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偽ムーミン谷のレストラン[集成版(21)-(40)]

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(21)
 第三章。登場人物・承前。ムーミン。ムーミンパパ。ムーミンママ。…以上核家族。スノーク。フローレン。…以上兄妹。ヘムレンさん・ジャコウネズミ博士。…以上学者仲間。トフスランとビフスラン夫婦。…以上双生児夫婦。ヘムル署長。スティンキー。…以上警官と泥棒。ミムラ。ミイ。その他計35人。…以上多産系兄弟姉妹。スナフキン。…単独孤行者。ニョロニョロ。…群棲担子菌類。偽ムーミン。…影武者。図書館司書。…その情婦。ムーミン谷レストラン給仕。…ムーミン谷レストラン給仕。その他ここにいない全員。
 舞台・表題参照。
 時・夕食時。
*
 そうか、ようやくわかってきたぞ。正しくはこれから起こることは依然としてわからないが、これまでわれわれがやってきたことの結果がついに現前したことだけはわかった。
 どういうことですか?私にはおっしゃっていること自体がよく飲み込めませんが……私の理解力不足としてもあまりに唐突すぎるように感じますし……
 賛同の小さな拍手、ほぼ全員より。ただし今ここにいない全員を除く。
 少数派の意見だからこそ尊重するのが偽善的民主主義というものだよ。そしてわれわれから偽善を取り去ったら何が残るね?
 また興味深い見解が出た。何が残るんです?
これは逆説だよ。われわれとは特定のわれわれではなく、いわば存在そのものを指す。さて、この任意の存在から偽善を取り去るとして、偽善の排除は善の絶対的存在を保証するだろうか?つまりわれわれは先験的に善を備えた存在と言えるだろうか?
 ええと、確か有名な詩の文句があります。ムーミン谷立中学、いや高校でも教えているやつです。
 きみはその高校、または中学を出たのかね?
 もちろん出ましたよ、入りましたから。あそこは住民登録さえしていれば出入り自由ですから、ムーミン谷の住人で出たことのない者はいないはずです……もちろん入るのが先ですが。
 なるほど。……ではその詩とは、真実と善と美は等しいと古代の発掘品の古甕から啓示されたとか、そんな詩だろうな。やはりそうか。何で知っているかって、私もムーミン谷に住民登録しているからさ。ならば訊くが、われわれは古甕のように真実と善と美の一致を体現した存在かね?
 それを言えば性悪説になるしかないでしょう?
 ところがそうもならないのだ、われわれトロールは人格を持たないからな。
 わお。

(22)
 誰だ私を呼ぶのは?
 ……ほーらおいでなさった、大体こうなることは予想していたのだ。こうなれば誰かが名乗り出ないと収拾がつかなくなるぞ。
 いったいどういう事態なんですか?ご存じならわれわれにもわかるように説明してくださいよ。
 誰だ私を呼ぶのは?
 それもいいが、誇張ではなく死ぬ時に冗談を言う馬鹿はいるかね。せいぜい言えるのは部屋が暗いぞとか馬鹿馬鹿しいとか糸瓜の水が飲みたいなとか女房の顔がハゼみたいだくらいのことだ。
 誰かが死ぬんですか?
 それは(死)の解釈にもよるな。きみは生まれてきた時の記憶はあるか?
 私はありませんが、そういう話も少しは聞いたことがありますよ。あ、何かカマかけてませんか?
 私はその気はないぞ、失敬な。だがきみはそう見えてなかなかカンが良い。棒を二本か分銅を下げて歩けば温泉が掘れるぞ。ムーミン谷は銭湯はソープランドしかないから高くつくしな。女房をソープに働きに出さねばソープに行けぬのは不合理だが、とすれば他人の女房と合法的に姦れるというムーミン谷の秩序も崩れるな?きみは秩序と欲望ならどちらが大事だ?
 そんなことよりつまりこの状況を……
(状況)
・食卓で停止しているムーミン一家
・その他全員、円形のレストランの壁際に避難
・レストラン中央に浮遊する怨霊(等身大)
・怨霊「誰だ私を呼ぶのは?」
 話を戻そう、誕生の記憶と同様に死の記憶も稀にはある現象だとすれば、誕生も死も始まりや終りではなく一種の状態の推移と考えられる。これをもって状況説明はQ.E.D.としたい。 つまりこの事態を異変ではなく状態の推移とおっしゃりたいのですか?
・沈黙する怨霊
 まぁああいう物体が出現した以上そうとしか解釈しようがなかろう。様子から察するにあやつ、誰かに召喚されたと思い込んでいるようだ。
 さっきの質問に答えます、私は欲望より秩序が大事だと思います。
 ほう、だったらきみがハーイ私が呼びましたと立候補したまえ。そうすればいちばん手っ取り早いぞ。
 私は祖国のためにしか死にません!
・音楽。シベリウス『フィンランディア』
・怨霊、音楽の高まりとともにかき消える
 おや!きみの冗談も大したものだな。まさか軍歌で退散する怨霊とは思わなかったよ。 
 私もアレが流れるとは思いませんでした。
 無知の勝利かね。
 食事再開。

