ビリー・ホリデイのステージ・デビューは1930年、15歳の時で、コロンビアのプロデューサーのジョン・ハモンドの目にとまり33年には18歳でレコード・デビューを飾ることとなる。このハモンド氏は後にロバート・ジョンソン、ボブ・ディラン、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンド、ブルース・スプリングスティーンほか多数をコロンビアからデビューさせた人で、ビリー以前もベッシー・スミス、カウント・ベイシー楽団、ベニー・グッドマンと契約した慧眼の主だった。ジョン・ハモンドが見出ださなくてもこれらの優れたアーティストたちは、ロバート・ジョンソンを除き(ジョンソンはポピュラー音楽の世界とは関係なく、流しの酒場ギタリスト・歌手だった)大御所になっただろうが、今日残されている恵まれた環境での録音は望めなかったかもしれない。
ビリーの所属レコード会社は、順に、
・コロンビア(コロンビア傘下の黒人音楽レーベル、ブランズウィック、ヴォカリオン、オーケイ)1933年~42年
・「奇妙な果実」コモドア(単発契約)39年&44年
・デッカ(専属契約)44年~50年
・ヴァーヴ(専属契約)52年~57年(46年に単発録音)
・「レディ・ラヴ」ユナイテッドアーティスト(単発契約)54年
・「レディ・イン・サテン」コロンビア(単発契約)58年
・「ラスト・レコーディング」MGM(単発契約)59年
となる。このうち単発契約はアルバム一枚きりだから迷う必要はなく、デッカも二枚組CDで全録音が揃うから手頃。だがコロンビアとヴァーヴは多産な時期で、全録音はそれぞれ10枚組CDに集大成されている。コロンビア時代はすべてシングル単位だから好みでベスト盤から入ればよい。だがアルバム単位で制作されているヴァーヴは12枚もあるのだ。ベスト盤よりもアルバム単位で好みが分かれる。
また、35年~59年、急逝の3か月前までの全236曲のラジオ放送録音が12枚組ボックス・セット「パーフェクト・コレクション」にまとめられており、さらにそれに漏れたアルバム二枚分が「ストラットフォード57」にまとめられている。12枚組と重複せず、音質も演奏内容もいいから、50年代のビリーの普段のライヴを知るにはこちらが手っ取り早い。ヴァーヴからの公式ライヴより良いくらいの好調なビリーが聴ける。
(続く)
ビリーの所属レコード会社は、順に、
・コロンビア(コロンビア傘下の黒人音楽レーベル、ブランズウィック、ヴォカリオン、オーケイ)1933年~42年
・「奇妙な果実」コモドア(単発契約)39年&44年
・デッカ(専属契約)44年~50年
・ヴァーヴ(専属契約)52年~57年(46年に単発録音)
・「レディ・ラヴ」ユナイテッドアーティスト(単発契約)54年
・「レディ・イン・サテン」コロンビア(単発契約)58年
・「ラスト・レコーディング」MGM(単発契約)59年
となる。このうち単発契約はアルバム一枚きりだから迷う必要はなく、デッカも二枚組CDで全録音が揃うから手頃。だがコロンビアとヴァーヴは多産な時期で、全録音はそれぞれ10枚組CDに集大成されている。コロンビア時代はすべてシングル単位だから好みでベスト盤から入ればよい。だがアルバム単位で制作されているヴァーヴは12枚もあるのだ。ベスト盤よりもアルバム単位で好みが分かれる。
また、35年~59年、急逝の3か月前までの全236曲のラジオ放送録音が12枚組ボックス・セット「パーフェクト・コレクション」にまとめられており、さらにそれに漏れたアルバム二枚分が「ストラットフォード57」にまとめられている。12枚組と重複せず、音質も演奏内容もいいから、50年代のビリーの普段のライヴを知るにはこちらが手っ取り早い。ヴァーヴからの公式ライヴより良いくらいの好調なビリーが聴ける。
(続く)