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現代詩の起源(2); 高村光太郎と金子光晴(a)

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 前回までで明治30年代後半~40年代を代表する象徴主義詩人・蒲原有明(1875-1952)の紹介はいったん区切りとしたいが、有明はひと言で言うと表現は文語文体にとどまりながらも形式は和歌(短歌)でも俳諧(俳句)でもない、またアカデミックな漢詩でもない、平民的な和漢混交文としての自由詩の可能性を明治時代にようやく示し得た詩人だった。理論的には、明治の詩(短歌、俳句、漢詩や外国語詩作も含めて)の可能性は森鴎外(1962-1922)の掌上にあったと見るとすっきりする。与謝野鉄幹主宰の短歌と詩の同人誌「明星」、正岡子規主宰の俳句とエッセイ(散文によるリアリズムの実践で、当時は「写生文」と呼ばれた)の同人誌「ホトトギス」とも青年時代の鴎外が創刊した文芸同人誌「しがらみ草紙」(1889年=明治22年~)、「めざまし草」(1896年=明治29年~)の系譜を継いだものだった。「しがらみ草紙」創刊の同年に総合誌「国民之友」夏季付録として発表された訳詩集『於母影』は鴎外が中心に監修して鴎外周辺の文学サークルの精鋭たちが寄稿したアンソロジーであり、日本の現代詩はまず『於母影』の訳詩から始まった。鴎外は「新体詩」と呼ばれた明治時代の文語自由詩の創始者でもあったので、晩年まで日本の現代詩に関心を持ち続け、萩原朔太郎の『月に吠える』1917年(大正6年)をいち早く絶賛したのでも知られている。新体詩の最盛期には薄田泣菫(1877-1945)の作風を難じながら蒲原有明を賞賛しており、鴎外自身による最大の詩集は『うた日記』1907年(明治40年9月)がある。
 これは妹の翻訳家・訳詩家の小金井喜美子あての書簡からも当時創作力の絶頂にあった薄田泣菫・蒲原有明を意識した作品集で、1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に第2軍軍医部長として出征していた従軍時に書かれ、「明星」や佐々木信綱主宰の「心の花」などに掲載された偶成詩から成る。形式は新体詩、漢詩、短歌、俳句などあらゆる詩型を試作しており、翌1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任する記念の意味合いもあったと思わ5れる。石川啄木の『あこがれ』、上田敏訳詩集『海潮音』、有明の『春鳥集』が1905年(明治38年)、伊良子清白の『孔雀船』と泣菫の『白羊宮』が1906年(明治39年)で、『うた日記』の1907年=明治40年を挟み1908年(明治41年)には『有明集』の他に『虚子句集』、若山牧水の『海の声』が出ている。この牧水歌集はすでに大正の詩歌に足をかけていて、1909年=明治42年には北原白秋『邪宗門』、三木露風『廃園』が、1910年=明治43年には吉井勇『酒ほがい』と啄木『一握の砂』、日本初の口語自由詩集の川路柳虹『路傍の花』が、1911年=明治44年には白秋の『思ひ出』、啄木『呼子と口笛』(歿後発表)があり、1912年=明治45年(大正元年)に啄木が夭逝して『悲しき玩具』を残すと、翌1913年=大正2年には白秋『桐の花』『東京景物詩』、露風『白き手の猟人』、斎藤茂吉『赤光』、永井荷風訳詩集『珊瑚集』が発表されている。鴎外の『うた日記』はいわば明治新体詩の総決算になったが、『有明集』のように作者の全身を賭けた詩集ではなかった。有明の詩は大正~昭和、そして現在に至るまで詩としての感動を保ち続けるが、鴎外の詩は形式改革だけが作詩の動機だったので明治新体詩の時代が過ぎると同時に役目を終えていた、とも言える。

 形式と内容は不可分のものだが、有明の詩が作品の内実には備えながらも表現ではその手前に留まり踏み込めなかった領域が大正・昭和の詩にとっては重要な主題になる。それは官僚詩人(軍医総監は軍人としては将軍位に相当する)である森鴎外にはその詩では描けなかった領域でもあり(小説では『半日』『ヰタ・セクスアリス』、さらに後期の時代小説連作で対決するが)、日本文学そのものが近代に入って初めて直面したテーマだった。端的に言えばそれは反権力と性のふたつで、国家権力下の個人という問題自体が社会の近代化以降生まれてきたことによる。明治末の蒲原有明でも陸軍砲兵工廠(『春鳥集』収録「誰かは心伏せざる」)や銀行(同詩集収録「魂の夜」)では間接的な軍備・資本主義批判を行い、『有明集』のソネット連作「豹の血」が異様な性愛体験を下敷きにしているのは明らかだが、有明の技法はその性質上テーマよりも言語による現実のフィクション化に向かいがちだった。
 大正時代の現代詩はまず口語自由詩への指向が目的化されたが、萩原朔太郎『月に吠える』に先立って高村光太郎(1883-1956)の画期的詩集『道程』があった。大正詩の始まりを告げる詩集の中でも、白秋の『邪宗門』『思い出』でもなく露風『廃園』でもなく、また『月に吠える』でもなく室生犀星『抒情小曲集』1918、日夏耿之介『転身の頌』1917、佐藤春夫『殉情詩集』1921でもない。口語自由詩ならではの表現を真っ先に打ち出した『道程』は、反権力の詩と性愛の詩を芸術至上主義の詩よりも多く収録し、そこには明治末の詩が向かった象徴主義とは異なった現実把握があった。反権力の詩に「寝付の国」を、性愛の詩に「淫心」がひとりの詩人に同居するのは、高村光太郎にとってのリベラリズムの表明だったろう。
明治44年、自宅アトリエにて、29歳の高村光太郎

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高村光太郎詩集 道程 / 大正3年10月(1914年)抒情詩社刊

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  根付の国  高村 光太郎

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして、
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人
           (十二月十六日)

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(明治44年1月=1911「スバル」に発表、詩集『道程』大正3年10月=1914年抒情詩社刊に収録)
*
  淫心  高村 光太郎

をんなは多淫
われも多淫
飽かずわれらは
愛慾に光る

縦横無礙(むげ)の淫心
夏の夜の
むんむんと蒸しあがる
瑠璃(るり)黒漆の大気に
魚鳥と化して躍る
つくるなし
われら共に超凡
すでに尋常規矩の網目を破る
われらが力のみなもとは
常に創世期の混沌に発し
歴史はその果実に生きて
その時劫(こう)を滅す
されば
人間世界の成壌は
われら現前の一点にあつまり
われらの大は無辺際に充ちる

淫心は胸をついて
われらを憤らしめ
万物を拝せしめ
肉身を飛ばしめ
われら大声を放つて
無二の栄光に浴す

をんなは多淫
われも多淫
淫をふかめて往くところを知らず
万物をここに持す
われらますます多淫
地熱のごとし
烈烈----
           (八月二十七日)

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(大正3年9月「我等」発表、詩集『道程』大正3年10月=1914年抒情詩社刊に収録)
*
 高村光太郎に少し遅れて出発した萩原朔太郎は高村に生涯敬意を払っていたが、朔太郎の弟子を任じる西脇順三郎は高村光太郎の詩を「豪傑の詩」と生涯嫌い続けた。一方、萩原朔太郎の第2詩集『青猫』と同年(大正12年=1923年)に『こがね虫』でデビューした金子光晴(1895-1975)は自分を萩原朔太郎以上の詩人と自負していた。方向性において金子は朔太郎をライヴァル視し、高村光太郎や西脇順三郎とは親しかったが、金子光晴の本領が発揮されたのは朔太郎と共通する方向性のうち芸術至上主義的なものを振り捨てて、金子流の象徴主義の発展によって本来象徴主義とは相容れない、折衷するのが難しい権力批判の詩と人間の実存的なエロティシズムの詩を同じ比重で書けるようになった30歳代後半からだった。
 金子は早熟にして晩成型の詩人だったが、反権力の詩として「おっとせい」、同年に書かれて別の詩集に収録されたエロティシズムの実存主義詩「洗面器」を見ると、権力批判において饒舌で暴露的、性において簡略で暗示的なのが高村光太郎の「寝付の国」「淫心」とは逆になっているのに気づく。高村光太郎と金子光晴は20代半ばに約2年間のヨーロッパ留学体験という共通点があり、それは森鴎外や夏目漱石にもあったのだが、鴎外は軍医、漱石は国立大学英文科教授としての官費留学で厳しい成果が求められた。永井荷風の留学は文学青年の私財による趣味留学で性質が異なる。斎藤茂吉の留学は私立病院院長としてのもので、鴎外や漱石と同じ職業的目的があった。高村の場合は彫刻家の家系だったために新たなヨーロッパ式の彫刻術を学ぶためだったが、高村は注文職人としての彫刻ではなく芸術表現としての彫刻に目覚めて帰朝してくることになった。金子光晴は自分の留学体験を永井荷風に近い、ヨーロッパでの生活体験によって西洋文学理解を深めるためのもの、と自覚があり、1920年の25歳当時にして実家からの遺産1億円を2年弱で使い果たす壮絶な留学をしている。詩集『鮫』は42歳の詩集で、無駄に遊んだ留学体験が詩人にとっては着実な糧となった例だろう。しかもこの詩集は24冊ある金子光晴の詩集の9冊目で、戦時中は詩集を発表できず、次の詩集は11年後にようやく刊行される。年代的にも『道程』と『鮫』では執筆時期に25年あまりを隔てているが、『道程』の延長線上からは「おっとせい」や「洗面器」は出てこないのを思えば、金子光晴がどれほど現代詩の表現領域を拡大してみせたかがこの2編には凝縮されている。
昭和13年、詩集『鮫』刊行翌年、44歳の金子光晴

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金子光晴詩集 鮫 / 昭和12年8月=1937年人民社刊

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  おっとせい  金子 光晴           


そのいきの臭えこと。
口からむんと蒸れる、

そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしていること。
虚無をおぼえるほどいやらしい、 おお、憂愁よ。

そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かったるさ。

いん気な弾力。
かなしいゴム。

そのこころのおもひあがっていること。
凡庸なこと。

菊面。
おほきな陰嚢。

鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反対の方角をおもってゐた。

やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぼけた映画でみる
アラスカのやうに淋しかった。




そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを国外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたたきこんだのは、
やつらなのだ。
バダビアから、リスボンまで、地球を、芥垢と、饒舌で
かきまはしているのもやつらなのだ。

くさめをするやつ。髭のあひだから歯くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦だ。権妻だ。やつらの根性まで相続ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋党だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。

おしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげる空の無限にそうていつも、金網があった。

…………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だった。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたたくのをきいた。

のべつにおじぎをしたり、ひれとひれをすりあはせ、どうたいを樽のやうにころがしたり、 そのいやしさ、空虚さばっかりで雑閙しながらやつらは、みるまに放尿の泡で、海水をにごしていった。

たがひの体温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さをいとうて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、 かぼそい声でよびかはした。




おお。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも気づかずにゐた。


みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは表情を匍ひまわり、
……………文学などを語りあった。
うらがなしい暮色よ。
凍傷にただれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、 反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」

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(昭和12年4月「文学案内」に発表、詩集『鮫』昭和12年8月=1937年人民社初版200部刊に収録)
*
  洗面器  金子 光晴

(僕は長いあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが爪硅(ジャワ)人たちはそれに羊(カンピン) や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木陰でお客を待ってゐるし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。)

洗面器のなかの
さびしい音よ。

くれてゆく岬(タンジョン)
雨の碇泊(とまり)

ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。

人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。

洗面器のなかの
音のさびしさを。

(昭和12年10月「人民文庫」発表、詩集『女たちへのエレジー』昭和24年5月=1949年創元社刊に収録)

Charles Mingus - Mingus Dynasty (Columbia, 1960)

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Charles Mingus - Mingus Dynasty (Columbia, 1960) Full Album exept noted : https://www.youtube.com/playlist?list=PLG-cq9Afl2RO636FM6Nlzi7MeAv4NUE-h
Recorded in November 1(Session A) and 13(Session B), 1959 at CBS 30th Street Studio, New York City
Released by Columbia Records Columbia CS-8236, April 11, 1960
All compositions by Charles Mingus except where noted.
(Side 1)
1. Slop - 6:16 (Session B)
2. Diane : https://youtu.be/jNdcYi80ONM - 7:32 (Session A)
3. Song With Orange : https://youtu.be/b7BPbDdsEzg - 6:50 (A)
4. Gunslinging Bird (Originally titled "If Charlie Parker Were a Gunslinger, There'd Be a Whole Lot of Dead Copycats") : https://youtu.be/Nlmno3lTYbQ - 5:14 (A)
(Side 2)
1. Things Ain't What They Used to Be (Mercer Ellington) - 7:36 (B)
2. Far Wells, Mill Valley - 6:14 (A)
3. New Now Know How - 4:13 (A)
4. Mood Indigo (Barney Bigard, Duke Ellington) - 8:13 (B)
5. Put Me in That Dungeon - 2:53 (B)
(Bonus track on CD)
tk1. Strollin' aka "Nostalgia in Times Square" (Mingus, George Gordon) : https://youtu.be/6BXNdoYWM9A - 4:33 (A)
[ Charles Mingus and His Jazz Group ]
(Session A)
Charles Mingus - bass
Richard Williams - trumpet
Jimmy Knepper - trombone
John Handy - alto sax
Booker Ervin - tenor sax
Benny Golson - tenor sax (exept B3)
Jerome Richardson - baritone sax(exept B3), flute (A2)
Dick Williams (Teddy Charles) - vibes (exept B3 and "Strollin'")
Roland Hanna - piano (exept B3 and "Strollin'")
Nico Bunink - piano (B3 and "Strollin'")
Maurice Brown - cello (A2)
Seymour Barab - cello (A2)
Honi Gordon - vocals ("Strollin'")
Dannie Richmond - drums
(Session B)
Charles Mingus - bass
Don Ellis - trumpet (1, 5, 8, 9)
Jimmy Knepper - trombone
John Handy - alto sax
Booker Ervin - tenor sax
Roland Hanna - piano
Maurice Brown - cello (B5)
Seymour Barab - cello (B5)
Dannie Richmond - drums

 前作『Mingus Ah Um』はミンガス門下生の白人テナー奏者テオ・マセロがコロンビアのモダン・ジャズ部門プロデューサーに就任したことで実現した企画だったのだろう。マセロはコロンビアに1957年から移籍してきたマイルス・デイヴィス、60年代にはやはり移籍してきたセロニアス・モンクを手がけることになるが、ミンガスの場合はとりあえず2枚契約だった。商業的にも批評的にも『Mingus Ah Um』と『Mingus Dynasty』は大成功したのだから契約延長があっても良さそうなものだが(70年代に数年の活動休止からカムバックしたミンガスは、またもコロンビアから2作契約でアルバム制作することになる)、コロンビアという会社は後にもビル・エヴァンスやオーネット・コールマンと2作は契約するのだが、ミンガス同様エヴァンスやオーネットさえも2作きりで終わっているのはよほどアーティストの商業性にシビアなのだろう。それはスター性による格付けといっていいかもしれない。
 すでに『Jazz Portraits : Mingus in Wonderland』(1月録音)、『Blues & Roots』(2月録音)、『Mingus Ah Um』(5月録音)と制作してきた1959年のミンガスの11月録音作品が本作『Mingus Dynasty』で、この辺からミンガスのアルバム・タイトルにはミンガスの名前が入ることが多くなる。それにしてもこの1959年録音の4作はどれも傑作なのだからすごい。『Jazz Portraits』でスタンダード「I Can't Get Started」を、『Mingus Dynasty』ではあえてデューク・エリントン曲を2曲入れた以外はすべてミンガス自身のオリジナル新曲で固めている。後にサン・ラが「ミンガスはなかなか良い。みんな私が考えていた音楽アイディアだが」と発言したが、偶然にもサン・ラのアルバム・デビュー作『Jazz by Sun Ra』1956はミンガスが『Pithecanthropus Erectuts』でスタイルを完成させたのと同年になるが、それから5年の1961年にサン・ラが『The Futuristic Sounds』でニューヨーク進出するまでの13枚のアルバム紹介はすでにこのブログでやった。しかし同時期にミンガスは『Pithecanthropus Erectuts』『The Clown』『Mingus Three』『Tijuana Moods』『East Coasting』『A Modern Jazz Symposium』『Jazz Portraits』『Blues & Roots』『Mingus Ah Um』『Mingus Dynasty』が59年までにあり、61年録音まで追加すれば『Pre-Bird (aka Mingus Revisited)』『Mingus at Antibes』『Charles Mingus Presents Charles Mingus』『Mingus!』『Reincarnation of a Lovebird』『Tonight at Noon』『Mingus Oh Yeah』があるのだ。アルバム制作枚数でも、強固で独創的なスタイルの確立とアルバムの圧倒的な完成度でも、いくら初期サン・ラが過小評価されているといっても1956年~1961年のミンガスとサン・ラでは横綱と三役、それもせいぜい小結といったところか。もしジャズ・メッセンジャーズとの比較ならジャズの可能性はサン・ラにあると言えるのだが、ミンガスはサン・ラの存在などおそらくほとんど知らずにここまでやった。一方サン・ラがミンガスを参考にした痕跡はあちこちにあり、実際にミンガスの音楽を意識していたのはサン・ラの若手メンバーたちだろうが、モダン・ジャズではこれほど集中的に爆発的な創造力を発揮したアーティストは同時代には数年遅れでジョン・コルトレーンしかいなかった。
(Original Columbia "Mingus Dymasty"Promotiomal LP Liner Notes)

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 だが単体では名盤と呼ぶにふさわしい『Mingus Dymasty』は、『Pithecanthropus Erectuts』以来のミンガス・ミュージックを大資本のコロンビアで贅沢なメンバーと優れた楽曲で満足できるものだが、音楽的には飽和状態を感じさせる作品になったのも事実だろう。潤沢な制作予算をかけたゴージャスなアルバムだが、『Pithecanthropus~』以来ミンガス作品の音楽水準は高い上にも高く、この作品だけ聴くなら同時代のジャズでは飛び抜けた驚異的名盤だが、ミンガスならこのくらいは当然というおかしなことになってしまった。ちなみに前作『Ah Um』は『Pithecanthropus~』以降のミンガス最大編成だったが(ロサンゼルス時代の初期ミンガスは臨時編成ビッグバンド作品のシングルを自主制作しては、ことごとく失敗していた)、『Dymasty』では中規模ビッグバンドといえる編成でミンガス常連メンバーにずらりと招集をかけている。次作『Pre-Bird』は作風確立以後のミンガス初の本格的ビッグバンド作品になるから、『Ah Um』と『Pre-Bird』の橋渡しの位置づけとすれば座りが良い。
 トロンボーンのジミー・ネッパーは最初から上手かったがここではさらに表現力の成長が目立つ。主要メンバーではカーティス・ポーター(シャフィ・ハディ、アルト&テナーサックス)在籍末期からジョン・ハンディ(アルト&テナーサックス)、ブッカー・アーヴィン(テナーサックス)が加入していたが、今回ついにポーターの名が消えた。また、短期間ながら最高の適性を見せたホレス・パーラン(ピアノ)に代わってローランド・ハナが参加している。ハンディとアーヴィンはアルトとテナーの違いがなければ一瞬わからなくなるくらい似たサウンドのR&B系サックス奏者で、ハンディの方がタメの効いたアドリブで、アーヴィンの方はぶっきらぼうな推進力に特徴があるか。達者で味もあるが、ジャッキー・マクリーンやカーティス・ポーターのような表現力や革新性はあまり感じらるない。マクリーンやポーターよりもテクニックでは上と思わせるにもかかわらず、で、翌年にテクニック・表現力・革新性ともに超弩級のマルチ・サックス奏者エリック・ドルフィーが加入するとハンディとアーヴィンはあっさり呼ばれなくなる。ピアノのローランド・ハナはちょっとウィントン・ケリーを思わせる小粋なスウィンガーで名手の片鱗がここでもあちこちで聴けるが、ミンガスの音楽に合っているかはマル・ウォルドロン、ビル・トリリア、ホレス・パーランらの優れたプレイを聴いてきた後では違和感を感じる。
(Original Columbia "Mingus Dymasty"Promotiomal LP Side 1 & 2 Label)