(23)
 ではわれわれも注文を決めなければな、とスノークは言いました。なに急ぐ必要はあるまい。どうせ大半の連中はメニューを読めさえしないのだから、当てずっぽうにカブラのドンドコ煮とかトンビのパッパラ揚げなどを頼むに違いない。あれば幸い、なければ自業自得さはっはっは。
 私もお兄さまに決めてもらうわ、とフローレン。だってメニューが読めないんだもの。もっと若い娘にもわかるように写真とか載せてくれないかしら。
 フローレン、お前も誇り高きスノーク族なのだから、メニューが読めないなどと無防備に洩らすなどはしたないぞ。
 ではお兄さま教えてくださらない?このメニューの中にユッケジャンクッパはあるかしら?ブリの照り焼き丼でもいいわ。
 フローレン、ここはレストランなのだぞ、お前が修学旅行で行ったという北の家族ではないのだぞ。それに私だってこんなメニューは読めん。どこの外国語だ?架空の南米植民地語か?
 お兄さまに読めないなら私お手上げだわ。
 お手上げ。
・両手を上げる兄妹
 だからといって学識ある博士たちや無いものも出させるムーミン一家に訊くのはスノーク族の名折れだからな。私の名前が折れたらス・ノークスでス・ノーマンより間抜けだ。お前ならフ・ローレンでまだましだがな。これがお前がノンノンだったら滑稽極まりないぞ。
 昔の話は止めて、と旧名ノンノンはぴしゃりと言いました。というのはそれは彼女が売り飛ばされていた頃の源氏名で、彼女は従順かつ卑屈に強制労働に従事しましたが結局両親は遊廓の食材にされてしまったからです。当時留学中の大学生だった兄はまんまと家督を継いだので二年間で総額七万五千フランを使い果しました。
そういう事情でフローレンは内心兄を憎悪していましたが、ムーミン族同様スノーク族も男尊女卑の長子相続制ですので、幸いムーミンとの政略結婚もムーミン谷では暗黙の了解、兄への復讐は機が熟してからでも遅くはありません。ムーミン族もスノーク族も、男は見た目通りのうすのろですが女は心底腹黒いのです。おお怖わ。
 だからさ、とスノークは妹をつゆ疑いもせず言いました。谷の連中がなにを頼むか、その様子を見て参考にしようじゃないか。私もこんな本を持ってきた、と取り出した本は、
・ムーミン谷レストランの歴史
 ……どうしたんですかそんな本、万引き?

(24)
 万引き?失礼な。私が万引きするのは食料品だけ、しかも廉価な缶詰類だけということくらいお前も承知だろう?だいたい万引きなど問題にするのは本当の貧乏を知らぬ証拠だぞ(せせら笑う)。
 (殺意を抑えながら)そうかしら、私は本当の貧乏は知らないものだから。
 では教えよう(尊大に)真の貧乏とは、例えばこういうことだ。七万五千フランの遺産を相続してウンコにハエがたかるようにちやほやれ、気づくと預金は小銭程度しかない。友人にも女にも去られ禁治産者となり、後見人の承諾がないと何もできない。
 自業自得ですわね。
 そうだ、だがそこで初めて開けてくる世間の実相というものがある。それは金持ちと貧乏人とは違う、ということだ。つまり七万五千フランあった時の私は金持ちだった。だが使い果してしまった私はただの貧乏人なのだ。わかるか?
・馬鹿は金持ちでも貧乏でも馬鹿
 とフローレンは思いましたが、親の遺産についてはフローレンは知らないことになっています。ですのでわざととぼけて、お兄さまがそういう目にあいましたの?と訊きました。
 ん?もちろんこれはたとえばの話だ。聞けば父上と母上が市場で食肉にされていた時、お前はいかがわしい店で働いておったというではないかノンノン。
 昔の名前は止めて。
・気まずい沈黙
 お兄さま、その本について教えてくださらない?お持ちになったのは、なにか役に立つ本なのでしょう?
 おおそうだ、肝心なのはその話題だったな。これはムーミン谷図書館から拝借してきたのだ。もちろん正規の手続きをして借りたぞ。あそこの図書館司書は呼ばねば貸し出しカウンターに出てこぬが、いつ行ってもセックスの最中しぶしぶ出てきました、という様子をしておるな。
・ビクッとする偽ムーミン(アホ毛が立つ)
・変装(外出時の習慣)した図書館司書、コルトを握りしめる
 フローレンは聞き流して、お兄さまはもうお読みになりました?
 そこなのだ、この本にはまず前書きがあって愛と平和とか書いてあるようだがそれはいい。本文の始まりは、
・天正二年
 とある。それから白紙が続いて巻末近くに、
・昔
 とあり、そして最後のページに、
・現在
 と、どれも見出ししか書いていないのだ。
 どういうことかしら。
 私も考えたさ、そして思いついた。この本は知らないことは読めないのだ。

(25)
 そろそろ注文を決めねばな……だがこうしてムーミン谷の住民が一堂に会すると、とジャコウネズミ博士は言いました。われわれも今やすっかり谷の古老という感慨がひしひしと寄せてくるな、そう思わんかねヘムレンさん?
 少々の留保をつければね、とヘムレンさん。まず、われわれもムーミン谷の住民なのだから、われわれを欠いたムーミン谷一堂という表現はあり得ない。もしわれわれを抜きにしたムーミン谷一堂であれば、隠棲したヘムル署長の父君などはわれわれよりは年少だが古老の資格はあるだろう。さらにわれわれトロールは生物学的には加齢というのは恣意的な現象だから、きみも私も竹馬の友だった頃にもスナフキンはスナフキンではなかったか?
 彼は例外だよ。あれはモーヌの大将や風の又三郎みたいなものだ。スナフキンについてはきみとも超トロールということで議論は一致したではないか。
 では例のモノはどうかね、あれなどわれわれトロールの次元にあるとは考えるだに苦痛だが、残飯でも食料には違いないように劣等トロールと認めないではならないではないか。
 仕方ないさ、われわれは学者だからな。
・例のモノ=ニョロニョロ(不潔で卑しい存在で、公衆の面前で話題にするのは下品で悪趣味とされる)
 ……だがアレを劣等トロールとすると、まずあれは個体が群生しているのか、群そのものがひとつの個体なのかもわからん。またアレはしきりに生えたり消えたりするが、果してそれは同じモノなのか?
 きみもこだわるな、アレは意志はないが習性はある、つまり湿って不潔な場所を好むだけで、それは意志ではなかろう?きみが問題にしたいのもそこだろ、人格なきものがトロールなら意志なく習性あるのみのアレは劣等どころか純粋トロールなのではないか。
 ……。
 きみだって素朴な進化論者ではあるまい。猿から類人猿が進化したのではない。猿と類人猿のとげた進化は別々のものだ。まあ猿のことはどうでもいいが、仮に問題のアレが現存するもっとも素朴なトロールだとして、われわれの起源がアレとは限らんぞ。
 ならば、なぜ、アレが、存在する?
そう熱くなりなさんな、それを言えばわれわれだって存在の根拠はないさ。案外アレは戒めの象徴かもしれんぞ。さあ、飲み物でも決めよう。
 オチは無しか?
 会話も終ってないさ。さあ飲み物を頼もう。

