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現代詩の起源(16); 萩原朔太郎詩集『氷島』(viii)

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萩原朔太郎(1886-1942)、詩集『氷島』刊行1年前、個人出版誌「生理」(昭和8年6月~昭和10年2月、全5号)創刊の頃、47歳。

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萩原朔太郎詩集『氷島』昭和9年(1934年)6月1日・第一書房刊(外函)

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 詩集『氷島』本体表紙

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 新作抒情詩からなるオリジナル詩集としては詩集『氷島』は萩原朔太郎の最後の詩集となったものでした。萩原はこの年48歳、享年は『氷島』刊行8年後の昭和17年、56歳です。生前最後の著作は逝去のちょうど2年前で晩年1年半は病伏にあったそうですから健康には恵まれず、明治生まれの人はまだ人生50年と言われた世代ですが衛生環境の整備や医療の発達普及で長寿化が始まった頃ですから、萩原の享年は早逝とは言えず、長寿とまではいかず、病伏からの期間を考えれば急逝でもなく、また詩作の減少の代わりに昭和年代には15冊あまりの批評・エッセイ集を発表していますから病に伏せるまで文筆家として著作の分量はむしろ多産になっていたのです。昭和年代には大正時代の全詩集『萩原朔太郎詩集』(「愛憐詩篇」『月に吠える』『青猫』「青猫以後」「郷土望景詩」)を昭和3年に、『氷島』を昭和9年に刊行していますが、その後は全詩集から『青猫』「青猫以後」の部を再編集し遺漏詩編2編を加えた『定本青猫』を昭和11年に、前半に『定本青猫』後半部と「郷土望景詩」『氷島』のほぼ全編を選んだ抒情詩選集、後半に『青猫』刊行の時期から発表してきた断章的エッセイで萩原自身が「情調哲学」「アフォリズム」「新散文詩」と呼んできた散文断章を散文詩として改めて選び、新作6編を加えた選詩集『宿命』を昭和14年に刊行したのが『氷島』以降の詩集刊行になり、つまり時代区分と編集に満足していなかった『青猫』の再編集と抒情詩・エッセイ断章の選集きりになります。『氷島』の後に発表された数編の散文詩を除けば、抒情詩の新作は南京事変(いわゆる「南京大虐殺」ともされる事件です)の報に新聞社に依頼されて書き発表された昭和12年12月の「南京陥落の日に」しかなく、それが遺作となってしまいます。晩年5年間には詩作はなかったことになりますが、病伏する前年には1年の間に3冊の批評・エッセイ集を刊行しており、詩人の集まりや往来も盛んでした。萩原の持論では詩は青春の産物でなければならないとあり、萩原自身も病伏する54歳の年まで青春が続いたと言えそうです。
 詩作の寡作にも萩原には持論があり、芭蕉は生前に一冊の家集も持たず、ニーチェ(生田長江訳の表記ではニイチェ)も厖大な著作集に詩集は生涯に一冊しかないではないか、詩人は生涯に一冊の詩集を持てば十分である、という意見でした。大正時代のベストセラーは生田長江訳のニイチェ全集で、萩原はその全集を座右の銘にしていました。詩集『青猫』の前年大正11年に書き下ろし刊行された「第一情調哲学集」『新しき欲情』に始まる断章的エッセイ集は生田長江訳ニイチェ全集から自身を現代日本のニイチェであるという自負で書かれたものです。フリードリヒ・W・ニーチェ(1844-1900)と萩原には共通点はほとんどなく、萩原がニイチェ全集に自己を見ていたのは高山樗牛に始まる当時のニーチェ理解がどれだけ曲解されてたかを示すものでもあり、その原因は当時のニーチェ歿後の全集が原著のドイツ版全集でさえ編者によって甚だしい改竄を施されていたことに大半が由来します。全集の編者が作り上げた都合の良いニーチェ像によって編纂されたニーチェ全集ですから読者にはそれしかニーチェを読む手がかりはなく、伝記研究や改訂版・新版全集が第2次大戦後に進められるとニーチェの妹とその夫が編集した初版のニーチェ全集がいかに読者を固定したニーチェ像に誘導するものだったかが明らかになりました。つまりドイツのナショナリズムを鼓舞する悲劇的で英雄的な思想家に見せるための作為が加えられているばかりか未発表原稿の偽造まで含まれており、初版全集の段階で原稿が散乱した状態になったためドイツ本国でも真正の決定的な校訂版全集を試みて数種類の全集が林立しているのが第2次大戦後のニーチェ全集状況です。ヒトラーのナチス政権が大衆を国粋思想に誘導した際に利用したのもニーチェが心酔し後に決別した音楽家ワーグナー(1813-1883)ともども初版全集のニーチェ像で、萩原が熟読した大正時代のニーチェとはそのようなものであり、現在でも通俗的なニーチェ像は大正時代の解釈から大して変わっていないのです。ニーチェが愛読したドイツ古典詩人はヘルダーリーン(1770-1843)であり、青春時代から共感した詩人はボードレール(1821-1867)で、小説家ではドストエフスキー(1821-1881)でした。ヘルダーリーンからの影響はニーチェ最大の長編詩「ディオニソス頌歌」に表れていますが、真に悲劇的な詩人ヘルダーリーンをドイツのナショナリズムに結びつけるのは見解も附強に過ぎるでしょう。ボードレールやドストエフスキーに至ってはナチス・ドイツの基準では頽廃文学とされた部類です。ボードレールやドストエフスキーもニーチェと並んで大正時代に本格的な紹介が始まった文学者ですが、ニーチェが訳者の生田なりに限界のあるテキストから最善の努力で翻訳されたのよりは良い条件、つまり原著自体の問題は少ない状態で翻訳者にも恵まれて紹介されたにも関わらずボードレールは耽美主義的詩人、ドストエフスキーはトルストイとともに人道主義的小説家と誤解されて読まれた風潮が主流であり、それどころかボードレール、ドストエフスキー、トルストイといった文学者は自己破壊的な悪魔を抱えた作家たちでした。ニーチェもそうです。こうした作家たちがどのような対決から作品を残してきたかを思うと、萩原は当時の日本の文化からは疎外された詩人だったかもしれませんが、萩原自身は自己に悪魔を持たず、自我との対決の必要を持たなかった詩人だったように思えます。

 萩原の時代の日本でそのような悪魔を抱えた詩人を萩原の身近から上げれば萩原がもっとも尊敬した明治の詩人・蒲原有明がいますし、萩原と同世代の山村暮鳥、大手拓次が上がります。石川啄木も晩年ははっきり自分自身の地獄と向かいあった詩人でしたし、啄木の盟友の高村光太郎も早くから頽廃への感受性がありました。そうした詩人たちと較べると萩原の詩は真摯に書かれている詩には違いなくても決定的な軽さを感じずにはいられない面があります。萩原が北原白秋への傾倒から本格的に詩作に手を染めるようになったのは萩原も公言しており、詩人としてのデビューは白秋の詩誌「朱樂(ざんぼあ)」誌上であり、第1詩集『月に吠える』の序文も師である白秋が門下生の処女出版を祝う体裁になっています。後年、萩原の押しかけ弟子になった三好達治(三好もまた頽廃とぎりぎりに詩作を続けた詩人でした)は白秋の詩を認めず、白秋の萩原への影響を断固として否定しました。しかし萩原の、どこか浮ついた軽さの由来を求めるなら、明治と大正の狭間にそれまでの日本の詩にない華やかさと軽やかさを備えて登場した白秋との共通した趣味性は案外重要で、逆に言えば白秋と萩原を結ぶ線はそれだけしかないので、なおさらその軽さの持つ意味はなおざりにできないのです。この軽さを軽薄さと呼ぶこともできますし、青春特有の無責任さとしてもいいと思いますが、白秋にあった華も萩原にあった自由の感覚もそれとは無縁のものではないでしょう。白秋は童謡詩に行きついて最高の日本語の純粋詩を達成した詩人であるのは軽視できません。それは日本の多くの詩人の目標とは異なる達成だったので北原白秋は例外的詩人と目されてしまったのです。白秋は大正7年(1918年)7月に鈴木三重吉が創刊した児童芸術誌「赤い鳥」の童謡欄を担当し、毎号、のちに山田耕筰らに作曲されて人口に膾炙されることになる童謡詩を発表しました。

 赤い鳥、小鳥、
 なぜなぜ赤い。
 赤い實をたべた。

 白い鳥、小鳥、
 なぜなぜ赤い。
 白い實をたべた。

 青い鳥、小鳥、
 なぜなぜ青い。
 青い實をたべた。
  (「赤い鳥」全行・大正7年10月「赤い鳥」)

 からたちの花が咲いたよ。
 白い白い花が咲いたよ。

 からたちのとげはいたいよ。
 青い青い針のとげだよ。

 からたちの畑(はた)の垣根よ。
 いつもいつもとほる道だよ。

 からたちも秋はみのるよ。
 まろいまろい金(きん)のたまだよ。

 からたちのそばで泣いたよ。
 みんなみんなやさしかつたよ。

 からたちの花が咲いたよ。
 白い白い花が咲いたよ。
  (「からたちの花」全行・大正13年=1924年7月「赤い鳥」)

 雪のふる夜(よ)はたのしいペチカ。
 ペチカ燃えろよ、お話しましよ。
 むかしむかしよ。
 燃えろよ、ペチカ。

 雪のふる夜はたのしいペチカ。
 ペチカ燃えろよ、おもては寒い。
 栗や栗やと
 呼びます、ペチカ。

 雪のふる夜はたのしいペチカ。
 ペチカ燃えろよ、ぢき春來ます。
 いまに楊(やなぎ)も
 萌(も)えましよ、ペチカ。

 雪のふる夜はたのしいペチカ。
 ペチカ燃えろよ、誰(だれ)だか來ます。
 お客さまでしよ。
 うれしいペチカ。

 雪のふる夜はたのしいペチカ。
 ペチカ燃えろよ、お話しましよ。
 火の粉ぱちぱち、
 はねろよ、ペチカ。
  (「ペチカ」全行・大正13年8月『漫州唱歌集』)

 萩原朔太郎が『青猫』の作品群を書いていた頃に白秋はこうした童謡詩を書いていたのですが、白秋のこれらの詩は幼児にも理解し口ずさめる平易さと愛唱性で現在でも幼児の言語・音楽教育に用いられているものです。これらは歌曲として3歳の幼児をも魅了するほど広い読者に訴え、その平易さと楽しさではこれほど優れた詩はないでしょう。文意だけなら翻訳可能ですが翻訳によって失われるのが日本語の美しさなのは明瞭で、それは白秋の童謡詩が語感にすべてを託したものであり、幼児の感受性の次元で語感を解放することから生み出された純粋さなのは白秋にして初めてなし得た発明でした。現代詩の詩人で白秋の童謡詩の語感を意識的に用いた唯一の詩人が中原中也であり、中原の詩の批判者が問題とするのもその歌唱性なのも注目すべき現象です。次の詩は中原の晩年、乳児のうちに長男を亡くした後に盛んに創作された乳幼児を歌った作品のひとつです。

 菜の花畑で眠つてゐるのは……
 菜の花畑で吹かれてゐるのは……
 赤ン坊ではないでせうか?

 いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
 ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
 菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

 走つてゆくのは、自轉車々々々
 向ふの道を、走つてゆくのは
 薄桃色の、風を切つて……

 薄桃色の、風を切つて……
 走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲
 ――赤ン坊を畑に置いて
  (「春と赤ン坊」全行・昭和11年=1936年「文學界」掲載月不詳)

 三好達治は中原の親友たちと親好が深く、また堀辰雄とともに主宰した同人誌「四季」にも迎えたため(中原は小林秀雄の「文學界」、草野心平の「歴程」と「四季」の3誌のかけ持ち同人でした)批判はしませんでしたが積極的な評価もせず、白秋から学んでダダ(三好はスマートなモダニズムは好みましたが破壊的なダダイズムは嫌いでした)の要素もある中原の作風を好んだ様子はありませんが、晩年まで北原白秋への批判を崩さなかったにもかかわらず、三好自身にも長い詩歴の最後まで童謡詩・歌謡詩・民謡詩の試みはあるのです。

 こんこんこな雪ふる朝に
 梅が一りんさきました
 また水仙もさきました
 海にむかつてさきました
 海はどんどと冬のこゑ
 空より青い沖のいろ
 沖にうかんだはなれ島
 島では梅がさきました
 また水仙もさきました
 赤いつばきもさきました
 三つの花は三つのいろ
 三つの顏でさきました
 一つ小島にさきました
 一つ畑にさきました
 れんれんれんげはまだおきぬ
 たんたんたんぽぽねむつてる
 島いちばんにさきました
 ひよどり小鳥のよぶこゑに
 こんこんこな雪ふる朝に
 島いちばんにさきました
  (「こんこんこな雪ふる朝に」全行・昭和32年=1957年1月「日本經濟新聞」)

 ――また、三好晩年の絶唱と言える名作に、

 葛飾の野の臥龍梅
 龍うせて もも すもも
 あんずも青き實となりぬ
 何をうしじまちとせ藤
          はんなりはんなり

 ゆく春のながき花ふさ
 花のいろ揺れもうごかず
 古利根(ふるとね)の水になく鳥
 行々子啼きやまずけり

 メートルまりの花の丈
 匂ひかがよふ遅き日の
 つもりて遠き昔さへ
 何をうしじまちとせ藤
          はんなりはんなり
  (「牛島古藤歌」全行・昭和37年=1962年3月『定本三好達治全詩集』書き下ろし)

 原石鼎(1886-1951)の名句「頂上や殊に野菊の吹かれけり」(大正2年)や「青天や白き五辨の梨の花」(昭和11年)を連想させる無心の抒情が感じられる作品ですが、成功したこれらの歌謡詩・民謡詩は花や木の実を詠いこんでなるべく人事から離れているのが特徴でもあり、伝統的な花鳥風月の趣味性を洗練させたものに過ぎないではないか、という批判も当然生まれてくるわけです。現在でこそ名作という評価が定着していますが、発表後半世紀以上もの長い間、奇を衒っただけの作品として否定的な評価がされてきた山村暮鳥(1884-1924)の、

 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 かすかなるむぎぶえ
 いちめんのなのはな

 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 ひばりのおしやべり
 いちめんのなのはな

 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 やめるはひるのつき
 いちめんのなのはな
  (「風景」副題「純銀もざいく」全行・大正4年=1915年6月「詩歌」)

 山村暮鳥という詩人は萩原朔太郎の『月に吠える』『青猫』と同年代の詩人だったために、萩原との比較で批判的な評価をされてきた詩人でした。しかし「風景」を含む大正4年の詩集『聖三稜玻璃』は高村光太郎の『道程』、萩原の『月に吠える』と並んで大正時代の口語自由詩の可能性を切り拓いた詩集です。キリスト教伝道師として東北各地の小教会の牧師を転々とし、教会本部からは信徒の獲得に無能な牧師と目され冷遇されて40歳の病弱な短い生涯を送った暮鳥の苦しみは、遺産相続と金利で暮らしていた萩原どころではありませんでした。『聖三稜玻璃』の過剰な実験性はそうした暮鳥の衝迫力の強さに由来するもので、「いちめんのなのはな」はキリスト者としては異端とも言えるアジア圏の古代宗教的な涅槃のイメージすらあります。それはキリスト教牧師による詩作としては背教背徳の詩に他ならず、山村暮鳥にとっては、この「いちめんのなのはな」は『聖三稜玻璃』のもう一編の代表詩で巻頭作品(「風景」は巻末から2番目の作品でした)「囈語」と同じ発想で書かれた詩なのは明らかです。こちらは白秋主宰の詩誌「アルス」掲載で、白秋の萩原とともに白秋の門下生で「アルス」の衛星誌「にんぎょ詩社」を主宰し『聖三稜玻璃』の発行人になった室生犀星の口利きによるものと思われますが、チューリッヒ・ダダに先んじて突然変異的に日本に現れたダダ詩として発表時にはこれを評価したのは金子光晴、草野心平らデビュー前の若い詩人くらいだったものです。

 竊盜金魚
 強盜喇叭
 恐喝胡弓
 賭博ねこ
 詐欺更紗
 涜職天鵞絨(びらうど)
 姦淫林檎
 傷害雲雀(ひばり)
 殺人ちゆりつぷ
 墮胎陰影
 騷擾ゆき
 放火まるめろ
 誘拐かすてえら。
  (「囈語」全行・大正4年年6月「アルス」)

 これを『道程』や『月に吠える』を比較すると暮鳥の詩が孤独な実験に終わったのがわかるような気がします。明治以降の日本の多行形式の詩は明治'20年代~'40年代に「新軆詩」と呼ばれた時期を経て口語詩の試みが始まり、大正時代を迎えてさまざまな試行錯誤の末に(その極端な例が山村暮鳥の詩です)ようやく口語自由詩が定着しますが、そのもっとも革新的かつ優れた確立者は高村光太郎と萩原朔太郎に尽きる、と昭和年代の早い時期にはすでに認められていました。その割に高村・萩原が詩人の社会で偉い人にならなかったのは二人とも組織的地位には無頓着であり、早い話が一対一か一対他でしか人間社会を捉えられない感覚によって家庭から職業社会に至るまで社会的帰属意識が稀薄で、常に発展途上な青春のまま年を取っていったような人だったからでしょう。そういう人は畏敬はされても役職には就けません。高村は詩誌「明星」(与謝野鉄幹・晶子夫妻主宰)に属していた白秋、啄木らと並んで萩原より早くデビューしていましたが大正3年(1914年)の第1詩集『道程』は口語自由詩としての画期性よりも当時流行の民衆主義詩を穏健にした人道主義的詩集として読まれてしまいます。一方、第1詩集『月に吠える』に先立つ萩原27歳~28歳の1年間の初期作品「愛憐詩篇」(第4詩集『純情小曲集』大正14年8月刊)は文語詩であっても従来の新軆詩とは切れて口語以上の柔軟性を持ち、豊かで清新な素晴らしいデビュー作群でした。萩原の青春が詩の青春性と調和した幸福な時期の作品が「愛憐詩篇」とも言えます。これらは大正2年(1913年)5月から大正3年(1914年)7月までに発表された作品41編から18編が選ばれたものですが、今回見てきた諸家の詩や萩原自身の晩年作品『氷島』との比較のためその全18編をご紹介しておきましょう。これらは歌謡詩には決してならずに自然な愛唱性を実現している点で『月に吠える』以降の本格的詩集を凌いで萩原の作品の頂点と見ることもできるのです。

萩原朔太郎詩集『純情小曲集』大正14年(1925年)8月12日・新潮社刊(カヴァー装)

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 愛 憐 詩 篇


  夜 汽 車

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるきにすのにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。
 (大正2年=1913年5月「朱樂」)


  こ こ ろ

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
 (大正2年5月「朱樂」)


  女 よ

うすくれなゐにくちびるはいろどられ
粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし。
女よ
そのごむのごとき乳房をもて
あまりに強くわが胸を壓するなかれ
また魚のごときゆびさきもて
あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかれ
女よ
ああそのかぐはしき吐息もて
あまりにちかくわが顏をみつむるなかれ
女よ
そのたはむれをやめよ
いつもかくするゆゑに
女よ 汝はかなし。
 (大正2年=1913年5月「朱樂」)


  櫻

櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも櫻の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。
 (大正2年=1913年5月「朱樂」)


  旅 上

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
 (大正2年=1913年5月「朱樂」)


  金 魚

金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵ふちに身をなげすてたる我の悲しさ。
 (大正2年=1913年5月「朱樂」)


  靜 物

靜物のこころは怒り
そのうはべは哀しむ
この器物(うつは)の白き瞳(め)にうつる
窓ぎはのみどりはつめたし。
 (大正3年=1914年7月「創作」)


  涙

ああはや心をもつぱらにし
われならぬ人をしたひし時は過ぎゆけり
さはさりながらこの日また心悲しく
わが涙せきあへぬはいかなる戀にかあるらむ
つゆばかり人を憂しと思ふにあらねども
かくありてしきものの上に涙こぼれしをいかにすべき
ああげに今こそわが身を思ふなれ
涙は人のためならで
我のみをいとほしと思ふばかりに嘆くなり。
 (大正2年8月「創作」)


  蟻 地 獄

ありぢごくは蟻をとらへんとて
おとし穴の底にひそみかくれぬ
ありぢごくの貪婪(たんらん)の瞳(ひとみ)に
かげろふはちらりちらりと燃えてあさましや。
ほろほろと砂のくづれ落つるひびきに
ありぢごくはおどろきて隱れ家をはしりいづれば
なにかしらねどうす紅く長きものが走りて居たりき。
ありぢごくの黒い手脚に
かんかんと日の照りつける夏の日のまつぴるま
あるかなきかの蟲けらの落す涙は
草の葉のうへに光りて消えゆけり。
あとかたもなく消えゆけり。
 (大正2年8月「創作」)


  利 根 川 の ほ と り

きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
水の流れはやくして
わがなげきせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に來り石投げてあそびくらしつ。
きのふけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。
 (大正2年8月「創作」)


  濱 邊

若ければその瞳(ひとみ)も悲しげに
ひとりはなれて砂丘を降りてゆく
傾斜をすべるわが足の指に
くづれし砂はしんしんと落ちきたる。
なにゆゑの若さぞや
この身の影に咲きいづる時無草もうちふるへ
若き日の嘆きは貝殼もてすくふよしもなし。
ひるすぎて空はさあをにすみわたり
海はなみだにしめりたり
しめりたる浪のうちかへす
かの遠き渚に光るはなにの魚ならむ。
若ければひとり濱邊にうち出でて
音ねもたてず洋紙を切りてもてあそぶ
このやるせなき日のたはむれに
かもめどり涯なき地平をすぎ行けり。
 (大正2年11月「創作」)


  緑 蔭

朝の冷し肉は皿につめたく
せりいはさかづきのふちにちちと鳴けり
夏ふかきえにしだの葉影にかくれ
あづまやの籐椅子(といす)によりて二人なにをかたらむ。
さんさんとふきあげの水はこぼれちり
さふらんは追風(つゐふう)にしてにほひなじみぬ。
よきひとの側(かた)へにありてなにをかたらむ
すずろにもわれは思ふ「ゑねちや」の「かあにばる」を
かくもやさしき君がひとみに
海こえて燕雀のかげもうつらでやは。
もとより我等のかたらひは
いとうすきびいどろの玉をなづるがごとし
この白き鋪石をぬらしつつ
みどり葉のそよげる影をみつめゐれば
君やわれや
さびしくもふたりの涙はながれ出でにけり。
 (大正2年9月「創作」)


  再 會

皿にはをどる肉さかな
春夏すぎて
きみが手に銀のふほをくはおもからむ。
ああ秋ふかみ
なめいしにこほろぎ鳴き
ええてるは玻璃をやぶれど
再會のくちづけかたく凍りて
ふんすゐはみ空のすみにかすかなり。
みよあめつちにみづがねながれ
しめやかに皿はすべりて
み手にやさしく腕輪はづされしが
眞珠ちりこぼれ
ともしび風にぬれて
このにほふ鋪石(しきいし)はしろがねのうれひにめざめむ。
 (大正3年10月「アララギ」)


  地 上

地上にありて
愛するものの伸長する日なり。
かの深空にあるも
しづかに解けてなごみ
燐光は樹上にかすかなり。
いま遙かなる傾斜にもたれ
愛物どもの上にしも
わが輝やく手を伸べなんとす
うち見れば低き地上につらなり
はてしなく耕地ぞひるがへる。
そこはかと愛するものは伸長し
ばんぶつは一所(いつしよ)にあつまりて
わが指さすところを凝視せり。
あはれかかる日のありさまをも
太陽は高き眞空にありておだやかに觀望す。
 (大正3年6月「創作」)


  花 鳥

花鳥(はなとり)の日はきたり
日はめぐりゆき
都に木の芽ついばめり。
わが心のみ光りいで
しづかに水脈(みを)をかきわけて
いまぞ岸邊に魚を釣る。
川浪にふかく手をひたし
そのうるほひをもてしたしめば
かくもやさしくいだかれて
少女子どもはあるものか。
ああうらうらともえいでて
都にわれのかしまだつ
遠見にうかぶ花鳥のけしきさへ。
 (大正3年6月「創作」)


  初 夏 の 印 象

昆蟲の血のながれしみ
ものみな精液をつくすにより
この地上はあかるくして
女の白き指よりして
金貨はわが手にすべり落つ。
時しも五月のはじめつかた。
幼樹は街路に泳ぎいで
ぴよぴよと芽生は萌えづるぞ。
みよ風景はいみじくながれきたり
青空にくつきりと浮びあがりて
ひとびとのかげをしんにあきらかに映像す。
 (大正3年6月「創作」)


  洋 銀 の 皿

しげる草むらをたづねつつ
なにをほしさに呼ばへるわれぞ
ゆくゆく葉うらにささくれて
指も眞紅にぬれぬれぬ。
なほもひねもすはしりゆく
草むらふかく忘れつる
洋銀の皿をたづね行く。
わが哀しみにくるめける
ももいろうすき日のしたに
白く光りて涙ぐむ
洋銀の皿をたづねゆく
草むら深く忘れつる
洋銀の皿はいづこにありや。
 (大正3年5月「創作」)


  月 光 と 海 月

月光の中を泳ぎいで
むらがるくらげを捉へんとす
手はからだをはなれてのびゆき
しきりに遠きにさしのべらる
もぐさにまつはり
月光の水にひたりて
わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか
つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに
たましひは凍えんとし
ふかみにしづみ
溺るるごとくなりて祈りあぐ。
かしこにここにむらがり
さ青にふるへつつ
くらげは月光のなかを泳ぎいづ。
  (大正3年5月「詩歌」)


(引用詩の用字、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド V.U. - Live at St. David's University, Lampeter, Wales (Captain Trip, 2001)

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ヴェルヴェット・アンダーグラウンド V.U. - Live at St. David's University, Lampeter, Wales (Captain Trip, 2001) Full Concert : https://youtu.be/8lwMj0hSzMw
Recorded Live at St. David's University, Lampeter, Wales, December 6,1972
Released by Captain Trip Records JP, CTCD353, August 2001 from 4CD Box Set "Final V.U. 1971-1973"

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All songs written by Lou Reed except as noted.
(Tracklist)
1. I'm Waiting For The Man - 5:41
2. White Light / White Heat - 2:11
3. Some Kinda Love - 5:51
4. Little Jack (Yule) - 3:33
5. Sweet Jane - 3:41
6. Mean Old Man (Yule) - 2:59
7. Run Run Run - 6:16
8. Caroline (Yule) - 2:32
9. Dopey Joe (Yule) - 3:10
10. What Goes On - 4:14
11. Sister Ray / Train Round The Bend (Reed, Cale, Morrison, Tucker/Reed) - 14:01
12. Rock And Roll - 4:39
13. I'm Waiting For The Man - 5:43
[ V.U. aka The Velvet Underground ]
Doug Yule - vocals, guitar
Rob Norris - guitar
George Kay (Krzyzewski) - bass guitar
Mark Nauseef - drums

(Original Captain Trip 4CD "Final V.U. 1971-1973" Disc 3 Liner Cover & CD Label)

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 バンドの主役ルー・リードが脱退後に後期メンバーのダグ・ユールがヴォーカルとギターを担当するリーダーになって引っ張ったヴェルヴェット・アンダーグラウンドの発掘ライヴ4CDボックス『Final V.U. 1971-1973』2001でも、ディスク1、2はオリジナル・メンバーの女性ドラマー、モーリン・タッカーがまだ在籍していましたし、ベースとキーボードに新メンバーを迎えてもリード在籍時の最後の4作目のアルバム『Loaded』'70.9に基づいた演奏をしていました。ですがバンドのマネジメントは'72年秋のヨーロッパ・ツアーの最終地ロンドンからユール以外の3人を帰国させ、ユール単独でほとんど楽器も多重録音し、一部ロンドンのセッション・ミュージシャン(ドラムスにディープ・パープルのイアン・ペイスが参加しているのだけは判明しています)を起用して、全曲ユールのオリジナル曲からなるアルバム『Squeeze』'73.2を制作させ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド名義でイギリスのポリドール・レコード原盤によってイギリスとヨーロッパ諸国でのみ発売させました。ルー・リードがソロ・デビューしたのは前年でまだヒット実績がなく、ヨーロッパのリスナーはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバーが誰かなど知りませんからこういう商売もできたのですが、マネジメントはさらに新作『Squeeze』先行プロモーション・ツアーをユールとロンドンのセッション・ミュージシャン(レコーディング・メンバーでもないライヴだけの起用)でヴェルヴェット・アンダーグラウンド名義で'72年11月~12月にイギリス国内で7か所ほど行わせます。今回ご紹介する『Final V.U. 1971-1973』のディスク3収録のコンサートはツアーの最終日に当たるものです。ディスク1、2の'71年11月の2回のコンサートはオリジナル・メンバーのタッカー、後期メンバーだったユールの2人のリード在籍時からのメンバーに、ベースとキーボードに迎えたメンバーもユールの昔のバンド仲間とそれなりに縁もゆかりもあるチームだったのですが、この'72年12月のツアーではユール以外は元来ヴェルヴェットとは何も関係のないメンバーばかりだったわけです。
 楽曲に(Yule)としてあるのが『Squeeze』収録のユールの自作曲なのですが、かつてのヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードによる代表曲の方が数多いように、馴染みのない新曲ばかりにならないようなセット・リストにしてあるのが苦汁の選択を感じさせます。4曲目の「Little Jack」は『Squeeze』の冒頭曲で、アルバム中数少ない佳曲であり、なにしろ観客録音の発掘ライヴなので音が歪んでいるのは仕方ないのですが(それでも4枚中では良い方です)、アルバムよりも迫力のあるアレンジになっています。メンバー中、のちに名を上げたのはドラムスのマーク・ナウシーフだけですが、ドラムスの違いが決定的というべきか、モーリン・タッカーのドラムスとまったく違う歯切れの良いダイナミックなドラムスのせいでヴェルヴェットらしさが見事に消し飛んでいるのがこのヴェルヴェットU.K.の特徴でしょう。ただし『Squeeze』が元々このメンバーで録音されていたら、あのアルバムももっとインパクトの強いものになっていたのではないか、と思わせるだけのヤケクソな疾走感がこのツアーのみのメンバーによる編成によるヴェルヴェットにはあり、『Final V.U. 1971-1973』はディスク3がこの通りのヴェルヴェットU.K.ならディスク4は帰国後のユールが新たなメンバーで始めたバンドがマネジメントの依頼でヴェルヴェット名義で行ったライヴ、とどんどん本来のヴェルヴェットから離れていくのですが、このU.K.ヴェルヴェットについて言えば『Final V.U. 1971-1973』の4CD中もっともソリッドで性急な演奏が聴ける点で楽しめるものです。ルー・リード在籍時のヴェルヴェットはノイズ、ガレージ、プロト・パンクと呼ばれますが、ここで聴けるサウンドも十分プロト・パンクと言えるもので、『Squeeze』とこのライヴの両方を聴けばユールの奮闘は涙ぐましいほどです。45年を経てまったく再評価の兆しもなく、今後もないだろうと思うとなおのことですが、2017年現在最新の録音作品が2062年にどれだけ残って聴かれているかを考えると『Squeeze』のヴェルヴェットだって大したものなのです。

映画日記2017年10月16日~18日/ハワード・ホークス(Howard Hawks, 1896-1977)の男の映画(6)

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 黙って観て、話はそれからと言えるほど映画の中の映画と目せる映画はあるもので、ホークスには全46作の監督作品中にそういう作品が10作はあるでしょう。1938年~1940年の『赤ちゃん教育』『コンドル』『ヒズ・ガール・フライデー』もそうですが、今回の1944年~1948年の『脱出』『三つ数えろ』『赤い河』の3作もそうです。さらに今回の3作で言えば、いずれもホークス作品らしい作風と特色は確かなものの同じ系統の作品が他にはない、という点でも極めつけであって、その意味でも絶対外せない作品になっています。またくり返し観てもその都度新たに楽しめる作品でもあります。では、今回も例によって作品紹介はキネマ旬報の「近着外国映画紹介」をお借りしました。

●10月16日(月)
『脱出』To Have and Have Not (ワーナー'44)*100min, B/W; 日本公開昭和22年(1947年)11月

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ジャンル ドラマ
製作国 アメリカ
製作会社 ワーナー・ブラザース映画
配給 ワーナー・ブラザース日本支社
[ 解説 ] 「カサブランカ」のハンフリー・ボガートが主演する映画で、アーネスト・ヘミングウェイの小説を「コンドル」「支那海」のジュール・ファースマンが一流作家ウィリアム・フォークナーの協力を得て脚色し、「暗黒街の顔役」のハワード・ホークスが監督したもの。助演は「荒野の決闘」のウォルター・ブレナン、これが初出演の新スタアでローレン・バコール、新人ドロレス・モラン及びホギー・カーマイケル、「永遠の処女」のマッセル・ダリオ、ウォルター・サンド等で、撮影は「我が心の歌」のシド・ヒコックスが指揮している。
[ あらすじ ] フランスがヒットラーに屈服した頃、フランス領マルチニク群島でのことである。 アメリカ人のハリー・モーガン(ハンフリー・ボガート)はエディー(ウォルター・ブレナン)を運転手として、大型モーターボートの賃貸をしていた。釣りに行ったジョンソン(ウォルター・サンド)を乗せて帰港すると、ホテルの亭主ジェラール(マルセル・ダリオ)が同志救出に力を貸してくれと申し込まれた。ジェラールはドゴール派のこの地方での指導者だった。不偏不党のモーガンはそれを拒絶した。モーガンがジョンソンと共にトリニダッドから飛行機で来たアメリカ美人マリー(ローレン・バコール)と食事をしていると、ヴィシー政府の警視ルナール(ダン・シーモア)が取り調べにきた。ジョンソンは流れ弾にあたって死に、モーガンは所持の金品の仮差し押えをされた。しかもルナールはマリーのほほをなぐるという乱暴さであった。これにはモーガンも憤慨しないではいられず、ジェラールに協力を申し出た。そしてモーガンはマリーがアメリカに帰る飛行機を工面して彼女に与え、近くの小島からポール・ドワ・ビュルサック(ウォルター・モルナー)とその妻エレーヌ(ドロレス・モラン)を救いだす。ところがヴィシー側の警備艇に見咎められ、モーガンはその警備艇の照明燈を射ったが、ポールが肩を負傷した。モーガンはホテルの地下室でポールの肩から銃弾を抜き取る手術をしてやる。一方マリーは飛行機で帰らず、ホテルのクリケット(ホギー・カーマイケル)のピアノ伴奏で歌をうたっていたが、モーガンは危機が迫っているのを感じ、マリーとエディーに旅立つ準備を急がせる。手術をすませた後エディーが行方不明になっていたが、ルナールの口ぶりで彼が人質になっていることがわかる。ルナールはポール夫妻の所在を知らせろと言うのだった。モーガンはルナールの用心棒を倒して、ルナールにエディーの放免状を書かせる。そしてマリー、ポール夫婦を客として、モーガンの船はマルチニックを脱出することができたのである。

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 本作と次作の『三つ数えろ』はホークスの映画という以上にハンフリー・ボガートとローレン・バコールの映画で、ボガートあっての企画でありバコール(本作がデビュー作)を売り出した二段ロケットのような作品でもあります。本作についてはホークス得意のホラ話で友人ヘミングウェイと映画と文学の論議になり、映画と文学は別物だからどんな愚作だって優れた映画にできる、君の一番の凡作でもとホークスが持論を述べ、ヘミングウェイが俺の一番の凡作って何だよ、と言うので『To Have and Have Not (持つと持たぬと)』'37だよ、とホークスが即答し映画化することにした、とホークス本人があちこちで吹聴しています。ホークスの発言にはヘミングウェイのベストセラーで映画化もヒット作品になった『武器よさらば』'32(ボーゼージ)や『誰が為に鐘は鳴る』'42(サム・ウッド)が念頭に(発言年代からするとヘンリー・キングの『キリマンジャロの雪』52'も)あったかもしれません。実際に自作の映画化作品のヒットを原作の出来によると自負するヘミングウェイを諫めたことが本当にあったとしてもホークスの発言ほど露骨に挑発的だったとは思えないので、映画の成功後に面白おかしく誇張したホラ話でしょうが、原作の設定(キューバが舞台)に忠実なファースマンの初稿脚本がキューバとの国交上で検閲に引っかかり、第2稿で架空の舞台に置き換えたフォークナー脚本が『永遠の戦場』'36で起用された時とは別人のように練れており、例によってホークスが手を加えたとは思いますが制約の少ない、撮影現場での自由度の高い脚本なのが緩い構成から伝わってきます。映画序盤の釣り客ジョンソンなどボガートとブレナンの釣り船稼業を描くためだけに出てくる人物ですし、ヒロインのバコールも本来いてもいなくても物語の本筋に関わりない(原作にもいない)ヒロインで、さらに本作はつい2年前のボガートの大ヒット作『カサブランカ』'42(マイケル・カーティス)のパロディでもあります。ボガートはラオール・ウォルシュの『彼奴は顔役だ!』'39の準主演の後ウォルシュの『ハイ・シェラ』'41で初主演し、同作の脚本家ジョン・ヒューストンの監督第1作『マルタの鷹』'41の大ヒットでスター俳優になり、ヒューストンとは『黄金』'48、『キー・ラーゴ』'48、『アフリカの女王』'51、『悪魔をやっつけろ』'53と名高い作品が続きますが、『マルタの鷹』に続いてボガートを国民的スターにしたのが『カサブランカ』でした。ウォルシュ、ヒューストン、カーティスとも当時ワーナー専属だったのですが、独立プロの監督のホークスがワーナーで作った作品が堂々ワーナーの大ヒット作『カサブランカ』のパロディだったというのは人を食ったもので、ヘミングウェイの原作小説とはまったく結末も変えてありますし原作小説では主人公は密輸業者です。フォークナーには拍子抜けするようなユーモア作家の側面もありますから、本作はフォークナーとホークスが『持つと持たぬと』と『カサブランカ』をダシに作った一見シリアスな喜劇映画であり、ボガートとバコールをいかしたスター俳優に見せるための映画でヘミングウェイ原作と謳わなければオリジナル脚本で通じる作品ですが、原作者のネーム・ヴァリューは宣伝材料に残しておいた、というところでしょう。映画は中盤まで反ナチのレジスタンス活動家夫婦をノンポリの主人公が助けるか否か、と『カサブランカ』そのままのプロットで進みますが、ブレナンならではの役の相棒の酔っ払い老船乗りとボガート、さらに登場する必然性がまったくないヒロインのナイト・クラブ歌手役のバコールとメイン・プロットと関係ない人物(バコールがボギーに言う「用がある時は口笛を吹いてね」はアメリカ映画名台詞ベスト5入選だそうです)の比重の方がはるかに大きく、そういう性格の映画なのは序盤の主要人物があっさりとばっちりで死んで何のフォローもなく早々と観客を呆気にとらせることでも明らかですが、それでも結末の肩すかしのハッピーエンドまで気が抜けない映画になっており、再見して初めてこの映画のすっとぼけた作りに気づく仕掛けになっています。本作の出演時点でボギーは45歳ですがデビュー作のバコールは18歳で、こんな18歳は反則ではないかというほど貫禄があり、当時のアメリカ映画ですからバコールは酒も煙草も堂々と喫っています。撮影中にボギーとバコールがいい中になっていくのを監督ホークスは嫉妬していたそうですが、これほど決まったカップルはそうありませんしモデル上がりの新人女優の映画初出演作でこれほど輝かしい作品はないでしょう。けっこう命がけの事件に関わっているのに主人公たちが悲壮感とも哀愁ともまるで無縁なのがよろしく、映画の首尾としては破綻ぎりぎりですが本作は名作で、続けてボギー&バコールの主演作が決まったのも当然と言える出来です。そしてゆるゆるの『脱出』に続く『三つ数えろ』は人物関係の複雑さ、プロットの難解さで『脱出』とは対照的な作品になります。

