ただし黒澤には理想主義的人物像を描く志向があり、戦後にはその理想が民主主義に取って代わっただけなので作風は一貫していたのですが、溝口が上手くいった映画はたいがい社会の仕組みに適応できない主人公、多くの場合ヒロインがひどい目にあう作品ばかりでした。溝口自身が民主主義的とは真っ向から対立する発想の人間で、溝口が描くことができるのは真っ向から反抗的な孤独な人物か、芸に打ち込んで芸にのみ居所を見つけるか、完全に敗北して破滅する人物です。そういう作風に戻った戦後第6作『雪夫人絵図』'50までの作品で比較的成功したのは芸道時代劇『歌麿をめぐる五人の女』と敗戦後の荒廃した世相で街娼たちの世界を描いた『夜の女たち』くらいで、『雪夫人絵図』からの『お遊さま』'51、『武蔵野夫人』'51の3作も舟橋聖一、谷崎潤一郎、大岡昇平の現代小説の映画化で、合わない民主主義路線よりはずっと安定した作風を示したにせよ、まだ戦後の新たな方向性をつかんだとは言えないものでした。溝口の創作力の爆発は『西鶴一代女』'52から始まり、同作から遺作『赤線地帯』'56までは名作傑作秀作佳作の連発になります。しかしそれも戦後数年の不調な時期を乗り越えたからこそと、この出来不出来の激しい巨匠の場合は見るべきなのかもしれません。
●2月26日(月)
『歌麿をめぐる五人の女』(松竹京都撮影所/松竹'46)*95min(オリジナル106分), B/W; 昭和21年12月17日公開 : https://youtu.be/fiCbo9d1Q_4
○あらすじ 水茶屋難波屋おきた(田中絹代)は歌麿(坂東簑助)のモデルとなって、一躍江戸中の評判となる。勝気なおきたは紙問屋の息子庄三郎に恋い焦れていたが、彼はおいらんの多賀袖(飯塚敏子)とかけ落ちする。おきたは口惜しさのあまり歌麿門下の勢之助(坂東好之助)とその婚約者雪江との仲を嫉妬、あげくは歌麿にまで当たり散らし歌麿の筆は荒んでしまう。だが松平家邸の池で裸女に鯉をつかみどりさせた絵「美人鯉取りの図」で彼はようやく調子をとり戻した。しかし彼は以前描いた絵がお上の怒りにふれ奉行所にひかれていく……。邦枝完二の原作から浮世絵師をめぐる時代の風俗を描こうとした溝口戦後初の時代劇映画である。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
日本映画は創生期から現代ものは東京近郊の撮影所、時代物は京都の撮影所で撮られてきた伝統があるのを再認識させられるほど徳川時代の江戸のムードの再現は非常に見事で、喜多川歌麿(1753-1806)の生きていた時代は江戸時代といっても18世紀末ですから京都のように1000年の歴史を誇る都では少し昔の日本でしかなく、敗戦後2年目でもこのくらいはお手のものだったと思うと美術の再現度と俳優の存在感には現代映画ではたち打ちできない迫真性を感じます。20年と置かずに大震災と空襲に見まわれた東京では作りようのなかった、京都の撮影所ならではの映画を溝口はずっと作ってきたわけです('23年2月の監督デビューは東京の日活向島撮影所でしたが、デビュー年の9月に向島撮影所は関東大震災で壊滅したので他のスタッフともども京都の日活大将軍撮影所に転勤し、以来フリー、第一映画社、新興キネマ、松竹京都に至るまでずっと京都の映画監督でした)。松竹蒲田~松竹大船の映画監督であり続けた5歳年下の小津安二郎とは同じ日本の映画監督でもまったく異なる文化圏の監督だったことはもっと留意されていいことです。そうしたことを考えさせられるのも本作が1946年という製作年度にあって商業映画では珍しい自己言及的作品になっているからで、美人画に打ちこむ歌麿は女性映画で鳴らした映画監督溝口健二の自画像のように見える仕掛けになっています。これはヌーヴェル・ヴァーグ以降には頻繁に行われるようになり、ヌーヴェル・ヴァーグに先立ってスウェーデンのベルイマンなども'50年代初頭からメタ構造的作品を作っていましたが、ベルイマンの場合は映画監督以上に舞台演出家・脚本家のキャリアが大きいので、舞台演出家が自作の映画シナリオを映画作品に監督するとなると自画像的映画、映画製作過程のメタファーであるような映画といった表れ方をしたと思われます。