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 くり返すがこのアルバムは初めてミンガスを聴く人にも太鼓判を捺して推奨できる名盤で、しかしミンガス作品を一通り聴くと代表作には上がらない水準作という大物ならではの困った事態になる。またしてもサン・ラを引き合いに出せば、サン・ラも規格外のスケールを誇る大物だから全然適切な比較にはならないのだが、(1)満場一致の代表的傑作、(2)推奨できる名作・佳作、(3)聴いておきたい問題作、(4)さらにサン・ラを知りたい人には楽しめる作品、(5)完全にマニア向け、と5段階には分けられる。サン・ラがすごいのは(1)~(5)までのアルバムが均等な枚数あることで、これがマイルスやローランド・カークなら(2)が多数に次いで(1)と(3)があり、(4)(5)はごく少ない。ミンガスはというと(1)と(2)、つまり必聴盤と名盤ばかりでどれを選ぶともいかなくなる。テーマ的には本作は『A Modern Jazz Symposium』のコンセプトを『Blues & Roots』の音楽性で再演したもので、ミンガスの考える「デューク・エリントン→チャーリー・パーカー→そして俺」というジャズの正統的系譜をオリジナル曲やエリントン曲のカヴァーにこめている。エリントン曲の2曲「Things Ain't What They Used to Be (昔は良かったね)」と「Mood Indigo (ムード・インディゴ)」のアレンジと演奏など、エリントン楽団の半数の楽器編成でビ・バップ以降の音楽に変貌させている。アルバムのサイド2はエリントン曲とミンガス曲の区別がつかないほど、エリントン的オリジナル曲をエリントン曲の最新カヴァーのように演奏する、という複雑な効果を狙って大成功している。
 だがこのアルバムの濃厚さはサイド1だけで満腹になるほどで、『Blues & Roots』の「Wednesday Night Prayer Meeting」の再演中に発展したと思われる「Slop」(「Wednesday~」のテーマなし、リフ流用、またこのセッションで「Wednesday~」の再演テイクも未発表のまま残されている)、ミンガス自身によるライナーノーツの口述筆記者の女性ジャーナリストに捧げたミンガス得意の無調のバラード「Diane」、ジミー・ネッパーと契約上別名参加のテディ・チャールズをフィーチャーした「Song with Orange」、そしてマイナー・ブルースの力作「Gunslinger Bird」は原題は「もしチャーリー・パーカー(バード)がガンマンだったらイミテーションする連中(コピー・キャット)の屍の山ができただろう」と物騒なものだった。1999年のリマスターCDから復元されたが、LPや旧規格CDではA1,3,4,B1の4曲は各2分、計8分にもおよぶ編集によるカットがあったという。サン・ラのサターン盤ならサイド1とサイド2を別々のアルバムで出していただろう。アルバム未収録になった唯一のヴォーカル曲(映画『アメリカの影』用サントラ曲集『Jazz Portraits』で既出、映画では主題曲として使用の「Nostalgia in Times Square」のヴォーカル・ヴァージョン)「Strollin'」も面白い。ジャズ・ヴォーカルのマニアには評判が悪いホニ(ハニー)・ゴードンが歌っているが、最初ヴァースから始まるのでおや、と思ってしまう。粋な都会的ブルースになっている。ミンガス自身のライナーノーツでは小組曲「Far Wells, Mill Valley」の4部構成の解説を詳述しているが、サイド2はトータルな流れがありエリントン曲「Things Ain't What They Used to Be」からの流れではことさら凝った感じはしない。そんな具合に、欠点がないのが欠点とでも言いたくなるような見事な完成度を誇るからこそ、物足りなさを感じさせもする。難しいものだと思う。

真・NAGISAの国のアリス(61)

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 第7章。
 ハートのキングは白ウサギに、ジャックの告訴状を読み上げるよう命令しました。白ウサギは開廷合図のトランペットを3回吹くとポケットから巻物を取り出して広げ、朗々と歌い出しました。

 ♪夏にまるまる1日がかりで
 ハートのクイーンが作ったタルト
 それをまんまと盗み出したのは
 被告人席のハートのジャック!

 第1の証人を呼ぶダス、とハートのキングが言いました。白ウサギはトランペットを吹き、第1の証人!と呼びました。ティーカップとバターつきのパンを持って帽子屋が入廷してきました。続いて3月ウサギとネムリネズミも腕を組んで入ってきます。
 失礼いたします王さま、と帽子屋、変なものを持ってきてしまいまして。ですが私らはまだお茶会の途中だったのです。
 いつからダス?とキング。
 3月14日です、たぶん。
 それに帽子を脱ぐダス、お前さんの帽子のことダスよ!
 いや違います、と帽子屋、私は帽子屋ですから、これは売り物です。
 それを聞いたクイーンは眼鏡をかけ、帽子屋をじろじろにらみました。さすがに帽子屋も落ちつきません。
 早く証言するダス、とキング。いちいちビクビクするなら、お前さんも処刑するダスよ。ますます帽子屋は取り乱し、パンではなくてカップをかじってしまいました。
 こないだの音楽会の出場者名簿を持ってくるザンス、と追いうちをかけるクイーン。帽子屋は震え上がり、靴が足から落ちました。
 証言するダス、とキング、さもないと無条件で処刑ダス。
 帽子屋はわなわな震えながら、私は無関係です王さま。お茶会だってまだ1週間にもなりません。パンは干からび、お茶は……
 お茶が何ダス?とキング。
 お茶会ですから、と帽子屋。
 お茶会にお茶は当然ダス!とキング。
 そんな風にお茶会をしてまして、ですが3月ウサギが言うには……
 言ってない!と3月ウサギ。
 言った!と帽子屋。
 でたらめだ!と3月ウサギ。
 そうダスか、とキング、ではその部分の証言は無効ダス。
 帽子屋は慌てて、それでとにかくネムリネズミが言うことには……
 言ってません!とネムリネズミ。
 言った!と帽子屋。
 いや違います!とネムリネズミ。
 帽子屋はますます憔悴し、それで私はその後、少々バターを塗ったパンをもう少しいただきまして……
 待つダス、とキング、ネムリネズミは何と言ったのダス?
 ええと、わかりません、と帽子屋。思い出さなければ処刑ダス!とキング。


Chrome - Alien Soundtracks (Siren, 1977)

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Chrome - Alien Soundtracks (Siren, 1977) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PL99DD6F0D254C13B6
Recorded at Alamar Studios in San Francisco, California
Released by Siren Records DE21-22 SEC-L, 1977
Produced by Damon Edge
(Side 1)
A1. Chromosome Damage (Creed, Edge) - 3:50
A2. The Monitors ( Creed, Edge)- 2:23
A3. All Data Lost ( Creed, Edge ) - 3:25
A4. SS Cygni (Creed, Edge ) - 3:33
A5. Nova Feedback (Edge, Lambdin, Spain ) - 5:53
(Side two)
B1. Pygmies in Zee Park (Creed, Edge) - 6:01
B2. Slip It to the Android (Edge, Lambdin, Spain) - 3:47
B3. Pharoah Chromium (Edge, Lambdin, Spain ) - 3:27
B4. ST37 (Creed, Edge, Lambdin, Spain ) - 2:12
B5. Magnetic Dwarf Reptile ( Creed, Edge, Lambdin, Spain ) - 3:41
[ Chrome ]
Helios Creed - lead vocals, bass guitar, guitar
Damon Edge - drums, Moog synthesizer, production, engineering, art direction, guitar (on B1), lead vocals (on B2, B3)
John Lambdin - guitar, bass guitar, electric violin
Gary Spain - bass guitar, acoustic and electric violins / electric guitar, moog synthesizer & lead vocal (on B4)
add
Michael Lowe - additional guitar (on B3)
Amy James - flute (on B5)
 (Original Siren "Alien Soundtracks" LP Liner Cover)

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(日本語版ウィキペディアより)
クローム (バンド)
 クローム (Chrome) は、アメリカ合衆国のロック・バンド。1970年代末のニュー・ウェイヴ、ノイズ/インダストリアルミュージック・シーンにおける最重要バンドのひとつである。

概要
 1976年にアメリカ合衆国のロサンゼルスでダモン・エッジ (ギター、ボーカル) を中心に結成された。翌年ファーストアルバム『The Visitation』を自主レーベルから発表。ヘリオス・クリード (ギター) が参加したセカンドアルバム『Alien Soundtracks』(1978年) から注目されるようになった。エレクトリック・ギターのエフェクターやテープ操作を多用し、SF、ドラッグ、シニシズムなどのカルチャーを渾然一体にした独特のロックを演奏し、後続バンドのミニストリーらに大きな影響を与えた。サードアルバム『Half Machine Lip Moves』(1979年) はその路線をさらにつきつめたもので、彼らの代表作となった。フォースアルバム『赤い露光 Red Exposure』(1980年) はダンス・ミュージックの要素を取り入れたポップ路線の作品で、メジャーレーベルのワーナーからリリースされ、日本盤も発売された。

 1983年にダモンとヘリオスのふたりは決別し、ダモンはクローム名義でフランスで活動を続けた。

 1995年にダモンが死去すると、ヘリオス・クリードがクロームの名前を引き継ぎ、それまで続けていたソロ活動をクローム名義で行うようになった。

作品
アルバム (1977年 - 1983年)
・The Visitation (1977年)
・Alien Soundtracks (1978年)
・Half Machine Lip Moves (1979年)
・Red Exposure (『赤い露光』1980年)
・Blood on the Moon (1981年)
・3rd from the Sun (1982年)
・No Humans Allowed (コンピレーション・1982年)
・The Chronicles I (1982年)
・The Chronicles II (1982年)
・Raining Milk (コンピレーション・1983年)
・Half Machine from the Sun - The Lost Tracks from '79-'80 (未発表曲集・2013年)
(以上、日本語版ウィキペディアより)
(Original Siren "Alien Soundtracks" LP Side 1 & Side 2 Label)

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 このアルバムの発売月ははっりしていないのだが、サイレンというのはクロームの自主制作レーベルだったそうだから明確な発売日の記録がないのだろう。1977年には間違いないらしい。するとダムド、ストラングラーズ、クラッシュ、セックス・ピストルズのデビュー・アルバムの発売年でロンドン・パンク元年と言える年なわけで、ロンドン・パンクにもワイヤーというすでにポスト・パンク的存在はあったが、こともあろうにフラワー・ムーヴメントの中心地サン・フランシスコからこんなアルバムが出現していたのは信じがたい気がする。リーダーのデイモン・エッジは1949年生まれ、このセカンド・アルバムから加入したリード・ギタリストでリード・ヴォーカルのヘリオス・クリードは1953年生まれ。ともに青春時代をヒッピー思想全盛期に送ってきたはずなのだ。ファースト・アルバム『The Visitation』1976では初期メンバーのマイク・ロウがリード・ギター&リード・ヴォーカルで、1枚きりで脱退したので後任にクリードが加入したのだが、それまでクリードはサイケ版サンタナみたいなバンドでギターを弾いていたという。マイク・ロウをフィーチャーしたファースト・アルバムはワーナー・ブラザースに売り込みを図るも「ドアーズの紛い物」と発売拒否され、サイレン・レーベルから自主制作発売した。下手くそなテレヴィジョンと言っても良く、普通の4人編成のプレ・パンク・バンドだった。
 リーダーはドラマーのエッジだったが、クリード加入後の『Alien Soundtracks』でいきなりクロームは化けた。前述した1977年のロンドン・パンク勢は時代性を加味しないと古い音にしか聴けないが、『Allowed Soundtracks』は今聴いても圧倒的に新しい。新鋭バンドの最新作といっても通用する。クロームが早すぎるバンドだったのが、やっている音楽がたまたま古びる要素のほとんどない音楽だったのか断定はできないが、実際セックス・ピストルズのデビューに触発されたことはリーダーのエッジも認めているからパンク・ロックにカテゴライズされるバンドで間違いないのだろう。しかしニューヨーク・パンクやロンドン・パンクの基準でははみ出てしまう異様な音楽になっており、おそらくプロモーション用に送られた『Alien Soundtracks』はイギリスの音楽誌「Sounds」の5つ星評価で4つ星の高評価を獲得し、クロームはアメリカ本国より先にイギリスとヨーロッパ諸国で知名度を得た。
(Original Siren "Alien Soundtracks" LP Picture Sleeve)

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 クロームの音楽的出発点はホークウィンドとピンク・フロイドのスペース・ロックにアメリカの誇るヴァイオレンス・ロックのザ・ストゥージズのサウンドをぶつけ、実験的なクラウトロック(ジャーマン・ロック)の手法を取り入れる、とパーツ自体はありふれたものだった。やや先にデビュー作を発表していたオハイオ州クリーヴランドのオルタナティヴ・ロック・バンド、ペル・ユビュと発想が似ていたことから、ペル・ユビュの影響も受けたが、実際のサウンドはまったく異なるものになっている。クロームは上記のバンドからサウンドの模倣ではなく本質的な発想のレベルで影響されており、ヴォーカル・スタイルにはストゥージズの暴力性を露わに継承していてもサウンドにはスペース・ロック的、またクラウトロック的なバイアスがかかったものになっている。
 この『Alien Soundtracks』はA面のヴォーカルはヘリオス・クリード、B面はデイモン・エッジのヴォーカル曲で分けられているが、一聴してヴォーカルの違いに気づく人は少ないのではないか。ヴォーカルがサウンドと一体化しており、アルバムにも一貫したサウンドが流れているためクリードとエッジ、B4だけリード・ヴォーカルをとるベースのゲイリー・スペインの違いに気づかないで聴いてしまう。ちなみにB面はサウンド、ヴォーカル・スタイルともにもっとも乱雑な時のカンに似ており、マルコム・ムーニーのヴォーカル時代のカンにもダモ鈴木時代のカンにも似ている。「Soul Desert」「Halleluhwah」などカンのワン・コード・ブギー的な曲との類似があり、カンのアルバムはデビュー作から全アルバムがすべてアメリカ盤も発売されていたので、クロームが聴いていないわけはないだろう。
(Original Siren "Alien Soundtracks" LP Printed Insert Paper)

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 カンよりももっと過激なコラージュ手法はロサンゼルスのフランク・ザッパがライヴでやってのけるほどの得意技だったが、クロームの場合はザッパのように高い演奏力と音楽的整合性を追求する気は当時はなかった(のちにめざましく演奏力の向上と音楽的洗練が見られるが)。A1では始まってすぐに曲がフェイド・アウトしていきやけに短い曲だな、と思うが、まるで別の曲のリフが始まってしばらくするとクロス・フェイドで冒頭の曲に戻ってくる。1曲の中間部分に別の曲をはめ込んでいるわけで、B1などもいくつかのパートに分かれた曲だが、ビーチ・ボーイズやフランク・ザッパ、後期ビートルズとポール・マッカートニー、10cc、クイーンなどが得意とした組曲的展開では全然ない。フランク・ザッパの前衛ロックの影響をクラウトロックのアモン・デュール、ファウスト、ノイ!らが取りいれた時に、クラシック音楽~現代音楽の本場ドイツではザッパ以上に音楽のコラージュ手法は実験的に用いられることになったが、ドイツ人がやるのとアメリカのロック・バンドがやるのではこうも別物になってしまうのか、というくらいクロームは破壊的で、さすがザッパからクラウトロックを経て一周回ってきただけのことはある。
 それもあるが、ニューヨーク・パンクのアーティスティックな気取りも、ロンドン・パンクのプロレタリア・ロック的ポーズもなく、サンフランシスコのクロームは20代半ばすぎても親がかりで教養もなく社会意識も低いニート青年たちのひまつぶしバンドだった、とひどい想像をしてもそう間違ってはいないだろう。次作『Half Machine Lip Moves』まで自主制作のサイレン・レーベルだったのも親のすねかじりでなんとか運営していたと思われる。『Alien Soundtracks』は地元サンフランシスコのストリップ劇場の特別過激興行用に依頼された伴奏音楽「Ultra Soundtrack」として制作されたが、あまりに過激な音楽という理由で却下された。1977年といえばアメリカでは76年12月発売のイーグルス『Hotel California』が2か月間No.1、シングル2枚もNo.1ヒットになっていた。フリートウッド・マックのNo.1アルバム『Rumours (噂)』は77年2月リリースで1,000万枚突破の驚異的ヒットとなり、ドゥービー・ブラザースの『Livin' on the Fault Line (運命の掟)』1977.8はマイケル・マクドナルド加入の前作『Takin' It to the Streets (ドゥービー・ストリート)』1976.3に続いて大ヒット作になった。アメリカの西海岸ロックの商業的成功がピークに達した、ただしカウンター・カルチャーとしての意義はほとんど消滅していたと言ってよい。逆にそれがクロームのような凶悪狂暴な突然変異を生み出し、当時のどんなバンドよりも21世紀のロックを予言する作品になっている。豊さは一時的なものでしかないが荒廃には周期的な普遍性がある、というと、これはあながち歓迎すべき事態ではないかもしれない。

真・NAGISAの国のアリス(62)

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 帽子屋は手にしたティーカップとパンを落とすと、がっくりひざまづきました。私めはつまらない庶民であります、陛下、と帽子屋は息もたえだえに訴えました。
 そうダスな、とハートのキング、確かにお前さんの話はつまらないダス!
 満場の拍手喝采。
 もう証言することがないなら、とキング、さっさと下がっていいダス!
 どうやって下がると言うんです?と帽子屋、これ以上下がるともう床下です!
 それなら床に尻でも着けるダス!とハートのキング。
 帽子屋はうろたえ、できればお茶を済ませてからで……と言いかけるうちからキングはいいから行くダス!と一喝しました。帽子屋は慌てて走って退廷しました。あいつは外で打ち首ザンス!とハートのクイーン。
 次の証人を呼ぶダス!とキングが命じました。入廷してきたのは公爵夫人つきの料理長でした。手には胡椒の瓶を提げており、料理長の通ってきた通路でくしゃみが上がりました。
 これはいかんダス、とキング、仕切り直しが要るダスな。ガマンしてる者は今やるダス!
 全員がくしゃみをしました。
 さあ証言するダス!とキング。やなこったい、と料理長。ではタルトの材料は?とキング。まあ胡椒だね、と料理長。
 シロップです!とネムリネズミが叫びました。そいつをつまみ出すザンス!とクイーンが激昂しました、打ち首ザンス!取り押さえてヒゲをチョン切るザンス!
 料理長が退廷しました。次は?とキング。白ウサギはトランペットを吹くと、アリス!と召喚しました。
 何か証言は?とキング。
 何にも、とアリス。
 全然?とキング。全然、とアリス。キングは愕然として、ではこの者を訴えねばならんダス!いいや告訴なんぞ要らないザンス!とクイーン、極刑にすればいいだけザンス。アリスは悪態をつきました。黙るザンス!とクイーン。ばーか、とアリス。
 このガキの首をちょん切るザンス!とクイーン。余計なお世話よ。なら私がこの裁判の判決を下してあげる。ハートのジャックは無罪、ただし人のタルトを盗るのは禁止。
 無罪?おお!と全員が騒然としました。
 とすれば誰の首も切れないダス、とキング。タルトが勝手に逃げたとでもいうザンスか!とクイーン。タルトが盗まれなくなればいいんでしょ、とアリス、それで気が済まないなら自分の首でも切らせれば?
 クイーンはぐうの音も出ず、タルトを盗んだハートのジャックもこれで無罪放免、ただしタルトはもう盗めませんが。


John Coltrane - Coltrane (Prestige, 1957)

