(31)
第四章。
前回は爬虫類や哺乳動物の陰茎や睾丸の話で始終してしまい非常に遺憾だ、とムーミンパパは壁に手をついてうつむきました。慙愧の至りだ。反省、いや猛省。どうせ駄弁るなら魚卵や卵巣の話の方が良かった。私は食べたことはないが、フグの卵巣などあまりの美味さに呂律がまわらなくなり、手足の末端が痺れるほどの珍味というではないか。
そんなことよりわれわれがグルメ談議などしている方が問題だと思うが、とジャコウネズミ博士、われわれムーミン谷の住民はすべからずトロールなのだから本来食事は摂取する必要はない、食生活の習慣を演じているのも文化的なファッションに過ぎないと言ってのけたのは他ならぬ君じゃないかね?
言いましたっけ?
言ってたよ、第1回で。
ムーミンパパはスマホを取り出すと『偽ムーミン谷のレストラン・改』(1)をタップサーチしてみました。おや、これは。
これが何かね?
確かに私はこういうことを言ったかもしれません、とムーミンパパ。しかし人は日々変化する生き物です。
きみは人じゃないだろ。トロールだろ。
それを言えば博士だってトロールです。
つまり何か?君はこの期に及んで人間宣言しようというのかね?
私にだってフグの白子くらいは食べる権利があります。生食するとなお旨いそうじゃありませんか。
その時地球の裏側では、ムーミンパパが先代ムーミンだったころムーミンのテレビアニメが大好きだったかつて少女だった初老の女性が寝返りをうとうとしていました。寝たきりになってから長く、病状の進行を緩慢にする程度の治療法しかないので彼女は確実に生涯の終わりに向かって進んでいました。ちっとも特別なことじゃない、と彼女は思いました、誰だって死ぬんだもの。私の場合は生きてきたあかしも愛も幸福な思い出もないまま朽ちていくだけ。それだけのことだわ。
人間なんてつまらないものです、とムーミンパパ、その証拠にわれわれトロールがいる。トロールは人間の夢から生まれたのだから、われわれは人間の夢の貧弱さの結晶なのです。そうムーミンパパは得意げに言うと、右前肢の拇指をグッと突き上げました。こんな軽薄なトロールは嫌なものです。
次の瞬間、ムーミンパパの被っていたシルクハットと愛用のステッキがぱたん、と床に転げ落ちました。
本体は消えたようだな、とジャコウネズミ博士。われわれトロールでさえも無限の存在ではないということだ。
(32)
肩身が狭いな、とジャコウネズミ博士が言いました、馬鹿担当のムーパパが消えると、われわれのうちの誰かに道化の役割が回ってくるのではないか。やれやれだな。
ああ勘弁願いたいね、とヘムレンさん。これも順繰りだから仕方ないが、少なくとも年内だけでも私はご免こうむりたいな。
どうしてです、とスノーク。考えようによっては、ムーミンパパの代役なんて通常できることではない、この谷では名誉の極みではないですか。それを避ける根拠は……
ないね、とヘムル署長。ムーミン谷には法律がある。すなわちそれは私のことなのだが、法にはそれに伴う精神というものがある。
はあ、とスノーク。
たとえばムーミン谷中央広場にはハトが乱舞している時がある。谷の住人は糞害や(ハトの糞害はあなどれないからな)急襲(凶暴化したハトの爪とくちばしは手がつけられない)を避けて決してハトには見つからないようにするのだが、ムーミンパパは違うのだ。わきの下に猟銃を挟んでせっせと広場に駆けつける。
死闘は4時間くり広げられました。というのは広場の時計は朝の8時から夕方5時まで3時間刻みに鳴り響くのですが、老朽化しているので3時間進むのに4時間かかるのです。午後2時らしき鐘から次の鐘まででムーミンパパは公園じゅうのハトを惨殺し終えると、撃ちつくした猟銃を杖にひと休みしようとしてバランスを崩してもんどり打ちました。
あれは酸鼻をきわめた、とヘムル署長、ムーミンパパは弾丸が尽きると両手に出刃包丁を構えて殺戮の限りを尽くした。ムーミンパパは見境いつかなくなりホームレスやカップルや小学生の犠牲者も多かった。だからたとえ一時的にハトのさかりがついて糞害がひどかろうと、食用屠殺が目的地だろうと、それがハトでも手当たり次第に惨殺してまわるのは新たにムーミン谷条令で禁じられたのだ。
ではムーミンパパは?
条令の施行前だから無罪、というかそもそもムーミンパパを取り締まることのできる法律はムーミンパパが騒ぎをやらかしてからようやく作られる。期限つきの条令ならば期限が切れた頃になってやらかす。ある意味では、ムーミンパパはこの谷にとってぎりぎり耐え得る平和の指標でもあるのだ。
平和?とスノークは訊き返しました、災厄の間違いではないですか?
そうとも言う、とジャコウネズミ博士。しかし平和も災厄も天命ならば、そこに何の違いがあるのかな?
そんな適当な……。
(33)
スナフキンは現地での生活必需品はすべて現地調達するつもりでしたので、ナップザックには役にも立たない文庫本(『銀河鉄道の夜』と『赤頭巾ちゃん気をつけて』)や最小限の下着、筆記用具くらいしか入れてきていませんでした。今やスナフキンは買い物もままならない身でしたから、廃棄された食材類(残飯とも言います)で飢えをしのぎ、衣類はコインランドリーから調達する始末でした。ひと目で怪しい衣類とわかるのは、そんな事情があったために統一感のまったく欠けた組み合わせの服装をせざるを得なかったからです。
まるで素人の書いたラノベの主人公のような体たらくだ、とスナフキンは谷の外れで昼間の隠れ家にしているボーボボ原の、おどろ沼の水面に姿を映してため息をつきました。現在各種ステイタスはすべてゼロ、どんなファンタジーアドヴェンチャーだって普通は初期設定でも何かしら特技が備わっているはずで、そうでもなければ状況を切り開く糸口すら見つけられません。ところがこれではおれはとことん落ちるところまで落ちたホームレスそのものではないか(とスナフキンは差別的に考えましたが、これはスナフキンの思考ですからそのままトレースするしかありません)。ホームレス?
