「唐突に気が変るのも、一度言いだしたら頑固なのも同じくらい珍しくもないことだが、ついこの間まではぶつぶつと、みんな休め休めって言うんだな、Tjのおやじも親分もSmちゃんも佐伯くんも、とこぼしていたが、ようやく疲れを認める気になったようだ。彼は自任するように理系も理系、工学博士だから人文系の知識に乏しくても支障はないが、彼いわく『最新の研究成果へのこだわり』があって、親分ことMさんにやっぱりフロイトとユングが基本だろ、と教わり、基本も知らずに最新の研究成果の理解は無理なのは文化全般に通じる常識だろうが、Smくんのお義父さんの心理学教授によるとフロイトとユングはもう古いと聞いて、じゃあ一体何を読んだらいいんだ?学問としても、自己分析によって病状がコントロールできるかどうかも知りたいし、臨床と薬学は違うだろうし、精神科の教科書みたいなものはないかな」
「教科書でもいいが、まずはフロイトでいいんじゃない?テキストは安いし、なんたって開祖で古典だし。エディプス・コンプレックスって聞いたことある?聞いたことない。じゃあ潜在無意識は?知らない。どっちもフロイトが解明した概念だよ。ユングは集合無意識でグレート・マザーやトリックスターとか、知らない?何だそりゃ?高校の倫理社会や大学の一般教養で哲学史や思想史、基礎心理学は習ったろう?現象学や実存主義、構造主義…」
「彼はハイデガーもフッサールもベルグソンもサルトルもメルロ=ポンティもラカンも、フーコーもデリダもドゥルーズも、当然シモーヌ・ヴェイユもバタイユもロラン・バルトもレヴィ=ストロースも、ウィトゲンシュタインもライヒもアルチュセールも知らなかった。系統立った知識は何もないらしい。『プヴァールとペキュシェ』ごっこ(注)になるのは先から目に見えている。おれは凡人だからさ、とボソッと呟いている様子では、どうやら軽鬱でベクトル下向きのようだ。こういう時に苦手分野を無理に、と思うが、彼なりに学習に回復手段を求めているのだろう」(続く)
(注)フランスの小説家フロベールの未完の遺作長編。1881年刊。定年退職した二人の独身男が向学心に燃えて次々と各種の学問を研究するが、矛盾だらけの文献に翻弄されてどの学習も実らない、という滑稽小説。