溝口の専属脚本家、依田義賢氏の回想録によると戦後すぐ溝口は松竹から労務委員長職に請われ、というのは生粋の松竹監督は松竹の戦時方針で小津安二郎始め外国の植民地の映画部役職に派遣していて、そうした国策貢献(実際は誰のためにもなりませんでしたが)によって松竹は戦時下の映画会社統合令から免れたのですが、いざ敗戦となるとベテラン監督の多くが引き揚げに手間取っていて、しかも戦後の民主主義体制ということで雇用者側に労務委員長職を設けなければならない。松竹は敗戦間近い'44年~'45年にはマキノ正博をプロデューサーにしていたほど自社監督・スタッフを軍務に回していたので、労務委員長となると会社側の意向に沿ってストライキなど起こさずキャリアから見ても雇用者側に説得力のあるベテランがいい、となり溝口に声がかかった。溝口の就任初の労務委員会での口上は「僕が委員長になりましたから、諸君に命令します」だったそうです。まわり道しましたが本作は松竹側の企画で、敗戦直後に現代劇を作っても世相がパッとしないから映画にならない。やはり時代劇がいいが剣戟場面を売りにしたアクション映画は好戦的として進駐軍に禁止されている。そうなると時代劇でも人情劇かメロドラマしかなかろう、と松竹プロデューサーが原作小説の映画化権を買ってきたものでした。
そうした経緯を知ると、依田氏もが「お仕着せ企画」だったと書いているこの題材をここまで溝口自身が自分の芸道路線に引きつけて(依田氏も認めていますが)監督の自画像的映画に仕上げてしまったのはいつも強引な溝口映画でも今回は普通に見せかけて強引な例に上げられます。原作小説は知りませんが映画はごちゃごちゃしたストーリーの割に明確なプロットがなく、歌麿の芸道追究と江戸情緒の描出のための周辺人物たちの色恋沙汰のどちらも焦点を欠いている。この歌麿はあまりに現代的な意味での芸術家でありすぎて、映画全体の江戸のムードから浮いているのです。実際には歌麿の依った天明時代以降の蔦屋重三郎の木版出版社では織物屋の山東京伝のような商人が本職の町人の作家も、太田南畝のような役所勤めが本職の武士階級の作家も同等に遊興文学のサークルつき合いをしていて、江戸時代といっても元禄時代のような武家社会のしきたりは崩れており、町人でも商業や芸能では武家以上に勢力を誇ることができるようになっていたのが山口剛ら近世文学の研究者によって昭和初期には定説になっていましたから、本作のプライドの高い芸術家然とした歌麿像にはそう見当違いはないでしょう。一方現代人のイメージする江戸時代の封建制度下の世相風俗も大きく間違ってはいないので、18世紀後半以降の江戸時代とはもともとそういう矛盾を抱えた中途半端に独自の鎖国近代化した都市文化を生んでいたとも言えます。江戸時代の元号の変遷は煩瑣ですが上方文化の盛んだった江戸時代初期を元禄、遅れて江戸の町人文化が栄えた江戸時代後期を天明に代表させれば、庶民全般の生活意識では元禄も天明もそう大差はないが文化的には天明は都市圏の近代化が進んでいましたが、明治以降生まれの世代が文化の担い手になった明治30年代後半~大正時代以降には美術、芸能、文学では江戸時代の類型化が行われて元禄文化と天明文化を意図的に混同させた創作が行われるようになった。その典型的なものが時代小説や時代劇、時代劇映画で、矛盾の多い江戸時代を作品に描くには260年あまりの幕藩文化を現代的解釈で統一しないでは手におえなかった事情があります。だからマキノ映画が剣戟映画で一世を風靡していた一方、国文学者は実際の江戸時代の文化の変遷を解明していったのですが(その結果、津田左右吉のように封建制度下の天皇制解明の仮説を立てたことから共産主義的と弾圧を受ける研究者までいました)、溝口はさんざん注文をつけて依田脚本を完成させた結果、近松の世話物と西鶴の町人物を混ぜて舞台を江戸に移したような世相人情メロドラマに、津田や山口ら昭和の国文学者が解明したような職能家意識の進んだ時代の歌麿を描いていて、明治後半の二代目尾上菊之助を描いた『残菊物語』よりよっぽど近代的な芸術家の歌麿になっています。時代劇人情メロドラマとしても江戸情緒はたっぷりながら歌麿以外の登場人物たちも『残菊物語』の登場人物たちよりずっと自由に生きていて、なるほど国策翼賛要素からは自由な戦後映画の時代になったんだなと思わせる。その代わり新しい民主主義体制下の映画でなければならないという、戦前の制約よりもある意味やっかいな時代の要請に応えようとしたのがあれもこれもと盛りこんだような構成になり、意欲的で一応は成功してはいるがどこか気合の入れ方が溝口の資質と合っていない感じがする出来になってしまったように見えます。溝口の場合ストイックではあってもナルシシズムはほとんど皆無なので、偶然自画像的になってしまった歌麿にはこれまで描いてきた尾上菊之助や大石内蔵助、宮本武蔵ほどにも、またさまざまな淪落の女たちのようには入れこんで描くことができなかったのではないかと思われます。成功作だし面白い、意欲作でもある。なのにどこか足りなくて率直に言って感動がない。自画像的になった分かえって作者と作品に距離感ができてしまったような映画のような気がするのです。