論理的に考えれば、ホームレスが存在する社会とは多数を占める国民の中間層に一定した経済条件が保障されている状態でなければならないはず、とスナフキンは考えました。ですがスナフキンの見たところ、ムーミン谷とは資本主義的にも共産主義的にも、または帝政、共和制、民主制のいずれでもない、一定の成立基盤を欠いた社会のようでした。原始共産制?どう見てもそういうものとも違います。
おとぎの国じゃあるまいし、とスナフキンはプッと歯の混じった血痰を吐きましたが(スナフキンは乱闘から帰ったばかりで、ぐらついていた歯がついに抜けたのす)、もし暴力沙汰の有無をもっておとぎの国の是非を疑っているにせよ、どんなおとぎの国であれストリート・ファイトすらないユートピアなどないでしょう。むしろ話は逆で、面白いことしか起こらない世界こそがユートピアなのですから、もしユートピアがあるならばそれは愛欲や犯罪、戦争に満ちてこそその名に相応しいのです。
ひょっとしておれは試されているのではなかろうか、とスナフキンには疑わしく思えてくるのでした。おれが測量士として不要とされたのも、同じ理由からなのではないか。
(34)
ムーミン谷経済学講座番外編。
イナゴ投資家、または単にイナゴと証券業界から呼ばれる一部の個人投資家たちはテレビやネット、SNSの情報から素早く有価証券を売買をし、その回転売価によってタワー状の株価チャートを引き起こします。その株価急騰・急落の動きは激しく、このように急に現れて利食いをした後すぐ別の銘柄に当たる投資行動を、秋になると一斉に繁殖し稲穂を食い尽くすイナゴにたとえて、業界関係者らはイナゴ投資家または単にイナゴと呼びます。
イナゴ投資家の取引は特定銘柄の株価の暴騰直後に一転して急落することが多く、こうした一連の値動きをチャートにすると暴騰と急落の動きがタワーのような形状をなすことからイナゴタワーと呼ばれてます。イナゴタワーが形成されると結果的に暴騰前の価格を割り込む水準まで株価が落ち、しかも落ちた後の株価が暴騰前の水準まで戻るにもかなりの時間がかかる場合がたびたびあると言われます。
イナゴ投資家は信用取引無限回転という信用取引の規制緩和の影響で2013年1月から発生しました。イナゴ投資家とは短期で材料株の回転売買を繰り返す個人投資家であり、その規制緩和の影響で従来の大口の、個人投資家の中でもとりわけデイトレーダーと呼ばれる日中に売買の決済を行って利益を得ようとする投資家の売買動向が変化したことで登場した投資家の種類の一つであり、それ以前は1日に大手の取引制限が設けられていました。
規制緩和が実施される以前は同じ資金では1日につき1回のみしか信用取引での新規買い(売り)ができなかったため、大きな値幅が取れる可能性のある仕手株や材料株などの銘柄を売買するのがデイトレーダーの主な投資行動でした。しかしこの規制緩和以来1日にごく僅かな利ザヤでも幾度も取引を重ねれば、大きな収益を期待できます。またその特性から保有時間を短くできるようになりリスクも大きく抑制できるため、短期で材料株の回転売買を繰り返すイナゴ投資家が増加しました。また2014年7月の東証主力株では最小0.1円単位まで値刻みが縮小されたのもイナゴ投資家に有利になり、ますます短期で回転売買を行う投資家が増加する一因となったのです。
なお、このような規制緩和が実施される以前は、イナゴ投資家とは上述した意味とは異なり、年末の資金手当てを目的に、秋に株式の含み益を確定させる個人投資家らのことを指していたといいます。
(35)
ムーミン谷経済学講座番外編(続)。
一説によると、イナゴタワー(前回詳述)を形成するイナゴ投資家には、以下のような種類があるといいます。
●高速イナゴ : 電光石火のようなスピードを持ち味とするイナゴ。銘柄に関する材料となる情報が出るやいなや内容の確認などはせず、とりあえず飛びついて取引を行います。他のイナゴが乗り遅れる銘柄の暴騰にいち早く間にあう点で強みがある一方、大した材料とならないような内容の情報も少なくないことから、結局のところ損切りで終わってしまう方が多いとされます。また、まれに「共食いイナゴ」(後述)に変化すると言われます。
●下級イナゴ : 銘柄に関する情報が流れた際に、その情報を分析する能力を備えたイナゴ。しかしその分析能力は極めて低いため「凄そう」という程度の理由でも飛びつき取引してしまいます。情報分析に時間がかかる分だけ高速イナゴより乗り遅れることも多く、共食いイナゴの「エサ」になる場合も多いとされます。
●上級イナゴ : 下級イナゴの変化系。情報精査に関する能力が格段にアップしており、無駄打ちが少ないのが特徴。あえて他のイナゴ達が荒らした後に入る戦略も多いものの、その分乗り遅れる場合も多いので「イナゴ心」を忘れてしまったイナゴとされています。
●養分イナゴ : 他のイナゴのATM代わりに存在するイナゴ。株価の上昇が終わった銘柄に飛び乗り、皆にお金をばらまいています。自分が損した銘柄の情報提供者への怨恨は凄まじく、しばしば「煽りイナゴ」(後述)に進化します。
●煽りイナゴ : 養分イナゴの変化系。ただお金をばらまくだけだったのが、執拗な買い煽りを繰り返し、皆を巻き込もうとする特殊能力が備わった迷惑極まりないイナゴです。
●共食いイナゴ : 高速イナゴの進化系。誰よりも早く乗った銘柄を、遅れてきたイナゴに売りつける冷酷非情な「イナゴ殺し」のイナゴで、昨今ではこのタイプの台頭が凄まじく、高騰銘柄が長続きしない元凶にもなっています。別名「ババ抜きイナゴ」。
●殿様イナゴ : イナゴ界のレジェンド。特定の掲示板などで崇拝されているイナゴで、他のイナゴとは違い、あえて先に特定の銘柄を仕込み、その後ひたすら銘柄名を叫ぶことによってイナゴ達を飛びつかせる手法を取ります。叫んだ銘柄は必ず騰がるので負け知らずの名実ともに「最強イナゴ」です。
次回は投資の発祥について学びます。
(36)
集中豪雨でそこそこ気温は下がったが、やはり湿度は高いな、とムーミンパパは換気扇を回すよう命じるとパイプを手にとり、例えばこの中に3つの文明が結びついている、と煙草の葉を詰めながら講釈しました。まず自然薬物学、いわゆる本草学の文明。それから喫煙文化の文明。さらに輸出入商品の文明と税制経済に関わる特別課税の文明だ。
