坂本遼(さかもと・りょう)明治37年(1904)兵庫県に生る。昭和45年(1970)没。
朝日新聞社に勤務、社会部・学芸部・論説委員を経て退社。草野心平の「銅鑼」同人となって作品を発表。著作には詩集「たんぽぽ」(昭和2年)の他小説集「百姓の話」などがあり小説もまた散文詩風である。「たんぽぽ」の作品は播磨地方の方言を農民的感覚の裏づけにより生かしたもので、作品全体に農民的な、ややアナーキスティックな情操が感じられる。その後、児童詩や綴り方運動に努力、大阪で竹中郁とともに雑誌「きりん」を永年にわたって経営。この方面の著作に「こどもの詩・綴方」「きょうも生きて」がある。
(「現代詩人全集第5巻・現代1」昭和35年・角川文庫より。著作没年補筆)
※
『だまっている心と心』
おかんの咳の白い息が
火燵の上までおろした十燭のかさにあたる
屋根窓からとびこむ粉雪が
あぶら褪せた赤いおかんの髪の毛に音もなくとまる
ああ 亡き妹と揉みくらべした時にくらべて
いまつかんでいるこの肩の筋肉のゆるみ
それからのびきったこの皮膚
おかんはじっと燻ったかさをみつめては
また苦しく咳きこむ
たたいてもたたいても息をつかず
ブリキ罐のように空虚にひびく
痩せた背のかなしさ
うびゅうと唸る旋風が通りゆく
咳のこえ
ああ 明日でていく今夜をどないしよう
※
『お鶴の死と俺』
「おとっつぁんが死んでから
十二年たった
鶴が十二になったんやもん」
と云うて慰められておったお鶴が
死んでしもうた
はじめて氷が張った夜やった
わかれの水をとりに脊戸へ出て
桶に張った薄い氷をざっくとわって
水を汲んだ
お鶴はお母んとおらの心の中には
生きとるけんど
夜おそうまでおかんの肩をひねる
ちっちゃい手は消えてしもうた
おら六十のおかんを養うため
働きにいく
お鶴がながい間飼うた牛は
おらの旅費に売ってしもうた
おかんとおらは牽かれていく牛見て
涙出た
仏になっとるお鶴よ
許してくれよ
おら神戸へいて働くど
(底本・前掲角川文庫収録自選小詩集)
朝日新聞社に勤務、社会部・学芸部・論説委員を経て退社。草野心平の「銅鑼」同人となって作品を発表。著作には詩集「たんぽぽ」(昭和2年)の他小説集「百姓の話」などがあり小説もまた散文詩風である。「たんぽぽ」の作品は播磨地方の方言を農民的感覚の裏づけにより生かしたもので、作品全体に農民的な、ややアナーキスティックな情操が感じられる。その後、児童詩や綴り方運動に努力、大阪で竹中郁とともに雑誌「きりん」を永年にわたって経営。この方面の著作に「こどもの詩・綴方」「きょうも生きて」がある。
(「現代詩人全集第5巻・現代1」昭和35年・角川文庫より。著作没年補筆)
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『だまっている心と心』
おかんの咳の白い息が
火燵の上までおろした十燭のかさにあたる
屋根窓からとびこむ粉雪が
あぶら褪せた赤いおかんの髪の毛に音もなくとまる
ああ 亡き妹と揉みくらべした時にくらべて
いまつかんでいるこの肩の筋肉のゆるみ
それからのびきったこの皮膚
おかんはじっと燻ったかさをみつめては
また苦しく咳きこむ
たたいてもたたいても息をつかず
ブリキ罐のように空虚にひびく
痩せた背のかなしさ
うびゅうと唸る旋風が通りゆく
咳のこえ
ああ 明日でていく今夜をどないしよう
※
『お鶴の死と俺』
「おとっつぁんが死んでから
十二年たった
鶴が十二になったんやもん」
と云うて慰められておったお鶴が
死んでしもうた
はじめて氷が張った夜やった
わかれの水をとりに脊戸へ出て
桶に張った薄い氷をざっくとわって
水を汲んだ
お鶴はお母んとおらの心の中には
生きとるけんど
夜おそうまでおかんの肩をひねる
ちっちゃい手は消えてしもうた
おら六十のおかんを養うため
働きにいく
お鶴がながい間飼うた牛は
おらの旅費に売ってしもうた
おかんとおらは牽かれていく牛見て
涙出た
仏になっとるお鶴よ
許してくれよ
おら神戸へいて働くど
(底本・前掲角川文庫収録自選小詩集)