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John Coltrane - Coltrane (Prestige, 1957) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PL4ypuAMic-Gi22Fn4_Gk98sHWEToANLIV
Recorded at Van Gelder Studio, Hackensack, May 31, 1957
Released by Prestige Records Prestige 7105, late 1957
(Side one)
A1. Bakai (Calvin Massey) - 8:44
A2. Violets for Your Furs ( Tom Adair, Matt Dennis) - 6:18
A3. Time Was (Gabriel Luna de la Fuente, Paz Miguel Prado, Bob Russell) - 7:31
(Side two)
B1. Straight Street (John Coltrane ) - 6:21
B2. While My Lady Sleeps (Gus Kahn, Bronislau Kaper) - 4:44
B3. Chronic Blues (John Coltrane) - 8:12
[ Personnel ]
John Coltrane - tenor saxophone
Johnnie Splawn - trumpet on "Bakai" "Straight Street" "While My Lady Sleeps" "Chronic Blues"
Sahib Shihab - baritone saxophone on "Bakai" "Straight Street" "Chronic Blues"
Red Garland - piano on side one
Mal Waldron - piano on side two
Paul Chambers - bass
Albert "Tootie" Heath - drums

 ジョン・コルトレーン(テナーサックス、ソプラノサックス/1926-1967)はマイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーとして注目された1956年にはもう30歳目前、マイルスのバンド・メンバーを勤めながら自己名義のアルバムを作り始めて、30代半ばでようやく自分のバンドを作って独立したが41歳の誕生日を迎える前に亡くなっている。商業的にも批評的にも生前に現役ジャズマン最高の地位に就いていたが、晩年1年間は発見された時には手遅れで余命宣告を受けた末期の胃癌で、亡くなるまで闘病中の事実は伏せられていた。生前に制作した自己名義のアルバムは45作あまり、実質10年間でこの枚数で、発掘ライヴや他のアーティストのアルバムへの参加作を含めるとアルバム総数はその3倍にもなる。
 コルトレーンとマイルス・デイヴィス(トランペット/1926-1991)は同じ年生まれだが、マイルスはチャーリー・パーカー(アルトサックス/1920-1955)がディジー・ガレスピー(トランペット/1917-1993)との双頭バンドを解消した1945年に弱冠18歳でガレスピーの後任にパーカーのバンドに加入したすごいキャリアがあり、1948年から1951年にかけては後にアルバム『Birth of the Cool』や『Dig』にまとめられるリーダー(自己名義)作品を発表していた。一方コルトレーンは兵役を除隊した後ジョニー・ホッジス(アルトサックス)やディジー・ガレスピーのビッグバンドに勤務、ガレスピーのビッグバンドが小規模バンド(リズム・セクションは後にMJQを結成し、ケニー・バレルとミルト・ジャクソンも在籍中だった)に再編された時もガレスピー以外の唯一のホーン奏者に再雇用されたが、この時期のガレスピーのバンドは後のスター・プレイヤー揃いにもかかわらずガレスピー以外はまったく注目されなかった。
 (Original Prestge "Coltrane" LP Liner Notes)

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 マイルスが満を持して初のレギュラー・クインテットを結成した1955年、マイルスはすでにニューヨークのジャズ界の最重要ミュージシャンだったが、コルトレーンは無名に近い二流テナー奏者と思われていた。つまり、マイルスが第1候補にしていたソニー・ロリンズは1930年生まれだがすでに巨匠に足をかけており、コルトレーンがロリンズより4歳も年長ながら同年生まれのマイルスとは比較にならない程度の認知度しかないのは、要するに評判になるほど才能もない奏者だという色眼鏡で見られた。実際、コルトレーンはジャズマンによくある早熟の天才とは違っていた。だがそれを言えば、マイルスはパーカーやガレスピーのような天才の薫陶を受けて急成長したタイプでマイルス自身が天才型とは必ずしも言えず、ガレスピーのバンド出身とはいえコルトレーン在籍時のガレスピーのバンドはビ・バップ全盛期の40年代のような過激なサウンドからもっとR&Bの原型に近いサウンドに転換していた。
 マイルス・デイヴィスは1951年以来プレスティッジ・レコーズと専属契約していたが、1956年には年内でプレスティッジとの契約を満了して1957年には全米最大手のレコード会社のひとつ、コロンビアへの移籍が決定していた。そこで1956年にはプレスティッジとの契約満了のために2回のセッションでアルバム4枚分を録音する。いわゆる"~ing"4部作と言われる『Workin'』『Steamin'』『Relaxin'』『Cookin'』の4枚がそれで、ノルマを終えたマイルスはコロンビアへの第1作『'Round About Midnight』1957をさっさと完成させる。一方マイルス・クインテットのメンバーのうちコルトレーン、レッド・ガーランド(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)はマイルスのメンバーとしての活動とプレスティッジとのソロ契約を継続した。ドラマーのフィリー・ジョー・ジョーンズはプレスティッジと反りが合わずリヴァーサイド・レコーズに移籍した。ちなみにご存知の通り、マイルス・クインテットの「John Paul Jones」というコルトレーン提供のオリジナル・ブルースはコルトレーンがチェンバース、ジョーンズとセッション中にできたナンバーで、このマイルスのオリジナル・クインテットは短命ながら比類ない名グループだった。
 (Original Prestge "Coltrane" LP Side 1 Label)

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 マイルスはバンド・サウンドをトータルでコントロールするのがうまく、それはパーカーやガレスピーのような天才ソロイストではなかったからと本人も謙遜したが、ソロイストとしてもマイルスの表現力の広さと深さはとんでもないものだった。だがマイルスはパーカーやガレスピーがバンドとしてのグループ表現では長らく試行錯誤を重ねているのを間近で見て、音楽的な完成図を設定した上でソロイストには一定の制約を設けることでバンド・サウンドの質を高い水準で安定させる、という見事なセルフ・プロデュース力を発揮した。パーカーとガレスピーのビ・バップはソロイストを解放したが、サヴォイやプレスティッジのようなマイナー・インディーズではビ・バップはメンバーを集めて適当にセッションさせ、そのままアルバム化してしまうという安易な企画が多かった。制作が安直で済むゆえにビ・バップのインディーズは乱立したともいえる。
 コルトレーンはアンサンブル指向のマイルスに較べると断然ソロイスト指向のプレイヤーだが、それは一般的に金管楽器と木管楽器の特性に基づく相違とも言える。コルトレーンの先任テナー奏者だったソニー・ロリンズやジャッキー・マクリーン(アルトサックス)はコルトレーンどころではない奔放なプレイヤーだったが、マクリーンはチャールズ・ミンガスのバンドで絞られたりジャズ・メッセンジャーズの音楽監督にさせられたりでバンド・サウンドとソロイスト指向のバランスの取れるジャズマンになり、他方ロリンズはマックス・ローチやケニー・ドーハムら有能なリーダーと組んでも自分のアルバムでは相変わらずやりたい放題というタイプだった。コルトレーンはマクリーンやロリンズの在籍時よりもマイルス自身のプロデュース力が向上した時期から加入したこともあり、マイルスからの影響を素直に吸収して短期間でテナー奏者としても、トータルなミュージシャンとしても急成長をとげた。アーティストの師弟関係としてはこれほど迂回した屈折もなく、師弟ともが益を得た理想的な影響関係はどんな分野でもそう多くは見られない。
 (Original Prestge "Coltrane" LP Side 1 Label)

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 このアルバムの前にコルトレーンには1957年5月日17 日録音の『Cattin' with Coltrane and Quinichette』という、先輩テナー奏者ポール・キニシェとの共演作品があるが、内容はジャムセッション的アルバムであり、発売もコルトレーンがアトランティックに移籍した後の1959年秋になった。ジャケットのレーベル・マーク下にも「テナーサックスのニュー・スター」と謳った本作こそがコルトレーンにとっても、珍しいことだがプレスティッジにとっても、念入りに準備した初リーダー作だったのは間違いない。A面のピアノにレッド・ガーランド、B面ではマル・ウォルドロンと1日のレコーディングに2人のピアニストを呼び、トランペットのジョニー・スプロウンとバリトンサックスのサハビ・シハブも半数の曲のためだけに呼ばれている。残り半数はコルトレーンのワンホーンか、B2のようにエンド・テーマだけトランペットが重なる程度で、1回のセッションでアルバム2枚分を同メンバーで作ってしまうのが普通のプレスティッジにとっては通常の4枚分の人件費をかけている。そしてこれは、新人サックス奏者の初リーダー作では後のコルトレーンの盟友エリック・ドルフィー(アルトサックス/1928-1964)の『Outward Bound』1961に匹敵する最高水準のデビュー作になった。
 アルバムの制作は実際にはまずマル・ウォルドロンのピアノでB1,B2,B3が録音され、ピアノがガーランドに交替してA1,A2,A3、そしてスタンダードの「I Hear Rhapsody」が録音された。「I Hear Rhapsody」は予備曲だったので後のアルバム『Lush Life』に収録された。A面・B面とも1曲目に強烈なオリジナル(A1はコルトレーンの友人の書き下ろし提供曲、タイトルはアラビア語で「Cry」を意味し、黒人リンチ殺人事件を受けて作曲されたもの)を置き、重厚な3管アレンジで聴かせる。AB面とも2曲目はスタンダードのバラードでA2はコルトレーンの名演でシナトラのレパートリーからモダン・ジャズ・スタンダードになり、B2はマイルス・クインテットのメンバー就任当初から手癖のように引用フレーズにしてきた愛奏曲。A3はラテン・ビートの原曲をストレートな4ビートのスウィンガーにしてコルトレーンのワンホーンで飛ばし、B3はオリジナル・ブルースを3管のソロ・リレーで奏でるハード・バップ曲。チェンバースはさすがでA3の小粋なベース・ソロは絶好調、アルバート・ヒースのドラムスはやや軽いのだが野趣に富むフィリー・ジョーや鋭角的なロイ・ヘインズ、堅実なアート・テイラー(他に呼ばれるとしたらこの3人のうち誰かだったろう)よりこのアルバムには合っている。メンバーは全員コルトレーンとは公私とも親友といえる仲だっただけあり、精神的な共感が通っているのが演奏からでもわかる。だがどこか、このアルバムには作り物めいたところが感じられる。それはドルフィーのデビュー作には感じられない。どこが違うのだろうか。

 というか、ドルフィーの『Outward Bound』とは最高水準のデビュー作としては似ているが、『Outward Bound』はそのままレギュラーのライヴ・バンドでやっていけそうなメンバーだったが、『Coltrane』は顔ぶれに絶妙な必然性があるにもかかわらずレギュラー・バンドにはならない一回性の産物の観があり、プレスティッジ時代のコルトレーンは単独リーダー作だけでも1957年と1958年の2年間で12枚のアルバムを録音したのにレギュラー・メンバーはついに持てなかった。それはプレスティッジの方針から来る制約でもあり、コルトレーンには意中のメンバーがいたのだがアトランティックに移籍する1959年まで機会を待っていた。この『Coltrane』の可能性は、残り1ダースのプレスティッジのアルバムを飛ばして(ブルー・ノートへのワンショット契約作品『Blue Trane』を途中経過として)アトランティック移籍後に開花すると言える。その後のインパルス移籍後の時代も含めて、創造性のすべての萌芽がこのアルバムには込められている。

真・NAGISAの国のアリス(63)

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 マルデン島は中部太平洋に位置する無人島で、19世紀にはインディペンデンスとも呼ばれていました。ライン諸島のうちの中部ライン諸島にあり、キリバス共和国に所属します。標高は低く不毛な島で、面積は約39.3平方km。そしてマルデン島は先史時代に築かれたと考えられる謎の多い遺跡や、かつて存在したと観測される広大な燐酸質グアノ(有機質化石)の希少性、またイギリス初の水爆実験場で、現在は海鳥の重要な繁殖地としてマルデン島自然保護区に指定されたことで知られています。
 幅 8km、最高標高 10mのこの孤島は北を上辺とすると▽の形をしており、外郭ほど標高が高いくぼんだ地形のために内陸部からは海岸すら見えません。島の東側から中央部の大部分には不規則な形の広く浅い礁湖が存在し、そこには多くの小島が点在します。この湖は陸地によって閉じられ海面とは接しませんが地下では海とつながっており、水は完全に海水です。マルデン島には淡水はなく海岸の大部分は珊瑚が占めており、島に打ち寄せる波によってそれらの珊瑚が島の外郭を形成しています。
 孤島であることと乾燥していることから、島の植物相は極めて限られており、15種ほどの固有種しか存在しません。それらの多くも生育不良な藪を形成するに過ぎず、かつてココナッツの木がグアノ採掘の鉱員によって植えられましたがそれらも根付くことはなく、現在では枯れ果てたその木々をわずかに見ることが出来るのみとなっています。
 グアノ採掘が行われていた時代には猫、豚、羊、ハツカネズミがマルデン島に移入されました。豚と羊は全滅しましたが猫とハツカネズミは現在でも島内で生息しているのが確認されています。また少数のアオウミガメが海岸に巣を作り、ヤドカリが多数生息しています。
 マルデン島の発見は1825年7月30日で、ジョージ・バイロンによって発見されました。このジョージ・バイロンは有名な詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(第6代バイロン男爵)のいとこで、ジョージ・ゴードンの後を継ぎ第7代バイロン男爵となった人物です。バイロンはイギリス海軍の軍人で当時は船長職であり、イギリスのロンドンで死去したハワイ王国の若き王カメハメハ2世とその王妃カママルの遺体をハワイ王国ホノルルに送り届ける特別任務を遂行し、ロンドンへ戻る途上でした。
 ひどいところだわ!とアリスは白ウサギの首を締め上げて、何でこんな!


現代詩の起源(2); 高村光太郎と金子光晴(b)

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 ただでさえ馴染みの薄い人が大半の明治~昭和の歴史的詩歌という題目ですし、前回までを読み返して文面が取りつきづらいと感じたので、今後は文体を変えて「です・ます」調で書くことにします。今回も高村光太郎(たかむら こうたろう、初期雅号は高村砕雨。戸籍名の読みは「みつたろう」。1883年=明治16年3月13日 - 1956年=昭和31年4月2日)と金子光晴(かねこ みつはる、1895年=明治28年12月25日 - 1975年=昭和50年6月30日)を並べてみました。高村光太郎は実は現代史の上では案外座りの良い位置づけがしづらい詩人と言えるのがまず問題となります。現代詩史の上で蒲原有明(1875-1952)の次に来るのは北原白秋(1885-1942)、次いで萩原朔太郎(1886-1942)という流れを重視するのは根拠があり、象徴主義詩の日本的消化という観点でも、破格文法による口語自由詩の成立過程の面でも、有明から白秋を経由し萩原朔太郎に至ってこそ現代詩の基礎が確立されたと言えて、高村は長い詩歴にもかかわらず後の宮澤賢治(1896-1933)、中原中也(1907-1937)ともどもその登場に詩史的な系列を持たない詩人でした。金子光晴の詩歴の長さは高村光太郎以上ですが、大戦による文化の断絶を挟んでいる度合いが高村にはなし得なかった成果を上げており、同世代の西脇順三郎(1894-1982)と並んで50歳代を超えてから大きい影響力を持った大詩人と認知されました。
 今日、石川啄木(1986-1912)、高村光太郎、宮澤賢治、中原中也らはむしろ日本の詩の主流だったかのような錯覚があります。しかし明治後期には河井醉茗(1874-1965)や横瀬夜雨(1878-1934)らが有明や啄木以上に広く読まれており、大正時代に白秋と同等で朔太郎以上の影響力を持った、いわゆる詩壇のボス的詩人は三木露風(1889-1964)と川路柳虹(1888-1959)でした。醉茗や夜雨にはまだ文学的価値を認められますが、野心家だけが実質だった露風と柳虹、また大正の流行詩人で姿勢は誠実だった生田春月(1892-1930、船上投身自殺)には今日の読者にはほとんど詩的価値を見出せないでしょう。第二次世界大戦前の日本では、現在も読むに耐える詩人で文筆だけの収入で身を立てていたのは白秋、朔太郎と並ぶ白秋の弟子だった室生犀星(1889-1962)、朔太郎と犀星に私淑した三好達治(1900-1964)くらいで、佐藤春夫(1892-1964)を含めても犀星と春夫は小説による収入が大半だったので、純粋に詩人では白秋と達治だけとも言えます。啄木は新聞社の編集月給で、高村は請負彫刻収入で、宮澤賢治は小学校教員収入だけではなく生家の農地地主収入で、朔太郎と中原は生涯実家からの仕送りと実家の資産の利子で生活していました。
昭和13年、詩集『鮫』刊行翌年、44歳の金子光晴

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 ここまで名前を上げただけでもすでに17人の詩人が並びます。中でも際立った境遇にいたのは、詩人としてデビューする前に相続遺産をほとんど使い果たし、禁治産者同然の身の上になってから詩人になった、まるでシャルル・ボードレール(仏・1821-1867)の日本版のような詩人が金子光晴でした。金子は光太郎、賢治、中原同様に白秋系でも露風系でもなく(一時柳虹系に接近したが、出世には結びつかなかった)、いわば詩壇ではアウトサイダーだった光太郎(初期には石川啄木とともに与謝野鉄幹(1873-1935)・晶子(1878-1942)の「明星」に依りました。啄木、高村、谷崎潤一郎(1886-1965)は同世代です)、賢治、金子、吉田一穂(1998-1974)、高橋新吉(1901-1987)、中原らをまとめて勧誘し同人誌仲間にしたのが同人誌「学校」「銅鑼」「歴程」を主宰した草野心平(1903-1988)でした。草野の組織化を目指さない組織力が、党派性の稀薄なアウトサイダー詩人たちの存在を知らしめた役割は大きいでしょう。大正~昭和戦前期に最大の影響力があった小説家は横光利一(1898-1947)と川端康成(1899-1972)ですが、横光・川端は常に青年詩人の動向に注目していたことでも知られます。三好達治、梶井基次郎(1901-1932)、北川冬彦(1900-1990)を通して彼らが参加した同人誌「詩と詩論」、三好が朔太郎と芥川龍之介(1892-1927)の愛弟子・堀辰雄(1904-1953)と創刊した「四季」、北川が主宰した「詩・現実」に注目し、草野主宰の「歴程」とも詩人同士の交流も盛んで、菊池寛(1888-1948)の文藝春秋社からこれら当時の同人誌詩人たちや、文学研究同人誌ですが小林秀雄(1902-1983)の『文学界』への後援金を引き出し、またジャーナリズムへの仕事を仲介したのも横光・川端の功績です。
 高村光太郎の戦前の知名度は意外にも知る人ぞ知るといった存在で、むしろ彫刻家として名高く、詩人として巨匠たる認知度を獲たのは第二次大戦後、特に詩集『典型』(昭和25年=1950年10月・中央公論社刊)の読売文学賞受賞がきっかけになるようです。『典型』の刊行に続いて翌年にかけ、新潮文庫と角川文庫版高村光太郎詩集、『智恵子抄』の新版、創元社版の『高村光太郎詩集』、中央公論社からの初の『高村光太郎選集』全6巻が刊行されました。創元社版詩集、中央公論社版選集が全詩集、全集を謳えなかったのは、高村の歿後の全集でようやく再録されることになる戦争詩・戦時中の時評が生前にはなかったことにされていたからです。高村光太郎詩集は戦前には第1詩集『道程』(大正3年=1914年)以来『道程 改訂版』(昭和15年=1940年)、『智恵子抄』(昭和16年=1941年)しかないようなものでした。詩人として通受けする高い評価を受けていたのは昭和4年=1929年に、まだ『道程』しか既刊詩集がないにもかかわらず新潮社『現代詩人全集』第4巻を萩原朔太郎、室生犀星との3人集で刊行されていることでもわかります。この選詩集は『道程』から約半数の40編に加えて『道程』以後の新作70編を収録した、戦前の刊行ではもっとも充実したもので、『道程 改訂版』や『智恵子抄』の刊行された大東亜戦争の時期には反権力的な詩は収録を見送られたのです。
明治44年「根付の國」執筆翌年、自宅アトリエにて29歳の高村光太郎

