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映画日記2019年4月13日~15日/一気観!『映画クレヨンしんちゃん』シリーズ!(5)

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 前2作の水島努監督時代を経てしんちゃん映画は、2004年からテレビ版シリーズのメイン監督を2代目メイン監督の原恵一から継いでいた3代目のテレビ版メイン監督、ムトウユージ監督による3作が続きます。シリーズ通算第13作『ブリブリ3分ポッキリ大進撃』2005は興行収入13億円、第14作『踊れ!アミーゴ!』は興行収入14億円、そして第15作『嵐を呼ぶ歌うケツだけ爆弾!』は、第1作(22億円)・第2作(20億円)のビッグ・ヒット以来9億円(第7作『温泉わくわく大決戦』)~15億円(第9作『オトナ帝国~』)の間で推移していたしんちゃん映画でも、当時シリーズ歴代3位になる興行収入15億5,000万円の大ヒット作になりました。これまで興行収入の上で低迷していたのはテレビ版の話題作が落ち着きを見せたシリーズ第3作~第7作の間で、第8作『嵐を呼ぶジャングル』以降からは上昇して興行収入も安定していたので、原恵一監督時代の最後の2作『オトナ帝国~』『戦国大合戦』の大胆な実験が評価・興行収入ともにしんちゃん映画への注目度を大きく挽回してからは水島努監督の2作、ムトウユージ監督の3作とも高い前評判を持って迎えられ、観客の期待に応えるだけの作品になった時期とも言えます。ムトウ監督作品は『3分ポッキリ~』が快作、『ケツだけ爆弾』が会心の出来で中間の『踊れ!アミーゴ!』は水準作にとどまると思えますがムトウ作品3作はいずれも原監督の『戦国大合戦』や水島監督の『~ヤキニクロード』以上のヒット作になっており、明快なエンタテインメント性では歴代監督中でもすっきりしたジェットコースター・アクションコメディ作品に徹しているのが3作いずれも肩肘張らない楽しさが好ましく、また特撮マニアというムトウ監督の嗜好がうまく反映して(怪獣映画を意識した原監督の『温泉わくわく~』は意欲的失敗作でしたが)歴代監督の長所をムトウ監督流に上手く特撮ガジェット趣向でエンタテインメントにまとめたものになっている。また本郷・原・水島監督のように自作脚本にこだわらないのも良い結果になっています。またムトウ監督は2004年以降現在までテレビ版シリーズを手がけている最長期テレビ版メイン監督なので、劇場版長編はムトウ監督3作以降2作単位・各作単位で持ち回り制になりますが、シンエイ動画スタッフの人材の厚さも感じられます。またムトウ監督作3作のエンタテインメント路線が以降のしんちゃん映画の主流になったとも言えそうです。なお各作品内容の紹介文はDVDボックスの作品紹介を引用させていただきました。

●4月13日(土)
『映画クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ3分ポッキリ大進撃』(監督=ムトウユージ、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2005.4.16)*92min, Color Animation
◎時空調整員"ミライマン"から「3分後の未来に行ってその怪獣を倒さないと現実に怪獣が現れる!」と知らされ、地球防衛という大役を任されたしんのすけたち。ミライマンの力で変身できるようになるが、倒しても倒しても現れるうえに、どんどん強くなっていく怪獣たちに野原一家は疲弊していく……。

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 テレビ版「クレヨンしんちゃん」の初代メイン監督は本郷みつる(1992年4月~1996年9月)、2代目メイン監督は原恵一(1996年10月~2004年6月)で、3代目のムトウユージ監督は2004年7月以来現在でもテレビ版メイン監督を勤めており、テレビ版シリーズの最長メイン監督になっています。劇場版3代目の監督となった水島努監督の2作は原恵一がテレビ版メイン監督の最後の2年に製作・公開されており、テレビ版のメイン監督の引き継ぎも検討されたでしょうが水島監督の方でテレビ版のメイン監督は不向きと辞退し、劇場版2作のあとはシンエイ動画を辞めてフリーになる意向があったようです。ムトウ監督のアニメ「クレヨンしんちゃん」への参加は立ち上げ時からの本郷・原監督、劇場版第2作からの水島監督よりずっと遅く'98年からですが、水島監督より3歳年長でアニメーターのキャリアも長く、本郷・原・水島監督ともしんちゃん映画が劇場版長編アニメーション映画の第1作になったのに対して『ぼのぼの』'93他すでに劇場版長編を手がけていたヴェテランでした。「シティハンター」や「うちのタマ知りませんか?」など手がけてきた作品の幅も広く、本作はきむらひでふみとムトウユージのオリジナル共同脚本ですが、DVDボックス解説書では本作についてムトウ監督は「しんのすけが怪獣と戦うのって面白いよね、というのが基本。ストーリーはシンプルというか、『話がなくたっていいや』という気持ちでした。この作品で新しい5歳児のお客さんを開拓したかったですね」とコメントを寄せており、一見安直に見えながら理想的なかたちで実現するのは非常に困難な課題をしっかり面白い作品に仕上げているのがムトウ監督の腕前と抱負を感じさせます。本作は演出クレジットがないのでムトウ監督自身がアニメでは助監督に当たる演出も兼ねていると思われ、その代わり自作脚本・絵コンテで通していた歴代の本郷・原・水島監督作品と違い監督自身以外に榎本明広、増井壮一、きむらひでふみ、原恵一が絵コンテを分担しています。増井氏はのち第19作・20作の監督になり、また原恵一氏がしんちゃん映画に関わるのは本作が最後になります。水島監督('65年生まれ)より年長で、本郷・原監督(59年生まれ)より若いムトウ監督('62年生まれ)はさすが前年2004年からテレビ版しんちゃんの3代目メイン監督に就き、現在まで16年に渡ってメイン監督を続けているように本郷=原監督時代、原=水島監督時代のテレビ版しんちゃん、劇場版しんちゃん映画を知り尽くしていて、テレビ版で話題になった番外編的恐怖シリーズ「ネネちゃんと殴られウサギ」もメイン監督がムトウ監督に代わってからの異色作でした。ブラックな味は本郷監督や水島監督にもありましたがムトウ監督はさらに突き放したセンスが鋭く、映画全体は盛りだくさんに歴代監督の長所を折衷したような印象なのに展開がスピーディーで観客の集中力を逸らさない明快さがあり、見応えもあってすっきりもしている具合に余裕の力量を感じます。しんちゃん映画の名作というとムトウ監督の3作はつい忘れられがちですがそれもプログラム・ピクチャー的な作品性によると思われますし、逆にムトウ監督の3作ほど吹っ切れた作品は本郷・原・水島の歴代監督にはなかったとも言えるので、まとめてシリーズ作品を観直すとムトウ監督の3作が実は監督ごとの作家性の強かったそれまでのしんちゃん映画を、その後のシリーズの臨機応変に自由な展開に方向転換させる働きがあったのがわかる。水島監督による第12作『夕陽のカスカベボーイズ』に続けて本作を観ると、しんちゃん映画にあるポップ・アート性にもこれだけの振り幅が作れるのかと舌を巻きます。
 ある夜、しんのすけ(矢島晶子)は春日部に謎の巨大怪獣が現れ、野原家を跡形もなく壊していく夢を、ソフビ怪獣・シリマルダシを抱きながら見ます。今度はアクション仮面のソフビ人形に持ち替えて寝直したしんのすけはアクション仮面(玄田哲章)と力を合わせて怪人軍団を倒してミミ子(小桜エツ子)を助け出し、アクション仮面から正義の心得を教わる夢を見ます。朝、いつも通りに野原一家の朝食は騒がしく、しんのすけは幼稚園のお迎えのバスに乗り遅れてしまい、みさえ(ならはしみき)は慌てて自転車でしんのすけを幼稚園に送ります。帰宅したみさえは朝食にカップラーメンを用意しますが、疲れてそのままうたた寝をしてしまいます。そこに、掛け軸の裏から光を放ちながら宙を舞う物体が現れます。発光体はカップ麺の匂いにつられ、そばに転がっていた怪獣シリマルダシ人形に憑りついてカップ麺をすすります。起き出したみさえは仰天し、怪獣人形に憑りついた物体は仕方なくみさえに、未来からやって来た時空調整員・ミライマン(村井国夫)と自己紹介します。本来は野原家に来る予定ではなく、空腹に負けてカップ麺の匂いに誘われ来てしまったとミライマンは後悔します。帰宅したしんのすけ、ひろし(藤原啓治)ともども野原一家はミライマンに掛け軸の裏を通じて3分後の世界へ連れて行かれます。そこは東京タワー近くのビルの屋上に通じており、東京タワー上空には繭のようなものが浮かび、怪獣が街を襲っています。ミライマンは時空の乱れが原因で怪獣が次々に出現しており、3分後の未来へ行って怪獣を倒さないと危機が現実になってしまうと告げ、一家に協力を依頼します。一家は怪獣退治のために、ミライマンが宿っているシリマルダシの人形を媒介にミライマンの力と正義の心で自由自在に変身する能力を得て怪獣に立ち向かっていきます。しかしやがて、自分たちが世界を守っているのだと有頂天になったひろしとみさえは怪獣退治に没頭して生活習慣は怠惰になり、しんのすけが両親に代わってひまわり(こおろぎさとみ)の面倒をみる羽目になります。そんなある日の朝、いつものようにしんのすけを迎えにやってきた幼稚園の先生たちは野原家の様子がおかしい事に気づき、ひまわりを背負って登園して来たしんのすけから事情を訊きだそうとします。その時、春日部のデパートが一部崩壊し、風間くん(真柴摩利)のママが巻き込まれて負傷した知らせが入ってきます。同時に東京タワー上空には暗雲が立ちこめ、3分後の世界にいるはずの怪獣の繭が現れます。もしやと思い家に急いで帰ったしんのすけは傷ついたひろしとみさえの姿を見て、3分以内では倒せないほどの強力な怪獣が現れ、その戦いのせいで現在の世界に被害が出てしまったと知ります。直後にさらに強力な怪獣が出現、もう勝てないと諦めるひろしとみさえに、しんのすけが「ひま(ひまわり)が女子大生になったら素敵なおにいさまって友だちに紹介してもらう」ために立ち上がります。
 ――ストーリーを追えばシンプルに見えますが、本作の見どころは無茶なくらいのスピード感にあるので、野原一家が交代しながら変身して怪獣と戦うシチュエーションが最初は丁寧に、次第に徐々に省略化されて、遂には戦闘シーンの細切れになるほど無数の怪獣と野原一家が交替で戦う(しんのすけ、ひまわり、シロも変身して戦う)のは怪獣特撮もの、ヒーローもののパロディがこれでもかと盛りこまれ、エンディングクレジットは本作に登場する怪獣図鑑になっています。冒頭からしばらくはみさえ視点で進行し、最初に美少女戦士プリティミサエスに変身して登場しひろしとしんのすけ、ひまわりをあ然とさせるのはみさえなので、美少女戦士は声優も福圓美里さんに変えてある凝り方です。変身手段は本人の想像力によるとなっているのでひろしが変身する野原ひろしマンは2段階変身程度ですし、しんのすけは2頭身のウルトラマン風コスチューム姿、ひまわりやシロは巨大化(シロは多少ドーベルマン体型)するだけですが、みさえは変身願望豊かな主婦なので悩殺戦士セクシーミサエックス、人魚姫戦士マーメイドミサエリアスとヴァリエーション豊富なのもギャグなら、繭から発生するエネルギー体の具現化という怪獣たちも特撮マニアの中年男が酒場で冗談で考えたようなどこかの特撮もので登場したのを姿形・ネーミングとも駄洒落でミックスしたような怪獣が連発され、当時一発芸で当てたギター侍(波田陽区)もギター侍の姿形そのまま(声やネタ「切腹!」も本人)巨大怪獣として登場し、またテレビリポーター役で坂井真紀が本人役出演し怪獣登場と野原一家の戦いを報道する、ラスボス戦ではやはり巨大な偽しんのすけマンが登場する、としんちゃん映画ならではの楽しい趣向があります。一方、怪獣退治に夢中になってみさえは家事を、ひろしは休職して仕事や赤ん坊のひまわりの世話まで放り出し、怪獣退治以外はスナック菓子やカップ麺だけ食べて3分後の世界が開く床の間がある部屋でゴロゴロして野原家がゴミ屋敷になっていく過程はギャグでは済まない毒が効いており、よしなが先生(高田由美)や園長先生(納谷六朗)がひまわりを背負って登園してきたしんのすけに事情を訊き、しんのすけがとーちゃんもかーちゃんも怪獣退治ばかりしてるんだゾ、と訴えても「そういうゲームにはまってるの?」としか理解してもらえない。ミライマンと脳波で会話し変身できるのは「到着時に座標を固定してしまった」野原一家だけで、しかも一旦固定してしまった以上ミライマンはこの時空座標に出現する怪獣の繭を倒し切らないと別の時空座標に移れず、怪獣の繭を倒し切らなければそのまま世界は滅亡することになっています。作中で経過する日数はほぼ2週間程度だと思われますが、日常のホームコメディと荒唐無稽でガジェット的なSF風設定を両立させてアクションとギャグを満載できる要素がたっぷりあり、しかも冒頭以降野原一家がほぼ家の中だけで過ごしているだけで進行するドラマはしんちゃん映画でも先にも後にもない設定で、一見ありふれた特撮怪獣もの・ヒーローもののパロディから始まったような発想でありながら脚本・演出手腕で実はとんでもない実験的手法がさり気なく長編アニメのコメディ映画のエンタテインメント作品にすっきりまとまっている。歴代監督のシリーズ作品の蓄積から良い所だけを巧みに抽出したような作品に見えて実際は本作は相当高いハードルを据えて軽々と飛び越えてしまった会心作であり、ムトウ監督の力量を示してあまりある作品です。

●4月14日(日)
『映画クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ踊れ!アミーゴ!』(監督=ムトウユージ、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2006.4.15)*92min, Color Animation
◎"そっくり人間"が現れるという噂が広がっていたある日、迷子になったしんのすけに、いつになく優しいみさえが近づいてくる。果たしてそっくり人間の謎と陰謀とは一体!?"ホンモノの家族"と春日部を守るため、おケツに渾身の力を込めるしんのすけ。今、情熱のダンス・バトルが始まる!

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 ムトウユージ監督については前作の感想文で長々触れたので、本作は家業のためアニメ界を退いていた元シンエイ動画スタッフ、もとひら了氏がしんちゃん映画第1作『アクション仮面VSハイグレ魔王』'93以来13年ぶりにしんちゃん映画のオリジナル脚本を担当した作品なのを特記しておきます。ただし作品内容はムトウ監督の意をくんで舞台は春日部市内のみ、よって劇場版では異例なほどテレビ版のレギュラー人物たちが重要な役で出演場面も多く、本作が下敷きにしているのは日本公開ではドン・シーゲル監督作『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』'56、フィリップ・カウフマン監督作『SFボディ・スナッチャー』'78を含め4度映画化されたアメリカのSF小説の古典、ジャック・フィニーの『盗まれた街』で、怪現象を追う国際秘密組織SRIの捜査官のヒロイン(渡辺明乃)も小説の作者の名前をもじってジャッキーというコードネームです。本作は野原一家が住む春日部市で人々が次々と姿形は同じなのに偽者に入れ代わっている都市伝説が広がり、そこに行くとそっくり人間がいるという新しく出来た大型スーパーに行った一家は自分たちの偽者を目撃します。偽者のみさえに連れ去られそうになったしんのすけは「ツンデレ」とプリントしたジャージ姿の女性・ジャッキーに救われます。翌日、ふたば幼稚園の職員・園児たちがまつざか先生(富沢美智恵)としんのすけ(矢島晶子)たちかすかべ防衛隊の5人以外偽者に入れ代わっているのが判明してまつざか先生が体を張ってしんのすけたちを逃がすまでがまつざか先生の視点から描かれます。一方大人側ではひろし(藤原啓治)が部下の川口(中村大樹)が偽者に入れ代わっているのに気づき(偽人間は痛覚がなく、ひろしがうっかり弾き飛ばした定規が頭に突き刺さっても平然としています)、急いで帰宅しますが、すでに偽者のひろしが一家に入り込んでおり、格闘の末にキンタマを蹴られても痛がらない偽者が判明します。しかし突然シロがしんのすけに吠えだし、しんのすけもまた偽者にすり替わっておりひろしとみさえは仰天します。その頃かすかべ防衛隊の5人は公園で大人たちも入れ代わっていたらどうしよう、と不安に駆られながら親たちの様子がおかしければもう一度公園に集まる約束して解散するまでが風間くん(真柴摩利)の視点から描かれて、風間くんは偽者に入れ代わっていたママに偽者の風間くんと入れ代えられてしまいます。野原家は偽者の川口に再び見つかり家に篭城しようとしますが、偽者のひろしと偽者の川口に阻止されてしまいます。絶体絶命のそのとき、本物のしんのすけと、以前しんのすけを助けたジャッキーが乗った1台の車が野原宅に突っ込んできて野原一家を助けます。ジャッキーはSRI(Sambano Rhythm Iine「サンバのリズムいいネェ~」の略称)という国際捜査組織の特捜員で、偽人間の謎を追っている。野原一家は車に乗り込み、公園で偽者の風間くんや謎の偽人間たちに捕まりそうになっていたネネちゃん(林玉緒)、マサオくん(一龍斎貞友)、ボーちゃん(佐藤智恵)を間一髪で助け出しますが、ジャッキーの分析では野原一家とネネ・マサオ・ボーちゃん以外の春日部の住人はすでに全員偽人間にすり替わっていると判明します。さらに偽人間たちはしんのすけやジャッキーが乗ったSRIの車を狙ってきます。そこで一同は春日部を脱出して隣町に逃げ込もうとかすかべ山の山道を通って脱出を図りますが、その途中でヨシリン(阪口大助)やミッチー(大本眞基子)たちの偽者に襲われ、ついに捕まってしまいます。近くの小屋に連行されたしんのすけたちは、そこがコンニャク工場で、ここで生産されているコンニャクこそがバイオテクノロジーの権威・アミーガスズキ(田島令子)が作り出した「コンニャクローン」技術が生み出したコンニャクが素材のクローン人間の原料で正体だったのを知ります。行方不明になっていた本物の春日部市民はアミーガスズキの命令でコンニャクローンたちに捕まっていました。果たしてアミーゴスズキが偽人間を作り出す目的とは、偽人間がサンバを踊る理由とは何か。そしてアミーガスズキとは一体何者なのか、追ってくる偽人間たちを倒してしんのすけとジャッキーはアミーガスズキとのクライマックスのサンバ対決に向かいます。
 ムトウ監督は「どうせなら子どもも大人も怖がるものを」という意図は成功しており、ムトウ監督がテレビ版しんちゃんのメイン監督になってからは「ネネちゃんと殴られウサギ」や「呪いの人形」シリーズなど番外編的な異色の恐怖シリーズが話題作になっていました。テレビ版は短編ですからわかりやすくオカルト的な恐怖ものですが、しんちゃん世界のあのコメディ絵柄で描かれるホラーものは絵柄がコミカルなだけに話はますますブラックで怖く、これもこれまでのしんちゃん映画では本郷みつる監督の傑作『ヘンダーランドの大冒険』'96や、あとには今のところ第23作『オラの引っ越し物語~サボテン大襲撃~』2015、前作の歴代シリーズ1位の大ヒットを受けた第24作『爆睡!ユメミーワールド大突撃』2016くらいしかないホラー路線です。テレビアニメ「学校の怪談」が2000年、やはりテレビアニメ「妖怪ウォッチ」が2014年ですから2006年の本作はその中間にあり、子どもの間での日常ホラーの流行の周期性を見るようです。国際捜査組織SRI(これはもちろん特撮シリーズ「怪奇大作戦」のSRI=Science Research Instituteをもじったギャグです)のジャッキーが「最初に事件が起こったのはアメリカ・カリフォルニア州のサンタモナカ。次はメキシコ、カナダ……春日部シティは6番目の町」と説明するように、この先はネタバレになりますが、アミーガスズキの「世界サンバ化」計画はサンバ大会が開催予定の町を開催に先立って次々とクローン人間に代えて誘拐し、強制労働としてサンバを猛特訓させるというもので、最後はしんのすけとジャッキーを相手にしたサンバ対決で敗北してサンバは楽しく踊るものだ、アミーガスズキの正体のサンバをこよなく愛するジャッキーの父アミーゴスズキ(池田秀一)が改心して事件は解決しますが、ムトウ監督の3作では前作の『3分ポッキリ~』が会心作、次作の『ケツだけ爆弾』が抜群の秀作で本作が水準作にとどまると思えるのは、恐怖演出や脚本構成が冴えわたる前半2/3とクローン人間の正体とアミーガスズキの世界サンバ化計画が明らかになるクライマックスの後半1/3が伏線こそそれなりに張ってあり後半も十分面白いのですが、世界中でサンバ大会を開いて先立って町の住人を全員クローン人間に入れ替え住人たちを秘密工場の強制労働でサンバを猛特訓させる、というのがどうしても木に竹を継いだような、本来別の映画になるようなアイディアを強引につないだような拍子抜けの感じがぬぐえない。春日部中の住人を洗脳するプロットは『オトナ帝国~』以来ですし、映画館に迷いこんだ春日部の住人を映画の世界に取りこんでしまうのは『夕陽のカスカベボーイズ』でありましたが、どちらも洗脳または誘拐する手段や過程に見当たった解決がありました。本作の場合クローン人間による町ごとの人間の誘拐とその目的が「強制労働によるサンバの猛特訓」というのが組み合わせとして無理があり、解決手段も悪役の改心ではありますがクライマックス以前にクローン人間による町の乗っ取りはSRIによるクローン人間分解液の開発で解決しており、SFホラー設定のホラー展開と「サンバ」の結びつきがどうしても弱く見えるので、見終わったあと面白かったけど散漫な印象が残る。しかし本作は前作『3分ポッキリ』以上のヒット作になっており、当時筆者は児童・幼児の子育て中だったので覚えていますが、第11作『栄光のヤキニクロード』2003あたりからは保育園や小学校でしんちゃん映画は新作ごとに子どもたちの間で口コミで話題になり、教職員からも子どもたちが観ているからとよく観られて話題にされており、子ども同士が友だちの家族が誘いあって観に行くファミリー映画に定着しており、本作も観客を大いに楽しませた作品には違いありません。また次作『歌うケツだけ爆弾!』はムトウ監督時代のしんちゃん映画で随一の秀作になりますから、本作はホラー作品としての趣向だけで満足できる異色作でしょう。

●4月15日(月)
『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ歌うケツだけ爆弾!』(監督=ムトウユージ、シンエイ動画=双葉社=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2007.4.21)*103min, Color Animation
◎爆弾がシロのお尻にくっついちゃった!たいして気にも留めない野原一家だったが、それはケツだけ星人が地球に落としていった爆弾であった!その爆弾の回収に動き出す宇宙監視センター"UNTI(ウンツィ)"や美人テロ集団"ひなげし歌劇団"から追われるシロ。果たして、しんのすけはシロを救うことができるのか!?

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 本作から双葉社がスポンサー・製作に参入、初の100分を超える長さになった本作は15億5,000万円の興行収入を記録し、テレビ版が大反響を呼んでいた時期の第1作・第2作に次ぐヒット作(以後更新されますが)になりました。これまでの作品でシロは本郷みつる監督時代はあまり活躍せず、原監督時代はかなり活躍しましたが『戦国大合戦』や水島監督の『夕陽のカスカベボーイズ』では留守番だったりもするものの、テレビ版ではひまわり登場以前はしんのすけの相棒は一にシロでしたし、少年と犬ほど焦点の決まるコンビはないので、全人類を危機にさらすことになっても愛犬を守って逃亡する少年、とはしんのすけとシロでも、またしんのすけとシロだからこそ感動を誘われずにはいられません。本作は設定やプロットはシンプルなのですがそれをいかに曲折に富んでハラハラドキドキさせ、しかもピンチを何度も重ねて遂に絶体絶命まで持って行った挙げ句無事に納得できるハッピーエンドに着地するまでが観客の注意を一瞬も逸らさない密度と集中力で緊迫感を持続させており、しんちゃん映画シリーズ中最高の1作のひとつになっています。ただし最初に観るよりは普段の野原家のシロの姿に馴染んでいた方がいいのでテレビ版なりシリーズ中の他作品のシロを知っているとなお感動的、とは言えます。本作は銀河系より遠くの宇宙空間を航行していたケツだけ星人(尻からキノコのように小さく伸びた頭部と触手程度の手足が生えており、のちの第25作『襲来!!宇宙人シリリ』2017のケツだけ宇宙人ナースパディ星人とは違うデザインです)の宇宙船が、軌道先に巨大隕石を探知して円盤型の吸着型爆弾を大量に隕石に放って爆破する場面から始まります。ところが爆弾のひとつは吸着前に巨大隕石が爆発してしまったため行き場を失い、地球に向かって不時着することになります。爆弾はちょうどひろし(藤原啓治)の勤続15年報奨で沖縄旅行を楽しんでいた野原一家の遊ぶビーチに落ち、遊んでいる最中のしんのすけ(矢島晶子)とシロ(真柴摩利)は謎の小型円盤を見つけて不思議がります。しんのすけが円盤を投げて遊ぼうとすると、円盤は突然動き出してしんのすけのお尻に飛びつこうとします。危険を察知したシロがしんのすけを突き飛ばすと、円盤はオムツのような形になり、シロのお尻にはまってしまいます。円盤の正体が爆発せずに地球に落ちていったケツだけ星人の特殊爆弾なのをいち早く察知した宇宙監視センター「Unidentified Nature Team Inspection(通称UNTI=ウンツィ)」は爆弾を回収するために動き出し、沖縄から帰る途中の野原一家を追跡しますが、そこに同じくUNTIに忍びこませたスパイのたんぽぽ(今井優)から特殊爆弾の存在を知って爆弾を手に入れ世界を征服しようとする美人女性テロ集団・通称「ひなげし歌劇団」が現れてUNTIを妨害します。ひなげし歌劇団の団長・お駒夫人(戸田恵子)はしんのすけにシロを渡すよう詰め寄りますが、野原一家は何とか逃げて帰宅します。そして野原一家は、家に勝手に上がって待っていたUNTIの長官・時雨院時常(京本政樹)からシロのお尻についた物体は地球を丸ごと破壊してしまうほど強力な爆弾と聞かされます。野原家は爆弾を外すと言われて一旦シロをUNTIに預けますが、爆弾はシロから分離する事は地球の科学では不可能と判明し、UNTIはシロもろとも爆弾をロケットに乗せ爆発圏外の宇宙空間に打ち上げて処理する、つまり地球を救うためにシロを犠牲にすることを決定します。ひろしとみさえ(ならはしみき)はとまどいますが、しんのすけだけはUNTIの要求を断固拒否して、シロを連れて家を飛び出します。65億人対子ども一人と犬一匹。事実上、全人類を相手に、しんのすけとシロは逃亡劇を繰り広げることになります。UNTIの追っ手のゴリラ(松山鷹志)やカバ(西村朋紘)、ひなげし歌劇団三人衆のうらら(ゆかな)・くらら(折井あゆみ)・さらら(大島麻衣)との三つ巴の逃走のすえにしんのすけとシロはUNTIに捕らわれの身となり、ついにロケット発射の直前になおも爆弾を奪おうと乗りこんできたひなげし歌劇団総帥お駒夫人としんのすけは強引にロケットに乗りこみ、とうとうロケットは発射されてしまいます……。
 シンプルな設定とプロットのために本作では野原家とヒーロー(またはヒロイン)対敵役という対立ではなく、またひろしとみさえは事情が事情だけにシロ奪還を諦めていますし、UNTIは地球保安のためですから悪意の組織ではなく、ひなげし歌劇団は爆弾を入手して世界征服の座に就くためとわかりやすい悪役ですが女性ばかりの過激テロ集団とコミカルな邪魔者ですが、しんのすけにとってはシロを自分から引き離そうとする相手なのでどちらも敵役で、三つ巴の抗争はしんちゃん映画では初めての趣向になります。ちなみにケツだけ星人は冒頭以外本編には絡んできません。本作がしんちゃん映画では初の100分を超える大作になったのはお駒夫人がミュージカル場面で世界征服の野望を歌う場面が多いからですが、内容はシビアな本作をコミカルでカラフルにもし、適度な息抜きにもなっているのはひなげし歌劇団の登場があるからですし、また最後まで爆弾(シロ)争奪に執着するお駒夫人は絶体絶命の結末から映画をハッピーエンドにする意外な重要な役割を果たすので、シンプルな設定とプロットの賑やかしのためにひなげし歌劇団を絡めたな、と見ていると人物配置の見事な生かし方に終わりまで観てハッとすることになります。ひろしやみさえも傍観者ばかりでなく冷徹であることを誇る傲慢で嫌なUNTIのボスの長官・時雨院時常にちゃんと結末で一泡吹かす見せ場がありますし、傲慢な長官役の京本政樹氏も役に徹して実に嫌な人物を演じています。地球保安組織のUNTI隊員たちも実はしんのすけやシロ、野原一家をいたわる心優しい職員たちなのが随所で描写されているのでハッピーエンドをともに喜び、きちんと野原一家を春日部まで送ってくれます。ムトウ監督は本作のあと劇場版の監督はせずテレビ版しんちゃんのメイン監督に専念しますが、ムトウ監督の3作が以降の劇場版シリーズの作風や好調を支えた功績は大きく、実際は次作以降数作しんちゃん映画はやや興行収入が低下しマンネリ化も囁かれますが、2010年代後半にはシリーズ歴代興行収入を塗り替えるヒット作が連続するほど回復しますし、マンネリ化が囁かれた時期の作品も内容の低下はないのでシリーズの人気自体やタイミングもあるでしょう。DVDボックス収録の24作を観直し、その後のやはり好調な2作(ひろし役は森川智之氏に交代)も観た印象からの感想(今年4月19日公開の第27作『新婚旅行ハリケーン~失われたひろし~』はまだ未見ですが)ではそう思います。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第八章(完)

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 最終章。
 ウェイターは依然マイクを持ったまま、服装も燕尾服のままで壁ぎわに立っていました。さきほどまで歌姫が立っていた壁の隠し舞台には無人のまま照明が照りつけていました。それは客席に居合わせたムーミン谷の人びとが自分以外のみんなはいったいこの場をどうしているのか、ひととおりさぐりあってもまだもて余すほどに長い沈黙でした。あまりに長く続くので、その沈黙はまるでひとりとして異議のない完全な同意によって保たれており、これを破るのにも全員の完全な同意を得なければ違反者はムーミン谷沖のどこかに深くあるという伝説のウロボロスの祠穴に沈められて、未来永劫ムーミン谷の呪いを肩代りする怨霊となるのを覚悟しなければならないと思われました。
 公共心以前にムーミン谷には共同体意識自体が皆無であり、秩序が未知と無秩序への恐怖から成り立っているならムーミン谷の住民は生まれながらの魑魅魍魎ですから原則的には恐怖が存在する余地はありません。ムーミン谷では知り得ないことを詮索するのは専門家に任せていましたし、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士が知り得ないことは、博士たちが知り得た大半のことも含めて、生活の上ではどうでもいいことでした--生活しないことも含めてです。ムーミン谷では死とはいなくなること、行方不明になることと同義でしたから、死への恐怖は生まれようがありませんでした。闇への恐怖も飢餓への恐怖もなかったから文明はムーミン谷の発生から発展も退化もしないのです。
 天敵というものがいなかったからだ、と指摘することは容易です。確かにムーミン谷は河川にも海岸・山渓にも恵まれていますがコヨーテやハイエナ、バッファローもおらず、ワニやサメもいません。ですが、
・ワニ「がぶかぶ」
・ムーミン「うわああ」
 となってもワニの腹が裂かれればムーミンは無傷で救出され、ワニはこっぴどく叱られて川に戻されるだけでしょう。トロールが相手では天敵になる動物がいないのです。
 では疫病ならどうか、おそらくトロールはすべての感染症に免疫を持つと思われます。つまりトロールの本体は霊体であり、肉体と見えるものは死体と変りありません。だから彼らはどのようにも蘇生することができるでしょう。
 それではみなさま、とウェイターは舞台に向って体を斜めにし、当店がお送りする次の出し物をお楽しみください。
 うんざりした拍手。


  (72)

 私としても不本意なことだが、とムーミンパパは呟きました。私たちはもうかつてとは違ってしまったのではないか。もうかつての自分に戻ることはできないのではないだろうか。
 きみらしくもないじゃないか、とフレドリクソンは言いました。どうしたって言うんだい?かつての私たちとは違うとは。
 きみは発明している。
 そうだよ私は、これまでもずっと発明家だったし、今もそうだし、これからも止めないだろう。
 そうだな。そしてユールたちは……。
 彼らは夫婦でひと組だからな、きみがスニフの親代わりになってやっているからこれからも冒険の旅を続けるだろうよ。ロッドユールはロッドユールのままだしソースユールはソースユールのままだ。
 きみは最後に彼らといつ、どこで会った?
 おさびし山の中腹にラジウムを採掘しに行った時になるかな?博士たちの依頼で特殊な実験装置を作るためのパーツだったから、あれからいくつか季節が過ぎたことになる。
 季節……季節とはなんだろうか?
 昼間の時間と夜の時間が周期性を持って変化する。それにつれて気候や植物の成育もはっきりした変化がある。われわれは直感的にそれを知る……だろう?
 直感的……。
 ……そして季節はわれわれにその時々の果実や根菜、葉野菜をもたらす。きみが変化と言うのはそれか?
 それもある。
 だが真冬にトマトは生らないし、銀杏も毎年同じ季節に落ちる。変化ではなく循環しているだけなんだ。
 きみも循環しているのか、フレドリクソン?あの勇敢なユール夫妻もその冒険の本質は循環にすぎないということか?
 きみは何を言いたい?われわれの営みや自然の運行は確かに変化ではなく循環ではあるだろう。だが積年のうちには小さな量的変化の堆積が質的変化に転じることもある。きみは私たちはかつてとは変ってしまったと言いながら、まるで単なる惰性に堕したかのように言いたげに見える。
 では限定しよう。わが友フレドリクソン、私はかつての冒険家ムーミンに見えるかね?
 それは……かつて冒険家ムーミンであり、今は家庭人となったムーミンパパに見えるよ。だがそれは望んだ変化だったはずだろう?
 そうだ。ならばこの疲労感はなんだろう。私は博士に訊いてみた。博士は哲学者でもあるから。博士は当然だ、トロールに成長はないからと言った。
 つまり……?
 私は歳をとった、ただそれだけのことさ。


  (73)

 二人のフローレンは向かい合って手のひらを合わせ、同期を完了させ記憶を共有すると、話し合いは簡単に終りました。
・レストランごと爆破
 ――それしかない、というのが二人の一致した意見でした。ですがその前に、二人のフローレンの存在に多少簡略でも言及しておいた方がいいでしょう。
 久しぶりね、と顔をあわせるとF.フローレンとフローレンA.は女性トイレの片隅に次元断層を作り、秘密の会話をするために不可視・不可触なその空間に自分たちを情報化して転送しました。これはトロールには誰しも潜在的に備わっている能力ですが、トロールの普遍的属性にはぼんくらでうすのろという美徳も伴うため、普通のトロールは死期を迎えるまでそれに気づかないのです。
 ですから、生きているトロールには死とは消滅であるか、または滅多にないことですが肉体の完全な活動停止として誤認されることもあります。これは正確には活動を停止した肉体ではなくて、情報化不完全な転送の残滓にすぎません。
 ムーミン谷でこの能力に覚醒しながら生活しているのは元ノンノンことフローレンだけでした。谷の辺境に位置するらしい巨大ソープランド……辺境は確かだが場所は一定しないらしい、温泉の魔女が支配するその施設に徴発され、ノンノンと呼ばれて強制労働させられているうちにフローレンには自分をF.フローレンとフローレンA.に分離も統合もできる能力が芽生えたのでした。これはどういうことかというと、二倍働くことも可能なら交互に休むことも可能ということでした。F.とA.というのも二人が直観的に一方をfictionalでもう一方をaltarnativeと理解したのにすぎません。女のカンに理屈はないのはトロールでも同じらしいので、フローレンとは実は一人のようで二人いる、それは誰も知らない彼女だけの秘密でした。
 あるいはフローレンは強制労働下で何らかの理由で落命した、そこで落命の記憶を持たない新たな二人のフローレンが生まれた、とも考えられます。ならば今はフローレンは死後の世界を生きているわけですが、世界の連続性は記憶の中にしかないのです。ムーミン谷で他人をあてにするほどあてにならないことはない。ですが彼女の危機察知能力は今、レストランの出現に激しく反応していました。爆破しなければ、あのレストランを。


  (74)

 フローレンが戻ってくるとテーブルはかなり入り乱れており、特に子供がこんなにいたっけとミムラとミイのテーブルを向けば数人の兄弟姉妹しかいないのを見ると、正体不明のガキどもはミムラ族からはぐれたに違いない。長女で母親代わりのミムラと、とにかく小さく年中キーキーうるさいミイを除けば30人を越す彼らミムラ族の兄弟姉妹は性別年齢すら識別不可能で、状況的にミムラとミイがいなければミムラ族の子供とすらわかりません。フローレンはかなり、をすっかりに訂正しました。
 彼女はスノークの姿を探しましたが、兄の方が先にフローレンを見つけました。よおフローレン、とスノーク、やはり女のトイレは長いな。フローレンは顔をしかめました。彼女が似合わないと言ったのにスノークは自慢のネクタイをしてきましたが、しぶしぶ出掛けに結び目を整えてやったのに(自分では結べないので)今ではそれは誇示するように酔っぱらい結びになり、両端を背中に垂らしています。へへへ、とわざと好色めいて笑うそぶりは、彼女がもっとも忌み嫌うものでした。妹が客の袖を引く過去を持つことへのあてつけのつもりなのです。
 どうしたの、とフローレンは冷たく訊ねました、私がいない間に何があったの、と言葉を継ぐより早く、シルクハットを前傾45度にかぶったムーミンパパがものすごい足音とともに、やあフローレン!と突進してきました。しかも隣にスナフキンがとっさのダッシュでゼエゼエというあり得ない光景。よく見れば二人は手錠でつながれ、ムーミンパパが得意気に胸元に握りしめた縄はヘムル署長を先頭に男性客の腰を一列に結びつけていました。なるほど足音がものすごかったわけです。とフローレンが感心するわけはなく、ムーミンパパを無視し、ついでに助けを求めるスナフキンの眼差しも無視すると、どうやら女性たちは数人ずつレストランの隅に避難している様子からたぶんそれほど普段よりいかれてはいないと見当をつけました。
 しかしどこのグループなら頼りになるか。ミムラとミイはあまりに無力だし、ムーミンママは強力だが未来の宿敵、フィリフヨンカさんたちはびくびくしながらどうせ婦人議席の拡充とか無駄な正論を話しているだけに違いない。すると、フローレンはようやく事態を収拾できる唯一の存在に気づきました。
 ねえムーミン、とフローレンは呼びかけました、こっち向いて。


  (75)

 どうしたんだい、フローレン、と偽ムーミンはびくびくもので向き直りました。ずいぶん顔がこわいよ、と言いながら偽ムーミンは思考を高速回転させていました。何か本物のムーミンらしいことを言わなければならない。それは本物のムーミンには必ずしも思いつかないとしても、当面の相手がムーミンから期待しているような応答になる。
 そこでおそらく望まれているムーミン像は、
・基本的に天然無垢
・だいたいは的外れ
・ときどき図星を突く
 というようなものだろうと、漠然と偽ムーミンは考えていました。もちろん各人のムーミンに対する態度は微妙に異なるもので、ミイが遠慮なく馴れ馴れしいのはムーミンを対等以下と見倣しているのはわかりやすい例ですし、スノークとなると完全に子供扱いで、スナフキンは一緒に夕陽を見ている時などムーミンの手に手をそっと重ねてきたりもします。偽ムーミンが入れ替わっている時にも何度かそれはありましたが、覚られないように表情を見るとスナフキンは夕陽に顔を向けているだけで、瞳孔は大きく開いて、ほとんど眼全体を黒目にしていました。ムーミンの手を取って何か愉悦を感じているのです。これは偽ムーミンの入れ替わりに気づかれてはいない証拠でもありますが、薄気味悪いことでした。
 ですが偽ムーミンにとってもっとも苦手な相手はフローレンです。こいつは婚約者の資格でどんなに滅茶苦茶な質問、無理難題の要求すらできると思ってやがるんだ。相手がムーミン本人なら構わない。だがおれが入れ替わっている時にこいつに関わるのは真っ平だ。だけど今は何か無難なことを言わねばならない。偽ムーミンはフローレンが席を外して戻ってきたらしいことを察しました。そうでなければわざわざ話かけてくる用もないはずです。
 どうしたの、お兄さんと何かあったのかい?とするりと、ただし大して心配した様子もなく台詞が出て、偽ムーミンは内心ガッツポーズをとりました。偽ムーミンの知る限り、スノークとフローレンの兄妹仲はうわべは睦まじく水面下はドロドロであるはずです。この兄妹はともに見栄が強いから、フローレンの答えはいいえ、何も。それ以上に会話は進まないでしょう。
 しかし偽ムーミンは読みを誤りました。フローレンは真顔で尋ねてきたのです。私が少し席を立った間に、レストランでいったい何があったの?


  (76)

 その頃ムーミンは全身拘束具を架せられ手も足も出ない状況にありました。幸い横たわった姿勢で、四肢もなんとか伸ばせますので、拘束というよりは一種のサナギに包まれているような状態です。たぶんこれがナンバーキーなんだろうな、という数字の文字盤が手の触れる位置にありました。ムーミンは四桁を目安に何度か数字を入力し、エンターキーと思われるものを押してみましたが、見えないので仮に0から9の数字が回転式の表面に刻印されていたとして、10の四乗ですから一万通りの組み合わせがあることになり、暇つぶしにはもってこいですがあまりに単調ですから、さすがのムーミンでもこんなことは試みない方がまだましとすぐに諦めました。このナンバーキーが拘束解除と決まったわけでもないのです。自爆スイッチだったらシャレになりません。
 もっともムーミンがこの拘束具に拘束されるのは今回が初めてではなく、肉体ごとのすり替わりではなく精神交換で偽ムーミンとの入れ替わりを強要される時はいつもこの手口が使われました。強要といってもムーミンが言い負かされて従っているので任意でもあり、同時に二人のムーミンがうろうろしているのはまずいだろ?なるほどそれももっともで、こうしていなければ退屈で出歩きたくなるだろ?それもその通りなのでムーミンは大人しく拘束、ただし肉体的には偽ムーミンの状態で拘束されていました。拘束されているのも退屈きわまりないことですが、精神交換の唯一の楽しみは同期している偽ムーミンの活動状況が情報としてのみわかることで、読めるだけでテレパシー会話はできませんがムーミンはレストランで偽ムーミンが見聞きしたすべてを識ることができました。
 そしてムーミン本人は一切の刺激がない状態ですから、皮肉なことにこの場合拘束されたムーミンが認識主体で、偽ムーミンは情報端末でしかないとも言えるのです。特に偽ムーミンが混乱した状況にあるほどムーミンは事態を冷静に判断できますから、フローレンはどうやら別のフローレンになって戻ってきたようだな、と気づきました。それなら彼女にはきっと何か企みがあるんだ。現に彼女は自分が席を外した間に何があったか気にしている。即答ができずに困っていると、ねえムーミン教えてよ、とフローレンは食い下がってきました。それともこう呼ばなくちゃ駄目かしら……教えてよ偽ムーミン。


  (77)

 これはいったいどういうことか、と平静を装いつつ、偽ムーミンはムーミンからのフィードバックを期待しましたが、精神交換して情報は同期していても思考まで読めるわけではないのです。変だよフローレン、と偽ムーミンはなんとか間抜けな笑顔を浮かべ、きみまで様子がおかしいよ、と、言ってしまってから冷や汗が滲みました。どんなことであれフローレンを余計に刺戟しないに越したことはありませんが、口にしてしまったからにはもう手遅れです。まあ隣にお座りよ、と偽ムーミンは椅子を引きました。
 フローレンは無言で一歩前に近づいてきました。彼らの背丈はほぼ同じですが、偽ムーミンは腰かけていますから、立ったまま無言でいるフローレンからの威圧感は相当なものでした。彼女が自信ありげにおれを偽ムーミンと呼ぶのは、彼女自身がそう気づいたのか、それとも秘密を知っている二人のどちらか、ムーミン本人か図書館司書が洩らしたのか。どちらも考えられないことだ。では?
 ちょっとくらいヒントをくれよムーミン、少なくともこの女のことはお前が一番よく知っているはずなんだろ、と偽ムーミンは思考を巡らせましたが、この事態はムーミンには偽ムーミンを通して届いているはずなのに、ムーミンからのリアクションはまったくないのです。彼らは二人ともインプットはあってもアウトプットはない状態のため、偽ムーミンが探りを入れてもムーミンただ今拘束中という感覚が確かめられるだけです。使えない奴、と偽ムーミンは腹を立てましたがこういう仕掛けにしたのは偽ムーミン自身なので、不測の事態を呪うしかありませんでした。
 そうだ、と偽ムーミンは立ち上がりました、スナフキンに訊いてみようよ。これはいい提案だと思ったのですが、フローレンはふん、と鼻で笑うと偽ムーミンの引いていた椅子に腰をおろしました。
 無駄よ、見て判らないの?ん、とスナフキンを見るとまん丸の黒ぶち眼鏡に赤っ鼻と口ひげ、さらにタキシードを着せられて、いかれた踊りを嫌々やらされているようでした。あんなところに声かけられると思う?確かにそれは難しい、と偽ムーミンも思わざるを得ません。でもぼくだって説明できないよ、きみが席を外していた間、というのはいつからなのかも知らないんだから。
 だったら体に訊くしかないわね、とフローレンは手袋を外しました。


  (78)

 フローレンは素早くうつぶせに倒れた偽ムーミンの死体にかがみこむと、頭をつかんで頸椎をごきり、と捻りました。フローレンの眼はムーミンの神経系に再びニューロン伝達が復帰するのを目視することができましたから、どうやら目的は達せられたようでした。
 レストランの中では相変わらず男たちは乱痴気騒ぎに興じ、女子供は壁ぎわに避難して怯えていましたから、あえてフローレンが不可の視フィールドを張らなくても気取られることはなかったでしょう。フローレンの手際は素早く、見た目には気分のすぐれない様子のムーミンに彼女が話しかけ、たまたまそのタイミングで卒倒したムーミンを彼女が介抱したようにしか見えなかったはずです。
 それほど素早くフローレンは偽ムーミンを瞬殺し、死の瞬間に偽ムーミンの意識に浮上したすべての記憶をスキャンしました。死の概念が曖昧なトロールでさえも、具体的な死に遭遇すれば、
・走馬灯のように
 生涯の記憶が走り抜けます。時には本人の記憶から抜け落ちていたことすら浮上してくるのです。
 フローレンは偽ムーミンに近づき、一鱗の憐憫もなくこの哀れな贋者に手をかけました。想像を絶する苦界に身を置いてきた彼女にはたかだか偽ムーミンを瞬殺し、記憶を読み、すかさず蘇生させることなど雑作もないことでした。だから彼女はためらいも滞りもなく実行してしまったのですが、自分に誤算があることを考えなかったのです。
・策士策に溺れる
 とまでは言いませんが、フローレンには自分の知力や能力に関する傲慢さがありました。その点彼女もスノーク族の血統に由来する気質からは逃れられず、さらに自分がAとFの二人から成り立つという自惚れがありました。
 瞬殺した瞬間に予期し、記憶を読みながら気づき、蘇生させながら悟ったこと……それははっきり彼女の誤算を証明するものでした。
 フローレンが殺害し、生涯の記憶をスキャンし、そしてたった今蘇生させたばかりのもの。幼なじみで婚約者でもあるフローレンがこれまで一度も愛さず、その名そのものがこの谷を象徴するもの、さらに今日は彼女が気づいただけでも人目を欺いて朝から何度となく入れ替わってきたこのムーミンは、偽ムーミンでも真のムーミンでもなかったのです。それは存在し得ないはずのものでした。


  (79)

 フローレンはとっさの流れで蘇生させてしまったそれの上体を片腕抱きしながら、自分が今確かめたばかりのことがどういう意味を持つか、それに対してどのように対処すべきかまたは関わるべきではないかを考えましたが、そもそもフローレンには対処のしようもなく、望むと望まざるに拘わらず彼女はこの事態に巻き込まれていることを認めざるを得ませんでした。
 偽ムーミンとは見抜いていても、ムーミン本人とはいったいどんな取り引きの下にこのなりすまし関係が続いてきたのか、またそれがどのような手段で行われてきたか、それが不明である以上は、フローレンは仮の婚約者としても、次期ムーミン谷の事実上唯一の女王候補としてもそろそろ彼らの尻尾をつかんでおく必要がありました。
 彼ら、というのはカマトトぶりに隠したフローレンの日頃の観察からしても、ムーミンと偽ムーミンの入れ替わりは明らかに協力関係から成り立っており、それは彼らにとっては共通の利益であるに違いなく、その上確実にフローレンを除いたムーミン谷すべての住民の目を欺くものだったからです。これは極めてイレギュラーな事態でした。
 為政者でこそありませんし、そもそも平凡な子供トロールであることで、ムーミンはこの谷の秩序の礎石だったのです。無力かつ無欲、時には無気力であることさえがムーミン谷のエネルギー総量を安定させるムーミンの潜在能力でした。だから原理的に、ムーミンが偽ムーミンとつるんでいることは、買いかぶり抜きにムーミンの性格上あり得なはずでした。
 フローレンが読み取れると見込んだものは少なくとも偽ムーミン自身の記憶があり、彼らが精神レヴェルで同機しているならば偽ムーミンの記憶を通して真のムーミンにつながり、その先は創世まで遡るムーミン谷すべての集合無意識が開けているはずでした。それはフローレンも覗いたことはなく、ムーミン自身にも自覚はなく、ムーミン族の男児長子だけが特権的に受け継いできたはずの素質と思われ、そこにはムーミン族と代々交配してきたスノーク族の記憶も意地になって織り込まれているに違いなかったのです。
 私はパンドラの箱を開けてしまったんだわ。フローレンは混乱した目で店内を見渡しました。そして知らない婦人の姿を認めたのです。それは存在しないはずの女性、誰も知らないミムラ夫人でした。
 次回最終章完。


  (80)

 最終回。
 どうやらあなたがいちばん真実に近づいたようね、とミムラ夫人はフローレンに微笑みかけました。それも私は知っていたし、こうしてあなたとお会いするのも厳密には今が初めてではなく、もうずっと前からこの時は始まっていたし、私にとってはすべての時間は同一平面上に俯瞰できるものだけれど。でも今は……
 とミムラ夫人は優雅な足どりでゆっくりとフローレンに向かって歩を進めてきました、あなたの位置から観るのが私にとっても起こっている事態の本質がわかりやすい。何もかもが見えてしまうことは、時には本質を見失ってしまう場合もあるから。あなたはこういう時、「わかりかねます」なんてのたまうほどの馬鹿娘ではないわよね?
 フローレンはギクッとしました。まさに今、彼女の喉もとまで出かかっていたのが低脳まるだしの「わかりかねます」だったからです。ですがフローレンには何もかも見透かした風情で忽然と現れたこの中年婦人の方がよほど混乱を深める存在でした。フローレンが誰よりも真実に近づいたと言うなら、この婦人は真実を掌握していると自負し、またそうほのめかしてもいることになります。
 あなたは誰です?とフローレンは尋ねました。ミムラ夫人はもうフローレンのすぐ前に立っていました。見ればわからないあなたじゃないわよね、と夫人。確かに夫人の容貌は、一目でミムラ族の中年女性とわかり、否定語で表現されない以上ミイやミムラたちの直接の血縁者、順当には母親か伯叔母だと名乗っているも同然のことでした。
 あなたはもう膝の上のものも、周りを見もしないほうがいいわ。そう言いながら夫人はエプロンをひろげてフローレンの視界を遮りました。何が起きているんですか?いいから目をつぶって。でもこのお店が……。いいのよ、とフローレンの頭はエプロンごしに押さえつけられました。何もかもが燃えたり、溶けたり、消えている最中なの。あなたも見れば塩の柱になる。
 どのみち最後まであなたを助けることもできないけれど、それでもムーミンは助かるでしょうね。ムーミンがここにいなかったのはそのためで、あなたは今ここで死ぬの。それを私は見届けにきた。
 ミムラ夫人のエプロンに包まれて消えながら、フローレンはでもどうして?と呟きました。それはね、夢で出来ているからよ、谷も、お店も、あなたたちも。
 最終章完💔。


(初出2013~14年)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

映画日記2019年4月16日~18日/一気観!『映画クレヨンしんちゃん』シリーズ!(6)

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 興行収入に表れる観客動員数だけを映画の成功の指標にするのはあまり良くない見方で、初公開時に不評で不入りだった映画がのちに再評価され永く観続けられる例は評判の良かったヒット作が忘れ去られるよりも多いので、時流に乗った作品ほど風化しやすいとも言えます。しんちゃん映画でも永らく最大ヒット作はテレビ版が話題の高かった第1、2作目で3作目からは落ち着いたので、第9作『オトナ帝国の逆襲』、第10作『戦国大合戦』でしんちゃん映画の認知度を高めた原恵一監督時代もしんちゃん映画への注目度がもっとも低下していた時期の監督交代だったので観客動員数では不振なスタートでした。原監督の傑作2作からバトンタッチした水島努監督の2作、続くムトウユージ監督の3作は出来も快調なら好調な観客動員数を引き継いだのでタイミング的にも恵まれましたが、好調な時期も5年以上続くと観客の方でシリーズにやや飽きが出てくるという現象が起きる。ムトウ監督によるシリーズ第13作『3分ポッキリ大進撃』2005が興行収入13億円、第14作『踊れ!アミーゴ!』2006が14億円、第15作『歌うケツだけ爆弾!』2007が第1作、第2作に次ぐ15億5,000万円の大ヒット作を記録してから、初代監督の本郷みつる監督が12年ぶりに担当した第16作『ちょー嵐を呼ぶ金矛の勇者』2008は12億3,000万円、テレビ版監督の一人しぎのあきら監督による第17作『オタケベ!カスカベ野生王国』2009は10億円、『嵐を呼ぶオラの花嫁』2010は12億5,000万円と不安定になり、増井壮一監督による第19作『黄金のスパイ大作戦』2011は12億円、第20作『オラと宇宙のプリンセス』2012は劇場版シリーズ20周年記念作の大作となるも9億8,000万円と『オタケベ!カスカベ野生王国』より下がり、原監督時代の第7作『温泉わくわく大決戦』'99(9億4,000万円)に次ぐ動員不振になってしまいます。今回・次回ご紹介するのは観客動員数の不安定からしんちゃん映画のマンネリ化が囁かれた時期ですが、橋本昌和監督による第21作『B級グルメサバイバル!!』2013は「今度のしんちゃん映画はいいぞ」と話題作になり興行収入13億円の好調を取り戻し、続く高橋渉監督の第22作『逆襲のロボとーちゃん』2014は18億3,000万円と歴代3位を塗り替え、橋本・高橋監督が交替制になって第23作の橋本監督作品『オラの引越し物語~サボテン大襲撃~』2015は23億円と、シリーズ歴代興行収入トップ2だった初代の本郷監督の第1作『アクション仮面VSハイグレ魔王』'93(22億2,000万円)、第2作『ブリブリ王国の秘宝』'94(20億6,000万円)を塗り替える歴代1位の特大ヒット作になります。続く高橋監督の第24作『爆睡!ユメミーワールド大突撃』2016も21億1,000万円、とーちゃんのひろしが藤原啓治氏から森川智之氏に交代後の橋本監督の第25作『襲来!!宇宙人シリリ』2017が16億2,000万円、昨年の高橋監督の第26作『爆盛!カンフーボーイズ~拉麺大乱~』2018が18億3,000万円と好調が続いており、第26作公開後にテレビ版スタートから主人公しんのすけを演じてきた矢島晶子さんが降板し小林由美子さんに交代しましたから、2019年4月19日封切りの橋本監督による最新作で第27作『新婚旅行ハリケーン~失われたひろし』はしんのすけ役が小林由美子さんに交代した初めてのしんちゃん映画になります。ひろし役の交代、しんちゃん役の交代は主人公だけに大きいですが、それまでのレギュラー・キャラクターの交代同様イメージを崩さず行われておりファンからも交代を惜しむ声こそあれ批判的な意見は上がっておらず、この紹介は第24作までで一旦区切りますが、劇場版自体は今後も良い出来が期待できるので興行収入の推移は観客の興味の持続次第とも言えそうです。なお各作品内容の紹介文はDVDボックスの作品紹介を引用させていただきました。

●4月16日(火)
『映画クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ金矛の勇者』(監督=本郷みつる、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2008.4.19)*93min, Color Animation
◎しんのすけがうっかり開けてしまった不思議な扉。それは、地球と暗黒の世界"ドン・クラーイ"を繋ぐ闇の扉――侵略者たちの陰謀だった!ひょんなことから選ばれし勇者となったしんのすけに次々と迫る闇の魔の手。突然現れた謎の少年"マタ"とともに、伝説の金矛を手にした勇者しんのすけが立ち上がる!

