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マイルス・デイヴィス Miles Davis - ステイブルメイツ Stablemates (Prestige, 1956)

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マイルス・デイヴィス The Miles Davis Quintet - ステイブルメイツ Stablemates (Benny Golson) (Prestige, 1956) : https://youtu.be/mPNPyoKNBK4 - 5:18
Recorded at The Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey, November 16, 1955
Released by Prestige Records as the album "Miles: The New Miles Davis Quintet", PRLP 7014, April 1956
[ The Miles Davis Quintet ]
Miles Davis - trumpet, John Coltrane - tenor saxophone, Red Garland - piano, Paul Chambers - bass, Philly Joe Jones - drums

 大スタンダード曲「There Will Never Be Another You」のコード進行を圧縮して作られた、というのがにわかには信じられないほど原曲離れしたこの曲はフィラデルフィア出身のテナー奏者ベニー・ゴルソン(1929-)のオリジナル曲で、ゴルソンはクリフォード・ブラウンへの追悼曲「I Remember Clifford」やリー・モーガンに提供した「Wisper Not」、ジャズ・メッセンジャーズ時代の「Blues March」、アート・ファーマーとの双頭クインテット「Jazztet」でも有名ですが、マイルス・デイヴィスが1955年に結成したクインテットの初アルバムの掉尾を飾るこの「ステイブルメイツ」(日本語なら「竹馬の友」のニュアンス)も夜道を威風堂々歩くようなハードボイルドなAメロに一転してデレるBメロ、再びハードボイルドなAメロとゴツゴツしたメロディーにも起伏がある、面白い構成の名曲です。この曲はアルバム最終曲に配置されているのですがカセットテープやCDで連続再生しているとオープニング曲にこそふさわしかったのではないかと思われ、実際レコーディングではセッションの最初に録音されたことが判明しており、マイルスのアレンジもテーマ部はあえてピアノを弾かせずホーンとベース、ドラムスだけでアンサンブルしており(それだけにA'部最後に突然ラテン・リズムに変わるのが際立ちます)、マイルスのアルバムは『ラウンド・ミッドナイト』でも「Dear Old Stockholm」が最終曲、『マイルストーンズ』でもアルバム・タイトル曲がLPのB面冒頭とハイライト曲の置き場所がおかしい場合がままあるので、しばらく聴かないとひさびさに聴き返した時この曲こんな位置だったっけ、と妙な感じになる時がある。'50年代いっぱいのマイルスのアルバムで曲順も完璧なのは『ポーギーとベス』『カインド・オブ・ブルー』、あとは好きずきでしょう。この曲はもともと器楽曲なので数々のヴァージョンがありますが、マイルスのバンドの西海岸ツアー中に録音されたベーシストのポール・チェンバースの初アルバムはピアノ以外はマイルス・クインテット仲間であり、ジョン・コルトレーンの1ホーンの「ステイブルメイツ」が聴ける好ヴァージョンです。このコルトレーンはマイルス版の演奏より格段に固さがとれています。チェンバース版もマイルス版よりかなり早いテンポですが、コルトレーンの先代のマイルス・クインテットのメンバーだったジャッキー・マクリーンもブルー・ノート・レコーズ移籍第2作のアルバムでこの曲のワンホーン・カルテット演奏を残しており、コルトレーンのヴァージョンと聴き較べるとテナーとアルトの違い以上に演奏解釈の違い、ジャズ・サックス奏者としての個性の違いを感じさせるものです。マイルス版、チェンバース(コルトレーン)版と聴いてきてマクリーン版を聴くとマクリーンの軽さは一見貧弱でたどたどしく聴こえもしますが、これはマイルスにもコルトレーンにも出せない持ち味には違いなく、たった3歳年少(録音時は同年)なだけなのにマクリーンには万年青年みたいなくすぐったい若さがあってそこが魅力になっている。同じ曲のほぼ同年齢での演奏なだけにそれぞれの個性のつかみやすいヴァージョンとも言えます。

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Paul Chambers - Stablemates (Jazz West, 1956) : https://youtu.be/rNuSszopFjQ - 5:53
Recorded at Western Recorders, Los Angeles, March 1 or 2, 1956
Released by Jazz West Records as the album "Chambers' Music", JWLP 7, September 1956
[ Paul Chambers Quartet ]
Paul Chambers - bass, John Coltrane - tenor saxophone, Kenny Drew - piano, Philly Joe Jones - drums

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Jackie McLean Quartet - Stablemates (Blue Note, 1960) : https://youtu.be/W9FTSUmoh6g - 5:47
Recorded at The Van Gelder Studio, Englewood Cliffs, New Jersey, October 20, 1959
Released by Blue Note Records as the album "Swing, Swang, Swingin'", BST 84024, March 1960
[ January McLean Quartet ]
Jackie McLean - alto saxophone, Walter Bishop Jr. - piano, Jimmy Garrison - bass, Art Taylor - drums

映画日記2019年3月28日・29日/最後の民族地方主義ソヴィエト映画監督セルゲイ・パラジャーノフ(1924-1990)作品(前)

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 旧ソヴィエト連邦、グルジア出身の映画監督セルゲイ・パラジャーノフ(Sergei Parajanov, 1924-1990)はスターリン独裁体制前のソヴィエト映画黄金時代の大監督オレクサンドル・ドヴジェンコ(1894-1956)が教鞭を執る全ロシア映画大学に学び、初期の長編第1作『アンドリエーシ』'55(ヤーコフ・パゼリャンと共同監督)と長編第3作『石の上の花』'62(アナトリー・スラサレンコと共同監督)は2014年の日本でのパラジャーノフ生誕90周年映画祭で本初紹介されましたが(初の単独監督作品『ウクライナのラプソディー』'61は未紹介)、国際的に注目を集めたのは野心作の単独監督の長編劇映画作品『火の馬』'64でした。それまでのパラジャーノフはドキュメンタリーの監督作品が主で、共同監督の長編劇映画2作、単独監督作品1作もソヴィエト政府の推奨する社会主義リアリズムを顧慮したものでしたが、故人の師・ドヴジェンコと同郷のウクライナの民族主義的郷土作家ミハイル・コチュビンスキー生誕100周年を記念し、コチュビンスキー晩年の代表作『忘れられた先祖たちの影』を映画化したパラジャーノフ初の単独監督長編は、国外の映画祭のプレミア上映で高い評価を受け数々の賞を受賞するも、ソヴィエト本国では社会主義体制上好ましくない作品として冷遇されてしまいます。同作はもともと原作小説と同じタイトルでしたがフランスで'66年に『火の馬』と改題され評判を呼び、欧米諸国や日本への紹介はフランスでの好評を受けてのことでした。パラジャーノフはさらに民族主義的な題材を実験的な手法を大胆に用いた「キエフのフレスコ画」'66に着手しますが、製作中止命令によって同作は短編に終わります。次にアルメニアの撮影所に移ったパラジャーノフは「キエフのフレスコ画」で頓挫した手法で18世紀のアルメニアの吟遊詩人の生涯を描いた『サヤト・ノヴァ』'69を完成・試写しますが、同作は『火の馬』「キエフのフレスコ画」以上の当局の不興を買い、限られた公開だけで事実上上映禁止作品にされ、改訂版が『ざくろの色』'71としてようやく上映解禁されるもパラジャーノフは危険人物としてマークされることになり、映画の仕事を干されるばかりか反政府活動の嫌疑の冤罪をかけられ、数次に渡って逮捕・入獄(強制労働)の仕打ちにあいます。『サヤト・ノヴァ』は極力'69年版に復原したプリントが『ざくろの色』のタイトルで定着してヨーロッパ諸国で反響を呼び、現役ソヴィエト最高の映画監督の一人と評価の高まって欧米諸国の映画人からパラジャーノフ弾圧へのソヴィエトへの抗議運動が起こり、ソヴィエトのペレストロイカによってようやく表現の自由の自由を得たパラジャーノフはグルジア製作の『スラム砦の伝説』'85で長編劇映画に復帰しますが、続いてアゼルバイジャンで製作した『アシク・ケリブ』'88のあと、'90年に自伝的作品『告白』の準備中に逝去しました。'17年のロシア革命と'22年の連邦建国から75年間続いたソヴィエト連邦の解体が翌1991年ですから、パラジャーノフはソヴィエト連邦時代に生まれてキャリアを終えた生粋のソヴィエト監督にして、ウクライナ、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンと、もともと中央政権には属さない地方、現在では共和国化している地方のみで地方民族に材を獲た作品ばかりを作ってきた特異な映画監督です。幸いパラジャーノフの『火の馬』からの長編劇映画全4作(カムバック後の2作は同郷グルジアの旧友の俳優ダヴィッド・アバシーゼとの共同監督名義ですが)は内外の映像ソフトで入手が比較的容易であり、また日本劇場公開もされていますのでキネマ旬報の紹介記事も参照して感想文を書いてみます。今回はご紹介しませんが、日本劇場未公開・未DVD化の初期3長編もサイト上で視聴可能ですので、ご参考までに上げておきます。なお文字ソフトの都合上ロシア語・ウクライナ語他の原綴はローマ字表記に代えました。ご了承ください。
◎『アンドリエーシ』Andriesh (Studios Dovjenko, Kiev, Ukiana'55) : https://youtu.be/mMmtfQBpWlM (Full Movie, English Subtitle)*59min, B/W
◎『ウクライナのラプソディー』Ukrainskaya rapsodiya (Studios Dovjenko, Kiev, Ukiana'61) : https://youtu.be/FLu4RcygUmk (Full Movie, French Subtitle)*83min, Color
◎『石の上の花』(Studios Dovjenko, Kiev, Ukiana'62) : https://youtu.be/v9ltGG32eec (Full Movie, No Subtitle)*72min, B/W

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●3月28日(木)
『火の馬』Tini zabutykh predkiv (Studios Dovjenko, Kiev, Ukiana'64)*92min, Color : 日本公開昭和44年3月22日 : https://youtu.be/rb6GMSG2cEY (Full Movie, English Subtitle) : https://youtu.be/OeIzpWNG23Y (Trailer)

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 最初の3長編『アンドリエーシ』『ウクライナのラプソディー』『石の上の花』は今回サイト上の動画で字幕等も不備ながら海外サイトの文献を参照して視聴しましたが、戦後映画らしいみずみずしさはありながら社会主義リアリズムの理想主義を踏み外さないように慎重に作られている仕上がりに見えました。この3作は、やはり現在視聴できる初期のドキュメンタリー作品や『火の馬』以降の短編、パラジャーノフについてのドキュメンタリー作品とあわせていずれまたご紹介したいと思います。確かに言えるのは初期作品を観ると『火の馬』で突然テーマ、スタイルともに急激な変貌を遂げたのがありありと伝わってくるので、現在パラジャーノフの映画として浮かんでくる作風は『火の馬』からという定評ももっともでしょう。筆者はアメリカの古典映画復刻メーカー、Kino Video社版の4枚組DVDボックスセット『The Films of Sergei Parajanov』を今回(と次回)の感想文に当たって観直しましたが、アメリカで2001年~2007年に各巻特典映像満載でリマスター発売された『火の馬』『ざくろの色』『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』の4長編のDVDセットで、これが現在はもっとも入手しやすいパラジャーノフ作品集です(日本盤で出た『ざくろの色』『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』の3枚組ボックスセットは廃盤で中古価格が高騰しています)。4作品中もっとも評価が高いのは現状では『ざくろの色』ですが、これは内容の難解さとともに成立の複雑さや同作がパラジャーノフの作品歴に占める位置なども加味されての評価とも考えられ、『火の馬』からの4長編をパラジャーノフの真価の発揮された作品とした場合年代順に観るのがやっぱりわかりやすいと改めて思いました。『火の馬』からのパラジャーノフ作品は地方自治区の民族の地方作家の作品や民間伝承を元にした原案の映画ばかりになりますが、ソヴィエト連邦の映画は国家事業ですから国家公認の企画という条件が必要になる。国家非公認の作品製作を行った場合国内発表できないし、外国で発表すると懲罰の対象になる。文学作品などでもそうです。パラジャーノフの師のドヴジェンコはウクライナの映画監督でしたし、中央政権の政策とは相容れない地方民族の風土性との相克に早くから目をつけていた人でした。スターリン独裁政権下でドヴジェンコが冷遇されて第一線を退き、教職に活動の場を移さざるを得なかったのもそうした原因があったからで、スターリン没後にドヴジェンコは現役監督に復帰するには遅すぎたのですが、弟子であるパラジャーノフはドヴジェンコの代表作で農地改革をめぐる農民たちの愛憎劇『大地』'30などから政策称揚映画ではない本当の地方のロシア民族の感受性を反映した映画を作りたかったに違いなかったと思われます。共作を含む初期長編3作やドキュメンタリー作品を経て、ついにパラジャーノフにロシア革命以前のウクライナの郷土作家ミハイル・コチュビンスキー(1964-1913)の生誕90周年記念のコチュビンスキーの晩年の小説の映画化の企画が委託されたのはようやくパラジャーノフが描きたかった題材の映画を実現できるまたとない機会だったに違いなく、多くの日本語文献では『火の馬』をパラジャーノフの初監督作と誤解されていますが、国際的に公開された初めての長編なのが誤解の原因にせよ『火の馬』は実際鮮烈な印象のあまり新鋭監督のデビュー作と批評家や観客の記憶に刻まれるような性格を持った作品です。大規模な製作環境を必要とする映画監督では40歳の長編劇映画デビュー作というのも珍しくも遅くもないので、エリック・ロメールの『獅子座』'61も40歳の長編劇映画の監督デビュー作でしたが、『獅子座』や『火の馬』のような思い切った斬新な作品にいたるまでの作品は習作と見なすこともできますし、またロメールの『獅子座』は正真正銘長編劇映画第一作ですが、『獅子座』同様商業映画監督らしい職人的なこなれた手つきが感じられない、ぎこちないとも言える初々しさも『火の馬』を監督デビュー作と錯覚させる印象を生んでいます。原題『忘れられた祖先たちの影』が'66年のフランス公開時に『火の馬』と改題され、世界的に本作が公開されるきっかけがフランス公開の好評からだったので、日本でも本作はフランス経由でソヴィエト本国公開から5年後の'69年に『火の馬』のタイトルで公開され、以降同タイトルが定着していますが、フランスと日本以外では原題通りのタイトルに戻されているそうです(英題は『Shadows of Forgotten Ancestors』といった具合に)。日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] ウクライナの文豪ミハイル・コチュビンスキーが1911年に発表した小説をセルゲイ・パラジャーノフとイワン・チェンディが脚色、セルゲイ・パラジャーノフが監督にあたった。撮影はユーリー・イリエンコ、音楽はM・スコリクが担当した。出演はイワン・ミコライチュク、ラリサ・カドチニコワほか。
[ あらすじ ] ウクライナの南、カルパチア山地に生むペトリュクとグデニュクの二つの氏族間には、何世代にもわたり争いが続いていた。そしてある日、両家の車軸がふれあったことから争いが起きグデニュクの斧がペトリュクの頭上に打ちおろされた。瀕死のペトリュクの脳裏を、真っ赤な火となった馬が空の彼方に走っていく。敵同士であるはずの両家の子供たち、イヴァン(イワンコ)・ペトリュク(イヴァン・ミコライチュク)とマリーチカ・グデニュク(ラリーサ・カドチニコワ)の二人は幼い頃よりの親友。大人になった二人は愛し合うようになった。しかしイヴァンには、お金がない。村を離れ、一人、出稼ぎに行った。その留守中のことである。マリーチカは羊の子を救おうとして足を踏みはずし、高い崖から落ち、急流にのまれてしまった。かけつけ、茫然とたちつくすイヴァン。それからの彼は乞食同然の、おちぶれかただった。そして数年、村人たちは彼を立ち直させるため、パラーグナ(テチャーナ・ベスターイェヴァ)という娘と結婚させることにした。幸せそうな日々が続いた。しかしイヴァンはマリーチカの面影を忘れることは出来ない。パラーグナの悲しみ。彼女は、その悲しみをまぎらすため、ユーラことユーリチカ(スパルタク・バハシュヴィリ)という男と親しくなっていった。イヴァンはユーラと争い、手斧で、ユーラの頭を傷つけた。よろめきながら外に出たイヴァンの目に、マリーチカの墓がうつった。そして彼女の霊にみちびかれるように森の中をさまよい、マリーチカが落ちた崖へと近づいて行った。
 ――本作は'60年代初頭のヨーロッパ映画の潮流を受けた手持ちカメラによる長回しの移動ショットや意表を突く主観ショットへの切り替え(映画冒頭で倒木のシーンがありますが、木の視点から人物に向かって倒れる大胆なショットです)、素早いモンタージュやアニメーションの挿入(人物の流血シーンや離れて暮らす恋人同士が夜空の同じ星を眺めるシーン)など当時共産主義国家圏にもフランスのヌーヴェル・ヴァーグ以降に広まった技法の応用が見られ、一方描かれているのは非常に地方色の強い土着的な前近代的生活様式に暮らす人々なので、手法と題材の取り合わせでも異色な作品になっている。同時期にポーランドやチェコスロバキアなどの共産圏の新しい映画で行われた映画の革新運動はフランスのヌーヴェル・ヴァーグ同様都会生活を描いたものが主流でした。『火の馬』の映像革新と土着文化への着目はむしろブラジルの土着的な映画運動に近いのですが、ブラジル映画の場合土着性への着目は政治性の強い反体制映画に結びついているので、『火の馬』の純粋なフォークロア的関心とは方向は異なると思えます。『火の馬』がソヴィエト政府の不興を買ったのはむしろ社会改革的啓蒙の意図がなく、しかも描かれた土着文化は社会経済学に立脚するソヴィエト共産党が禁制にしている宗教的要素が非常に強いものだった。パラジャーノフの意図はウクライナのカルパチア山地の山林・遊牧地帯で自然と同化して生活しているウクライナ民族には伝承信仰や儀式も日常であり、それを描かずには憎みあう一族や恋人たちの悲劇も、そうした登場人物たちのドラマすら自然現象のように信仰と儀式によって受け入れてしまうウクライナのカルパチア山地民族の心も描けないという認識や洞察があったでしょう。本作は主要人物のほとんどが死んでしまう悲しい物語が、民族の信仰や儀式とともに民族衣装と歌と躍りを交えて、12の章に分けて描かれます。「カルパティア」「イヴァンとマリーチカ」、「牧場」「孤独」「イヴァンとパラーグナ」「働く日々」「クリスマス」「明日は春」「呪術師」「居酒屋」「イヴァンの死」「ピエタ」が12の章=シークエンスをなしており、この形式は以後のパラジャーノフ作品ではより極端に断章化されて踏襲されます。本作ではまだ章ごとの断片性は強くありませんが、それでも一般的な劇映画と較べると章ごとの飛躍は大きく、映画全体を貫く視点人物はいないので主要人物たちのドラマというより一地方(ウクライナのカルパチア山地民族)の群像劇によって一つの民族を描いた映画という観が強い。そうした意味では、ハワイの恋人たちの悲劇を描いたムルナウとフラハティの『タブウ』'31が劇映画の形式をとったハワイ民族のドキュメンタリー映画だったように、『火の馬』も劇映画を含んだウクライナのカルパチア山地民族のドキュメンタリー映画であり、その限りではリアリズム作品とも言えるものです。しかし当時のソヴィエト政府の方針ではこのリアリズムは望ましくない因襲をそのまま描いた不穏当なものとされたので、今日では名誉回復されたにせよ次作ではパラジャーノフは一気にリアリズムを無視した、フォルマリズム的作風に進むことになる。その萌芽は本作にもあったとはいえフォルマリズムではなくより情感に満ちた映画の方向にも道はあったはずで、しかしそうした本作の土着的リアリズムが海外では評価されてもソヴィエト本国では認められなかったのが次作での徹底的なフォルマリズム様式に向かう振り幅を招いたと思われ、しかもそれはあまりの極端な形式化のために難解で危険な作品と見なされ、パラジャーノフを15年間ものあいだ、映画製作が許されない環境に追いこむことになるのです。

●3月29日(金)
『ざくろの色』Nran guyne (Armenfilm, Armenia'69)*78min, Color : 日本公開平成3年4月21日 : https://youtu.be/lNJC3YZyIFU (Full Movie, English Subtitle) : https://youtu.be/YR-yEXUPePI (Trailer) : https://youtu.be/Rgjicual-eA ('71 Yutkevich's Edit Cut Version, English Subtitle)

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 この『ざくろの色』がソヴィエト政府からパラジャーノフが弾圧されて映画製作の禁止に追いこまれ、思想犯としてくり返し冤罪逮捕、投獄、強制労働に課せられていた時期にヨーロッパの映画人の間で現存する最高のソヴィエト映画監督と絶大な評価を受ける呼び水になり、ゴダールやロッセリーニ、フェリーニを筆頭とする映画監督たちの抗議運動によってようやく露骨な弾圧からは逃れられるようになった(それでも映画製作復帰までにはペレストロイカまで待たなければなりませんでしたが)メルクマール的作品とされており、現存欧米諸国ではパラジャーノフの最高の作品にして「映画史上もっとも偉大な映画」のリストに加えられている作品です。『火の馬』から遺作『アシク・ケリブ』までの4作をパラジャーノフ映画の真髄と見ると、オリジナリティとスタイルの徹底、完成度、インパクトなど総合的には本作がパラジャーノフを代表する1本になるのは揺るぎそうにありません。しかし相互影響はパラジャーノフに関してはないと思いますが、アンディ・ウォーホル(1928-1987)の『チェルシー・ガールズ』'66(アメリカ)やウォーホル作品の影響はあると考えられるヴェルナー・シュレーター(1945-2010)の『アイカ・カタパ』'69や『マリア・マリブランの死』'71(西ドイツ)はアンダーグラウンド映画ですが直接間接に'70年代の欧米映画に大きな影響力があり、ウォーホル作品やシュレーター作品は裕に『ざくろの色』に匹敵すると思える。ウォーホルはマルチ・アーティストの優れた余技とも言えますがシュレーターは完全にインディペンデントの映画監督の巨匠で、最初の2長編『アイカ・カタパ』と『マリア・マリブランの死』は製作時期も『ざくろの色』と重なる上にテーマや技法も酷似している。ウォーホルはフェティシズムのアーティストですがシュレーターはゲイ映画なので対象は異なるとは言え非常に異様な審美的感覚で映画を作っており、『ざくろの色』も究極のフォルマリズム映画なので審美性の表現の点でこの三者はほとんど同じ技法にたどり着いている。ウォーホルに稀薄(というか感覚や表現が植物的)でパラジャーノフとシュレーターに共通するのは禁欲的な官能性と呪術的宗教性で、それ自体はアモラルなものではありませんがあまりに徹底しているために日常的感覚には破壊的な作用をおよぼす陶酔性の過剰があり、アモラルで頽廃すれすれのものになっている。これらはいずれも日本劇場未公開作品なので、参考のため視聴リンクを引いておきましょう。
○アンディ・ウォホール『チェルシー・ガールズ』Chelsea Girls (Andy Warhol's Factory'66) : https://youtu.be/d9DjdqYwl8M (Full Movie)*210min, B/W
○ヴェルナー・シュレーター『アイカ・カタパ』Eika Katappa (Werner Schroeter Production'69) : https://www.youtube.com/playlist?list=PLAlaOM9YeRfZ5XjY_Q3iK9V6P-tXGMxfx (Extracts)*144min, Color
○ヴェルナー・シュレーター『マリア・マリブランの死』(Werner Schroeter Production-ZDF'71) : https://youtu.be/yYloLMIzU9Q (Full Movie)*104min, Color
 もし『ざくろの色』とパラジャーノフ映画にご興味お持ちの方がいらしてシュレーター作品未見でしたら、ぜひ『マリア・マリブランの死』なりともご覧になっていただければと切に思いますが、比較はあとに回して、日本では『ざくろの色』は'71年の(助監督セルゲイ・ユトケーヴィッチの再編集による)一般公開版と、もともと『サヤト・ノヴァ』というタイトルで'69年に完成試写されるも映画省からの批判で一部の短期上映に終わり回収されたパラジャーノフ自身による完成版は失われているので、残存フィルムと一般公開版からパラジャーノフ版をほぼ復原して定着したタイトル『ざくろの色』に改めた復原版の2種類が公開・映像ソフト化されています。ただし復原版も完全な'69年版の復原ではなく一般公開版(ユトケーヴィッチ編集版)を生かしてあるそうで、いわば折衷版なのですが現在ではこの一般公開版より5分長い復原版=折衷版を標準とするようですし、活人画的映像の連続する作品ですのであらすじ上でも観較べてもほとんど印象は変わりません。ユトケーヴィッチ編集版の方が台詞や字幕挿入が少し多いかな、と思う程度ですが、復原版でもフィルムの欠損部分は編集版からの台詞や字幕で補ってあるらしいので復原版では無言のショットが少しふえたかな、というくらいです。それにパラジャーノフの没後、つい近年まで絶大な評価を受けて語り継がれていたのは一般公開の編集版なので、復原版といっても実はそれほど変わっておらず、ユトケーヴィッチは『火の馬』でも助監督だった人ですから当局に駄目出しをくらった『サヤト・ノヴァ』を『ざくろの色』と改題し問題のありそうな箇所は直しました、と改訂したふりをして大していじっていなかったとも取れるので、台詞や字幕挿入はいかにも「改訂しました」という目くらましではないかと思える。実物はリンクでご覧になれますので、日本公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ]('71年助監督セルゲイ・ユトケーヴィッチ再編集版日本劇場公開時) 18世紀のアルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯にオマージュを捧げた八章の美しい映像詩編。伝記ではなく、その時代の人々の情熱や感情を台詞のほとんどない映像言語で描いている。静物画のような題名がしめす通り、絵画的な美しさを放ち、また神秘的で謎めいた儀式性と様式美の面でタルコフスキーの「鏡」と並び称される作品である。監督は、「火の馬」「アシク・ケリブ」「スラム砦の伝説」のセルゲイ・パラジャーノフ。また、ゴダールはこの作品から多大な映画的信仰を与えられ、後年「パッション(1982)」を撮ったと伝えられている。
[ 解説 ]('69年オリジナル・アルメニア版復原版自主公開時) 宮廷詩人、サヤト・ノヴァの生涯を描いたセルゲイ・パラジャーノフの代表作。当初、製作された作品がソ連当局の検閲を受け、セルゲイ・ユトケーヴィチの再編集により公開された作品。サヤト・ノヴァの詩的世界を台詞なしの美しいイメージ映像で描く。【スタッフ&キャスト】監督・原案:セルゲイ・パラジャーノフ 撮影:スレン・シャフバジャン 美術:ステパン・アンドラニキャン 音楽:ティグラン・マンスーリャン 助監督:R・ヤムカリャン 出演:ソフィコ・チアウレリ/メルコプ・アレクアン/ヴィレン・ガレスタイン
[ あらすじ ] 18世紀アルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯にオマージュを捧げた美しい映像詩。サヤト・ノヴァの生涯を全8章に分けて追い、愛と才に溢れた詩人の生涯を宮廷や修道院を舞台に描く。そこに映し出される人々の情熱や感情を、台詞のほとんどない映像言語で描いている。それは豊かな詩であり、舞踏であり、そして全編動く絵画である。絢爛な美術品のような美しさを放ち、また神秘的で謎めいた儀式性と様式美に彩られている。「第1章・詩人の幼年時代」雷雨に濡れた膨大な書物を干して乾かす日常の風景。幼いサヤト・ノヴァ(メルコプ・アレクヤン)の、書物への愛の芽生え。「第2章・詩人の青年時代」宮廷詩人となったサヤト・ノヴァ(ソフィコ・チアウレリ)は王妃(ソフィコ・チアウレリ)と恋をする。彼は琴の才に秀で、愛の詩を捧げる。『第3章・王の館』王は狩りに出かけ、神に祈りが捧げられる。王妃との悲恋は、詩人を死の予感で満たす。『第4章・修道院』詩人(ヴィレン・ガレスタイン)は修道院に幽閉された。そこにあるのは婚礼の喜び、宴の聖歌、そしてカザロス大司教の崩御の悲しみ。『第5章・詩人の夢』夢になかに全ての過去がある。幼い詩人、両親、王妃がいる。『第6章・詩人の老年時代』彼の眼差しは涙に閉ざされ、理性は熱に浮かされた。心傷つき、彼は寺院を去る。『第7章・死の天使との出会い』死神が詩人(G・ゲゲチコリ)の胸を血で汚す、それともそれはざくろの汁か。『第8章・詩人の死』詩人は死に、彼方へと続く一本の道を手探りで進む。だが肉体が滅びても、その詩才は不滅なのだ。
 ――今回キネマ旬報の紹介文で読むまでゴダールの『パッション』が本作へのオマージュとは知りませんでした。活人画映画を撮る撮影クルーを描いたあの『パッション』はてっきりコメディ映画を意図したものだと思っていたのですが、ゴダールはあれを真面目にパラジャーノフに敬意をこめて作ったのか。ちょっと素面であんなものを作っていたとは思えないので、何か大きな誤解があるような気がします。スタイルの上で『火の馬』から極端に変わった点では、本作はすべてフィックス・ショットの上にカット数も少ないこと。台詞も極端に少なく、人物名と状況を示す程度にしかない。8つのシークエンスはぶつ切れでほとんどオムニバス構成といえるほどで、かといってシークエンス単位で短編映画をなすほどのドラマ性もなく主人公の生涯の段階を断片的に切り取っただけになっている。子どもの頃、青年時代、中年期はそれぞれ別の俳優が演じるので「第5章・詩人の夢」などはいっぺんに出てくる。しかも「第2章・詩人の青年時代」で宮廷詩人になった主人公と生涯の夢の女性となる王妃はどちらも同じ女優ソフィコ・チアウレリが演じていて、チアウレリは映画全編では男女の性別問わず6役を演じている(同じ手法は断章形式とともに、ウォホール、シュレーター作品でも行われています)。そのため宮廷詩人時代のラブシーンはカメラに正面を向いた詩人役のチアウレリと王妃役のチアウレリが交互にカットされて相対しているという演出になる。全編がそういう具合で、近世アルメニアの美術や小道具、衣装を再現した活人画映像による18世紀の宮廷詩人(生い立ち、王妃との恋愛から修道院に幽閉され、死を迎えるまで)の伝記なのですが、いわゆるリアリズムの劇映画の演技はなくて、人物の動作もほとんど左右対象のフィックス・ショット内での様式的な振りつけに限定されている。アンディ・ウォホールやヴェルナー・シュレーターの実験的アンダーグラウンド映画と手法はほとんど同じことを国家予算製作の歴史映画でやっている。『火の馬』でも西洋文化圏の感覚では異様な色彩感覚がカラー映画(ソヴィエト映画だからアグファカラー・フィルムでしょう)で堪能できるのが魅力でしたが(恋人マリーチカが事故死した次のシークエンス前半だけB/Wになる、という趣向もありました)、本作は近世アルメニア美術、壁画、小道具、衣装と赤を基調にした美術映画で、儀式や風習の宗教性を上回って全編が様式化されている。おそらく欧米諸国の映画人にはこのエキゾチシズムが強烈だったので、また本作のような映画製作がソヴィエトでは困難で実際弾圧すら招くようなものという事情も加味したのが本作への高い評価になったのでしょう。しかし本作からエキゾチシズムを除けば本質的には何が残るか疑問になるのが欧米にもロシアにも同じくらいとは言わずともそれぞれに懸隔がある日本人から観た印象で、ウォホールの『チェルシー・ガールズ』やシュレーターの『アイカ・カタパ』『マリア・マリブランの死』はエキゾチシズムの意識が意図されていない分もっとストレートに観客に訴えてくる映画になっている。『ざくろの色』のパラジャーノフは美術効果のエキゾチシズムにあまりに映画を託しすぎていて、これでは映画が動くからくり写真だった時代と変わらないではないか、とも思えてきます。観ている最中には楽しめますが、観終えると何も残らない。それに較べれば『チェルシー・ガールズ』や『アイカ・カタパ』『マリア・マリブランの死』は観る前と観たあとでは世界が変わって見える。映画を観ることが観賞にとどまらず体験になるだけの力をそなえた映画だからです。『ざくろの色』は観客に観賞以上のものを与えてはくれない、という不満がある。『チェルシー・ガールズ』は製作費3,000ドル(!)で作られたそうですがおそらくシュレーター作品も同程度でしょう。『ざくろの色』は少なくともその数百倍の予算はかけて作られた映画でしょうが、良くも悪くも芸術映画になりきってしまっている。それだけではとても'60~'70年代ソヴィエト映画の最高水準を示す映画とは思えない。またこれを危険視した当時のソヴィエトの映画状況も過剰反応に思えるのです。

アシュ・ラ・テンペル Ash R Tempel - ジン・ローズ Gin Rose at The Royal Festival Hall (Manikin, 2000)

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アシュ・ラ・テンペル Ash Ra Tempel - ジン・ローズ・アット・ロイヤル・フェスティバル・ホール Gin Rose at The Royal Festival Hall (Manikin, 2000) Full Album : https://youtu.be/i88v6iSgHVU
Recorded live at The Royal Festival Hall, London, U.K. on Julian Cope's CORNUCOPEA Festival, April 2, 2000
Released by Manikin Records Manikin MRCD7049, July 2000
Composed and Performed by Manuel Gottsching and Klaus Schulze
(Tracklist)
1. Eine Pikante Variante (Gin Rose) - 69:26
[ Ash Ra Tempel ]
Manuel Gottsching - guitars, electronics
Klaus Schulze - electronics, percussion

(Original Manikin "Gin Rose at The Royal Festival Hall" CD Liner Cover, Booklet & CD Label)

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 本作についてクラウス・シュルツェの公式サイトでは特に内容に注記はしていませんが、1999年~2000年3月録音のスタジオ盤『フレンドシップ』と2000年4月2日のライヴ録音の本作はレコード番号も連番で、2000年7月に2作同時発売になりました。マニュエル・ゲッチングとクラウス・シュルツェのオリジナル・メンバー3人中二人だけのアシュ・ラ・テンペル一度きりの再結成については前回の『フレンドシップ』で詳しく触れましたからくり返しませんが、このイギリスでのただ1回だけの再結成ライヴはジュリアン・コープ主宰のオルタナティヴ・ロックのフェスティバルの目玉として招聘されたもので、コープは1995年刊の研究書『クラウトロックサンプラー』にまとめられた論考で'60年代末~'70年代のドイツの実験的ロック一派を「クラウトロック」という独自のジャンルと見なし再評価してクラウトロック再評価を定着させた学究肌のミュージシャンです。『クラウトロックサンプラー』にまとめられる前から発表されていたコープのクラウトロック批評に伴ってアシュ・ラ・テンペルやゲッチング、シュルツェの廃盤になっていたアルバムのCD化も進んでいたので、このライヴはコープへの返礼の意味あいもあれば実際アシュ・ラ・テンペルの再結成ライヴが観たい、という多くのリクエストに応えたものでした。
 ライヴは約70分全1曲で、CDでは「Eine Pikante Variante」とタイトルがついていますがシュルツェの公式サイトでは「Gin Rose」に改められています。冒頭数分間エレクトロニクス・ノイズが続いたあとギターが入り、メディテーショナルな曲調で楽曲は進みますが、17分すぎからシークエンス・パターンによって曲想は俄然リズミカルになりギターの音色も多彩なテクノ・サイケが展開します。28分すぎには再びエレクトロニクスによるメディテーショナルなアダージョを挟みますが5分すぎて33分頃からはまた異なるシークエンス・パターンのリズムになりエスニックな展開からギターもヘヴィーに始まりメロウなスパニッシュ色のソロに変わっていき、このパートがもっとも長く変化に富んでいます。スパニッシュ・ギターのソロが徐々にテンポを落としていき、55分すぎからはまたヘヴィーでメディテーショナルなエレクトロニクスとギターの絡みになりますが、59分すぎからは全編でももっともアップテンポのシークエンス・パターンによってギターもエレクトロニクスも熱狂的なアンサンブルを奏でてエンディングまで持っていく。シュルツェが引き気味というのではないのですが、ゲッチングの万華鏡のような自在に音色・スタイルを変化させるギターが凄すぎて、アシュ・ラ・テンペルはやはりゲッチングのギターあっての音楽性のバンドだったんだな、と初期アシュ・ラ・テンペルの勢い任せのゲッチングのギター(まだ当時は10代末)から30年経って改めて認識を新たにするだけの名演です。『フレンドシップ』『ジン・ローズ』とも現在廃盤なのは何とももったいなく、これは両作ともゲッチング、シュルツェとも両者のキャリアの一期を画す名盤ではないでしょうか。なお表ジャケットではゲッチングは左利きにデザインされていますが、ブックレット写真で表ジャケットはデザイン上の裏焼きなのがわかります。まぎらわしいものです。

チョコレート・ウォッチバンド Chocolate Watchband - ワン・ステップ・ビヨンド One Step Beyond (Tower, 1969)

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チョコレート・ウォッチバンド Chocolate Watchband - ワン・ステップ・ビヨンド One Step Beyond (Tower, 1969) Full Album + 1 : http://www.youtube.com/watch?v=h7Ul4sMVrHg&list=OLAK5uy_k-8cjj9I4_hRxAlna6In7LTIO5PlfnFaA
Recorded Probably Late 1966 to 1969
Released by Capitol / Tower Records ST5153, 1969
Produced by Ed Cobb
(Side 1)
A1. Uncle Morris (Gary Andrijasevich, Mark Loomis) - 3:10
A2. How Ya Been (Danny Phay, Gary Andrijasevich) - 3:08
A3. Devil's Motorcycle (Gary Andrijasevich, Sean Tolby) - 2:59
A4. I Don't Need No Doctor (N. Ashford-V. Simpson) - 4:00
(Side 2)
B1. Flowers (Danny Phay, Gary Andrijasevich) - 2:48
B2. Fireface (Sean Tolby) - 2:49
B3. And She's Lonely (Mark Loomis, Sean Tolby) - 4:16
(Bonus Track)
Bt1. Blues Theme (Mike Curb) - 2:09 *The Hogs (Hanna Barbera 511, 1966)
[ Chocolate Watchband ]
Danny Phay - lead vocals
Sean Tolby - lead guitar
Mark Loomis - rhythm guitar, backing vocals
Bill Flores - bass guitar
Gary Andrijasevich - drums, backing vocals
with featuring guest
Jerry Miller - lead guitar (on A3)

(Original Tower "One Step Beyond" LP Liner Cover & Side 1/2 Label)

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 チョコレート・ウォッチバンドの第1作『ノー・ウェイ・アウト』'67は28分半全10曲中チョコレート・ウォッチバンドのメンバー全員による演奏が2曲しかなかったように(他8曲はスタジオ・ミュージシャンによる即席バンドやプロデューサーが連れてきたゲスト・ヴォーカリストの参加)、セカンド・アルバム『ジ・インナー・ミスティーク』も27分半全8曲中4曲はスタジオ・ミュージシャンによる即席バンドの演奏でチョコレート・ウォッチバンド自身の演奏は4曲、そのうち1曲はまたもやプロデューサーが連れてきたゲスト・ヴォーカリストが歌っているありさまでした。西海岸の'60年代後半のロック・シーンでチョコレート・ウォッチバンドは最凶のライヴ・バンドとして一部の熱狂的ファンに支持されましたが、レコードはキャピトル傘下の半自主制作盤レーベルのタワー・レコーズからしか出せず、しかもタワー・レコーズのプロデューサーのエド・コブはチョコレート・ウォッチバンドを流行のサイケデリック・ロックのバンドとして売り出そうとしていたので、元来ガレージ・バンクな演奏しかできないチョコレート・ウォッチバンドはみすみすコブのプロデュースに従ってしまい、その結果チョコレート・ウォッチバンドのアルバムなのにスタジオ・ミュージシャンの覆面バンドがサイケデリック・ロック風の演奏をしているのが収録曲の大半を占める、というのがデビュー・アルバムとセカンド・アルバムでした。しかも所詮は即席バンドのやっつけ演奏の上にチョコレート・ウォッチバンド自身はライヴでは演奏できない、ライヴのチョコレート・ウォッチバンドの音楽と全然違う、という弊害も出てくる。セカンド・アルバム発表後バンドの状態はジリ貧になっていました。本来のバンドのファンまで離れてしまったのですから当然です。また、チョコレート・ウォッチバンドの純粋なガレージ・パンクの音楽性が初期シングルの'66年頃ならともかく、この頃にはすっかり時代遅れになっていたのもありました。
 そしてバンドはサード・アルバム『ワン・ステップ・ビヨンド』でついに全曲バンドによる歌と演奏、というアルバムを実現します。しかし内容はデビュー後のヴォーカリストのデイヴ・アギラーが抜け、前身バンドのザ・ホッグス時代からのヴォーカリストのダニー・フェイ在籍時のデビュー・アルバム以前の録音に、フェイが復帰した5人のメンバーでヴォーカルや演奏のリテイク、リミックスをし直したものでした。アシュフォード&シンプソンの「アイ・ドント・ニード・ア・ドクター」のカヴァー1曲を除いてメンバー自作曲で固めた初のアルバムでもあるのですが、元の録音自体がデビュー・アルバム以前のレパートリーです。これだけのオリジナル曲がありながら前2作はなぜメンバー自作曲がないのかも不思議ですが、デビュー・アルバムがAB面28分半全10曲、セカンド・アルバムがAB面27分半全8曲と'67年~'68年のアルバム(アナログLP)としても収録時間が少なかったのに、サード・アルバムではAB面23分弱全7曲とさらに貧弱になっている。7曲まとめてもLPの片面に収まる収録時間です。当時のビートルズやストーンズのLPの片面分にもおよびません。A面13分、B面は10分もありません。バンドをめぐる環境がジリ貧状態の上にデビュー・アルバム前の音源の手直し(A3にはモビー・グレイプのジェリー・ミラーのゲスト参加のリード・ギターが聴けますが、ほとんどのリスナーにはセールス・ポイントにならないでしょう)とは実に思い切ったことをやったもので、またジェリー・ミラーの参加のみならず本作の作風はメンバー自作曲の曲想もあってモビー・グレイプに近いもので今聴けばなかなか良いのですが、モビー・グレイプも商業的惨敗を舐めたバンドでした。本作は収録時間(収録曲)の少なさ、時流外れの内容もあってまったく評判にならず、セールスも激減し、バンドは翌年解散に追いこまれてしまいます。また1999年の再結成以降の活動はデイヴ・アギラーが中心にデビュー・アルバムとセカンド・アルバム時のレパートリーを中心としているため本作は顧みられることの少ないアルバムになっています。しかしサード・アルバムでようやく全編バンド自身の演奏、しかもデビュー・アルバム以前の音源の手直し、さらにそれがラスト・アルバムとは当時の数々のバンドにあっても似た例が思いつかないので、チョコレート・ウォッチバンドは3作アルバムがあっても実態のつかめない謎が残ります。映像はおろか全盛期の発掘ライヴ、純粋なスタジオ・ライヴ音源すら出ていないので、ロンドン・パンクなど偽物だとさえ言わしめた全盛期の最凶のライヴ・バンドぶりは想像するしかない。それには3作のアルバムと再結成後のバンド自身による'60年代2CD全音源集『Melts in Your Brain...Not On Your Wrist!』2005だけしか手がかりがないのです。

ポール・チェンバース Paul Chambers - ジョン・ポール・ジョーンズ John Paul Jones (Jazz West, 1956)

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ポール・チェンバース Paul Chambers Quartet - ジョン・ポール・ジョーンズ John Paul Jones (John Coltrane) (Jazz West, 1956) : https://youtu.be/D0395h6ksu8 - 6:56
Recorded at Western Recorders, Los Angeles, March 1 or 2, 1956
Released by Jazz West Records as the album "Chambers' Music", JWLP 7, September 1956
[ Paul Chambers Quartet ]
Paul Chambers - bass, John Coltrane - tenor saxophone, Kenny Drew - piano, Philly Joe Jones - drums

 この曲は僅差でポール・チェンバースの方が先に西海岸のインディー・レーベルへの自分のアルバムで録音し、2か月後にプレスティッジ・レコーズに録音されたマイルス・デイヴィスのアルバムがマイルスのコロンビア・レコーズへの移籍に伴って意図的に発売延期されたためにチェンバース版の方が先に発売されました。もともとこれはマイルス・クインテット在籍時のジョン・コルトレーンがマイルスに提供した曲で、マイルスのアルバムでは「Trane's Blues (a.k.a."Vierd Blues")」というタイトルになっていますが原題は最初から「ジョン・ポール・ジョーンズ」だったそうで、クインテットのメンバーでマイルスとピアノのレッド・ガーランド抜きでコルトレーンとチェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズが練習中にたまたまできた曲なので三人の名前を並べて「ジョン・ポール・ジョーンズ」としたのが曲名の由来になるそうです。コルトレーンはピアノ抜きでベースとドラムスだけをバックに吹くのが得意で、チェンバースとジョーンズとは気心の合う親友になったそうですから(親分のマイルスは誰とも打ち解けない気難しい性格でした)、コルトレーンにとっては親分のマイルス抜きにチェンバースとフィリー・ジョーと一緒に演奏したチェンバース版の方がのびのびと自作曲を吹けたかもしれません。曲自体は手癖のようなリフ・ブルースでどうというような曲ではないのですが、モダン・ジャズの器楽ブルースはこうした簡素でくつろいだ味が良いので、同じ黒人音楽でブルースでもR&B系の音楽の熱い情感やヘヴィーさとは違うクールな軽やかさがジャズならではの洗練された性格と言えるので、これはこれで過不足のない充実した演奏です。

