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現代詩の起源(15); 高村光太郎詩集『典型』より「暗愚小傳」(v)

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(昭和22年=1947年7月、岩手県にて。長編詩「暗愚小傳」発表月の高村光太郎<1883-1956>・65歳)

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高村光太郎詩集『典型』昭和25年(1950年)10月25日・中央公論社刊(昭和26年5月・第2回読売文学賞受賞)

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 詩集『典型』高村光太郎自装口絵

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 日本の15年戦争中に戦争詩を書いていた屈指の存在は高村光太郎、佐藤春夫、三好達治の3詩人ですが、この時代の詩人には戦争詩が強制されていたのは前の回で解説した通りで、事実上当時の出版統制下では戦争詩を含まない詩集の出版は用紙削減を理由に許可されませんでした。詩人は戦争翼賛詩集を刊行するか、さもなければ断筆かを迫られていたので、これは同人誌にも適用されましたからほとんどすべての詩人が戦争詩を残しています。完全に戦争詩の執筆拒否を貫いたのは西脇順三郎ひとりと言われており、その代わり西脇は戦争詩以外の詩も発表しない完全な沈黙に甘んじました。今回も高村の戦争詩との対照のため諸家の戦争詩をご紹介しますが、便宜上前回同様15年戦争年表を再掲載します。15年戦争と呼ぶ場合、起点は昭和6年の満州事変に置くのが穏当でしょう。。

・昭和06年(1931年) ; 満州事変起こる(9月)
・昭和07年(1932年) ; 上海事変(1月)、日本により満州国建国(3月)、5.15事件、ナチス第1党になる(7月)
・昭和08年(1933年) ; ヒトラー政権樹立(1月)、小林多喜二拷問死(2月)、国連脱退(3月)、宮澤賢治逝去(9月)、抗日運動激化
・昭和09年(1934年) ; 満州国執政溥儀皇帝就任(3月)、中国共産党の大西遷
・昭和10年(1935年) ; 国民政府(蒋介石)と中国共産党(毛沢東)の内戦続く
・昭和11年(1936年) ; 2.26事件、中国国共内戦停止(西安事件)、日独防協定(11月)
・昭和12年(1937年) ; 近衛内閣成立(6月)、日華事変(7月~昭和20年)、南京大虐殺(12月)、抗日民族統一戦線成立
・昭和13年(1938年) ; 近衛内閣「爾後国民政府を相手とせず」と声明(1月)、日中戦争開戦(3月)、国家総動員法公布(4月)、文学者従軍始まる(9月)、高村智恵子逝去(10月)
・昭和14年(1939年) ; ノモンハン事件(5月)、国民徴用列挙公布(7月)、ヨーロッパにおける第二次世界大戦始まる(9月)
・昭和15年(1940年) ; ドイツ軍パリ占領(6月)、日独伊三国同盟調印成立(8月)、大政翼賛会発足(10月)、紀元二千六百年式典(11月)
・昭和16年(1941年) ; 米日経済封鎖(7月)、東条内閣成立(10月)、太平洋戦争勃発・対米英宣戦布告(12月)
・昭和17年(1942年) ; 学徒勤労報国命令(1月)、シンガポール陥落(2月)、日本本土空襲開始(4月)、日本文学報国会結成(5月)、ミッドウェー敗戦(6月)、アジア戦線敗色に向かう
・昭和18年(1943年) ; ガダルカナル島敗戦(2月)、国家総動員法公布(4月)、ドイツ軍敗色に向かう、学徒出陣開始(10月)
・昭和19年(1944年) ; サイパン失陥引責東条内閣崩壊(7月)、東京空襲開始(11月)
・昭和20年(1945年) ; 東京大空襲(3月)、沖縄陥落(4月)、原子爆弾投下(8月)、ポツダム宣言受諾により無条件降伏(敗戦、8月14日)、玉音放送による終戦詔勅(8月15日)


 西脇が師表した萩原朔太郎(1886-1942)も戦争詩集を残さなかった詩人ですが、没年がまだ戦時中であり、また萩原は最後の新作詩集『氷島』(昭和9年)以降は過去の詩集の改訂版しか刊行せず詩作も激減したので、沒年5年前に発表した詩が最後の詩作になりました。それが萩原唯一の戦争詩で、新聞社からの依頼がなければ書かれなかったとされる作品です。文体は『氷島』で回帰した文語詩を踏襲しており、この稚拙な詠みぶりは愛弟子の三好達治にも好敵手だった佐藤春夫にも真似できないものです。つまりこの文語詩は文法的には無茶苦茶で、萩原の天然の諧謔精神が厳粛な戦場をコミカルな紙芝居にしており、しかも本人はいたって真面目という冗談みたいなことになっています。

