先日ようやくムーミン谷の話を終えた。あれはいくらなんでも夢オチという残念な終わり方をしたが、結末から逆算して書いていたら逆に結末の方を変えていたと思う。引き合いに出すのもおこがましいが『ドン・キホーテ』も『ガリヴァー旅行記』も、むろん『不思議の国のアリス』も、本来作り話は夢オチ以外に論理的な整合性はありえないというか、夢オチであることがむしろ反現実を表現する強みになっているというか、まあ過ぎたことは大目に見ていただけませんか。
そこで懲りもせず、すぐさまスヌーピーの話を始めたが、これは早計だった。ムーミン谷に対してもう少し、いわば喪に服す期間を持った方が良かった。最近何か面白いアニメはと人に問われて『魔法少女まどか☆マギカ』をお薦めしたら、その方は『[新編]叛逆の物語』も続けてご覧になったとかで間を空けた方がよかったかも、とおっしゃっていたが、正鵠を得た感想だろう。あれは文字通り喪に服す間が必要な続編で、(以下『魔法少女まどか』ネタバレ)正編でヒロインたちはことごとく慙死をとげる。ところが続編は正編で起こったことがなかったような設定から、客観的説明もなく展開していき、正編との関連が明らかになった時はとんでもないことになっている。一旦正編はそれで完結したと鑑賞した方が「新編」と正編とのギャップを味わえることになる。
何にせよ、一つのことを片づけたら少しは間を置いた方がいい、ということ、しかも似たようなことをする場合は特にそうだろう。スヌーピーの話は少し後にして、この二週間なら台風の話と季節の変わり目の話でも書いていれば良かった。だいたいこのブログは、下手にうだうだ考えた作文よりも場当たり的な日記の方がましなようだ。昨日などはコンビニに見切り品の野菜(キャベツ一玉50円、人参三本60円とか)を買いに透明ビニール傘をさして行ったら、というのは小雨程度ならビニール傘で十分だし軽いし、無くしても何本か予備があるから近所ならビニール傘を使う方が多いのだが、帰りに傘立てから他人のビニール傘を持ってきてしまった。透明傘はグリップ以外では区別がつきにくいし、それもたいがいは白か黒しかない。
しかも気づいたのは今日で、昨日の帰りは止みかけていたから傘を広げず、わからなかったのだ。ちょっとスーパーでも見てこようとビニール傘を広げたら、もうまともには開かない壊れかけ傘だった。今度晴れている日に同じコンビニに返してくるしかない。
*
ビニール傘を詠んで見事な詩があったら大したものだと思うが、傘を使った映画のラストシーンで最高のものは大和屋竺『裏切りの季節』(昭和41年)だろう。あれならビニール傘でも同じくらい衝撃的だと思う。今日の帰り道は雨は上がっていて、ワンワン吠えているプードルを散歩させているじいさんが立ち止まっている低学年の小学生たちに説明していた。みんな傘を持っているから棒に見えてぶたれると思っているんだよ。安心させてあげようね、といちばん年長の女の子が言って、子供たちは散って行った。小学生の黄色い傘は、色温度で色彩を識別する犬にはかなり怖いかもしれない。
日本の現代詩では黒いこうもり傘を詠んだ傑作が二編ある。20世紀にはこうもり傘と言えばロートレアモンの長編散文詩『マルドロールの歌』1869(「彼は手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのように美しい」という比喩がある)の再評価で詩語に定着していた。日本の現代詩でも、かたやコミュニスト、かたやモダニストの流派でともに古典的な抒情詩を批判した詩人だったがロートレアモンは当然の教養だし、雨を詠うのが抒情とすればこうもり傘はギリギリのラインだったようだ。きわどい成功作とも言えるし、作者の意図と読者の感銘がこの詩ではたぶん、相当かけ違っている。どちらの詩も書き出しが見事で惚れぼれするが、詩人にしてみればそんなことで感心されたいような詩ではないだろう。ここに結晶しているのは共感を拒絶する危機意識のはずで、それはこれらの詩それぞれの書かれた時代には、小さな傘の中の空間にしかなかった。
*
『黒い洋傘』小熊秀雄
争ひもなく一日はすぎた
夜は雨の中を
黒いこうもり傘をさして街に出た
路の上の水の上を
瞬き走る街の光りもなまめかしく
足元の流れの中にちらちらする、
目標もなくただ熱心に雨の街をさまよふ
哀れな自分を黒い洋傘の中にみつけた
しつかりと雨にぬれまいとして肩をすぼめ
とほくに強い視線をはなしながら
暗黒から幸福を探らうとしたとき
瞬間の雨の音のなんといふ激しさ、
心の船はまだ沈まないのか
さからふもの、私の彼方にあるもの
お前波よ、私の船をもち運ぶだけで
お前は、遂に私を沈めることができなかつた、
雨の日も、嵐の日も、晴れた日も、
私の船は、ただ熱心に漂泊する
私の心のさすらひは
いかなる相手も沈めることができない、
私の静かな呼吸よ、
地球に落ちてくる雨、
小さな心を防ぐ、大きな洋傘、
豪雨の中に
しばらくは茫然とたちつくして
私は雨の糸にとりかこまれた、
あたゝかい肉体、
生きるものゝ、さまよふ場所の
なんといふ無限の広さだらう
暗黒の空の背後には
星を実らした樹の林があるにちがひない
それを信じることは、私のもの
黒い洋傘の中は、私のもの、
(『流民詩集』昭和22年刊・昭和14年発表)
*
『死と蝙蝠傘の詩』北園克衛
