわかりません。なのになぜアリスには川のこちらで3人の老婆がひそひそ話しているのが見えたのでしょう?
 それはロリーナやエディスが老婆たちに気づかなかったのと同じ理由かもしれません。見えたと思ったのは具体的な知覚に置き換えて錯覚していただけで、こんなに広い川幅をまたいでアリスに見えるはずはなかったのです。つまり君は呼ばれた、ってわけさ、とドジソン先生は言いました。そしたら君には道案内が必要になる。さもないと元いた場所に帰るにも帰れなくなるんだから。
 たあ!とアリスはずぶ濡れのウサギを蹴とばしました。イテッ!とウサギは悲鳴を上げ、暴力反対、相談になら乗るよ、と低姿勢になりました。ほお、とアリス、あんたに相談して私に何の得があると言うのかしら?たかがウサギ風情が知った口利くんじゃないわよ。
 イナバです、とウサギは言いました、いやあ私だってこの状況じゃお役にたてると思いますよ。たとえばこの腕時計、今何時か訊いてもらえればすぐわかる。
 そうね、とアリス、あんたを連れて歩けばいざという時に食糧に不足はないしね。
 真面目な顔して冗談は止めてくださいよ、とイナバさん、素直に道案内してくれって頼んだらどうです?アリスは無言でイナバさんの両脚をむんずとつかんで逆さ吊りにすると、別に私は今すぐ同じやり方で帰ってもいいんだから、と川に向かって戻りかけました。ギャー!とイナバさん、それは止めてください、今度こそワニに喰われてしまう。
 ワニに喰われるのと私の奴隷になるのでは、とアリス、ワニに喰われた方がマシだと思わない?どうよ?
 アリスのあまりにビッチな脅しにイナバさんはショックを受けました。陰毛も生える前の美少女にこんなことを言われて、ウサギならずともちびらない動物のオスはいません。
 はい、道案内します、とほとんど魅入られたようにイナバさんが歩き始めると、すかさず尻に蹴りが飛びました。行く先も訊かずに何よ!とアリスは怒鳴りました。


  (9)

 私ウサギってもっと可愛い動物だと思っていたわ、とエディス。そう思いたいところですがね、とドジソン先生、本来ならウサギはもっとチャーミングな動物だったかもしれない。しかし彼らにはちょっと間の抜けた性質があって、一匹が走り出すと周りのウサギもつられて群れをなして無我夢中で走り出すお調子者な本性がありました。そこでニュージーランドでは、両手に棍棒を持って草原に立って待っていると、ウサギの大群が走ってきたらめった矢鱈に棍棒を振り回すだけで大量の食用ウサギを収穫できるのです。そこから人間に対するウサギの深い猜疑心が生まれました。
 ひどいわ、とロリーナ、そんな野蛮人みたいな狩りを、どうして動物愛護団体は見過ごしていたのかしら?
 それはニュージーランド植民がわれわれイギリス人のご先祖様だったからです、とドジソン先生。動物愛護団体だって同胞を非難するような売国奴なことはしません。それにウサギの繁殖力はたまげたものですから、ひとにぎりのニュージーランド植民がモグラ叩きしたくらいでは減るもんじゃありません。かえって一定数は潰しておかないと、牧草不足で餓死するウサギまでいます。食物連鎖ってわかります?みなさんは学校で習いましたね。ウサギは牧草を食う。そのウサギをニュージーランド植民が食う。ニュージーランド植民はイギリス政府から植民税を絞り取られる。話をウサギに戻すと、一部のウサギが食用に狩られることで周期的な個体数の爆発を回避させられ、牧草面積に見合っただけのウサギが餓えずに暮らしていける。これは非常に合理的な話なのです。
 それじゃ目的地を教えてくださいよ、とウサギ、もっとも目的地を言えるなら道案内なんか必要ないんじゃないんですか?
 ウサギ風情が口答えしない!とアリスは柳の枝(まだ持っていたのです)をびゅんびゅん振りまわし、目的地は3人の婆さん連中が井戸端会議している木よ。
 イナバです、とウサギは身を縮ませ、あー了解しました、でも案内したらお嬢さんの将来に泥を塗りますよ、一応警告ですが。
 それってつまり、あんた案内したくないっていうわけなの?
 いや義務づけられているんです、とイナバさん、警告しても行くって言うんなら、それはお嬢さんの自己責任ですからね。
 たかがウサギに自己責任の説教されるとは思わなかったわ、とアリス。
 私の身にもなってくださいよ、と、イナバさん。それじゃ行きましょうか。


  (10)

 いちどにすっきりトイレが済まずに何度も何度も通うことをお釣りと言いますが、とウサギは用心深くアリスの持っている柳の鞭との距離を測りながら、こうして同じ目的地に向かうわれわれは、お釣りどころかもはや友だちと言っても過言なのではないでしょうか。
 私は他人とは主従関係以外の関係は認めないの、とアリスは冷たく拒絶しました。いくら私だってそんなに冷たくないわ、とアリス。そうかしら、とロリーナ、そんなに、というくらいなら自分に水くさい面があるのに気づいて認めるのにやぶさかではないってことね。エディスは姉たちのどちらに着くともつかず、ドジソン先生を従順な子犬のような目で見つめました。いとけない姉妹たちが媚を売りあっているのは悪い気持のすることではありません。
 しかしウサギ(イナバです、とウサギ)にとってはアリスはいつ暴君になるとも限らない危険な連れでしたから、アリスとの交渉は腫れ物に触るようなおっかなびっくりでした。3人のお婆さんですか、とウサギ。その婆さんたちが木の下でひそひそ話をしているのが、川の向こう岸から視えたんですね?
 アリスはムッとしました。見えたを視えた、体を身体ならまだしも躰、躯(この場合作りの区はメではなく品と書きます)などと中二病的な文字フェチぶり、日常言語でもないのに歴史的仮名遣いをひけらかす恥知らずがアリスは大嫌いなのです。もっともアリスにとっては大嫌いではないものを探す方が難しく、世界は大嫌いなものとせいぜい我慢できるものでできている、というのがアリスから見た世界でした。案外こういう子の方が成長すると俗な普通のおばちゃんになるので、誰しも程度の差はあれ反抗期はくぐってくるものです。
 見えたわ、とアリスは言いました、顔まではわからなかったけど、服装や姿勢がお婆さんだったもの。頭を寄せあっている様子だから、お年寄りで耳が遠かったんでしょう。
 それがお婆さんたちだという根拠になるわけですね、とウサギ。しかし一緒にいたあなたのご姉妹は気がつかないようだったというんじゃないですか。それは……とアリスは口ごもりました。それに、とウサギ、渡って来た時お気づきでしょうが、この川幅は相当なもんですよ。あなたは本当は自分でも、何か錯覚か幻覚でも見たとは思いませんか?
 アリスはグッと詰まりましたが、ここでごり押ししなくては女がすたります。それが何だって言うのよ!
 第一章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第五部・初出2016年1月~6月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

集成版『NAGISAの国のアリス』第二章

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  (11)

 第二章。
 正月、真昼、場所は川辺。あと必要なのはサルとイノシシとキジね、とアリスは言いました。私そんなこと言いません、とアリス。どうしてかね、旅のお伴は多い方が楽しくないかい?だから水玉の服も着なくちゃね、とドジソン先生は言いました。どうしてです?フィリピンではそうするんです、同じ島国として共感するものがありませんか?ちなみにエクアドルのお正月は人形を殴って燃やす、アメリカとオーストラリアでは何もしない、デンマークでは椅子から飛び下りる、スペインでは葡萄を12粒食べる、ペルーでは人と人とが殴りあいます。国はさまざま、世界は広いですねえ。
 そのうち風呂なし木造アパートだらけの国があります。ヤポネシア、とエディス(即答)。正解、エディスにはご褒美にリデル家ご令嬢の長女に就任していただきましょう。勝手に他人の家の家族構成をいじらないでくださいませんか、と敬語がでたらめなロリーナ。
 もうやめて!とアリスが割って入りました。私がイヌとサルとキジを探せばいいんでしょう?ちょっと違う気もしますが、とイナバさんは言いました、とにかく前向きにやる気を出したのはめでたいことです。気が変わらないうちにさっさと行きましょうか。ですが無事にたどり着けるとは保証はしませんよ。
 無責任な道案内に頼んじゃったわね、とアリスは心底後悔しました、もちろん私に心なんかないけどね。でも心がなければ底がないとは限らないわよ。とにかく問題はもう解決したも同然ね、とアリスはオホホホホホのポーズをイメージしました。
 ウサギ、とアリス。イナバです、とウサギ。いいからイヌとサルとイノシシを連れてきなさい。噛めない肉はよく揉んで持ってくるのよ。麺棒で叩いてほぐす手もあるけどね。
 都合良くスーパーカブが路傍に乗り捨ててありました。盗ってけと言わんばかりですねえ。とお!とアリスが蹴飛ばしました。だんだん快感になってきました、とイナバさん。そりゃどうも。じゃ次に良い目が出たら上がりよ、とアリス、んじゃ行くわよ。
 話はまとまりましたか、とドジソン先生。いえ全然、とロリーナ(即答)。まだ全然、とエディス。もうすっかり、の間違いじゃないですかあ、とドジソン先生は投げやりにやにさがってみせました。ほら、アリスはもう原チャリまで手に入れましたよ。ヘイ!
 手に入れてません、とアリスは言いました。手に入れてません、とアリスは言いました。


  (12)

 家族を人質に取られてはねえ、とドジソン先生、そう軽々しく動くわけにはいかないでしょう。この国は本当は他人のことなどどうでもいいくせに、国際的な拉致問題というとやたらと頭に血がのぼる人が多い。それで一気に強気な外交政策を掲げて支持層を集めようとする政党が出てくる、ところが選挙に大勝した後は何もしない。まるで南方戦没者遺骨収集団体のようだ。ところで、私は政治と宗教のことは話題にしないことにしているのです。となると話題はひとつしかない。
 つまりセックスですが、とドジソン先生は言いました、しかし13歳と10歳と8歳の姉妹にセックスの話などして私はどうしようというのでしょうか?実りのある話になるわけなどありません。とにかく川の向こうに渡ったアリスの行方を追ってみましょう。それがあなたがた家族の義務であり、責任ということです。
 ロリーナは自分の両親ならともかく、未成年者である自分とエディスに義務や責任が問われるとは思えず、他人とはいえ状況的に監督責任者である成人男性こそドジソン先生ではないか、と思いましたが、今ドジソン先生に逆らったらアリスにはどんなバッドエンドが待ち受けていないとも限りません。そんなロリーナの心配をよそに、アリスは柳の枝をびゅんびゅん振り回していました。柳の枝は風を切り、アリスのためにうねり声を上げました。もう鈍くさいウサギに仲間(?)集めを命令してからどのくらい経ったのかしら?それも腕時計をしているウサギに聞かなければわかりません。
 川の向こう岸とこちら岸に子供がキャッチボールをしていました。川幅は一定していないのかもしれません。アリスは退屈して、つまんない!と叫びましたが無駄なので、スカートの腰に挟んできた愛読書を読み始めました。
・愛読書「今日から楽しむ100円おかず」
 内容は、
・主菜 = かぼちゃのそぼろ和え、子持ちカレイの煮つけ、鶏唐揚げの酢豚、薄切り豚ゆでしゃぶサラダ、じゃがいもの牛すき煮、ほうれん草とベーコンの薄口バター炒め、etc.
・副菜 = 温奴豆腐オクラの小口切り乗せ、 豆腐の玉子とじステーキ、簡単レンジ蒸しひねりナス、キュウリとワカメの甘酢あえ、etc.
・汁物 = 細切り玉ねぎとかき玉の味噌汁、薄切り豚肉と細切り野菜の豚汁、簡単ミネストローネ、簡単ボルシチ、簡単ポトフ、etc.
 アリスはこういう貧乏人の食生活に、何となく興味がありました。


  (13)

 お料理の本を読んでいたのよ、とアリスは忌々しそうに言いました、私がお料理するのがおかしいってわけ?と、アリスはウサギが戻ってきたら毒づく準備をしていました。こういう具合にやたらと先制攻撃的になるのは、アリスの内なる豆腐メンタルが被った鎧ゆえでした。これも山はりねずみのジレンマというのかしら?言わねえよ、とアリス。だいたい私、いつから豆腐メンタルなんてことになったのよ?

〈Q.〉豆腐メンタル(精神面が非常に弱い)の特徴を教えてください(複数回答)
1位 人の目を気にする 27.5%
2位 ちょっとしたことでもヘコむ 26.1%
3位 断られることを恐れて誘えない 22.7%
4位 美容師や店員に話しかけられるのが苦手 22.1%
5位 プレッシャーに弱い 21.8%

 こういうのは男なら少し女遊びにでも慣れれば耐性がつきますがね、とドジソン先生、性には恥や自意識の部分が凝縮されていますが、そんなものは合理的に売り買いされているもので、多少の授業料を払ってくれば代価に見合ったサーヴィスが得られますから何の恐れもいらない。恐れを持たない、という体験がその後に生きてくれば良い。金銭ではなくて愛情でも尊敬でもいいわけです。だが女性の場合には男のように「遊ぶ」というわけにはいかないのも事実で難しいものですが、リデル家ご令嬢の3姉妹が大人になる頃にはきっと問題とすべき何もない、ということになるでしょう、とドジソン先生は何の感興も感慨もなく想像しました。大人になった3姉妹!!そんな面白くも可愛くもない存在とは関わる値うちすらありません。せいぜい彼女らが母になり、生まれてきたのが今あるアリスたち3姉妹のようであるなら……その頃にはドジソン先生も今より20歳あまり甲羅を経た中年男になっているはずですが……
 遅かったわね!!とアリスは、難題の割には意外と早かったじゃん、と内心感心しながらウサギをにらみつけました。イナバです、とウサギ。呼びづらいのよ。どこがですか?ナバっていうとこ。それじゃ改名します、ヤナセなんかどうでしょう?ふん、とアリスは鼻で笑いました、イナバよりはマシね。ところで私は何してたと思う?さあ。お料理の本を読んでいたのよ。……お料理の本!?
 ウサギ(ヤナセに改名しました)が連れてきた鳥獣たちはドン引きしました。アリスは意図せずして働かざる者は即食用と、脅しをかける結果になったのです。


  (14)

 こうして集まったからにはわれわれは家族です、とウサギは言いました、家族は守りあわなければなりません。いかなる時でも、たとえ種族を超えてもです。
 種族を超えて?とアリスはウサギの連れて来た連中を眺めました。イヌ、サル、イノシシ、キジ、カッパ、それから三船敏郎です。
 三船敏郎?
 間違えました、とドジソン先生は三船敏郎を引っ込めました。正しくは空巣老人です。
 説明が欲しいわね、とアリスは詰め寄りました。あんたよ、集めてきたのは。ウサギだからって甘えんじゃないわよ。
 ヤナセです、とウサギ、どの程度詳しく訊きたいですか?そうね、とアリス、ぶん殴りたくならない程度に教えてちょうだい。
 空巣老人とは、中華人民共和国において子供が成長して家を離れたために、一人または夫婦のみで生活する高齢者を指します。空巣という由来は、子供が都市へ流出し、親や祖父母が家に残される様子を雛鳥が巣立って親鳥が取り残されることにたとえたものです。2010年代より空巣老人は急増して世帯の50%に迫る統計結果が報告され、中国では現在、深刻な社会問題となっています。
 私はてっきり空巣というから警官を呼びに行くところでした、とカッパ。空巣くらいいいじゃない、とサルが言いました。空巣は犯罪よ、万引きと同じで、とイヌ。言葉づかいとエロキューションからすると、とアリスは考えました、カッパは男性、イヌはメス、サルはどうやらおカマのようです。
 空巣と万引きは違うだろ、とキジ、盗むだけじゃなく巣を狙うんだから。そりゃあんた、とイノシシ、鳥にとっては巣は別格だろうさ。聖域みたいなものだろうさ。
 聖域?
 はーっはっはっはっは、と三船敏郎が高笑いしました、はーっはっはっはっは、おらあ一瞬、聞き間違えっちまったぜ。
 絞めて、とアリス。カッパとキジとイノシシとサルとイヌはたちまち一致団結して三船敏郎を縛り上げました。なんでい、と三船、なんでい、ちきしょうめい。
 畜生ですから、とウサギ。カッパだけはちょっとだけ心外な顔をしましたが、この顔ぶれで心外ったってねえ。
 こいつどうしましょう、とサル、このまま連れて歩くんですかあ?
 確かに目立って仕方ないわね、とアリス。悪目立ちですねえ、とイノシシ。
 煮て焼いて喰いましょうか、とウサギが残酷な提案をしました。
 てやんでい、と空巣老人、なんでい、てやんでい、ちきしょうめい。
 連れて歩くんですか?


  (15)

 それで空巣はどちらにいるんですか、とロリーナ婦警は訊きました。婦警ですって!?とロリーナ。そうだよ、どこかおかしいかね?最近では看護婦を看護士、保育婦を保育士と呼びますよね。保育士は保育婦より前からある呼び名なんじゃないかな。それじゃ保健婦、これは保健師と呼び変えられてません?ああ、言わんとするところはわかった、とドジソン先生、婦警というのがまずいのだな。ではロリーナ巡査。巡査ですかあ、とロリーナはぷーっと頬を膨らませました、巡査って、まるでおまわりさんみたいじゃないですか。
 おまわりがおまわりじゃいかんのかね、とイノシシ、そこら辺はイヌの意見を聞きたいね。
 イヌだからってイヌならみんながおまわりさんじゃありません、とイヌ、良いイヌもいれば悪いイヌもいます。
 それなら良いおまわりと悪いおまわりがいてもいいわけね、とサル、何を持って分けるかだけれど。
 善良だが無能なおまわりと腹黒いが有能なおまわり、とキジ、これだとどちらが良いおまわりなんだろう?
 そういう人格は関係ないんじゃないのかな、とカッパ、おまわりが守るのは正義じゃない、法律だよ。
 成績の良いのが良いおまわりなら、とイヌ、その成績は何で決まるのかしらね?
 もっと別の分け方もあるよ、とクマ、安全なおまわりと危険なおまわりだ。つまり……
 つまり?どうぶつたちは息を詰めました。
 人民の味方のおまわりと人民の敵のおまわりだ、とクマ。どうだい?
 やばい、とアリスたちは思いました、いつの間にか煽動者がもぐりこんでいるということは、とっくに私たちはマークされていたってことだわ。このクマがスパイでその目的は煽動だってことは露骨なくらいに見え透いている、昔ならリンチしてリンチしてリンチするのがこういう時の解決法だったけれど、今では党がそれを許さないわ。
 おほん、とアリスは仕切り直しました、おまわりさんには正しいおまわりさんと誤ったおまわりさんがいます。正しいおまわりさんとは、たとえば的確に困りごとを解決してくれるおまわりさんを言います。それではみなさんから寄せられた悩み事を読んでみましょう。
 ……私は閉尿に悩んでいます、とアリスは読みました、なぜなら電柱がないせいで尿意を催さないからです。
 わかった、イヌの悩みだ、とカッパ。いいから黙ってなさい小僧。……電柱なしに尿意を催すにはどうしたらいいのでしょうか?
 一堂、困惑した沈黙。


  (16)

 ちなみに私も便秘で悩んでいます、とドジソン先生、これは常用している内服薬の向精神剤のためで、私はそれを内服していないと周期的または突発的に攻撃性が昂進し、過剰な浪費や性的乱脈、一貫しない奇行が爆発的に発生すると言われているのです。周期的と突発的では対照的に思えるかもしれませんが、要はストレスに問題があり、少しずつ日常的に蓄積していけばそれは周期的に限界点に達します。ですが何らかのアクシデントで一気にストレスが臨界点を突破することがあれば、その症状は突発的に生じたように見えるでしょう。
 ところで私が便秘で悩んでいるというのは大嘘で、とドジソン先生、内服薬の向精神剤を常用しているのはハッタリではありませんし、慣れないうちは整腸剤を服用して便通を促していましたが、努めて消化・排泄を良好な状態に整える食生活を心がければ整腸剤なしでも問題のない排泄が得られます。私の場合は納豆と大根おろしとサバの缶詰めとワカメ料理でした。これは腸内細菌の環境を整えもすれば繊維質も豊富で、ビタミンDの豊富なサバ、ビタミンKの豊富な納豆とワカメは骨形成に欠かせない成分であり、骨粗鬆症の予防になります。私は喫煙しますしカフェイン飲料も飲みますのでその分、骨粗鬆症リスクは高まるわけですから、食生活で相殺できるならそうしたいのです。タバコもコーヒーもない生活など、ほとほと味気ないですからね。
 同感、とクマが言いました。おれの場合は基本雑食だからね、肉ばかり食っていると野菜も食べたくなるが、草しか食わないとたらふく肉を食いたくなる。だが肉食の偏食は骨粗鬆症リスクが高まるというじゃないか。
 四つ足のみなさんはいいよ、とキジ、私らが肉食すると悪魔の使い扱いだからねえ。
 クマさんならたいがいの肉は食べていそうよねえ(クマさん言うな、とクマ)とサル、今まででいちばんおいしい肉って何だった?
 私は背中の開いたドレスを着た女を見ると背中に食らいつきたくなるわ、とイヌ。
 なるほどね、とイノシシ、話の流れが読めてきたぞ、要するに、食いたいものを食うのが旨いってことだな。
 食いたいもの?
 食いたいもの。
 悪食という言葉もあるしねえ、とサル、悪って何かしらね、悪趣味、それとも邪悪?
 邪悪なんて私たちには関係ないわ、とイヌ、動物には善悪も間違いもないもの。そうでしょ?とイヌはウサギを見つめました。
 だとするとアリスの立場は?


  (17)

 ん?もう一度言ってくれないか、とスノークは言いました。どうもお前はお嬢さんぶって話すから聞き取りづらい時が多いな。本当のお嬢さまは威圧的なほど明晰に話すぞ。だからといって威圧的に話せとはいわないが。
 トイレに行ってくる、とムーミンパパ。あら、あなた早いわね。うむ、なにしろ黒ビールなど久しぶりだからな。気をつけて行ってらしてね。あのなあ、トイレに行くだけなのだぞ。
 あら、ミイがいないわ、とミムラねえさん。みんなどこに行ったか知らない?知ーらない。困ったわね。
 ご一緒してもいいかね、とヘムル署長。私はかまわんよ、あなたとヘムレンさんは本家分家だし、私とあなたは官吏仲間だがスティンキーくんは窮屈じゃないかね?あたしなんぞは光栄のいたりです。では合席も狭いからウェイターを呼んでテーブルを寄せようか。
 トゥーティッキはモランが苦手でしたがモランはフィリフヨンカを警戒し、フィリフヨンカはトゥーティッキに劣等感をいだいていました。女性の三人組はなんとなく一人対二人の構図になりがちですが、人間の価値観でトロールを見てはいけません。
 あら、もう済ませたの?いや、こんなものが入っていたのだ。ムーミンパパはシルクハットを裏返してみせました。な、私は寝る時以外脱がないのに、どうして入り込んだのだろう?とにかくこれでは男子トイレに入れん。そいつを帰しておいてくれ。
 スニフはもうそろそろつらくなっていました。こうしているあいだも道には小銭やビール瓶の蓋がキラキラしているにちがいない。でも今ここにいる人と、
・いない人
 がムーミン谷の全員だし、食事を終えた組が出ていかないかぎり誰もそれらを拾えないはずだ。
 トスフランはまだかなビフスラン、と仲良く料理の到着を待っていました。
 おお、来たぞウェイター、ヘムル署長とわれわれのテーブルを合わせてくれ。できますが、よろしいのでしすか?われわれ四人はそうしたいが、何か問題でもあるのかね?合わせるとのかたちになりますが。
 お探しじゃない?すいません、とミムラはムーミンママからシルクハットを受け取ってぶんぶん振り回しました。参った、降参、と目を回したミイが落ちてきました。あんた、どうやって入ったの?
そして小用から戻ったムーミンパパの頭にはアホ毛が三本生えていました。(偽)ムーミンは内心の動揺を必死で抑えていました。


  (17)

 アリスがとっさに気づいたのは、これが自分にとってほこさきが向くやばい話題になってはまずい、ということです。グルーチョ・マルクスや榎本健一ならば踊ってごまかす技もありますが、それはグルーチョやエノケンのような超人の域に達した人こそであって、アリスのように可愛いだけで何の取り柄もない少女のなし得ることではありません。そうだわ、とアリスは思いつきました。私にだって時間かせぎくらいはできるわ。
 ブタメンよ、とアリスは宣言しました。まず60円タイプね。
・当りブタメンとんこつ味。
・当りブタメンしょうゆ味
・当りブタメンカレー味
・当りブタメンカルビ味キムチ風味
・当りブタメンタン塩味
・当りブタメンこってりチキン味
・当りブタメンにんにくダイナマイト味
・当りブタメンみそラーメン味
・当りブタメンうまうまあんかけ味
 60円タイプにもこれだけの種類があるのよ。あの、ブタメンて何ですか、とカッパ。簡単に言えば駄菓子屋で売ってるミニサイズのカップラーメンよ。70円タイプもあって、
・当りら~めんブタメンとんこつ味
・当りら~めんブタメンタン塩味
・ご当地ブタメン沖縄そば味(数量限定)
・ご当地ブタメン熊本ラーメン味(数量限定)
・ご当地ブタメン北海道みそバターラーメン味(数量限定)
・ご当地ブタメン北海道スープカレー味(数量限定)
・ブタメン焼そば
・ブタメン パスタ ペペロンチーノ味
 ブタメンの嬉しいのは当りつきってことね。年間を通して当たりつきキャンペーンをしていて『大当たり』と書かれたパッケージを応募すると何かもらえるのよ。一時テレビ番組で「ブタメンの当たりを簡単に当てる方法」が紹介されて、一部の地域ではブタメンブームが起こったこともあるらしいわ。
 何かって何です?
 昔は『当り』が出ると買ったお店でもう一つブタメンがもらえたの。でも8年前に発売元から「当たり付きのブタメンを廃止する」と発表されて、現在ではブタメン全種類のパッケージに表記してあった『当たりつき』の文字もなくなったの。
 ちなみに当りブタメンには2つの種類があって、とアリス、1つは駄菓子屋、コンビニ向けの即当り式で60円。もう1つはスーパーなどの量販店向けで、景品交換式で70円。70円タイプにはナルトが入っているなどの違いがあるのよ。一部の店舗にはBIGタイプのブタメンも存在するそうよ。
 そちらのお値段はどうなりますか?
 さあ、都市伝説かもね。


  (18)

 調子に乗ったアリスはこの手でいけばいくらでも時間稼ぎができるのに気づいてほくそ笑みました。たとえばうまい棒を知らない人はいないわよね?あれは1979年の発売以来ずっと10円という決まった価格になるように製造されているから、原材料費の価格変動に合わせて長さは常に予告なく変更されているのよ。まん中を貫く穴は、スナックの強度を上げて輸送中に製品が崩れるのを防ぐと同時に、見た目の容量アップと、中まで均一に熱を通すことで食感を良くするために空けられているというわけ。内容量も種類によって異なるの。2005年から内容量が公開され、2007年秋までは内容量7~9gで、原料費高騰による影響のため、2010年では内容量5~6gとなっているわ。
 ……あのー先生、とロリーナ、今年は1862年ですよね。
 そうです、とドジソン先生、元号で言えば文久2年、イスラム暦ならば1279年、ユダヤ暦なら5622年、それからアメリカでは南北戦争のまっ最中です。ロンドンの下町では戦況が伝わってくるたびに南北トトカルチョが公然と行われ、アメリカ南部では指揮官を失った敗戦兵の集団が群盗となってあちこちの農園を荒らしてまわります。産業革命以降急増した失業者の群れがわが国の都市部でもホームレス化して大きな社会問題となり、やがて1888年には不穏化したロンドンで切り裂きジャックが西洋世界の犯罪史にその名を残します。先生は何でもご存知なんですねえ。何でもは知りませんよ、知ってることだけ、とドジソン先生はひとりでボケ突っ込みしました。
 うまい棒の姉妹品に、リング状にした袋スナック「うまい輪」というのもあるわ、とアリス。フレーバーはめんたい味、牛タン塩味、チーズ味、たこ焼き味、やさいサラダ味、オニオンサラダ味、黒糖リングがあるの。
 それとパッケージには二頭身で丸い頭のキャラクターが描かれているけど名前は特に決まっていなくて、うまえもん、ドヤエモン、うまいBOYなどの愛称で呼ばれているみたい。1978年9月13日生まれ、乙女座のA型で、遠い宇宙のとある星からやってきた異星人。それから10年に1歳年をとり、趣味はコスプレというのが公式設定よ。
 ハァハァ、と内心ではアリスは肩で息をする心境でした。これからうまい棒の銘柄100連発するのです。さすがのアリスですら、それは何だか馬鹿げたようなおふざけに思えましたが、気は抜けません。


  (19)

 まず販売終了のうまい棒を上げると、とアリスは腹筋にグッと力を溜めました。
・パンチ味
・さきいか味
・ちょいからパンチ味
・カニチャンコ味
・オムライス味
・ギョTHE味
・チョコピー味
・カニシューマイ味
・豆リカン味
・梅おにぎり味
・レッドロブスター味
・アメリカンホットドッグ味
・マリンビーフ味
・カレー味
・サラダ味
・元祖さすがたこ焼き味
・かばやき味
・ココア味
・キャラメル味
・バーガー味
・ソース味
・オニオンサラダ味
・デラックスうまい棒 めんたい味
 (デラックスシリーズは20円で長さは約2倍、どの味にも中心の穴にクリームが入っていたのよ、とアリス)。
・デラックスうまい棒 チーズ味
・デラックスうまい棒 カニ味
・デラックスうまい棒 テリヤキビーフ味
・デラックスうまい棒 ホルモン味
・デラックスうまい棒 抹茶クリーム味
・デラックスうまい棒 デラックスチョコクリーム味
・デラックスうまい棒 キャラメルクリーム味
・マーボー味
・黒糖味
・ぶたキムチ味
 それから2005年夏の限定復刻版というのもあって、
・ピザ味
・さきいか味
・ギョッ!the味
・カニシューマイ味
・梅おにぎり味
・復刻版 たこ焼き味
 アリスは自分で言っていても梅おにぎり味が2回出たわ、ギョTHE味とギョッ!the味はどう違うというのかしらと躁転寸前でしたが、何かアリスの見聞にも経験にもない記憶が次々と流れ込んでくるのです。
 現在販売されているうまい棒の種類は、
・めんたい味
・コーンポタージュ味
・チーズ味
・ピザ味
・テリヤキバーガー味
・サラミ味
・やさいサラダ味
・チキンカレー味
・とんかつソース味
・エビマヨネーズ味
・たこ焼き味
・チョコレート味
・牛タン塩味
・なっとう味
・シュガーラスク味
・プレミアムうまい棒明太子味
・プレミアムうまい棒モッツアレラ&カマンベール味
・やきとり味
・プレミアムうまい棒わさびソースの和風ステーキ味
 さらに地域限定味もあって、
・きりたんぽスナック(秋田県限定)
・もんじゃ焼味(東京限定)
・ハニーうまい棒 蒲焼き味(静岡県限定)
・お好み焼味(関西限定)
・辛子めんたいこ味(九州・山口県西部限定)
・うまい棒キャンディ(沖縄限定)
・いぎなり!!うまい棒 牛タン塩味(東北限定)
・うまい棒 牛タン塩味 肉の万世(店舗配布専用)
 このうちもっともコストのかかる商品は、製造過程で唯一、二度の味付けが必要な「たこ焼き味」だそうよ。
 さあ、もっと他にも知りたい?