 しかし同じ曲をマイルスのクインテットが演奏するとどうなるか。たった2か月後、しかもメンバーはコルトレーン、チェンバース、フィリー・ジョーと3人までチェンバース版と同じなのに、緊張感や楽曲から受ける感じがまるで違います。タイトルの改題はプレスティッジが既出曲との重複を避けて勝手に改題したらしいですが、マイルスという怖いリーダーが指揮するだけでこんなに変わってしまうのか、というくらいコルトレーンのテナーもフィリー・ジョーのドラムスもいきなり気合いの入ったものになっている。テンポがはっきりと速いのは聴いてすぐわかりますが、ライン自体はあまり変わらないチェンバースのベースもこのテンポのせいで加速感が増している。テーマと先発ソロを執るマイルスのトランペットが鋭角的かつ広い空間性を感じさせるので、単純なリフ・ブルースが非常にポテンシャルの高いアドリブを生み出す舞台になっている。つまりスケールのでかさが格段に違う。チェンバース版が飲み屋や狭いジャズ・クラブを賑やかす演奏なら、マイルス・クインテット版はコンサート会場や野外フェスティバルの大舞台に堂々と響きわたる格の大きさがあります。この2ヴァージョンはマイルス版の方が圧倒的に有名なので、マイルス版の演奏が当たり前に耳になじんでしまっているリスナーの方が多いでしょうが、実はこんな他愛ないブルース曲でもとんでもない大手腕が働いていることがチェンバース版「ジョン・ポール・ジョーンズ」と聴き較べると唖然とするほど伝わってくる。しかも実際にはおそらくチェンバース版の方が作者コルトレーンの意図がそのまま表現されている演奏です。こういうところに単純にはひとつの正解というものがないジャズの面白さがあります。

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The Miles Davis Quintet - Trane's Blues (a.k.a."Vierd Blues") (John Coltrane) (Prestige, 1959) : https://youtu.be/HUpAPd21WNU - 8:35
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey, May 11, 1956
Released by Prestige Records, Prestige PRLP 7166, September 1959
[ The Miles Davis Quintet ]
Miles Davis - trumpet, John Coltrane - tenor saxophone, Red Garland - piano, Paul Chambers - bass, Philly Joe Jones - drums

映画日記3月30日・31日/最後の民族地方主義ソヴィエト映画監督セルゲイ・パラジャーノフ(1924-1990)作品(後)

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 アメリカの古典映画復刻会社Kino Video社のセルゲイ・パラジャーノフ(Sergei Parajanov, 1924-1990)作品4作品を収めたボックス・セット『The Films of Sergei Parajanov』の外箱には一文がパラジャーノフへの讃辞として印刷されています。"In The Temple of Cinema, There are Images, Light and Reality. Sergei Parajanov was The Master of that Temple." Jean-Luc Godard……「映画の神殿の中には、イメージ、光そしてリアリティがある。セルゲイ・パラジャーノフはその神殿の主だった」ジャン=リュック・ゴダール、と、ゴダールは昔から惚れこんだ映画監督は最上の讃辞で褒め上げる、そうでなければばっさりと斬り捨てる人でしたが(まだ20代の映画批評同人誌寄稿家時代に「溝口健二はグリフィス、ルノワール、ロッセリーニに匹敵する世界最大の映画作家だ。黒澤明などどこにでもいる二流の娯楽映画監督だ」と書いています)、今回『火の馬』以降の長編4作を観直して、初めて初期長編3作を観ると、初期3長編は万全な視聴ができなかったので映像ソフト化されたらしっかり観直して感想を書きたいと思いますが、どうもパラジャーノフはファンタジー作品の長編第1作『アンドリエーシ』'55(ヤーコフ・パゼリャンと共同監督)と現代劇の第2作『ウクライナのラプソディー』'61(単独監督)、やはり現代劇の第3作『石の上の花』'62(アナトリー・スラサレンコと共同監督)とオーソドックスながら堅実で感じの良い作品のあと第4長編『火の馬』'64で野心作を成功させ、そこまでが良かったんじゃないかという気がしてきます。『ざくろの色』'69で妙な方に行ってしまい、今回ご紹介するカムバック後の2作『スラム砦の伝説』'85、『アシク・ケリブ』'88(ともにダヴィッド・アバシーゼと共同監督)では本職は俳優であるアバシーゼに俳優の演出を任せているのではないか。その分『火の馬』までの劇映画らしさはかなり戻りましたが、映画全編のムードの統一や一定の均質感、めりはりといった要素では一旦極端な絵画的作品『ざくろの色』でもまだやり残した感があったらしく、どこか方向性を模索中に未完成のまま放り出したような仕上がりになってします。パラジャーノフが弾圧を受けて映画を撮れなかった15年の期間は年齢では45歳~60歳ともっとも充実した仕事ができたはずの時期に当たるので、逝去時に準備中だったという『告白』も自伝的作品だったそうですから弾圧期間の空白を埋める作品を意図していたと思われ、『アシク・ケリブ』を捧げた4歳年少のアンドレイ・タルコフスキイ(1932-1986)がもっと早逝ながら生前の名声と完結感の高いキャリアを築いたのに較べると、同時代の同国の映画監督ながらパラジャーノフの境遇の不遇には判官贔屓したい気持にもさせられます。『ざくろの色』も続く作品に良い成果を見せればまた見方も変わってくる面があり、15年の空白が生じたせいで単発の試みになってしまったのが『ざくろの色』を特殊な映画にしてしまったとも思え、また『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』は明快なドラマ性では『火の馬』のフォークロア性を継いでいますが映像文体は『ざくろの色』の手法を持ちこもうとしてどっちつかずな結果になっているのも前述の通りで、1作ごとの完結感が薄いとまでは言いませんが、パラジャーノフの4作は1作だけ観ても力量の全容が見えない、他の作品も観ないと感想を保留したい作品ばかりで、初期3長編も一応観たので長編7作はすべて観たのですが、むしろまだパラジャーノフらしい特色の発揮されていない初期3長編の方が狙いと仕上がりに無理のない均衡のとれた映画です。『火の馬』以降の4長編について言えば『火の馬』から『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』『ざくろの色』と発展していった方が自然で、一足飛びに『ざくろの色』に向かってしまったのがパラジャーノフの鬼才たるゆえんでもあるのですが、不幸にもパラジャーノフ自身の創作力からではなく外部からの圧力によってキャリアに空白が生じることになった。地方民族伝承土着文化への着目とその映像化にパラジャーノフのオリジナリティが『火の馬』で尖鋭的に現れ、その資質を以降極端に圧縮・分断されたかたちでしか展開できなかったのが惜しまれ、ゴダールのパラジャーノフ讃美も実現されなかったパラジャーノフの可能性全体へのはなむけと思えるのです。幸いパラジャーノフの『火の馬』からの長編劇映画全4作は内外の映像ソフトで入手が比較的容易であり、また日本劇場公開もされていますのでキネマ旬報の紹介記事も参照して感想文を書いてみます。なお文字ソフトの都合上ロシア語・ウクライナ語他の原綴はローマ字表記に代えました。ご了承ください。

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●3月30日(土)
『スラム砦の伝説』Ambavi Suramis tsikhisa (共同監督=ダヴィッド・アバシーゼ、Kartuli Pilmi Tbilissi, Georgia'85)*83min, Color : 日本公開平成3年7月20日 : https://youtu.be/wk56xsHKtSM (Full Movie, English Subtitle)

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 前作『サヤト・ノヴァ』'69が『ざくろの色』と改題(以後定着します)・改訂し'71年に公開されたあとパラジャーノフへのソヴィエト映画界の冷遇・弾圧は露骨になり、作品内容や検挙された反体制派知識人との交友によりパラジャーノフ自身が危険人物と見なされるようになったのが原因のようですが、10本以上の新作企画が次々却下された挙げ句ようやくアンデルセン童話からのテレビ用作品の企画が通り、準備のためにモスクワに赴きウクライナに戻ったところ政治活動の疑いで逮捕されてしまいます。国内でも不当逮捕との声が上がりましたが判決は有罪でパラジャーノフは収監され強制労働に課せられましたが、『ざくろの色』の欧米諸国での評価の高まりでゴダールを筆頭としたヨーロッパの映画監督たちの抗議運動が起こり、5年間の強制労働を経て'77年末にようやくパラジャーノフは釈放されました。しかし国内での冷遇・弾圧は続き、'82年初頭には家宅捜索を受けて逮捕され同年末まで収監される、と依然新作の作れない状況が続きます。パラジャーノフに新作の製作許可が降りたのはグルジアの書記長の文化改革案が通った'83年になってからで、翌年に製作を始めた新作は'84年内に完成し、ソヴィエト政府のペレストロイカとほぼ同時に'85年に一般公開されました。前作『ざくろの色(サヤト・ノヴァ)』完成時に45歳だったパラジャーノフは60歳でやっと新作を完成することができたので、この間に世界的名声を高め亡命監督となって次々と話題作を送り出していたタルコフスキイとはソヴィエト政府との反目では共通していても境遇は対照的だったと言えます。またカムバック後の長編劇映画監督作2作はどちらもダビッド(ドド)・アバシーゼ(1924-1990)との共同監督作になりますが、パラジャーノフと同年・同郷生まれのアバシーゼは幼なじみであり人民芸術家の地位を得た俳優で、カムバック後のパラジャーノフは他には短編ドキュメンタリー「ピロスマニのアラベスク」'85が単独監督作としてありますが、長い空白期間のあとの長編劇映画では俳優の演出にヴェテラン俳優で自分の理解者であるアバシーゼの助力を仰ぎたかったとも、国家公認芸術家として地位の高いアバシーゼとの共同監督が条件だったとも考えられます。『ざくろの色』の演出スタイルがほとんど絵画的なものだったのを思えば今回はパラジャーノフが俳優の演出にアバシーゼの助力を仰ぎたかった必要性も感じますし、アバシーゼは主人公を導く重要な年長者役で2役で出演もしています。監督クレジットもドド・アバシーゼがセルゲイ・パラジャーノフの上に来ます。本作も12のシークエンスに分かれていた『火の馬』、8シークエンスに分かれていた『ざくろの色』からさらに細かく、全編は21のシークエンスに分かれ、「プロローグ」「トビリシの南門」「放浪の始まり」「隊商」「告白」「運命の道」「グランシャロ」「結婚式と黒い酩酊」「祈りを捧げる者」「占い師」「おどけた笛吹き」「赦罪」「聖父と第二の洗礼」「契約」「夢と死の予兆」「愛の始まり」「皇帝といつものゲーム」「ズラブの目撃した侵略」「時は流れる」「罪のくり返し」「エピローグ」と章題の字幕タイトルがその都度入ります。本作も日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 予言に従い、生きたまま砦に埋め込められた中世グルジアの伝説に基づくこの映画は、彩色写本や中世のイコンから現実に踊り出たような謎めいたシークエンスで綴られる不思議なパノラマ。監督は、「火の馬」「ざくろの色」「アシク・ケリブ」のセルゲイ・パラジャーノフ。共同監督のダヴィッド・アバシーゼは、パラジャーノフの幼な友達であり、グリジア共和国人民芸術家の称号を持つ俳優でもある。また、ペレストロイカによってパラジャーノフの生涯初めての公式プレミアが1985年のモスクワで行われた作品としても記憶される。
[ あらすじ ] 度重なる敵の侵入のため多大な戦死者を出していた頃のグリジア。皇帝は民との平等を宣言し、祖国を護る砦の建設に立ち上がった。だがトビリシの南門のスラム砦だけは、何度建造してもすぐに破壊されてしまう。スラム砦建設はグリジア民族の宿願となっていた。奴隷から解放されたドゥルミシハン(ズラブ・キプシーゼ)には、ヴァルドー(レリーア・アリベガシヴィリ)という恋人がいた。しかし、公爵に騙されたことを知るとドゥルミシハンはすべてを捨て、放浪の旅に出る。彼は隊商を率いるノダール・ザリカシヴィリ(ダヴィッド・アバシーゼ)と出会い、彼の懴悔を聞かされたことをきっかけに、隊に加わり、成功して妻を娶った。一方、恋人に捨てられたヴァルドー(ソフィコ・チアウレリ)は悲嘆に暮れ、占い師の老婆(ヴェリコ・アンジャパリッゼ)のもとへ行き、みずから跡を継いで占い師になっていた。そこへドゥルミシハンの妻が、生まれる子供の性別を占いに来た。ヴァルドーは男児であると予言した。運命の悪戯なのか、その時に生まれたズラブ(レヴァン・ウシャネイシュヴィリ)が、時を経て彼女のもとへ来て、砦再建の方法をたずねた。彼女の予言は、青い眼の美しい若者の人柱を砦の壁に埋めろというものだった……。
 ――本作はパラジャーノフが再び『火の馬』の地方民族伝承文化への着目からドラマ作品に戻った意図が感じられ、引き裂かれた恋人たちのうち男は流浪の末にある程度の地位を得て結婚し、女は占い師の後継者となっていますが、民族の願いである砦のうちスラム砦だけがいつまでも完成しない。この完成しないスラム砦がもともと恋人たちの別離の原因でもあったのですが、占い師の老女となった女は若い男の人柱が砦の完成に不可欠と預言する。男の息子の青年が自ら志願して人柱となり、老女の占い師はこれは運命か復讐なのかと砦の完成を祝う人々の中で嘆く、という物語です。シークエンスの数が『火の馬』『ざくろの色』から倍増していますがほんの数ショット~1ショットの極端に短いシークエンスも章題をつけて割ってあるため増えているので、青年が人柱になるシークエンスなどは長い「エピローグ」でまとめている。ただし本作が『火の馬』の着想を『ざくろの色』の技法に折衷した作品と見えるのはシークエンス分割による各シークエンスの断章形式と厳密に守られたフィックス・ショットで、『火の馬』の躍動的なカメラ・ワークやモンタージュではなく『ざくろの色』のタブロー的ショットによるフォルマリズムを踏襲している作品になっています。もともとグルジア出身のパラジャーノフにとっても本格的な歴史映画の本作は舞台・主題ともにもっとも切実なものだったに違いなく、荒野のようなグルジアの風土性やまったく近代的概念の戦争とは違う中世の戦争の様子がリアリティを持って描かれている。しかし全体的には能楽や浄瑠璃、歌舞伎のような様式感を与えるのも『ざくろの色』の手法の踏襲からで、『ざくろの色』の主演女優だったソフィコ・チアウレリが本作では中年~老女時代の占い師となったヒロインを演じていますが、男女両性年齢不詳で6役を演じた『ざくろの色』から15年経ったと思えない美貌に驚嘆しますし、主人公を導き見守る隊商の長と盲目の乞食の2役を演じたアバシーゼとともに名演を堪能できるものの、登場人物たちの誰に共感しながら観るには映画の焦点が散らばりすぎていて全体を引いて見るような仕上がりになっている。『火の馬』では悲運の恋人たちに焦点が絞られていて、恋人と死別した男の運命を最期までたどって地方ウクライナのカルパチア山地民族の死生観が大きく浮かび上がってくる仕組みがありました。本作では十分にドラマ性があるのにドラマ性への集中が稀薄で、生身の俳優が演じているのにタブロー的な伝承譚の再話という様式性が強い。『火の馬』の伝承文化への着目を『ざくろの色』の手法で折衷した、という印象はそこから来るので、これが基本的には次作『アシク・ケリブ』でも続くので、カムバック後の作品で新たな境地を開拓する前にパラジャーノフの映画は終わってしまった観が強いのです。本作が本作なりに感動のある作品であってもその点にまだ『火の馬』『ざくろの色』を越えていない不満が残ります。

●3月31日(日)
『アシク・ケリブ』Ashiki Keribi (共同監督=ダヴィッド・アバシーゼ、Kartuli Pilmi Tbilissi, Georgia-Azerbaycan'88)*74min, Color : 日本公開平成3年6月15日 : https://youtu.be/j5cDtlL6oUo (Full Movie, Russian Voiceover, No Subtitle)

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 本作はロシア文学の父プーシュキン(1799-1837)の愛弟子の詩人ミハイル・レールモントフ(1814-1841)の同名短編小説の映画化で、共同監督にダヴィッド・アバシーゼ、前作も脚本は監督本人ではなくラジャ・ギガシヴィリが手がけていましたが、本作も脚本はギーヤ・バドリッゼと脚本家を立てており、パラジャーノフ作品のような様式性の高い映画で『火の馬』『ざくろの色』がパラジャーノフ自身の脚本だったのを思うと脚本家の役割はどのようなものだったかを考えさせられます。タイトルの「アシク」はアルメニア語での吟遊詩人ですから「吟遊詩人ケリブ」とする方がわかりやすく、欧米諸国では原題のまま公開している国と『吟遊詩人ケリブ』としている国がさまざまで、また本作は近世アルメニアが舞台で主人公の放浪の旅はグルジアにおよぶので台詞はアルメニア語とグルジア語が混じるため、ソヴィエトでは全編に標準ロシア語のナレーション(ヴォイスオーヴァー)をかぶせた版も流布しており、かえって国外公開版の方がナレーションなしのオリジナル版(もっともロシア語圏外の観客にはアルメニア語もグルジア語も標準ロシア語も区別がつきませんが)で観られている、という作品です。アルメニアは中近東にもっとも近い地域であり、本作もイスラム圏色の強い風土性が描かれた作品となっており、これはペレストロイカ以降でないとソヴィエト映画では実現できなかった企画でしょう。本作もタブロー形式にシークエンスは21の断章に分割されており、「愛している、愛していない」「婚約の儀式」「詩人の苦悩」「青いチャペルでの誓い」「金を稼ぐための旅」「わずらわしい道連れ」「馬で行く者は友人ではない」「詩人の死を嘆くひとびと」「善良なひとびと」「隊商の道」「詩人の擁護者」「アリズとヴァリ」「ナディル将軍の領地」「隊商宿(ハーレム)」「ナディル将軍の復讐」「好戦的なスルタン」「汚された修道院」「唯一の神」「アシクの祈り」「白馬の聖者」「花嫁の父への挨拶」と細かいものですが、映像文体は『スラム砦の伝説』よりもかなり自由になっている。まず『ざくろの色』以来のフィックス・ショットに固執しなくなり、『火の馬』ほど大胆ではありませんが適度に移動ショットを交えるようになりました。また1ショットでのピント変化は前作にも見られましたが、本作ではかなり大胆に用いられており、'80年代の映画としてはやや時代ずれしているのではないかと感じる映像になっている。主人公の吟遊詩人がいかにもイスラム風のサルタンのハーレムに招待されるシーンではサルタンの愛人の女たちがイスラム衣装で全員マシンガンを持ち、サルタンが気勢を上げるごとに天井に向けて空砲を一斉にぶっ放すというポップ・アート的なコミカルな演出があり、これもエキストラ女優たちの演技といいあからさまなダビング音声のわざとらしいマシンガンの一斉射撃音といい、ゴダールの『カラビニエ』'63の頃ならともかく'80年代後半の映画でこのセンスはまずいんじゃないかと思える。しかし大真面目な『ざくろの色』と較べると本作のパラジャーノフは自己パロディすら交える余裕を感じさせるので、本作はユーモラスな時代メルヘン映画として観るのがもっとも真っ当な見方で、こうした志向は第1長編『アンドリエーシ』以来、適度な(と言えるかどうかはちょっと疑問もありますが)ユーモア感では第2長編『ウクライナのラプソディー』までに見られて『石の上の花』『火の馬』『ざくろの色』『スラム砦の伝説』ではあえて排除されていたもので、『火の馬』以降の作品ではハッピーエンドに終わる作品は本作だけです。60代前半ですがパラジャーノフには老境の意識があり、本作はエンドマークのあとに'86年に亡くなった「アンドレイ・タルコフスキイに捧げる」と献辞が出る。このあと'89年から製作開始された自伝的作品『告白』はごく一部の撮影まででパラジャーノフの逝去によって未完になっていますから『アシク・ケリブ』に遺作の意識はなかったでしょうが、演出センスの当否はともかくとして本作は老境の作者のとぼけた時代メルヘンの語り口を楽しむ作品とすれば技巧やギャグのセンスの古さも味になってくるので、『告白』が未完(未完成作品としてまとめるほども進まず、パラジャーノフについてのドキュメンタリーで断片が観られる程度のようです)に終わったのは残念ですがほのぼのとするメルヘン作品『アシク・ケリブ』が遺作になったのもこれはこれで良しと思えるので、出来不出来とは別に遺作らしい遺作というのもあるものです。本作も日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ] 吟遊詩人と富豪の娘の恋物語を耽美的に描く映像絵巻。「火の馬」のセルゲイ・パラジャーノフ監督のこれが遺作となった。共同監督はダヴィッド・アバシーゼ。ミハイル・レールモントフの原作を基に脚本はギーヤ・バドリッゼ、撮影はアルベルト・ヤブリヤン、音楽をジャヴァンシル・クリエフが担当。出演はユーリー・ムゴヤン、ヴェロニカ・メトニッゼほか。
[ あらすじ ] 心優しき吟遊詩人、アシク・ケリブ(ユーリー・ムゴヤン)は、領主の娘マグリ・メヘル(ヴェロニカ・メトニッゼ)と恋に落ちる。しかし彼女の父が結婚を許さなかったため、詩人は身を立てることを誓い、旅に出る。幾多の苦難を乗り越えながら冒険を続ける彼の前にある時、白馬に乗った聖人が現れ、故郷で待つ恋人の身に危機が迫っていることを告げる。詩人は一日に千里を走る聖人の白馬を駆って舞い戻り、恋人を抱き止める。
 ――本作はポスターの主人公俳優の強烈な風貌、パラジャーノフ作品に特徴的な赤の色彩効果がインパクト抜群なのでどれだけすごい映画かと期待させられますし、ヴィジュアル効果だけで十分満足できる映画でもあります。ただスタイルの徹底で言えば『ざくろの色』が本作よりはるかに強い作品ですし、『ざくろの色』はスタイルの徹底によってエキゾチシズムの中で完結してしまった観があり、パラジャーノフと同時期に酷似したスタイルを打ち出していたアンディ・ウォホールの『チェルシー・ガールズ』'66やヴェルナー・シュレーターの『アイカ・カタパ』'69、『マリア・マリブランの死』'71(タルコフスキイはこれらの作品も観ていたようですが、パラジャーノフは知らなかったと思われます)が強い様式化によって開けた感覚の映画を作り出したのとは逆の、非常に閉ざされた内容を感じさせる映画になってしまった。現在パラジャーノフの不朽の傑作と見なされているのは『ざくろの色』ですが、これはヨーロッパ文化圏のロシア地方文化に対するエキゾチシズム的憧憬が背景にある評価としか思えない。アンダーグラウンド映画のウォホール作品やシュレーター作品が映画の可能性を切り開いたようには『ざくろの色』は可能性を秘めた作品ではなく、ポテンシャルは高いとしても1作きりで完結しており到達点ではあっても『ざくろの色』から生まれてくる映画の可能性は考えられない、と思われるのです。『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』が『火の馬』のテーマを『ざくろの色』の手法で行って、どちらも映画の完成度は『火の馬』『ざくろの色』より崩れているのも『ざくろの色』自体に発展の余地のない作品だからで、崩れた部分は『火の馬』から引き継いだドラマ性を伴った地方文化への着目にあり、『スラム砦の伝説』も『アシク・ケリブ』も皮肉な見方をすれば『ざくろの色』のポテンシャルを保てなかったのが作品に映画らしい生き生きとした感動を取り戻させている、とも言えます。『アシク・ケリブ』では『火の馬』以来の悲劇性もやめてハッピーエンドのメルヘン作品に仕上げてあり、ここでのエキゾチシズムや審美性・耽美性は自己パロディすれすれになっているどころかそのものずばりのとぼけたはぐらかしにもなっている。そういう意味では従来のパラジャーノフ作品を期待した観客を煙にまくような映画ですが、パラジャーノフは寡作なだけに1作ごとに断絶があって『スラム砦の伝説』が『火の馬』に近い悲劇作品とすれば本作は登場人物が人間というより舞台装置に近いようにフォルマリズムを極めた『ざくろの色』に近く、『ざくろの色』がたまたま悲劇的生涯を送った宮廷詩人の肖像だったように本作はたまたまメルヘン化された吟遊詩人の恋愛成就譚にすぎない、と言えるものです。しかしパラジャーノフ作品はまだまだ観返すと印象ががらりと代わって見える気にさせるので、筆者は『ざくろの色』に対して否定的な見方から抜け出せませんが『ざくろの色』をパラジャーノフの核心的作品とするとまだ観るたびに変わってくる可能性もある。たとえばタルコフスキイ作品を観直したあとで、といった具合に他の同時代のソヴィエト映画監督の作品を観て改めて気づくこともあるかもしれません。またパラジャーノフ作品については十分に鑑賞力があったかという自信も心もとなく、この感想文をお読みいただいた方が実際の作品を観られるように試聴リンクを一通りつけておいたのはそうした意味もあります。パラジャーノフ作品に限らず、星印採点など躊躇されるゆえんです。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第一章

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  (1)

 第一章。
 ムーミン谷にレストランができたそうだよ、とムーミンパパが新聞から顔を上げると、言いました。今朝のムーミン家の居間には、
・今ここにいる人
・ここにいない人
 のどちらも集まっています。それほど広くもない居間に全員が収まるのは、ムーミン谷の住民は人ではなくトロールで融通が利くからです。
 そうだ、わが家は食事のふりならずっとしてきたが、それは家庭という雰囲気の演出のためであって実際に食事をしたことはない。そうだねママ?
 そうですよ、とママはおっとりと答えます。
 私がパイプをくゆらせ安楽椅子で新聞を読んでいるのもそうだ。毎日新聞ムーミン谷版は半年に一度しか出ない。半年に一度の紙面を年中読むのを新聞と呼べるだろうか。ムーミン谷にはタウン誌というものもないのだ。
 それで、ねえパパ、新聞にレストランができたって載ってたの?と偽ムーミンが無邪気を装って尋ねます。その頃ムーミンは全身を拘束され地下の穴蔵に幽閉されていました。
 かなり冷え込み、また拘束のストレスもあり恒温動物なら風邪をひくような環境ですが、トロールなのでただ動けないだけです。容貌は瓜二つなので、なにか弱みを握るたびに偽ムーミンはムーミンを脅して入れ違い遊びをしてきましたが、弱みを握られる側にも落ち度があると考えて現状を肯定してしまう卑屈さがムーミンにはありました。
 ねえ、レストラン行くの?と再び偽ムーミン。よく見ると頭部のつむじにあたる部分からアホ毛が三本生えていることでも偽物だと気づくはずですが、ムーミン谷の人びとは細かいことは気にしません。
 そこだよ問題は、とムーミンパパ。レストランに行くには、あらかじめいくつかの条件がある。まず正当な連れがいること、これは問題はない。ムーミン一家だからな。正当な連れ?おかしな組み合わせでレストランに入ったら変だということだよ。たとえばママがスナフキンとミイの三人でレストランに行ったらミイをアリバイにした不倫のように見えるだろう?
 あなた止めてくださいよ、とムーミンママがおっとりたしなめます。
 なら簡単に言おう。ムーミン、きみはお腹が空いたことがあるか?
 うん。そうか。でも一家で食卓につくともう空腹ではなくなるだろ?私たちムーミントロールは食事のふりをするだけでいいのだ。だがレストランでは実際に料理を食べなければならないのだぞ。


  (2)

 案外手間はかからなかったようだな、とムーミンパパはレストランのドアの前に立ち、ムーミンとムーミンママを振りかえりました。ムーミン、実は偽ムーミンはムーミン家の居間の会話中、危険を察してトイレに立ち、本物のムーミンと入れ替わっていたのです。
偽ムーミンが抱いた疑惑とは主に、
・情報源があやしい
・謎のレストランという設定がくさい
・特上の料理が出る
・挙句に食材にされる
 その根拠としては、半年に一度の新聞が今朝届いたとは思えませんし、ムーミンパパの頭はどうも不思議な電波を拾っているらしい。顧客を肥らせ食材にする話はいくつか知っている。偽ムーミンはムーミン谷の公立図書館に隠れて勝手に住んでおり、女性司書とも肉体関係があるので耳年増なのです。ムーミン谷の識字率は小数点を越えてマイナス値に達していますので、これほど偽ムーミンに好都合な施設はありません。
さらに、
・ムーミン谷には通貨がない
 ――というのも偽ムーミンの抱いた疑惑の根拠でした。正確には現在は通貨がないが、過去には1ムーミン2ムーミンという単位が存在していたらしい。だがこれはかつて貨幣経済が行われていた、というよりも人身売買経済がムーミン谷の制度だったのではないか、と半ばタブーになっています。おそらくそれはムーミン族が高次意識体たるトロールに到達する前で、食事や運動、買い物、排泄、性交、入浴などはトロール化以前の生活習慣の名残ではないか、と偽ムーミンは性交中に女性司書から教わりました。そんなの学校じゃ習わなかったよ。学校で教わることなんてみんなウソなのよ(笑)。
 ただし偽ムーミンはおいしいところはいただくつもりでしたので、注文が済んだらトイレに立つようにムーミンを脅してありました。トイレで入れ替わり、食事が済んだら食後のコーヒー中にまたムーミンと入れ替わる。そうすればお勘定は1.25ムーミンでございますという事態にも居合わせずに済む。家族三人の片足・片腕ずつでいいかね?それでは勘定に合いません。パパどうするの?何ならいいのかね?臓器などはいかがでしょうか?
 それに若い臓器ほど高くお引き取りいただけます、と偽ムーミンは想像し、親友の不運に憐憫を禁じ得ませんでした。
 その頃、ムーミンパパはメニューを開いて給仕に尋ねておりました。はい、と給仕、それはロールシャッハ・テストと申します。


  (3)

 ……気まずい沈黙が流れました。無礼者、それがムーミン族の長たる私への答えか!とテーブルの上に片足をあげて恫喝の態度に出かねないのがムーミンパパの性格です。能もないのにプライドだけは高いんだからこの野郎と、ムーミンママはエプロンの裏に隠したフライパンの柄を握りしめました。ムーミンパパがムーミン谷の長というのは都合のいい時だけ持ち出してくる理屈で、ムーミン谷はその呼称からもわかるようにムーミンの存在を中心とした空間でした。
 だからといってムーミンがいなければ存在しなかった世界ではなく、元始からスナフキンはスナフキンであり、ニョロニョロは目障りな場所に野生し、ミイは昔から金切り声をあげていました。ムーミンパパとムーミンママもそうです。ムーミンに合わせてお茶の水博士に造られたような存在ではなく、人の世のパパやママが潔く子供を基点にした関係代名詞的呼称を受け入れているのと事情に差はないことでした。
 しかしこのトロール棲息特区が代表的個体の名称に基づいてムーミン谷と公称されるからには、ムーミンパパが一族の長と自称し増長するのも無理からぬことです。目に余る事態に至ればムーミンママの適切な判断で頭部にフライパンの一打が下され、人格の初期化が行われてきました。その技は居合の達人級ですので、ムーミン谷の人びとには一瞬ムーミンパパの表情が硬直し、それまでの饒舌が突然寡黙になる現象、としか見えません。
 ただしムーミンママは別にこれを隠れて行っているつもりはないので、偽ムーミンが隠し撮り解析してそれとなく脅迫した時もふふ、どうかしらね、と退けることができました。別に露呈してもムーミン谷の秩序を揺がすような秘密ではないからです。かえって偽ムーミンの方が立場を危うくするのに気づき、以後はムーミンママの挙動は一切不問に付すことにしました。
 レストランの食事に期待がかかるのも図書館司書はコンビニ弁当以外の食事を出しませんし、ムーミン家の食卓は虫のついたままのサラダや腐臭のするスープ、吸殻や毛や輪ゴムの入ったコロッケやハンバーグなどで、これはムーミントロールは食事の必要はなく毎日生ゴミにしては料理しなおしているからです。まともなのはインスタントコーヒーくらいでした。
 その頃レストランではようやく具体的に注文をまとめる決議が取り行われておりました。


  (4)

 ムーミンパパは給仕からメニューの仕組みを聞き出すと、注文が決るまで下がってよろしいと紳士的な態度でしたので、ムーミンママも安心して凶器から手を離しました。ごめんなさいあなた、私難しくてちゃんと聞いてなかったの。
 ぼくも、とムーミン。やれやれママはともかく中学受験も控えて、それでは困るぞ。ムーミンはやはり偽ムーミンの脅しから入れ替わり、大半の授業は習えずに進級したので、釈明できないことでした。
 要するにここのメニューはロール……ロールシャッハ・テスト方式なのだ。ムーミン谷の住人は、見栄は高いが読み書きはまるでいかんからな。テストって何?この図形が何に見えるか、だよ。たとえば私には豚の骨盤に見えるが、それではあんまりなのでスペアリブのフルコースにした。
 ぼくには蝶々に見えるよ。私は潰れたヒキガエルに見えますけど。それは困ったな、とムーミンパパは給仕を呼び止め、今流れているのはなんていう歌かね?少々お待ちください。パパが時間稼ぎするからその間に考えるのだぞ。
 給仕はLPのレコード・ジャケットを持って戻ってきました。解説書を取り出し、先ほどお客さまがお尋ねになった曲はこれです。


「ここからぬけだす道があるはずだ」と/ぺてん師がドロボウにいった/「あまりにもややこしく息つくひまもない/経営者たちはおれのブドー酒をのみ、/農民たちはおれの土地をたがやす/そいつらのだれひとりとして/そのことの価値をしらない」

「そう興奮しなくてもいいさ」/とドロボウはいたわって、いった/「おれたちの仲間でも多くのやつが生きることは/ペテンにすぎないとおもっているさ/だがあんたとおれはそんなことは卒業したし、/これはおれたちの運命じゃない/ウソをしゃべるのはよそう夜がふけてきた」

見張塔からずっと王子たちが見張っていた/すると女たちはみんな出たり/はだしの召使いたちもそうしていた

とおくのほうではヤマネコがうなった/ウマにのった男がふたり近づき/風がほえはじめた


 私は外国語は読めんが、とムーミンパパ、どうもこれは違う歌詞のようだぞ。翻訳でございますから。翻訳?外国語を別の外国語にしたものでございます。臆病者をチキンと言うようなものかね。まあそんなところでございます。
 私チキンソテーにします、とムーミンママ。ぼくも、とムーミン。


  (5)

 注文を終えて安堵した様子の両親にムーミンは自分も何か言おうとしましたが、その時ふと気づくと、ムーミンパパもムーミンママもあらぬところを凝視しているので、つい忘れて自分もそこに見入りました。
 ムーミンパパは気を取り直し、そうだねママ、それにムーミン、と息子に目をやると宙の一点を見つめているので、はて、と自分も目をやります。
 ムーミンママもハッと気づきましたが、とかく突飛な言動が目立つ夫はともかく息子までが夫と同じ虚空に目を凝らしているのは尋常と思えず、同じ視線の先を見つめました。
 見つめるうちにムーミンもハッと気づきました。何か大事なことにです。
 それをきっかけにつられてスノークも見つめました。つられてフローレンも見つめました。つられてヘムレンさんも見つめました。つられてヘムル署長も見つめました。つられてスティンキーも見つめました。つられてミイも見つめました。つられてミムラも見つめました。つられてジャコウネズミ博士も見つめました。つられてトフスランとビフスランも見つめました。あのスナフキンすらつられて見つめました。
 それでもやっぱりムーミンは自分も何か言おうと思いましたが、ムーミンパパもムーミンママもあらぬところを凝視しているので、つい忘れて自分もそこに見入りました。
 ムーミンパパは我にかえってふたたび妻子に目をやると、やはり宙の一点を見つめているので、はて、と自分も視線を戻します。
 ムーミンママもハッと気づきましたが、夫の奇行は病癖としても息子までが夫と同じ虚空に目を凝らしているのはやはり尋常とは思えず、ふたたび同じ視線の先を見つめます。
 見つめるうちにムーミンもハッと気づきました。今度は忘れるとやばいことでした。しかしその目は宙の一点にすえたままです。
 それをきっかけにまたもやスノークも見つめました。またもやフローレンも見つめました。またもやヘムレンさんも見つめました。またもやヘムル署長も見つめました。またもやスティンキーも見つめました。またもやミイも見つめました。またもやミムラも見つめました。またもやジャコウネズミ博士も見つめました。またもやトフスランとビフスランも見つめました。あのスナフキンすらまたもや見つめました。
 ですが、みんなが視線の先の空間に気をとられている間に、陰謀は着々と進行していたのです。


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 ではご主人さまはスペアリブ、奥さまとお坊ちゃまはチキンソテーをメインに、すべてフルコースでよろしいですね、と、給仕。
お坊ちゃまですって、笑っちゃうわよねー。やめなさいミイ、と姉のミムラがたしなめます。だーってみんな笑いをこらえているじゃない、とミイが言う通り、ムーミン谷の人びとは爆笑寸前とまではいかずとも、おのおのの形態に応じて苦笑や失笑の体を呈しておりました。もちろんレストランの中でです。物見高いムーミン谷の人びとは毒を食らわばとばかりに、こんなところまでムーミン一家についてきたのでした。
 物置小屋程度のレストランだったのにはさすがのムーミンパパですら一瞬驚きましたが、そこはトロールですから状況に応じた縮尺になれば良いのです。また、トロールは不可視にも不感知にもなれますから、ムーミン谷中の人びとが壁や天井からムーミン一家の一喜一憂を見学しているのを、ムーミン一家の三人は知りません。
 それでもカンとは働くもので、給仕が厨房に去り、ははは、ご主人さまと奥さま・お坊っちゃんときたもんだ、まるでわれわれは人間みたいではないか、と笑いながらもムーミンパパの目はなんとなく空中を向いていました。
 あら、けっこうなことじゃありませんか、とムーミンママも微笑みましたが、ムーミンパパの視線に気づくと、なぞるように宙に目をやります。
 両親のやり取りを聞いていたムーミンは自分も何か言おうと思いましたが、ムーミンパパもムーミンママもあらぬところを凝視しているので、つい忘れて自分もそこに見入りました。
ムーミンパパはそうだねママ、だろムーミン、と息子に目をやると宙の一点を見つめているので、はて、と自分も目をやります。
 ムーミンママもハッと気づきましたが、とかく突飛な言動が目立つ夫だけならともかく息子までが夫と同じ虚空に目を凝らしているのは尋常と思えず、同じ視線の先を見つめました。
 見つめるうちにムーミンもハッと気づきました。
 つられてスノークも見つめました。つられてフローレンも見つめました。つられてヘムレンさんも見つめました。つられてヘムル署長も見つめました。つられてミムラも見つめました。つられてちびのミイも見つめました。スナフキンすらつられて見つめました。
その間にムーミンは、またトイレで偽ムーミンと入れ替り、そしらぬ顔で戻ってきたのです。


  (7)

 ムーミンはムーミンパパとムーミンママが宙の一点を見つめて硬直しているのには気づかず、当然いるはずはないスノークがつられて見つめているのも、つられてフローレンも見つめているのも、つられてヘムレンさんも見つめているのも、つられてヘムル署長も見つめているのも、つられてスティンキーも見つめているのも、つられてミイも見つめているのも、つられてミムラも見つめているのも、つられてジャコウネズミ博士も見つめているのも、つられてトフスランとビフスランも見つめているのも、あのスナフキンすらつられて見つめているのも気づきませんでした。
 というのもムーミンはムーミンであり、もっとも無知で無害な者を治者にまつりあげるのはあからさまな権力逃走を避けるためによくある少数民族の制度だからです。市井の学者であるヘムレンさんによって異なる種族と解明されるまで、ムーミン族はカバの一種と誤解されていた時期がありました。しかし古代の貨幣単位にすらムーミンの名が用いられているところを見ると、このカバもどきの種族が代々ムーミン谷の象徴であったことは、ほぼ確実です。ムーミン族は代々例外なく間の抜けた男子をもうけることでも特徴があり、怜悧な女子はスノーク族と似通っています。
 ムーミン族とスノーク族は遺伝子形質の99.998%までが一致しており、その差がいわゆる知性なのではないか、とムーミン族以外の誰もが(ムーミン族も女性は)推測していますが、口にするのをはばかるのはフローレンならともかく、カツラ自慢の兄スノークが増長するからです。
 スノークのうぬぼれの強さが知性なら、ことあるごとにこのハゲ!ハゲではないカツラはおシャレなのだ!このカバ!私はカバではない、ムーミンたちに言いたまえ。ムーミンがカバならあんたもカバじゃん!私がカバならお前はバカだ、はっはっは。
 そんな見苦しい応酬をミイ相手に毎日のように繰り返すスノークが、ムーミン谷には文明などは私の部屋にしかない、などとヘムレンさんやジャコウネズミ博士までも嘲っている様子を見ると、嫌味な知性などない方がましだ、とムーミン谷の誰もが思うのでした。
 そうだ注文が済んだんだ、とムーミンは思い出し、トイレ、とひと言言って席を立ちました。そんな事情で誰もがムーミンの中座に気づかなかったのは僥倖というものでしょう。


  (8)

 偽ムーミンがテーブルに戻ると意外にもレストランはごったがえしており、スノークとフローレンは兄妹で同じテーブルに、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士は学者で同じテーブルに、双子夫婦トフスランとビフスランは双子で同じテーブルに、ヘムル署長とスティンキーは手錠でつながれて同じテーブルに、ミムラとミイは35人の兄弟姉妹と揃って同じテーブルに、あの孤高のスナフキンすらニョロニョロの繁るテーブルで退屈そうにしていました。もちろん、ここにいない人もです。
 話が違うぞムーミン、まあ後で殴るか、と偽ムーミンは頭のアホ毛をなびかせながらムーミン声モードに喉をととのえ、自然な第一声を考えながらテーブルの間を横切ります。
 ちょうどムーミン家のテーブルにはスープが運ばれてきたところでした。まだムーミンが戻りませんよ、とムーミンママ。ならばなおのこと味見しておこう、とムーミンパパはムーミンの皿からえぐるようにしてすくい、おや、これは虫入りのシチューなのだな、ママのコロッケやハンバーグにもよく入っているアレと同じだ、テレビでよく、一匹見かけると30匹います、と言っているアレだ。レストランでも出すのだかられっきとした食用昆虫だったのだな。一匹見かけると30匹なんて、まるでミイの兄妹みたいですねえ。まったくだ、はっはっは。
 その時ムーミンパパたちはまだ周囲に忽然とムーミン谷の人びとが現れたのに気づかなかったので、あのカバ夫婦!とミイがいきり立つのも、待ちなさいミイ、とミムラが止めるのも気づきませんでした。でも。ここでは駄目、殺るなら外で殺りましょう。
 とにかくパパ、とムーミンママ。ひと匙だってそれはムーミンのスープなんだから盗み飲みは駄目。仕方ないなあ、とパパは匙からスープを戻して、スプーンを舐めるくらいならいいだろう?駄目か?ではテーブルクロスの端で拭くぞ。
 じゅー、っとテーブルクロスの端は音をたててスープのしずくを吸いこみ、みるみるうちに変色して溶けていくと、焦げ目のような跡を露出したテーブルに残しました。
 化学反応ってやつだな、とムーミンパパ。面白くなってきたじゃないか。どうやらレストランの料理というものはわれわれが知っているつもりのものとはまるで異なるようだぞ。
 あらどこへ行っていたのムーミン、とムーミンママはおっとりと、偽ムーミンに言いました。


  (9)