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 前作のしんちゃん映画15周年記念の第15作『歌うケツだけ爆弾!』からスポンサー・製作に原作コミックス「クレヨンしんちゃん」の版元・双葉社が参入しましたが、本作は双葉社創立60周年記念作品を謳って製作・公開された作品でもあります。テレビ版・劇場版の予想以上の大ヒットと長期化、ファミリー作品としての定着は原作出版社にも大きな収益をもたらしたでしょうし、劇場版の興行収入安定でようやく出版社側も製作参入に腰を上げたのでしょう。テレビ版メイン監督のムトウ監督が3作を手がけてから本作では初代テレビ版メイン監督・劇場版監督の本郷みつる監督が12年ぶりに劇場版を担当することになったのは、やはりテレビ版立ち上げメイン監督であり劇場版第1作・第2作を20億円以上の特大ヒット作にして、以来その記録は抜かれていなかった本郷監督の業績に期待をかけたと思われます。本郷監督は大人のファンがついたしんちゃん映画を再び子どもの楽しむ作品にリセットする意図があったそうで、本作が初期のしんちゃん映画に似た雰囲気なのは本郷監督の意図通りということになります。映画は人間界を支配しようと企む暗黒世界ドン・クラーイの帝王アセ・ダク・ダーク(銀河万丈)が闇を打ち払う三つの宝と勇者の伝説を知り三つの宝の一つ「銅の鐸」を奪取し、残る二つの宝「金の矛」と「銀の盾」を奪おうとしますが、一足早くダークの企みを知った戦士マタ・タビ(大西健晴)によって「金の矛」と「銀の盾」が人間界へ送られる場面から始まります。その頃しんのすけ(矢島晶子)はデパートでアクション仮面(玄田哲章)の新作おもちゃ「アクションソード」を買ってもらいます。ところが家に帰って箱を開けてみると、アクションソードはものさしに変わっていました。その数日後、しんのすけは幼稚園からの帰りにシロ(真柴摩利)にそっくりな黒い犬・クロ(間宮くるみ)を拾い、クロを飼うことにします。その夜、目を覚ましたしんのすけは突然家を訪ねてきたプリリン(本田貴子)というセクシーな女性に出会い、頼まれて一緒に外出します。しかし、プリリンの正体は人間界に送り込まれたダークの部下でした。しんのすけはダークの策略にかかり、人間界とドン・クラーイを繋ぐ扉を開いてしまいます。翌日、しんのすけが開いた扉から闇が人間界に流れ込み、その影響で野原家にさまざまな災難が降りかかってきます。その時、しんのすけの前にマタ・タミ(堀江由衣)という男装の少女が現れます。マタはしんのすけが「金の矛」に選ばれた勇者と告げ、しんのすけを守るためにやってきたと言います。マタと共にダークと戦う決意をしたしんのすけですが、マタが現れたことを知ったプリリンが罠を仕掛けてダークの部下アルマ・ジロー(川村拓央)やタコ怪人(福崎正之)、マック・ラ・クラノスケ(宮本充)らに追われ、野原一家はご近所を巻きこむ逃走と反撃のすえに、しんのすけはものさしの正体だった「金の矛」キンキン(金田朋子)とクロの正体だった「銀の盾」ギンギン、さらにダークから取り戻した「銅の鐸」ドウドウ(屋良有作)を揃えた「金の矛の勇者」となりダークの策略を打ち砕いて地球の危機を救い、ダークに捕らえられていたマタ・タミの父マタ・タビを救出し、ハッピーエンドを迎えます。
 本作は監督・脚本・演出とも本郷みつる単独で、第4作の傑作『ヘンダーランドの大冒険』'96で最高の達成を見せた本郷監督らしいダーク・ファンタジー趣向やミュージカル場面の挿入がコミカルなしんちゃん世界とあいまって本作自体は十分面白く、水準をクリアする作品です。しかししんちゃん映画のシリーズの水準自体が原恵一、水島努、ムトウユージの歴代監督時代に大きく質的変化を遂げてしまったので、単独で観るならともかく連続で観直す、またはまだ近作の記憶が新しいうちに本作を観ると微妙なニュアンスや意外な展開に富んだ近作から突然内容が荒っぽくなった印象は否めず、また直前のムトウ監督の作風が本郷監督も含む歴代監督の美点を抽出してさらに洗練とダイナミズムを加えたものだったために、本郷みつる監督作品らしい骨の太い強引さやあっけらかんとしたコメディ感覚がシリーズ作品をリセットしたとは言えるものの、それが物足りなさを感じさせることにもなっている。アニメ版・劇場版とも初代監督の本郷監督の功績の大きさがあってこそその後のシリーズもありますし、同じ監督だから当然でもありますが、本作は『ヘンダーランド~』の前か直後に作風が逆戻りしている印象があるので、シロが活躍してひまわり(こおろぎさとみ)があまり出番がないのもひまわり登場は本郷監督から原監督にテレビ版メイン監督・劇場版監督が代わってからのキャラクターだからでしょう。男装(というより性別不詳)のヒロイン、マタ・タミとプリリンに挟まれたしんのすけはグラマーなおねいさんの悪党プリリンの色香にまんまと籠絡されてしまいますが、これも初期しんのすけのキャラクターでもっと純粋な子どもの直観で悪人を見分けられるようになっている近作のしんのすけには似あいません。本作は近作の評判もあって順調な興行収入を上げましたが、本作をいまいちと感じた観客が少なからずあったのは次作の観客動員数低下に現れてしまいます。

●4月17日(水)
『映画クレヨンしんちゃん オタケベ!カスカベ野生王国』(監督=しぎのあきら、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2009.4.18)*98min, Color Animation
◎しんのすけが拾った謎のドリンクを勝手に飲んだひろしとみさえ。すると突然二人は動物の姿に変わってしまった!そう、それは過激エコ組織"SKBE(スケッベ)"が秘密裏に進める"人類動物化計画"だったのだ!しんのすけは皆を元の姿に戻すことができるのか!?しんのすけの雄叫びが、今世界中に響き渡る!

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 本作と次作はテレビ版「クレヨンしんちゃん」スタート時からのスタッフで'70年代からの長いアニメーターのキャリアを持つしぎのあきら(1954年生まれ)が監督を担当しています。出来はずばり次作『超時空!嵐を呼ぶオラの花嫁』の方が良く、またシリーズ前作『~金矛の勇者』が観客離れを招いたか本作は興行収入も10億円ぎりぎりと歴代下位2位と振るいませんでしたが、本作公開から半年後に臼井儀人氏が事故死により急逝したため臼井氏生前最後の公開作となり、また本作のテレビ放映時(2010年4月9日)この感想文筆者はサナトリウム入院中で、入院生活に退屈しきった病棟の患者のみなさんと大食堂の大型テレビで観たので、その日は朝から「今夜はしんちゃん映画のテレビ放映があるぞ」と病棟中で楽しみにしていたので格別な思いがあります。肝心の映画の内容はというと、何しろ精神病棟だったので連日しんちゃん映画の世界以上の異常事態が日常だったので春日部じゅうの人々が動物化してしまう話とだけしか覚えておらず、今回DVDで観直してようやく細かな筋がわかり、しんちゃん映画としては水準よりはやや下位の出来ともわかりました。映画はアヴァンでみさえ(ならはしみき)がしんのすけ(矢島晶子)と離ればなれになる夢を見たあと、本編は春日部市ふたば町に新しく就任した四膳守(しぜん・まもる)町長(山寺宏一)を中心にエコロジー活動が盛んになっていく様子で始まります。ふたば幼稚園の課外授業で地域の清掃活動に参加していたしんのすけ(矢島晶子)は河原で謎のアタッシュケースを発見し、中に入っていた不思議な緑色のドリンクを持って帰ります。ところがその夜、冷蔵庫に冷やしておいたそれをひろし(藤原啓治)が飲み、みさえも飲んでしまいます。すると翌日、二人は動物のような仕草をするようになり、遂にある日ひろしはニワトリ、みさえはヒョウに変身してしまいます。驚く一家の下に突然ブンベツ(山本高広)と名乗る男が率いる謎の集団が現れ、その場にいたかすかべ防衛隊とひろしたちを捕えます。かすかべ防衛隊の面々は何とか逃げ出しますが、ひろしとみさえは謎の集団に連れ去られてしまいます。そんな中、しんのすけとかすかべ防衛隊の面々は謎の集団を追って現れたビクトリア(後藤邑子)と名乗る女性と出会い、四膳の正体を知らされます。四膳は実は過激な環境保全組織「Save Keeping Beautiful Earth=通称SKBE(スケッベ)」のリーダーで、環境破壊に歯止めをかけるため人類を動物に変える「人類動物化計画」を進めており、ひろしとみさえが飲んでしまったドリンクはその計画のために人間を動物に変えてしまう「人類動物化ドリンク」でした。そして、一度人類動物化ドリンクを飲んで動物になってしまった人間は、次第に自分が人間だった記憶をすべて忘れてしまいます。四膳がひろしたちの体から人類動物化ドリンクのエキスを取り出そうとしていることを聞かされたしんのすけは、ひろしたちを救うべくひまわり(こおろぎさとみ)とシロ(真柴摩利)、ビクトリア、うっかり失敗作のドリンクを飲んで半動物化したかすかべ防衛隊の風間くん(真柴摩利)、ネネちゃん(林玉緒)、マサオくん(一龍斎貞友)、ボーちゃん(佐藤智恵)とSKBEの基地へ向かいます。運良くブンベツを見つけ追跡してていくと秘密の入り口を発見し、すると春日部地下には未開の森が広がって中心地に基地がありました。動物の力を使いピンチを乗り越えていくかすかべ防衛隊ですが、しんのすけが原因で捕まってしまいます。四膳の前に連れてこられたかすかべ防衛隊は四膳から過激エコロジー思想を聞かされ、そしてしんのすけは完全に動物となった両親と再会します。しんのすけはヒョウになったみさえに襲われますが、お尻がきっかけでみさえは記憶を取り戻し部屋を脱出、人力発電させられていたかすかべ防衛隊を解放しませ。野原一家はSKEB幹部のマイハシ(折笠愛)を退け、かすかべ防衛隊は動物の力を使って戦い、ビクトリアは先に潜入し捕まっていましたが目を覚まし基地を破壊していきます。排水設備が破壊され水流に飲まれるしんのすけたちがたどり着いた先は春日部、そして遂にひろしも記憶を取り戻します。しかし春日部は四膳の計画が止まらず住民が変身した動物でいっぱいでした。地下からモニュメントが浮上し四膳との最後の戦いが始まります。四膳は特製ドリンクで怪物に変身し野原一家を追い詰め、しんのすけも動物になり戦うも絶体絶命のピンチになりますがシロクマになったひまわりが助けに入り形勢が逆転します。なおも諦めの悪い四膳でしたがそこにビクトリアが現れ四膳の妻「良子」であると知らされます。四膳が過激な計画を起こした理由は自然を顧みない人類への絶望だけでなく妻良子の浪費とゴミの分別をしない態度でした。四膳夫妻は夫婦喧嘩を始め、良子は動物化ドリンクを飲もうとしますが愛する妻だけは動物にできないと守はそれを弾き、愛を取り戻し四膳夫婦は仲直りし、動物化した人間は一人残らず元通りになり、春日部は以前より自然を大切にする町になります。
 ひろしがニワトリ、みさえがヒョウ、風間くんがペンギン、ネネちゃんがウサギ、マサオくんがコウモリ、ボーちゃんがオオセンザンコウ(「……アリクイ?」「オオセンザンコウ……絶滅危惧種」)、しんのすけがゾウ、ひまわりがシロクマで、さらに動物化した春日部市民も園長先生(納谷六朗)がヒツジ、よしなが先生(高田由美)がイヌ、まつざか先生(富沢美智恵)がキツネ、あげお先生(三石琴乃)がハムスター、となりのおばさん(鈴木れい子)がカバ、風間ママ(玉川紗己子)がペンギン、ニュースキャスター団羅座也(茶風林)がオランウータン、さいたま紅さそり隊の女子高生ふかづめ竜子(伊倉一恵)、魚の目お銀(星野千寿子)、ふきでものマリー(むたあきこ)がナマケモノ、とレギュラー・キャラクターの動物化で楽しませてくれるのは単純明快に面白いですし、過激エコロジー団体の陰謀というのもしんのすけの住む春日部市というのは次から次へと町ぐるみの騒ぎに巻きこまれる町だなあと本作の工夫がうかがえますが、SKEBの陰謀を阻止するヒロインが首謀者の奥さんでそもそもこの奥さんが浪費やゴミ分別にまるで頓着ないのが首謀者の過激エコロジー思想のきっかけで、夫婦喧嘩の決着と仲直りが「愛は地球を救う」で事件解決になる、というのはいささか尻すぼみの観があります。脚本の静谷伊佐夫氏はしぎのあきら監督のスタジオぴえろ時代からの盟友だそうですが、本作は春日部市民動物化や半動物化したしんのすけやかすかべ防衛隊の幼稚園児の活躍に着想がとどまっていて、ハッピーエンドに着地するまでの展開や曲折に意外と見所がありそうで少ない、という不満が出てきます。ヒョウに動物化してから長く経ってしまったみさえがしんのすけを忘れて襲いかかり、しんのすけの尻で記憶を取り戻して泣いて抱きしめる場面は『オトナ帝国~』の幼児化したひろしがしんのすけに嗅がされた自分の靴の蒸れた臭いですすり泣きながら記憶を取り戻す場面の再現ですが、これも演出や意外性ともに『オトナ帝国~』の場面ほどの感動にはおよばない。本作はもっと面白くなりそうな着想が十分に生かされないままこぢんまりとまとまってしまったような作品ですが、しぎの監督も次作ではまったく趣向を変えてシリーズ上位に位置づけられる秀作を放って興行収入も回復するので、ヴェテランらしい手腕が本作では良くもわるくも小粒に、次作では意欲的に作品に結実したと言えそうです。

●4月18日(木)
『映画クレヨンしんちゃん 超時空!嵐を呼ぶオラの花嫁』(監督=しぎのあきら、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2010.4.17)*100min, Color Animation
◎ある日、タイムマシンでしんのすけの未来の花嫁タミコがやって来た。大人になったしんのすけが、未来都市"オオトキオ"の支配者"金有増蔵"に捕まってしまい、5歳のしんのすけの力が必要だという。お互い、本当に未来のケッコン相手なのかと疑いつつも、とりあえずネオトキオへ向かう二人だが……。

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 本作はコミックス「クレヨンしんちゃん」の作者・臼井儀人氏急逝の半年後に公開されました。エンディングクレジットあとに1枚タイトルで「臼井儀人先生に感謝をこめて」と献辞が出るのはプログラム・ピクチャーのファミリー向けアニメーション映画としては異例です。反響も前作『オタケベ!カスカベ野生王国』より初日と2日目の初動観客動員数160%と好調で、公開5週目で観客動員数100万人突破で最終的には興行収入12億5,000万円に達し、観客動員が不安定になっていた時期ながら健闘を見せた作品です。しんちゃん映画の場合興行収入が伸びるのは公開後の口コミによる面が大きいと思われ、公開5週目で足を運ぶ観客は本作の好評を知ってから映画館を訪れた人が大半でしょう。本作は演出にのちに第22作『逆襲のロボとーちゃん』2014から第21作『B級グルメサバイバル』2013の橋本昌和監督と1作ごとに交替制で劇場版レギュラー監督になる高橋渉がしぎの監督とともに当たっており(前作では演出補佐でした)、また企画自体はスタッフ全員の合議でしょうが横手美智子さんの脚本が冴えており、横手美智子さんは『ジャングルはいつもハレのちグゥ』2001でシンエイ動画作品の実績があり、その後も『SHIROBAKO』『監獄学園』『荒野のコトブキ飛行隊』など水島努監督作品でヒット作を放っている名手ですが、未来のしんのすけのピンチを救うために5歳のしんのすけの力が必要と未来からしんのすけの婚約者がやってきてかすかべ防衛隊の5人が未来へタイムトラベルし、そこでディストピア化した未来の春日部にいる大人になった自分たちと出会う、というとっておきのアイディアを十分に生かした本作はしぎの監督のしんちゃん映画の秀作と言える出来で、これは観たあとで「今やってるしんちゃん映画面白いよ」と口コミで広がるだけある会心作です。アヴァンで危機一髪に陥ったアクション仮面姿のしんのすけ(神奈延年)が「5歳のオラを連れてきてくれ!」と恋人にスティック型タイムマシンを投げ、タイムマシンを受け止めた恋人は悪人の制止を振り切ってタイムマシンを作動させる場面が描かれます。本編に入るとある日、遊んでいるしんのすけ(矢島晶子)たちの前に、タイムマシンで時を越えた女性・タミコ(釘宮理恵)が現れます。タミコは未来からやって来たしんのすけの婚約者、つまり花嫁と名乗り、未来のしんのすけが未来都市・ネオトキオの支配者・金有増蔵(内海賢二)に捕えられてしまい、未来のしんのすけを救うためには5歳のしんのすけの力が必要と語ります。しんのすけは半信半疑ながらも、かすかべ防衛隊の友だちと共にタミコに連れられて未来の春日部にタイムトラベルします。未来へやってきたかすかべ防衛隊が目にしたのは、華やかな大都市ネオトキオと、ネオトキオとは対照的に荒廃した春日部の町でした。未来の世界では地球に隕石が衝突したため日傘効果が起き、一日中夜のような状態になってしまっています。しんのすけを捕まえているネオトキオの支配者・金有増蔵は電力を供給する会社の社長で、街の電力をすべて支配しています。未来の年老いたひろし(藤原啓治)とみさえ(ならはしみき)、大人になったひまわり(こおろぎさとみ)や、さまざまな職業に就いた未来の大人風間くん(真柴摩利)、大人ネネちゃん(林玉緒)、大人マサオくん(一龍斎貞友)、大人ボーちゃん(佐藤智恵)と出会いながら、未来のしんのすけを助けるためかすかべ防衛隊とタミコはしんのすけを捕らえた金有の下へ向かいます。しかし、5歳のしんのすけが現れたことを知った金有増蔵が放った刺客「花嫁(希望)軍団」がしんのすけとタミコを狙って一行の前に立ちはだかります。花嫁(希望)軍団から逃走しつつ未来のしんのすけ救出に向かおうとするしんのすけたちですが、その最中にタミコが金有電機のロボットに捕まってしまい、大人しんのすけの命と引き換えに金有電気エリート社員の大人風間くんと結婚させられることになります。しんのすけは自分の未来の花嫁を救うため、未来の家族やかすかべ防衛隊の力を借りてスタジアムの大結婚式を阻止してタミコと捕らわれている大人しんのすけを救出するために会場に乗り込みます。
 便宜上ざっくりしたあらすじになりましたが、実はタミコは金有増蔵の娘でありながら春日部に太陽の光を取り戻そうとする大人のしんのすけと恋仲になっており、「大人になったらどうなってるだろう」と雑談しながら遊んでいるしんのすけたちの前に約20数年後の未来からやってきたタミコとしんのすけたちがかわすとんちんかんな会話、雑談で話した「未来の自分」が皮肉なかたちで実現したり頓挫したりしている未来の自分と出会う幼稚園児たち(未来の春日部はスラムと化しており、大人マサオくんはコンビニのバイトをしながら売れないマンガ家、大人ネネちゃんはネネちゃんママそっくりの容貌のふたば幼稚園のやさぐれた先生、大人ボーちゃんは夢が実現してみんなを助ける発明家になっており、大人風間くんは金有電機のエリート社員で子ども風間くんは裏切り者と責められます)の大人の自分との出会い方も工夫が凝らされ、禿頭になった初老のひろしとぶくぶくのメタボになったみさえはあっさり5歳のしんのすけたちを受け入れて助太刀します。結婚式場に子どものかすかべ防衛隊と大人の本人たちが団結して乗りこみ、大人の風間くんも石化させられた大人しんのすけの救出に協力することになり、絶体絶命かと思われた状況が大人ボーちゃんの発明から打開され、さらに国際警察官になった大人ひまわり(黄色いコスチュームに身をつつみ、顔はみさえ似で、ひろしとみさえを「パパ、ママ」、しんのすけは「にーちゃん」と呼びます)がかっこ良く駆けつける、と見せ場もギャグも意外性やサスペンスもたっぷりある作りで、2度は使えないおいしい設定を十分に盛り上げています。テレビ版の番外編的なエピソード(空想のかたちで描かれます)を除けば劇場版では大人になって言葉を話すひまわりは本作きりであり、大人ひまわりを演じるこおろぎさとみさんもおいしい役ですが、タミコ役の釘宮理恵さんも「しんちゃんの未来の花嫁」役を演じてチャーミングで、石化が解けた大人しんのすけ(口元以外の顔は映らない演出になっています)と5歳のしんのすけが「おバカ(Oh Bikkuri Aggressive Kanarisugoi Amazing)パワー」の増幅で春日部上空の隕石群の日傘状態を解決して春日部に太陽の光を取り戻し、現代に戻ったしんのすけにひろしがさりげなく地球に衝突する可能性のあった流星群が逸れた、と告げるまで本作はアニメ作品ならでは可能な荒唐無稽(スティック型タイムマシンがピンポイントで時間移動できないのも「みらい」「いま」「むかし」の三つのボタンしかないから、というギャグもあります)でご都合主義な部分は存分に利用しながらも組み立てが巧妙で作品世界の中のリアリティに一貫性があるので説得力があり、いくつかの危機脱出シーンは『歌うケツだけ爆弾!』と同じアイディアがありますが二番煎じを感じさせないアレンジの工夫がある。内容も『歌うケツだけ爆弾!』以来の優れた出来になっており、前作『オタケベ!カスカベ野生王国』がやや低迷したかと思われたのを十分に挽回する会心の秀作になっています。しんちゃん映画は同じ趣向が2度は使えないものが大半ですが、中でも未来へのタイムトラベルものは今のところ本作きりで、「未来の自分たちと出会って協力する」趣向は2度は使えないものであり、そういう意味でも本作が本作きりの達成を示してくれたのはシリーズ中でも珍重すべき逸品と言えます。シリーズへの注目度によっては公開時期次第ではもっと大ヒットしても良かったと思える作品です。

集成版『荒野のチャーリー・ブラウン』第一章

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 第一章。
 ある暗い嵐の夜でした。
水皿の水にぼくのかおがうつっている。ぼくはのどが渇いているけど、この水をのみほせばぼくのかおは見られなくなる。ならぼくを見ているほうがいいや。そうナルシシストの小型ビーグル犬は考えると、そろそろおやすみの時刻かな、と犬小屋の屋根に億劫そうに上りました。彼は閉所恐怖症なのです。
 空模様はまずまずで、犬小屋には実は広大で快適な地下室もあり、タイプライター(執筆に関しては、彼はアンチ・パソコン派でした)を据えたデスクの正面には不運な火災で焼失するまではゴッホの小品が飾ってあり、やむなくビュッフェに変えてからは自分の創作力も低下しているように思えるのでした。「ある暗い嵐の夜でした……」
 彼は脊柱ががっちり犬小屋の屋根の峰を押さえこんでいるのを背筋の感触で確かめると、この小屋を彼に与えたくりくり坊主の少年のことを思い出し、自分ほどの知性ある犬、なにしろ少年の知人の少女には人間だと思われていたことすらあり、かつての戦線では撃墜王として勇名を轟かせ、探偵経験も弁護士資格も持ち、絶版ながら小説の著作も一冊ある(「ある暗い嵐の夜でした……」)。なのになぜあの少年はくりくり坊主としか覚えられないのだろう、と小首を傾げました。
 まあそれは自分のせいではないのだろう、とこの自惚れの強い小型ビーグル犬は気持よさそうに伸びをし、自分が彼らにどう呼ばれているかを、心地良い優越感とともに思い巡らしました。くりくり坊主とその仲間たち、その誰を取っても彼の名前と結びつけずには人物像が浮かばないほど、世界は彼を中心に形成されていたのです。
 ではもしあの少年の名がシルヴァーまたはゴールドだったら?あるいは陰影の深いアジュールやグレイやブラックだった?色鉛筆や草花のようにレッド、ローズ、パイン、ミント、グリーン、ヒース、プラム、ガーネットだったら?
 ……ですがそれはあり得ないことでした。 少年の名前はチャールズ、愛称チャーリー。そして名前はブラウン、変哲もないブラウンだったからです。彼は何の役目も持たずにこの世界に生まれ、たまたま知らないうちにチャーリー・ブラウンという個性になったのでした。それでもスヌーピーにとってはただのくりくり坊主でしかなかったのです。


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 スヌーピー、やっぱりここにいたね、とチャーリー・ブラウンは犬小屋まで走ってくると、スヌーピーからすれば間の抜けたあいさつとしか受け取りようのない第一声を上げました。スヌーピーはタイプライターを芝生に出して、ウッドストックに口述筆記させている最中でした。この種目不明の雑種らしき小鳥はその実、有能な秘書なのです。
 (''''''''''''''''……!?)と、ダッシュと感嘆符だけでしか喋れないウッドストックはスヌーピーを見やりました。これはチャーリー・ブラウンには小鳥のキーキー声にしか聞こえませんが、スヌーピーには言語として通じるのです。そしてスヌーピーの犬語はチャーリーにはテレパシー解読できますから、スヌーピーを通訳にすれば三者会談は成立するのですが、そもそもチャーリー・ブラウンはウッドストックの意見に耳を傾ける発想がありませんでした。
 わざわざ自分を探しにくるのならそれなりの用があるのだろうと、スヌーピーはくりくり坊主の次の言葉を待ちました。スヌーピーは首輪はされていませんが、理容店ブラウン家の庭住まいですからたいがいは自分の小屋にいるのが普通です。チャーリーがことさら探すまでもありません。
 ルーシーがたいへんなんだよ、とくりくり坊主は荒い息で、肩を上下させながら言いました。よほど急いで来たのでしょう。スヌーピーはふーん、それで?と鼻先だけで続きを促しました。ウッドストックはいつもの冷静さで彼らのやり取りをスペルミス一つなくタイピングしています。どうたいへんかって……。
 ライナスの毛布を引きちぎったかと思うとピッグペンから埃をはたき落とし、あのフランクリンに人種差別的な暴言を吐きながらペパーミント・パティとマーシーのおしゃべりに割って入って眼鏡を奪うと踏み割り、シュローダーのトイピアノを叩き壊して走り出して行ったんだ。気がつくとライナスはリランのオーバーオールを被せられ、指をしゃぶろうとすると指がなかった。
 だからあと、とチャーリーは息せききって、言葉を継ぎました。ルーシーが標的に選ぶとしたらここなんだ。もちろんぼくのグローブもまっ先にこれさ、と彼はボロボロの残骸を未練惜しげにぶら下げました。チャーリーは自分のチームのピッチャー兼監督なのです。だから早く……何?
 スヌーピーは無言でチャーリーの背後を指差していました。もうルーシーは来ていたのです。


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 チャーリーよりも早くルーシーの姿に気づいたとはいえ、スヌーピーは視力が弱く普段はコンタクトレンズを着けてました。今はたまたまレンズを着用し、またチャーリーの話から事態は予測できましたが、もしコンタクト着用でなかったら彼はルーシー以外の人影でも指差したに違いありません。もちろんビーグル犬ですから、少女と少年の区別は嗅覚で見分けることくらいできますが。
 眼鏡を良しとしないほどお洒落なスヌーピーでも、ヒゲを生やさなかったことは後悔していました。彼は恋多き性格で、何度か結婚寸前まで話が進んだこともありましたがいずれも破局してきました。そのうち最大の打撃は、結婚式の直前に媒酌人を頼んだ実兄のスパイクに婚約者を奪われたことで、兄とスヌーピーの違いはヒゲの有無だったのです(もっとも彼女はすぐに兄を捨ててコヨーテに乗り替えましたが)。
 そうしたいきさつもあって、スヌーピーのガールハントの対象は人間の少女になったのです。というよりは、スヌーピーは異性の気を惹かずには済まないタイプだったので、犬であろうと人間であろうと異性であれば良かったのです。スポーツ万能で、さらにさまざまなスポーツに挑戦しているのもモテるためでした。 チャーリーの野球チームでも不動のショート、冬にはアイスホッケーにいそしみ、スケートリンクの製氷車の運転もこなして製氷車メーカーから表彰もされました。さらに耳を回転させてヘリコプターのように飛行することも可能です。成犬になってからは背中に大きな黒斑がありますが、確認した者がいないのはスヌーピーが誰にも決して背を向けないからでした。
 またスヌーピーはチャーリーと親しい女の子には、挨拶代わりや落ち込んでいる時等のなぐさめに、キスをすることがしばしばありました。ただし、まれにチャーリーにもキスをすることがあるので、深い意味はないのです。紳士のたしなみ、という程度のことでしょう。
 ですが、チャーリー・ブラウンから聞かされた話では、これらさまざまなスキルはルーシーの襲撃に何の効果もあるとは思えませんでした。だとすればチャーリーが危険な事態を予告しに来てここに居合わせているのは、かえってルーシーを刺戟することになりかねず、スヌーピーとウッドストックにははた迷惑なことでした。


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 スヌーピーの住む犬小屋は、外見では想像できないほどの伝説的な広大さを誇っていました。伝説的というのは、実際に小屋の内情を知るのはスヌーピー本人と唯一小屋への出入りを許された親友にして秘書のウッドストックだけであり、小屋を建てたチャーリーは自分でさまざまに手入れをほどこしたスヌーピーから小屋の現況を聞いているだけでした。
 スヌーピーやチャーリーによれば犬小屋の中には地下室に繋がる階段があり、地下室の玄関ホールにはトルコ織りの大層なカーペットが敷いてあって、観葉植物が置かれていたりスクリーンプロセッサーつきテレビやエアコン、さらには卓球台やピンボール台、ビリヤード台までもが設置してあるといいます。スヌーピーはテレビゲームもパソコンも嫌いなのです。
 しかも地下室、いや地下フロアはいくつかの部屋に区切られており、図書室や美術室、視聴覚室、取り調べ室、検査室、監禁室、手術室まであります。ライナスが世界の恐怖を察知して逃げ込んできたり、することもなくテレビを見ていたりすることもあるそうですが、ライナスの証言はパインクレスト小学校では単なる夢想としか見なされていないのです。
 居間には、かつてはゴッホの小品が飾られていましたが、不審火(ただし犯罪の可能性はなし)で焼失、その後はビュッフェの小品があるじには不本意ながら飾られています。これほど広大なので時々チャーリーやライナス、シュローダーが大掃除を手伝いますが、ぼんくらな彼らは掃除をしてきても何ひとつ観察してきたためしがありません。
 この犬小屋は、スヌーピーが宿敵である隣家の猫WW-2をからかうたびに頻繁に破壊されますし、時には飛行機や、また空の宿敵レッド・バロンとの対決では戦闘機となり、撃たれて穴だらけになったり煙を上げて炎上したりしますが、こうしたイレギュラーな機能性が原因で受けた被害は、チャーリーやスヌーピーが修復するまでもなく自然回復しているのが常でした。
 つまりこの犬小屋は単なる犬小屋ではなく、自分たちと同等の、生きている何かでした。それはすでに人格と肉体を備えたものでした。チャーリーが直感し、泡をくって駆けつけてきたのはスヌーピーの安否もありますが、むしろもっと悪い予感が的中したようでした。ルーシーはバットとシャベルを握りしめ、表情はあからさまに犬小屋の破壊を宣言していたのです。


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 スヌーピーはさまざまな色の皿を持っていますが、普段は赤い皿をごはん皿、黄色い皿を水皿として使用しています。かつてはスヌーピーには皿の種類を区別できていないと思われていたこともありましたが、これは犬が色盲と思われていたことが原因で、色覚的には人間と異なる熱感知で一般の犬でも色彩は区別しているのです。
 皿の直径は10.25cmで、これは食器メーカーが皿を5280回廻ると1マイルということから定めた大きさでした。なぜ1マイルの5280回分かというと皿は虫達の競技大会のスタジアムとして使用されることもあるからで、これは皿に合わせて適合サイズの虫が集まったのか、虫に合わせて食器皿があつらえれたのかわかりません。どちらもでしょう。
 スヌーピーとウッドストックは冬には皿に乗って、ソリ遊びのようにして楽しみます。これもごはん皿にあらかじめ併用すべく与えられた機能かもしれないので、スヌーピーという非凡なビーグル犬だけがペット用ごはん皿の思わぬ潜在用途に気づいたのでした。それほどに、ごはん皿はスヌーピーにとって重要なアイテムなのです。
 彼は旅に出かける際にも、ごはん皿を帽子のように被りどこにでも持ち歩きます。しかし、食いしん坊のスヌーピーはドッグフードを食べる際に皿を嘗め回すので、すぐに皿の底に穴を開けてしまうのでその消費量はすさまじく、これ以上皿を買い換えるならチャーリー・ブラウンのお父さんの散髪屋を畳まなければならなくなると言われたほどなのでした。
 パインクレストじゅうでもスヌーピーの水皿は犬小屋並みか、それ以上にミステリアスでした。この水皿では釣りをすることもできますし、さらにはホエールウォッチングをすることもできるのです。それはこの水皿が全世界の水源に通じていることで、また、水皿に頭を突っ込むことがスヌーピーには最高のリラックス法でした。ワニに襲われなければですが。
 ですからスヌーピーは、今まで使用していたごはん皿、水皿はすべて写真に撮りアルバムに収め、ときどき眺めては昔を思い出していました。……それほど彼の思いのすべてが詰まったごはん皿と水皿が、今バットとシャベルをぶら下げたルーシーの足下にあったのです。スヌーピーは名状しがたい叫び声をあげました。それは彼がずっと封印していた野生の呼び声でした。


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 スヌーピーは知性を獲得するに従って、多くの仮装をするようになっていました。いわゆるコスプレであり、そのレパートリーは140を超えるとさえ言われています。ですが変装の多くが「世界的に有名な…」(The world famous...)という肩書きで始まるものが多いのは、この犬の虚栄と想像力の限界を表すものでした。

・ジョー・クール(Joe Cool)……サングラスがトレードマークの大学生。キャンパスをぶらぶらしてガールハントをしている。
・第一次世界大戦の撃墜王(The World War 1 Flying Ace)……愛機「ソッピース・キャメル」を操縦し、さっそうと大空を駆け巡る操縦士。ゴーグル付き飛行帽を被りマフラーを締めた姿で「フォッカー三葉機(フォッカー Dr.I)」に乗るライバルのレッド・バロンとの空中戦を繰り広げる。夜になると戦地フランスの小さなカフェ(マーシーの家。給仕はもちろん彼女)へ行き、ルートビールを楽しむ。ウッドストックが担当整備兵やレッド・バロンの助手”ピンク・バロン”に、マーシーがフランス娘になりきることも多い(マーシーはスヌーピーを人間と思っているため)。
・小説家(Novelist)……毎回「暗い(真っ暗な)嵐の夜だった」(It was a dark and stormy night…)で始まる小説を愛用のタイプライターで書き続けていますが、出版社からは送り返され続けており、唯一出版された本もたった1部で絶版。ルーシーからアドバイスは受けていますがあまり参考にならないようです。
・法廷弁護士(Counselor)……山高帽(驚くと飛ぶ)と黒い蝶ネクタイを着用し、常に鞄を引きずって、名刺には「破産処理、財産管理、事故処理、医療問題、遺言検認、遺言書作成、そして、犬にかまれたときに」と書かれています。ピーター・ラビットや赤ずきんが顧客になったことも。公判の日に法廷の場所が分からなくなることもしばしば。
・ビーグル・スカウト(Beagle scout)……ボーイスカウト。隊員達はウッドストックをはじめとする小鳥達。ところが小鳥達は変わり者ばかりで思わぬ行動を取ってスヌーピーが困惑する事も少なくありません。

 ですが今スヌーピーが陥っている危機には、それらの文化的擬態は何の役にも立たないことでした。しかも、彼には犬族の牙がなかったのです。


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 彼の好きな食べ物はドッグフードはもちろん、チョコチップクッキーやピザ、アイスクリーム、ルートビールなどでした。ただし好みは気紛れで、大好物のはずのチョコチップクッキーやアーモンドクッキーのような「食べ物が中に入った食べ物」は嫌いと言うこともあります。彼は犬歯を始めに犬の歯並びをしておらず、人間と同じ歯並び……しかもかなりきれいな歯並びをしているのが、にんまり笑うと確認できました。二足歩行の習慣といい、先天的にせよ後天的にせよ、彼は動物学的にはあり得ない犬でした。
 大親友のウッドストックの言葉を理解できるばかりか、さらにウッドストックの仲間たちとコミュニケーションや区別が出来るのはスヌーピーだけでした。スヌーピーのお腹の上で寝たり、アイスホッケーで遊ぶなど彼らは仲良しコンビでした。母の日には一緒に空を眺めてそれぞれの母親を想ったりもしました。
 スヌーピーは猟犬の犬種であるにも関わらずウサギが大好きで、弁護士の変装時にはピーターラビットを筆頭にウサギの弁護をしたり、ウサギ達もスヌーピーが病院に入院すると見舞いにくるほど親睦を深めていました。
 苦手なのは隣家の猫のWW-2やココナッツ、ビーツなど。猫は一般に駄目で、フリーダの飼い猫・ファーロンも嫌っています。閉所恐怖症なのは先述しました。チャーリー・ブラウンとの絆は強いのですが、いつまでたってもチャーリーの名前を覚えず「くりくり坊主(round-headed boy)」と思っているようです。
 誕生日は8月10日。初めは、この日か8月28日かはっきりしませんでした。
 スヌーピーはチャーリーが引き取る前は、ライラという少女のもとにいました。しかし飼い犬禁止の家に越すので飼えなくなったために、生まれ故郷のデイジーヒル子犬園へと戻されていたのです。
 伝説によれば、出会いはこうでした。幼いチャーリーが砂場で遊んでいると、隣にいた見知らぬ子供に頭からバケツいっぱいの砂を浴びせかけられました。彼は泣き出し、お母さんが慌てて家へ連れ帰りました。翌日チャーリーの両親は彼を車でデイジーヒル子犬園へ連れてゆき、一匹の仔犬を買い与えた、というものです。別の伝説では、新聞広告を見たチャーリーがライナスとともにでかけ、5ドルで引きとったことになっています。
 それがスヌーピーのおおまかな来歴でした。


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 チャーリー・ブラウンの妹サリーを候補から外すなら、ルーシーことルシール・ヴァン・ペルトはパインクレスト小学校の女帝、ダーク・ヒロインというべき存在でした。いや、サリーなどはルーシーの弟ライナスに熱を上げ「私のすてきなバブーちゃん」と迫っては避けられている(自分のことは「あなたのバブエットちゃん」と呼ぶ)程度の可愛いもので、勉強嫌いでいつも宿題を兄に手伝ってもらうが成績はそれなりに良いとか、夏に行われるサマーキャンプが大嫌いとか他愛のないものです。
 パインクレスト真の脅威はルーシー、本名ルシール・ヴァン・ペルト、ライナスとリランの姉でした。それはもうずっと以前からこの町の定説でした。
 彼女はわがままで口うるさい性格に加えて、ライナスに対しては安心毛布や指しゃぶりをはじめ疎んじて当たり散らしますが、リランに対しては優しく接していた頃もありました。しかしリランが成長するにつれて、彼をも徐々に疎んじるようになりつつあります。それほどに、彼女の弟たちへの愛憎は自分本位で気紛れなものでした。
 アメリカンフットボールのホルダーを務め、チャーリーが蹴ろうとする瞬間に反射的にボールを引っ込めてしまうのは毎年の恒例行事でした。しかしこれには例外もあり、チャーリーが短期の入院から退院した際にはしっかりと押さえていましたが、彼が間違って彼女の腕を蹴ってしまい、骨折させられたこともあります。また、まだ甘やかしていた頃に、弟のリランにボールを託したためにボールを蹴られてしまった失策もありました。
 チャーリーの野球チームではライト、まれにはセンターを務めますが、守備がザルでフライを取れたためしがありません。一時ペパーミント・パティのチームにマーシーとトレードされましたが、あまりの下手さに呆れられ、結局元通りになりました。
 基本料金5セント(最高50セントまで上がる)でカウンセラーをしており、チャーリーたちの悩みを独断と偏見でさらりと解決するのも趣味でした。シュローダーが好きですが関心を得られず、彼のトイピアノを破壊することもしばしば。男の子には口うるさく侮蔑的で、スヌーピーにキスされようものなら、間接であっても「黴菌もらった!消毒して!赤チン持って来て!」と大騒ぎします。
 誰もが知るルーシーは、そういう女の子でした。


  (9)

 チャーリー・ブラウンの報告によると、ルーシーはライナスの毛布を引きちぎったかと思うとピッグペンから埃をはたき落とし、フランクリンに人種差別的な暴言を吐きながらペパーミント・パティとマーシーのおしゃべりに割って入って眼鏡を奪うと踏み割り、シュローダーのトイピアノを叩き壊して走り出して行ったのだといいます。気がつくとライナスはリランのオーバーオールを被せられ、指をしゃぶろうとすると指がなかった。これは気にかかる下げですが、今ライナスのおしゃぶり指の行方を忖度しても正確な事態はつかめないでしょう。
 だからあと、とチャーリが言うには、ルーシーが標的に選ぶとしたらここなんだ。もちろんぼくのグローブもまっ先にこれさ、と彼はボロボロになった残骸を未練惜しげにぶら下げていました。いったいルーシーはどうしちゃったんだろう?ぼくたちみんなにこんなひどいことをして。
 それは極めて明瞭なことではないかね、と、すかさずシャーロック・ホームズ姿に変装したスヌーピーはパイプを傾げました。ワトソン博士に扮装したウッドストックが('''''''''''……!?)と合いの手を入れます。
 つまりはこういうことだよ、一般に動機のない行為、ことに犯行のように重大なリスクを背負う行為に動機の伴わないことなどめったにないとすれば、ルーシーがしでかしたという今回の大騒ぎにも彼女なりの動機があったと見るべきだろう。つまりさ……。
 スヌーピーはもったいぶった間を置くと、ライナスの毛布、ピッグペンの埃、フランクリンの高潔さ、ペパーミント・パティとマーシーの友情、これらはルーシーが日頃から気に食わなかったもので、自分に関心を向けてくれないシュローダーのトイピアノをぶち壊したのもそうだ。リランのオーバーオールをライナスに着せたのも八つ当たりで、彼女が弟の指しゃぶりを嫌っていたのもみんな知っている。
 きみのグローブがまっ先に引き裂かれたのも仕方ないだろう、とスヌーピーはいまだに名前の覚えられないくりくり坊主を慰めて言いました。きみは善良な少年だが、草野球に関しては少々悪目立ちがしすぎた。だが、どうして私まで危険に備えなきゃならないんだい?
 きみはそのつもりはなくてもね、とチャーリーは膝をつきました。誰もがきみを、ぼくの犬だと思っているんだよ。


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 スヌーピーはやれやれ、話にならんわといった仕草をすると、この際きみの言う通りだとしよう、だが今回のルーシーのターゲットはいずれも人間どうしのことだよ。それがどうして私にまで類がおよぶんだね?
 チャーリーが答える前にスヌーピーは先回りしました。つまりライナスの場合なら毛布、マーシーなら眼鏡、シュローダーならトイピアノといった具合にルーシーの八つ当たりは器物損壊にも現れている。きみのピッチャーグローブもそうだ。シュローダーがグローブを携えていたらきっとそれもズタズタに引き裂いたに違いない、シュローダーはわれらのキャッチャーなのだから。グローブについて言えば、ルーシーほどひどいライトまたはセンターはいなかった。彼女は朝起きるとまっ先に自分のグローブを引き裂き、気づかれないうちにライナスのグローブも引き裂いただろう。少なくともライナスはルーシーよりは優秀なセカンドだから、八つ当たりされる資格は十分ある。
 ライナスのおしゃぶり指はぞっとする事件だが、とスヌーピーは身震いすると、だがこれはすべてパインクレスト小学校で起きたことだろう?彼女が犯行現場を市内全域に広げるとしたら、それこそルーシー自身にも収拾がつくまい。一般的な犯罪心理学では、犯罪者自身が自分の把握しきれる規模以上に犯行を拡大することはめったにない、とされる。ここはきみの家の庭だろう?きみの懸念通り彼女が私をきみの飼い犬として狙うにせよ、このテリトリーには入れないよ。
 そうなのかな、とチャーリーは飼い犬にあっさり説得されそうになりましたが、あのさ、きみはぼくが悪目立ちしているピッチャーだって言ったよね。
 気を悪くしたかい?少しはお世辞も言いたいが、歯に衣着せない犬なんでね。
 ぼくが心配しているのもそれさ、と下手に出ながらチャーリー。良かれ悪しかれきみほど目立つ犬はいない。それはぼくの飼い犬でなくても、パインクレスト小学校の外であってもわざわざ襲撃しに来るに値しないだろうか?
 ルーシーには私に危害を加える動機がないよ。
 それはぼくたち全員だって主張したいさ!それにスヌーピー、彼女はきみに危害を加えたいというより、きみの犬小屋をぶち壊したいんじゃないかな?
 ……そして現れたルーシーの形相は、チャーリー・ブラウンの予想をはるかに超えていました。
 第一章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

集成版『荒野のチャーリー・ブラウン』第二章

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 第二章。
 スヌーピーが引き取られてからブラウン理髪店の庭の居心地の良い小屋に落ち着くまでには、二か月以上の内装工事がかかりました。その間チャーリーはどれだけパインクレストじゅうを買い物してまわらなくてはならなかったでしょう。スヌーピーもまた、早くもこの町で親友になったウッドストックを通じて小鳥の室内装飾職人探しにふけり(小鳥は器用なのです)、取りとめのない思案に暮れていたのでした。
 ずっと前から、彼は色彩の現す真実と嘘を知り抜いていました。ガールハントにうつつを抜かして片っ端から連れ込んでいた頃ですら、外国産の彫刻つきの、珍しい蒼白の木製家具を並べて、ばら色のビロードをテントのように広げ、布ごしの艶めかしい光りに女の子たちの毛並みがしっくりと溶け込むように工夫していたほどでした。
 この部屋はさらに、四方の壁に合わせ鏡が取りつけてあり、薄荷のお香を焚いた空気は彼女たちにまるでばら色の湯浴みをしているような陶酔を与えました。
 ですが、度を超したトリートメントや怠惰な生活から荒み弛んだ彼女たちの毛並みを少しは補えるこの甘い空気を恩恵としても、スヌーピーには彼だけがこの部屋で味わう特別で陰気な悦びがありました。それはいわば禍々しい過去や、失った倦怠の思い出を活気づけ、快楽に高めるための儀式でした。
 子犬時代への憎悪と侮蔑から、彼はこの部屋の天井に、コオロギを一匹入れた小さな針金のかごを吊していました。コオロギはケンタッキーの月の下でもあるかのように、ここでもよく歌いました。子犬の頃から親しいその虫の鳴き声をまた耳にすると、スヌーピーの目の前には母犬といっしょだった小屋の夕方の狭く重苦しい風景が現れ、あまりにも短かった子犬時代と突然の孤独が再び彼の体を引き裂くようでした。それは犬ならば逃れられない宿命でしたが……。
 そして彼の感傷は、もの思いにふけりながら半ば機械的に愛撫している相手がふと身を反らしたり、声を上げたり、笑ったりすればたちまち彼を現実に連れ戻し、彼を混乱に、それから現実への一種の復讐の感情に駆り立てるものでした。
 そんなのはもううんざりでした。新しい生活がスヌーピーを待っているはずでした。彼は現実にはもう十分に傷ついてきた、大人の犬だったのです。


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 そうした風変わりな趣味で他人を驚かせていたのも、すでに消え去った昔の夢でした。今のスヌーピーにとっては、過去の自分の行状さえも軽蔑の的であり、それはライラに手離されて再び子犬園に運命を託されていた数日間の深い絶望をくぐってきたからかもしれません。そこは偶然の手によって救い出されない限りは、ガス室送りの順番待ちの待機室であり、強制収容所同様に希望のない無情な拘置所でした。
 スヌーピーには危機的状況を経験した者によくあるややナルシシスティックな自意識、あの時自分は落命したので今は死後の世界にいるのかもしれないというような呑気さは持ち合わせていませんでした。なにしろ子犬園は保護頭数が定員をオーヴァーすれば手頃な犬種を残して月並みな雑種から始末しますし、犬のような高貴な種は本来性的にはストイックですから出生時期や乳離れも世代ごとに一斉に繰り返されます。スヌーピーはライラという少女に飼われ、彼女の転居の都合で子犬園に託されたので、ちょうど年に二回巡ってくる大虐殺の合間に、すっぽりはまり込んだ格好になったのでした。
 人間でいえば彼は半端に留年、または飛び級したようなものでした。たかだかそれだけの偶然が僥倖となり、スヌーピーは過酷な生存競争から生き延びたのです。チャーリーが友達を作るのには内気だとブラウン夫妻が考えた時、またチャーリーが当時数少なかった友達のライナスに飼い犬の相談をした時、誰もが思い浮かべたのが活発な猟犬種ながら小柄で愛玩種足りうるビーグル犬の子犬であり、それこそがチャーリーに欠けているものを埋め合わせてくれるはずでした。そして子犬園にはその時、スヌーピー以外のビーグル犬はいなかったのです。
 スヌーピーを得てチャーリーの生活はみるみるうちに活発で楽しいものになり、友達も自然に彼の周りに集まってきました。ですがそれはチャーリーが快活で愛嬌ある少年に成長したというよりも、不器用なチャーリーがマイペースなビーグル犬に振り回されている様子を面白がってパインクレスト小学校の名物生徒になってしまっただけで、チャーリー本人は公園の砂場で知らない子供に砂をかけられて泣いていた頃のチャーリーから大差はなかったのです。小学生たちにも、それに気づかない者はいませんでした。ましてやチャーリー本人もはや。


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 スヌーピーの主張する通り、たとえルーシーがパインクレスト小学校の秩序を滅茶苦茶にしてきたからと言って、それがすなわちスヌーピーの危機にもつながるとは飛躍した見解でもありました。確かに彼はチャーリーの犬(端的に言えば)であり、ライナスの友人でもありますが、それをもってルーシーの怨恨の対象になるならばブラウン理髪店だって十分に危険です。
 ですがチャーリーの言うルーシーの凶行がそのように常軌を逸した、狂暴なものならば、本当にブラウン理髪店まで襲撃されかねないし、スヌーピーの身にも危険がおよぶ可能性は十分ある。彼はルーシーと関わることはあまり直接にはありませんでしたが、マーシーやペパーミント・パティに対してと同様に気落ちしている少女に慰めのキスをするたしなみがあり、マーシーやパティには気持が通じましたがルーシーの場合は間接であってもキスしようものなら「黴菌もらった!消毒して!赤チン持って来て!」と騒ぐのです。
また、チャーリーの草野球チームでスヌーピーは鉄壁の守備を誇る不動のショート、対するにルーシーは凡フライすら捕れないライトでした。こうして上げていけば、スヌーピーの英雄的活躍の陰にルーシーの道化的失敗談がついてまわらない方が少なく、犬にも劣る屈辱を味わわされたのは男の子たちも変わりありませんが、少年たちの場合は犬になら負けても仕方がないやとかえって切り替えは早いのです。ですが、ルーシーはとことん根に持つタイプでした。
 それを言うならスヌーピーは、ビーグル犬であるという特権によってパインクレストのお犬様的存在であり、超法規的な行動が公然と認められていたのです。当然納税だってしてはおらず(検疫は受けていましたが……これだけはチャーリーには荷が重いと、お父さんが連れて行っていました)、スヌーピーをやっかみ、逆恨みしようと思えばルーシーならずとも、誰でもそのきっかけはあったのです。
 チャーリーが以前から漠然と恐れていたのもそこでした。パインクレストの人々はスヌーピーのことなら大目に見てくれ、楽しんでくれさえしている。だが現状こそが異常なのであり、ある日ふとスヌーピーに対する認識が反転しやしまいか。突然スヌーピーを見る目が嫌悪と憎悪に変化しはしないか、と。また、その時チャーリー本人はどうなってしまうのか、とも。


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 スヌーピーはチャーリー・ブラウンの世話焼きを日ごろ干渉過剰に感じていました。飼い犬が手を噛むというのを実際にやってみたらどうなるんだろうな。酷たらしい殺人現場、むくろとなって横たわるチャーリー・ブラウン。その頃サングラスで顔を隠した一匹の犬がソフト帽を深くかぶり、トレンチ・コートの襟を立てて国境を越えようとする。二足歩行をマスターしてから、スヌーピーは自分から明かさない限りは、その場限りでは人間で通るのです。国境は東西に長く長く延び、西には太陽が暮れて東には太陽がのぼるところでした。
 国境警備員はスヌーピーの偽造パスポートをスキャナーで確認し、指紋と声紋を照合しました。指紋は偽装用手袋で、声紋はジューズ・ハープでこなすのがスヌーピーの手口で、偽造指紋という19世紀からあるトリックが未だに通用するのは呆れるばかりですが、あまりに原始的で古典的な手口のためかえって最新の検査法では網にかからないのかもしれません。
 ジューズ・ハープの方は、もし彼がプロの演奏家の道を選べば世界的なトップ・プレイヤーと目され、世界中の作曲家が彼のためにジューズ・ハープのための協奏曲を書き、あらゆるオーケストラから競演の声がかかり、映画音楽に採用されれば大ヒットして商店街の有線放送でも流れ(もっとも彼はディズニー映画だけはお断りでしたが)、甲子園ではブラバン応援曲にアレンジされて盛り上がり、紅白歌合戦にもゲストで呼ばれるので無理難題を出演条件にしたりして、それもけっこう楽しい生き方だったかもしれません……パインクレストのアイドル犬に甘んじるよりは。
 ですが今スヌーピーは中南米への遁走の途上にありました。ブラジルかアルゼンチンか。彼は旧友の故ザル・ヤノフスキーを思い出しました。ザルは好人物で才気溢れる男でしたが、密売品を購入したために逮捕され、密売人の連絡先を自白させられたので仲間から密告者の汚名を着せられて爪弾きになり、しばらく消息を絶った後に届いた絵葉書が「アルゼンチンで元気です」というものでした。
 それもいいが、とスヌーピーは思いました。おれが去ったパインクレストはもうおれのいたパインクレストではないだろう。ならばパインクレストを去ったおれは、パインクレストにいた時の力を徐々に失っていくに違いない。そして一介の、ただの野良犬になっていくのだ。

  (15)

 かつてスヌーピーが望んだのは、ランプの人工的な光に照らされることでよりいっそう映えるような色彩でした。昼間の光には味気なく見えても構いません。彼が小屋にこもりきりになるのは夜でしたから……誰もが自分だけの部屋で孤独にいる時こそ快適であり、精神は夜の闇に包まれている時こそ真に活性化する、というのがスヌーピーの持論でした。パインクレストの町が夜の闇に寝静まる時、ひとり小屋の地下室でランプの下に起きているのはスヌーピーだけの悦楽でした。この悦楽は職人が他人を締め出して念入りな仕事にこもるような、一種の虚栄心にも通じるものでした。
 スヌーピーは入念に、あらゆる色を検分しました。青はロウソクの光で見ると不自然な緑色にくすみます。空色や藍色のような青ではほとんど黒くなり、明るい青でもロウソクの光では灰色に変わります。トルマリンのように暖かく柔らかでも艶を失い、冷たい色になるのです。ですから、補助色のように配合して用いる以外にシアン系の色彩は部屋の基本色には不向きなのは明らかでした。
 一方、茶色はランプの光で見ると、濁って鈍く見えました。真珠色は透明な青味が失せて、汚いだけの白になります。灰色は眠たげで冷たくなり、深緑はといえば濃紺と同様に黒の中に沈んでしまいます。
 そうして青は駄目、緑は濃いほど駄目となると、青味を極力含まない緑、つまり淡い黄緑や浅黄色に行きつくしかありませんが、それらもランプの光の下では不自然な色調になり、やはりどんより濁ってしまうのでした。
 サーモン・ピンクもコーン・イエローも、昔ながらの薔薇色もさらに問題外でした。薔薇色は女性的で、孤独の思想には矛盾しています。とはいえ紫色は寒々しく、これも駄目。赤色だけが夕方の光の中でぐっと映えてくるのですが、ひと口に赤と言ってもその種類たるや!べたべたした赤や、赤ワインの搾りかすのような赤ではどうしようもありません。こうした色は安定感がなく、たとえば彼は気管支炎の鎮静用シロップを服用していますがふとした光の加減で嫌な紫色に見える時がある。そんなふうに部屋の内装がちょっとした加減で変色して見えるのではたまりません。
 そうして除外していくと、三つの色だけが残りました。それが赤と、オレンジと、黄色でした。


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 要するにルーシーはさ、とスヌーピーは言いました。コブシで語り合いたかったんじゃないのぅ?-というのがこの賢者の犬の見解でした。文法的に限定すると賢者の犬の「の」は所有格ではなく形容副詞の「の」です。前者の用法なら賢者はチャーリーということになり、これは彼にはいささか荷が重いでしょう。では後者、賢者たるスヌーピーの場合この極端に怠惰かあそんでばかりいるかの犬のどの辺が賢者かを説得力ある説明するには難しいことですが、人間に較べればゴキブリ一匹さえも合理的ならざる活動はしません。スヌーピーの場合は限りなく人間に近づいた犬ですがそれでも犬は犬なので、単に犬であるということだけでも人間との比較において十分に賢者と呼べるのでした。Q.E.D?
 だからさ、きみの言うとおりルーシーが、パインクレスト小学校に登校してくるやいなやライナスの毛布を引きちぎったかと思うとピッグペンから埃をはたき落とし、高潔なフランクリンにこの黒人野郎と暴言を吐きながらペパーミント・パティとマーシーを追い詰めて眼鏡を奪うとグシャッと踏み割り、シュローダーのトイピアノを叩き壊して走り出して行ったのは、要するにルーシーなりのコミュニケーションなのさ。
 それじゃライナスがリランのオーバーオールを被せられ、指をしゃぶろうとすると指がなかったのはどうなるんだい?それもコミュニケーションかい?
 姉と弟の間柄なら他人よりもいくらかは過剰になるものさ。
 でもね、それでも、まだ済んでないのは、とチャーリーは息せききって、言葉を継ぎました。次にルーシーが標的に選ぶとしたらここなんだ。もちろんぼくのグローブもまっ先にこれさ、と彼はまだボロボロの残骸を未練惜しげにぶら下げていました。
 それはもう聞いた、とスヌーピーは冷淡に、場合によってはルーシーはみんなの気持を代弁しているということにもなるだろうね。
 ひどいよスヌーピー!ぼくの場合はいいザマだって言うのかい!?
 まあ熱くなることはないさ、と賢者の犬。誰にもルーシーの本意はわからない。突然イカレちゃったようにも見えるし前からイカレていたとも言える。
 そんな、とチャーリー・ブラウン。ならぼくたちは、どっちみち諦めなきゃならないっていうのかい?