  (20)

 動物たち(カッパも)はうまい棒の種別連呼中から目が泳ぎだしたアリスの表情に悪寒混じりの呪縛をかけられていましたが、
 他に知りたいことはある?
 というアリスの区切りはさすがにアリス本人も、動物たち(カッパも)も限界まで近づいてしまったタイミングを示していました。
 あの……と、おずおずとカメが切り出しました、そもそもの始まりは何だったのですか?私は遅れて来たもので……。
 たいへん良い質問です、とドジソン先生は言いました。ものごとには常に見せかけとでたらめがあります。たとえば私は立派な青年紳士に見えますが、心は少女なのです。つまり青年紳士というのは見せかけであり、心が少女というのはでたらめです。ですがご質問の主旨はそういうレトリカルなものではございませんようですね。敬語がれろれろですが私は敵性外国人ですから大目に見ていただきたい。
 そもそもの始まりは、こんなふうでした、とドジソン先生は語り始めました。アリスはすっかり退屈していました。アリスは川の土手で姉の隣に座っていましたが、何もすることがありません。いち、に度お姉さんの読んでいる本に目をやりましたが、さし絵もなければせりふのフキダシもありません。つまんない、とアリスは思いました、さし絵もなくて、せりふのフキダシもない本なんて。
 そこでアリスは考えごとをすることにしました。暑い日なのでとても眠いし、頭もぼんやりしていましたが、それでもがんばって考えたのです。ひな菊の花輪を作るのは楽しいけれど、ひな菊を集めに行くのは面倒くさい。楽しいのと面倒くさいのを計りにかければ……と思っていると、突然ピンク色の目の白ウサギがアリスのそばを駆けていったのです。
 だからと言って仰天するほどでもありません。その上、ウサギが大変、たいへん!遅れてしまう!とひとり言のように言っているのを聞いてもアリスは不思議とは思いませんでした。後で考えればそれは驚くべきことのような気がしましたが、その時にはありふれたことにしか感じなかったのです。ですがウサギが燕尾服のそでをまくって、腕時計を見てまた急いで歩きだすと、アリスも思わず立ち上がってしまいました。アリスはウサギなら見なれていましたが、燕尾服を着てそでをまくるのは見たことがないし、さらに腕時計までしていたのです。アリスは急いでウサギを追うと、ウサギは生け垣の下のウサギ穴に飛び込みました。
 第二章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第五部・初出2016年1月~6月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2018年5月28日・29日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(7)

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 いよいよバッド・ベティカー監督の代表作「ラナウン・サイクル」7連作も後半に入ってきました。今回ご紹介する2作のうち『ライド・ロンサム(孤独に馬を走らせろ)』はジョン・ウェイン主宰のバトジャック・プロ製作の『七人の無頼漢』の路線をとハリー・ジョー・ブラウン製作、ランドルフ・スコット主演、バッド・ベティカー監督で立ち上げられた『反撃の銃弾』以降のプロデューサーズ&アクターズ・カンパニー名義の製作プロダクションが「ラナウン(Ranown)・ピクチャーズ」と改名してからの初作品で、ベティカーの映画界引退とともにスコット62歳の『決闘コマンチ砦』でシリーズは終わったので、最終的なプロダクション名から取って後世にはベティカー&スコットの連作は「ラナウン・サイクル」と呼ばれるようになりました。脚本にバート・ケネディが正式に復帰したこともあり『ライド・ロンサム』は日本未公開がもったいないような快作になりましたが、前々作『ディシジョン・アット・サンダウン』が迷走気味を感じさせ日本未公開となり、次の『ブキャナン・ライズ・アローン』では相当な持ち直しを見せたのにやはり日本未公開となっては、同時期5年遅れで'58年作品とサバを読んで新作に見せかけ日本公開されていたベティカーのユニヴァーサル時代の旧作の不評もあって快作『ライド・ロンサム』も公開を見送られたと思えます。ベティカーの西部劇作品中日本で初めて劇場公開された『七人の無頼漢』すらも日本の映画誌の評では「スコット久々の良作」とされながらも「60点」(双葉十三郎『ぼくの採点表』)とB級西部劇の域での評価、外国映画全体の中ではむしろ悪評でしたから、次のワーナー作品『決斗ウエストバウンド』が『反撃の銃弾』以来日本公開された真の新作になります。同作はワーナー企画・製作で主演のスコットの指名でベティカーが監督に起用されたもののブラウン製作・ケネディ脚本でもないためスコット、ベティカーとも連作とは別と見なしていますが、後世の批評家・観客は前後作との関連からこれも「ラナウン・サイクル」に含めています。メジャーのワーナー作品らしく70分強の小品ながら独立プロ製作の他のシリーズ諸作より予算の余裕も内容の明快さも感じられますが、意識的に5作あまりも連作に取り組みさらに次作の製作予定もあっただけにスコット主演・ベティカー監督とそろえば自然と「ラナウン・サイクル」出張版みたいな仕上がりになったのがうかがえる作品で、独立プロのバトジャック・プロ製作の『七人の無頼漢』もワーナー配給作品でしたし、監督または発言力の強いスコットによる起用からか『ディシジョン~』では目立ちませんでしたが『ライド・ロンサム』ではヒロイン女優として目覚ましい再登場を果たしたカレン・スティールが『決斗ウエストバウンド』でもクレジット上ではメイン・ヒロインのヴァージニア・メイヨより実質的なヒロイン役を勤めており、スティールの存在も同作を「ラナウン・サイクル」連作に含めて観る観点の由来になっています。そうした面でも今回の2作はいずれも好作と言えそうです。

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●5月28日(火)
『ライド・ロンサム(孤独に馬を走らせろ)』Ride Lonesome (ラナウン・ピクチャーズ=コロンビア'59.Feb.15)*73min, Eastmancolor, Widescreen : 日本劇場未公開(テレビ放映・映像ソフト発売) : https://youtu.be/yoryPfTMAqc (Trailer)

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 ベティカー西部劇、というよりランドルフ・スコットの西部劇が復讐者=捜索者(追究者)型主人公の場合のドラマと受動的巻きこまれ型主人公のドラマに大別されるのは、スコットに限らず西部劇の主人公のたいがいのパターンでもありますが、スコットは若い頃はたいそう特徴のない二枚目の優男だった面影が60歳前後の主演作「ラナウン・サイクル」でも残っていて、復讐・捜索者役ではどこか頼りなく、反撃に転じるとわかっていても受動的巻きこまれ型主人公を演じるとますますあぶなかっかしいのが西部劇好きの映画観客に愛される理由でもあればカリスマ性を欠いて一般映画の大スターまでにはなれず「B級西部劇のスター」にとどめていたのでもあって、バート・ケネディがジョン・ウェイン主演のジョン・フォード監督の大傑作『捜索者』'55にインスパイアされてバトジャック・プロの作品用にオリジナル脚本を書いた『七人の無頼漢』がロバート・ミッチャム、プロダクション主宰者のウェイン自身の主演いずれも流れて57歳のスコットとフリーランス監督になっていたベティカーで作られた時にまさに歯車が噛み合ったので、同作はスコット演じる復讐・捜索者型主人公が意外なはまり方を見せてアリゾナ・ロケの荒涼とした舞台設定とともに画期的作品になりました。プロデューサーのハリー・ジョー・ブラウンがスコットと組んで『七人の無頼漢』を継ぐシリーズ化を企てベティカー監督、ケネディ脚本で再度アリゾナ・ロケでこんどは受動的巻きこまれ型主人公のスコットの反撃ドラマを描いたのが『反撃の銃弾』で、この2作で基本的なヴァリエーションは提示されたとも言えます。つづく2作『ディシジョン・アット・サンダウン』『ブキャナン・ライズ・アローン』はチャールズ・ラング脚本になり、荒野ではなく西部のスモール・タウン劇で善悪・敵味方のはっきりしない設定という意欲的とも野心的とも言える内容になりますが、『ディシジョン~』は凝りすぎた異色作にとどまり、『ブキャナン~』はだいぶ持ち直すもノンクレジットで脚本に協力したケネディの手腕と思われて全体的には艶の薄いものでした。ケネディ正式復帰の本作は前2作を一挙に挽回したと目せる快作であり、復讐=捜索者型主人公のスコットは懸賞金稼ぎの流れ者として登場し、指名手配犯を連行するうちに駅馬車籠城の無法者コンビ(パーネル・ロバーツ、ジェームズ・コバーン)と遭遇して、指名手配犯の連行者は前科に恩赦を与えられる特権を狙う無法者コンビ、また駅馬車宿駅が先住民に襲撃されたことから駅長で出張中の夫のもとに知らせるため駅長の妻(カレン・スティール)とともにサンタ・クルスの町に向かうことになる、と巻きこまれ型の展開も仕込んであり、しかも主人公スコットの真の目的はクライマックスの直前で明かされます。原案・脚本のバート・ケネディはさすが『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』も手がけただけあって冴えており、失礼ながら前2作は脚本のチャールズ・ラングの不手際に問題があったのではないかと思われ、スコット自身は『ディシジョン~』も熱望した企画だったそうですし、ベティカーの指向からして白人とメキシコ人の対立もの『ブキャナン~』はこれも乗り気だったと思われる。『ブキャナン~』が女っ気がまったくない映画になったのはベティカー自身には映画で女を描く気がまるでないからで、これは脚本家がベティカーでも活かせる女性キャラクターを提供しなくてはなりません。『ディシジョン~』では結婚式をぶち壊されてどうも新夫が訳ありの男と判明し激怒して花束を池に放り投げて見限る役しかなかったカレン・スティールが、本作では危険な男たちとともに町に出張中の駅長の夫に宿駅の襲撃を伝えに行く気丈な人妻役を演じてドラマ上でも非常に重要な役でもあれば作劇上の話法でも要となる役割を果たしており、これなら女性キャラクターを描くのが苦手なベティカーでもきちんと描かないではいられない。ケネディ脚本の優れる由ですが、本作も日本初DVD化の際のプレス資料を引いておきます。
○解説(メーカー・インフォメーションより) 西部劇ファン待望の傑作ウエスタン、本邦初公開! 【スタッフ】監督・脚本:バッド・ベティカー、製作:ハリー・ジョー・ブラウン、脚本:バート・ケネディ、撮影:チャールズ・ロートン・Jr.、音楽:ハインツ・ロームヘルド 【キャスト】ランドルフ・スコット、カレン・スティール、リー・ヴァン・クリーフ、ジェームズ・コバーン
○あらすじ(同上) 賞金稼ぎのベン・ブリゲイド(ランドルフ・スコット)が、手配中の殺人犯ビリー・ジョン(ジェームズ・ベスト)を捕えた。サンタ・クルスへ連行する道中、ウェルズ駅に立ち寄るが管理人は逃げた馬を追って留守で、代わりにいたのは無法者の二人組ブーン(パーネル・ロバーツ)とウイット(ジェームズ・コバーン)、そして管理人の妻(カレン・スティール)だけだった。 そこへ先住民のメスカレロ族の攻撃を受けた馬車が飛び込んできた。馭者は殺されており、危険を感じたベンは朝まで駅舎で過ごすことを決めた。その夜ブーンは、ビリーの逮捕者に与えられる恩赦を受けたいことを伝え、そして先住民の攻撃に加えてビリーの仲間チャーリー(ダイク・ジョンソン)の報せで兄フランク(リー・ヴァン・クリーフ)も追ってくることから、行動を共にしようとベンに持ちかける。一方、ベンもある思いを胸に秘めていた。やがて朝を迎え、ベンたちのサンタ・クルスへの命がけの旅が始まった。「七人の無頼漢」(56)「反撃の銃弾」(57)「決闘コマンチ砦」(60)など、西部劇の傑作群を世に送り出した、製作ハリー・ジョー・ブラウン、監督バッド・ベティカー、主演ランドルフ・スコットというゴールデン・コンビに加え、脚本はバート・ケネディという傑作ウエスタン。本邦未公開ながら、無駄のない完成度の高さで西部劇ファンの間では話題となっていた。本作が劇場デビュー作のジェームズ・コバーンや、リー・ヴァン・クリーフも見逃せない。
 ――先にカレン・スティールの役割の重要性を書きましたが、映画は冒頭でスコットがお尋ね者のジェームズ・ベストを岩山地帯で見つけ、追いつめられたベストはどこへ連行されるのか訊くと岩山の向こうの仲間に兄のフランク(リー・ヴァン・クリーフ)の助けを呼んでくれ、と叫んで伝え、スコットに捕縛されます。スコットは馬に乗せたベストを引いて駅馬車宿駅に着くのですが、明らかに無法者の2人組(パーネル・ロバーツ、ジェームズ・コバーン)が寝城にしていて、駅長夫人のカレン・スティールは駅長はサンタ・クルスの町に出張中だという。駅馬車宿駅に無法者が陣取っているのは西部劇でよくある駅馬車強盗のために待機しているシチュエーションですが、駅長夫人がそれを黙認しているのはこの宿駅が先住民の襲撃の危機にさらされているからで、そのボディガードになっているからだとわかる。先住民の襲撃を避けてひとまず宿駅に泊まらせてもらうことにしたスコットは、スコットの捕縛した凶悪犯のベストには懸賞金だけでなく連行した者には恩赦がかけられる、おれたちは前科者の無法者だが更正したいのでボディガードを勤めるから手を組まないかと2人組から持ちかけられる。そのあと、宿駅に馬車が着くとともに先住民の襲撃があって主人公たちは自衛でせいいっぱい、馬車は全滅してしまうのですが、もう宿駅にはいられない、駅長夫人もサンタ・クルスの町の夫に駅馬車宿駅襲撃を伝えに行かねばならないと一同出発することになって、このあたりから視点人物はカレン・スティール演じる駅長夫人になるのです。というのも主人公スコットも無法者2人組もたがいに隠していることがあり、腹のさぐり合いになっていく。無法者2人組、主人公スコットとも訊かれて素直に打ち明けるのは駅長夫人なので、カレン・スティールが事態の全体を知る視点人物になっていく。無法者たちはサンタ・クルスに着く前にスコットを始末して恩赦ばかりか懸賞金も独占しようという腹ですし、スコットに対してもベストの兄のリー・ヴァン・クリーフが追跡してくるボディガードの役目が終わったら自分たちを殺すか懸賞金目当てに突き出すか(この2人組にも少額ながら懸賞金がかかっています)と疑念を抱いている。スティールはスコットをそんな人じゃないと思う、とかばいながら、スコット本人に訊いてみる。そしてスコットの本当の狙いはベストの懸賞金などではなくて、かつて保安官時代に逮捕したベストの兄のリー・ヴァン・クリーフが、釈放後スコットの留守宅に押し入ってスコットの妻の首を吊した、という話を聞き出す。スティールから話を聞いた2人組はベストの兄との対決の援護をしようと買って出、もうすぐサンタ・クルスの町でベストを助けに仲間たちが来る頃に、荒野で絞首用に恰好の裸木を見つけたスコットはベストを馬に乗せて首を縊り、ロバーツとコバーンに小物を迎え撃ちさせながら兄のリー・ヴァン・クリーフと対決して倒します。馬が暴れてベストは木から吊されますがスコットは銃弾一発で縄を切ってベストを落とし、ロバーツたちに俺の用は済んだ、やるよとベストを渡します。ロバーツはスコットと握手し、スコットは彼女を頼む、とスティールのボディガードを委ね、スティールはあなたはサンタ・クルスには来ないの、ああ、それじゃまたいつか(Soon)、いつか、と別れを交わし、ロバーツ、スティール、コバーン、ベストを乗せた4匹の馬は去っていきます。先ほどベストを吊した首吊りの裸木が燃え上がる背後にスコットが立ち尽くし、燃える裸木に沿って構図が上昇するショットで映画は終わります。本気を出した時のベティカーの監督、ケネディの脚本、スコットの主演ががっちり組みあい、少数の主要人物だけの緊密なドラマに無駄も隙もなく意外性にも富み、『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』にもひけをとらない本作は今後もっと注目されていい作品でしょう。

●5月29日(水)
『決斗ウエストバウンド』Westbound (ワーナー'59.Apr.25)*72min, Technicolor, Widescreen : 日本公開昭和33年('58年)11月7日 : https://youtu.be/CtZ2sdQfQso (Slide Scenes)

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 本作はヘンリー・ブランク製作、バーン・ギラー脚本・原案(共同原案アルバート・シェルビー・ル・ヴィノ)によるワーナーの企画で、主演のスコットの指名によりベティカーが監督しましたが、ベティカー自身はバトジャック・プロで製作されたバート・ケネディ脚本の『七人の無頼漢』のシリーズ化をとハリー・ジョー・ブラウン製作、ランドルフ・スコット主演、ベティカー監督、脚本にバート・ケネディの『反撃の銃弾』(ケネディは『ディシジョン・アット・サンダウン(日没の決闘)』には不参加でしたが)以降続けてきたシリーズと本作は別物と見なしているものの、スコット主演・ベティカー監督で前後作がラナウン・ピクチャーズ作品であるため本作も批評家・観客には「ラナウン・サイクル」連作に含めて観られています。南部・西部については辛辣な視点を向けるベティカー西部劇ですが本作のように南北戦争中の北軍視点、と歴史上の勝ち組視点なのもベティカーらしくないと言えるので、そうしたいかにも南北戦争歴史時代劇らしい設定も主人公のスコットが公人ではなくあくまで自由人(元保安官設定はありますが)かつ私的動機のために行動するのが原則の「ラナウン・サイクル」連作には不似合いかもしれません。逆に一週間に日曜日があるように7作もあれば1作くらい例外があってもいいので、70分強の小品とはいえ大会社ワーナーの設備を使っているなあ、とラオール・ウォルシュの諸作やハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』'59などの西部の町のオープンセットや美術を思い出したりしてしまうのですが、ウォルシュやホークスが撮ったら本作のようにこぢんまりとした仕上がりになるとは思えませんし、監督キャリアの最初がスコット西部劇だったヘンリー・ハサウェイや実に何でも撮るジョージ・マーシャルと違ってウォルシュやホークスはジョン・フォード同様たしかランドルフ・スコット主演作は撮っていないはずで、スコット主演というだけで映画が小粒になってしまうという点ではこの俳優は並みのスターよりも引きの力の強い、普通の俳優ならマイナスに働くような面が合わさってランドルフ・スコットになっている存在で、本作は軍人役で身なりが端正な北軍大尉の制服なので実年齢が60歳を越えたか、というのも容貌に表れているのですが、二枚目→特徴がない、長身でスタイル良い→特徴がない、演技力が自然→特徴がないと実に平均的アメリカ人白人男性の平均的に好ましい風貌を体現しているような特徴のなさで、アメリカじゅうからランドルフ・スコットそっくりさんコンテストで集めたらスタジアムがランドルフ・スコットでいっぱいになってしまうのではないか、とさすがかつてはアステア&ロジャース映画のロマンス・パート担当やスクリューボール・コメディの好漢助演担当に重宝されただけはあります。もともとワーナーとスコットに主演映画の契約があり、スコットが近作のイメージを崩さないためにベティカーの監督起用をワーナーに提示したそうで、すると本作のカレン・スティールの起用も『ライド・ロンサム』で好演した実績からスコットが提案したキャスティングでしょう。クレジット上はワーナーのスターのヴァージニア・メイヨがスコットにつづくキャストのトップですが、メイヨはかつてスコットの恋人、現在はジュールスバーグ町の顔役のアンドリュー・デュガンの妻という設定ですが、スコットと戦友マイケル・ダンテ(カレン・スティールはダンテの妻役で、独身のスコットはダンテ夫妻の家のやっかいになります)の着任早々デュガンの手下によって北軍の資材運搬のための駅馬車が次々と襲撃される。それでも駅馬車運行を強行するデュガンは無法者のマイケル・ペイトとジョン・デイの2人を差し向けて駅馬車妨害を激化させ、デュガンの手下の仕業と知ったスコットとダンテは証拠を押さえようとしますが突然襲撃されてダンテは重傷を負い、スコットは無法者のリーダー2人のうちデイを射殺しますが、これをきっかけにペイトが暴走してデュガンの目論見以上に事態を悪化させます。ワーナー製作だからか本作は『反撃の銃弾』以来のベティカー&スコットの新作で数作ぶりに日本公開された作品になりました。日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報新着外国映画紹介より)「暴力部落の対決」のランドルフ・スコットが「死の砦」のヴァージニア・メイヨと共演する西部劇。監督は「七人の無頼漢」のバッド・ボーティカー。バーン・ギラーとアルバート・シェルビー・ル・ヴィノの共作の原作をバーン・ギラーが脚色、「翼よ!あれが巴里の灯だ」のJ・ベヴァーレル・マーレイが撮影を監督した。音楽はデイヴィッド・バトルフ。他の出演者は「ロケットパイロット」のカレン・スティール、マイケル・ダンテ等。製作ヘンリー・ブランク。
○あらすじ(同上) 南北戦争中の1864年、北軍は軍資源の金塊を運ぶため大陸横断駅馬車会社の支配人に騎兵大尉ジョン・ヘイス(ランドルフ・スコット)を任命、彼は戦いで片腕を失ったロッド・ミラー(マイケル・ダンテ)とともにミラーの妻ジーニイ(カレン・スティール)の待っているジュールスバーグの町へ旅立った。町には会社を経営するクレイ・パトナム(アンドリュー・デュガン)がいた。彼はかつてのヘイスの女友達ノーマ(ヴァージニア・メイヨ)を妻にしていたが、ことごとに挑戦的態度を示した。馬車の駅は彼等の手でことごとく破壊された。ヘイスが片腕のロッドの農場を駅にして、強硬に駅馬車運行を計ったので、パトナムは配下の殺し屋メイス(マイケル・ペイト)とラス(ジョン・デイ)をさしむけた。町を立ち去ろうとしていた配下の口から、駅を破壊し、馬を奪った犯人がラスであり、馬は彼の手で南軍に渡されることを知ったヘイスとロッドは、急行して馬をとり返すことに成功した。しかしその夜、ロッドは襲撃をうけて重傷を負い、応戦したヘイスはラスを倒した。翌日には、御者を撃たれた駅馬車が転覆し、全乗客が死亡する事件が起こった。ロッドは傷が元で死んだ。ノーマが来て、一味の企みを説いたが、ヘイスは単身ジュールスバーグの町に乗りこんだ。まずヘイスとメイスが対決した。しかし仲裁に入ったパトナムが、最初にメイスの凶弾によってうち殺された。これを機会に決闘の火ぶたは切られ、メイスはヘイスの一弾に眉間をうち抜かれて死んだ。こうして大陸横断駅馬車は、無事に運行出来ることとなった。
 ――メイヨは夫のデュガンが手下たちに指示したり報告を受けたりする様子を見聞きしていたので、ついにダンテが狙撃され、相棒をスコットに射殺されたペイトがデュガンの命令など訊かず勝手にカタをつけると息巻いて、ペイトが去ったあと収拾のつかなくなった状況にデュガンがやけ酒を飲んでいるのをなじります。メイヨは出ていき、デュガンはグラスと酒瓶を叩き割ります。72分の尺ではやむを得ませんが、デュガンの演技もあってこの町の顔役・有力者役は深みのあるキャラクターで、利権のために北軍のこれ以上の進出は妨害したいが町の秩序も安定させていなければならない、という立場が手下の暴走によって危機にさらされるので、自業自得ではありますが決して悪役一辺倒のキャラクターではありません。メイヨは事態を報せにカレン・スティールの家を訪ね、スティールとスコットはメイヨに感謝します。翌日またしてもペイト率いる無法者集団による馬車の襲撃事件が起き(「女子供もいるぜ」「いいからやるんだ」)、御者の爺さんはスコットと親しい様子が描かれていましたが射殺されていまいますし、この阿鼻叫喚の馬車襲撃の丘からの壊れながらの転覆は派手に撮影されています(後半から馬車の中が無人なのがはっきりわかりますが)。駆けつけたスコットは全員死亡を確認し、家に戻ると重態だった戦友ダンテの死をスティールから知らされます。再びメイヨが訪ねてきますがスコットはジュールスバーグ町に向かってペイトとの対決に望みます。街中で対峙したスコットとペイトの間に馬車を駆ったデュガンが割って入りますが、デュガンはペイトに狙撃されます。スコットはペイトを射殺し、デュガンは抱き起こしたスコットに「止めようとした、と妻に伝えてくれ」と言ってスコットから伝えると聞いて息を引き取ります。映画の最終シーンは復旧した大陸横断駅馬車に乗って去っていくスコットとスティールが手を振りあい、スティールが遠くまで視線を向けながら微笑んで振った手を上げるショットで終わります。本作の真のヒロインはカレン・スティールなのはこの最終ショットでも明らかで、さすがに未亡人になったばかりなので亡夫の戦友とのロマンスまでは描かれませんが、ムードとしてはロマンスです。本作のマイケル・ダンテは左手を失った隻腕ながら雨の中の銃撃戦で片手でライフルを回転させ薬莢を払いながら次々と撃つ、とアクションもかっこ良ければ実年齢もスコットの息子ほど若いでしょうし短髪黒髪で凛々しいなかなかの存在感ですし、凶悪な無法者役のマイケル・ペイトもふてぶていしい悪役が見事で、当時のB級西部劇の悪役専門の俳優だそうですが、スコットやベティカーが本らしく「ラナウン・サイクル」連作ではないとしているにもかかわらず批評家にも観客にも好評でこれも連作中の佳作ではないかと人気が高いのはスティール、デュガン、ダンテ、ペイト、デイ(先に射殺される無法者)、ウォリー・ブラウン(御者の爺さん)など助演の俳優たちも好演で、ペイトなどは本作の無法者役がベスト・アクトではないかと賞賛されています。うつ伏せに倒れたペイトをスコットがブーツの足であお向けにすると鯰のような顔で死んでいるのですが、こういう短いショットだけでも強烈な印象を残すのは俳優の好漢はもちろん、美術やメイク、カメラマンや監督の腕前もばっちり冴えていたからこそで、本作のような小品をきっちり仕上げるのも大作映画とは違った手腕でしょう。ヴァージニア・メイヨのキャスティングは、これも華を添えたことにはなるでしょう。

集成版『NAGISAの国のアリス』第三章

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 第3章。
 ウサギが素早く生け垣の下のウサギ穴に飛び込むのをぎりぎり見とどけたアリスは、一瞬の躊躇もせずに自分も穴に飛び込んだのでした。もちろん後先考えず、出る時はどうするのかも考えずにです。
 ウサギ穴はしばらくのうちはトンネルのように真横に延びていましたが、突然真下になりました。本当に突然だったのでアリスは迷う暇もなく、ものすごく深い井戸のような穴に落ちていたのです。
 井戸がとほうもなく深いのか、落ちる速度がよほど遅いのか、そのどちらかのようでした。というのは、アリスは落ちながら周りを見渡したり、これから私どうなるのなどと考える余裕があったからで、まっ先に落ちていく先を見てみましたがまっ暗で何も見えません。それではと周りの壁をじっくり見ると食器棚や本棚が並んでいるのが見えました。それにあちこちに地図や絵が釘から吊してありました。アリスは壺をひとつ手に取ってみましたが、オレンジ・マーマレードとラベルにあるのに中身は空っぽでがっかりしました。ですが壺を落として穴の底にいる人の頭に当たって死んでしまったらえらいことになるので、落ちながら別の棚にちゃんと戻しておきました。
 こんなに深い穴に落ちたんだもの、とアリスは考えました、これからは階段くらい転げ落ちたって大したことないわ!家じゅうのみんなから強い子ちゃんて褒められるわ。屋根の上から落ちたって文句は言わせないわよ!
 そりゃそうでしょうね、とドジソン先生、下へ、下へ、さらに下へ。いつまで落ちていくんでしょうか?
 私どのくらい落ちたのかしら、とアリスは声に出して言いました、たぶん地球の中心に届くくらいだわ。てえことは、とアリス、学校の授業で習ったのは400マイル、メートル法なら1600キロメートル、と誰も聞いていないのに声に出すまでもありませんが、ちょっとした練習のようなものです。そう、だいたいそのくらいの距離になるはずよ。でもここは、緯度とか経度とかはどうなっているのかなあ(もちろんアリスには緯度も経度もちんぷんかんぷんですが、とドジソン先生、アリスは難しいことばを使いたい年ごろなのです)。
 このまま落ちていったら、地球の裏側に出ちゃうのかしら、とまたアリスはつぶやきました。そしたら頭が下向きの人たちの中から飛び出しちゃうんだわ、地球の対極圏で良かったんだっけ?(誰も聞いていなくて良かったわ、対極圏なんて何か変だもの)。


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 ようやく着いたよ、とカッパとサルとイヌは海岸で大きく伸びをしました。遊んでいられる夏も再来年に卒業を控えた大学時代のこの年が最後ですから、三匹は学生時代最後のレジャーを満喫するため予算の許す限りの国内の南国で過ごしにやってきたのです。
 海岸から砂丘に降りると、彼らのような物好きはさすがに他には誰ひとりとしておらず、さながらプライベート・ビーチのような満足感に三匹は喜びのセッセッセをしました。足代・宿代・食費に雑費がかかっても、海に面した砂丘を独占するのに特別な利用料金など不要である上に、夏だ海辺だ青春だ、と謳歌するのに水着姿の女の子のひとりもいないのは唯一の無念ですが、ナンパは都会でやればいいことです。さいわいカッパは大ノッポなりに、サルは中ノッポなりに、イヌはチビなりに女の子にはモテました。これはひと言で女の子と言っても、大ノッポがタイプという子もいれば中ノッポがタイプという子もおり、チビがタイプという子もいるということです。
 そして今、広大な天然のプライベート・ビーチに立って、カッパとサルとイヌの三匹ともが大自然の偉大な抱擁力の前に色気づいた思考などすっかり漂白されて、ほとんど無心に大海原に対峙しておりました。
 三匹は服の下に水着を着て海岸にやってきていましたから、服を脱いで一か所に集めておくと、そのまま海へ駆け出しました。他愛なく三匹の馬鹿が水遊びに興じる声だけが浜辺に響く中でまずウサギ、それから少女の足が砂の中から勢いよく突き出てきました。それはまるで地球の裏側からストンと落ちてきたようでした。足は一旦砂の中に引っ込むと、今度は砂の中からウサギの手、少女の手が出てきて、三匹の脱いであった服を一着ずつつかみ砂の中にひきずりこみました。それからウサギの手が燕尾服を盗んだ服の替わりに砂の上に置き、少女の手がやはり少女の着ていたらしいワンピースを盗んだ服の替わりに置きました。
 波音が寄せては返しました。
 カッパ、サル、イヌの三匹は戻ってくると、サルとイヌの服がなくなっている替わりに少女のワンピースとやたらと小さい燕尾服が置いてあったので、カッパは自分の服を着て何ら問題ありませんでしたが、サルとイヌは困ってしまいました。服の下にはそれぞれ千円札が服の代金のつもりか挟んでありましたが、学生証も定期券も財布もポケットに入れてあったのです。でも千円きりで何ができましょう?


  (23)

 いつまでも水着では街に出られませんので、とりあえずカッパ、サル、イヌの三匹は服を着ることにしました。カッパは残されていた自分の服を着れば良いので問題ありませんでしたが、サルとイヌはワンピースと燕尾服のどちらを着るかで困ってしまいました。ワンピースは女物だし、燕尾服は中肉中背のサルにはサイズが小さそうで、結局女装するならチビなイヌの方が似合うと決められて、イヌは少女物のワンピースを着ることになりました。
 問題は僕だな、とサルは燕尾服に無理矢理そでを通してみました。何とか着られないことはなさそうだぞ、うーん、やあっ!と両腕がやっと両袖に通ると、長さは腕まくりほどですが、燕尾服の背中はびりっと左右に裂けてしまいました。正面からはつんつるてんながら服を着ているように見えますが(腹部はヘソ上で、燕尾服というより素肌にチョッキを着ているようでした)、背中は丸出しです。やあ、見たことあるよ、とカッパ、びんぼっちゃまみたいだよ。それよりズボンは入るかい?
 お前はいいよなあ、とサルはボヤきながらズボンをはくと、意外と伸縮性のある素材で、膝上の短さながらスパッツをはいた具合になんとか収まりました。ぱっつんぱっつんなのは仕方ないですが、こりゃあ目のやり場に困るね、とカッパ。ヒワイだわ、とイヌ(女装)。どうせ私は大きいですよ、とサル、他人と較べたわけじゃないけどね。
 街、と言ってもすれ違う人もいないような田舎町ですが、とにかく千円札をくずして小銭を作ろう、実家から宿に速達で送金してもらうよう電話してみよう、と三匹はタバコ屋に寄りました。服を盗まれていないカッパはサルとイヌのために小銭を貸す義理はないからです。タバコ屋には青島幸男が店番をしていました。こんな田舎だからなあ、とサル、騙してタバコも値切れるんじゃないか?
 あのオバアさん、とサルは背中が見えないように左右にぴったりカッパとイヌにくっついてもらいながら話しかけました、ゴールデンバットは200円でしたよね?
 ゴールデンバットは200円だったかい?と青島幸男。そうですよ、全国どこでもゴールデンバットは200円、とサルは千円札を出し、1個ください、お釣りは800円。
 ちょっと待ってくれんかね、と青島幸男は言うと、やにわに脇の赤電話の受話器を取り、もしもし、タバコの値段も知らない不審者は通報するようにと……ええ今、店先にいます。
 不審者?