●10月17日(火)
『三つ数えろ』The Big Sleep (ワーナー'45/'46)*116/113min, B/W; 昭和30年(1955年)4月/アメリカ国立フィルム登録簿登録作品(1997年度)

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ジャンル ドラマ
製作国 アメリカ
製作会社 WB映画
配給 ワーナー・ブラザース日本支社
[ 解説 ] 「紳士は金髪がお好き」のハワード・ホークスが1946年に製作・監督に当った推理映画で、「深夜の告白」のレイモンド・チャンドラーの処女作を「脱出」のウィリアム・フォークナー、リー・ブラケット、「北京超特急」のジュールス・ファースマンが脚色した。撮影は「暴力に挑む男」のシド・ヒコックス、音楽は「欲望の谷」のマックス・スタイナー。「裸足の伯爵夫人」のハンフリー・ボガート、「百万長者と結婚する方法」のローレン・バコール、「腰抜けM・P」のジョン・リッジリー、「地獄から来た男」のマーサ・ヴィッカーズ、「殺人者はバッジをつけていた」のドロシー・マローン、「銅の谷」のペギー・ヌードセン、レジス・トゥーミーらが出演する。
[ あらすじ ] 私立探偵フィリップ・マーロウ(ハンフリー・ボガート)は両肢不随の老将軍スタンウッド(チャールズ・ウォルドロン)の妹娘で抑欝症気味のカーメン(マーサ・ヴィッカーズ)が古本屋アーサー・ガイガー(セオドア・フォン・エルツ)から恐喝状をつきつけられたことについて調査依頼をうけた。将軍は同時に姉娘ヴィヴィアン(ローレン・バコール)の夫リーガンが行方不明になったことも心配していた。ガイガー家を探りに行ったマーロウはあられもない格好でガイガーの死体の傍らに佇むカーメンを発見し、家へ送りかえした。彼女はここで秘密写真を撮られていた。翌日彼は地方検事局のバーニー・オールズ(レジス・トゥーミー)から、将軍家の自動車が暴走して前にカーメンと駈け落ちしかけたことのある運転手テイラーが死んだニューズを知らされた。ヴィヴィアンはマーロウの事務所を訪れるうち彼に恋心を抱くようになった。マーロウは恐喝の張本人がいかさまギャングのジョー(ルイス・ジーン・ハイト)であることをつきとめたが、ジョーは彼をガイガー殺しの犯人と思いこんでいるガイガーの身内に殺された。しかし真犯人は死んだテイラーであった。リーガンと関係のあったモナ(ペギー・ヌードセン)という女の夫で暗黒街の大物エディ・マース(ジョン・リッジリー)がリーガン事件に関係あると睨んだマーロウは、リーガンの仲間ハリー(エライシャ・クック・ジュニア)に当たって見ようとしたが、一足おそくハリーはエディの手下カニノ(ボブ・スティール)に毒殺された。マーローはカニノの後を追ったが、計略にかかって捕えられ、危いところを居合せたヴィヴィアンに救われた。ガイガーの家に行ったマーロウは電話でエディを呼びつけ、彼からリーガンがカーメンに殺された事実を聞き出した。ガイガーの家を取り囲んだエディの手下たちはマーロウの策にかかって誤って発砲し親分エディを殺してしまった。マーロウは検事局のバーニーにリーガン殺しはエディであったと告げた。

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 1945年3月公開予定で製作されましたが、終戦後に話題作として公開する方針への変更から、更に磨きをかけるために(主に捜査場面を削ってバコールの出演場面を増やし)追加撮影・再編集されて1946年8月末日に本国公開されました。原作者レイモンド・チャンドラー(1888-1959)は探偵フィリップ・マーロウを長身としていたため小柄なボギーの配役に難色を示したそうですが、作中でボギーが言われる「ずいぶん背が高いのね」という台詞は「ずいぶん小柄なのね」と変えられ、小柄でも顔の大きいボギーは違和感ないどころか実に映画の私立探偵役にはまっているので、これはヒューストン作品『マルタの鷹』の(チャンドラーが心酔する)ダシール・ハメット(1994-1961)原作の私立探偵サム・スペードを見事にこなしたのが観客の印象に強いのを利用したとも言える企画でしょう。意外ですがホークスの探偵映画はサイレント最終作『トレント大事件』'29以来です。アメリカ商業映画史上もっとも複雑なプロットを持ち、何回観てもよくわからないがムードと勢いで観せてしまうと定評ある作品ですが、これは実は原作準拠でチャンドラー自身が既発表短編小説3編から長編にまとめたのが原作の『The Big Sleep (大いなる眠り)』'39で(チャンドラーは生涯5作の長編しか書かなかったハメット同様文学者タイプの作家で、44歳で作家デビューし25年余に7作の長編しか書かず、長編はまず部分的に短編小説を試作してから組み立てていました)、登場人物はやたら多い上に関係が入り組んでいるわ、複数のプロットが同時進行しているわ、叙述の時制が相前後してすんなり頭にはいってこないわ、あまりにたくさんの事件が起こるので事件と事件の関連もとりあえず保留で話が進むわ、結末に至っても解明されていない謎がまだ残っているわという調子で、『大いなる眠り』は第1長編ですからチャンドラー長編中つぎはぎ感がいちばん目立つ作品です。直接に殺人場面が描かれる箇所はなく関係者を通して知る、またはボギーのマーロウ自身が殺人現場を発見するという具合に本作は少なくとも5件の殺人事件が起こりますが、同一犯による連続殺人ではなく事件の犯人は全員別の登場人物か、犯人不明の殺人すらあります。撮影開始後に現場で「そういえばここで会話に出てくる殺人の犯人は結局誰なんだ」とスタッフとキャストの間で議論になり(脅迫者ガイガー殺しの犯人の運転手テイラーを殺した犯人)3人合作の脚本のミスかもしれないし原作者に訊こうじゃないかとチャンドラーに電話するとチャンドラーも「考えてなかった」と答えたそうですから(ボギーもファンからいつも訊かれるので閉口していたそうです)、これは探偵映画ではあってもうさんくさい登場人物が殺しあうのを探偵が決着まで見届ける映画で、推理的要素はほとんどない。ボギーのハードボイルド探偵マーロウがあちらを調べこちらに立ち寄り、足で稼いで図書館の女性司書やガイガー古書店の女店員、ガイガーを見張るために正面の女主人の店を使わせてもらったり、追跡なら任せてという女性タクシー運転手の車を拾ったりと、翻訳(双葉十三郎訳でした)を読んだのは学生時代だったので覚えていませんがこんなにマーロウの行く先々でワンポイントの女性キャラクター(後半事件の鍵を握る人物もいますが)は出てこなかったと思います。映画を面白くするためのホークスの工夫かつ趣味なのでしょうが、ヒューストンの『マルタの鷹』(これもピーター・ローレの怪演は嬉しくなりますが)には稀薄でホークスの本作に豊かなのはその点で、『マルタの鷹』のボギーのサム・スペードはオフィスに押しかけてくる悪党たちとの打々発止がほとんどで『三つ数えろ』のマーロウの一割も行動的ではないのです。依頼人で蘭の温室に住む全身不随の老将軍スタンウッド(チャールズ・ウォルドロン)、クールな未亡人の姉娘ヴィヴィアン(ローレン・バコール)、色情狂気味で危ない夜遊び好きの妹娘カーメン(マーサ・ヴィッカーズ)の一家の頽廃的ムードも魅力的ですが、バコールを引き立たせるためにボギーの協力者的存在に持っていった後半部はやや前半と調子が変わるように見えます。先に触れたように本作は'45年3月公開予定で一旦完成されたものを、終戦を見越して戦後公開の方がヒットを狙えると部分的に再編集・追加撮影されて'46年8月に正式公開されたもので、現行DVD(ワーナー正規ライセンス版)には'45年版と'46年版の両方のヴァージョンと、相違点を解説した特典映像が収録されています(パブリック・ドメイン版には'46年公開版のみ収録)。実は今回初めて'45年版を観てみました。大きな変更はありませんが、ボギーと警察のやりとりが'45年版では'46年版より短くされ、ボギーとバコールの絡みが増やしてある違いがあります。再編集したのにわかりやすい映画にしようとした様子がまるでないのはどうせ筋など解りっこないのだからムードと勢いだけの映画でもいいだろう、という割り切りが感じられます。殺人場面が描かれないのに緊迫感と躍動感があり、適度な緩急があるのはさすが15歳あまり年少のヒューストンでは及ばない巧みさがあります。ホークス作品中でもこの系列はプレ・ノワールの金字塔『暗黒街の顔役』に西部劇ノワールの『バーバリー・コースト』、戦時下ノワールの『脱出』があったきりなので、正統派のハードボイルド探偵ノワールの本作は決定打にして極めつけの作品であり、本当にすごい映画です。前作と本作の間に不仲だった夫人と離婚していたボギーが、年の差を気にしながらバコールの熱烈なラヴ・コールに結婚したのは本作撮影完了直後で、ホークスがボギー&バコールの共演作を以後作らなかったのもそのせいかもしれません(ヒューストンの『キー・ラーゴ』で再びボギーとバコールの共演が観られます)。ホークス作品としては男の友情のテーマが出てこないのが珍しい点ですが、本作のバコールはロマンスの相手というよりも男性的友情の相手と見ることができそうで、そうした面では『脱出』の方がロマンス要素を強調した作品だったとも言えます。

●10月18日(水)
『赤い河』Red River (ユナイト'48)*133min, B/W; 日本公開昭和27年(1952年)1月/アカデミー賞原案賞(ボーデン・チェイス)・編集賞(クリスチャン・ナイビー)ノミネート、アメリカ国立フィルム登録簿登録作品(1990年度)

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ジャンル 戦争 / 西部劇
製作国 アメリカ
製作会社 ユナイテッド・アーティスツ映画
配給 松竹映画
[ 解説 ] ユナイテッド・アーティスツ日本支社と松竹洋画部の提携による第1回公開作品。「僕は戦争花嫁」の監督者ハワード・ホークスが製作並びに監督にあたったモントレイ・プロ1948年映画で、「炎の街」のボーデン・チェイスが史実に基づいて書いた「チゾルム・トレイル」(サタデイ・イヴニング・ポスト所載)をチェイズ自身とチャールズ・シュニーが共同脚色し、撮影は「秘密警察」のラッセル・ハーラン、音楽はディミトリ・ティオムキン「白昼の決闘」、編集は「物体」の監督クリスチャン・ナイビイ「秘密警察」の担当。主演は「黄色いリボン」のジョン・ウェインとジョアン・ドルー、「女相続人」のモンゴメリイ・クリフトで、「彼女は二挺拳銃」のウォルター・ブレナン、「アリゾナの決闘」のコリーン・グレイ、故ハリイ・ケリイとその息子、ジョン・アイアランドらが助演する。
[ あらすじ ] 南北戦争の14年前。開拓者のダンスン(ジョン・ウェイン)とグルート(ウォルター・ブレナン)は、2人でテキサスの緑野に大農場を作る希望に燃え、レッド・リヴァに向かう途中、少年マシュウに会いダンスンは彼を養子とした。――南北戦争も終わって、ダンスンは広大な土地と莫大な家畜を持っていたが南部には牛肉を買う市場がなかった。今は成人したマシュウ(モンゴメリイ・クリフト)が戦争から帰って来たとき、ダンスンは北部や東部の市場へ鉄道の通っているミズーリへ家畜1万頭を移動させるという大胆な計画を打ち明けた。バスター(N・ビアリ・ジュニア)、チェリイ(ジョン・アイアランド)らの牧童たちが雇われ、大移動の旅が始まったが、旅程は非常に困難でダンスンは焦燥感が募ってあたり散らし酒に耽るようになった。レッド・リヴァ渡河の頃、3人の牧童が逃亡する事件があり、ダンスンがこれに対してとった無理解な態度に愛想をつかしたマシュウは、自ら雇人側に立って指揮をとったので、怒ったダンスンは何時かマシュウを殺すと公言した。マシュウはミズーリ行きの予定を新しく鉄道の敷かれたというカンサスに変更したので、旅程は短縮されたが道はやはり険しかった。一行は途中インディアンに襲われている馬車隊に出会い、一緒に戦って撃退したが、マシュウは馬車隊にいた美しいテス・ミレー(ジョーン・ドリュウ)と相愛の仲になった。マシュウ等は遂に鉄道のあるアビリーンの町に著き牛の大移動に成功したが、ダンスンの公言どおり彼とマシュウの大格闘が始まった。しかしテスの計いで2人は和解してダンスン農場を協同経営することになり、テスとマシュウも結ばれることになった。

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 公開時の本国版ポスターに「25年間に3本かぎり、『幌馬車』『シマロン』そして今……ハワード・ホークスの『赤い河』」とあるのが面白いホークスの西部劇は、先に『奇傑パンチョ』'34(プロデューサーとのトラブルによりホークス匿名、助監督ジャック・コンウェイ監督名義)、『バーバリー・コースト』'35(プレ・フィルム・ノワール西部劇)、『大自然の凱歌』'36(北部が舞台の開拓劇、ホークス降板のため結末部を担当したウィリアム・ワイラーとの共同監督名義)、『ならず者』'43(途中降板、プロデューサーのハワード・ヒューズ監督名義)、後に『遊星からの物体X』'51(ホークス専属編集者クリスチャン・ナイビー監督名義でSF西部劇、ホークスはプロデュースと匿名部分演出担当)『果てしなき蒼空』'52、『リオ・ブラボー』'59、『エル・ドラド』'66、『リオ・ロボ』'70があり、そのうち『奇傑パンチョ』『バーバリー・コースト』『大自然の凱歌』『ならず者』『遊星からの物体X』はホークス監督作品、または西部劇と言えるのか疑問がつくところですが、メキシコ独立史の英雄の伝記映画『奇傑パンチョ』や暗黒街西部劇『バーバリー・コースト』などはむしろ『大自然の凱歌』や『遊星からの物体X』『果てしなき蒼空』より異色作で、『大自然の凱歌』は西部が舞台ではありませんが辺境開拓にまつわるドラマですし、SF映画『遊星からの物体X』も基本は見えない敵襲を斥ける西部劇のパターンを踏襲した作品で、ミシシッピ川上流のインディアン部落との新規の毛皮取引開拓と既存の毛皮商人との攻防を描いた『果てしなき蒼空』も異色のテーマを扱った西部劇と言えます。正面切った西部劇には『ならず者』がなる筈だったのですが、プロデューサーが乗っ取ってホークスの名前も出なければ内容も変な作品にしてしまいました。普通ホークスの西部劇というといずれもジョン・ウェインを主役に迎えた『赤い河』『リオ・ブラボー』『エル・ドラド』『リオ・ロボ』の4作が上がるでしょう。ホークス作品のウェイン主演作は他にアフリカの猛獣狩り映画『ハタリ!』'62がありますが、『赤い河』がホークス映画初出演とは意外な気もします。ウェインは初主演作の超大作『ビッグ・トレイル』'30(ラオール・ウォルシュ)の興行的惨敗からB級西部劇専門の約10年を経て『駅馬車』'39(ジョン・フォード)の出演でようやく芽が出た遅咲きの人で、'40年代は一枚看板の張れる西部劇スターとなり、'48年には『赤い河』とフォードの『アパッチ砦』『三人の名付け親』、エドワード・ラドウィッグの『怒涛の果て』の4本に出演しています。スター俳優になっても一流監督の大作だけでなくB級西部劇、B級戦争映画にマメに出演しており、エドウィン・L・マリンの『拳銃の町』'44やジェームズ・E・グラントの『拳銃無宿』'47などは戦前B級西部劇時代のマック・V・ライトやR・N・ブラッドベリらの監督による1時間映画の延長で面白い作品です。遅咲きとは言ってもウェインはハンフリー・ボガート(1899-1957)より8歳年下で(1907-1979)、ボギーの出世作『マルタの鷹』が'41年、ウェインの出世作『駅馬車』が'39年ですから40男と30男の差があります。これまでのホークス作品でウェイン向けの映画を探せばせいぜい『ヨーク軍曹』くらいですが、あれはウェインよりスマートさと朴訥さがほど良いゲイリー・クーパーで良かったので、起用した俳優の多彩さで言えば根っからのアメリカ映画監督のウォルシュ(ヴィクター・マクラグレン、ウェイン、ボギーを世に送り、フェアバンクス・シニア、エロール・フリン、ジェームズ・キャグニーからジョエル・マクリーの代表作まで撮っている偉い人です)、フォード、ホークス、キャプラらは案外好みが狭く、イギリス出身の巨匠ヒッチコックだともう少し多彩になり、ドイツ出身のフリッツ・ラングとなるとキャスティングは担当者任せだったようで無茶苦茶です。それはさておき『赤い河』は初めてホークスが西部劇らしい西部劇を撮ったというか、テキサス州がまだスペイン領からアメリカに渡ったばかりで無人に近かった頃に牧場を開拓したウェインとブレナンのコンビが14年がかりで1万頭の牛の大牧場主となり、先に入植するも全滅し孤児になっていた所を引き取ったモンゴメリー・クリフトが南北戦争従軍から帰ってきてから話は始まります。それまでも入植してからのウェインとブレナンが領地を主張するスペイン貴族の手下との抗争などプロローグ相当分の話がたっぷりあって、14年後のウェインが白髪の多い老けメイクなのと対照を見せています。じじい役者のブレナンが過去も現在も容貌が変わらないのとも良い対比になっており、ガンコ親父のウェインと柔軟なブレナンというキャラクターが容貌一発で表現されています。さて、ウェインの牧場にはせっかく1万頭の牛がいてもテキサスで動かないのでは買い手がいない。そこで1万頭の牛をサンタフェ・トレイルと呼ばれるミシシッピ川沿いの陸路を通って北米大陸をほぼ半分渡る、2000マイルもの距離を運ぶ(いわゆるキャトル・ドライヴ、またはキャトル・トレイル)計画が牧童助手(牧童といってもむさ苦しい西部浪人ばかりです)を多数雇って実行に移されます。ウェインの初主演作品『ビッグ・トレイル』を思わせる内容で、ウォルシュ作品は西部開拓団が北部から西部まで北米大陸を横断移住する話で、サイレント時代の開拓劇ヒット作『幌馬車』'23(ジェームズ・クルーズ)、『アイアン・ホース』'24(ジョン・フォード)の流れを汲むものでした。とにかく牛、牛、牛の大群がすごい。ロングの画面いっぱいに地平線から手前まで見渡すかぎり牛、牛、牛(と淀川さんになってしまうほど)で、映画撮影で実際は1万頭まではいかないでしょうが本物の牛の大群を、本当にアメリカ半周ではなくても野越え山越え大河を渡らせまでしているのですから、前作『三つ数えろ』から3年がかりの大作になるわけです。川を渡るシークエンスも圧倒されますが、夜中に牛の大群が疲労と気候、野生動物の遠吠えでナイーヴになり、砂糖を盗み食いしようとした牧童のひっくり返して食器の物音でスタンピード(大暴走)が起きるシークエンスはよくある展開とはいえ圧巻で、やがて暴君化してきたウェインと対立してクリフトが袂を分かち(旧友の相棒ブレナンもクリフトを支持し)9000頭あまりに減った大群をクリフトについた牧童たちと引き連れていくのですが、河渡りといいスタンピードといい、疑似父子であるウェインとクリフトの世代交代のテーマといい従来の西部劇でたびたび描かれてきた内容ですが、本作は数多い牛飼い西部劇の集大成の観があり、こんなカットよく撮れたなというくらいとんでもない映像がさりげなく次から次へとくり出されてくる作品で、監督デビュー20年を越えて満を持して本格西部劇の決定版を作ってやる、というホークスの気合いが伝わってきます。当初クリフトの役は『ならず者』でデビューするも鳴かずとばずだったビリー・ザ・キッド役のジャック・ビューテルが想定されていたそうですが、所属プロの売り込みでクリフトに決定したそうで、ビューテルには気の毒ですが本作が出世作になったクリフトのキャスティングも成功の鍵でした。クリフトは全編いいですが特にジョーン・ドリューとの絡みになる後半以降が良く、最後はウェインとクリフトの男と男の拳の語り合いになりますが、ドリューとクリフト、ドリューとウェインの関わりの伏線があるのでドリューを介したウェインとクリフトの和解も説得力に富むのです。「お前あの娘と結婚しろ」「まだ命令するのか」「これが最後さ」そして「新しい焼き印を作ろう。俺とお前、二人のイニシャルだ」とウェインが地面に描く牛の焼き印の絵で終わるラスト・カットは爽やかで胸に響き、アメリカ的題材を超えて放牧牧畜一般の開拓劇として人類規模のDNAに訴える感動があります。初めて観た時はスケールはでかいにしても大味で新味に欠け創意に乏しい作品に見えるかもしれませんが、これは『三つ数えろ』と並び、同作とは別の意味で観直すたびに良くなっていく作品です。一度観たきりという方にも再三のご視聴がお勧めできます。こういう国民的映画があるからアメリカ映画は磐石なのです。

Sun Ra - Continuation (Saturn, 1970)

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Sun Ra and His Astro-Infinity Arkestra - Continuation (Saturn, 1970) Full Album
Recorded at Choreographers Workshop, 1968. Side A recorded 1963, not 1968, at the Arkestra house in New York & Side B live at the Choreographer's Workshop (where they made the great 'Cosmic Tones for Mental Therapy').
Released by El Saturn Records ‎ESR 520, 1970
All Composed and arranged by Sun Ra
(Side A)
A1. Biosphere Blues : https://youtu.be/3XjTO-ntVXA - 5: 06
A2. Intergalactic Research : https://youtu.be/auEoMTLNmUg - 8: 14
A3. Earth Primitive Earth : https://youtu.be/fPwRkUGwyUc - 3: 15
A4. New Planet (Complete Version) : https://youtu.be/tPobaZlUVEc - 4:52 (Originally Edited Version ; 3:08)
(Side B)
B1. Continuation To Jupiter Festival : https://youtu.be/phYHTuXI6js - 20:01
[ Sun Ra and His Astro-Infinity Arkestra ]
Sun Ra - piano, keyboards
Walter Miller - trumpet
Ali Hasaan - trombone
Marshall Allen - alto saxophone, oboe, percussion
Danny Davis - alto saxophone, clarinet, percussion
John Gilmore - tenor saxophone, clarinet, percussion
Pat Patrick - baritone saxophone, clarinet, percussion
Robert Cummings - bass clarinet
Ronnie Boykins - bass
Tommy Hunter - drums, percussion
Art Jenkins - vocals, percussion

 サン・ラのアルバムを録音順にご紹介しているこのシリーズも、そろそろ第2期の締めくくりが見えてきました。第1期のサン・ラ・アーケストラはシカゴを拠点に活動していた時期で、ニューヨーク巡業の際に録音したアルバム(13)をきっかけにアーケストラはニューヨーク移住に動くことになります。アーケストラのアルバムで(1)~(13)のうち録音即発売されたのは(1)(2)(6)(13)の4枚しかなく、全米的にはまったく無名のローカル・バンドでした。

[ Sun Ra and His Arkestra 1956-1961 Album Discography ]
1. Jazz by Sun Ra (Sun Song) (Transition, rec.& rel.1956)
2. Super-Sonic Jazz (El Saturn, rec.1956/rel.1957)
3. Sound of Joy (Delmark, rec.1956/rel.1968)
4. Visits Planet Earth (El Saturn, rec.1956-58/rel.1966)
5. The Nubians of Plutonia (El Saturn, rec.1958-59/rel.1966)
6. Jazz in Silhouette (El Saturn, rec.& rel.1959)
7. Sound Sun Pleasure!! (El Saturn, rec.1959/rel.1970)
8. Interstellar Low Ways (El Saturn, rec.1959-60/rel.1966)
9. Fate In A Pleasant Mood (El Saturn, rec.1960/rel.1965)
10. Holiday For Soul Dance (El Saturn, rec.1960/rel.1970)
11. Angels and Demons at Play (El Saturn, rec.1956-60/rel.1965)
12. We Travel The Space Ways (El Saturn, rec.1956-61/rel.1967)
13. The Futuristic Sounds of Sun Ra (Savoy, rec.1961/rel.1961)

 ニューヨークに移住したサン・ラ・アーケストラは共同生活しアルバイトで生計を立てながら発表のあてのない自主制作アルバムを次々と録音、やがて中心メンバーへの注目からライヴ活動が少しずつ活発化し、1964年~1966年のライヴ活動がフリー・ジャズの興隆とあいまって話題になり、1965年のアルバム『The Heliocentric Worlds of Sun Ra』で国際的な注目を集めます。1970年からはヨーロッパのレーベルからも新作の依頼が寄せられるバンドになるので、1969年まででニューヨーク進出の第2期は目的を達成したと言えるでしょう。

[ Sun Ra and His Arkestra 1961-1969 Album Discography ]
1. (14) Bad and Beautiful (El Saturn, rec.1961/rel.1972)
2. (15) Art Forms of Dimensions Tomorrow (El Saturn, rec.1961-1962/rel.1965)
3. (16) Secrets of the Sun (El Saturn, rec.1962/rel.1965)
4. (17) What's New? (El Saturn, rec.1962/rel.1975)
5. (18) When Sun Comes Out (El Saturn, rec.1963/rel.1963)
6. (19) Cosmic Tones for Mental Therapy (El Saturn, rec.1963/rel.1967)
7. (20) When Angels Speak of Love (El Saturn, rec.1963/rel.1966)
8. (21) Other Planes of There (El Saturn, rec.1964/rel.1966)
9. (22) Featuring Pharoah Sanders & Black Harold (El Saturn, rec.1964/rel.1976)
10. (23) The Heliocentric Worlds of Sun Ra (ESP-Disk, rec.1965/rel.1965)
11. (24) The Magic City (El Saturn, rec.1965/rel.1966)
12. (25) The Heliocentric Worlds of Sun Ra, Volume Two (ESP-Disk, rec.1965/rel.1966)
13. (26) Nothing Is (ESP-Disk, rec.1966/rel.1966)
14. (27) Strange Strings (El Saturn, rec.1966/rel.1967)
15. (28) Batman and Robin - The Sensational Guitars of Dan and Dale (Tifton, rec.1966/rel.1966)
16. (29) Monorails and Satellites, volumes 1 (El Saturn, rec.1966/rel.1968)
17. (30) Monorails and Satellites, volumes 2 (El Saturn, rec.1966/rel.1967)
18. (31) Continuation (El Saturn, rec.1963, 1968/rel.1970
19. (32) A Black Mass (Jihad Productions, rec.1968/rel.1968)
20. (33) Atlantis (El Saturn, rec.1967-1969/rel.1969)

(Original El Saturn "Continuation" LP Liner Cover & Side A Label)

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 本作をご紹介すれば第2期サン・ラはあと2枚なのですが(前記リストのうち企画盤『Batman and Robin』は数曲しかご紹介できないため割愛しました)、サン・ラの場合データが不明だったり矛盾していたりで位置づけに困るアルバムも多いのです。日本語文献で書籍になっているのはジョン・F・ファディス『サン・ラー伝』、湯浅学『てなもんやサン・ラー伝』の2冊がありますが、どちらも巻末のディスコグラフィーは『てなもんやサン・ラー伝』の著者作成で、この2冊は索引も年表もない非常に不便な作りです。このブログは海外サイトではallmusic.com、discogs.com、rateyourmusic.comを参照しており、各サイトでは整合性がありますが別のサイトと照合すると矛盾が多く、結局英語版ウィキペディアを基準にしています。この『Continuation』は1968年録音のアルバムとされていますが、ウィキペディア自体にはアルバム解説が設けられておらず、アルバムの重要度の低さよりもアルバムのデータの信憑性や録音・リリースに諸説あることからアルバムの解説項目を見送ったと思われます。アルバムは1970年に、1968年録音作品として発売されたようです。だがメンバーや演奏からは少なくともアルバムA面は1963年録音のアウトテイクではないか、という説が立てられました。第2期アルバムの(5)~(7)、通算では(18)~(20)に当たる時期で、トミー・ハンター(ドラムス)の在籍が決め手になります。ではアルバムB面を占める大作「Continuation To Jupiter Festival」はどうかと言えば、ライヴ録音ということもあって『The Heliocentric Worlds~』以降のアブストラクトなサウンドよりライヴ盤『Nothing Is』の豪快な音に近く、スタジオ盤では1962年にはすでに『Nothing Is』につながっていくサウンドを確立させていました。
 CD化が遅れていた本作ですが、2013年には完全未発表曲をCD1枚分収めた完全版というべきエディションが発売されました。ディスク1はオリジナル盤の復刻、ディスク2にはアルバム1枚分の未発表曲を収め、録音年月日は1963年3月10日とはっきり特定しています。ではオリジナル盤が1963年録音のままかというと、リリース段階で曲の差し替えやリミックス、編集が行われている可能性は否定できない。おそらく1968年作品という根拠はそこで、1963年録音の未発表テイクからアルバム用のマスター・テープに編集したのが1968年なのでしょう。このアルバムはB面の大作はもちろん、A面の4曲もどこかしら編集で細工されたような唐突な展開が聴けます。A4などリンクは4分52秒の未編集版ですが、オリジナル・アルバムでは3分08秒に編集されているのです。

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Continuation (2CD Reissue)
Released by Corbett vs. Dempsey CvsD CD009, 2013
Disk One / Original Album
Disk Two / Unreleased Tracks
Recorded March 10th, 1963, Choreographer's Workshop, New York City.
1. Blue York : https://youtu.be/WJTaHnKgSsI - 2:49
2. Meteor Shower : https://youtu.be/Wc-ZiSuCFxg - 3:30
3. The Myth : https://youtu.be/lPBjYjjiA7U - 4:05
4. Ihnfinity : https://youtu.be/clFzTOC4B5I - 2:49
5. Conversation Of The Universe : https://youtu.be/EDrBv1E9Hgw - 3:56
6. The Beginning Of : https://youtu.be/n_1HivqOZ_E - 3:43
7. Endlessness - 4:37 *no links
8. Red Planet Mars - 4:54 *no links
9. Cosmic Rays / The Next Stop Mars : https://youtu.be/283gspeqhqw - 9:45
 また、本作はサターン・レーベル作品中でも別ジャケットの異様な多さで知られます。記事冒頭に上げたのがもっとも正式なジャケットらしいのですが、以下代表的な別ジャケット(もっとあるらしい)を列挙してみましょう。

(Original El Saturn "Continuation" Alternate LP Front Cover)

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 60年代サン・ラ・アーケストラのアルバムでは復刻が遅れたこと、またアルバムの位置をどの年度に置いて聴くべきかいまだに混乱していることもあり、本作の評価は定まっていません。A面は基本的に4ビート・ジャズでバリトンサックスがグロウルするブルースのA1はピアノまで酒場風ですが、A2では一転してヴォイスとパーカッション・アンサンブルにスペーシーなノイズ・オルガンとエレクトリック・ピアノが鳴り響き、アヴァンギャルドな演奏に聴こえますがこれも4ビートが底流に流れています。アート・ジェンキンス(ヴォイス)参加ならば1968年録音か、ヴォイスのみオーヴァーダビングかもしれません。楽器不明のスクラッチ音をパーカッションにしてピッコロ(マーシャル・アレンでしょう)がエキゾチックなオブリガードを吹くA3はそのままバス・クラリネットとの二重奏にパーカッシヴなピアノのオスティナート、リズム・ブレイクには過剰にエコーをかけたピアノが鳴り響くA4に続きます。このA面の流れは非常にスムーズで、絶頂期の名作にひけをとらず、1965年~1966年の実験的アルバムの後でなければ4ビートへの回帰も気づかなかったかもしれないくらいです。
 B面はおそらく非常に細かく編集されたライヴ音源で、ホーン全員のトゥッティからピアノのピックアップ・ソロになり、トランペットのソロからはベースとドラムスが4ビートを刻みますがアクセントが不規則で、ホーンのアンサンブルの後でブレイクしベースのピックアップ・ソロになりますが明らかに編集の痕があります。ベース・ソロの後半からメンバー全員による曲名(「Jupiter Festival」)の短い合唱があり、さらにブレイクしてテナーサックス・ソロになりますがテンポは維持しながら4ビートそのものは完全に崩しており、サン・ラのピアノもアグレッシヴでサックスとピアノのバトル状態になります。サン・ラが引っ込みテナー・ソロが締めると無伴奏のサックス陣のトゥッティになり、サン・ラがピアノで先に合唱されたバンド・テーマを提示するとメンバー全員による集団即興による終結部がヴォリュームを上げながら迫ってきてパルス・ビートが続き、唐突に終わります。オリジナルLPではベース・ソロのブレイクまでを「Continuation To」8:42、後半を「Jupiter Festival」11:07と2曲に分けているプレスもあるようです。こうしてアンサンブル・オーダーを追って聴くと良いアルバムじゃないかと感心してしまいますが、B面の大作は60年代サン・ラの掉尾を飾る名作『Atlantis』B面全面のタイトル曲の原型で、『Atlantis』の高評価のため割を食った観はあります。こういう埋もれたアルバムもさりげなく秀作だったりするからサン・ラは油断がなりません。

映画日記2017年10月19日~21日/ハワード・ホークス(Howard Hawks, 1896-1977)の男(と女)の映画(7)

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 ホークス作品のみならず西部劇、アメリカ映画史上の名作『赤い河』'48はホークスの全力を出し切った作品だったのでしょう。『赤い河』の前もハンフリー・ボガート&ローレン・バコール主演の2作の傑作『脱出』'44、『三つ数えろ』'46と力作が続いています。1938年の傑作『赤ちゃん教育』から『赤い河』まではホークスが46歳~56歳と脂が乗り切って名作傑作を連発した時期でした。『赤い河』の後ホークスは自作『教授と美女』'41(ゲイリー・クーパー、バーバラ・スタンウィック主演)のセルフ・リメイク『ヒットパレード』'48をダニー・ケイとヴァージニア・メイヨ主演でジャズマンの出演場面を多く散りばめて作り、今回ご紹介する『僕は戦争花嫁』'49の次は『三つ数えろ』『赤い河』の編集者だったクリスチャン・ナイビーの監督作品としてジョン・W・キャンベル Jr.のSF小説『影が行く』'38の着想だけ借りたSF映画の古典『遊星からの物体X』'51をプロデュースしますが(タイトルもHoward Hawks' "The Thing from Another World"となっています)これは今日実質的にホークスの監督作品であると定説になっており、評価も高く、2001年にアメリカ国立フィルム登録簿登録作品になっています。ホークス作品で同登録簿登録作品(1989年より選定開始)は現在までに『赤ちゃん教育』'38(1990年度)、『赤い河』'48(1990年度)、『ヒズ・ガール・フライデー』'40(1993年度)、『暗黒街の顔役』'32(1994年度)、『ヨーク軍曹』'41(2008年度)、『特急二十世紀』'34(2011年度)の6作で、今後『港々に女あり』や『脱出』、『リオ・ブラボー』'59、『ハタリ!』'62あたりが徐々に追加登録されていくと思いますが、現在のところフォードやワイラーの登録作品数には及びません。それでも6作の永久保存フィルム認定は大したもので、『遊星からの物体X』はホークス名義の6作と匹敵する評価を受けていることになります。1952年にはインディアンとの交易をテーマにした異色西部劇『果てしなき蒼空』、O・ヘンリーの短編小説5編をヴェテラン監督5人でオムニバス映画化した『人生模様』に酸化、グラントとジンジャー・ロジャース主演のスクリューボール・コメディ路線でブレイク寸前のマリリン・モンローが大役を果たす『モンキー・ビジネス』と年間3作を手がけ、'53年のモンローとジェーン・ラッセルのミュージカル・コメディ『紳士は金髪がお好き』に続く作品はファラオの墓のピラミッド建築を描く古代エジプト映画『ピラミッド』'55でした。'49年以降のホークスは再びウェインを主演に迎えた'59年の保安官vs.悪漢西部劇『リオ・ブラボー』まで低迷気味でしたが、作品単位ではそれぞれ見所も突っ込み所もあり、必ずしも不調続きだったとは言えないのです。

●10月19日(木)
『僕は戦争花嫁』I Was a Male War Bride (フォックス'49)*105mins, B/W; 日本公開昭和25年(1950年)12月

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ジャンル ドラマ / 戦争
製作会社 二十世紀フォックス映画
配給 セントラル
[ 解説 ] 「狐の王子」のソル・C・シーゲルが製作、「ヨーク軍曹」のハワード・ホークスが監督した1949年度作品で、アンリ・ロシャールの自伝的小説をチャールズ・レデラー、レナード・スピーゲルガス、ヘイガー・ワイルドの3人が脚色し「出獄」のノーバート・ブロディンが撮影、「センチメンタル・ジャーニー」のシリル・モックリッジが音楽を担当した。主演は「夜も昼も」のケーリー・グラント、「賭博の町」のアン・シェリダンの2人でマリオン・マーシャル、ランディ・スチュアート、ウィリアム・ネフ、ユージン・ゲリック、ルーベン・ウェンドーフその他が助演している。
[ あらすじ ] 西ドイツのアメリカ占領地区でフランスの物資購入委員をしているアンリ・ロシャール大尉(ケーリー・グラント)は、指名手配のドイツ人を逮捕するために、通訳に配属されたアメリカ軍の婦人士官キャサリン・ゲーツ中尉(アン・シェリダン)と仕事をすることになった。向こうっ気のつよい2人は、初対面早々から口論が絶えなかったが、喧嘩友達から、相思の仲となり、とうとう結婚というお定りのコースをたどった。ところが困ったことに、外国の婦人と結婚したアメリカ兵の場合は、戦争花嫁として本国に連れ帰られる規定はあったが婦人士官に対しては何等の規則がなかった。ロシャールは一策を案じ、戦争花嫁の資格でアメリカに入国の許可をもらって無事に結婚式をあげたが、婦人将校の宿舎は夫といえども男子禁制であり、キャサリンは外泊も許されなかったので、新婚早々の2人は味気ない生活を送らなければならなかった。やがてキャサリンに帰国命令が下り、ロシャールは婦人将校に変装し、アメリカの輸送船にのりこみ、てんやわんやの女装生活を続けて、ようやく、アメリカにたどりつくことができた。