それじゃ4つじゃんと突っ込む客は誰もいませんでした。なるほど、とスノークは鼻筋をなぞりながらうなずきました。つまり鼻くそ処理にも3つの文明があることになりますね。第1に生理学の鼻くそ文明、第2に衛生学の鼻くそ文明、そして最後に美容術の鼻くそ文明となるはずですが、われわれトロールの鼻の孔は見かけだけだからどのみちあまり関係ないありますん。概念として鼻くそほじりという仕草を知っているだけです。パイプ煙草を止められないのとは事情が違います。
私だって喫いたくて喫っているんじゃない、とムッとしてムーミンパパ。結婚を境に先代ムーミンの私はムーミンパパと呼ばれる身分になり、それに伴い私の頭にはシルクハット、掌には喫煙用パイプが生えてきたのだ。パイプはまだしもだった。私だってハイティーンの頃には旨いとも思わず紙巻き煙草を嗜んだ過去がある。だが全裸にシルクハットだけの姿とはどうだろうか。最初私は慣れの問題にすぎないだろうと思ったのだが……。
ムーミンパパはひと息つき、もちろんその程度で驚くムーミン谷の隣人はいなかった。このシルクハットはよく躾の利いたやつで、礼儀作法の必要な時や、入浴や就寝時には着脱可能という融通も備えていた。だが私は気づいたのだ、すなわち私は今やそれらの物象によりムーミン谷と結びついた存在で、私という記号はそれなしにはムーミンパパと認識されないほどアイデンティティを上書きされてしまったのではないか。つまりそこには私ではない、物象がまず先にあるのだ。
何それ、ウケるぅ、とフローレンが不敬なせせら笑いをしました。ボーイフレンドのお父さんにそれはないですが、実は偽フローレンだったので反射的にコギャル的脊椎反応をしてしまったのです。
それって人としてどうよ、とムーミンもつられて若者ことばで父親を嘲りました。実はこちらも偽ムーミンですし公称年齢では若者ことばを使うのに不自然はないですが、ムーミン族はトロールですからトロールどうしが「人として」と言っても無意味です。
(37)
そうだ、このレストランを建てたのは単に私たちの合同披露宴のためではない、とムーミンパパ(当時先代ムーミン)はロッドユールに目配せしました。ロッドユールは唐突に同意を求められても即座に返答できませんでしたが、ムーミンパパとのつきあいではこんなこともよくあるのです。もちろんそれに乗るか拒むかはロッドユール次第なのですが、慎重に考えて支度を整えてから物事にとりかかるロッドユールと勢い一発のムーミンパパが手を組んで挑んできた数々の冒険にしても100%の満足を勝ち得たことはまずなく、ならばその場しのぎの思いつきで事に当たっただけのムーミンパパの方が失策についてもより後悔が少ないのが馬鹿正直に几帳面なロッドユールには羨望が止みませんでした。公正に考えれば6割の成功・4割の失敗だった場合に成功のほとんどはロッドユールの功績で、失敗はすべてずぼらなムーミンパパに帰するとしても、ムーミンパパは冒険の成功を喜びロッドユールは落ち度を悔やむのが彼らの悪因縁でした。ですからロッドユールが考えてもいなかったことをムーミンパパが思いついた時には、ロッドユールには反対も賛成もなくただただ従っていくしかなかったのです。自分にはない部分を補いあっている点では彼らは理想的な関係とも言えましたが、谷にとってもこの2人組のみやげ話が唯一外界との通路になっている貢献を歓んではいるものの、彼らがどこかへ冒険しに出かけている時がもっとも平穏でした。冒険家からは足を洗って嫁を取って家庭に入ります、というのも結構なことでした。ただし花嫁2人がおしゃれなレストランで披露宴をしたい、などと谷にはありもしない施設で挙式を熱望する意思を表明するまではの話です。谷の知識人層を代表するヘムレンさんやジャコウネズミ博士、ヘムル署長やトゥーティッキさん、フィリフヨンカさんらですらレストランは別世界の建物という認識しかなく(建物という推測すら怪しく)、谷で唯一留学経験を自称するスノークもムーミン谷を出た記録は一切なく、留学経験が嘘ではないにしてもおそらく留学経験の記憶を備えて生まれてきただけではないかと思われるのです。こういう場合手っ取り早い手段ならお前ら何様だと花嫁たちをボコボコにするのがいちばんですが、結婚を決めた花嫁ほど世界の中心を陣取り何事だろうと押し通す恐ろしい存在はいないのは、世間に疎い谷の住民ですら周知のことでした。
(38)
このカバ!と花嫁のフローレンまたはノンノンこと現在のムーミンママは罵りました。カバ?それが何だというのだ、とムーミンこと現在のムーミンパパ。まあそうだよな、と親友ロッドユールは思いました。こういう話を知っているかな?と平然とムーミンパパ、昔むかしあるカバが神を呼び止めて願い事をしました、神さま、私たちは河に住みたいのです。どうか河に住む許可をいただけませんか。
駄目だ、と神さまは言うと、カバをしげしげと観察しました。首らしき頭と胴体の区別もないずんぐりした体に短かすぎる四肢、滑稽な尻尾、あらゆる意味で醜い存在ですがそれがカバの美の基準なのです。駄目だ、と神さまは言いました。
そんな、何故ですかと問うカバ。お前たちが河に住んだらきっと魚を喰い尽くすに決まっている、と神さま。では私たちは糞をする度に尻尾で一列に並べます、とカバ、そうしたら糞に魚の骨が混ざっていないか神さまもご覧になれるでしょう。
ならば良かろう、と神さまは言いました。それでカバは河に住むようになったのです。……実際カバは基本的には草食で、ところが近年草食動物のほとんどが積極的な捕食ではないが、手近な死骸を食することは普通に行うとわかってきた。カバが水中に住むのはクジラに次ぐ大きな体躯の哺乳類で陸棲には不向きな巨体でもあり、皮膚組織が水棲に順応して直射日光に耐えられないからでもある。
意外だがカバには水泳能力はまったくない。陸上では最高時速40kmの意外な駿足が観測されるが長時間の陸上活動はきびしい。さて、これでも私はこのカバ呼ばわりされなければならないのかな?
