(中国貴族の長老に扮したロン・チェイニー)
『ミスター・ウー』Mr. Wu (監=ウィリアム・ナイ、Metro-Goldwyn-Mayer'27.Mar.26)*90min(Original length, 90min), B/W, Silent; 日本未公開(配給会社内試写上映) : https://youtu.be/SQ9gEgVie1Q (size incomplete)
[ あらすじ ](同上) 10歳の時、中国貴族の生れのウー(ソニー・ロイ)は英国に白人の風習を学びに送られた。それは彼が成人した後、他日外国からの圧迫を被つた時に対抗して戦うための下準備であった。十五年を淋しく海外に暮した後、彼(ロン・チャニー)は故国へ帰り、父亡き跡を継ぎ妻をめとった。が、その妻も世を去り、今では愛娘ナン・ピン(ルネ・アドレー)との二人暮しであった。ナン・ピンは中国である大事業を計画している英人グレゴリー(ホームズ・E・ハーバート)の息子バジル(ラルフ・フォーブス)とご恋仲となった。バジルにとってはこの恋は単なる慰みであったが、ナン・ピンにとってはそうではなかった。バジルが近日英国に帰らねばならぬとナン・ピンに語った時に、バジルはナン・ピンが既に彼の子を宿しているのを知って慌てた。その後、ナン・ピンはバジル一家の者と会した時に黄色人の子は白人に快く迎えられないということを知った。バジルはやがて己れの誤を知り、ナン・ピンを訪れ結婚を申し出たが、時既に遅くこのことはウーの知る所となり、バジルは捕えられ、ナン・ピンは悪魔に魅かれたるものとして父親に殺された。グレゴリー夫人(ルイズ・ドレッサー)はバジルの失跡を心配しウーに助力を求める。ウーはグレゴリー夫人とバジルの妹ヒルダ(ガートルード・オルムステッド)とを自宅に招き、若しヒルダが己れの云うことを聞いたならば、バジルの命を助けるという。ヒルダは兄のために犠性となろうとした。その時、グレゴリー夫人は己れのスカーフに、家を出る時中国人の女中が附けて置いてくれた毒薬を発見し、それによってウーを殺してしまう。ウーは死際になおバジルを殺さんとしたが、それもナン・ピンの活躍によって妨げられたのであった。
映画は余命の短さを悟って中国の未来に思いを馳せる中国貴族の老賢人、ウーを描いて始まります。チェイニーが老人のメイクで演じる老賢人ウーは幼い孫を膝に乗せ「今日お前の将来の花嫁が生まれたよ」と婚約者の誕生を教え、イギリス人家庭教師の紳士に、西洋の文化を学んで中国の文化を守っていきなさい、と孫を託します。15年後、成人した孫のミスター・ウー(チェイニー二役)は婚礼を上げ幸福な結婚生活を送りますが、ウーの妻は初産で娘を生むと産褥で亡くなってしまいます。ウーは悲しみを忘れるために事業に没頭して貴族にして中国有数の富豪になり、娘のナン・ピンへの愛だけを支えにしています。ナン・ピンのメイドで姉妹のように仲のよいルー・ソンを『バグダッドの盗賊』'25や『上海特急』'32の中国人ハリウッド女優アンナ・メイ・ウォンが好演しています。本作もキネマ旬報近着外国映画紹介のあらすじはMGM本社からのプレス・シートから起こしているようで、ミスター・ウーの留学は暗示的な描かれ方ですが留学シーンはなく、大使の息子ベイジルとナン・ピンの恋は最初から真剣な恋愛に描かれ、ナン・ピンの妊娠は字幕なしに切迫した様子で耳打ちする、と暗示的に描かれています。大使夫人やベイジルの妹ヒルダはナン・ピンやルー・ソン、ミスター・ウーに非常に好意的ですがイギリス大使は中国人を蔑む性格に描かれており、またナン・ピンにはもともと中国貴族の婚約者がいて先方の要望で結婚式が決まり、ナン・ピンはベイジルとの交際を知った父のウーに身の処し方を迫られて自殺する、という描き方になっています。ウーはベイジルとヒルダを捕らえて大使夫人に自分は娘をひとり贖った、大使夫人も息子か娘のどちらかを贖え、と迫るのですが、卓上の短剣を見つけた大使夫人は息子なら妹を救うでしょう、と答え、ミスター・ウーがベイジルの処刑の合図の銅鑼を鳴らすためにバチを取って背を向けた隙にウーの背中に短剣を突きます。