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『黄金の大地』Wings of the Hawk (ユニヴァーサル'53.Aug.26)*77min, Technicolor, Standard : 日本劇場未公開(テレビ放映・パブリック・ドメインDVD発売)
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○解説(メーカー・インフォメーションより) 主演 : ヴァン・ヘフリン、ジュリー・アダムス (あらすじ) : メキシコに金鉱を持つアメリカ人のアイリッシュ。ついにある日、大量の金が出る。ちょうどその頃、メキシコでは革命が起き、政府軍と革命軍が対立。政府軍は戦争資金のため、アイリッシュの金鉱を奪い……。
○あらすじ(英語版ウィキペディアより) 1911年、革命最中のメキシコ、「アイルランド人」として知られるアメリカ人ギャラガー(ヴァン・ヘフリン)はメキシコの革命家と協力し、パートナーのマルコ(マリオ・シレッティ)とともに金鉱を発見し所有権の金メダルを打ちますが、すぐに独裁者パコ・ルイス大佐(ジョージ・ドレンツ)に気づかれ押収されたのを分け前を要求しに来ていたゴメス大尉(リコ・アナニス)から聞きます。マルコはルイス大佐の部下に殺されました。反逆者の一団がギャラガーを危機一髪から救い、特に勇敢な女、ラケル・ノリエガ(ジュリー・アダムス)が流れ弾で負傷します。反政府勢力はギャラガーの身元に確証がないので、リーダーのアルトゥーロ・トレス(ロドルフォ・アコスタ)に会わせます。ラケルが負傷から意識不明と知ったギャラガーは銃弾の摘出を申し出ます。ラケルはアルトゥーロと結婚するために仕えていますが、彼女の妹エレナ(アビー・レイン)は誘拐され行方不明になります。中立派のペレス神父(アントニオ・モレノ)に相談しながらエレナを捜索していたラケルとギャラガーは、ルイス大佐によって捕虜にされて、独房に閉じ込められます。アルトゥーロの部下カルロス(ポール・フィエロ)に救出されて三人はルイス大佐の部下の典獄の屈強なオロスコ(ノア・ビアリー・ジュニア)に阻まれ、一方エレナは捕虜ではなく、ルイスと結婚するつもりで仕えています。アルトゥーロの忠実な反逆者グループの一員、トーマス(ペドロ・ゴンザレス)の母親コンチャ(ローザ・チューリッヒ)を冷たく処刑するルイス大佐の悪魔的行為すら、エレナは秩序を守るための為政的判断として信頼しています。アルトゥーロはギャラガーとラケルの釈放を要求しますが典獄のオロスコは多額の銃器代を要求し、革命軍は金鉱を襲って釈放代を調達しルイス大佐は激怒します。ギャラガーとラケルはペレス神父から状況を知り、ラケルはエレナを説得に面会しますがエレナは権力者には逆らえないとラケルを拒みます。ギャラガーとラケルはアルトゥーロ率いる反逆者たちによって刑務所から救出されましたが、アルトゥーロは殺されます。ギャラガーはルイス大佐の金鉱への執着に気づき、ダイナマイトの罠を金鉱のあちこちに仕掛けて爆発を起こしてルイス大佐の軍団を混乱させ、トーマスは処刑された母の復讐にルイス大佐を殺します。硝煙がおさまり、なぜ自分の金鉱をわざと破壊したのかラケルから尋ねられて、ギャラガーはもっと貴重なものがあるとラケルを抱きよせ、二人はキスをします。
――本作の快調な展開やまとまりの良さは西部劇的構図としても秘密の金鉱をめぐる敵味方のはっきりしたアドベンチャー映画色の強さにあるので、その点ではキャラクターに『征服されざる西部』『最後の酋長』『平原の待伏せ』のような陰陽に飛んだ深みが欠けるきらいがあります。ユニヴァーサル時代の'52年~'53年にベティカーが監督した6本の西部劇では『征服されざる西部』が破滅の道を歩むロバート・ライアンの鮮明なキャラクターで突出していて、次いで『平原の待伏せ』がグレン・フォードの配役で活き演出も冴えるも大団円型の結末にややあっけなさがあり、『最後の酋長』はロック・ハドソンとアンソニー・クインの苦渋の友情劇がクイン殺害の西部劇ミステリーにすり替わってしまう主題の一貫性に欠ける難があり、逆に『黄金の大地』はヴァン・ヘフリンの主人公のヒーロー冒険譚にきれいにまとまっているのが気楽に楽しめるけれど物足りないということになる。