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 これが主人公の実話小説が原作だったというのがまず面白いですが、『赤い河』の後で軽いものを作りたくなったのでしょう。スクリューボールというよりはポピュラー・ジャズ・コメディ作品で戦後の人気コメディ俳優ダニー・ケイとヴァージニア・メイヨ主演の『ヒット・パレード』は今風の作品を作ろうとしているんだな、という割に起用したジャズマンたちが'30年代のスウィング世代で時代感覚のズレが如何ともし難い作品でしたが、続く本作はスクリューボール作品の常連ケイリー・グラントを主演にしながらホークスらしい冴えと切れ味の乏しい風刺コメディになっています。相手役のアン・シェリダンはきっぷの良い姉姐肌で悪くない女優ですが、ホークスのスクリューボール作品には必ずあったコケットな色気が映画から感じられない。屋外ロケ(現地?)に手間をかけているのもスクリューボール・コメディは自然光ロケ向けではないな、と思わされる一因で、絵面が妙にリアルな分コメディならではの作り話の面白さを減じているように見えるのです。ギャグも古いのが多く、車両がないのでバイク免許を持っているシェリダンがサイドカーを運転しグラントがむっつり顔でサイドカーに乗るのは面白いのですが、バイクが走り出すとサイドカーだけ取り残されてしまう、ようやく発進すると早回しで猛スピードでサイドカーが突進する、サイドカーが外れてグラントごと乾し草の山に突っ込んでしまう、などサイレント映画時代のギャグを平気で使っていて脚本家3人がかりでこれかよ、と情けなくなります。喧嘩コンビのグラントとシェリダンが突然おたがいへの愛に気づいて電撃結婚する段はなかなか良いムードですが、挙式しても宿舎事情で夫婦同室どころかグラントがどの宿舎にも宿泊権がなくなってしまう次第も間延びしたテンポで面白くてはならないし、結婚までの前半と結婚後にアメリカへの出国に一苦労し、戦争花嫁法でパスしようと入管でグラントが女装までする後半を一貫する太い線がなく、前後編で分かれている中編映画の二部作を観ているようです。名作中の名作『赤い河』を観た直後だから欠点ばかりが目についたのでしょうが、戦前型のスクリューボール・コメディは戦後にはもう作れなくなっているんだな、と思わせられる作品で、ホークスほどの人にして本作程度の平凡なコメディも撮ることがあるのは、まあ仕方ないことでしょう。敗戦後ドイツの観光映画というのが本作の狙いだったのかもしれません。

●10月20日(金)
『果てしなき蒼空』The Big Sky (RKO'52)*122mins, B/W; 日本公開昭和28年(1953年)4月

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ジャンル 西部劇
製作会社 RKOラジオ映画
配給 RKOラジオ映画支社
[ 解説 ] 「遊星よりの物体X」と同じくウィンチェスター・プロ作品で、主宰者ハワード・ホウクス「赤い河」が製作・監督に当たった1952年作西部劇である。プリッツァ賞受賞作家A・B・ガスリー・ジュニアの原作を「狙われた駅馬車」のダドリー・ニコルズが脚色、「激戦地」のラッセル・ハーランが撮影した。音楽は「都会の牙」のディミトリ・ティオムキン。主演は「探偵物語」のカーク・ダグラス、「遊星よりの物体X」のデューウィ・マーティン、新人エリザベス・スレットで、「遠い太鼓」のアーサー・ハニカット、「凸凹猛獣狩」のバディ・ベア、スティーヴン・ジェレイ、ハンク・ウォーデン、ジム・デイヴィス、アンリ・レトンダルなどが助演する。
[ あらすじ ] 1830年代、ケンタッキーから西部にやってきたジム(カーク・ダグラス)とブーン(デューウィ・マーティン)は、ミズリー河を遡ってブラックフット・インディアンと毛皮の取引きをすることを目論み、毛皮商人ジュルドネー(スティーヴン・ジレー)の持船にのりこんだ。船出して間もなくブラックフット・インディアンの娘ティール・アイ(エリザベス・スレット)がこの船にのっていることがわかった。彼女は3年前、瀕死のところをブーンの叔父ゼブ(アーサー・ハニカット)に救われたのである。ジュルドネーは、娘に近寄ってはならぬと水夫たちに厳命した。ジムはティール・アイに護身用のナイフを贈ったが、彼女はそのナイフで、ブーンのもっているインディアンの頭皮を盗もうとし、誤って彼に重傷を負わせてしまった。彼女はブーンを献身的に看護した。ある夜、毛皮業者マクマスターズ(ポール・フリーズ)の一味が船を襲って放火し、ティール・アイを連れ去ったが、ジム達は直ちに追跡して彼女を奪いかえし、一味の者を人質にしてマクマスターズの妨害を抑えながら河を遡っていった。ようやく目的地に近づいたとき、突然クロウ族の襲撃をうけ、船は河の真中に出て岸辺を離れぬクロウ族と対峙した。インディアンの眼をぬすんで、食物を獲るために上陸したジムが行方不明になり、ブーンは危険を冒して救いに出かけたが、ティール・アイもついてきた。傷ついて虫の息のジムを発見した彼女は、自分の体温で彼を温めて彼の危機を救った。彼等が船にかえってみると、マクマスターズの部下が一行を脅迫しているところだった。ジムの体にうちこまれた弾丸と彼等の弾丸とが同じとを発見したジム達はマクマスターズの一味を殺してしまったが、その騒ぎの間にティール・アイがいなくなった。数々の困難ののち、ようやくブラックフット・インディアンの集落にたどりつくと意外にもティール・アイが彼等を待ち受けていた。彼女のおかげで交易は友好裡にすすみ、秋のふけるころ一行は帰路についた。しかしブーンはティール・アイと結婚して後に残ったのである。

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 本作もインタビューではホークスのお気に入りで、「シリアスな作品に喜劇的要素を入れる」例として本作のカーク・ダグラスが負傷して指を切断するシーンを『コンドル』のグラントが旧友トーマス・ミッチェルに負傷の具合を訊かれて率直に「首が折れてる」と答えるシーンとともに上げています。ホークスは『赤い河』でこれをやりたかったもののジョン・ウェインが「何で指を切るんだ?」と納得しないのでその場面は割愛しましたが、ウェインは『果てしなき蒼空』を観て「俺が間違ってた。今度指を切るシーンがあったら受けるよ」と言ってきたそうで、ウェインが指を切るシーンがホークス作品で撮られることはありませんでしたが『リオ・ロボ』'70で重傷を負った部下に「首が折れてる」と言うシーンは撮りました。本作はネイティヴとの混血女優エリザベス・スレットが魅力的なヒロインで、カーク・ダグラスというとだいたいムッツリした顔の出演作ばかりですが本作はダグラスらしからぬ健康的な善人役で、それもなかなか悪くないのです。ダグラスとデューイ・マーティンは例によって拳で語る出会いから親友になるのですが、マーティンの叔父役でミシシッピ川沿いの先住民事情に通じ、彼らの信頼を勝ち得ているアーサー・ハニカット演じるゼブ叔父の存在が本作を異色西部劇にしていて、ミシシッピ川上流の先住民族村落との新規の毛皮取引開拓と既得権で市場を独占する毛皮商人との攻防を描いた渋いテーマの作品です。映画の作りとしてはスケールの大きさの割に地味で、貨物帆船が焼け討ちに遭うシークエンスなど起こっていることは大変なのですが(焼け死ぬか溺死するかの瀬戸際ですし、ミシシッピ川は日本人の感覚では津軽海峡や瀬戸内海ほどの大河です)その割に映像は地味なのでアクションやスペクタクルを期待するより想像力を働かせて観る必要がありますが(アメリカの観客ならば抑制された画面でも十分伝わるのでしょう)、これはさすが『赤い河』を通ってきたホークスだけある佳作です。デューイ・マーティンとエリザベス・スレットの恋もうまく描かれていて、スレットと結婚したマーティンが仕事のために一旦は一行と一緒に先住民族村落を離れるも休憩地で(あいつは残った方が良かったのに、とダグラスやゼブ叔父が話していると)やっぱり残ることにする、と一行とマーティンが「また取引の時にな」と別れます。余韻の残る良いエンディングで、ホークスらしい突き抜けた所はない映画ですが本作の場合それが良い具合に落ち着いた作風になっていて、あまり語られない作品ですが『赤い河』と対になる人情西部劇で、かつ『赤い河』にはない良い意味での哀愁も感じさせるのが本作を小粒ながら愛すべき作品にしています。

●10月21日(土)
ヘンリー・コスター/ヘンリー・ハサウェイ/ジーン・ネグレスコ/ハワード・ホークス/ヘンリー・キング『人生模様』O. Henry's Full House (フォックス'52)*117mins, B/W; 日本公開昭和28年(1953年)6月

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ジャンル ドラマ
製作会社 20世紀フォックス映画
配給 20世紀フォックス [極東]
[ 解説 ] O・ヘンリーの短篇5つを、それぞれ異ったスタッフ、キャストにより映画化したオムニバス1953年作品で、5篇を通じて製作はアンドレ・ハキム、音楽は「栄光何するものぞ」のアルフレッド・ニューマン担当。なお小説家ジョン・スタインベック(「革命児サパタ」の脚本)が解説を入れている。 <第1話 警官と聖歌> 監督は「ハーヴェイ」のヘンリー・コスター、脚色は「征服への道」のラマー・トロッティ、撮影はロイド・エイハーンの担当。主演は「パラダイン夫人の恋」のチャールズ・ロートン、「ナイアガラ」のマリリン・モンロー、「アダム氏とマダム」のデイヴィッド・ウェインで、トーマス・ブラウン・ヘンリー、リチャード・カーランらが助演する。 <第2話 クラリオン・コール新聞> 「ナイアガラ」のヘンリー・ハサウェイが監督し、脚色も「ナイアガラ」のリチャード・ブリーン、撮影はルシエン・バラードの担当。主演は「嵐を呼ぶ太鼓」のデール・ロバートソンと「死の接吻(1947)」のリチャード・ウィドマークで、ジョイス・マッケンジー、リチャード・ロバー、ウィル・ライトらが助演する。 <第3話 残った葉> 監督は「嵐を呼ぶ太鼓」のジーン・ネグレスコ、脚色は「艦長ホレーショ」のアイヴァン・ゴッフとベン・ロバーツ、撮影は「ナイアガラ」のジョー・マクドナルドの担当。主演は「イヴの総て」のアン・バクスター、「ナイアガラ」のジーン・ピータース、「イヴの総て」のグレゴリー・ラトフの3人、リチャード・ギャリック、スティーヴン・ジェレイらが助演。 <第4話 酋長の身代金> 監督は「果てしなき蒼空」のハワード・ホークス、脚色は「クーパーの花婿物語」のナナリー・ジョンソン、撮影はミルトン・クラスナー(「イヴの総て」)の担当。主演はラジオ、テレビの芸人フレッド・アレンと「巴里のアメリカ人」のオスカー・レヴァント、リー・アーカー、アーヴィング・ベーコンらが助演する。 <第5話 賢者の贈物> 「キリマンジャロの雪」のヘンリー・キングが監督し、脚色は「ロッキーの春風」のウォルター・バロック、撮影は第3話のジョー・マクドナルドの担当。主演は「一ダースなら安くなる」のジーン・クレインと「見知らぬ乗客」のファーリー・グレンジャー、フレッド・ケルシー、シグ・ルーマンらが助演する。
[ あらすじ ] <第1話 警官と聖歌> 紳士気取りで人の善いルンペン男ソーピイ(チャールズ・ロートン)は、夏は涼しいセントラル・パークで、冬は暖かい留置所で暮らすことにしていた。ある年の冬、彼は仲間のホレス(デイヴィッド・ウェイン)に、留置所に入る秘術を伝授しようとしたが、どうもうまく警官に捕まらなかった。ソーピイは美しい街の女(マリリン・モンロー)に声をかけたが、かえって彼女に好意をよせられ面喰らって逃げ出す始末。ある教会に入り、オルガンの響に心打たれてルンペン渡世から足を洗おうと決心した。そして教会を出たとたん、浮浪罪として警官に捕まり、3ヶ月の禁固をくらった。 <第2話 クラリオン・コール新聞> 刑事のバーニイ(デール・ロバートソン)は、迷宮入りになった殺人事件の犯人をやくざもののジョニイ(リチャード・ウィドマーク)だとにらんだ。バーニイとジョニイは幼な友達で、2人は十数年ぶりで再会したのだ。バーニイはジョニイに証拠をつきつけて迫ったが、そのときジョニイはバーニイに、その昔千ドル貸したことをもち出した。バーニイはそのためジョニイを一応見逃し、千ドルの工面を考えた。折よく「クラリオン・コール」という町の一流新聞が、犯人の名前を通告したものに千ドル与えるという懸賞を出した。バーニイは賞金を手に入れてジョニイに借金を返し、心おきなく彼を逮捕することができた。 <第3話 残った葉> 恋人にすてられた若い女画学生ジョアンナ(アン・バクスター)は、失望にうちひしがれ、寒いニューヨークの街をさまよった末、姉スーザン(ジーン・ピータース)と一緒に住むアパートにたどりつくと、そのまま病の床に伏した。医師は肺炎と診断し、ジョアンナが生きる希望を取り戻さなければ助からないと言った。彼女は自分の部屋の窓ぎわに生えている蔦にある21枚の葉が、その1枚ごとに彼女の1年間の生命を意味し、最後に残った葉が風に吹き落とされたら、自分は死ぬと思いこんでしまった。彼女の容態は悪化し、ある朝、蔦も葉も最後の1枚になった。途方にくれたスーザンは、バーマン(グレゴリー・ラトフ)という自分の才能に自信を失った画家に悩みを訴えた。強風の吹きすさんだ1夜が明け、ジョアンナが目を覚ました時、最後の1葉がそのまま残っているのを見て元気を取り戻した。実は最後の葉は風に吹き飛んだのだが、バーマンが描いた葉を枝につけておいたのだ。夜中寒風にさらされたバーマンは、そのため急死してしまった。 <第4話 酋長の身代金> サム(フレッド・アレン)と相棒のビル(オスカー・レヴァント)は、金持ちの子供を誘拐して身代金を稼ごうとアラバマの村へやって来た。2人はうまく少年を誘拐することに成功、さっそく身代金請求の手紙を少年の両親宛てに出した。ところが、この少年、インディアンの酋長気どりの腕白小僧で2人はほとほと手を焼いた。そのうち、両親から手紙が来たが、それには身代金を払わないと言うばかりか、どうしても少年を返したいなら250ドルよこせと書いてあった。腕白小僧にさんざん手こずった2人は、少年を送り返し250ドルまきあげられた。 <第5話 賢者の贈物> 相思相愛の若夫婦デラ(ジーン・クレイン)とジム(ファーリー・グレンジャー)は、貧乏なのでクリマス・イヴが来るのにお互いの贈物を買うことができなかった。デラは出勤するジムを送りながら一緒に街に出、途中で2人はある宝石商のウィンドウの前に立ち止まった。ジムは素敵な櫛に目をつけ、これがデラのふさふさした金髪を飾ったらさぞ美くしかろうと考えた。一方デラはプラチナの時計入れを見て、これはジムの骨董的な金の懐中時計を入れるのにふさわしいと思った。2人はそこで別れたが、お互にいま目をつけたプレゼントを買う金の工面に心をくだいた。デラは思い切って自分の髪を売り、ジムは時計を売った。夕刻、2人は贈物を交換したがどちらも当分の間役に立つものでなかった。しかし2人はお互いの愛を身に沁みて感じた。

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 第1話は「警官と賛美歌」、第3話は「最後の一葉」、第4話は「赤い酋長の身代金」、第5話は「賢者の贈り物」という邦題の方が定着しているでしょう。映画の邦題『人生模様』は悪くないですが、原題直訳『O・ヘンリーのフルハウス』の方が企画内容を伝えているオムニバス映画です。監督は1885年生まれのヘンリー・キングを最年長に1900年生まれのジーン・ネグレスコが最年少、いずれにせよ20年~30年の監督歴を誇るヴェテラン監督が揃っており、作家のスタインベックが書斎でO・ヘンリーについて語る場面を冒頭からエピソードごとの合間に入れており、ジャンルとしてはアメリカ人なら誰でも知っている、または必須教養でもある20世紀初頭の国民的大衆作家ヘンリーの有名作品5編を20分ずつの短編映画のオムニバスにしたファミリー映画といったところでしょうか。知名度が低いのは第2話「クラリオン・コール新聞」かと思いますがサスペンス味の強い犯罪話も入れたかったのでしょう。俳優は第1話のホームレス紳士を演じるチャールズ・ロートンが素晴らしく、食い逃げしたレストランからつまみ出され「忘れ物だぞ」と投げられた傘を垂直のままパシッと受け取るカットなど監督ヘンリー・コスターを見直します。第2話のリチャード・ウィドマークも強烈で、オチを床に落ちた新聞の懸賞金の見出しで示すのも常套手段ですが短編ならではの切れ味。第3話でグレゴリー・ラフトがアクション・ペインティングで描いた絵を画商に持ち込んで「1950年なら売れるかもしれんが」と言われる台詞がおかしく、病床の妹アン・バクスターと看護する姉のジーン・ピータースに話は移りますが、ウィドマークとピータースは翌'53年のサミュエル・フラー『拾った女』の主演コンビでこんな所に接点があったとは。大トリの御大キングの『賢者の贈り物』は正攻法で泣かせます。さて目的のホークス作品の第4話というと、ダメ男の悪党二人が少年を誘拐して身の代金を要求するも少年に散々な目に遭わされ、誘拐した家にお金を払って引き取ってもらう話がサイレント時代の喜劇映画のノリでゆるーく描かれます。ホークスの短編だけだと何てことのない安手のテレビ用短編みたいですが(とぼけた味はなかなかですが)、オムニバス映画全体では本作は統一感とヴァラエティ具合に釣り合いのとれた秀作オムニバス作品でしょう。この手の企画物は出来不出来や不統一、その逆手で散漫に陥りやすく、結局短編単位で評価するしかないようなものになりがちですが、本作は上手くいっています。ルイ・マル、ロジェ・ヴァディム、フェリーニのE・A・ポー原作のオムニバス『世にも怪奇な物語』'68という成功作もありますが、あれもよくできた怪奇映画オムニバスでしたが、『人生模様』はさりげない映画ながら満足のいく好企画で、普通の娯楽映画を構えずに楽しみたい時に、ぜひ。普通と言ってもヘンリー・キングの『賢者の贈り物』は大トリだけあってラスト・カットの長回しでクレーン撮影のカメラがどうやって撮ったのか見当もつかないとんでもない動きをします。これだから映画は見せかけから来る先入観ではわからないのです。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド V.U. - Live at Oliver's, Boston, Massachussets (Captain Trip, 2001)

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ヴェルヴェット・アンダーグラウンド V.U. - Live at Oliver's, Boston, Massts (Captain Trip, 2001) Full Concert : https://youtu.be/AZnG0CpujTE
Recorded Live at Oliver's, Boston, Massachussets, May 27, 1973
expect 11-14 at Concertgebouw, Amsterdam, Netherlands, November 19, 1971
Released by Captain Trip Records JP, CTCD352, August 2001 from 4CD Box Set "Final V.U. 1971-1973"

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All songs written by Lou Reed except as noted.
(Tracklist)
1. I'm Waiting For The Man - 4:37
2. Little Jack (Yule) - 3:30
3. White Light / White Heat - 4:50
4. Caroline (Yule) - 2:55
5. Sweet Jane - 4:21
6. Mean Old Man (Yule) - 2:53
7. Who's That Man (Yule) - 4:07
8. Let It Shine (Kay) - 4:33
9. Mama's Little Girl (Yule) - 3:40
10. Train Round The Bend - 2:15
[Bonus Tracks] Radio Broadcast Version Of Live at Concertgebouw, Amsterdam, Netherlands
11. White Light / White Heat - 4:21
12. What Goes On - 4:06
13. Cool It Down - 4:12
14. Oh Sweet Nuthin' - 7:54
[ V.U. aka The Velvet Underground ]
(Tk.1-10)
Doug Yule - vocals, guitar
Don Silverman (has been known as Noor Khan since going to Afghanistan in 1975) - guitar
George Kay (Krzyzewski) - bass guitar
Billy Yule - drums
(Tk.11-14)
Doug Yule - vocals, guitar
Willie Alexander - keyboards, vocals
Walter Powers - bass guitar, backing vocals
Maureen Tucker - drums

(Original Captain Trip 4CD "Final V.U. 1971-1973" Disc 4 Liner Cover & CD Label)

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 ついにヴェルヴェット・アンダーグラウンド名義の音源中最後のものになる(再結成除く)'73年5月の発掘ライヴに到達しました。4枚組CD『Final V.U. 1971-1973』でも最後の1枚は、バンド名義ながら実質的にはソロ・アルバムの『Squeeze』をロンドンで制作しアルバム発表先行プロモーション・ツアーで現地ミュージシャンとイギリスを回った後、帰国して元メンバーが全員いなくなっていたダグ・ユールが新たなメンバーで組んだバンドが、再びマネジメントによってヴェルヴェット名義でブッキングされたライヴをこなした記録です。発掘ライヴ・ボックス『Final V.U. 1971-1973』の4枚の中でも音質はアムステルダム放送局のラジオ番組からのエア・チェックのTk.11-14(演奏はディスク2の観客録音のコンサート完全版と同じ)を除くといちばん良く(あくまで相対的にですが)、7曲目と10曲目が音源のテープが切れているのかフェイド・アウトするなどの瑕瑾はありますが、一応音質からするとライン録音でしょう。U.K.ツアーの臨時メンバーだったジョージ・ケイ(ベース)はユールとともにアメリカにやってきたようで、ドラムスのビル・ユールはモーリン・タッカーの産休中の『Loaded』発表前後でヴェルヴェットのドラマーだった経験あるダグの実弟、ギターのドン・シルヴァーマンだけが新メンバーです。10曲のセット・リスト中で1, 3, 5, 10の4曲はルー・リード在籍時のリードによるヴェルヴェットの曲ですが、ユールのオリジナル曲が2, 4, 6, 7, 9と5曲あるうち2, 4, 6が『Squeeze』から、7, 9はジョージ・ケイの8とともに新曲です。ルー・リード時代のヴェルヴェットの曲も新しいバンドのスタイルに合わせて無理のないアレンジになっており、このライヴではヴェルヴェット名義でブッキングされたため演奏されたのかもしれませんし、ユール兄弟の過去の在籍バンドの曲ということで普段から演奏していたのかもしれませんが、楽曲の比率から言ってもこれはヴェルヴェット名義の発掘ライヴではあっても実態は完全にダグ・ユールの新バンドでしょう。
 そう割り切って聴くなら、1曲目~6曲目までリード時代の曲と『Squeeze』のユールの曲が交互に演奏されて、違和感がなくしかも『Squeeze』からの曲はアルバム・ヴァージョンより生き生きとした演奏になっているのにはユールの意地を見る気がします。アムステルダムの'71年11月のコンサートはディスク2の観客録音による完全版は録音に難がありましたが、ラジオ放送された分をこのディスク4のTk.11-14で聴くとユールのギターも際立った個性こそありませんがなかなか流暢に弾き倒しており、ルー・リードの脱退後のヴェルヴェットなど聴くに値しないと聴きもしないで言うようなら、何様か知らないがいくら何でもダグ・ユールの方が偉いんだぞ、と批判者を一喝したくなるだけの健闘ぶりが聴かれます。ユールはこの後アメリカン・フライヤーという二流メンバーのスーパー・バンドを組んでユルユルのアルバムを作ってますます株を下げますが、この'73年メンバーの偽ヴェルヴェットはバンドの一体感もある悪くない演奏で、リード脱退後にすぐこのメンバーに定着すれば『Loaded』の水準を保ったレギュラー・バンドとして挽回のチャンスも狙えたかもしれない、少なくとも『Squeeze』は納得のいくレギュラー・バンドを待って制作すべきだった、と惜しまれます。そうした不運もまた避けられなかったのでしょう。'73年春にルー・リードはソロ転向後最初の大ヒット曲「Walk on the Wild Side (ワイルド・サイドを歩け)」を全米チャート16位にヒットさせ、続くアルバム『Sally Can't Dance (死の舞踏)』1974.8は全米アルバム・チャート10位にまで上がり、同作に合わせて発売されたリード在籍時の発掘ライヴ2LP『1969: The Velvet Underground Live』1974.9はヴェルヴェットの正式な解散声明でした。'73年がユールのバンドがヴェルヴェットを名乗ることができたぎりぎり最後の年だったのはそういう背景があったのです。

映画日記2017年10月22日・23日/ハワード・ホークス(Howard Hawks, 1896-1977)のマリリン映画(8)

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 今回のハワード・ホークス作品はマリリン・モンロー(1926-1962)の出演作品2作です。マリリンがハリウッドのメジャー作品に出演するようになったのはマルクス兄弟映画の最終作『ラヴ・ハッピー』'49で、グルーチョ演じるいんちき弁護士の依頼人の一人の端役のワンポイント出演でした。翌'50年のヒューストン『アスファルト・ジャングル』では悪党の情婦役、マンキウィッツの『イヴの総て』では駆け出し女優役でいずれもワンシーン出演ですが、どちらも傑作でマリリンの出演場面も効果的で、翌'51年は特筆すべき作品はありませんが'52年にはフリッツ・ラング『熱い夜の疼き』で主要キャスト4人の中の一人、エドマンド・グールディングの『結婚協奏曲』の6組の夫婦の中の一人、オムニバス映画『人生模様』第1話「警官と賛美歌」のヒロイン、ホークスの『モンキー・ビジネス』の社長秘書役で映画のお色気担当、初の主演作品『ノックは無用』(ロイ・W・ベイカー)で『人生模様』では第2話に出演していたリチャード・ウィドマークとともに初主演し、翌'53年はヘンリー・ハサウェイの『ナイアガラ』では『人生模様』第3話に出演していたジーン・ピータースとWヒロインで初のモンロー・ウォークを披露、ホークスの『紳士は金髪がお好き』ではブルネットのグラマー女優ジェーン・ラッセルとグラマー共演、ジーン・ネグレスコの『百万長者と結婚する方法』にローレン・バコール、ベティ・グレイブルに次ぐ3番目ながら役柄上では同等のヒロインと、'52年~'53年の間で人気を高めます。『ナイアガラ』のヒットにより『紳士は金髪がお好き』さらに『百万長者と結婚する方法』が製作されたのですが、『紳士~』は元々ラッセルとベティ・グレイブルを起用する予定の企画が『ナイアガラ』でモンロー人気が高まったのと、グレイブルの出演料が1作15万ドルだったのに対し当時マリリンの出演料は1作1万5千ドルだったのでお鉢が回ってきた、ということだそうです。ホークスがマリリンを使ったのも助演の年('52年)と複数ヒロイン競演の年('53年)で、'54年の『帰らざる河』『ショウほど素敵な商売はない』以降の一枚看板の張れるマリリンではありませんが、助演格ならではの気楽なお色気係と先輩女優に胸を借りて華の部分を引き受けた楽しいマリリンが観られます。本人の魅力で勝ち取ったキャリアとはいえ、端役から助演、競演、スター女優と着実にステップアップしていった'50年代前半のマリリンはさすが伝説的女優になっただけあり、10年後には急逝してしまうのですから広く取れば主役級の女優になった頃にはすでに晩年が始まっていたと思うと、つくづく不思議な生涯を送った人とため息が出るのです。

●10月22日(日)
『モンキー・ビジネス』Monkey Business (フォックス'52)*97mins, B/W; 日本劇場未公開(テレビ放映・映像ソフト化)

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(キネマ旬報「映画作品紹介」より)
ジャンル コメディ
配給 20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン
[ 解説 ] M.モンローの代表作をDVD化。研究所のチンパンジーが偶然若返りの薬を発明、科学者(ケイリー・グラント)とその妻(ジンジャー・ロジャース)が誤って飲んでしまい…。モンローのキュートなコメディエンヌぶりが楽しい。監督は『紳士は金髪がお好き』のH・ホークス。【スタッフ&キャスト】監督 : ハワード・ホークス 製作 : ソル・C・シーゲル 原作:ハリー・セガール 脚本 : ベン・ヘクト 出演 : ケイリー・グラント/ジンジャー・ロジャース/マリリン・モンロー/ヒュー・マーロウ
(ウィキペディア日本語版より)
 バーナビー・フルトン博士(ケーリー・グラント)は、ある化学薬品会社で若返りの薬を研究している化学者。ある日、実験用の猿が檻から抜け出し、好き勝手に調合した薬を飲料水のタンクに入れてしまう。そうとは知らないフルトン博士は、自分で調合した薬を試しに飲んでみるが、あまりの苦さにそのタンクの水を飲んでしまう。すると急に10代の若者のような言動を取るようになったことから、フルトン博士とオクスレイ社長(チャールズ・コバーン)は、水を飲む前に口にした薬に若返りの効果があると勘違いする。薬の効果が切れて元に戻ったフルトン博士が追実験を行なおうとすると、そこに同席していた妻エドウィナ(ジンジャー・ロジャース)が自分が実験台になったほうが良いと提案。実際に薬を飲んでみるが、あまりの苦さにやはりタンクの水を飲んでしまう。するとエドウィナも、フルトン博士の場合と同様、10代の少女のような言動を取り始める。しかし、エドウィナのあまりに突飛な言動にフルトン博士は振り回され、散々な目に遭ってしまう。

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 原題通りの『モンキー・ビジネス』とはマルクス兄弟の同名映画が邦題『いんちき商売』'31なのでもニュアンスがわかるでしょう。ものすごくよく効く回春剤、若返りの薬の発明をめぐるコメディで、ホークス自身が「突飛すぎて受けなかった」と懐述する作品です。1952年のホークスは先住民族との交易を描いた西部劇の佳作『果てしなき蒼空』に続き『人生模様』第4話、さらに本作と勢いに乗って『~蒼空』以外の2作は滑り気味になってしまったようです。ジンジャー・ロジャースはアステアとのコンビ解消後12年を経ていますが踊らない役でも身のこなしのしなやかさは大したもので、本作でもアドリブ半分の芸(夫役のグラントが素面で背を向けて実験台を調べているうちに、薬が効いてきたロジャースが水の入ったコップを額に載せリンボー・ダンスを行うのがカット割りなしの長回しで撮られる、など)が観られます。「笑いとは抑圧を跳ねのけた時に生まれる、というのが『モンキー・ビジネス』のテーマで、それはあの映画では回春剤による若返り現象で描いたし、よくできた話なのだが観客にはやりすぎに見えたようだ。つまり『僕は戦争花嫁』や『赤ちゃん教育』のようには楽しめない。やりすぎで、風変わりすぎて、滑稽すぎたわけだ」('56年2月、「カイエ・デュ・シネマ」誌インタビュー、カイエ誌編『作家主義』収録・訳文一部改変)とホークスにしては珍しく誤算を認める発言をしており(開き直っているとも取れますが)、マリリンは製薬会社社長オクスレイ(Oxley、オクスリーとも読めますが「お薬」の駄洒落ではなく、日本語の名字なら「牛田」か。70代の名優チャールズ・コバーンが真面目に馬鹿馬鹿しいコメディ出演しているのが素晴らしい)の秘書嬢役で、経営会議の席にマリリンが所用でやってきて去ると重役たちが全員黙ってマリリンのヒップのラインを凝視する無言のギャグが典型的なように、ヒロインは化学者グラントの夫人役のロジャースですが本作のお色気担当はマリリンで、回春剤で若返った(精神年齢まで退行する!)グラントが仕事をさぼって連れまわす相手役という映画のおふざけ部分担当でもあります。このチンパンジーがいつの間にか作った超回春剤は半日猛烈に効くとスタミナ切れで眠くなって、眠って起きると戻っているのですが、たまたま会社の隣の敷地から赤ん坊がハイハイしてきて眠りから覚めたロジャースに若返りすぎたグラントと間違えられるくだりは『僕は戦争花嫁』同様戦後のホークスのコメディの古びたギャグの使い方が残念ですが赤ん坊は名演で、そもそもグラントの薬の調合を檻の中から見ていたチンパンジーが鍵のかかっていない間に数本の試験管から薬を調合するシーンは斜め横からの長回しと正面からの2カットだけで撮影されており、調教にもOKテイクまでにも手間がかかったでしょうが驚嘆するしかないチンパンジーの名演が観られ、それを言えばクレジット・タイトルの最中にグラントが何度も登場しようとしてその都度中断するオープニングからしてとにかく本作はプロットの進行上必要とはいえ無駄に凝ったシーンばかりで出来上がった映画でもあって、『特急二十世紀』'34から始まるホークスのスクリューボール・コメディ路線も相当息切れしてきたというか、本作が珍しく未公開のホークス作品になったのも試写で観て「つまらない。受けない」という日本の配給会社判断でしょう。マリリンのブレイク後にモンロー出演作で売るには出演場面は全編の1/4程度ですし(映像ソフトではマリリン出演が売りになっていますが)。グラントはこの頃俳優引退を考えていたそうで、『赤ちゃん教育』や『ヒズ・ガール・フライデー』の切れの良い演技は『僕は戦争花嫁』から『モンキー・ビジネス』ではさらに見劣りするものになっていて、グラント本人の調子もあるでしょうが戦前のスクリューボール作品が毎回ホークスの全力を出していたのに較べて『~戦争花嫁』や本作ではホークスにはコメディは本格的な力作の合間の軽い作品という意識に変わっていたことに原因があるように思えます。翌'53年のマリリンの3作の出世作でも製作順にハサウェイの『ナイアガラ』、ホークスの『紳士は金髪がお好き』、ネグレスコ『百万長者と結婚する方法』ではホークス作品はあえて監督自身が軽く流した小品のように見えるのです。

●10月23日(月)
『紳士は金髪がお好き』Gentlemen Prefer Blondes (フォックス'53)*91min, Technicolor; 日本公開昭和28年(1953年)8月

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(キネマ旬報「近着外国映画紹介」より)
ジャンル ミュージカル / コメディ
製作会社 20世紀フォックス映画
配給 20世紀フォックス極東
[ 解説 ] 「栄光何するものぞ」のソル・C・シーゲルが製作したテクニカラーのミュージカル・コメディ、1953年作品。1928年に映画化されたアニタ・ルーズの原作小説より、ルーズとジョセフ・フィールズが舞台用に書いた台本を「死の接吻」のチャールズ・レデラーが脚色し、「果てしなき蒼空」のハワード・ホークスが監督した。撮影は「腰抜け 二挺拳銃の息子」のハリー・J・ワイルド、音楽監督は「ナイアガラ」のライオネル・ニューマンの担当。主演は「人生模様」のマリリン・モンローと「ならず者」のジェーン・ラッセルで、チャールズ・コバーン「パラダイン夫人の恋」、エリオット・リード、トミー・ヌーナン、ジョージ・ウィンスロウ、マルセル・ダリオらが助演する。
[ あらすじ ] ローレライ(マリリン・モンロー)とドロシイ(ジェーン・ラッセル)はニューヨークのナイトクラブに出ている仲の良い芸人同士だった。ローレライはなかなかのチャッカリ娘で、金持ち息子ガス(トミー・ヌーナン)の心をとらえ、パリへ渡って結婚することになったが、出発間際ガスの父(テイラー・ホームズ)が病気でとりやめになった。余った切符でドロシイがローレライと一緒にパリへ行くことになった。船にはローレライの素行を調べるためガスの父が私立探偵のアーニイ(エリオット・リード)を乗り込ませた。ローレライは船客名簿からヘンリイ・スポウォード三世(ジョージ・ウィンスロウ)という金持ちらしい名前を選び、会ってみると6歳の少年だった。次いで彼女はダイヤモンド鉱山主フランシス・ビークマン卿(チャールズ・コバーン)を狙った。彼の夫人(ノーマ・ヴァーデン)が持っているダイヤの髪飾りが欲しかったのだ。その間、アーニイはドロシイに言い寄った。ある日、ビークマン卿とローレライが会っている現場をアーニイがこっそり撮影した。それを見つけたドロシイは、ローレライと協力してフィルムを奪い、ビークマン卿の目の前で焼き捨てた。これを喜んだ卿は、ローレライに夫人の髪飾りを秘かに贈った。パリに着いて髪飾りがなくなったことに気づいた卿夫人は、ローレライに嫌疑をかけた。ローレライとドロシイはある料理店に出演したが、そこへ突然、ニューヨークからガスがやって来て、髪飾りの一件でローレライを責めた。ローレライは髪飾りを返そうと思ったが、いつの間にか紛失していた。ドロシイは自ら髪飾り紛失の罪を着て、ローレライになりすまし、法廷に立ってあれこれ急場を切り抜けた。そのうち、ビークマン卿が髪飾りを取り返していたことが分かり、ドロシイは無事釈放。ドロシイをローレライだと思い込んだガスの父親は結婚はまかりならぬといきり立ったが、本物のローレライを見てたちまち気に入ってしまった。こうしてローレライとガス、ドロシイとアーニイの2組がめでたく結ばれた。

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 ミュージカル・シーンのマリリンの歌い踊る「ダイアモンドは女の親友 (Diamonds Are a Girl's Best Friend)」1曲のシークエンスで本作は不滅の名作ですが、逆に言えば同曲抜きには『モンキー・ビジネス』に続くチャールズ・コバーンと、一見合わなそうで楽屋裏でも親しかったというジェーン・ラッセル(ラッセルの彼氏役になったエリオット・リードの魅力のなさが残念)との息のあった掛け合い以外はマリリンの存在感がすべてのような映画です。前出のカイエ・デュ・シネマ誌のロング・インタビュー(聞き手=ジャック・ベッケル、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット)では『モンキー・ビジネス』に続いて本作についての質問がなされます。『作家主義』'72(翻訳・'85年リブロポート刊・奥村昭夫訳)からその箇所を引用して感想文に代えさせていただきます。「ああ、あれは……ちょっとした冗談のようなものだ。ほかの映画ではふつう、町にくり出すのは男たちだ。男たちがかわいい娘たちを見つけて気晴らしをするというわけだ。ところがわれわれは、その逆のことを想像した。二人の娘に町にくり出させ、男たちと気晴らしをさせようというわけだ。あれは完全に現代的な物語で、ぼくはあの物語が大いに気に入っている。あれはじつにおかしな物語だ。それに、ジェーン・ラッセルとマリリン・モンローという二人の娘の息がじつによく合っていて、ぼくはどういう場面をつくればいいかわからなくなると、そのたびに、二人にあちこちをただ歩かせたものだ。そして人々はそれに見とれていた。あの二人のかわいい娘が歩くのを、少しもあきずに見つめていた。ぼくは彼女たちがのぼったり降りたりできる階段をつくらせたんだが、彼女たちがじつにすらりとした体つきをしていて……人々はああしたたぐいの映画を見た夜は、どんな心配事もかかえずに気持よく眠ることができる。それに、ああしたミュージカルの場面やダンスや、そのほかのすべてのものを撮るのには、五、六週もあれば十分なんだ」。これがロング・インタビュー中『紳士は金髪がお好き』について語った全文です。助平親父が若い娘を舐めまわすような楽しみで撮った映画、それで十分ではありませんか。マリリンの'53年度作品では『ナイアガラ』と『百万長者と結婚する方法』の方が工夫を凝らした映画ですが、マリリンはブレイク後には『紳士は~』のように一筆描きのような小品の出演はなくなります。ラッセルとマリリンの会話「なんで金持ちの男じゃなきゃ駄目なの?」「貧乏じゃ恋もできないじゃない」、ラストで富豪の恋人のパパとの会話「君はお金と結婚したいのかね」「不細工な女と美人ならどっちが息子さんのお嫁さんに欲しいの?」そういう内容を凝縮した珠玉の現実主義的ミュージカル曲、全米映画協会(AFI)の2007年度選出「映画史上の楽曲ベスト100」で「映画史上の12大映画楽曲」にランク・インした「ダイアモンドは女の親友」をお楽しみください。また、本作は『ヒット・パレード』'48に続くホークス2作目のカラー作品で、本作以降のホークス作品はすべてテクニカラーになるのです。

現代詩の起源(16); 萩原朔太郎詩集『氷島』(iv)

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萩原朔太郎(1886-1942)、詩集『氷島』刊行1年前、個人出版誌「生理」(昭和8年6月~昭和10年2月、全5号)創刊の頃、47歳。

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萩原朔太郎詩集『氷島』昭和9年(1934年)6月1日・第一書房刊(外函)