「ヒルダは兄のために犠性となろうとした。その時、グレゴリー夫人は己れのスカーフに、家を出る時中国人の女中が附けて置いてくれた毒薬を発見し」はまるごと違うわけです。またキネマ旬報あらすじの「ウーは死際になおバジルを殺さんとしたが、それもナン・ピンの活躍によって妨げられた」もわけがわかりませんが、死にかけてなお銅鑼を鳴らそうとしたウーの前に亡き娘ナン・ピンの幻影が現れ、ウーは娘の幻影に復讐を思い止まるとともに倒れて息絶える、という結末です。原作ではたぶんもっとミスター・ウーが残忍に描かれていたと想像され、あらすじからの相違点は初期シナリオによるもので、そこではキネマ旬報あらすじの通りウーみずから娘を処刑することなっていたのだろうと思います。すると大使夫人がウーに毒を盛るのではなくとっさに刺殺するのも映画化の上の変更点になりますが、これは子供を殺されそうになった親の行為としても激越なので、全体的には国違い・家柄違いの悲劇メロドラマの枠内に収まるとしても、この大使夫人は交易国の財閥総帥を殺害してしまったと思うとそこに「でも悪い中国人だから」という正当化が入ってきてしまうのが割引しなければならないところです。本作はドラマとしては大時代な悲劇で、チェイニーの役柄は家長としての悲劇ですし、当然婚約者のいる国を背負って立つ財閥大貴族の令嬢と外国大使の息子が他愛なく庶民的な自由恋愛に耽ったのが悲劇の根源なのですが、映画観客のほとんどは庶民なのでいたしかたありません。本作はチェイニー演じる老賢人ウーと孫の成人したミスター・ウーの威厳に満ちた演技、父親としての苦悩を堪能する映画で、短い場面ですが産褥で死の床にある妻を「男の子を生めなくてごめんなさい」「この子が男の子も女の子も生んでくれるよ」と赤ん坊を抱きながら優しく見舞うシーンなど、娘の幻影を見ながら絶命するシーンまで切なく印象的な見所も豊富です。本作のチェイニーは悪人ではなく娘の自害をうながすのも大使夫人に息子か娘の死を要求するのもそれが「中国の法」だからなので、ここにイギリス原作の偏見が入ってもいるのですが、古代ギリシャ・ローマや中世ヨーロッパものでもこういうのはあるでしょう。チェイニー映画でなかったら本作はもっと中国人への偏見が強く出た作品になっていたと思われるのです。
●8月20日(月)
『知られぬ人』The Unknown (監=トッド・ブラウニング、Metro-Goldwyn-Mayer'27.Jun.4)*50min(Original length, 50min), B/W, Silent; 日本公開昭和4年(1929年)3月 : https://youtu.be/0ZPxz_gwOvk (trailer)
[ あらすじ ](同上) 腕の無い男アロンゾ(ロン・チャニー)は自分が働くサーカスの花形エステリータ(ジョーン・クロフォード)を秘かに思っていた。彼女はサーカスの団長ザンジ(ニック・デ・ルイス)の娘であるが、しばしば男に挑まれて以来、普通の男に極度の嫌悪を感じ、従って腕のないアロンゾとそれだけ深く信頼していた。マラバール(ノーマン・ケリー)は同じサーカスの一員で、男振りもよく大力な男で、彼もエステリータを思っているが、女は出来るだけ男を避けていた。が実の所、アロンゾには立派に両腕があるのであった。しかし片手の指が六本もあるのであった。そして彼は多年警察の眼をかすめては悪事を働いていた。たまたまアロンゾが銀行を襲い大金を強奪したのを団長ザンジに疑われ、その手を発見されたので、彼はザンジを絞め殺した。その際チラリとエステリータに手を見られたがアロンゾとは元より夢にも彼女は気がつかなかった。ザンジの死によりサーカスは人手に渡った。そしてザンジ殺害の犯人は、誰も腕のないアロンゾの仕業とは思わず、この事件は犯人不明のままで終わった。アロンゾはエステリータと結婚したいが、腕の秘密の露見を恐れて、旧悪を知る外科医を長途わざわざ訪れ、脅して両腕を切断してもらった。で、又マドリッドへ帰って見ると、エステリータはマラバールと共に劇場に出演するという。いつか彼女はマラバールとの間に恋が成りたっていたのであった。そして近く二人が結婚するという事を聞かされて、アロンゾは失望落胆、そして堪えられず、マラバールが開幕前舞台上で呼びものの馬と力競べとしている際、曲芸の秘密を知る彼はマラバールを殺そうとしたが、却ってエステリータが危地に立ったので驚いたアロンゾは彼女を救い、自ら馬蹄の下となり横死を遂げた。かくて「知られぬ人」は遂に解決されずに社会から葬り去られたのである。