  (24)

 あっ、あの、お婆さん、とサルは泡を食って訂正しました。タバコを値切ろうとしたくらいで警察に通報されてはたまりません。ま、間違えました、ゴールデンバットは今たしか210円でしたよね?
 遠くからパトカーが近づいてくる音がしました。ああもういいですお婆さん、さいならー。しかしサルの背中は破れた燕尾服でまる空きなので、サルを先頭にカッパ、イヌと直列に並びながら急ぎ足で立ち去るのはいかにハレンチな3匹といえども不審者と思われても仕方ない、と認めないわけにはいかないような情けない気分になりました。どうしようか、とカッパ。とにかく街を出た方が良くはない?とワンピースを着て以来だんだんおカマが板についてきたイヌ。街を出るには?
 そう、電車も通っていない街ですが、バスなら走っているはずです。3匹はそれらしい標識はないかキョロキョロしながら一列縦隊で進みましたが、やがて向こうから農民のような漁師のようなオッサンが仏頂面で歩いてきました。こんなオッサンに訊くのは嫌ですが、今日通行人を見かけたのは始めてです。僕が訊くよ、とカッパが列を離れました。サルはつんつるてんの燕尾服、イヌは女物のワンピースと、仲間たちは見るからに怪しいからです。
 なにィ、バス停?とオッサンはしょいこを投げ出すとカッパに、お前足を見せてみろ!あのー、あなたはお医者さまですか、とサル。オッサンは無視してカッパの片足から無理やり靴下を脱がすと足の裏を見て、こりゃあ生まれて一度も下駄を履いたことねえ足だな?バス停も知らねえ、下駄を履いたこともねえだと!すると都合良く自転車で警ら中のおまわりが通りかかりました。巡査、不審者だ!とオッサン。うわあ、と3匹は、サルの背中が丸出しなのも隠さず一目散に逃げ出しました。
 最初からここへ来れば良かったよ、と露天風呂に浸かる3匹。体も潮気でベタついてたしさ。でもこの後どうする?残りのお金じゃ服も買えないし、街では不審者扱いだし。
 買えないなら盗めば?と男湯と女湯の仕切りの岩陰から、ボーイッシュな美女が形の良い乳房も露わに身を乗り出してきました。服なら脱衣場にいくらでもあるでしょ?
 そりゃそうです。3匹はおねいさんに代わるがわる感謝しました。でもどうしてアドバイスしてくれるんです?それはね……いずれわかるわ、と美人は女湯に消えました。
 服泥棒か、まさかこんなことで、こそ泥になるとはなあ……。


  (25)

 やっと人心地ついたような気がする、と風呂屋から路地に出て、サルがつぶやきました。おれたち人じゃないけどね、とカッパ。サルもイヌも、砂丘ですり替えられた燕尾服とワンピースから脱衣場で他人様から掠めてきた服を着て、とりあえず不審者には見えないでしょう。いかにも田舎者っぽい服装が洒脱なカッパのカジュアルないでたちと並ぶと不似合いですが、文句は言っていられません。路地は真っ暗で、街角ごとにある街灯の周り以外は足元も見えないくらいでした。
 とにかくこれなら宿に戻っても怪しまれないだろうから、泊まりの予定はもうキャンセルして夜行バスか電車に乗るか、でなければ電話を借りて実家に送金してもらうよう頼もう。ヒッチハイクで京都に帰るにも今のあり金じゃ菓子パンも買えないよ。もちろん服も所持品も盗まれていないカッパだけなら困ったことはないのですが、お金を貸さない代わりに友人の義理があるので一緒に困ることにしたのです。
 ところで着ていた服は?とカッパ。サルはハッとして、ああ持ってきちゃった。置いてくれば良かったのに、とカッパ、そこら辺に捨てちゃえよ、朝まで誰も気づかないよ。そうだな、とサルは服がすっぽり隠れそうな草むらがないか街灯の下できょろきょろし、暗闇に包みをバサッと投げ捨てました。
 捨てるな、と突然甲高い声が3匹を恫喝しました。街灯の円い明かりの中に、いつの間にかふたつの影が立っていました。捨てるな、とピストルを3匹に向けているのは、砂丘で盗まれたイヌの服を着ているウサギでした。ひいい、と3匹はピストルに気づいて声にならない悲鳴をあげると拾え!とウサギ、また元の服を着ろ。ヤですと言ったら?とサル。殺す、とウサギ、殺してから元の服を着せる。じゃあ着たなら?とサル。着たらそのまま殺す。
 どっちにしろ殺されるんですかあ、とサルとイヌは抱き合ってさめざめと泣きました。何で殺されるんですかあ?
 お前たちは日系英国諜報部ラビット柳瀬少佐(とサルをにらみ)、そして英国武偵高校諜報科アリス・リデル(とイヌをにらみ)として死ぬのだ。え、と3匹はウサギの後ろの影をよく見ると、砂丘でサルが盗まれた服を着た女スパイらしき少女がいました。
 あのー僕は関係ないですよね、とカッパ。うむ、とウサギ。お前は50年後に山奥の地中から白骨で発見されることになる。
 嫌だあ、と3匹は泣き崩れました。仕方ない、自分で着ますよ。


  (26)

 泣きべそをかきながらもしぶしぶサルとイヌは、元の燕尾服とワンピースに着替えるため、せっかくせしめた他人の服を脱ぎ始めました。田舎の夜道ですから通りかかる人もおらず、助けを求めるすべもありません。
 そうか、手配中の不審者とはあなたたちだったのか、とカッパ。要するに、自分たちの服を着た身替わり死体が必要なわけですね。シェーッ、とサルとイヌは飛び上がりました。うすうす気づいてはいたけれど、カッパがそれを言うのは挑発もはなはだしいことです。
 あーでも、とカッパは残念そうにイヌの方を向いて、こいつは身替わりになりませんよ、ついてますもん、アレが。ね?そうですそうです、私これでもついてるんです、とイヌもワンピースのすそを持ち上げました。
 それからこいつは、とサルの方を向き、こいつはこれでもついていないんです。サルは一瞬傷ついた気分が表情に表れてしまいましたが、すぐにごまかし、そそそうなんです、私ついていないんです。ほーら、身替わりにするのは無理ですよお。別を当たった方が……。
 しかしもうお前たちは知ってしまった、とウサギ。僕たちバカだから大丈夫でーす、と必死にアピールする3匹。
 でも使えるわ、と少女。撃ち殺した後でついてる方からアレを切りとって、ついてない方につければいいのよ。
 それはあんまりじゃないですか、とサル、愛もないのにチョン切っちゃうなんて。
 愛があればいいの?と少女。
 いや……と言葉に詰まるサル、てか僕がついていないというのは嘘です。でもこいつが(とイヌを見て)ついているのは本当ですから、さっきの話だとアレが1本あまります。
 つべこべ言わずにさっさと来るんだ!とウサギが怒鳴ると、威嚇されてずっとお腹がゴロゴロしていた3匹はとっさに一気に脱糞すると、手づかみでウンコをウサギと少女に投げつけました。うわっ、何をするかっ!
 これは一見汚い手口ですが、糞便の投擲は前近代化社会では世界中で普通に行われていた攻撃法です。ひりたての生ウンコを投げつけられて(熟成したウンコも嫌ですが)ひるまない相手はめったにいません。
 3匹は脱兎のごとく、そのうちサルとイヌは半裸のままで逃げ出しました。激しい銃声が聞こえると、3匹はいつの間にか警官隊に包囲されているのに気づきました。3匹は起こったことを正直に話しましたが司直は信用せず、所持品によって3匹は本国へ強制送還されることになったのです。


  (27)

 3匹は、略式起訴に決着がつくまで3か月を拘置所に監禁されて過ごしました。被疑者の段階では使役はなくひたすら禁固されるのですが、3匹はそれぞれ別の雑居房に振り分けられ、カッパは麻薬不法所持・使用被疑者、イヌは職業的集団窃盗団、サルは組織的密輸団に放り込まれ、カッパの雑居房は単独犯ばかりですから次々と裁判を済ませては入れ替わるのですが、イヌとサルのぶちこまれた組織犯の集団では案件が複雑かつ職業的犯罪者ばかりですから、審議が長引いて半年以上も未決犯のままグループごと拘置されている輩が大半で、彼らの陰湿で排他的な部外者苛めは刑務官の目の届かない、痕跡の残らないかたちで執拗な攻撃をイヌとサルに加えられました。
 カッパのぶちこまれた麻薬犯の雑居房は個人的な所持・使用容疑者ばかりの、いわば一匹狼の群れでしたから、職業的組織犯のような上下関係や排他性はなく、全員が何の会話もなく仏頂面で読みたくもない読書をしながら一日中座っているだけです。イヌやサルはことあるごとに罵倒され、すれ違いざまに蹴りをいれられていました。単独犯の雑居房にせよ組織犯の雑居房にせよ、12畳に10人の成人男性が詰め込まれているのは同じです。
 入浴は週に12分間と8分間の2回、タオルの所持は1本のみで使用していない時は刑務官が一目でわかるようタオルかけにかける規則です。ひげ剃りは週に1度電気シェーバーが20分間配られます。許可された時間(昼寝、晩の睡眠)以外は寝転ぶのはおろか壁に手をつく、背中をもたれるのも禁止です。20年前の日付の入ったカーペットみたいにごわごわした毛布で、顔を隠して寝るのは絶対厳禁です。
 12畳に10人というのがどれほど狭いかというと、左右に4枚ずつ布団を敷いて中央に縦に2枚布団を敷くと畳が見えず、さらに毎朝の掃除をすると10人の足が摩耗させた畳のカスが握りこぶし大に集まるほどです。
 3人は合同の運動時間(週2回)に四方が5階建てに囲まれた息苦しい中庭で、顔を合わせる時がありました。話を小耳に挟んだ初老の任侠っぽいおじさんが「あんたは大丈夫そうだが」とカッパに、次にイヌとサルに「あんたたちは独居に移った方がいい。独居もつらいが、あいつらはクズだ」3匹を見て「あんたたちはこんなところにいる人間じゃない」
 3匹はもともと人間ではありませんでしたが、刑務官も含めて確かにここは人間のクズばかりでした。


  (28)

 3匹の起訴容疑はイギリス秘密諜報部の機密隠匿と非合法亡命未遂でしたが(なんで僕も、とカッパは不服でしたが、状況的に先に潜伏・手引きしていた共犯者という容疑は免れません)、裁判は在日アメリカ軍部が代行する、というイレギュラーなものでした。これは彼らのような事件の場合に軍事レベルの裁判を行う権限が日本の司法にはないからで、にもかかわらず国選弁護人は日本の弁護司会から出向するしかなく、これでは事実上弁護士にできることなど何もないばかりか、弁護側すら検察側の手下のようなものです。
 駐留アメリカ軍基地で開かれた裁判は初回は検察からの起訴容疑、翌週の結審は本国への強制送還という有罪判決の確定に終わりました。こんな茶番な裁判がアリならどんな反論も意味がありません。弁護人もまるでやる気のないデクノボーで、起訴事実(どこが事実だよ、と3匹はボヤきました)をそのまま認めて最小限の罪状(誰の?)で済ませるしかないでしょう、となげやりそのものです。でも僕たちはどこの国のスパイでもありません、スパイ容疑が晴れればこれが不当逮捕なのも、拘置され起訴され有罪になるのも、すべてでっち上げの結果というのは明白になるんじゃないですか?
 私はそっちの方面は専門にしていないんでね、と弁護人はいけしゃあしゃあと言いました。懲役または罰金、というのは本国へ送還されてから改めて裁判の俎上に乗るでしょう。ならば、検察からの起訴内容が、せめて日本国内で国法に抵触する行為はなかったとされているなら最小限の処罰で済むんですよ。
 この馬鹿にはどんなに馬鹿と言っても無駄なんだろうな、とカッパはサルとイヌに目配せしました。つまり世の中にはつける薬もない馬鹿が実在して、それは好嫌とか善悪でもなく、自然災害みたいなものなんだろうな。
 そしてその通りに裁判は進み、そして決着しました。駐留アメリカ軍基地から押送される覆面バスの中で、サルはさよならアメリカ、さよなら日本、とつぶやきました。
 3匹は神戸港から貨物船で労役を課せられながら(飛行機を使うほどの緊急性はなく、また貨物船で労役させるのは渡航費の節減と食費・諸雑費を自分たちでまかなわせるためでもあります)、どうやらイギリスらしい国に着いたらしいのは数か月後のことでした。そして3匹は、さっそくスペイン領と対立しあう海峡の離島をめぐる武力抗争で兵役を勤めなければならなかったのです。


  (29)

 また飛行機が飛んでいるな。今、空は何色に染まっているんだい?朝焼け色?夕焼け色?それとも墨でも流したような灰色?
 夕焼け色かな、とサルは答えました。たっぷりダイオキシンや副生成物を含んでいそうだよ。テトラクロロソジベンゾ……。
 エージェント・オレンジ、とカッパが歌うようにつぶやきました、エージェント・ブルー、エージェント・ホワイト。まるで詩の文句みたいじゃないか。空が朝焼けのように染まり、夕焼けのように燃え、雷雨の前触れのように曇る。だがそれは自然現象ではない。
 何のために?とイヌ。何のために?とサル、昔は戦争の本質は領土拡張と支配と略奪だった。早い話が強盗さ。奪うため、儲けるためにするのが戦争だったのだから、戦うのも死ぬのも軍人だけで良かったはずなんだ。民間人を殺傷してしまうのは玉子を生む鶏の首を絞めるのと同じことで、最良の手段は恐怖と圧政で支配して一定の租税や物資を搾取することだった。だから殺してしまうのは無意味だった。
 軍人の他は?
 軍人の他は。もっとも抵抗勢力が出てきたら民間人でも危険だから、これは武力で鎮圧する必要がある。ただし、だ……。
 空はオレンジ、赤、そして黒く染まり、それら色鮮やかな煙を散布する飛行機が旋回していました。いつまで続けるのだろう?
 いつまで続けるのだろう、こんなの一文の得にもならないはずじゃないか。かえって持ち出しになっているんじゃないか?
 得とか損ではないんだろう、とカッパ、意地とかメンツとか、そういうものを賭けて戦っている時が一番始末が悪いんだ。
 損得ではなく優劣だね、とサル、そうなるとどちらかが音をあげるまで泥仕合は続くことになる。ほら、また枯れ葉剤が来たぞ。
 3匹はガスマスクをつけ直すと、野営戦のために根城にしている洞穴の中に逃げ込みました。洞穴の奥にはうまい具合に光りの差し込む縦穴があり、さらに小さく澄んだ湧き水もあって、携帯用の兵糧とこの水があればなんとか餓えずに済みました。
 とにかくこれはそういう種類の戦争なんだ、とサル。戦いが続く限りこの状況は続く。おれたちは味方からも敵からも殺される……おれたちを殺しにくる味方を味方と呼べるなら。だがおれたちは殺さないで、殺しにくる奴らから隠れ通し、逃げおおすだけだ。
 上手くいくかな、と不安げにイヌ。まあ駄目になったら死ぬだけだしさ、とカッパは鼻歌を歌いながら飯盒を火にかけました。


  (30)

 さあ早く乗って、とお姉ちゃんは3匹に、トラックの荷台を指してうながしました。明け方のうちが勝負よ。
 今をのがしたらまた逃げられなくなるわ。その前に、とお姉ちゃんは3匹が乗り込むと、国境を越えたら大使館に駆け込むのよ。
 僕らを助けてくれるんですか、とサル。見捨てるわけにはいかないもの、とお姉ちゃん、あなたたちがどんな目にあったか一部始終を見ていたんだから、助けないわけにはいかないわ。お姉ちゃんあんたはええ人や、とサルは京言葉で感激しました、世の中そんなに、むごいことばかりやあらへんな。
 お姉ちゃんはかけ流しの温泉銭湯で服のすり替えのアドバイスをくれた、あのお姉ちゃんです。3匹はあの時のお姉ちゃんのいかしたヌードを思い出し、こんな緊迫した事態にもかかわらずにやけてくるのを抑えられませんでした。地獄に仏、いや女神さまやで。
 トラックは走り出しました。3匹は慌てて荷台の縁につかまりましたが、後ろからこんな戦場には不似合いな高級車が迫ってきます。おい停まれ、このアバズレが!と高級車の窓から眼帯の、顔立ちだけでも肥満とわかる中年男がピストルをかざして怒鳴りました。
 お前を育ててやったのはこんなアバズレにするためではないぞ!と眼帯男はピストルをぶっ放しました。気にしないで、とお姉ちゃん。あの、あの方はお父さんで?とサル。夫よ、とお姉ちゃん。ああ、はかないわとサル。もうすぐ駅に着くわ、とお姉ちゃん。
 早く下りて、この時間なら検問なしに列車は国境を越えるから。トラックが駅に着くのと毒グモみたいな眼帯男の車が追いつくのは同時でした。早く、急いで!お姉ちゃんの言う通り、早朝の駅は無賃乗車もお構いなしで、3匹は発車待ちの列車に乗り込みました。
 列車は走り始めました。車掌も来ないし、と3匹がようやくひと安心していると、あのウサギがまた例の少女と現れたのです。
 ウサギはバサッと服を投げて寄越しました。着替えるんだ。こんな所ではできません、とサルとイヌは泣き出しました。
 ほう、とウサギ、ならトイレがある。サルとイヌは着替えを持たされました。僕もですか、とカッパ。そうだ、お前も来い。
 着替えたらどうするんですか?死んでもらう。あなたは誰を殺すんですか、とカッパ。僕はカッパ、そしてこいつらは英国諜報部少佐ラビット柳瀬と英国武偵高諜報科アリス・リデルです。あなたはあなたたちを殺せますか?
 第3章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第五部・初出2016年1月~6月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

テッド・カーソン Ted Curson - ドルフィーに捧げる涙 Tears for Dolphy (Fontana, 1965)

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テッド・カーソン・カルテット Ted Curson Quartet - ドルフィーに捧げる涙 Tears for Dolphy (Fontana, 1965) (Ted Curson) : https://youtu.be/MxXkbgQWx3c - 8:32
Recorded on August 1, 1964
Released by Fontana Record Netherlands as the album "Tears For Dolphy", 888 310, 888 310 ZY, 1965
[ Ted Curson Quartet ]
Ted Curson - trumpet, Bill Barron - tenor saxophone, Herb Bushler - bass, Dick Berk - drums

 同年6月29日のエリック・ドルフィー(1928-1964)の単身ツアー先のベルリンでの急逝の訃報を受けて、元チャールズ・ミンガス(1922-1979)のバンドの同僚だったテッド・カーソン(1935-2012)が急遽当時ヨーロッパ・ツアー中だった自身のカルテットで同曲をタイトル曲にしたドルフィー追悼アルバムを制作した、そのタイトル曲です。ミンガスはアルバム・アーティストとしてはトップ・クラスの評価を受けていましたが、ミンガスのバンドは拠点ニューヨークではライヴ活動から閉め出されていたため(音楽が難解、ミンガスが演奏中に観客に会話飲食禁止を命令する、などの理由で)、ライヴ活動はもっぱらロサンゼルスやボストン、シカゴなどの国内ツアー、海外のジャズ・フェスティヴァルに呼ばれたついでのヨーロッパ・ツアーに限られていました。ジャズのレコードは高く評価され売れても数百枚、1,000枚を越えればヒット作で、数万枚も売れるアーティストは大手レコード会社専属のひと握りしかいません。レコード印税はリーダーにしか入らないのでメンバーはライヴ活動がないと食っていけない。ほとんどライヴの機会がないミンガスのバンドは門弟で固定メンバーのドラムスのダニー・リッチモンド(1931-1988)以外は頻繁にメンバーが変わりましたが(ミンガスのアルバムに参加した実績はメンバーのステイタスになったので、赤貧覚悟でメンバーになる意欲的な実力派ジャズマンには欠きませんでした)、ドルフィーはミンガスと同郷のロサンゼルス出身でロサンゼルス時代から親交があったので準レギュラー的存在でした。テッド・カーソンがミンガスのバンドに参加したのは1960年の1年間だけで、同年7月のフランスのジャズ・フェスティヴァルではテナーサックスのブッカー・アーヴィン(1930-1970)が加わったクインテットのライヴ音源が1974年に発掘発売されましたが、この年のミンガスのバンドはピアノレスの2ホーン・カルテットが基本で、カーソン(トランペット)とドルフィー(アルトサックス、バスクラリネット、フルート)がフロント、ミンガスとリッチモンドという最小編成によるバンドです。

 カーソン在籍時のミンガスのスタジオ録音アルバムは『Charles Mingus Presents Charles Mingus』(Candido)、『Mingus』(Candido)、『Pre-Bird』(Mercury)があり、いずれも'60年録音・'61年発売ですが、『Mingus』(1曲のみ『Charles Mingus Presents~』のアウトテイク)と『Pre-Bird』はビッグバンド作品なので'60年のミンガスのピアノレス・カルテットの純粋なアルバムは『Charles Mingus Presents Charles Mingus』1作と言ってよく、これは前'59年10月にアルバム『ジャズ来るべきもの(The Shape Of Jazz To Come)』で華々しくメジャー・デビューし(先に地元ロサンゼルスで2枚のアルバムがありましたが)、翌月からのニューヨークのジャズ・クラブ出演が異例のロングラン公演となり次作『世紀の転換(Change Of The Century)』'60.6発売の頃までつづいてセンセーショナルな新人だったオーネット・コールマン(1930-2015)のピアノレス・カルテットと同じ編成を意識したものでした。ドルフィーはロサンゼルス時代にオーネットとも親交があり、ミンガスはカーソンとドルフィーをオーネットのライヴの偵察に出し「同じようにできるか?」と訊いたのをのちミンガスの没後にカーソンが証言しています。ミンガスはリハーサル中特定のメンバーだけを集中して苛めてバンドをしごくタイプのリーダーで、旧友で頼もしいドルフィーや忠実な門弟のリッチモンド以外というとカーソンしかいないのでミンガスのバンド在籍中カーソンは何度辞めようと思ったかというくらい苛められたそうですが、『~Presents Charles Mingus』の出来は素晴らしいもので、カーソン自身がミンガスのバンド契約満期脱退後に組んだピアノレス・カルテットも同アルバムの音楽性を継承したものでした。

 ドルフィーへの追悼曲「ドルフィーに捧げる涙」は沈鬱な葬送曲の楽想とテンポで奏でられる楽曲で、この曲を筆頭に全6曲中カーソンのオリジナル4曲(テナーサックスのビル・バロンのオリジナル2曲)はその後もカーソンの代表曲となり、何度も再演されることになります。「ドルフィーに捧げる涙」はパゾリーニの映画『テオレマ』'68を始め映画への使用頻度も高い曲になりました。この曲はテンポやチェンジの設定ではカーソン参加のミンガスのアルバムでは「ホワット・ラヴ」が発想源になっていると思われ、同曲はアルバム録音に先立つフランスでのライヴ音源でもアーヴィンを外したカルテットでのちのスタジオ録音にほぼ忠実に演奏されていることから、厳密にスコアに起こしてほぼ半年間のリハーサルを積んだ録音で、スタンダード曲「What Is This Thing Called Love」と「You Don't Know What Love Is」(ともにビリー・ホリデイの名唱、ミンガスとドルフィーの愛奏曲です)の主旋律をモザイク状に組み合わせリハーモナイズした難曲です。このミンガスの難曲からすっきりと明快な悲しみの伝わる名曲「ドルフィーに捧げる涙」を生み出したカーソンのセンスと手腕は、ミンガスのバンドでの苦汁をなめただけはあるという気がします。

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Charles Mingus Quartet - What Love (Charles Mingus) (Candido, 1961) : https://youtu.be/amTa_k8E_gI - 15:20
Recorded at Nora's Penthouse Studio, October 20, 1960
Released by Candido Records as the album "Charles Mingus Presents Charles Mingus", CJS 9005, 1961
[ Charles Mingus Quartet ]
Charles Mingus - bass, Ted Curson - trumpet, Eric Dolphy - bass clarinet, Dannie Richmond - drums

Charles Mingus Quartet - What Love (Atlantic, 1976) : https://youtu.be/oR5Z8N2PfLY - 13:34
Recorded live at Antibes, France, July 13, 1960
Originally Released by BYG Records as the album "Charles Mingus Live With Eric Dolphy", BYG Japan YX7009, 1974 (Not Include "What Love")
Reissued by Atlantic Records as the album "Mingus In Antibes", Atlantic SD2-3001, 1976
[ Charles Mingus Quartet ]
Same Personnel above.

集成版『NAGISAの国のアリス』第四章

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 第四章。
 ようやく着いたよ、とカッパとサルとイヌは海岸で大きく伸びをしました。遊んでいられる夏も再来年に卒業を控えた大学時代のこの年が最後ですから、三匹は学生時代最後のレジャーを満喫するため予算の許す限りの国内の南国で過ごしにやってきたのです。
 海岸から砂丘に降りると、彼らのような物好きはさすがに他には誰ひとりとしておらず、さながらプライベート・ビーチのような満足感に三匹は喜びのセッセッセをしました。足代・宿代・食費に雑費がかかっても、海に面した砂丘を独占するのに特別な利用料金など不要である上に、夏だ海辺だ青春だ、と謳歌するのに水着姿の女の子のひとりもいないのは唯一の無念ですが、ナンパは都会でやればいいことです。さいわいカッパは大ノッポなりに、サルは中ノッポなりに、イヌはチビなりに女の子にはモテました。これはひと言で女の子と言っても、大ノッポがタイプという子もいれば中ノッポがタイプという子もおり、チビがタイプという子もいるということです。
 そして今、広大な天然のプライベート・ビーチに立って、カッパとサルとイヌの三匹ともが大自然の偉大な抱擁力の前に色気づいた思考などすっかり漂白されて、ほとんど無心に大海原に対峙しておりました。
 三匹は服の下に水着を着て海岸にやってきていましたから、服を脱いで一か所に集めておくと、そのまま海へ駆け出しました。他愛なく三匹の馬鹿が水遊びに興じる声だけが浜辺に響く中でまずウサギ、それから少女の足が砂の中から勢いよく突き出てきました。それはまるで地球の裏側からストンと落ちてきたようでした。足は一旦砂の中に引っ込むと、今度は砂の中からウサギの手、少女の手が、三匹の脱いでいた服を一着ずつつかみ砂の中にひきずりこみました。それからウサギの手が燕尾服を盗んだ服の替わりに砂の上に置き、少女の手がやはり少女の着ていたらしいワンピースを盗んだ服の替わりに置きました。
 波音が寄せては返しました。
 カッパ、サル、イヌの三匹は戻ってくると、サルとイヌの服がなくなっている替わりに少女のワンピースとやたらと小さい燕尾服が置いてあったので、カッパは自分の服を着て何ら問題ありませんでしたが、サルとイヌは困ってしまいました。服の下にはそれぞれ千円札が服の代金のつもりか挟んでありましたが、学生証も定期券も財布もポケットに入れてあったのです。でも千円きりで何ができましょう?


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 街、と言ってもすれ違う人もいないような田舎町ですが、実家から宿に送金してもらうよう電話するのに小銭がいるな、とにかく千円札をくずして小銭を作ろう、 と三匹はタバコ屋に寄りました。服を盗られていないカッパはサルとイヌのために小銭を貸す義理はないからです。タバコ屋には青島幸男が店番をしていました。こんな田舎だけれど、とサル、釣りを騙そうとタバコを値切りでもしたら不審者と思われるのがオチだぞ。
 あのオバアさん、とサルは背中が見えないように左右にぴったりカッパとイヌにくっついてもらいながら話しかけました、ゴールデンバットは210円でしたよね?
 ゴールデンバットは210円だったかい?と青島幸男。そうですよ、全国どこでもゴールデンバットは210円、とサルは千円札を出し、1個ください、お釣りは790円。
 はあドキドキした、とサル。3匹は、今度は街を出るためにバス停を探さなきゃならないな、と歩き始めました。電車も通っていない街ですが、バスなら走っているはずです。3匹はそれらしい標識はないかキョロキョロしながら一列縦隊で進みましたが、やがて農民のような漁師のようなオッサンが仏頂面で歩いてきました。こんなオッサンに訊くのは嫌ですが、今日通行人を見かけたのは初めてです。僕が訊くよ、とカッパが列を離れました。サルはつんつるてんの燕尾服、イヌは女物のワンピースと、仲間たちは見るからに怪しいからです。
 なにィ、バス停?とオッサンはしょいこを投げ出すと、あっちだ、とあっさり先の三差路の左を示して、またしょいこを背負って立ち去ろうとしました。あの……とカッパ、僕の足を見なくていいんですか?足?俺は医者じゃねえよ、と小松方正は言うと、もう3匹には興味も親切心もない様子で歩いて行きました。
 最初からここへ来れば良かったよ、と露天風呂に浸かる3匹。体も潮気でベタついてたしさ。でもこの後どうする?残りのお金じゃ服も買えないし、またいつ不審者扱いされることになるかわからないし。
 買えないなら盗めば?と男湯と女湯の仕切りの岩陰から、ボーイッシュな美女が形の良い乳房も露わに身を乗り出してきました。服なら脱衣場にいくらでもあるでしょ?
 そりゃそうです。3匹はおねいさんに代わるがわる感謝しました。またお会いできて天にも昇る気持です。でもまたどうしてまたここへ?それはね……いずれわかるわ、と美人は女湯に消えました。


  (33)

 やっと人心地ついたような気がする、と風呂屋から路地に出て、サルがつぶやきました。おれたち人じゃないけどね、とカッパ。サルもイヌも、砂丘ですり替えられた燕尾服とワンピースから脱衣場で他人様から掠めてきた服を着て、とりあえず不審者には見えないでしょう。いかにも田舎者っぽい服装が洒脱なカッパのカジュアルないでたちと並ぶと不似合いですが、文句は言っていられません。路地は真っ暗で、街角ごとにある街灯の周り以外は足元も見えないくらいでした。
 ところで着ていた服は?とカッパ。サルはハッとして、ああ持ってきちゃった。またか、とカッパ。サルは服がすっぽり隠れそうな草むらがないか街灯の下できょろきょろし、暗闇に包みをバサッと投げ捨てました。
 捨てるな、と突然甲高い声が3匹を恫喝しました。街灯の円い明かりの中に、いつの間にかふたつの影が立っていました。捨てるな、とピストルを3匹に向けているのは、砂丘で盗まれたイヌの服を着ているウサギでした。ひいい、と3匹はピストルに気づいて声にならない悲鳴をあげると拾え!とウサギ、また元の服を着ろ。ヤですと言ったら?とサル。殺す、とウサギ、殺してから元の服を着せる。じゃあ着たなら?とサル。着たらそのまま殺す。
 どっちにしろ殺されるんですかあ、とサルとイヌは抱き合ってさめざめと泣きました。殺す理由はなかったんじゃないですかあ?
 お前たちは日系英国諜報部ラビット柳瀬少佐(とサルをにらみ)、そして英国武偵高校諜報科アリス・リデル(とイヌをにらみ)として死ぬのだ。え、と3匹はウサギの後ろの影をよく見ると、砂丘でサルが盗まれた服を着た女スパイらしき少女がいました。
 あのー僕は関係ないですよね、とカッパ。うむ、とウサギ。お前は50年後に山奥の地中から白骨で発見されることになる。
 嫌だあ、と3匹は泣き崩れました。仕方ない、自分で着ますよ。
 そしてサルとイヌが着替えを済ますと(カッパは暢気に♪オラは死んじまっただー、と鼻歌を歌っていました)、見覚えのあるトラックが突っ込んできました。
 さあ早く乗って、とお姉ちゃんが運転席の窓から顔を出して叫びました。地獄にまたまた女神様や、と3匹はトラックの荷台に飛び乗りました。ピストルをぶっ放す音に3匹は体を伏せました。ですが追跡者はウサギたちだけではなく、またあの毒グモみたいな眼帯男の高級車も後を追ってきていたのです。
 すぐ駅よ!


  (34)

 再び列車内で追い詰められた3匹でしたが、また着替えさせられたサルとイヌをかばうでもなく、カッパはサルとイヌの素性を確認しました。彼は不法入国諜報部小冊子ラビット柳瀬、とサルを指し、そしてこいつは(とイヌを示し)やはり不法入国武偵高諜報科のアリス・リデルです。そうですよね?
 そして僕らは最前線で戦ってきたのです。敵も味方もない壊滅戦の戦場で、現地ではもう僕らの生死は確認もできず、こんなところで生存していたら戦地に送られたのは一体誰だったかということになるはずだ。あなたたちがぼくらを殺しても、あなたたちはこの世界からも自分たちを抹殺することにはならず、僕たちが代わりに引き受けた従軍の意義も身代わり死体が発見されるとともに霧消してしまうということですよ。それに第一……。
 カッパは目の前の相手を問い詰めました、あなたはウサギ、そしてこいつらはサルやイヌです。動物は動物を補食する以外では殺さない。僕たちだってピストルやナイフがあってもあなたたちを殺すことはない。僕たち動物同士が殺しあえますか?
 ウサギは詰まって、後ずさりしました。
 殺せるわ、と少女が言いました、だって私は人間だから。
 人間だって動物です。
 殺しあえる動物だから人間なのよ、とアリスは言いました、あなたたちがどんなに逃げ回ってきたかを探るのは、私たちの身代わり死体になって発見されたら徹底的に調べられるでしょう。私たちはヤドカリと貝がらみたいにあなたたちと二人一役になって、残るのはあなたたちの死体だけになるわけ。
 この人でなし!とサルはボヤきましたが、突然いつもはおとなしいイヌがガアッ、とウサギと少女に飛びかかったのです。すかさずカッパが車両と車両の間のドアを閉めました。とにかく逃げるんだ、自由席の客車の中では連中だって手出しはできないに決まってる。
 ですが客室は閑散としていました。まずいまずいまずい、と3匹は通路を進みながら、誰か乗客が座っているところへたどり着かなきゃ、そこで大騒ぎするだけでいい、乗務員を呼ばれて知らない駅で摘まみ出されたってここで殺されるよりはずっといい。
 すると金持ち風の身なりの男女が退屈そうに二人がけのシートに並んでいるのに差し掛かりました。サルは振り向くと、あっ毒グモとお姉ちゃんや、と声に出して驚きました。
 お姉ちゃんまた僕たち助けに来てくれはったんやろ、とサル。何で知らんぷりなんや?


  (35)

 何のことかしら、とロリーナ(といっても未来のロリーナ)は冷たく言いました。そんな、とサル、あなた僕たちを助けてくれたじゃないですか、つれないこと言わんといてや。君たちは何の用だね、とドジソン先生(ただし眼帯のドジソン先生)は五月蝿そうに言いました。いえ僕らは五月でも蝿でもありません、とサル、ただの哀れな逃亡兵なんですわ、早く車掌さんかお巡りさんに通報してください。
 逃亡してるのならお逃げなさい、とロリーナ、あなたたちの邪魔はしないわ、もし逃亡兵というのが本当なら、とロリーナはドジソン先生に、逃げ続けてこそ逃亡兵のはずよねえ。そう、それに、とドジソン先生、私は他人の自由に干渉する趣味はない。そんな卑しいことはしない。私の趣味は卑しいの反対なのだからだ。どうだ、おそれいったか。
 おそれいりまへん、とサル、なぜなら僕らは卑しいの反対の反対なのだからです。どうですか、おそれいりましたか?
 おそれいらん、とドジソン先生、なぜなら私は卑しいの反対の反対の反対なのだから。つまりそれは上品ということなのだから。
 お姉ちゃん、とサル、こんな偽善者と一緒にいてはったらお上品が鬱ります。僕たちと一緒に逃げましょ逃げましょ。
 何のことかしら、とロリーナ(といっても未来のロリーナ)は冷たく言いました。そんな、とサル、あなた僕たちを助けてくれたじゃないですか、つれないこと言わんといてや。君たちは何の用だね、とドジソン先生(ただし眼帯のドジソン先生)は五月蝿そうに言いました。いえ僕らは五月でも蝿でもありません、とサル、ただの哀れな逃亡兵なんですわ、早く車掌さんかお巡りさんに通報してください。
 逃亡してるのならお逃げなさい、とロリーナ、あなたたちの邪魔はしないわ、もし逃亡兵というのが本当なら、とロリーナはドジソン先生に、逃げ続けてこそ逃亡兵のはずよねえ。そう、それに、とドジソン先生、私は他人の自由に干渉する趣味はない。そんな卑しいことはしない。私の趣味は卑しいの反対なのだからだ。どうだ、おそれいったか。
 おそれいりまへん、とサル、なぜなら僕らは卑しいの反対の反対なのだからです。どうですか、おそれいりましたか?
 おそれいらん、とドジソン先生、なぜなら私は卑しいの反対の反対の反対なのだから。つまりそれは上品ということなのだから。
 お姉ちゃん、とサル、それでは本当のことを言います。
 本当のことって何?


