[ 荒川洋治(1949-)『荒川洋治全詩集』刊行時 ]
[『荒川洋治全詩集 1971-2000』思潮社・平成13年=2001年6月刊 ]
ヤフーブログ毎日更新最後の現代詩は現代詩も現代詩、現役現代詩人で締めましょう。荒川洋治(1949-)は福井県生まれの詩人。12歳から地方新聞や同人誌に作品を発表、早稲田大学在学中の1971年(昭和46年)、第1詩集『娼婦論』を卒業制作として刊行しました。出版社勤めのかたわら新人詩人のための専門個人出版社「紫陽社」を経営し、第二詩集『水駅』'75(昭和50年)は詩の新人賞としてもっとも歴史あるH氏賞を受賞して一躍'70年代の新鋭詩人の地位を築きます。1980年に勤務先の出版社の廃業以後は日本では数少ない文筆専業詩人となり、エッセイや詩論も多作になりました。同年生まれの小説家・村上春樹(また俳句の摂津幸彦、短歌の穂村弘ら)と比較や類似を指摘されることも多い詩人ですが(荒川洋治本人は村上春樹との比較に反発していますが)、むしろこれは荒川洋治と比較された作家たちにとって名誉になることなのではないでしょうか。
荒川洋治の評価を決定したのが詩集『水駅』で、なかんずく「見附のみどりに」の一篇でした。荒川の詩法を分析した詩人=批評家・吉本隆明の「この詩人はたぶん若い現代詩の暗喩の意味をかえた最初の、最大の詩人である」(「マス・イメージ論」'82)という評価はまたたく間に現代詩の世界に浸透しました。荒川洋治の代表詩となった「見附のみどりに」と、以降に発表時に大反響を呼んだ挑発的話題作「夜明け前」「美代子、石を投げなさい」も以前ご紹介しましたが、あらためて3編まとめてご紹介しましょう。荒川洋治の第15詩集『空中の茱萸』'99と2000年までの既刊詩集未収録詩編は2001年刊の『荒川洋治全詩集 1971-2000』にまとめられており、荒川洋治の初期の盟友で対照的な詩観・スタイルからのちに批判的なライヴァル関係になった稲川方人(1949-)の『稲川方人全詩集 1967-2001』(平成14年=2002年4月・思潮社刊)と双璧をなす、20世紀末の現代詩の到達点です。稲川方人の詩は一見して難解な(しかし自然な流露感と訴求力のある)ものですが、荒川洋治の詩は一見して平易で洗練された文体ながら一筋縄ではいかない内容のもので、'70年代半ばの荒川洋治・稲川方人の登場以来現代詩ははっきりと表現スタイルが変わりました。以降の新進詩人は直接的または間接的に大なり小なり荒川・稲川両詩人の影響下にあるといってよく、それはこれまでご紹介してきた明治・大正・昭和前半の現代詩から大胆に飛躍をとげた荒川洋治の詩からも納得いただけると思います。21世紀の現代詩はまだこれより革新的なスタイルを確立していないのです。
見 附 の み ど り に
まなざし青くひくく
江戸は改代町への
みどりをすぎる
はるの見附
個々のみどりよ
朝だから
深くは追わぬ
ただ
草は高くでゆれている
妹は
濠ばたの
きよらなしげみにはしりこみ
白いうちももをかくす
葉さきのかぜのひとゆれがすむと
こらえていたちいさなしぶきの
すっかりかわいさのました音が
さわぐ葉陰をしばし
打つ
かけもどってくると
わたしのすがたがみえないのだ
なぜかもう
暗くなって
濠の波よせもきえ
女に向う肌の押しが
さやかに効いた草のみちだけは
うすくついている
夢をみればまた隠れあうこともできるが妹よ
江戸はさきごろおわったのだ
あれからのわたしは
遠く
ずいぶんと来た
いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。
(昭和50年=1975年6月「書紀」/昭和50年9月・第2詩集『水駅』書紀書林刊)
夜 明 け 前
趣味だ
ぼくはプロレタリア文学を
趣味で読むのでございます
と 書くと
津田孝さんあたりからひんしゅくを買うかもしれない
だが半世紀前の
プロレタリアの作品を
読み返す人など
五万人に一人もいないとすれば
趣味で読むことは
いま
たましいで読むことと変わりがあろうか
夜 仕事を終えた今日のひよわな活字プロレタリアート 三十六歳は
心をいやすため
かつての
プロレタリアートを利用する
この十年 男は読んだ
ここかしこドカンドカンと音出す岩藤雪夫
綿! 綿! の須井一
そして見えてくる
夕張の小山清
いい みんないい
ソビエットを行くボールペン里村欣三
平林彪吾の 輸血! 輸血! 輸血!