シナリオでは秘密隠匿のため外科医とコージョを殺すことになっていたそうですが完成映画ではそれはなく、チェイニーは回復を待ってコージョとマドリッド(本作の舞台はスペインです)にエステリータへ求婚するために戻りますが、「あなた痩せたわね」とチェイニーを迎えたエステリータはマラバールと組んで芸に出ていて、マラバールとの婚約を告げます。エステリータがマラバールに寄り添い、マラバールの手を撫でさするのを見てチェイニーは微笑み、引きつり、絶叫して昏倒し嗚咽します。健康を壊しているんだ、と落ち着いたチェイニーはエステリータが助手をするマラバールの芸を見せてもらいます。マラバールが左右に1頭ずつ回転ロールの上で全力疾走する馬を両腕のフックで引き留める、というもので、「危険じゃないか?回転ロールが止まったら?」「体が引き裂かれるよ。でも何度もリハーサルして演じているから大丈夫」。そしてマラバールの芸の日、チェイニーは舞台袖で見せてもらうことにし、芸が始まると回転ロールのレバー係に「呼ばれているよ。ここは代わりにやるから」とレバー係を追い出し、倒れかかるふりをして回転ロールのレバーを倒します。ロールの停止した台の上で左右の馬は走れなくなって暴れ出し、マラバールは必死で馬を引き寄せます。馬に鞭を打っていたエステリータは異変に気づくと馬をなだめようとして馬に跳ね飛ばされ、助けに入ろうとしたチェイニーは馬にあお向けに倒され胸を踏みつけられて即死します。馬は疲れておとなしく立ち尽くし、マラバールとエステリータは無事を確かめあって抱擁して、映画は終わります。MGM作品、特にブラウニング監督作の例によってチェイニーではなく脇役(準主演)カップルの抱擁シーンで締めくくりになるのがやれやれといった感じですが、本作のナイフ投げ師アロンゾ役のチェイニーは悪人で殺人者なので、愛する女性のため両腕を切り落とすと言っても犯罪の嫌疑を逃れるためでもありますから、壮絶な覚悟とはいえ悪人の身勝手と言えばそれまでです。この、本当に両腕を切り落としてしまえばいいと気づくシーンはなかなかの演出で、二本指の親指のある腕が犯罪の証拠になってしまう、と小人のコージョに心配されたチェイニーはぎろりとコージョをにらみ、コージョはもちろん秘密は守ります、と慌てますが、チェイニーがいつも通り足で煙草をくわえ、足でマッチを擦って足で煙草をふかす姿にコージョは今は腕を出しているのに、と呆れて笑い出してしまいます。チェイニーは一瞬いかぶりますが、そうかわかった、そうすればいいんだ!と不要な両腕を切り落とすことに思いいたります。本作のチェイニーの足の演技は普通に歩いているシーン以外さすがに本人ではなく、足に見えるグローブをつけた代役がチェイニーの足の芸を演じていると思いますが(足でギターを弾くシーンもあります)、登場人物、プロット、シーンの極端な簡略化という本作の特徴はだいたいおわかりいただけたのではないでしょうか。しかしまあ、両腕のないナイフ投げ芸人、実は腕があって両手親指が二本に分岐した(6本指の)犯罪者、しかもあえて両腕を切り落とす、最後はサーカスの芸馬に踏み殺される、とはトッド・ブラウニングとは何という悪趣味な想像力の映画監督でしょうか。グリフィス門下生で大成した監督はラオール・ウォルシュ、ブラウニング、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムですが、真っ当なキャリアを歩んだのはウォルシュだけでグリフィス本人、ブラウニング、シュトロハイムの3人までが呪われた映画監督になってしまったのは映画史の奇観で、しかも『怪物団(フリークス)』'32まではブラウニングはこの作風で成功していたのですからアメリカ大衆映画の奥深さを感じます。いや、それを奥深さと言えればの話ですが。