 トイレだよ、と偽ムーミンはやや低い声で返答しました。今回は体ごとではなく精神だけを遠距離交換したので肉体は本物のムーミンですから、他人の体は発声ひとつとってもすぐには扱いづらいのです。
 本当はいつものように肉体ごと、もっともトロールの体を肉体と呼べれば、まるごと入れ替わりたかったのですが、事情が許さなかったのです。だからトイレというのもウソでしたので、善悪を超越した偽ムーミンの心にも、トロールの意識を心と呼べれば、少し小さなトゲが刺さりました。
 つい先ほどムーミンはレストラン全体の放心状態のなか、まんまとトイレに立ったのですが、ここのトイレは一旦廊下に出る配置でした。ムーミンのような低能児でもトイレくらいはわかります。ここだな、とドアの前に立つと、貼紙に、
・万年掃除中
 とありました。ムーミンは偽ムーミンとの約束と鉄拳制裁を思い浮かべて途方にくれましたが、なんとかしなければとトイレに入りました。
 掃除なんかしてないぞ、おかしいなあとムーミンが作業にかかろうとすると、個室から引きつったようなうめき声がしました。セックスかな?するとガラスの擦れあうような音もします。あっ、そうか。
 ジャンキーだ!こうなるとトイレでボヤボヤしていられません。踏みこまれたらムーミンまで捕まってしまいます。こういうのは案外警察の事件捏造工作なのはヘムル署長からたまに聞きます。ムーミン谷では麻薬犯は無条件で死刑か完全な終身刑。法外ですがその方が面白いからです。
 ムーミンにしては珍しく機転と実行力が一致して、咄嗟に洗面台の鏡を叩き割ると素早く大きなカケラを二枚選んで廊下に飛び出しました。ムーミンは悪を知らない種族なので公衆道徳クソくらえなのです。
・用具室
 にムーミンは入ると、苦心して鏡のカケラを合わせ鏡にして自分の顔を映しました。一瞬遅れて、遅かったじゃないか、と鏡に偽ムーミンの顔の半面が映りました。それに全身が入っていないぞ。意識の交換しかできなかったのはそういうわけです。
 ムーミンの言い訳と状況説明をフンフンと聞き、罵詈雑言をあびせ、ついでに戻る時はトイレでやるぞと脅して、二体のムーミンは精神交換しました。頭からは偽ムーミンを表すアホ毛フラグが立ちました。
 さてムーミンも戻ったし、とムーミンパパ、食事を始めようじゃないか。


  (10)

 ムーミンパパはさりげなく家族に告げただけですが、そのひと言でスノークとフローレン兄妹もぎょっとムーミン一家を見つめ、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士もムーミン一家を学術的に見つめ、双子夫婦のトフスランとビフスランも双子だからそっくりな顔で見つめ、ヘムル署長とスティンキーもおまわりと泥棒の垣根なく見つめ、ミムラとミイも35人の兄弟姉妹集団で見つめ、あの孤高のスナフキンもニョロニョロの繁るテーブルで伏せていた顔を上げました。もちろん、ここにいない人もです。
 つまりそれまで不可視のバリア、もしくはズレた位相空間からからムーミン一家の様子をうかがっていた断層が一瞬にして閉じたので、空気がその一瞬破裂し、レストラン内の食客たちの鼓膜が張ると、やがてじいんじいんと耳鳴りを残しながら回復していきました。ほとんどの人が、とは言えトロールですが、思わず耳を押さえました。
 ムーミンママだけは命にかけても大切なハンドバッグを膝の上で握りしめていました。まれに紛失でもしようものならムーミンママは狂乱してムーミン谷中を大パニックに陥れますが、なにしろ中にはムーミンママ本人が被写体のあらゆる時期に渡る猥褻写真が匿してあるのです。彼らの夫婦関係にどこかすきま風が吹いているのは、ムーミンパパ(元冒険家)がシベリアへの無謀な新婚旅行中の遭難事故で、昏睡している新妻の荷物に何か役に立つものはないかとハンドバッグの中身を知ってしまったからでした。
 当然ムーミンママはこのサノバビッチ!と罵り激怒して成田離婚を主張しましたが、どうせ私は捨て子育ちさ(事実)、そもそも海難事故で溺死寸前のママを助けた(それも事実)のがわれわれのなれ染めではないか、とムーミンパパが開き直るので、ムーミンママもならばいっそかかあ天下で通す口実ができたようなものでした。
 そして沈黙。今度はムーミン一家、スノークとフローレン、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士、トフスランとビフスラン、ヘムル署長とスティンキー、ミムラとミイと兄弟姉妹35人にあの孤高のスナフキンまでもが腹の探りあいです。ニョロニョロはサンポールを撒かれる前にさっさと姿を消しました。
 こういう時こそ出番です。ねぇみんなどうしたの?やあムーミン、と一堂は偽ムーミンのひと言でたちまちなごやかになりました。しめしめ。
 第一章完。


(初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

散りぎわの夜桜

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 もう今年の桜も見納め近くです。

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集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第二章

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  (11)

 第二章。
[ 場所 ]
・ムーミン谷に新規開店したレストラン
[ 時間 ]
・早めのディナータイム
[ 登場人物 ]
・ムーミン…ムーミン族を象徴する当代ムーミン。
・ムーミンパパ…先代ムーミンで私生児に生まれ孤児院で育つ。長じて冒険家となり世界を流浪した。
・ムーミンママ…海難事故で溺死寸前をムーミンパパに救助されたムーミン族の雌。義務感と経済的打算からムーミンパパと結婚。特技は猫かぶり。
・スノーク…スノーク族の当代当主でスノッブな趣味と知識をひけらかす俗物。軽薄だが愛嬌はある。カツラのお洒落が自慢。
・フローレン…スノークの妹で旧名ノンノン。容貌はムーミンママに瓜二つ。わがままでツンデレ。
・ヘムレンさん…市井の博物学者。初老。温厚な性格で尊敬を集める。
・ジャコウネズミ博士…傲慢な官僚的学者だが権威は非常に高い。
・トフスラン…ビフスランと双子の近親双姦夫婦。雌雄同体かもしれない。
・ビフスラン…トスフランと同じ。この夫婦は愛の巣から滅多に外出しない。
・ヘムル署長…法治国家の体裁だけに任命された警察署長。棒給より贈賄収入の方が高い。
・スティンキー…ムーミン谷唯一の泥棒。警察署の存在意義のための職業犯罪者であり贈賄によって恩赦されては再犯を繰り返す。ヘムル署長とは持ちつ持たれつの関係。
・ミムラ…ミムラ族に属する35人の兄弟姉妹の長姉。種族の名をとって「ミムラ姉さん」と呼ばれる。
・ミイ…ミムラ族に属する35人の兄弟姉妹のうちもっとも身体の発育が遅いことから蔑称としてこの呼び名が定着した。ムーミン谷の歩く壁新聞。
・スナフキン…クールでニヒルな一匹狼を気取る流れ者だが放浪範囲はムーミン谷の中に限られる。出自不明の単一種らしく生い立ち始め過去の記憶もないらしい。性格設定のわりにムーミン谷の子供たちの引率係を率先して引き受けていることから児童性愛者疑惑も持たれている。屋根の下で寝るのが苦手、人見知りなどそれなりに放浪的性癖は見られる。
・ニョロニョロ…ムーミン谷に群生する不潔な担子菌類。
・偽ムーミン…偽物。
・図書館司書…その情婦。

 舞台暗転。


  (12)

 ムーミンパパはさりげなくムーミン、その実は偽ムーミンを迎えましたが、ついつい息子のために椅子を引いてしまうという卑屈な行為をしてしまい、自分から屈辱感を招いてしまいました。ムーミン谷の慣習ではムーミン谷のムーミン族は家長または世帯主の逝去を待たずに、長子誕生と同時に家長の座を親から子へと譲るのです。もっともあまりに幼い頃は実質的には後見人の権威がありますが、一人前の口をきくようになれば法は家長の味方です。ムーミンは同期にコウノトリが運んできた子供たちの中でも知能の発達はひときわトロい児童でしたが、ムーミンパパはおそらく自分でも知らずに、ムーミンとは違う偽ムーミンの狡猾なオーラを感知してしまったのでしょう。
 畜生、私なんか孤児院の前に捨てられてたんだぞ!
 そのひと言でスノークとフローレン兄妹もぎょっとムーミンパパを見つめ、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士も分析的に見つめ、双子で夫婦のトフスランとビフスランもバカップル的に見つめ、ヘムル署長とスティンキーも犯罪の気配にわくわくしながら見つめ、ミムラとミイも35人の兄弟姉妹集団で見つめ、孤高を誇るスナフキンでさえもうニョロニョロの消えたテーブルでびくびくしながら顔を伏せました。もちろん、ここにいない人もです。
 あらパパ、どうしたというんです?とムーミンママがにこやかに、テーブルの裏では持参した凶器のフライパンの柄を再び握りしめてたしなめました。先のムーミンパパの台詞はムーミン生誕以来ことあるごとにパパがぼやいてきた愚痴だったからです。
 それがどうした、とはつまりこういうことです。コウノトリが飛来してくるシーズンは決まっており、ムーミン族の発情期も決まっているから、同数のムーミン族の臨月の家庭に同数のコウノトリが飛来するのが自然の摂理ですが、たとえば思いもよらぬ不幸でその条件が失われるとベビームーミンの届け先がなくなるので、やむを得ず孤児院の門前に置いてくるコウノトリもいる。孤児院も捨て子入れのダンボールを用意し、一週間くらいは引き取り手が現れるように、
・ムーミン差し上げ枡
 の札を添えておく。でも臨月のムーミン家庭はどこも赤ん坊を受け取っているので無駄なのです。この傷ましくもどうしようもない生い立ちがムーミンパパをエキセントリックなムーミンに育て上げました。


  (13)

 ところでママ、スープが運ばれてきてからもうどのくらい経ったかな?三分くらいだと思うよ、と偽ムーミンはスープ皿に触れて見当をつけました。
 誰もお前に訊いておらん、とムーミンパパは冷たくはねつけたので、あのおやじまだ拗ねてやがる、と周囲の反感を買ったものの、スープが運ばれてきた時ムーミンが席を外していたのも事実ですから、小生意気なガキには当然だというムードもありました。これを日本語の慣用句では
・喧嘩両成敗
 といいます。また、『英雄崇拝論』や『衣服哲学』で知られるスコットランド出身のイギリス文人トーマス・カーライル(1795〜1881)が広めた金言に、
・雄弁は銀、沈黙は金
 というのもありますが、これはカーライルがスイス滞在中に見かけたドイツ語の碑文だそうです。カーライルのオリジナル格言でなかなかやるじゃん、というものでは、
・この国民にしてこの政府あり
 というのがありますが、日本語の慣用句でも、
・割れ鍋に閉じ蓋
 というのはカーライルとは無関係に存在しますので、イギリス流の風刺と思えばそれほど感心するほどの機智ではないともいえます。
 誰もお前に訊いとらん、というなら同じテーブルにいるのは他にはムーミンママだけなので、最初から名指しでムーミンママに尋ねればいいことでした。しかしムーミンパパは元々行動の人、正確には行動のムーミントロールですので思いついたらすぐ口に出るタイプです。ムーミンママが即答しなかったのは、偽ムーミンがムーミンらしからぬ出しゃばりをする様子を見ようと言うのではなく、夫が次に言い出すことが見えすいていたからでした。
 つまりムーミンパパは食前の一服をしたいのです。まだスープが熱いなら私が一服するまで待ってくれんかね?紙巻き煙草ならいいですよ、一応あなたも持ち歩いているでしょう?それは風の強い屋外ならの話だ。私はヴィジュアル的にもパイプ煙草でなければ決まらんのを、ママも知っているではないか。
 とムーミンママは予想し、パイプ煙草というのは仕込みからして時間がかかるわけです。この際ムーミンママには根拠がなくても亭主の喫煙を食後まで禁じる権限がありました。
 早くしないと醒める頃ですよ。そうか、とガッカリのムーミンパパ。ではいただこうじゃないか、とさりげなく、ムーミン、お前からお食べ。


  (14)

・前回までのあらすじ—
 ムーミンパパは新規開店したムーミン谷のレストランで、コース料理最初のスープをまず息子から飲むように勧める。レストランは物見高いムーミン谷の人びとでごったがえしていた。だがその息子ムーミンは、実は食前にトイレに行ったふりをして偽ムーミンがすり替っていたのだった。

 えっ、パパ、どうしてぼくからなの?
 それはわれわれムーミン族では一家の大黒柱は長男だからな。ムーミン族の一家が福祉の恩恵を受けるには絶滅指定種というだけでは駄目なのだ。後継ぎの存在がなければならん。だからいずれお前もフローレン……(聞き耳に気づいて濁し)どこぞのお嬢さんを孕ませて亭主におさまり、それでこそ一人前のムーミンというものだ。わーったか?
 パパ、あなたってしゃべり始めるといつも長いのね。もっとわかりやすく話してくださらない?
 そんなことを言われてもこれが私のキャラクターなんだから玉子に丸いぞとケチをつけるようなものだ。サソリとカエルの話は話したことがあったかね。
 ありますよ、初めてお会いした時もお話していたじゃありませんか。
 あの嵐の晩にか?というとお前は船酔いしてゲーゲー吐いていたんだっけな。命が助かったんだから船酔いくらい我慢しろ、と優しく慰めたのは憶えているが、あの状況で私の与太話を憶えていたとはママもなかなか隅に置けんな。
 こんな時になんて男だろうと思ったんです。
 あの頃私は冒険家だったからな、良家のお嬢様の尺度で見られては困る。実際こうして夫婦になったではないか。
 サソリとカエルの話?
 ムーミン!
 おや、まだムーミンは知らなかったようだな。では話そう。
 私は聞きませんよ。
 ご自由に。では……川の前でサソリが渡れなくて困っていると、カエルが泳いでいました。向こう岸に乗せてくれないか、とサソリは頼みました。嫌だよ、きみは刺すだろ?刺さないよ、とサソリは約束しましたが川の真ん中まで来た時サソリはカエルを刺しました。二匹でぶくぶく沈みながら、カエルはサソリに言いました。何で刺したんだ、おかげでどちらも死ぬんだぞ。するとサソリが言いました--だっておれ、やっぱりサソリだもん。
 ……パパ、よくわからなかったよ。つまり……
 つまりお前がカエルならサソリを乗せるな、サソリならカエルに乗るなってことさ。ほら、スープが冷めるぞ。


  (15)

 そういえばパパ、食事の前に飲み物頼んでなかったっけ?と偽ムーミンはとぼけてカマをかけました。急いで物置部屋でムーミンと入れ替ってきたので、細かいことまでは訊くのを失念していたのです。見たところテーブルにはそれらしきものはありません。
 こういう場合子供はコーラかオレンジジュースと決っていますので、偽ムーミンはコーラもオレンジジュースも嫌いでしたからウーロン茶、またはアイスコーヒーにするんだぞ、とムーミンを脅していましたが、どうも裏山のニョロニョロ池から汲んできたような緑がかった水をたたえたコップしかありません。
 頼んでないのかな?だったら仕方ないや、と偽ムーミンはしぶしぶやはりニョロニョロくさいコップの水を飲もうとしたところ、
 待ったムーミン!
 とムーミンパパが偽ムーミンを制止しました。偽ムーミンは一瞬自分が正体のばれるようなことをしたかとギクッとし、心臓が肋骨に激突しました。
 な、なあにパパ。
 老いては子に従えとは昔の人はよく言ったものだ、とムーミンパパは偽ムーミンのアホ毛をなんとなく見つめながら、しみじみと言いました。お前に言われるまで食前の飲み物のことなどすっかり忘れておったぞ。なにしろレストランなど子の親になってからはすっかり足が遠のいてしまったからなあ。
 えっ?と偽ムーミンは演技ではなく本当に驚いて、昔はムーミン谷にレストランなんてあったの?
 ムーミンママは嫌そうな顔をしてムーミンパパに肘を突きました。ああ、とムーミンパパ。簡単に言おう、それはそれは不味いレストランが一軒だけあった。その店の名は……
 とムーミンパパが口にしかけると、店のすべてのテーブルからムーミン谷の人びとの、
・それは言うなオーラ
 がずどん、とムーミンパパの頭上にのしかかりました。うわあ。どうしたのパパ。簡単に言う。ママに包丁を持たせると危険な晩などはレストランにも行ったものだ。だが、
 ……とムーミンパパはようやく呼吸を整えながら、お前が生まれ、われわれが行かなくなるとレストランは店を畳んでしまった。ざまあみろだ。とにかく私が言いたいのは、だ、息子に言われるまで食前酒も頼むのを忘れるようでは(中略)、
 私はレモネード。
 ぼくはアイスコーヒー。
 私は黒ビール。よしよし、なんだか食事っぽくなってきたではないか。


  (16)

 いやーこうやって黒ビールなどを飲んでいると、とムーミンパパは旨そうに喉を鳴らしながら言いました、私が冒険家だった頃の数々の思い出が胸をかすめて万感の思いがあるな。
 どうしてなの?と偽ムーミン。別に興味があったから尋ねたわけではなく、思わせ振りなことを誰かが口にする時はたいがい訊いてほしいことがあるからです。ではこちらはどうだろう、とムーミンママを見ると、いつも通りの穏やかな微笑を浮かべていました。ということは、ムーミンママにとっては無表情と同じことです。もちろん偽ムーミンにはムーミンママがテーブルの下でフライパンの柄を握っていることなどわかりません。
 冒険家というのはだな、とムーミンパパ、冒険をしている時と同じかそれ以上に冒険ができない期間が長いのだ。具体的には一国の傭兵になって大活躍、これは冒険の醍醐味で、戦争の性質次第では〓〓や〓〓なども思いのまま、〓〓〓だって〓〓放題。だが一旦浮虜となると苛酷な戦争ほど浮虜の身分など単なる奴隷でしかなく、劣悪極まりない環境でいつ明けるとも知れない強制労働が待つ身となる。これが冒険の代償というわけさ。
 嫌ですよパパ、とムーミンママがおっとり、たしなめます。
 まったくだ、とムーミンパパ。しかも晴れて戦争が終結し、浮虜とは名ばかりの奴隷労働から解放されても傭兵の身分では浮虜を名目に戦功報酬を踏み倒され、軍人恩給も戦慰補償金も受給できないのだぞ。自由の代償と言えるものは一杯の黒ビールだけだ。
 ムーミンパパはもうひと口グッと飲むと、私が貸しのない海運国は地中海にはないに等しい!だいたいあんな海賊の末裔みたいな連中がたかだか税関詐欺だの組織的密輸だので私のような冒険家をブタ箱にぶち混むなんぞおのれを知らぬ行為にもほどがある。不正とは神のみぞ知るとはよく言ったものだ。しかも奴隷労働つきだぞ!
 というわけで、とムーミンパパは言いました、世の中広しといえど、たかがパイプの一服、黒ビールの一杯にこれほど至上の喜びを感じるにもどれだけ元をかけねばたどり着けないかを理解するには冒険家としての生き方を究めなければならぬ、と悟るまでには、
 とムーミンパパは文法が混乱してきたので面倒になって適当に、そういうわけだムーミン。
 うんわかった、と偽ムーミンも適当に応えました。でもパパ、スープが冷めちゃうよ。


  (17)

 ほら、と偽ムーミンはスプーンの底をスープの表面につけると、軽く押したり持ち上げたりしてみせ、もう皮ができてるよ。
 ほう、とムーミンパパは皮肉な口調で、お前もいつの間にかずいぶん賢くなったようだな、われわれは良い息子を持ったものだなママや、しかも親に向かって聞いたような口をききおるとは実に大したものだ、将来が楽しみというものではないかね?
 などなど、なんだか妙に絡んでくるので、黒ビール一杯でこんなに酔うものだろうか、まさかとは思うが今日のムーミンパパは息子が偽ムーミンと入れ替っているのに気づいているのだろうか、と偽ムーミンは冷や汗をかく思いでした。
 冷や汗と言ってもたとえ話で、ムーミン族はトロールですから哺乳類のような恒温動物よりも両棲類や爬虫類のような変温生物、もっと言えば気体や粒子に近いのです。それがたまたま直立したカバに似た生物の風貌をしていても、本質的には生命すら超越した存在なのはムーミン谷のタブーになっていました。
 というのは、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士、それとスノークも一致した意見では、もしムーミン族に関する真実が全世界に知られれば大変な事態が予測されるからなのです。
 見たまえ、とジャコウネズミ博士は言いました、これがムーミンから採取したサンプルだよ。毛もなければ爪もなく、血液らしきものもないムーミンから何とか削りとった細胞がこれだ、もしこれを細胞と呼べるなら、ね。
 ヘムレンさんは顕微鏡を覗いて愕然としました、まさか、信じがたい!
 どれどれ私にも、と顕微鏡を覗いたスノークもひっくり返りました。これが細胞ですか!ムーミンそのものではないですか!
 そう、それを細胞と呼べるなら、一個体のムーミンは全体が一個の細胞から出来ていると考えられる。ところが細胞とは本来他の細胞によって代謝されたエネルギーを必要とするものだ。だがムーミンはエネルギーの消費なしにエネルギーを発生させる。
 永久機関…。
 しかも、見たまえ。もう一つのムーミン細胞を合わせてみると…
 融合した!どういうことですか博士!
 ……なるほど、とヘムレンさん。ムーミンは熱力学の第三法則下にない。しかも個体とは便宜的な形態に過ぎない。これが世に知れたらどうなるかわかるかね、スノークくん?
 どうなるんです?
 すべての個体は滅び、世界は終わるんじゃよ。


  (18)

 ヘムレンさんは床に一辺が一メートル半の正三角形をチョークで描くと、それぞれの辺を二分割する位置に辺と交差する印を引きました。起き上がって描いた図形を眺め、
 こんなものかな。ではお二人とも印のところに立っておくれ。条件は公平なはすだが、納得いかないならその都度遠慮なく言おうじゃないか。
 私も異議はないがね、と、床と天井を見較べながら、ジャコウネズミ博士。つまりヘムレンさんの公平さには異議はない。あえて追加するなら、おのおのが位置を選ぶのを自由とすれば、われわれは譲りあってしまうだろう、というのが問題だ。それでは結局公平とは言えないやり方にもなりかねないと思うが、どうだろうか?
 そうですよ、最初からヘムレンさんが残った位置につくと決めるのはおかしい。背後の空間、照明の位置、この正三角形が三辺のどれを選んでも自分以外の二人と条件は同じなのは同意します。でしたら、どの立ち位置に立つことになるかも公平、かつ無作為にすべきでしょう。
 ではスノークくんには良い案はあるかね?
 ジャンケンなんていかがでしょうか?
 いや、ジャンケンは止めよう、とヘムレンさんもジャコウネズミ博士も同時に呻きました。あれはリスクが高すぎる。これは二人の良心の証として言うのだが、これまでムーミン谷を襲った疫病について、きみのような若者もいくつかは記憶にあるね?疫病のたびにワクチンの開発・決定をしてきたのはわれわれ二人だった。それで最終的にはA型ワクチンかB型ワクチンに決めるのだが、われわれは毎回ジャンケンで決めてきたのだ。
 それで、どうなったのですか?
 二回に一回の率でハズレ。だがこれは二人だから二分の一で済んだのであって、三人なら三分の一の確率になるのだぞ。
 ではどうすれば…。
 そうか、ならこれで行こうか、とジャコウネズミ博士が出してきたのは、六面体のサイコロでした。スノークとヘムレンさんは思わず震えあがりました。サイコロはムーミン谷では禁制品の筆頭だからです。なぜそんな物を君が…。私は科学者ではあるが、官僚でもあるからね。密輸押収品くらいはいつでも手に入るさ。たまたま今日は税関帰りでね。で、こういう場合、ルールは、(中略)
 三人は棍棒を持って等間隔の三角に立ちました。これから物理的にムーミン族の秘密に関する記憶を強制消去するのです。
 それから猛烈な連打。


  (19)

 偽ムーミンはムーミンパパにさりげなく告げただけですが、そのひと言で思わずスノークとフローレン兄妹もぎょっとしてムーミン一家から目を逸らし、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士も意図的に無視し、トフスランとビフスラン夫婦も双子であるのを忘れたような顔で背け、ヘムル署長とスティンキーもおまわりと泥棒の立場をわきまえて無視し、ミムラとミイも35人の兄弟姉妹を忘れて呆け、あの孤高のスナフキンも今やニョロニョロのいないテーブルに思わず顔を伏せました。もちろん、ここにいない人もです。
 つまりそれは、傍観者の位置、もしくは通行人の視点からムーミン一家の様子をうかがっていた間合いが一気に危うくなったので、弛んでいた緊張が一瞬にして張り詰め、レストラン内の食客たちの心拍が頂点まで高まると、回復は望めないとすら思えました。ほとんどの人が、とは言えトロールですが、この場に居合わせた不運を悔みました。
 ムーミンママだけは命にかけても大切なハンドバッグを握りしめて覚悟を決めました。もしもの場合バッグの中にはムーミン谷全域を焼却処分するN2地雷の起爆スイッチが仕込んでありました。またムーミンママの生体信号を受信する距離からバッグが離れてもこのスイッチは起爆するのです。ムーミン谷随一の平凡な主婦に、生死をかけたムーミン谷の秘密が託されているとは普通思えません。それもハンドバッグに。
 当然ムーミンママは舞い込んだこの誘惑に、私などその任に堪えませんわと最初は辞去しましたが、結局はムーミン谷すべての運命をハンドバッグの中に握るという陶酔には勝てなかったのです。しかも男尊女卑のムーミン族で、夫にも息子にも秘密となればこれに勝る快楽はありません。
 やがて喧騒。今度はムーミン一家ばかりでなくスノークとフローレン兄妹、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士、トフスランとビフスラン、ヘムル署長とスティンキー、ミムラとミイと35人の兄弟姉妹に孤高のスナフキンまでもが焦ったようにがやがやし始めました。ニョロニョロまでも喧騒に乗じてあちこちのテーブルに生える始末です。
 なんかやばいこと言ったかな?と偽ムーミンはおずおずと、ねぇみんなどうしたの?……ですが一堂は偽ムーミンを無視して一段と雑談に花を咲かせます。おかしい、いつもとは明らかに様子が違う。どうする?
 次回第二章完。


  (20)

 スノークくんはご存知ないかもしれんが、とジャコウネズミ博士は言いました、ヘムレンさんと私は併せて69もの学位を取得しておるのだ。これはわれわれ二人でムーミン谷に国際大学を開校するに十分な資格があることを意味する。
 なるほど、私はその唯一の生徒というわけですなはっはっは、とスノークは謙譲して答えましたが、どうやら今は社交辞令など問題ではない議題にさし掛っているのにすぐ気づきました。それで博士、おっしゃりたいことは…。
 まあこれから話すことは、すべて一種の比喩と考えてくれたまえ、とヘムレンさん。わしらは二人ともR.D.の学位を持っておる。つまり修辞学博士だな。修辞とは時として論理的な思弁よりも真実に近づくことがあるということさ。
 たとえば真実には二種類ある、とジャコウネズミ博士がすかさず言いました、雨の日は雨降り、これは帰納的真実で、雨が降ると雨の日、これは演繹的真実。だがスノークくんが一日中部屋に閉じこもっていた場合はどうかね?
 博士、私もインターネットくらいはしますよ。そしたら気象情報くらいは見てみます。
 ではサイトに流されている気象情報が偽情報だったらどうかね?
 当然違反申告します。とんでもない!
 それでは違反申告した先が必ずしも適切な対応をしてはくれず、そればかりか矛盾しあう情報のいずれも自己責任として放置しているような状態だったらどう判断するね?
 ええと、何を?
 天候!今日が雨降りかどうか。言っておくがきみは部屋の中にいるんだぞ。窓の外を見るのも駄目だ。
 テレビを観ます。
 テレビは広域気象情報しかやっとらんよ。
 じゃ、地方局。ムーミン谷TVを観ます。
 あそこは自社番組は天気予報やローカル・ニュースすらやらんぞ。島根県松江市や出雲市の天気を観てどうする?
 じゃあ117番に電話……
 駄目、ルール違反。そもそもきみは、質問の主旨がわかっているのかね?
 自分は何もせずに部屋にいながら天気を知る方法なんでしょう?あ、これはルール違反ではないですよね?フローレンに訊く。
 ピンポーン、とヘムレンさんとジャコウネズミ博士は微笑みました。だがそれはきみがフローレンの兄だからだ。全世界がきみなら、きみにとってのフローレンに当る存在。それが世界とムーミンの関係なのだよ。つまり、真実を媒介する唯一の存在。
 第二章完。


(初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

映画日記2019年4月1日~3日/一気観!『映画クレヨンしんちゃん』シリーズ!(1)

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 テレビアニメ「クレヨンしんちゃん」は1992年4月からテレビ朝日系列で毎週放映されている長寿番組で、原作コミックは「漫画アクション」(双葉社)に連載の臼井儀人(1958-2009)の成人向けギャグ漫画ですが、テレビでは児童向けアニメとして製作・放映され爆発的な反響を呼んだあとテレビ版独自の演出でファミリー向け作品として定着するとともに毎年1作のオリジナル原作による劇場版映画化も高い人気を得て、テレビ放映から数年の「子どもに見せたくない低俗番組」から現在は主人公一家が住む埼玉県春日部市の市民登録されるほど地域アピールに貢献した作品と目されています。原作者の臼井氏は2009年に不慮の事故で亡くなりましたが著作権継承者によって故人のアシスタント・出版社チームによる「クレヨンしんちゃん」の連載は続いており、テレビアニメ版・劇場版も現在でも一部の主要キャストの交替を経ながら続いています。「クレヨンしんちゃん」がファミリー向け作品として人気作品になったのはテレビアニメ版の認知度が高く、またオリジナル原作による劇場版映画化が「クレヨンしんちゃん」の枠を広げて高い評価を得たのが大きく、テレビ版と同じシンエイ動画が製作している劇場版シリーズはやはりシンエイ動画製作の人気シリーズであるテレビ版「ドラえもん」「映画ドラえもん」と双璧をなすシリーズになっており、テレビ版では日常編、劇場版では大胆な長編アドヴェンチャー・ファンタジー作品になったのももともと映画好きだった原作者が劇場版映画化用長編原作を描き下ろしていた『映画ドラえもん』の前例があったからですが、テレビ版の放映がもっと早かった「ちびまる子ちゃん」(1990年放映開始)が劇場版シリーズの製作が定着しなかったのに対して劇場版「クレヨンしんちゃん」は「ドラえもん」「それいけ!アンパンマン」に次ぐテレビアニメの劇場版映画の長寿シリーズとなっており(劇場版「名探偵コナン」「ポケットモンスター」「プリキュア」より5年以上長い)、ホームドラマ・コメディ作品のファミリー向けアニメとしては随一です。'90年代後半にはスタジオ・ジブリ作品と匹敵するかそれ以上と指摘する評者も増えており、さすがに25年以上続くと比較的低調な時期もありますが、シンエイ動画の丁寧な製作姿勢は一貫しておりアニメーション作家間での評価も非常に高いシリーズです。今年2019年4月19日には昨年の劇場版の公開直後に主人公のしんのすけ役の声優・矢島晶子さんの降板と小林由美子さんへの交替があり、今年2019年4月19日公開の第27作『映画クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン~失われたひろし~』は小林由美子さんのクレヨンしんちゃんの劇場版初映画になりますが、今月は2017年に劇場版25周年を記念して2016年の第24作『映画クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミーワールド大突撃』までをまとめた『映画クレヨンしんちゃん DVD-BOX 1993-2016』収録の24作を観直し、感想文を書いておこうと思います。継続的に製作されている大手映画社のプログラム・ピクチャーは現在アニメーション作品以外にはなく、その中でもシンエイ動画製作・東宝配給の『映画ドラえもん』『映画クレヨンしんちゃん』の2シリーズは突出して高い水準の作品を送り出しているのはご覧の方はご周知の通りで、観ていない・敬遠されている方ほど軽んじになる傾向があるのも『映画ドラえもん』と『映画クレヨンしんちゃん』、ことに『映画クレヨンしんちゃん』です。どちらのシリーズにも日本の最近30年間の長編アニメーション映画の最高の作品が何作もあります。敬意を表して感想文をしたためる次第です。なお各作品内容の紹介文はDVDボックスの作品紹介を引用させていただきました。

●4月1日(月)
『映画クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王』(監督=本郷みつる、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'1993.7.24)*93min, Color Animation
◎チョコビを買ってアクション仮面カードを当てたしんのすけ。ある日家族で海へ行くと"アクション仮面アトラクションランド"が出現!カードを使って入場した野原一家は時空移動マシンに乗せられて、異次元世界へ……。アクション仮面をお助けして、ハイグレ魔王をやっつけることができるのか!?

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 記念すべき劇場版第1作はテレビアニメ版の放映の翌年の夏休み映画として製作・公開されました。配給は東宝・東映・松竹の3社からオファーがあったそうですが、テレビ朝日・シンエイ動画とも『映画ドラえもん』で提携していた東宝に決定したとのことで、この第1作が興行収入22億円と長編アニメーション映画としては特大ヒットになったことからクレヨンしんちゃん映画のシリーズ化が始まりました。シリーズでの本作の興行収入は2015年の第23作『オラの引っ越し物語~サボテン大襲撃~』まで破られなかったほどですが、本作の特大ヒットはどちらかと言えば流行語・社会現象化するほどのテレビアニメ版の初映画化の話題性によるもので、本作の面白さで第2作以降は劇場版ならではの観客がつき、作品内容もよりテレビ版の延長にとどまらない作風になっていったのが初期のシリーズ作を観直すとわかります。劇場版第1作~3作目までは映画に連動して原作者の臼井氏のコミック『クレヨンしんちゃん』でも長編作品が発表されており、劇場版第1作はコミック『クレヨンしんちゃん』第6巻、第2作はコミック第8巻、第3作はコミック第11巻に収録されています。第1作~第3作も原作者と映画スタッフとの共同原案でしたが、原作者の意見と同意のもとに映画スタッフからの劇場版オリジナル原作が立てられるようになったのは第4作からで、以降の劇場版もコミカライズされていますが臼井氏の原作による他の漫画家が臼井氏の『クレヨンしんちゃん』の巻とは別に長編コミックを手がけるようになりました。本作はテレビ版「クレヨンしんちゃん」とはまだ内容上は地続きで、映画冒頭からアクション仮面の危機が描かれ、本編では平行してしんのすけの日常のホームドラマがコメディ・タッチで描かれますが、実は特撮番組のヒーローのアクション仮面(玄田哲章)は本当のスーパーヒーローで、世界征服にハイグレ魔王が現れて変身能力を奪われており、しんのすけがパラレルワールドのアクション仮面を救出することでこちらの世界のアクション仮面も変身能力を取り戻しハイグレ魔王(野沢那智)を撃退する、というアドヴェンチャー・ファンタジーに展開するのは映画の中盤以降です。それまでの前半は5歳児の野原しんのすけ(矢島晶子)、しんのすけの両親のひろし(藤原啓治)とみさえ(ならはしみき)、愛犬シロ(真柴摩利)の野原一家にふたば幼稚園(原作コミックではアクション幼稚園)の「かすかべ防衛隊」仲間のクラスメイト風間くん(真柴摩利)、ネネちゃん(林玉緒)、マサオくん(現・一柳斉貞友、'98年まで鈴木みえ名義)、ボーちゃん(佐藤智恵)、ひまわり組のよしなが先生(高田由美、のち七瀬はるひ=2010年~)、ばら組のまつざか先生(富沢美智恵)、園長先生(納谷六朗、のち森田順平=2015年~)を中心とするホームドラマ・コメディです。しんのすけの0歳児の妹ひまわり(こおろぎさとみ)はテレビ版では'96年9月放映から登場、劇場版では'97年の第5作が初登場となります。四半世紀以上も続くとメインキャストの交替もあり、藤原啓治さんが演じてきたひろしも2016年8月末から森川智之さんに交替し、しんのすけも2018年7月から小林由美子さんに交替しましたが、声質・演技とも従来のキャラクターを引き継ぐ方向で交替しており、矢島さんや藤原さんの降板を惜しむ声は多いものの人気は非常に高いアニメなので、シリーズ存続は喜ばれています。
 のちの『映画クレヨンしんちゃん』シリーズを観慣れた現在本作を観直すと、後半への伏線こそあれ前半はあまりテレビ版の日常ホームドラマ・コメディ「クレヨンしんちゃん」と変わらないではないか、と意外なほど劇場版第1作は慎重な作りだったのは少し拍子抜けがする。また劇場版第1作は単発作品だったので意図的にテレビ版のファンを前半でまず楽しませ、後半で劇場版ならではの展開にする作りだったと考えられます。テレビ版のアンソロジーDVDを観ると面白いですが、矢島晶子さんのあのしんちゃん独特の発声法はテレビ版の当初ではまったくその後定着したしんちゃんとは異なっていて、放映1年あまりをかけて築き上げたスタイルです。本作はテレビ版開始から2年目の夏の公開作品なので劇場版第1作にはしんちゃんスタイルの声が出来上がっている。一方キャラクターデザインはまだ初期の丸顔に近いしんちゃんで、しんちゃんの友だちの幼稚園児たちもそうです。翌年4月公開の劇場版第2作ではしんちゃんの顔はもっと偏平になっており、第3作、第4作の頃にはしんちゃん始め幼稚園児たちの顔もよりスタイリッシュなデフォルメの利いた、その後定着する「クレヨンしんちゃん」キャラクターの顔が確立していく。この絵柄の変化はアニメ版と原作コミックで相互影響しあって生じたようで、テレビ版の放映ペースは原作コミックの発表ペースより速いですからテレビアニメ版オリジナル原作回も増え、それを原作コミック側でも取りこむという具合に発展した。劇場版第4作以降は映画スタッフのオリジナル原案に原作者がアイディアを加える作りになり、より長編アニメーション作品らしい凝った内容になっていったのがこのシリーズで、原作者急逝後にもコミック、テレビ版、劇場版が続いているのも「クレヨンしんちゃん」の設定・キャラクターでどれだけ豊富なヴァリエーションが作れるか製作者側の創造の余地があったからになるでしょう。原作者の臼井氏が長編原作コミックを手がけた最初の3作にもすでにその後のシリーズ作品で多くのヴァリエーションを生む要素があって、本作は日常コメディと突拍子もない変態キャラクターが右往左往する巨悪退治のメタフィクション構造の荒唐無稽アドヴェンチャー・ファンタジーという基本アイディアがすでに始まっています。テレビ版の最初のメイン監督、本郷みつる監督は劇場版初期4作を手がけますが、1作ごとに前作を乗り越える勢いがあります。第1作の本作の場合、それはテレビ版でできる以上のものをという意欲だったのが伝わってきます。

●4月2日(火)
『映画クレヨンしんちゃん ブリブリ王国の秘宝』(監督=本郷みつる、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'1994.4.23)*93min, Color Animation
◎福引きで"ブリブリ王国"への海外旅行を当てて大喜びの野原一家。しかし、それは"ホワイトスネーク団"という悪いヤツらの罠だった!変なオカマに誘拐されそうになったり、サルの群れに助けられたりしながらジャングルをさまよう野原一家は、しんのすけを「王子」と呼ぶ女性に出会って……!?

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 第1作がフィクション世界内のフィクション「アクション仮面」がフィクション世界内ではフィクションではなく実在もしている、しかもパラレルワールドの「アクション仮面」とも対応関係にあると説明するとややこしいメタフィクション構造を持っていたように、本作も南洋の王国「ブリブリ王国」の5歳のスンノケシ王子が埼玉県「春我部」(本作ではこう表記されており、第6作以降では春日部市と表記されていることでも当初は下品な低俗アニメと批判が多かった「クレヨンしんちゃん」の社会的認知の変化が感じられます)のしんのすけと瓜二つ、しかもスンノケシ王子が持つ豚の鼻のレリーフがしんのすけがジャングルの猿から授かったレリーフと対になっていてブリブリ王国の秘宝の鍵となる、という照応関係は「変装」とともに以降もクレヨンしんちゃん映画の基本アイディアになるもので、昔30年ほど前に'70年代~'80年代のほとんどの日本文学の話題作は「対称」関係のモチーフばかりではないか、と指摘した『小説から遠く離れて』という長編批評がありましたが、対称と非対称を問題にしたそうした観点とはまったく無関係に出来上がっているのがクレヨンしんちゃんの世界で、デザイン用直線・曲線定規で描かれたようなキャラクターたちを一見しただけでもしんちゃんアニメのリアリティは一般のアニメのリアリティ水準ともまったく異なるものです。ジブリ作品や「ドラえもん」と較べても違うしんちゃんアニメのメタフィクション性はポップ・アート系列の性格によるもので、それがホラー/犯罪サスペンス・ドラマやSFバトル・アクション、異世界ファンタジーなどではなくホームドラマ・コメディで行われている。もちろんメタフィクション構造やポップ・アート感覚だから偉いというのではなく、今でこそとっくに昔からあるように観られているテレビ版・劇場版の「クレヨンしんちゃん」は当初ちっとも当たり前ではなくて、それが劇場版9作目を迎える2001年までには劇場版映画作品の評価も高まり、その後は春日部市のイメージキャラクターとして採用(2003年~)、市制50周年記念事業の一環で野原しんのすけ一家の住民登録実施(架空の番地「春日部市双葉町904」・2004年~)、「彩の国まごころ国体(2004年埼玉国体)」「彩夏到来08埼玉総体(2008年埼玉高校総体)」イメージキャラクター起用、子育て応援団特別団員キャラクターに採用(2009年~)、春日部市「まちの案内人」PRキャラクター(2010年~)、 2春日部市立春日部第1児童センター「エンゼル・ドーム」敷地内にしんのすけ・ひまわり・シロ・かすかべ防衛隊(風間くん・ネネちゃん・マサオくん・ボーちゃん)のモニュメントが設置(2013年~)と浸透するにいたったので、三世代同居の「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」の家族像よりも乳幼児のいる核家族のしんのすけ一家の方が現代的なファミリー像として現実に迎えられた、という事情もあります。おそらく成人向けギャグ漫画の原作コミックだけではこの現象は起こらなかったので、テレビ版の反響に連動した原作コミックの変化、劇場版長編映画のシリーズ化の定着が「クレヨンしんちゃん」を非常に間口の広い作品に広げたので、作風の幅に限界のある日常ホームドラマの「ちびまる子ちゃん」ではそうはいかなかった。また同じシンエイ動画製作作品でも『映画ドラえもん』は原作者逝去まで長編書き下ろしコミックの原作があり、原作者逝去から間もなく高齢化した主要キャストの総入れ替えがあり『映画ドラえもん』を第1作から新キャストでリメイクしていく手段が取られました。「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」よりもアニメ版「クレヨンしんちゃん」はアニメ製作スタッフの自由度が高く、アニメーションももちろん一般映画と同じく監督の作品でもありますが一般映画がそうであるように集団製作によって成り立ちます。映画作品として批評の対象になりやすいのはアニメ監督の作家性の強いオリジナル原作作品ですが、『映画クレヨンしんちゃん』がそうした面でも独自性の強いシリーズであることに批評家や観客が気づき始めたのもテレビ版の二代目メイン監督・原恵一監督が劇場版を引き継いだ第5作目からなので、初代監督の第4作までの本郷みつる作品は振り返ってみて本郷監督ならではの個性を認められるのは初代監督の分の悪さでもあれば名誉でもあるでしょう。
 劇場版第2作である本作は以降の全作品のオープニング主題歌のタイトルバックを飾る石田卓也のねんどアニメが最初に使われた作品であり、しんちゃんだけでなく野原一家全員が巻き込まれる冒険、神秘の秘宝(本作では2体のブリブリ魔人を目覚めさせる鍵)を狙う悪の秘密結社、オカマのキャラクター(前作でもマッチョの変態、悪のホステスのキャラクターは登場していましたが)、強い「おねいさん」のヒロイン、旬の芸能人の実名ゲスト出演(本作ではテレビ朝日の小宮悦子アナウンサー)とさらに『映画クレヨンしんちゃん』シリーズの典型的設定が揃います。また本作はまだテレビ版の話題性の高い時期の作品だったので前作に次ぐ興行収入20億6,000万円の大ヒット作となり、次作で興行収入は14億2,000万円と低下しますが再び興行収入が20億円台に上がるのは2015年の第23作、翌年の第24作なので、劇場版の観客動員数はおおむね10億円台前半で安定していくことになります。第2作は早くからシリーズ化を予定して原案が立てられており('93年7月公開の第1作から本作は9か月後の'94年4月公開です)、『インディ・ジョーンズ』風のジェットコースター的冒険アクションという提案は原作者の臼井氏により、また前作ではシンエイ動画のスタッフのもとひら了氏が脚本担当でしたが本作では監督の本郷みつるとチーフ助監督(演出)の原恵一の共同脚本と、原作者自身の監修・コミカライズを前提としながらより映画オリジナルらしいものになっており、王子護衛官のヒロインが秘密結社の刺客と一騎打ちするリアルなアクションシーンも本作以降の特色です。初期4作は本郷みつる監督に演出(第2~4作は本郷監督と共同脚本)である原恵一がチーフ助監督、第5~10作は監督・脚本が原恵一で演出(チーフ助監督)が水島努(継いで水島努が監督、その次はムトウユージ監督が勤めます)と、これで面白い長編アニメーション映画にならないわけはないのは後からわかったことですが、初期作品は1年遅れで新作公開にあわせてテレビ放映されるのを漠然と観てテレビシリーズとはずいぶん違うな、と思っていた方も多いのではないでしょうか。また前作は日常コメディが前半を占めながらも幼稚園の場面は夏休み前日の半日登園だけなので、テレビ版での登場人物がドラマに絡んでくるのは第4作以降で、本作や第3作ではまだ野原一家以外のレギュラー登場人物は点景程度の登場です。原作者自身による原案・監修・コミカライズが行われた第3作まではテレビ版のスピンオフ的な位置づけで、意図的に(または無理せず)日常コメディの人物はドラマに絡ませなかったのかもしれません。また初期作品で劇場版の作風に観客が馴れてきてからようやく春日部市まるごと巻きこむ規模の内容が作れるようになったとも言えるので、最初の3作(また、まだ最強の0歳児の赤ちゃんヒロインひまわりの登場しない第4作)は各作品の完成度は高いけれどまだシリーズ序盤ならではの試行錯誤もある、まだまだ手堅い感じがする。これはもっとあとの作品を観ているからこその欲目なので、未見の方には文句なしに楽しめる1時間半を与えてくれる作品です。

●4月3日(水)
『映画クレヨンしんちゃん 雲黒斉の野望』(監督=本郷みつる、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'1995.4.15)*96min, Color Animation
◎「シロがしゃべった……!」30世紀から現れたタイムパトロール隊員がシロの体を借りて、過去を変えようと企む"雲黒斉"をやっつけてほしいと頼んできた。野原一家は戦国時代にタイムトラベルし、人類の未来のために戦うことに!"タスケテケスタ"の呪文でしんのすけが大変身!