いいぞ 悲しい 遠い みんないい
ぼくの午前三時は
失われた叫びで鍋のように
へこむ。
それはいま鍋のような
夢のような話ばかりだ
なぜ彼らの作品はかくも魅了するか
無知にさえ とどろくか……
カルピスをのみながら 考えない。
今夜も
趣味の名において
彼らの文学を選ぶ 考えない。
これはまた彼らにとり 鍋のような
夢のような話であるか
午前三時 三〇〇頁
あと一〇〇頁 まだまだ残る まだだ まだだ まだまだだ。
趣味は深夜に及ぶ
趣味だけが 深夜に及ぶのだ
鍋のようだ
夢のようだ
(詩集書き下ろし/昭和61年=1986年3月・第10詩集『ヒロイン』花神社刊)
美 代 子、 石 を 投 げ な さ い
宮沢賢治論が
ばかに多い 腐るほど多い
研究には都合がいい それだけのことだ
その研究も
子供と母親を集める学会も 名前にもたれ
完結した 人の威をもって
自分を誇り 固めることの習性は
日本各地で
傷と痛みのない美学をうんでいる
詩人とは
現実であり美学ではない
宮沢賢治は世界を作り世間を作れなかった
いまとは正反対の人である
このいまの目に詩人が見えるはずがない
岩手をあきらめ
東京の杉並あたりに出ていたら
町をあるけば
へんなおじさんとして石のひとつも投げられであろうことが
近くの石 これが
今日の自然だ
「美代子、石投げなさい」母。
ぼくなら投げるな ぼくは俗のかたまりだからな
だが人々は石を投げつけることをしない
ぼくなら投げる そこらあたりをカムパネルラかなにか知らないが
へんなことをいってうろついていたら
世田谷はなげるな 墨田区立花でも投げるな
所沢なら農民は多いが
石も多いから投げるだろうな
ああ石がすべてだ
時代なら宮沢賢治に石を投げるそれが正しい批評 まっすぐな批評だ
それしかない
彼の矩墨を光らすには
ところがちがう ネクタイかけのそばの大学教師が
位牌のようににぎりしめて
その名前のつく本をくりくりとまとめ
湯島あたりで編集者に宮沢賢治論を渡している その愛重の批評を
ははは と
深刻でもない微笑をそばつゆのようにたらして
宮沢賢治よ
知っているか
石ひとつ投げられない
偽善の牙の人々が
きみのことを
書いている
読んでいる
窓の光を締めだし 相談さえしている
きみに石ひとつ投げられない人々が
きれいな顔をして きみを語るのだ
詩人よ、
きみの没後はたしかか
横浜は寿町の焚火に いまなら濡れているきみが
いま世田谷の住宅街のすべりようもないソファーで
何も知らない母と子の眉のあいだで
いちょうのようにひらひらと軽い夢文字の涙で読まれているのを
完全な読者の豪気よ
石を投げられない人の星の星座よ
詩人を語るならネクタイをはずせ 美学をはずせ 椅子から落ちよ
燃えるペチカと曲がるペットをはらえ
詩を語るには詩を現実の自分の手で 示すしかない
そのてきびしい照合にしか詩の鬼面は現れないのだ
かの詩人には
この世の夜空はるかに遠く
満天の星がかがやく水薬のように美しく
だがそこにいま
あるはずの
石がない
「美代子、あれは詩人だ。
石を投げなさい。」
(平成4年=1992年6月「新潮」/平成6年=1994年10月・第13詩集『坑夫トッチルは電気をつけた』彼方社刊)
[『荒川洋治全詩集 1971-2000』思潮社・平成13年=2001年6月刊 ]