●8月21日(火)
『嘲笑』Mockery (監=ベンジャミン・クリステンセン、Metro-Goldwyn-Mayer'27.Aug.15)*70min(Original length, 75min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明)
前作『知られぬ人』も'30年代以降'60年代末までフィルムが行方不明になっていたそうですが、本作も'70年代半ばに発掘されるまで長い間散佚作品とされていたそうで、ただしブラウニング作品ほど再評価されないのは'20年代(に限りませんが)のアメリカ映画らしくロシア革命、共産主義への反感を伴った偏見がストーリーの骨子になっているからでしょう。赤衛軍はアナーキストの暴徒、白衛軍は秩序を守る正義として描かれています。またチェイニー演じる、革命勃発も知らない無知な農夫セルゲイが愛を捧げる伯爵夫人タチアナも結局は美貌を武器にセルゲイを利用するだけのひどい女で、白衛軍の本拠地に到着するとセルゲイを下男部屋に追いやり、自分はさっさと美男子の士官と浮気に励む始末です。「目的地に着いたらずっと友達よ」と言われて、赤衛軍の拷問にも耐えてヒロインを守ってきた純情な主人公が怒り、嫉妬し、下男部屋の仲間から打倒ブルジョワ・貴族に簡単に洗脳されてしまうのももっともで、白衛軍に自宅の邸宅を拠点に提供する内乱成金のブルジョワ商人ガイダロフ夫妻の描き方には、成金ブルジョワは厭らしいものだというのが一応筋を通しています。このガイダロフ氏をチャップリン初期短編の常連の嫌なデブ役俳優マック・スウェイン(!)が演じているのも一興で、ふつつかながらチャップリン短編以外でマック・スウェインの出演する映画は他に観たことがありません。本作では'10年代半ばよりますます太ってひだのような顎になっています。映画観客は太った成金には反感を持ちますが、美男美女(または善男善女)の恋愛をよしとし、また反社会的破壊活動を非とするのも映画観客の心理なので、本作のようにロシア革命を社会秩序の破壊活動、それを退治する白衛軍を正義と描かれるとリカルド・コルテス演じる白衛軍隊長ディミトリー大尉はヒーロー的存在であり、伯爵夫人タチアナは可憐なヒロインで通ってしまう。ここらへんのハリウッド映画らしい欺瞞性がさすがにアメリカ人批評家と言えども本作を高くは買えない要因になっていると思われます。しかし本作をチェイニー映画らしい「報わない愛」の映画と見ればこの構図があるからこそ農夫セルゲイの苦悩があるので、セルゲイは一度は屋敷の混乱に乗じて伯爵夫人に愛の報いを暴力的に迫りますが、大尉たちの白衛軍が帰還してタチアナがセルゲイを、かつて拷問に耐えて自分をかばった胸の鞭傷を見てセルゲイを救う証言をすると、伯爵夫人からの軽蔑に耐えて下がります。クライマックスはまた白衛軍が出発した後でセルゲイが閉じ込めていた下男たちがタチアナを襲い、セルゲイが瀕死の重傷を負いながらタチアナを助ける具合に二重になっており、瀕死のセルゲイをタチアナがずっと一緒よ、と慰める。そこに大尉が帰ってきて、少しは遠慮すればいいものを臨終を迎えるセルゲイを忘れて大尉と伯爵夫人は抱擁しあいキスする、と、実はこれはハリウッド映画のお約束を使った非常に残酷な結末です。セルゲイが臨終に目にするのは大尉とタチアナのキス、とはっきり描かれているので、これに監督クリステンセンが皮肉で残酷な悲劇性を意図していないわけはないでしょう。純真な農夫セルゲイの純情は結局最後にも命がけで助けた純愛の相手である伯爵夫人に踏みにじられるので、本作がハリウッド映画の性格として反共的・美男美女のメロドラマ的約束を踏まえた作品であるとしてもテーマの徹底した一貫性があり、チェイニー映画の無償の愛のテーマによく即しているばかりか、もしチェイニー以外の中年男性俳優、ウォーレス・ビアリーがぴったりですがウォルター・ヒューストンやライオネル・バリモアあたりでもこの映画はぶれなかったと思われます。本作を北欧映画界の鬼才監督クリステンセンの面目がうかがわれる秀作と目せるのは、そうした厳しい演出手腕ゆえです。