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 1作ごとに確実に面白くなっていく『映画クレヨンしんちゃん』シリーズを実感させてくれる第3作は、戦国時代にタイムトラベルした野原一家が活躍するシリーズ初の時代劇作品でもあり、今年2019年の第27作までに時代劇作品は他に2002年の第10作『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』だけです(テレビ版の番外編では多々あり)。その第10作は時代考証の深さと正確さ、その見事な映像化と演出、戦国時代の人々のキャラクターの彫りの深さと説得力、タイムトラベルものとしての整合性と意外性のある抜群のオリジナル脚本で日本のアニメーション映画史に残る名作になり、全クレヨンしんちゃん映画でも屈指の人気作品ですから、同作以降にはテレビ版のパロディ的時代劇以外クレヨンしんちゃん映画の時代劇は作れなくなったのですが、同作もタイムトラベル時代劇としては第3作とは違うものをというのが課題になったはずで、本作では春日城を滅ぼし城主となって歴史を改変した雲黒斉は実は30世紀の未来人で、戦国時代で時間流に戻した雲黒斉はさらに20世紀の日本も大統領ヒエール・ジョコマン(富山敬)になって支配する、と二段構えの構成になっています。ちなみに前作の悪の首領アナコンダ伯爵役は富田耕生で、富田氏は80代の今なお現役ですが富山敬氏は本作公開の半年後に病没(膵臓癌)しています。体調の急変で入院するまで病気が判明していなかったそうで、本作以降も3本の劇場アニメーションの収録を済ませていたそうですから享年56歳、まだ現役で、富山氏より2歳年長の富田氏とともにテレビアニメ黎明期からの声優でした。長らく園長先生役だった納谷六朗氏、早く亡くなったぶりぶりざえもん役(他にオカマ役など)の塩沢兼人氏とともに、テレビ版開始から28年目、年1作の劇場版も今年で27作ともなると引退・逝去されたキャストのかたがたも多く、そうしたかたがたの往年の名演が聞けるのも長寿シリーズならではの楽しみなので、本作では芸能人の実名出演はありませんが、前作の感想文で書き落とした突然のミュージカル演出のギャグなどを見るとゴダールの『女は女である』や『気狂いピエロ』の趣向を連想しないではいられない。本郷みつる監督にはクレヨンしんちゃん降板直後に異色のダーク・ファンタジー作品のOVA『シャーマニックプリンセス』'96-'98がありますし、演出=チーフ助監督の原恵一、原氏に次ぐ助監督の水島努(ともに二代目、三代目監督に昇進)らはもともと映画好きからアニメーションの製作に入ったスタッフで、クレヨンしんちゃんの世界で実写映画の趣向を採り入れるだけでもまずパロディ・コメディになる。本作は30世紀のタイムパトロール隊員のヒロイン、リング・スノーストーム(佐久間レイ)が時間犯罪者の追跡中時間流の中で敵に追撃されてしまい、野原一家の庭の地下に故障したタイムマシンごと生き埋めになってしまうのが発端で、通信端末をつけた先が庭の犬小屋にいた犬のシロだったのでシロを通して野原一家に協力をあおぎ、緊急用小型補助タイムマシンですし詰めになって戦国時代に向かう流れになります。このタイムマシンや時間流はいかにもチープにそれっぽく描かれており、対して出発した「1995年」現在に帰還するためには時間犯罪者の歴史干渉犯罪を阻止しなければならないと話はシビアなのもギャグなのでひろしもみさえも「聞いてないよー!」「だまされたあ!」と悲鳴を上げる。そして着いた戦国時代では春日城は雲黒斉に滅ぼされて占領されており、実は男装の麗人だったのが判明する春日城主の遺児の吹雪丸(浦和めぐみ)とともに雲黒斉の刺客、マッチョのフリードキン球死朗(玄田哲章)・悪の剣豪またたび猫ノ進(戸谷公次)・幻術使いダイアナお銀(萩森子)を倒し、雲黒斉を時間流に突き落とすと春日城は雲黒斉が攻める以前に復活し、無事に修正された未来からタイムパトロール隊員のヒロインが野原一家を迎えに来ます。
 映画はまだここまでで2/3で、野原一家が1995年に戻ると日本は雲黒斉の正体である未来人ヒエール・ジョコマンに支配されている。タイムパトロール隊員がジョコマンを連行して現代を修正するためにクライマックスは巨大ロボット戦になります。この後半1/3は第1作の宇宙人ハイグレ魔王支配下の日本と似た趣向なので、戦国時代編・現代編と二段構えで意外性を狙い壮大な規模の展開にしたとしても戦国時代編の方が面白く一旦話も大団円を迎えているのでなくもがな、という感じがしないでもない。二段構えの構成は次作では無理のない展開で成功しますし、以降の作品でも採り入れられますが、本作では前半・後半でムードがまるで違い、またヒロインもタイムパトロールのスノーストーム隊員と女装の麗人・吹雪丸に割れてしまったために焦点が散漫になってしまっています。タイムトラベルものにつきもののタイムパラドックスの回避はよく辻褄あわせしてありますが、そのために後半を現代編にする必要があったとしても、同じ悪人退治をくり返すのはちょっとくどいし後半は始まってすぐ先が読めてしまう。本作は当初シンプルなタイムトラベルものにする構想が凝った構成にふくらんだものらしく、全体的には前作よりもさらに面白く充実しているのですが強引な詰め込み感もある難点があります。前作の興行収入20億6,000万円の大ヒットが本作で14億2,000万円と低下したのはアニメ版「クレヨンしんちゃん」の話題性が沈静化しつつあったからでしょうが、劇場アニメシリーズとしてはまだまだ一定の観客動員数が見込め、また次作の第4作からはコミック原作者は原案監修程度にまわり劇場アニメはオリジナル脚本に任せる、という具合にほぼ完全に劇場アニメ・オリジナル作品になったのは本作の内容からもうなずけるもので、そういう意味では前2作よりも各段に原作コミック・テレビアニメ版とは別に劇場版『映画クレヨンしんちゃん』ならではの内容に一気に規模を拡大した作品とも言えます。本郷みつる監督らしい奔放な荒唐無稽さがいよいよ発揮されてきたと本作なりの人気も高く、次作『ヘンダーランドの大冒険』が思い切ったダーク・ファンタジーの怪作にして本郷みつる監督時代のしんちゃん映画の傑作となるステップになった作品です。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第三章

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 第三章。
 登場人物・承前。ムーミン。ムーミンパパ。ムーミンママ。…以上核家族。スノーク。フローレン。…以上兄妹。ヘムレンさん・ジャコウネズミ博士。…以上学者仲間。トフスランとビフスラン夫婦。…以上双生児夫婦。ヘムル署長。スティンキー。…以上警官と泥棒。ミムラ。ミイ。その他計35人。…以上多産系兄弟姉妹。スナフキン。…単独孤行者。ニョロニョロ。…群棲担子菌類。偽ムーミン。…影武者。図書館司書。…その情婦。ムーミン谷レストラン給仕。…ムーミン谷レストラン給仕。その他ここにいない全員。
 舞台・表題参照。
 時・夕食時。

 そうか、ようやくわかってきたぞ。正しくはこれから起こることは依然としてわからないが、これまでわれわれがやってきたことの結果がついに現前したことだけはわかった。
 どういうことですか?私にはおっしゃっていること自体がよく飲み込めませんが……私の理解力不足としてもあまりに唐突すぎるように感じますし……
 賛同の小さな拍手、ほぼ全員より。ただし今ここにいない全員を除く。
 少数派の意見だからこそ尊重するのが偽善的民主主義というものだよ。そしてわれわれから偽善を取り去ったら何が残るね?
 また興味深い見解が出た。何が残るんです?
これは逆説だよ。われわれとは特定のわれわれではなく、いわば存在そのものを指す。さて、この任意の存在から偽善を取り去るとして、偽善の排除は善の絶対的存在を保証するだろうか?つまりわれわれは先験的に善を備えた存在と言えるだろうか?
 ええと、確か有名な詩の文句があります。ムーミン谷立中学、いや高校でも教えているやつです。
 きみはその高校、または中学を出たのかね?
 もちろん出ましたよ、入りましたから。あそこは住民登録さえしていれば出入り自由ですから、ムーミン谷の住人で出たことのない者はいないはずです……もちろん入るのが先ですが。
 なるほど。……ではその詩とは、真実と善と美は等しいと古代の発掘品の古甕から啓示されたとか、そんな詩だろうな。やはりそうか。何で知っているかって、私もムーミン谷に住民登録しているからさ。ならば訊くが、われわれは古甕のように真実と善と美の一致を体現した存在かね?
 それを言えば性悪説になるしかないでしょう?
 ところがそうもならないのだ、われわれトロールは人格を持たないからな。
 わお。


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 誰だ私を呼ぶのは?
 ……ほーらおいでなさった、大体こうなることは予想していたのだ。こうなれば誰かが名乗り出ないと収拾がつかなくなるぞ。
 いったいどういう事態なんですか?ご存じならわれわれにもわかるように説明してくださいよ。
 誰だ私を呼ぶのは?
 それもいいが、誇張ではなく死ぬ時に冗談を言う馬鹿はいるかね。せいぜい言えるのは部屋が暗いぞとか馬鹿馬鹿しいとか糸瓜の水が飲みたいなとか女房の顔がハゼみたいだくらいのことだ。
 誰かが死ぬんですか?
 それは(死)の解釈にもよるな。きみは生まれてきた時の記憶はあるか?
 私はありませんが、そういう話も少しは聞いたことがありますよ。あ、何かカマかけてませんか?
 私はその気はないぞ、失敬な。だがきみはそう見えてなかなかカンが良い。棒を二本か分銅を下げて歩けば温泉が掘れるぞ。ムーミン谷は銭湯はソープランドしかないから高くつくしな。女房をソープに働きに出さねばソープに行けぬのは不合理だが、とすれば他人の女房と合法的に姦れるというムーミン谷の秩序も崩れるな?きみは秩序と欲望ならどちらが大事だ?
 そんなことよりつまりこの状況を……
(状況)
・食卓で停止しているムーミン一家
・その他全員、円形のレストランの壁際に避難
・レストラン中央に浮遊する怨霊(等身大)
・怨霊「誰だ私を呼ぶのは?」
 話を戻そう、誕生の記憶と同様に死の記憶も稀にはある現象だとすれば、誕生も死も始まりや終りではなく一種の状態の推移と考えられる。これをもって状況説明はQ.E.D.としたい。 つまりこの事態を異変ではなく状態の推移とおっしゃりたいのですか?
・沈黙する怨霊
 まぁああいう物体が出現した以上そうとしか解釈しようがなかろう。様子から察するにあやつ、誰かに召喚されたと思い込んでいるようだ。
 さっきの質問に答えます、私は欲望より秩序が大事だと思います。
 ほう、だったらきみがハーイ私が呼びましたと立候補したまえ。そうすればいちばん手っ取り早いぞ。
 私は祖国のためにしか死にません!
・音楽。シベリウス『フィンランディア』
・怨霊、音楽の高まりとともにかき消える
 おや!きみの冗談も大したものだな。まさか軍歌で退散する怨霊とは思わなかったよ。 
 私もアレが流れるとは思いませんでした。
 無知の勝利かね。
 食事再開。


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 ではわれわれも注文を決めなければな、とスノークは言いました。なに急ぐ必要はあるまい。どうせ大半の連中はメニューを読めさえしないのだから、当てずっぽうにカブラのドンドコ煮とかトンビのパッパラ揚げなどを頼むに違いない。あれば幸い、なければ自業自得さはっはっは。
 私もお兄さまに決めてもらうわ、とフローレン。だってメニューが読めないんだもの。もっと若い娘にもわかるように写真とか載せてくれないかしら。
 フローレン、お前も誇り高きスノーク族なのだから、メニューが読めないなどと無防備に洩らすなどはしたないぞ。
 ではお兄さま教えてくださらない?このメニューの中にユッケジャンクッパはあるかしら?ブリの照り焼き丼でもいいわ。
 フローレン、ここはレストランなのだぞ、お前が修学旅行で行ったという北の家族ではないのだぞ。それに私だってこんなメニューは読めん。どこの外国語だ?架空の南米植民地語か?
 お兄さまに読めないなら私お手上げだわ。
 お手上げ。
・両手を上げる兄妹
 だからといって学識ある博士たちや無いものも出させるムーミン一家に訊くのはスノーク族の名折れだからな。私の名前が折れたらス・ノークスでス・ノーマンより間抜けだ。お前ならフ・ローレンでまだましだがな。これがお前がノンノンだったら滑稽極まりないぞ。
 昔の話は止めて、と旧名ノンノンはぴしゃりと言いました。というのはそれは彼女が売り飛ばされていた頃の源氏名で、彼女は従順かつ卑屈に強制労働に従事しましたが結局両親は遊廓の食材にされてしまったからです。当時留学中の大学生だった兄はまんまと家督を継いだので二年間で総額七万五千フランを使い果しました。
 そういう事情でフローレンは内心兄を憎悪していましたが、ムーミン族同様スノーク族も男尊女卑の長子相続制ですので、幸いムーミンとの政略結婚もムーミン谷では暗黙の了解、兄への復讐は機が熟してからでも遅くはありません。ムーミン族もスノーク族も、男は見た目通りのうすのろですが女は心底腹黒いのです。おお怖わ。
 だからさ、とスノークは妹をつゆ疑いもせず言いました。谷の連中がなにを頼むか、その様子を見て参考にしようじゃないか。私もこんな本を持ってきた、と取り出した本は、
・ムーミン谷レストランの歴史
 ……どうしたんですかそんな本、万引き?


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 万引き?失礼な。私が万引きするのは食料品だけ、しかも廉価な缶詰類だけということくらいお前も承知だろう?だいたい万引きなど問題にするのは本当の貧乏を知らぬ証拠だぞ(せせら笑う)。
 (殺意を抑えながら)そうかしら、私は本当の貧乏は知らないものだから。
 では教えよう(尊大に)真の貧乏とは、例えばこういうことだ。七万五千フランの遺産を相続してウンコにハエがたかるようにちやほやされ、気づくと預金は小銭程度しかない。友人にも女にも去られ禁治産者となり、後見人の承諾がないと何もできない。
 自業自得ですわね。
 そうだ、だがそこで初めて開けてくる世間の実相というものがある。それは金持ちと貧乏人とは違う、ということだ。つまり七万五千フランあった時の私は金持ちだった。だが使い果してしまった私はただの貧乏人なのだ。わかるか?
・馬鹿は金持ちでも貧乏でも馬鹿
 とフローレンは思いましたが、親の遺産についてはフローレンは知らないことになっています。ですのでわざととぼけて、お兄さまがそういう目にあいましたの?と訊きました。
 ん?もちろんこれはたとえばの話だ。聞けば父上と母上が市場で食肉にされていた時、お前はいかがわしい店で働いておったというではないかノンノン。
 昔の名前は止めて。
・気まずい沈黙
 お兄さま、その本について教えてくださらない?お持ちになったのは、なにか役に立つ本なのでしょう?
 おおそうだ、肝心なのはその話題だったな。これはムーミン谷図書館から拝借してきたのだ。もちろん正規の手続きをして借りたぞ。あそこの図書館司書は呼ばねば貸し出しカウンターに出てこぬが、いつ行ってもセックスの最中しぶしぶ出てきました、という様子をしておるな。
・ビクッとする偽ムーミン(アホ毛が立つ)
・変装(外出時の習慣)した図書館司書、コルトを握りしめる
 フローレンは聞き流して、お兄さまはもうお読みになりました?
 そこなのだ、この本にはまず前書きがあって愛と平和とか書いてあるようだがそれはいい。本文の始まりは、
・天正二年
 とある。それから白紙が続いて巻末近くに、
・昔
 とあり、そして最後のページに、
・現在
 と、どれも見出ししか書いていないのだ。
 どういうことかしら。
 私も考えたさ、そして思いついた。この本は知らないことは読めないのだ。


  (25)

 そろそろ注文を決めねばな……だがこうしてムーミン谷の住民が一堂に会すると、とジャコウネズミ博士は言いました。われわれも今やすっかり谷の古老という感慨がひしひしと寄せてくるな、そう思わんかねヘムレンさん?
 少々の留保をつければね、とヘムレンさん。まず、われわれもムーミン谷の住民なのだから、われわれを欠いたムーミン谷一堂という表現はあり得ない。もしわれわれを抜きにしたムーミン谷一堂であれば、隠棲したヘムル署長の父君などはわれわれよりは年少だが古老の資格はあるだろう。さらにわれわれトロールは生物学的には加齢というのは恣意的な現象だから、きみも私も竹馬の友だった頃にもスナフキンはスナフキンではなかったか?
 彼は例外だよ。あれはモーヌの大将や風の又三郎みたいなものだ。スナフキンについてはきみとも超トロールということで議論は一致したではないか。
 では例のモノはどうかね、あれなどわれわれトロールの次元にあるとは考えるだに苦痛だが、残飯でも食料には違いないように劣等トロールと認めないではならないではないか。
 仕方ないさ、われわれは学者だからな。
・例のモノ=ニョロニョロ(不潔で卑しい存在で、公衆の面前で話題にするのは下品で悪趣味とされる)
 ……だがアレを劣等トロールとすると、まずあれは個体が群生しているのか、群そのものがひとつの個体なのかもわからん。またアレはしきりに生えたり消えたりするが、果してそれは同じモノなのか?
 きみもこだわるな、アレは意志はないが習性はある、つまり湿って不潔な場所を好むだけで、それは意志ではなかろう?きみが問題にしたいのもそこだろ、人格なきものがトロールなら意志なく習性あるのみのアレは劣等どころか純粋トロールなのではないか。
 ……。
 きみだって素朴な進化論者ではあるまい。猿から類人猿が進化したのではない。猿と類人猿のとげた進化は別々のものだ。まあ猿のことはどうでもいいが、仮に問題のアレが現存するもっとも素朴なトロールだとして、われわれの起源がアレとは限らんぞ。
 ならば、なぜ、アレが、存在する?
そう熱くなりなさんな、それを言えばわれわれだって存在の根拠はないさ。案外アレは戒めの象徴かもしれんぞ。さあ、飲み物でも決めよう。
 オチは無しか?
 会話も終ってないさ。さあ飲み物を頼もう。


  (26)

 みなさんチラホラ注文を決め始めたみたいですぜ、とスティンキー。あっしらも食事の前の一杯くらい決めましょうや。レストランって名乗るなら景気づけの酒くらいあるでしょう?
 それもいいが、私はまだ勤務中なんでね、とヘムル署長。早く勤務が明ければいいのだが、なにせこれだ、とヘムル署長は左腕を上げました。釣られてスティンキーの右腕も上がります。スティンキーはへつら笑いを浮かべました。
 ねぇ署長、せっかくのめでたい会食ですぜ。この際野暮は止めにして、警官と泥棒である前にムーミン谷の住民どうしとして愉快にやりませんかね?
 私だってそうしたいさ、きみにはムーミン谷警察署は財政面でも支えてもらっている恩義がある。きみの組織はムーミン谷の就職難を解消し、盗難活動によって谷の景気を活性化させる重要な経済機関でもある。だからきみの配下のコソ泥たちは自由に泳がせてあるではないか。
 署長の話はあっしみたいな学のない野郎には何が何やらですわ。だってムーミン谷の法とはヘムル署長次第なんでしょう?だったら今夜の勤務終了も、この手錠を外すのも署長次第じゃないですか?
・苦悩するヘムル署長
 ところがそう簡単にはいかんのだ。私の話が回りくどいのは申しわけない、なにしろヘムル族はヘムレン族と本家分家なのでね。
 はあ、それは存じています…でもなぜ手錠を?
 きみと手錠で仲良しこよしになるのは年がら年中のことだが、恩赦する時には部下に手錠の鍵を取りに行かせているだろ?
 ええ、電子ロックのカードキーでしたな。
 あれ以外の方法で無理矢理手錠を外すと、手錠から信号が発信されるのだ。
 なんの信号です?
 ムーミン谷中央広場地下のN2地雷起爆スイッチ。
 署長、冗談は死ぬ時だけにしてくださいよ!
 冗談ではないのだ。だからいくら私が法でも、この手錠を外さなければ勤務は終らないのだ。おたがい運が悪かったな。だが取り調べ中でも食事はできる。カツ丼にするかい?
 もっと縁起のいいものにしますよ。逃げ足の速くなりそうなやつ。
 じゃ私はダイエット中だからカロリー控え目で行く。ウェイター、頼む。ホッピー二杯、味噌汁とライスも二つ、私はカブラのズンドコ煮。きみは?
 トンビのパッパラ揚げにします。……ところで手錠のカードキーはどこに?
聞いても無駄だよ、ムーミンママのハンドバッグの中さ。


  (27)

 (喧騒)んにゃむにゃくにゃへにゃほにゃふにゃはにゃわにゃぺちゃくちゃわちゃはちゃわらわらわら……
・シャラップ!
 とミムラ姉さんがテーブルを一打しました。全員いちどにしゃべるんじゃないの!うちは35人もいるんだから、あんたたちだって自分がなにを言っているかわからないでしょ?
 だってミムラ姉さん…
 そこ!発言する時はちゃんと番号を名乗る!
 弟14号です、名前は…
 名前を聞いても意味ないから番号だけでよろしい!で弟14号、発言は却下。
 なんでです、まだ何も言ってませんよ!
 真っ先に発言しようとしたから却下!だいたい35人もいると最初の意見に付和雷同するのがいちばん簡単だからね。だから最初の意見は潰しておく!
 そんなのって!
 (付和雷同)ほにゃふにゃはにゃわにゃぺちゃくちゃ…
・ぐぎゃん!
 と弟14号の頭部がテーブル板にめり込みました。まるで超常現象のようですが、実際はミムラ姉さんが素早く不肖の弟の背後に回って張り倒し、素早く自分の席へと戻っただけです。ミムラ自身は格別並外れた身体能力を持っていませんが、35人兄妹の総領ともなると相対的には他を制圧する能力もあるもので、ときおり発動させるこの力にミムラ族の兄弟姉妹は震え上がりました。つまり彼らにとってミムラ姉さんは、
・サイコキネシス
 所有者であり、
・サイコメトラー
 と、
・テレポーター
 の能力も兼ね備えているかのように見えるのです。しかし欺かれる観客なしには魔術は魔術でないように、彼女の能力もいわばミムラ空間あってこそで、その空間とは総勢35人のミムラ族の兄弟姉妹たちでした。それに気づいているのは、ミムラ本人以外には、ミムラ族中もっとも矮小な体躯から単にミーと蔑称されている、ひがみっぽくキーキーうるさい妹だけで、兄妹たちの中でも例外的存在ゆえにミーだけはミムラ空間にありながらも姉の幻術にはかからなかったのです。兄妹たちがわらわらぺちゃくちゃやっていても、ミーの金切り声は決して喧騒に調和しないのでした。
 家庭では孤立しているために社会では外向的という性格はよくあるものです。ミーもそうでした。
 あたし、他のテーブルに行こうかな、とミー。
 ミー、とミムラはうろたえました。あなたも私たちの兄妹なのよ。このひと言がミーを増長させました。


  (28)

 ムーミン谷のなかでもとりわけ謙虚な存在といえば、誰もが思い出せないほど影の薄い双子夫婦のトフスランとビフスランでした。双子夫婦とは比喩表現ではなく、実際に双子であり夫婦なのです。
 夫婦というからには一方が雄の特性、一方が雌の特性を備えるはずですが、それは一般のトロールが生物学的に残した痕跡というべきで、トフスランとビフスランの夫婦を見る限りどちらが夫でどちらが妻かもわからない。これは遺伝子交換による繁殖を種族の形態とした雌雄同体で生物学的には低次ですが、トロールとしてはより高次の発達をとげたとも考えられるので、トフスランとビフスランの双子夫婦は近親婚とは見倣されず、ムーミン谷の人びともこの夫婦の存在は黙殺しておりました。
 そこで彼らはいちばんひっそりとした席で、読めないメニューを広げながら単純に注文を決めました。
・単純な注文
コース料理にしてもらえば食前酒とメインディッシュだけ決めればいいよね、と双子は以心伝心にウェイターを呼ぶと白ワインと海老フライ、赤ワインとハンバーグを頼みます。
 スープはお選びになれますが、それとサラダのドレッシングも、とウェイター。ライスとブレッドもご指定ください。食後のお飲物も各種ございます。
 受け承りました、では繰り返します、とウェイター。白ワインと赤ワインがお一つ、海老フライとハンバーグがお一つ、ブレッドとライスがお一つ、(中略)食後にアイスミルクティーとアイスコーヒーがお一つ、以上でご注文は……
 違うな、と夫婦は顔を見合せ、白ワインと海老フライ一つ、赤ワインとハンバーグ一つ。コンソメスープとフレンチドレッシングのサラダが一つ、(中略)食後はアイスミルクティーが一つとアイスコーヒーが一つ。
 はあ、では、とウェイターは機械的に反復し、数回目でようやく納得のいく注文を取りつけました。もちろん注文自体は同じで順序が違うだけです。単純なだけに融通がきかないのもこの夫婦で、双子となればなおさらのことでした。


  (29)

 スナフキンが着いたのは、夜も更けてからのことでした。谷は深い雪の中に横たわっていました。谷の両側にそびえるはずの山はまったく見えず、霧と夜の闇に包まれていました。街の中心地を示すかすかな灯りさえなく、スナフキンは長いあいだ国道から谷に通じる木の橋の上に立ちすくみ、ぼーっとなにもない空間を見上げていました。
 やがてスナフキンは泊まる場所をさがしに出かけました。宿屋はまだ開いていました。空いた部屋はありませんでしたが、宿屋の主人は突然の深夜の客に驚き、面食らって、酒場の床でよければゴザでも敷いて寝かせてあげよう、と申し出ました。それで結構、とスナフキン。農夫が数人まだビールを飲んでいましたが、スナフキンは誰とも口をきく気がしないので、屋根裏部屋から自分でゴザを下ろしてきて、ストーヴの近くに横になりました。暖かいな、とスナフキンは思いました。農夫たちは静かでした。スナフキンは疲れた目でしばらく彼らの様子をうかがっていましたが、やがて眠り込みました。
 ところが、うとうとしたかと思うとすぐにまた起されました。都会的な服装で、俳優にでも向きそうな顔立ちの、目の細い、眉の濃い若い男が、宿屋の主人と並んでスナフキンのすぐそばに立っていました。農夫たちもまだ店にいて、椅子をこちらに向け、成り行きを見守っている様子です。
 若い男はスナフキンを起したことを丁重にわびて、領主の執事の息子だと自己紹介したのち、告げました。この宿は、谷の領土です。ここに住む者や宿泊する者はすでに谷の中に住むか、または泊まるも同然です。それには公的入谷許可証が必ず要ります。ですがあなたは、その許可証をお持ちでない。というのが失礼になるなら、その許可証をご提示にならない。
 スナフキンは上半身を起こし、帽子をかぶり直すと、若い男と宿屋の主人を見上げて、どういうことでしょうか、と訊きました。
 申し上げた通りです、と簡潔に、若い男。
 それで、宿泊の許可が要るというのですか?とスナフキンは先ほどからのやり取りが夢ではないかと確かめるように言いました。
 そうです、この谷では、と若い男。そして、宿屋の主人や農夫に向かってあからさまにスナフキンを嘲る仕草をしました。
 この宿も谷だとおっしゃのですか?
 若い男はゆっくりと、もちろんです、と答えました。ここはムーミン谷という谷です。


  (30)

・ムーミン谷の二人の長老賢者の対話
(ヘムレンさん)
 この谷の法律は誰もが知ることはできない。それはわれわれを支配する少数の議会の秘密で、それらが確実に守られているのは疑えない。とは言え知りもしない法律に支配されているのは何ともいえない苦しみだ。この谷の法律は実に古いので、その解釈には数世紀の歳月が捧げられ、解釈自体がすでに法律とも言える。議会が法律の解釈に当って個人的な利害からわれわれに不利益をもたらすいわれはない。法律はそもそもの始めから議会のために定められたもので、議会は法律の外にいる。だからこそ法律はもっぱら議会の手中に委ねられているのだ。
(ジャコウネズミ博士)
 言うまでもなく法律の中には知恵が含まれている--誰が古い法律の知恵を疑うだろう。だがそこにはわれわれの苦しみもある。これは法律の性質上避けがたいことかもしれない。
(ヘムレンさん)
 ……ともあれ、これらの法律らしきものは実は単に仮装かもしれない。法律が存在し、議会だけの秘密として委ねられているのは伝統だが、古い伝統、古いが故にもっともらしい伝統以上ではなく、また、そうであるはずもない。それはこの法律が秘密を条件にしていることからもわかる。
(ジャコウネズミ博士)
 けれどもわれわれが祖先の代まで遡り、議会の歴史と共に十分に研究して過去と未来に備えようとすれば、この場合、法律の全ては不確かとなり、おそらく理性の遊びに過ぎなくなるだろう。だがわれわれがここで検討するこれらの法律など存在しないかもしれないのだ。本当にこうした見解をとる小さな政党がある。この政党は、もしある法律が存立するとすれば、それは議会の行うことが法律なのだ、と証明しようとし、民衆の伝統を拒否する。実を言えば、この間の事情は次のような逆説でのみ表現できるのだ。
・法律への信仰と共に議会をも排斥するような政党があれば、たちまちに全国民の支持を獲得できる。だが議会を排斥する勇気は誰も持ちあわせていないのだから、そのような政党は発生し得ない
(ヘムレンさん)
 その刃の上に私たちは生活している。ある作家はこれを総括して言っている。
・われわれの上に課せられている唯一であり、目に見える、疑う余地のない法律は議会である。われわれはわれわれの持つこの唯一の法律を失おうとしてはいけないのだろうか?
 第三章完。


(初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

映画日記2019年4月4日~6日/一気観!『映画クレヨンしんちゃん』シリーズ!(2)

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 劇場版『映画クレヨンしんちゃん』シリーズの初期3作は「クレヨンしんちゃん」原作者の臼井儀人氏が映画スタッフとの共同原案のもとに長編原作コミックを描き好評のもとにシリーズ化されましたが、シリーズに現在まで続く要素が出揃ったのは臼井氏がタイトルの命名だけ関わって映画スタッフのオリジナル作品になる第4作『ヘンダーランドの大冒険』以降で、第4作のあとテレビ版のメイン監督でもあった本郷みつる監督の降板とともに本郷監督の下で共同脚本・演出(チーフ助監督)を勤めてきた原恵一監督がメイン監督・劇場版監督を引き継いでいきます。原監督による最初の作品になる第5作『暗黒タマタマ大追跡』は原作・テレビ版で登場したしんのすけの妹ひまわりが初登場した作品になり、続く第6作『電撃!ブタのヒヅメ大作戦』ではしんのすけの幼稚園児友だち=かすかべ防衛隊のネネちゃん、風間くん、マサオくん、ボーちゃんも大冒険に巻き込まれるという具合に、本郷監督よりホームドラマ指向が強い原監督によりしんちゃんをめぐる春日部市の住人たちもテレビ版同様の(ただし劇場版ならではの絶体絶命の)大騒動に巻き込まれることになります。2002年の第10作『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』(文化庁メディア芸術祭・アニメーション部門大賞、毎日映画コンクールアニメーション映画賞受賞)まで原恵一が脚本・監督した6作で『映画クレヨンしんちゃん』はファミリー映画としての地位を確立し(また映像ソフトでロングセラーとなり)、'80年代後半~2000年代に国民的作品とされてきたスタジオ・ジブリ作品に匹敵する評価の声も上がるようになったので、ここから先のしんちゃん映画は非常に充実した作品が現在まで続く。やや落ちるかな、と思われる作品でも十分な水準はクリアしているので長寿シリーズともなれば多少の出来不出来はありますが、大きく期待を裏切るようなことはありません。第9作『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』2001の頃には洋画・邦画総合年間ベスト1に選出する映画誌(「映画秘宝」。「キネマ旬報創刊90周年オールタイムベスト・テン」でも日本映画アニメーション部門4位)も現れ、同業者など滅多に褒めないアニメーション監督の大家・富野由悠季氏も「クレヨンしんちゃんがライバル。だから目標値はすごく高い」「視聴者側がこの面白さを理解を出来ないようではいけない」とまで言い切っており、以降もシリーズが高い水準の作品を送り続けているのはご覧の方には言うまでもないでしょう。それだけに拙劣な感想文など恥ずかしい限りですが、観落とされた作品がある方の参考にでもなれば幸いです。なお各作品内容の紹介文はDVDボックスの作品紹介を引用させていただきました。

●4月4日(木)
『映画クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険』(監督=本郷みつる、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'1996.4.13)*97min, Color Animation
◎幼稚園の遠足で出かけた"群馬ヘンダーランド"。実はそのヘンダーランドこそオカマ魔女とその一味が地球征服を企む本拠地だった!そこで立ち上がったしんのすけ。強力な助っ人たちを引き連れて、オカマ魔女率いる強敵陣と世紀の大勝負!さあ、地球の運命はいったいどうなる!?

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 初代しんちゃん監督本郷みつる時代(のち2008年の第16作『ちょー嵐を呼ぶ金矛の勇者』で1作きりのメイン監督の中継ぎ作品をてがけますが)の第4作にしてシリーズ初の完全映画オリジナル原案・脚本作品(原恵一と共作)、本郷監督自身が自分のしんちゃん映画の集大成とする意欲作で、意欲作はこれまでの3作もそうですが本作公開から半年後には原恵一がメイン監督を引き継ぐと決まっており、テレビ版から5年に渡るしんちゃんアニメ、劇場版もこれで一旦は最後となるとしんちゃんアニメ立ち上げ監督としてやりたいことはやりつくす、という思いだったでしょう。前3作も徐々に劇場版しんちゃんらしい要素が揃っていくのがわかるエンタテイメント性抜群の快作でしたが、本作は日常世界を浸蝕してくるダーク・ファンタジー・コメディでサスペンスもギャグもアクションも各段に切れ味が違います。のちに本郷みつる監督時代のしんちゃん映画の最高傑作と熱烈な支持を集めるのももっともな出来で、しんちゃんが出会う妖精人形のトッペマ・マペット(渕崎ゆり子)が当初の設定では男の子だったのを原作者の臼井氏の提案によって女の子に変更したのも適切で、トッペマが男の子でも冒険ファンタジーとしては問題ありませんがこれはやっぱりヒロインにしたのが作品に華を添えています。本作は魔法の国ヘンダーランドの王女メモリ・ミモリ姫(渕崎ゆり子)を幽閉し姫を守る勇者ゴーマン王子(保志総一朗)を倒した二人組のバレリーナ姿のオカマ魔女マカオ(大塚芳忠)とジョマ(田中秀幸)が、日本をのっ取る(らしい)ために群馬県桐生市に大遊園地「群馬ヘンダーランド」を開き、大々的にテレビCMを流します。♪ヘンダヘンダよ、ヘンダーランド~、とCMソングも話題になり、ふたば幼稚園も遠足でヘンダーランドに遊びに行くことになります。勝手に工事中のサーカスのテントに忍びこんだしんのすけは、一瞬メモリ・ミモリ姫の幽閉された姿を見、それからねじ巻き人形のトッペマ・マペットを見つけてネジを巻いてやります。目を覚ましたトッペマはしんのすけにオカマ魔女のマカオとジョマの存在と悪だくみを話し、しんのすけに人間にしか使えない魔法のトランプを使って魔女退治を頼みますが、すぐに次々と魔女の手下の狼男クレイ・G・マッド(辻親八)、妖術使いチョキリーヌ・ベスタ(深雪さなえ)の攻撃を受けます。遠足から帰宅した夜、トッペマはしんのすけの家に現れ再度魔女退治を頼みに来ますが、しんのすけは怖くて断ってしまいます。それでもトッペマはトランプをしんのすけに託して去りますが、数日後かすかべ市に新たな魔女の手下で「人の心にとりいる」能力の持ち主、ス・ノーマン・パー(古川登志夫)が現れ、ふたば幼稚園の教育実習の先生として教職員に交わり、子どもたちを手なづけ、さらには野原一家の家にも訪ねてきてひろしとみさえの信頼も勝ち得てしまいます。そしてス・ノーマン・パーからの招待券で野原一家がヘンダーランドで遊んできたあと、ひろしとみさえに起こった異変に気づいたしんのすけは、トッペマとともにヘンダーランドに乗りこむことになります。……と、この調子で淡々とたどっていくときりがありませんが、雪だるまに手足が生えたス・ノーマン・パーはヘンダーランドに洗脳されたかすかべ市民には当たり前にそこら辺に歩いている存在なので、しかも「人の心にとりいる」能力の持ち主なのでオカマ魔女の部下の中でももっとも厄介な敵です。本作ではエンディング主題歌も歌う雛形あきこが本人役ゲストで、しんのすけが「魔法なんて信じないゾ」と試しに「スゲーナ・スゴイデス」の呪文を唱えると水着姿の雛形あきこ本人(アニメですが)が現れて自己紹介(「特技は日本舞踊、スリーサイズは……」)の途中で消える。「正義のためにつかわないと効果はすぐ消えるのよ」(トッペマ)。雛形あきこ登場はひろしにしんのすけがトッペマの願いに協力させる時にも使われます。「俺は魔法の存在を信じる!」(ひろし)。芸能人カメオ出演はこういう具合にやってほしい、というスマートな演出です。また反復ギャグが冒険ドラマと結びついているのはしんのすけが呪文で呼び出すお助けヒーローは毎回アクション仮面(玄田哲章)、カンタムロボ(大滝進矢)、ぶりぶりざえもん(塩沢兼人)の3人組で、しんのすけのイメージが生んだ魔法ですからこの3人なのですが、アクション仮面とカンタムロボは正義の味方ですがぶりぶりざえもんはしんのすけの創作ヒーローなのですぐに敵に寝返る(「私は常に強い者の味方だ!」)、何の役にも立たないのに消えぎわに報酬を要求する(「お助け料100億万円ローンも可……」)といつものぶりぶりざえもんです。クレヨンしんちゃんはラテン文化圏(イタリア、スペイン、南米諸国)でもキャラクター商品(パジャマやスリッパ)が出るほど人気が高いそうですが、「救いのヒーロー」ぶりぶりざえもんの微妙な味がどう伝わっているか気になります。
 また本作は原作コミック・テレビ版ともにひまわり登場以前の最後のしんちゃん映画なので、テレビ版・劇場版とも本郷みつる監督から原恵一監督にバトンタッチされるのがひまわり登場で分けられるのも気づかされます。一人っ子のしんのすけだけの野原一家に0歳の赤ちゃんの女の子ひまわりが加わっただけでシリーズのホームドラマ色はぐっと強くなり、劇場版初登場の第5作ではまだねんねと泣く、笑う、むずかるだけ(ようやくハイハイできる)ですが翌年の第6作以降では積極的にハイハイする、座る、喜怒哀楽に応じた意思表示の声が出せるし聞いた会話も理解できる0歳児に成長していて、以降のひまわりの成長限界まで育っています。本作はひまわりがいたらできなかった加速感が後半のオカマ魔女の部下との戦闘~クライマックス20分の野原一家3人とオカマ魔女2人との対決(ダンス対決、ババ抜き対決、塔の頂上への追いかけっこ)にあり、以降の作品でも似た趣向のクライマックスはくり返されますが赤ちゃん連れの危なっかしさも強調されることになるので、本作のたたみかけてくるようなスピード感とはニュアンスが違ってきます。また第1作の宇宙人、第2作の壺の大魔人、第3作の未来人、本作の魔法の世界ヘンダーランド(とオカマ魔女)や魔法のトランプの精(八奈見乗児)といったファンタジー趣向は次作以降でもなくなりませんが、ドラマ自体は悪の秘密結社対正義の秘密組織の抗争などの誇張はされているもののスパイアクション的なもの、ファンタジー趣向が必ずしも核心ではないものに移っていくので(またはクライマックスまで核心となるファンタジー趣向が明かされないものになるので)、冒険アクションでも人間ドラマ的なホームドラマ性が前に出てくるようになったひまわり登場以降の作品より本作で頂点を極めたファンタジー&アクション・コメディの初期しんちゃん映画の方が良かった、という意見も出てくるのもわかります。しかしひまわりが登場してしんちゃん映画の表現の幅は一段と大きく広がったので、ひまわり登場前のしんちゃん映画の最大の成果が本作ならひまわり抜きではシリーズもそれほど長続きしなかったとも思えますし、『ヘンダーランドの大冒険』がひまわり登場前の切り札的作品として残されているのですからいいではありませんか。

●4月5日(金)
『映画クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡』(監督=原恵一、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'1997.4.19)*99min, Color Animation
◎かつて暗黒魔人を封じ込めた埴輪と、その復活のカギとなる二つの"タマ"――、今、そのタマをめぐって、世界征服を企むホステス軍団と、それを阻止しようとするオカマ三兄弟の対決が始まった!タマの一つをひまわりが飲み込んでしまったことにより、争いに巻き込まれた野原一家は、東日本をまたにかけ所狭しと駆けめぐる!