  (17)

 わぁ驚いた、と偽ムーミンはわざとらしいほど全身を震わせてテレビに見入りました。偽ムーミンは偽者ですから時には本物のムーミン以上にムーミンらしくしていなくてはならなかったからです。本物のムーミンはその頃13号埋め立て地の月からいちばん近い倉庫の中で凍り詰めになっていました。倉庫自体が冷凍庫になっている倉庫です。尋常な恒温動物なら生きられはしませんし、ムーミンはトロールですから変温動物ですらありませんが、凍るからには何かしら物質的存在といえる実質がなければいけません。何もなければ凍ることもないからです。
 やれやれ今年は喪中ハガキが多かった、とムーミンパパが首をコキン、と鳴らしました。ムーミン族には骨格などありませんが、書き物や読み物でくたびれた時にそうするのはムーミン族にとってもボディ・ランゲージなのです。
 喪中の人にはクリスマス・カードで代用しておくべきだろうな。どう思うムーミンママ?
 クリミア戦争のことですか、それとも鳥インフルエンザのことですか?とムーミンママが床にモップをかけながら言いました。ムーミンママはきれい好きですから、このモップは買ってから一度も洗ったことがないのです。
 いや、そのどちらでもない!とムーミンパパははぐらかされた思いでしたが、言われてみればこれほど喪中ハガキが大量に来た年も珍しく、狭いながらも世界のすべてであるムーミン谷でこれだけの喪中があろうものならもっとやっかいな事態になっていてもいいはずです。
 おいムーミン、とムーミンパパは息子を呼びました。偽ムーミンは腹ばいになってポテトチップスをつまみながらテレビに見入っています。偽ムーミンが聞こえないふりをしているのは、テレビに夢中、またはポテトチップスに夢中だと何も耳に入らないほうがムーミンらしいからです。おいこのボンクラ、とムーミンパパ。ン、と偽ムーミン。
 なぁにパパ、と偽ムーミンはまるで興味ない様子で向き直りました。いやアレだ、とムーミンパパは決まり悪げに訊きました。お前の観ているテレビか何かで、今年何かぶっそうなことはないかね?
 それなら今ちょうどテレビでやっているよ、と偽ムーミン。アメリカ人少女ルーシー・ダットンがビーグル犬とその飼い主を追って、毎日町一つを殺戮しながら北米大陸を徘徊中、だって。


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 普通これはないんじゃないかなぁ、とチャーリー・ブラウンはボヤきました。どこがやねん?とジェスチャーするスヌーピー(このビーグル犬は筆談はできますが、さすがに人語は発音できないのでミミックで会話するのです……たいがいの人には人間を馬鹿にした犬のような仕草に見えますが)。これだよ。
 手錠だよ!とついに温厚、というよりはお人好し、というよりはうすのろのチャーリーですら我慢がならずに叫びました。そういう時チャーリー・ブラウンは類型的なアメリカ人少年のボディ・ランゲージとして顔は天を仰ぎ、両腕は翼のようにお手上げするのですが、いかんせんチャーリーの右手首はスヌーピーの前肢とつながれていたので右手からはビーグル犬をぶら下げたどこかの抜け作のように見えました。
 彼らの会話を追って記述するより要点をまとめると、つまり彼らは無銭飲食で捕まって押送中に逃げてきたのです。無銭飲食などはアメリカ市民なら当然の権利とまでは言わずとも人生で一度や二度は通る道、今さらながら失敗が悔やまれるのは安易に手錠のままで脱走してきてしまったことでした。せめて手錠が外されるまで待つべきだったのです。
 それにしてもさ、とチャーリー、たとえキミが二足歩行の犬だとしても、普通は人と犬を手錠でつなぐって法はないんじゃないかい!ああそうだよ、共犯だからっていうのが司法の言い分だろうね。だけど未決犯にもちゃんと人権てものがあるのがこの国のはずなんだ!
 うなずくビーグル犬。いや、スヌーピー、勘違いしてもらっちゃ困るけど、人権があるのはぼくで、キミにはない。キミはぼくの私有財産でしかないんだよ。だから?とスヌーピー。だからさ、キミはぼくの私有財産だから……。空いている方の手で握手を求めるスヌーピー。
 愕然として現状に直面するチャーリー。余裕の姿勢で忠誠のポーズすらキメるスヌーピー。ああ、そういうことになるのか!要するにぼくは私有財産につながれているだけで、不当な懲罰であることを嘆くこともできないのか。そしてかえって有利な力関係になってしまったこの小型ビーグル犬の呑気きわまる態度!
 二足歩行といっても身長差は歴然としているので、手首を袖口で隠せば彼らは普通よりちょっとおかしい犬の散歩に見えたでしょう。しかしそれはチャーリーには拭いきれない屈辱感を味わわされることでした。チャーリーはぼんくらですが、標準価格米だってお米には違いないように自由に権利を主張できる一人の少年です。
・少年法の定める範囲内なら。


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 ……ですが当然スヌーピーとその飼い主の身長差は歴然としているので、手首の手錠を袖口で隠せば彼らは普通よりちょっとおかしい犬の散歩に見えたでしょう。しかしそれはチャーリーには拭いきれない屈辱感を味わわされることでした。チャーリーはぼんくらですが、標準価格米だってお米には違いないように自由に権利を主張できる一人の少年です。
・少年法の定める範囲内なら
 ねえパパ、少年法ってどんなものなの?と偽ムーミンが握り寿司の練習をしながら訊きました。お前学校の予習はいいがテレビのながら見しながらではいけないではないか、とムーミンパパは注意して、少年法?そりゃ大人にならんとお○○こしてはいかんということさ、と説明して高笑いしました。ムーミンパパは気の利いたことを言ったと悦に入ると哄笑するのです。ただし気の利いたことを言う権利はムーミン谷ではただ一人、自分しかいない、という点でムーミンパパはスノークやヘムル署長、ヘムレンさんやジャコウネズミ博士と明らかに対立関係にありました。
 もっとも彼らも同盟関係では常に腹に一物持つものがあり、誰がいつどのように誰かの寝首を掻いても当然のような不穏さで彼らムーミン谷の知識人層は結びついていました。ある朝ジャコウネズミ博士が起きるとヘムル署長に寝首を掻かれており、それはヘムレンさんの教唆によるものだと思い当たったスノークがムーミンパパに相談に行くとそれは罠で結局血祭りに上がったのはスナフキンだった、というたぐいの悪夢に全員が夜な夜なうなされている町、それがムーミン谷というおとぎの世界でした。
 お○○こ?と偽ムーミンはいちご摘みから帰ってきたムーミンママの気配を察知しながら訊きかえしました。なあにそれパパ、まだぼく学校で習ってないよ。
 ムーミンパパは夕食の支度にお新香を切るママの包丁の刃音を聞きながら、ママ今夜のお新香は何かね?ん、大根?そういうことだ。お前は今までおしんこが大根だということも知らんで食べていたのかねムーミン?さすがの偽ムーミンもこのはぐらかしには大人は汚いと思いましたが、ムーミン谷では設定年齢と実年齢は必ずしも一致しないのです。
 その頃チャーリーとスヌーピーは再び危機に陥っていました。手錠でつながれ、食い逃げから砂漠で一昼夜、彼らは再び餓えに襲われていたのです。


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 昔広島県の人から聞いた話だけどさ、とチャーリー・ブラウンは言いました。敗戦後は食糧難の時代がずっと続いて、毎日沖へ出てはタコばかり食べてしのいでいる人もいたんだって。タコだよタコ、とチャーリーはフーッとため息をつきました。毎日毎日タコ。信じられる?
 スヌーピーは阿波踊りのポーズをしました。チャーリーのMPを下げようとしたのではなく(そんなものはもともとありません)それが彼らの会話方法なのです。いや、売ってお金にすればいいってもんじゃないんだよ。キミはエントロピーの法則というのを知ってるかい?食事に十分なお金を得るだけのタコを採る労力は売り上げに釣り合わないんだ。漁業全体のエネルギーは目減りしていく一方なんだよ。ああ!
 パパもフレデリクソンさんやスニフのお父さんたちと航海に出ていたことがあるんだよね、と偽ムーミンは振りました。冒険家時代の話にくいつくか機嫌をそこねるかでムーミンパパのだいたいの調子はわかるのです。その辺が安定していないあたりがムーミンパパのメンタルの弱さですが、若い頃のムーミンパパ(当時ムーミン)をよく知るフィリフヨンカさんやヘムル署長は「明るいわんぱくな子だったよねえ」と一瞬笑顔になり、慌てて神妙な表情に戻るのがたびたびでした。
 タコの話はよそう、だいたいぼくが広島県の人から話なんか聞く機会があるものかい。これはムーミン谷について書いた本で読んだんだ……というか、ペパーミント・パティがそう言ってた。スヌーピーはほう、という表情をしました。
 鳥ではカラス以外はだいたい食える、カラスは臭くて食えない。猫はまずいが犬はだいたい食える、特に赤犬が美味いそうだ。赤犬というのは、国によって黄色とかオレンジとか呼び方は違うけど、要するに赤茶けた毛並みなんだろう。
 かんかん照りの砂漠の陽差しと吹きつける風で砂塵を含んで、今やスヌーピーは申し分なく生まれつきの赤犬のような見かけになっていました。
 これまでキミはぼくの親友ということになっていたけど、手錠でつながれてはっきりわかった。キミはぼくの私有物、エントロピーの法則に従うならば、たとえ売っても餓えをしのぐに足りない程度なんだよな。どちらかが犠牲になるしかないなら、おたがい一方が人間、一方が犬に生まれたのを恨もうじゃないか。
 第二章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

映画日記2019年4月19日~21日/一気観!『映画クレヨンしんちゃん』シリーズ!(7)

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 前回ご紹介したシリーズ第18作『嵐を呼ぶオラの花嫁』2010はしぎのあきら(1954年生まれ)監督の会心作でしたが、前々作『金矛の勇者』2008、前作『カスカベ野生王国』2009で低下しつつあったしんちゃん映画への注目度の中で健闘した作品であり、もっと注目されていた時期なら評価・興行収入ともより高い成績を上げていい作品でした。監督が増井壮一('66年生まれ)監督に交代しての第19作『嵐を呼ぶ黄金のスパイ大作戦』2011は前作のヒットで観客が戻ってきたか興行収入12億円のヒット作になりましたが、第20作『嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス』2012は劇場版20周年記念作としてシリーズ最長の110分の大作となるも、興行収入9億8,000万円と第17作『カスカベ野生王国』(興行収入10億円)を下回り、第7作『温泉わくわく大決戦』'99(興行収入9億4,000万円)に次ぐ不振に見まわれます。ヒット作を連発したムトウユージ監督担当の第13作~15作のあとシリーズの興行収入はおおむね従来より低い成績で不安定になっていたので、第16作『金矛の勇者』から第20作『オラと宇宙のプリンセス』まではシリーズの低調やマンネリ化が囁かれた時期で、各作品単独で観れば出来の振幅こそあれ1作ごとにそれぞれ趣向が凝らされており作品内容自体は不調続きでもないのですが、肝心の観客の関心の方が薄らいでいたと言えます。監督が橋本昌和('75年生まれ)に交代した第21作『バカうまっ!B級グルメサバイバル!!』2013はひさびさにしんちゃん映画で快作が出たと評判になり往年のヒット水準を取り戻し、高橋渉('75年生まれ)監督が担当した第22作『ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』2014は歴代3位を更新する興行収入18億3,000万円を達成、以降交替制で橋本監督が担当した第23作『オラの引越し物語~サボテン大襲撃~』2015は約23億円と第1作('93年、22億円)、第2作('94年、20億円)をしのぐシリーズ歴代1位の特大ヒットを記録し、高橋監督が担当した第24作『爆睡!ユメミーワールド大突撃』2016も21億1,000万円で歴代トップ3を更新しています。その後、ひろし役が藤原啓治氏から森川智之氏に交代後の橋本監督の第25作『襲来!!宇宙人シリリ』2017が16億2,000万円、昨年の高橋監督の第26作『爆盛!カンフーボーイズ~拉麺大乱~』2018が18億3,000万円と好調は続き、第26作公開後にテレビ版当初から主人公しんのすけを演じてきた矢島晶子さんが降板し小林由美子さんに交代したので、2019年4月19日封切りの橋本監督による最新作で第27作『新婚旅行ハリケーン~失われたひろし~』はしんのすけ役が小林由美子さんに交代した初めてのしんちゃん映画でもあり、この感想文は第24作までを収めた『映画クレヨンしんちゃんDVD-BOX 1993-2016』収録作で区切ったので今回と次回で一旦終わりますが、しんちゃん映画はまだ先の作品も注目されるところです。なお各作品内容の紹介文はDVDボックスの作品紹介を引用させていただきました。

●4月19日(金)
『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ黄金のスパイ大作戦』(監督=増井壮一、シンエイ動画=双葉社=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2011.4.16)*108min, Color Animation
◎アクション仮面から"アクションスパイ"に任命されて、すっかりその気になったしんのすけは、突如現れた国籍不明の少女レモンの指導のもと、スパイ訓練を開始することになる。果たしてしんのすけがスパイに選ばれた理由とは?レモンの真の目的は?今、人類の未来をかけた巨大な陰謀が動き出す!!

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 興行収入12億5,000万円と好調な成績を上げた本作はムトウユージ監督の劇場版3作で絵コンテに起用されていた増井壮一が監督を引き継ぎ、「オラ、トム・クルーズみたい?」としんのすけがたびたび言及するように『ミッション:インポッシブル』シリーズ第3作『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』2011を意識した作品です。増井監督は歴代監督でもテレビ版には2話分しか参加していない例外的な監督で、近年ではテレビ作品「サクラクエスト」2017、「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」2018の監督を手がけ、公開予定の劇場版長編『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』2019も監督を勤めていますから歴代監督では水島努監督のようにやや年齢層の高い深夜アニメに移ったので、シンエイ動画出身の水島監督よりもさらにしんちゃん映画にはやや毛色の違う感触が好みの分かれるところになりそうです。まずアメリカの世界人類スリーサイズ調査センターに侵入する少女スパイ・レモン(愛河里花子)の姿が描かれ、「合い鍵発見」とレモンが報告するのがアヴァンになっています。映画本編は、いつものように遊んでいたしんのすけ(矢島晶子)の前に、ある日レモンと名乗る謎の7歳の少女が現れ、レモンからアクション仮面(玄田哲章)のメッセージを受け取ったしんのすけは、レモンの指導でスパイになる決心をします。レモンとスパイ訓練を開始したしんのすけは失敗をくり返し、かすかべ防衛隊の風間くん(真柴摩利)、ネネちゃん(林玉緒)、マサオくん(一龍斎貞友)、ボーちゃん(佐藤智恵)には芸能スカウトだとごまかしながらも徐々にスパイの技術を身につけて、ベテラン子どもスパイのレモンとコンビを組みます。そしてついに、しんのすけにアクション仮面から「ヘーデルナ王国で悪の博士から正義のカプセルを奪還せよ」との指令が下ります。しんのすけはレモンと家政婦イツハラ(なかじままり)の助けを借りてヘーデルナ王国へ向かい、「悪の博士」の研究所に潜入します。しかし、決死の覚悟で侵入したしんのすけを待っていたのは悪の博士ではなくオナラ研究の第一人者であるヘガデル博士(山野史人)という科学者でした。しんのすけから話を聞いた博士はしんのすけがレモンにだまされていると言い、自分が持っているのは「正義のカプセル」ではなくオナラを大量に出させてしまう「メガヘガデルII」という特殊なイモで、レモンとしんのすけに指令を出したのはスカシペスタン共和国のナーラオ女王(井上喜久子)とヨースル女王(川浪葉子)であり、女王たちは世界征服の陰謀のためメガヘガデルIIを奪おうとしんのすけを利用していると説得します。しんのすけはヘガデル博士の言葉を信じず、「正義のカプセル」を奪って研究所から脱出しますが、正体を現したスカシベスタン共和国のスパイでレモンの両親のライム(櫻井智)とプラム(堀内賢雄)とともに女王たちにメガヘガデルIIを持って謁見したしんのすけはこれまでのアクション仮面の指令はすべて偽アクション仮面が演じていたのを知りだまされていたのを悟って逃亡します。レモンの両親は部下たちをくり出してしんのすけから強引にメガヘガデルIIを奪おうとしますが、しんのすけの純粋さと自分の両親のやり口にこれまで従順だったレモンも反抗の意志を固め、レモンはしんのすけを守りながら二人でスカシベスタン共和国の追っ手から逃走しますが……。
 しんのすけが「合い鍵」と呼ばれて選ばれたのは身長・体型・スリーサイズがヘガデル博士と一致する唯一の人類で、ヘガデル博士の研究室の出入り口はヘガデル博士と同一の体型でしか開かないからなのですが、しんのすけと7歳の少女スパイ・レモンの関係が友情に育ってレモンがベテランスパイの両親についに反抗するのがドラマの焦点になっており、'90年代からのベテラン声優・愛河里花子さんは十分に好演しています。また増井監督もしんちゃん映画のレギュラー・キャラクターを絡ませようという工夫はありますが(脚本・こぐれ京)、ひまわりやシロの出番は野原一家が捕らわれてメガヘガデルIIの実験台になるまでほとんどありませんし、かすかべ防衛隊も序盤の絡みで役割を終えてしまう。レモンの両親に対比してひろし(藤原啓治)とみさえ(ならはしみき)を描いた場面ももっと膨らませてクライマックスでキャラクター勢ぞろいくらいの勢いや盛り方ができたろうにと思えます。また伏線はそれなりに張られているもののレモンに利用されているしんのすけの視点で話が進むので、イモ食文化の先進国のヘーデルナ王国とヘーデルナ王国から秘密研究を盗んで世界征服に使おうとするスカシベスタン共和国の陰謀、と話が突然拡大すると、ストーリーは一直線につながっていますが観客が期待した意外性とは違った、でかい陰謀話のための世界征服物語という印象を受け、ヘーデルナ王国もスカシベスタン共和国もファンタジー世界の時代不詳のヨーロッパのどこかの国、ただし豊かで平和そのものの国に見える描かれ方なので世界征服の陰謀をめぐる諜報戦をくり広げているようには見えない、という設定と演出の詰めの甘さ、または自粛姿勢が見られます。本作で銃器が登場しないのは子どもスパイだからといって銃を持たせないという良識があり、しんちゃん映画では敵を降参・改心させて陰謀・野望は倒しても降参・改心した敵は許すか法にゆだねるので、決して殺傷することはありません。本作の場合はそれがあまりに牧歌的な架空のファンタジー的なヨーロッパのどこかのような国に行き着くので、それまでのスパイ活動やそこから始まるレモンとしんのすけの逃走も緊迫感がなく、メガヘガデルIIは急激に腹部を膨満させ大量の放屁を発現させる新種のイモを原料とした食用物質なのですが(ひろしいわく「美味い芋羊羹じゃないか」)、追い詰められて進退きわまったレモンとしんのすけは悪用されるなら食べちゃえばいい、と限界までメガヘガデルIIを食べまくります。クライマックスのサスペンスはそういったもので、果たしてメガヘガデルIIを大量に食べたしんのすけとレモンの運命は、さらに食べ切れなかったメガヘガデルIIはどうなるかは、楽しいエンディングの解決に結びついていきます。しんちゃん映画の中ではシリーズの水準ではやや落ちる作品ながら本作も単独で観れば十分楽しめる作品だけに、もうひと工夫あればと惜しまれるので、次作の観客動員数の低下は本作の食い足りなさが反映したものと思えます。

●4月20日(土)
『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス』(監督=増井壮一、シンエイ動画=双葉社=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2012.4.14)*110min, Color Animation
◎ある日、些細なことで喧嘩したしんのすけとひまわり。そこへ突然「ひまわり姫をお預かりします」という謎の男二人が現れた。渡された紙にサインしてしまうしんのすけだが、次の瞬間、上空に現れたUFOに吸い込まれてしまった!"ヒマワリ星"という見知らぬ星で、待ち受けていた運命とは……!?

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 短い上記の作品紹介だけでも本作がムトウユージ監督の会心の秀作になった第15作で第1作、第2作に次ぐ15億5,000万円の大ヒットを記録した第15作『歌うケツだけ爆弾!』2007のヴァリエーションなのはわかります。シロが野原家から奪われそうになる『歌うケツだけ爆弾!』に対して本作は赤ちゃんのひまわりが宇宙人に連れ去られる話で、増井監督は正義対悪ではない設定・プロットでしんちゃん映画ができないか(脚本・こぐれ京)を構想したそうですが、悪意からではない正当な理由があっても、また宇宙人に悪意や敵意はなくてもひまわりを野原一家から連れ去ってヒマワリ星の姫に迎えてしまうのは構図としては野原一家の敵役になりますし、ひまわりを取り返さないエンディングなどあり得ないので犬のシロに宇宙から飛来した惑星規模の破壊力を持つ爆弾が装着されてしまって剥がせない『歌うケツだけ爆弾!』より本来切実で大変な事情なのに何となく結末の予想がついてしまうため緊迫感ではおよばない作品になっている。簡単に前半のあらすじを追うと、「映画クレヨンしんちゃん20周年記念作品」と冒頭に出る本作は、しんのすけ(矢島晶子)が昼食のデザートに食べようとしていたプリンを妹のひまわり(こおろぎさとみ)に食べられてしまい、仕返しにしんのすけがひまわりのおやつのたまごボーロを食べてしまう兄妹喧嘩から始まります。しんのすけはみさえ(ならはしみき)に叱られ、ひろし(藤原啓治)からもお説教されて、思わず「お兄ちゃんなんてやめてやる!オラ、妹なんかいらない!ひまわりなんかいらないゾ!」と家を飛び出してしまいます。するとしんのすけの目の前に突然、謎の2人組がやってきます。宇宙人の大臣ウラナスビン(岩田光央)と地球担当員ゲッツ(辻親八)と名乗る二人はひまわりの名づけ親がしんのすけと確認すると妹を預かると申し出て、ひまわりを譲る同意契約書をしんのすけに渡し、しんのすけがサインをすると、野原一家は上空にいたUFOに連れ去られてしまいます。しんのすけたちは、地球の軌道の反対側で次元のずれた兄弟星"ヒマワリ星"に到着し、そこで宇宙の平和のためにひまわりがこの星の姫にならなければいけないと言い渡されます。かつては地球とヒマワリ星に満ちていた幸福の源「ヒママター」が地球からは枯渇しヒマワリ星の軌道から地球へおくられるヒママターも減少しつつある、そこでヒママターに満ちた存在でそこにいるだけでヒママターを星じゅうに沸き上がらせるひまわりがヒマワリ星と地球、全太陽系のために必要だと野原一家はヒマワリ星の大王サンデー・ゴロネスキー(飯塚昭三)に説明を受けます。ひまわり姫の戴冠式が星を挙げて盛大に行われ、あ然としたひろしとみさえは猛反対してひまわりを取り戻そうとしますが、ひまわり以外の野原一家は地球に送り返されてしまいます。しんのすけはかすかべ防衛隊の風間くん(真柴摩利)、ネネちゃん(林玉緒)、マサオくん(一龍斎貞友)、ボーちゃん(佐藤智恵)の助けを借りて地球担当員ゲッツの住むアパートを突きとめ、本来人間・生物用ではない時空移動ホールを見つけるとためらいもなく飛びこんでヒマワリ星に戻り、ひまわりを取り戻しにおはこび大臣モックン(隅本吉成)、おつまみ大臣まーきゅん(柴田秀勝)、イケメン大臣マズマズ・イケーメン (三ツ矢雄二)、おしゃべり大臣キンキン・ケロンパー(川村万梨阿)、おねむり大臣ボインダ・ド・ヨーデス (日高のり子)の妨害を乗り越え、あとから時空移動ホールを通ってきたひろしとみさえとともにゴロネスキー大王と対決に向かい、ひまわりを取り戻そうとします。
 前書きの通り本作が再び興行収入が9億8,000万円と振るわなかったのは前作でしんちゃん映画への期待値が低下したのもあるでしょうが、ひまわりがヒマワリ星で太陽系全体の平和存続のために必要で、それがひまわりが存在するだけで発生する一種のイオン「ヒママター」なら、ヒママターの自然発生の回復で事態は収まってしまうだろうとだいたい予想はついてしまうのが展開への意外性もサスペンスも薄めてしまうのがあり、また善意の宇宙人ヒマワリ星人は悪意も敵意もないのでこれも野原一家の奮闘を緊迫感のないものにしている。またひまわりでないとヒマワリ星が発生させ地球が消費してしまうヒママターの発生量が追いつかないという設定にフィクション上としても説得力がありませんし、実際結末ではこのヒママター問題はひまわりが野原家に帰っても大丈夫という解決になります。本作でいちばん感動的なのはしんのすけの回想場面で出てくるひまわり命名の場面(祖父母たちを含めてみんなで各自が考えた名前を書いた紙ひこうきを飛ばし、いちばん長く飛んでいたしんのすけの紙ひこうきの「ひまわり」に名前が決まる)ですが、この場面はテレビ版の'96年10月放映のエピソード「赤ちゃんの名前が決まったゾ」を映画用にリメイクしたものですし、またしんのすけが時空移動ホールで超次元に移動中に星座のようにこれまでの劇場版のヒロイン17人(ミミ子、ルル・ル・ルル、吹雪丸、リング・スノーストーム、トッペマ・マペット、女刑事グロリアこと東松山よね、SMLのお色気、指宿、後生掛、廉姫、天城、つばき、ジャッキー、マタ・タミ、ビクトリア、タミコ、レモン)の姿が現れるのも楽しい趣向ですし、『栄光のヤキニクロード』の敵キャラだった「ベージュのおばさんおパンツだゾ」の天城を入れるななら『オトナ帝国~』のチャコも入れてほしかったと歴代シリーズの観客ほど楽しい場面ですが、上記人名一覧でどの名前がどの作品のヒロインか当てられるほどの観客はもはやしんちゃん映画の多少の出来不出来には動じないものの、それほどの固定客だけでは大ヒット作にはならないので第16作『金矛の勇者』以来作品ごとに不安定でマンネリ化が囁かれたのが反映した観客動員数も本作で底をついた観があります。それでも長編アニメーション映画で10億円弱なら単発作品よりは数倍の業績なので次作こそはと気合いが入ったのが第21作『バカうまっ!B級グルメサバイバル!!』なら、本作も間をつなぐファンサービスもあり、またシリーズ他作品と比較せず本作だけを単独で観るならこれも丁寧な作りのエンタテインメント作品で、増井監督の2作は児童・ファミリー向けの配慮に細心に過ぎた感じもします。

●4月21日(日)
『映画クレヨンしんちゃん バカうまっ!B級グルメサバイバル!!』(監督=橋本昌和、シンエイ動画=双葉社=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2013.4.20)*96min, Color Animation
◎グルメの祭典"B級グルメカーニバル"へ向かうしんのすけたちかすかべ防衛隊。途中、謎の女性"紅子"から壺を託されるが、それは秘密結社"A級グルメ機構"の企みを阻止できる"伝説のソース"だった!次々襲い掛かる刺客と空腹!しんのすけたちは、無事ソースを会場へ届けることができるのか!?

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 本作は公開されるや「今年のしんちゃん映画は面白い!」と話題作になり、公開年数年前あたりから話題になっていた「B級グルメ」を採り入れて外食産業・コンビニ食品などとのコラボレーションで広告展開されたのも効果的でしたが、テレビや雑誌でも飲食品というのは廃れることのない人気コンテンツでもあり、第15作『歌うケツだけ爆弾!』以来のヒット作になる興行収入13億円を達成、しばらくマンネリ化の囁かれていたしんちゃん映画のシリーズに再び注目を集めるきっかけになった作品で、以来昨年度の第26作までにシリーズ興行収入記録を塗り替える作品が続出する好評・好調への突破口となった快作です。橋本昌和監督はシンエイ動画外部のフリーのアニメ監督ですが、鈴木清順・大和屋竺に師事した大ヴェテラン脚本家の浦沢義雄が監督とともに原案を練り、テレビ版しんちゃんレギュラー脚本家のうえのきみこが浦沢氏と共同脚本に当たり、絵コンテは橋本監督とともに前任監督の増井壮一、テレビ版・劇場版ともに関わりが長く次作を監督するシンエイ動画スタッフの高橋渉という万全の体制です。また敵役の秘密結社A級グルメ機構の首領に中村悠一、幹部に神谷浩史・早見沙織という顔ぶれもああ2010年代のアニメなんだな、と思わせる声優陣の若返りがあり、作品自体はかすかべ防衛隊の活躍をフィーチャーしたもので第6作『ブタのヒヅメ大作戦』'98、第12作『夕陽のカスカベボーイズ』2004、やや変則的な第18作『嵐を呼ぶオラの花嫁』2010(途中しんのすけのみを残して脱落する作品や、さらに変則的な『カスカベ野生王国』2009などを入れればもう数作増えますが)の系譜に連なります。野宿して夜空を見上げながら寝しなに雑談する場面など『ブタのヒヅメ~』とほとんど同じなのですが、『ブタのヒヅメ~』が南米の高山地帯らしい異国だったのに本作では春日部市内なのに山奥で迷って帰れない(シロの帰巣本能を頼りにB級グルメ会場に駆けつけられますが)のが親近感のある可笑しみと笑いごとではないリアルさになっており、細かな描写の丁寧さと何でもない小道具があとで伏線として生きてくる巧妙さが脚本・演出一体となってわくわくするアドヴェンチャー作品を生み出している。数作来シリーズ離れしていた観客、新しく本作からシリーズに触れた観客も文句なく楽しめ、しんちゃん映画は大したものなんだなと観ていない作品や次回作も観たい気持にさせる力があったのがのちの作品の業績で実証されることになります。映画はのっけから春日部で行われているB級グルメカーニバル会場が「B級グルメなど認めない」という総帥グルメッポーイ(中村悠一)率いる秘密結社A級グルメ機構に占拠され、店を潰されたたこ焼きのミナミ(ジェーニャ)、大阪串カツの将(一条和矢)、博多もつカレーのお京(矢野理香)、下町コロッケどん(コロッケ)は腕の立つソースの健(辻親八)の店に逃げこみ、グルメッポーイはB級グルメのシンボルたるソースの健は最後に見せしめに叩きのめすために健の店だけは残して会場をA級グルメカーニバル会場に改築し始めます。ソースの健は電話で昔の愛人・しょうがの紅子(渡辺直美)に吉田兼好が作りソースの健まで50代に渡って受け継がた「伝説のソース」を届けるよう頼みます。さて、B級グルメカーニバルに連れて行ってもらえなかったしんのすけ(矢島晶子)は、かすかべ防衛隊仲間の風間くん(真柴摩利)、ネネちゃん(林玉緒)、マサオくん(一龍斎貞友)、ボーちゃん(佐藤智恵)を誘い、幼稚園帰りに親に内緒で立ち寄ろうと計画します。そしてその道中、A級グルメ機構の追っ手に追われていた紅子からソースの入った壺をカーニバルに届けてほしいと頼まれ、引き受けることになります。しかしそのソースこそは、B級グルメ撲滅を目論むA級グルメ機構の魔手からB級グルメを救える唯一の存在・伝説のソースでした。そんな中、しんのすけたちはふとした手違いからバスを乗り違えて見知らぬ春日部市の山奥へ迷い込んでしまいます。次のバスの便は夜になるのでしんのすけたちは森を抜けて、シロの案内だけを頼りに春日部の町中のB級グルメカーニバル会場に向かいますが、幼稚園児の足に山奥歩きは進まず、A級グルメ機構幹部の横綱フォアグラ錦(大川透)、トリュフ(神谷浩史)、キャビア(早見沙織)がソースを奪おうとしんのすけたちを追跡し、襲撃してきます。果たして伝説のソースを巡るA級グルメ機構との戦いに巻き込まれたしんのすけたちは、伝説のソースを無事カーニバルに届け、ソースの健の作る究極の焼きそばを食べることができるでしょうか?そしてA級グルメ機構の陰謀は究極の焼きそばによって打ち砕くことができるでしょうか?
 と、本作はかすかべ防衛隊の幼稚園児たちが苦心のすえに敵の本拠に乗りこみ、大人と協力し大人をしのいで陰謀を打ち砕くというプロット自体はそのまま『ブタのヒヅメ大作戦』から移し変えたものです。原恵一監督時代の注目度の低かった作品が実に完成度の高い脚本と演出で、アレンジ手腕によって一見まったく異なる趣向の作品に生まれ変わらせることができる見本のような出来になっているのが本作で、橋本監督と脚本家の浦沢氏による共同原案、さらに浦沢氏とテレビ版レギュラー脚本家うえのきみこさんの共同脚本と手間をかけたのは『ブタのヒヅメ~』に始まる数作のかすかべ防衛隊ものがシリーズの実績にあったからでしょうし、それだけに数人がかりでアイディアを練りこむ必要があったからでしょう。一種の類型から優れたヴァリアントを作る作業は映画ではプログラム・ピクチャーならでは最大の効果を発揮する筆法で、『望郷』から『霧の波止場』が生まれ、『赤い波止場』や『勝手にしやがれ』が生まれ、『紅の流れ星』や『ブレスレス』が生まれるという具合に和歌で言う「本家取り」と同じような多重の印象効果が生まれるので、先にしんちゃん映画の『ブタのヒヅメ~』『~カスカベボーイズ』『オラの花嫁』を観ている観客なら重ね合わさっていく感覚があり、それらを観ていず本作から観た人にも作品から奥行きが伝わってくる効果があります。他のしんちゃん映画、次作のしんちゃん映画も観たくなるのはそうした奥行きからで、もちろん本作は映画の脚本はこうでなくちゃ、というようなさりげない小道具の提示があとで重要な役割を果たす(一例を上げれば、山奥のバス停に置き去りになってしまった一堂が全員の持ち物を出して町に戻るまで役に立つものがあるかどうか確かめますが、ここでさりげなく示された持ち物があとで追っ手の幹部3人を退けて町まで逃れるのに決定的に、しかも偶然に役立つことになります)あたりは舌を巻く巧妙さですし、こうした細部まで気を配った脚本と演出が見事な絵コンテと声優さんたちの好演によって運ばれていくのは長編アニメーション映画ならではの快感があります。A級グルメ機構総帥グルメッポーイがB級グルメ、特に焼きそば(それも他でもないソースの健の屋台の焼きそば)に怨恨を抱く解明もスマートかつ悪党を悪党で終わらせない人情味があり、かすかべ防衛隊が到着するもソースの健がついに捕らえられて目の前でソースの壺が壊されそうになった時……このあとのクライマックスの展開も意外性と説得力のある盛り上がりで一気に進むので、橋本監督は次々作の第23作『オラの引越し物語~サボテン大襲撃~』2015でしんちゃん映画シリーズ歴代興行収入1位の記録を塗り替える特大ヒットを放ちますが、同作も快作にせよ完成度や充実感は本作に軍配が上がるように思えます。

集成版『荒野のチャーリー・ブラウン』第三章

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 第三章・疾風丑の刻詣りの巻。
 あらヤだわ、とみさえはひまわりの添い寝から起き出しながら柱時計を確かめました。まだしんちゃんの帰りまで買い物行ってくる時間はあるかしら。柱時計はひろしが会社の後輩の結婚式の引き出物でいただいたものでした。
 最近の引き出物は気が利いてるよなー、カタログで好きなもの選べるようになっているんだぜ。最近、といっても野原一家は半永久的に夫35歳・妻29歳・長男5歳・長女0歳から歳をとらないのですが、この場合の「最近」は1990年代後半を指しているのだと思われます。ほーら、とひろしがバブル時代のニッセンのカタログほどではないが、地方の職業別電話帳よりずっと分厚いその冊子をずい、と封筒から取り出すやいなや、
・ダイエットヨガをしていた妻みさえ
・ブタの絵を描いていた長男しんのすけ
・テレビのアイドル番組を観ていた長女ひまわり
 が正確に120度ずつ三方の角度から迫ってきました。単に欲が深いからわれ先にとただただ無我夢中なだけですが、こういう時にはチームワークが良いのが野原家の憎めないところです。
 オラはカンタムロボ!あなたジュエリーない?あままままあ。いいからまず落ち着け、みんな座れ(ひまちゃんはママのおひざね)。まずは家長のおれがだな……(よっ課長!うるさい!)。ええと、ここからここまでのページは時計か。カンタムロボ!うるさい!それから……時計……時計……時計……。あなたこれ時計しか載ってないカタログじゃない!おかしいなあ、気の早い連中なんか式のはねた後すぐ開いて喜んでたけどなあ。あなた間違えてもらってきたんじゃないの、きっとランクがあるのよ、時計ばかりじゃカタログの意味ないじゃない!仕方ないだろっ、それよりビール、ビール。はいっ、今日は発泡酒ね、それもレギュラーサイズの!なんだよ、おれのせいかよ!課長だけに……(両腕を短針長針にして)カッチョン、カッチョン。お前はうまいこと言わなくてもいい!
 という事情で野原家の居間を飾っているのです。そうね、まだ二時間くらいは……とみさえが伸びをしていると、シロの喜びの鳴き声から間髪入れずしんのすけがドドドドと玄関から突進してきました。どうしたのよしんのすけ、幼稚園は、と尋ねるみさえに、しんのすけは「タイヘンなんだゾ、今スヌーピーが……」とだけ言うと、また駆け出して行ったのです。


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 そりゃ腕力では人間の少年としては非力な君にすらかなわないだろうさ、とスヌーピーは言いました。だが相撲に勝って勝負に負けた、という……逆だったかな?まあいい、そういうことわざもある。仮に武器を使っての戦いであっても、武器の性能より勝負は武器と技術の乗数で決まることくらい、ミリタリー・マニアを志したことのない君にはわかるまい。どうかねくりくり坊主くん?
 そのくらいはミリタリー・マニアでなくてもわかるよ、とチャーリーは反論しました。要するにキミはこう言いたいんだろ、運動神経や反射神経ではキミが圧倒的に有利だ、って。運動神経は攻撃力に結びつくし、反射神経は防御力以前の防御、すなわち攻撃回避能力に優れるのを意味する。つまりあれだな、牛若丸と弁慶だって言いたいんだろ?
 そうそう。だから無駄な争いはしないが賢い。君は野蛮な人間だから赤犬だと思えばぼくを食肉にもできようが、もしぼくが勝っても君に喰われるのを逃れたか先延ばししただけで、いっそ殺せば君からの危機はなくなるが人間を殺めた動物はよほどの稀少種以外問答無用で死刑になる。この場合の稀少種ってなんだい?パンダやコアラかい?パンダやコアラに人間が殺せるものかい?
 つまりさ、とスヌーピーは言葉を継ぎました。ぼくらが争ってどちらかが死ねば、君は餓えがしのげる。だけど君に勝ってもぼくはそんなの食らうのは御免だ。先に述べた理由で君を殺めた咎で処分されるのも御免だから、結局この勝負は君がぼくに勝って犬肉にありつくか、ぼくが君を制して勝負をドロウし続けるしかない。だいたいぼくは餓えても君など殺して食べたくない。知能指数が下がってしまいそうだもの。
 ひどいこと言うなあ、と偽ムーミンはあきれてスヌーピーの表情に見入りました。いつも通り感情らしい感情の感じられない犬面がそこにはありました。
 その頃しんのすけは山を越える一本道をせっせと急いでいました。つらい斜面はアクション仮面、カンタムロボ、ぶりぶりざえもんたちの勇姿を脳裏に浮かべてがんばりました。オラ男の子だもの、本気でやらなきゃならない時には本気で勇気を出さなきゃいけないんだ。
 するとみちばたにハイレグおねいさんが立っていました。
「あら、可愛い坊や」
「オラ……ポッポー!」


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 私が船乗りをしていた頃は「大航海時代」と呼ばれたものだ、とムーミンパパはパイプに刻みを詰めながら、遠い海洋に思いを馳せる臭い芝居に入り込みました。ですがすぐに気が変わったか、私が登山家だった頃は「山男にゃ惚れるなよ」と言われるくらいに誰も彼もが山登りに血道を上げていたものだ、いやあ若気の至りだね、ときたので、次にスキーの話題になった時は良心のかけらもない偽ムーミンですらこの軽薄で哀れな男と、自分が今なりすましているその息子の存在に無意味であることの憐れみを痛感したほどです。その痛みは鋭利なものではなく、鈍い痛覚がじわじわ後を引くようなものでした。偽ムーミンであることがこれだけ無責任でいられることならば、将来実のムーミンが背負いこまなければならないだろうムーミン谷の「虚」とはどれだけのものなのか、偽ムーミンには直視しがたいものがありました。
 それに君は、前回は君にしてはなかなかの分析力だったとほめてあげてもいいが、もっとぼくたちを能力において隔てる大きな要素を素通りしている。君だって本質はただのうすのろやぼんくらではなく、おそらく人類史的にはローカルなイノセンティの象徴とも言えて、おそらく侵略と略奪、殺戮の建国史を持つ国家だからこそ君のような間抜けがフィクションの人気者になるんだ。つまりさ、とスヌーピーは言いました、ぼくは口先三寸で君を丸め込めるが君にはそれができない。ぼくらが握手すると君は友だちになれたなと思うがぼくはこれでうまく騙せたなと思う。君はそういう少年さ。
 あのーハイグレおねいさん、と野原しんのすけは言いました、これでオラのお手伝いをしてくれないかなあ。ハイグレじゃないわよハイレグ、とおねいさんはしんのすけの差し出したものを見ると、ねえ坊や、これってなんの冗談?
 冗談じゃあないぞ、きびダンゴだゾ。きびダンゴって普通串には差してなくなあい?みっつしか買えなかったから。だんご三兄弟、なんちて。だからハイグレおねいさんは一番目のお手伝いさんだゾ。ね、オラ何でもするから、お願い。
 ハイグレおねいさんはしんのすけの泣き落としをこばめず一人めのけらいになりました。しばらく進むとバスに置いてきぼりにされたバスガイドに出会い、けらいは二人になりました。三人めにけらいになったのはヒッチハイク中のエレベーターガールでした。


  (24)

 キミが口先三寸のビーグル犬だってことは誰もが知ってる、とチャーリー・ブラウンは苦々しい口調で言いました。そしてぼくは飼い犬にも劣る知性の少年の役割、コメディ・リリーフってやつだね、そういう役割なのも承知してる。ぼくらはピーナッツ世界の住人だからね。
 だけど今、こんな状況じゃぼくたちはデフォルトの設定が通用しない事態に陥ったと考えるしかない。つまり……もう何度もつまりと言ってきたような気がするが、ぼくたちは絶体絶命の境地にいる。キミだってそのくらいは承知のはずだ。
 普段チャーリーがこれほどの長広舌を繰り広げることはめったにありません。しかしスヌーピーの態度はのれんに腕押し、柳に風といった様子なのが偽ムーミンにも妙に不吉な予感を抱かせました。もしピーナッツの世界が崩壊するならば、このムーミン谷もピーナッツ・タウンの平行世界ですから、ドミノ倒し式にムーミン谷の成立基盤も崩壊しないとはかぎらない。その時には、偽ムーミンは今ある偽ムーミンとの同一性を保てなくなってしまうかもしれません。それは偽ムーミンにとって、もっとも望ましくない変化でした。しかし……。
 チャーリーの預かり知らぬところで、偽ムーミンが唯一希望を託せるとしたら、それは野原しんのすけの存在でした。しんちゃんにとってスヌーピーたちが従来通りであり、ムーミン谷が同じムーミン谷として判別されているならば、しんちゃんの認識の中にはピーナッツ世界もムーミン谷もそのままのかたちで存在しているのです。しんちゃんにとって虚構と現実が同一線上に混在している事態は、
・アクション仮面
・カンタムロボ
・ぶりぶりざえもん
 ……の具現化からも明らかです。しかし偽ムーミンたちの世界から見れば、しんのすけの住む世界で実在しているのはただ一人しんのすけだけで、チャーリーとスヌーピーにとってパインクレスト町がそうであるように、春日部市自体がしんのすけの存在によって出現した仮構の空間にすぎないのでした。野原ひろし、みさえ、ひまわり、幼稚園のみんな、もちろんかすかべ防衛隊もすべてはしんちゃんの悪夢の生んだキャラクターにすぎなかったのです……偽ムーミンから見れば。では、と偽ムーミンは考えました。おれも誰かに見られている、その夢の中の存在にすぎないのだろうか?