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 詩集『氷島』本体表紙

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 詩集『氷島』については文体だけが問題で、その文体の変化が従来の萩原の詩の軽やかさ、自由な感覚を圧迫して露骨に自伝的な内容を呼び込んでしまった、というのがこれまでのまとめです。たったこれだけのことに8回も読書感想文を重ねたのは忸怩たるものがありますが、世の中には必要な無駄というものがあるのです。寄り道・まわり道をしなければ見えてこないものも時にはあります。『氷島』のような食えない詩集の場合はなおのことです。結局、萩原の文語自由詩系列は大正2年(1911年)~大正3年の「愛憐詩篇」18編(大正14年=1925年8月刊『純情小曲集』に収録)と大正12年(1923年)~大正14年の「郷土望景詩」10編(『純情小曲集』に収録、のち昭和3年=1928年3月刊『萩原朔太郎詩集』で大正15年の1編追加)を、昭和2年(1927年)~昭和8年創作の『氷島』収録の新作詩編20編と併せて見るのが早道で、前回は「愛憐詩篇」全18編をご紹介しました。次に見るべきは「郷土望景詩」です。
 この「郷土望景詩」は全詩集『萩原朔太郎詩集』(昭和3年=1928年3月刊)では『純情小曲集』刊行翌年発表で「郷土望景詩・追加詩篇」と付記された「監獄裏の林」(大正15年=1926年4月「日本詩人」)と合わせて全11編になりましたが、詩集『氷島』(昭和9年=1934年6月刊)には「波宜亭」「小出街道」「中學の校庭」「廣瀬川」「監獄裏の林」の順で『氷島』初収録の新作20編に混じって5編が再録されています。今回は作品自体の紹介に止めて、『氷島』についても一旦切り上げ、次回からは「愛憐詩篇」と「郷土望景詩」からなる『純情小曲集』を見ていきたいと思います。

萩原朔太郎詩集『純情小曲集』大正14年(1925年)8月12日・新潮社刊(カヴァー装)

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 郷 土 望 景 詩


  中 學 の 校 庭

われの中學にありたる日は
艶(なま)めく情熱になやみたり
いかりて書物をなげすて
ひとり校庭の草に寢ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに青きを飛びさり
天日(てんじつ)直射して熱く帽子に照りぬ。
 (大正12年=1923年1月「薔薇」)


  波 宜 亭

少年の日は物に感ぜしや
われは波宜亭(はぎてい)の二階によりて
かなしき情歡の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木(さうもく)茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
欄干(おばしま)にさへ記せし名なり。
 (発表誌未詳)


  二 子 山 附 近

われの悔恨は酢えたり
さびしく蒲公英(たんぽぽ)の莖を噛まんや。
ひとり畝道をあるき
つかれて野中の丘に坐すれば
なにごとの眺望かゆいて消えざるなし。
たちまち遠景を汽車のはしりて
われの心境は動擾せり。
 (初出誌未詳・大正15年=1926年5月『日本詩集・一九二六年版』)


  才川町
        ――十二月下旬――

空に光つた山脈(やまなみ)
それに白く雪風
このごろは道も惡く
道も雪解けにぬかつてゐる。
わたしの暗い故郷の都會
ならべる町家の家竝のうへに
かの火見櫓をのぞめるごとく
はや松飾りせる軒をこえて
才川町こえて赤城をみる。
この北に向へる場末の窓窓
そは黒く煤にとざせよ
日はや霜にくれて
荷車巷路に多く通る。
 (発表誌未詳)


  小出新道

ここに道路の新開せるは
直(ちよく)として市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきはめず
暗鬱なる日かな
天日家竝の軒に低くして
林の雜木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。
 (大正14年=1925年6月「日本詩人」)


  新 前 橋 驛

野に新しき停車場は建てられたり
便所の扉(とびら)風にふかれ
ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや。
烈烈たる日かな
われこの停車場に來りて口の渇きにたへず
いづこに氷を喰(は)まむとして賣る店を見ず
ばうばうたる麥の遠きに連なりながれたり。
いかなればわれの望めるものはあらざるか
憂愁の暦は酢え
心はげしき苦痛にたへずして旅に出でんとす。
ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども
われは瘠犬のごとくして憫れむ人もあらじや。
いま日は構外の野景に高く
農夫らの鋤に蒲公英の莖は刈られ倒されたり。
われひとり寂しき歩廊(ほうむ)の上に立てば
ああはるかなる所よりして
かの海のごとく轟ろき 感情の軋きしりつつ來るを知れり。
 (大正14年6月「日本詩人」)


  大 渡 橋

ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より 直(ちよく)として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自轉車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢ゑたる感情は苦しくせり。
ああ故郷にありてゆかず
鹽のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤獨の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢ゑたり
しきりに欄干らんかんにすがりて齒を噛めども
せんかたなしや 涙のごときもの溢れ出で
頬(ほ)につたひ流れてやまず
ああ我れはもと卑陋なり。
往(ゆ)くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。
 (大正14年6月「日本詩人」)


  廣 瀬 川

廣瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川邊に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちひさき魚は眼めにもとまらず。
 (発表誌未詳)


  利 根 の 松 原

日曜日の晝
わが愉快なる諧謔(かいぎやく)は草にあふれたり。
芽はまだ萌えざれども
少年の情緒は赤く木の間を焚やき
友等みな異性のあたたかき腕をおもへるなり。
ああこの追憶の古き林にきて
ひとり蒼天の高きに眺め入らんとす
いづこぞ憂愁ににたるものきて
ひそかにわれの背中を觸れゆく日かな。
いま風景は秋晩(おそ)くすでに枯れたり
われは燒石を口にあてて
しきりにこの熱する 唾(つばき)のごときものをのまんとす。
 (発表誌未詳)


  公 園 の 椅 子

人氣なき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈しきなり。
いかなれば故郷(こきやう)のひとのわれに辛(つら)く
かなしき「すもも」の核(たね)を噛まむとするぞ。
遠き越後の山に雪の光りて
麥もまたひとの怒りにふるへをののくか。
われを嘲けりわらふ聲は野山にみち
苦しみの叫びは心臟を破裂せり。
かくばかり
つれなきものへの執着をされ。
ああ生れたる故郷の土(つち)を蹈み去れよ。
われは指にするどく研(と)げるナイフをもち
葉櫻のころ
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。
 (大正13年=1924年1月「上州新報」)


 郷 土 望 景 詩 の 後 に

  I. 前橋公園
 前橋公園は、早く室生犀星の詩によりて世に知らる。利根川の河原に望みて、堤防に櫻を多く植ゑたり、常には散策する人もなく、さびしき芝生の日だまりに、紙屑など散らばり居るのみ。所所に悲しげなるベンチを据ゑたり。我れ故郷にある時、ふところ手して此所に來り、いつも人氣なき椅子にもたれて、鴉の如く坐り居るを常とせり。

  II. 大渡橋
 大渡橋(おほわたりばし)は前橋の北部、利根川の上流に架したり。鐵橋にして長さ半哩にもわたるべし。前橋より橋を渡りて、群馬郡のさびしき村落に出づ。目をやればその盡くる果を知らず。冬の日空に輝やきて、無限にかなしき橋なり。

  III. 新前橋驛
 朝、東京を出でて澁川に行く人は、晝の十二時頃、新前橋の驛を過ぐべし。畠の中に建ちて、そのシグナルも風に吹かれ、荒寥たる田舍の小驛なり。

  IV. 小出松林
 小出の林は前橋の北部、赤城山の遠き麓にあり。我れ少年の時より、學校を厭ひて林を好み、常に一人行きて瞑想に耽りたる所なりしが、今その林皆伐られ、楢、樫、ブナの類、むざんに白日の下に倒されたり。新しき道路ここに敷かれ、直として利根川の岸に通ずる如きも、我れその遠き行方を知らず。

  V. 波宜亭
 波宜亭、萩亭ともいふ。先年まで前橋公園前にありき。庭に秋草茂り、軒傾きて古雅に床しき旗亭なりしが、今はいづこへ行きしか、跡方さへもなし。

  VI. 前橋中學

 利根川の岸邊に建ちて、その教室の窓窓より、淺間の遠き噴煙を望むべし。昔は校庭に夏草茂り、四つ葉(くろばあ)のいちめんに生えたれども、今は野球の練習はげしく、庭みな白く固みて炎天に輝やけり。われの如き怠惰の生徒ら、今も猶そこにありやなしや。



  監 獄 裏 の 林

監獄裏の林に入れば
囀鳥高きにしば鳴けり。
いかんぞ我れの思ふこと
ひとり叛きて歩める道を
寂しき友にも告げざらんや。
河原に冬の枯草もえ
重たき石を運ぶ囚人等
みな憎さげに我れを見て過ぎ行けり。
暗鬱なる思想かな
われの破れたる服を裂きすて
獸類(けもの)のごとくに悲しまむ。
ああ季節に遲く
上州の空の烈風に寒きは何ぞや。
まばらに殘る林の中に
看守の居て
劍柄(づか)の低く鳴るを聽けり。

       ――郷土望景詩・追加詩篇――
 (大正15年=1926年4月「日本詩人」)


(引用詩の用字、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)

Imamu Amiri Baraka (LeRoi Jones) with Le Sun Ra - A Black Mass (Jihad, 1968)

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Imamu Amiri Baraka (LeRoi Jones) with Le Sun Ra - A Black Mass (Jihad, 1968) Full Album : https://youtu.be/w6O07HNc6tw
Recorded & Released by Jihad Productions 1968 (1968) (matrix K-2281/82)
(Side A)
A1. Part One - 15:43
(Side B)
B1. Part Two - 19:51
This is a sort of radio horror play written by LeRoi Jones (Imamu Amiri Baraka) and based on the Nation of Islam story of the evil angel Yaqub. Ra and the Arkestra provide incidental music. The backing is mostly spare and low-volume, so as not to drown out the players.
Actors: Baraka; Carl Boissiere; David Shakes; Bob Washington; Yusef Iman; Barry Wynn.
Women's Chorus: Elaine Jones, Jacqui Bugg, Sylvia Jones. (It would be helpful to know who is playing which part....)
Musical backing / Sun Ra and his Myth Science Arkestra :
Sun Ra - Hohner clavinet, organ
Marshall Allen - alto saxophone, oboe, piccolo
Danny Davis - alto saxophone
John Gilmore - tenor saxophone, percussion
Pat Patrick - baritone saxophone, percussion
Robert Cummings - bass clarinet
Ronnie Boykins - bass
Nimrod Hunt - percussion (prob.)
James Jacson - percussion (prob.)
Clifford Jarvis - drums (prob.)
in New York 1968.
[Actors from Buzelin, musicians from rlc; date from Buzelin]
When the women are asked to contain the monster with an incantation, they oblige with the melody of Satellites are Spinning. [rlc; thanks to Mark Webber for providing a tape].
There are two different covers. The black and white version is less common (not that either is exactly abundant!).

(Original Jihad Productions "A Black Mass" LP Alternate B/W Front Cover)

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 イマム・アミリ・バラカ(1934-2014)はアメリカの黒人文学者・社会活動家で、マルコムX暗殺事件の衝撃からイスラム名に改名するまではリロイ・ジョーンズの出生名で活動しており、出世作である戯曲『Dutchman』1964(翻訳あり)は60年代アメリカ文学を代表する作品として知られます。ニューヨークの知識人サークルに属していたジョーンズは長編の黒人音楽社会学研究『Blues people: Negro music in white America』1963(翻訳あり)ですでに黒人音楽についての第1線の批評家と目されており、フリー・ジャズの熱心な擁護者でした。ジョン・コルトレーン急逝直前に刊行された『Black music』1967(翻訳あり)にフリー・ジャズ高揚期のジャズ批評はまとめられていますが、60年代後半には組織的な黒人文化運動に進んでいたバラカは他のジャズマンにない特殊な組織論を持つサン・ラ・アーケストラに着目し、自分の主宰する文化センターのジハッドで行われる新作戯曲『A Black Mass』(『黒ミサ』翻訳なし)の生演奏による舞台音楽を依頼します。1966年の初演ではアーケストラは20人編成で舞台音楽を担当したそうですが、1968年のジハッド文化センターでの再演ではアーケストラは通常の10人編成に戻っており、2時間かかる上演のリハーサル時の録音をコンパクトに35分のラジオ・ドラマ風にダイジェストにしたのが本作です。冒頭のデータに転載した英文が本作についてわかるほとんどすべてです。
 戯曲の内容は黒人マッド・サイエンティストが有色人種を次から次へと白人に改造しまくる、というものらしく、そういえば『Dutchman』も地下鉄で黒人乗客を片っ端から侮辱し狼藉放題する白人青年がぶっ殺されて終わる、という笑えない不条理喜劇でした。ジョーンズ/バラカのセンスはサン・ラのおおらかなユーモアやシリアスな包容力とはかけ違っているように思えますが、どうでしょうか。1967年~1968年はアーケストラはライヴに力を注いだ年で、本作はその時期の数少ない貴重な録音ですが、内容は完全にアミリ・バラカのラジオドラマLPで、これならむしろアーチー・シェップらアジテーター的若手フリー・ジャズマンを起用したほうが積極的なアプローチが聴けたのではないかと思わされます。

映画日記2017年10月22日・23日/ハワード・ホークス(Howard Hawks, 1896-1977)の男の映画(9)

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 ここから先のホークス作品はジョン・ウェイン主演作が続きます。ホークスの映画でジョン・ウェインの主演作は5本ありますが、1948年の『赤い河』以外の4作は1959年の『リオ・ブラボー』から1970年の、ホークスの遺作になった『リオ・ロボ』の時期に集中しており、ウェイン主演作はいずれも脚本は女流作家リー・ブラケットになり、ホークスのキャリアの最後はブラケット脚本でウェイン主演作に精魂込めた時期と言えるでしょう。特に『リオ・ブラボー』は『赤い河』と並ぶウェイン主演作の名作といえる作品になりました。次回でホークス作品のご紹介は遺作『リオ・ロボ』まで済みますが、ホークスの映画はカロリー豊富なので毎日観るには(どれも面白いですが、面白いからこそ)やや濃厚で、やっと目標の27本を観終えてホッとしています。今年は特に好きとは言えないフリッツ・ラング(全41作)、イングマール・ベルイマン(全44作)、ミケランジェロ・アントニオーニ(全14作)、スタンリー・キューブリック(全13作)各監督作品を初見・再見含めて全作品観ましたが(バカですねー)、ホークス作品を7割弱観るよりは気楽に観倒せたような気がします。なお、今回も紹介はキネマ旬報バックナンバー新作外国映画紹介を使わせていただきました。

●10月24日(火)
『リオ・ブラボー』Rio Bravo (ワーナー'59)*141mins, Technicolor; 日本公開昭和34年(1959年)4月

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ジャンル 西部劇
製作国 アメリカ
製作会社 ワーナー・ブラザース映画
配給 ワーナー・ブラザース
[ 解説 ] 「赤い河」「ピラミッド(1955)」のハワード・ホークス監督が久しぶりに作った西部劇。B・H・マッキャンベルの短編小説から、ジュールス・ファースマンとリー・ブラッケットがシナリオを書いている。撮影は「深く静かに潜航せよ」のラッセル・ハーラン。音楽ディミトリ・ティオムキン。「黒船」のジョン・ウェインが扮するシェリフを主人公として、「走る来る人々」のディーン・マーティン、「誇り高き男」のウォルター・ブレナン、「捜索者」のワード・ボンド、ロックン・ロール歌手のリッキー・ネルソン等が彼をめぐって活躍する。その他の出演者はアンジー・ディッキンソン、ジョン・ラッセル、ゴンザレス・ゴンザレス等。製作はハワード・ホークスが監督と兼任している。ワーナーカラー・ワーナースコープ。
[ あらすじ ] メキシコとの国境に近いテキサスの町リオ・ブラボ--保安官のチャンス(ジョン・ウェイン)は、殺人犯ジョー(クロード・エイキンス)を捕えた。しかし、ジョーの兄バーデット(ジョン・ラッセル)はこの地方の勢力家で、彼の部下に命じて町を封鎖したため、チャンスは窮地に陥った。チャンスはジョーを町から連れ出すことも、応援を頼むことも出来なかった。チャンスの味方は、身体の不自由な牢番スタンピイ老人(ウォルター・ブレナン)と早射ちの名人だがアル中の助手デュード(ディーン・マーティン)の2人だった。町を封鎖されたため、若い美人のフェザース(アンジー・ディッキンソン)や、チャンスの親友パット(ワード・ボンド)も町の外へ出られなかった。パットは燃料やダイナマイトを輸送する馬車隊を、護衛のコロラド(リッキー・ネルソン)と一緒に指揮していた。チャンスはフェザースがカルロス(ペドロ・ゴンザレス・ゴンザレス)とカルロス夫人コンスエラ(エステリータ・ロドリゲス)のきりもりするホテル・カシノでイカサマ賭博をしていると知らされ、彼女を尋問した。が、コロラドの証言で、フェザースは無罪だった。パットはパーデットの雇った殺し屋に射ち殺された。チャンスはフェザースの不幸な身の上を知り、なにかと世話をしてやった。これを機会に、2人の仲は接近した。ある日、デュードはバーデッドの配下に、不意をつかれて捕まった。バーデットはチャンスに、ジョーとデュードを交換しようと申し込んだ。チャンスは周囲の状況から、それを承諾せねばならなかった。翌朝、2人を交換することになった。デュードはスキをみてジョーに飛びかかった。これを機に両者の凄烈な射ち合いとなった。チャンスたちが苦戦していると、スタンピイ老人がパットの残していったダイナマイトを、バーデットのたてこもる倉庫に投げつけた。それをチャンスがピストルで射った。さしものバーデットも、遂に降服した。バーデットはジョーと共に監禁された。そして、チャンスとフェザースはめでたく結ばれることになった。

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 古代エジプトのファラオの墓建設を描いた超大作歴史映画『ピラミッド』'55を『紳士は金髪がお好き』'53の次に撮った後、ホークスは遺作『リオ・ロボ』'70に至るキャリアの晩年10年余の時期に入ります。その第1作がジョン・ウェイン主演の本作で、以後の作品は猛獣狩り映画『ハタリ!』'61、釣りをめぐるコメディ『男性の好きなスポーツ』'64、レース映画『レッドライン7000』'65、西部劇『エル・ドラド』'66、西部劇『リオ・ロボ』'70ですが、ウェイン主演の『リオ・ブラボー』『ハタリ!』『エル・ドラド』『リオ・ロボ』でホークスの晩年作品は記憶され、『男性の好きなスポーツ』と『レッドライン7000』は不評で興行的にも振るいませんでした。ホークス作品のウェイン主演は『赤い河』'48が初作品ですが次が10年後の本作で、本作から『リオ・ロボ』までの10年間の6作のうち4本までがウェイン主演でそのうち3本が西部劇なのもこれまでのホークスの製作サイクルにはなかったパターンです。本作は保安官対町の裏のボスの悪党という実にわかりやすい設定の中に魅力的なキャラクター像をそれぞれ行動を通して浮かび上がらせて、テキサス西部劇ですからホテル経営者夫妻は夫は臆病、妻は気丈なメキシコ人ですし、葬儀屋は弁髪を結った中国人です。保安官助手のディーン・マーティンは銃の達人ですがアル中ですし、老助手のウォルター・ブレナン(本作は入れ歯を外した演技)は足が不自由で牢屋番しかできない。ワード・ボンドが殺されて、用心棒に雇われていたリッキー・ネルソン(昔の二流ロック歌手と思って本作を観ると認識の変革を迫られます)は簡単にウェインの仲間にならないが、マーティンの危機を救おうと窮地に陥ったウェインを放っておけず助太刀し、乗りかかった船だと頼りになる仲間になります。雇われた殺し屋で占領された町で連邦保安官の到着を待つ6日間、数では圧倒的に不利な状況をチームワークで切り抜けていく進行はスリリングで、若いアンジー・ディキンソンのヒロインぶりもドラマに過不足なく溶け込んでおり、比較していいものか迷いますが黒澤明の数作の代表作が映画の教科書ならホークス作品中もっとも映画の教科書に向いている完成度抜群の作品です。マーティンとネルソンは本職はどちらかといえば歌手ですから一難去って和んでいるシーンで2曲をフルコーラス(!)デュエットしたり(「俺と子馬とライフルと」などいい感じですが)、悪党との決着がついた後にウェインとディキンソンのラヴ・シーンが10分もあるなど物語の上で構成には冗長な場面も目立つのですが、無駄を削って110分よりも遊びを入れて141分にしたのが本作では成功しています。脚本で常連のジュールス・ファースマンと共作しているリー・ブラケットはハードボイルド小説とSFをどちらも書く女流作家で、『三つ数えろ』でフォークナーの助手に抜擢されましたがエドマンド・ハミルトン(キャプテン・フューチャーのSF作家)と結婚後しばらく映画脚本を離れ、本作で復帰し『ハタリ!』『エル・ドラド』『リオ・ロボ』とホークス晩年のジョン・ウェイン作品はすべて手がけることになりました。遊びの部分は劇場やテレビ放映(短縮されるかもしれませんが)なら良いとしてもDVD視聴では冗長に感じられるのは仕方ないですが、本作もまたホークスのキャリアの節目となった傑作です。前述の'59年~'70年(遺作)の期間のホークス作品では本作をいちばんにお勧めします。

●10月25日(水)
『ハタリ!』Hatari! (パラマウント'61)*158min, Technicolor; 日本公開昭和37年(1962年)10月

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ジャンル ドラマ
製作会社 パラマウント映画
配給 パラマウント
[ 解説 ] ハリー・カーニッツの原作をリー・ブラケットが脚色、「リオ・ブラボー」のハワード・ホークスが製作・監督した猛獣狩りのハンターを描く娯楽編。撮影も「リオ・ブラボー」のラッセル・ハーラン、音楽は「追跡(1962)」のヘンリー・マンシーニが担当。出演者は「リバティ・バランスを射った男」のジョン・ウェイン、「狙われた男」のハーディー・クリューガー、「血とバラ」のエルザ・マルティネリ、「気球船探検」のレッド・バトンズ、「太陽の誘惑」のジェラール・ブラン、新人ミシェル・ジラルドンなど。
[ あらすじ ] 東アフリカのタンガニーカ、アルシャの町に近い、モメラ野獣ファームは所長がサイに殺された後、口の不自由な美しい娘ブランディー(ミシェル・ジラルドン)を助け、ハンターたちが力を合わせて運営し、全世界の動物園の信用を得ていた。リーダーはアメリカ人ショーン(ジョン・ウェイン)。ショーンは猛獣狩りに生きがいを求めた男だった。2番目は元オート・レースの選手でスリルを求めてアフリカに来たカート(ハーディー・クリューガー)、3番目はタクシー運転手出身で発明狂のポケッツ(レッド・バトンズ)、ほかにビルとルイというアルゼンチン人がいる。ある日セラフィナ・ダルレサンドロ(エルザ・マルティネリ)という女カメラマンが、銃を使わないこのファーム独特の猛獣狩りをカメラに収めにやって来た。彼女は皆からダラスと呼ばれた。ビルがサイに突かれて入院することになり、冒険を求めてやって来た金持ちのフランス青年チップ(ジェラール・ブラン)が代わりに使ってくれと言ってきた。彼の態度に腹を立てたカートが殴ろうとした時、ショーンが中に入り、腕前を試してから雇った。チップがブランディーと親しくなったのでまたカートは怒った。ダラスが象の子を3頭飼い始め、ショーンを困らせた。しかし、猛獣狩りを恐れず一同と行動を共にするダラスは皆に親しまれるようになった。ポッツの発明した大網をつけたロケットが大木に群棲している猿を400匹捕まえた。壮絶な猛獣狩りが続き、傷の治ったビルも加わり、待望のサイを追うことになった。ショーンが巨大なサイを見つけ、長い間追い回してやっと捕縛した時、皆くたくたになっていた。一行がキャンプに戻るとダラスがいない。ショーンは子象をジープに積んでアルシャに出かけた。他の2頭もついて来た。子像に居所をつきとめられてホテルに追いこまれたダラスはショーンに掴まった。2人はやっと気持ちがとけ合って結婚した。その夜ショーンが彼女の寝室に入ると、ドアの外で大きな音がして子象が3頭部屋に押し入って来た。彼らもダラスと一緒に寝たいのだった。

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 約2時間40分、ホークス作品最長の大作になったのはアフリカ・ロケの景物をこれでもかと見せたいがためで、テレビ放映用短縮版の編集者ならさぞかし腕の振るいがいのある作品でしょう。DVDには原語版以外にもテレビ放映時の日本語吹き替え音声が収録されており、そちらで観てみるとあちこちが吹き替え音声がなく原語に切り替わるのでノーカット版の吹き替えは存在しないのでしょう。カットされたと思われる部分はなくても話は進行しますが、このシーンを切ったら場面転換としてはつながってもテンポはだいぶ早くなってしまうな、と思わせられるので、本作の場合はこののんびりとした運びがアフリカの大地そのものがかもし出すムードになっています。西洋文化圏の人間が思い描く類型的なアフリカ像ではあるかもしれませんが、こういうアフリカ像が好きな人も大勢いるわけで、だだっ広いアフリカの大地を彷彿させるには映画も漠然とだらだら長い方がいい、というのもひとつの見識です。どのくらいだだっ広いかというと犀の角に突かれて大怪我をした隊員を「これから戻るから医者を待機させといてくれ。到着は5時間後だ」と無線機でいうくらいで、平坦地をジープでぶっ飛ばしているから相応の速度として時速60キロとしても300キロ、狩猟隊の本拠地である現地人の村落と狩り場までそれだけの距離があるわけです。当たり前ですが人間と野生動物の生息圏の住み分けもだだっ広いからこそできている、というアフリカの秩序を教えられます。呑気なばかりの映画かというとむしろ事件は豊富な映画で、野生動物の国際保護法と輸出入の規制が厳しくなる以前の時代の映画ですから密猟に近いんじゃないかと思われますが、世界中の動物園やサーカス、ペット用にアフリカの野生動物を生け捕るチームの話なのでライフルでずどん、というわけにはいかないので、生け捕るのは仕留めるよりかえって大変なのが伝わってきます。狩り(捕獲)あり恋あり、ヘンリー・マンシーニが楽曲をつけてヒットさせた子象の行進あり、この子象はたまたま撮影中にヒロインのエルザ・マルティネリに子象が3頭次々となついたことから追加された役割だそうですが、エピソードどころではなく映画のクライマックスの進行まで3頭の子象が大役を果たしており、撮影中にロケ地タンガニカのホークスとハリウッドのリー・ブラケット(本作ではついに単独脚本に昇格)の間で脚本の追加改訂が行われたことでしょう。けっこう国際キャストで賑やかな配役の割りにウェインの他はマルティネリとミシェル・ジラルドンの二人のヒロイン(と3頭の子象)以外は印象が薄いのは大半屋外ロケばかりで男はみんな同じような服装なのと引きのカットばかりなので、いろいろ事件が起きても誰が誰でも大差なくなってくるからで、本作はウェインとマルティネリと子象の映画、他に犀の生け捕り、キリンの生け捕り、猿の生け捕りなどジョン・ウェイン以外の隊員はキャラクターよりも生け捕りをするその行為の方が重要なので、その点がホークス作品としては異色かもしれません。人間ドラマもかなり入り組んで仕組まれているのですが、生け捕り大作戦の連続の方があまりに印象的なのでミシェル・ジラルドンをめぐる恋のさやあても興味を惹かない。マルティネリの方は隊員全員がボスであるウェインの女だと最初から納得しているのが面白く、80分の映画2本分の長さなのに内容は80分の映画1本で済むようなものなので160分あまりも観る疲労感がなくあっという間に終わってしまいます。本作については、これは褒め言葉なのです。

ルー・リード Lou Reed - American Poet / Live 1972 (Burning Airlines, 2001)

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ルー・リード Lou Reed - American Poet / Live 1972 (Burning Airlines, 2001) Full Album : https://youtu.be/19pxGafINRM
Recorded live in Ultrasonic Recording Studio, WLIR FM Hempstead, NY, December 26, 1972 as "Saturday Night in Concert"
Released by Burning Airlines/NMC PILOT83, June 26, 2001
All tracks composed by Lou Reed
(Tracklist)
1. White Light/White Heat - 4:04
2. Vicious - 3:06
3. I'm Waiting For The Man - 7:14
4. Walk It Talk It - 4:04
5. Sweet Jane - 4:38
6. Heroin - 8:34
7. Satellite of Love - 3:28
8. Walk on the Wild Side - 5:55
6. I'm So Free - 3:52
10. Berlin - 6:00
11. Rock & Roll - 5:13
[ Personnel ]
Lou Reed - lead vocals and rhythm guitar
with The Tots
Vinny Laporta - guitar
Eddie Reynolds - guitar, backing vocals
Bobby Resigno - bass guitar
Scottie Clark - drums

(Original Burning Airlines "American Poet / Live 1972" CD Liner Cover)

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 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの創設メンバーでリーダー、ソングライターでヴォーカルとギターを担当してバンドの中心人物だったルー・リードは1970年8月にヴェルヴェットを脱退し、ヴェルヴェットはベーシストのダグ・ユールがヴォーカルとギターに回ってリード脱退後のリーダーになるのですが、ユールの率いたヴェルヴェットが自然消滅に至るまでは前回までにご紹介した通りです。一方ルー・リードは1970年、1971年はレコード契約先を探しに潜伏し、ヴィクター傘下のRCAと契約して1972年1月、ソロ・アーティストとしての第1弾アルバムのレコーディングを本人の希望でロンドンに渡って「ロッド・スチュワートが録音したスタジオ」で現地セッション・ミュージシャンを起用して制作します。それが初のソロ・アルバム『Lou Reed (邦題『ロックの幻想』)』で1972年6月に発売され、全米アルバム・チャート189位とチャート下位ながら批評家の注目を集めました。第1作はヴェルヴェット後期にデモ・テイクが録音されたもののライヴ演奏以外では未発表のままになっていた曲を正式レコーディングしたもので(ヴェルヴェットによるヴァージョンも'80年代に発掘アルバム『VU』『Another View』で発表されますが)イエスのスティーヴ・ハウ、リック・ウェイクマンらが参加しており、同'72年秋にダグ・ユールがロンドンでセッション・ミュージシャンと制作したヴェルヴェットの新作『Squeeze』'73.2もリードのロンドン録音に対抗したヴェルヴェットのマネジメント側の企画だったかもしれません。一方リードは早くも'72年11月に発売されたソロ・アルバム第2作『Transformer (『トランスフォーマー』)』でヴェルヴェット・アンダーグラウンドの大ファンだったデイヴィッド・ボウイとボウイのバンドのギタリストのミック・ロンソンをプロデュースと演奏で迎え、当時のボウイのグラム・ロック路線にアレンジされたサウンドと充実した楽曲で全米アルバム・チャート29位、全英アルバム・チャート13位のヒット・アルバムになり、'73年初頭にはシングル・カット曲「Walk on the Wild Side (ワイルド・サイドを歩け)」が全米シングル・チャート16位の異色の大ヒットになります。ボウイとロンソンは『The Man Who Sold the World (『世界を売った男』)』'71.4、『Hunky Dory (ハンキー・ドリー)』'71.11、『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders From Mars (『ジギー・スターダスト』、旧邦題『屈折する星くずの上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群れ』)』'72.6、『Aladdin Sane (アラジン・セイン)』'73.4とアルバムもライヴも冴えまくっていた時期で、『Transformer』もリードの出世作であるとともにボウイ&ロンソンの名作といえる作品であり、『Squeeze』がリードのソロ作の陰に隠れてまったく評判にならなかったのはそういう背景があったのです。今回ご紹介するライヴ音源は『トランスフォーマー』発表直後のプロモーション・ツアーでニューヨークのFM局のラジオ番組「Saturday Night Concert」出演時の観客を入れたスタジオでのライヴがアルバム化されたものです。
 この音源は、1992年のルー・リードのボックス・セット『Between Thought and Expression: The Lou Reed Anthology (思考と象徴のはざまで~ルー・リード・アンソロジー)』の解説にも正式にレコード発売を前提に録音されたものと記載され、「素晴らしい未発表ライヴ・アルバム」と賞賛されていますが、同ボックス・セットには収録されませんでした。そのかわり、ラジオ局からの流出テープを元にして海賊盤の定番になり、'90年代までに数十種類の別タイトル・別ジャケットで海賊盤が流通していたものです。2001年に正規にアルバム化されるに当たって『Transformer』のジャケット写真のフォト・セッションからの未発表フォトがジャケットに使われているのは嬉しく、また5の「Sweet Jane」と6の「Heroin」の間にラジオ番組中での5分間のリードへのインタビューが挿入されました。今回引いたリンクにはその珍しく上機嫌なリードのインタビューは含まれませんが、演奏曲の曲順は正規盤と同じものです。海賊盤では発売元によって曲順がまちまちで、実際の曲順が特定できませんでした(正規盤が正しいとは限りませんが、公式発売されたからにはそれが基準となります)。リードは登り調子の勢いでご機嫌ですし、ボックス・セットのルー・リード・ヒストリーの筆者も(1992年当時)未発表を惜しんでいる幻のライヴ・アルバムがこの時期ザ・トッツというバック・バンドを率いた演奏で、長年海賊盤では名盤とされてきたのですが、実際にライヴ・アルバムが制作されたのが鬼才プロデューサー、ボブ・エズリン(アリス・クーパーの『Killer』'71.11、『School's Out』'72.5、『Billion Dollar Babies』'73.2、KISSの『Destroyer』'76.3、ピーター・ゲイブリエルの『Peter Gabriel I』'77.2、また実質的にピンク・フロイドの『The Wall』'79.11のプロデュースも手がけました)のプロデュースになるソロ・アルバム第3作『Berlin (『ベルリン』)』'73.7のプロモーション・ツアーからで、メンバーは辣腕ギタリスト・コンビのディック・ワグナーとスティーヴ・ハンターを中心としたエズリンご用達のバンド・メンバーたち(アリス・クーパー、KISSのアルバムもこのバンドによる制作でした)をバック・バンドにした『Rock' N Roll Animal (『ロックン・ロール・アニマル』)』'74.2と『Lou Reed Live』'75.3(ともに'73年12月21日のコンサートからの収録)でした。今回ご紹介したザ・トッツと『ロックン・ロール・アニマル』バンドを較べると始めたばかりの学生バンドと熟練したプロの違いがあります。ヴェルヴェットもメンバーは楽器のテクニシャンではありませんでしたが優れたオリジナリティを誇るバンドでした。ザ・トッツの場合はオリジナリティなどまったくなく単に平凡なだけです。当時発売が見送られて30年も経ってからインディー・レーベルに正規発売権が売られたのも無理はなく、ザ・トッツにはリードに似た声質のメンバーがいてコーラスに違和感がないのが唯一の取り柄ですが、そのメンバーがリード・ヴォーカルを取ればリード脱退後のダグ・ユールのヴェルヴェットと大差ない程度でしょう。海賊盤の名盤のままの方がお宝感があったかもしれないような貧弱なライヴ・アルバムですが、今日のようなDTM同期のサウンドばかりしか作られなくなってしまった(またはわざわざアコースティック楽器だけのアンサンブルがもてはやされる)風潮の中では、このしょぼくてへなちょこなロックの感触もたまには良いのではないでしょうか。ヴェルヴェット関係でも何か聴こうかな、でもあまり濃くなく、流して聴けるようなものがいいな、という時にはヴェルヴェット時代の代表曲とリード最初のソロ・アルバム2作からの代表曲が半々の本作など案外重宝かもしれません。

大粒焼売

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 一粒75g、4粒でハンバーグ2ヶ分です。

映画日記2017年10月22日・23日/ハワード・ホークス(Howard Hawks, 1896-1977)の男の映画(10)

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 ともにジョン・ウェイン主演の大作『ハタリ!』'61と『エル・ドラド』'66の間にホークスは釣りの経験もないのに釣りの入門書を書いたらベストセラーになってしまった男(ロック・ハドソン)のコメディ『男性の好きなスポーツ』'64、ジェームズ・カーン主演のストック・カー・レース映画『レッドライン7000』'65を世に送りますが、どちらも興行的にも世評も芳しくありませんでした。ホークスにはジョン・ウェインでないと十分に力をふるえなくなっていたのかもしれません。『男性の好きなスポーツ』などは女性との交際経験もないのに恋愛指南書を書いておもしろ半分に(空想ギャグ本として)出版社に歓迎される『猛進ロイド』'24の焼き直しのような古いアイディアです。しかしウェインの西部劇となれば古いも焼き直しもないパワーが俳優自身にあるので、長いホークスの監督キャリア最後の2作になるウェイン主演の西部劇『エル・ドラド』『リオ・ロボ』はわざとやっているとしか思えないホークス自身の作品のセルフ・リメイク的な内容の映画になりました。フリッツ・ラングの最後の2作、『大いなる神秘』'58、『怪人マブゼ博士』'60がデビュー間もないサイレント時代の代表作のリメイクだったように、ホークスも自分のやりたい映画を撮ろうとして「似たような映画を前に作ったが、まあいいか」という乗りで、それを観客も楽しむと自信を持とうとして几帳面に作ったのだと思います。今回で全46作に上るホークス監督作品から7割弱の27作のご紹介はひと区切りつけさせていただきます。なお、今回も紹介はキネマ旬報バックナンバー新作外国映画紹介を使わせていただきました。

●10月26日(木)
『エル・ドラド』El Dorado (パラマウント'66)*126min, Technicolor; 日本公開昭和42年(1967年)6月

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ジャンル 西部劇
製作会社 パラマウント
配給 パラマウント
[ 解説 ] ハリー・ブラウンの小説を「リオ・ブラボー」のリー・ブラケットが脚色、「レッド・ライン7000」のハワード・ホークスが監督した西部劇。撮影はホークスの懇願で8年間の引退生活からカムバックしたハロルド・ロッソン、音楽は「ロリータ」のネルソン・リドルが担当した。出演はジョン・ウェインとロバート・ミッチャムのほかに「レッド・ライン7000」の新人たちジェームズ・カーン、シャーリン・ホルト、ロバート・ドナーなど。製作はハワード・ホークス、共同製作はポール・ヘルミック。
[ あらすじ ] ガンファイターのコール(ジョン・ウェイン)はテキサスのエル・ドラドに久しぶりにやって来た。迎えたのはシェリフになった旧友ハラー(ロバート・ミッチャム)のライフル銃と、昔の恋人、酒場の女主人モーディー(シャーリン・ホルト)のキスだった。コールは牧場主ジェイスン(エドワード・アズナー)に頼まれ、水利権の争いの助太刀にやって来たのだ。しかしハラーがシェリフになっているのを知ると、旧友のために手を引くことにした。ジェイスンの牧場に助太刀を断わりに行った帰り、狙撃してきた男に応戦、重傷を負わせた。男はジェイスンと水利権を争っているマクドナルド(R・G・アームストロング)の息子で、彼は苦痛にたえかねて自殺した。コールは事情を説明しにマクドナルドの牧場へ行った帰り、今度はマクドナルドの娘ジョーイ(ミシェル・ケーリー)に撃たれ重傷を負った。彼女は仔細を知らなかったのだ。コールは傷がなおるとエル・ドラドを去ったが、マクロード(クリストファー・ジョージ)というガンマンがジェイスンにやとわれ、エル・ドラドへ行くことを知り、ハラーの身を案じて再びエル・ドラドへ戻った。マクロードはマクドナルド一家にいやがらせをはじめ、町には銃弾が飛びかった。結果は、ジェイスン側にマクドナルドの息子ソール(ロバート・ロスウェル)が捕らえられ、水利権の書類との引きかえを要求される破目になってしまった。情勢はマクドナルド一家に不利となった。そこで最後の決戦が開始されることになった。コールは古傷でまだ体の自由がきかなかったが、マクロードを撃ち倒した。ハラーたちはソールを助けだした。ジョーイはコールを狙ったジェイスンを撃ち倒した。翌日、エル・ドラドには平和がよみがえった。コールはモーディーと、コールに手助けしたミシシッピー(ジェームズ・カーン)はジョーイと結ばれることになった。