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 本作はひまわり初登場で今後の作品に野原一家の活躍がよりホームドラマ色とアクション・コメディのギャップが際立つようになった一方、正義のオカマ三兄弟と悪のホステス軍団の抗争が目立ちすぎてテレビ放映では台詞から「オカマ」が削られ、以降の作品では露骨なオカマとホステスの登場が自粛されるようになったのは残念で(マッチョは問題なかったようです)、本作のオカマ三兄弟は新宿のショーパブ経営を表の顔とする先祖代々の霊感師珠由良一族の末裔、ホステス軍団はやはり先祖代々の霊感師珠黄泉一族の末裔という設定ですが、こんなことに水商売のかたがたご本人たちが怒るわけはないので例によって幼稚園児が主人公のアニメにオカマやホステスとは何だ、と話のわからない筋からの苦情があったのだと思います。劇場版5作目となっても世間の認知はまだそんな具合だったということで、原恵一監督は劇場アニメーションは'88年からシンエイ動画で「エスパー魔美」「ドラミちゃん」の中短編が数作ありましたが、長編作品の監督作品は本作が第1作になります。しかし『映画クレヨンしんちゃん』には第1作から演出(チーフ助監督)、2~4作目は本郷みつる監督と共同脚本を手がけており、テレビ版も初代メイン監督の本郷監督から引き継いだ上での劇場版監督で、さらに原恵一監督の代には演出(チーフ助監督)が水島努氏という面白くならないわけはない布陣です。テレビ版も6年目とレギュラー声優諸氏もすっかり堂に入った余裕の演技で、これまでの本郷監督作品でも監督に次ぐ位置だった原監督ですからクレヨンしんちゃんの世界やキャラクター、レギュラー声優陣の生かし方もがっちりつかんでいる。原監督は本郷監督の作風のハリウッド風の雰囲気に対して古い日本映画の雰囲気を意識し、またSFやファンタジーの要素を使わないストーリー展開を考えたそうで、本作のタイトル(原作者の臼井氏によるタイトルは本作が最後となったそうです)の「暗黒タマタマ」は魔人を封じこめた埴輪の両方の睾丸部分にはめ込むビー玉大の球で、片方ずつをかつては友好関係にあった珠由良・珠黄泉一族が伝承しており、それを争奪して魔人を甦らせようとする珠黄泉一族(世界征服を企む悪のホステス軍団)と紛失した一族の珠の行方を追う珠由良一族(ローズ、ラベンダー、レモンのオカマ三兄弟=郷里大輔、塩沢兼人、大滝進矢)が、珠を持ち帰ってきたもののチーママ・マホ(島津冴子)率いるホステス軍団に追われて野宿した朝にシロを連れて散歩中のしんのすけに珠を持ち去られ、それをひまわりが飲みこんでしまったことから野原一家をオカマ三兄弟が護衛して珠由良一族の本拠地・青森の「あ、それ山」に匿おうとするも立ち寄った健康ランドで懲戒謹慎中ながら手柄を立てたくて仕方ない女刑事グロリアこと東松山よね(山本百合子)が無理矢理一行に同行し、ホステス軍団と攻防をくり広げながら逃亡・追跡の東日本縦断になる……というのが本作前半2/3のおおまかなプロットで、珠黄泉一族はエスパー(読心術者)で武道の達人の日系アメリカ人マッチョのヘクソン(筈見純)を珠の強奪に向かわせており、この超能力マッチョにボディガードの珠由良一族七人衆(『七人の侍』から名を採られています)は叩きのめされてしまい、オカマ三兄弟の母の珠由良一族の長(水原リン)も太刀打ちできずひまわりは誘拐されて銀座に連れ去られてしまいます。
 後半の展開は再び東京のど真ん中に戻り、珠黄泉一族の長でホステス軍団の首領・玉王ナカムレ(山本圭子)はボディガードのマッチョ、元悪役プロレスラーで前職はベビーシッターのサタケ(立木文彦)に子守させて無事ひまわりが排泄した珠由良一族の珠を珠黄泉一族の珠とともに高層ビルの最上階に渡した梁の上で魔人を封じた埴輪にはめこみ、魔人を呼び出そうとしますが、珠黄泉一族の悪事に嫌気がさして軍団を裏切りひまわりを奪還してくれたサタケとともにそれを阻止しようとする野原一家、オカマ三兄弟と女刑事が高層ビルの高架線上で超能力マッチョのヘクソンと格闘するクライマックスまで息もつけない加速感があり、早くも赤ちゃん連れで高所の追いかけっこがどんなものになるかを見せてくれるサスペンス満点のアクションが連続します。中途で一旦クライマックスがありさらに後半折り返すようにたたみかけてくる構成は本郷みつる・原恵一共同脚本の第3作以来ですが、原監督が自分の監督作でならどうアレンジするかを温めていたのがちょうど野原一家にひまわり増員という格好の機会を得て一気に溢れ出したような流露感があり、しんちゃん映画の新たなスタートを感じさせる快作になっています。興行収入20億円を越えた最初の2作から第3作では14億円台に落ち着き、本郷みつる監督時代最後の傑作の第4作が12億円、本作では11億3,000万円、次作では10億6,000万円と徐々に下がりましたが、劇場版オープニングタイトルはその時のテレビ版主題歌が使われており(エンドクレジット主題歌は作品毎にオリジナル)、第3作までは放映当初からの主題歌「オラはにんきもの」が使われていた時期であり、第4作から第6作までは毎回(つまり毎年)テレビ版主題歌も変わっているのに対応しています。つまりテレビ版の人気も年替わりに主題歌を変える必要があるほど放映当初ほどの話題作ではなくなっており、代わりに第1、2作の半数ほどに安定した観客動員数に落ち着いたと見るべきで、公開時の興行収入は低下していても映像ソフトではロングセラーを続けているのもこの時期の作品なので、本郷みつる監督時代の4作、原恵一監督時代の6作の最初の10作はテレビ放映や映像ソフトによる観客の累積では公開時の興行収入の低下を補う実績を上げていると考えられます。シリーズの長寿化が進んだ分近作・最新作からしんちゃん映画を知った新たな観客がたどり着くことになるのもシリーズ初期10年の人気作、ことにひまわりが加わっている点で原恵一監督時代になってからの作品に分があり、本郷みつる監督作品が『ヘンダーランドの大冒険』で極まったとすると本作は原恵一監督作品のスタート地点としてまださらに先を見たい気がする。また本郷みつる監督のSF・ファンタジー指向が持つガジェット趣味の表れがしんちゃん映画のポップ・アート感覚だったとしたら本作での原恵一監督のアプローチはあえて先輩監督の逆を行った面白さであり、日本映画からの素養をアニメ作品に持ちこんだ好ましい資質は感じられてもここからどんな発展がしんちゃん映画にもたらされるのか本作1作では予想がつかない面もあって、しんちゃん映画はすでに来年度作品の予告込みで新作公開されるシリーズ化していましたから次作の原恵一監督版ハリウッド風スパイ・アクション作品『電撃!ブタのヒヅメ大作戦』は対になって発想されたことになり、次作では本郷監督の得意だった作風の土壌での手腕と成果が課題になります。テレビシリーズをキャラクター原案とするファミリー向けアニメーション映画ながら意外なほどしんちゃん映画が作家性の強い性格を持つのは制約にもなり得るテレビ版キャラクターの設定が逆に劇場版オリジナル長編に極度の圧縮性をもたらすからで、そのダイナミックな転換点が最初の爆発を起こしたのが監督交替を挟んだ第4作~第6作の推移と見ることができそうです。

●4月6日(土)
『映画クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦』(監督=原恵一、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'1998.4.18)*100min, Color Animation
◎世界征服を企む謎の組織"ブタのヒヅメ"が、恐ろしいコンピューターウイルスを作り出した!それを知った正義の秘密結社SMLの一員、コードネーム"お色気"は、偶然出会ったしんのすけとともに戦うことになり……。巨大飛行船を舞台に、かすかべ防衛隊が地球の平和を守るために大活躍!

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 前作の「グロリアと呼んで」こと懲戒謹慎中の女刑事東松山よねもやたら銃をぶっ放すくせにちっとも当たらないおねいさんのギャグキャラでしたが逃走中に立ち小便中のひろしに迫ってくる追っ手から車に引っ張り上げようとしてひろしとともに取り残される。二人は徒歩で真夜中に田舎の駅までたどり着いて待合室で青森まで乗り継ぐ下り鈍行列車を待って一夜を過ごすのですが、若い女刑事と家族が危機一髪の中年サラリーマンの一夜、と艶っぽくもなりそうなシチュエーションを、夜のしじまで仕事の愚痴をため息まじりに交わすあっさりしてしみじみする後味の良いシークエンスになっていて、またクライマックスでは現役刑事なりに体力・体術はあるが狙った狙撃をことごとく外すのが超能力で思考を読む敵を意外にも苦戦させる上にしんのすけがふざけかかってうっかり発射した最後の残弾が命中し敵に決定的な足止めを食らわせるおいしい役ももっていき、全員必死で追いかけあっているので何度も高層ビルの梁から突き落とされてはゼイゼイ息をしながら戻ってくるギャグ要員でもあるのですが、この野原一家の味方役にしてギャグキャラも兼ねる役割の人物を一家と同等に物語の主役級にした初の試みがスキンヘッドの首領マウス(石田太郎)率いる全世界的なサイバーテロを企む悪の秘密結社ブタのヒヅメの陰謀を阻止しようとする正義の秘密組織(国連承認)SMLのエージェント、ブタのヒヅメに潜入して起動プログラムの記録ディスクを奪ってきたコードネーム"お色気"(三石琴乃)と、"お色気"救出に向かうコードネーム"筋肉"(玄田哲章)で、お色気はブタのヒヅメの巨大気球基地からパラシュート脱出し東京湾に流れつき園長先生が福引きで当てた屋形船でお食事会中のふたば幼稚園の屋形船に這い上がる。追ってきたブタのヒヅメの巨大気球が屋形船をクレーンでさらってしまい、先生たちは園児たちを急いで屋形船から脱出させますが、トイレに入っていたしんのすけに駆けつけていたかすかべ防衛隊の友だち(ネネちゃん、風間くん、マサオくん、ボーちゃん)はへたばっていたお色気ともども脱出に間に合わずブタのヒヅメに捕らえられてしまいます。一方春日部市(本作からはっきり野原一家の居住市は「春日部市」と表記されます。三人家族だった時縦書き表示だった「野原ひろし/みさえ/しんのすけ」の標札は横書き表示の「野原ひろし/みさえ/しんのすけ/ひまわり」に変わっています)の家のひろしとみさえはテレビニュースを見て半狂乱ですが、そこに「大丈夫、息子さんは無事だ。俺が必ず連れ返す」とスーツ姿の外国人マッチョ大男が現れ、あんた誰という夫婦の問いに正義の秘密組織SMLの筋肉だと名乗ります。「SMLなんて聞いたことねえよ」「当たり前だ、秘密組織だからな」ブタのヒヅメに捕らえられたSMLのエージェントに息子さんたちは巻きこまれたんだ、確認のため写真をくれ、とネネちゃんや風間くんたちの写真を見せられたひろしとみさえは写真じゃなくて俺たちを連れて行けと筋肉にあの手この手で強引に迫りますが、結局置いていかれてしまいます。筋肉が席を外したうちにスーツケース内の書類を見た夫婦はひまわりを連れて香港に向かい、見かけた筋肉になおも迫り、根負けした筋肉は夫婦の覚悟を見こんで同行を認めます。一方ブタのヒヅメの三人の幹部、冷酷な短足のバレル(山寺宏一)、刃物使いのブレード(速水奨)、マッチョの大女・ママ(松島みのり)とリーダーのマウスはお色気にディスクを返せと迫りますが、お色気はディスクはSML本部でないと解除できない自爆装置つきリュックの中でお色気の心音が感知できなくなっても自爆すると拒否し、お色気としんのすけたちはブタのヒヅメ本部へ連れて行かれることになります。飛行船が南米の荒野の高山地帯らしい本部へ向かう途中、お色気としんのすけたちは牢屋から脱走し、そこにみさえとひろし、筋肉が乗る飛行機が救助しに来ますが、ブタのヒヅメの飛行船の攻撃で大破され地上に不時着。3人は徒歩で飛行船の目的地のブタのヒヅメ本部へ向かいます。混乱に乗じてお色気はしんのすけたちを脱出ポットで飛行船から逃がすことに成功するも囚われの身になり「女の身で耐えられるかな?」という「デジタル合成拷問」を受けます。その頃脱出に成功したしんのすけたちかすかべ防衛隊は、とりあえず人のいる場所を目指して歩き出しますが、到着した場所はブタのヒヅメ本部で、そこで目的も知らずサイバーテロ・プログラムを開発させられていた元春日部市民の天才老発明家・大袋博士(滝口順平)とオカマの中年助手アンジェラ青梅(増岡弘)と出会ったかすかべ防衛隊は、しんのすけたちより少し先に着きマウス一味と対決していた筋肉とひろし・みさえの助っ人に博士とアンジェラ青梅の助けを借りて駆けつけます。そこで明らかになったブタのヒヅメの全世界征服サイバーテロ計画の全貌とは……。
 前作がロードムーヴィー型アクション映画なら本作はスパイ・アクション型ロードムーヴィーとも言えるアクション・コメディで、しかもほとんど野原一家と同格の主役として活躍するお色気・筋肉の二人のSMLエージェント(「だいたいSMLって何だよ!?」「正義(Seigi)の味方(Mikata)ラブ(Love)だ」「何で日本語と英語混じり何だよ!」)に実は5歳児(正義くん)がある離婚した元国際結婚夫婦であり、さらにかすかべ防衛隊の5人の5歳の幼稚園児たちが南米の高山地帯の荒野のど真ん中に放り出されて自力でブタのヒヅメ本部にたどり着くまでの大冒険もあり、5歳児ですから大人1人分のサバイバルキットでしのぎ何とかたどり着きますが、荒野の幼稚園児5人組というのも『映画クレヨンしんちゃん』ですら滅多に見られないシチュエーションで、しんちゃん映画以外ではこんな展開は皆無でしょう。1枚のシートに5人が放射状に寝て「見てよ、星空だ」「星空っていうより宇宙って感じ」と夜を明かす場面の演出も緩急心得た心憎い名場面になっており、児童アニメの名門老舗シンエイ動画でスタッフが培ってきたファミリー向けアドベンチャー作品の最良の面を見る思いがします。また劇場版シリーズ化の定着とともにスケールの大きい内容が風格を帯びてきて、最大手映画社の東宝の配給と地上波大手のテレビ朝日系列との提携も多くのスポンサーを集めるバックアップ体制になり、これまで台詞で春日部市が言及されても文字表記は「春我部」「かすかべ」と濁されていたのが「埼玉県春日部市」と堂々と表記されるようになりました。またシンエイ動画自体は児童アニメーション映画の独立プロですが実質的にはメジャー映画社の規模で実力・実績のある製作プロ(手塚プロ、マッドハウス、京都アニメーションなども毎作原画・背景・仕上げなどを分担しています)やアニメーターの参加を得ることができた。前作までは原作者の臼井氏が作品タイトルを決定していましたが本作以降は原作者は実質的に監修のみにまわり、その代わり前作・本作では「マンガ家・臼井儀人(好きなタイプの女性・松たか子)」とテロップが出て前作では健康ランド、本作では屋形船でカラオケを熱唱し、前作では埼玉、本作では香港でしんのすけ捜索中のひろし・みさえにカラオケ大会の会場を尋ねてぶっ飛ばされるというおいしいカメオ出演をしています。前作『暗黒タマタマ』では芸能人カメオ出演はありませんでしたが(健康ランドに登場したホステス軍団が三波春夫の「世界の国からこんにちは」を流してパラパラを踊る、1970年の箇所だけ「1997年の~」と歌う場面はありましたが)、本作ではしんのすけたちに子ども好きの大袋博士とアンジェラ青梅が新発明のホログラム装置でアンジェラ青梅をSHAZNAのIZAM(本人声優出演、エンドクレジット主題歌も担当)に変えてみせるという趣向があり、『ヘンダーランドの大冒険』で雛形あきこ本人を登場させたのと同じ手法ですが、実はこの感想文を書くまでこれがマウスがお色気に「女の身のお前に耐えられるかな」というデジタル合成拷問の伏線だったとは気づきませんでした。お色気役の三石琴乃さんは原監督が「美少女戦士セーラームーン」「新世紀エヴァンゲリオン」以来起用したかった声優さんだそうで、テレビ版でもふたば幼稚園三人目の女性職員あげお先生としてレギュラーキャストとなり、劇場版では次作から出演することになります。本作で玄田哲章さんの演じた筋肉は前作までなら立木文彦氏の役どころですが山寺宏一氏も悪役出演していますし、玄田さんはアーノルド・シュワルツェネッガー公認専属吹き替え声優でもあり、また碇ゲンドウの立木文彦氏では「エヴァンゲリオン」を連想させてミスマッチになるという判断でしょう。本作最大の仕掛けは史上最大のサイバーテロ・ウィルスのプログラムが自立型人工電子生命体ぶりぶりざえもん(塩沢兼人)で、大袋博士は春日部在住中に散歩していてしんのすけの家の塀を越えてみさえが投げ捨てたしんのすけのぶりぶりざえもんの絵に発想を得て自立型人工電子生命体の開発を始め、秘密結社ブタのヒヅメに目をつけられて何に使われるか興味なく「発明を完成したいから」と助手のアンジェラともども秘密結社に雇われていたのですが、マウスがついにぶりぶりざえもんウィルスを通信宇宙衛星に送信した時に真相を知った博士は「ぶりぶりざえもんの生みの親」しんのすけでないとできない脳波接触でぶりぶりざえもんを「救いのヒーロー」に目覚めさせ、おのれの使命に気づいた人工電子生命体ぶりぶりざえもんは消滅するまでがしんのすけの語る作中作「ぶりぶりざえもんのぼうけん」によって描かれる。ぶりぶりざえもんはクレヨンしんちゃん作中の人気キャラクターですからテレビ版でも作中作の形式でぶりぶりざえもんを主人公にした特別編が人気を集めており、塩沢兼人(1954-2000)の生前まで25エピソードがテレビ版放映されました(のち2枚組DVD『クレヨンしんちゃん ぶりぶりざえもん ほぼこんぷりーと』2011に集成)。塩沢氏の没後ぶりぶりざえもん役は代役が不可能とされ、2016年に神谷浩史さんを後任に特別編のリメイクがテレビ放映されるまで時折台詞のない登場、台詞の落書きボードを持った登場以外は封印されることになったキャラクターです。しんのすけがぶりぶりざえもん説得中にコントロールルームに侵入してマウスの操るキーボードの上を滅茶苦茶にハイハイしまくるひまわりの活躍も本作で本格化した要素ですが、本作はしんのすけの語る「ぶりぶりざえもんのぼうけん」を聞いて浄化され消えていくぶりぶりざえもん、爆発炎上するブタのヒヅメ本部からちゃんと悪人たちも救出して巨大気球で脱出するサスペンスと危機一髪を救って気球を押し上げ炎の中に落ちていくぶりぶりざえもんの精霊、結びの野原一家と筋肉・お色気一家のピクニック(しんのすけが正義くんにぶりぶりざえもんの絵を見せます)……と、大人も泣かせるクライマックスの展開が怒涛のようにたたみかけられる原監督作品ののちの2大名作『オトナ帝国の逆襲』『戦国大合戦』につながる作品であり、『オトナ帝国』『戦国』がシリーズ代表作として観られる機会が多いあまり見過ごされがちですが、冒頭から始まる緊迫感や豊かな情感、見どころたっぷりの充実感では本作もシリーズの最高水準の作品です。また前作でも超能力者は登場するにせよ最後まで「(壺に封印された)魔人」という要素なしで物語が展開しましたが、本作では超能力も神秘的要素もなしに物語を語りきっており(唯一クライマックスのぶりぶりざえもんの精霊のお助けだけはファンタジー要素ですが)、原恵一監督の脚本・演出の冴えも前作以上に発揮された仕上がりが堪能できる秀作です。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第四章

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 第四章。
 実は私も同じ疑問を持っていたのだ、とムーミンパパは言いました。それがいつからのことかは憶えていないが、他人と話題にしたこともある。だが確証をつかんだのは一度もないのだ、とムーミンパパは頭をかかえました。しかしこれではあまりに話が飛ぶので、もう少しこれまでの会話をさかのぼってみましょう。
・五分前
 食事マナーの悪さを始め、日頃の礼儀作法までムーミンママと偽ムーミンに責められるに及んでは、ムーミンパパも開き直る手に出たのです。ふーん私はどうせ教養ないし、フィンランド政府のムーミン特別手当だけが収入の宿六さ。一応学校に通いはしたが、施設育ちだから義務教育からは逃げられなかっただけだ。
そういうものなの?
 ムーミン、パパの言うことは昔の話よ、とムーミンママが即座につくろいます。今は勉強も遊びもどちらも大事なの。パパだってああ見えてそれほど馬鹿じゃないのよ。
 馬鹿だと?どさくさ紛れとはいえ自分の亭主を馬鹿とはなんだ!
 と、こうしてつらねていくとムーミンママの暴言もいかにも唐突なので、もう少し会話をさかのぼってみた方がいいでしょう。
・10分前
 ところでムーミン、学校の成績がこの頃思わしくないそうじゃないか?とムーミンパパは嬉しそうに言いました。学校は楽しくないのかい?
 そんなことを言われても偽ムーミンは悪戯を目的にしか学校になど行ったことがなく、表向きにはムーミンとして入れ替っているだけですから、自分はともかく学校がムーミンにとって楽しいかはわかりません。偽ムーミンにはフローレンといいなずけ同士など虫酸が走るので極力冷淡な態度で接していましたが、冷淡にすればするほど馴れ馴れしくしてくるのがフローレンでした。しかも多少はムーミンのため、というよりムーミンらしさを装うために友好的な態度をとろうとすると、今度はフローレンの方が(偽)ムーミンなど眼中にない様子。若い女にはよくあることよ、と情婦には笑って済まされても、偽ムーミンがムーミンになりすます唯一の不愉快はフローレンでした。
 返事がないのでムーミンパパはムーミンママに話を向けました。われわれの小さい頃も学校の教師よりスナフキンが先生だったようなものだな。ということは、スナフキンはいつからこの谷にいるのか?本人ですら知らないのではないか?


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 最初、人びとはスナフキンの存在に気がつきませんでした。あるいは、気がつかないふりをしていました。気づくとはすなわちその存在を認めることであり、認めてしまえばそれは間違いだ、認識の違いだと言ってもあとの祭りです。
 ですが認識の違いにも種類はあり、たとえばカップルの一方が関係に倦怠を感じて商売女、あるいはホストに入れ上げた場合、
・この浮気者!
 と責めるのと、
・本気じゃないからm*_m
と詫びるのは同一事件をめぐる混乱ですが、
・解釈の相違!
 と追い打ちをかけるのはどちらにも可能で、ならば両者は修辞上意見の一致をみたはずです。でも実際はそれで治まる男女関係とは現実ではごく稀で、針の穴からラクダを覗いて、
・針の穴からラクダが通るぞ!
 と主張するようなものですが、ムーミン谷には現在ラクダはいないのです。一応現在と断るのは、ムーミン谷はどうやら極度に高度な発達をとげた文明の跡地に拓けた谷らしく、過去の文明の痕跡もまた現代のムーミン谷に属するとすればラクダがいなかった、とは断言できない。ただし現在はラクダはいない、ラクダに類似したトロールもいないというわけです。
 いないものを例にあげていいのなら、クジラの場合はどうなるでしょう?ラクダを覗くにも六畳一間の対角線くらいの距離はとらねばなりませんが、この際だからモビー・ディックくらいはでかいクジラを想定したいと思います。白鯨というくらいですからシロナガスクジラを指すとして、シロナガスクジラは絶滅種の恐竜などを含めても、地球上最大の体長を誇る生物として知られています。観測された最大の個体は34メートルの体長に及んだそうですから、確かに陸地で生きるには不向きでしょう。
 ラクダを覗いた要領でクジラ、それもシロナガスクジラを針の穴から覗くとなると、普通に両眼の視野に収めるにも相当の距離をとらなければなりません。ですがムーミン谷とはどのくらいの幅と長さを持つ地勢なのか、これまで多くの試みが素人によってなされましたが、全長ボート大から長野県大までさまざま、まちまちでした。市民プール大ではシロナガスクジラ自体が入らず、ムーミン谷以外の場所で試みてもそれはムーミン谷の真実にはならないのです。
 そこで測量技師が呼ばれました。名前はスナフキン、ですがスナフキンが着いた頃には、依頼は忘れられていたのです。しかもトロールの地で生きることはトロールと化すことでした。


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 ホッピーで乾杯というのも間が抜けておるが仕方があるまい。しかしジョッキとはすまんな。容器自体に重みがあるから利き腕で持たんとつらかろう。
 それはあっしも気づきませんでした。でも瓶のホッピーなぞありますかね?だいたいホッピー自体、他人が飲むのを見たことはあるが自分じゃまず飲みませんですからね。
 私もだ。ひょっとしたら私はこれが記念すべき初ホッピーかもしれんぞ。
 記念するようなことかはわかりませんが、たぶんあっしもです。手下どもにどさくさ紛れに飲まされていたら別ですが。
おたがい初ホッピーか。法を表と裏から支えるわれわれがそんなケチくさいことで一致するとは、実に景気の悪い話だな。なんだか大事なものを失ったような気がしないか?
 いやあ、あっしは物盗り専門なんで、失うものは命しかないです。でも物盗りの立場としても、近ごろの景気の悪さはねえ。税率を上げて吸い上げた金も景気を上げるどころか、世間をケチにしているだけじゃないですか。
 それにはわれわれも困っていてね、なにしろ経済政策と言っても、過去には独自のシステムがあってなんとか維持してきたからこそ現在のこのコミューンもあるのだが、今やわれわれは先進国のシステムを模倣するしかなく、その先進国さえもことごとく破綻をきたしておる。ではわれわれが自給自足だった頃のシステムを取り戻せるかといえば、後戻りはとうてい無理なほどコミューンの性格は変質している。だからきみたちプロの知恵を借りたいわけだ。
 そうですねえ、これも先進国の手口ですが、司法の活気のために犯罪の再生産を促進する手がありますね。まず刑期を短くして再犯率を高めます。
 いいな、それから?
 禁止条例を増やし、一般市民を手頃な程度の軽犯罪者にして検挙数を上げます。密売品なら売人をはびこらせて売人との連携で違法物所持の現場を押さえます。ホテルの一室や路上駐車なんかがいいですな。つまりは、もっとプロを活用してくださいよ。職業犯罪者は泳がせておき市民を誘導してガンガン検挙する、その辺はまだ先進国から学ぶ余地はありますよ。
 うむ、きみもさすが裏の世界の親分だけあるな。
 たとえば今、外食禁止条例を出せばこの店の客は一網打尽ですぜ。
いや、とヘムル署長は苦笑しました。その条例は一度施行され、廃されたことがあるんだ。スティンキーくんが来る前だがな。知りたいかね?


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 これはなんだろう、たぶん誰でも立ち寄っていい種類の祝賀会、おそらく立食パーティが催されているに違いない。そう確信したスナフキンは、中からにぎやかな人声が聞えてくる建物の開け放したドアから玄関をくぐりました。最後の食事にありついたのはいつのことだったか、もう思い出せません。
 食事をとらない生き物は徐々に衰弱していきますが、食事をとらないトロールはさまざまな変化をきたします。これには種族差もあれば個体差もあって一律には言えませんが、トロールにとって食事はエネルギー代謝のために必要なのではなく、いわば個体という概念の維持のために必要な行為なので、フィジカルまたはヴァイタル的な衰弱ではなく概念的衰弱、即ち、
・形態が崩れる
・矮小化する
・影が薄くなる
 などの現象が起ります。ですからスナフキンの存在は尋常にはほとんど誰からも見えない状態になっていました。光線や風の、ほんのちょっとした屈折や反射がかろうじて見えないスナフキンの輪郭を映し出すことがあるきりでした。これを日本の諺では、
・柳の下に幽霊
 と言うのは当らずとも遠からずといえるでしょう。それはさておき、
 スナフキンは仕事の依頼があってこんな土地まで来たのですから、到着さえすれば当然然るべき応対を受けて宿にも食にも日用品にもありつけるものと、水筒一本携えてきませんでした。近頃の洗濯機は入浴中に洗濯から乾燥まで完了しますから、着替えも用意してありません。依頼された仕事はやや長期に渡る可能性がありましたが、住民のいる土地なら商店くらいあるでしょう。ごく少額の貨幣しか持参しなかったのは現地の通貨と換金できるか不明でしたし、契約では衣食住は保証されるはずだったのです。
 つい先ほどにはスナフキンは周囲にこの土地のあちこち、主にじめじめして薄汚れ、悪臭すら地表から漂ってくるような場所をどうも好むらしい、おそらく陸生のカツオノエボシやマヨイアイオイクラゲのような原始的群体トロールの一種ではないかと思われるそれが辺りに生えている池から、帽子で水を汲みました。濁った水面ですが周囲の木々は映ります。スナフキンは手をかざし、水面を覗いてみました。ついにおれは着衣もろとも見えなくなったのか。
 そんなわけで、スナフキンが入りこんだのがムーミン家の結婚披露宴会場だったのです。


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・卑怯もの!
 とフローレンはいつもより低く、ですがレストランのすみずみまで響きわたる声で罵りました。それは普段の彼女を知るなら唖然とするような豹変ぶりで、居丈高ではないだけ冷酷に真実を突いた鋭さを感じさせました。それは決して彼女が口にしたことのない言葉でした。
 卑怯もの?なんのことか、ぼくにはちっともわからないよ、と稚拙な受け答えをしたのはムーミンです。フローレンとは対照的に、とぼけてみせるムーミンはいつものムーミンでした。きみは頭でも痛いのかな?幸いここはレストランだし、幸い隣には薬局がある。
・看板『国民薬局』
 国民薬局、非国民薬局、どうでもいいわ。いま私に必要なのは頭痛薬じゃない。でももし薬局にあれば…
 わかった、便秘薬だね。
 違うわ!あなたには女の心はわからないのよ。
 そんなことないわ!私でも女言葉くらい使えるわよ。でも彼氏がおネエしゃべりしていたらあなただってヤよね?
 お願いだから止めて…。
 で、頭痛でもない便秘でもないなら、他にはなあに?水虫かい?
 あなたにはその程度の想像力しかないのね。国民薬局で買えるもので治せないものはないと思って?
・コクミン薬局はあなどれないゾ
 あの店はね、F1のチケットと居酒屋のドリンク券でお腹の薬を譲ってくれるんだゾ。だてに国民薬局というんじゃないんだゾ。
 私も聞いたことはあるわ。でもそれは相手がブタの場合だけでしょ?
 どうしてブタの場合だけなんだい?
 そうでもしなきゃ追い払えないからよ。コマンタレブーとかホザいて座り込みでもされたら嫌でしょ?
 それならぼくはカバのふりをするよ。ゴネるカバも同じくらい嫌だろ?
 あなたの場合フリしなくてもカバでしょ?(嘲笑)
 (絶句して)きみたちスノーク族がそんなこと言えるのか!ムーミン族とスノーク族は代々の婚姻で事実上混血じゃないか。やめよう、馬鹿馬鹿しいよ。カバ似のトロールどうしがカバと罵りあってもらちがあかないよ。LOVE NOT WAR!っていうじゃないか。それより不純異性交遊でもしようよ、フローレン。
 ……それはプロポーズと受け取って良くて?
 そうさ。
・店中の客の拍手
・フラッシュのシャワー
 照明が点き、新郎新婦が舞台を降りました。スナフキンはぼーっと壁にもたれていました。そこは当時谷で唯一のレストランでした。


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 せっかくの夕べなのであえて話題にはしなかったが、とヘムレンさん。アレをいわゆる黒歴史と言うのだろうな。ここまで言えばきみには通じると思うが。
 ああ、アレかね、とジャコウネズミ博士。おたがいアレには悩まされたものだ。私もムーミン谷の紀元までは精通してはいないし、文献によると1917年という解明されていない年号や、それ以前にはレーニンという伝説がどうも視察に来た様子があり、このレーニンとはどうも1917年10月にワルプルギスの夜と化したらしいが、なにしろデータ不足で因果関係がよくわからん。きみの方が詳しいんじゃないかね?
 半端なところで下駄を預けるのか(笑)とヘムレンさんは頭を振って、1917年が何を意味しているのか、要するにわれわれトロールの文化は紀元という風習を廃棄してしまったからな。いったい一年とはどこからどこまでを指すのか、一か月とはどのくらいの長さか、われわれはもう考えることを止めたのだ。ただし一日だけはどうにもならん。陽が上ってニョロニョロが生え(失礼、許してくれ)、陽が沈んでニョロニョロが消える。これだけは、ね。
 学問的な考察に礼儀作法はいらんよ。私だってそいつに言及することはあるさ。腐女子の前では特にね。
 まあジェンダーに関わる話題は避けようや。そこで話を戻すと、この店に来てふと思ったのだよ。文献によると1917年以前は帝制時代と呼ぶらしい。帝制時代……どういう意味かな?
 今後の研究課題、資料発掘を待つしかないな。で?
アレ……きみとははっきり話そう、かつてあった谷唯一のレストランは、その帝制時代の遺産だったのではないか?
 アレがか?
 そうだ。あの店は谷で唯一トロール文化に違和感をもたらす諸悪の根源だった。結局われわれムーミン谷評議会でヘムル署長に外食禁止条令を施行してもらい、店が夜逃げしてから条令を廃止した。あの時は治安維持法の適用まで検討したのは危なかったな。
 ただし廃止した以上同じ条令は二度と使えなくなったがね。危険は同じさ。
 だがあの店より危険な店があるかね?あのコックの料理は殺人的だった。カブラのズンドコ煮とかトンビのパッパラ揚げとか思い出してみたまえ。
 その頃、ウェイターは厨房に注文を伝えていました。ハーイすぐにネ、と応えた料理人こそ、そのコックカワサキだったのです。


  (37)

 ここはレストランなのだということは、看板の文字が読めないスナフキンでも外装で気づきましたし(宿屋も同様)、漠然とパーティの余興に田舎芝居でもやっているんだな……と思いながらムーミンとフローレンのやり取りを客席から離れた壁にもたれて見ていましたが、それは椅子にかけていたら見えないスナフキンの膝に誰かが座るかもしれないからでした。そうすればきっと座った誰かは、スナフキンの存在を押し除けて腰をおろしてしまうでしょう。
 同じ空間を同時に別々の存在が占有することはできません。スナフキンの存在はその瞬間に消滅してしまいます。見えない、ということはそういうことか、とスナフキンはうそ寒い気持になりました。女湯を覗き放題とか、そういうことじゃないんだな。しかも、
・宿屋に女湯はなかった
 それにこの土地には通貨という概念もないのがわかった。あの若い男、執事の息子というスノークには屈辱的な扱いを受けたが、宿屋のおやじも通報義務に従ったまでだろう。要するにおれは、契約の時点で入国許可が下りたと思っていたのが早計だったのだ。
 というより、そもそも入国許可が問題となるなど事務所の誰もが思いもしなかった。ましてや通貨という概念が存在しないとなると、契約書にあった滞在中の生活の保証とは賃金の前払いという意味ではない。契約書の作成には立ち会っていないから確かなことは言えないが、おそらくこちらが用意した書式に先方が了解しただけなのだ。
 通貨がないなら賃金はどうなる?もちろん賃金の奴隷になりたい者はいない。そしてわれわれを奴隷にしているのは賃金だが、では賃金を廃止すればいいとでもいうのか?
 優秀な測量技師が欲しい、という依頼で技師会からおれが選出された。おれは優秀な測量技師なのだ。酒や女より測量が好き。だがただ働きはしない。そのための契約であるはずだ。
 ……そんなことももちろん重大だが、今はとにかく食い物をどうにかしなくては。スナフキンはこの土地にも少しはある商店を見かけて住民が買い物をする姿は見ましたが、どうやら財産を担保に掛け売りしている様子でした。おれは資産を証明できないどころか、姿すら相手に見えない!
 すると、スナフキンは店中にひどい悪臭が漂いだしたのに気づきました。料理が運ばれてきたのです。


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 どこまで話したっけ?そうだ、この本についてだ。私も面食らったさ。だが私がAmazonやヤフオク、「日本の古本屋」で検索してみてもムーミン谷レストランの歴史なんて本の出品はない。つまりムーミン谷立図書館にこれが一冊あるだけなのかもしれん。だとすれば、この本の著者は外部の好事家ではなく、われわれの谷の住民なのはほぼ確実だろう。
 お兄さまはときどき難しい言葉をお使いになるわね。外部の何ですって?
 こうずか、好事家だよ。物好きのことだ。そうかお前は自分の名前や固有名詞を少し読めるだけだったな。ろくに言葉を知らなくても仕方ない。
 これでもライトノベルくらいなら読めるのよ。
 ノベルじゃなくてノヴェルだろ?片腹痛いわ。そんなものは昔はジュヴナイルと呼んだのだ。だいたい新語とは見せかけだけ新しくして旧態依然としたものを売りつけるために捏造されるものさ。ライトノベルだの自己啓発書だのは自分の知性に自信がない者が読むものだ。そういう輩はたとえ学習しても内的必然を欠いた理論家にしかなれないばかりか、おのれの内発性の欠如を学問的態度と思い込むから話にならん。
・お前が言えた義理かよ
 ……でも知らないことは読めない、なんていう本があるのはおかしいわ。だって本は知らないことを知るためにあるものでしょう?
 そう、お前がそういうのももっともだ。確かに読者にとっては本とは知らないことを知るためのものだ。だが著者にとってはどうだろうか。読者は自分が手に取る本の筆者は書いてあることを知り尽くしている、と思って読むわけだ。ここまではいいね?
 ええ、そう思います。
 では著者にとってその本はというと、単に自分の知っていること、理解していることを読者に伝えるように噛み砕いて、または圧縮して述べたのにすぎない。すると著者にとってはそれは本としての意味を失う。なにしろ知らないことを教えてはくれないのだからな。だから……
 おそらく著者お手製の、世界に唯一のこの本は、その点で読者にとっても著者にとっても公平なのではないか。つまり筆者を含めあらゆる読者に公平であるためには、知っていることしか読めないというのが唯一の条件ではなかろうか。
 でもお兄さま、これがそういう本なら、いったいなんの役に立つの?
 そうだな、とスノークは言いました、われわれはまだレストランとはなにか知らないということがわかる。


  (39)

 この店にはウェイターはいないらしく、どうやら調理師自身が料理を運んできたようでした。玉子型の胴体の頂点が頭部に当るのか、いわば玉子に目鼻と手足をつけた姿です。この土地でスナフキンは相当異形の姿形にも馴れていましたが、中でもこの調理師はデフォルメの具合が激しい部類でした。
 頚椎に当る部位がないということは、とスナフキンは理系らしく(技師ですから)思いました、後ろを向く時不便だろうな。よく幼児が背後の大人に振り向こうとしてバランスを失い激突するが、あれは首が大人のように要領よく回らないので体ごとひねるからだ、と保育士資格も持っているスナフキンは思いました。子供どころか人嫌いのスナフキンがなぜそんな資格を取ったかといえば、母国が福祉推進国家で保育・医療・介護関係の資格取得を単位に選ぶと奨学金が気前良くおりるのです。スナフキンは理系ですが人の心には関心があり、大学の一般教養で数合わせに受講した発達心理学で幼児〜児童期の人格形成には興味をそそられました。医療は専門的すぎますが、保育と介護から選ぶなら、
・ガキの子守の方がマシ
 と考えたのです。スナフキンはソフトでハンサムでしたので、実習先の保育所でも子供やママさんたちにも人気、実習先の保育士や実習生にもモテモテになり、しまいには全員の女性と関係しましたが(子供以外)、それがバレなかったのもスナフキンの人徳あればこそでした。
 それにしてもこの悪臭は、とスナフキンはけげんに思いましたが、リヤカーまたは猫車のようなワゴンにずらりと並んだ皿やお椀、それらはどれも半球状の蓋がしてあり、宿屋から追い出されてから、いや実際は赴任する途上で食べたサンドイッチ以来何も食べていないスナフキンには、蓋さえ透視できるような気がしました。
 食器が異なるのは料理も異なるに違いない。あのワゴンは見かけはみすぼらしいが、おそらく調理師の側からは数段収納できるようになっていて、最上部に乗っているものだけでも20種類近くはあるようだ。
 しかし料理が着いたのに飲み物が配られている様子はない。ここの連中は乾杯もしないのか?いや、飲み物も一緒に運ばれてきたのかもしれない。すると、
・ハーイお食事ですヨー
 と調理師が口を開くやいなや、店内の空気が殺気立ちました。その声はスナフキンにすら激しい嫌悪感を催させました。
 次回第四章完。


  (40)

 われわれにはついに解明できなかったが、最終的に下した判断の正当性は間違いはなかったと信じている。あれは、言うなれば一種の汚染のようなものだった。しかもわれわれはうかつにも外側からではなく、内側から蝕まれていたということに気づくのが遅かった。あまりに酷い有様だったのでわれわれは長い間、それは単にわれわれの目にする現実にすぎないと思いこんでいたのだが、それこそわれわれの自惚れや油断から来る錯覚だったのだ。われわれはあまりにお人好しすぎた。
 もちろんわれわれはおたがいを責めあう必要はない。残されているどんな記録よりもあれは古い歴史を持っていた。記録という習慣が芽生えるよりもさらに昔からあれは存在していたに違いない。またはわれわれの願望があれをいつしか呼び寄せたとも考えられる。だとすればわれわれは汚染されるのを望んでいたのだ。どのように望んでいたかが具体的なかたちであのように現れたのだとすれば、あのような脅威をわれわれが霧消させるにはまったく手を汚さないわけにはいかなかった。
・そして手を汚した
 われわれはそれを実行し、それまでさらされていた誘惑や危機から離れることができたはずだった。平安が退屈だとしても腐敗に浸るよりはいい。
 だが一度はその存在を抹消したはずの不吉、放置しておけばまたわれわれを貪欲と不満が循環する負のスパイラルへと巻き込むあの悪習が今また姿を微妙に変えてわれわれのもとに現れたとなると、これはしばらくは様子を観察しないではわれわれは意見の一致を見ないだろう。
 以前われわれは法の力を借りて危機を遠ざけることができた。それ以外のやり方でわれわれの法より先に存在していたものを排除できないから法に新たな追加をしたのだ。だが追加された条令自体が危機から逃れたわれわれにとっては違憲である、というパラドックスが生じてこの追加条令は廃止された。
 われわれのような国家形体では廃止した条令を再び施行するのは困難で、事実上不可能と言ってよい。そこに今回のような事態が生じる隙があった。だからわれわれはこれがかつてのような脅威の再来ではないことを願うしかない。われわれは学習ということを知らないから、同じ条件であれば同じ過ちをいとも簡単に反復してしまうのだ。
 ……そこでスナフキンはハッと目醒めました。ああ、この悪夢は以前にも見たことがあるぞ。
 第四章完。


(初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

映画日記2019年4月7日~9日/一気観!『映画クレヨンしんちゃん』シリーズ!(3)

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 前回ご紹介した『映画クレヨンしんちゃん』第4作~第6作は甲乙つけ難い傑作・快作・秀作が並びましたが、今回の第7作~第9作は二代目監督・原恵一監督作品が続きながらも興行成績・世評ともにくっきり明暗(というとおおげさですが)を分けた諸作です。1999年の第7作『爆発!温泉わくわく大決戦』はチーフ助監督(本編演出)の水島努の劇場映画初作品になる短編「クレしんパラダイス!メイド・イン・埼玉」を併映する2本立てにして観客動員数の低下を挽回しようとするも振るわず、興行収入9億4,000万円と長編アニメーション映画としてはまずまずの成績を収めながらも昨年の第26作まで唯一興行収入10億円を割る作品となってしまい、レギュラー・シリーズの存続が危ぶまれる結果になりました。併映短編は10分の中で5エピソードの映画パロディを詰めこんだ水島監督らしい好作であり、本編は東宝配給の利を生かした怪獣映画のパロディ(実際は巨大ロボットですが)で、ゴジラ作品の音楽を使う、自衛隊協力のもと本格的ミリタリー考証も行われた面白い作品ですが本郷みつる監督時代の作品に趣向は近く、悪ノリが過ぎた仕上がりの観もあるものです。これでシリーズは終わりかと原恵一監督始めシンエイ動画側も堪忍したそうですが、まだ様子を見ようと次作製作も決定し、第8作『嵐を呼ぶジャングル』2000は興行収入10億7,000万円と第6作『電撃!ブタのヒヅメ大作戦』を上回る観客動員数を取り戻しました。『ブタのヒヅメ~』同様かすかべ防衛隊とひまわりの活躍する趣向が功を奏したと思われます。2001年の第9作『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』はついに原恵一監督がしんちゃんでやってしまった大野心作で、スタッフとキャストは特別な作品と自信をもって製作し、内部試写では上映後に関係者やスポンサーから「何て不愉快な映画だ」と不興を買いましたが作品の出来に自信を持ったテレビ朝日は好評の前作『嵐を呼ぶジャングル』のテレビ放映特番とともにプロモーションを展開し、批評家・一般試写会では驚愕と絶讃で迎えられ、興行収入14億5,000万円と第3作を上回る、シリーズ第1、2作に次ぐヒット作となりました。同作は「映画秘宝」誌で洋画・邦画総合年間ベスト1に選出され、2009年の「キネマ旬報創刊90周年オールタイムベスト・テン」でも日本映画アニメーション部門4位に選出され、しんちゃん映画では最後の原恵一監督作品になった2002年の第10作『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』では興行収入は13億円とやや落ちつきますが、文化庁メディア芸術祭・アニメーション部門大賞、毎日映画コンクールアニメーション映画賞受賞を始めアニメーション映画を対象とする賞を7賞あまり総なめにし、前作『オトナ帝国の逆襲』のDVD化のヒットとともに飛躍的にしんちゃん映画への評価を高めることになります。同作は2009年に『ALLAD 名もなき恋のうた』として実写映画化されましたが監督の山崎貴氏が特大ヒット作『ALWAYS 三丁目の夕日』2005の監督なのも皮肉で、『オトナ帝国~』が21世紀には出現すると予想された昭和ノスタルジアへの先手を打った批判だったのに世間は『ALWAYS 三丁目の夕日』を歓迎したので、21世紀にもしんちゃん映画が主流映画と対立して作られ続ける意義はそこにもある、と言えそうです。なお今回も各作品内容の紹介文はDVDボックスの作品紹介を引用させていただきました。

●4月7日(日)
『映画クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦(併映短編「クレしんパラダイス!メイド・イン・埼玉」監督=水島努)』(監督=原恵一、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'1999.4.17)*110min, Color Animation
◎謎の科学者"ドクターアカマミレ"率いる"YUZAME"により、地球を温泉で沈めてしまう"地球温泉化計画"が進められていた。彼らに対抗する"金の魂の湯"が野原家の地下にあったことから、一家は"温泉Gメン"とともに温泉戦士としてYUZAMEの野望に立ち向かうことになる。短編「クレしんパラダイス!メイド・イン・埼玉」と2本立て!