カバは川棲であることから淡水水源を起点とした古代文明圏で文明発祥時から観察されてきた最古の哺乳動物でもあるが、それほど身近でありながら飼育化され家畜化されなかった最古の哺乳動物でもある。緩慢そうな外観に反して性質は極めて獰猛で縄張りに厳しく、縄張り内では常に虐殺を伴うボス争いがあり、群れのボスは縄張りに侵入する外敵があれば直ちに虐殺する。つまりカバとは棲息圏の棲み分けをする以外に共存はできないのだ。これはカバが異種生物との共存を考える文化を持たない種族であることを意味する。
さてさて、これでも私はカバ呼ばわりされなければならないのかな?神さまとカバの寓話はあくまで寓話だが、現実のカバは神の存在を必要としない実在するツァラトゥストラでもあるのだ。
(39)
カバの存在は非常に興味深い、トジャコウネズミ博士が言いました、肉質がもっともヒトに近いことで栄養価の高いブタに似ているが実際の肉質は牛肉に近く、さらに種としてはクジラに近い種族であることも知られている。ならば家畜化して食肉にできそうなもなものだが、野生のカバは狂暴きわまりない性質から巌として家畜化を拒んでいるのだ。
いや、ウシは神さまだったはずでないかな、とヘムレンさん。それに豚は相当近代まで不浄の動物とされていたはずだ。
クジラ漁、いわゆるいさなとりというのは古代からあったようだが、とジャコウネズミ博士は首を傾げ、あれはアレかな、クジラは魚という認識だったからかな。
博士たちは古代の荒れた海原に巨大なクジラと格闘する漁師たちの姿をイメージして陶然たる思いに浸りました。クジラは紀元前1300万年前でも比較的新しい種と言えるほど太古から存在していたのが化石から確認されていますが、紀元前1300万年前というと紀元前14万世紀以前という途方もない年号になります。ムーミン谷にはせいぜい3代前の歴史しかありませんし、世代交代したところでムーミン谷はしょせんムーミン谷ですから、紀元前14万世紀のマッコウクジラの記憶をバトンリレーしてきた歴史の堆積はありません。
ムーミン谷の住民の直接知る海は西の海岸に拓けるしょぼいボスニア湾より他になく、あとはテレビの観光番組や映画、図書館の本で水平線も見えない巨大な大海原というものがある、と知識でだけ知っているだけです。
いや、クジラはとても魚どころではありませんぞ、と自称元探検家のムーミンパパが割り込んできました。あれはロッドユールと台風の海に漕ぎ出した時のことです。
何でまたわざわざ台風なのに漕ぎ出したのかね?とヘムル署長、わざわざ遭難しに行くようなものではないか。
それは船を予約してたんです、とムーミンパパ、キャンセルして金だけ取られるくらいなら遭難覚悟で船出するのが冒険者というものなのです。なあ?とムーミンパパはロッドユールに迷惑な同意を求めました。
わかった、それでさぞ海は大荒れだったんだろうね。
そこですよ、とムーミンパパは言いました、台風だと思ったのは実は台風どころではなかったんです。伝説の海の巨大悪魔リヴァイアサン、クジラの王たる王が超弩級の嵐を巻き起こしている真っ最中の海に、私たちは知らないうちに出航してしまったのです。
(40)
お話中たいへん失礼いたしますが、とウェイターがいつの間にかムーミンパパたちの背後に現れていました。そろそろご注文はお決まりでしょうか?
今確かに失礼と言ったな、とムーミンパパが鬼の首をとったかのように詰問しました、ああ失礼だ。実に大変失礼だぞ。
まああなた、とムーミンママがバッグにしのばせたムーンライトステッキをいつでも取り出せるように握りながらなだめました。セーラームーンならばムーンプリズムシャワーで浄化させるだけですがムーミンママの場合は延髄を一撃して神経麻痺の実力行使で黙らせるのがステッキの使用法です。こんなに周りに大勢集まっている場でそんな荒技に出れば本当ならば大騒ぎなのですが、ムーミン谷の住民は一部の例外的存在を除いて都合の悪いことは目に入らない美徳を備えておりましたから、ムーミンママがムーンステッキをムーミンパパの延髄に打ち込んだとしてもその間は時間は一時停止しているようなものでした。だいたいムーミンママがそうするからには谷の正義はムーミンママの方にあるのですから、見て見ぬふりにも正当な理由があるというものです。
一部の例外というのは他ならぬ偽ムーミンでした。それを思うと偽ムーミンはいつでも背筋が凍る思いがしました。ムーミンママが偽ムーミンの入れ替わりを排除しようとすればおそらく谷の住民全員の記憶から偽ムーミンを消去できるのです。こんにちは、ムーミンいますか(とムーミンのガールフレンドのフローレン、または友だちのスニフが訪ねてきたとして)?うちにはそんな子はいませんよ、とフローレンやスニフの記憶を消し、それから偽ムーミン自身の記憶も消してしまい、ムーミン本人が戻ってきてからムーミンについての記憶を回復させれば、後は偽ムーミンの残骸が一切の記憶を失くして、またムーミンママ以外の誰の記憶からも消えておさびし山の藪の中を行き倒れるまでさ迷うしかありません。
はらはら偽ムーミンが見守っていると、まあまあまあ、と谷の良識、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士とヘムル署長がムーミンパパをなだめました。ここはウェイターの顔を立ててそろそろ注文しようじゃないか。
やでい!とムーミンパパは三船敏郎みたいにゴネました。だいたい何で今になって急に注文を急かされなきゃならないんだよお。ヘムレンさんたちは顔を見合わせました。それはさ、ここまででもう全八章の半分だからさ。
第四章完。
(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第一部改作版・既出2016年6月~2017年7月、全八章・80回完結予定=未完)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)
第四章。
前回は爬虫類や哺乳動物の陰茎や睾丸の話で始終してしまい非常に遺憾だ、とムーミンパパは壁に手をついてうつむきました。慙愧の至りだ。反省、いや猛省。どうせ駄弁るなら魚卵や卵巣の話の方が良かった。私は食べたことはないが、フグの卵巣などあまりの美味さに呂律がまわらなくなり、手足の末端が痺れるほどの珍味というではないか。
そんなことよりわれわれがグルメ談議などしている方が問題だと思うが、とジャコウネズミ博士、われわれムーミン谷の住民はすべからずトロールなのだから本来食事は摂取する必要はない、食生活の習慣を演じているのも文化的なファッションに過ぎないと言ってのけたのは他ならぬ君じゃないかね?