  (25)

 それならウッドストックに訊いてみようじゃないか、とチャーリー・ブラウンは、こんな窮地までもあるじの忠実な下僕ならぬ秘書としてスヌーピーについてきた雑種の小鳥を指して提案しました。スヌーピーあるところ常にウッドストックあり、死路への逃避行とも言えるこの逃亡にもウッドストックは当然のように同行していましたが、寡黙なこの小鳥はパインクレストの平和な日々からまるで変わらない様子に見えました。もともと毛並みはみすぼらしい雑種ですし、小鳥相応に小食ですから、日毎にやつれていく様子がありありとわかるチャーリーたちに対してウッドストックは今やほとんど優雅にすら見えるほど以前と変わりのない風貌を保っていました。彼らの序列を知らない通りすがりの人が見れば、この小鳥こそがあるじであり少年と子犬を従えているように思えたかもしれません。
 これはちょっと不自然じゃないですか、とスノークはヘムレンさんたちに向き直り、あの少年と犬は食うか食われるかという事態に直面したわけでしょう?だったらまず二人であいつをヤキトリにしてこの場をしのげばいいはずですよね。そうしないというのは、やはり何か理由があるのかな。裏づけなしには納得がいきませんよ。
 それはだね、とヘムレンさんは首を傾げると、われわれの場合ムーミンに置き換えて考えるといい。手錠でつながれたムーミンとスナフキンがフローレンと三人で逃避行のすえに、ついに食糧も底を突く。ムーミンたちならどうするね?
 何の逡巡もなくフローレンを食べるでしょうね、とスノーク。ムーミンとスナフキンの友情は固いですから。
 私もそう思う。だが君まで同意するのはどうかと思うね。仮にも君はフローレンの兄君だろう?あまりに身も蓋もない発言ではないか?
 哲学者として私は、とスノーク、倫理よりも真実を貴びますからね。
 では彼ならどう答えるだろうね、とヘムレンさんはスノークに注意を促しました。しんちゃんはハイレグお姉さんに肩車され、左右の手をエレベーターガールとバスガイド嬢に取られながら丘を越えてくるところでした。道端では、花を摘みにきたフローレンが足をくじいてうずくまっていました。しんちゃんはハイレグお姉さんに下ろしてもらうと、さりげない足どりでフローレンに近づいていったのです。


  (26)

 しんちゃんは花を摘んでいるフローレンに向かって進んでいきましたが、道端の花畑にまでたどり着くと3本ばかり花を摘んでまた引き返し、けらいのお姉さんたちに1輪ずつを捧げると再びハイレグお姉さんに肩車され、左右の手をバスガイド嬢とエレベーターガールに取らせて丘の一本道を進み始めました。フローレンは黙々と花を摘んでいます。
 これはどういうことですかね、とスノーク。私の知るあの幼児は極めて見境いなく好色な幼稚園児であるはずなんですがね。まあ人間の美意識ではムーミン谷の美の基準など測れはしないでしょうが、一応わが妹はムーミン谷の誇るヒロインですよ。何らかの表敬行為があってしかるべきではないですか。
 表敬行為とは何かね、おねいさん担々麺は汁あり派・汁なし派?みたいなナンパ質問かね?とヘムレンさん。つまり私の知るあの幼児は普段そういう風に共通の話題から入ってナンパを試みる性癖があるらしいが、フローレンにはなぜ同様の行為を行わんのか、それは彼女を口説くほどの美少女と認めていないからではないか、ときみは憤慨しているのかね?
 いや私は単純に、とスノーク、なんであんなにあっさり無視したんだろう、と思っただけですよ。つい目と鼻の先まで近づいておきながら、あれはないんじゃないかな。
 それは単純に、とヘムレンさん、あの変態幼児にはフローレンが見えておらんのじゃないかね?つまりさ、われわれの知覚には知っているものは見えるが、知らないものは見えん、という妙なフィルター機能がある。これは知的生命体のみならず野生動物ですら言えることで、もっとも野生動物の場合は本能によるのだが、生きていく上で必要な情報のみを認識し不要な情報は目に入らないわけだよ。
 だったらそれは変じゃないですか、とスノーク。かたやチャーリー・ブラウン、かたや幼稚園児の一行は今も接近しつつあるし……それに考えてみれば、あの幼児はむしろ野生動物の一種でしょうが、われわれは知的生命体ではなくトロールですよ!
 そういうことだろうね、とヘムレンさん。そしてまたフローレンもトロールであり、われわれは一般的には他者からの知覚の中にでも外にでも出入りできるのだろう。だが今われわれは観察者の立場なのだ。
 キミはどう思う?とチャーリー・ブラウンは小鳥に訊きました。ウッドストックは、
・、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、!
 と鳴きました。


  (27)

 チャーリー・ブラウンからの唐突な問いに答えたつもりか、ウッドストックは一気呵成に、
・、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、!
 と鳴きました。困惑するチャーリー。このみすぼらしい雑種の小鳥がどうやらチャーリーに反感を持っているらしいことは少年にも判断できました。ウッドストックは普段ブラインドタッチでスヌーピーの著述の口述タイピングを勤めているくらいですから、毎回出版社から返送されてくるその内容はともかく、彼らが標準アメリカ英語を読み書きできる能力があるのは明らかです。発声がままならないのは仕方ない、犬や鳥ですから。ですが直接チャーリーに返答するのであれば、逃亡中にまで携行しているタイプライターで答えることができるはずです。要するにこのクソッタレな小鳥はスヌーピーを通してしか話さないと決めており、もちろんスヌーピーは自分たちに不利な提案はするわけはないのですから、ウッドストックにどんな意見を求めようがチャーリーと彼らの1対2の構図は崩れようがないことでした。
 ウッドストックは何て言ったんだい?と屈辱感に耐えながらチャーリーはビーグル犬に訪ねました。ビーグル犬は爪楊枝で歯間をほじり、歯垢を舐めて空腹をしのぐ作業に熱中していましたが、突然チャーリーから呼びかけられたのに対する返答の猶予を求めてなのか、それとも単なる思いつきか、口元に前肢を当てると小首をかしげ、目を細めて極めて下品に、
・イシシシシシシ(笑)
 とおよそスヌーピーらしからぬ好色な笑い声を満足げに上げました。
 あーあれならオレ知ってるよ、あの笑い方はケンケンだろ?と野原ひろしはポン、と手を打ちました。だけどそれはハンナ=バーバラ・プロ作品でしょう?とスノーク。
 細かいこと言いなさんな、とひろしはスノークのグラスにビールを注ぎ足すと、おれにしてみりゃスヌーピーだろうとムーミンだろうとケンケンだろうと違いはないよ。
 だったらあなたがたご一家はどうなります?たとえば私たちなんかはサザまる子さんやあなたがたご一家によって「お茶の間」と呼ばれる生活様式を知ったのですがね。
 確かに「お茶の間」はこの国独特の暮らしぶりだろうね、とひろしは自分のグラスにもビールを足しました。でもサザまる子さんっていったい、何のことだい?
 ああ、商標権がうるさいんですよ。


  (28)

 いま危機に瀕しているのが誰なのかといえば、まだおたがいの存在に最後の可能性を残している(あえて迂遠な表現をするなら)、ともいえるチャーリー・ブラウンとスヌーピーよりも、考えすぎが悪く働いて徐々におのれの実在性が薄れつつあることに気づき始めた偽ムーミンよりも(考えないことだ、と考えるのも深みにはまる一方で)、しんのすけの出奔が毎度必ずや家族全員(といっても核家族ですが)を巻き込む大騒動に発展する野原一家よりも(ただしそれは『映画クレヨンしんちゃん』の時だけの話)、手っ取り早くヤキトリにすれば二人とも当座はしのげるとチャーリーとスヌーピーが気づけばそれまでよのウッドストックでもなく(それにはこーちゃんのじいさんが要るので)、
・氷浸けの(真)ムーミン
 なのにようやく気づいたのは、他ならぬムーミン本人でした。ムーミンは景気づけに電線音頭を踊ろうとしましたが、そんな40年あまりも昔のコントをやってしまうのは思いつきにもほどがある、と反省し、だいたい氷浸けでは踊りようがないのにも落胆しました。

  冷凍魚
  思はずも跳ね
  ひび割れたり    高柳重信

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、!」
 とウッドストックはスヌーピーに向き直ると、このクリクリ坊主に通訳してやってくり!と万国共通のクソッたれサインを出しました。小鳥にしては器用なものですが、小鳥は万来歌が好き、母さん呼ぶのも歌で呼ぶくらいなので、
「、、、、、、、、、、、、、、、、、、!」
 以外には無駄口は叩かないのです。しかしそれではスヌーピーにすら通じないときがあり、鳴き声が駄目となるとボディ・ランゲージより他にどんな方法があるでしょうか?
・マーキング行為?
 鳥もマーキングするんでしょうかね、とスノークは消えていくビールの泡を見つめながら呟きました。さあねえ、とひろしは受け流すと、ふと思い出して、オイみさえ、しんのすけはいつから出てったんだ?そうか帰るとすぐか、じゃあシロの散歩は今日はまだじゃないか。
 たまにはいいんじゃない、とみさえはひまわりの紙おむつを取り替えながら答えました。海原雄山は紙おむつを許しませんが、野原家に口を出す資格はありません。
 どう考えてもぼくが一番悲惨だ、と(真)ムーミンは思いました。だけど、どうすればこの窮地から逃れられるのだろうか?


  (29)

 ある庭のかた隅に一輪のひな菊が咲いておりました。花壇の中には華やかな牡丹や美しい百合などが、誇り気に咲いておりましたが、ひな菊そういう花を見ても少しも羨しいとは思わず、幸福な日を送つておりました。
 ちょうど、ひな菊の頭の上ではひばりが楽しそうな歌をうたっておりましたが、ひな菊はじっとその歌を聞いて、ああ面白い歌だ、とは思ひましたが、ひばりになりたいなどとは少しも思わず、やはり自分は自分だけで幸福だ、と考えておりました。
 ひばりがひな菊のかたわらへ下りて来て、まあ、何て奇麗な花だろう!というと、その声を聞いた牡丹は、
・私の美しさを讚めないとは酷い!といって大変怒りました。チューリップは頭を持ち上げて、何だ庭隅のひな菊が、といってせせら笑いました。
 その時一人の少年がハサミを持つて来て、
・よく咲いてゐるからお母さんのところへ剪つて持つて行かう
 といいながら、チューリップや牡丹を、みんな剪つてしまひました。少年はお母さんのところへその花を持つて行くと、
・まあ、この子は大事な花壇を荒してしまって何て悪い子でしょう!
 と、讃められると思いきや、かえってさんざんに叱られました。

 次の朝、雛菊が目醒めると、頭の上で、
・ピヨ、ピヨ
 という悲しそうな声が聞えるので、ふとその方を見ると、ひばりが捕えられてカゴの中へ入れられているのでした。ひばりは食べ物はおろか水一滴なくて、今にも喉が涸いて死にそうになつていたのでした。ちょうどそこへ少年が帰つて来て、その様子を見ると大変に驚いて、何かひばりに与へるものはないかしら、とあたりを見廻しましたが、あいにくそこには水もありませんでした。
 ウロウロしていた少年は庭隅の雛菊を見付けると、
・そうだ、あのひな菊をやろう、ひばりはきっと、ひな菊が好きに違いない!
 と呟いて一本の芝草と一緒にひな菊を剪つて、ひばりのカゴの中へ入れました。飢えているひばりは一口に喰べてしまうだろうと、少年が見ていると、ひばりはひな菊を見ると悲しそうに側へ行つてその小さな花に頬をすり寄せて、そして優しく歌をうたい始めました……。
 ひばりが喰べないので、少年はひな菊をお母さんのところへ持って行きました。するとお母さんは、まあいい花だこと、私の花瓶に差しておくれ、といって大変に喜びました。


  (30)

 感動した、とムーミンパパは言いました。しかし反応がないので、どうして私が感動したか知りたくないかね、と催促してみました。それでも反応がないのでムーミンパパは、
・それは私が朗読したからさ
 と開き直りました。なんで私が朗読したのかって、それはもちろん賞賛という報酬を求めていたからさ。善行を行う人が周囲や信仰から期待する報酬と同じさ。また、このあたりで本当の主役が誰かはっきりさせておかなければいかん、といつしか私は思うようになった。タイトル・ロールの示す人物がいつも主人公であるとは限らん。たとえば、
・天才ムーミン
 とあれば実際にはムーミンは子どもの世界観を象徴する存在としてタイトル・ロールを勤めているだけであり、子どもの世界観とは家族と隣近所と遊び友だち程度の広がりしかない。電車に乗って都心に通勤などしないものだ。そうすると、ムーミン世界の広がりはせいぜい半日で往復できるほどの地勢に治まり、価値基準となると両親が第一の基本になる。商店街までを歩けば年齢不詳のおじさんがいつ通っても竹箒で道を掃いているだろうし、駅前交番にいるおまわりは偽警官に違いない。
 私は何の話をしているのかな、まるで見透かしたようなことを言っているように聞こえれば過ちを撤回するが、指弾されればすぐに低く出る私はなんて柔軟かつ従順なんだろう。こうしたことも含めて私はムーミンの父親だが……独身だった頃は私こそがムーミンと呼ばれるコビトカバモドキのトロールだったわけだが、孤児として生まれ育ったムーミンだから私はあらゆる可能性を秘めたムーミンでもあり、それゆえに次代のムーミンへバトンを渡すだけの種馬ならぬ種河馬でしかなかった。そしてようやく私は、
・ムーミンのパパ
 になり、息子ムーミンを通して事実上のムーミン谷領主となったようなものなのだ。この気持はあなたなら理解していただけると思うが、どうですかな。
 いやーウチはしんのすけはしんのすけだしオレはオレだし、と野原ひろし。それより、狙われたら砂漠に逃げ込むほど恐ろしいルーシー・ヴァン=ペルト・ダットンてのはオレたちには脅威はないのかい?
 彼女はわれわれの存在を知らないでしょう、とムーミンパパ。だがわれわれは彼女を知ってしまった、それが問題なのです。
 第三章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

ロック史上もっとも偉大なバンド

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THE SEEDS
シーズ
★★★The Seeds / GNP 2023 (1966. Apr.) : https://youtu.be/8gKtOGpAAkE

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★★★A Web Of Sound / GNP 2033 (1966. Oct.) : http://www.youtube.com/playlist?list=PL0ltondLnZlHfMy9ft9_JZxNqbIJD4gYL

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★Future / GNP 2038 (1967. Aug.) : https://youtu.be/QRNczsKspUg

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★★Merlin's Music Box / GNP 2043 (1968. May) : http://www.youtube.com/playlist?list=PL94gOvpr5yt20v83GchNwjyUbgefpZmqu

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★★Fallin' Off The Edge / GNP 2107 (1977) : https://youtu.be/cNeRSBlmui4

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 「偉大な2つのコード、偉大な5つのアルバム!」。南カリフォルニアのある場所に建てられたシーズの墓碑には、このような文字が刻まれている。そこはマリファナの草とシビレダケが野生で育つ所、また'70年代の最も信心深いパンク・ミュージシャンたちが毎日夕暮れ時に頭を垂れる方角だ。
 ライター、シンガー、ミュージシャンとしては限られた才能しかもちあわせていなかったにもかかわらず、シーズが息の長い幸運な活動を続けることができたということは、ロック伝説の中でもかなり奇跡的な話の1つである。リードシンガー、スカイ・サクソンの世界観は2つのものに限られ(すなわちセックスとドラッグだが)、彼のどなるようなヴォーカルはこれまで録音された中でも最も素人くさく風変わりなものだった。特に変わっているのはダリル・フーパーのオルガンとピアノだ。彼のいう創造的なソロというもので、オクターヴを変えて何度も何度も同じリフを演奏するのだ。彼らの不思議な魅力は、熟練不足のために音楽がこれ以上には良くはなり得なかったという事実にあったのだ。
 『The Seeds』では、最大のヒット曲「Pushin' Too Hard」とサクソンの最高傑作「Can't Seem to Make You Mine」を自信を持って聴かせているが、真の信者は普通、彼らのセカンドLP『A Web Of Sound』の方を支持する。このLPには「Rollin' Machine」「Tripmaker」「Mr. Farmer」のようなサイケデリック・ナンバーが多く、またこのバンドの大力作曲で、喫煙のために2回の休憩も入れた15分近いの愛の顛末記「Up In Heq Room」(サクソンは明らかに事を運ぶのが早かったのだ)も収められている。
 『Future』はグループのフラワー・パワーを訴えたコンセプト・アルバムで、その中のベスト曲は「Two Fingers Pointed You」である。この曲は彼らの唯一の出演映画『Psych Out』の中で演奏された(映画はジャック・ニコルソン主演で、伝説的なヘイト・アシュベリーを舞台に夏の恋、友情などをテーマにしたもので、長い髪を後ろで束ねた、アシッド・ロック・バンドのリーダーをニコルソンが演じた)。『Merlin's Music Box』はライヴ・アルバムということになっているが、どうも聴衆の歓声をオーヴァーダビングした、以前のLPの未収録テイクのようだ。それでもこのレコードは彼らの名曲となった「900 Million People Daily All Making Love」を収め、裏ジャケットのサクソンのアラビア人の服装はディランより8年も早かった。
 『Fallin' Off The Edge』は最近リリースされた未収録テイクと未発表曲を含んだ最初のコンピレーションで、これはマディ・ウォーターズによるライナー・ノーツ(「アメリカは第2のローリング・ストーンズとなるグループを遂に生み出したと私は心から信じている」)のついたブルースのアルバム『A Full Spoon Of Seedy Blues』(1967. Nov)を上回る評価を得ている。この『Full Spoon』を除いたすべてのアルバムが現在でも入手可能ということは、世界には時として正義があるのだという決定的な証拠である。水ギセル(マリファナ用)をまわしてくれ。
(文=ビリー・アルトマン)
(『ローリングストーン・レコードガイド』1979年版より、翻訳=講談社・昭和57年3月刊)

『偽ムーミン谷のレストラン』疾風怒涛メーデー編

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 ところで集団行動と言ってもやる気のない者とやる気のある者の見分けがつかないのに数だけは必要という場合がある、とムーミンパパは言いました。普通集団行動というのは目的が一致しなければ成立しないものだ。
 ほほう、とスノークは先をうながしました。突然ムーミンパパが理屈をこねはじめた時には、スノーク族には先天的にムーミン族にツッコミを入れるDNAが流れているのです。しかしムーミンパパがそこでもったいをつけているとツッコミのタイミングを失うので、スノークは先を読んで、では目的が問題なんですかね?と訊ねました。
・この馬鹿兄貴!
 とフローレンは内心で悪態をつきましたが、急かさないでおじさまのお話を聞きましょうよ、とお嬢さまぶりました。はたから見ればそんなフローレンの態度こそ差し出がましいのですが、こういう時にお嬢さまぶっておかないとフローレンこそ、
・まつげの長い二足歩行の女カバ(笑)
 とあなどられまいという意地があるからです。ムーミンパパはスノーク兄妹の反応に十分もったいぶった満足感を感じた様子で、
 そう、集団行動では通常やる気のない者とやる気のある者ははっきり見分けられる。これは最小単位の集団でも言えて、私はムーミン谷ケーブルテレビで観たことがあるが、どこか外国では合コンとかお見合いパブという行事や議会があって……(ムーミンママの視線に気づいたムーミンパパは話を飛ばし)やる気のあるなしははっきりと区別がつくものだ。しかし、君は「伝説のチャンピオン」という曲を知っとるかね?
 伝説のチャンピオン?
 そうだ。この曲を作って歌っているのはセーラーマーキュリーという水星人だそうだが、何でもこれをテーマにした集会というのがあるらしい。私は冒険家の時たまたまとある島国の町で目撃しただけだが、この曲の演奏家の名前から採ってメーデーと呼ばれる集会がある。デーは日付、メーというのは演奏家の名前がメイというお方だからだ。
 ……。
・ちょうどいい。
 とムーミンパパは中年太りのひだの中から平べったいものを取り出しました。これはその国の便利グッズでスマホといい、何でも若い女などはこれを持たないと死んでしまうらしいのだが、その時の体験談をわが友の発明家フレドリクソン、そして冒険家仲間ロッドユールとソースユール夫妻に送ったものがある。その国の言葉を覚えるために外国語で書いたものだが、かいつまんで谷の言葉に訳してみよう。

 今回で第90回を迎えるメーデー(本当はメイデーが正しいのでしょうけど)は県民会館で9時半頃に始まり、毎回最初は地元のアーティストを招いてミニコンサートみたいなものがあるのが慣例と教わりましたが、今年はこの州を拠点に活動する「ゴスペルオーブ」という4人編成の女性ゴスペルグループが5曲くらい披露されました。楽器はメンバーの一人がキーボードを。"You are my sunshine"や、曲名忘れたけどゴスペルで有名とされるものとか。
 次に団体旗登壇。いつも物々しい労働歌が流されるそうですが、今年は「伝説のチャンピオン」。6/8拍子のバラードです。会場の人達は手拍子をどうしてよいものか困っていました。ゆっくりめの手拍子でいいじゃないのと思ったけど、皆めいめいにリズム感が変な手拍子だった。この曲の演奏家ブライアン・メイが辺野古新基地建設停止の署名を集めたことで一躍注目されたことから始まったのがこの行事のようです。
 メーデー実行委員長挨拶。
 デコレーションアピールとして、代表でいくつかの団体が厳しい労働の現状や安倍内閣の悪政反対などを訴え、寸劇形式にしたり、今年はJ-Popでしたが聞けば過去には「イマジン」をBGMにして青年団体が平和のアピールをしたり。
 日本共産党を含む各団体代表(今回は5つ)からの特別アピール。
 メーデー宣言採択。代表者が読み上げ、拍手をもって採択。
 会場全員での「団結がんばろう!」唱和。
 その後、デモ行進でした(宣伝カーの先導に合わせてシュプレヒコールしながら約2〜3km練り歩き)。
 大体こんな内容でした。
 観光気分で観覧していると感覚がマヒしてきますが、慣れない人からしたら異様な光景かもしれませんね。しかしこれがメイさんという方にちなんだ民族的祭典だとわかったのは、ジャコウネズミ博士やヘムレンさんの興味を惹かれるのではないでしょうか。

 ……何だか女みたいな文体ですね、とスノークが失礼なことを言いました。ムーミンパパはムーミンママの様子をうかがい一瞬ギクッとしましたが、ムーミンママはこれしきのことではフライパンを閃かせませんので安心して、それはだな。船乗りが外国の町で最初に外国の言葉を教わるのはだいたい女子供からと決まっているではないか。私にはスナフキンのような児童偏愛の趣味はないから、まず冒険家パーティーの斡旋所に行ってなるべく親切そうな窓口嬢とねんごろになる。ネンゴロといっても下心を秘めた意味ではないぞ。だから外国語を覚える男は女言葉から異文化に触れるのだ。
 しかし冒険家パーティー斡旋所の窓口嬢というと必ず乳房が巨大なのはなぜなのか。ムーミン谷の常識では考えられんことだ。何しろムーミン谷には巨大な乳房をひとことで表す単語はないのに、このスマホというものは巨とだけ入力すれば乳と出てくる。ならばいずれムーミンが家系を継いで冒険家に育ったら(偽ムーミンはビクッとしました)巨乳というのを輸入して養殖輸出すればさぞムーミン谷も外貨で豊かになろう。そう思わんかママ、と言いかけたとたんムーミンパパの意識はフライパンの一閃で吹き飛び、
 ……あれ、私は何の話をしてたんだっけな?
 メーデーですよ、とスノークはのどもとまで出かかりましたが、自分の視覚のとらえられない速度でムーミンパパにたまによくある事態が起こったのを悟りました。何より妹フローレンの恐怖が兄の袖をつかんだ指先の激しい震えだけでも赤信号を告げ、偽ムーミンのアホ毛を逆立てさせていたからです。

(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

集成版『荒野のチャーリー・ブラウン』第四章

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 第四章。リラン・ヴァン=ペルト。
・リラン! 
 無理に呼び起された不快から、反抗的に、ちょっとの間目を見開いて睨むように兄の顔を見あげたが、すぐまたぐたりとして、ズキンズキンと痛むこめかみを枕へあてた。ぼくは、腹が立ってならなかったのだ。
 ライナスはしかし、急き立ててぼくの名を呼び続けようとはしなかった。もうぼくが目を醒したのだと知ると、熟睡のあとの無感覚な頭の状態から、ハッキリした意識をとり戻し得るだけの余裕を、十分に与えてやるという風にしばらく黙っていた。
・起きろよ
 突然にまた兄の鋭い声がした。脅かされたように、ぼくは枕から顔を放して、兄の顔を見守った。二言三言眠り足らない自分を言い訳しようとでもする言葉が、ハッキリした形にならないまま鈍い頭の中で渦を巻いていた。
・いま……何時なの?
 が、しかし、兄はそれには答えなかつた。ぼくはちょっと照れて机の上の置時計を見た。
・二時間位しか、眠りやしない……。
 ぼくは半分寝床から体を這い出しながら、口を尖らせながら、呟くように言った。そういうぼくを、兄は非難しようとさえしなかった。
 ともかく起きろ。起きて、着替えてキチンとしろ、大変なことになったんだ。
 こう、妙に沈んだ声で言うのだった。ぼくはかすかな不安を覚えながら、節々の痛む体を無理に起して寝床から放れた。……ランドセルのまま、毛布も持ったままの、学校へ行きがけらしい兄の姿をもう一度よく見守って、何か言おうとしていると、
・ルーシーが悪いんだ
 と、兄は怒ってでもいるような恐い顔をして、押っ被せるような強い口調で言った。姉さんが?姉さんには昨日会ったんだけれども……。昨夜ひと晩で急にヒドく悪くなったんだ。肺炎だというんだが、もう駄目らしい。今日午前中持つかどうか……。
 キッパリと、あまり強い調子で言うのでちょっとの間ぼくは、兄の言葉に反問することが出来ずにいた。
・そんなことはありはしない。そんなことってありはしない……
 しばらくして、ぼくは兄を責めでもするように、ワクワクしながら呟いた。
・医者が、もう駄目だと言うの?
 ああ、そう言うんだ、と兄は力のない声で、おれは、これから電報を打ちに行くんだ。それから、もう一度医者に酸素吸入を頼んでくるつもりでいるが、お前にも頼みがあるんだ。
 私は返事をしなかつた。着物を着替えたらすぐ駆けつけてみようと思っていたのだ。
 ……広小路へ行ってね、イボタの虫ってものを買って来てもらいたいんだ。
・イボタの虫って……
 おれもよく知らないんだがね、と、兄は言いにくそうな調子で、売薬だがね、好く効く薬なんだそうだ。母さんがぜひ買って来いと言うんだから、買って行けよ。


  (32)

 うさんくさいと思っているんだろう?とライナスは弟のベッドに腰かけながら言いました。悠長にしているひまはありませんが、リランは着替えが遅いのです。ルーシーなどはあんたは服着たまま寝ればいいのよ!と日頃からカリカリしていたくらいでした。まあルーシーはいつでもカリカリしている姉ですが。
 リランは答えませんでしたが、それは無愛想からではなく、兄に言われるまでもなくそんな売薬の効き目など信用できず、ましてや医師の見立てでも今日の午前中持つか持たないかという病人に、兄の提案通り吸入でまだ苦痛を和らげてあげる程度ならともかく、言わば臨終間もない病状に気休めみたいなものをあつらえてどうにかなるものか、という呆れた気持からでした。だいたい名称からして呼吸器系の疾患に効く薬とは思えません。何とかの虫、のたぐいというくらいですから、たぶん古くからある伝承薬なのでしょう。
 たぶん古くからある伝承薬のたぐいだとは思うけどね、とライナスが言ったのでリランはギクッとしましたが、うん、とうなずくと、でも本草学を馬鹿にしちゃいけないぜ。近世までの医学は解剖学と薬学だが、薬学はつまり植物学だったんだから。植物学とはつまり自然科学で、自然科学とはあるがままの生態系環境を知ることだ。もし政治的にも軍事的にも経済的にも宗教的にも何の権限も持たない王様を王と定めた国があるなら、たぶん象徴的な意味で自然科学をお修めになるに違いない。
 それはそうかもしれないけれど、とリランは見当たらない靴下の片方を探しながら、だったら兄さんが、と喉もとまで出ましたが、ライナスはあちこち電報を打つやら吸入の依頼に行くやらで先にすることがある、と言うに決まっています。だからリランに頼むのだ、と言うでしょう。ライナス自身がそんな虫の薬などあてにしてはいないのです。なのにリランに頼むのは母さんの指図を代行してほしいからで、これだって虫のいい話です。
 ですが役割を交替してリランが電報を打つのは兄弟の順位表からして変ですし、ライナスが手配するなら反対はしませんが、リラン自身はこの期に及んでの吸入には大して積極的にはなれませんでした。それに……リランには懸念もありました。リランはライナスに尋ねました。
・チャーリーやスヌーピーたちも呼ぶの?


  (33)

 ライナスは答えず、相変わらずリランのベッドに腰を下ろしたまま毛布をぶら下げていましたが、不自然な沈黙にはさすがにこらえかねたのか左手の手指の先を一本一本見較べると、やはりいつもの親指を舐めることに決めたようでした。この親指はライナスの指しゃぶり癖のためにこれまでに何度も姉ルーシーの怒りを買い、切り落とされたことも一度や二度では利きませんが、そのたびに再生してくるのはライナスのキャラクター属性と指しゃぶりが切り離せないからで、ルーシーが何度あの手この手で隠滅しても戻ってくる毛布と並んで一種の不滅性を備えていました。
 ライナスの場合は指しゃぶりのために左手の親指があり、それがライナスとともに生まれてきたものなのは疑うべくもありません。では毛布はといえば、これはライナスにとって胎盤の代用を勤めていることはパインクレストの世界では誰にとっても明らかでした。チャーリー・ブラウンが草野球に執着し、そのチームが常に連敗記録を更新しているのが社会的挫折の象徴であるのと同様に、チャーリーをめぐる小学生たちは何らかのシンボルであることを義務づけられているような世界、それがこのパインクレストです。シュローダーは芸術家であり、ピッグペンは失業者、フランクリンはやがてこの国初の黒人大統領になるでしょう。
 だったらぼくは何になるんだろう、とリラン・ヴァン=ペルトはわざとのろのろと着替えをしながらひとりごちました。ルーシーの弟でライナスの弟、姉や兄が果たしてきた役割からすれば、たぶんぼくはオマケのような存在でしかない。戸籍上ではぼくの名前はRerunとなっている。「またかよ!」とルーシーが言ってライナスがつけたという名前だ。ぼくはオーヴァーオールさえ着ていなければ兄と見分けがつかない。チャーリーがスヌーピーを譲ってくれないかと思っている。たまにチャーリーのチームでレフトを勤める。ぼくは1973年に最初から現在の年齢で生まれた。それまでは存在しなかった。だけど自分の存在に気づいた時には、ぼくはすでにそれまでの記憶を持っていた。
・植えつけられた記憶だ。
 たぶんぼくの存在はルーシーが姉貴ぶりますます増長すべく、ライナスが格好のつかない兄たるべく考案されたものなのだろう。だが今、ルーシーは臨終の床にあるといい、ライナスは妙に落ちつき払っている。
・罠のにおいがする。


  (34)

 ライナスは弟の質問を聞き流しながら、ルーシーとのあいだの永年の確執がなんとなく押し流されて行くのを感じていました。姉とライナスはともに1952年生まれの6か月違いの姉弟でしたが、ライナスはお母さんから生まれたのではなくルーシーがいるからこの世に呼び出されてきたようなもので、それはリランが彼らの弟として現れた時に否定のしようもなく突きつけられたこの世界の成り立ちでした。実際、リランの登場によってライナスはずいぶん楽な気持になったものです。こうも自分とうり二つの容貌の弟がいると、ライナスは指しゃぶりの癖も愛着尽くしがたい毛布もこれまでならなくてもいい場面まで公然とさらけ出せるようになりました。そうでもしないと、ライナスがライナスたるアイデンティティが稀薄になってしまうからです。
 その点では、ぼくはこいつに感謝してもいいわけだ、とライナスは着替えののろいリランを寛大なまなざしで眺めながら思いました。おまえが出てきてから、ぼくはずっと肩が軽くなった。そう内心で話しかけながら、しかしリランにとってルーシーやぼくの弟であることは決して面白いことではないだろうな、と思いました。彼が生まれたのは1973年とライナスたちよりだいぶ遅く、ルーシーとライナスがとげていた精神的成長に生まれながらに釣りあう設定年齢と精神年齢に生まれついたのです。それは楽なことではないはずでした。ルーシーとライナスはうまれてから10年をかけてキャラクターに磨きをかけてきて、いわばそれが彼らの幼年期だったのに、リランには姉や兄のような幼年期は与えられなかったのです。
 ぼくがいかにもこしらえものめいた、ともすれば機械人形的キャラクターと自分でも感じるのは、たぶんそのせいだ、とリランはライナスが思いめぐらしている続きを引き継ぎました。彼らは普段はもっと簡潔なフォーマットに生活しているので、自分以外の人物の心の中などお見通しが前提でボケ・ツッコミを分担したり滑ってみせたりしているのです。ただし彼らの中にもひとりだけ例外がいました。それはムーミン谷におけるムーミンと同じで、世界の中心にある虚無であり、虚無であることでそれぞれの世界全体のショック・オブザーヴァーの役目を果たしているのに、本人たちには自分が中心人物という自覚がないことまで一緒でした。
 チャーリー・ブラウン、とリランは呟きました。彼を失っても、ぼくたちは存在し得るのだろうか?


  (35)

 たとえば、とリランは前後逆に着てしまったオーヴァーオールから袖を抜きながら思いました、ぼくが生まれて、より正確に言えば現れてきてから、ぼくはルーシーやライナスに彼らの性癖を正当化するための引き合いにされてきた。ケーキの大きい方は私のね、だって二人も弟がいるんだから当然でしょ!……いやこれじゃルーシーの言い分にも一理あるような例になってしまう。指しゃぶりならついこの間までリランだってしていたじゃないか!まさかリランまで今でも隠れて指しゃぶりしているんじゃないでしょうね!……これならはっきり濡れ衣だと言える。ぼくは存在してからこのかた、指しゃぶりなどしたことはないのだ。
 ただし、とリランは背筋に冷たいものを覚えながら沈着に考えました、彼らは嘘は言っていないということもぼくにはわかっている。ルーシーにもライナスにもぼくが幼児らしいわがままを言ったり、指しゃぶりをしたりしているのを見てきた記憶がある。正しくは、ぼくがヴァン=ペルト家の次男、ルーシーとライナスの弟として出現した時にその記憶が発生した。ぼくにはそれがわかる。なぜなら、ぼくも自分がこの世界に現れた時、ルーシーやライナスと共有する記憶がすでにあったからだ。だからぼくが最初から分別のついた児童であったとしても、客観的に実際の幼年期を証したてる方法はない。あったとしてもそれはルーシーやライナスの知っているぼくではないということになる。
 こうして考えていることも、たぶんライナスにはお見通しのはずだ。ヴァン=ペルト家の三姉弟はひとつのグループをなしているのだから。それはチャーリーとサリーのブラウン兄妹よりも(なぜならチャーリーはスヌーピーとの絆のほうがより強いから)、パインクレスト小学校のモブキャラたちよりも強いサークルを結んでいるに違いない。ライナスもぼくもルーシーの弟であることからは逃れられない。そう思っていた。
 だからルーシーが間もなく臨終を迎えようとしているなどぼくら弟たちにとっては晴天の霹靂で、もしぼくたちがルーシーの従属的キャラクターならば、彼女の臨終はぼくら弟たちも巻き込んだ消滅に結びつくかもしれない。兄はぼくより10年あまり長くルーシーの弟を務めているから、ぼくよりはこの世界の成り立ちに精通しているはずだ。だがルーシーなしに兄とぼくとが永らえる可能性が、果たしてあるものだろうか?


  (36)

 しかしひょっとしたら、とリランは思いました、おれはかつがれているのかもしれないぞ。今朝は最初からナイナスの態度は唐突で、しかももったいぶっていた。
 リランは無理に呼び起されて不快になり、反抗的に一瞬にらむようにライナスの顔を見あげましたが、すぐまた寝不足で痛むこめかみを枕へあてて顔をそむけたのです。リランは腹を立てていました。
・起きろよ
 と、突然またライナスの鋭い声がしたので、ようやくリランは枕から顔を放して、兄に顔を向けました。
・いま……何時なの?
 しかし、兄は答えませんでした。リランはすこし照れて机の上の置時計を見ました。
・二時間くらいしか眠ていない……
 リランは半分寝床から体を這い出し、口を尖らせて、呟くように言いました。ですが兄は非難しようとする様子もありません。
・ともかく起きろ。大変なことになったんだ
 こう、妙に沈んだ声で言うのでした。リランはかすかな不安を覚えながら、節々の痛む体を無理に起して寝床から放れると、
・ルーシーが悪いんだ
 と、ライナスは怒ったようにたたみかけるような口調で言いました。姉さんが?とリランは虚を突かれました。ルーシーには昨日会ったんだけれども……。するとライナスがいうには、昨夜ひと晩で急にひどく悪くなったんだ。肺炎だというんだが、もう駄目らしい。今日午前中持つかどうか……。
 きっぱりと、あまり強い調子で言うのでとっさにリランは、ライナスの言葉に反問できませんでした。そんなわけはない、そんなわけはない……。しばらくして、リランはライナスを責めて呟くように、
・医者が、もう駄目だと言うの?
 ああ、そう言うんだ、とライナスは力のない声で、おれは、これからあちこちに電報を打ちに行くんだ。それから、もう一度医者に酸素吸入を頼んでくるつもりでいるが、お前にも頼みがあるんだ。
 リランは返事をしませんでした。。着替えたらすぐに出ようと思っていたのです。
 広小路へ行ってね、とライナスは言いました。イボタの虫ってものを買って来てもらいたいんだ。
・イボタの虫って……
 おれもよく知らないんだがね、と、ライナスは言いにくそうな調子で、売薬だがね、好く効く薬なんだそうだ。母さんがぜひ買って来いと言うんだから、買って行けよ。
・……イボタの虫?
 やっぱりかつがれているのではないだろうか、とリランは思いました。ルーシーの急病も、きっと嘘だ。


  (37)

 なんだか安いサイコ・サスペンスみたいね、と桜田ネネちゃんは言いました。サイコ・サスペンスってなあに?と素直に質問するのは佐藤マサオくんです。なんだいキミたち、サイコ・サスペンスもわからないのかい?と得意げに言うのは風間トオルくんですが、本人だってわかったものではありません。オラ知ってるゾ、サスペンスサイコー!と野原しんのすけは踊り出そうとしましたが、ボーちゃん(名字不明)が、サイコ……サスペンス、とは、と的確な説明を始める気配でしたのでもっと大きい笑いを取るために様子をうかがっていました。もっともしんのすけはお尻さえ出せればユーモアと心得ているような幼児でしたから、だれがなにを言い、話がどう転がろうと断固としてお尻だけは出すのですし、注意を引きどんな反応でさえ向けられればしんのすけには満足なのでした。
・そういうこと?
 唯一しんのすけに堪えるのは無反応なので、その意味ではしんちゃんほど御しやすい幼児はないとも言えます。要するに単純なかまってちゃんと見做せばそれだけで、この超うざいイノセンスが野原しんのすけを世界一有名な春日部市民(未成年も市民なら)にしていました。世界とはスペイン語圏やポルトガル語圏、イタリア語圏、フランス語圏、中文語圏、などなどです。対象年齢を下げればプレスリーよりも知名度が高いのではないでしょうか。なぜプレスリーかは、しんちゃんのような無垢さを体現する世界的アイドルはエルヴィスの他に思い当たらないからです。ただしこれは全宇宙500億万人のエルヴィス・ファンに物議をもたらすご意見でしょう。それよりもトオルくん、ネネちゃん、マサオくんとボーちゃんがそろえばかすかべ防衛隊ですが、彼らが集まって審議しているのはどうやらライナスとリランのことでした。
 最初からどうも怪しいと思っていたのよ、とネネちゃんは男児たちのリアクションを無視して、同じことばっかりぐるぐるむし返しているじゃない?つまりこれってこういうことよ。ライナスとリランは同じ男の子なの。
 (しんのすけ)ネネちゃんそれどういうこと?(風間くん)なるほど、そういうわけか。(マサオくん)えっ、なに、こわいよー(泣)。(ボーちゃん)多重人格障害……。
 それよ、私が言いたいの、とネネちゃんは女王様ポーズで、つまりどちらか、または二人ともが実際は想像の中にしかいないのよ。
 まさか、とリランは思いました。


  (38)

 ネネちゃんの言うことは難しくて、オラちっともわかんないゾ、としんのすけは言いました。おいおい、しんのすけ、と風間くん。ぼくもわかんないや、とマサオくんがいうと、ボーちゃんがボー、とマサオくんの肩を叩きました。しかし話を手っ取り早く先に進めるためには、欽定訳聖典の出番が必要です。すなわち神のお言葉に耳を傾けなければなりません。
 彼ら5人のプロフィールーー

・風間 トオル(かざま トオル)
 幼稚園児ながら英語やさまざまな知識を知っている。しんのすけ曰く大親友かつ「お互いのホクロの数まで知り尽くした関係」。しかし、本人は嫌がっている。後述の魔法少女もえPなどの少女向けアニメのファンであるが、皆には隠し通している。少しプライドが高い。
・桜田 ネネ(さくらだ ネネ)
 5歳児とは思えないほどおませな女の子。自分が設定を考えるリアルおままごとが大好きだが、しんのすけ達からは不評である。
・佐藤 マサオ(さとう マサオ)
 坊主頭とまるい顔から「おにぎり(君)」というあだ名を付けられてしまった。臆病で泣き虫だが、その一方で漫画が得意である。
・ボーちゃん
 名前の通り『ボー』っとした男の子。相槌を打つ時や返事、感情を表すときなどに自ら「ボー」という。
また、珍しい石などを多くコレクションしている。たまに冴えた一言を言う。

 オラが抜けているゾ、としんちゃんはふくれっ面をしました。お前のはちょっと長いんだよ、と風間が聖典をめくりながら、あ、短いのもあった。えー、やだオラ。それにしなさいよ、とネネちゃんが断固として口を挟みます。じゃ、いいけどさ、としんのすけ。

・野原しんのすけ
 本作の主人公。アクション幼稚園(アニメではふたば幼稚園)に通う幼稚園児。

 それだけ?そうだよ、だってそう書いてあるんだもの。ここはアクション幼稚園だったの?アニメってどゆこと?……納得できないゾ、オラ長い紹介がほしいゾ!
 そうですわしん様、と酢乙女あいちゃんが割って入りました。

・酢乙女 あい(すおとめ あい)
 ひまわり組の園児。しんのすけの事を溺愛しており、しん様と呼んでいる。お弁当を作ってあげるなどの家庭的な一面を見せるも、中身は全て高級料理店のシェフが作っている。

 なによあんた、とネネちゃん、私たちの話に口を出さないでよ。しん様のことで私をのけ者にはできませんわ、とあいちゃん。いわゆる女の戦いです。


  (39)

・三人のオベロンと悪しき精霊たち
 という話をしよう、とムーミンパパはパイプをくゆらしました。少々長くなるかもしれないが、これはずいぶん示唆的な要素を含んだ物語でもある。まあ聞きたまえ。
 ……幽暗の王国には、無量の貴重な物がある。地上におけるよりも、更に多くの愛がある。地上におけるよりも、さらに多くの舞踏がある。そして地上におけるよりも、さらに多くの宝がある。太初、大塊は恐らく人間の望みを満たすために造られたものであった。けれども、今は老来して滅落の底に沈んでいる。われらが他界の宝を盗もうとしたにせよ、それが何の不思議であろう。
 私の友人の一人がある時、スリイヴ・リーグに近い村にいた事がある。ある日その男がカシエル・ノアと呼ぶ砦の辺を散歩していると、一人の男が砦へ来て地を掘り始めた。憔悴した顔をして、髪には櫛の目も入っていない。衣服はぼろぼろに裂けて下がっている。私の友人は、傍に仕事をしていた農夫に向つて、あの男は誰だと訊ねた。あれは三代目のオベロンです、と農夫が答えた。
 それから五六日経って、こういう話を聞いた。多くの宝が異教の行われた昔からこの砦の中に埋めてある。そして悪い精霊(フェアリー)の一群がその宝を守っている。けれどもいつか一度、その宝はオベロンの一家に見出されてその物になるはずになっている。が、そうなるまでには三人のオベロン家の者が、その宝を見出して、そして死ななければならない。二人はすでにそうした。第一のオベロンは掘って掘って、ついに宝の入れてある石棺を一目見た。けれどもたちまち、大きな、毛深い犬のようなものが山を下りて来て、彼をずたずたに引裂いてしまった。宝は翌朝、再び深く土中に隠れてまたと人目にかからないようになってしまった。それから第二のオベロンが来て、また掘りに掘った。とうとう櫃を見つけたので、蓋をあげて中の黄金が光っているのまで見た。けれども次の瞬間に何か恐しい物を見たので、発狂するとそのまま狂い死に死んでしまった。そこで宝もまた土の下へ沈んでしまったのである。第三のオベロンは今掘っている。彼は、自分が宝を見出す刹那に何か恐しい死に方をするということを信じている。けれどもまた呪いがその時に破れて、それから永久にオベロン家の者が昔に変らぬ富貴になるということも信じている。
 次回第四章完。


  (40)

 ……近隣の農夫の一人はかつてその宝を見た。その農夫は草の中に兎の脛骨の落ちているのを見つけた。取り上げてみると穴が空いている。その穴を覗いて見ると、地下に山積してある黄金が見えた。そこで、急いで家へ鋤を取りに帰ったが、また砦へ来てみると、今度はどうしてもさっきそれを見た場所を見つける事が出来なかった。
 ムーミンパパは黙りこみました。それで終わり?ん、そうだが。それじゃオチがないじゃん、と偽ムーミンは思いましたが、大人(スノークが大人と呼べればですが)の話に口を挟むとロクなことにならないのでここはおとなしく様子を見ることにしました。
 スノークは2回にまたがったムーミンパパの長広舌にだんだんぼんやりしてしまいましたが、偽ムーミンの明らかに不満げな表情からするとどうやら尻切れとんぼな話だったに違いない、くらいには見当をつけ、
・それは意味深ですな……
 と額に手をあてました。動物学的には前肢を、と言うべきですが、ムーミン谷の住民は多くは二足歩行しており、あるいは、二足歩行の事実をもって住民である資格を認知されており、どちらにしても彼らはトロールですから手でも前肢でもどうでもいいのです。とにかく「意味深ですな」というのはムーミン谷社会の知識階級では「それは興味深い」や「たいへん貴重なご意見」同様「だからどうした?」という意味でした。または「それが何だ?」でもかまいません。ムーミン谷のように高度な知的レヴェルに到達した社会では言葉は、
・文字通りの賛意表明、もあれば、
・適当な相づち、の場合もあり、
・まったくの反語、の場合もあるのです。これはその社会が不信と責任回避から成り立っていることを示すもので、デカダンスすら追い越した状態といえて、本質的に腐敗が人間性に浸透するとこうなるのですが、トロールには人間性はないので責められるいわれもないのです。
 なるほど、とライナスはヒントをつかんだように思いました。なあリラン、とライナスは立ち上がると、『ウィリアム・ウィルソン』は教科書で読んだよね。二人の男が殺し合い、じつは相手は自分自身だったって話さ。
 ライナス、何を言いたいんだい、とリランは驚いて着替える手が止まりました。訊くまでもないことにリランは全身を身構えました。
 つまりさ、とライナス、ぼくらかのどちらかが死ぬとこの世界はどうなるか、試してみる価値があるんじゃないかってことさ。
 第四章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

映画日記2019年4月22日~24日/一気観!『映画クレヨンしんちゃん』シリーズ!(8)

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 ボックスセット『映画クレヨンしんちゃんDVD-BOX』2017は第25作『襲来!!宇宙人シリリ』2017の公開にあわせ前年度までの第24作までを収録した24枚組セットですが、前回ご紹介した第21作『バカうまっ!B級グルメサバイバル!!』2013は監督が橋本昌和('75年生まれ)に交代し、ひさびさにしんちゃん映画で快作が出たと評判になり往年のヒット水準を取り戻した作品でした。次いで高橋渉('75年生まれ)監督が担当した第22作『ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』2014は原恵一監督担当の第9作『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』2001(興行収入15億円)、ムトウユージ監督の第15作『歌うケツだけ爆弾!』2007(15億5,000万円)をしのいで歴代3位を更新する興行収入18億3,000万円を達成、以降交替制で橋本監督担当の第23作『オラの引越し物語~サボテン大襲撃~』2015は約23億円と第1作('93年、22億2,000万円)、第2作('94年、20億6,000円)をしのぐシリーズ歴代1位の特大ヒットを記録し、高橋監督担当の第24作『爆睡!ユメミーワールド大突撃』2016も21億1,000万円で歴代トップ3を更新しています(なので『ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』はすぐに歴代5位に塗り替えられました)。その後、ひろし役が藤原啓治氏から森川智之氏に交代後の橋本監督の第25作『襲来!!宇宙人シリリ』2017が16億2,000万円、昨年の高橋監督の第26作『爆盛!カンフーボーイズ~拉麺大乱~』2018が18億3,000万円と好調は続き、第26作公開後テレビ版当初からしんちゃんを演じてきた矢島晶子さんが降板し小林由美子さんに交代したので、2019年4月19日封切りの橋本監督による最新作で第27作『新婚旅行ハリケーン~失われたひろし~』はしんのすけ役が小林由美子さんに交代した初めてのしんちゃん映画でもあり、この感想文は第24作までを収めた『映画クレヨンしんちゃんDVD-BOX 1993-2016』収録作で区切ったので今回と次回で一旦終わりますが、しんちゃん映画はなお新作も注目されるところです。なお各作品内容の紹介文はDVDボックスの作品紹介を引用させていただきました。

●4月22日(月)
『映画クレヨンしんちゃん  ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』(監督=高橋渉、シンエイ動画=双葉社=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2014.4.19)*97min, Color Animation
◎ある日、ギックリ腰を治しにマッサージに行ったひろし。なんと、ロボットになって帰ってきた!?戸惑うみさえと、大喜びのしんのすけだったが、それは家庭での立場がすっかり弱くなってしまった日本の父親たちの復権をもくろむ"父ゆれ同盟"による巨大な陰謀だった!どうなる、ロボとーちゃん!!

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 劇場版『映画クレヨンしんちゃん』は公開時のテレビ版主題歌がそのままオープニング主題歌(エンドクレジット主題歌は毎回新曲)に使われているのですが(第12作『夕陽のカスカベボーイズ』2004のみ初代主題歌「オラはにんきもの」が例外的に再使用されました)、2年以上続いた主題歌は劇場版第1作~第3作('93~'95年)の「オラはにんきもの」、第6作~第8作('98~2000年)の「とべとべおねいさん」、第9作~第10作(2001~2002年)の「ダメダメのうた」、第13作~第17作(2005~2009年)の「ユルユルでDE-O!」、そして最長期となったのが第21作~第28作(2013~2018年)の「キミに100パーセント」(きゃりーぱみゅぱみゅ)で、「オラはにんきもの」はテレビ版でもスタート時からの主題歌でしんちゃん主題歌の代名詞的楽曲ですし、テレビ版の視聴率の落ち着きに伴って'96年、'97年や2003年、2004年、また2010~2012年は年代わりで主題歌が変わりましたが、上記5曲は2年~8年に渡ってテレビ版主題歌に使われた曲です。劇場版立ち上げ時の「オラはにんきもの」はテレビ版が大評判になっていた時期でもあり劇場版も特大ヒットを記録しましたが、「とべとべおねいさん」の時期は話題性は落ち着きながらも人気番組として定着していた時期で劇場版はそこそこの成績を上下し、原恵一監督の2大傑作『オトナ帝国の逆襲』2001、『戦国大合戦』2002の2作は映画は大評判を呼んだヒット作になったのにしんちゃん主題歌史上もっともけたたましい「ダメダメのうた」が主題歌、という不調和がありました。ムトウユージ監督~しぎのあきら監督時代の「ユルユルでDE-O!」は劇場版が再び好調を維持していた時期で主題歌も「オラはにんきもの」の21世紀ヴァージョンのような楽しさがあり、劇場版不調が囁かれた2010~2012年には主題歌が毎年変わりましたが、ひさびさの大好評のヒット作となった前作の第21作『B級グルメサバイバル!!』2013からはテレビ版主題歌は「キミに100パーセント」に代わり、同曲は連続8作(足かけ9年)テレビ版・劇場版主題歌に使われてこの時期の劇場版映画シリーズはすべて好評・大好評のヒット・特大ヒット作となっています。歴代テレビ版・劇場版主題歌でも「キミに100パーセント」はホームドラマ・コメディらしいしんちゃんアニメにしっくりなじんで愛された楽曲と言ってよく、しんちゃん映画は毎回異なる趣向を凝らして刺激的な内容であっても後味の良い着地を迎えるのでほんわかした曲調の「キミに100パーセント」は観客にこれから始まる映画について安心感を与えてくれるので、しんちゃんアニメ最長使用主題歌になったと言えそうです。さて、前作の好調の波に乗って大評判を呼んで興行収入18億3,000万円の特大ヒットとなり、第18回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞作品を受賞した本作は、シンエイ動画所属監督で長年テレビ版・劇場版しんちゃんに携わってきた高橋渉(1975年生まれ)が監督を担当し、かつて故・臼井儀人氏の担当編集者を勤め劇場版しんちゃん映画のプロデュースの担当経験(2007~2010年)もあり、劇団☆新感線の座付劇作家でありテレビ番組では「天元突破グレンラガン」2007や「仮面ライダーフォーゼ」2012、「キルラキル」2013の脚本を手がけた実績のある中島かずき(1959年生まれ)がオリジナル脚本を担当しました。本作は叙述トリックが仕組まれている作品なのであらすじが書きづらいのですが、カンタムロボの新作アニメがまずアヴァンで描かれ、映画館でアニメを観終えて興奮したしんのすけ(矢島晶子)はひろし(藤原啓治)に合体ロボごっこをせがみ、上機嫌でしんのすけを肩車したひろしはギックリ腰で腰を痛めてしまいます。休日のうちに治しておこうとひろしはしんのすけと町に出て治療院を探しますがどこも日曜なので休診で、一休みした公園では家族に邪魔扱いされているというくたびれた中年男たちがぐったりしていますが、ひろしと会話を交わしていたサル親父(田口昂)やジャージ親父(星野充昭)らポーチ親父(隈本吉成)、生ビール親父(小田敏充)たち中年男たちは公園に乗りこんできたバギーの主婦(神代知衣)、犬の散歩主婦(茂呂田かおる)、子連れ主婦(沢海陽子)らに公園から追い出されてしまいます。裏通りを歩いていたひろしとしんのすけは、突然現れた謎の美女・小女鹿蘭々(一木美名子)に連れられ、マッサージも兼ねてエステの無料体験を受けることになり、しんのすけは先に帰ります。エステを終えてすっかり快調になり家に着いたひろしでしたが、そこでみさえ(ならはしみき)に怖がられてようやく自分の体がロボットになっていることに気づいて驚きます。ロボットになったひろしに警戒心むき出しのみさえに対してしんのすけは大喜びです。みさえの警戒はなかなか解けませんが、ある日幼稚園の社会見学で建築現場の手違いに巻きこまれ危機一髪になったしんのすけ、風間くん(真柴摩利)、ネネちゃん(林玉緒)、マサオくん(一龍斎貞友)、ボーちゃん(佐藤智恵)を超人的な活躍で救ったことでみさえはロボットになったひろしを受け入れます。ひろしは変装して出勤に復帰し、会社の仕事も家の家事も抜群にこなすひろしの株は上がります。そんな中ひろしは、自分の体がロボットになった原因はあのエステサロンだったと気づきます。警察署長の黒岩仁太郎(遊佐浩二)は野原一家の訴えを一笑に伏しますがペット探索課の婦人警官・段々原照代(武井咲)を野原一家に担当させます。やがてひろしに届いたひげパーツをつけたロボットのひろしは突然過激な亭主関白に豹変し、春日部じゅうの父親たちを扇動して亭主関白の実力行使デモを行うようになりますが、それはロボひろしや社会見学の事故も含めて、邪険に扱われている日本の弱い父親達の復権を企てる『父ゆれ同盟(「父よ、勇気で立ち上がれ」の略称)』の恐るべき陰謀でした。「家族は、オレが守る!」パニック状態の春日部で、ひげパーツが外れて正気を取り戻したひろし=ロボとーちゃんが、ひろしに代わって姿を現した父ゆれ同盟総帥・鉄拳寺堂勝(大和田伸也)の野望をくじくためにしんのすけと共に立ち上がりますが、実はロボット工学者頑馬博士(コロッケ)を使って陰謀を企む鉄拳寺にはさらに黒幕がおり、さらにロボひろしにはロボひろし自身も気づかない隠された秘密がありました……。
 本作はクライマックスに正体を現した黒幕が頑馬博士(コロッケ)に作らせた巨大ロボット・五木ひろしロボ(コロッケ)が超音波演歌ビーム(「契り」を歌います)で攻撃してくるのを巨大ロボットで迎え討つ巨大ロボット対決のサービスもあり、みさえと段々腹婦警と逮捕された父ゆれ同盟の手下の蘭々が「男って何でロボット大好きなのかしら」と馬鹿馬鹿しさに呆れる、というギャグにもなっていますが、実はロボひろしの正体は……というのが最大の意外性で叙述トリックが仕掛けられていたのがわかり、そこで野原一家がもとの一家に戻るにはつらい犠牲者が出なければならない、というシビアな展開になります。最後は春日部の町には平和が戻り主婦たちと父親たちがいたわりあうように変化するハッピーエンドがあるので後味全体はさわやかに終わるようになっているのですが、野原一家がつらい選択と対決を迫られるのが本当のクライマックスになので、大人の観客には苦い後味も混じる作品になっています。「キミに100パーセント」が主題歌なのが苦みを柔らげているのが救われます。本作の仕組みを書くと未見の方は意外性を削がれることになってしまうので詳しく書けず残念ですが、『オトナ帝国~』や『戦国大合戦』『夕陽のカスカベボーイズ』なども単純にハッピーエンドとは割り切れない作品だったのと同様か、それ以上にしんちゃん映画史上空前絶後のバッドエンドという声もあるくらいで、高橋監督は次々作『ユメミーワールド~』でも真正面から「肉親の死」をしんちゃん映画で描いて作品も好評なら興行収入も本作を大きく上回る大成功を収めますが、それも本作の成果を踏まえてのことでしょう。しんちゃん映画は毎回新作公開とともに次年度作品の製作発表がありますが、次に前作『B級グルメサバイバル!!』の橋本昌和監督による新作と発表されたことからも橋本昌和監督(フリー監督)と高橋渉監督(シンエイ動画所属監督)の交替制は本作の成功で決まったと思われ、本作は中島かずき脚本の功績の大きい内容ですがフリー監督の橋本監督の方がプログラム・ピクチャー的な作風で、シンエイ動画所属監督の高橋監督の方が作家性の強さを感じさせる(シリーズ歴代監督の本郷みつる、原恵一、水島努、ムトウユージ監督らも社内監督でしたが)のは面白い対照をなしています。ともあれ、本作はしんちゃん映画中の異色作でもありシリーズ最上位にランクされる傑作の1本です。

●4月23日(火)
『映画クレヨンしんちゃん  オラの引越し物語~サボテン大襲撃~』(監督=橋本昌和、シンエイ動画=双葉社=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2015.4.18)*104min, Color Animation
◎野原一家がメキシコへお引っ越し!?辿り着いた町の名前は"マダクエルヨバカ"。個性いっぱいのお隣さんたちに囲まれて、楽しい毎日がスタートするはずが……待ち受けていたのは人喰いキラーサボテンだった!しんのすけとメキシコのご近所さんたちは、この絶体絶命の大ピンチを乗り越えられるのか!?