(26)
 みなさんチラホラ注文を決め始めたみたいですぜ、とスティンキー。あっしらも食事の前の一杯くらい決めましょうや。レストランって名乗るなら景気づけの酒くらいあるでしょう?
 それもいいが、私はまだ勤務中なんでね、とヘムル署長。早く勤務が明ければいいのだが、なにせこれだ、とヘムル署長は左腕を上げました。釣られてスティンキーの右腕も上がります。スティンキーはへつら笑いを浮かべました。
 ねぇ署長、せっかくのめでたい会食ですぜ。この際野暮は止めにして、警官と泥棒である前にムーミン谷の住民どうしとして愉快にやりませんかね?
 私だってそうしたいさ、きみにはムーミン谷警察署は財政面でも支えてもらっている恩義がある。きみの組織はムーミン谷の就職難を解消し、盗難活動によって谷の景気を活性化させる重要な経済機関でもある。だからきみの配下のコソ泥たちは自由に泳がせてあるではないか。
 署長の話はあっしみたいな学のない野郎には何が何やらですわ。だってムーミン谷の法とはヘムル署長次第なんでしょう?だったら今夜の勤務終了も、この手錠を外すのも署長次第じゃないですか?
・苦悩するヘムル署長
 ところがそう簡単にはいかんのだ。私の話が回りくどいのは申しわけない、なにしろヘムル族はヘムレン族と本家分家なのでね。
 はあ、それは存じています…でもなぜ手錠を?
 きみと手錠で仲良しこよしになるのは年がら年中のことだが、恩赦する時には部下に手錠の鍵を取りに行かせているだろ?
 ええ、電子ロックのカードキーでしたな。
 あれ以外の方法で無理矢理手錠を外すと、手錠から信号が発信されるのだ。
 なんの信号です?
 ムーミン谷中央広場地下のN2地雷起爆スイッチ。
 署長、冗談は死ぬ時だけにしてくださいよ!
 冗談ではないのだ。だからいくら私が法でも、この手錠を外さなければ勤務は終らないのだ。おたがい運が悪かったな。だが取り調べ中でも食事はできる。カツ丼にするかい?
 もっと縁起のいいものにしますよ。逃げ足の速くなりそうなやつ。
 じゃ私はダイエット中だからカロリー控え目で行く。ウェイター、頼む。ホッピー二杯、味噌汁とライスも二つ、私はカブラのズンドコ煮。きみは?
 トンビのパッパラ揚げにします。……ところで手錠のカードキーはどこに?
聞いても無駄だよ、ムーミンママのハンドバッグの中さ。

(27)
 (喧騒)んにゃむにゃくにゃへにゃほにゃふにゃはにゃわにゃぺちゃくちゃわちゃはちゃわらわらわら……
・シャラップ!
 とミムラ姉さんがテーブルを一打しました。全員いちどにしゃべるんじゃないの!うちは35人もいるんだから、あんたたちだって自分がなにを言っているかわからないでしょ?
 だってミムラ姉さん…
 そこ!発言する時はちゃんと番号を名乗る!
 弟14号です、名前は…
 名前を聞いても意味ないから番号だけでよろしい!で弟14号、発言は却下。
 なんでです、まだ何も言ってませんよ!
 真っ先に発言しようとしたから却下!だいたい35人もいると最初の意見に付和雷同するのがいちばん簡単だからね。だから最初の意見は潰しておく!
 そんなのって!
 (付和雷同)ほにゃふにゃはにゃわにゃぺちゃくちゃ……
・ぐぎゃん!
 と弟14号の頭部がテーブル板にめり込みました。まるで超常現象のようですが、実際はミムラ姉さんが素早く不肖の弟の背後に回って張り倒し、素早く自分の席へと戻っただけです。ミムラ自身は格別並外れた身体能力を持っていませんが、35人兄妹の総領ともなると相対的には他を制圧する能力もあるもので、ときおり発動させるこの力にミムラ族の兄弟姉妹は震え上がりました。つまり彼らにとってミムラ姉さんは、
・サイコキネシス
 所有者であり、
・サイコメトラー
 と、
・テレポーター
 の能力も兼ね備えているかのように見えるのです。しかし欺かれる観客なしには魔術は魔術でないように、彼女の能力もいわばミムラ空間あってこそで、その空間とは総勢35人のミムラ族の兄弟姉妹たちでした。それに気づいているのは、ミムラ本人以外には、ミムラ族中もっとも矮小な体躯から単にミーと蔑称されている、ひがみっぽくキーキーうるさい妹だけで、兄妹たちの中でも例外的存在ゆえにミーだけはミムラ空間にありながらも姉の幻術にはかからなかったのです。兄妹たちがわらわらぺちゃくちゃやっていても、ミーの金切り声は決して喧騒に調和しないのでした。
 家庭では孤立しているために社会では外向的という性格はよくあるものです。ミーもそうでした。
 あたし、他のテーブルに行こうかな、とミー。
 ミー、とミムラはうろたえました。あなたも私たちの兄妹なのよ。このひと言がミーを増長させました。

