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映画日記2017年7月31日~8月2日/イングマール・ベルイマン(1918-2007)の'60年代作品(3)

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 '60年代ベルイマン最後の3作は『狼の時刻』'68に続くマックス・フォン・シードウ&リヴ・ウルマン主演の孤島三部作の『恥』と『情熱』(原題の"Passion"はキリストの磔刑にちなむ「受難」と訳すのが正しいと思いますが)、この2作に挟まりベルイマン初のテレビ・ムーヴィー『夜の儀式』(本作はまだカラーではなくB/W作品として製作されました)があり、ベルイマンのテレビ・ムーヴィーはスウェーデン国外では劇場公開作品として配給されることになります。'70年代以降の『ある結婚の風景』'74、『魔笛』'75、『夢の中の人生』'80、引退作『ファニーとアレクサンデル』'82、『リハーサルの後で』'84、遺作『サラバンド』2003はいずれもスウェーデンではテレビ・ムーヴィーとして製作されたものです。さて今回の1968年~1969年作品は前回の『狼の時刻』'68を含めてどん底のベルイマン作品というか、これほど連続して無惨な失敗作を晒したのは多作(今回の3作は第29作~第31作)を誇るベルイマンでも初めてで、'60年代劈頭の『沈黙』三部作は嫌な深刻映画でしたが意図は明解で完成度は隙のない成功作でした。1966年の『仮面/ペルソナ』と1968年の『狼の時刻』はメタ映画への指向では一見似ているようで、『狼~』ではそれまでのベルイマン作品では巧みなフィックス(固定)ショットの積み重ねにせいぜいわずかなパン(角度変更)ショットで密度の高い映像を作り出していた映像文法に変化が見られ、長いドリー(移動)ショットが用いられるようになります。それまでの室内セット中心の撮影から孤島三部作では屋外ロケが増加したのもありますが従来のベルイマンなら人物の移動シーンも数ポイントの固定ショットで決めてみせてくれた構図の妙がドリー・ショットでは霧消してしまい、映像自体が弛緩したものになってしまっています。内容もまたしかりで、窮屈さすら感じさせる『沈黙』三部作の善かれ悪しかれ強固なドラマ構成が孤島三部作では思いつきを羅列したような結構の整わないものになり、筋を読み取ればご都合主義と安易さが目立つ理に落ちて含蓄のないものになっており、この不調は1971年の初の英語作品『愛のさすらい/ザ・タッチ』まで続くので1972年の『叫びとささやき』がベルイマンの復活作と呼ばれるのはこの低迷期があってこそでした。'70年代のベルイマン作品の作品ごとのムラの多さは'60年代後半から始まっていたとも言えますが、最大の悪戦苦闘は『仮面/ペルソナ』に始まり孤島三部作に終わる時期にあり、これをも一種の徹底とすれば『沈黙』三部作同様に孤島三部作をベルイマン作品の頂点とする見方もできるでしょう。映画としてはどうかといえば、これほど誰が見てもあからさまにひどい映画、観るに耐えない作品は滅多になく、『仮面/ペルソナ』から『情熱』までの5作は最悪のベルイマン作品と断言できるほどで、普通5作も続けて失敗作を作ってしまえば商業映画の監督は失格です。ですがベルイマンはぬけぬけと生き延びてなおも監督作品を送り出し続けました。孤島三部作がベルイマン最大の危機を示した作品として一種の負の絶頂と見るのは意地の悪い見方でしょうか。

●7月31日(月)
『恥』Skammen (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'68)*99min, B/W, Standard ; 日本未公開(テレビ放映昭和52年=1977年8月『ベルイマン監督の恥』)、映像ソフト発売