ヤフーブログ毎日更新最後の現代詩は現代詩も現代詩、現役現代詩人で締めましょう。荒川洋治(1949-)は福井県生まれの詩人。12歳から地方新聞や同人誌に作品を発表、早稲田大学在学中の1971年(昭和46年)、第1詩集『娼婦論』を卒業制作として刊行しました。出版社勤めのかたわら新人詩人のための専門個人出版社「紫陽社」を経営し、第二詩集『水駅』'75(昭和50年)は詩の新人賞としてもっとも歴史あるH氏賞を受賞して一躍'70年代の新鋭詩人の地位を築きます。1980年に勤務先の出版社の廃業以後は日本では数少ない文筆専業詩人となり、エッセイや詩論も多作になりました。同年生まれの小説家・村上春樹(また俳句の摂津幸彦、短歌の穂村弘ら)と比較や類似を指摘されることも多い詩人ですが(荒川洋治本人は村上春樹との比較に反発していますが)、むしろこれは荒川洋治と比較された作家たちにとって名誉になることなのではないでしょうか。
荒川洋治の評価を決定したのが詩集『水駅』で、なかんずく「見附のみどりに」の一篇でした。荒川の詩法を分析した詩人=批評家・吉本隆明の「この詩人はたぶん若い現代詩の暗喩の意味をかえた最初の、最大の詩人である」(「マス・イメージ論」'82)という評価はまたたく間に現代詩の世界に浸透しました。荒川洋治の代表詩となった「見附のみどりに」と、以降に発表時に大反響を呼んだ挑発的話題作「夜明け前」「美代子、石を投げなさい」も以前ご紹介しましたが、あらためて3編まとめてご紹介しましょう。荒川洋治の第15詩集『空中の茱萸』'99と2000年までの既刊詩集未収録詩編は2001年刊の『荒川洋治全詩集 1971-2000』にまとめられており、荒川洋治の初期の盟友で対照的な詩観・スタイルからのちに批判的なライヴァル関係になった稲川方人(1949-)の『稲川方人全詩集 1967-2001』(平成14年=2002年4月・思潮社刊)と双璧をなす、20世紀末の現代詩の到達点です。稲川方人の詩は一見して難解な(しかし自然な流露感と訴求力のある)ものですが、荒川洋治の詩は一見して平易で洗練された文体ながら一筋縄ではいかない内容のもので、'70年代半ばの荒川洋治・稲川方人の登場以来現代詩ははっきりと表現スタイルが変わりました。以降の新進詩人は直接的または間接的に大なり小なり荒川・稲川両詩人の影響下にあるといってよく、それはこれまでご紹介してきた明治・大正・昭和前半の現代詩から大胆に飛躍をとげた荒川洋治の詩からも納得いただけると思います。21世紀の現代詩はまだこれより革新的なスタイルを確立していないのです。
見 附 の み ど り に
まなざし青くひくく
江戸は改代町への
みどりをすぎる
はるの見附
個々のみどりよ
朝だから
深くは追わぬ
ただ
草は高くでゆれている
妹は
濠ばたの
きよらなしげみにはしりこみ
白いうちももをかくす
葉さきのかぜのひとゆれがすむと
こらえていたちいさなしぶきの
すっかりかわいさのました音が
さわぐ葉陰をしばし
打つ
かけもどってくると
わたしのすがたがみえないのだ
なぜかもう
暗くなって
濠の波よせもきえ
女に向う肌の押しが
さやかに効いた草のみちだけは
うすくついている
夢をみればまた隠れあうこともできるが妹よ
江戸はさきごろおわったのだ
あれからのわたしは
遠く
ずいぶんと来た
いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。
(昭和50年=1975年6月「書紀」/昭和50年9月・第2詩集『水駅』書紀書林刊)
夜 明 け 前
趣味だ
ぼくはプロレタリア文学を
趣味で読むのでございます
と 書くと
津田孝さんあたりからひんしゅくを買うかもしれない
だが半世紀前の
プロレタリアの作品を
読み返す人など
五万人に一人もいないとすれば
趣味で読むことは
いま
たましいで読むことと変わりがあろうか
夜 仕事を終えた今日のひよわな活字プロレタリアート 三十六歳は
心をいやすため
かつての
プロレタリアートを利用する
この十年 男は読んだ
ここかしこドカンドカンと音出す岩藤雪夫
綿! 綿! の須井一
そして見えてくる
夕張の小山清
いい みんないい
ソビエットを行くボールペン里村欣三
平林彪吾の 輸血! 輸血! 輸血!