(28)
 ムーミン谷のなかでもとりわけ謙虚な存在といえば、誰もが思い出せないほど影の薄い双子夫婦のトフスランとビフスランでした。双子夫婦とは比喩表現ではなく、実際に双子であり夫婦なのです。
 夫婦というからには一方が雄の特性、一方が雌の特性を備えるはずですが、それは一般のトロールが生物学的に残した痕跡というべきで、トフスランとビフスランの夫婦を見る限りどちらが夫でどちらが妻かもわからない。これは遺伝子交換による繁殖を種族の形態とした雌雄同体で生物学的には低次ですが、トロールとしてはより高次の発達をとげたとも考えられるので、トフスランとビフスランの双子夫婦は近親婚とは見倣されず、ムーミン谷の人びともこの夫婦の存在は黙殺しておりました。
 そこで彼らはいちばんひっそりとした席で、読めないメニューを広げながら単純に注文を決めました。
・単純な注文
コース料理にしてもらえば食前酒とメインディッシュだけ決めればいいよね、と双子は以心伝心にウェイターを呼ぶと白ワインと海老フライ、赤ワインとハンバーグを頼みます。
 スープはお選びになれますが、それとサラダのドレッシングも、とウェイター。ライスとブレッドもご指定ください。食後のお飲物も各種ございます。
 受け承りました、では繰り返します、とウェイター。白ワインと赤ワインがお一つ、海老フライとハンバーグがお一つ、ブレッドとライスがお一つ、(中略)食後にアイスミルクティーとアイスコーヒーがお一つ、以上でご注文は……
 違うな、と夫婦は顔を見合せ、白ワインと海老フライ一つ、赤ワインとハンバーグ一つ。コンソメスープとフレンチドレッシングのサラダが一つ、(中略)食後はアイスミルクティーが一つとアイスコーヒーが一つ。
 はあ、では、とウェイターは機械的に反復し、数回目でようやく納得のいく注文を取りつけました。もちろん注文自体は同じで順序が違うだけです。単純なだけに融通がきかないのもこの夫婦で、双子となればなおさらのことでした。

(29)
 スナフキンが着いたのは、夜も更けてからのことでした。谷は深い雪の中に横たわっていました。谷の両側にそびえるはずの山はまったく見えず、霧と夜の闇に包まれていました。街の中心地を示すかすかな灯りさえなく、スナフキンは長いあいだ国道から谷に通じる木の橋の上に立ちすくみ、ぼーっとなにもない空間を見上げていました。
 やがてスナフキンは泊まる場所をさがしに出かけました。宿屋はまだ開いていました。空いた部屋はありませんでしたが、宿屋の主人は突然の深夜の客に驚き、面食らって、酒場の床でよければゴザでも敷いて寝かせてあげよう、と申し出ました。それで結構、とスナフキン。農夫が数人まだビールを飲んでいましたが、スナフキンは誰とも口をきく気がしないので、屋根裏部屋から自分でゴザを下ろしてきて、ストーヴの近くに横になりました。暖かいな、とスナフキンは思いました。農夫たちは静かでした。スナフキンは疲れた目でしばらく彼らの様子をうかがっていましたが、やがて眠り込みました。
 ところが、うとうとしたかと思うとすぐにまた起されました。都会的な服装で、俳優にでも向きそうな顔立ちの、目の細い、眉の濃い若い男が、宿屋の主人と並んでスナフキンのすぐそばに立っていました。農夫たちもまだ店にいて、椅子をこちらに向け、成り行きを見守っている様子です。
 若い男はスナフキンを起したことを丁重にわびて、領主の執事の息子だと自己紹介したのち、告げました。この宿は、谷の領土です。ここに住む者や宿泊する者はすでに谷の中に住むか、または泊まるも同然です。それには公的入谷許可証が必ず要ります。ですがあなたは、その許可証をお持ちでない。というのが失礼になるなら、その許可証をご提示にならない。
 スナフキンは上半身を起こし、帽子をかぶり直すと、若い男と宿屋の主人を見上げて、どういうことでしょうか、と訊きました。
 申し上げた通りです、と簡潔に、若い男。
 それで、宿泊の許可が要るというのですか?とスナフキンは先ほどからのやり取りが夢ではないかと確かめるように言いました。
 そうです、この谷では、と若い男。そして、宿屋の主人や農夫に向かってあからさまにスナフキンを嘲る仕草をしました。
 この宿も谷だとおっしゃのですか?
 若い男はゆっくりと、もちろんです、と答えました。ここはムーミン谷という谷です。

(30)
・ムーミン谷の二人の長老賢者の対話
(ヘムレンさん)
 この谷の法律は誰もが知ることはできない。それはわれわれを支配する少数の議会の秘密で、それらが確実に守られているのは疑えない。とは言え知りもしない法律に支配されているのは何ともいえない苦しみだ。この谷の法律は実に古いので、その解釈には数世紀の歳月が捧げられ、解釈自体がすでに法律とも言える。議会が法律の解釈に当って個人的な利害からわれわれに不利益をもたらすいわれはない。法律はそもそもの始めから議会のために定められたもので、議会は法律の外にいる。だからこそ法律はもっぱら議会の手中に委ねられているのだ。
(ジャコウネズミ博士)
 言うまでもなく法律の中には知恵が含まれている--誰が古い法律の知恵を疑うだろう。だがそこにはわれわれの苦しみもある。これは法律の性質上避けがたいことかもしれない。
(ヘムレンさん)
 ……ともあれ、これらの法律らしきものは実は単に仮装かもしれない。法律が存在し、議会だけの秘密として委ねられているのは伝統だが、古い伝統、古いが故にもっともらしい伝統以上ではなく、また、そうであるはずもない。それはこの法律が秘密を条件にしていることからもわかる。
(ジャコウネズミ博士)
 けれどもわれわれが祖先の代まで遡り、議会の歴史と共に十分に研究して過去と未来に備えようとすれば、この場合、法律の全ては不確かとなり、おそらく理性の遊びに過ぎなくなるだろう。だがわれわれがここで検討するこれらの法律など存在しないかもしれないのだ。本当にこうした見解をとる小さな政党がある。この政党は、もしある法律が存立するとすれば、それは議会の行うことが法律なのだ、と証明しようとし、民衆の伝統を拒否する。実を言えば、この間の事情は次のような逆説でのみ表現できるのだ。
・法律への信仰と共に議会をも排斥するような政党があれば、たちまちに全国民の支持を獲得できる。だが議会を排斥する勇気は誰も持ちあわせていないのだから、そのような政党は発生し得ない
(ヘムレンさん)
 その刃の上に私たちは生活している。ある作家はこれを総括して言っている。
・われわれの上に課せられている唯一であり、目に見える、疑う余地のない法律は議会である。われわれはわれわれの持つこの唯一の法律を失おうとしてはいけないのだろうか?
 第三章完。