『ミスター・ウー』Mr. Wu (監=ウィリアム・ナイ、Metro-Goldwyn-Mayer'27.Mar.26)*90min(Original length, 90min), B/W, Silent; 日本未公開(配給会社内試写上映) : https://youtu.be/SQ9gEgVie1Q (size incomplete)
[ あらすじ ](同上) 10歳の時、中国貴族の生れのウー(ソニー・ロイ)は英国に白人の風習を学びに送られた。それは彼が成人した後、他日外国からの圧迫を被つた時に対抗して戦うための下準備であった。十五年を淋しく海外に暮した後、彼(ロン・チャニー)は故国へ帰り、父亡き跡を継ぎ妻をめとった。が、その妻も世を去り、今では愛娘ナン・ピン(ルネ・アドレー)との二人暮しであった。ナン・ピンは中国である大事業を計画している英人グレゴリー(ホームズ・E・ハーバート)の息子バジル(ラルフ・フォーブス)とご恋仲となった。バジルにとってはこの恋は単なる慰みであったが、ナン・ピンにとってはそうではなかった。バジルが近日英国に帰らねばならぬとナン・ピンに語った時に、バジルはナン・ピンが既に彼の子を宿しているのを知って慌てた。その後、ナン・ピンはバジル一家の者と会した時に黄色人の子は白人に快く迎えられないということを知った。バジルはやがて己れの誤を知り、ナン・ピンを訪れ結婚を申し出たが、時既に遅くこのことはウーの知る所となり、バジルは捕えられ、ナン・ピンは悪魔に魅かれたるものとして父親に殺された。グレゴリー夫人(ルイズ・ドレッサー)はバジルの失跡を心配しウーに助力を求める。ウーはグレゴリー夫人とバジルの妹ヒルダ(ガートルード・オルムステッド)とを自宅に招き、若しヒルダが己れの云うことを聞いたならば、バジルの命を助けるという。ヒルダは兄のために犠性となろうとした。その時、グレゴリー夫人は己れのスカーフに、家を出る時中国人の女中が附けて置いてくれた毒薬を発見し、それによってウーを殺してしまう。ウーは死際になおバジルを殺さんとしたが、それもナン・ピンの活躍によって妨げられたのであった。
映画は余命の短さを悟って中国の未来に思いを馳せる中国貴族の老賢人、ウーを描いて始まります。チェイニーが老人のメイクで演じる老賢人ウーは幼い孫を膝に乗せ「今日お前の将来の花嫁が生まれたよ」と婚約者の誕生を教え、イギリス人家庭教師の紳士に、西洋の文化を学んで中国の文化を守っていきなさい、と孫を託します。15年後、成人した孫のミスター・ウー(チェイニー二役)は婚礼を上げ幸福な結婚生活を送りますが、ウーの妻は初産で娘を生むと産褥で亡くなってしまいます。ウーは悲しみを忘れるために事業に没頭して貴族にして中国有数の富豪になり、娘のナン・ピンへの愛だけを支えにしています。ナン・ピンのメイドで姉妹のように仲のよいルー・ソンを『バグダッドの盗賊』'25や『上海特急』'32の中国人ハリウッド女優アンナ・メイ・ウォンが好演しています。本作もキネマ旬報近着外国映画紹介のあらすじはMGM本社からのプレス・シートから起こしているようで、ミスター・ウーの留学は暗示的な描かれ方ですが留学シーンはなく、大使の息子ベイジルとナン・ピンの恋は最初から真剣な恋愛に描かれ、ナン・ピンの妊娠は字幕なしに切迫した様子で耳打ちする、と暗示的に描かれています。大使夫人やベイジルの妹ヒルダはナン・ピンやルー・ソン、ミスター・ウーに非常に好意的ですがイギリス大使は中国人を蔑む性格に描かれており、またナン・ピンにはもともと中国貴族の婚約者がいて先方の要望で結婚式が決まり、ナン・ピンはベイジルとの交際を知った父のウーに身の処し方を迫られて自殺する、という描き方になっています。ウーはベイジルとヒルダを捕らえて大使夫人に自分は娘をひとり贖った、大使夫人も息子か娘のどちらかを贖え、と迫るのですが、卓上の短剣を見つけた大使夫人は息子なら妹を救うでしょう、と答え、ミスター・ウーがベイジルの処刑の合図の銅鑼を鳴らすためにバチを取って背を向けた隙にウーの背中に短剣を突きます。「ヒルダは兄のために犠性となろうとした。