『シマロン・キッド』は『征服されざる西部』の原型といえる内容ですがまだ未熟ですし『ロデオ・カントリー』はバディ・ムーヴィーの変型なのでまとまりは良いもののベティカー西部劇の本流ではないでしょう。『征服されざる西部』1位、『平原の待伏せ』2位としても破綻の大きい『最後の酋長』とこぢんまりした完成度の高い『黄金の大地』は同点3位と思え、『最後の酋長』は途中で木に竹を継いだような脚本で破綻してしまっているものの前半は意欲的な小傑作を予感させるキャラクター造型があり、それに較べると設定・プロット・ストーリーに無理がなく一定の完成度をクリアした作品ではあるものの本作のヴァン・ヘフリンは映画冒頭と結末でも死線をさまようドラマを経てきたようには見えない。敵を罠にかけるために占拠された自分の金鉱を爆破する、金鉱より大切なものがあるとヒロインを抱きよせるのももともとの英雄的性格と見えるので、アイルランド系アメリカ人(ギャラガーは典型的なアイルランド系姓名ですし、「アイリッシュ(アイルランド人)」というのが主人公の愛称です)に設定しているのはアイルランド自体が内紛をくり返している政情不安な国ですので主人公に革命的政治感覚があるのを暗示している(これがスペイン系・フランス系南部・西部人だったら侵略的ニュアンスになってしまいます)のでしょうが、革命軍リーダーのアルトゥーロが殺害されてしまう前に、行方不明のヒロインの妹を捜索しているうちに早くも主人公とアルトゥーロの婚約者のヒロインは恋に落ちてしまうので、この主人公は革命軍の協力者なのに革命と恋なら恋を選ぶ頼りない主人公で、何に信念を置いているのか疑わしくなってくる。主人公とヒロインが監禁されてからの脱出劇で映画はがぜん冒険映画色を増しますが、むしろ活躍するのは主人公たちを救出しようとするアルトゥーロたち革命軍のメンバーなので、アルトゥーロが殺されたあと主人公はようやくクライマックスの罠を仕掛けますが、主人公を視点人物として見てこそ(実際映画はそうなっていますが)ストーリーは首尾一貫して快調に進み大団円を迎えますが、退治された独裁者たちはともかくとして革命軍まで組織崩壊に近い多大な犠牲を出している。しかも主人公(とヒロイン)を救うためにです。映画を観ている最中は気にならず話に乗せられて観ていられるのに振り返ってみると本作にはそうした調子の良さがあり、主人公(とヒロイン)だけに都合良く運ぶ映画になっている観は否めません。メキシコ人役のキャストも生き生きと描かれているだけにいっそうあとからそれが気になるので、本作は冒険映画タイプのメキシコ西部劇とベティカー自身も割り切った作品と見るのが順当でしょう。
●5月23日(木)
『灼熱の勇者』The Magnificent Matador (20世紀フォックス'55.May.24)*94min, Technicolor, Standard : 日本公開昭和32年('57年)2月18日
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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 「美女と闘牛士」のバッド・ボーティカーが原案を書き監督した闘牛をめぐる親子の愛情物語。脚本担当はチャールズ・ラング、「誇り高き男」のルシエン・バラードが撮影を受持った。音楽はラオール・クロウシャー。主な出演者は「リスボン」のモーリン・オハラ、「ノートルダムのむせし男(1957)」のアンソニー・クイン、チリー生まれの新人マヌエル・ロハス、「空中ぶらんこ」のトーマス・ゴメス、「チャンピオン」のローラ・オルブライ。ほかにメキシコの闘牛士が特別出演。
○あらすじ(同上) メキシコきっての闘牛士サントス(アンソニー・クイン)は、自らの芸に行き詰まりを感じ、18歳の愛弟子レイエス(マヌエル・ロハス)に闘牛士最高の階級マタドールを名のらせることにした。サントスは一夜、神の前にレイエスの前途を祈った。たまたま、その姿を見た社交界の女王カレン(モーリン・オハラ)はなぜか心が妖しくふるえた。翌日、サントスは再び祈りを捧げたが不吉な予感にレイエスの身を案じ、その出場を取り消した。騒然となった観衆に、報道陣に追い回されるサントスに逃げ場所を提供したのがカレンであった。2人はカレンの農園に人目を避けた。