(31)
 第四章。
 実は私も同じ疑問を持っていたのだ、とムーミンパパは言いました。それがいつからのことかは憶えていないが、他人と話題にしたこともある。だが確証をつかんだのは一度もないのだ、とムーミンパパは頭をかかえました。しかしこれではあまりに話が飛ぶので、もう少しこれまでの会話をさかのぼってみましょう。
・五分前
 食事マナーの悪さを始め、日頃の礼儀作法までムーミンママと偽ムーミンに責められるに及んでは、ムーミンパパも開き直る手に出たのです。ふーん私はどうせ教養ないし、フィンランド政府のムーミン特別手当だけが収入の宿六さ。一応学校に通いはしたが、施設育ちだから義務教育からは逃げられなかっただけだ。
そういうものなの?
 ムーミン、パパの言うことは昔の話よ、とムーミンママが即座につくろいます。今は勉強も遊びもどちらも大事なの。パパだってああ見えてそれほど馬鹿じゃないのよ。
 馬鹿だと?どさくさ紛れとはいえ自分の亭主を馬鹿とはなんだ!
 と、こうしてつらねていくとムーミンママの暴言もいかにも唐突なので、もう少し会話をさかのぼってみた方がいいでしょう。
・10分前
 ところでムーミン、学校の成績がこの頃思わしくないそうじゃないか?とムーミンパパは嬉しそうに言いました。学校は楽しくないのかい?
 そんなことを言われても偽ムーミンは悪戯を目的にしか学校になど行ったことがなく、表向きにはムーミンとして入れ替っているだけですから、自分はともかく学校がムーミンにとって楽しいかはわかりません。偽ムーミンにはフローレンといいなずけ同士など虫酸が走るので極力冷淡な態度で接していましたが、冷淡にすればするほど馴れ馴れしくしてくるのがフローレンでした。しかも多少はムーミンのため、というよりムーミンらしさを装うために友好的な態度をとろうとすると、今度はフローレンの方が(偽)ムーミンなど眼中にない様子。若い女にはよくあることよ、と情婦には笑って済まされても、偽ムーミンがムーミンになりすます唯一の不愉快はフローレンでした。
 返事がないのでムーミンパパはムーミンママに話を向けました。われわれの小さい頃も学校の教師よりスナフキンが先生だったようなものだな。ということは、スナフキンはいつからこの谷にいるのか?本人ですら知らないのではないか?

(32)
 最初、人びとはスナフキンの存在に気がつきませんでした。あるいは、気がつかないふりをしていました。気づくとはすなわちその存在を認めることであり、認めてしまえばそれは間違いだ、認識の違いだと言ってもあとの祭りです。
 ですが認識の違いにも種類はあり、たとえばカップルの一方が関係に倦怠を感じて商売女、あるいはホストに入れ上げた場合、
・この浮気者!
 と責めるのと、
・本気じゃないからm*_m
と詫びるのは同一事件をめぐる混乱ですが、
・解釈の相違!
 と追い打ちをかけるのはどちらにも可能で、ならば両者は修辞上意見の一致をみたはずです。でも実際はそれで治まる男女関係とは現実ではごく稀で、針の穴からラクダを覗いて、
・針の穴からラクダが通るぞ!
 と主張するようなものですが、ムーミン谷には現在ラクダはいないのです。一応現在と断るのは、ムーミン谷はどうやら極度に高度な発達をとげた文明の跡地に拓けた谷らしく、過去の文明の痕跡もまた現代のムーミン谷に属するとすればラクダがいなかった、とは断言できない。ただし現在はラクダはいない、ラクダに類似したトロールもいないというわけです。
 いないものを例にあげていいのなら、クジラの場合はどうなるでしょう?ラクダを覗くにも六畳一間の対角線くらいの距離はとらねばなりませんが、この際だからモビー・ディックくらいはでかいクジラを想定したいと思います。白鯨というくらいですからシロナガスクジラを指すとして、シロナガスクジラは絶滅種の恐竜などを含めても、地球上最大の体長を誇る生物として知られています。観測された最大の個体は34メートルの体長に及んだそうですから、確かに陸地で生きるには不向きでしょう。
 ラクダを覗いた要領でクジラ、それもシロナガスクジラを針の穴から覗くとなると、普通に両眼の視野に収めるにも相当の距離をとらなければなりません。ですがムーミン谷とはどのくらいの幅と長さを持つ地勢なのか、これまで多くの試みが素人によってなされましたが、全長ボート大から長野県大までさまざま、まちまちでした。市民プール大ではシロナガスクジラ自体が入らず、ムーミン谷以外の場所で試みてもそれはムーミン谷の真実にはならないのです。
 そこで測量技師が呼ばれました。名前はスナフキン、ですがスナフキンが着いた頃には、依頼は忘れられていたのです。しかもトロールの地で生きることはトロールと化すことでした。