  南 京 陥 落 の 日 に  萩原朔太郎

 歳まさに暮れんとして
 兵士の銃剣は白く光れり。
 軍旅(ぐんりよ)の暦は夏秋(かしう) をすぎ
 ゆふべ上海を抜いて百千キロ
 わが行軍の日は憩はず
 人馬先に争ひ走りて
 輜重(しちよう)は泥濘(でいねい)の 道に続けり。
 ああこの曠野に戦ふもの
 ちかつて皆生帰(せいき)を期せず
 鉄兜きて日に焼けたり。
 天寒く日は凍り
 歳まさに暮れんとして
 南京ここに陥落す
 あげよ我等の日章旗
 人みな愁眉をひらくの時
 わが戦勝を決定して
 よろしく万歳を祝ふべし。
 よろしく万歳を祝ふべし。
 (初出「朝日新聞」昭和12年12月13日・生前詩集未収録)

 萩原朔太郎に愛された同郷群馬県出身のダダイスト詩人で(同姓は偶然で、親戚・姻戚関係なし)詩集『死刑宣告』(大正14年=1925年刊)、第2詩集『断片』(昭和6年刊)で知られる萩原恭次郎(1899-1938)昭和13年11月逝去(享年39歳)の病床で書かれた遺稿詩もまた大東亜戦争翼賛詩でした。これは戦時中に刊行された遺稿詩集の出版には都合良いものでしたが、詩人にとっておそらく渾身の力作だけに萩原の「南京陥落の日に」にはない痛々しさを示す詩です。

  亜 細 亜 に 巨 人 あ り  萩原恭次郎

 かつて神話の世界に住みゐたる太古の巨人は
 今 亜細亜大陸の泥地に歴史の鉾を羽として飛びゆく。

 巌石の扉あらばそれを開けん
 大河あらばそれを渉らん

 山嶽と森林の彼方民族の移動する行手に
 血なき田畑はゆれ鳴動すれど
 砕くべきものを砕き
 建設すべきものを建設すべく
 巨人はその大望を成就せん。

 今ぞ秋風さむきや大別山山脈は声をひそめ、長江の波白くそよげど
 祖業の指さす道を今日程深く知る日また無かるべし。

 東洋は新しき東洋たらんともがき
 世界はその思想を激しくふるはせ
 歴史はその倍の頁をつくりたり
 われらこの新頁の一人として新世界をたがやさん

 日本列島秋深く
 紅葉と菊花盛り 塩の飛沫に濡れをれども
 巨人は眦を決し鉾を握り民族の歩みを凝視(みつ)む
 山霧深きところ東洋の源に坐し
 大御親神の心もて凝視めて立てるを見よや。
 (初出「セルパン」昭和13年12月、遺稿詩集『萩原恭次郎詩集』昭和15年11月刊収録)

 萩原朔太郎に第1詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年刊)を絶賛されて三好達治の嫉妬を買うほどの輝かしいデビューを飾った伊東静雄(1906-1953、享年47歳)の第3詩集にも時局的な序文と7編の戦争詩が含まれています。うち6編は佐藤春夫や三好達治の戦争詩と同質の和文脈の祝詞的なものですが、もっとも短い6行の口語詩は詩的技巧を捨てた衝撃を感じさせるもので、この技巧の放擲自体が内容であるような作品である所に、第1詩集から文語詩と口語詩の使い分けに意識的だった詩人の萩原(朔太郎)ゆずりの無意識の技巧があります。

  大 詔  伊東静雄

 昭和十六年十二月八日
 何といふ日であつたらう
 清しさのおもひ極まり
 宮城を遙拝すれば
 われら尽(ことごと)く
 誰か涙をとどめ得たらう
 (初出「コギト」昭和17年1月、詩集『春のいそぎ』昭和18年9月刊収録)

 名高い「おつとせい」(初出「文學案内」昭和12年4月)を巻頭に収録した傑作詩集『鮫』を昭和12年8月に刊行した後、敗戦後まで新作詩集を出さずひそかに反戦詩を書き溜めていた金子光晴(1895-1975)が戦争詩の書き下ろしアンソロジーの求めにしぶしぶ提供した、時勢しだいで戦争翼賛詩とも反戦詩ともとれる韜晦した作品もあります。この詩は戦後刊行の軍国日本批判詩集『落下傘』(執筆昭和13年~20年)に表記の改訂だけで再収録されます。