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 前々作『暗黒タマタマ~』、前作『ブタのヒヅメ~』と初代監督の本郷みつる監督作品とは違った方向性で快調に秀作を放ってきた原恵一監督ですが、今回は怪獣映画のパロディでというのが(原監督のオリジナル脚本ですが)原恵一監督時代の6作の中で本作だけがやや落ちる、資質に合わない出来になってしまったようです。本作だけを観れば十分に楽しめる面白さがあるのですが、この題材なら本郷みつる監督や、原恵一のあとを継ぐ(本作では前座の併映短編を監督している)水島努監督のようにハリウッド産アドヴェンチャー・ファンタジー映画の雰囲気が得意な監督が当たった方が良かったように思える。本作は「日本人の心」である温泉を守る政府直営機関「温泉Gメン」が怪獣型巨大ロボットを操り日本を温泉に沈め「世界温泉化計画」(「地球温暖化」という言葉が定着したのはこの頃でした)を企む悪の秘密結社「YUZAME」の陰謀を阻止しようとする、その巨大ロボットが埼玉県奥秩父で建造され進路に春日部市があるので野原一家が立ち上がる話で、実は散歩中にしんのすけが道で銭湯に行く姿で倒れているおじさんを家の風呂でもてなしたことから正体は「温泉の精・丹波」(丹波哲郎)のおじさんがお礼に野原家の地下に秘湯「金の魂の湯」を出現させ、それを温泉Gメンが探知したのも事件に巻きこまれるきっかけになっています。温泉という題材、ミリタリー考証も細密な自衛隊と怪獣型巨大ロボットの戦闘描写などはドメスティックかつリアリティをもって描かれているのにクライマックスの野原一家と巨大ロボットの戦闘は「金の魂の湯」の力を借りたファンタジーになり、また風呂と温泉を憎むのが秘密結社YUZAMEの世界征服の野望の動機なのに日本を手始めに世界を温泉化しようというのは逆ではないか(世界中の温泉を枯渇または汚染しようというならわかりますが)とロジックに矛盾もあり、本作の取り柄は自衛隊もYUZAMEの怪獣型巨大ロボットも『ゴジラ』のオリジナル音楽を流しながら戦闘する、最大の見どころは丹波哲郎本人が「温泉の精・丹波」役(外見も浴衣姿の丹波哲郎そのまま)で声優出演し、上機嫌でしんのすけと入浴して洗い場で一緒に「ぞうさん」を踊る、という驚愕のカメオ出演で、「俺はジェームズ・ボンドと風呂に入ったことがあるんだぞ」(『007は二度死ぬ』'67)と豪語する丹波哲郎(1922-2006)は本作公開時77歳ですが、日本の温泉を極めた温泉愛の権化の温泉Gメン隊長・コードネーム草津(小川真司)も壮年期の丹波哲郎にそっくりの容貌とはいえ、プロデューサーが肖像権使用許可を求めたら丹波哲郎本人が声優出演しようと決まって原恵一監督も絶句したそうで、丹波氏は'80年代から心霊研究家としての著書を多数執筆・発表し、'87年の『大霊界 死んだらどうなる』(学習研究社)は大ベストセラーになり映画化作品『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』'89は観客動員数300万人のヒット作になって第2作、第3作まで作られ、戦後日本の大映画俳優にして霊界の存在を説く(しかもいじられてもまったく動じない)面白いおじさんとして昔の日本映画を観ない人にも大有名人だったので、しんちゃん映画への実名出演、しかも「温泉の精・丹波」で全裸でしんちゃんとぞうさんを踊ってしまう場面は丹波氏のビッグ・ハートが映画全体でもひときわ光る名場面になっています。また本作公開時にはミスタージャイアンツ長嶋茂雄がついに球界引退かと平成以降すっかりサッカーにプロスポーツの華を奪われてしまった昭和のプロ野球黄金時代ごと長嶋の業績を名残惜しむブームが訪れていたので、YUZAMEの51歳の首領ドクター・アカマミレ(家弓家正)の風呂・温泉への私怨は実は30年前の長嶋ファンとしての挫折感に起因しており、その原因を作ったのは他でもない30年前の温泉Gメン隊長になる前の草津だった、というあまりにも馬鹿馬鹿しい因縁があり、こうした泥臭い人情喜劇的発想や展開は原恵一監督の趣味がよく表れていていいんじゃないかとした場合、怪獣型巨大ロボットやミリタリー考証、金の魂の湯に力を授かった野原一家のスーパーマンと化した活躍によるクライマックスの戦闘はミスマッチが目立ってくることになります。部分部分は良いのですが全体のまとまりとなると一本筋の通ったところがない。1作の長編アニメーション映画としてリアリティの水準をどこに置いて保つかは長編アニメに限らずフィクション作品として重要な問題で、本郷みつる監督時代にはしんちゃん世界の次元のリアリティに別次元のファンタジー世界のリアリティが侵蝕してくる、という二重構造が基本でした。
 原恵一監督の前2作では別次元はファンタジーではありませんが、しんちゃん世界に交わる世界征服を企む秘密結社と正義の組織の攻防は一定のリアリティの水準で統一されていました。本作の場合、しんちゃん世界の日常次元のリアリティがかき乱される別次元のドラマにあまりにリアリティの統一感がなく、場当たり的にファンタジーにもなれば野原一家のスーパーヒーロー化も起こるといった具合で、脚本としてはすべてを解決する「金の魂の湯」が伏線になっているのだから何でもありが許される仕組みになっている。しかしそれが観客の納得のいく、満足できる組み立てで展開しているかとなると先に指摘した通り悪の秘密結社の動機と行動自体にロジックの矛盾があるのも作中では意識されていないので、盛りだくさんにサービスの多い作品ですしエンドクレジットでは野原一家が歌う「いい湯だな」で全登場人物が踊る、あげお先生(三石琴乃)初登場で温泉Gメンの女性隊員指宿にブレイク前の田村ゆかりさん、ドクター・アカマミレの愛人フロイラン・カオルに折笠愛さんとキャスティングも楽しめ、また春日部市にYUZAMEの怪獣型巨大ロボットが向かってくることから放映中の「ぶりぶりざえもん(塩沢兼人)のぼうけん」を遮ってテレビ朝日のやじうまワイドキャスター(吉澤一彦、田中滋実)の実況があり、「クレヨンしんちゃん」のレギュラーキャストがふたば幼稚園関係のみならず風間ママ(玉川紗己子)、ネネママ(萩森子)、マサオママ(大塚智子)、さいたま紅さそり隊の女子高生3人組のふかづめ竜子(伊倉一恵)、魚の目お銀(星野千寿子)とふきでものマリー(むたあきこ)、かすかべ書店店長(京田尚子)と店員中村(稀代桜子)、しんちゃん憧れの女子大生ななこおねいさん(紗ゆり)とその友だち神田鳥忍(大塚海月)、バカップルのヨシリンとミッチー(阪口大助、草地章江)、そして春日部在住のマンガ家の臼井儀人(本人出演)とテレビ版の日常コメディのクレヨンしんちゃん世界からの住人たちが逃げまどう姿が実質的にはテレビ版の視聴者が観ると大量カメオ出演の大サービスで、無茶な喩えで言うなら松竹が『宇宙大怪獣ギララ』'67の続編を『男はつらいよ』とクロスオーヴァーさせて浅草の町でギララが暴れまわり寅さん世界のキャストたちが逃げまどうようなものです。それはそれで面白いかという気がしてくるのもたまには変な映画があってもいいからですが、『映画クレヨンしんちゃん』ではとっくにそれが普通になじむと思われたものが実はしんちゃん世界のリアリティに拮抗する映画1作ごとのフィクションにも一定の一貫性のあるリアリティが必要で、本作は水島努監督の併映短編が才気煥発なヴァラエティ豊かなミニ・オムニバス作品だったために(「ぶりぶりざえもんのぼうけん」が一瞬で遮られるのも短編のオチになっています)、原恵一監督の本編の方も過剰にまとまりのない、前2作で見せてくれた手腕が空振りしたような仕上がりになっている。しかしシリーズの他作品と比較しなければ、また比較した場合でも微妙に外した、狙いの外れた作品ならではの抜けた愛嬌が漂っているのは本シリーズの徳というものでしょう。

●4月8日(月)
『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル』(監督=原恵一、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2000.4.22)*88min, Color Animation
◎野原一家は「アクション仮面」最新作完成記念の豪華客船ツアーに参加していた。そこに突然謎のサル軍団が現れ、島に大人たちを連れ去ってしまう。船に残されたしんのすけたちかすかべ防衛隊とひまわりは、勇気を振り絞って島へ救出に向かうが……。子どもたちだけのジャングル大冒険が始まる!

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 恥ずかしながらそれまでのテレビ放映では何となく流し観していただけのしんちゃん映画が、ちょうど新作『オトナ帝国の逆襲』の前評判の高さもあってテレビ版とは違う作りなんだぞと襟を正して観始めて、これは大したものだとようやく気づいたのが本作の初テレビ放映時でした。シリーズ作品の中では本作は水準作の上程度ともいえる小品規模の構想の作品ですが、観直すと製作スタッフ(脚本・監督の原恵一監督)が前作『温泉わくわく~』で外してしまった部分を丁寧に見直してもっとも無理のない、原恵一作品の資質に見合ってかつ観客の集中力を逸らさないしんちゃんとひまわり、友だちの幼稚園児を主役にしたシンプルな作劇でテレビ版の日常コメディのクレヨンしんちゃんの視聴者にも納得かつ劇場版ならではの満足ができる好作品に仕上がっているのがわかる。原恵一監督時代の6作は失敗作『温泉わくわく~』も含めて初代監督の本郷みつる作品の初期4作と並ぶ、どれを観ても満足のいくものですが、ノスタルジアとは違う戦後昭和文化(特に'70年代初頭)趣味、日本映画的な情感とアメリカ映画的な脚色・演出のミスマッチ感の生むおかしみ感は一貫しており、また本体はテレビ版の「クレヨンしんちゃん」から地続きの特別編なのをもっとも強く感じさせる作品で、アクション仮面はあくまでテレビ・映画作品のアクション仮面であり俳優・郷剛太郎(玄田哲章)が演じている作中フィクションのヒーローという設定になっており、アクション仮面の新作映画のプレミア上映会でフィリピン近海への洋上豪華客船ツアーに招かれた野原一家(しんのすけ=矢島晶子、みさえ=ならはしみき、ひろし=藤原啓治、ひまわり=こおろぎさとみ、シロ=真柴摩利)、かすかべ防衛隊の幼稚園児友だち(トオルくん=真柴摩利、ネネちゃん=林玉緒、マサオくん=一龍斎貞友、ボーちゃん=佐藤智恵)たちが保護者の大人たち(トオルくんママ=玉川紗己子、ネネちゃんママ=萩森子、マサオくんママ=大塚智子)は上映会の前夜、他の乗客ともども南洋の孤島に野生サルを従え君臨する島の独裁者、パラダイスキング(大塚明夫)の策略によって大人たちはサルたちに拉致・強制労働させられ、アクション仮面は「子どもたちを屈服させるため」パラダイスキングと公開対決で叩きのめされそうになる、という事件に巻きこまれます。楽しい南洋のクルーズから、大人たちが深夜のあいだに全員客船に襲撃してきたサルたちに拉致されてからしんちゃんを始めとするかすかべ防衛隊、シロに乗って着いてきたひまわりによって客船近くの無人島にサルたちが拉致した大人たちを救出する冒険が始まりますが、パラダイスキングやアクション仮面、しんのすけやひまわりが超人的な活躍をする場面はあってもSFやファンタジー(超自然的)要素は一切排してドラマを展開しきっているのは見事で、原恵一監督時代の6作は極力ファンタジー要素を使わない工夫がしてある中でも完全に現実の次元で一編を通しているのは本作だけです。スケール感では小品の感じがする中の上の作品という印象もその辺りの手際良いまとまりから来るのですが、『映画クレヨンしんちゃん』のシリーズ作品を最初に観る方にも本作は強引なSF・ファンタジー設定がない分アクション・アドヴェンチャー作品としてすんなり入れる明快さがあり、またファミリー向け長編アニメとして全年齢の観客をわくわくさせ、話は勧善懲悪の悪党退治ですが決して残酷な描写をしない、悪事を戒めるけれど倒さないで許す(降参・反省させる)と丁寧に子どもの心に寄り添った作り方をしてあります。一例を上げれば野生サルの弱点をしんのすけの行動への反応から気づいた大人たちの蜂起で大人たちはサルの集団を追いつめ復讐気分で殺気立ちますが、その時赤ん坊のひまわりが突然大声で泣き出す。大人たちははっと冷静になり、サルたちは親玉のパラダイスキングに命令されていただけだもんな、と報復を止める。しんのすけがシロに「わたあめ」を命じ、アフロヘアーのパラダイスキングの真似をして「わたあめ」のシロを頭にかぶったしんのすけがサルたちに森に戻って仲良く暮らしなさい、と説き、サルたちは森に戻っていきます。児童アニメの名門老舗シンエイ動画生粋の原恵一らしい、ファミリー向けアニメならではの立派な脚本・演出で、当然サルはただでは済まさないぞと観ている大人の観客は恥じいることになります。しかもちゃんとひまわりが泣いて抗議するのは伏線があり、島に上陸してワニの沼を渡るなどさんざん苦労て探索していたしんのすけたちはサルに襲撃されてしまい、他の4人は拉致されてしまうのですがサルたちは鳴き出したひまわりをあやしていたしんのすけとひまわりには手を出さずに去って行ったという描写がある。これがしんのすけとひまわりだけが大人たちを救出する主役になる段取りでもあればサルたち自身には悪意がないというひまわりの泣き声の抗議に結びつくので、大人の観客もハッとする場面になっている妙技には感嘆させられます。
 また本作の悪役パラダイスキングはしんちゃん映画史上でももっとも強烈なキャラクターで、「20年前にある事情で」スカイスクーターでこの無人島で暮らすためやってきたパラダイスキングはサルたちとの生存競争に明け暮れ遂に武道の達人となってサルたちに君臨する王様になり、テーマ曲に「カンフー・ファイティング」を流し巨大なアフロヘアーとPファンク風のコスチュームで身を包んだ怪人で、島の裏に漂着した廃船の中に宮殿を作っています。アクション仮面クルーズの豪華客船から大人たちを拉致したのも「サルのできることには限界があるからな」と拉致した大人たちの男たちはパラダイスキングをプロモーションするアニメ製作工房で、女たちは人間の大人たちの監理係についたサルたちのための大食堂で強制労働させており、船に残した子どもたちは目の前でアクション仮面を叩きのめすことで服従させるつもりです。本作のアクション仮面は武道の心得はあるものの超能力者のスーパーヒーローではなく生身のアクション俳優であり、大人たちがサルから解放されてもアクション仮面と対決し強大な力を示して島の奴隷とする、というパラダイスキングの計画は続きます。映画はアクション仮面がパラダイスキングに勝って全員が豪華客船に戻ってもなおパラダイスキングがスカイスクーターで船を沈めにダイナマイトを満載して追ってくる(この時パラダイスキングは「ワルキューレの騎行」を口笛で吹き、『地獄の黙示録』が本作の発想の下敷きにあることを暗示します)としつこく続き、撮影・アトラクション用の飛行装置で飛び立ったアクション仮面と「お助けするゾ」とアクション仮面にしがみついてきたしんのすけによるパラダイスキングとの空中戦が大クライマックスとなります。映画の結びは無事試写会が行われ、作中作のアクション仮面映画最新作が上映され、アクション仮面が北春日部博士(増岡弘)開発の新兵器「♪ペガサスビ~ム!」(ペガサスビーム発射装置=小林幸子、本作エンドクレジット主題歌も担当)で敵を倒す場面で映画のアクション仮面とともにアクション仮面俳優としんのすけたちがわはははは、と笑う場面で締められます。しんのすけたちが豪華客船で周遊中の冒頭では、「その頃春日部では……」とふたば幼稚園のしんちゃんにぞっこんのお嬢さま酢乙女あいちゃん(川澄綾子)、あいちゃんの執事黒磯(立木文彦)、よしなが先生(高田由美)、まつざか先生(富沢美智恵)、あげお先生(三石琴乃)、園長先生(納谷六朗)の様子、また春日部市のレギュラー登場人物のかすかべ書店店長(京田尚子)、ベテラン店員中村(稀代桜子)、さいたま紅さそり隊の女子高生ふかづめ竜子(伊倉一恵)、魚の目お銀(星野千寿子)、ふきでものマリー(むたあきこ)やバカップルのヨシリンとミッチー(阪口大助、草地章江)、しんちゃん憧れの女子大生ななこおねいさん(紗ゆり)と野原家の隣のおばさん(鈴木れい子)の会話に通りかかってななこおねいさんとお茶しに出かけるしんちゃんの祖父・野原銀の介(松尾銀三)、編集者が訪ねてくると「旅に出ます」と書き置きだけ出演のマンガ家・臼井儀人(映画での臼井氏の登場や劇場版への関わりはこれが最後になりました)と、前作でも春日部市に巨大ロボットが攻めてくるためテレビ版の登場人物の総出演がありましたが本作でさらっと描かれるのはあくまでしんのすけたち旅行中の春日部市民の日常風景であり、今回は冒険ドラマも誇張されているとはいえ現実的に展開し現実的な解決をみるので春日部市民の日常が不自然なカメオ出演サービスにはなっていません。また前作で打ち切りの可能性すらあった『映画クレヨンしんちゃん』が、本作ではこぢんまりとした作品でシリーズ中傑出した作品ではないとしてもテレビシリーズ「クレヨンしんちゃん」の劇場版としては理想的な仕上がりといえる興行的にも成功した作品になったため、次作で原恵一監督は思い切った試みに乗り出すことが可能になったとも言えるので、本作がシリーズで占める位置は決して小さくありません。しんちゃん映画に初めて触れる方にも本作はもっともお薦めできる作品の一つです。

●4月9日(火)
『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(監督=原恵一、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2001.4.21)*90min, Color Animation
◎春日部で突然開催された"20世紀博"というテーマパーク。童心にかえって没頭する大人たちは、やがてそこへ行ったきり帰ってこなくなってしまう。これは"ケンちゃんチャコちゃん"が企む、恐るべき"オトナ帝国"化計画だった!21世紀と未来を守るために、かすかべ防衛隊が立ち上がる!

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 クレヨンしんちゃん映画は全作が日本語版ウィキペディアに独立した解説項目がありますが、あらすじ・キャストと簡単な背景・成立だけでなく沿革や評価まで含めて本格的な映画作品、しかも重要な主流映画並みの解説がされているのは本作と次作『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』の2作だけです。レギュラー・キャストにとってもこの2作は特別という意識があったと証言しており、原恵一監督は『戦国大合戦』のあとテレビ版メイン監督・劇場版監督も原監督時代演出(チーフ助監督)の水島努に譲ってフリーのアニメーター、映画監督になりますが、ずっと単独オリジナル脚本・絵コンテで劇場版を作ってきた原監督は本作は脚本未完成・結末未定のまま実写映画でいう「順撮り」の要領で冒頭のシークエンスから製作に取りかかり、実務のアニメーター・スタッフはどういう内容なのかわけがわからず、シンエイ動画の社員監督だった原監督も意図的に会社のチェックをすり抜けて作り上げたそうで、原監督はテレビ朝日のプロデューサー側からも理解があったのでついにやりたいことをやった自負があり、声優によるアフレコ時点ではほぼ完成していたでしょうからキャスト陣もとんでもないしんちゃん映画になってしまった、という驚きがあったでしょう。初号試写や内部試写では経営陣やスポンサーから不興の声が上がりましたが(前作では興行収入11億と本郷みつる監督後期に次ぐヒットに盛り返しましたから本作の内容は理解を絶したのでしょう)、本作は大評判を呼んで原恵一監督作品では最高の15億円の興行収入を記録するヒット作となります。しんちゃん映画でもテレビ再放映頻度がもっとも高い作品になり、レンタルやDVD売り上げのロングセラーでは次作とともに随一の1作でしょう。本作と次作が惜しまれるのはしんちゃん映画はいつもその時々のテレビ版主題歌がオープニング主題歌に使われることで、本作と次作の時期は「ダメダメの歌」でテレビ版はともかく映画には全然合っていないのが唯一惜しまれ、石田卓也氏のねんどアニメは作品と切り離すには惜しいものなので本作・次作はオリジナル主題歌だったら良かったのにと観直すたびに残念です。さてのちになって多数の賞を受賞した本作は2007年の文化庁の「日本のメディア芸術100選」ではアニメ作品25作中に入選し、キネマ旬報85周年(2004年)記念オールタイムベスト・テンではアニメーション部門7位でしたが同90周年(2009年)記念オールタイムベスト・テンではアニメーション部門4位(1位『ルパン三世 カリオストロの城』、2位『風の谷のナウシカ』3位『となりのトトロ』、5位『AKIRA』、6位『長靴をはいた猫』、7位『太陽の王子 ホルスの大冒険』、7位『白蛇伝』、10位『河童のクゥと夏休み(原恵一監督作品)』、10位『サマーウォーズ』、10位『天空の城ラピュタ』、10位『火垂るの墓』)ですから、宮崎駿作品の人気作上位3作をまとめて1位とすれば2位、宮崎作品以外では1位です。7位だったという85周年(2004年)のランキングの時のラインナップの調べがつかないのですが、90周年(2009年)には上位には人口に膾炙した宮崎駿作品しかない結果になっている。もっともこれは10年前の映画人投票ですし近年10年間も長編劇場アニメーションの話題作は数々あったのでまたこの種の投票があればベストテン入選作品や順位の変動はあるでしょうが、一応そういう評価も得たとなれば本作も一般の主流映画と同様に、初公開時のキネマ旬報の紹介も引いておきましょう。
[ 解説 ] お馴染み嵐を呼ぶ幼稚園児・しんちゃんと、20世紀へ時間を逆戻りさせようとする組織との戦いを描いた長篇ギャグ・アニメーションのシリーズ第9弾。監督は「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル」の原恵一。臼井儀人の原作を下敷きに、原監督自身が脚本を執筆。撮影監督に「ドラえもん のび太と翼の勇者たち」の梅田俊之があたっている。声の出演に、「ああっ女神さまっ AH! MY GODDESS」の矢島晶子、「どら平太」の津嘉山正種ら。
[ あらすじ ] "20世紀博"というテーマパークにハマっていたひろし(藤原啓治)とみさえ(ならはしみき)が、大人であることを放棄ししんのすけ(矢島晶子)とひまわり(こおろぎさとみ)の前から姿を消した。いや、ひろしとみさえばかりではない、春日部中の大人たちがいなくなってしまったのだ。そしてその夜、ラジオから"イエスタディワンスモア"と名乗る組織のリーダーであるケン(津嘉山正種)とチャコ(小林愛)が、見捨てられた子供たちに投降するよう呼びかけてきた。実はケンたちは、21世紀=未来に希望を持てなくなった大人たちを洗脳し、大人だけの楽園"オトナ帝国"建設を企んでいたのだ。このままでは、未来がなくなってしまう! しんちゃんを初めとするカスカベ防衛隊は、ケンたちの計画から大人たちと自分たちの未来を取り戻すべく20世紀博へ乗り込むと、"20世紀の匂い"にどっぷり浸かり童心に帰っていたひろしとみさえを"ひろしの強烈な靴下の匂い"で洗脳から目覚めさせ、家族一同力を合わせてケンの計画を阻止してみせる。こうして、未来はしんちゃんたち子供の手に託されることとなり、春日部の町にも平和が戻るのであった。
 ――本作の頃には原作者の臼井氏はアニメ版にはテレビ版のキャラクター設定程度にしか関わっておらず、劇場版は原作者了承という程度だったそうですから、本作のような内容は原恵一監督が自由にオリジナル脚本を構想できるようになって初めて実現したと言え、本郷みつる監督時代の最後の作品『ヘンダーランドの大冒険』に相当するものでしょう。キネマ旬報のあらすじはおおざっぱに概要をまとめてもいれば細かいニュアンスをぶっ飛ばしてもいるので、本作はアヴァンから野原一家が1970年の大阪万博そのままの万国博会場を見学中に怪獣が現れ(まずソ連館が壊され、ひろしが「ソ連が崩壊した!」と叫ぶ時事ネタがあります)ひろしは巨大ヒーローに、家族は万博防衛隊隊員に変身して戦う……のがすべて春日部市で突然開催された「20世紀万国博」会場の特撮映画撮影サービスの作中作であり、続いて子どもたちの間で大人たちがみんな20世紀万国博に夢中になって通いつめている、街中で大人たちに昔の日本みたいなファッションが流行っている、どうも日本各地の市町村で同じような20世紀万国博が同時開催しているらしい、という不安が広がります。ある晩テレビで明朝皆さんを20世紀万国博に迎えに行きます、と電波ジャックらしいアナウンスが流れ、ひろしとみさえは人が変わったようにしんのすけにもひまわりにも見向きもしなくなり、翌朝大人たちは子どものような様子に退行現象を起こして子どもたちを突き放し、しんのすけは幼稚園の送迎バスが来ないのでひまわりを背負って幼稚園に登園しますが園長先生や先生たちもしんのすけを相手にせず、やがて憧れのななこおねいさんやさいたま紅さそり隊の女子高生をも含む大人たちは迎えに来た数十台のオート三輪の荷台に次々と乗り込んで運ばれていってしまいます。大人たちが町から消えたあと、かすかべ防衛隊の風間くん(真柴摩利)、ネネちゃん(林玉緒)、マサオくん(一龍斎貞友)、ボーちゃん(佐藤智恵)はしんのすけの家に集まります。「もしかしたら大人だけの帝国を作るのでは?」「オトナ帝国?」などと疑っていると、テレビ番組が突然白黒になりました。コンビニはガキ大将たちが占領し、無人のバーで麦茶をすするかすかべ防衛隊でしたが、大人がいなくなったために町中からは街灯が消え、置き去りにされた子どもたちはパニックに陥ります。明かりの消えたしんのすけの家でかすかべ防衛隊がラジオを聴いていると、「20世紀博」の創立者で「イエスタディ・ワンスモア」のリーダーである「ケン」から「町を訪れる20世紀博の隊員に従えば親と再会できる」というメッセージが流れます。大半の子たちはラジオに従ったものの、不審に思ったかすかべ防衛隊はサトーココノカドーへ足を運び、そこで一夜を過ごすして迎えをやり過ごし隠れようと決めます。翌朝、迎えに従わなかった子供たちを捕まえる「子供狩り」が始まります。ひろしとみさえ、園長先生もオトナ帝国の手先になっていました。隠れたデパートではしんのすけのミスで「子供狩り」が始まる時間に起きてしまい、居場所をひろしとみさえに見つかったかすかべ防衛隊は店内や町中で追いかけっこになります。運良く幼稚園バス(猫バスもどきのペインティングでお馴染み)を乗っ取り交代で運転をして逃げるも、イエスタディ・ワンスモアの部下たちによって20世紀博へ誘導され、しんのすけを除くかすかべ防衛隊の4人は捕えられてしまいます。しんのすけ・ひまわり・シロは辛くも逃げ切り、イエスタディ・ワンスモアの作った「20世紀の匂い」によって大人達が「懐かしさの匂い」に夢中になり、幼児退行していたことを知ります。その時ケンの言葉を思い出したしんのすけはひろしの足の臭さを思い出し、ひろしに「ひろしの靴」をかがせます。ひろしは夢の中で少年の頃の思い出、失恋、上京、就職、仕事の失敗、みさえの出会い、しんのすけ、ひまわりの誕生までが走馬灯のようにめぐり、すすり泣きながら記憶と正気を取り戻します。その後、みさえも同じ手で治したあと、20世紀博から脱出しようとする野原一家の前にケンが現れます。そしてケンはチャコと住む20世紀万国博内の下町の木造アパートの一室で人類20世紀化計画を語ります。野原一家はそれを阻止するため走り出します。20世紀万国博内の東京タワーに登る野原家を次々とイエスタディ・ワンスモアの隊員達が襲いますが、野原家は機転とチームワークで撃退していきます。ケンとチャコの二人がエレベーターで頂上に登り始めます。そして家族が次々と脱落していく中、しんのすけ一人が頂上を目指し、何度も転び、遮二無二走り続けてしんのすけはようやく二人にたどり着きます。ケンとチャコは計画を発動させようとしますが、大人たちの懐古心を原動力とした計画は、野原家の行動を見て未来に生きたいと考えを変えた街の住民達により頓挫してしまっていました。チャコはしんのすけに何故!と問いかけると「オラは大人になりたいから。大人になってお姉さんみたいな人とお付き合いしたから!」と叫びます。ケンは敗北を認めてアナウンスで住民たちとしんのすけに「未来を返す」と告げ、チャコと共に去る。二人は追いついたひろし・みさえの制止も聞かず塔の縁まで歩いていきますが、飛び降りようとした二人を鳩が遮り巣に戻ります。「死にたくない!」とチャコは座りこみ、「また家族に邪魔されたか」とケンはつぶやき、ひろしに別れを告げてチャコとともに去って行きます。こうして野原家やかすかべ防衛隊、そして日本中の人々はそれぞれの家へと帰っていき、小林幸子の歌うエンドクレジット主題歌で映画は終わります。原恵一監督は1959年生まれですが、本作が2001年に公開されて大反響を呼んだのはちょうどテレビ版しんちゃんの視聴者である子どもの父母の世代が幼少期を'70年代に過ごした世代なのが大きく、また『ALWAYS 三丁目の夕陽』などの出現に先立って21世紀に出現するだろう20世紀ノスタルジアを5歳の子どもたちにとっては未来こそが大事なのだ、とぴしゃりと叩いた先見性が高く評価されたのでしょう。また挿入歌に忘れられがちながら誰もが知っている'60~'70年代の日本のポップス(BUZZ「ケンとメリー~愛と風のように~」、ベッツィ&クリス「白い色は恋人の色」、ザ・ピーナッツ「聖なる泉」、よしだたくろう「今日までそして明日から」)を使うセンスも冴えています。ただしテレビ放映開始から28年目となると、しんちゃんの世界の春日部は1992年にも2019年にもしんちゃんは5歳で時代は新しくなっているのですが、若い世代ほど本作の反ノスタルジアが『ALWAYS 三丁目の夕陽』のノスタルジア肯定と見分けがつかなくなる可能性がある。『君の名は。』などはタイトルだけでも嫌厭すべきものですが何の抵抗もなくなっている。知らなければノスタルジアにはならないとなれば、本作が何を語っている作品か今後誤解されながら観られていく危うさもあります。本作の場合は親が子どもを見捨てて子どもに返りたいという設定があるので大丈夫とは思いますが、本作が対象にしているのは'70年代までに子どもだった生年層というのはある。本作は原恵一監督の傑作ですが、今後の評価の推移が微妙と思われるのはその辺りです。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第五章

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 第五章。
 追加登場人物・三人の魔女トロール&子だくさんの母トロール(ミムラ夫人)。
 ミムラ夫人、ミムラやミイの母親。35人の子を持つムーミン谷一多産な夫人。本人同士も知らないスナフキンの実の母親。
 三人の魔女トロール。
 その一、トゥーティッキ。帽子にしましまの服を着た気のいい女性。冬眠から目覚めたムーミンに冬の暮し方を教える。
 その二、モラン。通った道は凍りつき、長く座った場所には何も生えなくなる。世界一冷たい灰色の女の魔女トロール。
 その三、フィリフヨンカ。フィリフヨンカ族の女性。フィリフヨンカ族はきれい好きで神経質で気が小さいのが共通点。

 糞ッタレ!
 あら、口が悪いわよ。私たちはどんな時でも魔女らしく優雅でいなきゃ。それを……でもいいわね、たまには普段と違って、糞ッタレと口にするのも。
 だから言ってみたのよ、私たちはあちらのテーブルこちらのテーブル、他人の話に耳を傾けてばかりいたけれど、誰もが少しは話題のなかに他人を引き合いに出す、というかダシにするものね。ビフスランとトフスランみたいな存在はともかくね。もちろん陰口ばかりに囲まれるのは嫌だけど、全然気づかれないのもあんまりじゃない?だから一言で言えば糞ッタレ!よ。あなたもそう思わない?
 私は……目立つと恥かしいですから……
 別に目立とうとかそういうのじゃないの。今日の連中はムカつくな、と思ったら素直に口に出す、ってそれだけのことだし。
 まあまあ、あなたがずっと座っているのは普段なら大変なことだからムカつくのもわかるけど、今夜はめったにないような晩だからみんなも気を取られているだけよ。それにあなたがずっと座っているのでいちばんハラハラしているのはこの人なのよ。もし何かあったらどうにかしなくちゃ、ってあなたよりも彼女の方がよほど気にかけているかと思うと私までドキドキしてくるわ。
 それじゃっまるで私はトラブルメイカーか何かみたいじゃない。ケンカ売ってるの?黙ってないで、あなたもどう思う?
 わ、私は……
 ごめん、あなたを否定してるわけじゃないのよ。あなたはすごい人だから、うかつに誰かが、あなたのことを、口に出せないだけなんだわ。
 うーん納得いかないけどいいわ。水に流しましょう。糞ッタレ!
 糞ッタレ!
 この会話の一部始終を、ミムラ夫人はテーブルの下に隠れて聞いていました。


  (41b)

 第五章。
 追加登場人物・三人の魔女トロール&子だくさんの母トロール(ミムラ夫人)。
 ミムラ夫人、前述。
 三人の魔女トロール。
 その一、トゥーティッキ、前述。
 その二、モラン、前述。
 その三、フィリフヨンカ、前述。

 長い悪夢を見ていた気分なのはスナフキンに限らず、ムーミン谷に結界を張る三人の魔女も同じでした。この三人の魔女は協力して結界を張り、ムーミン谷の存在が全世界に漏洩するのを守ってきましたが、おたがいの存在は知らずにいたので自分たちが結界を張っていることも知らなかったのです。
 ですからこの結界は内部からの流出は防ぐが、外部からの刺激は侵入を許す、という、いびつなものになりました。これを身近なものにたとえるとコンドームがあります。あれは漏れては意味がありませんが、刺激まで遮断してしまったらおしまいです。
 または避妊具ならペッサリーを引き合いに出せば、膣内に直接射精されても子宮への侵入は防ぎますから、この方がより結界の性質に近いとも言えます。しかし結界の目的は内部からの漏洩防止なので、その点ではコンドームに近い。避妊具にたとえるのが無理があるのでしょう。
 トゥーティッキ、モラン、フィリフヨンカの魔女トロール三人はまだ知りあっていませんでしたが、それはおそらく魔女たちの存在が続く限り続くことでした。三人は自分たちが魔女だとすら気づいていなかったからです。そうなるべくして魔女を封印しているのが、魔女封印の魔力の代償に、35人の子だくさんになったミムラ夫人でした。しかも母子家庭なのは、やはり魔力の代償に故ミムラ氏が最後の交接で落命し、子種だけが生き延びてミムラ夫人夫人を自動妊娠させてきたからです。
 魔女封印の魔力発動と引き替えに起ったのはミムラ氏の腹上死だけでなく、スナフキンとの母子関係の忘却もありました。魔力は過去をも改変したのです。
 ですが谷にはまた異変が起ろうとしていました。


  (41c)

 第五章。
未登場人物・三人の魔女トロール&子だくさんの母トロール(ミムラ夫人)。
 ミムラ夫人、前述。
 三人の魔女トロール。
 その一、トゥーティッキ、前述。
 その二、モラン、前述。
 その三、フィリフヨンカ、前述。だが……

 長い悪夢を見ていたような気分なのはスナフキンに限らず、ムーミン谷に結界を張る三人の魔女も同じでした。この三人の魔女は協力して結界を張り、ムーミン谷を世界から隔絶させてきましたが、おたがいの存在はおろか自分たちが結界を張っている魔女であるのも知らなかったのです。
 ですからこの結界はいたるところがほころびかけていました。これを身近なものにたとえると、何度結んでもほどけてしまう靴ひものようなものです。なぜわれわれは靴ひもを結ぶかといえばもちろん、履いて歩くためですが、歩くと靴ひもがほどけてしまう。しかし歩かなくては靴ひもを結んだ意味がない。
 それと同じでこの結界は、なまじ張られているために全世界から注目を浴びる地帯になっていました。つまり結界など張られていなければここは、単に北の国の無人地帯で済んだはずなのです。
 ですが結界の存在自体がこの地帯を結果的に神話化させてしまったのは、結界に踏み込んで帰ってきた人が誰もいないからで、そのことからも外部の研究機関ではこの結界の性質を外部からの侵入は許すが、元々の住人であれ外部からの調査員であれ、内部からの脱出は厳重に食い止めている、と判断していました。
 この事態は、魔女たちの存在が続く限り続くことでした。魔女たちの結界を発動させたのが、発動の魔力の代償に35人の子だくさんになったミムラ夫人でした。なぜミムラ夫人が、といえばミムラ族は単性生殖だったからです。
 結界の魔力発動と引き替えに起ったのは、結界内すべての生命のトロール化であり、記憶はすべて失われました。またはただの空想と区別がつかなくなったのです。スナフキンが見ていた悪夢は永遠に続くムーミン谷の現実そのものでした。


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 第五章。
 コイントス!
 コイン、と言ってもムーミン谷には通貨はないので文献上の知識から考案された偽コインですが、その偽コインはジャコウネズミ博士とヘムル署長の立ち会いのもとヘムレンさんの手のひらに載せられ、スノークが下から叩きあげました。
 失礼、大丈夫ですか?
 なあに平気だよ。それよりコインが飛んで行ったぞ。探してくれんか?
 まずいことにコインは垂直に跳ばなかったのです。それは間近にいたフローレンとスティンキーの眼もかすめ、ムーミン一家のテーブルに跳ね、ミムラとミイの35人兄妹のテーブルの下に潜り、ビフスランとトフスラン夫婦のテーブルの下を走り、トゥーティッキとモランとフィリフヨンカのテーブルの横をすり抜けて、スナフキンの椅子の下で止まりました。レストラン中の、
・今ここにいる人
・いない人
 は重い沈黙のなかにいましたから、転がって行ったコイン(偽コイン)が倒れる音ですら巨大なつららが落ちたように響きました。
 わっ、と肩ひじついていたスナフキンは自分の肛門の真下から響いた音に驚き、その声に驚いてテーブルから生えたり引っ込んだりしていたニョロニョロもいっせいに硬直しました。実はニョロニョロが硬直した姿を見た住民はムーミン谷にはおらず、コインが倒れたことよりもそちらのほうが驚嘆すべきことでしたが、誰ひとりそのことには気がつかないのがムーミン谷の知的水準を永久凍土と化している原因でもあり、ムーミン谷の存在理由と限界を示しているのです。
 それは同時にムーミン谷が世界から結界によって隔絶されねばならない理由でしたが、ムーミン谷の住民たちにはこの谷が全世界で、ここはどこかの大陸の西海岸で北西に大山、その向こうの北西沖にニョロニョロ島、海岸の南西側には二子山があり、東の山脈はおさびし山で、谷の中央には川が流れています。大山と二子山の間には住民たちが水遊びする海岸があり、二子山にはほらあながあってムーミンたちの多目的施設になっており、谷の南北の北部は氷土、谷が平原につながる南部にはムーミン一家の住む家があってその南側の庭にはムーミンママの家庭菜園があり、谷の南はそこから先がありません。しかしスナフキンはその、未知の南からやってきたのでした。
 ありましたよ博士、これは裏ですか表ですか?
 そんなの私にもわからん。とにかく食事は続くようだな。


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・未登場人物
 ミムラ夫人、ミムラやミイら35人の母親。スナフキンの実母。
 三人の魔女トロール。
 その一、トゥーティッキ。気のいい世話好きな魔女トロール。
 その二、モラン。すべてを凍らせる冷たい灰色の魔女トロール。
 その三、フィリフヨンカ。きれい好きで神経質で気が小さい魔女トロール。

 ミムラ夫人は今ここにいませんが、かつてもいませんでした。35人の子どもたちは気づいたらそこにいたのです。ときおり顔ぶれはちがう時もありましたが、35人という定数と、長姉のミムラねえさんとちびのミイ(ポケットに入ります)だけは変りませんでした。この多人数の兄妹たちが存在するのに両親、少なくとも母親すら存在しないのは何故か、本人たちも周囲もまるでそれを詮索も頓着もしないのがムーミン谷の美徳と言えるでしょう。
 正解にはミムラ夫人はいたのです。しかし彼女は世界からムーミン谷を隔絶させる結界を三人の魔女に張らせるとともに、その代償から自分自身を消滅させてしまいました。結界を張られたムーミン谷は記憶を持たない谷となり、魔女たちは魔女であることを忘れ、結界を発動させたミムラ夫人はこの谷の過去にも現在にも未来にも属さない存在になりました。
 それはちょうど医療者が感染症の治療過程で患者から感染し、陽性反応が出て一定期間、医療の仕事ができなくなるようなものです。しかもムーミン谷の結界は半永久的なものでしたからミムラ夫人の非在も、三人の魔女の封印も半永久的なものでした。
 医療の場合は性病と肝炎が危険ですが、要因としては針刺し事故のほかに、内科で梅毒やAIDS、泌尿器科で淋菌やクラミジア、婦人科でも同様の検査がされることがあります。ほとんどが検査センターに外注し検出感度の良い方法で検査されます。淋菌は培養や顕微鏡検査でも見つけることができ、若い男性が東南アジアあたりに遊びに行き、帰国したら膿のようなものが出るからと病院を受診したら淋菌が出た、という話もよくあります。
 そうした理由で存在しないミムラ夫人はおろか、
・気のいい魔女トゥーティッキ、も、
・氷の魔女モラン、も、
・気弱な魔女フィリフヨンカ、も、
 まったく無活躍な、普通のおばさんでしかないのが今あるムーミン谷でした。そこにスナフキンが現れたのです。もちろんスナフキンからも、母親の記憶は消えていました。


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 ムーミン谷にはほど良い川幅の流れが東のおさびし山のふもとに沿って注ぎこんでおり、谷の半ばで流れは南から北へとゆるいL字型の曲線を描き、谷の中央を流れ、北西の大山の裏に回り沖へとつながっているようでした。
 ようで、と不確かなのは大山の裏は断崖絶壁の上、そこまでくると入江に近く、川の流れも海流や潮の満ち引きで不規則なばかりか滝すらいくつもあり、さらに突然のうずまきが川面を流れる何もかも水中に呑みこんでしまうからです。あわせて69の学位を持つヘムレンさんとジャコウネズミ博士が何度も観測を試みましたが、満足な成果どころか不満足な成果すら得られません。
 だが私はやってみたのさ、というのがムーミンパパの口癖でした。実現困難な話題を聞くとそれは私がやってみた、とムーミンパパは必ず言うのです。発明家フレドリクソン、そしてロッドユールとソースユールの男女コンビがヘムル孤児院出身のムーミンパパの冒険仲間でした。
 もっともムーミンパパには経歴詐称癖もあり、実際に育ったのはフィリフヨンカ孤児院らしく、その点を突かれると私のような著名人の場合、在命者に迷惑がかかるからと理由にならない言い訳をします。しかも実は伯母がいる、本当は裕福なエリート軍人家庭出身という噂にも信憑性があるのです。ですがムーミンパパが結婚前は職業冒険家として谷じゅうに名をはせていたのは事実で、早い話が谷いちばんの問題児だったのでした。
 だからムーミンパパが所帯を持って冒険家から足を洗うのは、谷の住民みんなが大歓迎だったのです。ムーミン族の雄は代々スノーク族の雌とつるむ慣習があります。そこでムーミンパパ(当時ムーミン)がフレドリクソンと嵐の沖へ、ニョロニョロ島周遊にオーシャン・オーケストラ号で船出した時、住民から有志がムーミンママ(当時フローレン)を素巻きにして沖へ放りだしました。救助した雄と救助された雌にはもくろみ通りロマンスが芽ばえ、冒険仲間のロッドユールとソースユールも婚約し、フレドリクソンも一介の市井の発明家になりました。めでたしです。
 そして婚約中のムーミンたちとふたりのユールたちは合同結婚式の計画をしていました。挙式は新居でつつましくやろう。披露宴は住民みんなを呼ぼう。だがどこで?するとムーミンパパ(当時ムーミン)が新聞から顔を上げて言いました。
 この谷にもレストランができたそうだよ。


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・未登場人物
 スニフ。ムーミンパパの旧友の冒険仲間ロッドユールとソースユールのあいだに生まれた、ツチブタに似たトロールの少年で、ムーミンの親友。親子二代のつきあいのため、ムーミン家ではスニフの部屋があるほどもてなされている。臆病だが落ちているものを拾い集めるのが得意。ムーミンに輪をかけたうすのろ。

 ですがスニフはこれまでもずっと存在を消していました。ムーミンに輪をかけたぼんくらでしたが、臆病なだけに危機察知能力には長けていたのです。
 名前の響きは似ていますがスノークの語源はスノッブ(気取り屋)と同一なのに対しスニフはそのものずばり嗅ぎつけ屋でした。キラキラ光る物には目がないのです。特に小銭と光り物には鋭いカンを働かせました。器用で大胆で知恵のまわる両親の長所をことごとく遺伝しなかったために、スニフは谷でもうすのろの、不肖の二代目扱いされていました。スニフに対して親密なのはムーミン一家とスナフキン、トゥーティッキおばさんくらいのもので、ミイやスノークは当然のことミムラやフローレンにすら小馬鹿にされているくらいです。
 ムーミンやスナフキンすら見当たらないと、スニフの遊び相手は見えない友だちだけでした。ひとり言を言いながら谷の子どもの遊び場で楽しげにしているスニフが夕方にはよく見られました。両親や親しい人は別として、ムーミン谷の住民誰もがスニフには子どものうちに死んでほしいと願っていました。
 ですがスニフが存在を消していたのは住民からの嫌悪を感じていたからではありません。スニフは偽ムーミンを見破っている唯一のトロールだったのです。
 初めて偽ムーミンが現れた時、スニフは一瞬で偽者だと看破しました。逆光を浴びてつむじから伸びた三本のアホ毛に気づいたからです。その後もしばしば偽ムーミンがムーミン本人になりすましているのにスニフ以外はムーミンの両親すら気づかず、谷での自分の立場を思うとスニフが指摘しても説得力はまるでなさそうでした。
 スニフは徐々に活気を増してくるレストランを眺めながら、ああやっぱり偽ムーミンだ、とぼんやり壁にもたれていました。姿を現してしまったら確実にムーミン一家のテーブルに呼ばれてしまう。それは避けたいが事の成り行きは見守りたい。途方にくれて壁にもたれているスニフは、まるでかつてのスナフキンのようでした。