  (36)

 僕たちはあの戦場で……あの戦場というのはあなたも(とロリーナに感謝の眼差しを注ぎましたが、ロリーナからすげなく逸らされてもめげずに)……あなたもご存知の、僕らを救い出してくれはった塹壕ですけど、救い出された時には僕らはもう戦死の身分が認定されていた後なんです。つまりラビット少佐とアリス諜報員、それから国籍不明・身元不明の民間人1名(とカッパを指し)は法的にはもう生存していません。僕らは元のヤポネシアに戻って元々の僕らに戻ればいいだけでした。
 万事丸く収まったということじゃないか、とドジソン先生、元通りに復したならば、それのどこに不都合があるかね?
 はい、僕らが戦地に送られた替わりに、戸籍上ぼくらの身元にヤドカリみたいにすっぽり入り込んでいた連中がいました。つまり中ノッポこと僕(とサルは自分を指して)、それからチビこと彼(とイヌを指し)は、別人がもう僕らの替わりにすり替わっていたのです。
 彼は問題ないんだろう?とカッパに目をやるドジソン先生、それに君は(とイヌに目を向け)女装はしているがもともと戸籍上は男性のはずだろう?偽者が女性なら、あくまで偽者なのは明らかじゃないかね?
 チョン切ってしまったという言い訳が効きます、とカッパがニヤニヤしながら言いました、もっとも本物の彼の方はまだちゃんと付いていますが。それと僕ですが、この連中と(とサルとイヌを指し)一緒にお陀仏した国籍不明者ということになっているので、祖国に戻って行方不明者から名乗りを上げると必然的に連中たちも実は生きている、ということになります。そうなるとまた僕たちは殺しに来る奴らに追われる身になってしまいます。てか現にもう追われています。生きている限りは狙われるんです。こないな話ってありますか?
 話をスッキリさせるとやな、とサル、この大ノッポ(とカッパを指し)が生きている、と名乗り出たら僕ら全員が実は生きていたことになる、つまりまたまた身替わりのために殺される。だから僕たちは見つからへんように逃げ隠れ通さねばなりませんが、向こうさんとしてはいつ名乗り出るかもしれない僕らをしつこく追い続けているのです。こういうのって何と言ったらいいんでしょうね?
 負のスパイラル、とロリーナ。
 ではどうしたらひっくり返せるんでしょう?その、負の……。
 無理でしょうね、お気の毒だけど、とロリーナ。だからこそそれはスパイラルなのよ。


  (37)

 君たちの話を聞いているとね、と毒グモ、いやドジソン先生は言いました、君たちと私たちには一連の事態について認識にずいぶん大きな懸隔があるようだ。おそらく客観的真実はさらに事態を俯瞰したあたりにあるのだろう。たぶんそれは突き止めてみれば簡単明瞭で、わかってみればあくびが出るほど退屈に違いない。地球上に厳密な意味での水平は存在しない、のだが概念としての水平は普遍的に存在する。君たちにとって現実であるものを私たちが変えることはできない、もちろんその逆もだ。どうするね?この女にしても同じことだ。君たちが彼女をどう頼ろうとも、彼女は君たちを本質的には助けることはできない。
 それはあなたの言い分です、とサルはムキになって抗弁しました、僕らは直接この人の知恵を借りたいんです。
 そうか、君たちは若いな、とドジソン先生。男も中年になると女一般にそこそこ悟りができる。まず女は食習慣についても男と違う動物だということに絶望せねばならない。まず連中はモツ煮や脂身、アナゴやシメサバを好まないのだ。干しシイタケは食べるが生から調理したシイタケは食えなかったりする。畜肉や魚介、ヴェジタブルやフルーツの好き嫌いもヒジョーに多い。ピーナッツや干しぶどうは好き嫌いでも構わないと思うが、好きではなくてもそこにあるものを食えるのは生物の生存がかかった適性問題だろう。私は食い物の好き嫌いにうるさいやつはブン殴りたくなるのだ。
 それはそれでいいですが、とカッパ、このままだと僕たち殺されてしまうんですけど。あのウサギと、その連れの女の子に。
 アリスね、とお姉さんは不機嫌にドジソン先生に向き直ると、あの子のことは先生にも責任あるんじゃありません?
 私がかい?とドジソン先生は肩をすくめると、私は教育者だが、他人に教えられるのは数学と哲学くらいのものだよ。
 数学と哲学の世界では、とセリフの少ないイヌが真面目な顔で訊きました、他人の命はそんなに安いものなんですか?
 ドジソン先生が答える間もなく、客車と客車のあいだの扉が開きました。アリスが来たわ、とロリーナ。ウサギもね、とドジソン先生。何、すぐにはバレはしないさ、彼らは地球を突き抜けてきた、私たちは地上を迂回してきたからね。私たちは歳をとった、がアリスは一瞬で今ここに現れたのだ。
 そしてアリスが現れました……青年のような男装をして、ウサギの両耳をつかんでぶらさげながら。


  (38)

 今までカッパたちはアリス(とウサギが呼んでいました)たちには追われて命を狙われ、ロリーナ(という名前は知りませんでしたが)には危機一髪を助けられてきましたが、この2人と同時に出くわしたのは初めてで、そこでようやく3匹もふたりが姉妹らしいと気づいたのでした。世の中に似ていない姉妹は掃いて捨てるほどいますし、他人の空似の可能性もあればアリスとロリーナも容貌だけでは決め手には欠けるでしょう。しかしウサギをぶら下げ現れたアリスとキッと睨みを交わしたロリーナの間には、姉妹とするに十分な容貌の近似以上に近親者以外には働かないような根の深い桎梏が横たわっているように見えました。女は怖いわ、とサルはささやきました、きれいな顔して本性は何考えてるんだかわからんもんなあ。
 サルにはそのつもりはありませんでしたが、サルのボヤきは毒グモことドジソン先生の耳にも入ってしまったようでした。ドジソン先生はニヤリと笑うと、君たちだって学んでこなかったわけじゃああるまい、と見透かしたようなことを言いました。
 どういうことですか、とカッパ。
 イヌはもともと口数は決して少なくはないのですが、何か言おうとすると口達者なカッパやサルに先に言われてしまうのでこの場もさっきからモヤモヤしていましたが、アリスとロリーナ、カッパとサルとドジソン先生が同時ににらみあいの沈黙に踏み込んだ一瞬に一言、客車中に響き渡る声で、
 助けて!
 と叫びました。
 アホやな、助けを呼んだってこの客車にはこの人たちしかおらんのやで、とサル、どうにもならん。カッパもうなずきました。
 イヌはかまわず、もう一度、
 助けてください!
 と言いました。だから、とサル、誰に言っとるんや?僕たちを助けてくれる人は、もうおねえちゃんだって助けてくれんのやで。僕らは逃げ続けるしかないと決まったようなもんや。なあ?とサルは顔を上げると、
 最初からこういうことだったんですか?おねえさんたちの一方が追う、一方が逃がす。僕たちはそういうゲームの駒みたいなものだったんでしょう?僕たちが動いていることで何かしらお金も動いているのに違いない。どういう種類のお金かはわからないけれど、どういうゲームなのかは何となくわかる。つまり僕たちが死んだら上がり、そういう種類のえげつないゲームと違いますか?
 助けて!とイヌ。
 ああバレてた?とウサギがアリスの手から、ひょいと降りました。


  (39)

 すべての宗教は自分自身の幸福より他者の幸福を祈念している、とウサギは言いました。はあ、とカッパ。
 つまりおのれの幸福ばかりを願う者は悪しき意味でのエゴイストということだ。そしてこの場合他者とは何だろう。それが家族や恋人、友人のみを指すならエゴイズムの延長に過ぎまい。それはもっと大きなものでなければならない。われわれがつながっている共同体、そのもっとも大きな他者の単位は結局祖国ということになる。右であれ左であれ祖国のために身を挺し、時には殉ずる者は敵味方を越えて最高の敬意で語り継がれられる。国のために働くことは最高の名誉であると考える。世界の秩序は国家単位の法体系を尊守することから生まれ、ゆめゆめ法の正義を疑ってはならない。
 なぜなら、とウサギは言いました、われわれの大半の者が法の正義によって人権を護られていると信じて疑わないからだ。正確には疑いたくない。われわれの自由や可能性は国家資格や法規定によって制限されている。われわれが近代化と呼ぶ文化改革がそれで、多くの侵略国家が王制から共和制、民主制に移行することで利権を議会制社会の人民に広く解放した革命的意義は大きい。その代償にわれわれは進んでそれ以上の自由を犠牲にすることになった。誰もが密告者たる資格を持ち、誰もが被疑者足りうる社会の一員となった。つまりそういうことだ、この世界の原理は。
 だが君は一種の宗教学から始めた、とドジソン先生は言いました、一般的には宗教は政治的党派より上位にあるとされる。そこを君は民心一般の愛国心と混同している。宗教の多くは共同体の精神的基盤として発生したもので、世界最大の宗派などは国土を持たない放浪民族が、いわば国土の代わりに作り上げた神話体系から生まれている。
 それに君は共同体の単位の延長から国家の成立を規定したが、共同体が共同体である最大の理由は人はある程度の単位でまとまらないと生きていけない、ということでもあり、また異なる共同体が接触すれば競合から争いに発展するのは珍しくなく、統廃合以外に平和的解決がないことはしばしばで、私はあえて上品な表現を使っているが早い話が皆殺し、大虐殺で終わる戦争以外の戦争を数える方が難しい。
 でもそれが僕たちに何の関係があるんです、とカッパが言いました。ああ、つまり君たちはどこへ逃げても同じってことさ、とドジソン先生は言いました。
 アリスが笑いだしました。


  (40)

 何てことだ、とカッパはサルと顔を見合わせると、揃って地団駄を踏みました。イヌもワンテンポ遅れて踏みました。あんたたち結局グルだったんですか、いったい僕らを何だと思っているんです?
 グルというのは良くない言い方ね、とおねいさんのロリーナが答えました、それを言うならキャッチ&リリースと言ってほしいわね。それに踊らされているのはあなたたちだけなんじゃないわ、私たちだって好きでこんなことやっているわけじゃないのよ。
 ウサギがそでをまくって腕時計を見て、そろそろ結論を出そうじゃないか、と言いました。結論て何ですか?君たちがどちらの国に属しているかだよ。
 それじゃまるであんたたちが両国の代表みたいだ、とサルが文句をつけました、僕らから見ればあんたたちこそ……。
 どちらも外国人というのかね?とドジソン先生、だが人は親と国籍は選べないで生まれてくるものじゃないかね?
 それは今年死んだら来年は死なないで済むのと同じ理屈です、とカッパ、こんなキャッチ&リリースがありますか?
 早く終わらせちゃいましょうよ、とアリスが冷たく言いました。そうだね、とドジソン先生、それでどうするね?
 この国らしいやり方でやりましょ、とロリーナがスマホを片手に言いました、この国では生き物の所有者を決するためにちょっとした力較べをするの。綱引きの要領で左右の腕を引っ張り合うのよ。それで獲物が苦痛のあまり死にそうになっても手を離さなかった方が勝ち。
 死ななかったら?とアリス。
 死ぬまでやるのよ、とロリーナ。
 僕たち3人いますけど、とサル、順々にやっていくんですか?
 それも面倒そうね、とロリーナ、3人いっぺんに済ませる良い方法はないかしら?
 手をつながせよう、とウサギが言いました、左右のバランスもあるから、真ん中に小さいの(とイヌを見て)を置き、左右に大きいの(とカッパとサルを見て)を分ければいい。
 案外僕ら助かるかもしれないぞ、とサルはこっそりささやきました、引っ張り合いがきつくなったら、真ん中のお前が両手を離せば綱引きが弾けて、どさくさ紛れに逃げるチャンスもあるかもしれん。
 3匹はイヌを間に、カッパとサルを左右にして並ばせられました。手をつないで、とロリーナ。男同士で手をつなぐのも気色悪いですわ、とサルが軽口を叩きました。
 そうね、とアリスが目配せすると、ウサギが3匹の腕をロープで縛り始めたのです。
 第四章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第五部・初出2016年1月~6月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2018年5月30日・31日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(8)

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 今回でバッド・ベティカー監督作品のご紹介はひとまず終わりで、ベティカーは'44年の監督デビュー(それ以前にコロンビアで60分強の中編戦争映画が'42年、'44年にノンクレジットながらあり)からコロンビアにB級フィルム・ノワール5作、インディー・プロのイーグル・ライオンにB級映画2作、やはりインディーのモノグラムのB級怪奇映画3作を経てジョン・ウェインのバトジャック・プロで初のベティカー自身の原案のメキシコ・ロケの闘牛メロドラマ『美女と闘牛士』'51を作り、同作が日本初公開のベティカー作品になりました。'52年~'53年のユニヴァーサル時代には9作中『シマロン・キッド』'52を始めとする西部劇6作・戦争映画1作をこの感想文でご紹介し、ほか2作のSF海洋アドベンチャー作品があります。フリーになったベティカーは'55年には20世紀フォックスでアンソニー・クインとモーリーン・オハラ主演のメキシコ・ロケの闘牛メロドラマ『灼熱の勇者』を作り、同作がベティカー2作目の日本公開作品になりました。'56年には再びバトジャック・プロでランドルフ・スコット主演の『七人の無頼漢』を作り、同年にはジョセフ・コットン主演のフィルム・ノワール『殺し屋は放たれた』も作りますが(インディーのクラウン・プロ製作、ユナイテッド・アーティスツ配給)、『七人の無頼漢』の出来に満足したスコットがプロデューサーのハリー・ジョー・ブラウンと立ち上げた製作プロ、プロデーサーズ&アクターズ・カンパニーは同作のシリーズ化をもくろみ、ベティカー監督、バート・ケネディ脚本で『反撃の銃弾』'57を作ります。つづく2作『ディシジョン・アット・サンダウン(日没の決断)』'57、『ブキャナン・ライズ・アローン(ブキャナン馬に乗る)』'58では脚本はチャールズ・ラングが担当しましたが、プロダクション名をラナウン・ピクチャーズと改名した『ライド・ロンサム(孤独に馬を走らせろ)』'59ではケネディが脚本に復帰し、同年のワーナー企画・製作作『決斗ウエストバウンド』は本来シリーズではないものの主演のスコットの要望でベティカーが監督に起用され(おそらく『ライド・ロンサム』で好演したヒロインのカレン・スティールも)、後世では『七人の無頼漢』以降のベティカー&スコット連作に含められる人気作になります。ラナウン・ピクチャーズ作品は今回ご紹介する『決闘コマンチ砦』'60が最終作となり、ベティカー自身も同年末公開のワーナー配給の実話ギャング映画(インディーのユナイテッド・ステイツ・ピクチャーズ製作)『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』を最後に映画からテレビドラマの演出に移ってしまいます。テレビ演出の仕事も減り、経済的な苦境にあったベティカーにひさびさに映画製作を持ちかけたのは『シマロン・キッド』に主演したオーディ・マーフィで、マーフィとベティカーは独立プロを立ち上げ『今は死ぬ時だ』'69を製作しましたが、同作は契約上の法的問題で公開がこじれ、以降逝去まで30年あまりベティカーは映画監督の機会を得なかったので、それが遺作になりました。ベティカー作品30作あまりのうち初期作品を除いた'52年の西部劇第1作『シマロン・キッド』から奇しくもまたオーディ・マーフィ絡みの監督作品最終作(遺作)『今は死ぬ時だ』まで、西部劇は逃さず主要な作品は今回までの8回・16作でご紹介できたことになります。前回の『ライド・ロンサム』『決斗ウエストバウンド』につづいて、最終回の今回の2作も非常に充実した作品で、ベティカー作品はあとになるほど良くなるのが確かめられるだけに、早い監督キャリアの行き詰まりが惜しまれまれます。しかしそれもベティカーらしい尻すぼみの終わり方かと思えもするのです。

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●5月30日(木)
『決闘コマンチ砦』Comanche Station (ラナウン・ピクチャーズ=コロンビア'60.Mar.1)*73min, Eastmancolor, Widescreen : 日本公開昭和37年('62年)10月6日 : https://youtu.be/AbfeshoB9mw (Trailer)

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 これは素晴らしい!『七人の無頼漢』から、というか今回はベティカーの西部劇第1作『シマロン・キッド』から順を追って観直してきたからこそなおさら胸に迫るのかもしれませんが、『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』から始まったシリーズの最終作が内容・仕上がりともにこの『決闘コマンチ砦』に極まったのは製作のハリー・ジョー・ブラウン、監督のベティカーに主演のスコット、何より原案・脚本のバート・ケネディが最後はこれでなければ、とベティカーとスコットに最高の腕の振るいがいのあるアイディアを提供したからこそと思われ、『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』『ライド・ロンサム』に並ぶ「ラナウン・サイクル」連作中最高の1編になっています。チャールズ・ラング脚本の『ディシジョン・アット・サンダウン』『ブキャナン・ライズ・アローン』がやや落ち、ノンクレジットでケネディが脚本に協力した『ブキャナン~』の方が明らかに良く(『ディシジョン~』も異色作なりの見所はありますが)、ワーナー企画・製作でブラウンもケネディも関わりがない『決斗ウエストバウンド』がスコットによるベティカー起用(また『ライド・ロンサム』のヒロイン、カレン・スティール起用)で好調なシリーズ作の勢いを受けた佳作になったのもケネディの関与がいかにベティカー&スコット映画の出来ばえを左右したかを逆に明かすものだったと言えて、プロデーサーズ&アクターズ・カンパニー改めラナウン・ピクチャーズはブラウンとスコットの会社かつベティカーを専属監督としており、本作はこれでシリーズは幕引きになるからそれにふさわしいものを、というリクエストが原案・脚本家のケネディに与えられたのでしょう。不参加の作品もあったとはいえ第1作の『七人の無頼漢』の原案・脚本家であり、そのシリーズ化『反撃の銃弾』の脚本家でもあったバート・ケネディには途中のチャールズ・ラング脚本作ともども含むシリーズ有終の美を飾る作品、という意気込みがなかったわけはないでしょう。本作ではスコットは捜索者型てもあれば巻きこまれ型でもある主人公であり、スコットがコマンチ族から救出した人妻はスコットと匹敵する役割で、シリーズ中でももっともヒロインが活躍する作品になっています。集団として登場してくるコマンチ族以外は結末のヒロインの帰還までドラマは悪党とその2人の部下だけで進み、悪党は悪辣ですが部下の2人はコマンチ族にさらわれた人妻救出・護送に雇われただけで(先にスコットが救出していたのですが)、一方悪党本人の企みはヒロインの夫からの懸賞金が生死問わずであるためスコットもヒロインも始末して遺品だけ持って帰るつもりでいる。ベティカー西部劇、特に「ラナウン・サイクル」連作が一般的な西部劇より西部劇らしさが充満していて、荒涼(またはかりそめの平和然)とした西部の情景→主人公と人妻(または未亡人か訳あり女)との出会い→さらに悪党が加わる→そしてドロドロの死闘へ、と殺伐としたムードの展開がパターンとして指摘されるのは最終作の本作がまさにその理想的な完成型を示しているからです。しかも「ラナウン・サイクル」連作からさかのぼってベティカー西部劇を振り返ってみれば西部劇第1作『シマロン・キッド』からこのパターンの原型は出ていて(それまでのノンクレジット戦争映画2作、フィルム・ノワールや怪奇映画10作の初期作品にもあるかもしれませんが、全部観ていないので一応ユニヴァーサル時代以降の西部劇作品に限定します)、それを意識的に構成したのがジョン・ウェインのバトジャック・プロのブレインで『七人の無頼漢』の原案・脚本家バート・ケネディの功績だったのが浮かんできます。「ラナウン・サイクル」連作でも本作はもっとも明快な構成・展開で最小限の登場人物に絞り、コマンチ砦からローズバーグの町までの道中記と全編が屋外の西部の荒野が舞台となる映画です。主人公スコットのキャラクターも重みと悲しみの深いもので、道中でスコットとヒロイン以外は何らかの形で殺されてしまいますし、結末でスコットは懸賞金すら受け取らず黙って再び荒野に帰っていくのですが、哀切ながら爽やかな後味が残る点でもシリーズ中最高の感銘深い作品になっており、「ラナウン・サイクル」連作は『七人の無頼漢』か『反撃の銃弾』から観るのが完成度や画期性でも良いと思いますが、最高傑作は本作ではないかと観直してしみじみ感動を噛みしめました。本作のナンシー・ゲイツはベティカー西部劇でもっとも魅力的で意志的、かつスコットの魅力を相殺せずたがいの魅力を引き立てあっている女性キャラクターで、本作に次ぐのが『今は死ぬ時だ』のヒロインですが、同作は本作とはがらりと趣向の異なる作品です。『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』にせよ『決斗ウエストバウンド』や本作にせよアメリカ本国公開から間もなく日本公開されているのに、日本では戦後西部劇の名作とされなかったのは2本立て用B級西部劇だったからですが、『真昼の決闘』や『シェーン』に『七人の無頼漢』や本作が劣るとは思えません。本作も日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「イエローストン砦」のバート・ケネディの原作を「最後の酋長」の監督バット・ボーティカーが脚色し監督した西部劇。撮影は「恋愛専科」のチャールズ・ロートン・ジュニア、音楽はミッシャ・バカライニコフ。出演者は「昼下りの決斗」のランドルフ・スコット、「早射ち2連銃」のスキップ・ホメイヤー、「ブラック・ゴールド」のクロード・エイキンズ、ナンシー・ゲイツなど。
○あらすじ(同上) 10年前に妻をコマンチ族に奪われたコディー(ランドルフ・スコット)は、コマンチ集落で白人の女が交換所に出ていると聞くと、妻を求めてどこへでも出かけて行った。あるコマンチ集落で彼は5ドルの品物と連発銃1機と交換に、白人の女ナンシー・ロウ(ナンシー・ゲイツ)を救けた。コディーは彼女をローズバーグの夫の許に送るため、一緒にローズバーグに向った。ここで2人は彼女を探している3人の男、首領格のベン・レーン(クロード・エイキンズ)、フランク(スキップ・ホメイヤー)、年少のドビー(リチャード・ラスト)に会った。ナンシーには、夫からその生死に拘らず連れ戻った者に5千ドルの賞金が懸けられていたからだ。ベンは残忍な男で、軍隊にいた頃、無意味にインディアンを殺してコディーから告発され、隊を追われたのでコディーを怨んでいた。あとの2人はベンに雇われたのだ。ベンはコディーを殺してナンシーを奪い、彼女が口を割るのを防ぐため、彼女も殺して5千ドルを手に入れるつもりだった。ローズバーグ迄は凶悪なコマンチ族が出没する危険な荒野で、3人の悪党とコマンチの襲撃から、ナンシーを守って無事送り届けるのは非常に困難な事だった。コディーはナンシーと出発したが、3人は彼らの命を狙い続けた。ナンシーは初めコディーが自分を助けたのは金のためだと思っていたが真意を知るにつれ、彼に好意を持つようになった。途中コマンチ族の待伏せでフランクは殺された。コディーに好意を感じ出したドビーはベンの計画をコディーに告げようとしてベンに殺された。ベンはコディーに殺された。ナンシーを夫(ダイク・ジョンソン)の許に送り届け、喜ぶ2人を見て、彼は再び妻を探すために去って行くのだった。
 ――本作はカリフォルニアのローンパイン近くの、ホイットニー山脈の麓からそれほど遠くない、中央カリフォルニアのシエラ地域東部でロケされました。『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』では全面的な舞台だった、アラバマ・ヒルズとして知られる岩山地帯は、オープニングとクロージング・シーンの背景になっています。冒頭から包みを連れた騾馬に乗せたスコットが馬から下りると周囲の岩山をモヒカン刈りのコマンチ族に囲まれる。スコットは包みを広げて反物を並べてジェスチャーし、スコットが立ち上がると集団のリーダーの投げた槍が広げた反物の中央に刺さります。コマンチ族部落に連れて行かれたスコットは族長と交渉し、ライフルを一挺置いて交渉は成立します。コマンチ族は白人の女(ナンシー・ゲイツ)をひとりスコットに引き渡し、スコットは無言で女を騾馬に乗せ部族から去ります。スコットとゲイツは名乗りあい、ゲイツは夫から頼まれたのかコマンチ族に女を買いに来たのか訊きますが、スコットはどちらでもないと答え、ゲイツにローズバーグの家族のもとまで送り届けると約束しますが、ゲイツは疑心暗鬼です。すぐに2人はスコットが軍人だった頃無意味なインディアン殺しで追放した無法者のクロード・エイキンズと、エイキンズに雇われたカウボーイのスキップ・ホメイヤー、リチャード・ラストの3人と出会い、ゲイツはエイキンズが賞金稼ぎでゲイツの夫がコマンチ族にさらわれた妻の捜索に「生死を問わず」5,000ドルの懸賞金をかけていると知るので、あんたも賞金稼ぎだったのねとスコットを見るようになる。コマンチ族の襲撃を退けてローズバーグまで到着するには俺たちの協力が必要だろうとエイキンズたち3人も同行することになりますが、実はエイキンズはもともと怨恨を抱いているスコットを殺害して賞金を独占し「生死問わず」だからゲイツも殺害して遺体か遺品だけ持ち帰る気でいる。ホメイヤーとまだ少年のラストはエイキンズの目論見に躊躇しています。コマンチ族の襲撃は断続的に続き、ある朝ゲイツが池で顔を洗っていると矢で殺されたホメイヤーの死体が漂ってくる。ラストは池に踏みこみ兄貴分の死に愕然としますが、すぐ出発しようと遺体を池に置き去りに急かされ、夜間すらおちおちしていられない。夜番に構えていたラストにゲイツが話しかけ、スコットの素性を尋ねます。ラストはスコットと会ったのは初めてだがコマンチ族に奥さんをさらわれて供物を持ってはコマンチ族に幽閉された白人女性たちを捜してくる、もうずっと長いことそうしているが奥さんにはめぐり合えないのでスコットの妻は死んでるんじゃないかと噂されているがスコットはコマンチ族との交渉を止めない、エイキンズには雇われているがスコットは好きだ、とゲイツに話し、ゲイツはスコットへの疑念を恥じます。またラストはエイキンズの目論見をゲイツに話したので、翌日ゲイツはスコットに謝罪しますが妻の誘拐は10年前のことだ、と話し、エイキンズとラストを追放する。なおも逆転を狙うエイキンズにラストはエイキンズにもうあんたの手下は止めた、と去ろうとし、エイキンズにお前スコットたちに裏切ったな、と背後からラストを射殺します。銃声を聞いて立ち止まったスコットとゲイツは暴れ馬に引きずられるラストの遺骸を確認し、ゲイツの援護とともにエイキンズと対決して倒します(このエイキンズ追放から対決が冒頭のコマンチ族の包囲とともにアラバマ・ヒルズが舞台です)。ローズバーグの町につき、ママ、とゲイツの幼い息子が家から飛び出してくる。ゲイツが息子を抱きしめると、ナンシーか、と杖をつき盲目のゲイツの夫(ダイク・ジョンソン)が足を引きずりながら戸口から出てくる。夫の手をとったゲイツがスコットを振り向くと、スコットは無言で何も言うな、という仕草をします。このジェスチャーの意味がわかならい観客はいないでしょう。そして再びコマンチ砦へ向かう荒野に去っていくスコットの後ろ姿の騎馬姿のロングのショットがラスト・ショットで、エンド・マークが重なります。懸賞金すらスコットは受け取る気はないので、この爽やかで哀切なエンディングはどうでしょう。スコット以外ノン・スター、オール・ロケの西部の荒野の道中記映画ながらゲイツのヒロイン像、スコットの孤独で絶望的な捜索者像(しかもエイキンズたちの登場で巻きこまれ型のシチュエーションにもなります)は鮮烈で、一度観たら忘れられないシーン、ショットがいくつもあります。連作の累積の上にたどり着いた到達点ですから本作は先立つ連作を数作観てからこそなお真の感動が味わえると思えるのでファースト・チョイスには向きませんが、おそらく連作7作すべてご覧の方には本作こそ最高傑作という讃辞にご同意いただけるのではないでしょうか。

●5月31日(金)
『今は死ぬ時だ』A Time for Dying (FIPCO'69)*67min, Eastmancolor, Standard : 日本劇場未公開 : https://youtu.be/scbj-TereaA (Full Movie) : https://youtu.be/AiSJhmnsQjk (Trailer)

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 一応本作のあとにもベティカーは闘牛ドキュメンタリー『Arruza』'71、ロバート・スタック(かつて『美女と闘牛士』に主演)夫妻とベティカー夫妻がポルトガル馬術競技とメキシコ闘牛の関連を取材するドキュメンタリー『My Kingdom For...』'85の製作・監督をしているのですが、劇映画の監督はこの『今は死ぬ時だ』以降はなく、ドキュメンタリー作品2作も20代にメキシコでプロ闘牛士の経験があったベティカーのプライヴェート・フィルム的なものなので、本作をベティカー最後の劇場用映画監督作で遺作となったもの、と見なすのが一般的な見方です。前書きの通りベティカー西部劇第1作『シマロン・キッド』'52で主演したオーディ・マーフィの共同プロデュース、マーフィ助演と14作あるベティカー西部劇の最初と最後がマーフィとの作品になったのは決して現役時代に一流監督都は見なされなかったB級西部劇監督のベティカーにとって運命的な因縁すら感じられます。本作はベティカー西部劇からさらに'60年代以降の西部劇に進んだ後進のサム・ペキンパー、またイタリア西部劇のセルジオ・レオーネらベティカー自身が影響を与えた監督たちの映画に本家ベティカーが挑んだような作品で、冒頭のドキュメンタリー的な平原でウサギを狙う蛇の映像、蛇を仕留めてウサギを逃がす主人公の登場からいかにも'60年代映画らしい爽やかな音楽が流れますが、平原のロケの明るい陽光の映像にもかかわらず全編はじめじめした雰囲気が漂い、クライマックスのスローモーション映像の対決から映画のエンディングまではまるでベティカー自身やペキンパー、レオーネ作品のセルフ・パロディのような奇妙な後味まで残る異色作で、本作の場合はそういう異色作として妙に感慨の残るのがこれが事実上の遺作ということもあって忘れがたい作品になっている。もともとピーター・フォンダ主演で企画された通り本作は青春西部劇であり、'60年後半のアメリカン・ニューシネマの潮流に乗ったバッドエンド・ドラマであり、アメリカン・ニューシネマ自体が伝統的なアメリカ映画のパターンの意図的なパロディでもあったのですが、パロディの裏打ちとなるポップ・アート感覚とも青春映画とも無縁な、むしろ武骨でランドルフ・スコットのようにくたびれかけた初老俳優を主人公にして金字塔たる「ラナウン・サイクル」連作で最高の達成を見せたベティカーの遺作がアメリカン・ニューシネマ風バッドエンド青春西部劇というのは冷や水というもので、ベティカー映画らしい西部劇世界をぶち壊したら壊れ方もまたベティカーらしいものになってしまった。しかもタイトルが『今は死ぬ時だ(A Time for Dying=死ぬまでの時間)』とは、ベティカー自身はマーフィとともに立ち上げた独立プロで本作を皮きりに復帰を期していたそうですから笑うに笑えません。版権上の問題が起きニューヨークでは1982年まで公開されずアメリカ国内ではほとんど配給されずイタリアを始めヨーロッパに売りこまれたというのも泣ける話で、アメリカでもこの2019年1月に初DVD化されたばかり、と本作の本格的評価はまだまだこれからと言えるでしょう。英語版ウィキペディアの解説を引いておきます。
○解説(英語版ウィキペディアより) 製作オーディ・マーフィ、監督・脚本バッド・ベティカー、撮影ルシアン・バラード、音楽ハリー・ベッツ、編集ハリー・ナップ、製作会社 : FIPCOによる本作はベティカーの最後の映画になりました。オーディ・マーフィの活動は本作製作当時不調で、1968年には出演映画はありませんでした。『シマロン・キッド』でマーフィを監督したベティカーも、経済的な窮迫状態に陥っていました。二人は映画を作るために共同の製作プロダクション、FIPCO(First International Planning Company)を設立し、本作はその最初の作品で、以降も映画製作が行われる予定でした。『今は死ぬ時だ(A Time for Dying=死ぬまでの時間)』は、もともとピーター・フォンダ主演に企画されました。撮影は1969年4月と5月にツーソン近郊のアパッチランド映画牧場で行われました。資金は極端な低予算で、撮影完了までに映画は脚本よりも数分短くなりました。マーフィは1年半をかけて完成とポストプロダクションのために追加資金を集めることを試みました。マーフィーの2人の息子が映画の中で小さな役割で登場し、マーフィーの長年のエージェント、ウィラード・ウィリンガムはフランク・ジェームズを演じました。しかし本作は契約上の問題により、ニューヨークでは1982年まで上映されませんでした。
○あらすじ(同上) 農場で働く少年、キャス・バニング(リチャード・ラップ)は射撃が特技でしたが、野原で射撃練習中に通りかかった無法者ビリー・ピンプル(ボブ・ランダム)たちの噂で聞いて訪れた売春宿で​​、ウェイトレスの仕事と斡旋されて馬車で西部にやってきたばかりの、東部からの素朴な女性ネリー(アン・ランドール)と出会います。キャスは即座にネリーを連れて脱走しますが、2人は逮捕されロイ・ビーン判事(ヴィクター・ジョリー)によって結婚を強いられます。キャスは賞金稼ぎになろうと決めます。キャスは、平原で練習中にキャスの射撃の腕前に目をつけたジェシー・ジェームズ(オーディ・マーフィ)と知り合い強盗団に誘われますが、キャスは賞金稼ぎの仕事を始めます。しかしキャスは先制攻撃を仕掛けてきたお尋ね者のピンプルに銃撃戦で殺され、夫の死に心神喪失したネリーは売春宿のおかみ(エイミー・アンダーソン)に店の宿舎に迎えられます。
 ――映画はヒロインが「農場へ戻って……彼のお父さんに知らせなきゃ……」とつぶやきながら眠りに落ち、店の前ではまた馬車で着いた新しい女性が売春宿の扉に入っていく路上の場面で、ヒロインが売春宿から抜け出せることは決してないのを暗示して終わります。主人公がウェイトレスと騙されて新人の女の子が次々雇われてくんだぜ、と冒頭で聞くのも「何で蛇は撃つのにウサギは撃たないんだ?」と通りかかった無法者のピンプルたちに正義漢気取りか?とからかわれたついでですし、主人公は本当にそうか売春宿のバーに確かめに行って馬車で着いたヒロインを躊躇なく助け出して農場近くの平原で事情を話し、明日には東部に帰れよとヒロインとホテルに泊まります。翌朝真っ先に保安官一行が部屋に乗りこんできて二人(主人公は床の上で寝ていましたが)はロイ・ビーン判事に裁判にかけられるので、先に判決が済んだ件を待って判事は二人をその場で結婚させて釈放する。二人が裁判所を出ようとするとすぐ前に判決を受けた男が裁判所の前の平原で絞首刑にされている、といった具合で、平原で寝泊まりし農場に連れて行くうちに主人公とヒロインの間に愛が芽生えます。この辺は青春映画として美しい自然描写とともに非常に可憐で、描かれる西部もまだ緑の豊かな農村地帯です。主人公は本腰を入れて結婚生活に入るには射撃の腕前を生かせる仕事はないかと平原で射撃訓練に励み、ヒロインは危険な仕事は止めてと反対するも主人公は農場の仕事だけでは妻を養えない、と反論します。射撃練習中に3人組の男が通りかかり、オーディ・マーフィ演じる男がお前の腕前ならいつでも仕事をくれてやるよ、と主人公を誘う。あんたたちは誰何だ、と主人公が訊くとマーフィはあっちが兄のフランク、こっちが仲間のベン、俺はジェシーだ、と答えて去り、主人公はジェシー・ジェームズとの対面に唖然とします。無法者にはならない、賞金稼ぎになろうと決意を決めた主人公はヒロインと町に出かけ、ダンスホールでロイ・ビーン判事のパーティーに混じっているうちに無法者ピンプルの凶行と賞金手配の緊急告知を知ります。その時が来た、と夜の街路に出て乗馬しようとした主人公をいきなり現れたピンプルが狙撃し、主人公は二挺拳銃を抜きますが両手とも拳銃を取り落としてしまい一方的に撃たれる。主人公が蛇は撃つがウサギは撃たない性格なのが冒頭のピンプルとの出会いから暗示されているのは主人公が無法者のピンプルすら実は撃てない性格だったからで、このシーンは主人公、ピンプルともスローモーション映像で描かれています。ヒロインは倒れた夫に取りすがり、ダンスしていた客たちも出てきて取り巻きますが、なおも馬で突っ切ってきたピンプルが至近距離から主人公にライフルでとどめの一発を撃って去って行く。隣りの売春宿から出てきたおかみが茫然自失したヒロインにかわいそうに、おいでと肩を抱いて売春宿に招き入れ、ヒロインは「彼のお父さんに知らせなきゃ……農場へ帰らなきゃ……」とつぶやきますが、おかみはこれで良かったんだよ、何もかも元通りだよ、と宿の寝室に寝かされます。ベティカー自身のオリジナル単独脚本の本作はピーター・フォンダ主演が想定されていたため基本的には青春映画なのに結局フォンダ主演がかなわなかったためロイ・ビーン判事役のピート・ジョリー(とカメオ出演のマーフィ)くらいしか知名度のある俳優がいないノン・スター映画になり、またイタリア、フランス公開題から日本未公開ながら『今は死ぬ時だ』と邦題が定着していますが、原題の『A Time for Dying』は「今は死ぬ時だ」と「死ぬまでの時間」の両方のニュアンスがあるので、青春映画ならば主人公とヒロインとのあまりに短い蜜月を描いた映画とも言えます。西部劇にスローモーションを導入したのは、ジャン・ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』'33のアメリカ公開にインスパイアされたアーサー・ペンの『左きゝの拳銃』'58という説がありますが、'60年代にはイタリア製西部劇から日活アクション映画まで常套手段になっています。本作の主人公はジェシー・ジェームズの強盗団どころか賞金稼ぎにもなれない青年なので、凶悪な童顔あばた面の無法者ピンプル(ピンプルはにきび、あばたですから通り名でしょう)に一方的に殺されてしまう。主人公らしい活躍は映画序盤のヒロイン救出だけだったとしか言えないので、クライマックスの対決とも言えない対決は製作事情からのシナリオ短縮が原因と思える性急さも感じられます。しかしこの67分という短さも本作ではあっという間に終わってしまった感慨をもたらすので、白鳥の歌らしい刹那感の印象につながっている。ベティカーの傑作は『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』『決闘コマンチ砦』でしょうが、案外最初に観るベティカーが本作でもいいではないかと思えてくるのです。

