『最後の切り札』Dernier Atout (L'Essor Cinematographique Francais=Pathe'42.9.2)*100min, B/W : 日本未公開、映像ソフト発売
◎監督:ジャック・ベッケル(1906-1960)
◎主演:ミレーユ・バラン、レイモン・ルーロー、ピエール・ルノワール、ジョルジュ・ロラン
○警察学校で揃って首席となったクラレンスとモンテス。事件を担当し、先に解決した方を首席にすることとなる。そんな中、高級ホテルで殺人事件が起こり……。J・ベッケルの長編デビュー作。
○解説(キネマ旬報外国映画紹介より) ジャック・ベッケル監督のデビュー作となったフィルムノワール。ギャングのボスの相棒が宿泊先のホテルで射殺される。事件を調査することになった新米刑事・クラレンスはボスの妹と恋仲になり、事態は警察とギャングの血で血を洗う抗争へと発展する。【スタッフ&キャスト】監督:ジャック・ベッケル 出演:ミレーユ・バラン/レイモン・ルーロー/ジョルジュ・ロラン/ピエール・ルノワール
――キネマ旬報の紹介はこれだけで、脚本、撮影、美術、音楽などのスタッフはあまり知られた人たちではないので脚本家のひとり、モーリス・オーベルジェの映画オリジナル原案なのだけを追記しておけばいいでしょう。小説原作ではなく映画オリジナル原案ならばベッケル自身の原案ではなくても複数案からプロデューサーとともにベッケルが選んだと見なしていいので、フランスの映画批評界で'40年代以降のアメリカの犯罪映画ブームが「フィルム・ノワール(暗黒映画)」と呼称されるようになったのは1946年ですから、批評家によるフィルム・ノワールの発見以前にアメリカの現代犯罪映画の潮流に対応するものをいち早く(本作の架空国家は「Coca-Lora」と、いかにもそれっぽいアメリカ映画のパロディを表明しています)目をつけて作り上げたベッケルの才覚が冴えています。これもフィルム・ノワールを先取りした『十字路の夜』の助監督だっただけはあり、ずばりフランス人がフランスで作ったアメリカ映画にもなっていれば、師ルノワールの『十字路の夜』を継ぐ規格外のフランス映画にもなっている。ガストン・モドーがシカゴから来たギャングの親分と言うことになっていますから本作の舞台はあくまでアメリカではありませんし、『十字路の夜』には出てきた謎の悪女というフィルム・ノワール必須要素はヒロインのバランが捜査官側につくため本作にはありませんが、本作の性急なテンポやサスペンスの持続感は師のルノワール作品でも『十字路の夜』が例外的だったほどで、トーキー以降のフランス映画としては当時異例なものだったでしょう。サスペンスの持続感は引き継いでもテンポの性急さは次作以降のベッケル作品からはもっとじっくり腰を据えたものになるので、デビュー長編ならではの荒っぽさとも意図的な実験とも取れますが1作きりの手法だったには違いなく、それを思うと本作はベッケルがこれを押し進めた作風で行く可能性もあった作品、という未知の領域も見えてくる。バランがさり気ない仕草でルーローの危機を察知しているのを知らせる、など心憎い演出はフランス映画らしい細やかさというのとは別にサイレント時代からの優れた映画にも見られるもので、ベッケルは世代的に20代前半までサイレント映画を観て育った世代です。むしろベッケルの良さは師のルノワールとともにサイレント映画の簡素な視覚的繊細さをサウンド映画時代にもなお十分に生かし得たことにあるのではないでしょうか。
●6月14日(金)
『罪の天使たち』Les Anges du peche (Synops'43.6.23)*86min, B/W : 日本公開平成22年(2010年)2月20日
◎監督:ロベール・ブレッソン(1901-1999)
◎主演:ルネ・フォール、ジャニー・オルト
○元受刑者を修道女として迎え入れるドミニコ会修道院。罪深き者を救いたいという一心で修道女になった純真なアンヌ・マリーは、刑務所で一番の問題児テレーズに救いの手を差し伸べるが……。
○解説(キネマ旬報外国映画紹介より) 元服役囚を受け入れているドミニコ会女子修道院を舞台に、修道女たちの葛藤や憎しみ、友愛を描く。「田舎司祭の日記」のロベール・ブレッソンによる長編監督デビュー作。脚本に、フランス演劇界の重鎮ジャン・ジロドゥが参加している。出演は、「パルムの僧院」のルネ・フォール、「どん底」のジャニー・オルト。フランス国立映画センター復元版。
○あらすじ(同上) ブルジョワの娘アンヌ=マリー(ルネ・フォール)は修道女になるため、自ら望んでドミニコ会の修道院に入る。その修道院は、刑務所で服役していた女性たちも受け入れていた。アンヌ=マリーは刑務所を訪れ、若くて反抗的なテレーズ(ジャニー・オルト)という受刑者と出会う。テレーズに関心を持ったアンヌ=マリーは、出所したら修道院に来るよう彼女を誘う。篤い信仰心と使命感を持ったアンヌ=マリーと、不幸な犯罪に手を染めたテレーズの対峙は、修道女たちの葛藤や憎しみ、友愛を浮き彫りにしていく。