言いましたっけ?
言ってたよ、第1回で。
ムーミンパパはスマホを取り出すと『偽ムーミン谷のレストラン・改』(1)をタップサーチしてみました。おや、これは。
これが何かね?
確かに私はこういうことを言ったかもしれません、とムーミンパパ。しかし人は日々変化する生き物です。
きみは人じゃないだろ。トロールだろ。
それを言えば博士だってトロールです。
つまり何か?君はこの期に及んで人間宣言しようというのかね?
私にだってフグの白子くらいは食べる権利があります。生食するとなお旨いそうじゃありませんか。
その時地球の裏側では、ムーミンパパが先代ムーミンだったころムーミンのテレビアニメが大好きだったかつて少女だった初老の女性が寝返りをうとうとしていました。寝たきりになってから長く、病状の進行を緩慢にする程度の治療法しかないので彼女は確実に生涯の終わりに向かって進んでいました。ちっとも特別なことじゃない、と彼女は思いました、誰だって死ぬんだもの。私の場合は生きてきたあかしも愛も幸福な思い出もないまま朽ちていくだけ。それだけのことだわ。
人間なんてつまらないものです、とムーミンパパ、その証拠にわれわれトロールがいる。トロールは人間の夢から生まれたのだから、われわれは人間の夢の貧弱さの結晶なのです。そうムーミンパパは得意げに言うと、右前肢の拇指をグッと突き上げました。こんな軽薄なトロールは嫌なものです。
次の瞬間、ムーミンパパの被っていたシルクハットと愛用のステッキがぱたん、と床に転げ落ちました。
本体は消えたようだな、とジャコウネズミ博士。われわれトロールでさえも無限の存在ではないということだ。
(32)
肩身が狭いな、とジャコウネズミ博士が言いました、馬鹿担当のムーパパが消えると、われわれのうちの誰かに道化の役割が回ってくるのではないか。やれやれだな。
ああ勘弁願いたいね、とヘムレンさん。これも順繰りだから仕方ないが、少なくとも年内だけでも私はご免こうむりたいな。
どうしてです、とスノーク。考えようによっては、ムーミンパパの代役なんて通常できることではない、この谷では名誉の極みではないですか。それを避ける根拠は……
ないね、とヘムル署長。ムーミン谷には法律がある。すなわちそれは私のことなのだが、法にはそれに伴う精神というものがある。
はあ、とスノーク。
たとえばムーミン谷中央広場にはハトが乱舞している時がある。谷の住人は糞害や(ハトの糞害はあなどれないからな)急襲(凶暴化したハトの爪とくちばしは手がつけられない)を避けて決してハトには見つからないようにするのだが、ムーミンパパは違うのだ。わきの下に猟銃を挟んでせっせと広場に駆けつける。
死闘は4時間くり広げられました。というのは広場の時計は朝の8時から夕方5時まで3時間刻みに鳴り響くのですが、老朽化しているので3時間進むのに4時間かかるのです。午後2時らしき鐘から次の鐘まででムーミンパパは公園じゅうのハトを惨殺し終えると、撃ちつくした猟銃を杖にひと休みしようとしてバランスを崩してもんどり打ちました。
あれは酸鼻をきわめた、とヘムル署長、ムーミンパパは弾丸が尽きると両手に出刃包丁を構えて殺戮の限りを尽くした。ムーミンパパは見境いつかなくなりホームレスやカップルや小学生の犠牲者も多かった。だからたとえ一時的にハトのさかりがついて糞害がひどかろうと、食用屠殺が目的地だろうと、それがハトでも手当たり次第に惨殺してまわるのは新たにムーミン谷条令で禁じられたのだ。
ではムーミンパパは?
条令の施行前だから無罪、というかそもそもムーミンパパを取り締まることのできる法律はムーミンパパが騒ぎをやらかしてからようやく作られる。期限つきの条令ならば期限が切れた頃になってやらかす。ある意味では、ムーミンパパはこの谷にとってぎりぎり耐え得る平和の指標でもあるのだ。
平和?とスノークは訊き返しました、災厄の間違いではないですか?
そうとも言う、とジャコウネズミ博士。しかし平和も災厄も天命ならば、そこに何の違いがあるのかな?
そんな適当な……。
(33)
スナフキンは現地での生活必需品はすべて現地調達するつもりでしたので、ナップザックには役にも立たない文庫本(『銀河鉄道の夜』と『赤頭巾ちゃん気をつけて』)や最小限の下着、筆記用具くらいしか入れてきていませんでした。今やスナフキンは買い物もままならない身でしたから、廃棄された食材類(残飯とも言います)で飢えをしのぎ、衣類はコインランドリーから調達する始末でした。ひと目で怪しい衣類とわかるのは、そんな事情があったために統一感のまったく欠けた組み合わせの服装をせざるを得なかったからです。
まるで素人の書いたラノベの主人公のような体たらくだ、とスナフキンは谷の外れで昼間の隠れ家にしているボーボボ原の、おどろ沼の水面に姿を映してため息をつきました。現在各種ステイタスはすべてゼロ、どんなファンタジーアドヴェンチャーだって普通は初期設定でも何かしら特技が備わっているはずで、そうでもなければ状況を切り開く糸口すら見つけられません。ところがこれではおれはとことん落ちるところまで落ちたホームレスそのものではないか(とスナフキンは差別的に考えましたが、これはスナフキンの思考ですからそのままトレースするしかありません)。ホームレス?