(33)
 ホッピーで乾杯というのも間が抜けておるが仕方があるまい。しかしジョッキとはすまんな。容器自体に重みがあるから利き腕で持たんとつらかろう。
 それはあっしも気づきませんでした。でも瓶のホッピーなぞありますかね?だいたいホッピー自体、他人が飲むのを見たことはあるが自分じゃまず飲みませんですからね。
 私もだ。ひょっとしたら私はこれが記念すべき初ホッピーかもしれんぞ。
 記念するようなことかはわかりませんが、たぶんあっしもです。手下どもにどさくさ紛れに飲まされていたら別ですが。
おたがい初ホッピーか。法を表と裏から支えるわれわれがそんなケチくさいことで一致するとは、実に景気の悪い話だな。なんだか大事なものを失ったような気がしないか?
 いやあ、あっしは物盗り専門なんで、失うものは命しかないです。でも物盗りの立場としても、近ごろの景気の悪さはねえ。税率を上げて吸い上げた金も景気を上げるどころか、世間をケチにしているだけじゃないですか。
 それにはわれわれも困っていてね、なにしろ経済政策と言っても、過去には独自のシステムがあってなんとか維持してきたからこそ現在のこのコミューンもあるのだが、今やわれわれは先進国のシステムを模倣するしかなく、その先進国さえもことごとく破綻をきたしておる。ではわれわれが自給自足だった頃のシステムを取り戻せるかといえば、後戻りはとうてい無理なほどコミューンの性格は変質している。だからきみたちプロの知恵を借りたいわけだ。
 そうですねえ、これも先進国の手口ですが、司法の活気のために犯罪の再生産を促進する手がありますね。まず刑期を短くして再犯率を高めます。
 いいな、それから?
 禁止条例を増やし、一般市民を手頃な程度の軽犯罪者にして検挙数を上げます。密売品なら売人をはびこらせて売人との連携で違法物所持の現場を押さえます。ホテルの一室や路上駐車なんかがいいですな。つまりは、もっとプロを活用してくださいよ。職業犯罪者は泳がせておき市民を誘導してガンガン検挙する、その辺はまだ先進国から学ぶ余地はありますよ。
 うむ、きみもさすが裏の世界の親分だけあるな。
 たとえば今、外食禁止条例を出せばこの店の客は一網打尽ですぜ。
いや、とヘムル署長は苦笑しました。その条例は一度施行され、廃されたことがあるんだ。スティンキーくんが来る前だがな。知りたいかね?

(34)
 これはなんだろう、たぶん誰でも立ち寄っていい種類の祝賀会、おそらく立食パーティが催されているに違いない。そう確信したスナフキンは、中からにぎやかな人声が聞えてくる建物の開け放したドアから玄関をくぐりました。最後の食事にありついたのはいつのことだったか、もう思い出せません。
 食事をとらない生き物は徐々に衰弱していきますが、食事をとらないトロールはさまざまな変化をきたします。これには種族差もあれば個体差もあって一律には言えませんが、トロールにとって食事はエネルギー代謝のために必要なのではなく、いわば個体という概念の維持のために必要な行為なので、フィジカルまたはヴァイタル的な衰弱ではなく概念的衰弱、即ち、
・形態が崩れる
・矮小化する
・影が薄くなる
 などの現象が起ります。ですからスナフキンの存在は尋常にはほとんど誰からも見えない状態になっていました。光線や風の、ほんのちょっとした屈折や反射がかろうじて見えないスナフキンの輪郭を映し出すことがあるきりでした。これを日本の諺では、
・柳の下に幽霊
 と言うのは当らずとも遠からずといえるでしょう。それはさておき、
 スナフキンは仕事の依頼があってこんな土地まで来たのですから、到着さえすれば当然然るべき応対を受けて宿にも食にも日用品にもありつけるものと、水筒一本携えてきませんでした。近頃の洗濯機は入浴中に洗濯から乾燥まで完了しますから、着替えも用意してありません。依頼された仕事はやや長期に渡る可能性がありましたが、住民のいる土地なら商店くらいあるでしょう。ごく少額の貨幣しか持参しなかったのは現地の通貨と換金できるか不明でしたし、契約では衣食住は保証されるはずだったのです。
 つい先ほどにはスナフキンは周囲にこの土地のあちこち、主にじめじめして薄汚れ、悪臭すら地表から漂ってくるような場所をどうも好むらしい、おそらく陸生のカツオノエボシやマヨイアイオイクラゲのような原始的群体トロールの一種ではないかと思われるそれが辺りに生えている池から、帽子で水を汲みました。濁った水面ですが周囲の木々は映ります。スナフキンは手をかざし、水面を覗いてみました。ついにおれは着衣もろとも見えなくなったのか。
 そんなわけで、スナフキンが入りこんだのがムーミン家の結婚披露宴会場だったのです。

(35)
・卑怯もの!
 とフローレンはいつもより低く、ですがレストランのすみずみまで響きわたる声で罵りました。それは普段の彼女を知るなら唖然とするような豹変ぶりで、居丈高ではないだけ冷酷に真実を突いた鋭さを感じさせました。それは決して彼女が口にしたことのない言葉でした。
 卑怯もの?なんのことか、ぼくにはちっともわからないよ、と稚拙な受け答えをしたのはムーミンです。フローレンとは対照的に、とぼけてみせるムーミンはいつものムーミンでした。きみは頭でも痛いのかな?幸いここはレストランだし、幸い隣には薬局がある。
・看板『国民薬局』
 国民薬局、非国民薬局、どうでもいいわ。いま私に必要なのは頭痛薬じゃない。でももし薬局にあれば……
 わかった、便秘薬だね。
 違うわ!あなたには女の心はわからないのよ。
 そんなことないわ!私でも女言葉くらい使えるわよ。でも彼氏がおネエしゃべりしていたらあなただってヤよね?
 お願いだから止めて……。
 で、頭痛でもない便秘でもないなら、他にはなあに?水虫かい?
 あなたにはその程度の想像力しかないのね。国民薬局で買えるもので治せないものはないと思って?
・コクミン薬局はあなどれないゾ
 あの店はね、F1のチケットと居酒屋のドリンク券でお腹の薬を譲ってくれるんだゾ。だてに国民薬局というんじゃないんだゾ。
 私も聞いたことはあるわ。でもそれは相手がブタの場合だけでしょ?
 どうしてブタの場合だけなんだい?
 そうでもしなきゃ追い払えないからよ。コマンタレブーとかホザいて座り込みでもされたら嫌でしょ?
 それならぼくはカバのふりをするよ。ゴネるカバも同じくらい嫌だろ?
 あなたの場合フリしなくてもカバでしょ?(嘲笑)
 (絶句して)きみたちスノーク族がそんなこと言えるのか!ムーミン族とスノーク族は代々の婚姻で事実上混血じゃないか。やめよう、馬鹿馬鹿しいよ。カバ似のトロールどうしがカバと罵りあってもらちがあかないよ。LOVE NOT WAR!っていうじゃないか。それより不純異性交遊でもしようよ、フローレン。
 ……それはプロポーズと受け取って良くて?
 そうさ。
・店中の客の拍手
・フラッシュのシャワー
 照明が点き、新郎新婦が舞台を降りました。スナフキンはぼーっと壁にもたれていました。そこは当時谷で唯一のレストランでした。