集成版『NAGISAの国のアリス』第五章

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 第五章。
 10歳のアリスはお姉さんのロリーナ(13歳)と妹のエディス(8歳)と一緒に川のほとりに座り、ドジソン先生のお話を聞くのが好きでした。ドジソン先生は当年とって30歳、男ざかりの数学の先生で、年ごろの男性にはよくあることですが同年輩の男も苦手なら女ざかりの女性はなお苦手で、くつろげるのは第2次性徴期前の少女を相手にしている時だけというタイプでしたが、そんなことはアリスたちにはわかりません。ドジソン先生にとってこの三姉妹は、13歳のロリーナはぎりぎり相手にできる年ごろで、8歳のエディスは姉たちと並ぶと幼なすぎる。ですからちょうど真ん中の歳の、10歳のアリスが先生にはいちばんのお気に入りでした。さすがにそれは少女たちにも感づかれていて、アリスは靴の中に画鋲を入れられたり、砒素を盛られて髪がごっそり抜けたりしましたが、ドジソン先生が姉妹どうしの嫉妬に気づいていたかどうかはわかりません。
 「学生時代最後の夏休みに」と先生は話し始めました、「大ノッポ、中ノッポ、チビの3人は田舎の海に遊びに行きました。暖い陽気に誘われて3人は泳ぎましたが、その隙に服を盗まれ、かわりに軍服がありました。3人はそのため先々で密入国者扱いされ、パトカーに追われる破目になったのです」
 そして、たまたまセクシーなおねいさんから温泉で服を盗んだらいいわ、とアドヴァイスされましたが、謎の追跡者に拳銃を突きつけられ、元の服に戻されてしまいます。彼らには何か事情があるらしいものの、3人には何が何だかさっぱりわかりません。ただただパトカーと追跡者を逃れて走り回らねばなりませんでした。追われているうちに3人は次第に逃げ方も隠れ方も上手になりましたが、今は都会が平和で天国のようなところに思えるのでした。三人の逃走に協力してくれたおねいさんは毒グモのような悪者の情婦でしたが、3人には天使のように親切でした。そんなうちに中ノッポがおねいさんに恋してしまいました。ですが3人はパトカーと、消えてはまた現われる謎の青年たちの拳銃におびえながら首都に向って逃亡を続けていかなければならなかったのです。
 先生、とロリーナは首をかしげました。そのお話にはどういう教訓があるのですか?
 いや、これは正確にはお話ではなく、と先生、動物ならば骨に相当する、プロットと言うものです。そして骨はそれだけでは動物にはならず、教訓もありません。


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 アリスはすっかり退屈していました。アリスは川の土手で姉の隣に座っていましたが、何もすることがありません。いち、に度お姉さんの読んでいる本に目をやりましたが、さし絵もなければせりふのフキダシもありません。つまんない、とアリスは思いました、さし絵もなくて、フキダシもない本なんて。
 そこでアリスは考えごとをすることにしました。暑い日でしたからとても眠いし、頭もぼんやりしていましたが、それでもがんばって考えたのです。ひな菊の花輪を作るのは楽しいけれど、ひな菊を集めに行くのは面倒くさい。どっちにするのがいいだろう、と思っていると、突然ピンク色の目の白ウサギがアリスのそばを駆けていったのです。
 だからと言って仰天するほどでもありません。その上、ウサギが大変、たいへん!遅れてしまう!とひとり言のように言っているのを聞いてもアリスは不思議とは思いませんでした。後で考えればそれは驚くべきことで、じっさいウサギが燕尾服のそでをまくって、腕時計を見てまた急いで歩きだすのを見ると、アリスも思わず立ち上がってしまいました。アリスはウサギなら見なれていましたが、燕尾服を着てそでをまくるのは見たことがないし、さらに腕時計までしていたのです。アリスは急いでウサギを追うと、ウサギは生け垣の下のウサギ穴に飛び込みました。
 ウサギが素早く生け垣の下のウサギ穴に飛び込むのをぎりぎり見とどけたアリスは、ためらいもなく自分も穴に飛び込んだのでした。もちろん後先も考えず、出る時はどうするのかも考えずにです。
 ウサギ穴はしばらくのうちはトンネルのように真横にのびていましたが、突然真下になりました。本当に突然だったのでアリスは迷う暇もなく、ものすごく深い井戸のような穴に落ちていたのです。
 井戸がとほうもなく深いのか、落ちる速度がよほど遅いのか、そのどちらかのようでした。というのは、アリスは落ちながら周りを見渡したり、これから私どうなるのと考える余裕があったからで、落ちていく先を見てみましたがまっ暗で何も見えません。それではと周りの壁をじっくり見ると食器棚や本棚が並んでいるのが見えました。アリスは壺をひとつ手に取ってみましたが、オレンジ・マーマレードとラベルにあるのに中身は空っぽでがっかりしました。ですが壺を落として穴の底にいる人の頭に当たって死んでしまったら大変なので、落ちながら別の棚にちゃんと戻しておきました。


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 鈍い衝撃とともにアリスはどしん、と尻もちをつき、尻もちで済んでよかったわと思う間もなく長い長い距離を落ちてきた勢いであお向けに大の字になりました。仕方ないわねえ、とアリスは思いました、たしかこれ、慣性の法則って言うんだわ。さっきまでは先に飛び込んだウサギとともに地球の裏側に飛び出してもおかしくない、そしたらきっとその国の人とは服装だって違うから何とかしなくちゃいけないわ、とアリスは考えていたのです。
 そのまま地面の中でじっとして、通りかかった人の服を奪う方法はないかしら。きっとそういうことは、しょっちゅう穴から出たり入ったりしているウサギの方が詳しいに違いないから、ウサギの首を締めつけてどうすればいいか聞き出して、そのまま共犯者にすればいい。そんな腹黒いことを考えるほどアリスは深い深い穴に落ちてきたのです。
 すると、おお新入りかあ、とかん高い声でざわざわと数人が近づいてくる気配がしました。アリスはギクッとしましたが、あお向けの大の字はすぐ起き上がるにはいちばん不向きな姿勢です。くらやみに空気がざわめくと、アリスは両腕と両脚ががっしり地面に押さえつけられているのを感じました。
 シュッと音がして100円ライターに火を灯ったのが、ライターを握った手もとの明かりでわかりました。それはたしかに100円ライターでしたが、握る手は不釣り合いに小さく見えました。アリスは頭を上げようとしましたが、どうやら100円ライターの持ち主がもう一方の手で髪を引っ張っているようでした。
 何するのよ、とアリスはキッとして言いました、いったいあんたたちは何者?私を押さえつけてどうする気?
 元気のいいお嬢ちゃんだ、と誰かが言うと、アリスを押さえつけている連中がいっせいに嘲りの笑い声を上げました。
 そしてライターの明かりがアリスの顔に近づきました。アリスはよっぽど吹き消してやろうと思いましたが、持つ手が熱くなったのかライターは一旦消えました。
 その時アリスは火の消える一瞬に映った影で、自分を捕まえている連中の姿をとらえたのです。それは醜い小人たちでした。あんまりじゃない、とアリスはうんざりしました。私みたいな美少女が地底に落っこちたら、たちまち醜い小人が寄ってくるなんて。
 どうやら取り引きしなくちゃならなそうだな、と小人のひとりが含み笑いしました。
 取り引きって何のこと?と、アリスはしらを切りました。


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 不吉な予感がするわ、とアリスは思いました。ふだんのアリスなら縁起などかつぐことはめったにありませんが、こんなに変なような、予想通りによくあるようなことの連続ではついついよけいに用心深くなってしまうのです。だっていつの間にか(44)になっているんだもの。カッコの中がどれだけ続けば先の見透しがつくのかしら。4が3つ続いて444になる日まで?とアリスは思い、444を日にちとすれば約15か月だわ、と暗算しました。では4444日だったら?約12年、と計算したのはアリスではなく、アリスの本の著者の、数学教師のドジソン先生でした。4444の日と夜、それは干支が一周し、戦火で焼け野原になった国が復興するのに要するだけの歳月です。
 もう離してよ、とアリスは身動きしようとしましたが、四肢と髪はまだがっしりと押さえられていました。さっきライターをかざした小人が髪を押さえているのだとしたら、両手両足と合わせて少なくとも5人の小人に捕まっていることになります。そうよね、とアリスは思いました、7人じゃ白雪姫の小人だし6人じゃおそ松さんだわ、それに小人って奇数じゃないとそれっぽくないじゃない?アリスは自分の明察にうっとりするところでしたが、それどころじゃないと腹が立ってきました。怒れば怒るだけ無駄なのですが、暗くて深いあなぐらの中で小人に押さえつけられているのはさすがに楽しいどころではありません。
 あんたたちの中でリーダーは誰よ、とアリスは誰何しました。さっきのライターの小人だろうか。ですが文化人類学の常識では、対象となるコミュニティと接触する際、最初に近づいてくるのはコミュニティの中では除け者扱いされている場合が多いからサンプルとしては不適格とされています。5人きりの集団をコミュニティと言えれば、まあブライアンの例もあるし、とアリスは有名ロックバンドを連想しましたが、そもそも小人に文化人類学の常識が通用するかが疑問ですし、しかまただの小人ならまだしも地底人の小人です。
 お前は差別主義者だな、と小人のひとりが言いました、この穴が続いている国の奴らはみんなそうなんだ、文明は自分たちの国にしかないと思ってやがる。
 はっはー笑わせるわね、とアリスは状況も忘れてせせら笑いました、私は小人に説教されに来たんじゃないわよ。
 それじゃ一体何しに来たんだ、と小人。アリスは返答に窮しました。
 あざ笑う小人たち。


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 それではこれからちょっと痛いことにとりかかるかな、と小人のひとりが言いました。痛いってどういうこと?とアリスは反抗的な調子を隠しもせずに問い返しました。そりゃもう痛いっていうくらいだから説明なんて要らないだろう、と小人。わからないわね、とアリス。わからないかね、と小人たちはざわざわと笑い声を上げました。
 つまりいててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててってことをするのさ、と小人。
 それってどんないてててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててってことなのよ?とアリス。
 それはもう、いてててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててっ、ということさ。
 そう小人たちは言うと、いそいそと痛いことをする仕度を始めました。


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 小人のひとりがランタンに火を灯すと、辺りは影が差す程度には明るくなりました。がらがらとキャリーバッグらしいものを引きずってくる音がしました。何を持ってきたのよ、とアリスは思いついた疑問をそのまま声に出してしまいました。深い深い穴を長い長い時間をかけて落ちてきたので、アリスはひとり言を言う癖がついてしまったのです。
 工具箱だよ、と小人のひとりが答えました。工具箱?とアリス。そうだよ、と小人、工具箱を知らないのかね?アリスは言い返そうとしましたが、少し考えて言葉に詰まりました。アリスは自分の家のお父さまの工具箱は知っていますが、小人の工具箱は見たことがないし、そもそもこんな地底人の小人が使う工具箱がアリスの知っている工具箱の概念と合致するかも怪しいものです。
 金物ががちゃがちゃ音を立てました。ちゃんとそろっているだろうな、と小人のうちのリーダー格らしいひとりが訊きました。さっきまでリーダーのように振る舞っていた小人とは別の小人のようなので、きっと得意分野ごとにリーダー交代制を採っているのに違いありません。つまり工具担当リーダーっていうわけ、とアリスは将来自分が書く地底体験記のためにタグ添付しました。
 まず使うのは摘まむ工具だな、と別の小人が言いました。つまり、
・やっとこ
・ペンチ
・ラジオペンチ
・プライヤ(コンビネーションプライヤ・ウォーターポンププライヤ・スナップリングプライヤ・ロッキングプライヤ)
・ピンセット
 ……などなど。摘まんだら次にどうする?そりゃあやっぱり回すだろう。道具は?
・レンチ(スパナ)
・六角棒スパナ
・めがねレンチ
・ソケットレンチ
・ラチェットレンチ
・ボックスレンチ
・パイプレンチ
・チェーンレンチ
・モンキーレンチ
・モーターレンチ
・ドライバー
 ……回す工具は数が多いな。次は?削る、つまり研磨する。
・リーマ
・やすり
・紙やすり
・ダイヤモンドやすり
・スクレーパー
・ワイヤーブラシ
 ……次は?叩く。叩くといったらハンマーだな。次は?切る。
・ニッパー
・ボルトカッタ
・ケーブルカッター
・ワイヤカッタ
・塩ビカッタ
・鉄筋カッタ
・金切り鋏
・ハンデイカッタ
・ハンドニブラ
・パイプカッタ
・カッターナイフ
 ……いったい何のこと?犬小屋でも作って住むつもり?アリスは小人たちを皮肉ろうとしましたが、皮肉は通じないようでした。
 さて始めるか、と小人たちのひとりが言いました。これがカーニバルさ。


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 そんな具合にアリスはちょっとこれはやばいんじゃないの、と焦ってもいい状況になりましたが、小人の数は多く見積もって7人、そのうち両手両足を押さえている小人がいて、髪をつかんで頭を押さえている小人がいて、その小人がさっきまでアリスの顔を照らしていたランタンを手渡し、今それを掲げている小人がいてということは、手が空いている小人は1人いるかいないかになります。その1人はたぶんさっき道具箱を引きずってきた小人でしょうが、手足を押さえていた小人と交替しているかもしれず、その小人はスカートの中を覗きながら休憩しているかもしれません。
 それにアリスが暴れようものなら、押さえつけるだけでも小人たちには手一杯になるはずで、アリスとしては何も警戒する必要はなさそうでした。本当に危険が迫ってきたら勝ち目はたぶんアリスにあります。大したことないわ、とアリスはまた口に出しそうになって、今はおとなしく様子をうかがうことにしました。なにしろ深い深い穴の中を長い長い時間をかけて落ちてきましたから、落ちるがままに落ちてきただけですけれど、長い長い川を流されてきたように体はだるく、それに退屈でやる気もなくなって、早い話が自分から何かするのはおっくうな気分でしたから、どうせその気になれば払いのけられる小人たちなど放っておいて、行きがかりは行きがかりで楽しんでみよう、と余裕の態度でした。そこらへんはさすがにアリスも階級制度にあぐらをかいた19世紀のイギリス人令嬢だけありました。動物の前で肌をさらしても人は羞恥心を感じませんが、アリスの属する白人中産階級にとっては有色人種ですら家畜動物と同等かそれ以下ですから、こんな地底人の小人など畜類以下の爬虫類や両棲類、昆虫並みですらあるでしょう。
 ですがアリスがあなどっていたのはアリスにとって小人が畜類以下なら小人にとってはアリスはでっかい獲物なわけで、おたがい話してわかりあえる可能性はまったくないわけです。頭の悪いアリスでも何だか嫌な予感がしたのは、コツンコツンとハンマーの音がし始めたからでした。アリスはハッと気がつきました。この音は地面に杭を打っている音だわ!アリスが油断して放心状態になっていた隙に、小人たちはてきぱきとアリスの手足を地面に張りつけにしていました。
 しまった、とアリスはガリバーのお話を思い出しました。小人は見つけた人間を張りつけにするものなのです。


  (48)

 はひふへほー、と小人のひとりが笑いました、どうせおれたち小人なんか力まかせではねのけられる、と油断してたに違いまい。それが慢心てやつさ、とハンマーを打ち合わせる音が聞こえ、だけど地面に張りつけにされたら、さすがにちょっとやそっとの力じゃ、身動きひとつとれないぜ。
 さあお嬢さんはどうするのかな、と別の小人が嬉しそうに言いました、かなりにっちもさっちもいかない事態だね、おれたちにとっては形勢逆転というべきか、別に最初から勝ち目は決まっていたようなものだがね。アリスは頭に血が上り、この人でなし、ゲス野郎、人間の屑と反射的にわめき出すところでしたが、どう言われても小人たちにはまるでこたえないのはわかりきっています。そんなことは私のような未来のレディが口にすることじゃないわ。アリスが品性をかなぐり捨てたら、それこそ小人たちの思うつぼです。
 それでおれたちはどうする?と別の小人が言いました。ざわ、と小人たちの間に当惑した雰囲気が走るのが、あお向けに張りつけになったアリスにも感じとれました。どうやら小人たちは、アリスを身動きとれなくした目的までは決めていなかったようでした。
 きっとこいつらばかなんだわ、とアリスは勘ぐりました、張りつけにしたのは小人がでかい獲物を見つけた時の本能で、いわばそれ自体が目的で、張りつけにしたその後のことまで考えてはいないのにちがいない。だったらなるべく無傷で助かる方法もあるかもしれないわ、とアリスはすばやく狡知をめぐらせました。狡知とはずるがしこい手段を考えることで、立派なレディのたしなみのひとつとして大人になるまでに身につけなければなりません。
 そりゃあさ、と別の小人が困った様子で言いました、おれたちゃ小人なんだから、小人らしいことをしなきゃあなあ。
 やっぱそうきたか、とアリスは内心ほくそ笑んで、あんたたち小人らしいことって何だか知ってるの?小人たちはてんでんばらばらな声を上げました。アリスは面白くなってきました。わけがわからずぐちゃぐちゃになっている集団ほど誘導しやすいものはないからです。ほら全然わかっていないじゃない、とアリスは挑発しました。またもや混乱してキーキー仲間割れする小人たち。
 小人らしいってことは、人間の嫌がることをすることよ。
 あーそうかっ!とばかな小人は素直に引っかかりました。で、何すりゃいいんだ?
 女体盛りとかどう?とアリス。


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 アリスは思いつきで口にしただけでしたが、小人たちは一斉にたじろいだようでした。ある者は持っていた道具を落とし、または絶句して喉を詰まらせ、ある者は膝を落とし、または倒れかかりそうになって仲間にやっと支えてもらい、ある者は息を荒くし、またはしゃっくりをこらえ、ある者は音をたてて後ずさりし、または小声で悪態をつき、またはぶつぶつ祈りを捧げ始めたようでした。これだと何だか数が合いませんが、たぶんひとりで何役もこなしているか、同じ反応を数人がタイミングをずらして起こしていたのでしょう。いかにも小人ならありそうなことです。
 ところでアリスはなぜそんなことを言い出したかというと、守るより攻めろの精神といいますか、どうせ小人にひどい目にあわされるならなるべく無痛・無傷でどうでもよく済ませたい、との一心からでした。か弱い少女が手足の自由を奪われて、悪知恵より他にどういう抵抗ができるでしょう?(反語)できません、というよりは、アリスの思いつきはどちらかといえば猿知恵の部類でしたが、相手は猿と同等かそれ以下の種族でした。つまりアリスの時代の西洋人には日本人やアフリカ人のようなものです。これは当時のフランス詩人のボードレールも「日本人は猿だそうだ」と書いているくらいですから、相手の水準の知的レヴェルで発想せずには打つ手は拓けないでしょう。ででで、これって窮鼠猫を噛むみたいなものかしら、もう一度アリスは言ってみました。
 女体盛りよ、わかんないの?
 アリスのだめ押しは小人たちを激しく震撼させました。声に出した反応こそありませんが、これがいわゆるドン引きというやつなのね、と世知にうといアリスですら感知できるほど凍りついたような困惑が、たちまち小人たちをひきつらせ、二の句を継げない状態に追いこんだと思われました。
 ……わかって言ってるのか?と小人たちのうち、ネゴシエーション・リーダーらしき役割のひとりが震える声でつぶやきました。アリスは強気に、あんた私に訊いてるの、それとも仲間に言ってるの?と追い討ちをかけました。小人は早口で何か言いましたが、おそらくそれは小人仲間たちにだけ通じる周波数帯の言語だったのが思わず出てきてしまったのでしょう。そんなのアリスにはやたらと早口すぎて聞き取りようがありません。
 ……女体盛りの意味がわかっているのか?と小人がびくびく声で言いました、それをおれたちがやれと?


  (50)

 それじゃどうして地面に張りつけにしたのよ、とアリスは喉まで出かかりましたが、考えるまでもなく小人は小人の本能でアリスの自由を封じただけで、たぶんそれは自衛本能か何かなのでしょう。
 それでいいんですかドジソン先生?はい、おおむね間違ってはいません。ですが小人の多くはワイセツで淫らであることを忘れてはいけませんよ。
 人間は体長に対して性○器の比率が大きい哺乳動物ですが、小人たるや人間の腰ほどの体長なのに性○器だけ見れば人間並みの大きさのち○ぽことお○んこを備えているのです。ですから奴隷市場では特別に小人市場があり、調教済みの小人は紳士や貴婦人には高く取り引きされているほどで、青少年にも将来の夢はミュージシャンかゲーム作家か小説家か小人調教師か、というほどの人気なのです。何しろ小人を調教し放題の職業ですからね。
 とにかく相手がたかだか小人で人間でないことを忘れてはいけません。皇族や貴族の寵屓する小人でもない限り、死なせてしまっても弁償すれば済みます。
 弁償はいくらくらいかかりますか?
 内臓、筋肉に腑分けして、相当の重量分の畜肉に置き換えてください。肉質では豚ともっとも近いことから同等体重の子豚の相場が最高になります。後は曲芸ができるとか性的玩具としての性能が高いとかいろいろ付加価値を賠償額に上乗せ要求するのが上告側の言い分になりますが、それは個人的な嗜好の反映なので、資産価値よりは損害による精神的苦痛の目安程度であり、つまり実際は大して考慮しないのが公正な判決とされています。
 さらに使役された小人はかなりの程度育っているので、その点は子豚より畜肉価値は落ちます。つまり鶏肉並みで、小人と同等の体長の鳥は稀少種でイメージしづらいですが、単純に重量を鶏肉を置き換えたもの、と思っていただれば実際の賠償額には相当します。
 小人を畜肉にする例はあるのですか?
 自然死、事故死、傷害死、病死した畜肉の商用販売はできませんが、個人が所有する小人を食用にする、または他人の所有物でも示談が成立する場合には小人を食用にすることに法的な禁止力はありません。そもそも豚肉は畜肉ではもっとも人間に近いのですが、豚肉に近い小人の肉質はさらにほとんど人間と同質ですから、消化吸収栄養価のどれを取っても優れたものなのです。
 また医療用としても歩く内臓バンクと言えるもので、これについては章を改めて。
 第五章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第五部・初出2016年1月~6月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

集成版『NAGISAの国のアリス』第六章

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 第六章。
 帽子屋と三月ウサギとネムリネズミがお茶会用のちゃぶ台を運んできて自分の席に着きました。そこにアリスもやってきます。
 席はないぞ!と帽子屋とウサギ。空いてるじゃない、とアリスは言って、いちばんいい席に座りました。しぶしぶウサギが、ワインでも飲めと勧めます。どこにあるの?とアリス。ないよ、とウサギは言いました。
 アリスはむかっ腹を立てました。なんて失礼なの!ありもしない物を勧めるなんて。ウサギも負けじと、失礼なのはどっちだ!誘われてもいないのに座りやがって。
 アリスはとぼけて、あら、3人だけのちゃぶ台なの?それにしてはずいぶん座れる場所が空いているみたいだけど。
 髪が伸びすぎだな、と帽子屋。
 アリスはキッとして、余計なお世話よ、私の勝手でしょう!
 すると帽子屋は驚いた顔で、カラスと勉強机はどこが似てる?アリスはすかさず、そんなの簡単よ。ウサギが振り向き、もうわかったのか?そうよ、とアリスは言いました。
 なら答えを言えよ、とウサギ。アリスは口ごもり、だから……簡単なのはわかったの。同じことでしょ、ほら。
 帽子屋は小首を傾げ、同じなのか。それなら「私は食べるものを見る」と「私は見るものを食べる」これも同じかね?
 三月ウサギも肩をすくめ、他にも「手に入れられるものは好きだ」と「好きだからには手に入る」これも同じか?
 同じなんじゃない?とネムリネズミも、まだあるよ、「眠る時は息をしている」と「息をしている時は寝ている」。
 帽子屋はそれは同じだ、とネムリネズミに言うと、ふいに時計を取り出してアリスにきみ、今日は何日だい?
 4日、とアリス。
 2日狂っている……。帽子屋はため息をつくと、おいウサギ、きさまのバターは良くないぞ!すかさずウサギが、最高級のバターだぜ、とやり返しました。ああ、と帽子屋、だがパンくずが混じったに違いない。パン切りナイフなんか使うからだ!
 すると三月ウサギは時計を手にとって、カップのなかに浸けました。
 最高級のバターだったのに、と三月ウサギが嘆きました。
 面白い時計ね、とアリス、時刻ではなくて日付が出るなんて。
 どこが悪い、と帽子屋、きみの時計は年を告げたりせんだろ?
 だってそれだと一年間ずっと同じじゃない、とアリス。それはこっちの時計も同じさ。さっきの謎なぞはもうわかったかね?
 お手上げよ。答えは何?
 これっぽちも、と帽子屋。
 同じく、とウサギ。


  (52)

 もっとましなことはないの?とアリスは思わずため息が出ました、答えのない謎なぞなんかでヒマをつぶすよりも。
 すると帽子屋は居丈高になり、私のようにヒマさんと仲良しでないなら、ヒマなどと呼び捨てにはしないのだがな。
 何のことだかよくわからないわ。
 ああそうだろうな、と帽子屋、きみはヒマさんと世間話したこともないだろうしな。
 たぶんね、とアリスは用心深く言いました、でも私だって世話しないときはわざわざヒマを割きはしないわよ。
 それでわかったろ、と帽子屋、ヒマさんは割かれるのが嫌いなのだ。しかし仲良くしていれば、時刻ならヒマさんがだいたいどうにかしてくれる。たとえば朝の九時、ちょうど勉強が始まるが、ヒマさんにちょっと合図を送るだけでいい。あっという間に時計はぐるり、もう午後1時、お弁当の時間さ!
 だったら都合いいだろうな、と3月ウサギが言いました。
 それは好都合ですけど、とアリスも言いながら首をかしげて、でもそうしたら、お腹が空いていないんじゃないの?
 最初のうちはね、と帽子屋、だけど慣れれば好きなだけ午後1時でいられる。
 アリスは感心して、ならそうしてるのね、あなたは?
 いいや、と帽子屋が悔しそうに言いました、こないだの3月にケンカするまでは……おまえの頭がおかしくなる直前のことだ、だろ?と3月ウサギを指さして、あれはハートのクイーンが開いた音楽会だが、歌の番が回ってきたのだ。
 「♪くらやみのなかのちいさなこうもり、
 いったい何をしているの?」
 ……知ってる?
 似たようなのは、とアリス。
 この歌の一番も終わらないのに、と帽子屋、クイーンが怒鳴りだしたのだ。「こんなのを聴くヒマはない!首を切れ!」とね。
 ひどい話!とアリス。
 それでヒマさんは首を切られて、と帽子屋、もう頼みを全然聞いてくれない。それからずっとここは午後6時なのだ。
 アリスはハッと気がつきました。だからここはお茶の道具ばかりなのね。
 帽子屋はため息をつき、ご名答。ここはいつでもお茶の時間なのだ。洗濯するヒマもありはしない。つまり……
 お茶の時間の次もお茶の時間?
 そうして次々回っていくのさ、と帽子屋、だから道具が足りやしない。
 でも一周したらいったいどうするの?とアリスは思いきって訊きました。
 すると聞いていた3月ウサギがあくびをしながら、話題を変えようや。起きろよネムリネズミ、おまえからは何か話はないのか?


  (53)

 3月ウサギに話を振られ、ネムリネズミは眠っていません、話はちゃんと聞いていましたよ、と言いました。いいからさっさと話せよ、と帽子屋、でないとまた寝るんだろ。
 ネムリネズミは急かされて、昔むかし、いとけない3人姉妹がおりました。エルシー、レイシー、ティリーの3人で、住んでいたのは井戸の底でしたが……
 興味津々、何を食べてたの?とアリス。
 ……シロップです、とネムリネズミ。
 そんなの無茶よ、とアリス。病気になるわ。
 だからもちろん病気でした。
 何で井戸の底になんか住んでいるの?
 お茶をもう1杯どうだ、と3月ウサギ。
 まだ1杯も飲んでいないわ、とアリスはムッとして、もう1杯どころじゃない。
 1杯どころじゃないってことは、と帽子屋、次に飲んだら1杯目ということだな。
 余計な口出ししないで、とアリス。
 その口出しは、と帽子屋、きみの方だろ?
 アリスはまたネムリネズミに、どうして井戸の底に住んでいるのかしら。
 シロップの井戸だから、とネムリネズミ。
 そんな井戸なんてあるわけないじゃない!とアリスは腹を立てましたが、帽子屋と3月ウサギがしっ、しーっ、黙って聞いていられないなら自分で話の続きを作れよ、と言うので、不承不承うなずき、わかったわよ。それもありにしておきましょう。それで?
 それもありだと!?とネムリネズミは怒った様子でしたが、続けて、だから3人姉妹が練習したのは、かきまわすことでした。
 かきまわすって何を?とアリス。
 シロップです、とネムリネズミ。
 すると帽子屋が、きれいなカップがほしい。さあみんな、ひとつずつ席を移ろう。
 帽子屋が移り、ネムリネズミとウサギも移りました。アリスはウサギの隣になりました。きれいなカップに当たったのは帽子屋だけで、アリスはウサギがミルクをこぼしてべとべとにしたひどい席でした。
 でもわからないわ、とアリスはネムリネズミの機嫌を見ながら、慎重に訊きました。どこでシロップをかきまわすの?
 プールでは水をかきまわす、と帽子屋、シロップの井戸ならシロップだろ。そんなのバカでもわかることだ。
 帽子屋は無視して、でも井戸のどん底なのよね、とアリス。
 そう、どん底……とネムリネズミ、だから3人は「お」で始まるものをかきわけるのです。
 どうして「お」なの?とアリス。
 「お」では悪いか?と3月ウサギ。
 では「ま」は?
 「ま」?
 「ま」でも悪いか?と3月ウサギ。


  (54)

 ネムリネズミはまたうとうとしていましたが、しっぽを帽子屋につねられてびっくりして起き出すと、しぶしぶ話を続けます。
 「お」ではじまるものなら……たとえばお屋敷とか、お月さまとか、思い出とか、おもらしとか。かきまわせればいいのです。わかりますよね、「おもらし」をかきまわすといったいどうなるか。
 まあ汚い、とアリス。
 かきまわすものならもっとあるぞ、と3月ウサギ、「お」で始まればいいんだろ?
 「ま」でもいいですよ、とネムリネズミ。なんなら「お」と「ま」をつなげても。
 いくらなんでもそれはないわ!
 ないなら口を出さない!と帽子屋に一喝され、アリスはとびあがりました。いくらなんでも失礼よ、帽子屋さん!
 そうだ、こいつはおかしいのさ、と3月ウサギが言いました、理由は知らないが、おかしいことはとにかくわかる。
 なるほどねえ、とアリス。
 こいつだっておかしいぞ、と帽子屋が3月ウサギをあごで指して、理由は私にだってわからない。だが、秋はいいが春になるとたちまちおかしくなるのはなぜだ?
 どうしてなの?とアリス。
 ウサギの主食は石けんだし、とネムリネズミ、帽子屋も変だし、お世辞を言うにも無理な話さ。なるほど、とアリス。
 どうやら彼らはアリスを忘れて、こきおろしあい(殺しあいよりはマシですが)に熱中し始めたようでした。アリスは呼びかけてみましたが、反応もない冷たさです。すっかりつまらなくなって席を立ち、呼び止めてくれないか期待しながら歩き出しましたが、その気配はまるでなし。アリスが最後にちら、と振り向くと、今にもネムリネズミがティーカップに浸されようとしているところでした。
 アリスが行ってしまうと3月ウサギと帽子屋はちゃぶ台をさっさと片づけ、そこにクラブの2と5と7がやってきました。それからハートのキングとクイーン、そしてジャックが現れて、さらに他のカードとアリスが姿を現しました。アリスは物見遊山気分でついてきて、もう帽子屋たちの姿もちゃぶ台もないので、さっきまでのお茶会の場所とは気がつきません。
 ざこカードたちはラッパと小太鼓を伴奏に、声を合わせて、

 ♪キングがお目見え
 クイーンがお目見え
 みんなで踊ろうこの森で
 みんなで踊ろうガボットを

 そして一列の円陣になってぐるぐると踊っていましたが、やがて2と5と7が列の中からぺたんと倒れてしまいました。もちろん踊りの輪もそれで止まりました。


  (55)

 アリスは事情がわからないので立ちすくんでいるとクイーンが、ジャックや知らないガキがいるザマす。ですがジャックはお辞儀をするだけです。
 たわけ!とクイーンはジャックを叱るとアリスに、そこのガキ名前は?
 アリスと申します女王さま、とアリスは名乗りながら、ただのトランプじゃないの、ばからしい。
 するとクイーンは2と5と7を指して、ではあれは何ザンす?
 そんなのわかるわけないじゃない。
 クイーンはアリスをにらみつけ、このガキの首をちょん切るザンす!ちょん切るザンす!とわめきだしました。
 するとキングがほれほれ落ち着くダス、ほんのネンネじゃないダスか。
 クイーンは、おいジャック、こいつらをひっくり返すザマすと命令しました。2と5と7が起きると、すばやく周りにお辞儀をします。
 目が回るザンす。こいつらの首もちょん切るザマすよ!
 好きにはさせないわよ、とアリス。すると白ウサギがやってきて、良いお日和でとアリスにあいさつしました。
 そうね、とアリスは返し、そういえばあなたの公爵夫人は?
 しっ!と白ウサギは念を押すと、公爵夫人は死刑を言い渡されました。
 どうしたの?とアリス。
 どうしたもこうしたも、と白ウサギ、おいたわしや。
 それはわかったわ、とアリス、だから何があったの?
 女王さまをひっぱたいたのです。
 ぷぷっ!とアリスは吹き出しました。
 しーっ、女王さまに聞こえてしまう、と白ウサギは言うと、アリスと白ウサギはクイーンたちを振り返りました。
 ぜんぶ切ったザンすか?とクイーン。
 みんな首なしにいたしました、女王さま、とジャック。
 みなの者、位置に着くザンす!とクイーンが言いました。キングがアリスに手を差し出し、ジャックはクイーンのガードにつきます。トランプ王室の宮廷舞踏会が始まりました。