  (45)

 ここに来る前と来てからのおれ、正確には来て放浪者になってからのおれは、まるで別人のようだ。それは放浪生活を始めたからなのか、放浪生活を強いられているからなのかはおれ自身にも区別がつかなくなっている。だいいちそれ以前からおれの仕事は町から町へと、そういっても実際は町どころか辺境の村のような土地ばかりに派遣されていたので、おれにとってはもう昔から旅がすなわち仕事のようなものだった。
 しかし旅と放浪はまったく違う。旅には目的があり、放浪には目的がない。というよりも旅とは手段であり放浪とは状態なのかもしれない。おれは目的を与えられてこの土地に来たはずだし、自分のための食糧は現地調達できるとふんでいたものの事務所に託されあいさつの折のお土産まで持ってきた。おれさえ口にしたことのない菓子だ。
・亀屋萬年堂のナボナ
 だがそれも廃棄処分する、と没収されてしまった。本当に廃棄されたのかはわからない。甘くてうまそうな菓子なのは開けて見ればわかるはずだ。ここは警察国家か?仮に警察の官令だとしても民間人、ましてや公務に招聘された外国籍人から私物を巻き上げるのが許されるのか?少なくともあれは、あの時点ではおれが事務所から預ってきたものだった。
・喰っときゃ良かった
 とりあえず鞄本体とコートを没収されなくて良かった……連中もこれは見やぶれなかったわけだ。なにしろおれは宿屋もないような辺境にも慣れてる。鞄から金具を抜いてコートの骨組みにするとなんとか頭から膝までが入るテントができあがる。膝から下はブーツで隠れるから問題ない。鞄は厚手の革を何層にも重ねてできていて、内側にボアがあるから、拡げて筒状にすればこれも膝までの寝袋になる。旅慣れていて良かったと思うのはこんな時だ。
・良いわけない
 なぜおれは変ってしまったと思うのか、おれを変えてしまったのは何か、それは招かれたにもかかわらず放りだされ、来たはずの道も引き返せなくなっているからだが、今やおれは水鏡にも影さえ映らなくなっている。光すらおれの体をすり抜けるということは、おれの肉体自体がすでに光の粒子なのだ。
 だがこの悪臭!そして料理らしきもの?だとすれば悪臭と料理のどちらかが幻覚なのだ。そしてここは、どうやらレストランのようなのだ。
 ですが悪臭はスナフキンの知るどんなドブよりひどい臭いがしました。


  (46)

 あの時はひどかったな、とヘムレンさんは唸って言いました。狂気の沙汰も金次第、または正気の沙汰ともいうが、貨幣などムーミン谷にはないからあの場合は食次第というべきか。だがわれわれトロールにとって食事はイメージでしかないのだから、より正確に言えばとっておきの祝いを粗末な料理で台無しにされた怒りなのだろうな。
 うむ、あれならいっそ会食などない方が良かった、とジャコウネズミ博士。おかげでムーミンパパ、当時はただのムーミンだったが、そのムーミンとロッドユールが本気で怒るとどれだけ常軌を逸してしまうかも見たし、フレドリクソンなどはその場で凶器を発明しておったのには感服した。女だてらにソースユールも大暴れだったが、あのユール夫妻のせがれがスニフなのだから世の中わからんな。しかし結局は……。
 彼女が原因だろうよ、とヘムレンさんはチラッと横目でムーミンママを指しました。新婦、当時のフローレンしかおらん、料理の豪勢な結婚披露宴などに固執するのは。いったいにスノークの雄は見え張りで、スノークの雌はやたら家庭的にふるまう性質がある。だが自分らだけで一度に谷の住民全員をもてなす料理はできない。
 そこに都合良くレストランができた、というわけか。だがあの建物はムーミン谷ができた時にはすでに存在していた、と言い伝えられていた。実はレストランだと判明したのはムーミンの結婚式が初めてで、それまではわれわれも不審に思うだけだったのだ。
 そしてあのひどい料理!披露宴の後半はムーミンパパがロッドユールやフレドリクソンたちと破壊の限りをつくしたな。私は手つかずの料理が並ぶテーブルがあれほど盛大にひっくり返される光景は初めて見たよ。こんな飯が喰えるか!という台詞もテレビアニメ以外では初めて聞いた。それもアジアの島国産のだ。そして味見した二組の新郎新婦以外その日は誰も料理を味わえなかった。
 ……翌日からわれわれ谷の住民は人目を避けるようにそのレストランに通い始めたのだ。悪臭や外観から想像したよりは多少はマシとはいえ、料理としては、
・マズイ!
 のひと言だった。にもかかわらず、われわれは通うのを止められなくなっていたのだ。そう、あのコックカワサキのレストランに。
 そしてその夜からスナフキンは残飯にありつき、誰の目にも谷の住民になったのです。


  (47)

 ムーミンパパの無駄話と食前の飲み物の追加注文で、すでに運ばれていたスープからすっかり気がそれていたのは、偽ムーミンには偶然の幸いでした。熱い状態でのそれは、おさびし山の岩をも溶かし、海水浴場にまけばあらゆる水中生物の息の根をとめる猛毒だったのです。それはかつて水爆実験の余波でよみがえった巨大で凶暴な古代生物すら数分で白骨化させました。これを俗に、
・毒を持って毒を制す
 といいます。
 それほどの猛毒が冷めるとただのスープになるのは、無視されるとそっぽを向く若い娘のような性質だからでした。ですが冷めてしまうと意地でもおいしいスープになって食客を堪能させようという一面もあり、ムーミンたちの知らない世の果てではこれを、
・ツンデレ。と、
 呼んだ時代もありました。また重ねて幸いなことに、このスープは例によって強烈な悪臭を放ちましたが、外部には臭わず、熱いうちに飲んだ当人だけに猛烈に臭う、というしかけがありました。でもどっちみち冷めてしまったのだから関係ないのです。
 ムーミンパパが黒ビールを飲み干してじーっと(偽)ムーミンを見つめ、ムーミンママもやはり目を細めてじーっと(偽)ムーミンを見つめ、その気配からスノークとフローレンも(偽)ムーミンをじーっと見つめ、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士もじーっと(偽)ムーミンを見つめ、ヘムル署長とスティンキーも(偽)ムーミンをじーっと見つめ、トゥーティッキとモランとフィリフヨンカもじーっと(偽)ムーミンを見つめ、ミムラとミイの35人兄妹も(偽)ムーミンをじーっと見つめ、トフスランとビフスランもじーっと(偽)ムーミンを見つめ、見えないスニフはあえて(偽)ムーミンから目をそらしてじーっとこらえ、スナフキンはじーっとテーブルクロスを見つめ、ニョロニョロはただニョロニョロしていました。
 (偽)ムーミンは自分にそそがれた注目にたじろぎながら、思い切ってスプーンを手に取ると、冷めたスープの皮を破ってひとくち、すすってみました。ん?
どうだねムーミン?
 おいしいよ。何のスープかわからないけど。
 レストランじゅうがホッとしました。どれどれ、とムーミンパパそしてママ。
 ムーミン!これのどこがうまいんだ!
 ……ムーミンパパは蒼白でした。スープはやはり心変わりしていたのです。
 しかもまずいことに偽ムーミンは利き腕をまちがえていました。


  (48)

 ん?もう一度言ってくれないか、とスノークは言いました。どうもお前はお嬢さんぶって話すから聞き取りづらい時が多いな。本当のお嬢さまは威圧的なほど明晰に話すぞ。だからといって威圧的に話せとはいわないが。
 トイレに行ってくる、とムーミンパパ。あら、あなた早いわね。うむ、なにしろ黒ビールなど久しぶりだからな。気をつけて行ってらしてね。あのなあ、トイレに行くだけなのだぞ。
 あら、ミイがいないわ、とミムラねえさん。みんなどこに行ったか知らない?知ーらない。困ったわね。
 ご一緒してもいいかね、とヘムル署長。私はかまわんよ、あなたとヘムレンさんは本家分家だし、私とあなたは官吏仲間だがスティンキーくんは窮屈じゃないかね?あたしなんぞは光栄のいたりです。では合席も狭いからウェイターを呼んでテーブルを寄せようか。
 トゥーティッキはモランが苦手でしたがモランはフィリフヨンカを警戒し、フィリフヨンカはトゥーティッキに劣等感をいだいていました。女性の三人組はなんとなく一人対二人の構図になりがちですが、人間の価値観でトロールを見てはいけません。
 あら、もう済ませたの?いや、こんなものが入っていたのだ。ムーミンパパはシルクハットを裏返してみせました。な、私は寝る時以外脱がないのに、どうして入り込んだのだろう?とにかくこれでは男子トイレに入れん。そいつを帰しておいてくれ。
 スニフはもうそろそろつらくなっていました。こうしているあいだも道には小銭やビール瓶の蓋がキラキラしているにちがいない。でも今ここにいる人と、
・いない人
 がムーミン谷の全員だし、食事を終えた組が出ていかないかぎり誰もそれらを拾えないはずだ。
 トスフランはまだかなビフスラン、と仲良く料理の到着を待っていました。
 おお、来たぞウェイター、ヘムル署長とわれわれのテーブルを合わせてくれ。できますが、よろしいのでしすか?われわれ四人はそうしたいが、何か問題でもあるのかね?合わせると♥のかたちになりますが。
 お探しじゃない?すいません、とミムラはムーミンママからシルクハットを受け取ってぶんぶん振り回しました。参った、降参、と目を回したミイが落ちてきました。あんた、どうやって入ったの?
 そして小用から戻ったムーミンパパの頭にはアホ毛が三本生えていました。(偽)ムーミンは内心の動揺を必死で抑えていました。


  (49)

 残飯をあさる生活といってもスナフキンの場合は、もしありつけさえすればかなりマシな残飯が得られました。いや、かなりどころではなかったのです。もちろんスナフキンはゴミ捨て場から食品を拾う行為に最初は抵抗がありましたが、まず疑問だったのはゴミ捨て場であるはずの場所に、
・作ったばかりの料理
 がそのまま捨ててあったことです。ひょっとしたらこれは、おれのようなホームレスに毒を盛るための罠なのではないか、とスナフキンは疑いました。試しにそこらの野生動物にでも与えてみれば判別がつくのですが、この土地の住民はだいたいが野生動物を二足歩行させたような肢体をしており、つまりはそういう進化をとげたわけだ、とスナフキンは推察しました。猫面の女性(?)や犬顔の男(?)はいても野良猫や野良犬はいないのです。
 疑問はまもなく氷解しました。相手からは見えないことをいいことに、スナフキンは民家の食事風景を窓から覗いてみたのです。着席した一家のテーブルに料理が並べられ、彼らはちょうど食事時間分団欒をすると手つかずの料理は下げられました。そういうことか、とスナフキンはひとりごちしました。ここの住民は別の方法でエネルギーを摂取しているらしい。おれには料理に見えるあれは、連中にはある種の儀式のための供物なのだ。手つかずなのはそういうわけだ。
 でもひょっとしたら粘土や廃物で作ってあるのかもしれないぞ、とスナフキンは気が進みませんでしたがまた歩いているとキャベツ畑に沿った道に通りかかりました。ひどいな、キャベツが全部腐ってる。青色申告のために農地登録して脱税しているのか。資本主義国はどこも同じだな。ん?ここは資本主義国か?
 それなら新鮮なうちに盗み喰いすれば良かった。しかも陰惨なことに、時季外れのコウノトリが置いて行った赤ん坊の泣き声があちこちから聞こえる。
 スナフキンは数往復してこの土地二か所の孤児院の門前の捨て子箱に嬰児全員を運びました。ああ、おれはこいつらを喰ってもいいんだな。もし残飯が喰える代物じゃなかったら、おれは赤ん坊たちを喰おう。
 ですが残飯は、ごく普通の食材を使った家庭料理でした。これでおれは赤ん坊を喰わずに済んだ。腹もくちた。なのにおれの存在が不可視のままなのは、これはどういうことだろう?むしろおれは、残飯より嬰児を喰うべきだったのか?


  (50)

 手際がいいな、とジャコウネズミ博士は感心してヘムル署長とスティンキーの前に並んだ前菜を眺めやりました。われわれなんぞはまだ食前酒すら頼んでおらんよ。まあそれは先生方は学者だがわれわれはおまわりと泥棒だからね。うむ、では同じものを注文するのは失礼に当るまいね?
 でもそうするしかないじゃない、とミムラねえさんは弟妹たちのブーイングをはねのけました。私たちが全員好き勝手なものを頼んだらどうなるか、同じテーブルに35人もいるんだから想像つくでしょう?
 だが問題はそんなことじゃなかったんだ、とスナフキンは思いました。スナフキンは谷で唯一の後天的トロールだったので、記憶のかけらがまだらボケ状にあるのです。問題は何を境に、おれがここの住民の一員になったかなのだ。
 フィリフヨンカは孤児院の経営者でもありましたが、自分にその素質があるとは自信が持てませんでした。彼女はある種の自己啓発セミナー中毒者でしたが、周期的に克己心を起して受講してみるものの、セミナー自体が彼女には試験だったのです。明らかに自信ありげなトゥーティッキと存在自体が凍てついたモランとの同席は、フィリフヨンカをますます心許ない気持にさせました。
 トフスランとビフスランは熱く見つめあい、おいしい?一緒なら何を食べてもおいしいね、と注文しなかったはずのコンニャク入りコロッケを分けあってつついていました。
 では私が代って注文しようか、博士らはなんの料理か知らんだろう。ビールは中ジョッキでいいね?ウェイター!カブラのドンドコ煮とトンビのパッパラ揚げ追加、急いで頼む!そういう料理だったのか、見た目はどちらも不細工なコロッケにしか見えんが。
 ウッーウッーウマウマ、と突然スノークは踊りだしました。どうしたのお兄さま気でも狂ったの?失敬な、これは佯狂というのだ。つまり気ちがいのふりだな、実は昔から試してみたかったのだ。お兄さまは留学されて学歴はあるけど知性はないのね、私が訊きたいのは……。なぜ踊りだしたりするのか、だろ?昔観た芝居の王子さまがこうやって周囲を欺いていたのだ。恋人を尼寺に行け!と自殺に追いやりまでしてな。
 それなら知ってる、と図書館住まいの偽ムーミンは思いました。つまりおれ、正しくはムーミンになりすましたおれがハムレットになればいいわけだ。これは切り札に使えそうだぞ。
 第五章『運命』完。


(初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

ある量販店にて

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 平成もあと10日。

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 ……だからってなあ。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第六章

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  (51)

 第六章。
 ムーミン谷近代美術館所蔵映画全目録。『愛と死をみつめて』『赫い髪の女』『赤いハンカチ』『秋津温泉』『網走番外地』『天城越え』『嵐を呼ぶ十八人』『ある殺し屋』『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』『伊豆の踊子』『一心太助』『刺青』『いれずみ判官』『浮雲』『右門捕物帖』『駅前旅館』『おとうと』『解散式』『陽炎座』『貸し間あり』『花芯の刺青・熟れた壺』『関東無宿』『喜劇あゝ軍歌』『喜劇女は度胸』『君の名は』『巨人と玩具』『切られ与三郎』『斬り込み』『斬る』『くちづけ』『雲ながるる果てに』『狂った果実』『警視庁物語全国縦断捜査』『恋文』『木枯し紋次郎』『月曜日のユカ』『拳銃は俺のパスポート』『ゴキブリ刑事』『ゴジラ』『さらば愛しき大地』『座頭市物語』『思春の泉』『七人の侍』『しとやかな獣』『忍びの者』『勝利者』『処刑の部屋』『女囚701号・さそり』『ションベンライダー』『新幹線大爆破』『地獄』『実録阿部定』『十三人の刺客』『十兵衛暗殺剣』『次郎長三国志・殴り込み甲州路』『仁義なき戦い』『仁義の墓場』『砂の器』『青春残酷物語』『関の弥太っぺ』『0課の女・赤い手錠』『曽根崎心中』『大幹部・無頼』『胎児が密猟する時』『太陽を盗んだ男』『たそがれ酒場』『玉割り人ゆき』『大草原の渡り鳥』『大地の子守歌』『近松物語』『血槍富士』『忠臣蔵』『妻たちの性体験・夫の眼の前で、今……』『手討』『点と線』『東海道四谷怪談』『東京流れ者』『独立愚連隊』『寅次郎恋歌』『なつかしい風来坊』『七つの顔』『南国土佐を後にして』『憎いあンちくしょう』『二十四の瞳』『ニッポン国古屋敷村』『ニッポン無責任時代』『二等兵物語』『二百三高地』『濡れた海峡』『野菊の墓』『野良猫ロック・ワイルドジャンボ』『薄桜記』『博奕打ち・総長賭博』『白昼の襲撃』『張り込み』『反逆児』『反逆のメロディー』『幕末太陽伝』『晩春』『光る女』『人斬り与太』『ひとり狼』『緋牡丹博徒』『笛吹童子』『豚と軍艦』『兵隊やくざ』『本日休診』『瞼の母』『卍』『みな殺しの霊歌』『明治侠客伝』『夫婦善哉』『最も危険な遊戯』『もどり川』『悶絶!!どんでん返し』『やくざ囃子』『野獣死すべし』『野獣の青春』『用心棒』『夜霧のブルース』『四畳半襖の裏張り』『浪人街』『わたしのSEX白書・絶頂度』上映機材・なし(死蔵)。


  (52)

 まもなくスナフキンは黒い丘のほうへ急ぎました。牧場の後ろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は北斗七星の下に、ぼんやり普段よりもつらなって見えました。
 スナフキンは、もう露の降りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼっていきました。まっ暗な草や、いろいろなかたちに見えるやぶのしげみの間を、その小さな道がひと筋、白く星あかりに照らしだされていたのです。草むらには、ぴかぴか青びかりする小さな虫もいて、ある葉は青くすかし出され、スナフキンはまるで谷の住民たちが持ち歩く光る木の実のカンテラのようだと思いました。
 そのまっ黒な、針葉樹や落葉樹の林を越えると、にわかにがらんと空がひらけて天の川がしらじらと南から北へ渡っているのが見え、また魔女の結界の頂きも見わけられたのでした。つりがね草や野菊らの花がそこらいちめんに、夢のなかからでも薫りだしたというように咲き、鳥らしき影が一羽、丘の上を鳴きつづけながら通って行きました。
 スナフキンは魔女の結界の頂きの下に来て、火照ったそのからだを冷たい草になげました。
 谷のあかりは、闇のなかをまるで海の底の宮殿の景色のように灯り、子どもらの歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えてくるのでした。風がとおくで鳴り、丘の草もしずかにそよぎ、スナフキンの汗でぬれたシャツもつめたく冷やされました。スナフキンは谷のはずれから、とおく、黒くひろがった野原を見わたしました。
 そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列、小さく赤く見え、そのなかにはたくさんの旅人が果実を噛ったり、笑ったり、好き放題楽しんでいると考えると、スナフキンはもう何ともいえずかなしくなり、また眼を天にあげました。
・ああ、あの白い天の帯がみんな星だというゾ
 ……ところがいくら見ていても、その天はスナフキンには天文学で教わるような、がらんとした冷たいところとは思われませんでした。それどころではなく、見れば見るほどそこは小さな林や牧場がある野原のように感じられて仕方なかったのです。そしてスナフキンは青い琴の星が三つにも四つにもなってちらちら瞬き、脚が何度も出たり引っ込んだりして、とうとう茸のように長く延びるのを見ました。また、すぐ眼の下の谷までがぼんやりした多くの星の集まりか、ひとつの大きなけむりのように見えると思えました。


  (53)

 ところで、とムーミンパパは小首をかしげました、今はどのくらい経ったのだろう?なんだかあっという間だったような気もするし、いつまで経っても進んでいないような気がするぞ。
 当り前だろこのカバ、とムーミンママは優しくほほえみました。ムーミン族の妻は無限の忍耐力があるのです。ケンタウルス座のひとつやふたつ滅んでも彼女は表情ひとつ変えないでしょう。もちろんそんなすごい能力が天性はおろか一朝一夕にできるわけがなく、ムーミンママが今あるのは鬼姑からの過酷な試練に耐えぬいたからでした。
・鬼姑?
 姑はどこの世界でも鬼と決まっていますが、ムーミンパパは孤児でしたので媒酌人夫妻がいわば親代り、そして継母はむろん鬼ですので、その権力は鬼に金棒どころではありません。またムーミンパパは絵に描いたようなぼんくらなので、どうしたんだねフローレンその痣は?林をくぐったら木の枝がはねてきたの。そうか、鞭で打たれたのかと思うほどだな。おお大丈夫かフローレン!……平気よ、つい階段を踏み外したの。骨折しているのではないか、まるで思いきり突かれて転げ落ちたようだぞ。フローレン、足を傷めたのか?ええ、靴に画鋲が入っていたの。それはいかん、靴屋に画鋲入りだぞと苦情を言わねば。という調子です。
 この仕打ちは新妻の妊娠判明まで続くので、ムーミンママこと当時フローレンはもうそれは夜な夜な(略)。しかもその妊娠は、トロールのような概念的存在には肉体的兆候ではなく、きわめて古典的ですが、
・受胎告知をする天使
 として現れます。その時、ベッドの隣ではムーミンパパこと当時ムーミンが悪夢にうなされていました。悪い夢から冷めると商店街の通りに置かれた氷柱になっていた夢です。うわあ、おれは解けるぞ。
 フローレンは夫が眠ったのも気づかず、娘時代のバイト先で覚えた上級テクでもう一戦その気にさせようと実践中でしたが、ふと眉間に風を感じると、羽根の生えた手のひらサイズのムーミンが顔の前で羽ばたいていました。フローレンは驚きのあまり噛みちぎってしまうところでしたが、その不細工な天使は驚くな、先ほど汝は受胎した、と告げたのです。なら噛みちぎってもよかったのですが、晴れて彼女はムーミンママとなりました。
 ムーミンパパは(偽)ムーミンに訊きました。なあ、どのくらい経ったと思う?
 えっ、いつから?
 (2013年5月15日)からさ。


  (54)

 わーったわ、とミムラねえさんは妥協案を思いつきました。35人の兄弟姉妹全員が同じテーブルで食べる以上、みんながてんでバラバラの料理を注文するというのは面倒なばかりか注文、または受注ミスのリスクすらともないかねません。誰しも公けの場でのトラブルは避けたいものです。そうでしょ?うん。
 ではこうしましょう、料理は二通り、ひとつは男料理コースね。もうひとつはとうぜん女料理コースとします。でも男だから男料理、女だから女料理を押しつけるのじゃないのよ。これからウェイターさんを呼んで食前の飲み物から食後のデザートまで……
 飲み物とデザートだけ?と弟ミムル。ブー(全員)!
 ンなわけないでしょ。もちろんスープに前菜、メインディッシュ、とひととおり見つくろってもらうのよ。そしたら男料理コースにするか、女料理コースにするかは料理次第で選んでくれればいいわ。
 反対、と弟のミムロ。そうだ、と付和雷同のエールがあがりました。
 あのねえ、男だから男料理コース、女だから女料理コースを食べるのではないのよ。そういうことよねミムラねえさん?
 そう、ミムリの説明の通りよ。男料理と女料理はただの呼び方で、みんなはどちらを選んでもいいの。
 反対、とミムロは言いました。何でも反対!
 ひとりでも反対なら尊重しないわけはいかないわね、とミムリ。では男料理と女料理を頼んで自由に選ぶのにしたくない人は?
 反対!とミムロ。
 これで全員同意ね。ウェイターを呼びましょう。
 そうですねえ、男料理にはエスキモーのフォアグラソテー、女料理には魚肉ソーセージ盛り合わせのコースなどは?
 いいわ、あとは飲み物からデザートまでお任せするわね。男料理コースは?18人前、女料理コースは?17人前。同時にね。
 ウェイターは食器を並べ始めました。男料理にはナイフとフォークと小皿、女料理にはフォークとスプーンとボウルでございます。
 ではそれを私から、男女男女男女男男女男女男女男女男女男男女男女の順で置いて。殿方とご婦人は……。いいのよ。ウェイターは女男女男女男女男女男女男男、と並べ始めました。
 だから違うの、男女男女男女男男女男女男女男女男女男男女男女!ですがお客様は……。男女はいいのよ。言う通りにして!ウェイターが男女男女男女男男女男女男女男女男女男男女男女と並べると、違う!
 だから……あら、ミイがまたいないわ!


  (55)

 さてこうして、とヘムル署長は乾杯の音頭を取り最初のひと口をすすると、♥型に寄せたテーブルの仲間に言いました、現在のムーミン谷でもっとも賤しい稼業の四人が揃ったわけだ。
 ジョッキに口をつけていた他の三人も次々最初のひと口を飲み込むと、ずるいぞ署長、それは私が先に言うつもりだったのに、とジャコウネズミ博士。私もだ、とヘムレンさん。いややっぱりそれはあっしですよ、とスティンキー。
 いや泥棒のきみではただのジョークにしかならん、谷の知性を代表するヘムレンさんや官僚学者の私が言ってこそ真のジョークというものだよ。
 そこなのさ博士、と署長、私など規則を決めて厳守させ、違反する者は処罰するのが職務だ。最低最悪の仕事だろう?まともな良識あるトロールには、こんな人権を蹂躙した職務などやましくて務まらんよ。
 だが署長の働きあってこそ谷の秩序もあるのだしな、スティンキーくんが谷の経済を裏で活性化させてくれているのも署長の適正な加減のおかげだ。
 そう言われるとこそばゆいが、と署長、せっかく悪党四人揃ったのだ、いかさまトランプでもやらんか?よし、本気ならポーカーやブリッジと行きたいがわれわれは全年齢向けトロールだからな、ババ抜きでいこうか。しかしテーブルは前菜が並んどるしな。
 なに、こうしよう、と博士はノコギリを取り出すと、♥型のテーブルの桃割れ部分から四角くゲーム台を切り抜き、杖でテーブルの横に立てました。これでよかろう。
 うむ、席はどうする?やはり互い違いがよかろう。でも署長とスティンキーくんは対面できんぞ。
 いやあ、と署長は鋏を取り出し、手錠の鎖をプチンと切りました。いいのかね?ふっ、後で蝶結びにでもしておくよ。
 四人は泥棒、博士、警官、知性の右回りで四辺に座りました。カードをカットしようか。はい!とすかさずスティンキーが斧で真っ二つ。やると思ったよ。
 署長は新しいトランプを取り出して素早く切って渡すと知性も素早く切って渡すと泥棒も素早く切って渡すと博士も素早く切って渡すと署長も正面の泥棒・博士・本人・知性、と右回りに素早く配り、さてどうですかみなさん?
 上がりだ!とゲームを始めるより早く四人全員同時に上がりでした。ん、ジョーカーは?さあ。
 ひさしぶりにギャンブルを堪能したよ。さて食事に戻るか。ところでこの気の抜けた飲み物は何かね?
 ああ、ホッピーですよ。


  (56)

 それにしてもだ、とムーミンパパは言いました、レストランでまだ良かったよ。これが熟女パブや熟女サロンだった場合どうなっただろう?
・ムーミン谷に熟女パブができたそうだよ、とムーミンパパは新聞から顔を上げて、言いました。
 うむ、やはり熟女パブや熟女サロンではどうもしっくりせん。何だか妙に期待してしまう。
 いやですよあなた、とムーミンママはまったく無関心な笑顔で合いの手を入れました。それが習慣です。
 サロンとパブはどう違うの?と(偽)ムーミンは訊きました。ああ、お前ならそう訊いてくると思ったよ。まず相違点を上げるには共通点から上げた方がいいだろう。どこが共通点かわかるかねムーミン?
・ムーミン谷の住民全員注目(ムーミンママ除く)
 偽ムーミンは返答に詰まりました。これはムーミンパパのひっかけかもしれないからです。要するに偽ムーミンは自分の思いついた回答ではなく、ムーミンならこう答える返答をしなければなりません。しかし熟女パブと熟女サロンと問われても……。
 どっちも熟女のお店、と偽ムーミンは直球で答えました。他に答えようないからです。強いて言えば、どっちも子どもが入れないところ、かな?従業員の子どもは例外だが、と偽ムーミンはげんなりしました。でもまあ模範回答ならこれしかないもんな。
 ハズレ、と冷たくムーミンパパ。えっ、ハズレなの?だったら共通点は?
 どちらも実体はパブだということだ、とムーミンパパは偉そうに言いました、熟女とつくのは見せかけにすぎん。そうだろママ?
 そうですね、と無関心な返答と微笑。
 そしてようやく重要な相違点が見えてくる。もっとも私も知らないが。なにしろ熟女パブにしろ熟女サロンにしろ短波テレビがどこかの外世界から拾ってくる文化情報でしかないからな。それにムーミン谷の公用言語には、
・熟女に当る言葉はない
 のだから、熟女とはいったい何を指すのか、どうやらある種の女性の形容であると想像するしかない。そこで私は谷で唯一パソコンをいじるスノークくんに頼んで熟女をキーワード検索してもらったが、最多ヒットしたのは、
・五月みどり、と
・かまきり夫人
 だった。かまきりとは虫の名称だから、五月みどりとはかまきりの棲息する自然環境を指すらしい。ここまでは全部前振り、な。
 えっ?そうなの?


  (57)

 食事に戻る前に、とジャコウネズミ博士、切り抜いたテーブルを戻さなければいかんな。杖を抜くから少し持ち上げてくれんかね?
 よしきた、とヘムル署長が手を添えました。ひとりで持たん方がいいぞ。ん、なぜだね?結構重いからさ。なあにこの程度大丈夫さ。なら杖を抜くぞ。
 うわあ、とヘムル署長は落ちたテーブル板もろとも床に叩きつけられました。ほら言わんことじゃない、指が挟まれなかっただけでも幸とすべきじゃろ。
 博士はさっきどうやってこれを持ったのですかな、と署長はスティンキーと二人がかりでようやく持ち上げながら、訊きました。たしか片手で持ってなさったでしょう、片手はノコギリを持っていたんだから。
 ああそれは、まだこれから(とテーブルを指して)切り抜いたばかりで活きが良かったからさ。今は硬直して重くなった。赤ん坊が眠ると重くなるのと同じだな。さて、それを元の箇所にはめ込まないといかん。
 そう簡単にはいかんでしょう、と署長。切り抜いた時に結構おがくずが出ているから、その分スカスカになるはずだ。はめても落ちてしまいますよ。ここはウェイターに言ってテーブルを替えてもらうか……。
 そんなことをしたらわれわれがいかさまトランプをしていたとバラすようなもんじゃないかね?
 釘ならありますぜ、とおずおずとスティンキーは釘を取り出し、これで裏から何かブリッジを当てて留めればどうですか?
 今さらブリッジなどババ抜きで十分堪能したよ、とヘムレンさん。それよりなんで釘なんぞ持っているのかね、と署長。
 最近始めたんです、訪問販売ってやつですが。ゴム紐は全然でしたけど、主婦は家にどれだけ釘の予備があるか知らないんで結構売れるんですよ。署長のお宅はどうですか?
 そういえば予備の釘など考えたことがないな。よし、10本買う!
 いや、今はテーブルを直すんでしょう?お使いになりますか博士?
 いらんよ、と博士はにやりと笑って、まあそのままはめ込んでくれたまえ。
 ゆるいですよ博士。
 では四辺が逆になるようにはめ直してくれないか。
 はまった!ぴったりです、隙間もありません。
 実際は裏は削れてるがね、四辺の位置をずらせばきつくはまるように切り抜いておいたのだ。
 実用的な技術にも詳しいんだな、とヘムレンさん。
 いやなに、いわゆる日曜大工というやつさ。もっとも日曜の意味は知らんが。


  (58)

 ええと続きだったな、どこまで話は進んだっけ?
 ヘムル署長たちがテーブルを直したところだよ、と偽ムーミン。ほほう、とたちまちムーミンパパは皮肉を浴びせかけました。よそのテーブルのことの方が家族の会話より気にかかるのかね?実は私もさっきから気になっているがね。あちらはなにしろムーミン谷の法を自由にできる方々だし、どさくさまぎれに何やらしてはならないことまでやってらっしゃるご様子だ。しかもいい歳どころか現役長老格に当る方々が、まあスティンキーは従者みたいなものだから別としても、好き好んで♥型にテーブルを寄せて座ってらっしゃるとはいったいどういうことだろう?悪だくみをしております、といわんばかりではないかねムーミン?
 やたら絡むなあこの親父、と偽ムーミンは閉口しましたが、ムーミンママが珍しく積極的にまああなた、そんなことを言われてもこの子が困っているじゃありませんか、ととりなしてくれたのがかえって不安をかき立てました。ひょっとしたらこのおばさんはとっくにおれの正体をお見通しなのではなかろうか。ならばおれを泳がしておく理由はただ一つ、ムーミンパパとおれの掛け合いをせせら笑っていたいからとしか考えられない。
 あるいは本当に実の息子の身を案じて、おれが無事に息子を返すよう一緒にムーミンパパをあざむいてくれているのかもしれない。だが普通そんなに殊勝なことをするか?と(偽)ムーミンがせわしなく考えをめぐらせていると、
・熟女パブの話ですよ
 とあっけなくムーミンママが話題を戻したので偽ムーミンは一気に混乱し、
・それと熟女サロン
 とつられてつけ加えてしまいました。偽ムーミンだってそんな話題はもううんざりだったのです。
 おお、とその割にはムーミンパパの反応は薄く、さも面倒くさそうに、どこまで話したんだっけなあ?
 共通点は済んだから、今度は相違点の話だよ、と半ばやけくそ、毒食らわば皿の気分で偽ムーミンは吐き捨てました。
 (52)で終っときゃ良かったな、で作者死亡で未完。それじゃ、相違点行こう。わざわざ熟女パブと熟女サロンの二種類があるのは、一方は熟女が働く店、もう一方は熟女が遊ぶ店に違いない。以上話はお終い。
 次はわしらの番だな、とヘムレンさんは言いました。これだけ期待値が下がるといっそ楽かもしれんぞ。


  (59)

 ええと続きか、どこまで話は進んだっけ?
 ヘムル署長たちがテーブルを直したところだよ、と偽ムーミン。
 私が怪訝に思うには、とヘムレンさんが顎に手をやりながら言いました、ちょっと出番が多すぎはしないかね?われわれ本来の立ち位置なら、こんなに出番はないはずだが。
 それは私も感じていたが、とジャコウネズミ博士。ないといえばきみ、あごひげはどうした?
 おや?きみだなスティンキーくん!いつ私から盗ったのだ?しかも剃り跡まできれいだぞ!
 スティンキーはニヤニヤしながら顔らしき部分からヘムレンさんのあごひげを垂らしていました。顔らしきというのは、スティンキーの全身はトゲの生えた楕円状の球体で頭部も腰部もなく、そんな体の両脇から生えた細い触手が両腕で、臀部に相当する位置から生えたトゲが両脚になっているからです。常識的にも動物学的にも普通このような形態が知的生物とは考えられませんが、ムーミン谷の人びとは現実主義者なのでスティンキーには常識も普通も通用しませんでした。
 おい返すんだ、とヘムル署長は警官の職務に目覚めてスティンキーの背中をどつきました。いててててて。大丈夫か署長、手の甲をトゲが何本も貫通しているぞ。なに慣れてますよ、と署長は一気に手を引き抜きました。素早くやれば血も出ません、多少のしびれはありますが。ほお大したものだ、とジャコウネズミ博士。きみならこの谷の軍事最高任務が勤まるな。はあ?
 というのは昨夜もヘムレンさんと短波ラジオをいじって外世界文化を研究したのだが、これまで不明だった戦争とは交易の究極手段だと見当がついてきたのだ。たとえばムーミン谷がマイメロ村と戦争になったとする。
 マイメロ村?
 短波テレビで観た外世界放送で知ったのだ。ところでムーミン谷軍はマイメロ村軍を叩きのめした。次にすることはなんだろう?
 こちらに有利な条項を結ぶことですか?
 うむ、だが現実は違うようだ。戦勝国は敗戦国の軍事・政治指導者を無条件で処刑できる。三段論法だな。ウサミミ仮面は銃殺刑だ。そこで署長には軍事最高権限とともに超時間兵器の使用許可を与える。これでわれわれは全次元過去現在未来すべてを制圧できる。
 無敵ですな。
 その代わり最高権限者には超時間的責任を負ってもらう。過去現在未来全次元、永遠に勝ち続けねばならない使命がそのリスクだ。


  (60)

 ええと続きだ、どこまで話は進んだっけ?
ヘムル署長たちがテーブルを直したところだよ、と偽ムーミン。
 ですがヘムル署長たちの関心はもうとうに次の話題に移っていました。ムーミン谷の住民が争いごともなく平和共存しているのは、他ならぬ時間感覚のズレが所属グループごとに明確だからです。ムーミンパパとジャコウネズミ博士が同時に同じ高さのテーブルから皿を落としたとすると、博士の皿が床に砕けた時にはまだムーミンパパの皿は床まで三分の一も届かないでしょう。これは一見ムーミンパパ圧倒的不利で、同じ性能のピストルで撃ちあいをしてもヘムル署長の弾丸はムーミンパパの弾丸の三倍の速度で進みます。
 ですが実戦ではこの相対速度差が相殺するので、ムーミンパパはピストルの弾丸よりも速く移動できますから、ヘムル署長の最初の弾丸さえ避ければヘムル署長が第二・第三の弾丸を撃つより前に、自分の弾丸すら追い抜いて署長の手からピストルを叩き落し、こめかみにゼロ距離射撃をお見舞すれば着弾速度は問題外ですので勝負は決ります。
 うっ、とひと声うめき、全身をびくっと震わせると、ヘムル署長の死体は床にうつぶせに横たわりました。左のこめかみからは赤ワインの瓶を倒したかのように鮮血がかさを増して流れ、レストランの床に血だまりになりました。
 なんてことだ、とジャコウネズミ博士、この店の床は傾いているぞ。血だまりにムラがある。私もいま気づいた、とヘムレンさん、直すべきだな。
 店じゅうの客はそれを聞いて、代表を立て食事中に直させよう、でなければ食い逃げしよう、とガヤガヤし始めました。悪い予感がしてスティンキーは、みなさん食い逃げは犯罪ですぜ、とおそるおそる訴えました。もしそうなれば全員食い逃げは認める、だが主犯はスティンキーだと言うのに決っています。
 ムーミンパパは席に戻るとまだ床に落ちる途中の皿を拾い上げました。追加の黒ビールを頼んどいて良かった、なんだか騒々しくなってきたようだな。
 博士らも席に戻りました。署長も起き上がると席に戻り、一本取られたよ、私より軍事最高官は適任者がいるようだ。そうか、勝負の公平性には若干の残尿感があるがね、まあ男と女の残尿感には違いがあるかもしれんが、と博士。では軍事最高官はムーミンパパで決りかね?そうだな、就任前に引責処刑はどうだ?
 第六章完。


(初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)

『偽ムーミン谷のレストラン』番外令和編

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  (60)+

 A...さんからの私信。

 「仕事上での出来事などをSNSにアップしたことが知れたら、懲罰の対象となることが今朝職場で言い渡されました。どのブログに何を書いたか振り返る間もないので、急いで削除しましたのでお知らせします。
 いまはパニクっていますが、いずれ別名でブログをアップする気持ちはあります。
 また連絡しますね。
 取り急ぎでした。」


(この童話はフィクションであり、現実・創作の人物、団体、出来事とは関係ありません)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)

映画日記2019年4月10日~12日/一気観!『映画クレヨンしんちゃん』シリーズ!(4)

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 しんちゃん映画の感想文も4回目で、このあたりからはテレビ版の「クレヨンしんちゃん」以外に劇場版独自の観客層もつき、子どものために親が連れて行く児童向けシリーズから全年齢向けのファミリー映画でもあればむしろ成人観客向けに従来作の再評価とともにレイトショー公開や特集上映が開かれる機会も増え、また比較的近年の作品ですので新作公開ごとの前年度作品のテレビ放映で観た、観逃したがタイトルはご存知の方も多い作品が増えていくと思います。原恵一監督時代の第6作(シリーズ通算第10作)で原監督の担当した最後のしんちゃん映画になった『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』2002は大評判を呼んでヒットした前作『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』2001に続く野心的な意欲作でしたが試写会で涙する観客の姿も交えたプロモーションも奏功し同様にヒット作となり、しんちゃん映画シリーズとしては初の公式な映画賞を多数受賞(文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞、日本インターネット映画大賞日本映画作品賞、第7回アニメーション神戸個人賞、毎日映画コンクールアニメーション映画賞、東京国際アニメフェア2003劇場部門優秀作品賞・個人賞部門監督賞、第22回藤本賞)する、原監督時代の有終の美を飾る名作になりました。同作は現在までに実写版リメイク(『BALLAD 名もなき恋のうた』2009、ただし「しんちゃん」映画としてのリメイクではありませんが)された唯一のしんちゃん映画でもあります。原恵一監督は原監督自身が初代監督・本郷みつるから受け継いだように劇場版の監督を原恵一監督時代に演出(チーフ助監督)の水島努監督(当時シンエイ動画在籍)に引き継ぎましたが(テレビ版は原監督からムトウユージ監督が3代目メイン監督になりました)、水島監督がフリー監督になったのち2010年代に『ガールズ&パンツァー』『SHIROBAKO』などを手がけ「日本で一番忙しいアニメ監督」と呼ばれるヒットメーカーとなったのは良く知られることで、続く水島努監督作品の『嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード』2003(文化庁メディア芸術祭アニメーション部門審査委員会推薦作品)、『嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』2004はともに水島努・原恵一共同脚本ながら原恵一監督が本郷みつる監督時代の作風を一変させたように大胆な作風の転換があり、それも成功して好調なヒットが続きました。水島努監督時代は演出(チーフ助監督)時代が長かった分2年でムトウユージ監督に代替わりし、以降は本郷みつる監督、原恵一監督時代のように4~6年同じ監督が連続することはなくなりますが、それもしんちゃん映画ではシリーズの長期化に伴い1作ごとの趣向の変化を図るのにテレビ版監督陣の持ち回り制で工夫を凝らしている結果に現れているので、実際比較的観客動員数が伸びなかった作品の後には再び好調期の成績を取り戻し、シリーズの興行収入記録を塗り替える人気を最近数年でも記録しているのは記憶に新しいところです。今回の3作はいずれもシリーズ最上位に入る名作秀作佳作で、観直して飽きのこない現代アニメーション映画の達成とさらなる発展を期待させるものです。なお各作品内容の紹介文はDVDボックスの作品紹介を引用させていただきました。

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●4月10日(水)
『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』(監督=原恵一、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2002.4.20)*96min, Color Animation
◎突如、戦国時代へとタイムスリップしてしまったしんのすけは、ひょんなことから、歴史上討たれるはずだった侍を救い、歴史を変えてしまう。追いかけてきたひろしたちと再会するものの、歴史の荒波は一家を大きく変えていく……。果たしてしんのすけたちは、歴史はどうなってしまうのか!?

