『若き日』Days of Youth
https://www.youtube.com/watch?v=NMnXHaZJKZ4&feature=youtube_gdata_player
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==あらすじ==
高田馬場の大学に通う学生・渡辺(結城一郎)は下宿の窓に「かし間あり」と貼り紙し、男は追い返し若い美人・千恵子(松井潤子)には部屋を又貸しして口実をつけては訪ねてくる。渡辺は学友の山本(斎藤達雄)の下宿に居候するが、山本も千恵子とは以前から知己で片思いしていた。
期末試験を終えた二人は千恵子のスキー場行きを知って出し抜きながら赤倉スキー場に到着、あの手この手で千恵子に接近するが、やがて千恵子は先に来ていたスキー部部長と見合いをするとわかり、二人はさっさと帰京すると再び「かし間あり」の貼り紙を出すのだった。
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『青春ロマンス』と副題のついたこの『若き日』はフィルムの現存するもっとも早い小津安二郎の監督作品として知られています。監督デビューを1927年に果たしてからこの作品で早くも8作目、この1929年には小津は7本の監督作があり、新人監督がそれほど作品を求められるくらい映画は庶民の娯楽で、同時に消耗品扱いされるものでもあり、溝口健二などは散佚作品が50本以上に上ります。1935年を境に新作の制作がトーキー、または過渡期のサウンド版(サイレント映画だが、音楽とナレーション=活動弁士による語りが入ったもの)になると急激に映画の保存率は上がりますが、それは再上映できるトーキー作品の需要と、サイレントに較べて量産のきかないトーキーの性質と、日中戦争に突入していた日本の娯楽景気から映画界が量産主義から作品主義に変化したことでもあり、このうち何より大きいのはトーキーの定着によってサイレント映画のストックは用済み、トーキーの新作は制作本数が少ないから再上映の機会も多いので人気に応じて大事に保存、ということでした。
サイレント時代には映画自体が新しい娯楽産業で、まだ20代の青年たちが作っていたものでした。トーキー時代にはそのままスタッフの年齢が上がるので題材や内容も人生経験を反映したものになった、とも言えますが、トーキーになった途端に日本映画は暗くなりました。戦争の影も当然あるでしょう。
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『青春ロマンス・若き日』ははっきり同年代のアメリカのサイレント・ラヴ・コメディ(エルンスト・ルビッチの諸作やハワード・ホークス『港々に女あり』1928) と同種の作品を目指して作られており、日本映画自体がアメリカ映画の模倣時代だったとも言えますが、演劇でも文芸でも悲劇が好まれる日本文化では珍しい現象だったのです。サイレント期から悲劇を得意分野にしていたのは歌舞伎出身の衣笠貞之助や、京都出身で浄瑠璃を観て育った溝口健二のように日本の伝統ドラマを身につけてきた監督たちでした。
異文化の導入は視覚作品の場合、多くはフォルマリズム的な把握から始まります。視覚作品が形式から内容を規定されるのは具象的要素でも抽象的要素でも自然なことですし、サイレント映画の場合サウンドを伴わない分かえって内実ともにアメリカ映画に接近した作品を成立させることができたのを、この作品は感じさせます。日本映画だが描かれているのは現実の日本ではなく、映画によって作り出された架空の日本であり、架空の1929年という感じ。主人公たちはナンパに精を出したり、期末試験のカンニングペーパー作りが無駄骨に終わったり、山本が千恵子にお茶とお菓子を用意すれば渡辺が割り込んできて横盗りしたりと茶番劇が続きますが、現実にはありそうにないこの三角関係の喜劇も喜劇映画の中でなら起こりうるので、それを思えば独自のスタイル確立後の小津作品も徹底した虚構の上に成り立っているのです。
その辺りにも京都人だった溝口健二のリアリズムとは異なる、江戸っ子の小津のモダニズムがあるでしょう。やがて中堅から大家、そして巨匠に至る時代の厚みのある小津作品とは『若き日』はまったく別人の作のように見えながら、スタイルに対する意識では十分に萌芽が見られます。そしてスタイル確立以前にも『生れてはみたけれど』1932のような画期的な名作をものすことが出来たセンスの良さも、すでに『若き日』の時点で顕われています。