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アンドレ・ジッド(16)その創作の特徴2

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処女作に作家のすべてがあるならば、アンドレ・ジッド(1869~1951)はかなりやばいことになります。作者本人がのちに詩的散文に分類する1891年(22歳)の『アンドレ・ワルテルの手記』と1892年の『アンドレ・ワルテルの詩』はともに匿名出版で、狂死した実在の無名詩人の遺稿集という体裁をとっていますが、手記はジッドの日記そのもの。詩集はもちろんジッドの作品ですが、詩作品と見倣されないのは故アンドレ・ワルテルの作品として読まれることを意図したからで、小説『手記』の続編をなしているからです。
実はこの手口は無名の文学青年の処女作出版にはよく使われており、ヘルマン・ヘッセ(1877~1962)も処女作は『郷愁』1904ではなく『ヘルマン・ラウシャーの遺稿と詩』1902でした。

『手記』の評判はジッドの新進文学者としての活動を切り開き、同年には『ナルシス論』、1893年(24歳)には『ユリアンの旅』『愛の試み』など、いずれも詩的散文に分類される復古主義的作品が書かれます。何を復古させたかというと19世紀も大詰めになってロマン主義を大真面目に復古させたのですが、これらの作品の好評はかえってジッドに世紀末のフランス文学界の保守主義を痛感させ、作風の極端な転換をもたらしました。それが、ほぼ同時に執筆された1895年(26歳)のソチ(風刺作品)『パリュウド』と1897年(28歳)の『地の糧』で、後者は詩的散文に分類されますが初期の内省的なものに決別して自我拡張を声高に宣言したものです。伝統破壊的な主張から後年のダダイストにもこの作品は支持されました。『地の糧』と同年の『エル・ハヂ』はジッドにとって初めて小説らしい物語性がある短編(レシ)です。

1899年(30歳)の怪作『鎖を離れたプロメテ』はそれでも作者の意識では風刺作品で、ようやくジッドが本格的な小説(レシ)を書いたのは1902年の『背徳者』で、処女作から12年、作者も33歳になっていました。次の『蕩児の帰宅』1907は聖書を題材にした小品ですから1909年の『狭き門』はようやく40歳、1914年の『法王庁の抜穴』は45歳、1919年の『田園交響楽』は50歳、1926の『贋金つかい』は57歳の作品になるのです。青年読者向けと思われがちなジッド自身は、むしろ遅咲きの作家でした。

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