――女ばかりのモノセックスな世界を描いて息詰まるような本作は、キリスト教信仰(特にカトリック)に何となく憧憬を抱いているような日本人(特に中年以降の女性)には暴露的な内容に見えるかもしれない嫌な映画です。女性ばかりの集団に起こりがちな派閥や腹芸、捏造の風評や陥れが修道院の中にも満ち満ちていて、危険な前科者は遠巻きにするがその担当者でもっとも純真な信仰と使命感を持つヒロインは周囲の策謀で孤立していってしまう。特異な限定的環境の集団劇とはいえ本作は普遍的な社会の縮図を濃密に描いているので、カトリックのドミニコ会修道院といっても決して俗世を超越しているどころかいびりといじめが横行する寄宿制女学校のような環境なのがこれでもかと描かれた作品です。カトリックならではの階級制度やまわりくどい宗教儀式もしっかり描かれており、ラテン文化圏のカトリックに対してアーリア文化圏ではもっと世俗的信仰を目指してプロテスタントが生まれたのも、結局どんな宗教も人間を根源的な救いに導くことにはならない徒労感も伝わってくる。本作のヒロインが抱いている信仰は他の修道女たちが抱いている信仰とは違う、あくまでヒロインだけのもので、集団からうとまれ排除されてしまうのはそれが原因なのですが、双方とも自分の方に理があると頑なに信じているので事態は悪化こそすれ好転しない。また実際、前科者の女の庇護者になろうとするヒロインよりも危険視して距離を置く修道女たちの勘の方が正しくて、前科者の女は殺人の隠れ場所に修道院に来たにすぎないのです。ルイス・ブニュエルは本作を抑圧された女たちのエロティック・サスペンス映画として大いに気に入り、特に謝罪のためヒロインが上司の修道女の足に接吻するシーンを激賞していますが、カトリック国のスペイン人ブニュエルは当然ヒロインがもっとも残酷な運命をたどるのはその信仰がもっとも熱烈だったため、それこそがヒロインの罪であることをちゃんと見抜いており、これはプロテスタント=ピューリタン的風土では出てこない(救済の対象になる)発想です。カトリックやむしろキリスト教以前のユダヤ教では信仰の過剰による傲慢を無自覚で最大の罪と見なす考え方もあるので、こじつければドイツ占領下フランスではプロテスタント国の侵略に対する宗教的回答と取れなくもない。しかし、だとすれば本作はカトリック信仰に対する内部批判も含んでいるので両刃の剣でもあります。そうした微妙な屈折はありますが、ブレッソンの映画はあとになるほど厳しいスタイルで複雑なニュアンスに富んだものになるので、最初に観るブレッソン作品としてはもっともシンプルでストレートな小品佳作としてお薦めできます。なお現行フィルムの原盤状態も、ベッケルの『最後の切り札』が劣化気味だったのに対して本作は新作のように鮮明な画質で観られるのも魅力になっています。
●6月15日(土)
『密告』Le Corbeau (Continental Films'43.9.28)*91min, B/W : 日本公開昭和25年('50年)11月11日 : キネマ旬報ベストテン9位
◎監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー(1907-1977)
◎主演:ピエール・フレネー、ジネット・ルクレール
○ある小さな村で「カラス」と名乗る人物から、ジェルマン医師を誹謗中傷する怪文書がばらまかれる。看護婦のマリーが疑われて逮捕されるが、怪文書はいっこうに収まらず酷くなるばかりで……。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) アンリ・ジョルジュ・クルーゾーがドイツ占領下で作った一作。占領軍の指令で作られたこの映画は、フランスの地方都市の腐敗を描くという初目的がゲシュタポ批判に変ってしまっているとの理由で上映を禁止された。
○あらすじ(同上) フランスの田舎町。公立病院のジェルマン医師(ピエール・フレネー)のところに、からすというサインのある投書が舞いこんだ。精神科の部長ヴォルゼ(ピエール・ラルケ)の妻のローラ(ミシュリーヌ・フランセイ)との火遊びを指摘した中傷の手紙であった。これをきっかけにしてからすの投書が町の人々にくばられ始めた。入院患者のひとりは"からす"にガンであることを知らされ自殺した。ローラの姉で看護婦をしている醜女のマリー(エレナ・マンソン)が疑われ、逮捕された。しかし"からす"の投書は相変らず続き、どの投書にもジェルマン中傷の文句が入っていた。マリーは釈放された。筆跡鑑定もはっきりした結果は出せなかった。愛人ドニーズ(ジネット・ルクレール)の家にいったジェルマンは「ドニーズはお前の子を妊娠した、からす」という手紙を見つけた。問いつめると彼女は自分の妊娠をジェルマンに告げるために、にせの"からす"の投書を作ったのだといった。ローラの机の中から"からす"のサインのある吸取紙が発見された。彼女は狂人と見なされ、精神病院に送られることになった。そのあとでジェルマンはあることに気づきヴォルゼの部屋を訪れると彼は自殺していた。「ローラは罰せられた。呪いはとかれた。か…」という書置があった。"からす"はヴォルゼであった。