 ♪キングがお目見え
 クイーンがお目見え
 みんなで踊ろうこの森で
 みんなで踊ろうガボットを
 優雅に踊れハートたち
 優雅に踊れハートたち
 今日も楽しくリズムに合わせ
 リズムに合わせてアリスも踊れ
 みんなで踊ろうこの森で
 みんなで踊ろうガボットを

 ……みんなが踊り終えると、チェシャ猫がニヤニヤと木の上に姿を現しました。女王さまはどうかね?とチェシャ猫。何あれ!とアリス、めちゃくちゃよ。するとクイーンがアリスの背後にスッと立ちました。
 麗しいお方ですわ、とアリス。クイーンはにっこり笑うと、通り過ぎました。


  (56)

 誰と話しているんダス?とキングがアリスに訊きました。友だちのチェシャ猫です、とアリス。チェシャ猫というダスか?はい、よろしくお見知りおきを、とアリス。
 変な顔をした猫ダスな、とキングは言いましたが、でも特別にワダスの手にキスをするのは許すダスよ。
 やめとくよ、とチェシャ猫。
 無礼な猫ダスな、そんな目でワダスを見ないでくれダス。そう言うと、キングはクイーンの背後に隠れました。
 猫に見られるのがそんなに嫌?とアリス。キングは居心地悪そうに、さっさとそいつを追い払うダス。そしてクイーンや、あの猫を追い払って欲しいダス、と言いました。
 首をちょん切るザマす!とクイーン。首切りを呼ぶダス、とキング。ジャックが、おーい処刑人、と呼びました。お呼びですか、と首切り刑吏がやってきました。
 さっさとあの猫の首を切るダス!とキング。処刑人はちらと見て、無理ですな。クイーンは驚愕して、なぜザンす?
 首を切ろうにも顔しかない、切り離す体がないじゃないですか、と処刑人。そんな斬首は、これまでにしたこともないですし、やろうとも思いません。
 なんで首切りが役目の男が、とクイーン、首を切れないとぬかすザンす?なぜでしょう、とみんなも言いました。
 いいや昔はあの男は、とキング、頭があれば切れると言ったダス。頭があれば切れるはず、とみんなも言いました。
 こんな話はたくさんザマす!とクイーンは激怒して、だったらお前から処刑するザンす!首を切るのが役目の男が首を切れないとぬかすなら、そいつを処刑するザンす!
 カードたちはクイーンの命令でそそくさと退去し始めました。ですがクイーンはアリスに、ウミガメモドキには会ったザンすか?
 いいえ、とアリスは言いました、ウミガメモドキって何ですか?
 ウミガメ風スープの素のことザンす、とわかりきったことのように、クイーン。そんなの見たことも聞いたこともないわ、とアリス。するとクイーンは、グリフォンに案内させるザマす、と言いました。
 お呼びですか、とグリフォン。おおグリフォン、このガキをウミガメモドキのところに案内するザマす、とクイーン。ミーは命じた処刑を見届けてくるザンすよ。そう言うとクイーンは去りました。
 笑わせるぜ!とグリフォン。
 何が?とアリス。
 あのザマすさ、とグリフォン、あいつひとりがそう思っているだけで、誰も処刑なんてしやしないのさ。……よう、ウミガメモドキ。


  (57)

 アリスがグリフォンについていき、よお、とグリフォンが声をかけた方を見ると、ウミガメモドキがさめざめと泣いていました。どうして泣いているのかしら、とアリス。
 なあに勝手に泣いているだけで理由なんぞはありはしないのさ、とグリフォンは言うと、なあ、このお嬢さんがお前さんのことを知りたいんだとさ。
 はじめまして、そちらへどうぞ、とウミガメモドキはアリスたちを招きました。どこからお話すればいいやら、これでも昔は、私も正真正銘のウミガメだったのです。
 本当かよ、とグリフォン。
 子ガメの頃は海の小学校に通っていたのです。先生はおじいさんのウミガメで、生徒たちにはスッポンとあだ名で呼ばれておりました。
 でもスッポンではなかったんでしょう?とアリス、だっていくらおじいさんでも、ウミガメはウミガメなんだから。
 カメ同士のあだ名はそんなもんですよ、とウミガメモドキは言いました、そのくらいのことは察してくださいよ。
 そうだそうだ、とグリフォン、訊くまでもないことを訊いてどうする?
 そんな具合に、私ら子ガメは海の小学校に通っていました。もしも信じてもらえるとすればの話ですが……
 なんで私が疑うの?とアリス。
 違いますか?とウミガメモドキ。
 いいから続けろ!とグリフォン。
 ……とにかく一流小学校でした。なにしろ生徒たちは1学期も2学期も、毎週毎週きちんと通学していたくらいです。
 当たり前じゃない、とアリス、私だって毎週毎週通学しているし、みんなもそうよ。
 選択科目は?とウミガメモドキ。
 もちろん受けてるわ、とアリス、フランス語に音楽。
 洗濯は?とウミガメモドキ。
 するわけないじゃない!とアリス。
 なーんだ、とウミガメモドキは鼻で笑い、大した学校じゃないってことか。海の一流小学校では、選択科目にフランス語と音楽と洗濯は筆頭なんですよ。
 そんなの必要ないんじゃない?とアリス、海の底で暮らしてるんだもの。
 まあ私は選択科目までは取れなかったので、一般科目だけでした。
 何があるの?とアリス。
 まず結い方に巻き方から始めて、とウミガメモドキ、それから算数を一通り。足し足し算に引き引き算、掛け掛け算に割り割り算。
 足し足し引き引き?掛け掛け割り割り?そんなの初耳よ、何それ。
 引き出物は知ってるか?グリフォン。
 ええ、お祝い返しのことでしょ。
 なのに引き引き算がわからないとはどういうことだ、とグリフォン。


  (58)

 他には何の授業があったの?とアリス。
 そうですねえ、とウミガメモドキ、やつ当たりとか、それから濡れ衣とか。あとはヨガ体育で、老いぼれアナゴから週に1回習います。体育ぜんぶをヨガのやり方でくねくねグルグルやりますから、わけがわかりません。
 どんなふうにやったの?とアリスは少し興味が惹かれました。
 覚えるどころかできもしませんでした、とウミガメモドキ、なにしろ体が硬いもので。
 体育は知らないが、とグリフォン。でも古典の授業は受けたぞ、老いぼれカニからな。知ってるだろ?
 私は習いませんでしたが、とウミガメモドキ、ラテン語とギリシャ語を古典こてんに習うそうですね。
 そう、とグリフォン、そうなんだよ……。そう言うと、グリフォンとウミガメモドキは前足で顔を覆って悲しみました。
 それで、とアリスは慌てて、1日に何時間授業があるの?
 1日目は8時間、とウミガメモドキ、翌日は4時間という具合です。
 それっておかしくない?とアリス。
 だって時間割だからさ、とグリフォン、1日ごとに半分に割るんだよ。
 アリスは暗算してみて、なら5日目は割り切れなくなって休み?
 その通り、とウミガメモドキ。
 でもそれだと、とアリス、6日目からはどうなるの?
 時間割の話は止めよう、とグリフォン。歌を教えてあげようか。
 「♪夜はスープで温まろう
 魚もお肉もいらないよ
 スープがあれば満腹さ」
 アリスはぽかん、と聴いていましたが、するとウミガメモドキがアリスに、まさか海の底で暮らしたことがないのか?と訊きました。
 ないわよ、とアリス。
 するとまさか、とウミガメモドキ、エビを見たこともないとか?
 食べたことはあるけど、とアリスは慎重に、だから何よ?
 それなら見たことないわけか、とウミガメモドキ、ノリノリのエビのフォークダンスを。
 何なのそれ?とアリス、それってどういうダンスなの?
 まずエビたちが、とグリフォン、波打ちぎわに沿って1列になり……
 そうじゃなくて2列!とウミガメモドキが訂正しました。アザラシにウミガメにサケもみんなが。そして邪魔なクラゲどもをぜんぶ追い出したら……
 そんなことにばかり手間がかかるんだ、とグリフォン。
 2歩前に出て、とウミガメモドキ。相手はエビだがな、とグリフォン。エビを取り替え、元の列に戻る。
 それから投げます、とウミガメモドキ。
 エビを!とグリフォンは叫ぶと、ぴょんと飛び上がりました。


  (59)

 海の遠くにエビを投げるほど勝ち、とウミガメモドキ。そしてエビを追って飛び込む、とグリフォン。海のなかで方向転換して、とウミガメモドキ。それからまた別のエビに取り替える、とグリフォン。
 海辺に戻ってそれで一周、とウミガメモドキは言うと、グリフォンと一緒に興奮してしばらく飛び跳ねましたが、じきにまた腰をおろしてアリスをじろり、と見ました。アリスは仕方なく、まあ、悪くないダンスだと思うわ。
 するとウミガメモドキが、だったら見てみる?アリスは断りきれないので、仕方なく、ええぜひ!と言いました。
 グリフォンさん、それでは一周やりますか、とウミガメモドキ。エビなしでもダンスなら。歌の方はお任せしますよ。
 「♪マダラはおよぐ、サメはせまる
 海の波間に投げられて、エビをつかんでざぶざぶと
 早くみんなで踊りに行こう
 早くみんなで踊りに行こう
 マイマイ貝が言うことにゃ、これから行っても間にあわない
 間にあわないんじゃ仕方ない、エビをつかんでまた投げる
 これじゃみんなで踊れない
 これじゃみんなで踊れない
 だけどマダラが言うことにゃ、遠回りでも陸はある
 遠いも近いもやる気次第、諦めないでがんばろう
 早くみんなで踊りに行こう
 早くみんなで踊りに行こう」
 ……ごくろうさま、とアリス、面白いダンスだったわ。それと変なマダラの歌も。
 そうそうマダラと言えば、とウミガメモドキ、ご覧になったことはありますね?
 ええ、よく見るわ、食事……とアリスはあやうく口を滑らせるところでした。
 一緒に食事するほどの仲でしたら、とウミガメモドキ、ひと目で相手がわかりますね?
 そうね、とアリス、尾びれを口にくわえていて、全身パン粉がまぶしてあるわ。
 パン粉は何かの勘違いですよ、とウミガメモドキ、海の中ではパン粉なんかぜんぶ流れてしまいます。でも口に尾びれをくわえた奴はたまにいるな。
 そういうわけで、とグリフォン、マダラはエビと一緒に踊りに行くんだが、海に放り投げられて、時間をかけて海に落ちるが、落ちながら口に尾びれをくわえて、そのまま尾びれをくわえたまま、っていうことさ。
 解説ありがとう、とアリスは内心やれやれと、不思議でとても面白い話だわ。マダラのことは私も初めて聞くことばかり。
 それならマダラの名前の由来は知ってるか?と調子に乗ってどや顔のグリフォン。
 知らないし考えたこともないわ、とアリスは辛抱強く応えました。


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 それならマダラ(Pacific Cod)の名前の由来は知ってるか?と調子に乗るグリフォン。
 アリスは当然、急に英語なんて反則じゃないのと思いましたが、そこは英国少女のたしなみです。考えたこともありません、とアリスは辛抱強く応えました。
 グリフォンはマジ顔で、ブーツを海洋(Pacific)に浸すからさ。
 ブーツを海洋に浸す?
 そうさ、とグリフォン、ブーツを海洋に浸したらどうなる?つまりしょっぱい海水を革にたっぷり膨めばさ。
 ずっしりの真っ黒になるんじゃないの普通は、とアリス。
 ところが海のブーツを海洋に浸すとマダラになるのさ。どうだい。
 どや顔のグリフォン。アリスはこの野郎いい加減なこと言いやがってとあきれましたが、普通のブーツとどう違うの?
 ミジンコやエビを食って生きてるが、サメに出会うと食べられる。
 だったらサメになんか近づかなければいいじゃない。
 ところがそうはいかない、コバンザメってやつがいる。
 はあ?
 まさか海では文無しでも生きていけると思ってはいないよな、とグリフォン。金のあるところコバンザメあり、さ。
 コバンばかりがお金じゃないでしょう?とアリス。
 何様だお前は、とグリフォン、だったらあんたから話題を出せよ。
 アリスは当惑しましたが、今日は変なことばかりだったわ。ウサギ穴には落ちるわ、小人には捕まるわ。
 そんなのみーんな自業自得じゃん、とウミガメモドキ。
 はっはっは、とグリフォン、ちょっとばかり可愛ければ何でも許されると思っていると、歳を取ったら辛くなるぜ。
 私らも歌ったんだから歌で話してほしいな、とウミガメモドキ、小人に捕まった一件を歌って聴かせてくださいよ。
 ほら早く、とグリフォン、カラオケなら用意してあるよ。
 いきなり歌えと言われても、とアリスはあまりに勝手なリクエストに腹を立てましたが、カラオケから流れてくる「津軽海峡冬景色」についつい乗せられてしまいました。つまりアリスがカラオケにつられるままに歌うには、
 「♪私はアリス~(以下24行略)
 ~…………。」
 もういい、わかった、とグリフォン、そろそろ裁判の時間だぜ。
 裁判の時間って?とアリス。
 ハートのジャックの裁判さ。
 トランペットのマーチが鳴り響きハートのキングとクイーン、トランプの兵隊がやって来ます。白ウサギも礼服で出てきて、ジャックは鎖で縛られ、兵隊たちに囲まれておりました。
 第六章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第五部・初出2016年1月~6月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2019年6月1~3日/続『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(1)

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 書籍扱い流通のコスミック出版刊行による廉価版10枚組DVDボックスのシリーズはこの映画日記でもたびたび取り上げており、昨年4月には『フランス映画パーフェクトコレクション』で最初に出た『ジャン・ギャバンの世界』全3集30作、また9月には続いて発売された監督・主演者の括りのない『フランス映画パーフェクトコレクション』の3集30作のご紹介・感想文を掲載しています。その後同シリーズはさらに『フランス映画パーフェクトコレクション』2集、『フランス映画パーフェクトコレクション・フィルムノワール』1集、さらに9本組『ジェラール・フィリップ・コレクション』1集が続刊されており、まだ続刊があるかもしれませんが、トーキー以降('30年)から現状パブリック・ドメイン期限の'53年度作品までで既刊10集・100本(ジャン・ギャバン主演作には戦時中のアメリカ映画の出演作が2本収録されていますが)と24年間の98本収録となると主要なフランス古典映画はほぼ網羅されており、1セットあまり廉価版10枚組1,800円で画質も良好なら字幕も丁寧でレア作品多数、これだけの作品を単品で揃えて観るのはつい最近まではたいへんな労力がかかった(筆者自身も学生~青年時代に各種上映会に足を運び稀なテレビ放映で10数年かけてようやく観た)と思うと隔世の感があります。今回は最新の『ジェラール・フィリップ・コレクション』(2018年12月発売)は次の機会に譲りますが、『フランス映画パーフェクト・コレクション』続刊2集に『フランス映画パーフェクト・フィルムノワール』を合わせて年代順に並べ直し、初見の作品数作を含めて有名無名作をまとめて30本観て(観直して)感想文を書くことにしました。各巻収録作品は次のようなラインナップです。
◎2018年9月発売 [ フランス映画パーフェクトコレクション~情婦マノン ] 1.『肉体の冠』'52、2.『悪魔の美しさ』'50、3.『北ホテル』'38、4.『旅路の果て』'39、5.『ピクニック』'36、6.『女だけの都』'35、7.『情婦マノン』'49、8.『罪の天使たち』'43、9.『美女と野獣』'46、10.『うたかたの恋』'36
◎2018年10月発売 [ フランス映画パーフェクトコレクション~嘆きのテレーズ ] 1.『恐怖の報酬』'53、2.『幸福の設計』'47、3.『とらんぷ譚』'36、4.『巴里祭』'33、5.『夜ごとの美女』'52、6.『田舎司祭の日記』'51、7.『牝犬』'31、8.『嘆きのテレーズ』'53、9.『新学期・操行ゼロ』'33、10.『恐るべき子供たち』'50
◎2018年11月発売 [ フランス映画パーフェクトコレクション~フィルム・ノワール 暗黒街の男たち ] 1.『犯罪河岸』'47、2.『パニック』'46、3.『最後の切り札』'42年、4.『密告』'43、5.『デデという娼婦』'48、6.『モンパルナスの夜』'33、7.『ランジュ氏の犯罪』'36、8.『十字路の夜』'32、9.『レミー・コーション / 毒の影』'53、10.『この手紙を読むときは』'53
 ――なお簡単な作品紹介はDVDパッケージ裏の紹介文を転載させていただき、原題、製作プロダクションとフランス初公開日、映画祭受賞歴、日本公開作は日本初公開日とキネマ旬報ベストテン入選作順位をつけ加えました。これもけっこうたいへんでしたが、データ面の参考にお役立ていただければ幸いです。

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●6月1日(土)
『牝犬』La Chienne (Les Etablissement Braunberger-Richebe=Gaumont'31.11.19)*96min, B/W : 日本未公開、映像ソフト発売 : https://youtu.be/X4vizjwJUdA (Trailer)
◎監督:ジャン・ルノワール(1894-1979)
◎主演:ミシェル・シモン、ジャニー・マレーズ
○冴えない中年男ルグランは、ある晩出会った娘リュシエンヌに恋をし、彼女のために金をつぎ込むようになる。しかし、娘は金を無心する恋人デデのために、ルグランを利用しているだけで……。

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 ジャン・ルノワールはもちろんフランス印象派絵画の巨匠オーギュスト・ルノワール(1841-1919)の子息ですが、父ルノワールが油絵の具開発以降の西洋絵画に残した業績と同等以上の業績を映画で残した人でもあって、'24年の初長編『水の娘』から'65年の『捕らえられた伍長』(または『ジャン・ルノワールの小劇場』'69)まで約30作、散佚したサイレント作品を除くと25作と中短編数編の寡作家なのは基本的に処女作から遺作までルノワール自身の企画・脚本・プロダクションで作りたい映画しか作らなかった映画監督だったからですが、おそらく現在の評価で映画史120年でフランス映画の監督から1人、というと批評家投票では満場一致でまずルノワール、次いでロベール・ブレッソンが上がり、3位はトリュフォーとゴダールが分けあうのではないかと思います。ジャン・ルノワールは生育環境が特殊だったため教養、経済状態、交友とも芸術関係の仕事に進むのがごく自然だったので、当初陶芸家を志していたですが、兄ピエールが俳優の道に進んだのと'20年代初頭のサイレント映画の成熟ぶりを観て映画に新しい芸術表現の可能性を見ます。『水の娘』ではまだファンタジー映画的なものでしたが、180分の大作『女優ナナ』'26では早くも映画的なリアリズム表現を確立し、以降ルノワールの映画はファンタジー、コメディ的なものも重厚なドラマ的作品も鋭い観察力と人間性への洞察を際立った映像表現に定着させる、リアリズム表現が徹底しているためにリアリズムを踏み越えて非現実か悪夢の様相すら呈するものになりました。溝口健二(また小津安二郎)の映画がようやく欧米に紹介された時にD・W・グリフィス、ルノワール、ロベルト・ロッセリーニに匹敵するではないかとゴダールに驚嘆されたのは、ゴダールはもちろんフリッツ・ラングやハワード・ホークス、ブレッソンも念頭にあったでしょうが、これらの監督の映画はリアリズムに徹してリアリズムを踏み越える巨大な手腕があって、一般的に広く名作と目されてヒットした作品がまるでヒット性のない作品と平然と並んでいる。ルノワールなど戦前に日本公開されて好評だったのは『どん底』'36きりなので、ルノワールと同時代のフランス映画の巨匠とされたジャック・フェデー、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ルネ・クレール、ずっと後輩のマルセル・カルネと較べてすら人気も評価も低く、まずルノワール自身の独立プロ製作が悪条件だったのか日本公開作品すら少ない。戦後日本公開された『大いなる幻影』'37や本国公開当時ルノワールがアメリカ移住に追いこまれるほど悪評を買いながら次第に声価が高まり40年近くを経てようやく日本公開された『ゲームの規則』'39が好評だった他は新作ではジャン・ギャバン主演作『フレンチ・カンカン』'54以外評判にならないし相変わらず未公開作品が多かったので、初期~引退までのルノワール作品の全貌がようやく知られるようになったのは日本では'80年代後半でした。それまでは観たくても数作の人気作しか観られなかったのですが、改めて全キャリアから大半の作品が紹介されると、フランス本国を始めとする欧米諸国では'50年代にはそうなっていたのと同様に、フェデー、デュヴィヴィエ、クレール、カルネらが過去の監督と見なされていたのと逆転現象が起きて、ルノワールこそが現代映画の原点ではないかとされるようになりました。長々と前置き書いてきましたが、ルノワールのサウンド・トーキー第2作である本作はほんとにすごい。トーキー第1作にミシェル・シモンとフェルナンデル主演の小品コメディ『赤ん坊に下剤を』'31が作られたのは『牝犬』の製作資金調達のためだったそうで、本腰を入れたトーキー作品は『牝犬』からになる。しかもつづく『十字路の夜』'32、『素晴らしき放浪者』'32はルノワールがトーキー技法を確立した恐るべき3部作と言えるので、サイレント映画がソヴィエト・アヴァンギャルドのドヴジェンコのウクライナ3部作(『ズヴェニゴーラ』'28、『武器庫』'29、『大地』'30)で臨界点に達したといえば、ルノワールの『牝犬』『十字路の夜』『素晴らしき放浪者』はいち早くサウンド・トーキー映画の究極の達成を示したと言える作品です。'30年にはスタンバーグの『嘆きの天使』『モロッコ』、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』がスタイリッシュなトーキー技法で圧倒的な評判を読んでいて、一般的にはこの両者の作風が非常に大衆的な支持を受けたのでスタンバーグとクレールの功績、画期性、また同時代の映画への甚大な影響力は紛れもないのですが、ルノワールの映画は反ドラマ的とも言える抑制された話法で一見陳腐な市井の情痴ドラマ(『牝犬』)、ほとんど合理的展開を欠き筋さえ追うのが困難な殺人捜査ドラマ(『十字路の夜』)、居候の傍若無人なホームレスがブルジョワ一家を崩壊寸前に追いやるアナーキーなコメディ(『素晴らしき放浪者』)と、およそ観客が歓迎する映画とは異なったものでした。ルノワールの天然性は父オーギュストのモデルに集まるあらゆる社会階層の人々との交際から上流階級からブルジョワ階級、庶民やホームレスまで老若男女等しく平等な人間として接してきたことで養われたものであり、通常映画監督(ルノワールの場合は製作・脚本も兼ねています)が映画にふさわしい題材・設定・人物像から外れている。しかしルノワールはそうした内容に十分な真実性を与えることができるので、まずスタイルありきで達成を示しサウンド・トーキー映画の規範になったスタンバーグやクレールとの差はそこにあります。ジョルジュ・デ・ラ・フシャルディエールの原作小説(1930年刊)をルノワール自身が脚色し、セオドア・スパークルが撮影(この撮影が1ショットごとにアイディアあふれる素晴らしい映像!)した本作は観始めたら、こんなすごい映画あるだろうか、ほかの映画など全部なくてもこの『牝犬』1本あれば映画は十分なのではないか、と観ている最中はあぜんとして画面に魅入られてしまう作品で、純度と密度ではルノワールの最高傑作かもしれません。ちなみに本作の紀伊国屋リリースのDVDに寄せられたユーザー評で「小谷野敦·2012年3月13日(投稿)」がタイトル「つまらん…」、評点★、評「何か異様に退屈な映画なのだが、なんで名作扱いされるのであろうか。分厚いパンフレットが入っている。しかしそれを読んでも、何がいいのか分からない。謎だ」というのが載っていますが、確かこの同名の人は『もてない男』というエッセイをベストセラーにした著述家だったはずです。「何がいいのか分からない」なら「つまらん…」★となんでわざわざ投稿するやらと思えますが、「何か異様に退屈な映画」どころか本作は観始めてすぐにこれは尋常な映画じゃないぞと観客を釘づけにする作品であり、見事なクロージングまで1シーン、1ショットたりとも無駄も余剰もない。完璧という形容でもまだ足りないとびきりの名作です。
 ――と、観終えてしばらくしてようやくいくらなんでも『牝犬』以外だって忘れがたい映画は山ほどあるだろう、と我に返りますが、観ている最中はほかの映画のことなんか考えられなくなる。唯一例外は本作のリメイク、フリッツ・ラングの『緋色の街/スカーレット・ストリート』'45で、同作もラングの最高傑作のひとつですが、記憶の中ではずいぶん異なった印象を残す作品だったはずなのに、学生時代以来30数年ぶりに『牝犬』をDVDで観直してみると、その間3回くらい観ている『緋色の街~』が実は印象以上に『牝犬』に直接負っているのも気づかされます。ちなみにラングの同作はこの映画日記の2017年5月27日で紹介しているので、本作のあらすじは『緋色の街/スカーレット・ストリート』と同じですから割愛させていただきます。同作のエドワード・G・ロビンソンの中年銀行員が本作のメリヤス問屋経理係ルグラン役のミシェル・シモン、ロビンソンが入れあげる街娼のジョーン・ベネットが本作の娼婦リュリュ役のジャニー・マレーズ、ダン・デュリエが演じていたその情夫が本作のリュリュのヒモのポン引き役のジョルジュ・フラマンです。ロビンソンとシモンは性格の異なる名優ですが甲乙つけがたく、また愛人役は圧倒的にジョーン・ベネットの色香が上でダン・デュリエの絶品のヒモぶりとともに'45年のアメリカではさもあらんといった現代性があるので、いかにも'31年の軽薄なちんぴらパリジャン然としたフラマンとパリジェンヌのマレーズはしょぼくれたシモンが主演の本作には合っており好演ですが、ロビンソンがなまぐさくデュリエとベネットがこすっからいラング作品のドライで陰鬱なブラック・ユーモア感覚と較べると本作は情痴ドラマとしての吹っ切れ方はまだ適度に市民的でもあり、その代わり映画の締めくくりに正反対の趣向を持ってきたので、ラング作品は帳尻を合わせたような具合なのにルノワール作品はアナーキー性が炸裂する。これはラング作品がアメリカ映画のため勧善懲悪的な印象を強く打ち出したとも言えますし、ルノワール作品の方は『素晴らしき放浪者』を予告するもので、どんなに社会的に下降しても人間にはそこで生きていけるだけの可能性が広がっているのだ、というルノワール自身の人間観の表れとも思えます。ラングの映画はそういった人生観がまったくない、一般的な映画の基準でも極端に情感が欠如しているのがドイツ出身の冷血監督ラングの面白いところですが、ラングは'36年~'56年のアメリカ時代の20作でラング自身が企画した映画は数本しかなく、『緋色の街~』はその1本ですから明らかに『牝犬』のアメリカ版リメイクをやりたかった意欲が仕上がりの充実に表れています。ルノワールの方が4歳年下、監督デビューも5年あとですがラングはプロデューサー企画ながらルノワールの傑作『獣人』'38もアメリカでリメイクしているほどで(『仕掛けられた罠』'54)、ラング自身はルノワール作品の優れた出来にはまったくおよばない不満足な作品としていますが、こちらは言われなければ『獣人』のリメイクと気づかないほど人間関係の力点が異なり、またラングには珍しい彫りの深いキャラクター造型に成功していて十分優れた作品です。非常に意識的な技巧家ながら必ずしも器用ではなく出来不出来の激しいラングには何を撮ってもずばりと核心に迫るルノワールの直観的な映画への驚嘆があり、それが『牝犬』のリメイクでラング流の解釈への達成感もあれば、『獣人』のリメイクではルノワールにおよばずと卑下することにもなったと思われ、ラングの初トーキー作品は『牝犬』と同年の大傑作『M』'31ですが、1作作るともう同じような作品は撮れない完結した性格の『M』に対して『牝犬』はつづく作品の可能性に満ちている柄の大きさがあり、おそらく同年にラングとルノワールの両者はおたがいの作品を観ていた、そしてたがいに畏敬の念を抱いたと思われます。実際ルノワールの次作『十字路の夜』は早くも『M』からの感化が見られるのです。

●6月2日(日)
『十字路の夜』La Nuit du carrefour (Compagnie Franco Coloniale Cinematographique'32.4.18)*72min, B/W : 日本未公開、映像ソフト発売 : https://youtu.be/5pKRJWwqqwc (Trailer)
◎監督:ジャン・ルノワール(1894-1979)
◎主演:ピエール・ルノワール、ヴィンナ・ヴィニフリート
○パリ郊外に住むデンマーク人カール・アンデルセンの車庫で、死体が入った車が発見される。メグレ警視は、容疑者カールの妹と名乗るエルゼに目を付け……。G・シムノンの『メグレと深夜の十字路』が原作。

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 本作『十字路の夜』はジョルジュ・シムノンのメグレ警視シリーズからの映画化として翌'32年のデュヴィヴィエ監督作『モンパルナスの夜』と並ぶ初期のメグレ警視映画ですが、めったに再上映されなかったので陽の目を見たらたちまち注目のあつまった作品です。しかも本作は'40年代~'50年代のアメリカのフィルム・ノワール(暗黒映画=犯罪官能サスペンス映画、といったところでしょうか)の諸作を特徴づける内容をほとんど備えた先駆的作品なのが後世の観客・批評家にショックを与えて再評価が高まった傑作で、謎に満ちた状況の犯罪、深夜の街、捜査、蠱惑的な謎の美女の登場と誘惑、二転三転する容疑者追究、敵味方の入り交じる複数の悪党の抗争、追跡、銃撃戦、反則すれすれの意外な真相といった具合に古典的推理小説の型から外れた行動型ミステリーの形式で浮かんでくる要素がアメリカではギャング小説やハードボイルド・ミステリーの出現から'20年代末~'30年代のギャング映画を経て'40年代以降のB級ミステリー映画のパターンになったのですが、それを指摘したのがフランスの映画脚本家・批評家のニーノ・フランクだったためアメリカ映画の潮流なのにフランス語でフィルム・ノワール(暗黒映画)と呼ばれるようになりアメリカ本国の映画批評家もその呼称を踏襲するようになりました。当時は娯楽映画も西部劇を筆頭にカラー化が進んでいましたが、犯罪サスペンス映画は予算・規模ともにB級映画あつかいの白黒作品が主流だったのもあります。アメリカの批評家も従来の犯罪スリラーやサスペンス・ミステリー映画とフィルム・ノワール作品を分けたのはフィルム・ノワールには特有のいかがわしさが多量に含まれているからで、たとえばジョン・フォードやワイラーなども犯罪スリラーやサスペンス・ミステリー映画を撮りますしヒッチコックなどはその専門家ですがいかがわしさがないのでフィルム・ノワールとは呼ばれない。フランクはフィルム・ノワールの起点をジョン・ヒューストン監督のハンフリー・ボガート主演作『マルタの鷹』'41とし、のちの批評家はオーソン・ウェルズ監督・主演の『黒い罠』'58をフィルム・ノワール時代に幕を下ろす作品としました。もっとも『マルタの鷹』以前にフランクの指摘したフィルム・ノワールの要素を満たしていた作品はアメリカ映画にもヨーロッパ映画、日本映画にすらあり(小津安二郎『その夜の妻』'30、『東京の女』'33、『非常線の女』'33などがすぐに上がります)、フランスではその条件に一致していた題材がリアリズム小説の手法で推理小説を書いたシムノンのメグレ警視シリーズだった、と偶然の同時代現象がありました。
 ――しかしそれを映画化して古典的なミステリー映画の枠から外れた作品を作るのはまた別の発想で、本作は都市犯罪映画として明らかにフリッツ・ラングの『M』からの感化があったと感じられます。同作はドイツ本国では'31年5月に公開されており、日本公開は昭和2年('32年)4月でフランスの一般公開も日本と同年同月ですが、当時フランスの大手映画社はほとんどドイツと合資系だったほどなので映画界内部では即座に内部試写されていたはずです。サイレント時代からのドイツ映画界の巨匠ラングの初トーキー作にルノワールが注目しなかったわけはなく、『M』のドイツ公開時にはルノワールは情痴犯罪映画『牝犬』に取りかかっていたので、『牝犬』の次回作にシムノン原作の本作を選んだところでルノワールには都会と郊外のはざまの闇の世界を描く構想がすっきりと出来上がっていた、と考えられる。ただし本作がその後上映されるのが稀な作品になったのはいかにもルノワールらしい原因があり、撮影が終わって編集に取りかかったら撮影済みのフィルムが総計2リール相当分紛失していたそうで、1リールは約10分ですから20分あまりが欠落していた。普通は慌てて欠落部分の追加撮影をするのですがもう納期も近ければ資金もないしスタッフや俳優に再招集をかける余裕もないので2リール欠落のまま編集して完成・公開してしまったのが本作だそうで、ルノワールは自身のプロダクションでインディペンデントな映画製作をしていたためこうした事態にたびたび陥っています。しかし本作では欠落のために起こった説明不足や飛躍、脈絡のつかめない唐突な挿入場面すら一寸先は闇の謎めいたムードを高めていて、まんべんない映画がしばしば陥りがちの全知全能の視点など入りこむ余地がないので観客も謎と暗闇のまっただ中に放りこまれることになる。おそらくルノワールも編集が始まってすぐ撮影したはずの場面の欠落には困ったでしょうが、何とかつないでみて一応90分強の完成作品にするつもりがフィルム紛失事故で70分強と20分あまり短い映画になってしまった弁明はした上で公開してしまったようです。そのため本作は公開されはしたものの未完成作品とする映画辞典類の言及もありますが、ルノワールとしては現実だってこの欠損だらけの映画と同じようなものでないかと思ったからこそこの型での公開でかまわないと考えたに違いなく、闇の中で犯罪者たちが跳梁跋扈するのを網の一振りで捕まようとするような、しかも蠱惑的な謎めいた悪女らしき美女も出てくれば関連があるのかどうかもわからない連続殺人まで起こる、カーチェイスもあれば銃弾も飛びかう、しばしば飛躍して前後の継ぎ目が不明瞭と、現実なのか面白すぎる悪夢なのかわからない未来の映画を先取りするような作品になった。そこが周到な計算と極端な理詰めで幼女連続誘拐殺害常習犯をめぐる捜査と犯人の運命を大都市映画のスケールで展開する画期的傑作『M』に匹敵しながらも、ルノワール作品の方は偶然が介入して仕上がった要素が強く、また感覚的な閃きで演出されているためラング作品のように整然とした完成度を尺度にはできない映画です。『M』がのちの犯罪映画、特にヒッチコック作品やアメリカのフィルム・ノワールに与えた直接影響が大きいのもテーマの設定、ムードの統一、人物像や人物配置、プロットとストーリーの妙、映像表現など応用の効く技法的発明にあふれているからですが、『十字路の夜』はそもそもほとんど上映されず観られる機会がなかったばかりか分解して応用しようがない作品で、次のルノワール作品が『素晴らしき放浪者』'32と思うと、『牝犬』『十字路の夜』『素晴らしき放浪者』の3作でサウンド化されたトーキー映画はもう頂点を究めたかの観があります。