いいぞ 悲しい 遠い みんないい
ぼくの午前三時は
失われた叫びで鍋のように
へこむ。
それはいま鍋のような
夢のような話ばかりだ
なぜ彼らの作品はかくも魅了するか
無知にさえ とどろくか……
カルピスをのみながら 考えない。
今夜も
趣味の名において
彼らの文学を選ぶ 考えない。
これはまた彼らにとり 鍋のような
夢のような話であるか
午前三時 三〇〇頁
あと一〇〇頁 まだまだ残る まだだ まだだ まだまだだ。
趣味は深夜に及ぶ
趣味だけが 深夜に及ぶのだ
鍋のようだ
夢のようだ
(詩集書き下ろし/昭和61年=1986年3月・第10詩集『ヒロイン』花神社刊)
美 代 子、 石 を 投 げ な さ い
宮沢賢治論が
ばかに多い 腐るほど多い
研究には都合がいい それだけのことだ
その研究も
子供と母親を集める学会も 名前にもたれ
完結した 人の威をもって
自分を誇り 固めることの習性は
日本各地で
傷と痛みのない美学をうんでいる
詩人とは
現実であり美学ではない
宮沢賢治は世界を作り世間を作れなかった
いまとは正反対の人である
このいまの目に詩人が見えるはずがない
岩手をあきらめ
東京の杉並あたりに出ていたら
町をあるけば
へんなおじさんとして石のひとつも投げられであろうことが
近くの石 これが
今日の自然だ
「美代子、石投げなさい」母。
ぼくなら投げるな ぼくは俗のかたまりだからな
だが人々は石を投げつけることをしない
ぼくなら投げる そこらあたりをカムパネルラかなにか知らないが
へんなことをいってうろついていたら
世田谷はなげるな 墨田区立花でも投げるな
所沢なら農民は多いが
石も多いから投げるだろうな
ああ石がすべてだ
時代なら宮沢賢治に石を投げるそれが正しい批評 まっすぐな批評だ
それしかない
彼の矩墨を光らすには
ところがちがう ネクタイかけのそばの大学教師が
位牌のようににぎりしめて
その名前のつく本をくりくりとまとめ
湯島あたりで編集者に宮沢賢治論を渡している その愛重の批評を
ははは と
深刻でもない微笑をそばつゆのようにたらして
宮沢賢治よ
知っているか
石ひとつ投げられない
偽善の牙の人々が
きみのことを
書いている
読んでいる
窓の光を締めだし 相談さえしている
きみに石ひとつ投げられない人々が
きれいな顔をして きみを語るのだ
詩人よ、
きみの没後はたしかか
横浜は寿町の焚火に いまなら濡れているきみが
いま世田谷の住宅街のすべりようもないソファーで
何も知らない母と子の眉のあいだで
いちょうのようにひらひらと軽い夢文字の涙で読まれているのを
完全な読者の豪気よ
石を投げられない人の星の星座よ
詩人を語るならネクタイをはずせ 美学をはずせ 椅子から落ちよ
燃えるペチカと曲がるペットをはらえ
詩を語るには詩を現実の自分の手で 示すしかない
そのてきびしい照合にしか詩の鬼面は現れないのだ
かの詩人には
この世の夜空はるかに遠く
満天の星がかがやく水薬のように美しく
だがそこにいま
あるはずの
石がない
「美代子、あれは詩人だ。
石を投げなさい。」
(平成4年=1992年6月「新潮」/平成6年=1994年10月・第13詩集『坑夫トッチルは電気をつけた』彼方社刊)