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 さらに問題だったのは、自由主義的な反体制詩人と思われていた高村が太平洋戦争が勃発するや、愛国的戦意発揚詩人となって『大いなる日に』(昭和17年=1942年)、『をぢさんの詩』(昭和18年=1943年)、『記録』(昭和19年=1944年)と戦争詩集を多作したことで、敗戦直前に再刊された『道程 再訂版』も自由主義的な作品を大幅に削除したものでした。つまり戦前~戦時中の高村光太郎には戦後のアメリカ軍駐留時代には発禁とされた作品が半数を占める、という事実が名声を得た晩年の高村に影を落としていました。高村と並んで戦争詩集を多作して敗戦後に闇を抱えた詩人に三好達治がいます。真珠湾攻撃の翌昭和17年=1942年~8月に敗戦を迎える昭和20年=1945年まで、3年ほどで9冊の詩集を刊行したうち3冊が選詩集、『捷報いたる』(昭和17年)、『寒析』(昭和18年)、『千戈永言』(昭和20年)が大部の戦争詩集で、『千戈永言』などは敗戦45日前の刊行でした。ですが三好には同時期に『朝菜集』(昭和18年)、『花筐』(昭和19年)、『春の旅人』(昭和20年)などまったく戦時臭のない純粋な抒情詩の詩集の名作があり、職業詩人として技術的に愛国詩の依頼と自発的な抒情詩を書き分けていたとも取れます。当時大学生の世代だった戦後の詩誌「荒地」の同人らの証言では、戦時中の商業誌各誌は巻頭に競って高村光太郎か三好達治の戦争詩を掲載していたのが印象深かったと機会があるごとに語られていました。
 しかし高村は戦争詩を書く時も全力で本気・真剣でした。詩集『典型』では高村は戦時中は必死で自己暗示をかけていたのだ、という苦しく苦い弁明をしています。昭和25年には高村の戦争詩は完全に絶版にされ、事実上発禁措置を受けていたので『典型』は敗戦を生き延びた日本人、なおかつ戦時中の高村光太郎の詩を覚えているのが前提となった特殊な詩集でした。「読売文学賞は高村光太郎詩集『典型』が受賞した」と当時、西脇順三郎(西脇は戦時中に完全にジャーナリズムから隠遁していました)はエッセイに書いています、「これは現代の日本人が詩とはどんなものかと考えているかを示している」。西脇は高村が大嫌いで、別のエッセイでは「豪傑の詩」と書いています。西脇が萩原朔太郎を師と目したのは、萩原の詩が中性的・植物的と考えたからでした。西脇は自分の詩は萩原を進めて女性的とすら自負していました。一方、秘書を勤めていたほど萩原に師事した三好達治は萩原に中国詩(漢詩)の概念で言う「悲憤慷慨」の精神の近代化を見ており、もし萩原朔太郎が悲憤慷慨の詩人なら高村光太郎と本質は同じものとなるでしょう。ならば金子光晴はどうか。今回はすでに相当長い前置きを使ってしまったので、再び金子光晴「おっとせい」を前回の誤写を正して再掲載し、併せて高村光太郎詩集から「おっとせい」に直接つながる作風の佳作を『道程』以後の昭和初期作品から集めてみました。高村の詩が商業誌作品ではなく同人誌掲載なのにもご注意ください。解説はまた次回になりますが、関連はお読みになればおわかりいただけると思います。
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金子光晴詩集 鮫 / 昭和12年8月=1937年人民社刊

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  おっとせい  金子 光晴



そのいきの臭えこと。
口からむんと蒸れる、

そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしてること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、 おゝ、憂愁よ。

そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かったるさ。

いん気な彈力。
かなしいゴム。

そのこゝろのおもひあがってゐること。
凡庸なこと。

菊面(あばた)
おほきな陰嚢(ふぐり)

鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反對の方角をおもってゐた。

やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぼけた映画(フイルム)でみる
アラスカのやうに淋しかった。




そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを國外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたゝきこんだのは、
やつらなのだ。
バダビアから、リスボンまで、地球を、芥垢(ほこり)と、饒舌(おしやべり)
かきまはしてゐるのもやつらなのだ。

(くさめ)をするやつ。髯のあひだから齒くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人(きちがひ)だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦(めおと)だ。権妻だ。やつらの根性まで相続(うけつ)ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋黨だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。

をしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげる空の無限にそうていつも、金網(かなあみ)があった。

……………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だった。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたゝくのをきいた。

のべつにおじぎをしたり、ひれとひれをすりあはせ、どうたいを樽のやうにころがしたり、 そのいやしさ、空虚(むな)しさばっかりで雑閙しながらやつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。

たがひの體温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さをいとふて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、 かぼそい聲でよびかはした。




おゝ。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも氣づかずにゐた。
みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは表情を匍ひまわり、
……………文學などを語りあった。

うらがなしい暮色よ。
凍傷にたゞれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろえて、拝禮してゐる奴らの群衆のなかで
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、 反對をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」

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(昭和12年=1937年4月「文学案内」に発表、詩集『鮫』昭和12年8月・人民社初版200部刊に収録)
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高村光太郎詩集 道程 / 大正3年10月(1914年)抒情詩社刊

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  根付の國  高村 光太郎

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして、
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人
           (十二月十六日)

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(明治44年1月=1911年1月「スバル」に発表、詩集『道程』大正3年=1914年10月・抒情詩社刊に収録)
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高村光太郎詩集 猛獣篇 / 昭和37年=1962年4月・銅鑼社刊250部限定版

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  ぼろぼろな駝鳥  高村 光太郎

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る國にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無邊大の夢で逆(さか)まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

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高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」肉筆原稿

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(昭和3年=1928年3月「銅鑼」発表、初出型の6行目「何しろみんなお茶番過ぎるぢやないか」を削除、初出では行末句読点なし。昭和26年=1951年9月「 高村光太郎詩集(創元選書) / 昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録、昭和37年=1962年4月「猛獣篇」銅鑼社250部限定版に再収録)
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高村光太郎詩集(創元選書) / 昭和26年=1951年9月・創元社刊

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  のつぽの奴は黙つてゐる  高村 光太郎

 『舞臺が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割方持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は來てるでせうな。壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。萬能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい氣な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の餘興は、結城孫三郎の人形に、姐さん達の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

 『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
スチユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ。老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。
何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考えてゐる。
何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。

高村光太郎父・仏具彫刻師高村光雲( 嘉永5年=1852年 - 昭和9年=1934年)、昭和3年喜寿祝賀会にて

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(昭和5年=1930年9月「詩・現実」発表。のち、初出型の最終行「何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。」を削除。初出型のまま「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録)
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  似顔  高村 光太郎

わたくしはかしこまつてスケツチする
わたくしの前にあるのは一箇の生物
九十一歳の鯰は奇觀であり美である
鯰は金口を吸ふ
----世の中の評判などかまひません
心配なのは國家の前途です
まことにそれが氣がかりぢや
寫生などしてゐる美術家は駄目です
似顔は似なくてもよろしい
えらい人物といふ事が分ればな
うむ----うむ(と口が六寸ぐらゐに伸びるのだ)
もうよろしいか
佛さまがお前さんには出來ないのか
それは腕が足らんからぢや
寫生はいけません
氣韻生動といふ事を知つてゐるかね
かふいふ狂歌が今朝出來ましたわい----
わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て
一片の弧線をも見落とさないやうに寫生する
このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝國資本主義發展の全實歴を記録する
九十一歳の鯰よ
わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

大倉財閥設立者・男爵大倉喜八郎(天保8年=1837年 - 昭和3年=1928年)肖像

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高村光太郎「大倉喜八郎の首」大正15年=1926年制作塑像

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(昭和6年=1930年3月「詩・現実」発表。 「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録 )

Pink Floyd - Interstellar Encore (Live San Francisco, California, USA - April 29th, 1970)

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(Unofficial Not on Label "Interstellar Fillmore" CD Front Cover)

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Pink Floyd - Interstellar Encore (Live San Francisco, California, USA - April 29th, 1970) Full Concert : https://youtu.be/KBy-z7INb-o
Date : 29/04/1970
Venue : Fillmore West, San Francisco, California
Duration : 127:40 min
(Tracklist) :
CD1 : 60:32
1. Grantchester Meadows (Roger Waters) - 7:00
2. Astronomy Domine (Syd Barrett) - 10:19
3. Cymbaline (Waters) - 11:27
4. Amazing Pudding (aka Atom Heart Mother) (Waters, Wright, Mason, Gilmour) - 20:23
5. The Embryo (Waters) - 11:23
CD2 : 67:08
1. Green Is The Colour (Waters) - 4:35
2. Careful With That Axe, Eugene (Waters, Wright, Mason, Gilmour) - 11:26
3. Set The Controls For The Heart Of The Sun (Waters) - 12:47
4. A Saucerful Of Secrets (Waters, Wright, Mason, Gilmour) - 22:46
5. Interstellar Overdrive (Barrett, Waters, Wright, Mason, Gilmour) - 15:34
[ Pink Floyd ]
David Gilmour - guitar, vocals
Roger Waters - bass, acoustic guitar, percussion, vocals
Richard Wright - keyboards, percussion, vocals
Nick Mason - drums, percussion

 ピンク・フロイド1970年ツアー前半の名演と定評があるのがこの4月29日フィルモア・ウェストのコンサートになる。コンプリートで全10曲130分にも及ぼうという長時間演奏で、10分台の演奏が6曲、20分台の演奏が2曲、10分未満の曲はフォーク調のアコースティック・バラード2曲しかない。前回取り上げた1970年ツアー劈頭のコンサートでは、
Croydon 1970
Live At Fairfield Hall, Croydon, Surrey, UK 18th January 1970
(Disc 1)
1. Careful With That Axe, Eugene - 10:58
2. The Embryo - 9:38
3. Main Theme From "More" - 14:02
4. Biding My Time - 5:59
5. Astronomy Domine - 9:02
TOTAL TIME (52:12)
(Disc 2)
1. The Violent Sequence - 15:32
2. Set The Controls For The Heart Of The Sun - 14:05
3. The Amazing Pudding (aka Atom Heart Mother) - 24:34
4. A Saucerful Of Secrets - 16:54
 という具合だった。今回は即興性の強いインストルメンタル「Main Theme From "More"」「The Violent Sequence」を削り、その分馴染みの深いデビュー作の代表的ロング・インストルメンタル曲「Interstellar Overdrive」とセカンド・アルバムのタイトル曲「A Saucerful Of Secrets」を以前よりいっそう大胆なアレンジで長尺化した。この2曲だけでもアナログLPなら悠に1枚分の長さになる。
 即興のみならず緊密なアレンジの面でも「Amazing Pudding」(完成後に「Atom Heart Mother」と改題)はオーケストラとの共演なしの時点でバンドのみのアレンジを固めており、「The Embryo」では後の大曲「Echoes」に発展吸収される、海鳥が鳴くようなエフェクト的ギター・リックがほぼ完成している。フィルモア・ウェストのスタッフがバンド公認で記録録音していたと思われるミキサー卓での、適度にモニター用に拾われたオーディエンスからのリアクションもミックスした極上音質で、このまま公式アルバム化に堪えうる素晴らしい演奏が聴ける。70年1月~72年11月までがピンク・フロイドのライヴ史でもっともクリエイティヴな時期だったのだが(アルバム『The Dark Side Of the Moon』は72年2月から全編ライヴ先行演奏、72年12月に録音され73年3月に発売された)、70年1月のクロイドンから4月のフィルモア・ウェストまでの3か月でピンク・フロイドの演奏は驚異的に完成度を高めている。コンサート前半はロジャー・ウォーターズの歌うバラード「Grantchester Meadows」がプロローグで、テープ録音の小鳥のさえずりのSEがこの曲では全編にかぶさり、SEが持続したまま本格的なオープニング曲「Astronomy Domine」になだれ込む。この曲はデビュー・アルバムではシド・バレットとウォーターズのツイン・ヴォーカルだが、バレット脱退後はデイヴ・ギルモアとウォーターズのデュエットで、ギルモアとウォーターズは声質が似ていて紛らわしいのだが今回のライヴでは「Grantchester Meadows」「Careful With That Axes~」「Set The Control~」がウォーターズ、「Cymbaline」「The Embryo」「Green Is The Colour」がギルモア、「Astronomy~」がデュエット、「Amazing Pudding」「A Saucerful Of~」「Interstellar~」がインストルメンタル曲になっている。粗っぽいのがウォーターズ、もっと濡れた声がギルモアと思えばだいたい判別できる。
(Unofficial Not on Label incomplete "Fillmore West 1970" CD Front Cover)

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 フロイドのステージがサウンドもヴィジュアルも大がかりになったのも1970年のアメリカ・ツアーからで、映像を観るとロジャー・ウォーターズの後ろにおおきな銅鑼(チャイニーズ・シンバル)がぶら下げてある。直径1メートルもあろうかという銅鑼をがんがん叩くのが「~Eugene」や「A Saucerful~」インプロ部での名物で、サウンドだけでもその効果は伝わってくる。また、ミキシング・エンジニアを始めとする音響スタッフの協力で大会場ではサラウンド・サウンド・システムが行われた。現在でいう5.1サラウンドと似た方式を人力でやっていたので、インプロ部分の長大化はサラウンド・セッティングのための時間稼ぎの面もあったかもしれない。最長ヴァージョンで30分を超えたこともある「A Saucerful Of Secrets」のようにはっきり3パートに曲が分かれ、つなぎの部分はほぼ定型リズムのないインプロになる(この曲全体が定型リズムとは別の発想からできており、オン・リズムになるのはパート3終結部だけで、それがタンジェリン・ドリームやアシュ・ラ・テンペルの直接のヒントになったが)フリーなタイプの曲では人力サラウンド・システムは曲の長大化をうながした。
 一方SEが重要な役目を果たす「Cymbaline」では劇伴のようにきっちりとサラウンド・システムを機能させている。この曲はアルバム『More』では4分50秒だからコンサートでは倍以上の長さになったのだが、アレンジ自体がやや重く、テンポを落としてもいるが、曲の中間部はあらかじめテープ録音してある寸劇になる。女性の取り乱した声と、ドアを開けては次のドアへ、また次のドアへと靴音が響くのがサラウンド音響で会場中に鳴り響くようになっている。ちなみに「Cymbaline」は日本では特に人気のある曲で四人囃子が初期からレパートリーにしており、アルバム化されたものでは8・8ロック・ディのだるま食堂のヴァージョンもある。さすかに演劇パートまでは再現していないが、71年の初来日公演でも演奏されている(不完全ヴァージョン音源しか聴いたことがないが)。「Cymbaline」は演出より曲そのものが初期フロイドの湿っぽい部分があって良いが、この大胆なSE使用が後の『The Dark Side Of The Moon』や『The Wall』のSE活用法(アルバム全編がSEによってトータライズされているのはこの2作だろう)につながっていくことになる。
(Unofficial Not on Label "Fillmore Encore" CD Front & Inner Cover)

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 後にロン・ギーシンのコーラス隊とオーケストラ・アレンジを加えて「Atom Heart Mother」となる「Amazing Pudding」は4人編成ならではのアレンジで、こういうものがオフィシャルで出ないからフロイドのリスナーはブートに走るのだが、ウォーターズとギルモアの目の黒い(?)うちは出ないのだろう。「The Embryo」は3分のアシッド・フォーク調のしょぼいスタジオ・ヴァージョンがデモ・テープに聴こえるダイナミックなヘヴィ・サイケ・アレンジでギルモアのギターが冴えまくる。70年10月に発売される『Atom Heart Mother』はフロイド初の全英No.1の名作で日本でも人気が高いが、サウンドはこの4月のライヴよりもおとなしく、むしろこのフィルモア・ウェストのコンサートは『Atom Heart Mother』を飛び越して71年11月発売の次々作『Meddle』のダイナミズムをすでに実現している。「The Embryo」のライヴ・アレンジのロング・ヴァージョンがオフィシャルには存在しないのもフロイドのリスナーがブートに走る理由になっている。ムーディ・ブルース、キング・クリムゾン、EL&P、イエス、ジェネシスだって多かれ(クリムゾン)少なかれ(ジェネシス)発掘ライヴを出しているのだが、フロイドは『The Wall』ツアー以外は後期アルバムのリマスター・デラックス・エディションにブートでは出回り済みの発掘ライヴをようやく添えている程度で、アルバム制作前のプロトタイプ演奏やライヴ用拡大アレンジ版レア曲を出さないままでいる。
 このコンサートはおそらく2部制で、曲の重複はないから客の入れ替えはなかったろうが、たぶん少し休憩を挟んで後半の「Green Is The Colour」が始まる。ウォーターズ作のフォーク曲だがヴォーカルはギルモアで、マイクのセッティングがまずいのか所々ヴォーカルがオフになるが雰囲気は悪くない。リスナーも温まっている。しかも後半2曲目以降は「Careful With That Axe, Eugene」(11:26)、「Set The Controls For The Heart Of The Sun」(12:47)、「A Saucerful Of Secrets」(22:46)、アンコールに「Interstellar Overdrive」(15:34)と初期フロイドのグレイテスト・ヒッツというべき代表曲のライヴ用ロング・ヴァージョンがたたみかけるように演奏される。元々長かった「Interstellar Overdrive」も1.5倍の長さになったが、他3曲はスタジオ・ヴァージョンからきっちり2倍の長さになっている。フィルモア・ウェストの観客の評判はアメリカ西海岸のロックのトレンドを左右する影響力がある、とフロイドも認識しており、要するに本気でアメリカの観客をつかむ気迫で臨んだコンサートなのだ。60年代のうちにヨーロッパではメイン・アクトの座に就く中堅バンドになった。だが本格的に世界的な大物バンドになるにはアメリカでの成功が必要な時期にさしかかっていた。2015年時点でフロイドの『The Dark Side Of The Moon』(4500万枚)はマイケル・ジャクソン『Thriller』(1億1000万枚)、AC/DC『Back In Black』(4900万枚)に次ぐレコード史上第3位のメガセールス・アルバムになっているがこれは全米アルバムチャート1位、トップ200チャートイン連続741週間(13年以上)の実績あってのことだった。
(Unofficial Not on Label "Fillmore Encore" CD Liner Cover)

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 すでに『Meddle』以降の鋭利なサウンドをライヴでは実践していたフロイドが、70年秋のアルバムはA面がオーケストラとの共演に改作されたアルバム・タイトル曲、B面では各メンバーが1曲ずつあえて牧歌的な楽曲を持ち寄った『Atom Heart Mother』にまとめたのは、イギリス本国での成功をまず固めておきたかったのが大きいだろう。オーケストラとの共演作品がロックバンドのステイタスだった時代でもある。現代音楽家のロン・ギーシンのアレンジは優れたもので、日本でのフロイド人気を決定づけたのもドラマチックなタイトル曲による。ただしフロイドのメンバーもギーシンも「Atom Heart Mother」を嫌って失敗作と見なしており、かつてのボックス・セット『Shine On』では未収録にされ、また各種ベスト・アルバムにも『Atom Heart~』からは1度も選曲されなかった。イギリス本国のNo.1以外でもヨーロッパでのセールスは軒並み良く、アメリカでも過去最高の55位まで上がりプラチナムに輝いている。次作『Meddle』は全米70位と順位では落ちたが、売り上げはダブル・プラチナムで、さらに次の『Obscured by Clouds』は地味で低予算、制作期間も短いサントラ盤にもかかわらず全米46位でゴールド・ディスクに輝き、チャートインは逃したがシングル「Free Four」のラジオ・オンエアは好調だった。そして次に『The Dark Side Of The Moon』が1年間に渡る全曲ライヴ先行演奏を経て発表される。
 フィルモア・ウェストのコンサート後半の「Green Is The Colour」、「Careful With That Axe, Eugene」、「Set The Controls For The Heart Of The Sun」、「A Saucerful Of Secrets」、「Interstellar Overdrive」は前半の「Astronomy Domine」、「Cymbaline」、「Atom Heart Mother」、「The Embryo」とともに71年秋のコンサートまで残るのだが、『Meddle』発表後の72年2月に『The Dark Side Of The Moon』全曲ライヴ先行演奏が始まると『Meddle』からの「One Of These Days」「Echoes」に「~Eugene」か「Set The Control~」くらいしか残らなくなってしまう。厳しく見て71年11月までがロック実験室としてのフロイド、または『The Dark Side~』のプロトタイプ演奏が聴ける72年11月までがメンバーの力関係の点でもバンドらしいフロイドだった。もっとも押しも押されぬ大物バンドになってからのフロイドも一筋縄ではいかないのだが、ともあれ『The Dark Side~』以前のフロイドのアルバムは物足りない、今ひとつ狙いがわからないという人でも強引に納得させるだけのライヴ音源の筆頭にこのフィルモア・ウェスト・コンサートは上がる。オフィシャルなスタジオ盤よりこちらがいい、という人がいてもおかしくない。