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 テレビ版レギュラー・スタッフの脚本家うえのきみこさんは前々作『B級グルメサバイバル!!』ではヴェテラン脚本家・浦沢義雄氏と共作でしたが本作はうえのさんの単独脚本で、監督は再び『B級グルメサバイバル!!』の橋本昌和(1975年生まれ)が当たり、演出はシンエイ動画スタッフの佐藤まさふみ氏と前作の監督の高橋渉氏が担当する万全の体制で初の野原一家の海外転居の話になり、パニック・ホラー映画仕立てが大いに受けてしんちゃん映画シリーズでこれまで不動の1位・2位の興行収入だった初代の本郷みつる監督の第1作『アクション仮面VSハイグレ魔王』'93(22億2,000万円)、第2作『ブリブリ王国の秘宝』'94(20億6,000万円)をしのぐ22億9,000万円の興行収入を記録し、シリーズ歴代1位の特大ヒット作品になりました。前回のご紹介で『B級グルメサバイバル!!』を絶賛した表現は本作でもそのままくり返してもいいので、流れるように巧みな構成、見事な監督手腕による演出は『B級グルメ~』よりはやや強引な展開ながら一気に観せてくれる迫力があり、興行収入シリーズ歴代1位は必ずしも本作がしんちゃん映画の最高傑作ということにはなりませんが、ホームドラマ・コメディの長編アニメーション映画で本格的な異常生物もののパニック・ホラー映画をやってのけたというのは国内外のアニメーション映画でもあまり類例がないでしょう。映画は、ひろし(藤原啓治)が双葉商事の部長(大友龍三郎)からメキシコの町に生息する極上の蜜を含んだサボテンの果実を集めるために異動と同時に部長昇進を命じられる場面から始まります。単身赴任を考えていたひろしですが、みさえ(ならはしみき)の「家族はいつも一緒!」の決意から野原一家はメキシコへ引っ越しすることになります。親しい春日部の住人たちの園長先生(納谷六朗)、よしなが先生(七緒はるひ)、まつざか先生(富沢美智恵)、あげお先生(三石琴乃)、風間くんのママ(玉川砂記子)、隣のおばさん(鈴木れい子)、おケイ(高山みなみ)、留守を預かるみさえの妹むさえ(根谷美智子)、ななこおねいさん(伊藤静)、ヨシりんとミッチー(阪口大助・大本眞基子)と野原一家は涙の別れを告げて記念写真を撮りますが、ネネちゃん(林玉緒)、マサオくん(一龍斎貞友)、ボーちゃん(佐藤智恵)は来たのに新しいかすかべ防衛隊バッジを作ってみんなに渡したばかりの風間くん(真柴摩利)は意地を張って来ず、メキシコのお姉さんはみんなスタイル抜群と聞いたしんのすけ(矢島晶子)は喜んで旅立ちます。電車が川沿いを走っている最中に土手を走ってくる風間くん(真柴摩利)を見かけたしんのすけは、走る電車の窓から風間くんに別れを告げて胸のバッジに手を置きます。引っ越し先の町・マダクエルヨバカでは双葉商事唯一の現地社員ホセ・メンドクセー(うえだゆうじ)が出迎え、野原一家の家はホセがのんびり建築中でまだ完成していない有様ですが、しんのすけはカロリーナ先生(坂本真綾)の幼稚園に通い始め、保安官 (勝杏里)やパブのオーナー(宮澤正)、肉屋の店長(木村雅史)や臆病なレスラーのレインボー仮面(堀内賢雄)、ツンツンの少女スマホちゃん(指原莉乃)、流しの歌手マリアッチ(浪川大輔)などなど個性的なご近所さんと知りあい不安だらけの新生活にも次第に馴れていきますが、マダクエルヨバカ町長のドゥヤッガオ・エラインデス(平田広明)はイケガミーノ博士(田村健亮)が発見した新種のサボテンでようやく町が豊かになったとひろしからの商談を断り続けます。エラインデス町長はサボテンのテーマパークを建設してさらに町の発展を計画していました。しかしテーマパーク中央にそびえる新種の巨大女王サボテンが開花した時、女王サボテンから次々と歩くサボテン・人喰いキラーサボテンが枝分かれして人間を捕食し始めます。野原一家は襲ってくるサボテンを撃退し、隣町に通じる一本橋を渡って町を脱出しようとメキシコのご近所さんたちと奮闘しますが、サボテンの群体はテーマパーク開会式を取材しに飛んできたヘリコプターすらも集合合体して飲みこんでしまいます。町中を駆け回り脱出と生存を目指す野原一家とご近所さんたちですが、ご近所さんたちも次々とサボテンの餌食になり、なぜか町にいた日本エレキテル連合の細貝さん(中野聡子)と朱美ちゃん(橋本小雪)も一瞬で食べられてしまいます。なおも襲いかかってくる不死身のサボテンの群れからひまわり(こおろぎさとみ)連れの野原一家と逃げのびたご近所さんたち、置き去りにされたシロはどうしたらこのピンチを乗り越えられるでしょうか?
 本作は野原一家の出発までも長すぎず短すぎず、風間くんとしんのすけの別れも感動的ながらよくある盛り上げ方に見えて実はここにクライマックスの伏線がしのばせてある巧みさで、この小道具や伏線のさりげない提示や意外性に富んだ生かし方は『B級グルメ~』でもあったものですが、こうして書いても実際に映画そのもの、その伏線と小道具の生かし方をご覧になるまで予想がつく方はいないでしょう。また不死身のキラーサボテンの群れから逃れる一堂が次々と計画を思いつき実行するもどの計画も成功しないもどかしいサスペンスが意外性と説得力のどちらも備えて展開していくのも迫真の異常生物襲撃もののパニック・ホラー映画として上乗に描かれており、実写映画とは違ったアニメーション映画ならではの描写を堪能できるのが本作の点を稼いでいるので、ロケハンは行われたでしょうが実際にメキシコを舞台にした日本製パニック・ホラー映画を実写で作ろうとすればオープン・セット撮影とCGを駆使しても数十億円の製作費がかかるばかりかチャチなものになりかねない。アニメーションだから軽々と(とはいえ力量は大いに問われますが)工夫次第でクリアでき、しかもアニメーション映画のリアリティの次元なので不自然にならない得があるので、到着後キラーサボテン発生の頃には野原一家は日常会話ならスペイン語を話せるようになっている設定で、双葉商事メキシコ支社のホセくんは別にしてマダクエルヨバカ市民たちはみんな本来はスペイン語で会話しているのですが、本作はファミリー向けアニメーション映画なのでいわば日本語吹き替えの状態なのが前提になっています。実写映画ではこれは当然すんなりとそうはいきませんし、アニメならではのデフォルメで統一されているので日本人一家とメキシコ人たちが自然に画面の中で同居している。これは実写映画でやったら肉体的な存在感が質感自体まるで違うので仕草ひとつ取っても設定の作為性が浮いてしまいわざとらしく見えて、パニック・ホラー映画であるより前に国際キャスト映画のわざとらしさがサスペンス・ドラマへの没入の邪魔になってしまうと考えられます。本作はあくまで観光資源としてのサボテン保全にこだわるエラインデス町長が被害を広げることになり、不死身のキラーサボテンの弱点がようやく判明し、ついに決意した町長が手段を示唆するも実行困難なその計画を幼稚園の先生のカロリーナとようやく心を開いたスマホちゃんことフランシスカがしんのすけと3人で他の大人たちがサボテンの群れの注意を引きつけている間に実行するのですが、カロリーナ役の坂本真綾さん、スマホちゃん役の指原莉乃さんとも好演で本作はヒロインが二人いるのも華を添えています。決死のキラーサボテン退治計画、しかも成功の確率が高いとは言えない困難な作戦でこれをしくじったら後がない、しかも失敗に終わってしまいそうになるのを実現するのがしんのすけの機転で、ここで伏線と小道具が生きてくるのも心憎い仕組みです。またキラーサボテンに食われてしまった人々の運命はというと、これもちゃっかりと、しかも納得のいく具合に判明する。本作は特大ヒット作なので前作『~ロボとーちゃん』がシリーズ空前絶後のバッドエンドではないかとも意見が出た(これは出るべくして出た、製作側も承知の上そう作ったでしょうが)のと同様、突然変異巨大食虫植物キラーサボテンの発生原因・正体が問われない(究明・推定もされない)のに不満の声も上がりましたが、確かに蟻の群れや蜂の群れ、蚊の群れやミミズの群れと較べても動き回り分裂・結合も自由自在な巨大食人サボテンの群れというのは突拍子もなく、これが結末につながるのですが巨大女王サボテンと分裂したキラーサボテン群は働き蟻・働き蜂と女王蟻・女王蜂の関係にあり、その辺は少し疑似空想生物学(植物学)的な説明はあってもよかったかと思えますが、もともとこんな突然変異はあり得ない思い切った空想植物なので説明は切り捨てる(一応ちゃんとドラマ上必要なキラーサボテンの行動原理や生態は説明する)のも見識であり、本作の場合はそれでいいとも思えます。ただし本作はしんちゃん映画でありながらしんちゃん映画でなくてもいい要素で生物襲撃ものパニック・ホラー映画に成り立っている面が大きく、橋本監督のしんちゃん映画としてはどちらかといえば『B級グルメサバイバル!!』に軍配を上げたいような気もしてきます。

●4月21日(日)
『映画クレヨンしんちゃん  爆睡!ユメミーワールド大突撃』(監督=高橋渉、シンエイ動画=双葉社=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2016.4.16)*97min, Color Animation
◎ある夜をきっかけに、春日部じゅうの人たちが、見たい夢を見られる世界"ユメミーワールド"に行けるようになる。楽しい夢に夢中になる人々だったが、次第に悪夢しか見られない恐怖の世界へと変わっていく。そんな中、引越してきた謎の少女サキ。なかなか打ち解けないサキにはある秘密があった……。

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 本作は劇団ひとりと高橋渉監督の共同脚本で、監督自身が脚本に関与したしんちゃん映画は本郷みつる監督による第16作『金矛の勇者』2006以来になるそうですから第2作(本郷みつる監督作品)以来原恵一、水島努、ムトウユージ監督まで監督自作脚本が続いており、また再び監督以外に脚本家が呼ばれるようになったのもムトウユージ監督時代なので、ワンポイント復帰だった本郷監督が以前の流儀で自作脚本だったのが例外でムトウユージ監督の3作を分岐点に監督自身の自作脚本だったしんちゃん映画から脚本家を立てるようになった変化があり、ムトウ監督の3作がしんちゃん映画のシリーズの分水嶺になってその後のシリーズの下地になったと見られる根拠でもあります。本作はまずある夜の夢の中の場面から始まります。ひろし(藤原啓治)は取引先で失態を責められる部下の川口(中村大樹)を救うスーパーCEOマンひろしに変身するご機嫌な夢を見ます。同じ頃みさえ(ならはしみき)は元カリスマホストの城咲仁(城咲仁)に求愛される夢を見てうっとりしますが、ひろしとみさえは夢の真っ最中に夢が悪夢に転じ、謎の巨大な魚に呑み込まれる夢を見てうなされます。翌朝ひろしは近隣の町の集団同時悪夢事件の報道を新聞で読み、自分たちに起こったのもそれだろうかとみさえと話しますが、この頃から野原一家を始めとする春日部市民たちは夢の中で巨大魚の体内にある不思議な世界「ユメミーワールド」に迷いこむようになります。その世界では自在に望む夢が見られるのがわかって明くる晩、市民たちは自分の夢に浸りますが、大人たちの夢は小さく不完全な夢なので謎の生き物たちによって奪われて魚の体外に放り出されてしまいます。魚の体外は地獄のような世界で、次々と現れる恐ろしい悪夢にうなされた大人たちは次第に元気を無くし、日が経つにつれて夢の大きい子供までもが夢を奪いつくされて悪夢ばかり見るようになってしまいます。それに気づいたしんのすけ(矢島晶子)たちかすかべ防衛隊は原因を探るため、ユメミーワールドのせいでマンガ家になる夢が悪夢に転じてしまい元気をなくしたマサオくん(一龍斎貞友)の補欠に、ネネちゃん(林玉緒)の提案で最近春日部に引っ越してきてふたば幼稚園に短期登園している少女・貫庭玉サキ(川田妙子)を仲間に誘って夢の中に入りますが、風間くん(真柴摩利)がサキちゃんが春日部に来た頃から事件が起きたこと、夢の中ではサキちゃんの姿を見かけないことで疑いを持ち、サキちゃんの家を訪ねたかすかべ防衛隊はユメミーワールドを操っているのがサキちゃんのパパの科学者・貫庭玉夢彦(安田顕)なのをつきとめます。夢彦は悪夢しか見られないサキちゃんのために人々の夢を操っては楽しい夢を奪い取り、そのパワーで睡眠中のサキちゃんの悪夢を中和していたのです。風間くんやネネちゃん、ボーちゃん(佐藤智恵)も悪夢しか見られないようになり、みんなと友だちになっていたサキちゃんとサキちゃんだけを守ろうとするお父さんの夢彦にもわだかまりが生まれる中、しんのすけはひろしとみさえに真相を打ち明けて相談します。しんのすけはサキちゃんが悪夢を食べてくれるという獏のぬいぐるみをいつもポケットに大事に入れているのを思い出し、悪夢を獏に食べさせてなくすことでサキちゃんを救い、悪夢に囚われた春日部の人々や子どもたちを救う作戦を考えた野原一家は、獏探しのために決死の覚悟で夢の中へ入っていきます。そこでひろしとみさえはサキちゃんのパパ・夢彦と対決し、サキちゃんがなぜ心に治せない傷を負い悪夢に精神が食いつくされそうになってしまったかを知らされて衝撃を受けますが、「警察も医者も役に立たない!この子を救えるのは私だけだ!」と苦しむパパの夢彦をもまだサキちゃんの悪夢からの救出によって救える手段はあるはずだ、とひろしとみさえは再びしんのすけとともに夢の世界に飛びこんでいきます。
 さて、シリーズ歴代初期の本郷、原、水島監督はいずれも名手でしたしムトウ監督も負けず劣らない手腕の監督ですがプログラム・ピクチャー的な性格を明確に打ち出したのがムトウ監督の路線だったと思え、それが実は作家性が強かったしんちゃん映画をもっと融通の利くものに開放したのがムトウ監督の3作こそ成功しましたがしばらくシリーズの出来不出来を不安定にしたとも言えますし、橋本監督と高橋監督という異なる指向の監督の交替制によってようやく安定したとも言えそうで、外部のフリー監督の橋本監督がプログラム・ピクチャー指向ならシンエイ動画所属監督の高橋監督の方はシンエイ動画出身の先輩監督の本郷、原、水島監督の系譜を継いで社内監督だけに作家性の強い作品が作れる面白いバランスが取れてきたと言えます。本作は公開2週目くらいの週末に満員の映画館で堪能しましたが、DVDで97分、というのがおや、と思うくらい後半1/3はそろそろクライマックスだろうと思うと解決にはいたらず、今度こそクライマックスだと思ってもまだ根が深いと、観客の一喜一憂とハラハラし通しが劇場内の空気を張りつめさせていました。これは明かしても構わないと思うので書いてしまうと、サキちゃんが心に追った傷はパパの夢彦と共同研究していたママのサユリ(吉瀬美智子)が実験中に機材の爆発で事故死し、その直前に実験室に入ろうとしたママのサユリがサキちゃんをかばって突き飛ばしたため幼かったサキちゃんにはママの死は自分のせいだと思いこんだ(突き飛ばされた)、しかしサキちゃんを室外に突き飛ばしたママはサキちゃんに笑いかけて(幼かったサキちゃんはこれで娘は安全、というママの笑顔にこめられた愛の意味がわからなかった)、その時爆発の炎がママのサユリを包んだのでサキちゃんの精神状態は事態が理解できないまま眠ると必ず怨霊となったママのサユリに追いかけられるようになり、夢彦の開発した悪夢中和装置ユメミーワールドで他人の幸福な夢で中和させつづけなければサキちゃんは「悪夢に食いつくされてしまう」ような孤独な子どもになった、というのがひろしとみさえが対決した夢彦から聞いた真相で、文章にしてしまうと平坦で説明的ですが、アニメーションだとサキちゃんがお母さんを失い悪夢にうなされて憔悴するようになったプロセスが痛々しいほど伝わってきます。獏のぬいぐるみも生前のお母さんが眠る時のお守りに縫ってくれたものでした。映画冒頭からすぐに、サキちゃんのふたば幼稚園の入園の日の職員室で「短期ですがよろしくお願いします」「すぐにお友だちができるといいですね」「できんでしょうな。あの子には」と夢彦が先生たちと憮然と会話していた場面、焦げついた目玉焼きと焦げたパンの朝食を支度して「おいしいか」「おいしいよ、パパ」とわびしい父子家庭の様子が描かれた場面が生きてきます。ひろしたちと夢彦の対決に先立ってサキちゃんは「パパは悪夢は見ないようにしてくれたけど、これまで私と友だちになってくれる子はひとりもいなかった!この町で初めて友だちができたの!」と、かすかべ防衛隊のみんなが夢を奪われそうになって自分から眠る時に頭にかぶる悪夢中和装置のヘルメットを外して寝て、一夜で紫の髪が半分あまり褪色してしまいます。悪夢の世界で「とにかく明るい安村」(とにかく明るい安村)の集団やボーちゃんがファンだという大和田獏(大和田獏)に追いかけられたり出会ったりしながら、駆けつけたみさえと必死で獏を呼び出すしんのすけの願いが届き、みさえに抱きしめられてサキちゃんは最後に見たママの笑顔の意味、ママの自分への愛を理解し、しんのすけが呼び出した獏がサキちゃんの悪夢に現れる巨大な女の怨霊を食べつくします。エピローグではふたば幼稚園でネネちゃんがサキちゃんから来た手紙をかすかべ防衛隊のみんなに読み、もう悪夢は見ないこと、外国の研究所に招かれたパパと仲良く暮らしていること、こちらの幼稚園でも友だちができたこと、いつかみんなと会いたいことが外国で暮らすサキちゃんとパパの夢彦の様子とともに描かれます。先輩しんちゃん映画監督の原恵一監督も情感豊かな作風と描写の名手でしたが、高橋監督も原監督とは違った角度でアニメーションならではの手法によって鋭いキャラクター造型と重いテーマの処理に優れた手腕を見せ、映画館では怖くて泣いてしまう子どもも多かったという本作ですが高橋監督は「それも大切なことなんですよ。サキが体験したことを劇場の子どもたちに一緒に体験してもらい、一緒に克服してもらいたかったんです」と語っており、この作品がシリーズ歴代3位(21億1,000万円)を塗り替える興行成績を記録する特大ヒットになったのは日本の長編アニメーション映画の水準と観客の見識を誇れるものだと思います。

集成版『荒野のチャーリー・ブラウン』第五章

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 第五章。
 やれやれ待たされたよ、とチャーリー・ブラウンはため息をつきました、ようやく主役のぼくたちの出番だ。
 主役って?と、スヌーピーが歯をむき出します。これはスヌーピーが相手をせせら笑う時特有のジェスチャーでしたが、チャーリーはあえてそれには気づかないそぶりで、途中のままの話があるよね、と言いました。スヌーピーは黙って右前肢を差し出しました。チャーリーは黙って握手しました。するとスヌーピーは左前肢をその上に重ねました。チャーリーはつられて左手を乗せました。スヌーピーは引き抜いた右前肢を上に重ねました。チャーリーは仕方なく同じようにしました。スヌーピーは引き抜いた左前肢を上に重ねました。チャーリーは言葉を飲み込んでスヌーピーを真似ました。
 スヌーピーは右前肢を引き抜いてその上に重ねました。チャーリーは黙って同じようにしました。スヌーピーは左前肢を引き抜いてその上に重ねました。チャーリーは我慢して同じようにしました。スヌーピーは右前肢を引き抜いてその上に重ねました。チャーリーはむきになってスヌーピーを真似ました。スヌーピーは左前肢を引き抜いてその上に重ねました。チャーリーは仕方なくスヌーピーを真似ました。
 一瞬ふたりの目が合いました。チャーリーは何か言いかけようとしましたが、適切な言葉が見つかりません。
 スヌーピーはためらわず右前肢を重ねました。チャーリーは困惑してスヌーピーを真似ました。。スヌーピーは左前肢を引き抜いてその上に重ねました。チャーリーはやけになって同じようにしました。スヌーピーは右前肢を引き抜いてその上に重ねました。チャーリーは困憊して同じようにしました。スヌーピーは左後肢をぐいっととチャーリーの手の甲に乗せました。チャーリーはハッとして左手を重ねました。スヌーピーはよっこらしょと右後肢をその上に乗せ、チャーリーの両手に支えられて宙に立ちました。痛ててててっ、重い重い!
 チャーリーが手を離したのでスヌーピーはすかさずチャーリーの胸に飛び込むと、両前肢でチャーリーに抱きつきました。あまりに素早く強く抱きつかれたので、チャーリーは抵抗するすべもありませんでした。遠目からなら彼らの闘争は、人畜無害な少年とその愛犬の戯れのように見えたでしょう。ついでに、とこのふざけた犬は少年の頬を舐め、げー、という表情をしました。チャーリーの心は傷つきました。


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 スヌーピーはにやにやしながら後ろ手(前肢)を組み、腰を落としてチャーリーの周りを一周しました。正面まで戻ってきて立ち止まりウッシッシと笑うと、またチャーリーの周りを一周してウッシッシ笑いをし、またチャーリーの周りを一周と見せかけてチャーリーの真後ろで立ち止まり、右足(後肢)で飼い主の少年のおケツを思い切り蹴り上げました。
 痛たたった!何をするんだスヌーピー、いきなり蹴飛ばすなんてないじゃないか、とチャーリー・ブラウンはだらしなく前に倒れたまま、抗議というよりはボヤキの調子で呟きました。スヌーピーは相変わらず腕組みしながらせせら笑っているようにも見えますが、その本心はチャーリーからは理解し難いことで、飼い犬に手を噛まれるというのはこういうことか、とチャーリーは苦々しく考えていました。
 スヌーピーは相変わらずにやにやしていましたが、先ほどからの様子を見るといつ攻撃に転じてくるかもわからず、ひょっとしたらこれは佯狂なのかもしれないぞ、と思いながら、ならばなぜスヌーピーはそんな芝居じみたことを仕掛けてくるのだろうか、と思いました。もとよりこのビーグル犬は施設から引き取ってきた時から猫かぶりで、可憐なまなざしで、もらってくれなきゃ来月にはハンバーガーの材料にされちゃうんだよう、とチャーリーとライナスに訴えかけているようでした。
 ライナス!そうです今チャーリーの記憶の中ではライナスは新聞の動物愛護記事を見てチャーリーが相談をもちかけいいんじゃないかなチャーリーと後押ししてくれ一緒に動物愛護センターに来てくれてそうだねビーグル犬なら体格も小柄だし人なつこい反面猟犬の性質も残して活発だというよチャーリーそうだねぼくにはぴったりかもしれないな……しかしスヌーピーを引き取りにいった時のこと、そこにライナスがいたことをチャーリーが初めて思い出したのは、ライナスと初めて顔を合わせた時だったのです。つまりそれまではスヌーピーは単に……チャーリーは単にスヌーピーの飼い主でしたが、ライナスの出現とともにチャーリーとスヌーピーの間には来歴という物語性のようなものが生まれました。そうだ、そうだったんだ。
 だから今ライナスの不在が顕しているのは、とチャーリーは思いました、そういうことに違いない。ぼくら、スヌーピーとぼくにはもう共有してきた過去というものがないのだ。


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 またもやスヌーピーはにやにやしながら後ろ手(前肢)を組み、腰を落としてチャーリーの周りを一周しました。正面まで戻ってきて立ち止まりウッシッシと笑うと、またチャーリーの周りを一周してウッシッシ笑いをし、またチャーリーの周りを一周と見せかけて真後ろで立ち止まり、右足(後肢)で飼い主の少年のおケツを思い切り蹴り上げました。
 痛たたった!何をするんだスヌーピー、そんなに蹴飛ばすなんてないじゃないか、とチャーリー・ブラウンはだらしなく前に倒れたまま、失意というよりは諦めの調子で呟きました。スヌーピーは相変わらず腕組みしながらせせら笑っているようにも見えますが、その本心はチャーリーからは理解し難いことで、飼い犬に手を噛まれるというのはこういうものか、とチャーリーは痛切な思いで考えていました。
 スヌーピーは相変わらずにやにやしていましたが、先ほどからの様子を見るとまたいつ攻撃に転じてくるかもわからず、ひょっとしたらやはり佯狂なのかもしれないぞ、と思いながら、ならばなぜスヌーピーはそんな芝居じみたことを仕掛けてくるのだろうか、とチャーリーの困惑は深まるばかりでした。
 思い当たるとしたら、とチャーリーは無防備のまま、のろのろと立ち上がりながら考えました。この犬はずっとぼくたちの間で甘やかされてきた。ぼくらは彼をペット視し、次にアイドル視し、ついには英雄視すらするようになった。それはぼくたち人気商売の宿命で(とチャーリーは苦々しく思いました)、最初彼は単にぼくのペットであるに過ぎなかった。だが次第に彼は存在感を増し、それはぼくらパインクレスト校の小学生たちを圧するほどで、今ではぼくたちは彼ぬきにはぼくらの集団の存続を維持できないほどになっている。それはひとつの約束ごとだが、破られない保証のある約束はない。信頼だけは他人に強制できない。誰もが望むものを手に入れられるとは限らない。
 それにまた、とチャーリーは坊主頭に冷たい風を感じながら、ぼくらの間には最初から対等という概念は存在しなかった。あったのは主従関係だけだった。主従関係はバランスを崩すことはあっても、決して対等な立場に変化はしない。どちらかが主、また従であるだけだ。
 そして今こいつはそれを主張しようとしている、とチャーリーはかつての愛犬と向かい合いながら思いました。そんな勝負はチャーリーはまったく望んでいませんでした。


  (44)

 チャーリーと向かい合ったスヌーピーはしばらく後手(前肢)でにやにやしていましたが、嘲るように落としていた腰をきっと伸ばすと、片足(後肢)を引いてファイティング・ポーズを取りました。チャーリーは思わず半歩しりぞいて身がまえましたが、考えてみれば犬のパンチなどくらったところで顔面以外は大したことないのです。顔面ならばさすがに感覚器官や口元を狙われればそれなりに応えますが、体重・体格差や筋力を比較しても正攻法の攻撃ならスヌーピーからチャーリーがそれほどのダメージを受けるとは思えず、またスヌーピーは人間相手に犬属特有の攻撃、それは瞬発力を利用した爪と牙による猛攻ですが、それらを人間相手に仕掛けるには、スヌーピーは多分に坊ちゃん育ちすぎました。彼ら愛玩動物には愛玩動物三原則というのがあるのです。
・その1、愛玩動物は人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
・その2、愛玩動物は人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、その1に反する場合は、この限りでない。
・その3、愛玩動物は、前掲その1およびその2に反する恐れのないかぎり、自己を守らなければならない。
 これはつまり、人間と愛玩動物という主従関係で書かれていますが、
・安全(人間にとって危険でない存在)
・便利(人間の意志を反映させやすい存在)
・長持ち(少々手荒に扱ったくらいでは壊れない)
 という、家電製品に代表される道具一般にも当てはまる法則であることは少し考えればわかります。また、もっと広げれば人間の道徳律にも当てはまることでしょう。ただし国際法では、生きるか死ぬかの条件下では他人を見殺しにするのは罪にはなりません。これは船舶事故などでは避けがたいことなのです。また、人間の道徳律の場合でも、封建的な伝統のもとに主従関係が美化された社会では、
・安全(ご主人様にとって危険でない存在)
・便利(ご主人様の意志を反映させやすい存在)
・長持ち(少々手荒に扱ったくらいでは壊れない)
 と置きかえることができ、これは雇用者や世帯主にとって都合が良い上に、主君へのための自己犠牲という美談すら派生させます。
 忠臣蔵……とボーちゃんは呟きました。みんなはハッと振り向きました。

  (45)

 ボーちゃんはポケットから小石を取り出すと、
・見て……
 とかすかべ防衛隊の仲間に呼びかけました。しんのすけたちはボーくんを半円形にとり囲み、ボーちゃんの手のひらの大小さまざまな小石を見つめました。ボーちゃんはかすかべ防衛隊の参謀であり、生き字引であり、哲学者と預言者でもあり、小石コレクターでもありました。ボーちゃんとしては小石以上の石もコレクションしたいのですが、幼稚園児のポケットで運べる大きさには限界があります。それに小石にも世の中に同じ小石は二つとないことに、ずっと前からボーちゃんは敬意を払ってきたのです。
 何?占い?それなら私も占ってほしいことがあるわ、とネネちゃん。ぼくも、とマサオくんと風間くんが言いかけようとすると、ボーちゃんはそれは後、今はこの石を見て、と茫洋と、しかしきっぱりと言います。そうだゾ、おらもそう思うゾ、としんのすけ。お前も今そう言おうとしてたろ、と風間くんが突っ込みましたが、いやいやキミたちと一緒にしてもらっちゃ困るんだよねえ、としんのすけは得意げです。相手にしていても仕方がないので、風間くんはボーちゃんに、この小石に何かあるのかい、と率直に質問しました。
・何か言おうとしている……
 と、ボーちゃん。つまりは小石が何かを語りかけている、ということらしい、と風間くんも見当をつけました。えっえっ、ぼく話についていけないよ、とマサオくんが慌てます。常識的にはマサオくんの反応の方が尋常なのですし、ネネちゃんといえばひと目見た最初から、なーんだ、ただの小石じゃないの、と興味を失くしていました。これもネネちゃん的にはそうでなければらしくないので、かすかべ防衛隊はいつもの調子だったということです。
 問題はボーちゃんの真意でした。ボーちゃんには現実主義に徹した面もあれば、超現実の世界まで透徹してしまうことがあり、ボーちゃんにとってそれは大差ないことでしたが、おおむねヴァーサタイルなかすかべ防衛隊の面々にも時々それはつき合いきれないことがありました。ボーちゃんの直感が正しくてもあてにならないようなことでも、それ自体は問題になりません。問題があるとしたら、ボーちゃんが正しい何かを探り当てたとしてもかならずしもかすかべ防衛隊が対応はできないことです。どうやら今は、そういう事態に陥っているようでした。


  (46)

・世界、または歴史はなぜ終わったか、
 と、突然小石は語り始めました。はあ?とぽかんとするかすかべ防衛隊の幼稚園児たち。そんなのオラ5歳だからわかんないゾ、としんのすけ。つられてうなずくネネちゃんや風間くんたち。
 いいからお聞きなさい、と小石は続けました。歴史はその創成期を知ればよいと考えます。理由のひとつが最も輝いていた黄金時代であるからです。今は天才達が次々と現れてひとつのムーブメントが形成されていくような時代ではない。彼ら創成期の巨人たちが行き着いた境地は他を圧倒しています。
 これは私が過去に考えたことから抜粋し要約した結論です。ではなぜこの時代に多くの偉人たちが出現したのでしょうか。それは、
・1917年レーニンの十月革命によるボリシェヴィキ政権樹立の後も労働者は理不尽な搾取をされ常に抑圧され続けてきたのであった。
 はあ、としんちゃんたちは、これは困ったことになったゾ、と思いました。小石は幼稚園児たちの困惑にかまわず、無産階級層の生み出した文化と階級闘争の歴史を語り続けました。第二次世界大戦後のアフリカ大陸では民族解放運動が勃発した。欧米各国に侵略されたこの地域では奴隷の輸出によって人口が減少していた。植民地だった多くの国々が1950〜1960年代に独立宣言を成し遂げた、といった調子です。
・その影響もあって、
 と小石はなおも世界各地にフィードバックしていく階級闘争の歴史を説き、このような背景を考証すると歴史とは闘いの累積ではなかったのかと考えたい。人間はハングリーな状況下で最高の業績が生まれるものだと思う。人々は自らに科せられた抑圧に加えて、搾取から起こった様々な事件に憤りを覚えたのは間違いない。その怒りが創造的な歴史の発展に関与していると思う。彼らによる解放闘争がさらに世界中の反戦運動や闘争につながり、瞬く間に全世界へと広まっていったという。それは社会的、文化的、政治的にも多大な影響を与えたのであった(と小石は言いました)。
 時は経ち今、世界はどうなったのでしょうか。はっきり言って何も無いというのが私の印象です。今なお事件や暴動を見るにつけ社会問題としての搾取は一向に無くなる気配はありません。法律的には解消されましたが闘争はまだ終わっていません。労働と闘争は切り離されてしまいハングリーな状況は無くなったようです。それは現実に現れていると思います。
 …………。


  (47)

 博士、このまま放っておいてもいいんですかね?とスノークはやれやれ、という仕草をしました。私が考えるに、世の中には欲望と秩序という二つの対立する原理がある。欲望とは野放しにしておくと他人の権利を踏みにじるものだから、われわれはなるべく個々の欲望はほどほどに制限する規則を作って万人の間に秩序を保つようにしている。
 おおむねきみの言う通りではあるだろうね、とジャコウネズミ博士。ただし私は科学者でもあるが哲学者でもあるルネッサンス的学者なので、哲学者としての研究課題は「すべてがむだであることについて」とどこかのショーペンハウアーが書いていそうなことだ。きみの言う秩序を誰かが決めるのなら、それはそいつの欲望というものではないかね?
 えーと、それは、自然法というものがありますよ。たとえば他人のものを盗んではいけないとか、トロールはトロールを殺してはいけない、とか、トロールは共食いをしてはいけないとか。うわあ(想像して)。
 盗んではいけないというなら、そこには所有という概念があるはずだね。しかしわれわれトロールは、ちょうだいと言われたら平気でくれてしまう習慣がある。たいがいのものはまたそこらから手に入るからだ。殺してはいけない、というがムーミン谷殺人事件など有史以来谷には皆無だろう。ましてや共食いなど、飢餓もなく死の概念も明確ではなく、死体すら残らないトロールの社会で起こり得るものかね。
 ですが博士、秩序は必要ですよ。おっしゃる通りムーミン谷に倫理的違犯はあり得ないかもしれませんが、人格を持たないトロールにもエゴは生まれる場合はあります。
 そういう場合は、誰か物好きなやつに役立ってもらうんだね。いるだろ、何かトラブルが起こると、またはまだ何のトラブルもないのにルールを決めて他人を従わせるのが好き、っていう物好きなやつが。
 なるほど、それは便利ですね。上手くいかなかったらそいつのせいにすればいい。
 ところがそういう時に限って他人のせいにするのもその種の手合いの習性でね。
 調子いいんですね。じゃあ結局秩序が乱れた時、責任をもってそれを解決する代表者が必要になるじゃないですか。
 だがここはムーミン谷だし、われわれは個体ごとにあまりに特性の違いすぎるトロールだ。代表など彼しかおらん。
 誰ですか?とスノーク。そりゃムーミンさ、とジャコウネズミ博士。……その頃ムーミンは


  (48)

 ネネちゃんとあいちゃんはしばらくにらみあっていましたが、根くらべなら負けないわとはいえお嬢さま育ちのあいちゃんにはネネちゃんの勝ち目はありません。それに考えてみれば酢乙女あいちゃんはかすかべ防衛隊には何の関心もなく、しん様への恋心しかないのですから干渉している意識もなければ、その事実もないので、勝手にネネちゃんが喧嘩を売っているだけなのは誰の目にも明白でした。
 ん、まあね、とネネちゃんは両手を肩の高さでひらひらさせ、今日のところはこのくらいにしてあげるわ、と口元だけで笑ってみせました。風間くんたちはホッとしましたが、しんのすけはいつもの調子で、
・あー、ネネちゃんがごまかしたゾ!?
 ち、ち、違うよしんちゃん、とマサオくんが慌てる一方、それは言わぬが仏、とボーちゃんが悟ったような言葉を返し、風間くんはぼくが何とかしなきゃ、とオロオロしました。あいちゃんはフッと大人びた笑いをすると、でもしん様は私のしん様ですわよ、と言ってのけました。おお!?としんちゃんは言いましたが、おお!?はしんちゃんの口癖で大した意味はありません。ねえねえしんちゃんどういう意味、とマサオくん。そうだよしんのすけ、はっきり言えよ、と風間くん(ボー、とボーちゃん)。そんなこと訊かないでよう、子供じゃあるまいし、としんのすけ。まだ5歳だよ!と風間くん。
 スヌーピーはにやにやしながら後ろ手(前肢)を組み、腰を落としてチャーリーの周りを一周しました。正面まで戻ってきて立ち止まりウッシッシと笑うと、またチャーリーの周りを一周してウッシッシ笑いをし、また一周と見せかけてチャーリーの真後ろで立ち止まり、右足(後肢)で飼い主の少年のおケツを思い切り蹴り上げました。痛たたった!もう止めてくれよスヌーピー、いつまでこんなこと続けるんだい、とチャーリー・ブラウンはまた前のめりに倒れ、両手を地面についたまま呟きました。
 その頃偽ムーミンは拘束しておいたムーミンからの波動がほとんど途絶えているのに気づきました。しかしムーミンには脳を模した器官はあっても機能は果たしていないので、脳波の消滅がすなわち生命停止を表すとは限りません。もしムーミンが消えたら、と偽ムーミンはゾッとする思いがしました、このままおれがムーミンでいなければならないのだろうか。偽ムーミンがムーミンになるということは、いったいどういうことだろうか。


  (49)

 ある種の鳥には方位磁石と類似した感覚があり、季節の推移に従い周期的に生息地を移動します。これを渡り鳥といい、渡り鳥の名称は食糧、環境、繁殖などの事情に応じて定期的に長い距離を移動することに由来します。対して、1年を通じて同一の地域やその周辺で繁殖も含めた生活を行う鳥は留鳥とも呼ばれます。
 鳥の渡り(Bird migration)の解明は鳥類学の研究テーマのひとつで、鳥を捕獲して刻印のついた足環をつける鳥類標識調査(バンディング)が日本を含め世界各国で行われています。また、大型の鳥には超小型発信機をつけ、人工衛星を使い経路を調べることも行われます。
 渡り鳥の移動の際の進路は、三段階の過程を経て決定されていると考えられています。 第一段階では、ある時間にある方向に向かって飛ぶことを何度か繰り返すことにより、目的地から数100kmほどのところまで進みます。これは太陽や星の配置などを指標にすることにより行われると考えられています。つまり天体による進路確認です。第二段階では磁場などが関わる、生まれながらにして持つ地図を頼りに目的地まで数kmのところまで進むと思われます。この段階では、磁場だけでなく地形の情報もある程度考慮されるかもしれません。 第三段階では地形や環境の特徴を頼りに最終目的地まで到達します。この段階では、非常に細かい地図情報を鳥が持っている場合があります。しかし、生まれながらにして完全な形で持っているというわけではなく、移動の途中で学習される部分が多いことが、研究によりある程度解明されています。 ただし、これらの段階についての仕組みは現在、ほとんどまったくわかっていません。ただ、大胆に推理するなら、これら渡り鳥の移動は人類発生よりも古い古代の緑地分布の記憶を残しているとも考えられるのです。
 スヌーピーはにやにやしながら後ろ手(前肢)を組み、腰を落としてチャーリーの周りを一周しました。正面まで戻ってきて立ち止まりウッシッシと笑うと、またチャーリーの周りを一周してウッシッシ笑いをし、また一周と見せかけてチャーリーの真後ろで立ち止まり、右足(後肢)で飼い主の少年のおケツを思い切り蹴り上げました。痛たたった!もう止めてくれよスヌーピー、いつまでこんなこと続けるんだい、とチャーリー・ブラウンはまた前のめりに倒れ、両手を地面についたまま呟きました。
 次回第五章完。


  (50)

 チャーリー・ブラウンが起き上がると、スヌーピーは通りひとつ分、離れたところにいました。実際に通りがあったわけではありません。彼らは見渡すかぎりの荒野にいたのですから。そしてこの荒野はサボテン1本生えておらず、乾いた沼地のように地面のあちこちがひび割れていました。わらのような、動物の毛のようなものがかたまりになって時たま風に吹かれていましたが、それは西部劇で見かけるタンブルウィードと呼ばれるもののようでいて、とうてい命あるもののようには見えませんでした。海底でいうなら珊瑚礁のようなものかもしれないな、とチャーリーはぼんやりと、いつか観たテレビ番組を思い出しました。テレビではたいがいの珍しい景色は教えてくれますが、チャーリーが今いるような旱魃しきった死の荒野は、チャーリーの記憶ではテレビでは観た憶えがありませんでした。なぜならここまで荒廃した景色は単調なだけで誰にとっても面白くも何ともなく、目の保養にもならなければ興味をそそりもしないからです。
 人が生きるため都会に集まってくるのなら、こんな荒れ果てた旱魃地帯には死ぬためにしかやってこないでしょう。チャーリーはどうやら距離を取っている様子のスヌーピーを見ながら強く思いました、今は争っている時ではない、協力してこの窮地を何とかしなければならない、と。ですがそれをいかにしてこの頑固なビーグル犬に納得させるかは、これまでのつきあいからしても多大な困難を乗り越えなければならなそうでした。スヌーピーの一筋縄ではいかない性格をチャーリーは身に沁みて知っており、だからこそいつもスヌーピーは押しの弱い性格のチャーリーに対して優位に立ってきた、という関係性がありました。チャーリーにもし考えがあるとしても、それはスヌーピーによる提案という迂遠な手続きを経なければ円滑に進むことはないでしょう。
 ねえスヌーピー、とチャーリーはおずおずと呼びかけました。スヌーピーはチャーリーに視線を返しません。ウッドストックがナイフをくわえてスヌーピーに差し出しました。スヌーピーはナイフを取ると、おもむろに手首を切り、さらに自分のからだ中を切り裂き始めました。その様子はご機嫌そのもので、喉をかき切って声が出なくなるまでしわがれた笑い声を上げながら自分を切り刻んでいたのです。それはチャーリーには止めようがなく、おそらく手当ての手段もないことでした。
 第五章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

集成版『荒野のチャーリー・ブラウン』第六章

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 第六章。
 スヌーピーはついに頸椎を掻き切ると、握りつぶしたトマトのように溢れだす自分自身の血だまりの中に倒れ込みました。とはいえもともと犬は座高が低いので、倒れたと言っても座りこんだ程度にしか見えません。あんな不器用なやつだったかな、とチャーリー・ブラウンは妙に冷静に考えました、こんな時あいつはもっと大げさにやってのけたはずなんだ、嫌みなほどに芝居がかった調子で。そうしないのは、今はきっとこの方が効果的な演出だと計算してのことに違いない。リアリズムってやつだな。犬の考えたリアリズム、そんなのはたかだか……。
 今何時でしょうな、とムーミンパパ。どちらの時間ですか?とスノーク。ムーミン谷標準時ですよ。そりゃまた面倒なことを、とスノークがおどけると、客間にいた全員が笑いました。偽ムーミンも一瞬遅れて笑いました。無理に合わせました。ムーミン谷標準時なんて初耳だからです。これはムーミンパパのジョークなのか、それとも知らないうちにムーミン谷標準時という取り決めができたのか。
 そろそろ急いでくれないと、とライナスがリランに言いました、いや急かしているわけじゃない、けれどものごとには理由がいるが、こんなことで遅れるのは理由としては十分じゃない。でもね兄さん、とリランは思いました、ぼくには十分な理由になるんだよ。
 オラ見下げ果てたゾ、としんのすけは地団駄を踏みました。義を見て為さねば勇なきなり……とボーくん。そんなこと言っても仕方がないよ、と風間くんはマサオくんに同意を求めて、そう思わないか、ねえ。えっ、とマサオくんは慌てて、ぼくは……ネネちゃんはどう思う?ネネちゃんは黙っていましたが、
・この男どもがーっ!
 とスモッグの中からウサギのぬいぐるみを取り出すと、樹の幹に押さえつけてばしばしパンチを食らわしました。いつものネネちゃんじゃないよー、と怯えるマサオくんと風間くん。おやおや、お約束ですな、としんのすけ。
 一行が歩いていくとやがて陸地のとだえる場所に近づいて、空にかかった虹がその向こうへと延びていました。その虹は陸地の端まで人を誘い出し、世界の外へと弾き出すための罠でした。世界の外に何があるかは誰にもわかりませんが、今いる世界よりはましかもしれない可能性については、誰もが暗黙のうちに触れない約束でした。そうでなくとも虹の端には、古来からの黄金伝説があるのです。


  (52)

 いつまでもこんなことやってられないよ、とライナスは言いました。ですがその言葉に反応する相手は誰もいません。そんなことはわかっているとも、とライナスは重ねて言いました。ぼくも昨日や今日に気づいたわけじゃなく、たぶん最初からわかっていたとも言えるんだ。そして心の中のどこかでは、いつかぼくらにはいっせいに終わりが訪れるんだろう、と思っていた。始まった時ぼくらは貧しかったけれど、終わる時ぼくらはかつてなく裕福になっているだろう。それがわかり始めた頃から、ぼくらは次第に傲慢になっていった……。
 ライナスは一瞬言葉に詰まりましたが、すぐに気を取り直して、だいたいこんなのぼくのキャラクターじゃないんだ。ライナスは自己主張しない、ライナスは振り回されている、ライナスは優しい、ライナスはいつも受け身、ライナスは他人との関係だけで生きている、それがぼくという存在なんだし、そのどこが悪いと言うのだろう?ぼくは不思議な役割を演じているのだろうか?でもそれ以外にぼく、ライナスというキャラクターが存在しないなら、もうそれは役割なんかではなくて運命とでも言うしかないじゃないか。誰かがそれに正しい答えをくれるとでもいうのだろうか?
 病的と病気というのはどう違うんでしょうかね、とスノークは言いました(飽きてきたのです)、りんごとりんごジャムの違いみたいなものなんでしょうかねえ。そりゃ違うだろう、とムーミンパパ。私は冒険家時代、航海の時にはりんごよりりんごジャムを持っていくことが多かったのだが、まずりんごとりんごジャムでは日持ちが違うし、りんごを持っていっても自然にりんごジャムになりはしない。もちろんりんごジャムからりんごに戻すことはできないが、とムーミンパパは何を言いたいのか自分でもわからなくなり、ヘムレンさんはどう思われます?いやあそれは、とヘムレンさんは谷の賢者らしくもったいぶって答えようとしましたが、ふとりんごにも種類があるのに気づいて軽率な発言は控えることにし、それはスナフキンくんの方が良く知っているだろう、どうかね?
 スナフキンはようやく虹の端にたどり着いたところでした。そこからは、悲惨なありさまも滑稽な景色も同じくらい鮮明に見えました。ただしあまりそこにとどまれば、スナフキンはスナフキンという実体を失い、概念として永遠に宇宙に固定されてしまうのは明らかでした。


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 オルトレキシアとは、不健康だと考える食品を避けることで生じる極端、もしくは過度な先入観によって引き起こされる摂食障害や精神障害を指します。1997年にスティーブン・ブラットマン博士が神経性無食欲症といった他の摂食障害と並行する形で使用し始めました。オルトレキシアは、幅広く使われている精神障害の診断と統計マニュアルには記載されていませんが、ブラットマンが命名した病名であり、まれな症例であるものの重度の栄養失調や死につながるほどの極端な病的執着になり得る点が主張されています。
 やせ衰えたスナフキンは、虹の果てから引き返しながらふと、ムーミンの声が聞こえたような気がしました。気のせいか、と立ち止まり、やはりムーミンの苦しげな息づかいが聞こえるので、そんな声が風がうねるこの荒野まで届くわけはないとすると、考えられるのはひとつ、ムーミンがスナフキンの頭の中に直線話しかけているのでした。
 オルトレキシアは、体に悪いと考える食品を避けることで生じる強迫観念という特徴があります。また、さまざまなな理由で特定のダイエットを選ぶ健康的な人と、体に悪い状態やライフスタイルにつながる強迫観念的な行動をとってしまう人を区別することが重要です。健康的な食事が摂れることを約束できる均衡の手がかりは何かを求めるあまり、食品選びで極端な制限や強迫観念を課してしまうのがオルトレキシアとされ、毎日の行動において自分を見つけることが困難になります。また他人の食品や健康観に耐えられず距離をおくようになります。健康的な食品への強迫観念は、家庭習慣、社会トレンド、経済問題、最近の病気、宗教的信条、超越的思想に起因することがあり、また食品の種類に関する否定的な情報を聞いただけでも発生してしまい、最終的に自身の食事からそのような食品を排除させることになります。この症状は女性より男性、また受けた教育水準が低い場合に多く見られるといわれます。また年齢的な偏差も考えられますが、いずれも決定的な原因と見做すべきではないでしょう。
 チャーリーは突然空腹を意識しました。今ようやく放浪の果ての問題が二つ、同時に解決したことが理解できたのです。その一、チャーリーはもう愛犬を連れて逃げ回る必要はない。その二、逃亡のすえ差し迫っていた食糧問題もなんとかなる。チャーリーは血溜まりに落ちているナイフを拾い上げると、思い切って目の前の


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 支度は終わったよライナス、と、リランが振り返ると、ベッドに腰かけていたはずの兄の姿はありませんでした。隠れているのだろうか、それとも待ちくたびれて出ていってしまったのか。どちらにしても、もしそうだったら、気配くらい感じてもおかしくないはずなのに、その気配もない。それともぼくが鈍かっただけなのだろうか。ボーッとしていてそのことに気づかなかっただけなのだろうか。
 外では風がうなり声をあげ、ガラス窓ごしでも気圧の変化が鼓膜に圧力をかけてくるようでした。やあねえ、とみさえは取り込んだ洗濯物をたたみ終えると、より分けてたんすにしまいながら、夫と息子に傘を持たせておいて良かった、と自分を安心させました。息子は幼稚園バスが家の前まで送ってくれますが、まれには工事中や通行止めで住宅街の通りの角になることもあるのです。ですから……
 心配なのはきみだけじゃない、とヘムレンさんはスノークとムーミンパパに言いました。えっ、と二人は驚き、それから顔を見合わせましたが、この場合の「きみ」は二人称単数ではなく複数形の「きみ」だと了解するには、おたがいのまぬけ面に気がつくだけで十分でした。ヘムレンさんの言う通りだ、とムーミンパパとスノークは思いました。だがいったい私たちは、何が心配だと言うのだろう。
 領域主権とは、国家は独立を確保するために他国の介入を排除して、領土・領海・領空などの自国領域に関し各種の国家作用を行うことができるとする、主権の一部をなす権利を指します。国家とその領域をどのように関連付けるかについて、大きく分けて二つの学説が対立します。そのうちのひとつが「客体説」であり、これによると領域主権は領域に対する使用・処分といった行為のための対物的権利とされます。これに対し「空間説」は領域主権を統治の権利として捉える考え方です。
 チャーリー・ブラウンはまたひとりぼっちになった自分を感じました。空っぽになった水筒はただ重いだけでした。これから来た道を引き返さなければならないことを思うと、遠くまで来てしまったことが悔やまれてなりませんでした。地上には一滴の水もないのに、空には大きな虹がかかっていました。ここはもうチャーリーが住んでいたのとは別の国の国土かもしれませんが、たぶん虹はいくつもの国境を越えて空をまたいでいました。そして空にはダイヤモンドを光らせたルーシーが飛んでいました。


