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現代詩の起源・番外編 / 『祝 算之助詩集』より「町医」

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   町 医     祝 算之助

 夜とともに、町医者はやつてきた。家来をつれて。その家来は、たぶん同じ猟ずきな仲間ででもあろう。
 ちいさな部屋のなかは、黄いろい絵具が、べたべたちらかっている。私はどのようにも、片ずけきれないのだ。
 そのまんなかに、金魚をにぎりつぶしてはなさない子供が、布団にくるまつて、欠伸している。まわりの人たちの眼は、いつかぶせようかと、白い布きれを持ちあぐねている。
 夜はそこまできた。そして町医は、黒い大きな施療鞄のなかに、子供の生命をたたきこむと、部屋の戸口でささやいた。
 (あ、雁だ。雁が飛んでいる)
 夜がおんなじことをつぶやいた。家来はどこにも、はじめからいなかつた。
 部屋のなかには、憂愁とかるい安堵がのこされた。人びとは、こごえた指さきを、そっと火鉢の上にかさねて、今夜の霜をかぶつた美しい星空のことなど、しずかに語りはじめた。

 (一九四六年十一月)


 昭和22年刊・手書き謄写版私家版限定50部の詩集『島』より。本文は1972年6月1日・思潮社刊の全詩集『祝 算之助詩集』により、詩の末尾の日付は初版詩集からの引用によりました。本文の異同は句点「、」が増やされている以外は、()の括りが初版詩集では《》で、「家来はどこにも、はじめからいなかつた。」は初版詩集では「家来ははじめからどこにもいなかった。」となっている程度です。
 散文詩の戦後詩人・祝算之助のこの詩は、やはり散文詩の詩集『舌のある風景』の戦後詩人・粒来哲蔵氏のエッセイで知り、粒来氏の名もさらに若い世代の詩集『世界の構造』の散文詩詩人・粕谷栄市氏の師として知ったのですが、粒来氏が愛読した先達詩人に上げていたのが祝算之助、また戦前の散文詩の夭逝詩人・千田光でした。その名を記憶していて、古本屋を当たっているうちに千田光(1908-1935)は詩誌「現代詩手帖」の1971年1月号に当時発掘された発表作品全編(散文詩11編・短評1編)を再録した小特集で、また祝算之助は唯一その全詩集を見つけて読むことができました。
 詩史に記憶される北川冬彦主宰の同人詩誌「詩・現実」の同人で、北川冬彦の友人・梶井基次郎が北川宛ての書簡で絶賛している千田光がまだしも現代でも詩の読者には知られているのに対し、祝算之助に言及した文章は粒来哲蔵のエッセイ以外知りません。思潮社の普及版シリーズ「現代詩文庫」で選詩集が刊行されていたら事情は違ったかもしれないとも思われます。文献が皆無なため生年(亡くなっていたら歿年)すら明らかではないのです。
 古本で入手した詩集『祝 算之助詩集』の奥付見返しには、おそらく献呈本に同封されていたと思われる詩人自筆と思われる献呈添え書き(ファクリミリ印刷)が貼りつけてありました。文面からはこの全詩集の刊行時、詩人は'50代にさしかかっていた年輩と考えられるので、生年は1920年前後と推察されます。第1詩集『島』'47は20代後半の刊行でしょう。この全詩集以前の詩集はすべて私家版の献呈詩集らしく、実物を見たことがありません。全詩集以降も商業詩誌「詩学」「現代詩手帖」「ユリイカ」などにも作品の発表は見当たらない詩人で、おそらくこの『祝 算之助詩集』だけが唯一古書市場に稀に現れるだけではないかと思われます。私的な文面ゆえ本文印刷を控えたと思われるものを、公開するのは詩人の意図に沿わないのを畏れますが、これは胸を打つ文章なので、あえて詩人直筆による献呈添え書きを図版掲載させていただきます。

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