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 主従関係が逆ですが、アル中の保安官のロバート・ミッチャムと冷静に戦略を練るウェインに『リオ・ブラボー』のディーン・マーティンとウェインを重ねない観客はいないでしょう。また、水利権をめぐる隣家の争いは開拓史西部劇の永遠のテーマの一つです(SF映画『トータル・リコール』などでは植民惑星の大気独占という変奏もされます)。誤解による殺傷沙汰も定番ならもめ事の間に芽生えるロマンスもお決まりのもので、ミッチャムはやろうと思えばお手のものだったでしょうが『リオ・ブラボー』のマーティンほどアル中然とはしておらず、始終毅然としています。それもホークスの指示だと思われるのは本作が『リオ・ブラボー』とも一転して丁寧かつ端正に隅々まで満遍なく語りの行き届いた映画になっているからで、始まって相当経っても視点人物が誰か断定できないほど状況があちこちの視点から描かれていきます。本来ならミッチャムかウェイン、またはこの両者の側に視点をまとめて理があるマクドナルド家に敵対するジェイスン一味とのにらみ合いを描くのが定石で、『リオ・ブラボー』でもホークスはそうしています。しかし本作はミッチャムとウェインの間に親密な同盟意識はなく(ジェームズ・カーンは子分みたいなものですが)、保安官ミッチャムとマクドナルド家の間にも気が置けない信頼関係はないように見えます。それが本作の多元平行話法に現れていて、その公平さはジェイスン一味にまで及んでいます。かつてないほど几帳面な演出姿勢を感じるのはその点で、まぎれもなくホークスの映画でありながらおよそホークス作品らしからぬネルソン・リドルの気品の高い劇伴音楽が居心地悪いほどで、『リオ・ブラボー』を意図的に連想させながらも目指しているのはまったく別のムードを持つ映画だったように思えます。何と言ったらいいか、ホークスより小粒な作風ながら端正な演出に定評ある盟友ヘンリー・ハサウェイが『リオ・ブラボー』似の映画を撮ったらどうなるかホークス自身が撮ってみたような、素直に作ったようで底に腑に落ちない表情が浮かんで見えるような印象を残す作品です。リベラルのホークスに対してこの時期、ウェインはウェイン自身の企画・製作・監督・主演作品『グリーン・ベレー』'68のようなヴェトナム戦争推進派の右翼的姿勢を表明していました。ただしそういう野暮な話抜きに両者の信頼関係は深かったでしょう(ウェインはジョン・フォード作品には20作あまり出演していますが、ホークスとは違ってフォードとは師弟関係でした)。

●10月27日(金)
『リオ・ロボ』Rio Lobo (パラマウント'70)*114min, Technicolor; 日本公開昭和46年(1971年)2月

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ジャンル アクション / 西部劇
製作会社 C・C・F・プロ
配給 東和
[ 解説 ] 無法の町リオ・ロボを舞台に展開される壮絶なアクションと西部男の心意気を描く。製作・監督は「リオ・ブラボー」「エル・ドラド」のハワード・ホークス、アクション担当監督を「ベン・ハー(1959)」の戦車競争シーンを撮ったヤキマ・カナット、脚本はバートン・ウォルとリー・ブラケット、撮影を「アラモ」のウィリアム・H・クローシア、音楽はジェリー・ゴールドスミス、編集をジョン・ウッドコック、美術はロバート・スミスがそれぞれ担当。出演は「チザム」のジョン・ウェイン、新人のホルヘ・リベロとジェニファー・オニール。その他、ジャック・エラム、クリス・ミッチャム、ヴィクター・フレンチなど。
[ あらすじ ] 南北戦争末期、北軍のマクナリー大佐(ジョン・ウェイン)の護衛する金塊輸送列車は南軍のコルドナ大尉(ホルヘ・リベロ)の率いるゲリラに襲われ、彼は捕えられる。だが、巧みな手段で脱出し、逆にコルドナと部下のタスカロラ(クリス・ミッチャム)を捕虜にし、事件の背後で操った北軍の裏切り者が2人いることを聞き出す。戦争が終わり、故郷の町に帰ったマクナリーは、若い娘シャスタ(ジェニファー・オニール)の危難を救ったことから、偶然、裏切り者の1人をしとめ、コルドナと再会をする。マクナリーは喜んだ。列車襲撃事件のときに負傷した仲間がその後死んで、仇をとる必要があったからだ。一方、魔術芝居の巡業をして歩くシャスタは、リオ・ロボで悪徳保安官ヘンドリックス(マイク・ヘンリー)一味に相棒を殺され、彼女も追跡されていたのだった。コルドナは、その保安官一味に裏切り者がいると教えた。彼もリオ・ロボに牧場をもつ旧友タスカロラが、地元のボスのケチャム(ヴィクター・フレンチ)一味に牧場を乗っ取られようとしているのを救援にいこうとしているところだった。3人はリオ・ロボへ向かうこととなった。マクナリーはそのボスこそ、例のもう1人の裏切り者に違いないとにらんだ。町に着いた3人は、タスカロラが馬泥棒に仕立てられて逮捕され、彼の祖父フィリップス(ジャック・エラム)が監禁されていることを知った。3人は不意を衝き、老人を救出した。しかし、リオ・ロボの留置所は砦のようで、まともな攻撃でタスカロラは助けられそうもなかった。マクナリーは一計を案じ、ケチャム牧場を襲って彼を人質とした。やはり、彼は例の裏切り者だった。マクナリーはコルドナを近くの騎兵体砦に通報にやり、敵とリオ・ロボで、タスカロラとケチャムの人質交換をもくろんだ。しかし、コルドナはヘンドリックスに捕えられた。今度はリオ・ロボの町を流れる川の橋で、ケチャムとコルドナの身柄交換となった。多勢に無勢、マクナリーたちの形勢は不利となったが、タスカロラの作戦が功をそうした。形勢は逆転して、ケチャム一味は硝煙の藻屑と消えた。コルドナとシャスタは結ばれて、リオ・ロボに平和が戻った。

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 敵同士だったジョン・ウェインの北軍大佐と南軍大尉のホルヘ・リベロと南軍兵士クリス・ミッチャムが二重スパイ、かつ真の目的は南北どちらにもつかず金塊輸送車強盗という共通の敵を討伐するために共闘する、というなかなか面白くなりそうな設定。ウェイン以外スター俳優は一切いない地味なキャスティング。あとはホークスが本気をどこまで出すかが唯一の懸念材料ですが、『リオ・ブラボー』や『ハタリ!』では監督デビュー時から必ずやっていたホークス自身による脚本改稿を『エル・ドラド』では止めてしまったのではないか、と思わせるような演出が本作でも行われています。画面を観ていると脚本が見えてくるようで、これまでのホークスは脚本など意識させないか、意識させる箇所があってもいったい脚本はどうなっているんだ、と呆気に取られるような演出ゆえのことでした。しかし『エル・ドラド』と本作は設計図としての脚本に忠実たらん、映画としての出来はその上で、とでもいうような几帳面さなのです。かつてのホークスにそんな作品あっただろうか、と思い返すとホークスただ1作の太平洋戦争映画『空軍/エア・フォース』がそうでした。『空軍~』が本当に脚本の再現性の高い作品かはわかりませんが、アメリカ空軍の協力作品という性質上ホークスがフィルム上に本物の現実の戦況を再現しようとしたことは確かです。おそらく『エル・ドラド』『リオ・ロボ』は惰性の産物で、惰性とは比喩表現ではなく、物理的に映画監督ホークスの精神が引退を決めた1作に向かわずブレーキをかけても、または燃料切れでも、映画をつくる勢いだけは止められなかった現象を惰性だというだけのことです。ホークスは粋人ですから最後は軽いもので終わりたかったのではないか。『ハタリ!』の後の2作『男性の好きなスポーツ』『レッドライン7000』がそれですが評価も興行成績も低調でホークス自身も満足のいく作品にはならなかったのでしょう。引退作を宣言する性格ではなかったのはホークスの享年が『リオ・ロボ』から7年後で、生前同作を遺作と公言しなかったことでも推察されます。『エル・ドラド』ではかなり引退作を意識していたのではないか、と過去の自作のモチーフの流用、ウェインとミッチャムの共演、丁寧な作柄からもうかがえますし、監督デビュー40周年の区切りの良い年でもありました。しかし『エル・ドラド』でもホークスにはストップがかからず、ウェイン以外ノン・スター映画の『リオ・ロボ』がホークスのキャリアから押し出されるようにしてできあがります。ただし同じ几帳面でも『エル・ドラド』は有終の美を目指した几帳面さなのに『リオ・ロボ』はもうこうなったら几帳面であり続けるしかない几帳面さで、そこまでやってようやくホークスの中の惰性は消えて次の作品に向かう内的要請はなくなりました。思い切り明快なアクション映画にしたのも白鳥の歌にふさわしく、割り切った判断が功を奏して最後の閃きを見せました。こういう遺作に、アクション場面以外は淡々としすぎているとか派手な割に華に欠けるとかあげつらってもないものねだりでしょう。45年分の重みを感じつつ粛々として観る以外に何ができましょうか。ホークスは半世紀に渡ってアメリカ映画を支えてきましたが、本作でついに肩の荷を下ろしたのです。

Sun Ra - Atlantis (Saturn,1969)

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Sun Ra and his Astro-Infinity Arkestra - Atlantis (Saturn,1969) Full Album : Sun Ra - Atlantis (1967-69): http://www.youtube.com/playlist?list=PL34829B07920ED1A5
Side one probably recorded at Sun Studios, New York (the Arkestra's commune) between 1967 and 1969; Side two was recorded at Olatunji's cultural center on 125th Street, NY, in 1967.
Released by El Saturn Records ESR-507, 1969
Reissued by ABC Records/Impulse! AS-9239, 1973
Produced by Ihnfinity Inc. and Alton Abraham
All Compositions and Arrangements by Sun Ra
(Side A)
A1. Mu - 4:30
A2. Lemuria - 5:02
A3. Yucatan - 5:27 *Original Saturn Version
A3. Yucatan - 3:44 *Reissued Impulse! Version
A4. Bimini - 5:45
(Side B)
B1. Atlantis - 21:51
[ Sun Ra and his Astro-Infinity Arkestra ]
Sun Ra - solar sound organ (Gibson Kalamazoo Organ & clavione) (B1), solar sound Instrument (Hohner Clavinet) (A1-4)
John Gilmore - tenor saxophone (A1, A2), percussion (A3, A4, B1)
Pat Patrick - baritone saxophone, flute (B1), percussion (A4)
Marshall Allen - alto saxophone, oboe (B1), percussion (A4)
Danny Thompson - alto saxophone, flute (B1)
Bob Barry - drums, lightning drum (A1-4, B1)
Wayne Harris - trumpet (B1)
Ebah - trumpet (B1)
Carl Nimrod - space drums (B1)
James Jacson - log drums (A4, B1)
Robert Cummins - bass clarinet (B1)
Danny Davis - alto saxophone (B1)
Ali Harsan - trombone (B1)

 1960年代サン・ラの掉尾を飾る名盤『Atlantis』は1961年末のニューヨーク進出以来ほぼ20作目に当たり、1956年のアルバム・デビューからはほぼ30作目~35作目になります。ほぼ、というのは60年代までのサン・ラのアルバムは自主レーベルのサターンからの発売(後にメジャー傘下のインパルスより再発)が多く、録音年度が不確かだったり後年の発掘作や企画盤的性格も多いので正確に制作・発売順を特定できないのです。確かなのはこの『Atlantis』が60年代のサン・ラの総決算になり、本作でひとまず「シカゴ時代・1956-1961」と「ニューヨーク進出時代・1961-1969」は締めくくられる、と見做せるでしょう(1970年からはアルバム制作においても国際的活動期に入ります)。サン・ラは1965年・1966年度に新作の制作と未発表の旧作の大量発売が続いたので1967年・1968年度はライヴは活発ながらアルバム制作は少なく、1968年度の『Continuation』の他はアミリ・バラカの演劇LP『A Black Mass』への参加(舞台音楽)、ライヴ盤2組『Outer Spaceways Incorporated』1966-1968と『Pictures of Infinity』1968が後年発掘発売されていますが、これらは変則的アルバムで作品的価値より記録的価値からリリースされたものでしょう。『A Black Mass』は文化史的作品ではありますが、ラジオドラマLPですから音楽作品として楽しむのは無理があります。
 なので1967年~1969年のサン・ラの本格的アルバムは『Continuation』と『Atlantis』の2作になりますが、特に『Atlantis』が重要なのはサン・ラのマネジメントでシカゴに在住のままサターン・レーベルの主宰者であるアルトン・エイブラハムがバンド運営とアルバム制作の全般を「宇宙に貢献する文化活動組織」として法人化を申請し、イリノイ州でインフィニティ社(Infinity.Inc)の法人登録が認可(1972年に一度認可取り消し、1974年に非営利団体として再認可)されて初めてのアルバムになったことでした。エイブラハムもサン・ラもアーケストラのメンバーもまさか法人申請が認可されるとは思っていなかったので、法人登録を記念してメンバーを100人に増員した特別コンサートを開催したそうです。このコンサートは成功しましたが、サン・ラは実際は1000人編成のコンサートを望んでおり、さらに1万人、最終的には14万4000人のコンサートの必要性を力説しました。『Atlantis』1969はひさしぶりのアルバムになりましたが(1968年録音の『Continuation』は発売は1970年になります)、サン・ラが精神的高揚期にあったことを示すものでもありました。サン・ラは1914年生まれですから『Atlantis』発表年には55歳になります。

(Original El Saturn "Atlantis" LP Alternate Front Cover)

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 サン・ラのアルバムで通常のアルバム解説にあたるライナー・ノーツがついたことはめったにありませんが(例外的に『Strange Strings』1967には民族音楽学者による弦楽器と民族音楽の平行発達を解説するライナー・ノーツが掲載されていました)、多くはメンバーの羅列か、せいぜいサン・ラの詩かマニフェストが掲載されているのみで、『Atlantis』の場合にもサン・ラの詩的マニフェストが掲載されています。「THE DEAD PAST」というもので、内容はいつも通り誤った地球文明を正さなければならない、という主旨でしょう。
「過去の文明は常に現代文明の発祥の起点とされてきた。なぜなら世界は常に過去を参照するから。そして人々のほとんどは過去に倣うから。だが新しい宇宙時代にはその考えは危ない。過去とは滅びたものでありそれに倣う者も過去がそうであったように滅びの運命にある。正しくは、滅びた者をして過ぎ去ったものこそ過去であると言わしめよ」
 ここで「滅び」と訳したのは原文ではすべて「Dead」ですから、実際には相当攻撃的なニュアンスのマニフェストです。『Atlantis』タイトル曲のエンディングでメンバー全員の合唱になるパートで歌われているセンテンスは「Sun Ra and his Band from Outer Space are here to entertain you.」(サン・ラとそのバンドは外宇宙からみんなを楽しませるためにやって来た)というフレーズのくり返しですから、サン・ラにとっては現代アメリカの主流音楽は偽の音楽文化でアーケストラの音楽こそが文明を正しく導くものだ、という主張でしょう。
 サン・ラに共鳴していたロックからの反応は、デトロイトの画期的なプロト・パンク/メタル・バンド、MC5のライヴ録音によるデビュー作『Kick Out The Jams』1969.2でサン・ラの『The Heliocentric Worlds of Sun Ra』1965に添付されたサン・ラの予言詩をジャケットに転載し、あえてアルバムの最終曲「Starship」をMC5とサン・ラの共作曲としているのが先駆的な例として注目されます。MC5は白人ロック・バンドでしたが黒人解放戦線を標榜した政治組織・ブラックパンサー党を支持することで白人社会に対しての反体制的立場から出発しました。MC5の影響力は非常に大きく、その出発にサン・ラとの交歓があったことは、サン・ラ自身はアーケストラの存在の政治性には是認していないものの、サン・ラ・アーケストラというバンドの存在自体が当時の反体制派ミュージシャンの精神的支柱、一種のシンボル化していたことを語っているようです。

(Original El Saturn "Atlantis" LP Liner Cover)

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 アルバム『Atlantis』は録音年代に3年間の幅があり、A面の4曲はアーケストラの練習場兼共同住宅で1967年~1969年に録音されています。B面全面を占める1967年録音のアルバム・タイトル曲もそうですが、このアルバムはベーシストが参加していません。1961年から1968年のアルバムまでは天才ベーシスト、ロニー・ボイキンスが数々のアルバムを名盤に仕上げた素晴らしい貢献をしていました。録音年度が1967年にさかのぼる曲があるとしてもボイキンスの不参加は不自然ですが、アルバム編集のための選曲に際してベースの入らないトラックを選出したということでしょう。結果的にボトムの欠けた楽器編成は収録曲を奇妙な浮遊感の効果に統一しています。
 A面でサン・ラが弾いているのはホーナー・クラヴィネットで、サン・ラの電気キーボードの演奏はいつも大胆ですが今回は特にこの珍妙な音色がA面の鍵になっています。A1、A2の2曲がジョン・ギルモアのテナー、ボブ・バリーのドラムスとのトリオでどちらもワルツ曲ですが、凄腕の看板テナーのギルモアが初心者のようなヨレヨレのテナーをアドリブなしで聴かせる演奏で、A2はセロニアス・モンクの「Epistrophy」との類似に気づきます。ギルモアはリフしか吹きません。A3はギルモアもパーカッションにまわりクラヴィネット、パーカッション、ドラムスだけのリズム曲。ホーナーのクラヴィネットとは本来こんな音色の楽器なのかますます悩ましい上に、A4ではクラヴィネット、ドラムスに、さらにジェームズ・ジャクソンのログ・ドラムス(材木ドラム)、アーケストラの誇る3大看板サックス陣のギルモア、マーシャル・アレン、パット・パトリックがパーカッションというクラヴィネット+3パーカッション+2ドラムス編成になります。A面を通してメロディらしいメロディ、和声らしい和声はまったく出てこない純粋にリズムだけの音楽です。

(Reissued ABC Records/Impulse! "Atlantis" LP Alternate Front Cover & Liner Cover)

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 1965年録音の『Magic City』B面にもババトゥンデ・オラトゥンジ(1927-2003/ナイジェリア出身の黒人思想家・教育者・社会活動家・民族音楽家)のロフトでのライヴ録音が収録されていましたが、『Atlantis』B面全面を占めるタイトル曲は1967年のアフリカ文化会館、通称オラトゥンジ黒人文化センターでのコンサートでのライヴ録音で、このオラトゥンジ文化センターの設立に尽力したのが60年代初頭からオラトゥンジの活動に協力していた晩年のジョン・コルトレーンでした。オラトゥンジ文化センターのこけら落としに出演した1967年4月23日がコルトレーンの最後の公共での演奏になり、3か月後コルトレーンは胃癌の急速な悪化により逝去します(この時のライヴは2001年に発掘発売され、全2曲63分の壮絶な演奏が聴けます)。コルトレーンは黒人ジャズマンにとってのリーダーと見做されており、その急逝はソニー・ロリンズ、ローランド・カーク、アルバート・アイラーらに深刻なショックを与えました。「Atlantis」の録音は大成功に終わったコンサートだったそうですが、4月23日からコルトレーンの急逝までの間の録音と推定されています。コルトレーンはサン・ラをずっと注目していたので、体調が許す時期でしたら聴きにきていた可能性は高いでしょう。サン・ラにとってもコルトレーンの急逝はショックで、「うちのバンドに入っていたら死ななかったろうに」と洩らしていたといいます。
 A面の4曲は『Strange Strings』がそうだったように1回演ったら別のアルバムで同じ手は使えない、という極端なアイディアのものでした。それに較べればタイトル曲「Atlantis」はこれまでのサン・ラの、LP片面1曲の大作でも試みてきたラヴェルの「ボレロ」的な、シンプルなモティーフが暫進的なオーケストレーションによって重層化され、エンディングに向かってクレッシェンドしていく、という手法を踏襲しています。しかしLP片面におよぶ演奏時間では単に暫進的かつクレッシェンドよりも多彩な手法による組曲構成が可能であり、特にジャズのように音高による旋律ではなくリズムと音色そのものが旋律に替わる働きをする音楽であればごく小さい新しいアイディアがあればまったく異なる成果も得られます。それが電気キーボードの異様な使用法で、これまでのサン・ラのアルバムでも変なキーボード・サウンドがたっぷり聴けましたが、まずライヴでB面曲「Atlantis」が録音された、それから「Atlantis」のコンセプト(キーボードの使用法)に沿ってA面が録音されたのではないでしょうか。

(Original El Saturn "Atlantis" LP Side A & Side B Label)

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 タイトル曲「Atlantis」はピンク・フロイドの「Echoes」を思わせるキーボードの単音から始まりますが、21分ある演奏時間をほとんどサン・ラのキーボード独奏が占めていると言っても過言ではなく、エンディング近くのクレッシェンドを除けば管楽器群は波の満ち引きのように被さってくるだけです。サン・ラのキーボード独奏はギブソン・カラマズーオルガン(ギブソン社製のファルファッサ・オルガンのコピーモデルだそうです)とクラヴィオーヌを使用していますが、中盤からは完全に打楽器的な発想からクラスター・ノイズを演奏しており、おそらくほとんど指では弾いていないでしょう。拳骨や手の甲で弾いているはずです。サン・ラがやるべきことは間断ないカラマズーとクラヴィオーヌの連打なので、そのビートを途切れなく曲のクライマックスまで持っていけるかが成否の鍵となります。それにしてもこの曲冒頭でイン・テンポになる前のキーボード・ソロはクラヴィオーヌで、イン・テンポになってコードを弾いているのがカラマズーだと思いますが(2キーボード同時演奏)、『The Heliocentric Worlds~』などこれまでのサン・ラのアルバムで聴けたクラヴィオーヌのサウンドとまったく違うビリビリ感電しそうなディストーション・サウンドになっています。
 おそらく「Atlantis」はサン・ラが電気キーボードを使用し始めて以来の最高の演奏でしょう。1966年にLP2枚分のソロ・ピアノ作品『Monorails and Satellites』を録音して、ピアニストとしては頂点を極めた時期です。ピアノでならいくらでもバンドをスウィングできました。今回は電気キーボードで、しかも天才ベーシスト抜きでできるのか?それが傑作と言える大作になったのだから、手応えは大きかったでしょう。A面の4曲は小曲単位に分かれた「Atlantis」の応用です。編成が小さい分リズムはもっと強いアクセントが要求されるので、よりパーカッシヴな音色のキーボードを求めてホーナー・クラヴィネットに行き着く。テナーにはリフしか吹かせない。ここで眼目となるのはクラヴィネットとドラムスのポリリズムなのでクラヴィネットもソロは弾かずヴォイシングの変奏しか弾かない。しかし「Atlantis」のギブソン・カラマズーオルガンやクラヴィオーヌもそうですが、サン・ラが弾くとあまりにどの電気キーボードも変態的で、ホーナー・クラヴィネットって本当にこんな音色なのかな、と心配になります。ともあれ、『Atlantis』が1967年~1969年と3年ごしのアルバムになったのはそういう成立事情があったからではないでしょうか。

映画日記2017年10月28日・29日/ルイ・デリュック(Louis Delluc, 1890-1924)のたった4本(前)

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 Coffet Integral Louis Delluc PV : https://youtu.be/vkIUGEO-fgw (6:45)

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 フランスのサイレント映画がようやく独自の特色を示した頃の代表的な映画監督がルイ・デリュック(1890-1924)です。フランスはエジソン(アメリカ)と同時に写真技術者リュミエール兄弟が映画フィルムを発明しており、1895年からリュミエール兄弟は数秒~数分の実写短編映画を60本あまり撮影、公開しました。20世紀に入るとトリック撮影を売り物にしたジョルジュ・メリエス(短編「月世界旅行」'02が著名)が現れ、1904年頃からは小説や戯曲の原作によるドラマ映画が製作され始められます。イタリアの史劇映画に影響を受けて短編映画の連作長編化も進みましたが、画期的ヒット・シリーズになったのがルイ・フィヤードの犯罪活劇『ファントマ』'13~で、映画ならではのフィクションがここで始まりました。1910年代後半には俳優兼監督のアベル・ガンスがドラマ映画と活劇映画からさらに進めた本格的な長編劇映画を指向し、『悲しめる母』'17、『第十交響曲』'18に続いて第1次世界大戦に材を取った3時間の大作『世界と平和(原題『私は告発する!』)'19を発表、同作はフランス、ヨーロッパ全土で大ヒットし、日本でも高く評価され、ガンスはフランス映画におけるD・W・グリフィスの位置を占める監督になります。ガンスの影響下でフランスには映画独自の芸術意識が芽生え、'20年前後にはマルセル・レルビエ、ジェルメーヌ・デュラック、ジャック・フェデー、ジャック・ド・バロンセリ、レオン・ポワリエら芸術派の映画監督たちがデビューし始めますが、レルビエやデュラックを映画批評の面から応援して「フォトジェニー」という映画独自の美学概念を提唱し、自ら監督になり、ジャン・エプスタンやジャン・ルノワール、ルネ・クレール、ジャン・グレミヨンら'20年代半ばにデビューした映画監督たちとガンス~レルビエ、フェデーらの世代との橋渡しになったのがルイ・デリュックです。一般にはデリュックはどのような業績を残した人とされているか。武蔵野美術大学のサイトでは次のように紹介されています。

ルイ・デリュック
Louis Delluc
生年月日
DATE OF BIRTH 1890/10/14
没年月日
DATE OF DEATH 1924/03/22
出身地
BIRTH PLACE フランス/France, カドゥーアン
経歴 大学を目指すもののジャーナリストを志して断念、演劇雑誌の編集部に入る。やがて女優のエブ・フランシスと知り合い、演劇や映画に興味をもつようになる。小説や戯曲を発表しながら映画雑誌に映画評を書き始め、1919年に脚本家としてデビューした。映画雑誌『ル・ジュルナル・デュ・シネ=クラブ』を創刊した後、1920年に監督第一作を発表する。1921年には新たな雑誌『シネア』を創刊。以降、5本の作品を監督するが、33歳の若さで病死した。1937年にはその業績を記念して、実験性・芸術性の高いフランス映画に贈られる“ルイ・デリュック賞”が設けられている。評論家としての著書に、『シネマ商会』『フォトジェニー』『映画のジャングル』などがある。
(武蔵野美術大学人名サイトより)

 日本語版ウィキペディアではもう少し詳しく紹介されています。少し加筆して、こちらもご紹介しておきましょう。

●ルイ・デリュック(Louis Delluc、1890年10月14日 カドゥアン、現ル・ビュイソン=ド=カドゥアン - 1924年3月22日 パリ)は、フランスの映画監督、脚本家、映画批評家、著述家。33歳で夭折したが少数の映画作品と数々の著作を残し、毎年の最高のフランス映画に与えられる「ルイ・デリュック賞」に名を残す。
[ 来歴・人物 ]
○1890年10月14日、フランス・ドルドーニュ県カドゥアンに生まれる。1903年、家族とともにパリに移り住む。古典を修めたのち、ジャーナリズムの道へ進む。スペクタクル芸術の批評、詩、小説などたくさんのものを書いた。芸術映画、ニュース映画、軽映画など当時の映画に対しては非常にクリティカルであった。
○戦時中、ポール・クローデルのミューズであり通訳であるエーヴ・フランシス(1886-1980)と結婚した。彼女がデリュックにアメリカ映画を発見させた。
○1917年から、映画批評の世界に身を投じ、数え切れないほどの記事や草稿を書き、「シネアスト」という語を発明した。幼なじみのレオン・ムーシナックとともに、フランスにおける初めての独立系理論家、批評家となった。
○わずか5年のうちに、横溢する活動の兆候を示す。雑誌『Le Journal du Cine-club』と『Cinea』を編集し、複数のシネクラブを創設し、とりわけ7本の映画を演出した。なかでも2本はフランス映画史に残る作品である。『さまよう女』(1922年)と『狂熱』(1921年)である。彼の演出は、自然な美術装飾を生かし、ジェスチャー表現や突発的変化を抑えたもので、アベル・ガンス(1889-1981)、ジェルメーヌ・デュラック(1882-1942)、マルセル・レルビエ(1890-1979)、ジャン・エプスタン(1897-1953)、ルネ・クレール(1898-1981)など、トーキー出現までの1920年代映画を特徴づける前衛映画の先駆であった。
○1924年、最後の映画『洪水』をローヌ川の谷で撮影した。非常に悪い気候条件にあって、ルイ・デリュックは恐るべき肺炎に罹患する。同年3月22日、33歳と数週間の生涯を閉じる。
[ フィルモグラフィ ]
*黒い煙 Fumee noire (1920年/監督)
*沈黙 Le Silence (1920年/監督)
エルノアへの道 Le Chemin d'Ernoa (1921年/監督・脚本)
狂熱 Fievre (1921年/監督・脚本)
*雷 Le Tonnerre (1921年/監督)
さすらいの女 La Femme de nulle part (1922年/監督・脚本)
洪水 L'Inondation (1924年/監督・脚本) 遺作(歿後公開)、マルセル・レルビエ監修
*の3作はフィルム散佚作品

 日本では28分に短縮され完全な無字幕映画に編集された『狂熱』がVHSテープ時代に発売され、上映プリントも短縮版しかありませんでしたが、2015年にフランスのドキュメンツ・シネマトグラフィーク社のシネマテーク・フランセーズ・シリーズから3枚組ボックスで現存する最良のプリントをデジタル・リマスターし、新規の音楽と英語字幕つきのルイ・デリュック全集がDVD発売されました。デリュック作品は全監督作品7作(武蔵野美術大学サイトの「5本」はまちがい)中『エルノアの道』『狂熱』『さまよう女』『洪水』の4作しかフィルムが現存しないのでDVDのディスク1、2に4作を2作ずつ収録し、ボーナス・ディスクのディスク3はデリュックについてのドキュメンタリーや研究、デリュックが監督デビュー前の批評家時代に脚本を提供したジェルメーヌ・デュラックの『スペインの熱狂』の抜粋版、デリュックが生前に論じたチャップリンとマック・セネットの喜劇短編とウィリアム・S・ハートの西部劇の抜粋が資料映像として収められています。2013年にアメリカのフリッカー・アレイ社から出た幻の名作5作品を初DVD化したボックス・セット『アルバトロス社作品集1923-1928』、2014年にフランスのポチョムキン・フィルム社から出た14作品・8枚組DVDボックスのジャン・エプスタン作品集と較べると装丁・ブックレット・音楽(アコーディオン演奏のみ)、リマスター状態ともにやや貧弱ですが、デリュック自身が映画賞(皮肉なことにフランス最高の映画賞の一つとされています)に名を残すものの作品はまったくと言えるほど顧みられない映画監督なので(かえって映画論集の方が古典になっているようです)DVD全集が発売されただけでも勇断と言えるでしょう。キネマ旬報社刊『フランス映画史』(岡田晋・田山力哉著)では岡田晋氏が「デリュックは理論家であり組織者であり実践家であった。その病身は激務に耐えられなかったのだろうし、経済的にほとんど恵まれなかったという。だがデリュックは今日もなおフランス映画を語る時、必ず第一に出て来る名前である。イメージの美しさ、心理主義、日常的なリアリズム、これらフランス映画のスタイルは、いずれも彼の主張にほかならない」と称揚しています。そして実際、犯罪活劇のフィヤードはもちろん少し先輩のガンス、レルビエらとデリュックを分ける革新性は「イメージの美しさ、心理主義、日常的なリアリズム」なのです。なおあらすじは「キネマ旬報」なつかしの「近着外国映画紹介」風にまとめてみました。

●10月28日(土)
『エルノアへの道』(パリシア・フィルムス'21/8/4)*50min, B/W, Silent with Sound : https://youtu.be/QG2PbIoRTjk (Extrait, 3:35)

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○あらすじ フランスのバスク地方、スペイン国境近くの村エルノアのはずれに「アメリカ人」と呼ばれる男が自分で家を建てて住みつく。その男エッシェゴール(アルベール・デュレック)はシカゴで石職工をして帰ってきて、今は画家と詩人の生活をしており、純情な町娘サンタ(プリンセッシ・ドゥージャム)とその弟ドミンゴ(ジャン=バプティステ・マリカラール)に慕われていた。しかしエッシェゴールは村で女王(マジェスティ)と呼ばれる有閑マダム(エーヴ・フランシス)に恋しており、サンタの恋心に気づかない。サンタは女王の怪しい素性とエッシェゴールを翻弄する様子を見て村を離れるのを忠告する。そこにアメリカ製のスポーツカーに乗って女王の夫パーネル(ガストン・ジャケー)が帰ってくる。パーネルと引きあわされたエッシェゴールは驚愕し、その晩パーネルを訪ねて、シカゴで仕事中に目撃した銀行強盗本人であると確認する。エッシェゴールは警察に通報するか悩むが、パーネルに脅され、女王に口外しない宣誓書への署名を迫られる。通りかかったサンタが妨害し、エッシェゴールは警察への通報とパーネルの隠れ家への案内に向かう。パーネルは警官を巻いて逃走するが、エッシェゴールは追い詰めてスペイン国境を越えるよう促す。パーネルに「妻に渡してくれ」と大金を託され「スペインで真面目にやり直す」と言付けされたエッシェゴールは、入れ違いにサンタと言い争っていた女王を訪ねてお金を渡して言付けを伝え、パーネルのスポーツカーでパーネルを見送ったスペイン国境へ向かう。猛スピードで疾走しながらエッシェゴールは女王に自分と残らないかと請うが、女王は夫とスペインで暮らす、と答え、サンタが弟と村を出て行くとエッシェゴールに伝える。女王をスペイン国境に下ろしたエッシェゴールは駅のホームで待つサンタ姉弟を迎えに急ぎ、エルノアへの帰りの道に就く。

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 現存する一番古いデリュック監督作品。しかしサイレント時代に製作された映画は75%の本数が廃棄されているそうですから7作中4作が残っているのはまだしもなのです。1921年というとチャップリンの『キッド』の年、前年にはグリフィスの『東への道』、翌年には『嵐の孤児』があり、またドイツではフリッツ・ラングが『死滅の谷』を発表した年で、『ドクトル・マブゼ』二部作はその翌年です。こうしたサイレント時代の傑作群はたいへんドラマチックでスケールや身振りも大きいのが特徴で、比較的現実的なチャップリンの映画にしても描かれるドラマは登場人物にとっての大事件であり、観客にとって非常に感情的な訴求力が強い点で大作映画と同じ性格を持っています。本作を観ると、フランスの片田舎の村でシカゴに出稼ぎに行っていた男と偶然目撃された銀行強盗が一人の女性を介して再会する、というのはあまりに都合の良すぎる偶然ですが、その無理な設定を等閑視すれば本作はドラマらしいドラマもなく、村の隠者然として暮らしていた男が純情な村娘の愛に気づく話というだけに還元されてしまいます。実際本作は落ち着いた語り口、ほとんど屋外ロケーションと実際の建物・街並みを使い、場所も登場人物も極めて限定されている点で同時代のサイレント時代の映画作品と明らかに異なる指向を持っています。ドラマチックなアメリカ映画はもちろん大作主義と人工的な映像を追究したガンスやレルビエの映画とも異なり、むしろ'60年代以降のトリュフォーやロメールの映画に近いのです。美術はレルビエやエプスタンの作品にも起用され、後に実験的ドキュメンタリー映画『時のほか何ものもなし』'26を作ったアルベルト・カヴァルカンティが担当していますが、撮影のために製作されたセットと思われるのはごく一部で、撮影班に入って調度を整える役割としての美術担当だったのではないかと思えます。映像はほとんど固定ショットでたまに少しパンする程度ですが、構図の見事さとカット割りの巧みさが光ります。インタータイトル(字幕画面)はサイレント映画としてはかなり少ないのですが、切り返しカットで人物を良いテンポで交互に見せ、アングルも変えていくことで最小限の会話字幕で十分に会話のやり取りが伝わってきます。アイリス・イン、アイリス・アウトはサイレント時代にはよく使われ、トーキー以降もB/W映像の映画ではたまに使われていた技法ですが、本作を観るとサイレント映画のアイリス・イン~アウトの必然性がわかります。音声を伴うトーキーでは音環境の位相の変化が明確な場面転換になりますが、伴奏音楽だけのサイレント映画では普通のカットつなぎでは同じ場面が継続しているように見えてしまう。アイリス・イン~アウトでカットが区切られているのならはっきり場面転換したのがわかるので、字幕画面で区切るのではない場合は(つまり本作のように字幕をなるべく入れない作品の場合は)アイリス・イン~アウトが場面転換字幕の代わりに多用されることになり、これは現在の目から観るとやや煩瑣に見えないでもありません。しかし同時代のアメリカ映画の強いドラマ性、ドイツ映画の表現主義の興隆と並べると本作は早すぎたミニマリズム映画とも言ってよく、脚本はデリュック自身のオリジナル・シナリオですが自作脚本で映画を作る監督の陥りやすい饒舌さがまったくありません。デリュックは享年33歳の早逝の人ですが監督した映画作品7作以外にも十数冊の著書があり、長編小説も数冊書いています。しかし小説は小説、映画は映画、と映画に小説的な話法は一切用いず、映像によって綴る(いわゆる「フォトジェニー」理論)、という方法的自覚がはっきりありました。地味な映画ですし、佳作とまでもいかないでしょう。しかしサイレント時代の昔にあっても、これが現代映画の始まりと目せるさりげない革新性が確かにここにはあります。特にロケーション撮影だからこそとも言える構図の決まり具合は絶品で、これだけの映像センスを持ってしてもそれだけでは映画としては物足りない難しさも感じさせます。

●10月29日(日)
『狂熱』(アルハンブラ・フィルム=ジュピター・フィルムス'21/9/21)*45min, B/W with Color Tinted, Silent with Sound : https://youtu.be/ln9KKBHEYSw (Extrait, 3:12) : https://youtu.be/GWlSpIQmScg (Short Version within preface with Japanese subtitle, 29:01)

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○あらすじ 港町マルセイユの小さな酒場で、主人のトピネリ(ガストン・モドー)とその妻サラ(エーヴ・フランシス)は、ギャンブルに興じ、酒や阿片に酔いしれる客を今日ももてなす。航海に出た婚約者を待っていると毎日のように現れる若い女(ソランジュ・シカール)にサラはかつての自分を重ねる。そこへ、長い航海を終えた船員たちがやってくる。船員目当ての夜の女たちも続々と押し寄せ、店は一気ににぎわい始めた。サラは船乗りたちの中に、かつての恋人だったミリティス(エドモン・ヴァン・ダエル)の姿を見つける。サラに気づいたミリティスは、航海先で高熱にうなされた病床で看護してくれた東洋人の女(エレーナ・サグラソ)を連れており、サラに妻だと紹介する。気まずい雰囲気を破って、自動ピアノに合わせて踊り始めるサラとミリティスを見たトピネリは、二人の関係に気づく。そこへたまたま酔った客同士の喧嘩が始まり、釣られたようにトピネリとミリティスは殴り合いになる。ミリティスの妻の中国女は夜の女たちにリンチにかけられる。客同士の喧嘩は店の外にまで及び、やがて警官が駆けつける。殺された客はドアの外に蹴り出され、重傷の客は店の隅でうめき、東洋人の女は床に崩れ、夜の女の一人は息も絶えだえにカウンターの花を手に取り造花に祈りを捧げ、ミリティスは昏倒して動かず、トピネリは姿を消す。警官に囲まれながらサラはミリティスの遺体にアデューと叫んで引き立てられていく。