●6月3日(月)
『巴里祭』Quatorze Juillet (Tobis'33.1.13)*86min, B/W : 日本公開昭和8年('33年)4月20日 : キネマ旬報ベストテン2位 : https://youtu.be/XU980kcKTis (Extract)
◎監督:ルネ・クレール(1898-1981)
◎主演:アナベラ、ジョルジュ・リゴー
○パリの下町に暮らすアンナとジャンは、いつもアパートの窓越しに顔を合わせ、お互いに恋心を抱いていた。巴里祭前夜のダンスを楽しみ幸せをかみしめる二人だったが、ジャンの元恋人ポーラが現れ……。

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 ルネ・クレールの初期トーキー作品の日本での人気はたいへんなもので、トーキー第1作『巴里の屋根の下』'30.1(翌年5月日本公開)がキネマ旬報ベストテン2位、第2作『ル・ミリオン』'30.4が同年4位(この年の1位はスタンバーグの『モロッコ』)、第3作『自由を我らに』'31.12が翌年日本公開でベストテン1作、翌年日本公開の本作がベストテン2位(1位レオンティーネ・ザガン『制服の処女』)と、ここまではフランス本国でも好評だったのですが、次作の大作『最後の億萬長者』'34は本国では不評かつ興行的大失敗に終わり(日本では翌年公開、ベストテン1位)、フランスでは映画が撮れなくなったクレールは渡英してイギリス映画『幽霊西へ行く』'36を作るも不評(日本では翌年公開、ベストテン2位)と、フランス本国ではクレールの全盛期は短かかったのですが日本では長い人気を誇りました。現在では欧米の映画史家もクレールのキャリアを尊重した高い評価を下していますが、日本でも戦後に'20年代や'30年代からキャリアのある伊藤大輔、池田富保、斎藤寅次郎、清水宏、稲垣浩らが現役で監督作品の新作を送り出していても過去の大家と見なされていたのと同じようなあつかいがクレールやデュヴィヴィエ、カルネら戦前の大家の現役時代~生前にはあり、唯一ルノワールのみが戦前戦後を通じての巨匠とされたのが戦後長らくの欧米の映画批評家評価だったので、日本映画では溝口健二と小津安二郎が戦前戦後を通じての巨匠とされたのと事情は似ています。フェデーやクレール、デュヴィヴィエやカルネの戦前作品をもっとも愛していたのは日本の観客だったと言えるので、フェデーやクレールは'30年代半ばにフランスで製作環境を失いイギリスに渡りますし、デュヴィヴィエも戦時中はアメリカに渡ってしまう。最年少のカルネはフランスにとどまって『陽は昇る』'39、『悪魔が夜来る』'42、『天井桟敷の人々』'45と名高い作品を作りましたが、帰国したデュヴィヴィエやクレール同様戦後作は本国ではあまり評判にならずたまに好評作が出る、とやはり日本での継続的関心や人気におよばず「過去の大家」あつかいされていたのに対し、日本では若い映画観客でも年輩者からフランス映画の巨匠はクレールやデュヴィヴィエと聞いて育つので上映会があれば観に行く、また長く人気が高かったのでクレールやデュヴィヴィエの'30年代作品はかつての地上波テレビ深夜放映映画の定番でした。ホームビデオとBS放送の普及以降は地上波の深夜放映映画が地を払ってしまいましたが、クレールやデュヴィヴィエの'30年代の映画が夜更かしの中学生や高校生の映画入門だったのは日本の文化のゆかしい伝承だったので、最初に触れる外国映画が'30年代フランス映画なのはまっとうな映画観をはぐくむのに最適な気がします。昔は淀川長治氏や品田雄吉氏、水野晴郎氏といった見識のある映画人がお茶の間のテレビ観客にも良い映画を案内してくれましたが、今は選択肢が広がった分かえって丁寧に映画を味わう慣習が薄れていると危惧されるだけになおさらです。本作は歴史的文献として日本初公開時のキネマ旬報の紹介(サイト上より。追加情報あり)を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「巴里の屋根の下」「ル・ミリオン」「自由を我等に」次ぐルネ・クレールの第四回トーキー作品で脚本も氏自身の手になったものである。そして前作品同様に撮影にはジョルジュ・ペリナールが、舞台装置にはラザール・メールソンが力をかしている。主演者は「ル・ミリオン」「掻払いの一夜」のアナベラと新進のジョルジュ・リゴーとの二人で、これを助けて「巴里の屋根の下」のポーラ・イレリー、「ル・ミリオン」「自由を我等に」のポール・オリヴィエ、「ヴェルダン 歴史の幻想」のトミー・ブールデル、それからレイモン・エーモス、等が出演している。なお此の映画にはモーリス・ジョーベールが作曲を施している。2019年6月22日より4Kデジタル・リマスター版が全国順次公開(配給:セテラ・インターナショナル)。
○あらすじ(同上) パリの下町、丘のあるカルチエでの物語。タクシーの運転手をしているジャン(ジョルジュ・リゴー)は向いのアパートに住んでいる花売娘のアンナ(アナベラ)が好きだった。だが彼にはポーラ(ポーラ・イレリー)という此の界隈にうろついている女がついていた。アンナとてジャンには心をひかれていた。で、フランスの国家祭ともいうべき七月十四日の革命記念日の前夜、二人は野天で、町の真中で踊った。が、この夕アンナは酔いどれの老人客に失礼したというので花を売りに出入りしていたダンス場から出入りを断られたので少し心が鬱いでいた。が、俄か雨で踊りの人が散り、彼女がジャンと二人きりになった時、二人は互いに本当に恋をしているのだという事を知った。それは二人にとって幸福な夜だった。が、翌日、七月十四日、もうパリ全市の人々が祭りで有頂天になっていた日ジャンの室を訪ねたアンナは其の室に女の持ち物を見た。これはポーラの持物で昨夜遅く彼女はジャンを訪ね押し掛けで泊まり込んだのであるが、ジャンはアンナに義理を立て一晩を外で明かしたのである。そんなジャンの思いやりを知らぬアンナは一重に男の心を疑った。が折も折病いの床にいた母が彼女一人を残して此の晩に死んで行った。アンナは一人ぽっちになり、やがて室も引越し近所のキャフェに勤める事となった。一時の誤解から仲違いしたアンナとジャンとはそれから長い間、逢わないでいた。自棄になったジャンは与太者になった。が、ポーラももう彼の女ではなくフェルナン(トミー・ブールデル)というアパッシュの情婦となっていた。或夜、ジャンはフェルナンの片棒を担いでキャフェに強盗に這入った。それがアンナの勤めているキャフェであった。アンナを見た時にジャンは我に返った。そして彼女を守ろうとした。アンナも男をかばおうとした。これが結果でアンナはキャフェから解雇された。二人がまた逢わないで日が経って行った。その内に、アンナは以前の酔いどれの老人客から法外な金で花を買ってもらった。彼女はその金で久しくやめていた花売りをまた始めた。そして或る日の事、アンナの手押車はタクシーにぶつかった。その運転手はジャンだった。ジャンもまた正業に戻っていたのである。二人の周りを取りまいて互いに加勢する野次馬がワイワイ騒いでいる内に、また俄雨がふってきた。野次馬は散って、またジャンとアンナとは二人きりになった。
 ――昨年観返した既刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』でかなりの数の'30年代フランス映画を観て、今回は年代順だとルノワール作品2作に続いてこの『巴里祭』を観たため、クレールには不利なことになってしまいました。たぶん初公開時から本作はフランス本国でも日本の観客にも新しいけど懐かしい、どこか甘酸っぱい人情青春ドラマとして迎えられたはずです。本作のような内容の映画はサイレント時代にもすでにあったもので、むしろサイレントくさい古風さを新しい意匠に仕立てたものと言える。クレールの'30年代前半作品の例によって本作も音楽映画仕立てになっていて、趣味の良いさじ加減で懐かしい味わいを新しい切り口で見せている。クレールはサイレント時代にすでに実験映画の初期短編や長編コメディのキャリアがあるので、サイレントでつちかったテンポ感がサウンド作品でも生きていて、サウンド・トーキー映画の最初で最高の確立はスタンバーグの'30年の2作『嘆きの天使』『モロッコ』とクレールの同年の2作『巴里の屋根の下』『ル・ミリオン』でしょう。この2者が際立っていたのは徹底的なスタイリストだったからで、スタンバーグが激情的、クレールはほのぼのという違いはありますが極端に言って内容は二の次で、スタイリッシュな映像のサウンド映画を作ることの方が重要だったと思われる。両者ともに影響力は即座で絶大でしたが全盛期がほんの数年間だったのもスタンバーグやクレールの映像スタイルが普及してしまえば目新しさはなくなるので急速に飽きられたのが先駆者ならではの不運でした。しかしスタンバーグの真価は歳月の風化に耐えるものなので今なお十分観ごたえがあるのに対し、クレールの映画は核心部分まで甘いのが微温的で古くさく見えてしまう弱みがある。スタンバーグの冷徹な映像・ドラマ構成はスタイル自体の目新しさがなくなっても古びないのですが、庶民人情ロマンス映画のクレールだとそうはいかない。またクレールの映画のパリの下町は完全な巨大セットで、セットだから計算通りに精巧な撮影技法や演出ができたのが、そうした技巧による映像表現の新しさ自体に新味がなくなるとルノワールの映画のロケ撮影のような不整合な清濁飲みこんだリアリティの古びなさにはおよばなくなってしまう。『巴里の屋根の下』『ル・ミリオン』『自由を我等に』から本作『巴里祭』とほとんど連作といっていい作品を重ねてきたクレールが次作『最後の億萬長者』では飛躍を期するもフランス本国では不評と興行的大失敗に終わり、イギリスに招かれないと映画を撮れない苦境に早くも陥ってしまったのはフランス本国の観客の飽きっぽさもあるでしょうが、『巴里祭』まででクレールがいかに親しまれ、その分限界を見せてしまったのも大きいでしょう。映画の期待値は前作の最終的な評判で決まるとも言えるので、『巴里祭』を観た観客は次作『最後の億萬長者』にほとんど期待せず、同作を観た批評家・観客もクレールを見切ってしまった。それが日本ではキネマ旬報外国映画年間ベストテン1位ですから皮肉で、戦後'70年代以降の日本では外国の映画監督のスポンサーになって新作を撮らせるようになりましたが昭和10年ではそうはいかなかったので、クレールはまずイギリス、それからハリウッドと転々として戦後ようやくフランス本国の映画界に復帰します。『巴里の屋根の下』からの3作の延長として本作はあまりにこぢんまりと丁寧にまとまりすぎていて、異国情緒が付加価値となる外国の映画観客にはともかくフランス本国の批評家・観客には飽きられてくるきっかけになってしまった。クレール自身は作りたくて作った内容だし観客を喜ばせる内容とも自信があったでしょうから皮肉なものですが(また当時のドイツのナチス政権成立直前の右傾化に対して、フランスの民主的で自由な愛国心を革命記念日に託した意図もあるかもしれませんが)、本作は『巴里の屋根の下』『ル・ミリオン』の焼き直しと言ってしまえばそれまでと、クレールの発想と表現力の幅の狭さ、ルノワールのような直観力ではなく計算から来る映画作りの限界を感じないではいられない面があります。しかしこの時期のクレール作品はまっとうな映画の古典として襟を正してしかるべき、なおかつ楽しめる映画史の珠玉で、別にクレール自身がクレール作品の焼き直しをやったっていいではありませんか。

集成版『NAGISAの国のアリス』第七章

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 第七章。
 ハートのキングは白ウサギに、ジャックの告訴状を読み上げるよう命令しました。白ウサギは開廷合図のトランペットを3回吹くとポケットから巻物を取り出して広げ、朗々と歌い出しました。
 「♪夏にまるまる1日がかりで
 ハートのクイーンが作ったタルト
 それをまんまと盗み出したのは
 被告人席のハートのジャック!」
 第1の証人を呼ぶダス、とハートのキングが言いました。白ウサギはトランペットを吹き、第1の証人!と呼びました。ティーカップとバターつきのパンを持って帽子屋が入廷してきました。続いて3月ウサギとネムリネズミも腕を組んで入ってきます。
 失礼いたします王さま、と帽子屋、変なものを持ってきてしまいまして。ですが私らはまだお茶会中だったのです。
 いつからダス?とキング。
 3月14日です、たぶん。
 それに帽子を脱ぐダス、お前さんの帽子のことダスよ!
 いや違います、と帽子屋、私は帽子屋ですから、これは売り物です。
 それを聞いたクイーンは眼鏡をかけ、帽子屋をじろじろにらみました。さすがに帽子屋も落ちつきません。
 早く証言するダス、とキング。いちいちビクビクするなら、お前さんも処刑するダスよ。ますます帽子屋は取り乱し、パンではなくてカップをかじってしまいました。
 こないだの音楽会の出場者名簿を持ってくるザンス、と追いうちをかけるクイーン。帽子屋は震え上がり、靴が足から落ちました。
 証言するダス、とキング、さもないと無条件で処刑ダス。
 帽子屋はわなわな震えながら、私は無関係です王さま。お茶会だってまだ1週間にもなりません。パンは干からび、お茶は……
 お茶が何ダス?とキング。
 お茶会ですから、と帽子屋。
 お茶会にお茶は当然ダス!とキング。
 そんな風にお茶会をしてまして、ですが3月ウサギが言うには……
 言ってない!と3月ウサギ。
 言った!と帽子屋。
 でたらめだ!と3月ウサギ。
 そうダスか、とキング、ではその部分の証言は無効ダス。
 帽子屋は慌てて、それでとにかくネムリネズミが言うことには……
 言ってません!とネムリネズミ。
 言った!と帽子屋。
 いや違います!とネムリネズミ。
 帽子屋はますます憔悴し、それで私はその後、少々バターを塗ったパンをもう少しいただきまして……
 待つダス、とキング、ネムリネズミは何と言ったのダス?
 ええと、わかりません、と帽子屋。思い出さなければ処刑ダス!とキング。


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 帽子屋は手にしたティーカップとパンを落とすと、がっくりひざまづきました。私めはつまらない庶民であります、陛下、と帽子屋は息もたえだえに訴えました。
 そうダスな、とハートのキング、確かにお前さんの話はつまらないダス!
 満場の拍手喝采。
 もう証言することがないなら、とキング、さっさと下がっていいダス!
 どうやって下がると言うんです?と帽子屋、これ以上下がるともう床下です!
 それなら床に尻でも着けるダス!とハートのキング。
 帽子屋はうろたえ、できればお茶を済ませてからで……と言いかけるうちからキングはいいから行くダス!と一喝しました。帽子屋は慌てて走って退廷しました。あいつは外で打ち首ザンス!とハートのクイーン。
 次の証人を呼ぶダス!とキングが命じました。入廷してきたのは公爵夫人つきの料理長でした。手には胡椒の瓶を提げており、料理長の通ってきた通路でくしゃみが上がりました。
 これはいかんダス、とキング、仕切り直しが要るダスな。ガマンしてる者は今やるダス!
 全員がくしゃみをしました。
 さあ証言するダス!とキング。やなこったい、と料理長。ではタルトの材料は?とキング。まあ胡椒だね、と料理長。
 シロップです!とネムリネズミが叫びました。そいつをつまみ出すザンス!とクイーンが激昂しました、打ち首ザンス!取り押さえてヒゲをチョン切るザンス!
 料理長が退廷しました。次は?とキング。白ウサギはトランペットを吹くと、アリス!と召喚しました。
 何か証言は?とキング。
 何にも、とアリス。
 全然?とキング。全然、とアリス。キングは愕然として、ではこの者を訴えねばならんダス!いいや告訴なんぞ要らないザンス!とクイーン、極刑にすればいいだけザンス。アリスは悪態をつきました。黙るザンス!とクイーン。ばーか、とアリス。
 このガキの首をちょん切るザンス!とクイーン。余計なお世話よ。なら私がこの裁判の判決を下してあげる。ハートのジャックは無罪、ただし人のタルトを盗るのは禁止。
 無罪?おお!と全員が騒然としました。
 とすれば誰の首も切れないダス、とキング。タルトが勝手に逃げたとでもいうザンスか!とクイーン。タルトが盗まれなくなればいいんでしょ、とアリス、それで気が済まないなら自分の首でも切らせれば?
 クイーンはぐうの音も出ず、タルトを盗んだハートのジャックもこれで無罪放免、ただしタルトはもう盗めませんが。


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 マルデン島は中部太平洋に位置する無人島で、19世紀にはインディペンデンスとも呼ばれていました。ライン諸島のうちの中部ライン諸島にあり、キリバス共和国に所属します。標高は低く不毛な島で、面積は約39.3平方km。そしてマルデン島は先史時代に築かれたと考えられる謎の多い遺跡や、かつて存在したと観測される広大な燐酸質グアノ(有機質化石)の希少性、またイギリス初の水爆実験場で、現在は海鳥の重要な繁殖地としてマルデン島自然保護区に指定されたことで知られています。
 幅 8km、最高標高 10mのこの孤島は北を上辺とすると▽の形をしており、外郭ほど標高が高いくぼんだ地形のために内陸部からは海岸すら見えません。島の東側から中央部の大部分には不規則な形の広く浅い礁湖が存在し、そこには多くの小島が点在します。この湖は陸地によって閉じられ海面とは接しませんが地下では海とつながっており、水は完全に海水です。マルデン島には淡水はなく海岸の大部分は珊瑚が占めており、島に打ち寄せる波によってそれらの珊瑚が島の外郭を形成しています。
 孤島であることと乾燥していることから、島の植物相は極めて限られており、15種ほどの固有種しか存在しません。それらの多くも生育不良な藪を形成するに過ぎず、かつてココナッツの木がグアノ採掘の鉱員によって植えられましたがそれらも根付くことはなく、現在では枯れ果てたその木々をわずかに見ることが出来るのみとなっています。
 グアノ採掘が行われていた時代には猫、豚、羊、ハツカネズミがマルデン島に移入されました。豚と羊は全滅しましたが猫とハツカネズミは現在でも島内で生息しているのが確認されています。また少数のアオウミガメが海岸に巣を作り、ヤドカリが多数生息しています。
 マルデン島の発見は1825年7月30日で、ジョージ・バイロンによって発見されました。このジョージ・バイロンは有名な詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(第6代バイロン男爵)のいとこで、ジョージ・ゴードンの後を継ぎ第7代バイロン男爵となった人物です。バイロンはイギリス海軍の軍人で当時は船長職であり、イギリスのロンドンで死去したハワイ王国の若き王カメハメハ2世とその王妃カママルの遺体をハワイ王国ホノルルに送り届ける特別任務を遂行し、ロンドンへ戻る途上でした。
 ひどいところだわ!とアリスは白ウサギの首を締め上げて、何でこんな!


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 食べ物で遊ぶようなことは良くない、と小人のひとりがつぶやきました。ボソボソっと賛同の声が上がります。
 何よ、とアリス、あんたたちイースターエッグを知らないの?あんたたちの文化にはキャラ弁ていうのがないわけ?家を建てたり結婚式の締めくくりでお米を撒くことだってあるし、トマトをぶつけあうお祭りのある国やロールチーズを丘から転がすお祭りをする国もあるわ。それのどこがおかしいの?
 お前ら人類は頽廃している、とさっきとは別の小人がつぶやきました。それをおかしいとも思わないのが堕落の証拠じゃないか。
 それなら何であんたたちには女体盛りに心当たりがあるのよ?
 アリスが問うと、小人たちが返答に窮している様子がわかりました。アリスにしてみれば、してやったりでございます。結局あんたたちカマトトぶっているだけじゃない?と言外にアリスは当てこすっているのでした。こいつ何歳でしたっけ?確か10歳の自称美少女だったはずです。しかしこの物語の作者は32歳のチャールズ・ドジソン先生、筆名ルイス・キャロル氏ですから、責めを負わせるべきは故キャロル氏の方にある、と考えるべきでしょう。
 私はね、とアリスはせいいっぱい虚勢を張りました、あんたたちとは生まれも育ちも違うのよ。あんたたちなんか、とアリスは小人たちの生まれの卑しさを嘲笑しようとしましたが、勢いづいてまくし立てようとして実はちっとも小人たちの生い立ちのことなど知りはしないのに気がつきました。でもアリスだって人は見かけで判断すべきではなく、階級や資産に値打ちがあることくらいはわかっています。一応このお話の時代設定は19世紀中葉ですから、医学的にクリトリスの機能が解明されてからほんのわずかしか経っておらず、女の子がオナニーしているところを母親にでも見つかろうものなら病気と思われ、缶詰の蓋でえぐり取られるのも珍しくはないのが帝国文化のドブの裏でした。そのドブの中から伝説の通り魔・切り裂きジャックが生まれてきたのも伊達ではないごとく、この大国はあと半世紀もすれば再び植民地の大半を失う斜陽国家になる運命でした。
 しかしアリスにはそんな未来のことなどよりも、とにかく迫った危機をいかに回避するかが火急の課題でした。ガリバーは小人に大地に張りつけにされてどうしたんだっけ?なんか簡単だったような気もするわ、とアリスが身を起こすと、杭はあっけなく土から抜けました。


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 ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために、という悪い冗談があります、とミツバチの女王は言いました。これから私がその好例をお話しましょう。
 20世紀アメリカ合衆国のニューヨークで活動した美術モデル、映画女優で「ミス・マンハッタン」、「パナマ-パシフィック・ガール」、「エクスポジション・ガール」、「アメリカン・ヴィーナス」など、さまざまな通称で知られ、ニューヨーク市内の15以上の彫像のモデル・着想源となり、4本のサイレント映画に出演した伝説的女性オードリー・マンソンは1891年6月8日、ニューヨーク州ロチェスターにオードリー・マリー・マンソン(Audrey Marie Munson、1891年6月8日 - 1996年2月20日)として生まれました。父親はニューヨーク州メキシコ出身で、両親のエドガー・マンソンとキャサリン・"キティ"・マヘイニーは彼女が幼い頃に離婚し、オードリーと母親はニューヨーク市に移り住みました。
 15歳の時(1906年)に写真家のラルフ・ドレイパーの目に留まり、彼の友人の彫刻家イジドール・コンティに紹介され、彼女はその後10年間にわたってマンソンはニューヨークの多数の彫刻家・画家たちにとって極上のモデルになります。1913年のザ・サンによれば「100人以上の芸術家が、ミス・マンハッタンの称号を誰かに冠するとすれば、それはこの若い女性にこそ相応しいと認めている」とされ、1915年には、同年のサンフランシスコ万国博覧会(パナマ-パシフィック万国博覧会)のためにアレクサンダー・スターリング・カルダーが起用するほどモデルとしての地位が確固たるものになっていました。彼女は博覧会に出品された彫刻のうち5分の3のモデルを務め、「パナマ–パシフィック・ガール」として名声を得ました。
 彼女の名声は発展途上の映画界への転身を促し、4本のサイレント映画に主演します。初出演の彫刻家のモデルを描いた『Inspiration』で、アメリカ映画で全裸で登場した初の女性になりました。検閲官はこの映画の禁止はルネッサンス美術の許可と矛盾するため起訴を見送りました。映画は評価は分かれましたが、興行的には成功を収めました。現存するマンソンの映画は『Purity』1本のみになります。
 そしてマンソンのキャリアはスキャンダルによって生命を断たれました。次回はそのお話から始めましょう。


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 さて、1891年6月8日生まれ、20世紀アメリカ合衆国ニューヨークで活動した美術モデル、映画女優で「ミス・マンハッタン」「アメリカン・ヴィーナス」とも呼ばれ、ニューヨーク市内の15以上の彫像のモデルとなり、4本のサイレント映画に出演した伝説的女性オードリー・マンソンについて、その後半生をたどってみましょう。もっともこの時点でマンソンはまだ20代半ばなのですが、しかし決定的な挫折はすぐ先に待ちかまえていました。それは陰惨で、猟奇的ですらある運命でした。
 マンソンは1919年にニューヨークのウォルター・ウィルキンズ博士所有の下宿で母親と暮らしていました。ウィルキンズはマンソンと恋に落ち、彼女と結婚するために妻のジュリアを殺害しました。殺害の前にマンソン母娘はニューヨークを発っていましたが、警察は尋問のため母娘の行方を追い、全国規模の捜索の後、2人はようやくカナダのトロントで尋問を受け、ウィルキンズ夫人の要請により下宿を去ったのだと証言しました。容疑からは逃れられましたが、事件のスキャンダルによってマンソンのモデル、女優としての経歴は事実上ここで終わりを告げました。ウィルキンズは裁判にかけられ、有罪として電気椅子送りを宣告されました。彼は刑が確定する前に、刑務所内の独房で自ら首を吊りました。
 1920年には、マンソンはまったくの無職で勤め先もなく、母親の台所用品の訪問販売による収入だけでニューヨーク州のシラキュースに母子家庭を営んでいました。そこに1921年2月、ペリー・プレイズ社は映画『Heedless Moths』出演のため、27,500ドルでマンソンと契約を結びました。この映画は無数の新聞記事と、彼女が新聞の日曜版に寄稿した短編やその他の記事に基づき、彼女自身の半生を描いたものでした。そしてこの自伝的映画が彼女の出演した最後の映画作品になりました。
 1922年5月27日、マンソンは塩化第二水銀の溶液を飲んで自殺を図りました。
 1931年、裁判官は治療のため精神障害者施設に入るようマンソンに命じました。彼女はオグデンズバーグにある精神障害者のためのセント・ローレンス州立病院で、104歳で亡くなるまでの65年間を過ごしました。彼女は1996年2月20日に長い生涯を閉じました。
 ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために。彼女の生涯はまさにそれを体現するものでした。


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 来月には別居婚している内縁の夫人の母国へのアジア・ツアーがある。彼女の国ではまだおれはスターなのだ、ありがたいことだ、とK.は無精ひげの伸びた顔を洗うと、70歳を過ぎた自分の姿を洗面台の鏡に認めた。彼には国際的スターだった一時代を築いたキャリアがあるから、青年時代からの無数のフォトセッション、演奏中のライヴ映像シューティング経験があり、20代のおれからつい最近のおれまでが日めくりカレンダーのように残されているわけだ、と考えた。成功の頂点に立っていた頃のおれはジャーナリズムからも同業者からも糞味噌に言われた。ハイプ(誇大広告)の見本のように言われたものだ。だがそれはおれの望みの一部ではあったが、すべてがおれの責任ではないはずだ。おれを担ぎ上げることで話題を引き出し、わらわらと自分たちの飯の種にしようという連中がおれをハイプにした。
 おかげさまで来月も極東ツアーがあり、今の女は里帰りにもなるからツアーを楽しみにしている、とK.は考えると、明日のリハーサルには無精ひげを剃らないといけないな、当日剃るのは慌ただしいから、と慎重にシェーヴィング・クリームを顔面に塗ると、早くも指先の震えを感じた。彼の指はもう数年前から神経性麻痺が進行しており、ほぼ半数の指が使い物にならなくなっていた。駄目だ、とK.はシェーヴィング・クリームを洗い流すと、憂鬱を増すような電気シェーヴァーの音に顔をしかめながら最小限の無精ひげは剃り上げた。ステージの時は剃ってもらうべきだろうか。進行性麻痺を気取られないだろうか。
 リハーサルでは自分の負担を極端に減らしたアレンジにしなければならない。その理由をプレイヤーたちはおそらく感づいている、とK.はストレートでウィスキーを傾けた。進行性麻痺の発症よりも前、明らかなキャリアの下り坂からK.は鬱病にかかり、アルコール依存症が進んで躁鬱・統合失調様症状を来していた。
 K.は酔いが回ると戸棚からショットガンを取り出した。震える指先でカートリッジの詰め替えには骨が折れたが、演奏よりはましだ。K.はリヴィングの床に座り、ショットガンの銃口を口に咥えると安全装置を外し、足指を引き金にかけた。これでいい、ヘミングウェイと同じだ。おれの頭蓋の上半分は完全に吹き飛び、一生おれに悩みをもたらした脳漿はすべて飛び散り、そしておれは解放されるだろう。
 だが……どちらでも同じことだ。


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 馬鹿みたい!とアリス。いくら芸人だからって相当売れていた時代もあるんだから、それなりに資産はあったんでしょう。
 それなりどころじゃないと思いますが、と白ウサギ。外国の高級住宅地に邸宅を構えていたくらいですからね、人気の盛りは過ぎたとは言え立派なセレブ、エリートです。
 だったらなおさら仕事を休んで、鬱病とアルコール依存症をきちんと治してから出直せば済んだじゃない。
 進行性の神経性麻痺で演奏家としての将来を悲観していたんです、と白ウサギ、鍵盤楽器演奏家のヴァーチュオーソにとっては、これはほとんど絶望的な事態です。
 演奏できなくなっても作曲・編曲はできるでしょう。今ではDTMで生演奏と匹敵するものが作れる時代だし、バンドリーダー、クリエイターとしての将来をすべて悲観するのは短絡的というか、あまりに衝動的で同情の余地がないわ。海外公演のスケジュールも翌月に組まれていたくらいだから、どれだけの人が迷惑をこうむったことか。少なくとも翌月の海外ツアーはこなせる、と思っていたんでしょう?スケジュール自体は遅くとも3か月前には決まっていたはずで、正式にキャンセルする時間的余地もあったでしょう。結局アドヴァンスだけが目当て何らかの理由でツアーは流すつもりだったんじゃないか、勘ぐりたくもなるわ。
 いや、この世代の人は人口動態ではピークなんですよ、と白ウサギ。それこそ人気が旬のうちに極端な過密スケジュールを組んでおいて、人気が凋落してもいわば惰性のついた労災レベルの過労、ワーカホリックから逃れられない。健康的な休養なんて言っていられないのです。コマは止まると倒れる。アルバム制作とツアーの機会がコンスタントにあるうちはいいが、まずアルバムの発売契約がメジャーからインディーズに落ちて、スポンサーつきの大規模ツアーからいきなりプロモートもされない地味な地方都市の小会場のドサまわりに活動が激変する。数年おきおきにメジャーとインディーズを行ったり来たりしていたような不安定な活動が鬱病とアルコール依存症につながったのは十分推察できますし、おそらく薬物依存が進行性の神経性麻痺に拍車をかけていたでしょう。
 それに、と白ウサギ、最後のパートナーだった内縁のアジア系婦人とも別居婚だったことにも一種の不吉を感じさせます。パートナーとしては必要としあっていた、だが同居婚は耐えられない理由がおそらくあったのです。


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 もう少し哲学を入れなさいよ、と渚の国のアリスは言いました、あんたの顔色はあまり良くないわ、まるで黒いお腹の中に秘密でも抱え込んでいるみたいに。
 余計なお世話よ、と鏡の中のアリスは答えました、私は自分のやりたいことは自分で決めないと気が済まないんだから、たとえそれが自分の理性でも逆らいたい時には逆らうわ。
 何をやってるんダス?とハートのキングが格子越しに覗きこみました。アリスは慌てて霊魂をひっこめると、ひどいわ、女の子の部屋を覗くなんて。
 覗くも何もお前は監視されているダス、とハートのキング。牢獄とは誰の部屋でもないものダスよ。
 誰の部屋でもないんなら、あんただって覗く権利はないじゃない、とアリスは抗議しました。ハートのキングはフフッとせせら笑うと、その理屈は通用しないダス。なぜならここは国家権力の部屋ダスから。
 私が何をしたっていうのよ!とアリスは叫びました。私が犯罪者じゃないのは、私自身が知っているわ。
 もしお前が犯罪者でないなら、とハートのキングは言いました、お前でない誰かが犯罪者ダス。お前でない誰もが犯罪者でないなら、他でもないお前以外に犯罪者はないダス。
 そんな理屈ってないわ!とアリスは地団駄を踏みました。何でダス?とハートのキング。だって、とアリス、もし私が悪人かもしれないっていうだけがこんな仕打ちをされる根拠なら、誰だってこんな目にあう理由はあるってことじゃない?
 そこダスな、とハートのキングは腕組みしました。お前は肝心なことをわかっていないダス。そんなのわからなくって当然じゃない、とアリス。それそれ、そこダス。
 ハートのキングは声を低めました。以前この部屋には絞首刑にされた男が入れられていたダス。そいつは平凡な勤め人の独身男だったのが、ある日突然逮捕されてここにぶち込まれ、一時的な釈放期間もあったが何度も裁判にかけられた結果、正式な判決なしに絞首刑に処せられたのダス。
 その男は罪を認めたの?
 いや全然。罪も何も、そもそも訴状自体のない裁判だったのダス。
 ひどい話!とアリスは叫びました、何で訴えられる罪もなかった人が死刑にされたのよ?それじゃあ誰が、何の理由もなしにいつ処刑されてもおかしくないじゃない?
 理由はあるダス、とハートのキング、自分は無罪だと主張すること、それ自体が極刑に値する罪状なのダス。
 そんなの法治国家じゃないわ!
 誰がそう言ったダス?