●2月27日(火)
『女優須磨子の恋』(松竹京都撮影所/松竹'47)*96min, B/W; 昭和22年8月16日公開
○あらすじ 坪内逍遥(東野英治郎)を中心とした研究所では試演場舞台開きの演目に「人形の家」を決定したが、島村抱月(山村聡)はその主役に松井須磨子(田中絹代)を抜擢した。「人形の家」は好評裡に終り、二人の間に恋が芽生えた。抱月の恋は研究所、学校、逍遥らに大きな反響を呼んだが、抱月は冷たい家庭をすて、学校をやめて自由に生きる決心をした。彼は須磨子と芸術座を組織し旅公演に出るが、二人に対する風当りは強く多くの困難にあう。再び東京で公演がひらかれたが幸いにも好評を博し連日大入りとなった。しかし皮肉にも抱月は風邪がもとで急逝してしまい、愛する人を失った須磨子は抱月の命日に舞台で自殺するのであった。長田秀雄の原作「カルメン逝きぬ」の映画化。東宝の『女優』と競作になった。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
本作で元大学教授の舞台演出家で劇団主宰者である島村抱月(1871-1918)がやたらセンチメンタルなキャラクターになってしまったのは、溝口から見た舞台演劇人の世界の反映であるように思えます。抱月は溝口には父親の世代に当たる時代の人です。松井須磨子(1886-1919)は溝口からは叔母、または従姉妹の長姉あたりの年代の人でしょう。坪内逍遥主宰の早稲田大学の演劇研究所公演で抱月演出・須磨子主演の「人形の家」が大センセーションになったのが1911年(明治44年)で溝口13歳、芸術座がトルストイ原作の『復活』で劇中歌「カチューシャの唄」ともども大ヒットを飛ばしたのは1913年~1914年(大正2年~3年)、溝口15~16歳の時です。本作製作時には「カチューシャの唄」の作曲者中山晋平(1887-1952)もまだ存命で、生前の島村抱月・松井須磨子を知る人も多かったのです。抱月の急逝はその年だけで全世界で30~40万人が死亡したと推定されるインフルエンザ(当時「スペイン風邪」)で、須磨子の自殺(舞台の物置部屋で縊死)は抱月急逝('18年11月5日)から2か月後の'19年(大正8年)1月5日でした。当時20歳だった溝口が日活映画社に入社するのは'20年ですから、非常に多感な年頃、10代のまるごとの間に抱月・須磨子の栄枯盛衰を見聞きしてきたことになります。映画人になってからも俳優には演劇畑のキャストと多く接してきたでしょうし、近くは『元禄忠臣蔵』では河原崎長十郎主宰の隠れコミュニスト劇団「前進座」を劇団ごとキャスティングしてもいますから、舞台演劇人の社会は公私とも非常に密接な人間関係がある一種のコミューンである事情はよく承知しており、先進的な劇団ほど経営形態はむしろ旅芸人一座に近い前近代的な手弁当的なもので、映画会社のように大規模な設備投資から成り立つ企業経営組織とは対局的ですらあるゆえのやっかいな閉鎖性を抱えているのを『女優須磨子の恋』もちゃんと押さえています。衣笠貞之助監督作『女優』を未見なので比較はできませんが、依田氏が謙遜するほど本作は設定の甘さが目立つ作品ではなく、実在した演出家と女優を描いた映画という知識を持たずにこれを観ても明治末~大正の西洋演劇摂取の苦難という背景はよく描けていると思います。田中絹代が舞台劇に立つ松井須磨子として『人形の家』の一場面、『復活』の一場面を演じるのはやはり大したもので、そうなると衣笠監督作品では山田五十鈴が松井須磨子を演じていて、衣笠貞之助は歌舞伎の女方出身で映画女優(!)として映画界に入った人ですから溝口の演出とは相当異なったものであるばかりか、この題材への取り組み方自体が違うのは容易に想像できることです。冒頭引いた依田氏の反省はシナリオに作品の弱点を引きつけすぎていて、男女の恋に理屈は不要でしょう。