真・NAGISAの国のアリス(64)

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 食べ物で遊ぶようなことは良くない、と小人のひとりがつぶやきました。ボソボソっと賛同の声が上がります。
 何よ、とアリス、あんたたちイースターエッグを知らないの?あんたたちの文化にはキャラ弁ていうのがないわけ?家を建てたり結婚式の締めくくりでお米を撒くことだってあるし、トマトをぶつけあうお祭りのある国やロールチーズを丘から転がすお祭りをする国もあるわ。それのどこがおかしいの?
 お前ら人類は頽廃している、とさっきとは別の小人がつぶやきました。それをおかしいとも思わないのが堕落の証拠じゃないか。
 それなら何であんたたちには女体盛りに心当たりがあるのよ?
 アリスが問うと、小人たちが返答に窮している様子がわかりました。アリスにしてみれば、してやったりでございます。結局あんたたちカマトトぶっているだけじゃない?と言外にアリスは当てこすっているのでした。こいつ何歳でしたっけ?確か10歳の自称美少女だったはずです。しかしこの物語の作者は32歳のチャールズ・ドジソン先生、筆名ルイス・キャロル氏ですから、責めを負わせるべきは故キャロル氏の方にある、と考えるべきでしょう。
 私はね、とアリスはせいいっぱい虚勢を張りました、あんたたちとは生まれも育ちも違うのよ。あんたたちなんか、とアリスは小人たちの生まれの卑しさを嘲笑しようとしましたが、勢いづいてまくし立てようとして実はちっとも小人たちの生い立ちのことなど知りはしないのに気がつきました。でもアリスだって人は見かけで判断すべきではなく、階級や資産に値打ちがあることくらいはわかっています。一応このお話の時代設定は19世紀中葉ですから、医学的にクリトリスの機能が解明されてからほんのわずかしか経っておらず、女の子がオナニーしているところを母親にでも見つかろうものなら病気と思われ、缶詰の蓋でえぐり取られるのも珍しくはないのが帝国文化のドブの裏でした。そのドブの中から伝説の通り魔・切り裂きジャックが生まれてきたのも伊達ではないごとく、この大国はあと半世紀もすれば再び植民地の大半を失う斜陽国家になる運命でした。
 しかしアリスにはそんな未来のことなどよりも、とにかく迫った危機をいかに回避するかが火急の課題でした。ガリバーは小人に大地に張りつけにされてどうしたんだっけ?なんか簡単だったような気もするわ、とアリスが身を起こすと、杭はあっけなく土から抜けました。


John Coltrane - My Favorite Things (Atlantic, 1961)

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John Coltrane - My Favorite Things (Atlantic, 1961) Full Album expect
A1 : https://youtu.be/681-mXSMAj8
A2, B1, B2 : https://www.youtube.com/playlist?list=PLPY1IpHd3UkPvbb4Y6Qn2yPoBZee97KWR
Recorded in October 21, 24, 26, 1960
Released by Atlantic Records Atlantic SD-1361, March 1961
(Side one)
1. My Favorite Things ( Oscar Hammerstein II, Richard Rodgers) - 13:41
2. Every Time We Say Goodbye (Cole Porter) - 5:39
(Side two)
1. Summertime (Ira Gershwin, DuBose Heyward, George Gershwin) - 11:31
2. But Not for Me (Ira Gershwin, George Gershwin) - 9:34
[ Personnel ]
John Coltrane - soprano saxophone on side one and tenor saxophone on side two
McCoy Tyner - piano
Steve Davis - double bass
Elvin Jones - drums

 ジョン・コルトレーン(テナー&ソプラノ・サックス/1926-1967)の強みは、こういうアーティスティックな挑戦が自然にコマーシャルな成功に結びついたアルバムを、キャリアの節目節目にしっかりものにできたからだ。ビ・バップ以来ジャズ・ミュージシャンの意識は短期間のうちに向上したが、R&Bルーツの大衆音楽を黒人文化の人種的アイディンティティと考えるブラック・ナショナリズム的立場からはモダン・ジャズのジャズマンたちは音楽的にエリート主義に走って、黒人文化の音楽としてのジャズの本来の姿を見失っている、という批判もあった。カリスマと崇拝者からなる一種の秘密組織であり、大衆から乖離して一般の人気も影響力も失ってしまった、ともされた。
 ジョン・コルトレーンは齢40にして闘病死したが、大別してプレスティッジ在籍時代、アトランティック在籍時代、インパルス在籍時代に分けられるキャリアのうち、もともとR&Bの会社であるアトランティック在籍時代に人気ジャズマンの地位を固めたのに強みがあった。コルトレーンの作風は実験的なジャズの最尖鋭を行くものと批評家やマニア受けもしながら、同時に大衆的にも訴求力の高いエモーショナルなスタイルを備えていた。マイルス・デイヴィスのバンド・メンバーを勤めながら量産したプレスティッジへの諸作で一流ジャズマンとの評価を勝ち得、インディーズでも大手ワーナー・ブラザースから全米配給される老舗のアトランティックに新人スターとして移籍、ちょうどマイルスのバンドからも独立して、ここでめきめきと知名度を上げ、マイルスを超える若手黒人ジャズマンのヒーローに目されるにいたる。マイルスは表向き大人の態度だったが、内心相当焦っていたらしく、コルトレーンの急逝する1967年まではマイルスの活動は不安定になる。インパルスとなると、大手ABCパラマウントが発足させた新しいジャズ・レーベルだったが、コルトレーンは看板スター・ジャズマンとして株まで分配されるジャズ部門の幹部待遇で迎えられたのだった。それも直接には、アトランティック在籍時代の華々しい業績による。
 (Original Atlantic "My Favorite Things" LP Liner Notes)

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 発売順にアトランティックでのコルトレーンのアルバムを上げると、
(1) Giant Steps; rel.1960-01 (rec.1959-05-04, 1959-05-05, 1959-12-02) with Tommy Flanagan(p), Wynton Kelly(p), Paul Chambers(b), Art Taylor(ds), Jimmy Cobb(ds), Cedar Walton(p), Lex Humphries(ds)
(2) Coltrane Jazz; rel.1961-02 (rec.1959-11-24, 1959-12-02, 1960-10-02) with Wynton Kelly(p), Paul Chambers(b), Jimmy Cobb(ds), McCoy Tyner(p), Steve Davis(b), Elvin Jones(ds)
(3) My Favorite Things; rel.1961-03 (rec.1960-10-21, 1960-10-24, 1960-10-26 ) with McCoy Tyner(p), Steve Davis(b), Elvin Jones(ds)
(4) Milt Jackson - Bags & Trane; rel.1961-12 (rec.1959-01-15) with Milt Jackson(vib), John Coltrane(ts), Hank Jones(p), Paul Chambers(b), Connie Kay(ds)
(5) Ole Coltrane; rel.1962-02 (rec.1961-05-25) with Eric Dolphy(fl, as), Freddie Hubbard(tp), McCoy Tyner(p), Reggie Workman(b), Art Davis(b), Elvin Jones (ds)
 のリーダー作4作(1)(2)(3)(5)と、ミルト・ジャクソンのリーダー作(4)の5枚がアトランティック在籍中に発売され、
(6) Coltrane Plays the Blues; rel.1962-07 (rec.1960-10-24) with McCoy Tyner(p), Steve Davis(b), Elvin Jones(ds)
(7) Coltrane's Sound; rel.1964-06 (rec.1960-10-24, 1960-10-26) with McCoy Tyner(p), Steve Davis(b), Elvin Jones(ds)
(8) The Avant-Garde (co-leader); rel.1966-0? (rec.1960-06-28, 1960-07-08) with Don Cherry (co-leader, tp), Charlie Haden(b), Percy Heath(b), Ed Blackwell(ds)
 が正式なインパルス移籍専属後に拾遺発売されている。インパルス移籍第1作『Africa/Brass』 (録音1961-05-23, 1961-06-07 )は1961年11月発売だったが、アトランティックとの契約満了のために『Africa/Brass』 より後に録音された(5)『Ole Coltrane』が発売された。(6)(7)(8)のうち実際はドン・チェリーのファースト・リーダー作に参加したものが共作名義になった『The Avant-Garde』はともかく、『Coltrane Plays the Blues 』『Coltrane's Sound』は『My Favorite Things』 との同一セッションから生まれた3部作というべき名盤で、コルトレーンがリーダーではない『Bags & Trane』『The Avant-Garde』は傍流としても(当然『Bags~』はミルト・ジャクソン、『The Avant-Garde』はドン・チェリーのコンセプトで作られている)、録音順に並べ直せば『Giant Steps』『Coltrane Jazz』『My Favorite Things』『Coltrane Plays the Blues』『Coltrane's Sound』『Ole Coltrane』には主題の提示と発展がある。
 まず『Giant Steps』『Coltrane Jazz』は対になるアルバムで、『Giant Steps』の手法の再検討が『Coltrane Jazz』というアルバムだった。ここまでやれば同じ手法をくり返す必要はない。コルトレーンが『Giant Steps』で突き詰めたのはビ・バップのコード分解・代用コード手法の究極の細分化と、それに伴うあらゆる転調のパターンで、『Giant Steps』がジャズのソロイストの必修練習曲になったのはその極端な音楽的合理性にあり、ジャズのアドリブ・ソロを音高だけに限定したその発想は後世のジャズマンに必ずしも良い影響ばかりを与えはしなかったが、コルトレーン自身が『Giant Steps』システムとは別のジャズの方向性をマイルス・デイヴィスの『Kind of Blue』参加経験から予感していた。『My Favorite Things』でついにコルトレーンは念願のレギュラー・メンバーを見つける(ウィントン・ケリーやポール・チェンバース、ジミー・コブはマイルスのバンドから借りてきたメンバーだった)。マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズがそうで、ベーシストの定着は1962年までかかったが、1966年まで続くコルトレーンの黄金カルテットを支えたマッコイとエルヴィンはコルトレーン同様、サウンドだけでも記名性のある存在感を誇るプレイヤーだった。
? (Original Atlantic "My Favorite Things" LP Side 1 Label)

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 コルトレーンがレコーディング上でソプラノサックスを使用したのはドン・チェリーとの『The Avan-Garde』での方が早いが、同アルバムは前記の通り1966年まで未発表にされている。ソプラノサックスの音域はちょうどテナーサックスより1オクターヴ上になり、運指も同一だが、ジャズですらあまり用いられることのない楽器で、戦前からのジャズマンではシドニー・ベシェがクラリネットに相当する用法で名ソロイストだった。ディキシーランド・ジャズでは使われることもあり、セシル・テイラー・ユニットのスティーヴ・レイシーが50年代では珍しいソプラノサックスの新人プレイヤーだった。コルトレーンは共演バンドのメンバーの誰かが楽屋に忘れて行ったソプラノサックスを預かり、自宅へ持ち帰って吹いてみた。他人の楽器をいじるのは当然、吹いてみたなど普通は絶対してはならないこととされる。それはともかく「おお?」と思ったコルトレーンは自分もソプラノサックスを買ってしまう。
 コルトレーンがソプラノサックスから引き出したのは、一種の東洋音楽的ムードだった。それはシカゴでサン・ラが、デトロイトでユゼフ・ラティーフが先鞭をつけていたが、スタイルとしてはすっきりとしたサックスとピアノ・トリオだけのワンホーン・カルテットで、ベシェやレイシーのような洗練された音色ではなくあえて生硬でぶっきらぼうな音で、しかもこのアルバムの時点で言えば発声も運指もたどたどしいままで提示してのけたのは、マッコイやエルヴィンの絶妙なサポートはすでに完成しており、コルトレーンにはまだ不満な力量のベーシストだったらしいがスティーヴ・デイヴィスのベースも悪くない。後にカルテットのレギュラー・メンバーになるジミー・ギャリソンに較べると軽いが、この時点ではデイヴィスくらいの軽さが適度だったとも思える。コルトレーンはアルバム発売後ほとんどのステージで『My Favorite Things』を演奏し続け、晩年の1966年、1967年にはこれ1曲だけで1時間あまりの長時間演奏をくり広げたが、ワルツ・テンポといい、構成の自由度の高さといい、コルトレーンにとってのライフ・ワークとなったのはこの『Sound of Music』からのミュージカル曲でユダヤ音楽との親近性を持つ短調のワルツ「My Favorite Things」だった。
? (Original Atlantic "My Favorite Things" LP Side 2 Label)

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 ソプラノサックスの使用曲はテーマ吹奏が美しい「Every Time We Say Goodbye」(フィリップ・マーロウが引用するほど流行したスタンダード)があり、3部作をまたいで『Ole Coltrane』もソプラノサックスのアルバム(フレディ・ハバード、エリック・ドルフィーの参加で集団即興の実験に進んでいる)があるが、テナーによる「Summertime」と「But Not For Me」も意表を突く代理コード解釈を基本的にはトニックの移動による1コード解釈からアドリブ・ソロをとる、という『Giant Steps』の手法を『Kind of Blue』の手法と折衷させる、という鮮やかな手並みを見せる。これをブルース・フォームで試した曲が『Coltrane Plays the Blues』にまとめられ、『My Favorite Things』の続編としてはスタンダード2曲・オリジナル4曲の構成でインパルス移籍後のカルテット作品をすでに予告するような『Coltrane's Sound』が編まれる。アトランティック時代のコルトレーンにはアルバムのアウトテイク集がさらに1枚あるが、各アルバムのボーナス・トラックで済む内容のもので、何よりアトランティック社長ネスヒ・アーティガンのアーティストの意志を尊重したプロデュース、後に大プロデューサーになる(実質的には当時すでに音楽的プロデューサー)トム・ダウドのざっくりしたエンジニアリングのとらえた音が素晴らしい。同じ人がデレク&ザ・ドミノスの『Layla and Other Assorted Love Songs』やオールマン・ブラザース・バンドの『At Fillmore East』もプロデュースするのだと思うとぞくぞくする。
 ジャズの世界では安上がりなグロス請けで、プレスティッジでもブルー・ノートでもルディ・ヴァン・ゲルダーばかりを(ヴァン・ゲルダーの自宅スタジオと録音料金が込みだったことで)頻用した結果、むしろ標準であるべきトム・ダウドやフィル・ラモーン(コロンビア系を多く手がける)、ナチュラルな録音が素晴らしいロイ・デュナン(コンテンポラリー・レーベル専属)など、本来音楽のあるがままを伝える録音がないがしろにされてきた悪しき伝統が生まれた。コルトレーン自身も何10回も世話になった気安さからか、インパルスの看板アーティストになり録音場所、アルバムタイトル、アルバムジャケット、選曲にいたるまでセルフ・プロデュース権を獲得すると(恐ろしいことだが、当時アーティストがそれらに決定権を持つのは特別待遇アーティストでなければならなかった)プレスティッジ時代のヴァン・ゲルダー・スタジオを録音場所に選ぶことになる。今度は自分で選べるのにまたヴァン・ゲルダー・スタジオというのは、コルトレーンにはアトランティックでの録音はプレスティッジ時代よりくつろげなかったのか、トム・ダウドの録音にヴァン・ゲルダーとはまったく違う良さを格別感じなかったのかもしれない。そしておそらくギャラの良さからか、インパルス時代のヴァン・ゲルダー録音は格段に向上するのだった。

真・NAGISAの国のアリス(65)

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 ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために、という悪い冗談があります、とミツバチの女王は言いました。これから私がその好例をお話しましょう。
 20世紀アメリカ合衆国のニューヨークで活動した美術モデル、映画女優で「ミス・マンハッタン」、「パナマ-パシフィック・ガール」、「エクスポジション・ガール」、「アメリカン・ヴィーナス」など、さまざまな通称で知られ、ニューヨーク市内の15以上の彫像のモデル・着想源となり、4本のサイレント映画に出演した伝説的女性オードリー・マンソンは1891年6月8日、ニューヨーク州ロチェスターにオードリー・マリー・マンソン(Audrey Marie Munson、1891年6月8日 - 1996年2月20日)として生まれました。父親はニューヨーク州メキシコ出身で、両親のエドガー・マンソンとキャサリン・"キティ"・マヘイニーは彼女が幼い頃に離婚し、オードリーと母親はニューヨーク市に移り住みました。
 15歳の時(1906年)に写真家のラルフ・ドレイパーの目に留まり、彼の友人の彫刻家イジドール・コンティに紹介され、彼女はその後10年間にわたってマンソンはニューヨークの多数の彫刻家・画家たちにとって極上のモデルになります。1913年のザ・サンによれば「100人以上の芸術家が、ミス・マンハッタンの称号を誰かに冠するとすれば、それはこの若い女性にこそ相応しいと認めている」とされ、1915年には、同年のサンフランシスコ万国博覧会(パナマ-パシフィック万国博覧会)のためにアレクサンダー・スターリング・カルダーが起用するほどモデルとしての地位が確固たるものになっていました。彼女は博覧会に出品された彫刻のうち5分の3のモデルを務め、「パナマ?パシフィック・ガール」として名声を得ました。
 彼女の名声は発展途上の映画界への転身を促し、4本のサイレント映画に主演します。初出演の彫刻家のモデルを描いた『Inspiration』で、アメリカ映画で全裸で登場した初の女性になりました。検閲官はこの映画の禁止はルネッサンス美術の許可と矛盾するため起訴を見送りました。映画は評価は分かれましたが、興行的には成功を収めました。現存するマンソンの映画は『Purity』1本のみになります。
 そしてマンソンのキャリアはスキャンダルによって生命を断たれました。次回はそのお話から続けましょう。


電車が立ち往生

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JR川崎駅付近で停電 東海道本線など運転見合わせ(12日9時現在)
レスキューナウニュース 5月12日 8時30分配信

08:11頃、JR川崎駅付近で発生した停電の影響で、東海道本線の東京~熱海駅間、京浜東北根岸線の全線、および南武線の川崎~立川駅間は運転を見合わせています。なお、振替輸送を行っています。
また、関係各線でダイヤ乱れが発生しています。最新の運行情報に注意してください。

■運転見合わせ
・東海道本線(東京~熱海)、京浜東北根岸線、南武線(川崎~立川)

■ダイヤ乱れ
・上野東京ライン、宇都宮線(上野~宇都宮)、高崎線、常磐線(快速)
・湘南新宿ライン、横須賀線、総武線(快速)、横浜線
・りんかい線

・京急本線・空港線、京成押上線 ※振替輸送受託による混雑の影響

■直通運転中止
・東海道本線←→宇都宮線・高崎線
※品川駅発着の常磐線の列車は上野駅で折返し運転を実施

*
 離婚後別れた妻の元で別居している高校生の長女が今ごろ通学に困っているだろう。
 何もしてやれない、電話で状況も訊けない。大変だったねとねぎらいもできない(着信拒否されている)。
 ゴールデンウィーク前に、姉妹にプレゼント(お菓子の詰め合わせ)とお小遣いを送ったが、例によって受け取りの知らせもなく、元気でやっているだろうかと思うだけだ。
 今日は長女は急な休日だろう。一応受験生の学年だが、こういう日くらいのんびりしているだろうか。
(写真と本文は関係ありません)

新月 - 新月 Shingetsu (Victor/Zen, 1979)