  (55)

 太陽が北から差していました。チャーリーは南に長く延びる影を見てもう正午が近いのに気づき、これから日没までにどれだけ歩けるか考えていました。この荒地は乾ききって日差しを遮るものもないので、気温がピークに達する午後2時~4時頃には摂氏40度を越える高さになります。ですが日没後の冷え込みも激しく、摂氏で言えば零下20度にはなるので、凍え死なない方法は唯一地面に穴を掘って埋もれて眠ることでした。土中なら、灼熱の日中に照らされてそこそこの暖かさが保たれているのです。それは日中でも言えることで、夜間に冷えた土中の方が大気にさらされるよりも涼しいのですが、それではチャーリーはいつまでたっても土に埋もれていなければなりません。幸い湿度が極端に低いため摂氏40度は体感温度ではさほどに感じずには済みますので、凍える夜よりはなんとか活動できました。夜、星空の明かりは人工の光のない荒野では景色をフィルムのネガのように照らしていました。それはチャーリー・ブラウンから時間の感覚を奪い、起きるとチャーリーは自分が一晩眠っていたのか、それとも何日も意識を失っていたのかわからなくなるような気がするのでした。
 はっ、と偽ムーミンはようやく、このままムーミンを放置して自分と入れ替わったままにしておくとそのまま元に戻れなくなる可能性に気づいて、激しく動揺しました。可能性はいくつかあり、自分がこのままムーミンを演じつづけなければならない場合もあれば、ムーミンを失えば偽ムーミンは何者でもなくなる可能性もあると考えられました。しかも偽ムーミンにはどちらにも既視感があったのです。つまりそれはこれまでも何度となく偽ムーミンがムーミンに取って代わるなり、ムーミンの消滅ともども偽ムーミンの消滅があり、その都度ムーミンと偽ムーミンは新たな存在に更新されてきた痕跡とも思えました。おそらくムーミンにはその記憶はなく、偽ムーミンは偽者だからこそかすかに上書きされた記憶を残していたのでしょう。または、自分の存在はその役割のためなのではないか、と偽ムーミンは唖然としました。
 その頃リランは兄に頼まれたイボタの虫を買いに町をうろうろしていました。もしかしたらライナスは時間稼ぎのために自分に無用な買い物を任せたのかもしれない、でも何のための時間稼ぎなんだろうか。リランは自分だけ除け者にされているような気がしてくるのでした。


  (56)

 嵐の吹く暗い夜でした。私たちは暖炉の前で遅い夕食の後のお茶を飲みながら、とりとめのない談義で就寝までの時間を潰していました。会話には飽きていましたが、嵐の夜では他にすることもありません。もともとその日は、地域の集会のために空けてあった夜でした。集会そのものは義務でしかないものですが、中止ならともかく突然の悪天候で日延べになったのでは面倒が先送りになっただけです。そんなわけで私たちは、今夜の議題について準備した意見も次には無駄になっているかもしれず、これなら何も急いで帰宅しなくてもよかったな、と持て余し気味になっていたのです。
 お茶も飽きたな、ウィスキーにしようか、と私たちはグラスの準備と氷の準備を分担しました。アイスピックで氷を割る鋭い音が、安普請ながら一応は煉瓦造りの壁に反響しました。始めから小さなブロックに分かれた製氷皿を使えば便利なのですが、あれは凍るのが早すぎて水道水の中の次亜塩素酸カルシウム(カルキ)まで閉じ込めてしまう。なるべく純度の高い天然水を大きな容器でゆっくり凍らせた方が良質な氷が出来るのです。清涼飲料水ならまだブロック製氷皿の氷でも気になりませんが、オン・ザ・ロックとなるとてきめんに氷の質で味が変わってくる。それにアイスピックで氷を割るのは注意は必要ながら面白い作業で、氷にも密度の差があるのでしょう。上手く亀裂がはいると面白いように細かく砕けるのです。
 ただし目測が外れると、どんなに力んで刺しても表面しか削れません。その晩の氷がそうでした。グラスとウィスキーがテーブルに揃っても、まだ氷はかけらほども砕けていません。苦戦してるみたいだな、そんな時ってあるよ。うん、上手く刺さらないんだ、刺す面がいけないのかな。氷の側面を上に置き直して、しっかり垂直にアイスピックを振り下ろしますが、やはり表面だけで止まってしまう。これでやるか、と私たちはハンマーを持ってきました。ひとりがアイスピックを氷に突き立てて固定し、もうひとりがハンマーで叩く、という共同作業です。これなら上手くいくぞ、と私たちは期待しましたが、そうは問屋が卸しませんでした。ハンマーの打撃はアイスピックが受け止めただけで、私たちは振り下ろしたハンマーを持つ手も、アイスピックを固定した手も無駄に痺れさせてしまいました。こうなったらこれで行くか、と私たちがスパナを握った時、あの子がやって来たのです。


  (57)

 それは室内にいても外でドアに倒れかかる物音が聞こえ、私たちは何だろうと顔を見合わせました。ちょっと待ってて、と私は言うと、二階に上がって灯りをつけずに張り出した窓から玄関の前を注視して、どうやら小学生くらいの子ども、服装からは男女か区別がつきませんがこんな嵐の中を来たのだから男の子なのだろうか、と思いながら、二階に上がったついでに救急箱と、たんすから余分なタオルを多めに取り出しました。とにかくずぶ濡れなことだけは確かだからです。
 どうだった?と私は二階から見た様子を知らされると、子どもを部屋に入れてもいいものか、それともその子は囮で、施錠を外したら強盗でも入ってきやしないかと懸念しました。それはなさそうだよ、と私は答えました。いくら何でもそういう気配があれば、あんなに自然に行き倒れてはいないよ、と再三強調されて、そんなものかな、それだけ言われるとたぶん自分でも同じ判断を下しただろうと思われ、私も納得した上で、とりあえずひとりは子どもを介抱しながら部屋に入れる、ひとりは猟銃を構えて万が一に備える、という手順に決まりました。役割を決めるのはコイントス、表が出たら私が猟銃です。当然猟銃の方が嫌な役目で、たとえ悪人でさえ私は人は撃ったことなどなく、しかしもしもの場合威嚇して脅威を排除するのが猟銃担当の役割です。
 表だね、と私は静かにドアに近づくと、猟銃に護られているのを感じながらなるべく小さくドアを開けました。コイントスなどしなくても、前もって二階から子どもの位置を見ている方が子どもの介抱係をするのは理にかなっています。また私は、見た様子では子どもを囮に強盗が隠れてなどはない、と確信していました。子どもはひとりでこの家のドアまでやって来て、力尽きて倒れたのです。
 細く開いたドアの隙間から、強い雨風が吹き込んできました。私は猟銃を構えながらドアを支えて、どうかな、と子どもの様子を尋ねました。うん、銃を下ろしてドアを閉めて……ありがとう。男の子みたいなコートだけど、女の子だ。だいぶ失血してるみたいだ。失血?うちの前じゃない、どこかで失血してから歩いてきたんだ。何があったんだろう?
 しかし女の子の意識が戻らないと事情はわかりません。私たちはとりあえず子どもの体を拭いて衣服を替え、ベッドに寝かせました。医者を呼ぶべきだろうか、と考えている時、新たな来訪者がやって来たのです。


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 体を拭いて着替えさせた女の子をひとまずソファーに寝かせて、私たちは暖炉の前に簡易ベッドを組み立てました。寝室のベッドの方が立派出で寝心地も良いのですが、私たちの寝室にはどちらも部屋全体を暖かくするだけの暖房がないのです。まずはこの子の冷えきった体を、十分に暖めることが先決でしょう。
 私たちはまだ第二次性徴期にもならない少女の体を手分けして拭きました。髪はかなり長く、タオルでしっかり拭いてからブラッシングしてドライヤーをかけましたが、嵐に打たれた髪はなかなか乾きませんでした。傘も持たずに来たんだ、と私は呟きました。そうだね、空が崩れてからもう半日以上になる。この子は雨具もなしに嵐の中をやって来たんだ。いったい何があったんだろう?
 私は毛布を取って戻ってきました。着替えは冬の客用パジャマでいいが下着はどうしよう?見映えは悪いけど、縮んじゃったTシャツがあったよね。下は?確か親戚の女の子が泊まりに来た時忘れて行ったのがある。まだ返してなかったのか、と私は呆れました。洗いはしたけど返しづらいじゃないか。でもこんな時に役に立つとはなあ。
 ついでにお湯を沸かしてくるよ、と私は下着とパジャマを取りに行きました。まず台所に寄って一番大きなヤカンにお湯を沸かし、その間に下着とパジャマを居間に届けてきました。それから浴室から湯桶を持ってきて、ヤカンと湯桶をぶら下げて居間に戻りました。何だか大掛かりになってきたな、と私は言いました。でもこのままじゃ寒いだろ、と私は湯桶にお湯を張りました。
 私は熱いおしぼりを作ると、なるべく毛布から体が出ないようにしながら女の子の体を拭き始めました。暖まればいいけど、とおしぼりが冷めては湯桶で熱くし、お湯が冷めれば足し湯をして両足(脚)、両腕、背中、と心臓から遠い箇所から摩擦していきました。ところで、この子はどこから失血していたの?
 それがわからないんだ、と私は少女の体を支えながら、部屋に入れた時は確かに血がついていた。かなりの量らしいのは体の冷え具合から想像がつく。でも気づいたかい?濡れた体を乾いたタオルで拭くと、やはり確かに血はついたが、傷らしき箇所は見当たらない。これはいったいどういうことなんだろうか?
 もしかしたら体が冷たいのは単に嵐の中を濡れてきたからで、と私は思いました、傷がないからには血は彼女の血液ではないからかもしれない。つまりこれは……


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 しかし、もしかしたら少女の体が冷たいのは単に嵐の中を濡れてきたからなので、と私は思いました、傷がないからには、血は彼女の血液ではないのかもしれない。ならばそれは誰か他人の返り血という可能性もある。返り血!だけれど、こんな小さな女の子がそんな酷たらしい状況に、どうして陥ったというのだろう。この子はいったいどんな経緯で、どんなことに巻き込まれてしまったのだろうか?
 私たちはふたりとも同じことを考えているようでした。ふと気づくと、少女の体を拭いたおしぼりはすっかり垢じみており、考えずともこの子が相当に不潔な環境に長くいたことがわかります。逃げてきたんだろうか、と私は呟きました。だけどいったいどこから?
 それってどういうことだい、と私は自分も考えていたことを先に口に出されて、動揺を抑えきれませんでした。監禁されていたのかもしれない、と私はためらいながら答えました。監禁?誰に?それはわからない、他人にかもしれないし家族にかもしれない。まったくおぞましいことだが、子どもが監禁されるのは昔からよくあることだし、その目的もさまざまなことが考えられる。ましてや……。
 ましてや?
 女の子だからね、まだ子どもだから中性的な顔立ちをしているが、あと数年もすればきれいな少女になるだろう。ヒヨコだってオスのヒヨコよりメスのヒヨコは数倍の値段で売られる。シシャモなどはヒヨコどころじゃない。嫌な話だが、もしこの子がそうした目的の監禁から逃げてきたのだとすれば……
 私たちは黙り込みました。しかしヒヨコやシシャモに例えることはないだろう、と私は内心腹を立てていました。露骨な表現には違いありませんが、家庭内暴力や人身売買の可能性がある、というだけで十分なはずです。それとも私たちが腹を立てているのは、そんな事情を抱えているかもしれない子どもに関わりあってしまったことかもしれず、しかしこうして一旦保護してしまった以上、この子をまた無責任に放り出すことはできないことなのでした。
 いわば私たちは事件性の高い事態に巻き込まれてしまったのだ、と気づいた時にはもう引き返しようがなくなっていたのです。体は冷えきっているが熱がある、と私は少女の額に触れました。今度は氷はハンマーの一撃で砕けました。ヴィニール袋で即席の氷嚢を作り、パジャマを着せた少女を簡易ベッドに横たえた時、外からドアを激しく叩く音が聞こえたのです。
 次回第六章完。


  (60)

 嵐の吹く暗い夜でした。突然のノック、いやノックというよりもむしろ恫喝するような乱暴なドアへの殴打に、私たちは思わず顔を見合わせました。ひとりじゃなさそうだな。ああ、あの様子からすると……。その時私たちは即座に決断を迫られているのに気づきました。前もって約束した知り合い以外滅多に訪ねてくる客などこの家にはいませんし、その上今日は午後からの予期しない悪天候の嵐の夜です。迷い込んで、しかもおそらくどこかから逃れてきて助けを求めにきた少女と、続けて今ドアをガンガン叩いている何者たちかが無関係とはとうてい思えません。私たちは金縛りにあったように動きを止めて、額を寄せあいました。
 迫られている決断は、簡単なことでした。嵐の夜の中をやってきた少女をかくまうか、それとも新たな訪問者を迎い入れて決断を先延ばしにするかです。いや、その中間もあるよ、と私は指摘しました、とりあえずあの女の子はこのまま休ませておく、どうせすぐには目を覚ましそうにない。今来ている連中が誰かはわからない、血縁者を名乗るかもしれないし私服刑事を名乗るかもしれないが本当かどうか確かめようもないことだ。この子を心配している様子をしても、それも本当かわからないだろうね、と私は肯きました。だけど少なくとも、嘘であれ真実であれ、あの子がここにやってきた経緯の情報にはなる。ただしリスクは……。
 訪問者の話を聞いてしまえば、あの子を引き渡すかこちらで保護するかの押し問答になるのは目に見えている、ということだ。もし法的に正当な保護者であれば引き渡さないわけにはいかないし、もし司直の類であれば……あの子は何か悪いことをしてきたのかもしれない。だったらわれわれではかばいきれないよ。
 ……それはそうだが、と私は声をひそめたまま、たしかにわれわれはずぶ濡れの哀れな子猫を拾ったような気分であの子を介抱していただろう、その分あの子につきすぎた見方で事態を捉えていたのは認める。でもこんな子どもが嵐を押してひとりで知らない家まで来たのなら、何かひどい目にあったと思うのが普通じゃないか?だから私たちは……。
 いや、もう考えている余地もなさそうだぞ、と私は立ち上がりました。こんな勢いでドアを打撃するからには、ドアを壊してまで入ってくるつもりだろう。血痕があるからこの家とは確信しているんだ。早くコートを。彼らが入ってくる前に逃げるんだ。
 第六章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2019年4月25~27日/ フセヴォロド・プドフキン(1893-1953)の「革命三部作」

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 ロシア革命(1917年)以前のロシア映画も演劇文化の蓄積を生かして短編時代から長編映画への転換期だった1913~16年には十分な発展をとげ、イヴァン・モジューヒンやナタリー・リセンコ、アラ・ナジモヴァら舞台出身で映画製作者も兼ねていた国際的大スターを送り出していたのですが、革命前後にモジューヒンやリセンコは多数のスタッフとともにフランス、ナジモヴァはアメリカに亡命して亡命後にさらに活躍したので、一般的にはサイレント時代のロシア映画というとソヴィエト連邦建国(1922年)後のソヴィエト映画を指します。その革命後のソヴィエト映画を築いた映画監督としてセルゲイ・エイゼンシュテイン(『戦艦ポチョムキン』'25、1898-1948)、オレクサンドル・ドヴジェンコ(『大地』'30、1894-1956)と並び3大巨匠とされるのがフセヴォロド・プドフキン(Vsevolod Illarianovich Pudovkin, 1893-1953)ですが、プドフキンはもともと俳優出身で、師事した先輩監督で革命前から映画界で活躍していたレフ・クレショフ(1899-1970)より年長者でした。クレショフの門下生たちボリス・バルネット(1902-1965)、フョードル・オツェプ(1895-1949)はプドフキンとともにクレショフ中心のグループを作っていたので、共同監督作やおたがいの作品に出演してもいます。同時期に特異な実験派ドキュメンタリー映画監督だったジガ・ヴェルトフ(1896-1954)も含めて、20年代のソヴィエト映画界はロシア革命後の戦後(内戦ですが)改革とともにドイツの表現主義映画、フランスの印象主義映画(これは亡命ロシア映画人の貢献が大きいものでしたが)と競って世界映画の最前線に立っていました。革命10周年を迎えた1927年頃までは映画界は自由な気風が許されていたのですが、1929年頃を境にソヴィエト政府=ソヴィエト共産党のスターリン独裁体制が強まると上記の監督たちは従来なら許されたような自由な企画が通らず、国策に沿った映画作りを強いられ、オシップは亡命し、不遇に追いやられたバルネットは失意の果てに自殺してしまいます。最大の存在だったエイゼンシュテインですらちょうどスターリン独裁体制と重なったサウンド・トーキー以降には2作しか残せず(うち遺作となった『イワン雷帝』は三部作のうち第3部が製作許可されないまま未完)、さらに政府許可のもとアメリカの独立プロからの出資でメキシコ・ロケした作品も未完のままエイゼンシュテインには無断で編集・公開されてしまったり、ソヴィエト映画省によって完成した新作長編映画もまるまる1本破棄される、と散々なことになります。スターリン没後のスターリン独裁体制批判が定着した頃には上記の監督たちは亡命して帰国する気はないか、亡くなっているか、老いて第一線を退いているか忘れ去られてしまっていましたので、戦前ソヴィエト映画の黄金時代は'20年代半ば~末と非常に狭い時期になります。プドフキンの場合第1長編~第3長編の3作がのちに「革命三部作」と呼ばれ、この三部作だけが現在でもプドフキンが十分に力量を発揮した古典的作品と見なされており、エイゼンシュテインの『ストライキ』'24、『戦艦ポチョムキン』、『十月』'28の初期3作、ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」と肩を並べるサイレント時代のソヴィエト映画の記念碑的作品として製作から90年あまり経った現在でもくり返し再評価され、論じられる代表作になっています。師のクレショフやライヴァルのエイゼンシュテイン同様プドフキンは映画理論家としても業績の大きい人で、1933年に英訳でまとめられた『映画の技術』は日本語訳もされ、スタンリー・キューブリックは同書を映画理論の原論として熟読しもっとも影響を受けたと表明しており、キューブリックのような木の股から生えたような鬼才でもプドフキンから学んだというのは麗しいエピソードです。なお、プドフキンの日本公開作は少ないですが「革命三部作」のうち2作は日本でも劇場公開されており、歴史的意味も踏まえて初公開時のキネマ旬報の紹介文を引用させていただきました。

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●4月25日(木)
『母』Mat (Mezhrabpomfilm, Moscow'26.Oct.11)*89min, B/W, Silent : https://youtu.be/HlP9uGQ56ag (with English Subtitles) : 日本公開昭和45年11月

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 サイレント時代のソヴィエト映画の符丁のように使われる言葉にプドフキンの師レフ・クレショフの提唱したモンタージュ理論というのがあり、クレショフはアメリカ映画、特にアメリカ映画の父で体系的な映画手法の創始者とされるD・W・グリフィス(1875-1948)の諸作を弟子たちと研究し、グリフィスが体系化したフィルム編集(モンタージュ)の技法はさまざまな異なるコンテの映像を編集することで躍動的に物語を運ぶものですが、この編集(モンタージュ)自体が映画ならではの不思議な効果を生み出すのに着目しました。クレショフはロシア革命前のイヴァン・モジューヒンの映画のフィルムを使い、モジューヒンの笑顔→皿に乗ったステーキ、というモンタージュではモジューヒンの笑顔は食欲で健康的に喜んで笑っているように見えるのに、まったく同じモジューヒンの笑顔→年頃の少女、とモンタージュすると好色な目を向けている助平親父に見えるのを確かめ、映画の1ショットはそれ自体で完結した意味を持つのではなくモンタージュされた前後のショットで意味を形成するという原理を提唱しました。これはクレショフ効果と呼ばれるようになりサイレント時代のソヴィエト映画の方法的自覚となりましたが、クレショフ効果自体はクレショフの発明ではなくグリフィス始めハリウッドのアメリカ監督たち、旧ロシア映画や北欧映画やドイツ映画の表現主義、フランスの印象主義映画でも直感的に行われていたことです。またモンタージュ理論の解釈と応用もクレショフ自身と弟子のプドフキンやバルネット、エイゼンシュテインやドヴジェンコ、ヴェルトフでは監督ごとに異なっており、モンタージュ以前の1ショットだけでも映画ですから当然独自のコンテがあり、ショットの中に動きがあるわけです。サイレント時代にモンタージュ理論が重視されたのは映画がまだ音声を伴わず、また撮影機材の条件のため技術的に移動撮影が困難で固定ショットの積み重ねで撮影していくのが通例だったためなので、撮影機材の発達でフィルムが音声化(サウンド・トーキー)し、移動撮影も容易になると1ショットの長い移動撮影が音声を伴うためモンタージュに依らない技法も生まれてきます。そこであえて極力コンテを割らずできる限り長回しで押していく、という映画監督たちも世界諸国で現れますが、長回しで不自然でなくできることは限界があるのに対してめりはりの効いたコンテを割って効果的にモンタージュするのは映画の原則には違いないので、モンタージュの可能性に焦点を絞ってさまざまな映画表現を試みたサイレント時代のソヴィエトの映画は国家予算規模で世界最高水準のすごい映画を作る、という野心に燃えたものになり、それを代表する『戦艦ポチョムキン』が確かにものすごい映画だけれどよく考えると劇映画というよりも世紀に数人の怪物的でマッド・サイエンティスト的な天才映画作家の壮大な映像実験の感じが違和感になっているので、むしろサイレント時代のソヴィエト映画への入り口としては情感豊かなプドフキンやドヴジェンコ、バルネットらの映画の方がふさわしく思えます。のちに「革命三部作」と呼ばれるようになったプドフキンの長編第1~3作はどれも傑作のほまれ高いものですが、中でも第1長編『母』はゴーリキーの同名長編小説('06年刊)の映画化作品ですが、これは本当に素晴らしい。俳優時代が長く監督デビューが遅れた(とはいえまだ30代前半)プドフキンですし、本作は戦前の日本では『戦艦ポチョムキン』とともに横浜まで取り寄せられるも税関で送り返されて、'68年のソヴィエト国立モスフィルムのレストア版によって日本では初めて'70年にエイゼンシュテインの第1長編『ストライキ』'24とともに公開がかなったそうですが(『戦艦ポチョムキン』はスターリン没後すぐにレストア版が作られ世界的にリヴァイヴァル公開、日本ではその時初公開されていました)、『戦艦ポチョムキン』に10年遅れて復原されたのも不運で同時にリヴァイヴァル公開(日本初公開)されていたら本作やプドフキンは決してエイゼンシュテインに水を開けられなかったろうと思えます。本作は貧しい庶民の労働者家庭の老主婦がいわばロシア革命前夜のジャンヌ・ダルクになるまでを描いた作品です。日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 帝政ロシアの圧政の下で革命の一翼を担ったひとりの母の人間的成長とその革命を描いた作品。製作はメジュラブ・ルーシ・プロダクション。1969年にモス・フィルムによってサウンド版が製作された。原作はマクシム・ゴーリキーの同名小説。監督は「アジアの嵐」のフセヴォロド・プドフキン、脚色をナターン・ザルヒ、撮影はアナトリー・ゴロブニヤ、美術はセルゲイ・コズロフスキー、音楽はチーホン・フレンニコフがそれぞれ担当。出演はヴェラ・バラノフスカヤ、ニコライ・バターロフ、アレクサンドル・チスチャコフ、アンナ・ゼムツォワなど、プドフキンも警官役で出ている。
[ あらすじ ] 二十世紀初めの帝政ロシア。金属工のウラーソフ(アレクサンドル・チスチャコフ)は毎日、居酒屋で労働の疲れとウサ晴らしに飲んだくれていた。妻のペラゲーヤ(ヴェラ・バラノフスカヤ)は夫にどなられ、ぶたれ、貧しさと惨めさに打ちひしがれて生きていた。息子パーベル(ニコライ・バターロフ)は恋人アンナ(アンナ・ゼムツォワ)等と地下運動に挺身していた。或る夜、居酒屋で父は、スト破りの相談をしていた右翼暴力団に目をつけられて、スト破りに誘われる。同じ夜、アンナはパーベルの所に武器の入った包みを預けにきた。母は眠ったふりをし、息子が包みを床下に隠すのを見た。翌朝、パーベル等はストライキを呼びかけるため工場に行ったところをスト破りに包囲され、乱闘となる。そして、その乱闘に加わっていた父はピストルで射たれ死んでしまう。母は悲しんで、息子に危険な事はやめてくれと頼む。そこへ軍隊がやって来た。「武器のありかを白状すれば許す」と言う言葉に母は床下に隠してあった武器を出す。しかしパーベルは逮捕された。裁判が開かれ、懲役刑が言い渡された。「真実はどこ!」――母の悲痛な叫びが法廷に響いた。母は悲しみから驚きへ、驚きから怒りへと目覚め一歩一歩息子と同じ戦列へ進んだ。獄中の息子に会い、メモを手渡す。息子は微笑みかけた。メモは五月一日の脱獄計画が書かれていた。その日は街の隅々から労働者達が、まるで雪どけの小さな流れが大きな流氷の河に流れ込むようにデモの隊列に加わっていった。勿論、母もいた。赤旗が翻った。囚人達も呼応した。多くの囚人が射殺されたが、パーベルは河の流氷づたいに脱出した。パーベルがデモ隊に合流し、母と抱き合って再会を喜んだ瞬間、騎兵隊の一斉射撃が息子を射ち殺した。母は投げ出された赤旗を持ち、襲いかかる騎兵隊の前に立ちはだかる。しかし、騎兵の剣が一閃し、母は殺された。だが、氷を押し流す激流のように再度、赤旗はロシアに翻るであろう。
 ――良くも悪くも『戦艦ポチョムキン』が集団劇なら本作の良さはごく自然に感情移入できる等身大の、平凡ですらある庶民家庭の主婦の老母がヒロインになっていて、エイゼンシュテインはモンタージュ理論の帰結として映画のリアリズムには職業俳優は排除し風貌だけが役柄にふさわしい素人を配役する(すなわち人物は映像素材にすぎない)という徹底した映画作りでしたが、プドフキンは主要キャストには舞台経験のある職業俳優を配しました。エイゼンシュテインの映画のように人物は集団の1要素(断片)でしかない描き方は実験性では画期的ですが、普通映画はプドフキンのように数人の主要人物に興味を集中させて観客を映画に引きこむ視点人物を置き、壮大な群像劇になるとしても視点は主要人物たちの運命をたどることで共感や感動が生まれるものです。プドフキンを尊敬するキューブリックがグリフィスやエイゼンシュテイン、アベル・ガンスはやりすぎだと批判するのは良識なので、本作はもう90年以上も昔、映画の設定は1905年(戦艦ポチョムキンの叛乱も同じ年のことです)ですから映画製作時から20年前のロシアのスラム街を舞台にしているのですが、もう音声がついてカラー化されれば現代映画とほとんど変わらないみずみずしさがある。酔った初老の労働者が夜の暗い路上から千鳥足で帰宅して、いかにも不機嫌な面もちでいる。老いた妻が夫をおどおどして迎え、若い息子は背を向けている。夫の視線で主婦はハッと壁の掛け時計をかばいますが(観客は主婦の視点で夫が時計を酒代のために質入れしようとしているのを悟ります)、夫は時計を壁から剥がそうとして夫婦はもみ合いになり、息子は立ち上がるが時計は床に落ちて割れて壊れてしまう。息子は父親にくってかかり、母親は二人をなだめようとして……というのが字幕も音声もないのに伝わってきて、この貧しい労働者家庭がどういう家族か冒頭の数分間の場面だけで響いてきます。その夜、若い女が青年の部屋の窓を叩いて包みを差し入れし(この二人が恋人らしいのも仕草だけでわかります)、青年は居間の板張りの床下に包みを隠しますが、物音で気づいたらしい老母はドアの隙間からそれを見るも気づかないふりをして再び眠りにつく。映画冒頭のここまでの2シークエンスの流れは自然かつ意外性や静と動の対比もある見事なもので、映画史上でもこれほど完璧な導入部はないでしょう。しかも父親が資本家に工事ストライキのスト破りに雇われ、一方息子は労働運動にたずさわっていたのでストライキ鎮圧の際に射殺された父親の事件がらみでストライキ首謀者と目されて逮捕され、老母は息子の無罪のためにと警察(と軍隊)に情報提供を求められ床下の銃器類の包みを明かしますが、裁判はまったく機械的に息子を極刑判決の有罪にしてしまう。映画は母の権力への怒りとともににわかに政治映画に拡大し、労働者グループは青年の救出のために監獄を襲撃する計画を立てます。母は息子に短い時間だけ面会を許され、息子に監獄襲撃の計画のメモを渡します。「明日」とだけ書かれたメモで息子は母の面会の意味を察知し、鉄格子を握る青年の表情に野原で自由に遊ぶ少年の映像が再度「明日」の字幕とともにクロスカッティングされます。クライマックスで監獄を襲撃した労働者たちの群衆が軍隊に制圧されて屍死累々となり、流氷を渡ってきて再会がかない、抱きしめた息子も流弾に絶命してしまう。老母は倒れた息子の額の血を泥まみれの手で拭い、息子が掲げていた赤旗を掲げて押し寄せてくる騎馬隊に立ち向かい疾走してくる騎馬隊は老母を踏み殺してなおも労働者たちを虐殺していきます。流氷が激流に激突しあいながら流れていく状景がモンタージュされて民衆の怒りと革命運動の継続が暗示されて、この極端に字幕の切りつめられ、説明めいた字幕は用いられない映画は幕を閉じます。クライマックスの憲兵対隊による労働者虐殺場面は『戦艦ポチョムキン』の「オデッサの階段の大虐殺」へのプドフキンの挑戦ですが、群衆劇で押し通すエイゼンシュテインに対してプドフキンはヒロインの主婦の老母の息子を失った悲しみと怒り、死を覚悟した最後の決起に焦点を集中させる。決然と赤旗を掲げゆっくりと進んでいく老母の正面からのショットと押し寄せてくる騎馬隊のやはり真正面からのショットのクロスカッティングは決定的瞬間を俯瞰のロングからの構図に突然切り替わり騎馬隊が平然と老母を踏み殺して通過していくことで老母の死の痛切さを増幅します。プドフキンの「革命三部作」はいずれも別個の趣向がある名作ですが、1作選ぶならやはりこの『母』がずば抜けている。また三部作共通に「密告」「裏切り」が主人公の革命への覚醒と決意の契機になっており、これは「革命三部作」のテーマ面での共通点になっているのも三部作の第1作にすでに続く2作への萌芽が始まっており、権力者の不正へのプドフキンの強い怒りが凝縮されている観があります。いずれにせよエイゼンシュテインにはない等身大の人間への共感がプドフキン最高の美点であり、『戦艦ポチョムキン』より『母』にはるかに正統な映画のエッセンスが豊かに息づいていると思われるのはそれゆえのことです。

●4月26日(金)
『聖ペテルブルグの最期』Konets Sankt-Peterburga (Mezhrabpomfilm, Moscow'27.Dec.14)*87min, B/W, Silent : https://youtu.be/-Pe72HmPFt8 (English Subtitles) : 日本未公開(特殊上映)

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 前書きでは7人の同時代監督の名前を上げましたし'20年代のソヴィエト映画にはこの7人の監督は外せないと思いますが、サイレント時代のソヴィエト映画というとあまりにエイゼンシュテインが突出していて、知名度でも実際に広く観られている頻度も他の監督が顧みられる機会はは合わせて1割に達するかどうか、といったところではないでょうか。戦前の外国の古典映画でしかもお固くあまり楽しくなさそうで世相習慣にも馴染みがなく社会主義の宣伝めいてそうなソヴィエト映画、その上サイレント映画となると、たぶんサイレント時代のソヴィエト映画で突出して観られているエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』は観る人を圧倒するものすごい傑作ですが、こういうものならこの1本観れば十分と懲りてしまったりエイゼンシュテインの長編全7作とはどんなものだろうと興味を持っても同時代の他の監督のソヴィエト映画に興味を広げていかないような性格が『戦艦ポチョムキン』にはあって、サイレント時代のソヴィエト映画の代表作がこれなら他の監督の作品は昨今の呼び方をすればどうせ劣化コピーだろうと思わせてしまうような尖り方がある。それに対してプドフキンがいかに正統的な作劇術で優れた成果を発揮したかは長編第1作『母』だけでも十分に伝わってきますし、実験的ドキュメンタリー監督ジガ・ヴェルトフの独自の実験性を除いては他の映画監督の映画作法はエイゼンシュテインより人間性の描写を重視したプドフキンの立場にずっと近いのです。理論家のトップを切ったクレショフやその愛弟子バルネットなどはコメディ作品で傑作を作ってもおり、やはりクレショフに師事したプドフキンも監督デビュー短編「チェス狂」'25は喜劇映画でした。プドフキンの作品では、完全無欠の名作『母』よりも「革命三部作」の第2作、第3作はさらに野心的な尖鋭化があり、成否で言えば『母』よりムラのある仕上がりですが、『母』1作ではなく第2作、第3作を含めた「革命三部作」の作者だからこそ巨匠と見なされるだけの重量感がプドフキンにはあるので、三部作中でも比較的あまり観られる機会の多くない第2長編『聖ペテルブルグの最後』も必見の傑作になっている。本作は海外盤のDVD発売はありますが日本未公開・日本盤未DVD化作品で、特殊な文化会館上映しかされていませんがルネ・クレールも映画史上最高最愛の作品に上げており、『母』とも第3作『アジアの嵐』とも異なる魅力があります。簡単に本作の概要、あらすじを記しておきましょう。
◎共同監督にミハイル・ドレルが当たり、脚本ナターン・ザルヒ、撮影アナトーリー・ゴロヴニャ、編集オレクサンドル・ドヴジェンコの布陣で製作された本作はエイゼンシュテインの『十月』'28同様ロシア革命10周年を記念して企画された、革命前夜からロシア革命成就までを描いた作品です。映画はヴォルガ地方の農村地帯ペンザの貧農たちの生活描写から始まります。素朴な農民の青年(イヴァン・チュヴェレフ)が職を得るために同郷出身の知人の中年夫婦(アレクサンドル・チスチャコフ、ヴェラ・バラノフスカヤ)を頼って聖ペテルブルクに到着します。しかし夫妻の夫の労働者は労働運動のリーダーで、ちょうど工場ストライキを始めたばかりでした。ペテルブルグには厳しい、ほとんど奴隷のような労働条件しかない工場労働しかありません。職にすぐ就けなかった青年は会社社長(ウラジミール・オボレンスキー)に直談判しに行き、面接で誘導質問されて知らず知らずのうちに労働者のリーダーである同郷出身の恩人の逮捕を手助けしてしまいます。青年は恩人の逮捕にようやくことの重大さに気づいて自責の念に駆られ、検察官(セルゲイ・コマロフ)に資本家の不正行為を直訴しようとしますが、門前払いを食らって騒動を起こした青年は逮捕され、懲役により第一次世界大戦の軍役に送られ、そこで戦友たちと革命の計画を語りあいます。3年後の1917年、戦場から帰った青年は労働者のリーダーになり、十月革命の内戦準備を整えます。恩人の夫人と再会した青年は禁固刑にされていた恩人の処刑が間近であることを知らされ、処刑場に乗りこんで軍隊に反旗を訴えて恩人の救出に成功しますが、さらに過酷な十月革命の実行が青年と労働者たちを待ち受けます。映画は内戦で戦死した青年の死を看取り、生き残った労働者兵たちに金バケツで持参してきた塩ゆでのじゃがいもを配り、廃墟となった聖ペテルブルグ寺院の回廊をひとめぐりして去っていく労働者夫人の姿で終わります。
 ――本作は題材・内容ともにエイゼンシュテインの『十月』と比較されますが、『十月』が徹底して群像劇であり特定の主要人物を排した作劇術なのに対して本作は青年とその同郷出身の恩人夫婦を主人公としてキャラクターの掘り下げとドラマがあり、やはり1905年の帝政下の民衆蜂起とその弾圧を描いた『戦艦ポチョムキン』と『母』の対照が『十月』と『聖ペテルブルグの最後』にもある。レーニンを最高指揮官とするボルシェヴィキ革命をドキュメンタリー的に映像で徹底再現してみせるのが『十月』の意図なら、プドフキン自身の出身地でもあるペンザの農村から始まりプドフキン自身と同世代の青年の上京物語である本作は、あり得たかもしれない10数年前のプドフキン自身の運命でもあったわけで、プドフキン自身は内戦で命を落としませんでしたが実際につい10年前の出来事なのが本作を血の通った映画にしています。「革命三部作」はいずれも権力からの抑圧に無自覚な主人公が裏切り・密告の過程を経て叛逆に目覚めるプロットを持っていますが、あてにしていた就職がふいになった失望と職に就きたい一心で結果的に恩人夫婦への密告者になってしまう。青年が事の重要さに気づくのは軍用車に騎兵とともに乗せられてアパートの中庭に案内させられ、地下室に住む恩人が逮捕されて連行され夫人が泣き崩れ、驚いて出てきた主婦たちやアパートじゅうの窓から軽蔑の眼差しを受けながら会社社長に採用メモとチップを渡されて恩人を連行した車が去っていく場面で、このシークエンスでのアパートじゅうの窓の仰角ショット、中庭の様子をとらえる俯瞰ショット、青年の視点による人々から受ける軽蔑の眼差しは圧倒的で、このシークエンスは鋭く一度観たら忘れられない「密告」の名場面です。田舎出の素朴な青年が期待して上京してきたのに夫人に迎えられて家に上がると恩人の労働者は「ついてない時に来たな。明日からストライキなんだ」そして妻に「仲間たちと計画を練るから今夜は泊めてやってくれ」と自分のことは後回しにされる失望、そして体よく密告者にさせられて怒って乗りこんで行くも門前払いを食らい格闘になって逮捕されてしまう場面とシークエンス単位は非常に鋭く良いのですが、第一次大戦の兵役3年間が挟まると構成のバランスは崩れ、銃殺刑にされる恩人の救出に駆けつけて処刑に並んだ騎兵隊に反旗を呼びかける場面は『戦艦ポチョムキン』の「甲板上のドラマ」のシークエンスと似ていますが、これは『戦艦ポチョムキン』に軍配が上がります。十月革命の戦闘自体は案外あっけなく、むしろ恩人の夫人が塩ゆでじゃがいもを生存者の労働者兵に配りにきて青年の死を看取る、内戦終結直後の「聖ペテルブルグ寺院の終焉」の静謐な場面が印象に残ります。最初観た時は金バケツでじゃがいもを提げてきた夫人がじゃがいもを渡すと生存者が食べ始めるので何かと思いましたが、そうか塩ゆでじゃがいも配りなのかと合点がいくまで数秒かかりました。日本の感覚だとおにぎりを配るようなものでしょう。「聖ペテルブルグの最後……」と字幕が出て夫人が寺院の回廊を去って行く結びも余韻深いですが、全編の構成の緊密さ、完成度では『母』の方が上位に上がります。しかし本作は『母』とは違う角度で人物像の掘り下げ、表現の豊さがあり、意図せずして密告者となった主人公の素朴な青年の痛覚は前作では描き得なかったもので、本作もまたプドフキンの傑作と呼ぶに足るものです。

●4月27日(土)
『アジアの嵐』Potomok Chingiskhana (Mezhrabpomfilm, Moscow'29.Nov.10)*125min, B/W, Silent : https://youtu.be/sCE5447sjQY (with English Subtitles) : 日本公開昭和5年10月

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 本作は戦前に日本公開された数少ないソヴィエト映画で、キネマ旬報ベストテンは昭和5年はサイレント映画とサウンド・トーキー映画の両立時代でしたので3位までの発表(当時は読者投票)でサウンド・トーキー映画とサイレント映画を分けてベスト3が選ばれ、本作は外国映画サイレント部門の2位(1位はヨーエ・マイの『アスファルト』、3位もマイの『帰郷』。外国映画サウンド・トーキーは1位マイルストン『西部戦線異常なし』、2位ルビッチ『ラヴ・パレード』、3位なし)に選ばれる評判作になりました。さて、映画監督以前に映画史家・映画批評家として出発したジャン=リュック・ゴダールは革命派ソヴィエト映画監督の熱烈な支持者ですが、ソヴィエト映画の傑作の数々は本質的にはハリウッド映画と同じものではないかとも喝破しており、クレショフやその門下生たちやエイゼンシュテインはグリフィスを始祖とするアメリカ映画を徹底的に研究・摂取して映画を作ったので内容はソヴィエトの政治的姿勢を反映していても技法はハリウッド映画の技法の応用ではないかと疑問を呈し、完全に非(反)ハリウッド的な映画はヴェルトフだけではないか、と一時スターリン独裁化以前のソヴィエト映画にすら否定的な見解を示していた時期がありました。実際にはドヴジェンコ、バルネット、もちろんプドフキンらの劇映画にはハリウッド映画の規格では割り切れない感性があり、ゴダールも過激な発言をより視野の広いソヴィエト映画への再評価に訂正しますが、ゴダールの指摘は一応正当なのでソヴィエト映画は技法的にはハリウッド映画の応用であってもアメリカ映画、またキリスト教圏の資本主義国では道徳的・法的規制によって踏みこめなかった領域にずかずかと踏みこんだのは特筆すべきことで、アメリカやドイツ、フランス、北欧(そして日本)の監督たちも表向きは社会道徳と妥協して巧妙な社会・権力批判の映画を稀に作っていたのに対して正面から旧制度・権力批判の映画を作ることができた。また映画史的にアメリカ長編映画の始祖グリフィスに映画の原点があると集団運動によってグリフィス直系の映画作りを指向したのも特筆すべきことで、'20年代当時グリフィスはアメリカ本国では次第に冷遇されつつあった時期でした。『戦艦ポチョムキン』や『母』の群衆大虐殺場面は明らかにグリフィスの『国民の創生』'15や『イントレランス』'16から生まれたヘソの緒が見える。『母』のクライマックスの流氷の場面はグリフィスの傑作『東への道』'21クライマックス場面の流氷の転用です。ソヴィエト映画監督たちがグリフィスの前例を意識していないわけはないのでそこにはグリフィスが意図せず表現していた、またはグリフィスの意図以上の意味をこめてより映画表現そのものを強烈にしようという方法的自覚があり、見事な成功を収めている。グリフィスを映画の父、映画そのものと敬愛・偏愛し、ほとんど崇拝して譲らないゴダールが'20年代のソヴィエト映画監督たちに共感して熱中したり冷めたりをくり返すのもグリフィスとソヴィエト映画の関係からなので、プドフキンもまた映画という新しいメディアにどれだけの表現の可能性があるかを切り開いた古典映画の始祖(ソヴィエト映画自体がその第二世代ではありますが)たる風格があります。グリフィスの映画は内容的にはスペクタクル的側面がソヴィエト映画に受け継がれたのですが、「革命三部作」中本作だけが戦前に日本公開可能だったのは西洋人の搾取に気づいて民族意識に目覚め自治独立の闘争に向かうモンゴル人、というスペクタクル作品だったので社会主義宣伝映画ではないと検閲を通ったと思われ、プドフキンとしては列強の搾取からアジア諸国もロシア民衆ののように立ち上がるべきだという意図だったでしょうし、日本の観客の好評も本作の革命映画としての性格によるものと思えます(日本の治安維持法施行と共産主義者弾圧は前年からのものです)。ただし'28年中に完成していた本作が本国でも'29年末まで公開されなかったのは、同年のエイゼンシュテインの第4長編『前線』がスターリン独裁化の兆しとともに内容改変を迫られ『古きもの新しきもの』と改題改訂公開されたのと同様の背景が想像され、また本作はあまりにスペクタクル映画にすぎる感じも受けるのですが、感想の前に日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ]「生ける屍」に主演して我国にも知られているフセヴォロド・プドフキン氏が自ら監督に当った映画で脚色はオシップ・ブリック氏、撮影はプドフキン氏の片腕として「セント・ピータースプルグの最後」等を手がけたアナトーリー・ゴロウニヤ氏。主役を演ずるインキジノフ氏は純粋の蒙古人である。因に此の映画は別名「ジンギスカンの後裔」とも言われている。無声。
[ あらすじ ] 茫漠たる蒙古の広野に育った猟師ティムウル(ヴァレリ・インキジノフ)は病床にある父親から珍しい銀狐の毛皮を渡され金に換えようと市場に出立する。一年に一度開かれるこの市場では蒙古人が遠い路をはるばる運んで来た毛皮が売買されるのであるが、買手たる白人商人(ヴィクトル・ツォッピ)は狡猾な手段でいつも彼等の品物を強奪的に安価に手に入れている。ティムウルが持って来た銀狐の毛皮は市場の人気を呼んだが悪辣な白人商人は僅かな値段で買落とそうとする。これが因でティムウルと白人との間に争いが起り軍隊の出動となったが友人の計いでティムウルは山中に逃亡し、ゆくりなくも蒙古独立の志士の一隊にめぐり会う。そしてこの義勇団の団長の危険を救ったことから彼もまた団員として仲間に入ることを許される。此の地に来ている自国商人の利益を保護し隙あらば土地までも我物にせんと言う侵略的野心を持つ白人国の政府はかねてから此所に一団の軍隊を駐屯させていたがその司令官ペトロフ(L・テディンツェフ)はその内意を色にも出さず、表面和平を説えて此の地の宗教喇嘛教の儀式などに参列している。だが蒙古独立の義勇団と自国の軍隊とが交戦中との報知を受取り彼が司令部に帰って見ると、そこには一人の蒙古人が捕えられていた。この蒙古人こそティムウルであったが、ペトロフは彼を反抗者の一人として直ちに銃殺の刑に処さんとする。所が一伍長に命じてティムウルを処刑に出した後、ペトロフがティムウルの所持品を調べてみるとこの蒙古人がヂンギスカンの後裔であることが判明する。そこで老獪なるペトロフは一計を案じ谷底に瀕死の状態でいるティムウルを連れ戻し手厚い看護を施す。ティムウルは未知の白人の中にあって元気を回復してゆく。かくてペトロフはティムウルを蒙古王に祭り上げ自らその実権を握ろうと計画をめぐらす。ティムウルは美しい白人の夫人(L・ビリンスカヤ)から見世物扱いにされているのを心づかず司令官の野心の傀儡となって無意味の日を続ける。だがペトロフの奸策や一切の虚飾の剥がれる日が到来した。或日司令官の令嬢に毛皮を持参した男があった。この男こそティムウルを恥しめた商人でありその持参品は問題の毛皮であった。ティムウルの怒りは一時に燃え上り彼は人々の前面で令嬢(アンナ・スダケヴィッチ)の頚に巻かれた毛皮を奪い取る。忽ち官邸内は騒然となる。折から捕虜となった一蒙古人が彼の面前で惨殺される。いまは猛虎の如く怒り狂ったティムウルは阿修羅の如く荒れ廻り厩より荒馬を奪って去る。蒙古は遂に立った。横暴なる白人に対して起った。ティムウルを先頭に数万の義勇団の馬蹄の響き、突如アジアの広野に嵐が起った。ペトロフの軍隊は銃をとって走る。嵐に面をそむけながら。嵐は力を増す。丘の大樹は吹き干切られる。岩も飛ぶ。軍隊も吹き飛ばされる。ティムウルの一隊は勝鬨あげて過ぎる。ペトロフの一隊は重なり合って丘をころがり落ちてゆく。
 ――本作の原題は『ジンギスカンの末裔』でその方が内容に即していますが、海外版(アメリカ輸出版)が『Storm Over Asia』だったため現行の邦題になったようです。現行の日本盤DVDは'30年代に音声をダビングした擬似トーキー版で長さも87分と短縮され、海外版DVDではサイレントの125分版が観られますが40分近い短縮で擬似トーキーというと難があり、しかし125分版はやや冗長に感じる。『聖ペテルブルグの最後』は初公開時は2時間あまりだったのがのちにサイレントのまま87分で決定版になったようですが同作の場合は冒頭のペンザの農村風景や第一次大戦などが短縮されたと思われるので適切な短縮編集だろうと思われます。本作は途中でモンゴル人の主人公(「ジンギスカンの末裔」とあとで判明し政治利用されそうになる)が白人のパルチザン部隊に加わり、パルチザン部隊の隊長ペトロフの視点が入ってくるあたりからが視点人物が割れるのが冗漫さと焦点の定まらなさになってくる。『アジアの嵐』と改題したアメリカ輸出版、日本公開版の由来はクライマックス場面が大嵐の中の戦闘になるのですが、『母』や『聖ペテルブルグ~』ではパンフォーカス、ピント送りやカット割りでさりげなく美しく繊細な映像構成に成功していたプドフキンが、本作では題材に見合った手法をと考えたのでしょうが、非常に荒々しい映像やモンタージュが目立つのも本作の特色で、本質的には本作はアクション映画でありスペクタクル映画としてもプドフキンの考えたモンゴル人の民族性というのが映像の荒々しさで表現されているのだとしたらちょっと問題です。アベル・ガンスのようにコマ単位のクロスカッティングも多用され、はっきり言って本作の映像表現は『母』や『聖ペテルブルグ~』より古びて見えます。またクライマックスのものすごい嵐の中の戦闘もリアリズムを通り越していて嵐そのものが象徴表現として用いられているように見え、これも映像表現として適切なものかどうか疑問に感じられます。主人公の怒りは加わっていたロシアのパルチザン部隊そのものが自分たちの部族から搾取していたイギリス人商人たちと変わらず、ラマ教圏を支配しようとしており、そのため自分がジンギスカンの末裔と判明すると政治利用しようとするのに気づいて爆発してモンゴル民族独立のために謀叛を起こすのですが、スターリン独裁化前兆期に本作が公開延期になった気配があるのはスターリン政権はむしろ本作で描かれたようなアジア隣接圏の共産党支配に乗り出す意図があったため、内容を改訂させるかこの内容で公開して現在のソヴィエトはアジア諸国の民族独立を奨励すると表向きは通しておくかで映画省内で検討されたのだと思います。しかしいろんな意味でプドフキンの意欲的問題作の本作はプドフキンらしい細やかでさりげない描写もあちこちありますし、西欧のブルジョワ批判もあり、この題材をアベル・ガンスが撮ったらと思うとさぞやけたたましい代物になったでしょうから、本作のいただけない点はグリフィスよりもガンスの映画に近いからなのですが、題材・内容・手法・仕上がりのいずれも異色であるところに本作の価値はあり、好き嫌いを置いても「革命三部作」の掉尾を飾る大力作には違いありません。また異郷冒険大スペクタクル映画として本作が大好きという感想があってもおかしくないので、冗長さも含めての大作感ともにそれがプドフキンの狙いなら本作も大成功作で、その証拠に戦前の日本公開は大好評を博しています。もちろん戦前の日本の観客はソヴィエト映画らしい危険な匂いを嗅ぎつけたからこそ本作を大歓迎したのです。

集成版『荒野のチャーリー・ブラウン』第七章

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 第七章。
 嵐の吹く暗い夜でした。私たちは暖炉の前でくつろぎながら、そろそろ晩酌にしようかとウィスキーのための氷を割ったところでした。夜の静寂が嵐にかき乱されていても、暖かな室内では吹きすさぶ嵐すら静寂の一部でした。私たちは退屈していたので、かえってちょっとした刺激には鈍感になっていたのです。こうして無為に過ごすのはともすればストレスに結ぶ倦怠をつのらせかねないことでしたが、それも慣れてしまえばどうということはありません。話題はとうに尽きていました。また私たちの好奇心はとうに衰えていましたから、並大抵のことでは私たちの興味は引き起こされなくなっていました。それは自分から望んだ結果なのかもしれません。沈黙と静けさ、自然な状態の夜とは本来そういうものでしょう。
 チャーリー・ブラウンは再び照りつける陽光に意識を取り戻しました。いつから眠っていたか、それが昨夜からなのかそれとも何日にもなるのか、チャーリーはもうよくわからなくなっていました。こんな状態になってから、もうどれだけの日付が過ぎたのかもよくわかりませんでした。チャーリーが巻き込まれた問題は今すべてが解決して帰路についているはずでした。それともまだ解決してないのかな。そもそもぼくはなぜ自分がこんなひどい目に陥ったかもよくわかっていない。ぼくは巻き込まれたのではなくて、ぼく自身が問題の核心にあったのかもしれない。ぼくでなければあの犬が。だけどもうあの犬は死んだ。鳥もどこかへ行ってしまった。生きていた時はあの犬はいつもあの鳥をはべらせていたのに。
 それが7年も前のことなんだゾ、としんちゃんは言いました。7年前じゃぼくら生まれていないよ、と風間くん。そこがモンダイです、としんのすけ、オラのうちがまたずれ荘から新築におしっこし(お引越でしょ!とネネちゃん)したのが3年前、オラが5歳の時。オラの妹のひまわりが生まれたのが半年前、オラが5歳の時。よしなが先生が結婚したのがおととし、オラが5歳の時。よしなが先生に赤ちゃんが生まれたのが去年で、オラが5歳の時。まだ聞く?もういいよ、何が言いたいんだよ。風間くんはおいくつ?5歳だよ、みんな同じ組なんだから5歳だろ!ほーほー、じゃあなんで風間くんはオトナみたいな口をきくのかナ?そんなこと5歳だからわからないよ!
 嵐の吹く暗い夜でした。まだルーシーはダイアモンドを持って空に浮かんでいました。


