『出来ごころ』(全)
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昭和8年(1933年)に小津安二郎が監督・発表した3本の作品はいずれも現存しています。小津の最後の散佚作品は1936年の『大学よいとこ』ですから、1927年の監督デビュー以来10年間の小津作品はデビュー作『懺悔の刃』から『大学よいとこ』まで36本中18本が失われているので、散佚作品がない年度は1933年の3本しかないのです。
前年の傑作『生れてはみたけれど』は内容が暗いと、実は二か月も公開延期にされていた作品でした。同年には『生れてはみたけれど』と同じテーマの『青春の夢いまいずこ』、召集別離ものの『また逢ふ日まで』と続き、1933年に入っても『東京の女』(2月9日公開)、『非常線の女』(4月15日公開)と暗黒映画を連発します。この年、小津は他社の新鋭監督で小津より2歳年少の山中貞雄に出会いますが(山中は2年後に召集され戦病死します)、山中は『非常線の女』の字幕を暗誦できるほどこの不評作を偏愛しついたそうです。
この年度の三作目になる『出来ごころ』は9月7日公開で、翌年のキネマ旬報年間ベストテン投票で日本映画1位に輝きました。『生れてはみたけれど』に続き二年連続です。小津自身の原作から小津と池田忠雄の共同脚本がまとめられたのが7月2日~5日、7月18日から撮影が開始され8月中旬に撮影完了。それから字幕画面ともども編集作業に入ったのでしょうから、社内試写会は8月末か9月初頭でしょう。それで9月7日公開というのは、撮影所システムが崩壊した現在の映画界ではまず考えられません。現在ではほぼ半年前には完成しプロモーションに時間をかけないと集客力がない。戦後1950年代には新作が上映されれば何でもいいから観に行く、という習慣が63年の映画のテレビ放映から崩れはじめ、70年代には日本のプログラム・ピクチャーは日活ロマンポルノしかなくなります。質量ともに日本映画の黄金時代を支えていたのはプログラム・ピクチャーと撮影所システムで、それがなければ小津を始めとする日本映画の巨匠時代はありませんでした。
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この作品は坂本武演じる「喜八もの」と呼ばれる人情喜劇の第一作となり、後の「寅さん」の原型をなすような人物造型が見られることでも知られるのがこの「喜八」シリーズです。
ビール工場の日雇い労働者でやもめの喜八(坂本武)は、相棒の青年・次郎(大日方傳)と飯屋のおとめ(飯田蝶子)の助けを借りて小学生になる息子の富夫(突貫小僧)を育てています。寄席からの帰りに出会った、失業して泊まるあてもない若い娘・春江(伏見信子)の宿を、次郎の反対を押し切っておとめに頼んだところ、おとめは春江を気に入って住み込みで雇い、春江を次郎に添わせたいと喜八に相談します。次郎はその気はまったくないと言います。春江に惚れていた喜八は面白くなく、仕事に出ずにおとめの店で昼間から酒を飲む毎日になります。同級生たちに父が無学の飲んだくれだとからかわれた富坊(勉強熱心)は、喜八と激しいケンカをします。これをきっかけに、喜八は息子第一と考え直して仕事も真面目に勤め、春江と次郎の応援をすることにします。しかし富夫が病気になり、喜八に必要な金の工面のため次郎は北海道へ出稼ぎを決意し、春江に気持はおれも同じだ、と打ち明けます。喜八は次郎を行かせまいと、富夫をおとめに預けて、急いで船に乗り次郎の代わりに出発しますが、途中で懐に入れた息子の習字を見て富坊が恋しくなり、海に飛びこむと泳ぎだします。
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この映画は、小津自身がやもめの中年男が息子のためにボクシングにカムバックするキング・ヴィドア『チャンプ』1930にヒントを得たもの、と語っていたそうです。『チャンプ』は79年にもフランコ・ゼフェレリ監督、ジョン・ボイド主演のリメイクがヒットしました。
ですが蓮實重彦氏は『監督 小津安二郎』で、『チャンプ』と同じウォーレス・ビアリー主演のラウォール・ウォルシュ作品『バワリイ(阿修羅街)』1933との類似を指摘しています。子持ちのやもめの消防士が身寄りのない若い娘の世話をし、娘の感謝を自分への好意と取り違える、と『出来ごころ』とまったく同じ話ですが、日本公開は昭和9年なので直接の影響はありません。『チャンプ』のビアリーのキャラクターは他の主演作でも共通しており、影響ではなく発想に偶然の一致があったのでしょう。