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・タイトル画面に映る設定は「ゴットランド島1971年」(実際はバルト海フォール島ロケ)。前作『狼の時刻』とそっくりな始まり方に早くも悪い予感が走る。本土の内戦により勤め先のオーケストラが解散した音楽家夫婦ヤーン(マックス・フォン・シードウ)とエーヴァ(リヴ・ウルマン)はまだ戦争の波及しないこの島に移住して農園を始める。夫婦はある朝市場へ向かう途中で市長で旧友のヤーコビ大佐(グンナル・ビョーンストランド)と漁師フィーリップ(シッゲ・フュシュト)に出会い、フィーリップから敵軍の島への侵入の報をラジオで聞いたと知らされる。夫婦は政情に関心が薄く、ヤーンも心臓疾患で兵役免除されており危機感を持たなかったが、翌朝庭先の木に一人の落下傘兵が吊り下がって死んでいるのを見つけ、続いて爆撃と銃声の接近に車で逃走し、敵軍と遭遇して諜報員に尋問される。結局農園に戻った夫婦は、村人全員が小学校に収容され尋問や拷問が行われているのを知る。旧友のヤーコビ大佐は夫婦が敵軍の諜報員に尋問されたのを打ち明けられて夫婦を危険から避けるため島民の尋問から外す。ヤーコビ大佐の配慮を知って不安定な精神状態のエーヴァは大佐と関係を持つ。大事の時には民間人の方が財産を探られないので、ヤーコビ大佐はエーヴァに自分の貯金の保管を頼む。翌朝、漁師フィーリップがリーダーとなったゲリラ部隊が収容されている村民を解放し、ヤーコビ大佐を売国奴と告発する。ヤーコビ大佐はヤーン夫妻に助けを求めるが、妻との情事と預かった貯金のことを知るヤーンはかつて大佐に助けられた件は隠したまま、フィーリップの命令でエーヴァの見ている前でヤーコビ大佐を射殺する。ゲリラ部隊はヤーコビ大佐の金を探すが見当たらないのでヤーンの農園を焼き払う。逃げ出したヤーンとエーヴァは島からボートで脱出しようとしている若い男を見つけ、ヤーンは妻の反対を無視して青年を殺し、ヤーコビ大佐大佐の金でボートの二人分の席を買う。難民で溢れたボートはようやく島を出るが出発間際の戦闘でフィーリップは溺死する。代わるがわるオールをこぎ飲み水を回すが、水が尽きてもまだ陸地は見えない。一夜が明けるとボートは見渡す限りの兵士たちの死体で行く手を遮られて死体をかき分けても進まない。もはやボートの舵を取る者もいず全員が横たわり、エーヴァは私たちはどこへ流されていくのだろう、とつぶやく。映画が終わって途方に暮れるのは観客も同じで、ストーリーが錯綜を極めた前作『狼の時刻』から一転してシンプルな展開だが主人公夫婦の性格設定がとらえどころがないばかりか一向に共感できる登場人物もおらず視点の置きどころがないまま話が進むので悪夢度は全編に及んでいる。本作もやはり気づくのは移動撮影の多用で『仮面/ペルソナ』までのベルイマンはフィックス(固定)ショットの人であり、長回しでは鏡を上手く利用してカットの切り返しなしで複数人物の対話や動きをとらえていた。『仮面/ペルソナ』を決めの構図で固めた反動かもしれないが『狼の時刻』から突然人物を追う移動ショットが多くなったのは屋外ロケ場面の比率増加もあるが、その分ばっちり決まった構図も激減する。『仮面/ペルソナ』も決めが多すぎて躍動感のない作品になってしまっていたが『狼の時刻』や本作が移動ショットの多用で生彩を取り戻したかといえばむしろ構図の粗雑さや汚さが目立つ。本作はラストで海上に出てからが一種の広大な密室なのでようやくショットに安定感が出てくるが、内戦状態を描いた中盤部は人物もさばききれず編集も混乱して時間経過すら判然としない編集が多々ある。主人公夫婦の関係が崩れていく過程を描こうとしているのはわかるが崩れるも何も最初から崩れているようにしか見えず、特にフォン・シードウ演じる主人公のエゴイストぶりは最初から最後まで変化がないので何の事件がなくてもこういう性格の男にしか思えずドラマとキャラクターの有機的な結合がない。妻役のウルマンしかりでベルイマンとしては前作『狼~』より地味でリアリスティックな題材と演出を目指したものと思われるがこの内戦劇は十分荒唐無稽で派手なのでフォン・シードウとウルマンの地味目の演技もホラー映画の被害者役と変わりなく見えてくる。『狼~』と異なるのはメタ映画的趣向だが荒唐無稽ながらも戦争映画としての手法はリアリズムなのでその時点ですでに虚構性が強く、観客はこれを実験的設定として観るので印象はメタ映画と変わらない。唯一すごい場面は夜明け直後のボートの周り一面の海面に兵士の死体が漂っているシーンで、オールで掻き分けようもなくボートの乗員に絶望が走る様子は象徴化でも何でもなくストレートに訴えかけてくる。それでも同時代に観た観客にはベルイマンは終わった、と思われても仕方ないような暗澹たる失敗作だが、まだまだこれで終わるベルイマンではなかったのも歴史が証明する。