  弾 丸 (タ マ)  金子光晴

 筒口をとび出すなり、弾丸(タマ)は小鳩となる。鳩は平和の使者。
 だから、敵、味方はない。誰でも神のみもとへ東道するのが役目。
 弾丸殿すこしお神酒がすぎたかもしれない。口笛を吹き、ちどり足の上々機嫌。それはいゝが、ゆきずりに罪もない、荒地野菊の首をちぎり、クリークのかはいた泥に人さし指をつつこんだほどの穴をあけてはもぐりこみ、火のやうにやけた鉄兜のまはりを辷り、あるときは、誰かの骨と肉のあひだの窮屈なかくれがをみつけて小首を抱いたまゝ一眠り。
 (初出・合同詩華集『辻詩集』昭和18年10月刊、詩集『落下傘』昭和23年4月刊再収録)

 さて、高村光太郎が中華民国の最高指導者・蒋介石(1887-1975)に送ったメッセージ詩の「沈思せよ、蒋先生」は前回ご紹介しましたが、高村は敗戦後の昭和23年には「蒋先生に慙謝す」を書いています。内容は完全に意を尽くしたもので、ここまで徹底して反省できる自省力はなまじの文学者にはできないでしょう。表現も的確で、簡潔かつ明瞭です。何より一時の思いつきから「沈思せよ、蒋先生」を書いたこと自体を恥じて高村自身も傷ついていることがわかります。しかし「沈思せよ、蒋先生」を優れた詩にしていたものが「蒋先生に慙謝す」には欠けていて、「沈思せよ、蒋先生」は現実認識や判断力については留保がつくにしても気息だけで優れた詩になっていますが、現実認識と判断力では正鵠この上ない内省に達した「蒋先生に慙謝す」は達意の名文としても単なる行分け散文でしかありません。「沈思せよ~」では現実に食いついていた高村は「~慙謝す」では自分自身に言い聞かせているにすぎない、とも言えるでしょう。「蒋先生に慙謝す」は昭和21年~25年の作品を集めた詩集『典型』収録詩編と同時期に北海道の同人誌に発表されていますが、詩集『典型』にも遺稿詩集『典型以後』にも収められませんでした。『典型』刊行時にはGHQの検閲対象になる恐れから外し、『典型以後』では時期的に該当しないから外し(あえて言えば『典型拾遺』と言うべきなので)と外的な理由もあったにせよ、「沈思せよ、蒋先生」と「蒋先生に慙謝す」の対照は詩の不思議を見るようです。そして自伝的長編連作詩「暗愚小傳」は「沈思せよ、蒋先生」ではなく「蒋先生に慙謝す」の位置から書かれた作品です。

 また戦時中の高村も戦後の高村も詩の世界の理想と現実の問題に致命的な錯誤を持ち続けています。蒋介石は高村と同じ目線で世界を見ている軍人政治家ではなく、目前の敵である日本に抗戦するためにはアメリカからの支援を取りつけ、抗日を国家統一手段とし自分がその首長に納まるためには同じ手段を考えていた政敵の毛沢東と統一戦線を組み、終戦後に結果毛沢東政権が主権を握りアメリカの認知も毛政権に移ると台湾で中華民国政権を主張して終生台湾を支配した喰えない政治家でした。高村が素朴に信じようとした日本中心の大東亜共栄圏の理想と欺瞞など眼中になく中華民国のスターリン、ムッソリーニ、ヒトラーを目指した人物だったのです。戦後の「蒋先生に慙謝す」ですら高村にあるのは人類の理想を基準とした発想であり、蒋介石という歴史の生んだ化け物、戦国武将の暗黒を抱えた20世紀人ではありません。これは文学者の現実認識としては致命的で、高村は戦時中にそれをさんざん学んできたはずなのに詩を書くと肝心な錯誤には蓋をして、結果的に理想主義詩人から踏み出せないのです。そうした破綻は詩集『典型』収録作に選ばれたほとんどの詩編にも見られるので、「蒋先生に慙謝す」が詩集『典型』に収録されなかった理由は直接高村自身の戦争詩への回答作品だったからという以外にはないのです。

詩集『大いなる日に』昭和17年(1942年)4月20日・道統社刊

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  沈 思 せ よ 蒋 先 生

詩の精神は疑はない。
なるほど政治の上では縁が無い。
蒋政権を相手とせずと、
かつて以前の宰相は天下に宣した。
けれどもわたくしは先生によびかける。
心が心によびかけ得るのを
詩の精神は毫末も疑はない。
わたくしはむしろ童子の稚なさに頓著せず、
遠く先生に此の言をおくる。
詩流、礼にならはずである。

先生はいそがし過ぎる。
先生は一人で八方に気を配る。
目前の処理に日も亦(また)足りない。
米英的民主主義が右にゐる。
モスクワ的共産主義が左にゐる。
うしろには華僑が様子をうかがひ、
しかも面前にわが日本の砲火が迫る。
先生は一人でそれに当らうとする。
先生は思想と行きがかりとに憑かれてゐる。
何を為つつあるかをもう一度考へるため、
先生よ、沈思せよ。
この一月の月あかき夜半、
先生は地下の一室に何を画策する。