星
その黒い憂愁
の骨
の薔薇
五月
の夜
は雨すら
黒い
壁
は壁のため
の影
にうつり
死
の
泡だつ円錐
の
襞
その
湿つた孤独
の
黒い翼
あるひは
黒い
爪
のある髭の偶像
(『黒い火』昭和26年刊)
そこで懲りもせず、すぐさまスヌーピーの話を始めたが、これは早計だった。ムーミン谷に対してもう少し、いわば喪に服す期間を持った方が良かった。最近何か面白いアニメはと人に問われて『魔法少女まどか☆マギカ』をお薦めしたら、その方は『[新編]叛逆の物語』も続けてご覧になったとかで間を空けた方がよかったかも、とおっしゃっていたが、正鵠を得た感想だろう。あれは文字通り喪に服す間が必要な続編で、(以下『魔法少女まどか』ネタバレ)正編でヒロインたちはことごとく慙死をとげる。ところが続編は正編で起こったことがなかったような設定から、客観的説明もなく展開していき、正編との関連が明らかになった時はとんでもないことになっている。一旦正編はそれで完結したと鑑賞した方が「新編」と正編とのギャップを味わえることになる。
何にせよ、一つのことを片づけたら少しは間を置いた方がいい、ということ、しかも似たようなことをする場合は特にそうだろう。スヌーピーの話は少し後にして、この二週間なら台風の話と季節の変わり目の話でも書いていれば良かった。だいたいこのブログは、下手にうだうだ考えた作文よりも場当たり的な日記の方がましなようだ。昨日などはコンビニに見切り品の野菜(キャベツ一玉50円、人参三本60円とか)を買いに透明ビニール傘をさして行ったら、というのは小雨程度ならビニール傘で十分だし軽いし、無くしても何本か予備があるから近所ならビニール傘を使う方が多いのだが、帰りに傘立てから他人のビニール傘を持ってきてしまった。透明傘はグリップ以外では区別がつきにくいし、それもたいがいは白か黒しかない。
しかも気づいたのは今日で、昨日の帰りは止みかけていたから傘を広げず、わからなかったのだ。ちょっとスーパーでも見てこようとビニール傘を広げたら、もうまともには開かない壊れかけ傘だった。今度晴れている日に同じコンビニに返してくるしかない。
*
ビニール傘を詠んで見事な詩があったら大したものだと思うが、傘を使った映画のラストシーンで最高のものは大和屋竺『裏切りの季節』(昭和41年)だろう。あれならビニール傘でも同じくらい衝撃的だと思う。今日の帰り道は雨は上がっていて、ワンワン吠えているプードルを散歩させているじいさんが立ち止まっている低学年の小学生たちに説明していた。みんな傘を持っているから棒に見えてぶたれると思っているんだよ。安心させてあげようね、といちばん年長の女の子が言って、子供たちは散って行った。小学生の黄色い傘は、色温度で色彩を識別する犬にはかなり怖いかもしれない。
日本の現代詩では黒いこうもり傘を詠んだ傑作が二編ある。20世紀にはこうもり傘と言えばロートレアモンの長編散文詩『マルドロールの歌』1869(「彼は手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのように美しい」という比喩がある)の再評価で詩語に定着していた。日本の現代詩でも、かたやコミュニスト、かたやモダニストの流派でともに古典的な抒情詩を批判した詩人だったがロートレアモンは当然の教養だし、雨を詠うのが抒情とすればこうもり傘はギリギリのラインだったようだ。きわどい成功作とも言えるし、作者の意図と読者の感銘がこの詩ではたぶん、相当かけ違っている。どちらの詩も書き出しが見事で惚れぼれするが、詩人にしてみればそんなことで感心されたいような詩ではないだろう。ここに結晶しているのは共感を拒絶する危機意識のはずで、それはこれらの詩それぞれの書かれた時代には、小さな傘の中の空間にしかなかった。
*
『黒い洋傘』小熊秀雄
争ひもなく一日はすぎた
夜は雨の中を
黒いこうもり傘をさして街に出た
路の上の水の上を
瞬き走る街の光りもなまめかしく
足元の流れの中にちらちらする、
目標もなくただ熱心に雨の街をさまよふ
哀れな自分を黒い洋傘の中にみつけた
しつかりと雨にぬれまいとして肩をすぼめ
とほくに強い視線をはなしながら
暗黒から幸福を探らうとしたとき
瞬間の雨の音のなんといふ激しさ、
心の船はまだ沈まないのか
さからふもの、私の彼方にあるもの
お前波よ、私の船をもち運ぶだけで
お前は、遂に私を沈めることができなかつた、
雨の日も、嵐の日も、晴れた日も、
私の船は、ただ熱心に漂泊する
私の心のさすらひは
いかなる相手も沈めることができない、
私の静かな呼吸よ、
地球に落ちてくる雨、
小さな心を防ぐ、大きな洋傘、
豪雨の中に
しばらくは茫然とたちつくして
私は雨の糸にとりかこまれた、
あたゝかい肉体、
生きるものゝ、さまよふ場所の
なんといふ無限の広さだらう
暗黒の空の背後には
星を実らした樹の林があるにちがひない
それを信じることは、私のもの
黒い洋傘の中は、私のもの、
(『流民詩集』昭和22年刊・昭和14年発表)
*
『死と蝙蝠傘の詩』北園克衛
星
その黒い憂愁
の骨
の薔薇
五月
の夜
は雨すら
黒い
壁
は壁のため
の影
にうつり
死
の
泡だつ円錐
の
襞
その
湿つた孤独
の
黒い翼
あるひは
黒い
爪
のある髭の偶像
(『黒い火』昭和26年刊)