●8月1日(火)
『夜の儀式』Riten (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム, スウェーデン放送協会TV, シネマトグラフ社'69)*74min, B/W, Standard (テレビ映画) ; 日本公開昭和50年(1975年)8月

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・ベルイマン第30作目はスウェーデンの有料テレビ用撮り下ろし映画として製作され、スウェーデン国外では劇場公開された。ヨーロッパの某都市で上演中のショー「儀式」に猥褻罪の嫌疑がかかり、巡業中のスイスの3人組の一座の座長ハンス(グンナル・ビョーンストランド)、その妻テア(イングリッド・テュリーン)、芸人セバスチャン(アンデシュ・エーク)が予審判事アブラムソン(エーリック・ヘル)に事情徴収のために呼ばれる。一座の3人は男女関係では三角関係があり、交通違反や傷害罪など上演についても不利な過去がある。セバスチャン、ハンス、テアがそれぞれ個別に判事に取り調べを受け、最後に判事の前で問題のショー「儀式」を演じるが、判事はショーの最中心臓麻痺で急死する。「3人は有罪を宣告され、彼らは抗議声明を出して出国し二度とこの国には来なかった」とタイトルが出て終わる。登場人物は一座の3人と判事の4人のみ、舞台は取り調べ室と一座の泊まるホテルの部屋の2か所しか出ない。バストアップと顔面のアップばかりの映像はあまりにテレビドラマ的でやりすぎなほどに見え、かえって興ざめしてくる。ベルイマン作品はおおむね低予算としても貧相には見えなかったが本作は何としても安上がりで、これまでのベルイマン映画でも最低の手抜き作品『悪魔の眼』'60を上回る手抜き映画になっている。『悪魔の眼』はまだ愛嬌のある手抜き映画で苦笑しつつも楽しめたが本作はもうどうしようもない出来で、面白くも何ともないどころか映像面でもシナリオにも何一つ取り柄がなくほとんど壊滅的な作品に見える。名優ビョーンストランドで何とか持っているとしたいところだがそれすらきつく、いったい何をやりたかった映画かすら判然としない。孤島三部作よりもさらにひどく、'60年代後半ベルイマンの不調の最底辺に位置する駄作中の駄作、と口を究めて罵倒したくなるがアイディアが枯渇しようと創作意欲など底をついていようと新作作りだけは止めない姿勢は惰性とはいえ認めずにはおれず、本作はベルイマン第30作だが30作目だからといって力作でも何でもないのはヴェテランの開き直りすら感じさせる。ともあれベルイマンを全作品観ようという奇特な人以外は観なくていい作品。これは文句なしに酷い。これが欧米諸国のみならず本邦劇場公開作品とは信じがたい。

●8月2日(水)
『情熱』En Passion (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム, シネマトグラフ社'69)*96min, Eastmancolor, Standard ; (テレビ放映昭和52年=1977年3月『沈黙の島』)日本未公開・未映像ソフト化