論理的に考えれば、ホームレスが存在する社会とは多数を占める国民の中間層に一定した経済条件が保障されている状態でなければならないはず、とスナフキンは考えました。ですがスナフキンの見たところ、ムーミン谷とは資本主義的にも共産主義的にも、または帝政、共和制、民主制のいずれでもない、一定の成立基盤を欠いた社会のようでした。原始共産制?どう見てもそういうものとも違います。
おとぎの国じゃあるまいし、とスナフキンはプッと歯の混じった血痰を吐きましたが(スナフキンは乱闘から帰ったばかりで、ぐらついていた歯がついに抜けたのす)、もし暴力沙汰の有無をもっておとぎの国の是非を疑っているにせよ、どんなおとぎの国であれストリート・ファイトすらないユートピアなどないでしょう。むしろ話は逆で、面白いことしか起こらない世界こそがユートピアなのですから、もしユートピアがあるならばそれは愛欲や犯罪、戦争に満ちてこそその名に相応しいのです。
ひょっとしておれは試されているのではなかろうか、とスナフキンには疑わしく思えてくるのでした。おれが測量士として不要とされたのも、同じ理由からなのではないか。
(34)
ムーミン谷経済学講座番外編。
イナゴ投資家、または単にイナゴと証券業界から呼ばれる一部の個人投資家たちはテレビやネット、SNSの情報から素早く有価証券を売買をし、その回転売価によってタワー状の株価チャートを引き起こします。その株価急騰・急落の動きは激しく、このように急に現れて利食いをした後すぐ別の銘柄に当たる投資行動を、秋になると一斉に繁殖し稲穂を食い尽くすイナゴにたとえて、業界関係者らはイナゴ投資家または単にイナゴと呼びます。
イナゴ投資家の取引は特定銘柄の株価の暴騰直後に一転して急落することが多く、こうした一連の値動きをチャートにすると暴騰と急落の動きがタワーのような形状をなすことからイナゴタワーと呼ばれてます。イナゴタワーが形成されると結果的に暴騰前の価格を割り込む水準まで株価が落ち、しかも落ちた後の株価が暴騰前の水準まで戻るにもかなりの時間がかかる場合がたびたびあると言われます。
イナゴ投資家は信用取引無限回転という信用取引の規制緩和の影響で2013年1月から発生しました。イナゴ投資家とは短期で材料株の回転売買を繰り返す個人投資家であり、その規制緩和の影響で従来の大口の、個人投資家の中でもとりわけデイトレーダーと呼ばれる日中に売買の決済を行って利益を得ようとする投資家の売買動向が変化したことで登場した投資家の種類の一つであり、それ以前は1日に大手の取引制限が設けられていました。
規制緩和が実施される以前は同じ資金では1日につき1回のみしか信用取引での新規買い(売り)ができなかったため、大きな値幅が取れる可能性のある仕手株や材料株などの銘柄を売買するのがデイトレーダーの主な投資行動でした。しかしこの規制緩和以来1日にごく僅かな利ザヤでも幾度も取引を重ねれば、大きな収益を期待できます。またその特性から保有時間を短くできるようになりリスクも大きく抑制できるため、短期で材料株の回転売買を繰り返すイナゴ投資家が増加しました。また2014年7月の東証主力株では最小0.1円単位まで値刻みが縮小されたのもイナゴ投資家に有利になり、ますます短期で回転売買を行う投資家が増加する一因となったのです。
なお、このような規制緩和が実施される以前は、イナゴ投資家とは上述した意味とは異なり、年末の資金手当てを目的に、秋に株式の含み益を確定させる個人投資家らのことを指していたといいます。
(35)
ムーミン谷経済学講座番外編(続)。
一説によると、イナゴタワー(前回詳述)を形成するイナゴ投資家には、以下のような種類があるといいます。
●高速イナゴ : 電光石火のようなスピードを持ち味とするイナゴ。銘柄に関する材料となる情報が出るやいなや内容の確認などはせず、とりあえず飛びついて取引を行います。他のイナゴが乗り遅れる銘柄の暴騰にいち早く間にあう点で強みがある一方、大した材料とならないような内容の情報も少なくないことから、結局のところ損切りで終わってしまう方が多いとされます。また、まれに「共食いイナゴ」(後述)に変化すると言われます。
●下級イナゴ : 銘柄に関する情報が流れた際に、その情報を分析する能力を備えたイナゴ。しかしその分析能力は極めて低いため「凄そう」という程度の理由でも飛びつき取引してしまいます。情報分析に時間がかかる分だけ高速イナゴより乗り遅れることも多く、共食いイナゴの「エサ」になる場合も多いとされます。
●上級イナゴ : 下級イナゴの変化系。情報精査に関する能力が格段にアップしており、無駄打ちが少ないのが特徴。あえて他のイナゴ達が荒らした後に入る戦略も多いものの、その分乗り遅れる場合も多いので「イナゴ心」を忘れてしまったイナゴとされています。
●養分イナゴ : 他のイナゴのATM代わりに存在するイナゴ。株価の上昇が終わった銘柄に飛び乗り、皆にお金をばらまいています。自分が損した銘柄の情報提供者への怨恨は凄まじく、しばしば「煽りイナゴ」(後述)に進化します。
●煽りイナゴ : 養分イナゴの変化系。ただお金をばらまくだけだったのが、執拗な買い煽りを繰り返し、皆を巻き込もうとする特殊能力が備わった迷惑極まりないイナゴです。
●共食いイナゴ : 高速イナゴの進化系。誰よりも早く乗った銘柄を、遅れてきたイナゴに売りつける冷酷非情な「イナゴ殺し」のイナゴで、昨今ではこのタイプの台頭が凄まじく、高騰銘柄が長続きしない元凶にもなっています。別名「ババ抜きイナゴ」。
●殿様イナゴ : イナゴ界のレジェンド。特定の掲示板などで崇拝されているイナゴで、他のイナゴとは違い、あえて先に特定の銘柄を仕込み、その後ひたすら銘柄名を叫ぶことによってイナゴ達を飛びつかせる手法を取ります。叫んだ銘柄は必ず騰がるので負け知らずの名実ともに「最強イナゴ」です。
次回は投資の発祥について学びます。
(36)
集中豪雨でそこそこ気温は下がったが、やはり湿度は高いな、とムーミンパパは換気扇を回すよう命じるとパイプを手にとり、例えばこの中に3つの文明が結びついている、と煙草の葉を詰めながら講釈しました。まず自然薬物学、いわゆる本草学の文明。それから喫煙文化の文明。さらに輸出入商品の文明と税制経済に関わる特別課税の文明だ。