(36)
 せっかくの夕べなのであえて話題にはしなかったが、とヘムレンさん。アレをいわゆる黒歴史と言うのだろうな。ここまで言えばきみには通じると思うが。
 ああ、アレかね、とジャコウネズミ博士。おたがいアレには悩まされたものだ。私もムーミン谷の紀元までは精通してはいないし、文献によると1917年という解明されていない年号や、それ以前にはレーニンという伝説がどうも視察に来た様子があり、このレーニンとはどうも1917年10月にワルプルギスの夜と化したらしいが、なにしろデータ不足で因果関係がよくわからん。きみの方が詳しいんじゃないかね?
 半端なところで下駄を預けるのか(笑)とヘムレンさんは頭を振って、1917年が何を意味しているのか、要するにわれわれトロールの文化は紀元という風習を廃棄してしまったからな。いったい一年とはどこからどこまでを指すのか、一か月とはどのくらいの長さか、われわれはもう考えることを止めたのだ。ただし一日だけはどうにもならん。陽が上ってニョロニョロが生え(失礼、許してくれ)、陽が沈んでニョロニョロが消える。これだけは、ね。
 学問的な考察に礼儀作法はいらんよ。私だってそいつに言及することはあるさ。腐女子の前では特にね。
 まあジェンダーに関わる話題は避けようや。そこで話を戻すと、この店に来てふと思ったのだよ。文献によると1917年以前は帝制時代と呼ぶらしい。帝制時代……どういう意味かな?
 今後の研究課題、資料発掘を待つしかないな。で?
アレ……きみとははっきり話そう、かつてあった谷唯一のレストランは、その帝制時代の遺産だったのではないか?
 アレがか?
 そうだ。あの店は谷で唯一トロール文化に違和感をもたらす諸悪の根源だった。結局われわれムーミン谷評議会でヘムル署長に外食禁止条令を施行してもらい、店が夜逃げしてから条令を廃止した。あの時は治安維持法の適用まで検討したのは危なかったな。
 ただし廃止した以上同じ条令は二度と使えなくなったがね。危険は同じさ。
 だがあの店より危険な店があるかね?あのコックの料理は殺人的だった。カブラのズンドコ煮とかトンビのパッパラ揚げとか思い出してみたまえ。
 その頃、ウェイターは厨房に注文を伝えていました。ハーイすぐにネ、と応えた料理人こそ、そのコックカワサキだったのです。

(37)
 ここはレストランなのだということは、看板の文字が読めないスナフキンでも外装で気づきましたし(宿屋も同様)、漠然とパーティの余興に田舎芝居でもやっているんだな……と思いながらムーミンとフローレンのやり取りを客席から離れた壁にもたれて見ていましたが、それは椅子にかけていたら見えないスナフキンの膝に誰かが座るかもしれないからでした。そうすればきっと座った誰かは、スナフキンの存在を押し除けて腰をおろしてしまうでしょう。
 同じ空間を同時に別々の存在が占有することはできません。スナフキンの存在はその瞬間に消滅してしまいます。見えない、ということはそういうことか、とスナフキンはうそ寒い気持になりました。女湯を覗き放題とか、そういうことじゃないんだな。しかも、
・宿屋に女湯はなかった
 それにこの土地には通貨という概念もないのがわかった。あの若い男、執事の息子というスノークには屈辱的な扱いを受けたが、宿屋のおやじも通報義務に従ったまでだろう。要するにおれは、契約の時点で入国許可が下りたと思っていたのが早計だったのだ。
 というより、そもそも入国許可が問題となるなど事務所の誰もが思いもしなかった。ましてや通貨という概念が存在しないとなると、契約書にあった滞在中の生活の保証とは賃金の前払いという意味ではない。契約書の作成には立ち会っていないから確かなことは言えないが、おそらくこちらが用意した書式に先方が了解しただけなのだ。
 通貨がないなら賃金はどうなる?もちろん賃金の奴隷になりたい者はいない。そしてわれわれを奴隷にしているのは賃金だが、では賃金を廃止すればいいとでもいうのか?
 優秀な測量技師が欲しい、という依頼で技師会からおれが選出された。おれは優秀な測量技師なのだ。酒や女より測量が好き。だがただ働きはしない。そのための契約であるはずだ。
 ……そんなことももちろん重大だが、今はとにかく食い物をどうにかしなくては。スナフキンはこの土地にも少しはある商店を見かけて住民が買い物をする姿は見ましたが、どうやら財産を担保に掛け売りしている様子でした。おれは資産を証明できないどころか、姿すら相手に見えない!
 すると、スナフキンは店中にひどい悪臭が漂いだしたのに気づきました。料理が運ばれてきたのです。