それが劇団主宰者の演出家と看板女優であることが小コミューンであるインディペンデント劇団では問題で、「劇団の維持が目的なのか、本当の演劇芸術をやるのが目的なのか」と抱月が劇団員に詰め寄られる場面が2回もありますが、零細劇団の主宰者である抱月は資金がなければ目的とする演劇芸術も実現できないから今はこらえてくれないか、と懇願するばかりです。演出家と看板女優の関係を描いた映画であり、その点では『歌麿をめぐる五人の女』よりさらに自画像的な本作があまりそうは見えない。抱月が俳優たちに演技指導をしている場面もありますが、溝口映画に登場する芸術家ではいちばん最近の人でありながら本作は芸道ものの系譜には数えられないでしょうし、『愛怨峡』ほども旅公演の華やぎと切実さは伝わってきません。婿養子なので離婚できない抱月は行き詰まれば戻る家庭も教職もありますし、須磨子ほどの女傑なら他の商業演劇の世界に移るなり転職したって成功したでしょう。映画からはそう見えてしまうので、抱月の急逝も須磨子の後追い自殺も史実がそうなったから映画でもその通りにした以上の結末には見えず、フィクションよりも現実の方があまりに唐突だったとしか言えません。
戦後映画らしい開放的な雰囲気はロケ、またはオープン・セットの明るい映像によく出ていて、大正時代はまだ人力車が市中を往来していた世相風俗の再現が観られます。旅公演先では旅館から会場まで「松井須磨子」や「島村抱月」と名前を大書きしたのぼりを立てた人力車で広告を兼ねて一座が乗りこみますが、原作者の長田秀雄役の人物も登場して本作製作時には存命しており、映画化に当たって助言していますからヴィジュアル的な時代考証は細部まで正確でしょう。大正時代の演劇運動を描いた映画としても恋愛メロドラマとしても筋の渋滞はなく観やすい映画ですが、やはり抱月の演劇運動と須磨子とのメロドラマが平行して描かれているだけで、依田氏のように演劇改革者としての抱月が思想的な何かで須磨子と恋愛関係になったと解明するのは無理があるように思えます。あえて言えば抱月には現代西洋演劇のヒロインのような近代的な女性を求めていて、一方須磨子は自分の高いプライドに見合うだけの地位にある男性を求めていたくらいのものに見えます。この二人の恋愛は周囲から反感を買う、というか抱月はえらい女に引っかかってしまったと気の毒がられ、増長するばかりの須磨子は(実際それだけの貢献があったのですが、謙虚さのかけらもなかったのでしょう)疎んじられ、庇護者だった抱月の急死後には須磨子の孤立はわずか2か月で後追い自殺に至らしめるほど厳しかった、と図式化するしかなさそうです。まるで趣向は違いますが、思想弾圧下の大杉栄と伊藤野枝の恋愛を露骨なくらいにメタフィクション形式に再構成した吉田喜重の『エロス+虐殺』'69は極端にしても、抱月と須磨子の場合は恋愛と演劇改革が解離していった結果が破滅を招いたので、抱月と須磨子のどちらか一方の死が、現実では抱月が急死して須磨子が後を追ったわけですが、先に須磨子が急死していたとしても抱月は後追い自殺ではなくても演劇改革の方は挫折してしまっただろうというくらいの説得力がほしかった。抱月は演劇改革運動の前には自然主義文学の理論的養護批評家だったのです。しかし自然主義小説家の島崎藤村や岩野泡鳴のような大胆な自我肯定主義にはついて行けず、自然主義文学でも演劇の分野ならば演劇的形式の中で改革を行うことができると考えた人でした。そういう慎重な戦略的後退を選んでおきながら女優の色香に迷うとは困ったものですが、それだけ須磨子が熱烈に迫ったのでしょう。『復活』の大ヒットの最中に後世ならば商業演劇への転向を果たせる受け皿もあったでしょうが、改革者の名誉か不運か当時はそういう地盤も演劇界にも観客にもなく、芸術座にとって原動力だった抱月と須磨子は恋愛関係にあったからこそ強い指導力を発揮したが須磨子のエゴを増長させたびたび内部分裂を起こさせるような劇団内の不和ももたらしていた。この映画はそうした場面も描いていますが、溝口映画の常でカメラは常に主演の二人に寄り添っていて観客を他の劇団員からの視点に置くことがほとんどないまま抱月の急逝、須磨子の後追い自殺と性急に終わってしまう。本作の見所もまた溝口らしい奥行きのある映像なのですが、この映像は本作のテーマをかえってわかりづらくしてしまったのではないでしょうか。