それじゃ4つじゃんと突っ込む客は誰もいませんでした。なるほど、とスノークは鼻筋をなぞりながらうなずきました。つまり鼻くそ処理にも3つの文明があることになりますね。第1に生理学の鼻くそ文明、第2に衛生学の鼻くそ文明、そして最後に美容術の鼻くそ文明となるはずですが、われわれトロールの鼻の孔は見かけだけだからどのみちあまり関係ないありますん。概念として鼻くそほじりという仕草を知っているだけです。パイプ煙草を止められないのとは事情が違います。
私だって喫いたくて喫っているんじゃない、とムッとしてムーミンパパ。結婚を境に先代ムーミンの私はムーミンパパと呼ばれる身分になり、それに伴い私の頭にはシルクハット、掌には喫煙用パイプが生えてきたのだ。パイプはまだしもだった。私だってハイティーンの頃には旨いとも思わず紙巻き煙草を嗜んだ過去がある。だが全裸にシルクハットだけの姿とはどうだろうか。最初私は慣れの問題にすぎないだろうと思ったのだが……。
ムーミンパパはひと息つき、もちろんその程度で驚くムーミン谷の隣人はいなかった。このシルクハットはよく躾の利いたやつで、礼儀作法の必要な時や、入浴や就寝時には着脱可能という融通も備えていた。だが私は気づいたのだ、すなわち私は今やそれらの物象によりムーミン谷と結びついた存在で、私という記号はそれなしにはムーミンパパと認識されないほどアイデンティティを上書きされてしまったのではないか。つまりそこには私ではない、物象がまず先にあるのだ。
何それ、ウケるぅ、とフローレンが不敬なせせら笑いをしました。ボーイフレンドのお父さんにそれはないですが、実は偽フローレンだったので反射的にコギャル的脊椎反応をしてしまったのです。
それって人としてどうよ、とムーミンもつられて若者ことばで父親を嘲りました。実はこちらも偽ムーミンですし公称年齢では若者ことばを使うのに不自然はないですが、ムーミン族はトロールですからトロールどうしが「人として」と言っても無意味です。
(37)
そうだ、このレストランを建てたのは単に私たちの合同披露宴のためではない、とムーミンパパ(当時先代ムーミン)はロッドユールに目配せしました。ロッドユールは唐突に同意を求められても即座に返答できませんでしたが、ムーミンパパとのつきあいではこんなこともよくあるのです。もちろんそれに乗るか拒むかはロッドユール次第なのですが、慎重に考えて支度を整えてから物事にとりかかるロッドユールと勢い一発のムーミンパパが手を組んで挑んできた数々の冒険にしても100%の満足を勝ち得たことはまずなく、ならばその場しのぎの思いつきで事に当たっただけのムーミンパパの方が失策についてもより後悔が少ないのが馬鹿正直に几帳面なロッドユールには羨望が止みませんでした。公正に考えれば6割の成功・4割の失敗だった場合に成功のほとんどはロッドユールの功績で、失敗はすべてずぼらなムーミンパパに帰するとしても、ムーミンパパは冒険の成功を喜びロッドユールは落ち度を悔やむのが彼らの悪因縁でした。ですからロッドユールが考えてもいなかったことをムーミンパパが思いついた時には、ロッドユールには反対も賛成もなくただただ従っていくしかなかったのです。自分にはない部分を補いあっている点では彼らは理想的な関係とも言えましたが、谷にとってもこの2人組のみやげ話が唯一外界との通路になっている貢献を歓んではいるものの、彼らがどこかへ冒険しに出かけている時がもっとも平穏でした。冒険家からは足を洗って嫁を取って家庭に入ります、というのも結構なことでした。ただし花嫁2人がおしゃれなレストランで披露宴をしたい、などと谷にはありもしない施設で挙式を熱望する意思を表明するまではの話です。谷の知識人層を代表するヘムレンさんやジャコウネズミ博士、ヘムル署長やトゥーティッキさん、フィリフヨンカさんらですらレストランは別世界の建物という認識しかなく(建物という推測すら怪しく)、谷で唯一留学経験を自称するスノークもムーミン谷を出た記録は一切なく、留学経験が嘘ではないにしてもおそらく留学経験の記憶を備えて生まれてきただけではないかと思われるのです。こういう場合手っ取り早い手段ならお前ら何様だと花嫁たちをボコボコにするのがいちばんですが、結婚を決めた花嫁ほど世界の中心を陣取り何事だろうと押し通す恐ろしい存在はいないのは、世間に疎い谷の住民ですら周知のことでした。
(38)
このカバ!と花嫁のフローレンまたはノンノンこと現在のムーミンママは罵りました。カバ?それが何だというのだ、とムーミンこと現在のムーミンパパ。まあそうだよな、と親友ロッドユールは思いました。こういう話を知っているかな?と平然とムーミンパパ、昔むかしあるカバが神を呼び止めて願い事をしました、神さま、私たちは河に住みたいのです。どうか河に住む許可をいただけませんか。
駄目だ、と神さまは言うと、カバをしげしげと観察しました。首らしき頭と胴体の区別もないずんぐりした体に短かすぎる四肢、滑稽な尻尾、あらゆる意味で醜い存在ですがそれがカバの美の基準なのです。駄目だ、と神さまは言いました。
そんな、何故ですかと問うカバ。お前たちが河に住んだらきっと魚を喰い尽くすに決まっている、と神さま。では私たちは糞をする度に尻尾で一列に並べます、とカバ、そうしたら糞に魚の骨が混ざっていないか神さまもご覧になれるでしょう。
ならば良かろう、と神さまは言いました。それでカバは河に住むようになったのです。……実際カバは基本的には草食で、ところが近年草食動物のほとんどが積極的な捕食ではないが、手近な死骸を食することは普通に行うとわかってきた。カバが水中に住むのはクジラに次ぐ大きな体躯の哺乳類で陸棲には不向きな巨体でもあり、皮膚組織が水棲に順応して直射日光に耐えられないからでもある。
意外だがカバには水泳能力はまったくない。陸上では最高時速40kmの意外な駿足が観測されるが長時間の陸上活動はきびしい。さて、これでも私はこのカバ呼ばわりされなければならないのかな?