(38)
 どこまで話したっけ?そうだ、この本についてだ。私も面食らったさ。だが私がAmazonや楽天で検索してみても、ムーミン谷レストランの歴史なんて本の出品はない。つまりムーミン谷立図書館にこれが一冊あるだけなのかもしれん。だとすれば、この本の著者は外部の好事家ではなく、われわれの谷の住民なのはほぼ確実だろう。
 お兄さまはときどき難しい言葉をお使いになるわね。外部の何ですって?
 こうずか、好事家だよ。物好きのことだ。そうかお前は自分の名前や固有名詞を少し読めるだけだったな。ろくに言葉を知らなくても仕方ない。
 これでもライトノベルくらいなら読めるのよ。
 ノベルじゃなくてノヴェルだろ?片腹痛いわ。そんなものは昔はジュヴナイルと呼んだのだ。だいたい新語とは見せかけだけ新しくして旧態依然としたものを売りつけるために捏造されるものさ。ライトノベルだの自己啓発書だのは自分の知性に自信がない者が読むものだ。そういう輩はたとえ学習しても内的必然を欠いた理論家にしかなれないばかりか、おのれの内発性の欠如を学問的態度と思い込むから話にならん。
・お前が言えた義理かよ
 ……でも知らないことは読めない、なんていう本があるのはおかしいわ。だって本は知らないことを知るためにあるものでしょう?
 そう、お前がそういうのももっともだ。確かに読者にとっては本とは知らないことを知るためのものだ。だが著者にとってはどうだろうか。読者は自分が手に取る本の筆者は書いてあることを知り尽くしている、と思って読むわけだ。ここまではいいね?
 ええ、そう思います。
 では著者にとってその本はというと、単に自分の知っていること、理解していることを読者に伝えるように噛み砕いて、または圧縮して述べたのにすぎない。すると著者にとってはそれは本としての意味を失う。なにしろ知らないことを教えてはくれないのだからな。だから……
 おそらく著者お手製の、世界に唯一のこの本は、その点で読者にとっても著者にとっても公平なのではないか。つまり筆者を含めあらゆる読者に公平であるためには、知っていることしか読めないというのが唯一の条件ではなかろうか。
 でもお兄さま、これがそういう本なら、いったいなんの役に立つの?
 そうだな、とスノークは言いました、われわれはまだレストランとはなにか知らないということがわかる。

(39)
 この店にはウェイターはいないらしく、どうやら調理師自身が料理を運んできたようでした。玉子型の胴体の頂点が頭部に当るのか、いわば玉子に目鼻と手足をつけた姿です。この土地でスナフキンは相当異形の姿形にも馴れていましたが、中でもこの調理師はデフォルメの具合が激しい部類でした。
 頚椎に当る部位がないということは、とスナフキンは理系らしく(技師ですから)思いました、後ろを向く時不便だろうな。よく幼児が背後の大人に振り向こうとしてバランスを失い激突するが、あれは首が大人のように要領よく回らないので体ごとひねるからだ、と保育士資格も持っているスナフキンは思いました。子供どころか人嫌いのスナフキンがなぜそんな資格を取ったかといえば、母国が福祉推進国家で保育・医療・介護関係の資格取得を単位に選ぶと奨学金が気前良くおりるのです。スナフキンは理系ですが人の心には関心があり、大学の一般教養で数合わせに受講した発達心理学で幼児~児童期の人格形成には興味をそそられました。医療は専門的すぎますが、保育と介護から選ぶなら、
・ガキの子守の方がマシ
 と考えたのです。スナフキンはソフトでハンサムでしたので、実習先の保育所でも子供やママさんたちにも人気、実習先の保育士や実習生にもモテモテになり、しまいには全員の女性と関係しましたが(子供以外)、それがバレなかったのもスナフキンの人徳あればこそでした。
 それにしてもこの悪臭は、とスナフキンはけげんに思いましたが、リヤカーまたは猫車のようなワゴンにずらりと並んだ皿やお椀、それらはどれも半球状の蓋がしてあり、宿屋から追い出されてから、いや実際は赴任する途上で食べたサンドイッチ以来何も食べていないスナフキンには、蓋さえ透視できるような気がしました。
 食器が異なるのは料理も異なるに違いない。あのワゴンは見かけはみすぼらしいが、おそらく調理師の側からは数段収納できるようになっていて、最上部に乗っているものだけでも20種類近くはあるようだ。
 しかし料理が着いたのに飲み物が配られている様子はない。ここの連中は乾杯もしないのか?いや、飲み物も一緒に運ばれてきたのかもしれない。すると、
・ハーイお食事ですヨー
 と調理師が口を開くやいなや、店内の空気が殺気立ちました。その声はスナフキンにすら激しい嫌悪感を催させました。
 次回第四章完。

(40)
 われわれにはついに解明できなかったが、最終的に下した判断の正当性は間違いはなかったと信じている。あれは、言うなれば一種の汚染のようなものだった。しかもわれわれはうかつにも外側からではなく、内側から蝕まれていたということに気づくのが遅かった。あまりに酷い有様だったのでわれわれは長い間、それは単にわれわれの目にする現実にすぎないと思いこんでいたのだが、それこそわれわれの自惚れや油断から来る錯覚だったのだ。われわれはあまりにお人好しすぎた。
 もちろんわれわれはおたがいを責めあう必要はない。残されているどんな記録よりもあれは古い歴史を持っていた。記録という習慣が芽生えるよりもさらに昔からあれは存在していたに違いない。またはわれわれの願望があれをいつしか呼び寄せたとも考えられる。だとすればわれわれは汚染されるのを望んでいたのだ。どのように望んでいたかが具体的なかたちであのように現れたのだとすれば、あのような脅威をわれわれが霧消させるにはまったく手を汚さないわけにはいかなかった。
・そして手を汚した
 われわれはそれを実行し、それまでさらされていた誘惑や危機から離れることができたはずだった。平安が退屈だとしても腐敗に浸るよりはいい。
 だが一度はその存在を抹消したはずの不吉、放置しておけばまたわれわれを貪欲と不満が循環する負のスパイラルへと巻き込むあの悪習が今また姿を微妙に変えてわれわれのもとに現れたとなると、これはしばらくは様子を観察しないではわれわれは意見の一致を見ないだろう。
 以前われわれは法の力を借りて危機を遠ざけることができた。それ以外のやり方でわれわれの法より先に存在していたものを排除できないから法に新たな追加をしたのだ。だが追加された条令自体が危機から逃れたわれわれにとっては違憲である、というパラドックスが生じてこの追加条令は廃止された。
 われわれのような国家形体では廃止した条令を再び施行するのは困難で、事実上不可能と言ってよい。そこに今回のような事態が生じる隙があった。だからわれわれはこれがかつてのような脅威の再来ではないことを願うしかない。われわれは学習ということを知らないから、同じ条件であれば同じ過ちをいとも簡単に反復してしまうのだ。
 ……そこでスナフキンはハッと目醒めました。ああ、この悪夢は以前にも見たことがあるぞ。
 第四章完。

(全80回完結)

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