しかしカレンの愛人マーク(リチャード・デニング)によって、この隠れ家は人々に知れたため、2人はさらにサントスの友人ダヴィド(トーマス・ゴメス)の牧場へ行く。やがて2人は互いの愛情をはっきりと知り、サントスは彼女に、秘められた自分の過去を語った。サントスは18年前、愛人を失ったが、その死因は、出産の床でサントスが死んだという誤報を聞き、そのショックからであった。その時生まれたのがレイエスで、それがダヴィドの手で育てられてきたのである。この秘密を聞いたカレンは、レイエスの将来のために打ち明けようとサントスを説得する。しかしレイエスは既にダヴィドから、これを聞いていた。サントスは我が子の栄達のためと引退を決意した。次の日曜日、サントスとレイエスの妙技に大観衆は沸き、2人も晴れて親子の名乗りをあげた。
――自身がプロ闘牛士だった経歴を持つベティカーにとって本作は心底からの闘牛士(マタドール)とメキシコ人讃美だったに違いなく、それは社交界の席上で心因性の体調不安を起こしてうつむいたクインを酔っぱらいか、と近づいた給仕長がクインの顔を見て「……マタドール」といずまいを正す場面があるようにチャンピオン闘牛士というのは国民的英雄というメキシコ人の心情にかつてのメキシコ在住・闘牛士経験から通じているからであって、また本作のようなベタな父子人情メロドラマがメキシコ人の琴線に触れるとも信じていて(実際は筆者などのとうてい知り得ないところですが)、こういう映画になっているがベティカー自身は意図通りに仕上げられた満足のいく自信作なのではないかと思われます。ベティカーの場合ヒロインを描くと門切り型の域を出ない欠点が成功した作品でもあり、本作はクレジット上はモーリーン・オハラの方が主演なのですがだとしたら「テクニカラーの女王」オハラのもっとも魅力に乏しい主演作ではないかという難もあり、はっきり言って主人公のクインを心配して母性的に慕うようになる貴婦人の役にはまるなら別にオハラでなくてもいい役です。クインの方はさすがの存在感で、体躯の威容を誇りながら知的でデリカシーのある役をこなしてクインでなければできない役柄ですし、他のキャストも適切にメロドラマの役柄にはまっている。しかしそこが企画と題材以外に取り柄のない松竹メロドラマの標準的仕上がりみたいになっているので、メキシコ・ロケのオールメキシコ人設定のメロドラマを松竹メロドラマみたいというのも変ですが、粗悪なプリント原盤のDVDでも本格的なメキシコ・ロケの鮮やかさは伝わってくるというか屋外の自然光ロケでも平均的なハリウッド映画より陽射しの質感が一段と鮮やかなのはわかる。本物の現役スター闘牛士を半ダースばかり出演させて本物の観客をエキストラにいれた闘牛場のシーンも迫力はありますが、闘牛ドキュメンタリーを映画規模の予算で組みこんだ効果はあっても肝心の親子の名乗りが実は息子の方は育ての親から聞いていてとうの昔から知らされていた、とあっさりかたづいてしまう。満席の観衆に愛弟子を自分の息子と明かしチャンピオンを襲名させるラストはそれはそれで決まっているのですが、舞台劇の人情劇みたいな決まり方なのでこれは原作にひねりがないだろと言えばベティカー本人が原作者なので、シナリオは脚本家が起こしていますがフォックス社もベティカーもこれでよしとした上での人情劇なので、クインの苦悩は結局親子の名乗りを切り出せず息子を愛弟子に育て上げたクインひとりの取り越し苦労だったことになる。観客の眼が涙で曇る前に監督・原作のベティカー自身が涙で滑ってしまったので、直球勝負の力作が何だか間の抜けたメロドラマに終わった作品で、これだったらクインがイヌイット(エスキモー)の勇者を演じた『バレン(The Savage Innocents)』'60(監督=ニコラス・レイ)の方が印象的で、同作はゴダールの『勝手にしやがれ』'60の主人公が上映館の前を通りかかり、ボブ・ディランにノヴェルティ(コミック)曲「クイン・ザ・エスキモー(ザ・マイティ・クイン)」'67を書かせた佳作です。しかし次作『七人の無頼漢』'56に始まる西部劇7連作こそがベティカーの名を映画史に輝かせることになるので、本作で『美女と闘牛士』、いや映画界入りのきっかけになった『血と砂』'41(監督=ルーベン・マムーリアン)以来のメキシコへの借りは返したのが、ベティカーを西部劇専心に吹っ切らせる役目を果たしたのかもしれません。