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 嵐の吹く暗い夜でした。だんだん春も近づいてきますねい、と泥棒のスティンキーは窓を開けると、広がる青空からつかみ出したかのように梅の枝先を少しだけ折って、ほら、桜ももうすぐですぜ。なるほど、もう春めいてほかほかした空気が外から入ってくるな、とヘムレン署長、きみのような泥棒にも私のようなおまわりにも春というのは平等に来るわけだ、この世に本質的には善悪の区別などはないという何よりの証拠だな。実にめでたいことだ、万歳三唱。いや、そこまで言うほどのことでは、とスティンキー、めっそうも畏れ多いですよ。しかしせっかくの良い日和だしね、とヘムレン署長、ひとつムーミンママに命令して、弁当でも作らせて橋の真ん中で酒盛りでもしようではないか。それを聞いて、台所でムーミンママの包丁がぎらり、と光りました。
 弁当も酒盛りも大いに結構ですが、とムーミンパパ、橋というのは中央広場から東に渡るあれですかな?他に橋があるかね?あの橋は毎年3月になると工事して、4月になると工事を止めるじゃないですか。そうだよ、年度予算の使い切りにはうってつけだからね。いったいちゃんと治しているのですか?そんなわけないだろう、工事しているふりだけなんだから。そんな橋で酒盛りして危なくはないんですか?いつ橋が落ちるかと思うとワクワクするではないか、と呵呵々とヘムレン署長は呵々大笑しました。せっかく近い橋があるのにみんな怖がって古い丸木橋しか使わん。あの橋で酒盛りするなら誰の迷惑にもならんさ。
 嵐の吹く暗い夜でした。チャーリーは再び歩き始めました。空の水筒がこんなに重いなんてどうかしてる、と彼は思いました。空の水筒を未練たらしくぶら下げている理由は、もし水を汲みおきできる機会があれば溜めておくそのためですが、飲み干してしまった後一度も水筒はそのような役にはたっていないのです。チャーリーの髪の薄い頭をカンカン照りの陽差しが灼熱に焼きあがらせました。辺りいちめんの荒野は陽差しを遮るものもなく、渇ききったその光景を目にするだけで、チャーリーは自分の眼までがまるで死人のように乾いていくような気になりました。
 嵐の吹く暗い夜でした。逃げるってどうやって、それにこの子は?連れて行くしかないだろう、置いていっても一旦かくまってしまった以上は、もう巻き込まれてしまったんだから。夜逃げのような慌ただしさだな、と私たちは支度を始めたのです。


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 ライナスの周囲を二重三重に、虹色の煙が渦巻いていました。その煙は水しぶきで出来ているようで、目を凝らすと小さな魚がぴちぴちと跳ねているのが見えました。かと思うとその煙は低い空に垂れ込めた雲のようで、切り裂くように鋭く鷹か鷲らしき鳥が、その中から出たり入ったりしているのが見えました。
 ライナスはどうやら見えない物体の上に立っているようでした。見えない物体とはいえライナスの体重を支え、ぐらついたり傾いたりしない様子からは、それなりの質量と大きさ、密度をそなえているようでした。見えないのは錯覚で、角度が変われば見えるのかもしれません。それは何か他のことに例えるなら……。
 ところで私たちは中央広場から通じる橋の上までは来ましたが、とスノーク、ここからは桜の花なんか見えませんよ、もうゴザを広げてから言うのは何ですが。そりゃそうさ、とジャコウネズミ博士、ムーミン谷に桜の木などないからな。そうでしたねい、とスティンキーは梅の小枝をポイと捨てました。梅の小枝は橋の上に敷いたゴザに着地する前にアデュー、とひと言つぶやくと、ムーミン谷から、そしてこの世界から永遠に消滅しました。
 この戦争が終わったら、少しはマシな世の中になると期待していたのが誰もの共通の思いでした、とスナフキンはご先祖さまの勧めてくれたとっても不味い薬湯を我慢してすすりながら傍白しました。それはムーミン谷住人全員の総意なのかね、と仙人の域に達したご先祖さまはさりげなくかわしました。それは、とスナフキンは言葉に詰まりましたが、だからこそご先祖さまであるムーミン谷長老の判断を仰ぎたいのです、と意を決していたのです。
 ライナスはいつまで雲の上から見下ろしているのだろう、と思うと、またしてもますます時間の経過感覚が麻痺してしまっているのを感じずにはおられず、叫びだしたくなる気持を抑えながらもライナスの身にはいったい何が起こったのだろうか、と驚愕の混じった疑問は膨れ上がるばかりでした。あのライナスはすでに自分の知るライナスではないのかもしれない、とすら思われました。あるいは自分こそが……。
 だが世の中にも2種類ある、争いのない平和な世の中と、平和のために争う世の中さ。そして世の中が本当に平和だという確信がない以上、争う他に世の中のあり方はないんじゃないかね?それは、とスナフキンは返答に詰まりました。では私たちはどうすれば……。


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 ところで問題なのは、とヘムレンさんは後ろ手を組み、われわれは子ども向けのキャラクターだからうかつに酒盛りなど出来ない、ということだ。一堂驚愕。そうだったんですか、とスノーク。まあ一応、この場合の子どもとは0歳から150歳の子どもまで、と範囲は広くなるのだが、とヘムレンさん、この言い方は気持ち悪くはないかね?つまり子どもとは気の持ちようだとは、子どもの類型化と偽善的な性善説がプンプン臭うではないか。
 世の中には悪意に満ちて性根がねじくれ、卑しい品性の子どもも大勢います(とスノークは言いました)、自分がそういう子どもだったと認めないではいられない大人も相当数いるでしょう。明けても暮れても大殺界、これじゃ人生毎日日曜というろくでもない余生を生きているのは、結局生きていないのも同じだと感じる人も多いでしょう。ですが、だからこそ、ファンタジーとしてわれわれムーミン谷の住民は存在するのではないでしょうか?
 きみの存在は確かにファンタジーだろうさ、とムーミンパパはパイプに葉を詰めながらせせら笑いました。ムッとするスノーク。それは私もきみもだよ、とジャコウネズミ博士がとりなしました。まあファンタジーとは言えないのは、とヘムル署長もスティンキーの右手とつないだ左手首の手錠を指して、ムーミン谷にも法はある、ということかな、必ずしも正義とは言わないが。正義ですか、とムーミンパパ、そんな言葉も聞いたことはありますが、この目で見たことはありませんな。
 これが夢の世界の出来事なら、きっとライナスを上空に飛翔させているのはいつものあの安心毛布が夢想の中で変形したものなのでしょう。なぜなら、いま虹色の煙を霧状星雲のように衛星にまとったライナスは、どうも毛布を持っているようには見えなかったからであり、もしライナスから毛布を引けばリランと見分けがつかないはずなのです。なのに間違いなくライナス本人と見えるのは、毛布あってこその威厳があったからでした。
 そして嵐の吹く暗い夜でした。私たちは地下室から続く通路から脱出するしかなさそうでした。それは私たちが長い間をかけて掘り進めていたもので、もし少女が通路の途中で目覚めようものなら私たちは自らの手で少女を口封じしなければならなくなる性質のものでした。しかし今はためらっている時ではなく、眼前の危機から全力で逃れなければならないのもまた、明らかなことなのです。


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 さて私たちは地下室の隠し通路から逃げることには決めたものの、細かい点では意見の相違が生じて足を取られることになりました。私たちが不在なのは必ずしも少女をかくまっていることにはならない、だから極力その痕跡は抹消しておくべきではないか。いや、私たちは逃げるのだから、これは迷い込んできた女の子をかくまっているとバレたも同然ではないか、それなら今さらその痕跡を隠蔽したところで仕方ないではないだろうか。
 しかし見たろう、と私は言いました、この子は玄関先にもかなり多量の血痕を残していた、それはまだ嵐に洗い流されきってはいないはずだから、今われわれの家に押しかけて来ている連中はそれに気づかないわけはない、だから……。いや、と私は疑念を呈して、この子の体を拭いていても、何ら創傷らしきものは見当たらなかったのは私たち二人とも確認したはずだ、つまり血痕を認めたところで必ずしもそれをこの子と結びつける根拠はないだろう。何も今から諦めることはあるまい。
 吹きすさぶ嵐の物音に混じって、なおも激しくドアを叩く音が廊下越しに響いてきました。私たちの家の廊下はよく響くのです。廊下は汚れていないか?いや、後回しだと思って注意していなかった。他の選択、つまりもっと簡単な選択もあるのには私たち二人とも気づいていました。少女だけを家のどこかに隠す、しかし徹底的に探されたら見つからない保証はないでしょう。または少女を介抱してはいたが、あっさり来訪者(たぶん複数人と思われる)の要求通りにする。それならどうだろう?
 どちらも徒労に過ぎないのは目に見えています。明らかにこの少女が迷い込んできた背景には犯罪性が想像され、極端な話、この子が浴びていた血痕は彼女自身が他人に傷害を負わせた可能性すらある。しかしそれにはこの子は幼すぎる。少女の近親者、たとえば親兄弟が殺傷に近い被害に遭い、この子だけが逃げ延びてきた、と想像するのがおそらくいちばん自然で、もしそうなら少女をかくまってしまった私たちにはもう知らぬ存ぜぬで済ませる選択の余地はない、と思われるのです。
 そうなると、結局私たちは私たち自身のためにも自衛しないわけにはいかない。逃走であれ迎撃であれ……しかしおそらくこの少女の奪還、またはとどめを刺すだけの決意を秘めてきた連中に私たちが勝てるとは思えません。そう考えると、いっそ恨みはこのいたいけな少女に向かうのでした。


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 きみはずっと甘やかされてきた。もしきみにその自覚がないなら、それがどういうことかを、順を追って述べることにしよう。
 嵐の吹く暗い夜でした。これまできみはだいぶつらい目に遭ってきたんだろう、と語りかけてくる声がしました。それは同情に堪えない、だがきみくらいに哀れで冴えず、かつては多少は楽しいこともあったが、今や何の魅力もなくなってしまった残骸の生活を生きている連中はざらにいる。それに第一、きみはずっと甘やかされてきた。それがきみを自分自身を直視することから遠ざける主要な原因になっていた。きみは甘やかされてきたからいつしかそれを当然のことと思うようになり、本当に危機に陥った時、つまりきみを甘やかしてはくれない環境にさらされることになったら、とうとうきみは音を上げてしまったのだ。
 それはきみを甘やかしてきた周囲の責任もあるかもしれない、だがきみが本当に賢明ならとうにきみを甘やかし、スポイルしている事態に気づいていたはずだ。きみはうぶで、他人を信じやすく、甘言にはたやすくおだて上げられてきた。だからきみは今さら他人の気まぐれを恨むことはできない。きみは結局騙され続けてきたわけだが、騙されるだけの甘ったれた隙と傲慢さがきみには元々あったのだから、それはきみ自身の責任でしかない。
 そんなことはわかっている、とスナフキンは思いました、それにもとより自分にはそんな風に言われる筋合いはない。おれはこれまで一人だったし、今も一人で、これからも一人でいるだろう。確かにそれは味気ないことだし、おれ自身の性分がこうした境遇を招いたとも痛感している。それは霜焼けみたいに凍みる痛さでもあり、変化とは可能性のことなのだから、すでにおれは可能性を捨ててしまったのも染み入るように理解している。この場合理解とは、それ自体このおれがスナフキンである状態に対して何の役にも立たないのだから、理解しているというのは結局、諦めきっているというのと同義になるだろう。
 イヤあーっ!とネネちゃんは嫌悪の悲鳴をあげました、今日のお弁当袋マサオくんのとかぶってる!いいじゃないか、と風間くん。でも何でマサオくんとなのよ!とネネちゃん。カバンに制服、それに年齢までかぶってますナア、としんのすけ。それは仕方ないでしょッ!
 嵐の吹く暗い夜でした。スナフキンは晴れ渡ったムーミン谷の空を仰ぐと、今自分にできることを考え始めました。


  (67)

 イヤあーッ!とネネちゃんは嫌悪の悲鳴をあげました、今日のお弁当袋マサオくんのとかぶってる!いいじゃないか、と風間くん。でも何でマサオくんとなのよ!とネネちゃん。カバンに制服、それに年齢までかぶってますナア、としんのすけ。それは仕方ないでしょッ!
 ひどいよネネちゃん、ぼくだって……と早くもべそをかくマサオくんの肩に手を置いて、ボー、とボーちゃんは慰めました。何よっ、あんたも私とかぶってイヤだって言うの、マサオのクセに!マサオくんだってわざとじゃないんだよ、と風間くんがとりなしましたが、ネネちゃんの怒りは消えません。やれやれ、困ったおジョーさんだナ、としんのすけは両方の手のひらを肩の高さまで上げてあごを振り、お手上げのジェスチャーをしました。
 無垢なる者には罪はない、と教義に説く宗教は多いけれど、と私は少女をす巻きにしながら(なぜならこれから通る隠し通路はいつでもひどく冷え込むからです)、ええと、この状態で寝袋に入れれば二人で運びやすいんじゃないかな。うん?宗教がどうしたって?過失はこの子の方にあるのかもしれないよ、そしたら私たちは今正しい判断をしているのだろうか、子どもがむごい姿で現れたから(しかもいとけない少女だから、と私はつけ加えました)、私たちは疑問も抱かず献身的になっているが、それが果たして良い結果を招くか?
 それなら今からこの子を裏口からでも放り出すかい?と私は肩をすくめました。何もこれは特別な施しをしてあげているとは思わないよ、ごく自然なことだ。放っておいたら命に別条があるかもしれない相手を見殺しにはできない、というだけのことじゃないか。
 だが今誰かが訪ねてきている。親兄弟かもしれない。警察かもしれない。ああそうだね。だから、と私は言いました、私たちは無関係であるとだけ主張して、やってきた誰かに事情を訊くのも手だろう。だけどそれが悪人だったら?しかしそれが善意の迎えだったら?
 論議しながら、おそらく私たちは二人とも不思議な既視感を感じていました。そうゆうことなんだゾ、としんのすけは腰に手を当ててえっへんの姿勢になりました。何がだよ、しんのすけ、と風間くん。かぶっているのはお弁当袋だけじゃないゾ、何から何までだゾ、としんのすけは悟ったような口をききました。
 その頃チャーリーはというと、無言でスヌーピーとにらみあいを続けていました。嵐の吹く暗い夜でした。


  (68)

 嵐の吹く暗い夜でした。
 私は戻って取ることができることを望む!
 私はあなたを傷つけるためにやったことのすべてを、私はとても残酷なことを意味するものではありませんでした!
 そして、まだ私は利己してきたことを知っていると、時々 、ちょうどばか!
 そして、私がやったすべての軽率なことは、 私を悩ませ戻って」やって来る続ける あなたが心にそれぞれ1を取ったので!
 そして私はそれは私のせいです実現するように 私たちは離れて世界を成長した。。。
 私が持っている後悔、後悔、 私の過ちのための「唯一の私の自己のことを考えて 、私は、後悔は、これらの後悔している残っているし、すべての もののために、私は何とかあなただけで許すことができないなかったことを 私は常に必要がありますね。
 嵐の吹く暗い夜でした。私が持っている後悔、後悔、 私の過ちのための「唯一の私の自己のことを考えて 、私は、後悔は、これらの後悔している残っているし、すべての もののために、私は何とかあなただけで許すことができないなかったことを 私は常に必要がありますねこれらの後悔と一緒に暮らす。。。
 ……これはいったい何の冗談なのかね?頭がおかしいとしか思えんが、そうなのか?こんなものを、いったい誰が書いたんだい?
 スヌーピーが書いた歌詞だそうです。まあ所詮は犬の考えたものですからね、舌足らずというか支離滅裂というか、こんなものです。
 だが犬は本来文章など書けはしないだろう、これほど滅茶苦茶な詩でさえもだよ。それはどうなっているというんだろう?
 あーそれは、秘書の小鳥に口述しているんですよ。パソコンではなく、昔ながらのタイプライターだそうですがね。
 なるほど、しかしパソコンでなくとも、普通タイプを打てる小鳥などいるだろうか?世には常識というものがあるだろう?
 彼らに普通は通用しないんですよ、タイピングできるからには、彼らはアメリカの犬と小鳥だから英文タイプライターを使っていると思いますが、正確なスペルを打てなければならない。すると文法はともかく書字能力では、小鳥の方が犬より賢いことになる。
 ……なるほど、世界にはまだわれわれには未知の現象が山ほどある、その氷山の一角のようなものだということは痛感した。彼らを保護という名目で捕らえて監禁し、十分に研究しなければならないようだ。手筈はきみに任せた。
 はい。どんと来いです。


  (69)

 もう長いこと待っているのに、なかなか彼らはやって来ない。昨日、一昨日、先週、先月、半年前、たぶん去年の今ごろもこうして待たされ続けていた気がする。いや、いくら何でも去年ということはない。そんなに長く切らしたらとてもではないが耐えられないから、それなりに必要にぎりぎり間に合う程度には彼らは一度に払える分だけ持って売りに来るのだ。その辺は彼らも効率的な商売をしている。
 売り上げを回収する二度手間と(そうは言っても一度客になれば買い続ける習慣を断つのは難しいから、次に売る時に回収すればいいとも言えるが)、踏み倒されるおそれを避けて、彼らは掛け売りは絶対にしない。商人である彼らの方が客よりもでかい面をしているのは、彼らに断られれば客は他に苦労して商人を見つけなければならないからだ。
 需要と供給の相関関係なら、この場合まず供給が多いほど需要が広まり、高まっていく。そうすればしめたもので、量は少なく、価格は高く供給をコントロールしても需要の高さがインフレーションを許してしまう。商売人同士が示し合わせて価格操作はできるが、顧客たちが同盟して画策などできはしない。
 すでに彼は散文には取り組んでいましたが、絵画は「忌まわしい現実の反復」だと嫌悪の念を抱いていました。しかし後には対象の再現にとどまらない絵画の可能性に目覚め、絵画にも創作意欲を向けるようになります。散文と絵画両方が創作での重要な位置を占めるようになった後はその違いを表現して、書かれた文字は「ねばねばする相棒」「すべてが後から、後からやってくるもの」であり、デッサンは「生まれたばかりのもの、生まれつつある状態、無心と驚きの状態にあるもの」と述べています。
 またこの頃に確立された独自の作風では、詩と散文のあいだを漂いながら特有のイメージ、特異な光景、独特の思索や心情の発露、架空の国を舞台にした内面的世界の展開などの点で特徴ある作品を創り続けていくことになりました。また、絵画では一貫して不定形なフォルムや絵の持つ動きが追求され、そのような描画の中にしばしば人の姿や顔のようなものが現れています。
 また彼は、後には知人の勧めでメスカリンを始めとする幻覚剤の効用を試し、その効果の下で詩や絵の創作に取り組む実験を行っています。その使用はあくまで冷静な実験のためであり、薬の常用や依存などとは無縁でした。
 次回第七章完。


  (70)

 犯罪要素が濃厚になってきたようだな、と偽ムーミンは思いました。しかし偽ムーミンという一点のシミだけのためにムーミン谷全体が偽ムーミン谷とは呼べないように、犯罪くらいで現在の状況すべてが犯罪一色に染まるわけではなく、その上犯罪だって世界を構成する幾多の重要な要素のひとつです。
 あの坂ばかりの町では、春には桜が、夏にはひまわりが、秋には彼岸花がこれでもかと咲き乱れていました。住民は誰もが意地の悪くエゴイスティックな老人ばかりでした。老い先の短さのあまり、他人に対する思いやりや親切心などすっかり失ってしまった老境とは心貧しいかぎりですが、多少なりとも謙虚な内省力と知性があればそれほど醜い老い方はしないはずですから、おそらく彼らにはそのどちらもが欠けていたのでした。
 ライナスは遠くの空にすくっと立っていました。が、その存在はまるで間近にいるようで、おそらくライナスにはこちらの息づかいや心臓の鼓動まで聞こえているに違いなく、表情のすみずみや心の中まで読まれていると思われました。もしかしたらライナスが立っているのは遠いパインクレスト町の空で、見えているのは時空を超えてつながったまぼろしのライナスかもしれず、まぼろしのライナスかもしれず、まぼろしのライナスかもしれませんでした。
 かつてライナスは姉の同級生である年長の親友と、彼のための子犬を保健所にもらいに行ったことがありました。この年長の親友は精神年齢ではライナスより幼く、彼だけの判断で子犬を選ばせるのはあまりに頼りないので、姉のいらぬおせっかいからライナスも同行することになったのです。1950年10月4日のことでした。つまりジャニス・ジョプリンが20年後に命日を迎えるその日に、ライナスは親友のお供でデイジーヒル子犬園に向かったのです。
 その子犬は8匹兄弟の1匹として生まれ、ライラという少女によって飼われていましたが、彼女の家庭がペット禁止の住宅へ引っ越すので飼えなくなったため、いったん生まれ故郷のデイジーヒル子犬園へと戻されていたのです。8月10日に生まれたばかりの、まだ生後2か月にもならないビーグル犬の子犬でした。
 少年は以前から子犬を欲しがっていましたが、それは少年自身が魅力に乏しく友だちが少ないからでした。5ドルで子犬を引き取ってからすぐ少年は人気者になりましたが、それがすべての間違いの始まりだったのです。
 第七章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

ロック史上最高のデビュー・アルバム

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MOBY GRAPE
モビー・グレイプ
★★★★★Moby Grape / Col. CS-9498 ('67.May.29) : http://www.youtube.com/playlist?list=PLpvztXgGzYSE20HuDuqGH8kYM8DVWENHN

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★Wow (c/w "Grape Jam") / Col. CKS-3 ('68.Apr.3) : https://youtu.be/6khG54XE-Ws : https://youtu.be/UVYQSbOiATY

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★★★Great Grape / Col. CS-31098 ('72) : https://youtu.be/GVFM0ttRldE

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 モビー・グレイプはいいアルバムを1枚だけつくった。しかしそれはまた何というアルバムだろう。このグループのデビューLPが現在もなお"サマー・オブ・ラヴ"と呼ばれた1967年の夏にサンフランシスコから飛び出した時と同じように新鮮で心地良いということは、このバンドが夢に描いていた折衷的アメリカ音楽を象徴している。『Moby Grape』の中にうずまいているのは、ジャズ、カントリー、ブルース、そして昔ながらのロックンロールらの諸要素だ。しかしそれらすべてがうまく統合されて、このグループ(5人メンバー。全員が見事に歌い、書き、演奏する)の手でこねあげられているので、アルバム中全13曲を個別に記憶にとどめることは不可能だ。リード・ギターのジェリー・ミラーとベースのボブ・モズレイが楽器演奏面でバンドに拍車をかけているが、他の3人、つまりリズム・ギターのスキップ・スペンスとピーター・ルイス、そしてドラムスのドン・スティーヴンソンの貢献も大きい。
 グレイプの急速な落ち込みは'60年代後期の不思議な悲劇のひとつだ。『Wow』は完全な失敗作で、グループの長所であるタイトな歌構成とは何のかかわりもないジャム・セッションの「おまけ」LP『Grape Jam』をつけた2枚組。6、7枚あるこの他のアルバムはもはや入手不可能。純粋なカントリーからブルースに影響されたロック、完全な音楽的混乱までさまざまである。
 『Great Grape』はかなりうまく選曲されたアンソロジーだが、ほんとに重要なのは先に述べた最初のLPだけである。
(文=ビリー・アルトマン)
(『ローリングストーン・レコードガイド』1979年版より、翻訳=講談社・昭和57年3月刊)

集成版『荒野のチャーリー・ブラウン』第八章(完)

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 最終章。
 チャーリー・ブラウンは自分を、もう長いこと泥の中を匍匐前進しているだけのアメーバか繊毛虫のように思いました。アメーバやゾウリムシ、また繊毛虫などの単細胞生物(たんさいぼうせいぶつ)とは、体が複数の細胞からできている多細胞生物に対する言葉であり、1個の細胞だけからできている生物を指します。単細胞生物は原核生物と、原生生物に多く、菌類の一部にもその例が見られます。
 単細胞生物には寿命がないと思われがちですが、接合による遺伝子交換をさせないよう注意深くゾウリムシを培養するとやはり死に至ります。してみると、チャーリーが移動を続けるのも接合による遺伝子交換を本能的に求めて、自己の生命を維持しようとしてのことなのでしょう。だとすれば、とチャーリーは回らない頭でぼんやり考えました、このまままるで誰とも接触のない徘徊が続くかぎり、遅かれ早かれ死ぬのは遠くない。だがもし本能によって導かれているなら、もうまともな思考力すらない自分にそれ以上の選択肢が他にあるだろうか。
 さあみんなリアルおままごとをやるわよ!とネネちゃんは宣言しました。声の調子がいつもより高いのは、それだけムキになっている証拠です。彼女の命令は絶対でした。風間くんは何やるの、とさりげなく聞きながら内心ではびくびくし、マサオくんはすっかり慌てふためいていましたが、二人とも恐々としているのは同じことでした。ボーちゃんはいつでもボーちゃんなので、何を考えているのかはわかりません。イヤだなあネネちゃん、としんのすけは混ぜっ返しました、リアルおままごとならもうさっきからやっているじゃあないの。さっきから、っていつからだよしんのすけ、と風間くんが突っ込みました。えー、そんなこともわかんないの?いちいち回りくどいやつだな、ネネちゃんが言い出したのはつい今しがたのことじゃないか、と風間くん(そうだよ、とマサオくん)、ボーちゃんは「ボー」と言いました。
 もおみんなワカラズヤさんなんだから、としんのすけ、そして声をひそめて、オラたちが出てきた時にもうわかっていたじゃない、だってオラたちがここにいるのはおかしいんだから、これって全部リアルおままごとみたいなもんでショ?とこともなげに言い放ちます。
 ですが私たちがのっぴきならない事態に直面しているのは確かなことでした。今は仲間割れ、と言っても二人だけですが、争っている場合ではないのです。


  (72)

 ライナスはどうやら姉の臨終に間にあい、安堵すべきか悲しむべきか、はざまに挟まれたような宙ぶらりんな気分になりました。悲しみ、悲しみ、悲しみ自体はわかりやすいことで、肉親を亡くすほど悲しくつらいことはないといいます。みんながそう言う、本にも書いてある、そういう映画を観たことがある。だけれどぼくは、このぼくはいったいどうだろうか。つらい、つらい、だけどそのつらさは姉を失うことより、姉を失った後の世界に対する物怖じのようなものではないだろうか。
 彼女には不幸を紡ぐ黒いクモの糸をあやつる能力があり、世界中から夢や希望を奪い去り、莫大な不幸エネルギーを吸収することで、誰をも凌ぐ力を手に入れて、全世界を手中に収めようと暗躍していたのでした。彼女は精神攻撃に長けており、狙った相手を「すべての不幸」と貶め、「人間がいるかぎり不幸はなくならない」という持論を持っていました。キャラクターとしては「圧倒的な悪いヤツ」であり、「親しみやすさゼロ」「こころおきなくブン殴れる相手」とも言えました。
 その最終形態は巨大な翼形の暗黒色のエネルギー体のような姿形になり、その中央には妖しい光が灯るのでした。そうなるととてつもなく強力な不幸の力を持っており、巨大な光線を放つことさえできるのです。
 それがぼくに何の責任があるだろうか、とライナスは呟きました。単に家族というだけ、姉弟というだけでぼくの責任になるのだろうか。姉はライナスの大切な毛布を隠し、汚し、破り、捨ててしまうことすらこれまでに何度となくありました。末弟のリランが成長してからはよほど怒りに任せた時以外は毛布に関する嫌がらせをしなくなったように思える。それは毛布を持っているのがライナス、オーヴァーオールを着ているのがリランで、毛布を持たないライナスはオーヴァーオールを着ていない時のリランと見分けがつかないからです。
 しかしルーシーにはルーシーなりの言い分があるでしょう。ライナスは姉の死の床にまでこんな確執が心から晴れない自分を恥じましたが、彼女のような姉を持った少年が穏やかにに姉の臨終を迎えられる訳はなく、ルーシーの弟であることはライナスにとって生まれながらの呪いのようなものだったのです。
 ですがその存在はあまりに大きなものだったので、姉亡き世界がライナスにとってどう変貌するかは想像もつかないことでした。まったく、想像もつかないことでした。


  (73)

 闇夜のカラスは写真に写らない。ルーシーの弟たちに対する感情は基本的にはだいたいそのようなものでした。ルーシーの暗い人生観では、あらゆる感情が闇夜の黒一色に紛れてしまうのです。それはルーシーの根底にある不信、敵意、狂気そして救いがたい暗さが攻撃性になって横暴な暴走に走ったものでした。
 そして嵐の吹く暗い夜でした。ウッドストックは顔を上げると、いつもの無表情で続きをうながしました。どこまで行ったっけ、と尊大なビーグル犬はふふん、という仕草をしました。ウッドストックは仲間同士とこのビーグル犬にしかわからない、ガラスをひっかくような音声で、かいつまんで説明しました。概略そういうことですよ、とひとしきりキーキー鳴くと、ふたたびビーグル犬とヌケサク鳥の周囲は沈黙に包まれました。その沈黙は沈思におちいらせるよりも、むしろ活発な思考を沈み込ませるようなものでした。何もするな、とその沈黙は語りかけてくるのでした、何も考えるな。
 自害して果てたスヌーピーの遺骸は、日ごとに生前のおもかげを失っていきました。かんかん照りの荒野、しかも夜間は極寒の乾燥地帯では、遺骸の腐敗は進まず、ミイラ化だけが進んで行きました。まず体表面の筋肉が干からび、いわゆる骨と皮の状態になり、それから次第に全身の毛並みが抜けてしまうと、風に吹かれて飛んで行きました。
 スヌーピーの遺骸は毛をむしった調理用のチキンのようになりました。生前のスヌーピーがチキン呼ばわりされたら、自分がチキンなら相手はピッグだと罵り返したでしょう。しかし今のスヌーピーはもはやチキンですらありません。さらに言えばスヌーピーですらなく、遺骸というただの物質です。そこにはかつてスヌーピーというビーグル犬のパーソナリティ(犬をパーソンと呼べるとすれば)が宿っていました。そこにはかつてスヌーピーというビーグル犬のパーソナリティが宿っていました。
 いたのかな?そういうことでいいでしょう、とウッドストックは無言でタイプを打ちました。つまりスヌーピーがパーソナリティを持つビーグル犬でなければ、ウッドストックもまたパーソナリティを持つヌケサク鳥ではあり得ないからです。宿っていました、とウッドストックはもう一度、その箇所を暗誦しました。
 頼もしい秘書に、ビーグル犬は感謝の視線を投げかけようとしました。しかしそこにはすでにウッドストックの姿はありませんでした。


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 オラたちの出番もそろそろ終わりみたいだナ、としんのすけは呟きました。ええっ、それはどうゆうことなのしんちゃん!とマサオくんが動揺するのをネネちゃんは、あんたオトコでしょっ、ビビるんじゃないわよ!と叱り飛ばしましたが、実はその強がりは虚勢で、内心はマサオくんに負けず劣らずビビっていたのです。しかしネネちゃんはツンデレこそのプライドがあり、それは本物のお嬢さまの酢乙女あいちゃんや、男ひでりのまつざか先生のようには、素直な感情の発露を許さないものでした。
 ねえ?とネネちゃんは風間くんに同意を求めました。こういう時にはネネちゃんはいつも風間くんに話を振るのです。だから風間くんはたいがい、そうだよしんのすけ、とネネちゃんに代わってしんのすけにツッコミを入れる役回りを勤めるのですが、この時ばかりは風間くんもしんちゃんの発言に呆気にとられていました。ど、どうしようボーちゃん、と風間くんはおそらくかすかべ防衛隊唯一の理性である鼻たれ小僧に尋ねました。ボー、とボーちゃんはいつもの通りに呟きました。
 決まっているじゃあナイか、卒園式をするんだゾ、としんちゃんが言うと、5人はいつの間にか教壇の黒板前に並んで立っていました。黒板にはしんのすけの汚い字で「ふたばようちえんそつえんしき」と大きく殴り書きしてありました。しんちゃんは園歌斉唱の音頭をとり、卒園児代表の悼辞を読むと、オラが組長せんせいの役を演るゾ、とサングラスをかけて教壇に上がりました。なによ、これリアルおままごと?とネネちゃん。
 しんちゃんはマサオくん、ボーちゃん、ネネちゃんを次々と呼んで卒園証書を授与すると、風間くんに授与した後はサングラスを渡して風間くんから自分に卒園証書を渡してもらいました。これは本気の卒園式なんだ、とその時誰もが気づいたのです。
 さて、お見送りの番だナ、としんのすけが言うと、みんなが一斉にマサオくんを見つめました。えっ何ぼくが最初?とひと声残して、マサオくんは消えました。次にボーちゃんがボー、とだけ言って消えました。アンタたちと残るくらいなら先に行くわよ!と次にネネちゃんが消えました。どういうことだよしんのすけ!と呆然とする風間くんの敏感な耳にしんちゃんがフーッと息をかけると、風間くんもああっ……と呻いて消えました。
 そしてしんちゃんはひとり、卒園証書を握りしめて、旅立ちを見送る人もなく立ち尽くしていました。


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 第一章(回想)。
 ある暗い嵐の夜でした。
水皿の水にぼくのかおがうつっている。ぼくはのどが渇いているけど、この水をのみほせばぼくのかおは視られなくなる。ならぼくを視ているほうがいいや。そうナルシシストの小型ビーグル犬は考えると、そろそろおやすみの時刻かな、と犬小屋の屋根に億劫そうに上りました。彼は閉所恐怖症なのです。
 空模様はまずまずで、犬小屋には実は広大で快適な地下室もあり、タイプライター(執筆に関しては、彼はアンチ・パソコン派でした)を据えたデスクの正面には不運な火災で焼失するまではゴッホの小品が飾ってあり、やむなくビュッフェに変えてからは自分の創作力も低下しているように思えるのでした。「ある暗い嵐の夜でした……」
 彼は脊柱ががっちり犬小屋の屋根の峰を押さえこんでいるのを背筋の感触で確かめると、この小屋を彼に与えたくりくり坊主の少年のことを思い出し、自分ほどの知性ある犬、なにしろ少年の知人の少女には人間だと思われていたことすらあり、かつての戦線では撃墜王として勇名を轟かせ、探偵経験も弁護士資格も持ち、絶版ながら小説の著作も一冊ある(「ある暗い嵐の夜でした……」)。なのになぜあの少年はくりくり坊主としか覚えられないのだろう、と小首を傾げました。
 チャーリーも小首を傾げました。で?
 まあそれは自分のせいではないのだろう、とこの自惚れの強い小型ビーグル犬は気持よさそうに伸びをし、自分が彼らにどう呼ばれているかを、心地良い優越感とともに思い巡らしました。くりくり坊主とその仲間たちの、誰を取っても彼の名前と結びつけずには人物像が浮かばないほど、世界は彼を中心に形成されていたのです。
 ではもしあの少年の名がシルヴァーまたはゴールドだったら?あるいは陰影深いアジュールやグレイやブラックなら?色鉛筆や草花のようにレッド、ローズ、パイン、ミント、グリーン、ヒース、プラム、ガーネットだったら?
 ……ですがそれはあり得ないことでした。 少年の名前はチャールズ、愛称チャーリー。そして名前はブラウン、変哲もないブラウンだったからです。彼は何の役目も持たずにこの世界に生まれ、たまたま知らないうちにチャーリー・ブラウンという個性になったのでした。それでもスヌーピーにとってはただのくりくり坊主でしかなかったのです。
 ……チャーリーは顔を上げました。スヌーピーの姿はもうありませんでした。。


  (76)

 私たちがここに来ているのは何のためだったのかね、と吹きすさぶ嵐にずぶ濡れになりながら、ジャコウネズミ博士がこぼしました。わしなどすっかり濡れネズミではないか。世界的な哲学者にして自然科学者、物理学者の威厳がこれではさっぱりとしか思えんぞ。きみたちはそれでもいいのかね?
 と申しますと?とスティンキーが混ぜっ返します。博士はどーんな時でもムーミン谷いちばんの学識者でいらっしゃいますよ。気になさることなどないじゃあありませんですか、多少ずぶ濡れになろうと。
 ずぶ濡れに多少もあるものか、とヘムル署長が手錠でつながれたスティンキーの腕を引っ張りました。博士は濡れないところで休んでいてください、後は私たちでどうにかやれそうですから。なあ、という顔でヘムル署長は同行しているムーミン谷の仲間に振り向きました。そこには、
・今ここにいる人、と、
・今ここにいない人
 の両方がずぶ濡れになって立ち尽くしていました。それほどムーミン谷の住民は結束力が固いとも、付和雷同ともいえる光景に、天の怒りはますます激しい雨風やいなびかりを浴びせかけました。
 なんか変なものが飛んできましたよ、とスノークは顔にべったり貼りついたチラシを一瞥すると、これはいったい誰なら説明してくれるものかと悩みを抱えこみました。チラシにはこうありました。

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 私たちは地下通路の途中でひと休みすることにしました。本当は急がなければなりませんが、急いだところで本質的な解決にはならないのも明らかでした。一服くらいしようじゃないか、と私たちは腰かけました。すると、かたわらに横たえた少女が初めて何かつぶやいたのが聞こえたのです。何?と私たちは慌てて少女の耳もとに問いかけました。
 ……チャーリー、と少女は言いました。そしてスヌーピー、とも。


  (77)

 そしてようやくチャーリー・ブラウンはこの世界の意味を知りました。つまりパインクレスト町に住むチャーリー自身とスヌーピー、ウッドストック、また理髪店を開いているチャーリー・ブラウンのお父さんとお母さん、妹のサリー・ブラウン、パインクレスト小学校の学友たち……元祖ツンデレのルーシー・ヴァン・ペルト、毛布でおなじみライナス・ヴァン・ペルト、ライナスとうりふたつのリラン・ヴァン・ペルトの三姉弟や、天才トイ・ピアニストのシュローダー、ペパーミント・パティこと父子家庭のパトリシア・ライチャー、チャーリーやペパーミント・パティの崇拝者の少女マーシー、知性溢れる人格者の黒人少年フランクリン、いつも不潔なピッグペン、さらに天然カーリー・ヘアが自慢のフリーダやチャーリーとペパーミント・パティを引き合わせてくれたロイ、ライナスを翻弄したリディア、チャーリーが失恋したペギー・ジーン、傷心のチャーリーを慰めてくれたエミリー、ライナスの励ましで白血病と闘病したシャーリー、サリーが心を通わすことができた旧校舎の「学校さん」……そしてチャーリーが会ったことのないこの世界の最重要人物こそがスヌーピーの元の飼い主だったというライラという少女で、チャーリーはデイジーヒル仔犬園の係員さんからその少女がスヌーピーを一度は引き取りながら、再び里親探しに出さねばならなかった事情を教えてもらったのですが、遠い町に引っ越したという彼女と会ってお礼を言う機会には恵まれませんでした。
 また、ライラに会ったところでチャーリーにお礼以外の何が言えたでしょう。仔犬を飼いたいのに仔犬を飼えなくなった少女に向かって、仔犬を飼いたくて仔犬を飼うことがかなった少年が何を言えるというのでしょう。チャーリーはこれまで一度もそれを考えたことがなく、スヌーピーは最初から自分を取り巻くこのピーナッツ世界の一員のように思っていたのです。それはチャーリーの錯覚だったのでしょうか?むしろ、ライラがスヌーピーを里子に手離した時に願ったことが実現して、ライラのいない世界がパインクレストの町に成立したのです。
 では、とチャーリーは考えました、ぼくたちはライラの見ている夢の中の住人なんだろうか。そして今、彼女はその夢が自分を縛りつけている悪夢と気づき始めて、夢から覚めようとしているところなのだろうか。そして彼女の目覚めとともに、ぼくらは消えるのだろうか。


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 もうきみなんか嫌いだ、とライナスは言いました、飽き飽きしたし嫌気がさした、もうぼくの人生に関わらないでくれ。ただそれだけのことをきっぱり言えるにも人が積まなければならない経験には長い長い時間がかかります。また、それを言うのに十分な長い時間を過ごしていても、まったく時間の流れの影響を受けない状態があるとすれば、そこにはすでに本来の時間という概念が消滅してしまっているとも言えるでしょう。ライナスが生きていたのはそういう世界だったはずでした。
 しかし今ライナスは、はっきりとそれが間違いだと気づきました。ライナスはずっと自分が誰かに夢見られている影のような存在のような気がしていて、毛布を手離せなかったのはそのためでした。自分にも赤ちゃんの時代があり、それはフロイトの言う口唇期の性癖から由来するものと思いたかったのです。その記憶は作られたものでした。ライナスには幼児の時代などなかったのです。ライナスは最初から今あるライナスで、いつまで経ってもかつてと同じライナスのままでした。
 それは最初から他人の人生を生きているようなものでした。変化も成長もない人生を人生と呼べるとしても、ライナスは硬い殻の中で変化し成長しようとする強い力が抑えこまれ、内圧が耐えがたいまでに高まった状態を長い間生きてきました。もうきみなんか嫌いだ、とライナスは自分に言いました、飽き飽きしたし嫌気がさした、もうぼくの人生は好きにさせてくれ、ぼくに関わらないでくれ。
 ライナスはチャーリー・ブラウンを思い出しました。そしてチャーリーの妹サリー、ライナスの姉のルーシーと弟のリラン、パインクレスト小学校の学友たち……シュローダー、ペパーミント・パティ、マーシー、フランクリン、ピッグペン、またフリーダやロイ、ライナスを振り回したリディア、チャーリーが失恋したペギー・ジーン、それを慰めたエミリーを思い出しました。また、ライナスがお伴をしてデイジーヒル仔犬園にもらいに行ったチャーリーの飼い犬と、その犬と仲良しの野鳥(らしきもの)を思い出しました。
 しかしライナスの記憶では、今やチャーリーの飼い犬も、その仲良しの野鳥も何と呼んでいたかは定かではなくなっていました。かろうじてその存在が思い出せる程度で、犬種すら覚えていないほどでした。ひょっとしたらもう長いこと以前に、その犬はライナスの人生から消えていたのかもしれませんでした。


  (79)

 嵐の吹く暗い夜でした。
 夜はまだ早く、彼もまだ少年の年頃でした。ですが、夜は甘いのに、彼の心は苦りきっていました。それは彼が取り返しのつかない選択を決断してしまったからで、いくつもの可能性を諦め、人生の全体をスライスされたあげくその一片しか与えられないような立場に追い込まれていたからでした。
 より正確に言えば、彼を消沈させているのは現在陥っている状況そのものではなく、彼自身がそれを認識しているという点にありました。何も気づいていなければそれは起こらなかったのと同じことです。彼が苦しんでいるとすればそれは彼自身の認識力からきたした迷惑であり、そこから抜けだすにはオイディプスのように、もうひとりのアダムのように両目を潰さなければならないでしょう。しかしそれも彼には想像するだにぞっとすることでした。
 この世界の秩序の根幹にあり、疑ってはならないとされているのものは信じる心であり、希望であり、愛でした。いつしか彼はそれらからも見離されていました。しかしそれは彼自身がいつからか心のどこかで望んでいて、遂に実現しただけなのかもしれません。
 彼、つまりチャーリーにもともと備わっていなかったのは自信と積極性であり、それを初めて与えてくれた存在があのビーグル犬だったことはチャーリーも認めざるを得ませんでした。それまでぼくは卑怯で弱虫だった。だけれど、飼っているペットで人気を集めたぼくも相変わらず本当は卑怯で弱虫なだけだった。いい服を着ている、いい時計をしている、いい車に乗って有名な学校に通っている、両親が町では有名だったりする。そんなことと変わりない。
 ぼくは自分の領域を広げようとして、あの犬とともに不死である代わりに成長もできない存在になってしまった。でも今、あの犬との関わりを失ってからは、ぼくは何者でもない存在でいられる。ぼくは一気に歳をとることもできるし、またチャーリー・ブラウンである必要すらない。ぼくは弱虫で卑怯だったが、今や無責任であることすらできるのだ。
 だからチャーリーはもうあの犬の名前すら忘れ果てることにしました。すると、彼は自分が何者だったかも覚えていないのに気がつきました。それと同時にすべての記憶が失われ、かつてひとりの少年の人格だったものすらが崩れ、薄れてゆき、暗がりの中で明滅する点ほどの意識になり、それすらもほどなく遂には消滅していきました。
 次回最終回。


  (80)

 仔犬を飼っていいよ、とお父さんが言いました。えっ、本当にいいの!とライラは椅子から立ち上がりました。本当だよ、お母さんに訊いてごらん。ライラはすぐに台所に行こうとしましたが、ちょうどお母さんがお料理を運んできたところでした。お母さん、ねえとライラが言いかけると、お母さんはお父さんとライラの会話が聞こえていたらしく、いいわよ、と答えてにっこりしました。
 仔犬を飼ってもいいかどうかは、ライラには小学生になる前からの願いごとでした。幼稚園に通っていた時も仔犬を飼っている同級生がいて、ライラはうらやましくて仕方がありませんでした。その仔犬は道ばたに箱に入れられて捨てられていたのを、男の子に拾われてきたのです。はじめは家の中でうんちをする、お母さんのお気に入りドレスを食いちぎるなどかなりお行儀が悪い仔犬だったそうですが、ライラたちが知る頃には気弱ながらもかなり利口な仔犬になっていました。その頃には仔犬の方が男の子に苦労していたようですが、それでも飼い主の男の子は誰よりも大好きな様子で、お休みの日にライラが公園で男の子たちを見かけることがあると、仔犬はとても嬉しそうにボールを追いかけたりしていました。
 またこの仔犬はしっかり者で、散歩に連れて行ってもらえないとひとりで散歩に行ったり、エサをもらえないと商店街で一芸を披露して通行人に食べ物をもらったり、男の子やお母さんの代わりにおもちゃを片づけたり、洗濯物を取込んでくれたり、オクラの水やりをサボった男の子の代わりに水やりや虫や雨を防いだり陽の当たる場所に出したりして見事に育て上げたり、男の子の代わりにお使いに行ってちゃんとお買い物をしてきたり、お家の赤ちゃんのお世話をするなど人間なみの行動力がありました。また捨て犬や病気の捨て猫の面倒を見たり、猫が死んだ時は怒りのあまり元飼い主に吠えかかったり、自分とそっくりな犬を亡くした病弱な女性を慰めるという優しさも持ちあわせていて、自分をいじめたのら犬やのら猫とも仲良くなれました。
 その一面その仔犬は、かわいいメス犬を見つけるとナンパをしたり鼻の下を伸ばしたり、勝手に一人で散歩に出かけたり、家じゅうが慌てている時でも外でのんびり昼寝をするなど、マイペースな一面もありました。
 ……飼えるかい?うん、もう名前も決めてあるの、とライラは言いました。でもまだ誰にも言わないの。だれにも。
 おしまい。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』五部作・第三部予告

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 『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』

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(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2019年4月28~30日/オレクサンドル・ドヴジェンコ(1894-1956)の「ウクライナ三部作」

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 セルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948)、前回ご紹介したフセヴォロド・プドフキン(1893-1953)とともにサイレント時代のソヴィエト映画の3大巨匠監督と並び称されるオレクサンドル・ドヴジェンコ(Olexander Petrovych Dovzhenko, 1894-1956)ですが、首都モスクワを拠点にしていた前2者に対しドヴジェンコはウクライナ共和国出身でウクライナを拠点にウクライナを舞台にした映画を作った監督で、ウクライナは13世紀には建国されていた国家ですが18世紀には帝政ロシアの支配下に置かれ、第一次大戦後には内戦状態に陥り複数の対立政権が独立建国を宣言するもボルシェヴィキ革命によって再びロシア革命後のソヴィエト連邦統治下の地方国家となった国です。ウクライナは'91年のソヴィエト連邦解体後は東欧の独立国になっているように地理的にもソヴィエト連邦の最東にあり、西にハンガリーやポーランド、スロヴァニア、ルーマニア、モルドヴァに接し、北にベラルーシ、南は黒海を挟んでトルコが位置しており、言語もウクライナ語とロシア語が公用言語となっている、アジアで言えば台湾に近い立場の国で、台湾も正式名称は中華民国(いわゆる「中国」は中華人民共和国です)、毛沢東政権と蒋介石政権が対立し蒋介石政権が台湾半島で独立建国を宣言した国で、もともとの台湾人に対して中国の野党が支配者となった例です。ドヴジェンコは心臓疾患があったため第一次大戦、ウクライナ内戦~ボルシェヴィキ革命の兵役を逃れた人でしたが、監督デビューはエイゼンシュテインやプドフキンより遅れ'26年に短編2作、'27年に中編1作を経て'28年の『ズヴェニゴーラ』が初めての本格的長編になりました。翌年の『武器庫』'29までの作品はロシア語映画ですが第3長編『大地』'30は初のウクライナ語映画になり、ドヴジェンコはプドフキンの第2長編『聖ペテルブルグの最後』'28では編集を担当していますから首都モスクワの映画人とも交流がありましたが、監督作はウクライナのプロダクションで作っていた地方映画監督なので監督デビューも国内外での注目も遅れたわけです。しかし実験的ドキュメンタリー監督ジガ・ヴェルトフ(1896-1954)と較べてすらドヴジェンコの映像表現の実験は際立っていて、エイゼンシュテインやプドフキンの映画手法が次第にのちの世界各国の映画に取り入れられた普遍性があったのに対してドヴジェンコの映画はあまりにも技法とテーマの結びつきが謎めいていて、しかも実験的という言葉から連想される難解さや情感の欠如はなく、劇映画らしい人物造型やプロット、ストーリーも備えており、観る人の感覚を直撃する衝撃的な直截さとイメージの豊さがあります。『戦艦ポチョムキン』'25や『母』'26の代表的名作を持つエイゼンシュテインやプドフキンよりもすごいんじゃないかと思わせるのが前2者が天才的才能と直観からにせよ理詰めの合理性が感じられる仕上がりなのに、ドヴジェンコの映画には発想も仕上がりもどうなったらこんな映画になったのか想像もつかない突拍子のなさがあり、それが偶然や無茶苦茶でないのは1作ごとに見事な統一感があることからもわかる。ドヴジェンコの長編第1作~第3作はいずれも革命前夜のウクライナを舞台にしていることから「ウクライナ三部作」または「戦争三部作」と呼ばれますが内容的には戦争自体を全編のテーマとするのは第2長編『武器庫』だけなので「ウクライナ三部作」の呼び名の方がよく使われます。また第4長編『イワン』'32からドヴジェンコ作品はサウンド・トーキーになるのでこれはドヴジェンコのサイレント時代の長編3作の総称にもなります。ドヴジェンコより早く監督デビューしていたエイゼンシュテインやプドフキンがスターリン独裁化の前兆に危険視され始めていた時期にドヴジェンコが野心的な「ウクライナ三部作」を作れたのも中央政府がウクライナまで目が届かなかったからと思われますが、『ズヴェニゴーラ』『武器庫』『大地』とも鮮やかな仕上がりの傑作ながら同じ映画監督が3年連続で作ったとは思えないくらい作風の振幅が大きい。1作ごとの完成度が高い分なおのことこれは驚嘆させられるので、エイゼンシュテインなら尖鋭さでは第1長編『ストライキ』'24、完成度では第2長編『戦艦ポチョムキン』、壮大な規模や集大成観では第3長編『十月』'28(プドフキンの『母』『聖ペテルブルグの最後』『アジアの嵐』'29の3長編にも同じような区分ができるでしょう)という具合にはドヴジェンコの映画はどれを代表作とも決めがたい、まるで1作1作がその1作しか作品を残さなかった監督のような極めつきのものにも見えれば、次には何が出てくるかまったく予想もつかないのが「ウクライナ三部作」の時期のドヴジェンコだったとも言えます。戦前に『大地』1作、戦国は各種の文化会館上映しかされる機会のないドヴジェンコですが、「ウクライナ三部作」はサイレント時代の映画に輝く秘宝中の秘宝です。

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●4月28日(日)
『ズヴェニゴーラ』Zvenigora (Vse-Ukrains'ke Foto Kino Upravlinnia'28.Apr.13)*91min, B/W, Silent : https://youtu.be/pQ4HXgqEcqI (with English Subtitles) : 日本未公開(特殊上映)