飯田蝶子の演じるおとめこと「かあやん」と突貫小僧演じる息子の「富坊」は喜八シリーズの常連キャラクターですが、喜八は同一キャラクターながら毎回別の人物です。『浮草物語』では旅芸人の座長、『東京の宿』では失業者といった具合で、富坊は息子の役で、かあやんは『出来ごころ』と『東京の宿』は飯屋のおかみ、『浮草物語』は20年近く昔に別れた旧妻(この作品の富坊は一座の端役芸人の息子)という具合ですが、かあやんの役どころは寅さん映画のさくらといったところでしょうか。かあやん、と呼ばれる通り喜八の庇護者となる役回りの女性です。
突貫小僧はいつも素晴らしい。この映画の圧巻は富坊が喜八のだらしなさを責めて親子喧嘩になる場面ですが、そのきっかけは子供仲間たちに父親を働かない昼酒飲みで新聞の字も読めない無学と馬鹿にされ、言い返せず(父親は新聞など「溜まったら屑屋に売れらあ」と言うのです)、帰宅して相変わらず父が飲みに行っていると知ると喜八の大切にしている盆栽の葉をむしっては噛み、ついには丸裸にし、そこに父親が帰ってきて盆栽を台無しにしたのを責められても謝る気などさらさらないことです。そこからがさらに素晴らしい。喜八に左右の頬を叩かれながら表情をかたくなに変えない。それからおもむろに父親の頬をそっくり同じ動作で、無表情に叩いて、同じ分だけ叩き返すと突然泣き始めてしまう。子供の涙で観客に訴えるのは安易ですが、喜怒哀楽を自然にたどっていく中で挿入されるエピソードなら描かれるべきでしょう。船着場での別れのシーンでも富坊は突然泣き出します。泣くよなあ、と観客だって思います。また、富夫から謎々を教わるたびに喜八が感心し、息子に習ったジョークを得意気に仲間に披露する(手の指はなぜ4本?5本ないと手袋の指が余るから、とか海の水はなぜ塩っぱい?鮭がいるからさ、など)、という微笑ましいギャグも繰り返されます。
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次郎を演じる大日方傳は彫りの深い二枚目で、今の俳優では阿部寛に似た顔立ちですが、冷たさを感じさせてあまり人気が出なかったといいます。小津が好んだ斎藤達雄や岡田時彦、直前作『非常線の女』の岡譲二に較べても演技の幅が狭く、生硬な感じを受けますが、この作品では伏見信子演じる春江も生硬なので、その分喜八やかあやん、富坊によって話が進んでいくことになります。次郎と春江は自分から積極的なことは何もしないのが自然であるような性格に描かれているからです。
この映画の結末は映像的には面白いけれど、お話としては支離滅裂なものになっています。シナリオ段階では長屋に戻ってきてみんな大喜びで大宴会、という場面がエンディングだったそうですが、小津は喜八が頭に手ぬぐいを乗せて泳いでいく場面で終えてしまいました。富坊の治療費の金策では、宵越しの金は持たねえってツケがまわったぜ(喜八)、私が何とかします!(春江)、女の身でどういうことかわかってんのか!(次郎)、こういう時でないとご恩返しできません!(春江)、てめえ男二人に恥かかせようっていうのか!(次郎)……という流れで次郎は北海道に出稼ぎに行く決意をしますが、このやりとりはそろそろトーキーへの移行の必要性を感じさせます。
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小津作品で感じるといえば、冒頭のシークエンスが物語上では不必要なほど長いと思われることがあり、『出来ごころ』でいえば浪花節の寄席で、『落第はしたけれど』は下宿の場面、『その夜の妻』では逃亡中の男、『淑女と髯』では剣道の試合、『東京の合唱』では体育の授業と、ここまで観てきた作品で単刀直入に物語に入るのは『生れてはみたけれど』と『非常線の女』くらいかもしれません。しかも後者はごちゃごちゃしています。『若き日』と『東京の女』は冒頭で遊ぶ余地はなかったのでしょう。戦後に小津を決定的に巨匠の地位につけた名作『晩春』も7分に渡って能舞台の観賞場面が続きます。これらは映画の制作当時には喜ばれた趣向なのか(だったら現在では風化した要素になるわけです)、作品ごとに異なるにせよ意図あっての冗長な導入部なのか、こうした不満は溝口健二や成瀬巳喜男、黒澤明の映画には感じませんから、小津の演出には冗長な導入部というのはまず観客を飽きさせておくための、一種の癖なのかもしれません。今作の浪花節の寄席場面はことに長かった(安易に撮られたのではないのは、観客役の俳優たちがしっかり演技指導された動作をしていることでもわかる)ので、小津作品の冗長さ(と思える面)とはどういうことか、それを冗長と感じるのは自分だけかふと疑問に思えてきたのです。