その時、グレゴリー夫人は己れのスカーフに、家を出る時中国人の女中が附けて置いてくれた毒薬を発見し」はまるごと違うわけです。またキネマ旬報あらすじの「ウーは死際になおバジルを殺さんとしたが、それもナン・ピンの活躍によって妨げられた」もわけがわかりませんが、死にかけてなお銅鑼を鳴らそうとしたウーの前に亡き娘ナン・ピンの幻影が現れ、ウーは娘の幻影に復讐を思い止まるとともに倒れて息絶える、という結末です。原作ではたぶんもっとミスター・ウーが残忍に描かれていたと想像され、あらすじからの相違点は初期シナリオによるもので、そこではキネマ旬報あらすじの通りウーみずから娘を処刑することなっていたのだろうと思います。すると大使夫人がウーに毒を盛るのではなくとっさに刺殺するのも映画化の上の変更点になりますが、これは子供を殺されそうになった親の行為としても激越なので、全体的には国違い・家柄違いの悲劇メロドラマの枠内に収まるとしても、この大使夫人は交易国の財閥総帥を殺害してしまったと思うとそこに「でも悪い中国人だから」という正当化が入ってきてしまうのが割引しなければならないところです。本作はドラマとしては大時代な悲劇で、チェイニーの役柄は家長としての悲劇ですし、当然婚約者のいる国を背負って立つ財閥大貴族の令嬢と外国大使の息子が他愛なく庶民的な自由恋愛に耽ったのが悲劇の根源なのですが、映画観客のほとんどは庶民なのでいたしかたありません。本作はチェイニー演じる老賢人ウーと孫の成人したミスター・ウーの威厳に満ちた演技、父親としての苦悩を堪能する映画で、短い場面ですが産褥で死の床にある妻を「男の子を生めなくてごめんなさい」「この子が男の子も女の子も生んでくれるよ」と赤ん坊を抱きながら優しく見舞うシーンなど、娘の幻影を見ながら絶命するシーンまで切なく印象的な見所も豊富です。本作のチェイニーは悪人ではなく娘の自害をうながすのも大使夫人に息子か娘の死を要求するのもそれが「中国の法」だからなので、ここにイギリス原作の偏見が入ってもいるのですが、古代ギリシャ・ローマや中世ヨーロッパものでもこういうのはあるでしょう。チェイニー映画でなかったら本作はもっと中国人への偏見が強く出た作品になっていたと思われるのです。
●8月20日(月)
『知られぬ人』The Unknown (監=トッド・ブラウニング、Metro-Goldwyn-Mayer'27.Jun.4)*50min(Original length, 50min), B/W, Silent; 日本公開昭和4年(1929年)3月 : https://youtu.be/0ZPxz_gwOvk (trailer)
[ あらすじ ](同上) 腕の無い男アロンゾ(ロン・チャニー)は自分が働くサーカスの花形エステリータ(ジョーン・クロフォード)を秘かに思っていた。彼女はサーカスの団長ザンジ(ニック・デ・ルイス)の娘であるが、しばしば男に挑まれて以来、普通の男に極度の嫌悪を感じ、従って腕のないアロンゾとそれだけ深く信頼していた。マラバール(ノーマン・ケリー)は同じサーカスの一員で、男振りもよく大力な男で、彼もエステリータを思っているが、女は出来るだけ男を避けていた。が実の所、アロンゾには立派に両腕があるのであった。しかし片手の指が六本もあるのであった。そして彼は多年警察の眼をかすめては悪事を働いていた。たまたまアロンゾが銀行を襲い大金を強奪したのを団長ザンジに疑われ、その手を発見されたので、彼はザンジを絞め殺した。その際チラリとエステリータに手を見られたがアロンゾとは元より夢にも彼女は気がつかなかった。ザンジの死によりサーカスは人手に渡った。そしてザンジ殺害の犯人は、誰も腕のないアロンゾの仕業とは思わず、この事件は犯人不明のままで終わった。アロンゾはエステリータと結婚したいが、腕の秘密の露見を恐れて、旧悪を知る外科医を長途わざわざ訪れ、脅して両腕を切断してもらった。で、又マドリッドへ帰って見ると、エステリータはマラバールと共に劇場に出演するという。いつか彼女はマラバールとの間に恋が成りたっていたのであった。そして近く二人が結婚するという事を聞かされて、アロンゾは失望落胆、そして堪えられず、マラバールが開幕前舞台上で呼びものの馬と力競べとしている際、曲芸の秘密を知る彼はマラバールを殺そうとしたが、却ってエステリータが危地に立ったので驚いたアロンゾは彼女を救い、自ら馬蹄の下となり横死を遂げた。かくて「知られぬ人」は遂に解決されずに社会から葬り去られたのである。