カバは川棲であることから淡水水源を起点とした古代文明圏で文明発祥時から観察されてきた最古の哺乳動物でもあるが、それほど身近でありながら飼育化され家畜化されなかった最古の哺乳動物でもある。緩慢そうな外観に反して性質は極めて獰猛で縄張りに厳しく、縄張り内では常に虐殺を伴うボス争いがあり、群れのボスは縄張りに侵入する外敵があれば直ちに虐殺する。つまりカバとは棲息圏の棲み分けをする以外に共存はできないのだ。これはカバが異種生物との共存を考える文化を持たない種族であることを意味する。
さてさて、これでも私はカバ呼ばわりされなければならないのかな?神さまとカバの寓話はあくまで寓話だが、現実のカバは神の存在を必要としない実在するツァラトゥストラでもあるのだ。
(39)
カバの存在は非常に興味深い、トジャコウネズミ博士が言いました、肉質がもっともヒトに近いことで栄養価の高いブタに似ているが実際の肉質は牛肉に近く、さらに種としてはクジラに近い種族であることも知られている。ならば家畜化して食肉にできそうなもなものだが、野生のカバは狂暴きわまりない性質から巌として家畜化を拒んでいるのだ。
いや、ウシは神さまだったはずでないかな、とヘムレンさん。それに豚は相当近代まで不浄の動物とされていたはずだ。
クジラ漁、いわゆるいさなとりというのは古代からあったようだが、とジャコウネズミ博士は首を傾げ、あれはアレかな、クジラは魚という認識だったからかな。
博士たちは古代の荒れた海原に巨大なクジラと格闘する漁師たちの姿をイメージして陶然たる思いに浸りました。クジラは紀元前1300万年前でも比較的新しい種と言えるほど太古から存在していたのが化石から確認されていますが、紀元前1300万年前というと紀元前14万世紀以前という途方もない年号になります。ムーミン谷にはせいぜい3代前の歴史しかありませんし、世代交代したところでムーミン谷はしょせんムーミン谷ですから、紀元前14万世紀のマッコウクジラの記憶をバトンリレーしてきた歴史の堆積はありません。
ムーミン谷の住民の直接知る海は西の海岸に拓けるしょぼいボスニア湾より他になく、あとはテレビの観光番組や映画、図書館の本で水平線も見えない巨大な大海原というものがある、と知識でだけ知っているだけです。
いや、クジラはとても魚どころではありませんぞ、と自称元探検家のムーミンパパが割り込んできました。あれはロッドユールと台風の海に漕ぎ出した時のことです。
何でまたわざわざ台風なのに漕ぎ出したのかね?とヘムル署長、わざわざ遭難しに行くようなものではないか。
それは船を予約してたんです、とムーミンパパ、キャンセルして金だけ取られるくらいなら遭難覚悟で船出するのが冒険者というものなのです。なあ?とムーミンパパはロッドユールに迷惑な同意を求めました。
わかった、それでさぞ海は大荒れだったんだろうね。
そこですよ、とムーミンパパは言いました、台風だと思ったのは実は台風どころではなかったんです。伝説の海の巨大悪魔リヴァイアサン、クジラの王たる王が超弩級の嵐を巻き起こしている真っ最中の海に、私たちは知らないうちに出航してしまったのです。
(40)
お話中たいへん失礼いたしますが、とウェイターがいつの間にかムーミンパパたちの背後に現れていました。そろそろご注文はお決まりでしょうか?
今確かに失礼と言ったな、とムーミンパパが鬼の首をとったかのように詰問しました、ああ失礼だ。実に大変失礼だぞ。
まああなた、とムーミンママがバッグにしのばせたムーンライトステッキをいつでも取り出せるように握りながらなだめました。セーラームーンならばムーンプリズムシャワーで浄化させるだけですがムーミンママの場合は延髄を一撃して神経麻痺の実力行使で黙らせるのがステッキの使用法です。こんなに周りに大勢集まっている場でそんな荒技に出れば本当ならば大騒ぎなのですが、ムーミン谷の住民は一部の例外的存在を除いて都合の悪いことは目に入らない美徳を備えておりましたから、ムーミンママがムーンステッキをムーミンパパの延髄に打ち込んだとしてもその間は時間は一時停止しているようなものでした。だいたいムーミンママがそうするからには谷の正義はムーミンママの方にあるのですから、見て見ぬふりにも正当な理由があるというものです。
一部の例外というのは他ならぬ偽ムーミンでした。それを思うと偽ムーミンはいつでも背筋が凍る思いがしました。ムーミンママが偽ムーミンの入れ替わりを排除しようとすればおそらく谷の住民全員の記憶から偽ムーミンを消去できるのです。こんにちは、ムーミンいますか(とムーミンのガールフレンドのフローレン、または友だちのスニフが訪ねてきたとして)?うちにはそんな子はいませんよ、とフローレンやスニフの記憶を消し、それから偽ムーミン自身の記憶も消してしまい、ムーミン本人が戻ってきてからムーミンについての記憶を回復させれば、後は偽ムーミンの残骸が一切の記憶を失くして、またムーミンママ以外の誰の記憶からも消えておさびし山の藪の中を行き倒れるまでさ迷うしかありません。
はらはら偽ムーミンが見守っていると、まあまあまあ、と谷の良識、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士とヘムル署長がムーミンパパをなだめました。ここはウェイターの顔を立ててそろそろ注文しようじゃないか。
やでい!とムーミンパパは三船敏郎みたいにゴネました。だいたい何で今になって急に注文を急かされなきゃならないんだよお。ヘムレンさんたちは顔を見合わせました。それはさ、ここまででもう全八章の半分だからさ。
第四章完。
(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第一部改作版・既出2016年6月~2017年7月、全八章・80回完結予定=未完)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)