  (70)

 今回はゲストブックへの匿名書き込みより。このブログはコメント、ゲストブックともログイン限定にしていますが、その人物は匿名書き込みのために、
a) 別アカウントを作成して書き込み、
b) その後アカウントを抹消してリンク不明にする、
 という具合で、最初は仮アカウントで載っていましたが、今ではURL不明の「-」になっています。おそらく常習犯なのでしょう。

1) 3月7日のブログに「絆」だとか書いてるけど、あなたが求めていたのは相手の財布の中身じゃないの?
 金の無心をした結果、避けられたんでしょ。
 自分勝手な行動の報いだ。

2) 3月7日の「目覚まし時計が嫌いだ」は、アエリエルさんの人となりが垣間見られる内容ですね。
 私は読んだ事をとても後悔し、不愉快な気分になりました。
 先に書いておきますが、誰でも読む事が出来る状態で公開していながら「嫌なら読むな」という論理は通用しませんよ。
 >「今これだけしかないから」とお金を渡された。
 詳細は省かれているようですが、事の次第は↓のような感じだったのでしょう。
 出所間もないアエリエルさんが当座の生活のために借金を申入れた。
 →親友or弟さんは、要求された額のお金を融通できる経済状態ではなかった。
 →少ない持ち合わせの中からアエリエルさんに無理をしてお金を渡した。
 > お金を返すと連絡したら、その日のうちに取りにきた。
 借りたら返すのは当然の事です。
これは常識ではなく道徳の問題だし、借り手が上から目線で書くのは大間違いです。

3) アエリエルさんは親友or弟さんに、借金の申入れを度々していますよね?
 でも、最終的には断られたのでしょう。
 誰だって返済の可能性が限りなくゼロに近い生活保護受給者にお金を貸したくありません。
 立場が逆ならば自分の生活を犠牲にしてでもアエリエルさんはお金を貸しますか?
 貸しませんよね。
 私の周りにもアエリエルさんに似た境遇の人が居るので状況は手に取るように判ります。
 彼は「自分は何も与えないが、周囲の人からは与えてほしい」という人物です。
 周りの者達は皆んな呆れて彼から離れていきました。
 自業自得です。
 アエリエルさんは知識もあり立派な事をブログに書いていますが、今回は愚行としか言いようがありません。
 普段から思っている事なのかもしれませんが、ネットで他人の悪口を書くという事は陰口と同じです。

 何ダスこれは、と♥のキングは呵々大笑し、ただの洞穴の貉ではないダスか。目糞鼻糞、笑止千万。
 死刑、と♥のクイーンは眉も動かさず宣告しました。
 第七章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第五部・初出2016年1月~6月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2019年6月4~6日/続『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(2)

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 自慢になるようなことではありませんが、この足かけ4年続けている映画日記は手間だけはかかっていて、1回分で映画3本には1本あたり5,000字くらいになるので1回で計1万5,000字強と分量だけでもやっかいです。あらすじや概要(製作事情)を文中におりこむと、どうしてもそのくらいの文字数になります。外国映画の場合、今書いてるのはフランス映画だから、英語版やフランス語版ウィキペディア(こっちは翻訳ソフトでメモしますが)ほか外国語映画サイトを参照し、また固有名詞や地名・町名もDVD観た時のメモから確認しなければなりません。名前の読み方がわからない俳優の名前(日本での慣用表記)調べもしなければならない、と下調べだけでも面倒で、せっかく感想文を書くからには自分にとっても読んでくださる方にもそれなりに意義のある内容にしたい。この映画日記で取り上げているのはほとんど50年以上前~100年前の古典映画ですからかなり研究が進み資料・データには事欠きませんが、どういう切り口で書くかの選択肢が多すぎてかえって絞りこんだ書き方が難しい対象でもあります。そういう意味では前回は大失敗だったので、今回は幸い3本とも日本公開された作品でもあり、なるべく簡潔な書き方を心がけるようにしました。そう言って上手くいくとは限りませんが、映画自体は今観ても十分楽しめて観るだけの価値のあるものであり、この感想文をお読みくださった方がご覧になりたいような書き方を心がけるように尽くしたいと思います。

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●6月4日(火)
『モンパルナスの夜』La tete d'un homme (Le Film d'Art'33.2.18)*92min, B/W : 日本公開昭和10年('35年)12月12日
◎監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)
◎主演:アリ・ボール、インキジノフ
○借金がかさむフェリエールのもとに、資産家のおばの殺害を請け負うというメモが届く。その後おばは殺され、ウルタンという男が疑われるが、メグレ警視が追うのは別の男だった。G・シムノンの『男の首』が原作。

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 ドストエフスキーの『罪と罰』1866が後世の小説、戯曲、映画に与えた影響は甚大で、ニーチェもボードレールと並んで19世紀最大の文学者であり自分の精神的血族と見なしているほど近代思想にも大きな影響を与えた作家ですが、『罪と罰』の場合端的に犯罪サスペンス・スリラーの現代的形式の原点にもなっているのが『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』と並ぶドストエフスキー後期の大作群でも際立った点です。ほかの大作にも陰謀、犯罪、サスペンス要素は満ち満ちているのですが主要人物の多さ、複数視点から展開されるサブプロットの複雑さがあまりにスケールが大きくてすっきりエンタテインメント作品への応用ができない。その点、主人公のエリート大学生の貧困と傲慢から来る強盗殺人と犯行以後の主人公の内面的分裂、警察に追いつめられていく過程という具合に犯罪者の視点から描かれた犯罪サスペンス・スリラーとして『罪と罰』は焦点がはっきりしており、貧困や知的エリートという優越感が犯罪を正当化し得るのかと社会的・思想的問題もわかりやすく打ち出されている。日本でも明治25年(1892年)には前半の翻訳が刊行され、大正時代には全訳が刊行されるようになったので、江戸川乱歩の初期短編「心理試験」'25(大正14年)は『罪と罰』に材を取った作品です。フランスの作家ジョルジュ・シムノンのメグレ警視シリーズの初期作品『男の首』'30はさらに本格的にフランスの探偵小説版『罪と罰』をやってのけてシリーズ初期代表作になった作品で、表だった事件の裏側から真っ向から法や市民道徳と対立する強固な反社会的思想の犯罪者の存在が浮かび上がってくる。この犯罪者には反社会的思想を裏づけする切羽詰まった事情があるので、単純に断罪できない魅力的な犯罪者像が見事に描きだされているのが大作家シムノンの力量で、やはりシムノンのメグレ警視シリーズの初期作品『深夜の十字路』を映画化したルノワールの『十字路の夜』が破格の内容にもかかわらず原作小説には忠実な映画化だったのに対し、デュヴィヴィエの本作はメグレ警視と犯罪者の主人公の名前・人物像以外は原作小説とはまったく異なるオリジナル・シナリオの映画化です。脚本自体もデュヴィヴィエが脚本家と共作したものですから原作者のシムノン了解下の改作でしょうし、デュヴィヴィエの映画はたいがいデュヴィヴィエ自身と共作者の脚本家のオリジナル・シナリオ(デュヴィヴィエ単独の場合もあり)ですから脚本家を兼ねる映画監督としても自作シナリオを書かないフォデーやカルネより作家性は強かったのを見直したいものです。本作も原作の死刑囚脱獄に始まる真犯人の浮上、というプロットを遺産相続に関わる委託殺人に置き換えており、さらに囮となる共犯者の用意と真犯人の手口も手のこんだものでサスペンス要素が高い上にきちんと整理された展開なので観客の気を逸らさない巧妙なもので、観客を五里霧中に置くルノワールの『十字路の夜』とは対照的によくできていて登場人物の人物像や簡潔も鮮明に描かれている。さすがのちオリジナル・シナリオの『舞踏会の手帖』'37で一筆描きで1ダース以上もの主要人物の人生を鮮やかに描く力量の脚本家・監督だけあって、戦後の野心作『巴里の空の下セーヌは流れる』'51がいくら何でもそれは無理という憎めない失敗作になったのも才人才に溺れるだけの才気があったからで、本作は小品ですが'30年代デュヴィヴィエ作品でもジャン・ギャバン出演作のような臭みが出ず渋くまとまった佳作でしょう。日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) ジュリアン・デュヴィヴィエが「にんじん」に先んじて監督した映画で、ジョルジュ・シムノン作の犯罪小説『男の頭』により、デュヴィヴィエ自らルイ・ドゥラプレ及びピエール・カルマンと協力して脚色し、「にんじん」「商船テナシチー」のアルマン・ティラールがエミール・ピエールと共同して撮影したもの。主なる出演俳優は「にんじん」「ゴルダー」のアリ・ボール、「吼えろ!ヴォルガ」「アジアの嵐」のインキジノフ、「沐浴」「居酒屋(1933)」のアレキサンダー・リニョオ、「バラライカ」「テレーズ・ラカン」のジナ・マネス、「居酒屋(1933)」のリーヌ・ノロ、「ゴルダー」のガストン・ジャッケ、「にんじん」のルイ・ゴーチエ、コメディー・フランセーズのエシューラン等で、流行歌手のダミア及びミッシアが特別出演。
○あらすじ(同上) フェリエール(ガストン・ジャッケ)は怠惰な遊民だった。行きつけの酒場にまでも借金が嵩んでいるのだ。借金に苦しんでいる彼は不図、誰か俺の伯母のアンデルソン夫人を殺してくれたら十万フラン出すんだが、と独語した。そして酒場の給仕が拾って渡してくれた紙片に、「十万フランで承知した。夫人の所書と鍵と見取図をBR郵便局留置MV宛送れ」と読んだ時、フェリエールは電撃にあった心地がした、……ヴェルサイユのアンデルソン夫人邸、貧しげな、愚直な顔の男が手にした見取図を頼りに、階段を上って夫人の寝室に忍び込んだ。寝台に突き当たって手にぬるいものが触ったので驚いた男は、思わず壁のスイッチをひねる。寝床は血で汚れ、今転げ落ちた夫人は胸を刺されて死んでいる。仰天した男は血まみれの手で壁にもたれる、その時、奥の扉から、靴にボロ布を巻き付け手に皮手袋をはめた黄色い顔の男が現れる。最初の男はユルタン(アレクサンダー・リニョオ)、第二の男はラデック(インキジノフ)というチェコスロヴァキアの留学生だった。愚かなユルタンは、安全な窃盗をするという口実でラデックに誘われて来たのだ。ラデックは見取図を受け取り、悪いようにはしないから何も言うな、と命じた。ユルタンは容疑者として捕縛された。メエグレ警部(アリ・ボール)はユルタンの背後に狡智なる真犯人が隠れて居る事を察し、実地検証に行った帰途、故意にユルタンを逃がして、敏腕な刑事二名に跡を付けさせた。夜更けて、ユルタンは例のモンパルナスの酒場の外に現れた。急報に接した警部は客を装って酒場に張り込むと、一人残った客がある。病身らしい黄色い顔の青年――ラデックだ。警部は彼が真犯人だと解った。だが証拠が無い。数日後ラデックはフェリエールを訪れた。十万フランの報酬を受け取りに。が肺を病んで余命六ヶ月のラデックは十万フランよりも、フェリエールの情婦エドナ(ジナ・マネス)を望んだ。フェリエールもエドナもそれを拒み得ない立場にある。つけられて居ることを知っているラデックは大胆にも警部と二人の刑事をフェリエール邸に招じ、更にカフェへ皆で豪遊に出かける。ラデックはフェリエールの嫉妬をしり目に、到頭エドナを連れ出して彼の部屋に引きずり込んだ。その時、警部の鋭い追求に嫉妬と悔恨に責められたフェリエールはピストル自殺してしまう。警部等はラデック逮捕にやって来る。衣類を破かれたエドナが跳出すのと入違いに来た一人の刑事をナイフで刺してラデックは往来に走り出た。六ヶ月の命であるが、灰色の生活であるが、彼は命が惜しくなったのだ。ひた走りに走った。が息切れのした彼は遂に乗合自動車の下敷きとなった。そして、駆け付けた警部に犯罪の告白をし、ユルタンの無罪を証言してラデックは死んだ。
 ――先に書いた通りこの映画は、犯罪者ラディックの名前とキャラクターだけを原作小説『男の首』から使ったまったくのオリジナル・シナリオで、デュヴィヴィエにもともと委託殺人サスペンス・スリラーの構想があったのか、『男の首』を読んでもっと色気とサスペンス色の強いプロットにできないかと改作したのか、そこらへんの継ぎ目がないほど上手くできています。ルノワールが大胆なのはデュヴィヴィエのような計算なしに原作をそのまま使って破綻も構わない野放図な映画にしてしまう直観頼りの映画監督だからですが、デュヴィヴィエは緩急心得た構成と演出で、ギャバン出演作を連続して作るようになると臭みに近いはったりの効いた作風が今観るとちょっと古くさく見えますが、本作や『にんじん』『商船テナシチー』あたりは抑制から激情まで細やかに描いて無理がない。メグレ警視役のアリ・ボールも好演ですが遺産相続のために伯母殺しを委託する遊び人フェリエール役のガストン・ジャッケ、その情婦エドナ役のジナ・マネス、真犯人の身代わりの囮のため共犯者に雇われる愚昧なウルタン役のアレクサンダー・リニョオも好演で、良い意味アメリカ映画的簡潔さでくどくなく人物像がきっちり描いている。また真犯人の犯罪者ラディック役が強烈で、インキジノフって確か、と思ったらつい先日観直したプドフキンの『アジアの嵐』'29のジンギスカンの末裔役の主人公をやっていたモンゴル人俳優で、この頃にはフランスに渡っていたのかと昔本作、『アジアの嵐』を観た時には気づかなかっただけに改めて発見した気分でした。『アジアの嵐』も本作もインキジノフ(1895-1973)の主演によって成功している映画だけに、容貌が容貌ですから東洋人や東欧人役の助演が主なキャリアですが、'71年の引退作まで『カトマンズの男』'65にも出ている、とインキジノフのファンという渋い好みの人もいるのではないでしょうか。また短躯と黒髪、ぎょろりとした目つきの凶暴な童顔とペーター・ローレと共通する雰囲気があるのもラングの『M』'31のローレに重ねてデュヴィヴィエがインキジノフをキャスティングした狙いかもしれません。大都市の暗黒面を描いた映画として犯罪者の追究が社会的スケールで迫ってくる大傑作『M』に比べると本作はいかにも小粒にまとまった犯罪サスペンス・スリラーですし、ルノワールの『十字路の夜』のように現実と悪夢の境目に放り出される眩暈感に満ちた底知れない映画でもありませんが、別に映画はラングやルノワールのようでなければならないわけはないので、本作は本作で満足のいく高い完成度の犯罪サスペンス・スリラーです。デュヴィヴィエ作品でも臭みのある『白き処女地』'34や『我等の仲間』'36、『望郷』'37よりすっきりと楽しめる作品ではないでしょうか。

●6月5日(水)
『新学期・操行ゼロ』Zero de conduite: Jeunes diables au college (Production Jean Vigo=Gaumont'33.4.7/'45.11)*44min, B/W : 日本公開昭和56年('76年)8月14日
◎監督:ジャン・ヴィゴ(1905-1934)
◎主演:ルイ・ルフェーブル、ジルベール・プリュション
○寄宿学校のコサ、ブリュエル、コランの三人組は、いつも教師や校則に反抗し「操行ゼロ」という日曜外出禁止の罰則を与えられていた。新学期が始まって、新任の舎監ユゲと転入生のタバールが加わり……。

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 本作は全世界の映画史的に画期的な重要作と戦後に評価が定まったもので、監督のジャン・ヴィゴ自身が29歳でドキュメンタリー短編2本、劇映画はこの中編『新学期・操行ゼロ』と長編『アタラント号』'34を残したのみのインディー映画監督で、しかも本作は'33年の初公開時には2回上映されただけで反社会的内容を理由に上映禁止作品に指定され、遺作『アタラント号』もヴィゴに無断で2/3程度に短縮編集され『船は川を行く』と勝手に改題されて公開されたままで、どちらも戦後ようやくオリジナル版通りに公開されるや欧米諸国の批評家から瞠目され戦後映画を先取りした映画史ベストテン級の名作と目されて、フランスでは新人映画監督に与えられる「ジャン・ヴィゴ賞」まで制定された('51年~)ほどで、長編映画という点では『アタラント号』に分がありますがヴィゴの劇映画第1作の中編の本作は西洋映画史上初の「子どもの世界を子どもの視点から描いた映画」というのが驚嘆されました。すぐに欧米の批評家は小津安二郎の『生まれてはみたけれど』'32を発見して『新学期・操行ゼロ』とほぼ同時期に日本映画にもあるじゃないか、と大騒ぎするのですが、日本には樋口一葉の「たけくらべ」1895という森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨が腰を抜かして一葉の文名を一躍高らしめた「子どもの世界を子どもの視点から描いた」短編小説の大傑作があったので『生まれてはみたけれど』は上映禁止どころかキネマ旬報ベストテン1位の大好評だった名作でした。西欧での児童の概念の確立がいかに遅かったかは19世紀後半まで児童は単に成長途中の人間としか見られず、児童服も大人の服をそのまま縮小したものであり、大人と児童の精神的・肉体的条件の差は単に強弱・大小としか考えられていなかったということがあり、発達心理学や児童教育学、児童心理学などの確立が遅かったために義務教育の確立も遅かったことがあります。西洋圏以外の世界でも事情は大差なかったとも言えますがかえって因習的な文化圏では独自に成人の儀式の年齢までを児童として分ける、という考え方があったため過度な児童の強制労働は忌避されたので、西洋圏で児童の概念の過渡期は19世紀前半の児童強制労働の世界を描いたディケンズの小説あたりが格好の例でしょう。そろそろ児童の概念が社会的に認知されつつあった、にもかかわらず児童強制労働は続いていたのがディケンズの少年主人公の小説の時代的背景です。さて幼稚園や小学校、中学・高校もできた(特殊な知的エリートを養成するための大学は近世にはありましたが、その中間がなかった)、しかし教育者の考えはまだ19世紀前半までと大差なかったというのを児童たちの大人への反抗という寄宿制中学校(年齢的には日本の小学校高学年相当)のドラマで子どもたちの視点から描いたのが本作で、後世に本作を観る観客にはこれが反社会的内容の映画として上映禁止指定を受けて15年近くもの間封印されたこと自体が驚かれるような、児童映画の体裁を取って大人の観客を唸らせるような(子どもの観客には子どもの視点で現代からはかけ離れた窮屈な世界が描かれているため、あまり面白くないんじゃないかと思えますが)映画で、これを上映禁止にした戦前のフランスの法令基準の方が信じられない気がしてきます。逆に『新学期・操行ゼロ』を上映禁止にするほど児童教育の抑圧は当然とされていたとも取れるので、ここでは少年たちは学校での姿しか描かれませんが(わずかに新学期開始時の汽車中の姿、帰宅時の姿が描かれますが家族は出てきません)、本作の少年たちが家庭にいればトリュフォーの『大人は判ってくれない』'59のような環境だろうとまっすぐにつながるので、トリュフォーは1932年生まれですから同作は1944年の12歳頃のトリュフォー自身を描いた自伝的作品ですが、『新学期・操行ゼロ』上映禁止から10年あまり経ってもフランスの児童は同じような抑圧を学校でも家庭でも受けていたということです。都合良くトリュフォーが出てきましたがヌーヴェル・ヴァーグの映画監督たちはそのままジャン・ヴィゴやルノワールの映画を引き継いで登場してきたと言ってよく、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが先駆者として敬愛したのも戦後のヴィゴの復権をいち早くアピールしたジャン・コクトー、当時コクトーと協同関係だったロベール・ブレッソン、ジャン=ピエール・メルヴィルらフランス映画の主流とは外れた映画人でした。本作はやはり長らく日本未公開だったメルヴィルの『恐るべき子供たち』'50(コクトー原作)と2本立てで日本初公開されました。キネマ旬報の紹介を引きましょう。
○解説(キネマ旬報新作外国映画紹介より) 寄宿舎生活をおくるいたずら盛りの中学生たちの自由奔放な日常を、硬直した大人と対比させて描くジャン・ヴィゴの代表作で、一九三三年に完成したが教育制度に対する批判を理由に上映禁止処分され、第二次大戦後の一九四五年にやっと公開された。監督・脚本・台詞・編集はジャン・ヴィゴ、撮影はボリス・カウフマン、音楽はモーリス・ジョーベールが各々担当。出演はルイ・ルフェーヴル、ジルベール・プリュション、ココ・ゴルステン、ジェラール・ド・ベダリュー、ジャン・ダステ、ロベール・ル・フロン、デルファンなど。2018年12月29日より4Kレストア版が公開(配給:アイ・ヴィー・シー)。
○あらすじ(同上) 夏休みが終ると、新学期。寄宿学校の子供たちは休みの間に覚えた新しいいたずらを級友たちに披露するのを楽しみに学園に帰ってくる。もちろんまた、勉強と規則づくめの生活に戻る不安感とそれなりの覚悟をそなえて――。登校の日、列車の中でコサ(ルイ・ルフェーヴル)とブリュエル(ココ・ゴルステン)は一緒になった。もう一人、変な男が同席したがこれは新任のユゲ先生(ジャン・ダステ)だった。駅につくと、さっそく生徒監の号令が待っていた。転入したばかりのタバール(ジェラール・ド・ベダリュー)は、その号令だけで気分が悪くなって、つきそってきた母親にそのままつきそわれて、翌日の夜から寄宿舎に入るという。コサとブリュエルはこれくらいは慣れっこだ。もう一人、大将のコラン(ジルベール・プリュション)がおり、三人揃えば鬼に金棒だ。しかし、その三人にとっても、他の生徒たちにとっても何より恐いのは、いつ宣告されるかわからない「操行ゼロ!日曜外出禁止」の宣告だ。寄宿舎生活では、ふだんから自由のかけらもないのに、週に一度しかない日曜日に、おしおきされて外出禁止なんかされたら、それは死の宣告と同じではないか。三人組の秘密は、いつの日か大人たちを徹底的にビックリさせてやることだが、男だか女だかわからないタバールを仲間にいれるかどうか問題だった。しかしそのタバールが火ぶたを切った。化学の先生に向って、さらに厳格先生(ロベール・ル・フロン)、校長先生(デルファン)にも面と向かって"糞ったれ!"と、大胆にもいいきったのがキッカケだった。羽毛が舞い、小さな革命宣言が読み上げられ、先生があわてふためき、学園の生徒全員が異常な夜の祭りに喜び勇んで参加する。翌日、タバールを加えた四人組みは、他の生徒が眠りこける間に、そっと起き上がる。町のお偉方が集まる、今日は年に一度の学園祭なのだ。校長先生たちも着飾って緊張しているそのとき、空カンや古靴が雨あられのように屋根裏を占拠した四人組の手で、大人たちの頭上に浴びせられる。"規則くたばれ! 操行ゼロ、くたばれ!自由、万才!"の喚声と歌声と共に……。
 ――本作は「日曜日、帰宅」というシークエンスで、部屋で目隠ししたコランの隣で踏み台に登った幼女が高い所から金魚鉢を取って下りるとコランの目隠しを取って金魚鉢を見せる、というごく短い(幼女がコランの妹なのか近所の友達なのかもはっきりしない)エピソードがあります。のちヴィゴの遺稿で、これは本来女の子のスカートの中をコランが覗こうとするので目隠しする、という前半を検閲を考慮して事前にカットしたものと判明しました。『アタラント号』にもおそらく同様のカットがあり、後半1/4の新妻ディタ・パルロの無断外出に怒って夫のジャン・ダステが川の輸送船を出航させてしまってから夫婦再会・和解までの時間経過や出来事がはっきりしないのがそうで、ヴィゴの遺稿ではパルロは街娼に身を落とすとはっきり書いてある。実際の映画ではそこまではっきりした描写はないのでこれも検閲を考慮した事前のカットでしょうが、『新学期・操行ゼロ』でも『アタラント号』でもこうした欠落がかえって夢のような効果を上げているのは映画の僥倖で、コンテやシナリオ、演出も多くは即興で編集段階で欠落リールすらあっても1本の映画にしてしまうと魔法が生じるルノワールの映画と同じようなことが起こっています。唯一少年たちと心を通わせる大人のジャン・ダステはクレールやルノワール作品では端役出演があるだけですがヴィゴの2作の劇映画ではヴィゴ自身の分身のような素晴らしい存在感を見せる。本作で逆立ちするダステ、チャップリン歩きをするダステ、少年たちの球戯に混じってフットボールの真似を決めるダステはシナリオや演出が存在していないかのように気まぐれで自然で、少年たちが演じる中学生(といっても11、2歳でしょう)も演技を感じさせない、強いて言えば遊戯のように演じている。羽毛が舞ってスローモーションで少年たちが行進するシーンはアーサー・ペンの『左きゝの拳銃』'58にそのまま同じ手法が引用されてアメリカ映画の流行手法になった名高い場面です。ヴィゴ自身はチャップリンの『黄金狂時代』'25の羽毛のシーンが念頭にあったでしょう。またヴィゴの劇映画2作の音楽を担当したモーリス・ジョーベールをのちのトリュフォーが重用して迎えたのはいうまでもありません。クライマックスの式典で教員たちの後ろに「町のお偉方」として不格好なマネキン人形が並んでいる完全にリアリズム映画を逸脱したギャグ。校長先生役の小人役者デルファンは、これも今回連続して観て初めて気づいたのですが、ジャック・フェデーの『女だけの都』のスペイン軍の小人従者役と同一人物で、当時のフランスの名物小人コメディアンだそうです。学生時代から30年あまり20回以上ジャン・ヴィゴの短編2作・劇映画2作を観ていると思いますが、『女だけの都』と連続して観たのは今回が初めてだったのでちっとも気がつきませんでした。しつこく映画を観直してようやく気づくこともあるものです。

●6月6日(木)
『女だけの都』La Kermesse heroique (Tobis'35.12.30)*109min, B/W : 日本公開昭和12年('37年)3月11日 : フランス・シネマ大賞、ヴェネツィア国際映画祭監督賞、ニューヨーク批評家協会外国映画賞、キネマ旬報ベストテン1位
◎監督:ジャック・フェデー(1885-1948)
◎主演:フランソワーズ・ロゼー、ジャン・ミュラー
○フランドル地方のボーム市。祭りの準備で町中が賑わう最中、スペインの従者が現れ、公爵たちのボーム来訪を知らせる。スペイン軍を恐れて役に立たない男たちにかわり、市長の妻は女たちだけでもてなそうとする。

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 本作は2016年12月にも観て、その時の感想文はこんな具合でした。まだ「ですます」調の文体は使っていない頃で、感想文も短く、以下に「」でくくったのがその全文です。
「最高!『アタラント号』ほど繰り返し観てはおらずほぼ20年ぶりに観たが、ルノワールの最高作に匹敵する。フェデーは『外人部隊』に感動しつつも辟易していた面もあり、つい先日観たサイレント期の『グリビシュ』『成金紳士たち』も抜群の面白さがどこか胡散臭かったが、本作は辟易も胡散臭さも全部プラスに働いた奇跡の一作。スペイン軍の一時駐屯を宣告された田舎町が、町長は急死して男はほとんど留守ということにして町長夫人が町中の主婦を指揮してスペイン軍が去るまで平和接待にいそしむ、とアリストパネスとモリエールを足して割ったような艶笑喜劇で、本当に17世紀のフランドルを撮影してきたかのような迫真の嘘くささがたまらない。時代劇だからオーヴァーな演技も当時の礼儀作法というリアリティがあって、狐と狸の化かしあいのような話だが人間の知性と理性への信頼が根底にあるから嫌な感じはしない。ルノワールの場合はエロスとセンシビリティへの信頼だから化かす話を描くと混沌としてきてしまうから、この題材はフェデーだからこそ大成功した。やりすぎなくらいふざけた映画だが、それもすべてがお見事。」
 何か20年ぶりに観直して妙に感心したみたいですが、今回観直してフェデー監督&シャルル・スパーク脚本の『外人部隊』『ミモザ館』に続くフランス帰国三部作(サイレント末期からフェデーはハリウッドに移り、スパーク脚本の三部作を作って再びイギリスに渡りました)の中では前2作のような現代ものの悲劇ではなく時代ものの喜劇ですが、前回観た時から2年半の間に900本近い映画を観直しているわけです。その間にフリッツ・ラングの全作品、ヒッチコックの全作品、ベルイマンの全作品やアントニオーニの全作品やロン・チェイニーの現存する全出演作、ラオール・ウォルシュやハワード・ホークス、ウィリアム・ウェルマンなども取りこぼしていた映画は極力埋めて観てきて、『フランス映画パーフェクトコレクション』も既刊中6セット60作あまり観て、中には初めて観る名作、ようやく真価に気づいた傑作もずいぶんありました。ルノワールの最高作に匹敵するというのはまず撤回します。ルノワールのあまり調子の出ていない作品ですらフェデー&スパークの三部作よりずっと観ごたえがあると今では思えるので、フェデーの最良の作品はサイレント時代ではないかと見るのが妥当なような気がします。中学生の頃テレビの深夜放映で『外人部隊』『ミモザ館』を観て感動したのはごく通俗的な泣かせのツボを突く映画だったからで、戦後フランス映画の「心理的リアリズム」の潮流をトリュフォーが批判した際にフェデー&スパークの三部作が生んだ「詩的リアリズム」の派生物としており、トリュフォーは'52年初頭発表のその批評文で「フェデーが完全に忘れ去られる前に、フェデー論争が必要だろう」と19歳の時の批評文ですし若かった頃のトリュフォーの批評は知ったかぶりも多いのでうのみは危ないのですが、昨年観直した『外人部隊』『ミモザ館』も今回観直した『女だけの都』も辻褄合わせに映画の焦点を置きすぎる。いかにも伏線を張ってきれいに回収しましたの次元で映画に磨きをかけているようで、鑑賞の感興も結局そこにとどまってしまう味気なさを感じます。たぶんフェデー作品はすっかり忘れた頃に観るのがいいかもともと2度観るようには出来ていないので、サイレント時代の作品は音がついていない分だけ観直す面白さがあってもサウンド・トーキー作品はあまりに全部に説明がつきすぎる。一応本作も日本初公開時のキネマ旬報の紹介を見ておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「ミモザ館」に次ぐジャック・フェーデ監督作品で、彼の前二作及び「みどりの園」「地の果てを行く」の脚色者シャルル・スパークが書卸し、「第二情報部」「リリオム」のベルナール・ジンメルが台詞を書いた。撮影は「外人部隊(1933)」のハリー・ストラドリング、音楽は新人ルイ・ベーツが当たった。出演者は「ミモザ館」のフランソワーズ・ロゼー及びアレルム、「装へる夜」のジャン・ミュラー、フランス劇壇の大立者たるルイ・ジューヴェを始め、「外人部隊(1933)」のリーヌ・クレヴェルス、新人ベルナール・ランクレ、新人女優ミシュリーヌ・シェイレル、「最後の戦闘機」のピエール・ラブリ、「最後の億万長者」のマルセル・カルパンチェ、「プレジャンの舟唄」のジネット・ゴーベールという顔ぶれである。
○あらすじ(同上) 一六一六年の或る日、フランドルの一小市ボームは、明日に控えた祭りの準備で町を挙げての騒ぎであった。この騒ぎをよそに青年画家ジュリアン(ベルナール・ランクレ)は、着飾った市長(アンドレ・アレルム)や助役達の姿を描いている。ジュリアンは市長の娘シスカ(ミシュリーヌ・シェイレル)を愛していた。シスカも彼を好いていたが、市長は首席助役をしている肉屋(アルフレ・アダン)に娘をやろうと思っている。そうすれば彼に自分の家畜をうんと買って貰えるからだ。しかし市長夫人コルネリア(フランソワーズ・ロゼー)は若い二人の後ろ楯となって力を添えていた。この時、三人の騎士が人々を蹄に蹴散らして市役所へ駈けつけた。投げ出した封書に依れば、スペイン特使ドリヴァレス公(ジャン・ミュラー)が扈従の軍隊を率いてボームに一夜を過ごすと云うのである。かつてフランドルはスペイン軍の残虐に、殺戮、掠奪の惨禍を蒙った事がある。戦き騒ぐ助役達に向かい市長は天来の妙計を述べた。即ち市長は急死を装い、凡ての男子を喪に服さしめて一歩も戸外に出さず、以てスペイン軍を事なく通過させ様と云うのである。男の意気地なさに憤慨した婦人達は、市長夫人を先頭に特使一行の到着を城門に出迎えた。彼女達は公爵に市長の喪を伝え、軍隊は静粛に一夜を送って立ち去る事になった。全市の女等は夜を徹して軍隊を歓迎した。酒と踊りと唄。死を装った市長と喪に服した男達は、彼等の妻や娘がスペインの軍人と戯れている声を聞いて心穏やかでなかったが、どうにも仕方がない。市長夫人も公爵の接待につとめる中に、空しく去った青春を顧みて不図浮気心を起こすが、その時思い出されたのは娘シスカの身の上である。この一日の実権が自分にあるを幸い、公爵に願って彼女はシスカとジュリアンをスペイン軍附添の牧師(ルイ・ジューヴェ)に結婚させた。公爵附添の侏儒(デルファン)は市長の死が偽りであるのを知り、彼を脅迫して二百金を捲き上げたが、牧師は更に侏儒から百金を取ってしまう。その夜明け妻の態度を誤解した市長は、肉屋と協力して公爵を討たんとするが、失敗した上肉屋は家来の手で殴り倒される。夜が明けて集合の太鼓が鳴り響く。兵士と女達の名残りが家毎の門口で惜しまれている。いよいよ軍隊は群がる女達を分けて出発した。市長夫人は群集に向かい、市が一年間の免税を許された事、之は一に市長の犠牲的精神に依るものと発表する。群集の歓呼の前に市長は挨拶をしている。スペインの軍隊は城門を遠く平野の彼方へ消えて行った。
 ――ルイ・ジューヴェの演じる僧侶はキネマ旬報のあらすじの牧師というより(牧師はプロテスタント用語です)カトリックの神父というよりも従軍司祭と言うべきですが、この従軍司祭の生臭坊主ぶりとデルファン演じる従者の小人が実は本作ではいちばん面白くて、市長が死んだふりをして隠れているのをふとしたことから気づいてしまう。まず小人が金貨を口止め料にゆすりとり、それを司祭が巻き上げるのですが、スペイン軍隊長で特使のドリヴァレス公爵もうすうす町の策略に気づいているけれど事態を平穏に進めたいので女たちの歓待をたっぷり楽しむだけ楽しんで去っていくので、全体的には非常におおらかな喜劇になっている。その点だけでもペシミスティックな(でも雰囲気だけで、スタンバーグの映画のような真の冷徹さには迫っていない)『外人部隊』『ミモザ館』よりずっと良いのですが、フェデー夫人の名優フランソワーズ・ロゼーは本作でも確かに名演ながらロゼー中心のメイン・プロットに興味を集中して観るとたかだか2年半の間を空けて観直してみた場合話が機械的に進みすぎ、前回あれだけ面白かったのがなんだか白々しく見えてくる。そうなると従軍司祭のジューヴェや小人従者のデルファンみたいないてもいなくても本筋にはあまり関係ないいいかげんな人物の出入りに面白みを感じるようになる。これは喜劇作品だからと入れた遊び要素でもあり、結末近くではスペイン特使軍は隊長の公爵をトップに町を挙げての都合の良い歓待の裏事情にだいたい感づいているのですが、スマートに事を収めたいためにまんまと騙されたふりをして去っていくので、辻褄合わせに汲々としている窮屈さはあまり感じなくて済む作品で、それもロゼーと公爵、死んだことになっている市長と主要人物に集中して観るよりも生臭坊主のジューヴェや小人従者デルファンの真面目くさった道化ぶりが映画の風通しを良くしています。この見方は『外人部隊』『ミモザ館』とは異なる性格の映画と思って観る上では正当なはずで、部隊トップが市長の急死と喪に伏す市民というでまかせに気づく前段階という伏線にとどまらず、従軍司祭や小人従者も口止め料で簡単に事なかれ主義に転じる礼儀正しくも厄介事は避けたいまるで攻撃的でも侵略的でもないスペイン軍だった、という取り越し苦労の話で、風刺とか抵抗とかそういう説教抜きに生臭くも後味の良い喜劇として上出来で、演劇の原則ではバッドエンドは悲劇、ハッピーエンドは喜劇ですが、本作の場合は喜劇にして茶番劇であることがスパーク脚本の三部作中唯一、辻褄合わせに終わらない余裕を感じさせる作品になっている。しかしサイレント時代のフランスでの最終作『成金紳士たち』に続いて『外人部隊』『ミモザ館』『女だけの都』はマルセル・カルネがトップ助監督を勤めたと思うと、カルネはフェデーの見かけの巧みさと窮屈な密度から出発したように思え、ルノワールの助監督を10年続けたジャック・ベッケルの伸びやかさと思いあわせるとやはりフェデーの映画はあまりに自己完結的でありすぎたようにも思えます。
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