シナリオでは秘密隠匿のため外科医とコージョを殺すことになっていたそうですが完成映画ではそれはなく、チェイニーは回復を待ってコージョとマドリッド(本作の舞台はスペインです)にエステリータへ求婚するために戻りますが、「あなた痩せたわね」とチェイニーを迎えたエステリータはマラバールと組んで芸に出ていて、マラバールとの婚約を告げます。エステリータがマラバールに寄り添い、マラバールの手を撫でさするのを見てチェイニーは微笑み、引きつり、絶叫して昏倒し嗚咽します。健康を壊しているんだ、と落ち着いたチェイニーはエステリータが助手をするマラバールの芸を見せてもらいます。マラバールが左右に1頭ずつ回転ロールの上で全力疾走する馬を両腕のフックで引き留める、というもので、「危険じゃないか?回転ロールが止まったら?」「体が引き裂かれるよ。でも何度もリハーサルして演じているから大丈夫」。そしてマラバールの芸の日、チェイニーは舞台袖で見せてもらうことにし、芸が始まると回転ロールのレバー係に「呼ばれているよ。ここは代わりにやるから」とレバー係を追い出し、倒れかかるふりをして回転ロールのレバーを倒します。ロールの停止した台の上で左右の馬は走れなくなって暴れ出し、マラバールは必死で馬を引き寄せます。馬に鞭を打っていたエステリータは異変に気づくと馬をなだめようとして馬に跳ね飛ばされ、助けに入ろうとしたチェイニーは馬にあお向けに倒され胸を踏みつけられて即死します。馬は疲れておとなしく立ち尽くし、マラバールとエステリータは無事を確かめあって抱擁して、映画は終わります。MGM作品、特にブラウニング監督作の例によってチェイニーではなく脇役(準主演)カップルの抱擁シーンで締めくくりになるのがやれやれといった感じですが、本作のナイフ投げ師アロンゾ役のチェイニーは悪人で殺人者なので、愛する女性のため両腕を切り落とすと言っても犯罪の嫌疑を逃れるためでもありますから、壮絶な覚悟とはいえ悪人の身勝手と言えばそれまでです。この、本当に両腕を切り落としてしまえばいいと気づくシーンはなかなかの演出で、二本指の親指のある腕が犯罪の証拠になってしまう、と小人のコージョに心配されたチェイニーはぎろりとコージョをにらみ、コージョはもちろん秘密は守ります、と慌てますが、チェイニーがいつも通り足で煙草をくわえ、足でマッチを擦って足で煙草をふかす姿にコージョは今は腕を出しているのに、と呆れて笑い出してしまいます。チェイニーは一瞬いかぶりますが、そうかわかった、そうすればいいんだ!と不要な両腕を切り落とすことに思いいたります。本作のチェイニーの足の演技は普通に歩いているシーン以外さすがに本人ではなく、足に見えるグローブをつけた代役がチェイニーの足の芸を演じていると思いますが(足でギターを弾くシーンもあります)、登場人物、プロット、シーンの極端な簡略化という本作の特徴はだいたいおわかりいただけたのではないでしょうか。しかしまあ、両腕のないナイフ投げ芸人、実は腕があって両手親指が二本に分岐した(6本指の)犯罪者、しかもあえて両腕を切り落とす、最後はサーカスの芸馬に踏み殺される、とはトッド・ブラウニングとは何という悪趣味な想像力の映画監督でしょうか。グリフィス門下生で大成した監督はラオール・ウォルシュ、ブラウニング、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムですが、真っ当なキャリアを歩んだのはウォルシュだけでグリフィス本人、ブラウニング、シュトロハイムの3人までが呪われた映画監督になってしまったのは映画史の奇観で、しかも『怪物団(フリークス)』'32まではブラウニングはこの作風で成功していたのですからアメリカ大衆映画の奥深さを感じます。いや、それを奥深さと言えればの話ですが。