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新月 - 新月 Shingetsu (Victor/Zen, 1979) Full Album : https://youtu.be/ILzlqYdGWcE
Recorded at the Rockwell Studio, Hakone, winter to early summer 1979
Released by Victor/Zen Records ZEN-1009, July 25, 1979
(Side 1)
A1. 鬼 / Oni (作詞作曲編曲・花本彰) - 9: 32
A2. 朝の向こう側 / The Other Side Of The Morning (作詞作曲・津田治彦 編曲・花本彰) - 4: 15
A3. 発熱の街角 / Influental Streets (作詞作曲・北山真 編曲・花本彰) - 4: 26
A4. 雨上がりの昼下がり / Afternoon-After The Rain (作詞作曲・北山真 編曲・花本彰) - 4:08
(Side 2)
B1. 白唇 / Fragments Of The Dawn (作詞作曲・津田治彦 編曲・花本彰) - 7: 05
B2. 魔笛"冷凍" / Magic Flute "Reitou" (作曲・北山真 編曲・花本彰 発想・伊野万太) - 3: 03
B3. 科学の夜 / The Night Collector (作詞・北山真 作曲編曲・花本彰) - 5: 05
B4. せめて今宵は / Return Of The Night (作詞・北山真 作曲編曲・花本彰) - 5:38
[ 新●月 Shingetsu ]
北山 真 Makoto Kitayama - Vocal
花本 彰 Akira Hanamoto - Keyboard
高橋 直哉 Naoya Takahashi - Drums, Percussion
鈴木 清生 Shizuo Suzuki - Bass
津田 治彦 Haruhiko Tsuda - Guitar
with
Producer - Minoru Kunioka, Shuji Shiotsugu
Synthesizer Programmed By Takashi Kokubo
Saxophone - Hiroshi Morimura (tracks: 4)

 新月(「新●月」とも表記)は1979年に日本ビクター株式会社からメジャー・デビューした日本のプログレッシヴ・ロック・バンドで、リーダーでキーボードの花本彰を中心とした巧みな編曲と演奏、イギリスのプログレッシヴ・ロックを規範としながら印象的な日本的楽曲とリード・ヴォーカルの演劇的(能楽的)パフォーマンスで強いオリジナリティを誇った。音楽性からひとことで言えばずばり「日本のジェネシス(ピーター・ガブリエル在籍時のプログレッシヴ・ロック時代、『Trespass』1970~『Lamb Lies Down on Broadway』1974、続く『A Trick of the Tail』1976、『Wind & Wuthering』1977、『Second Out』1978まで)」なのだが、ジェネシスを手本に発展させ、ここまで高い完成度とオリジナリティ(北山真のヴォーカルの存在感に負う面も大きい)を確立した例は当時世界レベルでも新月を際立ったバンドとして認知させるに十分なはずだった。
 だが1979年、日本のポピュラー音楽の主流はフォークソングの歌謡曲化による「ニューミュージック」が1990年代の「J-Pop」以前のスタイルとして広く聴かれており、新月のようなバンドは国産ロックのリスナーの嗜好からも外れていた。当時のロックの新しいスタイルはテクノ・ポップやパンク / ニューウェイヴだったが、それも一部のアーティストを除いてはほとんどが商業的惨敗に終わっている。新月はマニアックなプログレッシヴ・ロックのリスナーからは高い評価を獲得したので、CD化以降にはかえってバンド継続時(デビュー・アルバムの翌年に鈴木・高橋氏脱退、1981年セカンド・アルバムの制作準備中に解散していた)より、日本のプログレッシヴ・ロックの古典として広く聴かれるようになった。2006年には一時的な再結成ライヴも行われた。
(Original Victor/Zen "Shingetsu" LP Liner Cover and Promotional LP Label)

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 解散後も新月のメンバーは主に花本彰氏の監修による未発表録音の発掘リリース、北山真氏のソロ、新月の集大成ボックス『新●月●全●史』への未完成セカンド・アルバムの新録音などで現役感を示し、実質的に新月ファミリーとして活動中の状態にある。2004年には日本のポセイドンとフランスのムゼア・レーベルから共同でフランス盤の発掘ライヴがリリースされた。これはデビュー・アルバム発売記念コンサートの記録テープから選曲されたもので、2016年3月にはコンサートの7月26日をSE、MCも含めて曲順もコンサート通りに戻したリマスター完全版『完全再現 新月コンサート1979』がリリースされた。
 バンドが活動中に残した唯一のスタジオ盤『新月』は名作ではあるのだが、完成度の高さがかえってアルバムのインパクトを平坦化している面もあった。まずジェネシスに似すぎているのは欠点ではなく、70年代末らしいフュージョン風のリズム・アレンジもA2などにはあるが、良く練られたアレンジが全編を統一しているためアルバム全体の起伏に乏しい。あまり代わり映えのしない曲が並んでいる印象すら受ける。新月の演奏には即興的要素がまったくないのだが、ライヴでは隙のないアレンジを演奏する緊張感が程良く伝わってくる。何より、デビュー・アルバムのプロモーション用に撮影されたライヴ映像があって、アルバムだけではわからない新月のヴィジュアル面の魅力を伝えてあまりある。アルバム『新月』は素晴らしい出来ばえだが、映像を観てしまうと視覚的要素なしには物足りなくなる。これらの映像は現在は『新●月●全●史』に収められている。
(Poseidon/Musea "Shingetsu Live 25, 26 July 1979 ACB Kaikan Hall Tokyo" CD Front Cover)

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(Bell-Antique "1979 Shingetsu Live Complete Edition" 2CD Front Cover)

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(作詞作曲編曲・花本彰) (デビュー・プロモーションライヴ映像 '1979) : https://youtu.be/RU9hnzd-QWY - 9:30
少女は帰れない (作詞作曲・北山真 編曲・花本彰) (デビュー・プロモーションライヴ映像 '1979) : https://youtu.be/s3W1EZymwJo - 4:59
せめて今宵は (作詞・北山真 作曲編曲・花本彰) (デビュー・プロモーションライヴ映像 '1979) : https://youtu.be/TKuKGZug62A - 5:31

真・NAGISAの国のアリス(66)

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 さて、1891年6月8日生まれ、20世紀アメリカ合衆国ニューヨークで活動した美術モデル、映画女優で「ミス・マンハッタン」「アメリカン・ヴィーナス」とも呼ばれ、ニューヨーク市内の15以上の彫像のモデルとなり、4本のサイレント映画に出演した伝説的女性オードリー・マンソンについて、その後半生をたどってみましょう。もっともこの時点でマンソンはまだ20代半ばなのですが、しかし決定的な挫折はすぐ先に待ちかまえていました。それは陰惨で、猟奇的ですらある運命でした。
 マンソンは1919年にニューヨークのウォルター・ウィルキンズ博士所有の下宿で母親と暮らしていました。ウィルキンズはマンソンと恋に落ち、彼女と結婚するために妻のジュリアを殺害しました。殺害の前にマンソン母娘はニューヨークを発っていましたが、警察は尋問のため母娘の行方を追い、全国規模の捜索の後、2人はようやくカナダのトロントで尋問を受け、ウィルキンズ夫人の要請により下宿を去ったのだと証言しました。容疑からは逃れられましたが、事件のスキャンダルによってマンソンのモデル、女優としての経歴は事実上ここで終わりを告げました。ウィルキンズは裁判にかけられ、有罪として電気椅子送りを宣告されました。彼は刑が確定する前に、刑務所内の独房で自ら首を吊りました。
 1920年には、マンソンはまったくの無職で勤め先もなく、母親の台所用品の訪問販売による収入だけでニューヨーク州のシラキュースに母子家庭を営んでいました。そこに1921年2月、ペリー・プレイズ社は映画『Heedless Moths』出演のため、27,500ドルでマンソンと契約を結びました。この映画は無数の新聞記事と、彼女が新聞の日曜版に寄稿した短編やその他の記事に基づき、彼女自身の半生を描いたものでした。そしてこの自伝的映画が彼女の出演した最後の映画作品になりました。
 1922年5月27日、マンソンは塩化第二水銀の溶液を飲んで自殺を図りました。
 1931年、裁判官は治療のため精神障害者施設に入るようマンソンに命じました。彼女はオグデンズバーグにある精神障害者のためのセント・ローレンス州立病院で、104歳で亡くなるまでの65年間を過ごしました。彼女は1996年2月20日に長い生涯を閉じました。
 ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために。彼女の生涯はまさにそれを体現するものでした。



「この人は患者さんですね」

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(1)ゴールデンウイーク中の出来事
 他人をあげつらうコメントなどこのブログにはそう多くは寄せられませんが、最近集中して匿名で誹謗中傷が寄せられ、しかも事実無根なので参っています。手口から見て常習犯らしく、内緒扱いならまだしも、中傷を公開することが目的になっているので公開コメントのままゲストブックに放置しておくしかない状態です。リコメも削除も思う壺でしょう。
 常習犯と思われる根拠は、このブログのゲストブックはログイン限定にしていますが、それでもわざわざ匿名書き込みのためにブログ未開設の新規アカウントを作って、プロフィール非公開で書き込みをしてくるわけです。そういう人に限って居丈高に「身勝手で自業自得」「上から目線」「陰口」「立派なことを言っているくせに」「愚行」など中傷してくる(むしろそっくり投げ返したいくらいです)のですが、匿名で言いたい放題の非難をしてくるご自分は正論を言っているといわんばかりです。
 何の根拠があってか「親友や弟さんに度々借金を申し込んでいますね?」などと言われても、ブログの文面通り借金を申し込んだことなどまったくない。そもそも離婚のトラブルで前科者になった時点で縁を切られた以来まったく音信不通になっている。なのに人間関係が疎遠になったのは「あなたがお金目当てなのだから自業自得だ」といった調子。「溺れた犬を棒で叩く」という外国語の慣用句がありますが、その上よほど赤の他人を蔑みたいらしい。
 こういうありもしないことを憶測、決めつけ、勘ぐり、言いがかりだけで非難してくる書き込みには悩まされます(しかも午前5時の書き込み!)。答えても無駄でしょうし無視するか、無視するとして放置するか削除するか。どちらにしても虚しいですが、もし皆さんにもそうしたことがあったらどうされますか?こういうことがあると、ブログ自体を続ける意欲も低下してしまいそうです。

(2)小池さん(精神保健福祉士)の見解
 先のゲストブック書き込みですが、ゴールデンウイーク明けに精神保健福祉士で訪問看護のお世話になっている小池さんに相談してみました。小池さんはまず一通り呆れて読んで(「ヒマな人ですね。しかも元の記事をぜんぜんちゃんと読んでない」)、それから読み返して、
「この人は患者さんですね」
 つまり第2と第3の書き込みは続きになっているけど、その内容は第1の書き込みに書かれた想像が事実だという前提になっている。これを書いた人は、第1の書き込みをした後でその内容が頭の中で事実化して妄想が膨らんでいき、第2と第3の書き込みになったのではないか。この場合第1の書き込みは自分の妄想ということも忘れているから、一種の無意識的な自作自演というとか、自分の書き込みに刺激されてそれが第2・第3の書き込みになるので、最初の書き込みの時とは別人としてさらに攻撃的な中傷を書き込みにくるわけです。そういう種類の患者さんではないかという意見でした。
 なるほど。以前、何度か入院するたびに必ず1人は攻撃的なトラブルメーカーの患者さんがいましたが(なぜか女性ばかりでした)、根も葉もない決めつけがどんどん完全な妄想にエスカレートしていくのです。髪の毛のつかみあいや突発的な暴力もよくありました。この書き込みの人も目的としているのは言葉の暴力でしょう。仮にぼくが弾劾されている通りの人間だとしても、身近な相手ならともかく赤の他人に侮辱されるいわれはありません。
 書き込みの本人も掲載後にアカウントを抹消している(URLも存在感しなくなっている)からもはや自分からは書き込みを消せないし、リコメはもちろん削除されたかもチェックしにくるかもしれないから刺激する可能性がある。削除したいところだけど何もせず放置しておくのが一番でしょう、と結論としては小池さんも主治医と同じ意見でしたが、ぼくの元の記事もゲストブックも実際読んでもらって「事実無根の妄想。患者さんですね」と専門家の小池さんに判定してもらえたのはゴールデンウイーク以来の杞憂が晴れました。ゲストブックに放置しておくのは不快感は残りますが、「佐伯さんのブログを見ている人はこんなの本気にしませんよ。大丈夫ですよ」とも言われたので、気にしないことにします。
 「***さんは知識もあり立派なことを書いていますが、今度(もう7年前の件なんだけど?)のことは完全な愚行です」というのは……ぼくのブログは偉そうで鼻につくんでしょうか?「いや、全然そんな感じしませんよ。嫌みもないし、良い意味好奇心旺盛で若々しいし」「そう言っていただけるとホッとします」
 まあこの人は気の毒な人ですね、と小池さん。不幸な人なんでしょうけど……ちゃんと通院してるのかな?自分がおかしいと認めたがらなければ駄目でしょうね。まあ常習犯でしょうから相手にしなければ他のところに行きますよ。(と言いつつ、こうして記事にしていますが、怒りや復讐心からではないのです)。
 しかし「この人は患者さんですね」とはね。やっぱりかとも思いますが、ぼくも精神障碍2級の患者さんではありますけれど、いろんな病気もあるものです。
(写真は不愉快な内容を和らげるために添えました。)

現代詩の起源(2); 高村光太郎と金子光晴(c)

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 毎回引用詩編以外の本文は前置きで終わってしまうので、今回はさっさと本題の高村光太郎(たかむら こうたろう、初期雅号は砕雨。戸籍名の読みは「みつたろう」。1883年=明治16年3月13日 - 1956年=昭和31年4月2日)と金子光晴(かねこ みつはる、1895年=明治28年12月25日 - 1975年=昭和50年6月30日)の読み較べを作品の成立状況とも併せてやってみたいと思います。まず高村光太郎の明治43年末=1910年、当時としとは驚異的な文明批判の詩「根付の國」。それから金子光晴の、さらに過激なテーマを持つ昭和12年=1937年作の「おっとせい」で、「根付の國」は作者27歳の作品であり、「おっとせい」は42歳の作品なのは1910年と1937年の4半世紀の隔たり以上に重要なのではないかと思われます。
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高村光太郎詩集 道程 / 大正3年10月(1914年)抒情詩社刊

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  根付の國  高村 光太郎

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして、
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人
           (十二月十六日)

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(明治44年=1911年1月「スバル」に発表、詩集『道程』大正3年=1914年10月・抒情詩社刊に収録)
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 詩の形式も内容も破格に斬新で、高村は第1詩集のもっとも早い時期の作品ですでに完全に明治新体詩の発想を突き抜けているのがわかります。副詞節の連用は明治新体詩ではメロディアスな効果を狙ったものでしたが、高村はリズムを畳みかけることで強い訴求力を作品に与えました。これは北原白秋~萩原朔太郎の系列と較べても異質な発想で、白秋~萩原の詩は新体詩の延長でメロディアスな効果を複雑化したものと言えます。ですが「根付の國」は作者の嫌悪感が強すぎている欠点があり、形容副詞が詩句が進むほどに主観的な攻撃的内容に高まっていく構成を持ちます。読了した時に残るのは冷静な文明批判というより対象に対する詩人の強い嫌悪感であり、それがこの詩を完成した詩作品というより一種の断片的エスキス(コンセプト)に見せている。そこでほぼ4半世紀後の、自国への文明批判を詩にして存分な長詩に展開した金子光晴「おっとせい」(「っ」の促音の小文字は原文通り)が訴求力と長さにおいて比較対象として浮かんできます。
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金子光晴詩集 鮫 / 昭和12年8月=1937年人民社刊

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  おっとせい  金子 光晴



そのいきの臭えこと。
口からむんと蒸れる、

そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしてること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、 おゝ、憂愁よ。

そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かったるさ。

いん気な彈力。
かなしいゴム。

そのこゝろのおもひあがってゐること。
凡庸なこと。

菊面(あばた)
おほきな陰嚢(ふぐり)

鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反對の方角をおもってゐた。

やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぼけた映画(フイルム)でみる
アラスカのやうに淋しかった。




そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを國外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたゝきこんだのは、
やつらなのだ。
バダビアから、リスボンまで、地球を、芥垢(ほこり)と、饒舌(おしやべり)
かきまはしてゐるのもやつらなのだ。

(くさめ)をするやつ。髯のあひだから齒くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人(きちがひ)だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦(めおと)だ。権妻だ。やつらの根性まで相続(うけつ)ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋黨だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。

をしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげる空の無限にそうていつも、金網(かなあみ)があった。

……………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だった。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたゝくのをきいた。

のべつにおじぎをしたり、ひれとひれをすりあはせ、どうたいを樽のやうにころがしたり、 そのいやしさ、空虚(むな)しさばっかりで雑閙しながらやつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。

たがひの體温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さをいとふて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、 かぼそい聲でよびかはした。




おゝ。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも氣づかずにゐた。
みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは表情を匍ひまわり、
……………文學などを語りあった。

うらがなしい暮色よ。
凍傷にたゞれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろえて、拝禮してゐる奴らの群衆のなかで
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、 反對をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」

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(昭和12年=1937年4月「文学案内」に発表、詩集『鮫』昭和12年8月・人民社初版200部刊に収録)
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 この「おっとせい」はおそらく、着想の時点から最終連の結句が構想にあったと思われます。第1連から「おいら」の観点からの主観的表現が客観的叙述と交互に表れますが、この「おいら」が曲者で作者の主観のようでいて詩の中では仮構されたキャラクターにすぎない。「おっとせい」=金子光晴とは言えないが、金子の意見を代弁する語り手でもあるでしょう。最終連結句は自己観照ばかりでなく、他のおっとせいから見られている疎外された「おっとせい」の仮構のキャラクターでもあります。するとこの詩全体が疎外されたおっとせいの被害妄想の体をなす読み方も可能になるわけで、「根付の國」のように他者への告発で済ませるわけにはいかなくなります。この「おっとせい」は動物に借りた人間性の隠喩なのでテーマは当然当時の日本社会への批判と幻滅なのですが、理想主義者の怒りが「根付の國」だったのに「おっとせい」はむしろ文明に対する倦怠と無力感が主調になっています。
 金子光晴はおそらく零落した境遇の詩人の暗喩にシャルル・ボードレールの「あほう鳥」(詩集『悪の華 再版』1861収録)からヒントを得ていますが、「おっとせい」「泡」「塀」「どぶ」「燈臺」「紋」「鮫」とシンプルな主題で統一した詩集『鮫』(昭和12年=1937年)には、単行詩集収録が遅れた高村光太郎の未完成詩集『猛獣篇』(大正13年=1924年~昭和3年=1928年に10編発表、昭和12年=1937年~昭和14年=1939年に6編発表)からの感化、むしろ対抗意識があったかもしれません。少なくとも金子光晴の交友圏の詩人には『猛獣篇』収録予定詩編は1作ごとに話題を呼び、高村はそれらを同人費参加の同人誌に原稿料なしで発表したので、原稿料生活に必死だった室生犀星から反感を買いまでしていました。『猛獣篇』詩編の中で文体が青年詩人たちの流行語になるほど反響を呼んだのが「ぼろぼろな駝鳥」です。
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高村光太郎詩集 猛獣篇 / 昭和37年=1962年4月・銅鑼社刊250部限定版

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  ぼろぼろな駝鳥  高村 光太郎

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る國にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無邊大の夢で逆(さか)まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

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高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」肉筆原稿