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 前作『オトナ帝国の逆襲』の大ヒットと大評判で本作は公開時から好評をもって迎えられましたが、実はしんちゃん映画シリーズ中でもテレビ版からはもっとも大胆に飛躍した内容で、アヴァンからすでにこれまでのシリーズとは(前作までの原恵一監督作品からも)違うただならない雰囲気が漂いますが、しんのすけの日常場面は続く家族での朝食と幼稚園での時代劇ごっこだけで、映画はすぐにシロが庭に掘った穴から出てきた過去からのしんのすけ自身が書いた手紙の発見とともに戦国時代(天正2年=1574年の春日部城下、という設定です)にタイムスリップしてしまいます。実は現行DVD裏の短いあらすじはタネを割っており、実際にはしんちゃんが過去を変えたというよりもしんのすけと野原一家のタイムスリップ自体が歴史の一部であり、野原一家はある一定の役割を果たし終えると現代に帰還できる、という運命を担った存在として戦国時代の城家同士の戦争に巻きこまれることになる。タイムスリップした現代人の一家が見た、という特殊な設定はありますが映画の内容は非常にリアルに徹底した文献・歴史考証に基づいて描写された、16世紀初頭の日本のローカルな領家戦争映画と言っていいもので、いわゆる(主に江戸時代を舞台とした)時代劇というよりも歴史映画としての戦争ロマンスを真正面から描いた長編アニメーション映画なので、本作のしんちゃんや野原一家は役どころではドラマのための狂言回しであり、ヒロインと主人公は幼なじみに育ち慕いあっている春日城の姫・春日廉(小林愛)であり、春日城一番の勇士で「青空侍」こと井尻又兵衛由俊(屋良有作)です。二人は自分たちの身分の違いから結ばれるのは許されないことに耐えながら小国の姫として振るまい、小国の軍将として仕官しており、一見戦国時代タイムスリップのファンタジー設定と見せかけておいて結末まで観ると慕いあう小国の姫と青空侍の哀切な願いが5世紀後の春日部に済む一家を天正2年に招き寄せたのがわかる。この物語はしんちゃん一家ではなくても成り立つので、本作の実写版リメイク『BALLAD 名もなき恋のうた』では小学生男子の一人っ子の一家が戦国時代にタイムスリップする話に変えられています。もっとも実写版では明確に姫と侍の恋物語を恋人たち自身を視点人物として描いてしまったので、突然の珍客である未来人の一家はあくまで脇役になり、原作であるしんちゃん映画のように原因もわからずタイムスリップしてしまった現代人一家が表向きは主役で観客と同様に視点人物であり、それが映画のクライマックスで実は本当の主役は廉姫と青空侍だったとわかる意外性や痛切感は生まれてこないので、実写版映画は一般映画としての封切りで興行収入18億円に乗りましたが製作費も20億円以上の実写映画ですから何をか言わんやということになる。本作は前作同様プログラム・ピクチャー・アニメの枠を越えて名高い作品ですので、公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] お馴染みしんちゃんが、戦国時代を舞台に大暴れする長篇ギャグ・アニメーションのシリーズ第10作。監督・脚本は「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」の原恵一。撮影監督に「ドラえもん のび太とロボット王国」の梅田俊之があたっている。声の出演に「~嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」の矢島晶子、「エルマーの冒険 MY FATHER'S DRAGON」の屋良有作、「∀ガンダムII 月光蝶」の小林愛ら。
[ あらすじ ] きれいなお姉さんの夢を見た翌日、突然、天正2年(1574年)にタイムスリップしてしまったしんちゃん(矢島晶子)。そこで、青空侍と呼ばれる又兵衛(屋良有作)という侍の命を助けたしんちゃんは、春日城へ案内され、夢で見たお姉さんと会うことが叶う。お姉さんは、春日城の当主・康綱(羽佐間道夫)の娘で、大蔵井高虎(山路和弘)なる大名と政略結婚させられることになっている廉姫(小林愛)。いつもの調子で又兵衛や姫と仲良くなったしんちゃんは、ふたりが秘かに互いを好き合っていることを察し、恋を成就させてやろうとするのだが、又兵衛は身分が違うとその想いを胸に封印しようとするばかり。自由恋愛の時代のしんちゃんには、全然理解出来ないのであった。やがて、しんちゃんを心配したひろし(藤原啓治)やみさえ(ならはしみき)たちが春日城にやって来た。再会を喜び合う野原一家。しかし、どうしたら元の世界に戻れるかは分からない。そうこうするうち、康綱の心変わりで政略結婚を断られた高虎が隣国と共に戦を仕掛けて来た。城を、人民を、土地を、そして愛する人を守る為、応戦する又兵衛たち。果たして、戦いは熾烈を極めるも、野原一家の助太刀で高虎の髻をゲット。見事、春日軍は勝利を収める。ところが凱旋途中、又兵衛は何者かの弾に当たり倒れてしまう。やりきれない思いのしんちゃんは、しかし廉姫と別れ、元の時代へと帰って行く。
 ――しんのすけは偶然(しかし実際は廉姫と「青空侍」又兵衛の思いに引き寄せられて)又兵衛が死客の鉄砲兵に撃たれる寸前に現れて鉄砲を逸らせる役目になったので、又兵衛は合戦の勝利で春日城を守ったと同時に未知からの銃弾に撃たれ、しんのすけたち一家を自分の時代に招き寄せたのが姫と自分の思いの力によるもので、姫と城を守り抜く役割を終えた今あの時死ぬはずだった自分の死が訪れたのだ、そして野原一家を未来に帰すことができるのだと悟ります。本作がよくあるタイムスリップもの、異世界トリップものに終わっていないのは、姫が又兵衛の無事を祈る子どもの頃から遊んだ憩いと祈りの場である泉のほとりが5世紀後の野原家の庭で、泉を通して5世紀後の野原一家の夢枕に廉姫が立つ、という映画の冒頭から一貫しており、ガジェット的な趣向ではないので、これはSF的な発想というよりも『源氏物語』から『雨月物語』にいたる前近代的な心霊信仰につながります。『オトナ帝国の逆襲』も人々への侵略手段がノスタルジアであり「古き良き時代の匂い」という意外性のある、かつアニメでこれをいかにテーマにし得るか自体が冒険的な企画でしたが、本作はしんちゃん映画では初めて真正面から作中人物の「死」を描いた作品でもあり、前作の実績をもってしても製作サイドからは難色が示されたそうです。「クレヨンしんちゃん」原作者の臼井儀人氏が原恵一監督のオリジナル脚本を読んで「これで行ってください」と推したので実現にこぎつけたそうですから、人気シリーズのテレビアニメ版原作者の後押しがなかったら現在観られるような名作になる条件が通らなかったと思うと、本作はシリーズでももっとも原作コミック離れした作品だけに臼井氏の勇断やシンエイ動画スタッフへの信任が可能にした作品とも言えます。また、しんちゃん映画の枠組の中で最大の挑戦に成功したのが前作『オトナ帝国~』なら、本作はタイムスリップ型歴史映画がたまたましんちゃん映画のシリーズで作られたものとも言え、原恵一監督も普通映画の長編アニメーション作品を作る意識だったのが出来上がりにそのまま現れています。原監督自身は『青空侍』という脚本原題へのこだわりが最後まであり、地味なので公開題には生かせなかったのですが、長編アニメーション『青空侍』と思って観ると感動が増大します。原監督自身はフリーになってその後もしんちゃんアニメに関わりますが、本作で劇場版監督を降りるとともにテレビ版メイン監督・劇場版監督ともムトウユージ監督・水島努監督に譲るのはやり尽くした感があったからこそでしょう。本作は『オトナ帝国~』と並んで長編アニメーション映画史上に名を残す作品で、観直すたびに新たな感動のある最高の完成度を誇る名作です。

●4月11日(木)
『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード』(監督=水島努、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2003.4.19)*89min, Color Animation
◎最高級焼肉の夕食を目前とした野原一家だが、突然謎の男に追われ、気がつけばなぜか指名手配犯に!?周りは報奨金目当ての敵だらけ!一連の事件は熱海に本部を置く組織"スウィートボーイズ"の陰謀によるものであることを知り、逃走の進路を熱海に向ける!果たして一家は焼肉にありつけるのか!?

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 初代監督の本郷みつる(1959年生まれ)のしんちゃん映画第1作は32歳の作品、2代目監督の原恵一(1959年生まれ)がしんちゃん映画を引き継いだシリーズ第5作は36歳の作で、本郷・原の両監督ともドラえもん映画の併映用中短編の監督作はありましたが長編アニメーション映画はしんちゃん映画が初作品でした。3代目劇場版監督(テレビ版3代目メイン監督はムトウユージ監督)の水島努(1965年生まれ)もOVAや短編作品はありましたが劇場版長編アニメーション作品は37歳時の本作が初めてになり、次作の監督後にフリーになりますがシンエイ動画はやはり児童アニメの老舗・亜細亜堂から迎えた本郷監督、生粋のシンエイ動画育ちの原・水島監督と精鋭スタッフに恵まれており、水島努はテレビアニメ版「美味しんぼ」で遊びすぎた演出をして以来シンエイ動画内で仕事を干されていたところを本郷監督がしんちゃん映画第2作『ブリブリ王国の秘宝』'94で社内の反対を押し切って演出補佐に起用したことからしんちゃんアニメのチームに加わり、以来原恵一に監督交代して以来は演出(チーフ助監督)にずっと就き、第7作『温泉わくわく大決戦』では併映短編「クレしんパラダイス!メイド・イン・埼玉」で初の劇場用短編を監督しています。本郷みつる監督が社内で不遇だった水島努を見いだしたのもさすがの慧眼ですし、原恵一自身が「本郷さんの作品はハリウッド映画風の雰囲気」で原監督自身は「古い日本映画風」にできないか、と考えたように、水島監督は本郷みつるに近いハリウッド映画的なムードにさらに'70年代~'80年代初頭の国産テレビアニメを観て育った世代ならではの感覚があり、原監督を継いでテレビ版メイン監督になっていたムトウユージ(1962年生まれ)監督の前に下積み時代が長かった水島監督が長編2作を担任したあと40歳を目前にフリーになり劇場版のあとを継ぐものの、原恵一時代の最後の2作がいずれも話題作でヒット作だった分大変だったと思われますが、かえって水島監督は「もう大人に褒められる必要はない、子どもを沸かせる」内容に専念できたそうで、本作は『戦国大合戦』をしのぐ興行収入14億円のヒット作になりました。ジェットコースター・ムーヴィー的コメディの本作に対して次作『夕陽のカスカベボーイズ』では春日部市民たちが時間の止まった西部劇映画の世界の中に閉じ込められてしまうメタ映画手法で異色作を作ることになり、同作も興行収入13億円のヒットと好成績を収めて出来は甲乙つけ難く、水島監督のしんちゃん映画をもう数本観てみたかったと欲が出ますが、続くムトウユージ監督の3作も好作揃いなので贅沢は言えません。
 さて『映画クレヨンしんちゃん』で初めてデジタル原盤(以降は全作品デジタル原盤)になった本作は、夕飯の高級焼肉を期待して朝食を簡素に済ませたばかりの野原一家の庭先のブロック塀を突き破って謎の白衣の男(石丸博也)が現れ一家に助けを求めるのが発端です。そこに下田(江原正士)と名乗る小太りの男が率いる白衣の男を追う集団が現れひろし(藤原啓治)と名刺交換しますが、一家はわけもわからず逃げ出します。とりあえずふたば幼稚園に駆け込みますが、園長先生(納谷六朗)が観ているテレビは突然凶悪犯逃走中の臨時ニュースに切り替わり、ひろしは異臭物陳列罪、みさえ(ならはしみき)は年齢詐称、しんのすけ(矢島晶子)は幼児変態罪、ひまわり(こおろぎさとみ)は結婚詐欺、シロ(真柴摩利)は騒乱罪・暴走罪その他で報奨金1億円の凶悪指名手配犯の速報が流れ、まつざか先生(富沢美智恵)やあげお先生(三石琴乃)はあ然、よしなが先生(高田由美)は「信じています!自首してください!」と泣き出してしまいます。とりあえずひろしの秋田の実家に隠れようと一家は報奨金目当てに狙ってきたヨシリンとミッチー(阪口大助、草地章江)をかわし自宅で旅支度をしますが、アクション仮面の時間だゾとテレビを点けてみたしんのすけは臨時速報でアクション仮面(玄田哲章)と助手のリリ子(小桜エツ子)がしんのすけの指名手配を「とんでもない奴だ」と指弾するのに大ショックを受け、チャンネルを変えたひろしは双葉商事がひろしを懲戒免職し、部下の川口(中村大樹)がひろしを悪しざまに言う証言を聞いて大ショックを受けます。一家は町中の人たちが野原一家の陰口を叩くのを悔しがり、しんのすけ憧れのななこおねえさん(紗ゆり)までが一家の姿を見て逃げ出すので用品店に忍びこみ変装しますが、秋田のひろしの実家が手入れを受けているテレビ報道から熊本のみさえの実家も無理と判断し、下田の名刺から本拠地の会社「スイートボーイズ」は熱海にあると睨んだ一家は熱海の本拠地に乗りこむことにします。ムードや旅程は違うものの原恵一監督のしんちゃん映画初作品『暗黒タマタマ大追跡』'97同様ロード・ムーヴィーになりましたが、元温泉旅館スイートボーイズのボス(石塚運昇)が野原一家を追うために放った下田、堂ヶ島少佐(徳弘夏生)、少佐の部下女隊長・天城(皆川純子)が妨害しあったり協力したりと追われるうちに女装したひろしに一目惚れして男とわかっても惚れこむドライバー(真殿光昭)の協力で熱海まで着く間に一家は離ればなれになり、また合流するとめまぐるしく追っかけは進行し、ついにボスと対面して一家は組織の追う洗脳装置「熱海サイ子」の実態と自分たちが指名手配犯にされてしまった真相を突き止めます。クライマックスの対決と解決はややあっけない観もありますが、本作は始まってすぐ逃走劇になり逃走そのものが本編なので発端や解決はシンプルで十分と言える仕上がりになっています。合流した一家がシリアス絵柄で焼肉を思うリアル絵のリアルひろし、リアルみさえ、リアルしんちゃん、リアルひまわり、リアル雑種犬シロのギャグでは映画館の爆笑が聞こえてきそうであり、テレビ版から大きく離れた内容が続いた原恵一監督作品からテレビ版の拡大版だった初期の本郷みつる監督作品に戻って、さらに長期化したシリーズ分の洗練を推し進めた出来とも言えそうです。また次作と対照をなす本作の爽快なコメディ感覚は出来ばえでは甲乙つけ難いものがあります。

●4月12日(金)
『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』(監督=水島努、シンエイ動画=ASATSU=テレビ朝日/東宝'2004.4.17)*97min, Color Animation
◎映画館"カスカベ座"で西部劇の映像に目を奪われているうちに、映画の中に迷い込んでしまった春日部の住人たち。その世界ではこれまでの記憶を失ってしまい、それぞれ新しい生活を送ることに……。果たしてしんのすけたちは、本当の自分を取り戻して春日部に帰ることができるのか!?

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 映画の中で主人公が「上映中の映画の世界の中に入り込んでしまう」アイディアはバスター・キートンの『探偵学入門』'24やウッディ・アレンの『カイロの紫のばら』'86が有名ですし、異世界トリップものの変奏としてゲーム世界その他と昨今は猖獗を極めて陳腐化していますが、キートンやアレンの作品を向こうに回すにはこの『夕陽のカスカベボーイズ』くらいのアイディアと脚本・演出の力量がなければと痛感させてくれるほど、本作は見事な出来ばえです。春日部市民たちが時間の止まった西部劇映画の世界の中に閉じ込められてしまうメタ映画手法自体は画期的なものとは言えませんが、これを展開していく脚本の構成力と豊富で意外性と説得力あるアイディア、緩急わきまえた演出の妙は心憎いばかりで、前作『栄光のヤキニクロード』では本郷みつる監督時代を思わせる作風で好作を放った水島監督は、本作ではさらに原恵一監督時代のしんちゃん映画のムードを折衷して本郷作品でも原作品でもない、これまでのしんちゃん映画にないような緊迫感を打ち出しながら哀切な後味を残すファンタジー作品に成功している。あまりに構成要素が盛りだくさんなので『~ヤキニクロード』のようなシンプルな痛快さと爽快感ではなく、家族やカップルで観たら観終えたあとちょっと会話が弾まないような沈鬱な印象が残るので、設定は『オトナ帝国の逆襲』を思わせるようなものですが『オトナ帝国~』とも違った意味で傑作ながら異色作なので、好みを分けるような作品です。映画は、高鬼をしていたかすかべ防衛隊たちが町中を駆け回っているうちに一軒の古びた廃屋の映画館「カスカベ座」を見つけるのが発端です。誰もいない場内では荒野が映し出されているだけの映画がひとりでに無音で上映されていました。かすかべ防衛隊は不思議に思ってスクリーンを観ましたが、トイレに立ったしんのすけ(矢島晶子)が戻ると、みんなの姿は消えています。夜になってもしんのすけ以外の4人は家に帰っていないと知り、行方不明になったみんなを心配したしんのすけら野原一家はカスカベ座を探りに行きますが、荒野の映像に目を奪われているうちに、気がつけば映画と同じ何もない荒野に立っていました。突然の状況に困惑する野原一家は、しかたなく荒野を歩いて数時間後、ようやく荒野を走る一本の線路を見つけ、その線路沿いに進み、そこで西部劇のような古びた町を見つけます。春日部への帰り道を聞くため酒場に入る野原一家ですが、変な顔の男(宝亀克寿)たちに因縁をつけられ乱闘騒ぎになります。間もなく保安隊が現れますが、その隊長の保安官は行方不明の風間くん(真柴摩利)でした。しんのすけはいつも通り親しげに風間くんに話しかけますが、いきなり腹を殴られてしまいます。風間くんはしんのすけたちのことをすっかり忘れており、性格も乱暴になっていました。保安隊から追われる身になってしまった野原一家は逃亡の途中、この町「ジャスティスシティ」の独裁者の悪徳知事ジャスティス(小林清志)に仕える少女、つばき(齋藤彩夏)に救われます。つばきもこの場所がどこかはわかりませんが「この世界に来た人間は次第に元の世界の記憶を忘れていく」ということと「帰りたいと気持が強いのなら、その気持を忘れずに持ち続けてください」という助言を野原一家に伝えて戻っていきます。つばきが去ったのち保安隊に暴行を受けている男を目撃した野原一家は保安隊の目を盗んでその男を助けます。マイク(村松康雄)と名乗るその男も春日部の元住人で、どうやらここは映画の中の世界で、時間が止まっているらしいのを野原一家に教えてくれます。マイクは荒野に3か所あるらしい、ジャスティス指定の「立入禁止区域」に元の世界に帰る手がかりがあるのではと思い侵入しましたが、何も見つからず保安隊に見つかり厳しい体罰を受けたと言います。マイクも自分の名前と春日部在住以外の、職業や家族のことを忘却していました。そんなマイクを見た野原一家も自分たちもそうなるかもしれないと不安に陥ります。しんのすけは町の中で行方不明だったマサオくん(一龍斎貞友)とネネちゃん(林玉緒)を見つけますが、夫婦となって暮らしていた二人も風間くん同様に記憶を失っており、さらに今の状況に満足しているからと春日部帰還を拒否します。町はずれに住んでいたボーちゃん(佐藤智恵)だけはまだ春日部にいた頃を憶えており、しんのすけとともに全員無事に春日部への帰還を誓ってくれますが、しかししんのすけとボーちゃんからも少しずつ、春日部の幼稚園児だった頃の記憶が消えていきます。
 結局、春日部に帰る方法が見つからない野原一家は、どうにか春日部にいた頃の記憶を保ちつつ、元の世界に帰る方法を見つけようと決意します。しかし、日が経つにつれ記憶は徐々に薄れていき、ひろし(藤原啓治)はマイクと共に強制労働を強いられ、みさえ(ならはしみき)はこの世界の暮らしに馴染んでしまって帰ることを諦め、ひまわり(こおろぎさとみ)もしんのすけが誰なのかを忘れ、さらにしんのすけもぶりぶりざえもんの絵が描けなくなってしまいます。それでも少女つばきはたびたび現れては野原一家を励まし、いつしかしんのすけはつばきに恋心を抱くようになります。そんなある日、つばきが与えられくれたヒントでしんのすけたちはジャスティス知事に虐待されている発明家の老人オケガワ(長嶝高士)とともに、とうとう春日部に帰る方法を思いつきます。それはこの映画世界の悪役ジャスティス知事を倒し、この世界に平和を取り戻して映画をハッピーエンドにすることでした。そのためのヒーローとして選ばれたのは、しんのすけたちかすかべ防衛隊の5人。しかし、完全に記憶が戻っていないかすかべ防衛隊の心はバラバラです。しかし保安官バッジを剥奪されジャスティスの部下に轢き殺されそうになった風間くんをしんのすけが助け、他の3人も駆けつけたて心がまとまり、かすかべ防衛隊は野原一家とマイクと正義のガンマンたち「荒野の七人」と協力してジャスティスを倒す事に「立入禁止区域」の秘密を暴きに列車に乗り、追跡してくるジャスティスの手下たちを撃退しながら突っ走ります。そして無事映画にエンドマークを打ち、カスカベ座に戻ってしんのすけが気づいたのは……。本作は脚本から絵コンテを起こしていく段階でどんどんつばきのヒロインとしての比重が多くなり、脚本自体を当初からの狙いのかすかべ防衛隊の友情と同等にしんのすけとつばきのロマンスが膨れたそうですが、外見だけで妙齢の「おねいさん」に無差別にデレるしんのすけがまだ中学生くらいの清楚で控えめ、地味な少女に恋するのは異例の事態です。また本作は野原一家が映画館を探しに入るためシロは留守番で、現実に戻ると時間は最後に迷いこんで映画に「おわり」をもたらした野原一家が入った時刻に戻るようになっている。記憶を失い映画の世界に順応した春日部の人々は『オトナ帝国~』を思わせる不気味な不吉さがあり、また大列車追跡でしんのすけたちを援護する「荒野の七人」は映画『荒野の七人』'60そのままをモデルにしており、声優も日本版の吹き替え声優をキャスティングしています。重要な案内役のマイクはマイク水野こと水野晴郎氏がモデルで、これは事後承諾だったそうで公開後水野氏から東宝と水島監督に問い合わせがあり水野氏は大いに喜んでくれたらしく、だったら水野氏本人が声優出演していたらなお面白かったと惜しまれます。本作をご覧になった方がずっと忘れられないのがカスカベ座に戻ってきたしんのすけが必死につばきの姿を探す場面で、水島監督のイメージでは「エイドリアンが見つからないロッキー」をやりたかったそうですが、これがあまりに痛切でしんのすけが泣きながら映画の世界に戻ろうとする結末も切なすぎる。本郷みつる、原恵一に続いて水島努監督もしんちゃん映画に傑作を残した手応えはありますが、しんちゃん映画としてこれも素晴らしい出来ながら位置づけはシリーズ中の異色作になると思えます。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第七章

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 第七章。
 ムーミン谷にレストランができたそうだよ、とムーミンパパが新聞から顔を上げると、言いました。今朝のムーミン家の居間には、
・今ここにいる人
・ここにいない人
 のどちらもいません。いつもならムーミン谷の住民はあれやこれやの口実をたずさえて、ムーミンママのもてなしを目当てに朝から晩までひっきりなしに出入りがありますが、今のムーミン家の居間にはあのニョロニョロすら生える気配はありませんでした。
 ムーミンパパが口をつぐむと再び居間は死の沈黙に包まれました。ムーミンパパはなかなか火の通らないパイプを詰め直すと、自問自答するかのように言葉をつぎました。
 そうだ、わが家は食事のふりならずっとしてきたが、それは家庭という雰囲気の演出のためであって実際に食事をしたことはない。そうだねママ?
 そうですよ、と答えてくれるはずのムーミンママはいません。ムーミンパパは意に介さず、
 私がパイプをくゆらせ安楽椅子で新聞を読んでいるのもそうだ。魁新報ムーミン谷版は半年に一度しか出ない。半年に一度の紙面を新聞と呼べるだろうか。ムーミン谷にはタウン誌すらないのだ。
 パパ、新聞にレストランができたって載ってたの?と訊いてくるはずのムーミンもいません。その頃ムーミンは全身を拘束され、地下の穴蔵に幽閉されていました。かなり冷え込み、また拘束のストレスも強い環境ですが、不条理に拉致監禁されるのはムーミンのような童話のプリンスにはよくあることですから、それに耐え得る神経の太さはムーミンには最初から備わっていました。
 レストランに行くの?とムーミンパパはムーミンの声真似をしてみました。そこだよ問題は、とムーミンパパは自答し、それにはあらかじめいくつかの条件がある。まず正当な連れがいること、これは問題はない。ムーミン一家だからな。正当な連れとは変な組み合わせでレストランに行ったら変だということだ。たとえばママがヘムル署長たちとレストランに行ったら変態の餌食に見えるだろう?
 沈黙。……なら問題を簡単に言おう。私たちトロールは食欲はあるが食事する必要はないのだ。だがレストランでは実際に料理を食べなければならないのだぞ。
 その頃ムーミン一家は夜のレストランにいました。ムーミンパパだけが、レストランと今でも朝のままの居間の両方にいたのです。


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 それにしても、と(偽)ムーミンは思いました、いったいどのくらい時間が経ったのだろうか。それはたぶん全員共通の困惑だ。スナフキンもスニフもフローレンも、スノークもヘムレンさんもジャコウネズミ博士もヘムル署長も、スティンキーも三人の魔女も、トフスランとビフスランもミムラもミイも、たぶん全員が困惑しているはずだ。ムーミンパパとムーミンママについては、実のところよくわからない。だがそれを言えばわからない連中ばかりだともいえる。ムーミン谷には明確な時間の概念がないからだ。
 お陽さまが登りまた沈む、だから一日という単位や朝昼晩くらいの区分は一応ある。だがそれを等分して時刻を定める習慣はムーミン谷の外の世界では当り前らしい--おれも図書館の本で知っただけだし、外の世界からラジオやテレビ放送を傍受するとどうやらかなり細分化された単位で時間経過は重要な概念らしい。
 この谷にも学者はいる。外の世界の研究は乏しい材料からそれなりに進んでいるようだ。だが学者たちが時間の概念についてあえて研究の成果を示さないのは、時間について語るのは谷のタブーに抵触するからだとしか思えない。
 それは学者たちが法と権力の立場、谷の住民を管理する立場にあるからかもしれない。今までムーミン谷は夜が明ける、陽が登る、陽が沈む、おやすみなさいというだけの時間把握だけで円満にやってきた。昨日、今日、明日より長い日付も必要ない。時間の細分化と単位化をムーミン谷に導入したらどうなるか?
 まず時間把握の順応性の差が世代や種族の間で現れるだろうから、あらゆる生活環境に渡って時間概念の適用の是非をめぐって争いが生じるだろう。今ここでこれといった暴発的不満が生じないのも、具体的な時間経過を谷の住民は測れないので漠然とした不安以上には進まないからだ。
 だがおれ、こうして尻尾を捕まれまいとしてびくびくしているおれは、何のためにムーミンを演じているのか。もちろん楽しみのために。だがおれは今この状況を楽しんでいるといえるだろうか?
 その頃ムーミンはたまの拉致監禁も悪くないな、とくつろいだ気分でした。自由ではないけれど、普段ムーミンが孤独になれる機会はこんな時しかないからです。替え玉がいるのも悪くないな、とムーミンは王子様のように思いました。


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 案外手間はかからなかったな、とムーミンパパはレストランのドアをくぐり、ムーミンとムーミンママを振り返りました。ムーミン、実は偽ムーミンは朝の居間の会話中、レストラン行きに危険を察してトイレに立ち、本物のムーミンと入れ替わっていたのです。
 偽ムーミンが抱いた疑惑とは主に、
・情報源があやしい
・謎のレストランというのがくさい
 その根拠は、ムーミンパパが見ていた新聞は今朝届いたとは思えないし、パパの頭はどうも不思議な電波を拾っているらしい。顧客を肥らせ食材にするレストランの話はよくある。偽ムーミンはムーミン谷公立図書館に勝手に住んでおり、女性司書とも肉体関係があるので耳年増なのです。さらに、
・ムーミン谷には通貨がない
 というのも偽ムーミンの抱いた疑惑の根拠でした。正確には現在は通貨がないが、過去には1ムーミン2ムーミンという単位が存在していたらしい。だがこれは貨幣経済ではなく人身売買が経済制度だった痕跡ではないか、と半ばタブーになっています。
 経済といえばスティンキーくんだろう、とジャコウネズミ博士。こうして表立ってきみと膝突き合せて話すとトゲが刺さって痛いが、プロの見解を聞ける機会は滅多にないからな。いやいや、恐縮するのはわれわれの方さ。きみの職業では、つまり窃盗と横流しだが、やはり通貨に代わる何かがあるのかね?現物交換としても等価交換では商売にはなるまい。
 そうですね、あっしも通貨には関心がありますよ。効率的ですからね。ただ、ムーミン単位制は今やムーミンは稀少種ですからね、金の先物取引と似たリスクが生じるでしょうね。
 なるほど、必要な流通量を確保できないから相場が不安定になるな。
 単位の問題もあります。先物取引としても9999ムーミンまでならいいんです。ところが一万ムーミンとなるとわからない。なぜ9999の次が1になるのか。さらに99999に1ムーミンを足すと一億ムーミンですが、たかが1頭で万とか億に相当するムーミンなど現実に存在しますかね?
 ものすごくでかいムーミン族の個体だろうな、とヘムル署長。山脈を越えて来る前に迎撃せねばならん。
 そこで、とスティンキー、本物が無理なら手頃な偽ムーミンを量産する手がありますよ。あくまで代用通貨ですがね。


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 長い窃盗生活のあいだ、スティンキーのコレクションは役にもたたないがらくたが増える一方でした。職業的窃盗とは盗品売買という目的がないと窃盗自体も目的を失いますが、もとを正せば市場経済という原理がムーミン谷には存在しない以上、スティンキーの活動は盗難ではなく損失として谷の需要を維持させるだけで、スティンキー自身には趣味以上の利益をもたらさないのは明らかでした。
 その状態は以下のように説明できるだろう、とジャコウネズミ博士。まず蓋のついた箱を用意する。箱の中には放射性物質のラジウムと、ガイガー・カウンター付き青酸ガス発生装置が仕掛けてあり、ガイガー・カウンターがアルファ粒子を感知すると青酸ガスが発生するようになっている。
 その箱へムーミンに入ってもらう。そんなに大きな箱なんですかい?うむ、ミイが入るには大きすぎるが、スナフキンが入るには窮屈だろうな。どっちみちヘムレンさんと私はムーミンを念頭に置いて箱を用意したのだ。はあ。
 というのは、この箱にはスティンキーくん自身が入っても実験にならないからなのだ。谷の住民全員にとっても、ムーミンでなければならない理由がある。
 ムーミンが箱に入る。箱の蓋を閉める。一定時間経過後、ムーミンの生死の可能性はラジウムの原子核がアルファ崩壊する確率次第となる。つまりわれわれは箱の中のムーミンを生きているとも死んでいるとも認識できないのだ。
 蓋を開けて見てはいけないんですか?誰が見るかね?もしムーミンが死んでいたら、見た者まで青酸ガスを吸って死ぬぞ。では誰かに開けてもらって……。それでは直接認識したことにならんよ。呼んでみては駄目ですかね、おーいムーミン生きてるかぁ……。きみももうわかっていると思うが、この実験の趣旨はそういうことではないのだ。
 われわれは普通ムーミンを生きた状態か死んだ状態でしか認識できない。だがこうした実験下ではムーミンの生死は確率的な比率で両立するのだ。これは可能性の飽和状態であり、エントロピーの臨界点でもある。気の毒なムーミン!
 生殺しってやつですな、とスティンキー。
 それはきみのことだよ、とジャコウネズミ博士。きみの窃盗は次々と量産型偽ムーミンをガス実験しているようなものだ。だがそれはわれわれ全員の限界で、この場合ムーミン本人だけが死を賭けて真実を知ることができるのだ。スナフキンでもいいがね。


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 ぼくがいる場所は、本来ならぼくにとってはやや窮屈なようだ。椅子がひとつある。丈は低くて背もたれはないから、腰掛けという方がいいだろう。浴室で使うようなやつだ。床、四方に壁、そして天井。この六面の空間は、ぼくの見るかぎりでは、立方体になっている。まっ白の照明、影はない。腰掛けの影すらない。これを書いている携帯電話―基本ソフト以外にデータらしきものは何も残っていない。元々ぼくの持ち物なのか、腰掛け同様この場所にあったものなのか憶えていない。ぼくの持ち物だったなら、初期化してデータを抹消されたのかもしれない―なにしろどこからも電話はかかってこないし、メールも送られてこない。ぼくもとりあえずいくつかの携帯サイトに登録してみたのだが、基本ソフト自体がメール受信全拒否という設定になっているのかもしれない。そして電話は……電話についてはあとで詳しく書こう。きりがない。
 この場所を部屋と呼ぶのに抵抗があるのは、見たところ、またあちこち試してみたが、出入口というものが見当らないからだ。イメージとしては溶接した感じ、ならば照明や換気は一体どうなっているのか。脱いでも着衣でも体感温度はほとんど変らない。照明はずっと一定のため朝も昼も夜もなく、昼夜の推移にともなうはずの気温や湿度の変化もない。寝具はない。
 食事と呼べるなら、食べることは楽しい。積極的に食べる理由はそれしかない。他にすることも大してないのだ。一方の壁の、ぼくの胸くらいの高さからトレイが出てくる。トレイには八つに区分けされたパレットが乗っていて、八色のペーストをパレットから直接舐める。上品な食べ方ではないが、これがすこぶるうまいのだ。たぶん補助栄養素を含む飲料水がトレイの脇から管で飲めて、こちらはいつでも飲めるようになっている。トレイが出入りする開閉口は食事の時しか現れない。やがて尿意や便意を催すと、腰掛けの蓋を開ければ便器になっている。よくできたものだ。ホームレスが夢見る天国のような場所だ。
 部屋の隅には控え目な設備がある。ラジウム、ガイガー・カウンター、青酸ガス発生装置。この三つの関連性は専門外でもわかる。
 そしてぼくは装置が作動しようがしまいが、つまり生死を問わず、もういいぞスナフキン、と呼ばれるまでここから出られないだけは確かなことなのだ。


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 でもなんだか入院みたいで嫌ですねえ、とスノークが苦笑しました。いくら三食上げ膳据え膳、昼寝つきといってもねえ。
ほう、きみも入院したことがあるのかね?とヘムル署長が言外に、バカは病気はしないものだろうとほのめかしました。
 ええ、もうヒマでヒマで、トイレに隠れてはオナニーしていましたよ(実話)。
 あまりに唐突な告白に、それまでスノークの同席をうざったく感じていた悪党四人もぷっ、っと吹き出しました。いやいやスノークくんもなかなかやるな、とヘムレンさん。そんなことフローレンの前では言えんだろう?ところでフローレンはどうした?
 ああ女子トイレですよ。あいつ結構イケるくちでね、水商売上がりですから。きみは未成年の保護者として飲ませておいていいのか?それは専門家が二人もいるから訊いてみましょう。
・スティンキー(もぐり酒場経営)「バレなきゃいいでしょ?どうせ現行犯でなきゃ挙げられないし」
・ヘムル署長(警察兼検察兼裁判官)「時効だ」
 めんどくさい、またはどうでもいい場合は、ヘムル署長はすべて時効で済ませるのです。これによってムーミン谷でかつて起き、また今後起り得るすべての違法行為は時効という判例があるので、ムーミン谷の法体系自体に変化がないかぎりあらゆる訴訟は時効という判決が得られる保証がありました。もちろんスティンキーの主張もこの谷の現実でしたが、それを言いだせばまたムーミン谷ならではのエントロピー飽和理論の蒸し返しになります。
 女のトイレは長いですからね、戻ったらどこかのテーブルに混ぜてもらえ、私は博士たちのインテリ席に行く、と申し渡しておいたんですよ。
 だがきみが加わったせいで五人になってしまった、とジャコウネズミ博士。どこか問題ありますか?並んで写真を撮ると一人死ぬ。いやそれはおいといて、このテーブルだよ。♥型ですね。これまで四人は左右の両辺と両半円に座ってきた。きみが座れるのはとんがった場所しかないぞ。
 えーっ、ここですか?刺さりそうだな。両辺にお二人ずつ、♥のくぼみに私では駄目ですか?
 それではきみが司会者でわれわれはパンチDEデートみたいではないか。後から来た者が偉そうなことを言うな。ウェイターに椅子を頼むが、覚悟はいいな?
 いいですけど(渋々)。
 しぶしぶまで読まなくてもよろしい。


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 でもやっぱり入院は嫌ですねえ、とスノーク。いくら三食上げ膳据え膳、オナニーし放題でもねえ。
 ほう、きみも入院したことがあるのかね?とヘムル署長が言外に、その話ならおれにまかせろとほのめかしました。ほのめかすまでもなく、ヘムル夫人(正妻)はムーミン谷立病院の院長兼現役婦長なのです。
 病院は立派な建物で、特に立派なのは門でした。ムーミン谷議事堂も立派な建物で、やはり特に立派なのは門でしたが、設計・建築はムーミンパパの親友で発明家フレドリクソン、アーチ型の門の碑文を決めたのはムーミン谷最高の知識人ヘムレンさんとジャコウネズミ博士でした。
 だがわれわれなどまだまださ、とこの二人はあくまで謙虚でした。『プヴァールとペキュシェ』という本には及ばんよ。
 いいですね、とスノーク。入院中の読書に向いていそうなタイトルだ。きみは入院中はオナニーばかりしているんじゃないのか?いやあオナニーぼけしていても本は読めますよ。でプヴァールとペキュシェのどちらが女ですか?なぜ訊くかね?ならどちらが男です?だって主人公の名前なら男か女のどちらかですよね。
 そうとは限らん。われわれは医学的手段でしか生まれてくる赤ん坊の性別を予測できんが、この場合医学的判定なしには赤ん坊は男と女のどちらかではなく、どちらでもあり得ることになる。……説明が足りんか?
 いや、今度はガス箱に入れなくてもいいんですかい?そう毎度毎度は要らんよ。ところで名前というと入院食は知らない魚ばかり出ますね、カペリンとか。
 給食だから安価で安定した食材を使うのだ。魚類は遠い沖から漂着するのでロッドユールとソースユール夫妻の調査が頼りだ。ポリフルとかマグミットも豊富なようだ。のり弁当に乗っている白身魚のフライの類だな。デパケンやリーマスというのも出ました、たぶん鮭と鱒のバッタものでしょう。ゼチールは煮魚で出てくるからサバの仲間の青背だろうな。パキシルとは飛び魚の一種かな?飛び魚はうまいからな。デパスは?深海魚だな、きっと実物見たら食欲が失せるぞ。
 ところで谷の議事堂の門の碑文は、
・この民にしてこの政府あり
 そして谷の病院の門の碑文は、
・ここをくぐりし者すべての希望を捨てよ
 でした。


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 フローレンはすぐにこの店のトイレは廊下に出ると見当をつけたので、適当に無難なカクテルを頼み、飲み干したらスノークにちょっちトイレ、と席を立つつもりでした。兄はうむフローレン、だがそのちょっちはやめろ、と言うでしょう。ですが彼女の誤算は適当なカクテルにするべきではなかった、考えるべきだったということでした。
 一回戦。私はロックでいいか、フローレンは?カルーアミルクをお願いするわ。スノークの前には岩、フローレンの前には牛乳瓶が恭しく置かれました。お前のは一応飲み物だな、私のは料理ですらないぞ。
 二回戦。スノーク=ジンライム、フローレン=モスコミュール。スノークには割り箸の手足つきライム……送り盆か、それともバルカン300!か?人ライムってことでしょ、とカクテルを飲むフローレン。これは、と彼女は愕然としましたがおいしそうに飲み、お兄さまお気の毒に、生のライムをかじっても味気ないのではなくて?上等だ!ですがフローレンのカクテルもカクテルではなく、たぶんただの黒酢でした。
 三回戦。スノーク→ホットドッグ、フローレン→ダイキリ。お兄さまヤケになっていません?お前もだ!あら、私のは少なくともこれまでずっと飲み物よ。やがてスノークにはホットドッグとマスタードとケチャップが、フローレンには大根の輪切りが運ばれてきました。彼女はウェイターに、これを串が刺さる程度に海水で煮込んで十分大根が煮えたら大根は捨て、海水の方を容器の外から氷で冷やしてムーミンママに差し上げてちょうだい、と指示しました。これは未来の姑へのフィアンセからの宣戦布告です。
 四回戦。ペリエだ、とスノーク。お兄さま自信おありのご様子ね。お前のいんちきお上品語の方がよっぽど自信おありだ。ウェイターが来ました。フローレンはギムレットを頼みました。食前酒はここまでね、そのかわりちょっち強めにしたわ。フローレン、とスノーク、そのちょっちはどうにかならんか。
 ウェイターが来ました。もう期待せんぞ、とスノークは素早く皿の蓋を取り、これをどうしろというのだ、しかも生きているではないか、自分で絞めろというのか?お持ち帰りなさいますか?いい、下げてくれ。
・ペリカン「かぁ」
 そしてフローレン・F・スノークは麦粒入りオムレツを無言で食べ終え、トイレに立ちました。これからフローレン・スノークNと交替するのです。


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 トゥーティッキさんと魔女モラン、フィリフヨンカはもともと親しいわけでもなければ、これから親しくなろうという気もなかったので、なるべくならばそれがきっかけで親しくせざるを得ないような係わりが起きないように、つとめて用心深くしていました。ひとの好いトゥーティッキさんは冷たいモランが苦手でしたし、モランは万事に神経質なフィリフヨンカが薄気味悪く、そのフィリフヨンカはトゥーティッキさんに劣等感を感じていたたまれない気持でした。
 この三人の婦人の共通点を上げる前に、肝に銘じておきたいことがあります。たとえば鳥葬されると鷲はまず肝から食いつくといわれており、ひと口味見して肝のまずい遺体は、
・けっ!
 と崖から蹴落してしまうのです。そうなると故人の尊厳はともかく、鳥葬ならば正規の葬送ですが、崖の下に遺体が転がっていたら遺棄、しかも損壊の跡もあるので、実行犯は鷲ですが鷲に責任は問えませんから結局は遺族の責任になり、もとをただせば故人の不徳のいたす所存です。そのように肝とはあなどると後が怖い臓器なのでした。
 そこで銘じておくべきは悪人であっても人には違いなく、悪習であっても習慣には違いないなら、その論法を通せば規則正しい習慣は良いことなので、悪習ですら善行になり得る、ということでした。おお。
 婉曲話法はここまでです。トゥーティッキさんと魔女モラン、フィリフヨンカの三人の共通点は三人とも元魔法少女でした。なんと!女性の年齢を話題にするのは女性の前でははしたないことで、いわゆる男便所の会話でしか普通はしないものですが、この際それは棚に上げていつまでが魔法少女かというと誰もが納得できる線引きはなかなか難しそうですが、一応の結論としては、
・魔法少女←変身または魔法発動アイテムが必要
・魔女←存在しているだけですでに魔力を持つ
という違いがあるのではないか。これで年齢の問題は変身または魔法発動アイテムは少女で通用する年齢層でないと使用適性がない、と解釈すれば説明に一貫性を通せます。
 ではすべての魔女は甲羅を経た元魔法少女なのか、魔法少女はすべからず魔女へと成長するものか、というとこれにはやはり無理があり、各自の特性というものがあるでしょう。なにしろモラン以外の二人は誰にも魔女とは見えないほどなのです。その実、この三人の魔力は十分拮抗しておりました。


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 ウェイターは突然マイクを持って現れました。服装も燕尾服に着替えています。それではみなさま、とウェイターは壁に向って体を斜めにし、当店がお送りする歌姫の舞台をお楽しみください。
 しまった、音楽料金を取られる店かもしれんぞ、とムーミンパパ。食事だけなら踏み倒す自信がある、トロールが飯など食うか!で済むが歌となると聴かなかった、では済まされんぞ。
壁が左右に開くと舞台が現れ、そこに妙齢の乙女がライトを浴びて立っていました。あの人が歌姫、とミムラの胸はときめきました。そして歌姫は歌い始めました。

 サッちゃんはね
 サチコって いうんだ
 ほんとはね
 だけど ちっちゃいから
 じぶんのこと
 サッちゃんて よぶんだよ
 おかしいな サッちゃん

 聴いていたみんなの心が暖まっていく気持になりました……トスフランとビフスランを除けば。この夫婦はおたがいしか眼中にないのです。ですがはっきり逆鱗に触れられた気分になったのはミイでした。なによ、私は自分のことミイちゃんなんて呼ばないわよ。そんな思いも知らず、歌姫は続けます。

 サッちゃんはね
 バナナが だいすき
 ほんとだよ
 だけど ちっちゃいから
 バナナを半分しか
 たべられないの
 かわいそうね サッちゃん

 ああ、入院で出てきましたよ、とスノーク。変った魚でしてね、生で食べられますが皮を手で剥いて、身は均一で甘味があるんです。だったらそれは魚卵の房なのではないかね?ああ、なるほど、納得しました。
トゥーティッキさんは貧しかった少女時代を思い出していました。家族四人で缶詰め一個がごちそうでしたからバナナは皮まで焼いて食べたもので、彼女を魔女にしたのも食への怨念でした。そして歌は最終連に入りました。

 サッちゃんがね
 遠くへ いっちゃうって
 ほんとかな
 だけど ちっちゃいから
 ぼくのこと
 忘れてしまうだろ
 さびしいな サッちゃん

 上品な拍手と少々卑猥な掛け声が店内に響きました。わかんないや、と偽ムーミン、友だちでもないのに?ムーミン、サッちゃんは天国へ行ったのだ。きっと闘病生活だったのだな。
 ブラボーお嬢さん、とムーミンパパは立って拍手しました。お名前を教えてくれないかね。
 チュチュアンヌです、と魔法少女は言いました。歌い料一億万円ローンも可。
 第七章完。


(初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)
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