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・『この女たちのすべてを語らないために』に続くベルイマン2作目のカラー作品。これも日本語吹き替え短縮版のテレビ放映頻度が高かった。「孤島で一人暮らしをするアンドレーアスという男がいた」というナレーションから映画は始まり、アンドレーアス(マックス・フォン・シードウ)は隣人の農民ユーハン(エーリック・ヘル)と立ち話中に電話機の故障で電話を借りに来たことから同じ島民のアンナ(リヴ・ウルマン)と知りあう。アンナは通話中に泣き崩れ、ハンドバッグを忘れていく。アンドレーアスはハンドバッグの中のアンナの夫からの手紙でアンナの夫もアンドレーアスということ、結婚生活が破局をとげたことを知る。アンナは友人の建築家エーリス(エールランド・ユーセフソン)とその妻エーヴァ(ビビ・アンデション)の家に居候している。ハンドバッグを届けた時アンナが留守だったこと、数日後アンドレーアスが外で偶然エーヴァと出会ったことからアンドレーアスはエーリスたちとすぐに親しくなる。エーリスは人のうっかり気の抜けた顔写真を集めて喜んでいる。エーヴァはエーリスを愛しているが横暴さと皮肉には耐えられないといい、エーリスもエーヴァがかつてアンナの夫の愛人だったのを暴露する。その夜泥酔したアンドレーアスは路傍でユーハンに肩を借りて帰宅する。また、エーリスの旅行中アンドレーアスを訪ねてきたエーヴァはアンナが結婚中自動車事故を起こし夫と息子に怪我を負わせたこと、エーヴァ自身は流産以降不妊症になったことを告白し、アンドレーアスもまたエーヴァと関係することになる。ある日突然に村中の羊が虐殺され、一人暮らしでアリバイがなく精神病院歴のあるユーハンに嫌疑がかかる。アンドレーアスとエーヴァの情事を暴きながらエーリスはアンドレーアスの写真を撮る。アンドレーアスは小切手詐欺、飲酒運転、警官への暴行から離婚に至った経歴をエーリスに自白させられる。アンナはアンドレーアスの家で暮らし始める。ユーハンへの嫌がらせはエスカレートし、アンドレーアスあてに島民からの非難と暴力に抗議する遺書を残して首吊り自殺する。アンナはユーハンの死を悲しむがアンドレーアスは冷たく、二人の仲も破局が近づく。ついに無言で薪割りを続けるアンドレーアスはアンナに向き直り、鉈を壁に投げつけてアンドレーアスはアンナを追う。アンナは寝室にこもり、アンドレーアスは自分の部屋で考えこむ。サイレンが鳴り響き消防車が到着し、納屋が燃えて羊が死んでいる。村人たちが集まってくる中でアンナはアンドレーアスを車に乗せ走り出すがアンドレーアスは「自由になりたい、一人になりたい」とつぶやく。車が泥にとられて草原で止まり、アンドレーアスだけが下りてアンナの運転する車は走り去る。逆方向に歩き始めてすぐにアンドレーアスは膝をついて呻き泣く。「こうして今や彼はアンドレーアスという男になった」と最後のナレーションが流れる。リヴ・ウルマンの顔のアップと会話シーンの長台詞が三部作中もっとも多く、室内シーンのフィックス・ショットもその分多くなったので前2作よりは安定感がある。孤島三部作でようやくカラー作品になり屋外シーンもカラー映像のおかげで見所のあるものになった。『狼~』や『恥』の異常な設定をなくして男女4人のドラマに焦点を絞った分『沈黙』三部作の作風に戻ったような印象があるが主人公の狂気がエスカレートしていく後半が唐突で、羊殺しは農夫ユーハンではなく主人公アンドーレアスだったのか暗示しているような結末もはっきりしない。映画の随所随所に俳優自身(フォン・シードウ、ウルマン、アンデション、ユーセフソン)によるキャラクター解説が入る。ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』'66以降模倣例が続出した手法で成功例にはエドガー・ライツ(西ドイツ)の『カルディラック』'69などが思い出されるが、本作では俳優自身の解説と作中人物のキャラクターがちぐはぐでどうも上手くいっていない。パートナーのいる男女が簡単に不倫するのはベルイマン映画では慣れっこだが、孤島三部作では隙あらば不倫させて話をややこしくさせている観があって、ここまで作為的な上に不倫エピソードが伏線になって何かが生まれるわけでもないとなると単に性的モラルの荒廃を狙っただけのように見えてくる。カラー作品にした分孤島の景物が際立ち、長台詞の会話シーンも微妙な表情が味わえるので孤島三部作中まだしも観て苦にならないが、本作ほど台詞に依存した作品は日本語吹き替えで観る方が楽しめる。輸入盤DVDでは発売されているが日本盤が出る暁には日本語吹き替え短縮テレビ放映版の特典映像を期待したい。前2作よりは面目を保ったが本作で孤島三部作の評価が上がるほどではない。そして次作の『愛のさすらい/ザ・タッチ』もスランプを引きずった作品になるのだった。

*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。

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