――同じ映画が戦中には占領国ドイツによってフランスの腐敗を描いた映画と称揚され、商業的にも成功し、戦後にはゲシュタポ弾劾の抵抗作品(しかも上映禁止作品扱い)として日本に紹介されたのち実は対独協力映画という批判があったと判明したというのは映画の内容に輪をかけて皮肉な話で、本作はアメリカでオットー・プレミンジャーが『The 13th Letter』'51として正式にクルーゾー作品を原作と明記してリメイクもしています。プレミンジャーもなかなかのもので舞台はカナダのケベックに移されていますが、プレミンジャーの意図がアメリカ戦後の「赤狩り」に向けられていたのは明らかで、そうでなければわざわざケベックにする必要がありません。主人公の医師は暗い過去を持った男で女性関係がいかがわしいのも過去の反映で荒廃した内面を抱えており、またパリから来た他所者なので田舎町に溶けこめないでいる。主人公の女性関係を弾劾する密告状が発端になり次々と町の人々の不正を暴く密告状が飛びかい、田舎町は一触即発状態になっていくのですが、この嫌な感じは確かに新しさがあって、町の人々の描き分けも巧みです。ドイツ映画界で仕事を積んできた監督だけあってフランス映画というよりドイツ映画的粘着質な、陰鬱な感覚がある。また青年時代をドイツで過ごしてきたのがフランス人への意地悪な視点を育んだとも言えそうなので、そういう意味ではドイツの占領政権によるフランス批判映画として働いたのも無理はありません。クルーゾーはヒッチコックと比較されますが、ヒッチコックもイギリス流のブラック・ユーモア感覚はありますが視点人物に観客を共感させるのだけは映画のコツとして譲らなかった監督です。ヒッチコックの考え方は正統的な映画作法なので、普通は映画は主人公に観客が感情移入してこそ手に汗握る作りになっている。クルーゾーの本作はその点主人公の、ピエール・フレネー演じる医師本人があまり感じの良くない、観客が感情移入しようにも何を考えているのかわからない、素性のわからない人物として出てきます。アメリカのフィルム・ノワールでも主人公の行動原理は能動的にせよ受動的にせよ明快かつシンプルなのが普通ですが、本作のフレネーは人物像が結末近くまで明かされないためそのあたりもはっきりしない。フレネーが不倫しているのは同じ病院の老精神科部長ヴォルゼの妻ですが、この老精神科医を演じるピエール・ラルケも悪くないのですがミシェル・シモンみたいなのが良いので、いっそミシェル・シモン本人だったら良かったのにと思えるのが無い物ねだりですが、デュヴィヴィエの戦後のフランス帰国第1作『パニック』'47はシモンが疑われる下町犯罪疑惑もので、どうもデュヴィヴィエは戦後作品となる『パニック』を後輩クルーゾーの本作の影響下に作ったように見える。本作はキネマ旬報のあらすじには書いてある通りですが、密告状で余命宣告されて剃刀自殺した難病青年の老母が密告状脅迫者「カラス」に怨恨を抱いていて、容疑者の謎の死と館から去って行く老母の姿を主人公が見つける場面で終わっているため、容疑者の死で事件の決着はついても事件の全容は解明されないで終わります。映画はクライマックスに向けて「カラス」の便乗犯が次々と明かされるので、主人公の視点から暴かれた分だけが事件の全容ではないのも暗示されている。全能者の視点からの全容解明がなされないまま終わるので、悪く言えば思わせぶりですが本作のリアリティはその線で一貫しているとも言えます。キネマ旬報のあらすじは「"カラス"は彼だったのか……?」と閉じられる方が妥当で、彼または彼女でもいいですが田舎町を狂わせたのは次々と便乗犯になった町中の(加害者にも被害者にもなる)カラスだった、というのが本作のテーマでしょう。占領下のフランスでは実際にこうした陰険な疑心暗鬼がフランス人同士の間にも起こり、ゲシュタポ批判よりも同朋同士の抑圧下の分裂を描くのが本作の主旨だったと思われ、それを前面に出せなかったため本作は鮮やかな群像劇ながらモヤモヤとした印象が残る映画になったと考えられます。しかし本作は従来のフランス映画とは違う、戦後映画を予告した内容と技法のもので、占領下の韜晦だけではない明解な狙いを感じさせます。ルネ・クレマンとともにクルーゾーが戦後映画の第一線に立ったのはこの技巧のキレによるでしょう。