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(昭和3年=1928年3月「銅鑼」発表、のち初出型の6行目「何しろみんなお茶番過ぎるぢやないか」を削除、初出では行末句読点なし。「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録、昭和37年=1962年4月「猛獣篇」銅鑼社250部限定版に再収録)
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 この詩が「歴程」の前身「銅鑼」に寄稿されると(高村の歿後に単行詩集にまとめられたのは元「銅鑼」同人との約束があったからです)草野心平周辺の詩人たちには「~ぢゃないか」と語尾につけて議論するのがしばらく止まらなかったというくらい、「ぼろぼろな駝鳥」は愛唱されたといいます。非常に訴求力の高い詩なのは全編が問い詰める文体で書かれているからですが、書き出しの「何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。」から結句の「人間よ、/ もう止せ、こんな事は。」まで高村は「(人間の興味で)野生動物を見せ物にするな」というメッセージだけを書いているので、詩としては何の屈折もありません。まず結論ありきでそれ以外の広がりを持たない点では、まだしも暗示的で説明的表現を押し殺した「根付の國」の方が発展の余地がありました。切迫した表現の圧力で「ぼろぼろな駝鳥」が優れた詩になっていても、その切迫感はほとんどメッセージ性から生まれてきたものでしかないのがこの詩の弱みなので、それが「語り」の設定自体に単一のメッセージに還元できない仕掛けがある「おっとせい」とは決定的に異なります。しかし金子光晴の饒舌には必然性があるとはいえ、高村光太郎の簡潔な断言の魅力は否定できないでしょう。
 それを言えば高村光太郎の初回で詩集『道程』について「(明治象徴主義新体詩と異なり)芸術至上主義の詩より反権力・性愛の詩の方が多い」と言及しましたが、訂正します。日夏耿之介が初の日本現代史『明治大正詩史』(昭和4年=1929年・新潮社)で高村を詩壇の外にいる超俗的エピキュリアン(享楽主義者)、その詩境の高さ広さは三木露風などの及ぶところではない、と評したのは正当で、『道程』には実際は反権力というよりも明治末の日露戦争戦勝の気分を反映した享楽的・自由主義的な詩が多く、その意味では退廃的とすら言え、高村が与謝野鉄幹・晶子の「明星」から永井荷風主宰の「スバル」に進み、初期の谷崎潤一郎に注目していたような素地にも表れています。ただしそれらの詩も悪くはありませんが、内容のせいかおおむね冗長に流れ、意志的な詩ほど表現の圧縮・簡潔さに至っていない。日夏は新潮社版「現代日本詩人全集」(昭和4年=1929年~)の監修に携わったと思われ、『道程』1冊しか既刊詩集のない高村を萩原朔太郎・室生犀星との3人集に選んで事実上の第2詩集を送り出すほど高村を高く評価しました。高村の詩が反権力の詩、愛の詩から注目されるのは、遠近法の逆転した後世からの見方が大きいのです。文庫版などの高村光太郎詩集には選ばれるのが少ないながら、『猛獣篇』に続く時期に高村は老人世代との断絶と自分の世代の非力を対比した、注目すべき作品を書いています。「のつぽの奴は黙つてゐる」は明治仏具彫刻師の巨匠、光太郎の父・光雲の喜寿祝いの会の情景。「似顔」は明治の中堅財閥設立者で男爵、大倉喜八郎晩年に塑像制作を依頼された時の情景です。
 この2編は俗物自身の口で近代的俗物群像を描いて非常に巧みな語り口で情景を彷彿させることに成功しており、高村の詩の腕前の冴えがますます多彩で自在な表現を獲得したのがわかります。それでもやはり高村は詩の結句に作者の感想で締めくくる癖から抜け出せないでいる。文学作品、ことに詩は描くまでが本領であって、作中で作者が説明してしまっては詩=文学である必要が失われます。高村の場合、金子光晴「おっとせい」の結句のように作品を突き放してしまうのではなく、作者の感想が作品を支配してしまうので結句に至って作品が尻すぼみになってしまうのは「ぼろぼろな駝鳥」から変わりません。12歳の年齢差でしかなく、これらの詩では一見同世代の詩人のように見えながら、高村を現代詩でも「戦前」の詩人に留め、金子の詩歴を「戦後詩」までつないだのはそうした方法的な意識の違いがあるのです。
*
高村光太郎詩集(創元選書) / 昭和26年=1951年9月・創元社刊

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  のつぽの奴は黙つてゐる  高村 光太郎

 『舞臺が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割方持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は來てるでせうな。壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。萬能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい氣な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の餘興は、結城孫三郎の人形に、姐さん達の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

 『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
スチユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ。老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。
何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考えてゐる。
何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。

高村光太郎父・仏具彫刻師高村光雲(嘉永5年=1852年 - 昭和9年=1934年)、昭和3年喜寿祝賀会にて

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(昭和5年=1930年9月「詩・現実」発表。のち、初出型の最終行「何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。」を削除。初出型のまま「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録)
*
  似顔  高村 光太郎

わたくしはかしこまつてスケツチする
わたくしの前にあるのは一箇の生物
九十一歳の鯰は奇觀であり美である
鯰は金口を吸ふ
----世の中の評判などかまひません
心配なのは國家の前途です
まことにそれが氣がかりぢや
寫生などしてゐる美術家は駄目です
似顔は似なくてもよろしい
えらい人物といふ事が分ればな
うむ----うむ(と口が六寸ぐらゐに伸びるのだ)
もうよろしいか
佛さまがお前さんには出來ないのか
それは腕が足らんからぢや
寫生はいけません
氣韻生動といふ事を知つてゐるかね
かふいふ狂歌が今朝出來ましたわい----
わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て
一片の弧線をも見落とさないやうに寫生する
このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝國資本主義發展の全實歴を記録する
九十一歳の鯰よ
わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

大倉財閥設立者・男爵大倉喜八郎(天保8年=1837年 - 昭和3年=1928年)肖像

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高村光太郎「大倉喜八郎の首」大正15年=1926年制作塑像

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(昭和6年=1930年3月「詩・現実」発表。「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録)

John Coltrane - Soultrane (Prestige, 1958)

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John Coltrane - Soultrane (Prestige, 1958) Full Album : https://youtu.be/GMWPR1RwJ-0
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey, February 7, 1958
Released by Prestige Records PRLP-7142, Mid October 1958
(Side one)
1. Good Bait (Tadd Dameron) - 12:08
2. I Want to Talk About You (Billy Eckstine ) - 10:53
(Side two)
B1. You Say You Care (Leo Robin, Jule Styne) - 6:16
B2. Theme for Ernie (Fred Lacey) - 4:57
B3. Russian Lullaby (Irving Berlin) - 5:33
[ Personnel ]
John Coltrane - tenor saxophone
Red Garland - piano
Paul Chambers - bass
Art Taylor - drums

 ジョン・コルトレーン(テナー&ソプラノサックス / 1926-1967)が1957年の初アルバムから没年(進行の早い胃癌だった)の遺作まで、足かけ11年・正味10年間に残したアルバムは、没後発表になったものまで生前のコルトレーンの意志によるアルバムだけで45枚あまり。共同リーダー作やジャムセッション作、他のジャズマンの作品への参加作、さらにラジオ放送音源など正式なライヴ音源の発掘を加えると10年間の間にさらに100枚あまりのアルバムを数えることができる。おおよそレーベル別でリーダー作の数を分けると、

・プレスティッジ時代(1957年-1958年) - 12枚(+ブルー・ノート1枚、サヴォイ2枚)
・アトランティック時代(1959年-1961年) - 8枚
・インパルス時代(1962年-1967年) - 30枚(うち15枚没後発表、2LP『Live in Seattle』、6LP『Concert in Japan』などは1枚と数える)

 と、とんでもない回数の録音を残している。インパルス時代などは多くても年間3枚の適正ペースに創作意欲が待ちきれず、1965年などは月間1枚のペースでアルバムを制作し、生前発表はそのうち3枚だけ、ということにもなった。これだけの録音を残せたのはコルトレーンが実力者だけでなく、レコード会社が作りたいだけアルバム制作させてもいずれ制作ペースが落ちた時には出せば必ず売れるだけの人気アーティストだったからだった。
 マイルス・デイヴィスのバンドから独立したコルトレーンはたちまち若手黒人ジャズマンのヒーローとなり、マイルスをしのいで黒人ジャズの未来を背負って立つカリスマとなった。コルトレーンとも共演経験のあるベーシストのレジー・ワークマンによれば、年に2枚~3枚発売されるコルトレーンの新作は60年代の黒人ジャズマンにとって単なるレコードを越えた「The Book」(「聖書」に近いニュアンス)として熱心に聴かれ、論議され、コピーされていたという。日本のジャズ・リスナーも同様で、コルトレーンの名はマイルス・デイヴィスやセロニアス・モンクと並んでモダン・ジャズの代名詞となり、大衆的人気はアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズやホレス・シルヴァーらが高かったものの、チャールズ・ミンガスやコルトレーンには黒人ジャズの反逆的な思想性とインテリジェンスがあった。その反動で1990年代にはジャズ喫茶では「コルトレーンとミンガスのリクエストお断り」というお店も多かったくらい、ミンガスと並ぶコルトレーンのカリスマ人気は高かった(ミンガスとコルトレーンはおたがいの音楽を嫌いあっており、共演経験が一切ないのも面白い)。
  (Original Prestige "Soultrane" LP Liner Notes)

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 これだけアルバムがあると、ジャズの品揃えの良いCDショップや大型輸入・中古CDショップにはジョン・コルトレーンのコーナーには100種類以上ものアルバムが並んでいるのも珍しくない。筆者が初めて聴いたコルトレーンのアルバムはユナイテッド・アーティスツ盤『Coltrane Time』で、初めて買ったのはヒストリック・パフォーマンス盤のラジオ放送音源ライヴだったが、ラジオ用放送音源も最初に買うには何だが(内容はエリック・ドルフィー参加時期の素晴らしいもので、それも目当てだった)、『Coltrane Time』などは音楽の先生にカセット・テープに録音してもらったのだがこれは実はコルトレーンのアルバムではなくて、セシル・テイラー(ピアノ / 1929-)の『Hard Drivin' Jazz』というコルトレーン参加のアルバムが廃盤になった後、コルトレーンの人気に当て込んでコルトレーンのアルバムとして改題して再発売したものだった。そこで正式なコルトレーンのアルバムをまとめておくのもいいだろう。
Prestige Era (1957-1958)
・1957-Late; Coltrane (rec.1957-05-31)
・1958-02; Blue Trane (rec.1957-09-15) *Blue Note Records
・1958-03; John Coltrane with the Red Garland Trio / Traneing In (rec.1957-08-23)
・1958-Summer; Tanganyika Strut (co-leader with Wilbur Harden) (rec.1958-05-13, 1958-06-24) *Savoy Records
・1958-10; Soultrane (rec.1958-02-07 )
(Released after Prestige Era Albums)
・1959-02; Jazz Way Out (co-leader with Wilbur Harden) (rec.1958-06-24) *Savoy Records
・1961-03; Lush Life (rec.1957-05-31, 1957-08-16, 1958-01-10)
・1961-12; Settin' the Pace (rec.1958-03-26)
・1962-10; Standard Coltrane (rec.1958-07-11)
・1963-00; Dakar (rec.1957-04-20)
・1963-03; Kenny Burrell & John Coltrane (co-leader) (rec.1958-03-07)
・1963-09; Stardust (rec.1958-07-11, 1958-12-26)
・1964-04; The Believer (rec.1957-12-20, 1958-01-10, 1958-12-26)
・1964-08; Black Pearls (rec.1958-05-23 )
・1965-05; Bahia (rec.1958-07-11, 1958-12-26)
・1966-01; The Last Trane (rec.1957-08-16, 1958-01-10, 1958-03-26)
Atlantic Era (1959-1961)
・1960-01; Giant Steps (rec.1959-05-04, 1959-05-05, 1959-12-02)
・1961-02; Coltrane Jazz (rec.1959-11-24, 1959-12-02, 1960-10-02)
・1961-03; My Favorite Things (rec.1960-10-21, 1960-10-24, 1960-10-26 )
・1961-12; Milt Jackson - Bags & Trane (rec.1959-01-15)
・1962-02; Ole Coltrane (rec.1961-05-25 )
(Released after Atlantic Era Albums)
・1962-07; Coltrane Plays the Blues (rec.1960-10-24)
・1964-06; Coltrane's Sound (rec.1960-10-24, 1960-10-26)
・1966-00; The Avant-Garde (co-leader with Don Cherry) (rec.1960-06-28, 1960-07-08)
・1975-03; Alternate Takes (Various Atlantic Outtakes)
Impulse! Era (1961-1967)
・1961-11; Africa/Brass (rec.1961-05-23, 1961-06-07)
・1962-03; Live! at the Village Vanguard (rec.1961-11-02, 1961-11-03)
・1962-08; Coltrane (rec.1962-04-11, 1962-06-19, 1962-06-20, 1962-06-29)
・1963-01; Ballads (rec.1961-12-21, 1962-09-18, 1962-11-13)
・1963-02; Duke Ellington & John Coltrane (co-leader) (rec.1962-09-26 )
・1963-07; Impressions (rec.1961-11-05, 1962-09-18, 1963-04-29)
・1963-07; John Coltrane and Johnny Hartman (co-leader) (rec.1963-03-07)
・1964-04; Live at Birdland (rec.1963-10-08, 1963-11-18)
・1964-07; Crescent (rec.1964-04-27, 1964-06-01)
・1965-02; A Love Supreme (rec.1964-12-09)
・1965-07; New Thing at Newport (split LP with Archie Shepp) (rec.1965-07-02)
・1965-08; The John Coltrane Quartet Plays (rec.1965-02-18, 1965-05-17)
・1966-02; Ascension (rec.1965-06-28 )
・1966-09; Meditations (rec.1965-11-23)
・1966-12; Live at the Village Vanguard Again! (rec.1966-05-28)
・1967-01; Kulu Se Mama (rec.1965-06-10, 1965-06-16, 1965-10-14 )
・1967-09; Expression (rec.1967-02-15, 1967-03-07)
(Posthumous recordings)
・1968-01; Om (rec.1965-10-01)
・1968-Late; Cosmic Music (with Alice Coltrane) (rec.1966-02-02, 1968-01-29)
・1969-00; Selflessness: Featuring My Favorite Things (rec.1963-07-07, 1965-10-14)
・1970-07; Transition (rec.1965-05-26, 1965-06-10)
・1971-00; Sun Ship (rec.1965-08-26)
・1971-00; Live in Seattle (rec.1965-09-30)
・1972-07; Infinity (rec.1965-06-16, 1965-09-22, 1966-02-02)
・1973-00; Concert in Japan (rec.1966-07-22)
・1974-09; Interstellar Space (rec.1967-02-22)
・1974-00; The Africa/Brass Sessions, Volume 2 (rec.1961-05-23, 1961-06-04)
・1977-5; Afro Blue Impressions (rec.1963-10-22, 1963-11-02) *Pablo Records
・1977-12; First Meditations (for quartet) (rec.1965-09-02)
・1979-00; The Paris Concert (rec.1962-11-00)
・1980-00; The European Tour (rec.1962-11-00)
・1981-00; Bye Bye Blackbird (rec.1962 -Late Fall)
・1995-10; Stellar Regions (rec.1967-02-15)
・1998-03; Living Space (rec.1965-06-10, 1965-06-16)
・2005-10; Live at the Half Note: One Down, One Up (rec.1965-03-26, 1965-05-07)
・2001-00; The Olatunji Concert: The Last Live Recording (rec.1967-04-23)
・2014-09; Offering: Live at Temple University (rec.1966-11-11)
  (Original Prestige "Soultrane" LP Side 1 Label)

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 以上はコルトレーン名義の正式アルバムをリストにしたので、マイルス・デイヴィスのバンドメンバーとして参加したマイルスのアルバム、セロニアス・モンクのバンドメンバーとして参加したモンクのアルバムの他、他のジャズマンがコルトレーンをフィーチャリング・ソロイストとして迎えた多くの名盤は含まれていない。コルトレーンはマイルスのバンドから独立してアトランティック専属になった1959年を境にゲスト参加は激減するので(プレスティッジ時代はマイルスのバンドメンバーの傍らソロ名義のアルバムを制作していた)、プレスティッジ時代を初期、アトランティックを中期、インパルス時代は長いのでインパルス時代だけでも3期くらいに分けてインパルス初期、インパルス中期、インパルス後期とすべきだが、プレスティッジ、アトランティック、インパルスを通じて在籍期間にストレート・リリースするには多すぎるくらいの多作家だったのがリストからもわかる。プレスティッジ時代には12枚の自作アルバムを残したが、平行してほぼ20枚あまり、他のアーティストのアルバムに参加している。コルトレーンをジャズ史の巨人にしたのは凄まじい生産量によって蓄積した語法の過剰さだった。ジャズのリスナーならたいがいの人はこれらの8割以上は聴いている。
 先にコルトレーンの初アルバム『Coltrane』1957とアトランティック時代のヒット作『My Favorite Things』1961を紹介したが、5年のうちにコルトレーンの作風は一変している。『My Favorite Things』は初アルバムから5年目にしてすでに18枚目のアルバムになり(当時よくあることだが、コルトレーンの場合も同一セッションから複数アルバムを多産しているので数え方で異なるが)、『My Favorite Things』すら歿年までに45枚あまりのアルバムを残したコルトレーン全アルバムの半ばにも達していないので、コルトレーン10年間の作風の変化はチャールズ・ミンガスの、やはり1956年~1965年の約30枚の傑作群と較べても異彩を放つものだった。ベーシストであり作編曲家であるミンガスでは作風の深化として正当に現れたものが、アトランティック時代以降、特にインパルス以降では作曲家として開花したコルトレーンの場合は本来のインプロヴァイザー指向とせめぎあって、作曲と演奏に軋みが生じ始めた。これはスタンダード曲の解釈でも言えて、アトランティック時代に作曲家としてもスタンダード演奏でもバランスのとれたアーティストだったコルトレーンは、アルバム制作の全権を手にしたインパルス以降では作曲に対して演奏が過剰か、演奏に対して作編曲が過剰になるか徐々にバランスを崩していった。急逝する前年の日本公演のライヴ盤では全6曲240分、1曲平均40分という極端な演奏の長大化が進んでいる。全アルバムが45枚、10年間だから年平均4.5枚というアーティストでは、全体像は少なくとも各年で1枚ずつは聴かないと見えてこない。マイルスのように時期ごとのコンセプトが明快なアーティストか、モンクのようにあまり変化を求めないか、サン・ラやミンガスのような作編曲家タイプのバンドリーダーとは、コルトレーンは明らかに異質なアーティストだった。
  (Original Prestige "Soultrane" LP Side 2 Label)

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 プレスティッジ時代のコルトレーンは初アルバムこそレーベルも大プッシュした凝ったプロダクションを許し、コルトレーンも全力を尽くしたが、プレスティッジの契約はアーティストの収益に不利でオリジナル曲の権利もレーベルが買い取るようなものだった。コルトレーンはブルー・ノート・レーベルにワンポイント契約した『Blue Trane』では全5曲中4曲オリジナル、トランペットとトロンボーンの3管アレンジも手がけたが、プレスティッジでは以後契約満了までオリジナルもアレンジも提供せずにアルバム制作を続けた。プレスティッジの方針は「良いリテイクより少しでも曲を多く」だったので、1日のセッションから制作されたアルバムが本来のアルバムだと判別すれば間違いない。余った曲を組合せて作ったアルバムは(初期セッションから統一感のある選曲がされた『Lush Life』は例外的だが)だいたい寄せ集めの拾遺アルバムになっている。なので『Traneing In』『Kenny Burrell & John Coltrane』『Settin' the Pace』『Black Pearls』『Standard Coltrane』などの出来がいいが、コルトレーンの場合ワンホーンが良く、プレスティッジではマイルス・デイヴィスのバンドの同僚でもあるレッド・ガーランド(ピアノ)がやはりマイルス・クインテットのポール・チェンバース(ベース)と、マイルス・クインテットのフィリー・ジョー・ジョーンズに替わってチェンバースの友人アート・テイラー(ドラムス)が常連ピアノ・トリオだった。ガーランドもチェンバースも優れたジャズマンだが、奔放なフィリー・ジョーと几帳面なテイラーの違いが大きい。
 録音はB3、B2、B1、A1、A2の順で行われた。スローなピアノ・トリオのテーマ演奏からコルトレーンの急速調のアドリブになだれこむB3はコルトレーン自身が更新するまで当時最速のテナープレイだった。B2はこの録音の2か月前に急逝したアーニー・ヘンリー(アルトサックス/1926-1957)への追悼曲で、テーマのみを丁寧に歌い上げる名演。B1はアイラ・ギトラーのライナーノーツによるとジャズ・ヴァージョンはこれが初になるという。ちなみにコルトレーンの高速演奏を「Sheets of Sound」と呼んだのもこのアルバムのギトラーのライナーノーツが嚆矢になるらしい。A1はビ・バップの名バンドリーダー、タッド・ダメロン(バンドにはアーニー・ヘンリーも在籍した。コルトレーンもダメロン56年11月のアルバム『Mating Call』に参加している)と前世代の偉大なバンドリーダー、カウント・ベイシーの共作で、コルトレーンが在籍していたディジー・ガレスピーのバンドのレパートリーだった。ライヴァルのソニー・ロリンズの天衣無縫さとは異なる隙のないアドリブ・フレーズの巧さが堪能できる。A2は60年代のインパルス中期までライヴの重要レパートリーになるバラードで、「黒いシナトラ」と呼ばれた黒人ヴォーカルの大物ビリー・エクスタイン(1914-1993)の代表的オリジナル・バラード。と、1958年2月の時点でコルトレーンはすでに翌1959年5月の『Giant Steps』に足をかけている。ただしここではレッド・ガーランド・トリオがアルバムをハード・バップにとどめていて、もしピアノがウィントン・ケリー、ドラムスがフィリー・ジョーだったらソニー・ロリンズの『ニュークス・タイム』1959.3(1957年9月録音)に匹敵する激烈盤になっただろう。だがプレスティッジではこれがコルトレーンのなし得るベストで、コルトレーンでもいかにもモダン・ジャズらしい親しみやすい名盤というと、この辺りが限度かもしれない。