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 ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」はどれも本当に不思議な映画で、まず『ズヴェニゴーラ』で意表を突かれるのはドヴジェンコにはリアリズム映画を作る気はこれっぽっちもないということです。まずロシア革命前夜のウクライナ自体が一般的な日本の映画観客には未知の世界ですが、一応社会常識程度の歴史知識があればロシア革命前夜のウクライナはこうだったのかと理解できるので特にウクライナの歴史についての知識は不要でもありますし、一応手頃に日本語版ウィキペディアなどでウクライナの歴史を復習しておくとなお入りやすいですが、まず農本主義経済の国ならではの文化というのはかつての日本もそうでしたから理解しやすい面がありますし、そこから生じる伝承文化や生活面での価値観、宗教性も何となく昔の日本みたいなもののウクライナ版なんだなと感じられる。しかし映像表現として日本的発想からはまず出てこないような映像手法が連発され、それも他の同時期のソヴィエト映画の技法とは発想そのものが異なるのが微妙に、しかしはっきりと表れているのがドヴジェンコの映画には感じられます。映画はタイトルとクレジットのあと、民族服らしい服装で明らかにこの時代ではない、ウクライナ民族の祖先らしき人々が馬に乗って森を抜けて出てくるのをスローモーションで延々映し出し、字幕タイトルで「ウクライナ民族に伝承されたズヴェニゴーラ山の古代スキタイ人の秘宝には300年もの間、代々ある一族の老人が見張りについていた」と森と野原を行き来する老人(ニコライ・ナデムスキ)の姿が映されます。本作がリアリズム映画ではないのは冒頭のスローモーションのウクライナ民族の始祖たちだけでなく、この老人が山賊たちに脅されてズヴェニゴーラの秘宝を探しに行きやはり秘宝探しに来て森の木の上に隠れている女たち(なぜ女たち?)を猟銃で撃ち落とし、この辺ですと地面を掘ろうとするとカンテラを提げた黒衣の僧の姿の悪魔が地下から階段を上がって出てきて山賊も老人も腰を抜かして怯える(迫ってくる悪魔の姿が画面全体にオーヴァーラップします)。悪魔がカンテラを投げつけると一面が爆煙に包まれます。字幕「1世紀もの間老人は秘宝を守ってきた。そして現在」若い乙女たちが池で蓮の葉にろうそくを浮かべて流します(遊び?灯籠流しのような風習?)。そのうち1枚の蓮の葉が向こう岸に流れ、秘宝の見張りの老人(前の場面と同じ年格好のままです)は蓮の葉の上のろうそくを吹き消すと、乙女たちの一人ロクサーナ(ポリーナ・スクリア=オターヴァ)が倒れてしまいます。どうやらロクサーナには巫女的な力があるらしいのです。老人は帰宅して居間に腰を下ろします。字幕「その息子パヴロ」青年パヴロ(オレクサンドル・ポドロニイ)はしゃぼん玉遊びをしています。字幕「もう一人の息子ティミーシュコ」ティミーシュコ(セミオン・スヴァシェンコ)は板を釘で工作しています。こういった調子で本作は12のエピソード(シークエンス)に分かれているのですが、老人、二人の息子、乙女ロクサーナはどうも同一人物(同一俳優が演じますが)を表すのではなくて、映画の進行につれて同一の性格の異なる役柄を演じることになる。一種の夢の手法で作られていて、例えば老人は山賊に脅されたりのちにはパヴロに預けるためだったりと何度も秘宝を取り出しますが金の杯はその都度粘土に変わって隠し場所を変えてしまう。かと思うとリアリズム映画の手法で描かれるシークエンスもあって、パヴロはブルジョワの手先になり父を何度も騙して秘宝を奪おうとしますが上手くいかない一方で、ティミーシュコは労働者になり、ロシアの十月革命の報を知ってウクライナ内戦のボルシェヴィキ革命闘士のリーダーになり、すがりつく恋人ロクサーナを棄てます。パヴロはボルシェヴィキの闘士たちの乗った汽車を妨害するため線路に爆弾を仕掛けますがロクサーナに知らされた老人はパヴロの計画を阻止しようとします。ブルジョワたちの集会で「ウクライナのプリンス」として反革命運動の報告を求められたパヴロは壇上で「紳士淑女の皆さま、話は以上です」と引責拳銃自殺しようとし、ブルジョワたちは期待の眼で喝采しますが、パヴロは自殺を果たせず退場し場内のブルジョワたちは責任者はどうなるとパニックを起こして騒然となります。ティミーシュコたちボルシェヴィキ革命の闘士たちの運動は弾圧に抵抗し、パヴロは最後まで父から秘宝を奪おうとしますが父が秘宝を宵闇の中の汽車の線路に置いたため汽車は止まり、パヴロの線路爆破計画も阻止されます。パヴロは「紳士淑女の皆さま、話は以上です」とピストルを取り出し、老人が汽車から降りてきたティミーシュコ、駆けつけたロクサーナと振り向くと草むらの上で自害したパヴロが果てています。
 ――ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」は逆順に『大地』『武器庫』『ズヴェニゴーラ』と'71年、'72年、'73年にソヴィエトで再上映プリントがレストアされましたが、そうなった理由もわからなくはないので、『ズヴェニゴーラ』はどこまでが夢でどこからがリアリズムなのか判然としない手法を使っているので、オーヴァーラップを多用した映像面ではフランス印象派映画のレルビエの『エル・ドラドウ』'21やエプスタンの『まごころ』'23や『三面鏡』'27、ルノワールの『水の娘』'24や『マッチ売りの少女』'28に近く、また労働者となった息子の働く工業風景はグルーネの『蠱惑の街』'23、ルットマンの『伯林=大都会交響楽』'27のようなドイツのポスト表現主義の即物主義映画に近い映像ですが(こうした場面ではソヴィエト国内のドキュメンタリー監督ジガ・ヴェルトフと近い指向もあります)、フランス印象派映画やドイツ即物主義映画と決定的に違うのは本作が夢の手法やセミ・ドキュメンタリー手法を混在させてまで民族革命の過程を描き出そうという筋を通している、その強烈な訴求力によります。セミ・ドキュメンタリー手法がさらに過激化して映像実験を突き詰める代わり夢の手法は排除されるのが次作『武器庫』なら、一転して実験臭のない穏やかな田園映画的リアリズムに徹底してさらにウクライナ民衆の心情に寄り添ったのが次々作『大地』なので、一般的には三部作の代表作は『大地』と目されることが多い一方で本作の異なる次元の映像表現を混在させる実験性、また本作とは異なり大胆な表現の抽象化によるセミ・ドキュメンタリー手法と話法の実験に挑んだ『武器庫』もまた高く評価されるので、エイゼンシュテインやプドフキン、またヴェルトフやバルネットでもいいですが、同時代のソヴィエト映画監督たちは作品ごとに段階を踏んだ発展や変化がたどれるのに対してドヴジェンコの三部作は1作ごとに垂直的に断絶している。普通の映画監督なら長編第1作の本作の発展から何本も映画を作っていくでしょうが、またそうした作風の発展は堅実で実りも多いのですが、ドヴジェンコという鬼才はそういう人ではなかったということです。また本作は、ドヴジェンコが後年第一線を退いて映画大学の教鞭を執ったその生徒からセルゲイ・パラジャーノフ(1924-1990)が巣立ったのもなるほどなあ、と思わせる作品でもあります。

●4月29日(月)
『武器庫』Arsenal (Vse-Ukrains'ke Foto Kino Upravlinnia'29.Feb.25)*92min, B/W, Silent : https://youtu.be/8WcJqHCL7do (with English Subtitles) : 日本未公開(特殊上映)

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 前作『ズヴェニゴーラ』の主要人物中ボルシェヴィキ革命闘士のリーダーになる青年の名前も同じでしたが、本作の主人公の青年ティミーシュも労働者からボルシェヴィキ革命のリーダーになります。演じているのは同じ青年俳優セミョーン・スヴァシェンコで、スヴァシェンコは次作『大地』でも主人公の青年ワシーリーを演じますから、「ウクライナ三部作」は監督が同じなのはもちろん主人公役の俳優も3作通して主演していることになります。また前作では二人の脚本家とドヴジェンコの共同脚本でしたが本作と次作はドヴジェンコの単独脚本で、撮影も前作のボリス・ザヴェレフから本作と次作はダニーロ・デムツキーに変わっている。デムツキーはウクライナ映画社のオデッサ撮影所の精鋭カメラマンで、素人が技術の世界にものを言うのもおこがましいですが、『ズヴェニゴーラ』に特に映像上の文句のつけどころもないのですが(多重露出は監督采配でしょうし)、『武器庫』と『大地』はそれぞれ性格のまるで違う映画ですし映像文体そのものが3作ともに違う(さらに『ズヴェニゴーラ』は意図的に異なる映像文体の混淆がある)ものの、デムツキー撮影の『武器庫』『大地』はショットの躍動感でも美しさでもサイレント時代の古典映画の名作の数々、それを担ってきた名カメラマンの業績でも最高水準で、ビリー・ビッツァーやカール・フロイント、ルドルフ・マテといった名手に並び立つ仕上がりです。また本作はイギリスのイギリスの映画史家のR・ディクソン・スミスがヨーエ・マイ(独)の『アスファルト』'29の世界初DVD化(英Eureka!社2005年)の解説ブックレットに寄せたエッセイ「ヨーエ・マイの『アスファルト』に見るウーファ映画社のスタイルとサイレント映画の終わり」で、映画のトーキー化ぎりぎりの時期のサイレント映画の円熟を代表する作品に、ムルナウの『サンライズ』'27(米)、ルットマンの『伯林=大都会交響楽』'27(独)、キング・ヴィダーの『群衆』'28(米)、ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』'28(仏)、パウル・レニの『笑ふ男』'28(米)、スタンバーグの『紐育の波止場』'28(米)、シェストレムの『風』'28(米)、マルコ・ド・ガスティーヌの『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』'29(仏)、E・A・デュポンの『ピカデリー』'29(英)、G・W・パプストの『パンドラの箱』'29(独)、アレクサンドル・ドヴジェンコの『武器庫』'29(ソ連)、ハンス・シュヴァルツの『ニーナ・ペトロヴナ』'29(ソ連)、アンソニー・アスキスの『ダートムーアのコテージ』'29(英)、アーノルド・ファンク=G・W・パプストの『死の銀嶺』'29(独)を上げ、『アスファルト』をそれらに並ぶ作品としています。フランス映画ではアベル・ガンスの『ナポレオン』'27やマルセル・レルビエの『金』'28、ジャン・エプスタンの『アッシャー家の末裔』'28を落としてド・ガスティーヌを入れているのは好みかと思いますし、アメリカ映画5作のうち生粋のアメリカ出身監督の作品が『群衆』『紐育の波止場』の2作というのはシュトロハイムの『結婚行進曲』'27、『キートンの蒸気船』'28、ウェルマンの『人生の乞食』'28あたりをとも思いますが(『サンライズ』『笑ふ男』『風』もハリウッドに招かれたヨーロッパ監督の大傑作ですが)筆者も上記作品中ド・ガスティーヌ、シュヴァルツ(戦前日本公開あり)、アスキス作品は未見ながら、まず妥当なリストでしょう。またこうして多彩な作品と並べてみるとプドフキンの『聖ペテルブルグの最後』やエイゼンシュテインの『十月』ではなくドヴジェンコの三部作から、しかも『武器庫』を採った見識も見えてくる。それほど『武器庫』は主人公の運命を中心としてシンプルなプロットを語り切る話法そのものが『ズヴェニゴーラ』とも『大地』とも、もちろん一般の劇映画とも断絶した実験がある。明確なプロットは存在するのに通常の劇映画のような物語話法でなくモンタージュが物語を形成していくので普通ストーリーと呼ばれるような要素は限りなく稀薄でセミ・ドキュメンタリー手法の場面の連続があるだけにもかかわらず、帝政ウクライナのキエフ武器庫での1918年の蜂起と革命軍鎮圧に向けてのウクライナじゅうの人民の悲劇が主人公ティーミッシュの運命を軸として展開していく。本作は戦争(内戦)映画ですが、それよりも小国の現代史の悲劇そのものを巨視的に、しかも極度に圧縮してとらえた壮大な歴史映画なので、90分ほどの中に描かれた内容の重量はガンスの『ナポレオン』'27(332分)、ジャック・リヴェットの『アウト1』'71(775分)、ベルトルッチの『1900年』'76(317分)、ジーバーベルグの『ヒトラーまたはドイツ映画』'77(442分)、ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』'82(312分)といった映画史上の5時間~12時間あまりもある怪物的大作に匹敵するか、それ以上のものにすらなっている。本作は観る人の胸を張り裂けるような苛烈な映像、しかも美しさを突き詰めた映像にあふれているので、鮮烈なイメージがストーリーを圧倒して物語性はほとんど古典悲劇的な運命譚(しかし20世紀までには起こり得なかった新たな悲劇性)のプロットだけに収斂しますが、決して散漫にならないのは物語性に負わない集中的なプロットの構築にモンタージュの連結によって大成功しているからで、これは話法の強化のためにモンタージュを駆使したエイゼンシュテインやプドフキンからさらに進めて話法を解体してしまったジガ・ヴェルトフの実験的ドキュメンタリーに近い。しかしドヴジェンコは劇映画なので話法の解体をプロットの強化に結びつける発想があり、西欧映画で同様の発想が一般化するのは'50年代末のヌーヴェル・ヴァーグ以降のことです(それまではドライヤー、ルノワール、ロッセリーニ、ブレッソンら孤立した監督の作品に現れるだけでした)。また本作は'29年当時おそらく西洋・東洋文化圏問わずどの国でも残虐にすぎる、悲惨すぎると映像化が許されなかっただろうリアルな残虐描写がドキュメンタリー手法によって大胆に描かれ、旧帝政批判を旨とするソヴィエト政権支配下のウクライナ映画としてもよくこれほどの残虐な映像が検閲を通ったものです。本作は帝政下のウクライナの農民の貧困を物語るエピソード、次いで第一次世界大戦の最後の数か月の事件から、主人公ティーミッシュを視点とする労働運動の革命過程が描かれていきます。キエフの武器庫でのボルシェビキ革命軍を手助けすることになっていた蜂起は、中央ラダ政権の軍隊によって壊滅して終わります。その後ウクライナのボルシェヴィキ闘士たちはソヴィエトのボルシェヴィキ政府と団結して帝政を打倒し、代わりにソヴィエト支配下の地方国ウクライナ共和国になるのですが、おそらくドヴジェンコは結局はウクライナの自主独立が成立しなかった現実までもを描いたらそれがソヴィエト政権支配下に委ねたウクライナの挫折であり妥協であると指摘せずにはいられない民族的自覚があった。そこで旧帝政ウクライナの悲惨と残虐を描きつくすまでで本作をまとめたものと思われます。
 ――本作は荒野に立つ喪服の寡婦の美しく悲しい映像から始まります。字幕「彼女は3人の息子を戦争に送った」。前線の塹壕で兵士たちが銃を構える様子の移動ショット。字幕「彼女は3人の息子を戦場で失った」。荒野でしゃがみこむ喪服の寡婦の姿。ドイツ軍将校の執務室に切り替わり、将校は日記帳を開いて満足げに書きます。日記帳「今日はカラスを撃った。良い1日だった」。荒野に倒れている喪服の寡婦の死体。次に農家の主婦が家の中で訴えかける二人の幼児に服を引っ張られといる姿が映ります。荒野で馬を連れた農夫が映り、旅仕度らしい姿から妻子を捨てて家出してきたとわかります。猛然と鞭打つ農夫。猛然と鞭打つ主婦の姿がクロスカッティングされ、農夫は疲れて倒れこみます。馬が農夫から離れて数歩歩いて止まります。泣きじゃくる幼児の姿。立ちすくむ馬の姿。冒頭の最初の2つのシークエンスは固定ショットの美しい映像なのですが、美しくまた寡黙なだけに第一次大戦下の農村国ウクライナ民衆の悲惨が胸が裂けるほど迫ってきます。映画は第一次大戦の様子をしばらく追い、やがて大戦後に主人公ティーミッシュが労働運動と国内状勢のさらなる帝政の強化からボルシェヴィキ革命を目指す闘士のリーダーとなるまでを無数の登場人物とエピソードを通して描きますが、キエフの武器庫での籠城戦が鎮圧されるまではこの映画は激しい移動ショットか、対象物もカメラも急速に移動しているショットの連続で、固定ショットも稀に出てきますが極端に短いショットのモンタージュの連続です。ティーミッシュという主人公が軸となってはいるといえ通常の視点人物の交替という話法が完全に解体されているのはこの激しく躍動的な映像文体ゆえで、にもかかわらず内戦革命の行方というプロットからは映像は外れないので実験的ドキュメンタリーに近い手法ではあっても劇映画になっている。冒頭の2つのシークエンスとクライマックスの2つのシークエンスが静的な映像に激情的な感情を託しているとすれば映画の大半を占める中間部は映像そのものが激動的で、フランスの印象主義映画、ドイツのポスト表現主義即物主義映画をしのいでいるのは内容そのものがこの実験的映像手法に拮抗しているからです。クライマックスでは武器庫の革命軍は叛乱を鎮圧されて、長い処刑の場面が続きます。ここから先は冒頭同様映像は固定ショットのみに戻り、磨き抜かれた美しくそれだけに悲痛な構図とじっくりしたモンタージュによる映像文体に回帰します。壁に一人ずつ引き出された闘士たちが帝政軍の民兵長官によって淡々と次々に機械的に射殺されていき、この軍服でも何でもないスーツ姿の長官が最初は射殺される壁の闘士たちとクロスカッティング、さらには闘士たちの姿は映されもせず長官が撃っては休み、撃っては休みと長官のバストアップだけの映像になっていくのは革命軍の闘士たちの処刑が単なる作業でしかない様子に転化していく衝撃力があり、やがてあと数人というところで叫ぶ主婦の映像と字幕「私の夫はどこに?」射殺されて崩れ落ちる中年労働者闘士、叫ぶ若い女の映像と字幕「私の恋人はどこに?」射殺されて崩れ落ちる青年労働者闘士、叫ぶ老人と字幕「私の息子はどこに?」射殺されて崩れ落ちる学生闘士、と処刑場面は終わり、最後まで武器庫で抗戦を続けていた主人公ティーミッシュがついに帝政軍兵士たちに包囲され追いつめられる最後のシークエンスを迎えます。革命軍リーダーのティーミッシュを撃とうとして兵士たちはティーミッシュに気圧されて銃身が震え、先頭に立って撃つのは誰か決断できず弱腰になってしまいます。ティーミッシュは兵士たちを一喝しますが兵士たちは顔を見合わせて困惑してしまい、ティーミッシュはさらにシャツの胸を開いて裸の胸板をさらすと兵士たちを挑発し、映画は突然そこでエンドマークが打たれます。本作は途方もない傑作でサイレント映画の究極的完成を極めたものとして『サンライズ』や『裁かるゝジャンヌ』と同等か、それ以上に映画史上に屹立している、今なお新しい作品です。先に指摘した通り'29年当時本作ほど内戦下の状況の描写とはいえリアリズム映画で人間性の喪失した残虐描写を描いた映画は西欧・東洋文化圏のいずれでもタブーだったでしょうし、本作は悲惨な史実を悲惨なまま、しかも美しい映像文体で描いていることで普遍的な真実性に迫っている点でも20世紀の悲劇を、古典悲劇に匹敵する根源的な人間の運命にまで高めてとらえた不朽の作品足りうる風格がある。ドヴジェンコの三部作は相当映画を観ている人はもちろん古今のどんな映画人でも志しの高さ、映画の格調高さと斬新さ・美しさで惰性的かつ平俗的な映画感性を恥じいらせる作品ですが、あまりの孤高さゆえに観る人を途方に暮れさせるところもあって、観たことのある人ですらついついドヴジェンコ作品は映画史上の例外的作品のようにあまり話題にしない、別格扱いしてしまうような性格がある。つまり言葉を失ってしまう。『武器庫』はそういうドヴジェンコ作品のもっとも尖った側面の出た映画だけに、さらに今後の再評価が待たれる1作とも言えるでしょう。

●4月30日(火)
『大地』Zemlya (Vse-Ukrains'ke Foto Kino Upravlinnia'30.Apr.8)*78min, B/W, Silent : https://youtu.be/A-E57eyjoao (with English Subtitles) : 日本公開昭和6年7月

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 ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」中もっとも広く観られ、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』やプドフキンの『母』に匹敵するサイレント時代のソヴィエト映画の最高峰とされている公然の名作の評価を得ているのがこの『大地』です。三部作でも『ズヴェニゴーラ』『武器庫』はロシア語字幕でしたが本作はウクライナの農村と農民の話なのでオリジナル版はウクライナ語版が作られ、ロシア全土公開版はロシア語版に字幕が差し替えられましたが、'71年の再公開レストア版に当たって再びオリジナル版に復原され、輸入盤(イギリス盤)DVDなどではウクライナ語の台詞は英語字幕がつくが帝政ウクライナ官僚の使うロシア語の台詞は英語字幕がつかない(つまりウクライナ農民視点では支配層は外国語をしゃべっている)処理がなされており、字幕がつかなくても帝政ウクライナ官僚が高圧的な命令を発しているのは映像で見当がつくのでドヴジェンコの意図をくんだ処理だと思います。本作は『ズヴェニゴーラ』でも『武器庫』でも見られた、固定ショットのみによる静謐で美しい映像と落ち着いたモンタージュで全編が統一され、前2作では映像文体の意図的な混淆でこの映像文体は対比的に用いられていたのに対して本作は映像文体の統一によってリアリズム映画としての劇映画らしさが一貫しているので、観やすさ・親しみやすさでも三部作中群を抜いています。また映画冒頭やエンディングのシークエンスでじっくりと映される田園の自然描写の美しさは神秘性すら感じさせる輝かしいもので、これに匹敵する現代映画というとのちのヴィクトル・エリセのスペイン映画『ミツバチのささやき』'73や『エル・スール』'83くらいではないかと思わせられます。三部作の前2作が実験的手法・政治的性格からもいかにもアヴァンギャルド映画らしい作風(2作はそれぞれ異なる指向性の実験性も大きな特徴でしたが)だったので、サイレント時代のソヴィエト映画の名作として『大地』からドヴジェンコに入るのは観やすさや率直な感動からはいいですが、ドヴジェンコは素朴な社会主義リアリズムの映画監督なんだな、と了解して他の作品も似たようなものなのだろうとたかをくくってしまいかねないような難がある。『ズヴェニゴーラ』『武器庫』とタイトルだけでも『大地』のような農本主義的自然讃美の素朴リアリズム映画監督とは思えないのですが、日本盤の映像ソフトも出ていなければ上映の機会もめったにないので、ドヴジェンコがどんな監督で『ズヴェニゴーラ』『武器庫』がどれほどとんでもない映画かあまり日本では知られていないし、実はYouTubeで手軽に観られるといってもあまり食指がのびる人はいないでしょう。文化会館類で稀に上映されたとしてもそれなりに映画好きの友人を誘っても「ソヴィエトのサイレント映画?」で一蹴されてしまいかねない。「ウクライナ三部作」の輸入盤DVDは3枚組で1,500円の廉価版で入手できますし買えば一生もののお宝ですが、よほどのサイレント映画マニアでなければ手を出さないでしょうし、しかしこれが限定部数の日本盤発売されれば廃盤即数万円単位の高プレミアになるだろう逸品と思うと、この紹介がドヴジェンコ「ウクライナ三部作」へのご案内になれば幸いです。さて『大地』は戦前日本公開された数少ないソヴィエト映画でもあり、それは直接ロシア革命を題材にしていないからでもありますが、『戦艦ポチョムキン』や『母』が1905年の民衆蜂起とその弾圧を描いて帝政ロシア打倒の正当性を主張した映画だったように本作『大地』もモデルになった1906年のウクライナの農村開拓事件があり、帝政ウクライナ政権下の農民たちの農業改革運動とそれをめぐるブルジョワ豪農層との対立を描いています。農民たちの間から自然に起こった労働団結運動が描かれているので本作も『戦艦ポチョムキン』や『母』のように税関で検閲を通らず日本未公開、という可能性もあったでしょうが、主題が農本主義的なものだったため「赤色革命」的な危険性はないとされ、また本作では殺人事件が起こり、クライマックスの葬送では全裸でベッドに身を投げ出し乱れ悲しむヒロインの姿が現行ヴァージョンでは乳房や乳首まではっきり映りますし、労働運動リーダーの葬儀は遺族の意志によってウクライナ共産党の主催で無宗教主義で行われますが、多少まずい場面は戦前の日本公開ではカットされたと思われる。戦前の日本の映画検閲は相当に厳重で、時代劇の剣戟映画でも検閲によるカット率は多い場合原盤の30%あまりにおよんだそうですし、アメリカ映画やヨーロッパ映画でも猥褻・暴力・反社会的描写は遠慮会釈なくカットされましたから、今日観られるヴァージョンがそのまま戦前日本公開された場合の方が少ないと考えた方がよさそうです。それでも本作の日本の戦前初公開は貴重なので、幾分修正して(修正箇所はあとで言及)日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ]「兵器庫」「スヴェニゴラー」の製作として知られているアレクサンドル・ドヴジェンコが自ら脚色し、監督に当った映画で、撮影はダニー・デムツキーが受持ち、L・ボディック、U・ソルンツェワ両人がアシスタントとしてドブジェンコを助けている。農場の協同化の勝利を主題としたウクライナ・キエフ撮影所作品である。無声。
[ あらすじ ] ソビエト・ウクライナの農村。実った穀物が風に波を見せて動き、向日葵の大輪が咲いている。林檎は水々しい淡紅色の顔を枝の繁みから窺わせ農場は見渡すかぎりの豊作である。一人の老人ペーテル(ミコラ・ナディムスキー)がこの農場の片隅、果樹の樹陰に横っていた。彼は七十五年の鍬と鋤の生活から今や永遠の眠りに就こうとしているのだ。老人は林檎を噛った。だがその老顔に微笑が浮んだと思った瞬間彼の体は忽ちがくりと崩れた。死!併し彼のあとには甥オパナス(ステバン・ジュクラート)夫婦がいる。それに孫の若者ワシーリー(セミョーン・スヴァシェンコ)がいる。ワシーリーはソビエトの国策たる農場協同化の先頭に立って、働く若者だ。農場にはトラクターが是非とも必要だ。そこでワシリー達はトラクターを村に使用することにきめる。今日はそれが村に着く日である。が、その機械の来るのを喜ばない奴が村にもいた。富農の息子コーマ(ペートロ・マソカ)だ。彼等は共同耕作を拒んで飽くまでも個人的利益を主張した。このソビエトの害虫の行為に憤激した一人の農民は富農の馬をやっつけようとまでする。俄かに村に人が集まった。そして何かを見張る。遠い地平線、曲折しこ道の彼方にトラクターが現われたのだ。群衆は一斉にそこへ突っ走ると機械はどういうわけか突然止まった。コーマの顔に冷笑が浮かぶ。農民は必死となって機械を押そうとする。原因が知れた。水がないからだ。そこで隣村から水が持って来られる。再びトラクターの行進。村に歓声があがる。トラクターが村の仕事を昂め出した。ワシーリー等の努力が酬いられた。だが或る夜ワシーリーは恋人ナターリャ(ユーリア・ソーンツェワ)の許をたずねて間もなく何者かに殺される。彼の家の戸口に村の僧侶が訪れるが、若きコムミュニスト、村のソビエトの指導者の体が彼等の手に委せられるが。ワシーリーの叔父は甥の葬いをソビエトの委員等に頼んだ。農民達は胸に若い指導者のための復讐を誓うため集まった。棺は彼等の歌声につつまれながら墓地に運ばれていく。この時、野原を走って来る者がある。富農コーマだ。働く農民はみな葬列に参加してしまったのだ。富農に今更何の用がある。遂いに富農は屈した。おれが殺したのだと喘ぐように叫んで彼は農民達の前に告白し哀訴する。だが農民は新しい生活に関する指導者の言葉に傾聴している。やがて雨が降ってきた。そしてそれは一滴ごとに果実や樹々や穀物を銀鼠色に濡らして行く。それはとりも直さず前進するソビエト農村の姿なのだ。
 ――キネマ旬報の紹介で修正した箇所は人名と姻戚関係で、これは日本公開がアメリカ公開ヴァージョンのフィルム経由だったことで生じたものと思われます。つまりアメリカ公開ヴァージョンで字幕の差し替えやカットが行われたものが日本公開ではさらにカットされた可能性があるとも、アメリカ公開ヴァージョンの時点でロシア特有のコルホーズ農業労働運動色は柔らげられていたとも考えられる。キネマ旬報の紹介ではオパネスは人名は上げられずペーテル老人の甥ではなく息子夫婦となっており、よって主人公は老人の孫なのはオリジナル版通りですが夫婦の息子ということにもなっている。主人公ワシーリーの名前はキネマ旬報ではヴァージル、恋人ナターリャはナタリーであり、また主人公に嫉妬する豪農の息子コーマはクラークという姓で、いずれもアメリカ版でつけられた名前でしょう。サイレント時代のヨーロッパ映画同様おそらく字幕タイトルそのものが英語タイトルに差し替えられた版での公開立ったと思われ、それを言えば一部のフランス映画、ドイツ映画を除いてサイレント時代の外国映画は一旦アメリカ公開版を経てから英語映画として日本公開されたのです。本作はドヴジェンコの長編映画第3作でサイレント作品としては最後の作品になり、次作『イヴァン』'32からはサウンド・トーキー作品になりましたが、同作が第2回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を獲得したのも『大地』の国際的な大好評による振り替え受賞の意味が大きかったのではないかと思われ、イタリアを始めとするラテン諸国は農業国でもありますから20世紀初頭のトラクター導入による農業改革を描いた『大地』は普遍的なテーマを備えており、本作はソヴィエト本国でも(やや「反革命的」という留保つきながら、コルホーズ運動映画としての条件は満たしているとして)絶讃されればアメリカやヨーロッパ諸国でも絶讃される、農業国とは言えないイギリスやドイツでも映像美の高さで絶讃されると、まあ世界各国都合の悪いところはカットしたり字幕タイトルを差し替えたりしたでしょうが、農業改革映画の名作、しかも村いちばんの美女を恋人に持つ農業改革リーダーに対する豪農の息子の嫉妬が殺人事件がらみの犯罪メロドラマ展開もするという適度な艶っぼさと下世話さ込みで端正で格調高い映像美の素晴らしさ、共感しやすいキャラクターの配置と人間性の的確な描出、それらすべてを包みこむ神秘性さえ感じさせる農村の自然美とつけ入る隙すらない仕上がりで、「ウクライナ三部作」3作を通して観ると露骨な実験性があえて抑制されている点で異色の作品です。それにはエイゼンシュテインやプドフキンら中央政府モスクワの映画監督らが'29年には映画省に干渉されるようになったのが、ウクライナ共和国のドヴジェンコにも警戒がおよんだからかもしれません。しかし一方、劇映画としての構成では物語性の強さを異なる映像文体に振り分けた『ズヴェニゴーラ』、話法の解体を目指した『武器庫』に較べても本作はストレートなセミ・ドキュメンタリー作品=劇映画による実話の再現と見まがうほどドラマ性が稀薄な作品であり、農業改革と変わりゆく農村の姿の描出が大半を占めています。『ズヴェニゴーラ』『武器庫』とは違ったかたちでの話法の解体、一見オーソドックスなリアリズム映画のなりをしてハリウッド映画流の作劇術や映画技法からは決して出てこない、クライマックスぎりぎりになってからしかドラマティックな展開が起こらない大胆な映画作りをしているのに気づく。ゴダールの「ソヴィエト映画は技法の本質はハリウッド映画と同じではないか」という指摘はエイゼンシュテインやプドフキンには当てはまっても「ウクライナ三部作」のドヴジェンコには当てはまらない。丹念なフィックス・ショットによる穏やかなモンタージュ、と『武器庫』とは正反対な行き方で『大地』を作ってもハリウッド映画と似たものにはならない。サイレント時代のアメリカ映画にも田園映画の系譜がありますが基調は自然を背景にしたロマンス映画であって、ドヴジェンコは本作についてはっきりと物語に主眼はない、と言い切っています。ウクライナ三部作は主演俳優も同じセミョーン・スヴァシェンコが起用されていますし、三部作がせめぎ合ってドヴジェンコの描きたかった映画が実現されていると見るべきでしょうし、完成度も3作ともがずば抜けた仕上がりです。それだけに何度観てもまだ映画監督ドヴジェンコの真価は底が知れない気がしてくるのです。

集成版『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』第一章

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 第一章。
 まったくあの女ったら!とミッフィーちゃんはアイスピックをふるいながらバーバラにこぼしました。あいつらなんかみんな私たちの商売を真似てるだけじゃないの。おかげでうちの店も閑古鳥つづきじゃ、上がったりもいいところだわ。ねえアギー?とミッフィーは親友にふりました。そうねナインチェ、とアギーはおろおろして答えました。ミッフィーはナインチェと呼ばないと怒るのですが、アギーをアーヒェとは呼ばないのです。もっとも仕事場では別で、ナインチェはミッフィーですしアーヒェはアギー、バーバラも本名はバルバラと言いました。これをいわゆる源氏名と言います。
 いや、より正しくはコードネームと言うべきでしょう。以前はともかく、現在の彼女たちは公務員、さらに言えば軍務に服しているのですから。そこにのれんをかき分けて、ウインとメラニーもやってきました。やれやれ、安月給でもお給料が安定しているのはいいけれど、タイムカードにはどうも慣れないわね。順番に決めて誰かが全員分を押すことにしない?だめよ、掌紋認証つきカードなのよ。あ、そうか、と5人の少女たちは笑いました。実はこの話題は毎日誰かが口にするのですが、うさぎなのですぐ忘れてしまうのです。バーバラだけはくまでしたが、友だちが全員うさぎなので本人もくまなのを忘れていました。ちなみにウインの本名はウィレマインといいましたが、これでは誰でも縮めて呼びたくなります。
 男なんて少しでも若い子になびきやがって、とまだミッフィーちゃんは愚痴っていました。そお?あの子いくつだっけ?とメラニーはさっさと着替えながら訊きました。さあ、1974年生まれっていうけど、と代わりにアギーが答えました。てことはアラフォーね、それであんたは?1955年生まれの5歳、とミッフィー。そのわりには老けてるわね、とメラニーがからかうと(ナインチェをからかえるのはペンフレンドだった頃の恥ずかしい手紙を握っているメラニーことニナだけなのです)、ミッフィーの×の口が*になりました。
 しかし怒りを親友にぶつけるのは八つ当たりと自制するくらいの理性はミッフィーちゃんにもありました。あのメスねこ!どうにかできないかしらねえ!萌えの元祖はこっちじゃない?とミッフィーちゃんは殴り込みにでも行きかねない様子です。まあ戦争は兵隊さんたちに任せて、とメラニーがなだめました、ほっとこうよ、ハローキティたちなんかさ。


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 決めた、とミッフィーちゃんは唐突に言いました。こんなに不入りじゃ全員お店に出ていなくていいでしょ、交代であいつらのお店を偵察してこない?うさぎの思いつきですから彼女自身、深い考えがあっての提案ではありませんでしたが、この発案は全員を震撼させました。大胆なメラニーはフッと笑い、気弱なアギーはぶるぶると震え、のん気なバーバラは目をぱちくりし、クールなウインは無表情でした。
 ミッフィーちゃん本人はといえば、言いだした本人が真っ先に忘れてしまうのがうさぎの井戸端会議です。すでに考えは今日のお仕事は網タイツでも履いてみようかしら、それとも店のみんなでバニーガールの服でも着てみようかな、と衣装選びに思いをめぐらせていました。うさぎ(バーバラはくまですが)のバニーガール!でも向こうの店ではねこの店のくせにネコ耳をつけて接客しているとも聞いています。だったら自分たちのバニー姿もまんざら試さない価値はないとも言えません。
 バニーガールもいいね、そのうちね、とメラニーが冷静に受け答えしたので、とっくにてんでばらばらのことを考えていた少女たちは、一瞬きつねにつままれました。どうして、とウイン。ナインチェの思いつきもいいけどね、とメラニー、一応私たちも軍務じゃない?こういうのは上に通しておかないと。それに勤務中に急場でもないのに持ち場を離れると、バレたら軍規違反なるかもよ。やるなら合法的かつ計画的にやらなきゃ。
 それじゃ抜き打ち偵察にならないじゃない?とウインがミッフィーに代わって(口先はミッフィーは拙いのです)訊きました。私たちが事前に届け出していたら、業種も管轄も同じなんだからバレバレよ。
 あの、とおずおずとアギーが言いました、自然ならいいのよね。そうねえ、とメラニー。なら非番の日に、バーバラにボリスと見に行ってもらうのはどうかしら。私たちで彼氏がいるのはバーバラだけだし。
 あたし?とバーバラ。あんなねこ臭いお店、気乗りしないなあ。ボリスはうすのろだから、ボラれてもヘロヘロしているでしょうけど。行くのはいいわよ、でも時間給出してね。それで何を見てくればいいの?
 商売繁盛の秘訣、それと重要なのは客層ね。このままじゃうちの店は先細りになる一方よ。うちの客が向こうに流れたのか、客層そのものが全然違うのか。マーケットリサーチしてきてほしいのよ。
 ……無駄じゃないかなあ、とバーバラは思いました。


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 ハローキティのお店はジョイ・ディヴィジョン(慰安特区)♯2でした。なぜ♯2かというと、先にミッフィーちゃんのお店があったからです。現状ではこの戦地は平穏でしたが、協定通りの境界を挟んだ両側には当然ながら民間人も昔から住みついており、国境を越えた商取引は今さら取り締まるすべもないようなものでした。国境付近に住む民間人にとって国境線とは、町々を勝手に東西または南北に分断しているただの行政区分にしかすぎず、元来この地域の住民は民族的にも文化的にも同一のコミュニティに属していたのです。
 終戦からもう半世紀以上が経ち、それまではたらい回しのように植民地とされていたこの領土は新たな移民が極端に制限されるようになったため、事実上侵略戦争の時代よりも以前の、素朴な単一民族国家の姿を回復していました。独立国化を目指す動きもなかったわけではありません。それが実現しなかったのは、この地域が半分ずつ異なる大国の管理下に戦後の復興をなし、別々の行政機関を持ち、統一の動きがあれば両陣営を牛耳る大国から戒厳令が敷かれて臨戦態勢に入ってしまうからでした。
 必ずしもこの領土はは両大国にとって軍事的な重要拠点ではなく、先の大戦で属国問題が生じるまではただの辺境の植民地にすぎなかったのです。ですが植民地制が崩壊し、隣接国と併合される段になってまったく異なる政治体制の国に分断されたため、国際的な政治機関からも当事者間の課題として棚上げにされたままなのでした。ミッフィーちゃんたちが慰安特区♯1にスカウトされたのはまさに政治的対立が激化しつつある頃で、皮肉にも臨戦態勢が長引く間に本国の経済成長は目覚ましく、民間での遊興が禁じられている駐屯地在住の兵卒相手にミッフィーちゃんの店は大繁盛しました。
 全世界的にエネルギー資源の価格高騰で恐慌があった74年に、駐屯地の規模はかえって強化されました。局地的開戦の危機が高まったからでもあり、そこで♯2たるハローキティのお店がミッフィーちゃんの縄張りに堂々と開設されたのです。老舗のミッフィーちゃんのお店は古株の将校たちには贔屓にされていましたが、平均2年で兵役を済ます兵卒たちがキティちゃんのお店に流れているのは明らかでした。
 だから、とミッフィーちゃんはいきり立ちました、このまま新顔にでかい顔されちゃ私たちの面目丸つぶれじゃない?ここら辺で何とかしないと、先が危ないわよ!


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 突拍子もないミッフィーちゃんの提案にアギーもバーバラもウインもメラニーも黙っていましたが、別に無視を決め込んでいたのではなく本来無口なのがうさぎの性質だったからでした。植物は話しかけるとよく育つ、と言われますが、うさぎほどの高等生物になると今さら何事にも動じないのです。だからといって感受性に乏しいわけではなく、嘆き悲しむ人びとの声が右の耳から入ってくれば、それはそのまま左の耳から抜けて行くのでした。だってうさぎの耳は長いんだもの。
 それにこの話題はたぶん730回くらい繰り返してきたはずだし、とアギーは365日を2倍にかけ算して推定してみました。その倍はあったんじゃない?とメラニー。そうか、なら1460回、でも4年ならうるう年もあるし、と計算したところで、アギーはメラニーに頭の中を読まないでよ、と抗議しなければと気づきました。でもメラニーはいけしゃあしゃあとした顔で、頭の中なんか読まないわよ、というだけなのもわかっています。褐色の毛色のメラニーは南の国からやってきた少女で、あらかじめミッフィーとペンフレンドになり、ミッフィーの仲介でアギーやウインやバーバラとも手紙のやりとりをして、一家をあげて移住してきた時にはもう友だちを作ってあるという用意周到な性格でした。しかもメラニーの手元には全員の黒歴史が直筆の手紙で握られているのです。
 だからメラニーは全員のキャラクターを把握しつくしていましたし、誰が何をどう考えているか、または何も考えていないかなどは手に取るようなものでした。またメラニーはうさぎらしからぬ驚異的な記憶力をそなえており、体内電波時計とでも言うべき絶対的な時刻感覚の持ち主でした。メラニーがあの時計、1分23秒進んでいるわよ、と言えば本当に時計は1分23秒進んでいるのです。
 そして、いつもならミッフィーの提案はみんなが黙っているうちに何となくうやむやになってしまうのですが、初めて自発的な意見が他ならぬメラニーから出たので、アギーたちは椅子から転げ落ちそうになりました。
 私は反対よ、とメラニーははっきり言いました。なら偵察以外に何があるの?とムッとするミッフィーに、メラニーはきっぱり言いました。偵察なんて手温いわ、確実にダメージを与えて潰す、それしかないじゃない。みんなもそう思っているんでしょう?ここは戦場よ。
 これは魔法の言葉でした。うさぎたちは戦慄しました。


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 うーん、とミッフィーちゃんはにやりと笑いました、金の臭いがプンプンするぜ。彼女の唐突な発言は今に始まったことではありませんが、例によって大胆なメラニーはフッと笑い、気弱なアギーはぶるぶると震え、のん気なバーバラは目をぱちくりし、クールなウインは無表情でした。うさぎたちは基本的にはみんな色白でしたが(南国生まれのメラニーと本当はくまのバーバラ以外は)、色白だからといって心まで白いとは限りません。口の悪いメラニーなどは色黒ながら気性はさっぱりした方でした。実はみんなが気づいているのは、ミッフィーの外見に似合わない腹黒さでもありました。
 そんなにハローキティの店の繁盛ぶりが気になるのかなあ、とみんなはキティちゃんの機嫌を測りそこねるものがありました。アギーやメラニーたちにとっては、お客さんが盛況よりもそこそこやっていければいいので、多少のチップはありますが軍務ですからお給料は繁盛していようがヒマだろうが大差ないのです。しかしこのディヴィジョンではミッフィーが名目上指揮官なので、彼女にとっては面子のかかった事態なのだろう、と推測できる程度のことではありました。でもお店の流行りすたりなんて運じゃない?と、ここで冒頭のミッフィーちゃんの唐突な発言が飛び出てきたのでした。大胆なメラニーはフッと笑い、気弱なアギーはぶるぶると震え、のん気なバーバラは目をぱちくりし、クールなウインは無表情でした。
 運は自分でつかんでこそ実力と言いますが、運の中でも実力だけでは測れないのが金運と異性運というものです。運とは成功と幸福を意味するならば、お金や異性関係に富んでいることが単純に幸運と言えるでしょうか?じゃんじゃんウハウハとお金がもうかり、よりどりみどりにもてまくるのも悪い気持はしないものですが、金と性の過剰は精神的な荒廃と常に隣り合わせにあります。
 あんた何か言った?とメラニーはみんなを順ぐりに見つめました。どうしたの、とアギー。誰かいま、説教臭いこと考えてなかった?バーバラはぽかんとした表情で、ウインはいつも通り顔色ひとつ変えず、べつに、と言いました。この女けっこうくせ者だわ、私に説教臭いことを吹き込んでミッフィーをたしなめさせる算段だったに違いない。
 その手は食わないわよ、とメラニーは身構えました。自分自身が信じてもいないことを考えられる二重思考ができるのは、メラニーとウインだけでした。


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 クソったれ!とハローキティことキティ・ホワイトはドレッシング・ルームに戻るなり悪態をつきました。ミミィ・ホワイトは入れ替わりに接客に出るところでしたが、双子の姉のアバズレぶりを恥じる一方で、外見も耳のリボンが右か左かでしか見分けがつかないほどですから、多少は大げさなくらいにキャラクターの差をアピールする方がいいのかな、と思いました。私たちも生まれて40年を越えたんだもの、いつまで経っても見分けのつかない双子の姉妹じゃ恥ずかしいような気がするわ。
 じゃあ行くわね、と服の肩ひもを直しながらミミィが振り返ると、双子の姉は脱衣カゴを持って踊っていました。何してるのキティ?とミミィが呆気にとられて裏声をひっくり返すと、わかんないの?とハローキティ。ドジョウすくいよ。ドジョウすくい?お客におそわったのよ、さっき私下品なこと言ったでしょ?ああいう風にかましておいて、すぐさまこうやってカゴのたぐいを持って踊るんですって。はあ……それで、どうなるの?相手のMPが下がるんだってさ、効き目ありそうでしょ?
 ハローミミィはこの姉は何て馬鹿なんだろう、とさきほど少し感心したのが騙されて悔しい気分でしたが、交替するのにMP下げないでよ、と言いました。あ、下がった?どのくらい?としつこく訊いてくる姉に、わかんないわよ私元々MPないから、とミミィはぶっきらぼうに答えました。えっ、ないの?私の妹なのに?そういうのはきっと全部あんたに取られて生まれてきちゃったのよ、と、ハローミミィは苦々しく返しました。
 寂しいこと言うのね、自信のない女は客がつかないわよ、とハローキティ。じゃあ相手を逆にしてやってみる?いつの間にか親友のキャリーも休憩に戻って、姉妹のやりとりをぽかんとして眺めています。
 いいわよ、とハローキティ。私何て言えばいいの?と困惑するミミィ。イカの金玉!ってのはどう?ミミィは仕方なくイカの金玉!と叫ぶと、脱衣カゴを持って姉がしていたように踊りだしました。あんたたちどうしちゃったの!?と驚愕するキャリーに説明する気力もなく、どおMP下がった?とミミィは尋ねました。ううん全然。
 あの、そろそろ出ないとまずくない?とキャリーがミミィを促しました。繁盛も良いけれど、あっちの店とほどよく客が分かれればいいのにね、とキャリー。あんなうさぎばかりの店なんか問題外じゃん!とハローキティは自信たっぷりでした。


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 キャシーはハローキティを親友とはいえあまり増長してほしくないと思っていましたが、兵隊の位で言うとキティ・ホワイトは師団長でキャシーは一兵卒ですから出過ぎた口はきけません。でも向こうの人たちがうさぎなら私たちだってねこよねえ、とキャシーはキティの双子の妹ミミィや自分の姉のデイジーと化粧室で反省することがありました。ミミィとキティは双子ですから間違えると大変なことになりますが、幸いにリボンが右耳か左耳かの違い以上にはっきりとした違いがありました。いつでも態度がでかいのがキティで、いつでも態度がちいさいのがミミィです。
 双子についてはいろいろな俗説があり、俗説というくらいですから実証的根拠はありませんが、この姉妹については生まれつきキティの独占的なまでの存在感にミミィはなすすべもなかった、と言うべきでしょう。またミミィもキティの影のような存在であることに甘んじていましたから、本人たちが納得づくのことに他人が文句は言えません。
 ごめんなさい、とミミィがおどおどと謝る時、それがミミィ自身のことではなくキティの身勝手から生じたトラブルなのはもはや決まりごとのようになっていました。あなたが謝ることないのよミミィ、とデイジーとキャシー姉妹はいつでも慰労するのですが、キティは自分のわがままから起こった問題を自分でなんとかするタマではありません。きっとあと何年もすれば、とデイジーは考えていました、したい放題で生きているキティに較べてミミィはひとまわり以上も老けてしまっているに違いない。おそらく生まれたばかりの頃は、キティとミミィは区別もつかない双子の赤ん坊こねこだったのに、姉に当たるこねこをキティ、妹をミミィと名づけた時から双子は別々の運命のレールに分かれてしまったのです。
 その意味では、キティの最大の被害者は他の誰よりも妹のミミィでした。しかもミミィには同僚の誰にも言えない秘密がありました。もっとも近い血縁者としてミミィは経理事務を任されていましたが、キティを師団長とする慰問師団#2に支払われる報酬は公平に給与に分配されておらず、半分をキティがピンハネして、全員で分けるのは残り半分からでしかなかったのです。でもキティの指示通りにその独裁的な給与システムに従っていたのはミミィ自身でもありました。いつか吊し上げをくらうとしたら、状況はむしろ承認していたミミィに不利になると思われました。


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 やれやれだぜ、とジョータローは言いました。本当にここでいいのか、とアヴドゥル。適当でいいじゃろ、とジョースターさんがうなずくと、ヤッホー酒だぜ、とポルナレフ。それより食事でしょうポルナレフさん、と花京院が言うよりも早く、イギーはポルナレフの足もとから店の中に小走りに入り込んでいました。おいバカ犬ちょっと待て!とポルナレフが止めるのと、誇り高きイギーがポン、と蹴飛ばされるのはほぼ同時でした。
 ペットのお連れはお断りよ、とミッフィーちゃんは言いました。ええーっ、と気弱なアギーはぶるぶると震え、大胆なメラニーはフッと笑い、のん気なバーバラは目をぱちくりし、クールなウインは無表情でした。だがしかし、とアヴドゥルがいかぶるのをジョースターさんは制して、あっけにとられて転がっているイギーを抱き上げてポルナレフに渡すと、見かけに欺かれてはいかん、この自信は強力なスタンド使いかもしれんぞ、と小声でささやきました。花京院はジョータローを横目でちらりと見ましたが、ジョータローのスタープラチナが発動していないところを見るとまだ臨戦態勢には早いと思われました。
 やあ済まねえなあ、とポルナレフは腰を低くすると、犬の分は持ち帰りにするからさ、店の前で待たせていていいかなあ?これは露骨な嘘でした。イギーには首輪も紐もつけていなかったからです。こういう時のために一応持ち歩いてはいましたが、素直につながれるイギーではありませんから、イギーの分を先に受け取ったら、店先から見えない程度の近くの曲がり角に持って行って食べさせておけばいい、とポルナレフは考えていました。だったらいいだろ、とポルナレフは繰り返しました、犬の分はちゃんと持ち帰るからさ。
 冗談じゃないわよ、とミッフィーは言いました、犬に食わせる料理がここの店にはあるって言うわけ?またしてもの発言に大胆なメラニーはフッと笑い、気弱なアギーはぶるぶると震え、のん気なバーバラは目をぱちくりし、クールなウインは無表情でした。あんたらもスタンド使いか、とジョースターさんはハーミットパープルを発動寸前に身がまえました。
 いらっしゃいませ、とミミィとキャシーが店のカウンターに出てきました。ご一緒のお客さまですか、とミミィはミッフィーたちとジョータローたちを見回しました。いや、こいつもいいかな。どうぞ。奮然として誇り高きイギーはテーブルの下の席につきました。


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 チッ、っとミッフィーちゃんは舌打ちをしました。もうちょっとであの客たちも追い返せそうだったのにねえ?そんなことしてどうすんのよ、と大胆なメラニーはせせら笑い、気弱なアギーはまたもやぶるぶると震え、鈍いバーバラはやはりぽかんとして、クールなウインはやはり無表情でした。でもそれじゃこのお店に迷惑じゃない?とアギー、それに私たちに得にはならないわ。なるわよ、とミッフィー、バーバラの彼氏にテイクアウトオンリーの店番してもらってるから、この店に入れなきゃ仕方ないからうちのお店でカレーピザでも買っていくわよ。あんたそういう小さな目的で来たんじゃないでしょ、とメラニーが吹き出しました。あれ、そうだっけ?そうよねアギー?
 何で私に振るのよー、とアギーは泣きたい気持になりウインに助け舟を求める眼差しを投げかけ、目も合いましたが、ウインはわれ関せずという様子で持参したニンジンをかじっていました。お客さま、お持ち込みはご遠慮願います、とメラニーが真面目くさってウインを諭すと、水、とウインが言うのでミッフィーが笑いながらバーバラにセルフサービスの水を汲ませに行かせました。くまの方が押しが強いので、事前にトラブルを回避できるからです。
 ミッフィーたちは店の入り口近くのテーブルを囲んで、入ってくる客には片っ端から因縁をつけていましたが、ミッフィーたちのうっぷん晴らしにはなってもいまひとつ決定的な営業妨害にはなっていないようでした。つっけんどんに追い返すようなことを言っても、どの客もそれほど躊躇なくカウンターに直進してさっさと注文を済ませてしまうので、店の評判を下げる目的に届いているかもわかりません。
 つまりそれって、とアギーは気づきました、私たちがこのお店の女の子じゃなくて、このお店のテーブルを借りて客引きをしている街の商売女にしか見えていない、ってことじゃないかしら。だから無視されてるんで、それってこの店の女の子より下に見られてるってことよね、とメラニー。何でまた心の中を読むのよ!とアギーは内心で抗議しましたが、そんなことを言っている場合ではないとも気づきました。メラニーの言う通りなら、自分たちのお店はもう勝負する前から負けていることになるからです。それはあまりにみじめったらしいどころか、60年も続いた老舗ののれんに泥を塗り、ついには店を畳むことになりかねない事態を予兆すらもしていました。


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 ずいぶん柄の悪い外人部隊だナ、としんのすけは言いました。かすかべ防衛隊の仲間は慌ててしんのすけを囲んでいっせいに世間話を始めてごまかしました。あんな怖そうな人たちに聞こえたらどうするんだよ、しんのすけ、と風間くん。怖そうな人たちとは、もちろんカウンターに座ったジョータローたちの一行です。たとえ正義の味方でもこれほど威圧感を放っていれば、普通の感覚では怖そうな人たち、と見られても仕方ないでしょう。
 カウンターに座った、というのは文字通りで、平均身長りんご3こ分のハローキティたちに合わせて作られたカウンターの椅子はジョータローたちにとっては靴磨きの台ほどの高さもありませんから、カウンターに尻を乗せて背中向きで座る以外には腰を休めようがありませんでした。そうなるとキティやジョータロー、しんのすけたちでは縮尺が合わない点が問題になると思われますが、この場合広さや狭さは相対的なもので、りんごにも観賞用などを含めてさまざまな大きさがあり、また、ジョータローの握りこぶしに収まるりんごなら、3こ重ねれば普通の人間の膝の高さに届くでしょう。相対的とはそういうことで、あらゆる人種を想定して作られたこのディヴィジョンは一種の超ユークリッド的空間と言えるものでした。
 わしらはさぞ柄の悪い外人部隊に見えるじゃろうな、とジョースターさんが苦笑しました。遺憾ながらそのようです、とアヴドゥルが肯くと、花京院もつられてサングラスの下で苦笑しました。おれたちのどの辺が?とポルナレフが不服そうにつぶやくと、上半身裸の奴がおるじゃろ、とジョースターさん。イギーがクックッと犬ならではの笑い声を上げました。やれやれだぜ、とジョータローは言いました。
 幼稚園児に荒くれ者、とメラニー、どうも客筋に納得がいかないわね。てっきりうちの店とかぶっているのかと思ったら、どうもそうじゃないみたいじゃない?どういうこと?とアギーは首をひねりました。バーバラやウインに訊いてみなさいよ、とメラニー。アギーの口もとが×からあわあわと*になりました。アギーはバーバラやウインとは、ミッフィーやメラニーを介した間接的なやりとりしか交わしたことがないのです。これは5人組のグループなどではどの社会でもよくある現象です。アギーは助けを求めてミッフィーに向き直りましたが、折しもカウンターにはハローキティ姉御が出てきたところでした。
 第一章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)
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