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 デリュック作品というと本作か『さまよう女』になるのが定評でしょう。45分とは1921年の映画としてはぎりぎり長編に入るもので、あらすじの通り外景は港から見える海原くらいしか映りません。酒場の中だけで展開する映画で、つまり前作『エルノアへの道』とは反対に全編一つのセット撮影なのですが、全編ロケの前作も実験的なら全編1セットというのも相当な実験で、グリフィス以前の短編映画やキーストン・スタジオ(マック・セネット主宰)の10分未満の短編喜劇のような、ほとんどコント程度のものならセットが1箱でもいいでしょうが、数シークエンス(通常1時間半~2時間の映画は10~12シークエンスでできています)をかさねる本格的な短編映画以上のものはセットを組むなら数セットは必要になるわけです。しかし本作は、玄関口を外から撮ったり闇の中で酔客同士がもつれあっている瞬間的な挿入カット(またヒロインのサラ、昔の恋人の船員ミリティスの回想)は少しありますが、それはあくまで挿入カットでしかなく、現在進行形のドラマはすべて酒場の中で起きるのがこの作品の実験になっています。そのためにデリュックが取った手段は役名のついた客だけでも20人あまりを登場させ(客全体では30人ほどでしょうか)、数カットずつでも20人もの登場人物のリアクションを平行して観せていき、特にヒロインが直接関わる人物とは独立したシークエンスとなるようなやり取りを観せることでした。酒場の客の大半(そして職業女たちをも)が「ちびの小役人」「阿片パイプの女」「暴君」「マドモワゼル忍耐(船員の婚約者を待ち続ける若い女)」「梅毒持ち」「ポン引き」「短小」「灰色の帽子の男」「アル中」「東洋人女」「花の女」という調子で次々と字幕で紹介されます。この簡潔な字幕画面(インタータイトル)と一瞬の人物ショットで表現する手法はエイゼンシュテインのモンタージュを先駆けています。「マドモワゼル忍耐」との会話も最小限の字幕(会話のテーマ)だけは必要なので、本作が28分の短縮完全無字幕版で鑑賞されては正当に評価しようがないでしょう。こうした、1時間半の映画のさらに半分の長さしかない映画に長編映画といえるほどの構成を与え、かつ統一感を図るには、多彩かつ多数の登場人物をかいくぐるように交互に焦点を当ててシークエンスに分割し、酒場という同一舞台に集約させておく必然性があったわけで、フランス古典演劇の三一致法(時、場所、筋の統一)に発しながら演劇ではない映画ならではの応用を試みてかなりの成功を治めた作品といえます。つまりこれは、演劇では本作のシナリオをそのまま舞台に乗せたとしても描写の不足が生じます。例えば「阿片パイプの女」と字幕とともに隅のテーブル席で一人、イギリス人風の服装で目深にでかい帽子を被った女がパイプをもの憂げにくゆらせている短いショットが映る。映画ならこれだけで印象的ですが、演劇ではこうしたクローズアップ効果は難しく、一人ひとりをピックアップした演技の場が必要になってきます。すると演劇なら当然台本の時点でもっと冗長になってくるので、本作のように凝縮した表現にはなりません。フランスの映画批評・理論の開祖とも言えるデリュックが映画の原理を「フォトジェニー」と呼んだのもこの映像の凝縮性で、デリュックの影響下に映画批評・理論から監督デビューしたジャン・エプスタン(『アッシャー家の末裔』'28が有名)には本作に直接影響を受けた初期傑作『まごころ』'23があり、これは盟友ルネ・クレール(ガストン・モドーは『巴里の屋根の下』'30、ブニュエルの『黄金時代』'30の主演俳優になります)からも「フランス映画における『散り行く花』('19、グリフィス)」と讃辞を寄せられジャン・コクトー、もっとも尊敬する先輩アベル・ガンスにも賞賛された監督デビュー年の劇映画第2作ですが(前年にドキュメンタリー監督作品あり)、港町を舞台に二人の青年と一人の少女の三角関係を描いた作品で、『狂熱』の影響は明らかですが主要人物3人に焦点を絞って時間の流れを延長させており(少女は積極的な青年と結婚するが暴力をふるわれるようになり、旧友の青年が相談相手になるが暴力夫が嫉妬して刃傷沙汰に発展し、暴力夫は第三者に怨まれて殺され、少女は旧友の青年と晴れて再婚する)、三角関係の構図でも『狂熱』とは相当印象の異なる作品になっています。タイム・スパンも長い物語のため映画も83分と『狂熱』の倍近い長さですし、一般的には『まごころ』の方が映画らしい映画と見なされるでしょう。エプスタンはデリュックの「フォトジェニー」理論を受け継いだ映画批評・理論家で映画監督でしたが、デリュックの「フォトジェニー」が『狂熱』では垂直的なインパクトに重点を置いていたとすれば、エプスタンの『まごころ』は水平的な方向に「フォトジェニー」の可能性を探った作品と言えます。デリュックの発想は絵画的すぎて、時間芸術としての映画という側面を本作ではあえて極端に圧縮してしまった、とも言え、かなりの成功ではあってもくり返しの利かない手法による作品でしょう。事実、4作のみ残っているデリュックの映画でもこれは本作だけの手法で、第6作『さまよう女』でも遺作になった第7作『洪水』でもデリュックはそれぞれ異なる手法を試みることになります。また、本作の字幕画面(インタータイトル)の特異な用法は全集版のリマスター復原版からの抜粋(Extrait)でも鮮烈ですが、残念ながら全編のリンクはなく、廃盤の日本版ホームヴィデオの短縮版のリンクをご紹介しました。おそらくデリュック歿後に完全無字幕の短縮版が作られたのは、字幕の内容が差別表現もさることながら不道徳的・頽廃的な世界を描いているために、商業流通上の理由から削除されたと推定できるのです。

現代詩の起源(17); 三好達治詩集『測量船』(i)

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 三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
 (撮影・浜谷浩)

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 現代詩史上でも画期的な役割を果たした口語自由詩の完成についてもっとも重要な二人の詩人、高村光太郎と萩原朔太郎のそれぞれ最後の詩集になった『典型』(高村)と『氷島』(萩原)を読んできて、この後予定では、萩原朔太郎の出発と帰結について、本格的な詩作発表(大正2年=1913年5月~大正3年5月)の最初1年間の作品を集めた「愛憐詩篇」と、晩年の文語詩編の始まりとなった大正12年(1923年)~大正14年の「郷土望景詩」を詩集前半・後半に収めた詩集『純情小曲集』(大正14年=1925年8月刊)を俎上に載せたいと思います、と前回で予告しましたが、主に萩原朔太郎について考えているうちに自然と『三好達治全集』を読み返す時間が多くなり、ひょっとするとこれは大変なものではないか、という気がしてきました。三好達治というと、義務教育の国語教科書にも載る詩人ですからつい当たり前のように読んでしまう。しかし、そうした国語教科書採用率のもっとも高い第一詩集『測量船』は、萩原の秘書も勤めていたほどの愛弟子で、高村にも非常に敬意を払っていたのとは裏腹に、詩作品の上では決定的に萩原や高村の詩を過去の詩として葬り去った働きを果たしたのではないか、と思われるのです。三好が『測量船』収録の作品を書いていた頃、高村は『猛獣篇』の連作や『智恵子抄』の先駆詩編、萩原は『氷島』に収録される詩編を書いていました。
 三好の『測量船』は、あるいは新しい『若菜集』(島崎藤村、明治30年=1897年)だったかもしれませんが、現代詩をはっきりとフィクションとして成り立たせることで、高村や萩原に強くあった文明批判的な思想的背景なしでも詩は可能であり、むしろ審美性の高さや抒情詩として汎用性の高い自由詩のフォーマットを、高村や萩原らの詩法を注意深く避けて――唯一、室生犀星の『抒情小曲集』(大正7年=1918年)の文体を部分的に反映した小品が数編ありますが、犀星は高村や萩原のような思想詩的側面は稀薄な分、語感の官能性では抜きん出ていました。三好の詩がオーソドックスでも何でもなく、高村光太郎や萩原朔太郎の詩とはまったく別の意識で書かれた、実験的なまでに破壊性の強いものであることは注意されるべきことでしょう。戦後の詩人たちは三好達治について語るのを意識的に避けていましたが、戦後詩のもっとも基礎的な文体が高村光太郎でも萩原朔太郎でもない、ましてや宮澤賢治や八木重吉、中原中也や立原道造でもない――これらの詩人はモラリストでなくてもイデアリストでしたが、三好はモラルにもイデアにも拠らない詩人でした。『測量船』は、もし今年刊行の新人詩人の第一詩集だとしても通用する内容の詩集で、多彩な文体と題材を見事に統一した驚異的な完成度に絶賛を集めるでしょう。読み進んでいく前に、まず本文をご紹介します。

 詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
 第二巻、昭和5年12月20日刊(外箱)

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        書籍本体

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      三好達治揮毫色紙

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        測 量 船

        三 好 達 治


  春 の 岬

春の岬旅のをはりの鴎どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
 
 (詩集書き下ろし)


  乳 母 車

母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花(あぢさゐ)いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり

時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
輪々(りんりん)と私の乳母車を押せ

赤い総(ふさ)ある天鵞絨(びろおど)の帽子を
つめたき額(ひたひ)にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり

淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道

 (「青空」大正15年6月)


  雪

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 (「青空」昭和2年3月)


  甃 の う へ

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳(ひとみ)をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂々(ひさしひさし)に
風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ

 (「青空」大正15年7月)


  少 年

夕ぐれ
とある精舎(しやうじや)の門から
美しい少年が帰つてくる

暮れやすい一日(いちにち)に
てまりをなげ
空高くてまりをなげ
なほも遊びながら帰つてくる

閑静な街の
人も樹も色をしづめて
空は夢のやうに流れてゐる

 (「青空」大正15年8月)


  谺

 夕暮が四方に罩(こ)め、青い世界地図のやうな雲が地平に垂れてゐた。草の葉ばかりに風の吹いてゐる平野の中で、彼は高い声で母を呼んでゐた。

 街ではよく彼の顔が母に肖(に)てゐるといつて人々がわらつた。釣針のやうに脊なかをまげて、母はどちらの方角へ、点々と、その足跡をつづけていつたのか。夕暮に浮ぶ白い道のうへを、その遠くへ彼は高い声で母を呼んでゐた。

 しづかに彼の耳に聞えてきたのは、それは谺(こだま)になつた彼の叫声であつたのか、または遠くで、母がその母を呼んでゐる叫声であつたのか。

 夕暮が四方に罩め、青い雲が地平に垂れてゐた。

 (「青空」昭和2年3月)


  湖 水

この湖水で人が死んだのだ
それであんなにたくさん舟が出てゐるのだ

葦(あし)と藻草(もぐさ)の どこに死骸はかくれてしまつたのか
それを見出した合図(あひづ)の笛はまだ鳴らない

風が吹いて 水を切る艪(ろ)の音櫂(かい)の音
風が吹いて 草の根や蟹の匂ひがする

ああ誰かがそれを知つてゐるのか
この湖水で夜明けに人が死んだのだと

誰かがほんとに知つてゐるのか
もうこんなに夜が来てしまつたのに

 (発表誌不詳)


  村

鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。

そとでは桜の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自転車がしいていつた。
脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黒いリボンをとめて。

 (「青空」昭和2年6月)


  春

鵞鳥。――たくさんいつしよにゐるので、自分を見失はないために啼いてゐます。

蜥蜴。――どの石の上にのぼつてみても、まだ私の腹は冷めたい。

 (「青空」昭和2年6月)


 村

 恐怖に澄んだ、その眼をぱつちりと見ひらいたまま、もう鹿は死んでゐた。無口な、理窟ぽい青年のやうな顔をして、木挽小屋の軒で、夕暮の糠雨に霑(ぬ)れてゐた。(その鹿を犬が噛み殺したのだ。)藍を含むだ淡墨いろの毛なみの、大腿骨のあたりの傷が、椿の花よりも紅い。ステッキのやうな脚をのばして、尻のあたりのぽつと白い毛が水を含むで、はぢらつてゐた。
 どこからか、葱の香りがひとすぢ流れてゐた。
 三椏(みつまた)の花が咲き、小屋の水車が大きく廻つてゐた。

 (「詩と詩論」昭和4年12月、原題「林」)


  落 葉

 秋はすつかり落葉になつてその鮮やかな反射が林の夕暮を明るく染めてゐる。私は青い流れを隔てて一人の少女が薄の間の細道に折れてゆくのを見る。そこで彼女はぱつちりと黒い蝙蝠傘をひらく。私は流れにそつて行く。私は橋の袂にたつ。橋の名は「こころの橇」。水の面にさまざまの観念が、夕映に化粧する。私は流にそつて行く。私は橋の袂にたつ。橋の名は「鶫」。その影が水の面に顫へてゐる。私は杖に身をもたせる。私は遠くにまた橋を見る。また橋を。その橋の名は?――その橋の名は私がつけよう、「私のものーくる」。
 そして日は暮れ易い。もう私の散歩があまりに遠くはないだらうか?

 (「詩と詩論」昭和4年12月、原題「村」)


  峠

 私は峠に坐つてゐた。
 名もない小さなその峠はまつたく雑木と萱草(かやくさ)の繁みに覆ひかくされてゐた。××ニ至ル二里半の道標も、やつと一本の煙草を喫ひをはつてから叢の中に見出されたほど。
 私の目ざして行かうとする漁村の人人は、昔は毎朝この峠を越えて魚を売りに来たのだが、石油汽船が用ひられるやうになつてからは、海を越えてその販路がふりかへられてしまつたと私は前の村で聞いた。私はこの峠までひとりの人にも会はずに登つてしまつた。
 路はひどく荒れてゐた、それは、いつとはなしに雨に洗ひ流されて、野茨や薄の間にともすれば見失はれ易く続いてゐた。両側の林では野鳩が鳴いてゐた。
 空は晴れてゐた。遠く、叢の切れた一方に明るく陽をうけて幾つかの草山が見え、柔かなその曲線のたたなはる向ふに藍色に霞んだ「天城(あまぎ)」が空を領してゐる。私の空虚な心は、それらの小山を眺めてゐるとほどよい疲労を秋日和に慰められて、ともすれば、ここからは見えない遠くの山裾の窪地とも、またはあの山なみの中腹のそのどこかとも思へる方角に、微かな発動機船の爆音のやうなものを聞いたのだつたが、(それはしばらく続いてゐたらしいのだが、)ふと、訝(いぶ)かしく思へて耳を澄まして見ると、もう森閑として何のもの音も聞えて来なかつた。時をり風が叢を騒がせて過ぎ、蜂の羽鳴りがその中を弓なりに消えていつてはまたどこからか帰つて来た。翼の白い燕が颯々と羽風を落していつた。
 私は考へた、ここにかうした峠があるとするからは、ここから眺められるあの山々の、ふとした一つの襞の高みにも、こことまつたく同じやうな小さな峠があるだらう。それらの峠の幾つかにも、風が吹き、蜂や燕が飛んでゐるだらう、そこにも私が坐つてゐる――と。そして私は、足もとに点々と咲いた白い小さな草花を眺めながら、それらの覆ひかくされた峠の幾つかをも知ることが出来た。
 私は注意深く煙草の火を消した。午後ははや少し遅くなつてゐた。そしてこの、恐らくは行き会ふ人もないだらう行手を思ひ、草深い不案内な降り道を考へると、人人の誰からも遠く離れた私の鳥のやうな自由な時間も、やはりあわただしく立ちあがらなければならないのを味気なく感じた。既に旅の日数は重なつてゐた。私は旅情に病の如き悲哀を感じてゐた。しかし私にあつて今日旅を行く心は、ただ左右の風物に身を托して行く行く季節を謳つた古人の心でなければならない。もうすぐに海が見えるであらう。それだのに私の心の、何と秋に痛み易いことか!
 ああ、その海辺の村の松風を聴き、暗い旅籠(はたご)の湯にひたり、そこの窓に岬を眺めよう、その岬に陽の落ちないうちに――。そして私は心に打ち寄せる浪の音を聞いた。私は峠を下つた。

 (「詩神」昭和5年5月)


  街

 山間の盆地が、その傷ましい、荒蕪な杯盤の上に、祈念の如くに空に挈(ささ)げてゐる一つの小さな街。夜ごとに音もなく崩れてゆく胸壁によつて、正方形に劃(かぎ)られてゐる一つの小さな街。その四方に楊の並木が、枝深く、すぎ去つた幾世紀の影を与へてゐる。今も明方には、颯々と野分のやうな羽音を落して、その上を水色の鶴が渡つて行く。昼はこの街の楼門から、鳴き叫ぶ豚の列が走りいで、転がり、しきりにその痩せた黒い姿を、灌木と雑草の平野の中に消してしまふ。もしもその時、異様な哀音の軋るのを遠くに聞くならば、時をへて並木の影に、小さな二輪車が丘のやうな赭牛の項(うなじ)に牽かれて、夏ならば瓜を積み、秋ならば薪を載せ、徐(おもむ)ろに、楼門の方へと歩み去るのを見るだらう。木の肌も黒く古びてしまつた楼門の、楯形に空を見透かす格子の中に、今は鳴ることすらも忘れてしまつた小さな鐘が、沈黙の昔ながらの威厳をもつて、ほのかに暗く、穹窿をなした天井に浮んでゐる。崩れるがままに崩れ落ちて行く胸壁の上に、または茂るがままにうら白く茂つてゐる楊の中に、鵲は集り、飛びかひ、白い斑のある長い尾を振り、終日石を敲くやうな叫びをあげてゐる。なほその上にも、たまたま月が上旬の終りに近く、その一抹の半円を、遠く散在する粟畑玉蜀黍畑の上、骨だつた山脈の上、杳(はる)かな昼の一点に傾けてゐるとしたならば、人はみな、荒涼たる風景を浪うち覆ふ、嘗て如何なる文化も手を触れなかつた寂寥の中に、おのがじしそのよるべなき運命を一瞬にして身に知り歎くであらう。そしてこの胸壁を周らした小さな街は、四囲の寂寥をしてさらに悲しきものとするために、時ありて幾条か、静かに炊爨(すゐさん)の煙を空に炊くのである。
 昔、この街を営むために、彼等の祖先は山脈のどちらの方角を分けてやつて来たのであらうか。この街の出来あがつた日、彼等の敵は再び山脈のどちらの方角を分けてやつてきたのであらうか。そして、この胸壁が如何に激しい戦を隔てて二分したのであらうか。それら総ての歴史は気にもとめずに忘れられ、人人はひたすらに変りない習慣に従つて、彼等の祖先と同じ形の食器から同じ黄色い食物を摂とり、野に同じ種を播き、身に同じ衣をまとひ、頭に同じ髷同じ冠を伝へてゐる。それが彼等の掟ででもあるかの如く、彼等は常に懶惰であり、時を定めず睡眠を貪り、夢の断えまに立ちあがつては、厚い胸を張り、ごろごろと喉を鳴らして多量の水を飲みほすのである、気流がはげしく乾燥してゐるために。
 やがて夜が来たとき、満潮に呑まれる珊瑚礁のやうに、暗黒と沈黙の圧力の中に、どんなに暗く、この街は溺れさり沈みさるのであらうか。そしてその中で、どんな形の器にどのやうな灯火がともされるのであらうか。もしくは灯火の用とてもないのであらうか。私はそれを知らない。今も私は、時として追憶の峠に立つて、遠くにこの街を眺めるのであるが、私の記憶は、いつも、太陽の沈む方へといそいで帰つてしまふのである。

 (「青空」昭和2年5月)


  秋 夜 弄 筆

 日かず経て呼子鳥啼かずなりしを、それかともききあやしみて外のもに出づれば、音に澄みて鳴けるは遠き蟋蟀(こほろぎ)なりけり。柿の実したたかに石に落ち、空を仰ぐに風早く雲飛んで月もまた飛ぶこと早し。野に蕭殺の兆ありて客心を痛ましめ、夜頃を宿のほとりに、我は秋蚕(しうさん)の匂ひあるなかをさまよひぬ。また室に帰りて怠りて弓臥するに、時はなほ衣手のうすきを喞つに早けれども――。

  ひときはは凩(こがら)ちかきひぢ枕

 また時ありて山雨のわづかにたばしり去るを前庭のひろきに知りぬ。

  楠天(なんてん)の葉うらも白き月夜かな

 (「亞」昭和2年12月)


  落 葉 や ん で

 雌鶏が土を掻く、土を掻いては一歩すざつて、ちよつと小頸を傾ける。時雨模様に曇つた空へ、雄鶏が叫びをあげる。下女は庭の落葉を掻き集めて、白いエプロンの、よく働く下女だ、それに火を放つ。私の部屋は、廊下の前に藤棚があつて、昼も薄暗い。ときどきその落葉が座蒲団の下に入つてゐた。一日、その藤棚がすつかり黄葉を撒いてしまつて、濶然と空を透かしてゐた。

  飴売りや風吹く秋の女竹
  やまふ人の今日鋏する柘榴(ざくろ)かな

 病を養つて伊豆に客なる梶井基次郎君より返書あり、柘榴の句は鋏するのところ、剪定の意なりや収穫の意なりや、弁じ難しとお咎め蒙つた。重ねて、

  一つのみ時雨に赤き柘榴かな

 そして私も、自らの微恙(びやう)の篤からんことを怖れて、あわただしく故郷へ帰つた。そこにも同じ果実が熟してゐた。

  海の藍柘榴日に日に割るるのみ
  冬浅き軍鶏のけづめのよごれかな

 二三度母のお小言を聞いて、そして全く冬になつた。或は家居し、或は海辺をさ迷ひながら。

  冬といふ壁にしづもる棕櫚(しゆろ)の影
  冬といふ日向に鶏の坐りけり

  落葉やんで鶏の眼に海うつるらし

 (「信天翁」昭和3年3月)


  池 に 向 へ る 朝 餉

水澄み
ふるとしもなきうすしぐれ
啼く鳥の
鳥のねも日にかはりけり
ひとり居をわびしといはむ
いくたびか
朝餉(あさげ)の箸をやすませて
魚光る眺めてあれば
なほさだかならねど 一日のうれひを感ず
楽しきことを考へよ
かく思ひ 愉(たの)しさにとりすがれども
ちひさき魚は水に消え
かなしみばかりしたしけれ

 (「信天翁」昭和3年2月、「詩神」昭和5年7月)


  冬 の 日

冬の日 しづかに泪(なみだ)をながしぬ
泪をながせば
山のかたちさへ冴え冴えと澄み
空はさ青に
小さき雲の流れたり
音もなく
人はみなたつきのかたにいそしむを
われが上にも
よきいとなみのあれかしと
かくは願ひ
わが泪ひとりぬぐはれぬ
今は世に
おしなべて
いちじるしきものなく――

 (「信天翁」昭和3年3月)


  鴉

 風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯しない野原をさまようてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、そしてまたその荒まじい叫び声をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黒い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。

  ――とまれ!

 私は立ちどまつて周囲に声のありかを探した。私は恐怖を感じた。

  ――お前の着物を脱げ!

 恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、余儀なくその命令の言葉に従つた。するとその声はなほ冷やかに、

  ――裸になれ! その上衣を拾つて着よ!

 と、もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。私は惨めな姿に上衣を羽織つて風の中に曝されてゐた。私の心は敗北に用意をした。

  ――飛べ!

 しかし何といふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧みた。手は長い翼になつて両腋に畳まれ、鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた服従の用意をした。

  ――飛べ!

 私は促されて土を蹴つた。私の心は急に怒りに満ち溢れ、鋭い悲哀に貫かれて、ただひたすらにこの屈辱の地をあとに、あてもなく一直線に翔(かけ)つていつた。感情が感情に鞭うち、意志が意志に鞭うちながら――。私は永い時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの惨めな敗北からは遠く飛び去つて、翼には疲労を感じ、私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みてゐた。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗な命令の声ではなかつたか。

  ――啼け!

 おお、今こそ私は啼くであらう。

  ――啼け!
  ――よろしい、私は啼く。

 そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は啼いてゐた。

  ――ああ、ああ、ああ、ああ、
  ――ああ、ああ、ああ、ああ、

 風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。冷めたいものがしきりに頬を流れてゐた。

 (「詩と詩論」昭和4年12月)


  庭

 太陽はまだ暗い倉庫に遮ぎられて、霜の置いた庭は紫いろにひろびろと冷めたい影の底にあつた。その朝私の拾つたものは凍死した一羽の鴉であつた。かたくなな翼を紡錘(つむ)の形にたたむで、灰色の瞼(まぶた)をとぢてゐた。それを抛げてみると、枯れた芝生に落ちてあつけない音をたてた。近づいて見ると、しづかに血を流してゐた。
 晴れてゆく空のどこかから、また鴉の啼くのが聞えた。

 (「文學」昭和4年12月)


  夜

 柝(たく)の音は街の胸壁に沿つて夜どほし規則ただしく響いてゐた。それは幾回となく人人の睡眠の周囲を廻ぐり、遠い地平に夜明けを呼びながら、ますます冴えて鳴り、さまざまの方向に谺(こだま)をかへしてゐた。

 その夜、年若い邏卒は草の間に落ちて眠つてゐる一つの青い星を拾つた。それはひいやりと手のひらに滲み、あたりを蛍光に染めて闇の中に彼の姿を浮ばせた。あやしんで彼が空を仰いだとき、とある星座の鍵がひとところ青い蕾(ボタン)を喪つてほのかに白く霞んでゐた。そこで彼はいそいで睡つてゐる星を深い痲酔から呼びさまし、蛍を放すときのやうな軽い指さきの力でそれを空へと還してやつた。星は眩ゆい光を放ち、初めは大きく揺れながら、やがては一直線に、束の間の夢のやうにもとの座に帰つてしまつた。
 やがて百年が経ち、まもなく千年が経つだらう。そしてこの、この上もない正しい行ひのあとに、しかし二度とは地上に下りてはこないだらうあの星へまで、彼は、悔恨にも似た一条の水脈のやうなものを、あとかたもない虚空の中に永く見まもつてゐた。

 (「文學」昭和4年12月)


  庭

 夕暮とともにどこから来たのか一人の若い男が、木立に隠れて池の中へ空気銃を射つてゐた。水を切る散弾の音が築山のかげで本を読んでゐる私に聞えてきた。波紋の中に白い花菖蒲(あやめ)が咲いてゐた。

 築地の裾を、めあてのない遑(あわた)だしさで急いでくる蝦蟇(がま)の群。その腹は山梔(くちなし)の花のやうに白く、細い疵が斜めに貫いたまま、なほ水掻で一つが一つの背なかを捉へてゐる。そのあとに冷たいものを流して、たとへばあの遠い星へまでもと、悪夢のやうに重たいものを踏んでくる蝦蟇の群。

 瞳をかへした頁の上に、私は古い指紋を見た。私は本を閉ぢて部屋に帰つた。その一日が暮れてしまふまで、私の額の中に散弾が水を切り、白い花菖蒲が揺れてゐた。

 (「亞」昭和2年9月、「文學」昭和4年12月)


  庭

槐(ゑんじゆ)の蔭の教へられた場所へ、私は草の上からぐさりと鶴嘴(つるはし)をたたきこんだ。それから、五分もすると、たやすく私は掘りあてた、私は土まみれの髑髏を掘り出したのである。私は池へ行つてそれを洗つた。私の不注意からできた顳額(こめかみ)の上の疵を、さつきの鶴嘴の手応へを私は後悔してゐた。部屋に帰つて、私はそれをベッドの下に置いた。

 午後、私は雉を射ちに谿へ行つた。還つて見ると、ベッドの脚に水が流れてゐた。私のとりあげた重い玩具の、まだ濡れてゐる眼窩や顳額やの疵に、小さな赤蟻がいそがしく見え隠れしてゐる、それは淡い褐色の、不思議に優雅な城のやうであつた。

 母から手紙が来た。私はそれに返事を書いた。

 (発表誌不詳)


  鳥 語

 私の窓に吊された白い鸚鵡は、その片脚を古い鎖で繋がれた金環(かなわ)のもうすつかり錆びた円周を終日噛りながら、時としてふと、何か気紛れな遠い方角に空虚なものを感じたやうに、いつもきまつて同じ一つの言葉を叫ぶ。

 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 実は、それは甲高く発音される仏蘭西語で、J'ai tue'……と云ふだけの、ほんの単純な言葉だから、こんな風に訳したのではすつかり私の空想になつてしまふのである。しかしまたこの私の空想にも理由がある。
 最初私は、私の工夫から試みにそれを J'ai tue'…… le temps と補つて見て、その下で、毎日それを気にもしないで、秩序のない私の読書を続けてゐた。つまり、

 ――キノフモケフモワタシハムダニヒヲスゴス。

 と、さう云つて、彼女は私の窓で無邪気に頸をかしげてゐたのである。そしてそれから後、ある日ふとした会話の機みから初めて、その言葉の不吉な意味を私に暗示したのは、この家の痩せて背の高い女中のローズであつた。薔薇(ローズ)と呼ばれる年とつたその女中は、今私のゐるここの一家の人人と共に、永い年月を、長崎から神戸を経て、こんな風に東京の郊外で住まふやうになるまで、彼女の運命と時間を、主家の住居の一隅でいつも正直に過ごして来たものらしい。
「……けれど、どうも変ですわね。うちの人達はみんな、それを聞くのを、きつと厭やなのに違ひありません。」
 私は、それに就てはもう何も彼女から聞きたくなかつた。ただ新しく、云はばこの家族の隙間に、一室を借りただけの私にとつて、知らぬ他国から遠く移つて来た人達の、その瑣々とした、歴史の永く変遷した昔の出来事の詳しい穿鑿(せんさく)などは、も早や趣味としても好ましくなかつたのである。何故なら、凡そどのやうな事の真実も、所詮は自由なイデエの、私の空想よりも遥かに無力であつたから。

 ―― J'ai tue'……ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。J'ai tue'…… J'ai tue'……。

 それにしても、しかしいつたい何のために、誰が誰を殺したのだらう? それも何時? どこで? どんな風にして? ――よろしい、消え去つた昔のことはどちらでもいい! それよりも先づ第一に、その言葉を信ずるなら、この金環に繋がれてゐる鳥が誰かを殺したのに相違ない。そこで一瞬の間に、私の想像がすぐに奇怪なデサンの織布(しよくふ)を織りあげる。たとへば私はここの主婦にかう云つて尋ねるだらう。
 ――答へて下さい、きつとかうなんでせう。昔、あなたの家のお祖父さまが、あなたの良人(マリ)に仰しやつたのです。どうかお前は、私がゐなくなつたら、もうこの国には住まないで、遠い東の、日本の国へでも行つて暮してお呉れ、この私はもうそんな遠い旅行に耐へられない年齢としになつたが、しかしお前は行つてお呉れ。どうか、それの詳しい理由は訊かないで、私の唯一の頼みだから、もうすぐ私が死んでしまつたなら、早く、私のこの願ひを実行してお呉れ。と、きつとそんな風に仰しやつたのです。あなたの良人マリに。
 ――さうですわ。なくなつた良人のジャンが、いつかそんなことを私に教へました。あなたもまた、それをあのジャンからいつかお聞きになつたのでせうか?
 ――いいえ、私はあなたのジャンを知りません。……そして、それからある日のこと、お祖父さまは朝のベッドの上で、誰も知らない間に冷めたくなつておしまひになつたのです。部屋の中には、何も平生と少しも変つたところがありませんでした。それにたつた一つお祖父さまの枕もとに吊されてあつたあの生きものの鸚鵡だけが、さうでせう、気がついて見ればその朝から、あんなに不吉なことを叫び始めたのです。それでその当座は、どうかしてあれを捨ててしまひたいとも思つて見たのでせうが、破れ靴でさへ捨て場に困るものを、まして生きてゐる鳥の捨て場所もないし、鳥の言葉が単純に、その意味の通り、お祖父さまの生涯を早めたとは、たとへ子供にだつて、素直にさうと信じらるべきことでもなし、その上あんなにお祖父さまは、永い年月の間あの鸚鵡を可愛がつてゐらつしやつたのだから、それは今になつて見れば、あのお祖父さまの思出の、生き残つてゐる唯一のものなんだし、それをこの家から失くすることは誰にも出来ないのでせう。
 ――さうです。それは事実と少しも違つて居りません。あなたの仰しやることは、私にとつても、この家族の誰にとつても、決して嬉しいことではありませんが、私は正直に答へませう。
 たとへこの会話が、私の想像の上であらうとも、私はもうここで、それを打切らなければならない礼儀を知つてゐる。
 事実はあまりに明瞭だ。夜明けに死んだジャンの父は、恐らくその生涯の半ばよりも永い間、誰にも秘密にした言葉を胸に抱いて、そのために不思議なほど無口な生涯を続けてゐたものであらう。そして幾度となく不眠の夜を過ごしたものに違ひない。実に、彼がこの世を去つた日の、その明方に到るまで、彼は予感の、それが最後の夜となりさうなあはれな恐怖に戦きながら、遥かに遠く過ぎ去つた昔の日の、制しがたかつた情熱の、激しい悔恨を繰り返してゐたのに違ひない。そして、その憂鬱の堆積の、一夜の疲労と入り混つて、僅かに慰められたやうに感じられたその明方に、もう窓硝子の白くなつてゐるのに気づかず、ふと彼は、追憶の壊れ落ちる胸から、祈りのやうに、吐息のやうに、心の忘れられない言葉を呟いたのである。すると枕もとから、まだ眠つてゐる筈のこの鸚鵡が、はつきりと、快活な夜明けの声で、その言葉を再び彼の耳に繰り返したのである。

 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 然り、今度は鳥の言葉が彼を殺した。そしてこの鳥はそれから後、彼女のかたく繋がれた運命の、もうすつかり錆びた金環の円周の中で、永くその言葉を叫び続けてゐる。私は日に幾度となく、この、嘗ては彼の悔恨であり、今はまた彼女の悔恨であるところの、さう思へば不思議に懐かしい言葉を聞くのである。

 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 この言葉は、しかしいつとなくそれを聞く私の心に深く滲み入り、日に日に私の記憶と入り混つて了つた。そしてやがてもう今では、嘗て昔の日に、私が人を殺したのだと、さう云つて、誰かが私の上に罪を露(あば)いたとしても、私は恐らくそれを否定しないであらう。今日も、私の無秩序な読書と、窓に咲き誇るダーリアの上で、鳥はその同じ言葉を繰り返してゐるのである。――君も私の部屋に来て、この鳥の言葉を聞くがいい。もし君にして、人を殺した記憶がなく、なほかつその遠い悔痕が欲しいなら。

 (「詩神」昭和4年12月)


  草 の 上

   ★

野原に出て坐つてゐると、
私はあなたを待つてゐる。
それはさうではないのだが、

たしかな約束でもしたやうに、
私はあなたを待つてゐる。
それはさうではないのだが、

野原に出て坐つてゐると、
私はあなたを待つてゐる。
さうして日影は移るのだが――

   ★

かなかなはどこで啼いてゐる?
林の中で、霧の中で

ダリアは私の腰に
向日葵(ひまはり)は肩の上に

お寺で鐘が鳴る。
乞食が通る。

かなかなはどこで啼いてゐる?
あちらの方で、こちらの方で。

   ★

池のほとりの黄昏(たそがれ)は
手ぶくろ白きひと時なり

草を藉(し)き
静かにもまた坐るべし

古き言葉をさぐれども
遠き心は知りがたし

我が身を惜しと思ふべく
人をかなしと言ふ勿れ

 (「詩と詩論」昭和3年9月)

   ★

鵞鳥は小径を走る。
彼女の影も小径を走る。

鵞鳥は芝生を走る。
彼女の影も芝生を走る。

白い鵞鳥と彼女の影と
走る走る――走る

ああ、鵞鳥は水に身を投げる!