真・NAGISAの国のアリス(67)

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 来月には別居婚している内縁の夫人の母国へのアジア・ツアーがある。彼女の国ではまだおれはスターなのだ、ありがたいことだ、とK.は無精ひげの伸びた顔を洗うと、70歳を過ぎた自分の姿を洗面台の鏡に認めた。彼には国際的スターだった一時代を築いたキャリアがあるから、青年時代からの無数のフォトセッション、演奏中のライヴ映像シューティング経験があり、20代のおれからつい最近のおれまでが日めくりカレンダーのように残されているわけだ、と考えた。成功の頂点に立っていた頃のおれはジャーナリズムからも同業者からも糞味噌に言われた。ハイプ(誇大広告)の見本のように言われたものだ。だがそれはおれの望みの一部ではあったが、すべてがおれの責任ではないはずだ。おれを担ぎ上げることで話題を引き出し、わらわらと自分たちの飯の種にしようという連中がおれをハイプにした。
 おかげさまで来月も極東ツアーがあり、今の女は里帰りにもなるからツアーを楽しみにしている、とK.は考えると、明日のリハーサルには無精ひげを剃らないといけないな、当日剃るのは慌ただしいから、と慎重にシェーヴィング・クリームを顔面に塗ると、早くも指先の震えを感じた。彼の指はもう数年前から神経性麻痺が進行しており、ほぼ半数の指が使い物にならなくなっていた。駄目だ、とK.はシェーヴィング・クリームを洗い流すと、憂鬱を増すような電気シェーヴァーの音に顔をしかめながら最小限の無精ひげは剃り上げた。ステージの時は剃ってもらうべきだろうか。進行性麻痺を気取られないだろうか。
 リハーサルでは自分の負担を極端に減らしたアレンジにしなければならない。その理由をプレイヤーたちはおそらく感づいている、とK.はストレートでウィスキーを傾けた。進行性麻痺の発症よりも前、明らかなキャリアの下り坂からK.は鬱病にかかり、アルコール依存症が進んで躁鬱・統合失調様症状を来していた。
 K.は酔いが回ると戸棚からショットガンを取り出した。震える指先でカートリッジの詰め替えには骨が折れたが、演奏よりはましだ。K.はリヴィングの床に座り、ショットガンの銃口を口に咥えると安全装置を外し、足指を引き金にかけた。これでいい、ヘミングウェイと同じだ。おれの頭蓋の上半分は完全に吹き飛び、一生おれに悩みをもたらした脳漿はすべて飛び散り、そしておれは解放されるだろう。
 だが……どちらでも同じことだ。


クニ河内と彼のともだち Kuni Kawachi & Flower Travellin' Band - 切狂言 (Kirikyogen) - (London, 1970)

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クニ河内と彼のともだち Kuni Kawachi & Flower Travellin' Band - 切狂言 (Kirikyogen) - (London, 1970) Full Album : https://youtu.be/gNtQdvhCPgg
Released by? London Records ?- SKK(L) 3003, December 1, 1970
(Side 1)
A1. 切狂言 (芝居小屋の名役者) - 5:09
A2. 人間主体の経営と工事 - 5:46
A3. タイム・マシーン - 7:48
(Side 2)
B1. おまえの世界へ...... - 6:33
B2. 恋愛墓地 - 4:11
B3. 女の教室 - 3:26
B4. 男から女を見た科学的調査 - 3:54
[ クニ河内と彼のともだち ]
クニ河内 - キーボード、作詞作曲編曲
石間秀樹 - ギター
ジョー山中 - ヴォーカル
ぺぺ吉弘 - ベース
チト河内 - ドラムス
内田裕也 - プロデュース

 このアルバムは現在では正規ライセンスによる海外盤も2種類のレーベルから発売され(それ以前も4種以上の複製盤が海賊盤発売される人気アイテムだった)、そのうちひとつにはジュリアン・コープがライナーノーツを書き下ろしている。コープ(元ティアドロップ・エクスプローズ)は近年は文筆活動で知られ、1990年代にはドイツの70年代初期ロックの研究書『Krautrocksampler』で実験派ジャーマン・ロックの再評価を促し、21世紀に入って70年代の日本のロック研究を翻訳で380ページにおよぶ大著『Japrocktsampler』2007(翻訳・白夜書房2008)にまとめてジャーマン・ロック研究以上の大反響を呼び、コープの評価によって次々と70年代の日本のロックの海外盤復刻CDが発売される、という快挙にも結びついた。ただしコープが同書の巻末のベスト・アルバム50選に上げたアルバムからでも、カープの評価基準はアンダーグラウンドでヘヴィなアシッド・ロックに偏向しているのがわかる。
(Julian Cope "Japrocksampler" Japanese Out-of-Printed Translated Edition)

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 コープ選出の日本のロック・ベスト50リストのうちトップ10は、
1. フラワー・トラヴェリン・バンド『SATORI』1971
2. スピード・グルー&シンキ『前夜』1971
3. 裸のラリーズ『Heavier Than a Death in the Family』(Live 1977)1995
4. ファー・イースト・ファミリー・バンド『多元宇宙への旅』1976
5. J・A・シーザー『国境巡礼歌』1973
6. LOVE LIVE LIFE + ONE『LOVE WILL MAKE A BETTER YOU』1971
7. 佐藤允彦とサウンドブレーカーズ『恍惚の昭和元禄』1971
8. 芸能山城組『恐山』1976
9. 小杉武久『キャッチ・ウェイブ』1975
10. J・A・シーザー『邪宗門』1972
 そして11位がファーラウト『日本人』1973で、この『切狂言』1970は25位にランクされている。裸のラリーズは50枚のうち4枚入選し、ファーラウト~ファー・イースト・ファミリー・バンドも4枚、フラワー・トラヴェリン・バンドも本作を加えれば4枚、タージ・マハル旅行団を含め小杉武久が5枚、J・A・シーザーが3枚、佐藤允彦が2枚、一柳慧が2枚、マジカル・パワー・マコが2枚、スピード・グルー&シンキの全2枚、ブルース・クリエイション2枚が入選している偏りが目立つし、名盤として知名度が高いものは『ジャックスの世界』1968が42位、『五つの赤い風船/New Sky&Flight』1970が47位、『外道』1974が30位、『四人囃子/一触即発』1974が49位に入っている程度で、はっぴいえんども頭脳警察もサディスティック・ミカ・バンドもはちみつぱいも村八分もキャロルもサンハウスも入っていない。つまり日本人のロック・リスナーにとってもほとんどポピュラーではない。
 小杉武久と一柳慧(ヨーコ・オノの前夫)、マジカル・パワー・マコは現代音楽系アーティスト、佐藤允彦はジャズの、J・A・シーザーは寺山修司の劇団・天井桟敷の座付音楽家だった。コープは意図的に日本のアンダーグラウンド・シーンの実験派ロックを主に対象としたことになる。だがコープが最大の賛辞を惜しまなかったフラワー・トラヴェリン・バンド、スピード・グルー&シンキ、裸のラリーズ、ファー・イースト・ファミリー・バンドらは音楽的には当時の英米の主流ロックに根ざしながら、日本のシーンではアウトサイダーであり続けたアーティストたちだった。ジャーマン・ロックのオーソリティであるコープが70年代初期西ドイツのカン、アモン・デュール、アモン・デュールII、ファウスト、タンジェリン・ドリーム、グル・グル、アシュ・ラ・テンペルらと照応する非英米圏ロックの異端性を見出したのは、やはり日本でも異端視されているアーティストたちだからだったといえる。
 ? (Original London "Kirikyogen" LP Liner Cover)

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 クニ河内は1968年デビューの異色ギターレスGS、ハプニングス・フォーのリーダーで、ハプニングス・フォーはGSブーム衰退後の1972年まで活動し、実力派GSとして5枚のアルバムを残している。バンドは元々博多でジャズのピアノ・トリオとして活動を始めており、現場で叩き上げの大人のプロ・バンドだった。クニ河内はプレイヤーとしてもタイガースのツアー・メンバーやアルバムの実質的プロデュースを勤めるなど、当時の日本のロックのキーボード奏者として一流の存在だった。ハプニングス・フォーは本格的な洋楽指向のバンドだったので英語詞ロックによる日本のロックの世界進出を企画していた内田裕也に高く買われ、1970年1月26日収録の2枚組ライヴLP『ロックンロール・ジャム '70』1970.4でザ・モップス、ゴールデン・カップス、内田裕也のバンドのフラワーズにバンドとしても、ゲスト・キーボード奏者としても参加する。
 ハプニングス・フォーは1970年7月には東芝からのアルバム『アウトサイダーの世界』でコンセプト・アルバム色を強めたが、一方解散状態にあった後期フラワーズは内田裕也がプロデューサーとしてメンバーから外れて後期からフラワーズに中途加入していた元ポップGSの491(フォーナインエース)出身で強力なヴォーカリスト・ジョー山中(城アキラ→ジョー・アキラ→ジョー山中)、本格派のサイケデリックGSビーバーズ出身で当時最高峰のギタリスト・石間秀樹を中心にフラワー・トラヴェリン・バンドとして再編。日野皓正クインテットとジョイントしたデビュー・シングル「クラッシュ」を1970年5月にコロンビアから発表後デビュー・アルバム『Anywhere』を1970年10月に発表したが、アルバムは全5曲とも英米ロックのヘヴィ・ロック・カヴァーだった。だがクニ河内との日本語ロック・アルバム『切狂言』を経て、アトランティックに移籍した全5曲オリジナルの『SATORI』1971.4はジュリアン・コープが文句なしに日本のロック史上最大の傑作と賞賛するに値する、発表から歳月を経るごとに評価を高める名盤になった。『SATORI』からは「SATORI Part1/SATORI Part2』がシングル・カットされたが、1971年9月にはアメリカの新人バンド、ジョー・ママとのAB面スプリット・シングルで『切狂言』収録の「人間主体の経営と工事」を「MAP」と改題し、フラワーならではのヘヴィ・ロック・アレンジで、フラワー史上唯一の日本語曲として発表している。『切狂言』はハプニングスからヴォーカルのトメ北川、もうひとりのキーボード奏者シノ篠原以外のクニ河内、チト河内、ぺぺ吉広の3人のリズム・セクションにフラワーからのジョーと石間が加わったものであり、ハプニングスはあまり評価しないジュリアン・コープもクニ河内の秀逸なオリジナル曲とサウンド・プロダクション、ジョーの最高の歌唱とフラワーのアルバムを含めても最高のギターに賞賛を惜しまない。コープは『切狂言』を必聴のロック・クラシックとまで呼んでいる。
 ? (Original London "Kirikyogen" LP Side 1 Label)

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 その後ハプニングス・フォーは『アウトサイダーの世界』以来の脱GS路線をさらに推し進めた完全なプログレッシヴ・ロックのコンセプト・アルバム『引潮・満潮』1971.8をラスト・アルバムに1972年には解散し、以後はクニ河内のソロにメンバーが協力する形で70年代後期のトランザム結成(クニ河内プロデュース、ハプニングスのチト河内、トメ北川、シノ篠原に石間秀樹、後期サディスティック・ミカ・バンドの後藤次利)に至るまでファミリー的な活動を継続し、現在でも散発的に再結成をくり返している。ハプニングス・フォーのもうひとりのキーボード奏者シノ篠原は実質的にフラワー・トラヴェリン・バンドのメンバーを兼任するほどハプニングス・フォーとフラワー・トラヴェリン・バンドの協力関係は深く長く続き、90年代のフラワー再評価以後にも参加、ジョー山中はステージのMCではシノ篠原を「オリジナル・メンバー」と紹介していた。フラワーのリーダーである石間秀樹がクニ河内を尊敬し、共演以来音楽的なアドヴァイスを受けていたこともあったらしい。ただし『切狂言』では日本語で歌うジョーの魅力を認めていたが、石間には英語詞ロックに挑戦する課題からフラワーでは『切狂言』以上に英語詞をインストルメンタルと一体化させたサウンドでなければ、という違和感もあった。
 フラワーは全アルバムをプロデューサーの内田裕也の意向通り英語詞ロック(作詞は後に元ゴールデン・カップスのミッキー吉野が結成したゴダイゴの作詞を手がける奈良橋陽子、当時野村陽子が提供した)で通したが、唯一シングル曲「MAP」だけは『切狂言』収録曲のフラワー独自ヴァージョンにリメイクしたのは、内田裕也にも『切狂言』の成果は認められていたと思われる。『切狂言』は当時唯一のロック専門誌だったニューミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン、80年代初頭に誌名改名)の年間ベスト・アルバムで日本のロック部門ベスト5入りする高評価を獲た。ただし当時はニューミュージック・マガジンは日本のロック部門第1回は岡林信康『私を断罪せよ』、第2回は『はっぴいえんど』が1位で、ともに同誌が後援しているインディーズ・レーベルURCからのアルバムでもあり、内田裕也が推進していた国際進出を目指す英語詞ロックとは正反対の日本語ロックだったので、ニューミュージックマガジン主宰の中村とうよう、小倉エージといったジャーナリストとの対立もあった。ニューミュージックマガジンは反体制フォークと日本語詞のロックの融合を奨励しており、内田は断固としてニューミュージックマガジンの奨励する方向性に反対した。『切狂言』は後の頭脳警察のデビューとともに、数少ない内田裕也側の日本語ロックの試みだった。
 ? (Original London "Kirikyogen" LP Side 2 Label)

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 ジョー山中と石間秀樹が『切狂言』に参加した頃のフラワー・トラヴェリン・バンドの『切狂言』との前後作を聴き較べると、リーダーの石間の音楽的アイディアやサウンド・プロダクション(内田裕也はパトロン的プロデュースで、サウンドはバンドの自主性を尊重していた)が『切狂言』の参加からオリジナリティに富んだ『SATORI』に大きく飛躍したのがわかる。石間はザ・ビーバーズ時代の唯一のアルバム『ビバ!ビーバーズ』1968.6ですでにジェフ・ベックを咀嚼したギターのラーガ奏法をヤードバーズのカヴァーで披露していたが、ビーバーズはスパイダーズに見出されたバンドでデビュー・シングル「初恋の丘」1967.7以来メンバーのオリジナル曲は採用されなかった。フラワー・トラヴェリン・バンドのデビュー・アルバム『Anywhere』1970.10ではまだ全曲がブルース・プロジェクト、ブラック・サバス、アニマルズ、キング・クリムゾンのカヴァーで、サバスとクリムゾンはまだ日本盤未発売だったのが主要な挑戦だった。デビュー・シングル『クラッシュ』もまだ明確な方向性のない、日野皓正クインテットとの共演自体が成果のすべてであるような曲にとどまっていた。

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Flower Travellin' Band - Crash (Columbia, 1970.5) Single-A Side : https://youtu.be/4-Ur9rMFwnc

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Flower Travellin Band - SATORI (Atlantic, 1971.4) full album : https://youtu.be/BxB55yaWG-I

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Flower Travellin' Band - MAP (Atlantic, 1971.9) Split Single with Jo Mama : https://youtu.be/252YBU79UWg

 クニ河内はハプニングス・フォーのデビュー・シングル「あなたが欲しい」1967.11以来ハプニングス・フォーのオリジナル曲全曲の作詞作曲を手がけており、作曲家としても優れていたが当時日本語ロックの作詞をメンバー自身が手がけるバンドはほとんどなかった。『切狂言』ではA面が人生について、B面が恋愛のかけひきについてテーマの統一があり、1970年7月のアルバム『アウトサイダーの世界』では例外的に全曲の作詞を元フォーク・クルセダーズの北山修に委託したことでコンセプト・アルバムの歌詞作りの骨法をつかんだ結果と思われる。『アウトサイダーの世界』のテーマは「出世と挫折」という若者向けロックにはあるまじきキツい冗談を演歌ロックでカマした異色作だったが、ハプニングス・フォーのアルバムは8トラック・カートリッジで飲食店の業務用に発売されたカヴァー・アルバム『決定版!R&Bベスト16』1971を含めた全5枚とも異色作ばかりでもある。『切狂言』も現在は海外盤では『Kuni Kawachi & Flower Travellin' Band』名義が定着しているが、もしハプニングス名義で制作され、優れたヴォーカリストのトメ北川が歌っても違和感はなかっただろう。
 しかし石間秀樹のギターが入ると、ギターとヴォーカルのコンビネーションではジェフ・ベック・グループやレッド・ツェッペリン、ブラック・サバスのようにジョー山中以外のヴォーカリストは考えられなくなる。それが現在では『切狂言』が準フラワー・トラヴェリン・バンドのアルバムとして最重要関連作品とされている理由でもあり、世界的に見ても石間とジョーは当時最強のリードギター&ヴォーカル・コンビだった。石間のギターはギターレス・バンドだったハプニングスにはない要素だったので、とにかくギターが前面に出ているし、石間のギターが前に出ればジョーのヴォーカルも前に出る。『タイム・マシーン』ではタイトルだけをくり返すヴォーカルにブルース・ハープが応答するコール&レスポンス形式のシンプルな曲だが、インスト・パートではピアノがビートルズの「Yesterday」をたどたどしく弾く音にオルガンが「あなたが欲しい」のコードを鳴らし、ブルース・ハープが合いの手を入れる中、ギターがフィードバックしたラーガ奏法でバッハの「トッカータとフーガ」とトラディショナルの「朝日のあたる家」の変奏を弾いている。このヴァニラ・ファッジ的アレンジのアイディアはクニ河内でも、これを自発的に消化して存分に弾けるギタリストは当時の日本には石間秀樹以外にいたとは思えない。
 A面の人生サイドはハードなプログレッシヴ・ロックのアレンジで、B面の恋愛サイドもB1「お前の世界へ」はそのままフラワーのアルバムに採用されそうなドラマチックでハードな曲・アレンジだが、B2~B4はアシッド・フォーク的なソフト・ロック調で皮肉の効いた歌詞と、石間の巧みなアコースティック・ギターがたっぷり聴ける。ラーガ奏法のギターとアコースティック・ギターのアンサンブルがオリエンタルな抒情ムードをかもしだすB2「恋愛墓地 」、B3「女の教室」のカントリー・ブルース風曲調での恋愛遊戯への皮肉、B4「男から女を見た科学的調査」のグロッケンシュピールとヴィブラフォンのアンサンブルによるアシッド・フォーク的曲調と対比するような「女を前から見る時、顔を見る / 女を後ろから見る時、脚を見る / 女を横から見る時、胸を見る」と展開するユーモアを湛えた歌詞など、多彩な曲想を捻りの効いた歌詞で聴かせて楽曲自体がハプニングス・フォー時代のクニ河内の創作力のもっとも冴えた好例をなしている。実質的にふたつのバンドの合体セッションでこれほど成功したアルバムは稀だろう。発表当時ハプニングスやフラワーのアルバム以上に高く評価されたのも過褒ではなく正当だったかもしれない。
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