●8月21日(火)
『嘲笑』Mockery (監=ベンジャミン・クリステンセン、Metro-Goldwyn-Mayer'27.Aug.15)*70min(Original length, 75min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明)
前作『知られぬ人』も'30年代以降'60年代末までフィルムが行方不明になっていたそうですが、本作も'70年代半ばに発掘されるまで長い間散佚作品とされていたそうで、ただしブラウニング作品ほど再評価されないのは'20年代(に限りませんが)のアメリカ映画らしくロシア革命、共産主義への反感を伴った偏見がストーリーの骨子になっているからでしょう。赤衛軍はアナーキストの暴徒、白衛軍は秩序を守る正義として描かれています。またチェイニー演じる、革命勃発も知らない無知な農夫セルゲイが愛を捧げる伯爵夫人タチアナも結局は美貌を武器にセルゲイを利用するだけのひどい女で、白衛軍の本拠地に到着するとセルゲイを下男部屋に追いやり、自分はさっさと美男子の士官と浮気に励む始末です。「目的地に着いたらずっと友達よ」と言われて、赤衛軍の拷問にも耐えてヒロインを守ってきた純情な主人公が怒り、嫉妬し、下男部屋の仲間から打倒ブルジョワ・貴族に簡単に洗脳されてしまうのももっともで、白衛軍に自宅の邸宅を拠点に提供する内乱成金のブルジョワ商人ガイダロフ夫妻の描き方には、成金ブルジョワは厭らしいものだというのが一応筋を通しています。このガイダロフ氏をチャップリン初期短編の常連の嫌なデブ役俳優マック・スウェイン(!)が演じているのも一興で、ふつつかながらチャップリン短編以外でマック・スウェインの出演する映画は他に観たことがありません。本作では'10年代半ばよりますます太ってひだのような顎になっています。映画観客は太った成金には反感を持ちますが、美男美女(または善男善女)の恋愛をよしとし、また反社会的破壊活動を非とするのも映画観客の心理なので、本作のようにロシア革命を社会秩序の破壊活動、それを退治する白衛軍を正義と描かれるとリカルド・コルテス演じる白衛軍隊長ディミトリー大尉はヒーロー的存在であり、伯爵夫人タチアナは可憐なヒロインで通ってしまう。ここらへんのハリウッド映画らしい欺瞞性がさすがにアメリカ人批評家と言えども本作を高くは買えない要因になっていると思われます。しかし本作をチェイニー映画らしい「報わない愛」の映画と見ればこの構図があるからこそ農夫セルゲイの苦悩があるので、セルゲイは一度は屋敷の混乱に乗じて伯爵夫人に愛の報いを暴力的に迫りますが、大尉たちの白衛軍が帰還してタチアナがセルゲイを、かつて拷問に耐えて自分をかばった胸の鞭傷を見てセルゲイを救う証言をすると、伯爵夫人からの軽蔑に耐えて下がります。クライマックスはまた白衛軍が出発した後でセルゲイが閉じ込めていた下男たちがタチアナを襲い、セルゲイが瀕死の重傷を負いながらタチアナを助ける具合に二重になっており、瀕死のセルゲイをタチアナがずっと一緒よ、と慰める。そこに大尉が帰ってきて、少しは遠慮すればいいものを臨終を迎えるセルゲイを忘れて大尉と伯爵夫人は抱擁しあいキスする、と、実はこれはハリウッド映画のお約束を使った非常に残酷な結末です。セルゲイが臨終に目にするのは大尉とタチアナのキス、とはっきり描かれているので、これに監督クリステンセンが皮肉で残酷な悲劇性を意図していないわけはないでしょう。純真な農夫セルゲイの純情は結局最後にも命がけで助けた純愛の相手である伯爵夫人に踏みにじられるので、本作がハリウッド映画の性格として反共的・美男美女のメロドラマ的約束を踏まえた作品であるとしてもテーマの徹底した一貫性があり、チェイニー映画の無償の愛のテーマによく即しているばかりか、もしチェイニー以外の中年男性俳優、ウォーレス・ビアリーがぴったりですがウォルター・ヒューストンやライオネル・バリモアあたりでもこの映画はぶれなかったと思われます。本作を北欧映画界の鬼才監督クリステンセンの面目がうかがわれる秀作と目せるのは、そうした厳しい演出手腕ゆえです。