 (「詩と詩論」昭和4年3月)


  僕 は

 さう、さうだ、笛の心は慰まない、如何なる歌の過剰にも、笛の心は慰まない、友よ、この笛を吹くな、この笛はもうならない。僕は、僕はもう疲れてしまつた、僕はもう、僕の歌を歌つてしまつた、この笛を吹くな、この笛はもうならない、――昨日の歌はどこへ行つたか? 追憶は帰つてこない! 春が来た、友よ、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

 昨日の歌はどこへ行つたか? 思出は帰つてこない! 昨日の恋はどこへ行つたか? やさしい少女は帰つてこない! 彼女はどこへ行つたか? 昨日の雲は帰つてこない! ああ、いづこの街の黄昏に、やさしい彼女の会話があるか、彼女の窓の黄昏に、いかなる会話の微笑があるか、僕は、僕はもう知らない、春が来た、友よ、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

 僕は今日、春浅い流れに沿つて、並樹の影を歩いたのだ、空は曇つてゐた、僕は、野景に、遠い畑や火見櫓(ひのみやぐら)を眺めたのだ、森の梢に鶫が光つて飛んでゐた。風に、高圧線が鳴つてゐた。それから、いろいろの悲しい憧憬れが、僕に、僕の頬に、少し泪(なみだ)を流したのだ、僕は、僕は疲れて帰つて来たのだ、僕はもう追憶の行衛を知らない、友よ、春が来た、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

 (「文藝レビュー」昭和4年5月、「詩と詩論」昭和4年12月)


  燕  
   「あそこの電線にあれ燕が
    ドレミハソラシドよ」

 ――毎日こんなにいいお天気だけれど、もうそろそろ私たちの出発も近づいた。午後の風は胸に冷めたいし、この頃の日ぐれの早さは、まるで空の遠くから切ない網を撒かれるやうだ。夕暮の林から蜩(ひぐらし)が、あの鋭い唱歌でかなかなかなかなと歌ふのを聞いてゐると、私は自分の居る場所が解らなくなつてなぜか泪(なみだ)が湧いてくる。
 ――それは毎年誰かの言ひだすことだ。風もなかつたのに、私は昨夜柿の実の落ちる音を聞いた。あんなに大きく見えた入道雲も、もうこの頃では日に日に小さくなつて、ちよつと山の上から覗いたかと思ふと、すぐまたどこかへ急いで消えてしまふ。
 ――私は昨夜稲妻を見ましたわ。稲妻を見たことがある? あれが風や野原をしらぬ間にこんなにつめたくするのでせう。これもそのとき見たのだけれど、夜でも空にはやはり雲があるのね。
 ――あんなちつちやな卵だつたのに、お前も大変もの知りになりましたね。
 ――さあみんな夜は早くから夢を見ないで深くお眠り、そして朝の楽しい心で、一日勇気を喪はずに風を切つて遊び廻らう。帰るのにまた旅は長いのだから。
 ――帰るといふのかしら、去年頃から、私はどうも解らなくなつてしまつた。幾度も海を渡つてゐるうちに、どちらの国で私が生れたのか、記憶がなくなつてしまつたから。
 ――どうか今年の海は、不意に空模様が変つて荒れたりなどしなければいいが。
 ――海つてどんなに大きいの、でも川の方が長いでせう?
 ――もし海の上で疲れてしまつたらどうすればいいのかしら。海は水ばかりなんでせう。そして空と同じやうに、どこにも休むところがないのでせう、横や前から強い風が吹いてきても。
 ――疲れてみんなからだんだん後に遅れて、ひとりぼつちになつてしまつたらどんなに悲しく淋しいだらうな。
 ――いや、心配しなくていいのだ。何も心配するには当らない。海をまだ知らないものは訳もなくそれを飛び越えてしまふのだ。その海がほんとに大きく思へるのは、それはまだお前たちではない。海の上でひとりぼつちになるのは、それはお前たちではないだらう……。けれども何も心配するには当らない。私たちは毎日こんなに楽しく暮してゐるのに、私たちの過ちからでなく起つてくることが、何でそんなに悲しいものか。今までも自然がさうすることは、さうなつてみれば、いつも予め怖れた心配とは随分様子の違つたものだつた。ああ、たとへ海の上でひとりぼつちになるにしても……。

 (「詩と詩論」昭和3年9月)


  鹿

 夕暮れ、狩の獲物が峠を下りてくる。猟師が五六人、犬が六七頭。――それらの列の下りてくる背(うし)ろの、いつとは知らない間にすつかり色の変つた空路(そらぢ)に、昼まから浮んでゐた白い月。
 冬といつても人眼にふれないどこかにちらりほらり椿の花の咲いてゐる、また畑の中に立つた夏蜜柑や朱欒(ざぼん)のその青い実のたわわに枝に憩(やす)んでゐる、この遠い街道に沿つた、村の郵便局の、壁にあるポストの金具を、ちよいと指さきに冷めたく思つたそのあとで、そこを出ると、私は私の前を通るさつきの獲物の、鹿の三頭に行き会つた。
 棒に縛られて舁がれてゆくこの高雅な山の幸(さち)は、まるで童話の中の不仕合せな王子のやうに慎ましく、痛ましい弾傷(たまきず)は見えなかつたけれど、いかめしい角のある首が変なところへ挟まつたまま、背中をまるくして、揺られながら、それは妙な形の胡坐(あぐら)を組んでゐる優しい獣の姿であつた。生気を喪(うしな)つて少しささくれた毛並は、まだしつとりと、あの山に隠れた森と谿間の、幽邃な、冷めたい影や空気に濡れてゐた。

 ――いよう獲れただね。
 ――いやすくなかつただ、たつた三つしきや。
 ――どうだらう今年は?
 ――ゐるにはゐるがね。今日はだいぶ逃がしちまつたよ。

 淋しい風が吹いてゐた。

 その夜、私はこの村に来てゐるあの女小説家のところへ遊びにいつた。メーテルリンクの「沈黙」は何だか怖ろしくて厭やですね、――そんなことを云ひながら、机の上の鏡台をのけて、私は彼女の眉を描(ひ)いた、注意深く。それから彼女は、この鏡台の抽出しから小さな品物をとり出して、これが夜の緑の白粉、これがデリカ・ブロウ、それこんなの、と蓋をとつて、それらの優しい絵具を私に教へた。そこでふと私も、夕暮れ見たあの何か心に残る、不仕合せな王子の街道を運ばれていつた話をした。

 ――あらほんと、鉄砲が欲しいわね。
 ――…………
 ――ね、鉄砲が欲しくない?
 ――ええ、さう……、鉄砲も欲しいですね。

 淋しい風が吹いてゐた。私は、何か不意に遠くにゐる人の許へ帰りたくなつた。

 (「詩と詩論」昭和4年3月)


  昼

 別離の心は反つて不思議に恋の逢瀬に似て、あわただしくほのかに苦がい。行くものはいそいそとして仮そめの勇気を整へ、とどまる者はせんなく煙草を燻ゆらせる束の間に、ふと何かその身の愚かさを知る。
 彼女を乗せた乗合馬車が、風景の遠くの方へ一直線に、彼女と彼女の小さな手携げ行李と、二つの風呂敷包みとを伴れてゆく。それの浅葱のカーテンにさらさらと木洩れ日が流れて滑り、その中を蹄鉄がかはるがはる鮎のやうに光る。ふつと、まるでみんなが、馭者も馬も、たよりない鳥のやうな運命に思はれる。さやうなら、さやうなら、彼女の部屋の水色の窓は、静かに残されて開いてゐる。
 河原に沿うて、並木のある畑の中の街道を、馬車はもう遠く山襞に隠れてしまつた。そして、それはもうすぐ、あのここからは見えない白い橋を、その橋板を朗らかに轟かせて、風の中を渡つて走るだらう。すべてが青く澄み渡つた正午だ。そして、私の前を白い矮鶏(ちやぼ)の一列が石垣にそつて歩いてゐる。ああ時間がこんなにはつきりと見える! 私は侘しくて、紅い林檎を買つた。

 (「詩と詩論」昭和4年3月)

(以上詩集『測量船』前半2/3=28編)


(テキスト底本は筑摩書房『三好達治全集 I』昭和39年10月刊を用い、歴史的仮名使いは生かして用字は略字体に改め、廃字の場合はやむなく同義文字で代用し、ルビを補いました。)

ルー・リード Lou Reed - Rock n Roll Animal & Lou Reed Live (RCA, 1974/1975)

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ルー・リード Lou Reed - Rock 'n Roll Animal & Lou Reed Live (RCA, 1974/1975) Full Album : https://youtu.be/1ny6P1EkNCc
Recorded live at Howard Stein's Academy of Music, NYC, December 21, 1973
Released by RCA Victor Records, as "Rock 'n Roll Animal"(APL-0472, February 1974) &"Lou Reed Live"(APL1-0959, March 1975)
All Songs written by Lou Reed
(Tracklist)
1. Intro/Sweet Jane - 7:46 (0:00)
2. How Do You Think It Feels - 3:41 (8:18)
3. Caroline Says I - 3:55 (12:03)
4. I'm Waiting For The Man - 3:38 (16:00)
5. Lady Day - 3:54 (20:00)
6. Heroin - 13:13 (23:44)
7. Vicious - 5:55 (36:38)
8. Satellite Of Love - 6:03 (42:37)
9. Walk On The Wild Side - 4:51 (48:32)
10. Oh, Jim - 10:40 (53:30)
11. Sad Song - 7:08 (1:04:09)
(Encore)
12. White Light/White Heat - 5:21 (1:11:40)
13. Rock N Roll - 9:33 (1:16:43)
[ Personnel ]
Lou Reed - vocals
Dick Wagner - guitar
Steve Hunter - guitar
Ray Colcord - keyboards
Prakash John - bass
Pentti "Whitey" Glan - drums

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 今回ご紹介するリンクはルー・リード(1942-2013)の2枚のライヴ・アルバムをひとつにまとめたもので、元のアルバムそのものが同一のコンサートの演奏曲を2枚に振り分けて発売されていたものでした。CD化されてボーナス・トラックが追加されコンサートの演奏曲全曲が揃った上に観客録音によるテープから演奏曲順が解明されたため、今では2枚のアルバムから演奏曲順に曲を並び替えて楽しめるようになった、というわけです。このコンサートの時点でヴェルヴェット・アンダーグラウンド脱退後のリードは3枚のアルバムを発表していました。『Lou Reed (邦題『ロックの幻想』)』1972.6、デイヴィッド・ボウイとミック・ロンソンのプロデュースによる『Transformer (『トランスフォーマー』)』1972.12(実際の発売は11月)、ボブ・エズリンのプロデュースによる『Berlin (『ベルリン』)』1973.7で、『トランスフォーマー』はヒット・アルバムになり1973年初頭にはシングル・カット曲「Walk On The Wild Side (「ワイルド・サイドを歩け」)」が全米トップ20ヒットを記録し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの再評価にもつながって、ルー・リード初のライヴ・アルバム『Rock 'n Roll Animal (『ロックン・ロール・アニマル』)』1974.2に続き1974年9月には2枚組LPの発掘ライヴ・アルバム『1969: The Velvet Underground Live with Lou Reed』が発売されます。その直前、1974年8月のスタジオ・アルバム第4作『Sally Can't Dance (『死の舞踏』)』は全米アルバム・チャート10位と、リード最大のヒット・アルバムになりました。続いてライヴ・アルバム第2弾『Lou Reed Live (『ルー・リード・ライヴ』)』1975.3がリリースされます。これは『ロックン・ロール・アニマル』が録音された1973年12月21日のニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックでのコンサートの残りの曲を集めたものでした。このコンサートではヴェルヴェット時代の代表曲5曲(1, 4, 6, 12, 13)と『トランスフォーマー』から3曲(7, 8, 9)、『ベルリン』から5曲(2, 3, 5, 10, 11)が演奏され、ちょうど1年前の『トランスフォーマー』のプロモーション・ツアーからのお蔵入りライヴ『American Poet』とは一変して風格のあるパフォーマンスを披露しています。『ロックン・ロール・アニマル』と『ルー・リード・ライヴ』ではどのように曲が振り分けられていたか、アルバムごとのデータを引いてみましょう。

(Original RCA Victor "Rock 'n Roll Animal" LP Liner Cover)

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Lou Reed - Rock 'n Roll Animal (RCA Victor, APL-0472, February 1974)
(Side One)
A1. Intro/Sweet Jane - (Steve Hunter, Reed) 7:55
A2. Heroin - 13:05
(CD Bonus Tracks)
Tk3. How Do You Think It Feels - 3:41
Tk4. Caroline Says I - 4:06
(Side Two)
B1. White Light/White Heat - 5:15
B2. Lady Day - 4:00
B3. Rock 'n' Roll - 10:15

(Original RCA Victor "Lou Reed Live" LP Liner Cover)

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Lou Reed - Lou Reed Live (RCA Victor, APL1-0959, March 1975)
(Side One)
A1. Vicious - 5:55
A2. Satellite of Love - 6:03
A3. Walk on the Wild Side - 4:51
(Side Two)
B1. I'm Waiting for the Man - 3:38
B2. Oh, Jim - 10:40
B3. Sad Song - 7:32

 1年前の『トランスフォーマー』ツアーのバックバンド、ザ・トッツが下手にもほどがあるへなちょこバンドだったのに較べ、本作のバンドは『ベルリン』の天才プロデューサー、ボブ・エズリン子飼いの凄腕セッションマンがアレンジ・演奏しているのでルー・リードのライヴ史上もっともプロフェッショナルなハード・ロック寄りのパフォーマンスになっています。このバックバンドのリーダーはギタリストのディック・ワグナーで元ジャズ・ロック・バンドのフロスト出身、ワグナーには元アンボイ・デュークスのグレッグ・アラマ(ベース)とのトリオ編成の名バンド、ユーサ・メジャーのアルバム『Ursa Major』RCA, 1972があり、これは偶然ですがキング・クリムゾンの『Lark's Tongues In Aspic (『太陽と戦慄』)』1973.3のサウンドをハード・ロック寄りに寄せたような、プログレッシヴ・ロック色の強いハード・ロックの隠れた名盤でした。ボブ・エズリンは丸投げプロデューサーとしても定評があり、アリス・クーパーの『Killer』'71.11、『School's Out』'72.5、『Billion Dollar Babies』'73.2は実際はディック・ワグナー・バンドによるレコーディング作品ですし、KISSの『Destroyer (『地獄の軍団』)』'76.3などはライヴ・アルバム『KISS-Alive (『地獄の狂獣』)』'75.9が大ヒットしてツアーに明けくれ力作は出したいがレコーディングの時間のないKISSがデモ・テープをエズリンに託し、エズリンがディック・ワグナー・バンドにアレンジさせ制作してポールとジーンが歌をかぶせたアルバムです(全曲がKISSのメンバーとエズリンの共作扱いになっているほどです)。また実質的にピンク・フロイドの『The Wall』'79.11もエズリンのプロデュースで、2枚組LPを制作するのに3枚分のデモ・テープを抱えて大混乱だったフロイドがエズリンを招いて2枚組LPにまとめ直させた作品でした。実は『ベルリン』もそうで、収録曲はヴェルヴェット時代にすでに半数近くが独立した曲として書かれて未発表デモ・テープが残されており、うち2曲は最初のソロ・アルバム『ロックの幻想』で正式録音され発表済みでした。しかし『ベルリン』の全10曲をアルバム全編で長編小説のような物語性のある構成に組み立て、それに相応しいアレンジをディック・ワグナー・バンドを中心としたメンバーで施したのはエズリンの手柄でした。この1973年12月のコンサートは『ベルリン』を中心にヴェルヴェット時代の代表曲とヒット・アルバム『トランスフォーマー』の代表曲を配した極上のセット・リストになっており、ルー・リードは時期ごとにバックバンドを総入れ替えして異なったサウンド傾向を試すタイプのアーティストでしたので、ディック・ワグナーとスティーヴ・ハンターの素晴らしいツイン・ギターのバンドでルー・リードが聴けるのは本作の時期だけです。前後して数枚、海賊盤でこのバンドのルー・リードの発掘ライヴ音源も出ていますが、RCAヴィクターからの正規盤『ロックン・ロール・アニマル』『ルー・リード・ライヴ』が演奏内容、正規盤ならではの優れた録音で決定版と言えるものになっています。つまり今回ご紹介した音源です。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとはまったく違うプロフェッショナルな音楽性のバンドですが、これもまたルー・リードのキャリアではもっとも優れたバンドの一つに数えられるでしょう。1年前のバックバンド、ザ・トッツはいったい何だったんだと苦笑してしまうほどです。

映画日記2017年10月30日・31日/ルイ・デリュック(Louis Delluc, 1890-1924)のたった4本(後)

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 Coffet Integral Louis Delluc PV : https://youtu.be/vkIUGEO-fgw (6:45)

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 ルイ・デリュックの監督作品7作のうちフィルムが失われて今日観ることができないのは、
『黒い煙』Fumee noire (1920年/第1作)
『沈黙』Le Silence (1920年/第2作)
『雷』Le Tonnerre (1921年/第5作)
 の3作で、プリントが現存するのは、
『エルノアへの道』Le Chemin d'Ernoa (1921年/第3作)
『狂熱』Fievre (1921年/第4作)
『さすらいの女』La Femme de nulle part (1922年/第6作)
『洪水』L'Inondation (1924年/第7作) 遺作(歿後公開)、マルセル・レルビエ監修
 の4作です。この4作は英題も定着しており、それぞれ『The Road To Ernoa』『Fever』『The Lady From Nowhere』『The Flood』となっています。原題と微妙にニュアンスが違いますが、映画本編を観るとこの英題の方が内容に即しているといえるでしょう。4作のうち『狂熱』のみ短編に短縮編集された版が過去に日本公開・VHSヴィデオ・リリースされましたが、短編映画は輸入規定では上映登録する必要がないためキネマ旬報の記録にもなく、公開年月日不明となっています。上記邦題は映画史の研究書類で仮に使われている題名ですが、原題では『エルノアへの道』は単に『エルノアの道』で、映画の結末で一旦村を出たヒロインが主人公と帰って行くシーンから採られていますから『The Road To Ernoa』『エルノアへの道』の方が丁寧な題名で、『Fievre』はヒロインの恋人だった船員が停泊先の中国で病に倒れて現地女性に看病され、その中国人女性と現地結婚してヒロインと別れることになる原因となった『Fever (熱病)』と現在ヒロインがおかみに治まっている港町マルセイユの酒場の熱狂を掛けた題名ですから英題の『Fever』はいいとしても、邦題の『狂熱』は酒場の喧騒ばかりを強調した意訳になります。『さすらいの女』は納まりはいい邦題ですが原題を直訳すると『行方のない女』は英題の『The Lady From Nowhere』の方が適切で、これになじむ日本語の表現がないので『さすらいの女』とアントニオーニの映画のような邦題になってしまいます。『洪水』は文字通りの河川の氾濫と映画の実質的な主人公と言える初老の父親の衝動的な激情を掛けてあると思われますが、これは『狂熱』=『高熱(または熱病)』と違って『洪水』で十分でしょう。現存4作品を観て、作品ごとに趣向は変わりますが共同脚本も含めて必ず脚本も手がけるデリュックの作風の一貫性と、共同カメラマンがつくことはありますが現存全作品に起用されたアルフォンス・ギボリーの撮影、デリュックの年上の夫人でもある全作品の主演女優エーヴ・フランシスの演技にはデリュックの映画のトーキー化以前の早逝が惜しまれるような、サイレント時代に限定されない可能性が確かにあると思われました。'20年代前半のフランス映画はフランス印象派映画と呼ばれることが多く、'20年代後半のフランス前衛映画に発展していくのですが、デリュックの作風は一気にそれを飛び越してルネ・クレールに始まり'30年代後半のジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネ、また一部の作品でのジャン・ルノワールやジャン・グレミヨンらのフランスの「詩的リアリズム」派の映画を予告するような作品になっています。翳を持つ女性を演じるフランシスの役柄、ギボリーの鮮明なロケーション撮影と室内撮影でも陰影を強調した、構図の決まった生々しい映像、台詞・説明字幕を最小限に切り詰めたデリュックの脚本(原作小説による『洪水』以外は原案も映画オリジナルです)のペシミスティックなテーマ性と登場人物の複雑な感情と関係を俳優に誇張させず抑えた演技で表現させる演出と明晰な構成力は、岡田晋氏の評言(前回参照)通り「デリュックは理論家であり組織者であり実践家であった。その病身は激務に耐えられなかったのだろうし、経済的にほとんど恵まれなかったという。だがデリュックは今日もなおフランス映画を語る時、必ず第一に出て来る名前である。イメージの美しさ、心理主義、日常的なリアリズム、これらフランス映画のスタイルは、いずれも彼の主張にほかならない」という評価の適切さを感じさせます。ルイ・フィヤード、アベル・ガンス、マルセル・レルビエらデリュックの出現以前の大家たちのドラマチックな虚構性に学びながらデリュックはもっと日常的なドラマに目を向け、プロットやストーリーよりも人物や景物を映し出す映像そのものに映画を語らしめることに意を払って、スペクタクルでもスリラーでもメロドラマでもない映画に初めて成功した映画作家のひとりでした。あまりに淡泊でスケールの小さく、ドラマチックな訴求力が稀薄な作風のためにデリュックの箇々の作品自体は古典として残らず、生前も歿後も観客を集めずほとんど観られていない映画作家ですが、その美点だけはフランス映画の源流として語り継がれるだけの価値がありました。現存作品4作とも短く、DVD版全集(前回紹介、上記リンク参照)では4作が2枚のDVDに収められていますが、2015年発売のこの画期的な全集もほとんど話題にならず観られていないでしょう。今後再評価があるかもわからないマイナー・ポエットの典型のような人ですが、『新学期・操行ゼロ』'33、『アタラント号』'34の夭逝の監督ジャン・ヴィゴ(1905-1934)の高い再評価(現在ではこの2作は映画史ベストテン投票に必ず上がる作品です)と較べると、敬遠されがちなサイレント時代の映画作家なのも損をしているとしか思えないのです。

●10月30日(月)
『さすらいの女』(フェリックス・ジュヴン・プロダクション'22/7/22)*67min, B/W, Silent with Sound : https://youtu.be/AuwqTjrIsVI (Extrait, 3:33)

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○あらすじ イタリアのジェノヴァ近郊に構えた別荘で過ごすフランス人家庭の若い妻(ジーン・アヴリル)、乳母(ノエーミ・シーズ)と一人息子の幼児(デニーズ)が昼食を済ませ、これからジェノヴァに急な所用を済ませに一晩泊まりに出かける一家の主人(ロジェ・カール)を見送ろうとしていると、昔この別荘にすんでいた、という旅の女(エーヴ・フランシス)が訪ねてくる。懐かしいので別荘を見せていただけませんか、という頼みを夫婦は快諾し、それならば泊まっていくように勧める。女は喜ぶが、年輩の主人が車で発ってすぐに若い妻が門の石段の下から手紙を見つけ出したのを窓から見て、自分が訪ねてくるのと入れ違いに石段に手紙を隠した若い男(アンドレ・ダヴェン)と若い妻の関係を察する。かつて自分自身も愛人(ミシェル・デュラン)と駆け落ちし、今や一人で放浪の身になった経緯が蘇り、女は妻に私のようになってはいけない、と説得しに行く。夕方、旅の女は近くの公園に出かけて思い出にふけり、若い妻は愛人と逢い引きして明朝の駆け落ちを迫られる。旅の女はその光景を目撃し、甘美な思い出に駆られる。一方ジェノヴァの酒場では仕事を終えた夫が喧騒に眉をひそめ、町の女の誘惑に遭うが撥ね退ける。……翌朝、旅の女は一転して、駆け落ちして愛に生きることを若い妻に勧める。若い妻は後押しされて待ち合わせに出かけようとするが、乳母に抱かれた幼児が母を追おうと腕からすり抜けて落ち、母親を大声で呼ぶ。若い妻は引き返して幼児を抱きしめ、ちょうど年輩の夫も帰ってくる。旅の女は窓から一家を見てこの夫婦の愛にも深く納得するが、ふとわれに返り自分には何もない、と痛切な思いがこみあげる。若い愛人は諦めて約束場所から車で去り、旅の女は再びスーツケースを下げて道を一人、歩き去って行く。

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 デリュックの現存作品4作の中では『狂熱』と並んでもっとも評価の高い作品。フランス語版ウィキペディアには4作とも個別に解説項目がありますが(うち『洪水』はデータのみ)、英語版ウィキペディアでは個別の項目で解説があるのは本作だけになります。デリュックの作品は実際にはほとんど観られていないので一部の映画史家による評価以外には目安となる評価がないという事情もありますが、キネマ旬報社刊の『フランス映画史』(昭和50年、岡田晋・田山力哉著)でもデリュックの優れた作品は『狂熱』と本作の2作とされており、この評価は昭和50年(1975年)の時点では仕方ないでしょう。当時『エルノアへの道』は現存する上映プリントがシネマテーク・フランセーズにしかなく、『洪水』は後述の理由で1979年までシネマテーク・フランセーズにすら欠損版しか所蔵されていなかったので上映されることもめったになかったと思われるからです。2015年のDVD全集の発売まで『狂熱』すら28分の短縮編集版でインタータイトルがすべて削除された版の方が広く流通しており、45分の(インタータイトルを含む)完全版はやはりめったに観ることができませんでした。『狂熱』がインタータイトルの効果的な使用に特徴がある作品ということも広く知られておらず、かえって無字幕サイレント映画として珍重されていたのです。本作を観ると文筆家としても十数冊の著書があり、小説も数冊書いているデリュックの脚本の巧みさがわかります。1922年の時点でこれほどの映画表現の達成を見せているのは注目されて良く、サイレント映画独特の音声を伴わない表現は、特に時間処理や場面転換の手法についてサイレント映画の観賞に慣れない観客には一見して何が語られているのか、なぜこういう話法が採られているのか、どういう効果をもたらしているのか直観的に理解できない箇所もあるかもしれません。『エルノアへの道』で多用されたアイリス・イン~アウト、完全版『狂熱』のインタータイトルの独自の手法などに顕著ですが、本作では『エルノアへの道』のアイリス使用、『狂熱』の特異なインタータイトル用法は踏襲せず、ストレートなカットつなぎで平行話法、多重視点、現在と過去との回想場面による対比を実行しています(1箇所だけオーヴァーラップ効果の使用があり、オーヴァーラップの多用はサイレント時代に頻繁だった手法ですからむしろ1箇所だけの使用というのが珍しいのです)。この作品はほとんどイタリアの別荘だけを舞台にしており、例外的に別荘近所の公園、夫(ロジェ・カール)が出張したジェノヴァの酒場のシーンがあり、これは若い妻の愛人(アンドレ・ダヴェン)との逢い引きと一人きりになった夫の対比であり、クライマックス前の伏線になっていて、同一の場所で過去と現在に二人のヒロインが同一シチュエーション(愛人との駆け落ち)に遭う、という本作の基本アイディアに収斂していきます。過去に駆け落ちして悲惨な末路をたどった女(エーヴ・フランシス)は放浪者となり、現在の若い妻(ジーン・アヴリル)は駆け落ちを思いとどまり放浪者の女を安堵させもし、自分自身のすべてを失った身の上を痛感させることにもなります。若い妻にとっても幼い息子と自分を愛する年輩の夫を一度は捨てようとしていたわけで、単純なハッピーエンドとは言えず、若い愛人とはこれが最後の機会だったのが暗示されています。若い妻に一度はおもいとどまるよう忠告した旅の女が、逢い引きの現場を目撃して一晩明けると若い妻に愛に身を任せて駆け落ちを勧めるのも一見唐突ですが、その時に旅の女には人生の絶頂だった駆け落ちの時の高揚と生命の充実感が蘇っていたわけで、しばしば挟まれる過去の愛人(ミシェル・デュラン)との睦みあいの回想が徐々に旅の女の心境を今、同じ決断をしようとしている若い妻に重ねていくのです。本作もアルフォンス・ギボリーの優れた撮影が共同カメラマンのジョルジェ・ルカとの分担とともに光り、実際の建物を撮したロケーション撮影が素晴らしいのは『エルノアへの道』からの連続性を感じさせ、また二人のヒロインが微妙なやり取りを通して徐々に同一化していく過程(この着想はベルイマンの『仮面/ペルソナ』'66を連想させます)を見事に決まった構図で表現しています。またフィヤード、ガンス、レルビエらとも異なるのは説明のためのインタータイトル(小説における地の文)をほとんど排し、簡潔な会話インタータイトル(ディアローグ)だけで進めていく構成法を採っており、これも解説的インタータイトル(ナラタージュ)で物語を進めるのが常套手段だったフランスの劇映画の大勢からすると画期的でした。地平線まで何もない一本道を旅装にスーツケースを下げてさまよい歩いていくフランシスの姿をとらえた映像が印象的です。港の酒場の数時間の出来事を描いた『狂熱』に応用されたフランス古典演劇の三一致法(時、場所、筋の統一)が本作では別荘の一昼夜に変奏されていますが、まったく違った印象を受けるのは同じ愛情生活の転機に遭遇した二人のヒロインのそれぞれの運命が正反対の選択に遭う、という同一モチーフの対比に比重を移していることでしょう。情感の豊さを認めた上であまりに理詰めな構成という無い物ねだりな感想を抱かせられるきらいもないではありませんが、本作をしてもデリュックがアベル・ガンス、マルセル・レルビエのようなサイレント期フランス映画の巨匠の陰に隠れていたのはガンスの『戦争と平和』'19、『鉄路の白薔薇』'23、『ナポレオン』'27やレルビエの『エル・ドラドオ』'21、『人でなしの女』'23、『生けるパスカル』'25、『金』'28のような途方もない大規模な映画的フィクションの想像力のインパクトには叶わず(デリュック自身はガンスとレルビエに心酔して尊敬していました。『エル・ドラドオ』は主演女優エーヴ・フランシスの出世作でもあります)、当時にあってはデリュックの作風はフランス映画の主流ではなく、むしろシェーストレムやドライヤーらのスウェーデン、デンマーク映画、ドイツ映画の心理主義的傾向を、アメリカ映画のホームドラマ、恋愛映画や人情劇の簡潔な表現手法をフィルターにしてデリュック自身のセンスによって生み出されたものでした。そうしたデリュックの作風が、作品の直接影響ではなくても映画のトーキー化も定着し成熟した'30年代後半以降のフランス映画の主流につながるものだったのは皮肉な気がします。

●10月31日(火)
『洪水』(シネグラフィック'24/5/9)*88min, B/W, Silent with Sound : https://youtu.be/FilZCSvTQj8 (Extrait, 5:08)

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○あらすじ プロヴァンス地方の、とりわけ川幅が広いローヌ川沿いのある村では、村じゅうに昼となく夜となく川の流れが響いている。農場主の青年アルバン(フィリッペ・エリアト)は恋人の気丈な美人マルゴ(ジネット・マデュー)と結婚する準備をしていた。一方、村役場の冴えない初老の小間使いブローク(エドモン・ヴァン・ダエル)は、まだ幼い頃に別れた妻が連れて行った娘で、身寄りを亡くして都会から父を頼りに訪ねてきたジェルメーヌ(エーヴ・フランシス)と再会する。病弱で生活に疲れたジェルメーヌは父のもとに身を寄せても打ちひしがれていたが、アルバンに出会って恋に落ち、村に来て初めて生気を取り戻す。アルバンとジェルメーヌの噂はすぐに村中に広がり、ブロークは娘の恋の成就を願うが、アルバンはマルゴに弁明しようとして街中で手酷く嘲笑され、婚約破棄を宣告される。アルバンへの恋に希望を失くしたジェルメーヌは再び病の床に伏せ、看病するブロークは絶望に沈む。その夜、川の洪水が突然村を襲ってマルゴが行方不明になり、やがて遺体が川から引き揚げられる。マルゴの母(クレール・プレーリア)は娘は殺されたと主張し、アルバンが殺した噂が村に広がる。ジェルメーヌは父から洪水の晩にマルゴが一人で土手の高台を歩いているのを見たと聞いて安心し、村長に報告してと頼む。ブロークは村長に報告するが、アルバンの仕業だろと軽くあしらわれる。証拠はないので事故か自殺か殺人かも判明せず、犯人は誰も上げられない。ジェルメーヌは再び父に問い、ブロークは確かにマルゴが洪水の晩に歩いているのを見た、だが一人ではなかった、と打ち明ける。誰なの、と尋ねるジェルメーヌに、ブロークは自分の胸を指さす。土手の高台で洪水の様子を見ていたマルゴをブロークが背後から突き落としたのだった。アルバンがジェルメーヌの見舞いに訪ねてくる。ブロークは家の戸口に立ち、通りかかった警官に洪水の晩のマルゴの目撃証言をしたいと申し出て、警官に添われて去って行く。ジェルメーヌはアルバンに事情を話し、アルバンは二人であの人を助けようとジェルメーヌに約束する。

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 本作は現存作品でもデリュック作品中もっとも復原の遅れた遺作で、1961年にシネマテーク・フランセーズに収められた時には3巻目のリールが欠落していましたが、長年の調査の結果1979年に欠落部分を含む全長版が16mmフィルムで発見され、欠落部分を35mmにデュープして完全版が復原された経緯があります。つまり1979年以前に書かれた映画史書の著者は封切り当時観たのでなければ巻頭20数分目~約12分間が欠落したプリントしか観ることができなかったということです。本作はアンドレ・コルティス(1882-1952)の原作小説を脚色した、デリュックの現存作品4作中で唯一の原作ものでもあり、アルフォンス・ギボリー単独撮影によるデリュック唯一の現存作品です。『エルノアへの道』『狂熱』『さすらいの女』はギボリーともう一名のカメラマンの分担撮影でした。一人で映画全編を任されて、ギボリーはデリュック作品でも最高の撮影をしています。カメラマンは技術的センスから映画を学んでいるのか、当時最新で最高の撮影技法を誇ったスカンジナヴィア映画のロー・キーのトーンやドイツ映画の特殊な室内照明に感化されて、直接それらからの模倣ではない独自の統一感と多彩な要素の対比がある映像を実現しました。また本作は過酷な冬のローヌ川でのロケーション撮影がたたって撮影完了後、デリュックを肺炎で早逝させる原因になった作品です。フィルムはマルセル・レルビエの監修のもと、スタッフによって完成作品に編集されました。88分というデリュック作品最長の長さになったのはそういう事情もあるでしょう。インタータイトルは原稿が脚本に完成していたでしょうが、厳密なモンタージュは監督自身がフィルム編集者の仕上げた作業をチェックするもので、本作は主に前半が冗長な印象は拭えません。デリュック自身が完成作品の編集にまで立ち会ったら何割か短く凝縮したモンタージュに改められていたのではないか、と思われる、おそらく決定保留で数パターンが撮られたであろう似たようなカットが散見されますが、スタッフもレルビエも故人の撮ったカットをなるべく棄てたくなかったのでしょう。本作の主人公は表向き農園主の青年アルバン(フィリッペ・エリアト)ですし、キャストの序列ではジェルメーヌ役のエーヴ・フランシスが主演女優で、アルバンの恋人マルゴ(ジネット・マデュー)は順位からは助演ですが、本作の真の主人公は村役場の冴えない小間使い役で、若い頃に娘ジェルメーヌを連れて妻に家出されて20数年経つ初老の独身者ブロークでしょう。ブローク役のエドモン・ヴァン・ダエルは『狂熱』ではエーヴ・フランシスの酒場のおかみの元恋人だった船員役で、前回は元恋人、今回は父娘と序盤では心配になりますが長い間男やもめ同然の生活をしてきた初老の男の哀感をよく感じさせる名演で、このヴァン・ダエルの名演が映画をデリュック作品中もっとも重厚で線の太い、筋の通った作品にしています。現代でもそうですが、老人を主人公にした映画は企画が通りづらく、映画そのものが若かったサイレント時代にはなおのことです。やはりホテルの老ドアボーイが解雇を宣告されて絶望しつつ最後の勤務日を送る無字幕映画の画期的作品『最後の人』'24(ドイツ、F・W・ムルナウ)を連想しますが、公開時期から考えてもデリュック歿後ですし、ムルナウはすでに国際的大監督でしたから企画を耳にしていた可能性はあるにせよ『洪水』との関連はない、と考えるのが妥当でしょう。アルバンとマルゴの恋は本筋からはほんの序章で、これは実際に村の協賛があって撮影されたそうですから恋人たちをダシにした村の観光案内的シークエンスが冒頭かなり長く続きます。デリュックが編集していたらもっと刈り込んでいただろうと思われるシークエンスです。村役場で役立たず扱いされているブロークの様子、またブロークとマルゴの街角での立ち話なども序章部分で描かれます。映画がようやく動き始めるのは、前作『さすらいの女』からそのままやってきたような放浪者の女ジェルメーヌが列車から降りて父の家を探し始めてからです。病弱な上に空腹と疲労でジェルメーヌは足取りも危うく村をさまよいます。偶然通りかかって助けたのがブローク、という偶然はこの際良しとしましょう。ブロークが覚えているのはまだ3歳くらいの幼女だったジェルメーヌですが、幼い娘を抱いて遊び相手になった頃の幸福感がブロークの胸に蘇ります。その後の顛末はあらすじにまとめた通りですが、マルゴが洪水の晩に行方不明になり溺死体が引き揚げられるのは映画の1時間過ぎで、後半25分あまりは村に広がる猜疑心とブロークとジュルメーヌの父娘の沈み込んだやり取りになります。マルゴの死も気の毒ですが、ジェルメーヌの気がかりは本当にアルバンが殺したのではないのか(直前に街中でアルバンを手酷く嘲笑し、婚約破棄を宣告するマルゴを村の人々の多くが目撃しています)、もしアルバンがマルゴを手にかけたならアルバンへの恋心を打ち明けた自分にも責任があるのではないか、ということです。ブロークはジェルメーヌをなだめるとともに深く沈みこみますが、この父娘のシークエンスも予備テイクも撮影されて内容が重複しているのか、重要な場面ですが冒頭ほどではないにせよやや冗漫で、デリュックが完成させていたらやはりもっと刈り込んだだろうと思われます。村長を訪ねて自殺か事故につながるマルゴの目撃証言をするブロークを、どうせアルバンの仕業だろと一蹴して夕食の続きに戻る村長も大らかですが(証拠がない以上疑うは罰せず、という村民代表の意見を村長に代表させたわけです)、ついに村人たちのアルバンへの疑惑に耐えかねてジェルメーヌに自分の衝動的犯行をブロークが告白するシークエンスは固定ショットで父娘が座り、フラッシュバックで犯行の状景が挿入されるきりですがスリリングです。アルバンがジェルメーヌを見舞いに来るのと通りかかった警官に証言がある、と申し出て警官とともに去っていくブローク、ジェルメーヌのかいつまんだ説明に(こういう箇所には台詞インタータイトルは入らず、訴えかける仕草の映像だけで観客に理解させています)アルバンが「二人であの人を助けよう」(台詞インタータイトル)そして寄り添うアルバンとジェルメーヌの姿で終わる終盤の流れは流麗で、撮影台本で編集プランまで指定されていたのでしょう。本作は不運なフィルムの運命(それでも完全に失われた3作よりはましですが)も重なり、デリュックが編集まで完成させていたらと惜しまれる内容で、歿後編集のためおそらく撮影テイクをなるべく多く生かそうとしたのでしょう。デリュック自身が手がければ2割前後は圧縮された作品になっていたと思われ、それだけが瑕瑾になっていますが監督急逝の事情であれば仕方ないでしょう。もっと以前から完全版プリントが復原されていたら、『狂熱』『さすらいの女』よりも高く評価されていてもおかしくない作品です。

Sun Ra - My Brother the Wind, Intergalaxtic Series II (Saturn, 1970)

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Sun Ra and His Astro-Solar Infinity Arkestra - My Brother the Wind, Intergalaxtic Series II (Saturn, 1970) Full Album : http://www.youtube.com/playlist?list=PL2n1428fctHxWTobJ1jN4TwDqlUrF_feH
Recorded at Sun Studios, New York (the Arkestra's commune) between 1969 and 1970
Released by El Saturn Records Saturn Research ESR521, 1970
All Compositions and Arrangements by Sun Ra
(Side A)
A1. My Brother The Wind - 2:38
A2. Intergalactic II - 8: 41
A3. To Nature's God - 4:37
(Side B)
B1. The Code Of Interdependence - 16:16
[ Sun Ra and His Astro-Solar Infinity Arkestra ]
Sun Ra - two Moog synthesizers
Marshall Allen - oboe, piccolo flute, flute, percussion
Danny Davis - alto saxophone, clarinet, percussion
John Gilmore - tenor saxophone, percussion, drums
T.S. Mims - Producer

 前回まででサン・ラの「シカゴ時代1956-61」のアルバム13枚、また「ニューヨーク進出期・1961-1969」のアルバム21枚をご紹介してきました。間髪入れずに続きをやっていこうと思います。1970年を境にサン・ラのアルバムはヨーロッパのレーベルからの作品が急増する上に、ライヴ・アルバムも盛んに制作されるようになります。*はサン・ラの生前発表のスタジオ・アルバム、**は生前発表のライヴ・アルバムで、***/*は歿後発掘発売のスタジオ・アルバム、***/**は歿後発掘発売のライヴ・アルバムになります。この時期は4人編成アーケストラの『My Brother the Wind』から始まりますがすぐにバンドは過去最大の編成に増員し、祝祭的なステージが評判を呼んで主にヨーロッパ諸国のジャズ・フェスティヴァルでメイン・アクトに昇格してゆき、1976年のスタジオ盤『Cosmos』とライヴ盤『Live at Montreux』で頂点を極めたというべきバンドの上り坂を記録しており、1977年にはサン・ラは一旦ソロ・ピアノ作品と小編成アーケストラに回帰します。1956年~1969年のアルバムは35枚あまりのほぼ全作品のリンクが引けましたが、この時期からはリンクが引けないアルバム(特に発掘アルバム)も増えてくるでしょう。足かけ7年で48作を数えますが*をつけたのががサン・ラの生前発表作で26作(2枚1セット含む)、歿後発掘作品が22作(大半は2枚組)になります。