先生は人中の竜であると人はいふ。
先生の部下である愛すべき青年将校から
わたくしもかつて先生の出処行蔵をきいた。
先生は身を以て新生活の範を垂れ、
人みな先生に服すといふ。
わたくしも亦先生を偉とする者だが、
その先生に過ちが一つある。
抗日といふ執念を先生は何処から得たか。
東亜の強大ならんとするを恐れる輩(やから)、
先生の国をなま殺しにし、
わが日本の力を消耗せしめようとした、
彼等異人種の苦肉の計を思ひたまへ。
兄弟牆(かき)に鬩(せめ)ぐのはまだいいが、
外(ほか)其の務(あなどり)を禦(ふせ)ぐべき時、
先生は抗日一本槍に民心を導いた。
抗日思想のあるかぎり、
東亜に平和は来ない。
先生は東亜の平和と共栄とを好まないか。
今でも彼等異人種の手足となつてゐる気か。
わたくしは先生の真意を知りたい。
先生の腹心を披(ひら)いて見せてもらひたい。

画策にいそぐ時、人はまよふ。
一切を放擲して根源にかへる時、
天理おのづから明らかに現前する。
結局われわれは共に手をとる仲間である。
いくらあがいても、
さうならなければ東亜の倫理が立たない。
わが日本は先生の国を滅ぼすにあらず、
ただ抗日の思想を滅ぼすのみだ。
抗日に執すれば先生も亦滅ぶ。
わが日本はいま米英を撃つ。
米英は東亜の天地に否定された。
彼等の爪牙は破摧(はさい)される。
先生の国にとつて其は吉か凶か。
先生よ、沈思せよ。

わたくしは童子の稚なさに似た言を吐く。
やむなき思にかられて
ただひたすらに情を抒べるのみだ。
先生に語るべき胸中の氤慍(いんうん)は尽きない。
あり得べくんば長江のあたりへ飛んで、
先生を面責したいのだ。
むしろ多忙の画策をすてて、
沈思せよ、蒋先生。

(昭和17年=1942年1月13日執筆、初出「中央公論」昭和17年2月号、詩集『大いなる日に』昭和17年4月刊収録)


詩集『高村光太郎全詩集』昭和41年(1966年)1月15日・新潮社刊

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  蒋 先 生 に 慙 謝 す

わたくしは曾つて先生に一詩を献じた。
真珠湾の日から程ないころ、
平和をはやく取りもどす為には
先生のねばり強い抗日思想が
巌のやうに道をふさいでゐたからだ。
愚かなわたくしは気づかなかつた。
先生の抗日思想の源が
日本の侵略そのものにあるといふことに。
気づかなかつたとも言へないが、
国内に満ちる驕慢の気に
わたくしまでが眼を掩(おお)はれ、
満州国の傀儡をいつしらず
こころに慣れて是認していた。
人口上の自然現象と見るやうな
勝手な見方に麻痺してゐた。

天皇の名に於いて
強引に軍が始めた東亜経済の夢は
つひに多くの自他国民の血を犠牲にし、
あらゆる文化を踏みにじり、
さうしてまことに当然ながら
国力つきて破れ果てた。
侵略軍はみじめに引き揚げ、
国内は人心すさんで倫理を失ひ、
民族の野蛮性を世界の前にさらけ出した。
先生の国の外ではたらいた
わが同胞の暴虐むざんな行動を
子細に知って驚きあきれ、
わたくしは言葉も無いほど慙ぢおそれた。
日本降伏のあした、
天下に暴を戒められた先生に
面の向けようもないのである。

わたくしの暗愚は測りしれず、
せまい国内の伝統の力に
盲信の信をかけるのみか、
ただ小児のやうに一を守って、
真理を索める人類の深い悩みを顧みず、
世界に渦まく思想の轟音にも耳を蒙(つつ)んだ。
事理の究極を押さへてゆるがぬ
先生の根強い自信を洞察せず、
ことをほしいままにして詩を献じた。
今わたくしはさういふ自分に自分で愕く。
けちな善意は大局に及ばず、
せまい直言は喜劇に類した。
わたくしは唯心をかたむけて先生に慙謝し、
自分の醜を天日の下に曝すほかない。

(昭和22年9月30日執筆、初出「至上律」昭和23年2月、生前詩集未収録)

*仮名づかいは原文のまま、用字は略字体に改めました。機種依存文字になる一部の稀字はやむを得ず同音同義の別字に置き換えました。

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