[ Sun Ra & His Arkestra 1970-1976 Album Discography ]
*(1)1969-70; My Brother the Wind (released.1974/rec.1970)*
*(2)1970; The Night of the Purple Moon (released.1970/rec.1970)*
*(3)1970; My Brother the Wind Volume II (Otherness) (released.1971/rec.1969-1970)*
*(4)1969-70; Space Probe (aka A Tonal View of Times Tomorrow, Vol.1) (released.1974/rec.1993-1970) Various Sessions*
*(5)1962-70; The Invisible Shield (aka Janus, A Tonal View of Times Tomorrow, Vol. 2, Satellites are Outerspace) (released.1974/rec.1962-1970) Various Sessions*
*(6)1961-70; Out There A Minute (released.1974/rec.1969-1970) Various Sessions*
*(7)1971; Solar Myth Approach Vols 1+2 (released.1974/rec.1969-1970)*
(8)1970; Nuits de la Fondation Maeght, Volume I & II (released.1974/rec.1969-1970)**
*(9)1970; It's After the End of the World (released.1971/rec.1970)**
(10)1970; Black Myth/Out in Space (Complete '"It's After the End of the Worlds" Sessions, released.1998/rec.1970)***/**
*(11)1970; Live In London 1970 (released 1990/rec.1970)**/**
(12)1971; The Creator of The Universe(The Lost Reel Collection Vol.1) (released 2007/rec.1971)***/**
*(13)1971; Universe In Blue (released 1972/rec.1971)**
(14)1971; The Paris Tapes - Live at Le Theatre Du Chatlet 1971 I (released.2010/rec.1971)***/**
(15)1971; Intergalactic Research (The Lost Reel Collection Vol.2) (released 2007/rec.1971&1972)***/**
(16)1971; Calling Planet Earth (released 1998/rec.1971)***/**
*(17)1971; Nidhamu (released.Middle 1972/rec.1971)**
*(18)1971; Live in Egypt 1 (released Middle 70's/rec.1971)**
*(19)1971; Horizon (released Middle 70's/rec.1971)**
(20)1972; Space Is the Place (soundtrack) (released 1993/rec.1972)***/*
(21)1972; The Shadows Took Shape (The Lost Reel Collection Vol.3) (released 2007/rec.1972)***/**
*(22)1972; Astro Black (released 1973/rec.1972)*
(23)1972; Live At Slug's Saloon (released 2008/rec.1972)***/**
(24)1972; The Universe Sent Me (The Lost Reel Collection Vol.5) (released 2007/rec.1972&1973)***/**
*(25)1972; Discipline 27 (released 1972/rec. 1972)*
(26)1972; Life Is Splendid (released 1999/rec.1972)***/**
*(27)1972; Space is the Place (released 1973/rec.1973)*
(28)1973; Crystal Spears (released 2000/rec. 1973)***/*
(29)1973; Cymbals (released 2000/Rec.1973)***/*
*(30)1973; Deep Purple (released 1973/rec.1953-1973)*
*(31)1973; Pathways to Unknown Worlds (released.1975/rec.1973)*
(32)1973; Friendly Love (released.2000/rec.1973)***/*
(33)1973; What Planet Is This? (released.2006/rec.1973)***/**
*(34)1973; Outer Space Employment Agency (released 1973/Rec.1973)**
(35)1973; Live in Paris at the "Gibus" (released.2003/rec.1973)***/**
(36)1973; The Road To Destiny (The Lost Reel Collection Vol.6) (released 2010/rec.1973)***/**
(37)1973; Concert for the Comet Kohoutek (released.1993/rec.1973)***/**
(38)1973; Planets Of Life Or Death: Amiens '73 (released.2003/rec.1973)***/**
*(39)1974; Out Beyond the Kingdom Of (released.1974/rec.1974)**
*(40)1974; The Antique Blacks (released.1974/rec.1974)*
(41)1974; It Is Forbidden (released 2001/rec.1974)***/**
*(42)1974; Sub Underground (released 1974/rec.1974)**
(43)1974; Dance of The Living Image (The Lost Reel Collection Vol.4) (released 2007/rec.1974)***/**
(44)1974; United World In Outer Space-Live In Cleveland (released 2009/rec.1975)***/**
*(45)1975; What's New? (released 1975/rec.1975)**
*(46)1976; Cosmos (released.1976/rec.1976)*
*(47)1976; Live at Montreux (released.1976/rec.1976)**
*(48)1976; A Quiet Place in the Universe (Released.1976/Rec.1976&1977)**

(Original Saturn "My Brother the Wind" LP Liner Cover and Side A Label)

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 サン・ラ70年代作品群の第1弾と言える『My Brother the Wind』はサン・ラらしくややこしい成立事情を持った作品で、アルバムのきっかけはサン・ラが1969年にミニ・ムーグ・シンセサイザーのモニターとして試作機2台を入手したことから始まります。まず14人編成に増員されたアーケストラ作品として1969年に制作が始まったムーグ入りアルバムが先行し、1970年にA面7曲・B面4曲の小品集(うち2曲は新加入の女性ヴォーカリスト、ジューン・タイソンのフューチャリング・ナンバー)として完成されましたが、1970年に14人編成アーケストラ作品より後から着手し早く完成したムーグ入り4人編成アーケストラ作品が『My Brother the Wind』で、14人編成作品は『My Brother the Wind, Volume II』として1971年に発売、A面3曲・B面1曲の4人編成作品は『My Brother the Wind』(または『My Brother the Wind, Volume I』)として1974年に発売されました。初めてのムーグ・シンセサイザー使用作品といっても曲ごとにコンパクトなアイディアでまとめた14人編成アーケストラの小品集『Volume II』と、これまでには『Atlantis』A面が唯一匹敵するくらい小編成アーケストラで通常サイズの構成(A面3曲・B面1曲)に挑んだ『Volume I』ではムーグ・シンセサイザーの使用以外にコンセプトの共通性はありません。
 この『My Brother the Wind, Volume I』は4人編成といっても尋常な楽器編成ではなく、サン・ラのツイン・ムーグの他は専任ドラム奏者がおらず主にテナー奏者のジョン・ギルモアがドラムスを担当しており、アルト奏者のマーシャル・アレンとダニー・デイヴィスがギルモア同様サックスのソロ・スペースなしにオーボエやピッコロ、フルート、クラリネットで効果音的に絡みながら定型リズムを叩かないパーカッションを添える程度であり、ギルモアのドラムスにも定型ビートはありません。14人編成の『Volume II』ではドラムスとパーカッション6人にベース入りとリズム・セクションは非常に分厚くなっており、むしろアーケストラの従来路線の順当な発展はそちらにありますが、『Volume I』は『Atlantis』に続いてベーシスト不在のアルバムである点でも『Atlantis』をさらに、モーグ・シンセサイザーを最大限にノイズ発生装置として生かしながら最小編成で進展させたものと言えます。通常ベーシストかドラマーには優秀な専任プレイヤーを確保しないと推進力や表現力に支障をきたしはしないかとこの小編成では不安になるところですが、サン・ラとしてはコンセプトを理解しているメンバーと一気に作ったアルバムなのでしょう。先に制作を始めていた14人編成作品より早く仕上がったのもうなずけます。

(Alternate Saturn "My Brother the Wind" LP Front Cover and Side A Label)

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 先に「ギルモアのドラムスにも定型ビートはありません」と書いたのは正確な表現ではなく、A1の始まりなどを聴くと一応ギルモアは4ビートを叩いてはいます。ところがサン・ラがドラムスのビートに合わせないからか、ギルモア自身がビートをキープできないのか、1分も経たないうちに定型ビートが消滅してしまいます。マーシャル・アレンとダニー・デイヴィスによる合奏がドラムレスでピック・アップされた後で戻ってくるギルモアのポリリズム・ドラミングがまた問題で、フリー・ジャズのポリリズムにも音楽的なアンサンブルの巧拙が問われますが、早い話ここまで曲になっていないのは珍しい。サン・ラのアルバムはポスト・バップからフリー・ジャズ、アヴァンギャルド・ジャズまでアルバムごとにさまざまに分類されますが、『My Brother the Wind』はフリー・インプロヴィゼーション作品と分類される場合が多いのは楽曲があらかじめ用意されていない演奏の観が強いからでしょう。それでもA2、A3はテンポ・ルバートから始まって次第に定速ビートが形成されていきますが、ドラムスがビートを先導していないのでムーグ・シンセサイザーのフニャフニャ鳴っている音が定型ビートと関わりなく響いています。
 A面を聴いて気づくのはアレンとデイヴィスの出番がほとんどないことで、どうもサン・ラがムーグ・シンセサイザーの出力調整をしている間のつなぎ役が主な役割のようです。看板テナーのギルモアはドラムスで遊んでいるし、これでB面全1曲16分が持つかなと思うと、これはアルバムのハイライト曲で、サン・ラがこのアルバムでムーグ・シンセサイザーでやりたかったことが十分にかなった曲でしょう。ムーグのうち1台はさらにパーカッシヴな音色にしたクラヴィネット風にセッティングして細かいフレーズやアルペジオはこちらで刻み、もう1台はミストーンぎりぎりにかすれきった口笛のような管楽器的音色にして、虚無的なテーマ・メロディは口笛ムーグで鳴らしています。中盤までで楽曲のムードをつかんだアレン、デイヴィスのソロも力強く、ドラムスから離れて鮮やかな無伴奏テナーソロを決めた後のギルモアのドラムスも自信に満ちてバンドを引っ張っています。結局B面だけかあ、と続けざまにA面から聴き返すと、B面で実を結んだアイディアがA面各曲では断片的に試みられているのがようやくわかってくるのもこの作品の憎いところですが、アルバム自体はサン・ラの諸作でも怪作の部類にとどまるかもしれません。

映画日記2017年11月1日~3日/ラオール・ウォルシュ(Raoul Walsh, 1887-1980)の活劇映画(1)

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 ラオール・ウォルシュ(Raoul Walsh, 1887-1980)はアメリカ映画のハリウッド創設以前、1910年にエディスン映画社から独立した映画創始期の名門、バイオグラフ社に入社して映画界入りした人で、バイオグラフの看板監督D・W・グリフィス(1875-1948)の下で助監督・俳優として修業時代を過ごしました。グリフィスが独立制作してアメリカ映画史上画期的な長編映画になった『国民の創生』'15、『イントレランス』'16でも助監督・俳優を勤めましたが、『国民の創生』と同年末には初の長編映画『リゼネレーション(更生)』を世に送っています(短編映画の監督作品は1913年からあり)。同時期にグリフィス門下生だったエーリヒ・フォン・シュトロハイム(1885-1957)の監督デビューが1919年ですからウォルシュの方が先輩になります。シュトロハイムが1919年~1929年に8本の監督作品を残したきり映画監督としてのキャリアを断たれ俳優専業に転向せざるを得なかったのに較べ、ウォルシュは1913年の監督デビューから引退作品になった1964年の『遠い喇叭』までの50年間で、生涯の監督作品が138本に及ぶ多作家になりました。同時代でウォルシュと並ぶほど映画創始期からの長いキャリアと監督作品数を誇る監督はセシル・B・デミル、ヘンリー・キング、ジョン・フォード、キング・ヴィダーくらいしか見当たらず、またアラン・ドワンという人もいますが、ウォルシュの場合はサイレント初期から引退作品に至るまで映画の青春時代を生きていたような、若々しさを保ち続けた映画監督でした。その一面、娯楽映画の監督で一貫していたため一流であり巨匠であっても職人監督以外の視点からは評価されない時代が長かった人でもあります。早くからウォルシュの作風と個性に着目し、ウォルシュ作品の素晴らしさを賞賛していたのが淀川長治氏であり、ハワード・ホークスと並んで評価が進んだのはようやく'70年代になってからのことでしたがまだ市販映像ソフトの時代ではなく、VHSヴィデオ~DVDの普及によってやっと数多くのウォルシュ作品が観られるようになったと言っていいでしょう。つい30年前まではラオール・ウォルシュの映画が観られるのはたまにあるテレビ放映か、スクリーン上映では国立フィルムセンターのアメリカ古典映画特集、アテネ・フランセのような語学学校しかなかったのです。ウォルシュの映画は2017年現在『バグダッドの盗賊』'24(1996年度登録)、『リゼネレーション』'15(2000年度登録)、『白熱』'48(2003年度登録)、『ビッグ・トレイル』'30(2006年度登録)の4作がアメリカ国立フィルム登録簿登録作品になっており、ジョン・フォードやハワード・ホークスに較べれば少ないですが4作登録でも大したものですし、ウォルシュ作品からは今後も『栄光』'26、『港の女』'28、『藪睨みの世界』'29、『金髪乱れて』'32、『バワリー』'33、『アメリカの恐怖』'36、『画家とモデル』'37、『セント・ルイス・ブルース』'39、『彼奴は顔役だ!』'39、『ハイ・シェラ』'41、『壮烈第七騎兵隊』'41、『いちごブロンド』'41、『大雷雨』'41、『決死のビルマ戦線』'45、『傷だらけの勝利』'45、『追跡』'47、『高原児』'47、『死の谷』'49、『遠い太鼓』'51、『艦長ホレーショ』'51、『海賊黒ひげ』'52、『決斗!一対三』'53、『裸者と死者』'58辺りから3、4作は入るのではないかと思います。『栄光』'26、『彼奴は顔役だ!』'39、『ハイ・シェラ』'41、『壮烈第七騎兵隊』'41、『いちごブロンド』'41、『大雷雨』'41、『死の谷』'49あたりに絞られるでしょうか。すごいぞ'41年のウォルシュ。しかし上記の作品は同等の水準で優れておりフォードやホークスの傑作群に劣らず、『リゼネレーション』『バグダッドの盗賊』『ビッグ・トレイル』はメルクマール的な価値から国定保存作品に指定されたという感じもします。無数の作品の中から『白熱』が選ばれたのはウォルシュ作品中もっともエキセントリックな映画だからでしょう。ウォルシュの映画は長編作品だけでも120本あまりに及びますから今回観る24作など1/6強という程度で、これまで観たウォルシュ作品も50本弱しかありませんが、先月ホークス作品27作観て満腹な状態ではウォルシュの映画は案外さらりと観られるのではないかと思います。映像ソフトを持っていないので今回は観直せなかった作品にも名作佳作がぞろぞろあるので、老後に入った今では少しずつ集めて観るのが楽しみです。

●11月1日(水)
『リゼネレーション(更生)』(The) Regeneration (フォックス'15)*72min, B/W with Color Tinted, Silent; 日本未公開/アメリカ国立フィルム登録簿登録作品(2000年度)

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○あらすじ ニューヨークの下町バワリー、10歳で母を亡くしたオーウェン(ジョン・マッキャン)は粗野な隣人コンウェイ夫婦の小僧に引き取られ横暴なコンウェイ夫人(マギー・ウェストン)、飲んだくれのコンウェイ(ジェームズ・A・マーカス)に虐待されこき使われる。ついにコンウェイ家を飛び出したオーウェン(ハリー・マッコイ)は17歳の時日雇いの工事現場で売られた喧嘩を買い一瞬で叩きのめし、ギャングの子分にスカウトされる。25歳のオーウェン(ロックリッフェ・フェローズ)はギャングの中でも一目置かれる存在になっていた。一方、バワリーでギャングと地域住民の折衝役を勤める地区担当弁護士エイムス(カール・ハーバウ)は病弱な娘マリー・「マミー・ローズ」ディーリング(アンナ・Q・ニルソン)を気にかけて事務員にしていたが、マミー・ローズの病状は思わしくなかった。オーウェンや仲間のスキニー(ウィリアム・シアー)たちギャングは週末に市民が集うフェリーの船上パーティー場にくり出すが老朽客船はパーティー中に全焼する。エイムスはオーウェンと知己を得てオーウェン自身は正義感を持つ真面目な青年であると気づき、ギャングの末端たちが市民を恐喝しようとする事件の仲裁を顔の利くオーウェンに頼むようになる。マミー・ローズは喜び、オーウェンも満足を感じて自分がギャングであることになじめなくなり、エイムスの事務所に職を請いマミー・ローズと席を並べることになる。だが親友のスキニーたちが路上で警官の不審尋問にあって傷害を負わせ、エイムスとマミー・ローズの留守中に頼ってきたスキニーたちをオーウェンは事務所に匿わざるを得なくなる。立ち寄った警官が去るや否や事務所の戸棚から出て行ったスキニーたちにちょうど帰ってきたエイムスは激怒し、君は最後のチャンスをふいにした、私とマミー・ローズの信頼を踏みにじった、とオーウェンをクビにする。一方、街のギャングは二手に分かれて勢力争いを始め、オーウェンを心配してアパートに立ち寄ったマミー・ローズも襲われる。警官隊の出動で大規模逮捕の大乱闘があり、オーウェンもマミー・ローズの危機一髪に駆けつける。マミー・ローズを襲った敵派閥のギャングを退けてオーウェンはマミー・ローズを事務所に運ぶが、マミー・ローズは力尽きて死亡する。オーウェンはギャングのアジトに向かうがそこでエイムスが荷物をまとめ逃亡しようとしているのに出くわしエイムスが裏ではギャングと通じていたことに気づき、窓から電線づたいに逃げるエイムスを射撃し、エイムスは転落死する。オーウェンは更正を誓ってマミー・ローズの墓に花束を捧げる。

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 ウォルシュがサイレント時代からの監督とは知っていましたが、初長編作品が1915年とは恐れ入りました。ジョージ・ローン・タッカーの初長編『暗黒街の大掃蕩』が1913年、セシル・B・デミルの初長編『スコウ・マン』が1914年、グリフィスの初長編『アッシリアの遠征(ベッスリアの女王)』が1914年で、二部構成の大作長編『国民の創生』でグリフィスがアメリカ映画の長編時代を決定づけたのが1915年。ちなみに助監督だけでなく、『国民の創生』で劇場でリンカーンを暗殺しオペラ劇場の二階桟敷から舞台に飛び降りて逃走する実在の暗殺犯ジョン・ウィルクス・ブースを演じたのもラオール・ウォルシュです。本作は2001年になって初の映像ソフト化(DVD発売)されてからやっと観た、というか実は存在も知らなかったので、アメリカ本国でも散佚作品と思われていたのが'70年代後半に突如プリントが発見された幻の作品だったため評価されたのもごく近年のことですが、映画創始期の記念碑的な作品として2000年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録されました。本作は意外にも原作もので、ジャーナリスト出身の今日では忘れられた作家オーウェン・フローリー・キルデア(1864-1911)の自伝的小説『My Mamie Rose』'03の舞台化戯曲の映画化になるそうで、スタンバーグの『暗黒街』'27に10年以上先立つアメリカの長編映画初のストリート・ギャング映画とされています。この題材はグリフィスのストリート・ギャングを描いた短編の傑作でやはりバワリーが舞台の『ピッグ・アレイの銃士たち』'12が初の映画とされますので、ウォルシュも当然師の作品を参考にしているでしょう。また早逝の監督G・L・タッカー(1880-1921)は現存する唯一の作品が『暗黒街の大掃蕩』で、マフィアによる移民の人身売買を描いてセンセーショナルなヒット作になったそうですが、『ピッグ・アレイの銃士たち』も『暗黒街の大掃蕩』もハリウッドのスタジオ・システムが創設途上の作品なので実際にニューヨーク・ロケで製作されており、'10年代末にはハリウッドの撮影所でニューヨークを再現した完璧なセット撮影が可能になりますから、かえって初期サイレント作品の方がドキュメンタリーに近いロケーション撮影されているのです。本作も徹底したニューヨーク・ロケに特色と歴史的に重要な価値があり、歌舞伎町どころではないやばいスラム街バワリーで街頭撮影し(室内シーンはセットでしょうが)、本物のバワリーの住民や界隈のホームレスをエキストラに雇って撮影したといいますから超大作『国民の創生』の壮絶な修羅場で助監督してきただけの経験は生かされています。船上パーティーの場面では本当に海上でフェリーを一艘燃やして沈めていますし、阿鼻叫喚するエキストラが次々ロープにぶら下がっては落ち、または船から直に海にダイヴしていますが当時のことですから怪我人続出もギャラの内で当然保険もかけていなかったでしょう。警官隊と2組のストリート・ギャングの乱闘も引きで撮って寄りでは撮れないほど本気で殴りあっており、エキストラの大半は現実か映画撮影かの区別がついていなかったのではないかと思われます。ヒロインのアンナ・Q・ニルソンは当時の人気女優だったそうでリリアン・ギッシュ系の薄倖清純派、ただし芝居らしい芝居をするほど他の人物との絡みはなく、主人公はウォルシュ好みがよくわかる喰えない面相で好演ですがとても改悛(更生)など誓いそうにないキャラクターに見えるのが難といえば難でしょうか。エドワード・G・ロビンソンやジェームズ・キャグニーはトーキー時代だから愛嬌のある極悪人が演じられたので、声で演技できないサイレント映画では本作の主演俳優はなかなか微妙なニュアンスまでは難しかったのも仕方ありません。10歳と17歳を別の役者に演らせている(こちらも好演)のはともかく、17歳と25歳なら大概の映画は同じ役者に演らせるものですが、ウォルシュとしては25歳役のR・フェローズを主役に買ったので確かにフェローズが17歳も演じるのは無理があります。本物のストリート・ギャングっぽさを取って物語の方はお約束で済ませた観があり、映画としては(サイレント映画としても)完成品とは言えませんが、それでもヒット作になったのは当時特異な題材とリアリティ、また舞台劇ではできないスケールのスペクタクル性(その最たるものが遊覧フェリーの炎上・沈没のシークエンス、クライマックスの大乱闘です)が盛りこまれているからで、原作から借りた物語はバワリーで生活する人々の活写、ニューヨークの下町市民たちの争乱を映画化するためのダシのようなものだとでも言えます。この強烈なリアリズムは本作前後の創始期のアメリカ長編映画でも際立っており、その流れをグリフィスの『エルダーブッシュ渓谷の戦い』'13.11、タッカーの『暗黒街の大掃蕩』'13.11、デミルの『スコウ・マン』'14.2、グリフィスの『アッシリアの遠征(ベッスリアの女王)』'14.3、マック・セネット(チャップリン出演)の『醜女の深情け』'14.11、ジェームズ・カークウッド(メアリー・ピックフォード主演)の『メアリーのシンデレラ』'14.12、フランク・ポウエル(セダ・バラ主演)の『愚者ありき』'15.1、トーマス・H・インス&レジナルド・バーカーの『イタリア人』'15.1、グリフィスの『国民の創生』'15.2、デミルの『カルメン』『チート』(15.11)ときてグリフィスの『イントレランス』とインス『シヴィリゼーション』が1916年作品と見てくると、『リジェネレーション』が1915年9月公開なのは突き抜けた新しさがあります。ウォルシュがやってのけたのは物語を伝えるよりも次々起きる場面を観客に突きつけることで、これはリアリズムの追求でもあれば文学的・演劇的また絵画的な発想ではなく映像自体によって語らしめる純粋に映画的な手法でした。師であるグリフィスですらこれほど徹底はできなかったので、後年の熟達した腕前からは習作程度かもしれませんが第1長編からウォルシュは佳い資質を持ちあわせていたのがわかります。サイレント時代のウォルシュ作品の大半は散佚してしまっているのは残念ですが、本作が残っている価値は大きく、国定保存作品になっているのも当然でしょう。日本で言えば大正4年、外国映画の輸入上映はされていましたが、『国民の創生』や『シヴィリゼーション』は公開されても本作が輸入されなかったのはわかる気がします。ちなみに本作のリアリズム指向に近い作品には前述の『イタリア人』(これも日本未公開で国定保存作品)がありますが、もっと移民労働者の悲哀に焦点を当てたドラマ性の高い映画なのが本作とは決定的に異なります。

●11月2日(木)
『バグダッドの盗賊』The Thief of Bagdad (ユナイテッド・アーティスツ'24)*140min, B/W, Silent; 日本公開1925年(大正14年)1月/アメリカ国立フィルム登録簿登録作品(1996年度)

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(キネマ旬報近着映画紹介より)
[ 解説 ] ダグラス・フェアーバンクス氏が「フォビン・フッド」の次に製作した大作で、アラビアン・ナイトの物語に基づいてエルトン・トーマス氏が原作を書き、ロッタ・ウッズ氏が脚色し「世界を敵として」「女は誓いぬ」等監督したラウール・ウォルシュ氏が招かれて監督の任にあたった。相手役は新進のジュランヌ・ジョンストン嬢、我が国の上山草人、南部邦彦両氏、コマント嬢(ペルシャ王子に扮す)、その他日独人のハーフで詩人のハートマン定吉氏、獰猛なノーブル・ジョンソン氏、中国人の女優アンナ・メイ・ウォン嬢等である。お伽噺式のファンタジーで、リアリズム全盛の米国映画界に大きな波紋を投げた大作品である。
[ あらすじ ] バグダッドの都の国王には美しい姫君(ジュランヌ・ジョンストン)があった。姫の婿君を選ぼうとした時、ペルシャ(ミス・コマント)、印度(ノーブル・ジョンソン)、蒙古(上山草人)の三王子が美々しい行列をもって乗り込んで来たが、はたして王宮に忍び入って、姫の美しさに魂を奪われたバグダッドの盗賊(ダグラス・フェアバンクス)も7つの島の王子と名乗って僅か一人の供を連れて入場する。砂占いから我が婿となる王子は初めに王庭のばらに触れるであろうと心をときめかせながら見ていると、バグダッドの盗賊の乗馬が蜂に刺されて狂い、彼はまっさかさまにばらの植え込みに投げ込まれ、かくて彼は姫と結婚すべき運命を与えられた。姫は彼の姿を一目見て、その雄々しい姿に深く心を動かされた。しかし彼の正体は見破られて姫の婿になる企みは失敗に帰した。姫は3人の王子達に一番珍しい宝物を7ヶ月目に持ってきた人を婿にすると一時逃れを言うので、3人の王子はそれぞれ宝物を捜しに出発する。バグダッドの盗賊も長老(チャールズ・ベッチャー)から教えられて宝物を捜す旅に出かけた。彼はあるいは死の谷で毒蛇を殺し、あるいは深海を捜り、あらゆる困難を経て身を隠す衣と魔法の小箱を手に入れる。ペルシャ王子は未来を見る水晶の珠を、印度王子は飛行のカーペットを、蒙古王子は軍隊をバグダッド城内に忍び込ませて一気に攻め落とし、王姫を我がものにしようとする。白馬に跨ってバグダッドに取って返した盗賊は小箱のうちより雲霞の如き大軍を出して蒙古王に攻め取られた王城の危急を救い、遂に姫君を妻とする幸福な身となった。

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 アメリカ本国では現在でも田舎の映画館ではしょっちゅうリヴァイヴァル上映されて国民的映画と言える作品になっているそうです。本作の企画がサイレント時代の大スター、ダグラス・フェアバンクスによるものなのはプロダクションがグリフィス、チャップリン、フェアバンクス、やはりサイレント時代のトップ女優メアリー・ピックフォードの4人で設立したユナイテッド・アーティスツであることからも明らかで、またフェアバンクスは本作の構想を'21年頃には暖めており、アラビアのエピソードで空飛ぶ絨毯が登場するドイツ映画の『死滅の谷』'21(フリッツ・ラング)を試写で観て即座にアメリカでの上映権を買い、本作『バグダッドの盗賊』完成・公開後までアメリカ上映を遅らせたそうですから、本作はウォルシュ作品である以上に主演俳優でプロデューサーを兼ねるフェアバンクスの作品、と言っていいでしょう。キネマ旬報の「近着映画紹介」もためになる知識を与えてくれ、大正14年1月封切りの時点で「お伽噺式のファンタジーで、リアリズム全盛の米国映画界に」というのは示唆的です。ここで言われるリアリズムはジェームズ・クルーズの西部開拓移住映画『幌馬車』'23の記録的大ヒットに始まるものと思われ、グリフィスも『ホワイト・ローズ』'23、『アメリカ』『素晴らしい哉人生』'24とリアリズム色を強めており、1925年にはキング・ヴィダーの第1次世界大戦映画『ビッグ・パレード』が『幌馬車』に匹敵する大ヒットになり、ジョセフ・フォン・スタンバーグがニューヨークの下町の貧しい生活を描いた自主製作映画『救ひを求むる人々』をユナイテッド・アーティスツに売り込み、チャップリンに認められてデビューします。こうしたリアリズムの流行はリアリズム演劇の定着に刺激されたものとも見られ、ウォルシュも『ビッグ・パレード』へのアンサー・ムーヴィーとしてマックスウェル・アンダーソンの戯曲『栄光何するものぞ』'24を原作に名作『栄光』'27を作り、またサマーセット・モームの短編小説「雨」の初映画化('32年にルイス・マイルストンが再映画化)『港の女』'28を久しぶりのウォルシュ自身の助演出演(ヒロインに肩入れする船員役)で監督します。ウォルシュの本流は『栄光』『港の女』の方にあると思えますし、本作を観ると能天気な(サイレント時代の)フリッツ・ラングという感じですが、こういう娯楽超大作を撮るのは現場の仕切りだけでもヴェテランの腕前が要ることです。ウォルシュは監督キャリアはラングより5年早い10年選手のヴェテランですし、グリフィス門下生ながら変態映画の天才で独裁者的性格の(それが災いして監督キャリア10年で映画監督の座を追われた)シュトロハイムとは違いますから、無難といえば無難ですが職人的な腕を買われた起用だったでしょうし、本作はファンタジー作品ですが豪快な男が活躍する映画でもあってその点ではウォルシュも凝りに凝って楽しい映画に仕上げ甲斐があったと思います。巨大セットのスケールならばイタリア史劇の『カビリア』'14やグリフィスの『イントレランス』にも匹敵するのではないでしょうか。引きの構図になると人物が豆粒ほどしかなく天辺まで10階建てのビルほどもある宮殿や屋外セットがばんばん出てくるのです。ドラゴンとの闘いなどはラングの『ジークフリート』'24のドラゴンよりもよくできていて、よくもまあ手間暇かけてこんな馬鹿馬鹿しいものを、と資本金さえあれば誰でもできるかもしれませんが、結果的に100年経っても残る映画ができたわけで、現在作られている映画が22世紀初頭でも観られているかを考えればフェアバンクスといいウォルシュといい大変な偉業を成し遂げたわけです。上山草人演じる蒙古(モンゴル)王子はペルシャ王子(なんと女優が演じていたとは)、インド王子の3王子でも準主演級の悪漢で、腹心が南部邦彦、専属宮廷魔術師が定吉ハートマン、女奴隷が中国人女優のスターのアンナ・メイ・ウォンとひときわ怪しいチームを組んで登場し、目的も王女との結婚ではなくむしろ王女を暗殺しアラビアをモンゴルの支配下に置こうという陰険なものでモンゴルにも日本にも失礼きわまりない設定ですが、一応紀元10世紀のアラビアンナイトの世界なので現実のモンゴルでもアラビアでもなく、それを言えば肥満体のペルシャ王子、鈍くさいインド王子と、この調子で是非ともオリンピック映画(ただし現代ものでないやつ)を作っていただきたかったものです。再びキネマ旬報、「リアリズム全盛の米国映画界に大きな波紋を投げた大作品である」それってどういう波紋だよ、波紋というのは違うだろと突っ込みたいのは山々ですし、大作品て何?と言葉の定義を質したくなりますが、案外ここで描かれたアラビア世界はあくまで想像力の産物ながらキリスト教的倫理観から自由であるだけでも珍しく、大軍勢の上空を飛び回るフェアバンクスを乗せた絨毯の影まで律儀に描きこまれたアナログ特撮の粋の結晶もそれゆえか、冗談と悪夢を掛け合わせると本作ほど愉快で無意味なファンタジーができ上がるなら確かにこれは一線を越えた大作品です。ラングの『死滅の谷』と似た着想からアラビアンナイトを改作して、仕上がりはやはりラングの本作と同年の『ニーベルンゲン』二部作に近いですが、第1部『ジークフリート』のファンタジー性はともかくラングは陰惨な第2部『クリムヒルデの復讐』を仕込まないではいられないくどさがあり、明朗なファンタジーで一貫した本作とは異なります。また登場人物が固有名詞を持たず役職名でしか登場しないのはサイレント時代の映画にはままありますが(例えばつい先に取り上げたルイ・デリュックの作品など)本作ほどの大作で登場人物が全員名無しとなると、それだけでも何かを暗示しているようです。

●11月3日(金)
『ビッグ・トレイル』The Big Trail (フォックス'30)*122min, B/W, Widescreen (107min, Standard); 日本公開1931年(昭和6年)3月/アメリカ国立フィルム登録簿登録作品(2006年度)

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(キネマ旬報近着映画紹介より)
[ 解説 ] 「藪睨みの世界」「巴里よいとこ」に次いでラウール・ウォルシュが監督したフォックス超特作映画で、脚本はウォルシュ自身がハル・エヴァーツと協同で書き卸ろし「ハッピイ・デイス」「老番人」のルシエン・アンドリオが撮影した。主役は無名の新人ジョン・ウェインと「巴里見るべし」のマーゲリット・チャーチルが抜擢され、「巴里よいとこ」「ハッピイ・デイス」のエル・ブレンデルを始め「泥人形」「快走王」のタリー・マーシャル、「足音」のタイロン・パワー、「浮気発散」「空中サーカス」のデイヴィッド・ローリンスのほか「恋の大分水嶺」のアイアン・キース、「トム・ソーヤーの冒険」のチャールズ・スティーヴンス、ウィリアム・モング、フレデリック・バートン等が出演している。
[ あらすじ ] 西部開拓の雄図を抱いて大幌馬車隊がミズリー河畔から出発の途に上ろうとする時だった。ルース・キャメロン(マーゲリット・チャーチル)は、弟のデーヴ(デイヴィッド・ローリンス)と幼い妹を連れてこの一行に加わることになった。南部の上流社会に育った彼女達は父に死別して寄辺ない身の、運命開拓を西部の地に志したのである。幼い時から西部の野にインディアンや野獣を友として育ったブレック・コールマン(ジョン・ウェイン)もまた親友の仇敵を探すべく一行に加わった。ルースは最初粗暴な野人としてのブレックに反感を抱いたが、次第にその男らしさにひきつけられて行った。ブレックの仇敵はレッド・フラック(タイロン・パワー)という一行中名うての乱暴者だったが、ブレックが自分を付け狙っていることを知り、いくどか彼を殺さんと企んで、時にはブレックの友ジーク(タリー・マーシャル)の助けにより、時にはブレックの勇気により事々に失敗した。一行が前進するに従って、あらゆる困難が、前途に待ち受けていた。インディアンの襲撃、大河の激流、絶壁、暴風、吹雪。けれど一行はあらゆるものを征服し、希望の土地オレゴンへ進んで行った。ある者は死し、ある者は産まれ、最後の難関スネーク河も遂に征服された。凶悪なフラックも悪運尽きて、ブレックの刃に倒された。かくて春に甦ったオレゴンにルースとブレックは相抱いた。新しい世界はここに開拓されたのである。

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 まず1930年の作品にしてワイドスクリーン(70mm)、しかも最新作のような鮮明な画質に驚きます。実は本作にはスタンダード・サイズ(35mm)・107分版もあり、これまで観たことがあるのは毎回107分版でした。70mmワイドスクリーン、122分版は映写できる映画館も当時は少なくオリジナル・ネガまたはほとんど未使用のオリジナル・プリントが残っていたのでしょう。映画の本質はプリント状態由来の画質には左右されない、と思いたいものですが(劣化したプリントしか残っていない名作も星の数ほどありますから)、この70mm版の階調も細やかな画質のプリントを観ると言葉を失います。本作と同時代の映画で、これほど最上級のプリントが残っている作品はめったにないのです。幌馬車隊の移民団(ワゴン・トレイル)が出発するのが映画の30分目、これが初主演作品になるジョン・ウェイン(当時22歳)が変声期前のような声で、日本人が聞いても棒読みの下手な台詞回しだなあと感心してしまうほどの初々しさで、ブレイク後のウェインを思うとウォルシュの主演起用は先見の明があったわけですが、本作を観る限りではその後ジョン・フォードの『駅馬車』'39に起用するまでB級西部劇専門俳優に甘んじたのも無理はない、といえるほどニュアンスに乏しい役者で、ボギーやウォルター・ブレナンのように30歳過ぎて映画俳優になり大成した役者もいるのですがウェインの場合は微妙で、作品に恵まれて偶然に偶然を重ねているうちに気づくとワン&オンリーの大俳優になっていた、という感じがします。ジョン・フォードなどはいつまで経ってもウェインを撮影中に苛めていたそうですから――誰か一人を集中的に苛めて現場を結束させるタイプのリーダーはどの世界にもいるものです――、おそらくウォルシュは本作でウェインを苛め足りなかったのでしょう。本作が1000人のエキストラを使った西部開拓映画クルーズの『幌馬車』'23(キネマ旬報年間1位)を下敷きに作られていることは題材からも明らかで、『幌馬車』へのいち早いフォロワー作だったフォードの『アイアン・ホース』'24が西部開拓に加えアメリカ横断鉄道敷設を採り入れて史実性を補強しているのにもヒントを得ているでしょう。『幌馬車』に較べ、トーキー作品の利点を生かしているのはもちろんですが(本作は1930年のトーキー作品とは思えないくらいサイレント色を引きずらず、これみよがしな音声の強調もない、トーキー技術の導入に抜きん出た洗練が見られる作品です)、『アイアン・ホース』よりも直球で『幌馬車』をリメイクしている一方、有象無象の開拓団の喧騒をトーキーで簡潔かつ印象的に表現している利点があって、35mmスタンダード・107分版でもおお、っとなる傑作ですがさらにプリント状態の良い70mmワイドスクリーン・122分版を観てしまうと圧巻です。東部からカリフォルニアまでの道程ですから大小の河を幌馬車ごと越え、渓谷があって回り道もできなければ人馬幌馬車まとめて引っ張り上げる、または吊り下ろします。『幌馬車』でも同じ困難が描かれますがもともと音声のないサイレント映画と、トーキーなのに自然音だけでみんな黙りこんで修羅場をくぐるのでは緊迫感が段違いに違う。直接死亡事故や遺体は描かれませんが河を渡れば馬ごと流されていく幌馬車、渓谷で吊れば落下して大破する幌馬車と脱落者も次々と出てくるので、描かれているのは東部の白人の西部移住開拓ですから人種に偏りはありますがカリフォルニアなど無人の荒野だった頃の話、南部黒人がテキサス、またはシカゴ経由でカリフォルニアに移住するのは白人による西部開拓後の話です。日本では徳川幕府の江戸時代ですからアメリカとは本当に歴史の浅い国だったんだな、とも思いますし、国家の成立がごく近代である分だけ本作は建国神話として輝いています。あらすじは移民団の中の不満分子と主人公の対立以外は触れていませんが本作は群像劇であり、移民団の人々全員が主要人物として描かれています。怨恨から主人公をつけ狙う男を演じるタイロン・パワーは『血と砂』'41や『ローマの休日』'53、『白鯨』'56のタイロン・パワーではなくタイロン・パワー・シニア、つまりスター俳優の方はタイロン・パワー・ジュニアになります。ウェインの棒立ち・棒読み演技は移民団の十数人の主要キャラクターたちの達者な演技で釣りがくるでしょう。フォードほど多数の人物を絡ませてドラマを作り出していくような発想はウォルシュにはなく、ウェインとタイロン・パワー(シニア)の対立も「映画らしくしとくか」という程度の脇筋でいっそ無い方がすっきりしたのではないかと思いますが、パラマウント作品『幌馬車』に対抗した『アイアン・ホース』で成功したフォックス社はトーキー版『幌馬車』である本作には自信があり、映写上映館に限りがあったアメリカ映画最初期の70mmワイドスクリーン版まで作ったのでしょう(35mmスタンダード版は70mm版をトリミングした普及版だと思います)。幌馬車の河渡り、渓谷越えなどではとんでもない構図も続出しますがばっちり決まって驚くべき完成度に達しています。『幌馬車』同様エキストラは1000名、馬は数百頭を越えるでしょう。縦隊進行だと手前から遥か背後の地平線まで幌馬車が続いています。アメリカ人なら「出エジプト記」を重ねあわせずに観ることはできないでしょう。暴走するバッファローの大群を狩るシーンなど明らかに本当のバッファロー狩りです。ところが本作は興行的に大失敗してしまいます。アメリカは1929年の大恐慌直後で、この時期のヒット作は現実逃避的な『シンギング・フール』や『ブロードウェイ・メロディー』のようなソング&ダンス映画か『モロッコ』のようなエキゾチックな大メロドラマで、アメリカ建国史などお呼びではなかったのです。しかし歴史は本作をアメリカ映画史に輝く名作と再評価し、国定保存作品に持ち上げました。またウォルシュのキャリアは本作を境にどんどん娯楽映画の職人監督専業に押しやられます。ただしウォルシュの真の傑作はそれらの娯楽作品から生まれるのです。
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