『最後の酋長』Seminole (ユニヴァーサル'53.Mar.20)*87min, B/W, Standard : 日本公開昭和35年('60年)9月16日
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) セミノール族インディアンと白人の抗争を描く西部劇。チャールズ・K・ペック・ジュニアの脚本を、「レッグス・ダイヤモンド」のバッド・ボーティカーが監督した。撮影と音楽は「黒い肖像」のラッセル・メティとジョセフ・ガーシェンソンがそれぞれ担当。出演は、「夜を楽しく」のロック・ハドソン、「黒い肖像」のアンソニー・クインのほか、バーバラ・ヘイル、リチャード・カールソンら。製作ハワード・クリスティ。
○あらすじ(同上) 1835年、士官学校を卒業したコールドウェル少尉(ロック・ハドソン)はフロリダのキング砦勤務を命じられた。彼はこの近くの出身で、セミノール族インディアンに詳しかった。合衆国政府は南部のインディアンを西部保護地に移す計画を立てた。が、セミノール族の酋長オシオラ(アンソニー・クイン)は頑強に反対し、砦の守備隊長ディーガン少佐(リチャード・カールソン)を困らせた。コールドウェル自ら説得役を買って出た。彼は交易所で幼馴染みのレビーア(バーバラ・ヘイル)と再会した。単身カヌーに乗ってコールドウェルは奥地のオシオラに会った。オシオラは昔の親友パウエルだった。2人は問題を平和に解決しようと誓った。頑迷な少佐は討伐隊を率いて集落に向かった。が、逆襲を受けコールドウェルはオシオラに捕まり、少佐はやっとのことで砦に逃げ帰った。少佐はレビーアを使者にオシオラに和睦を申し込んだ。彼はコールドウェルを伴って砦にやって来た。少佐はすきをみてオシオラを土牢に閉じこめ、コールドウェルを営倉に入れた。その夜、一族の青年ケジャック(ヒュー・オブライエン)はオシオラが白人と妥協したと誤解し、暴風雨をついて砦に忍び込んだ。オシオラを刺そうとしたが、コールドウェルが止めた。ケジャックは逃げ、オシオラは牢内で溺死した。砦の軍法会議でコールドウェルは反逆罪に問われた。銃殺刑執行の直前レビーアとケジャックの一隊が急襲した。真相が明らかになり、コールドウェルは無罪、ディーガンは逮捕された。ケジャックは平和を約し、コールドウェルとレビーアは結ばれた。
――本作も西部劇第1作『シマロン・キッド』同様ヒュー・オブライエンの犯行が発覚するのですが、どうも違う脚本家の『征服されざる西部』でもそうでしたが(あちらはレイモンド・バーが強烈な悪役でした)、映画冒頭1/3は快調な展開なのに中盤1/3でテーマが割れて焦点があいまいになり強引な方向に話が向かい、後半1/3はばたばたしすぎてとにかく形だけでも勧善懲悪に持っていくような脚本の無理や追究の浅さが難点になっています。『シマロン・キッド』や『征服されざる西部』の場合アンチ・ヒーロー型アウトローと化していくオーディ・マーフィやロバート・ライアンに収束していったため中盤の混乱や後半のばたばたはまあいいか、と思えますが、本作の場合真の主人公はセミノール族の酋長になっていたアメリカ軍人出身のクインなので、もと旧友だったハドソンとクインのたがいの立場の苦悶がどうなっていくか、というのが本作の最大の焦点なのに映画中盤1/3はクインが暗殺され、ハドソンに冤罪がかかるということになってしまう。映画冒頭が軍法会議にかけられるハドソンの姿から始まり中盤1/3の終わりでクインが暗殺されハドソンが冤罪逮捕される、と回帰するのですが、後半1/3はクインの死が駐留軍内部の陰謀かセミノール族内の抗争かがハドソンの独自捜査で二転三転し、結局軍内部の陰謀とセミノール族の内部抗争が偶然重なりあったタイミングでクインが暗殺される隙が生まれたのが明らかになります。いや、これを西部劇ミステリーとすれば謎解き映画に展開するのもいいのですが、だったら前半1/3で鮮明に打ち出され、中盤1/3で雲行きのあやしくなったハドソンとクインのアイディンティティの危機をめぐる人種問題劇はミステリー展開にするためクインを暗殺させてしまったことで霧消してしまったのに本作の物足りなさがあり、真の主人公たるクインが殺されてしまってからの後半1/3だってハドソンが謀叛を起こす展開もあり得たでしょうがハドソンはそういうキャラクターの俳優ではなく、平和共存を望む穏和な女性的な受動型キャラクターの俳優です。ハドソン自身は好演ですしもともとそういうキャラクターのタイプの俳優ですから、逆にハドソンが旧友クインの謀殺に激昂して軍に謀叛を起こしたらその方がミスキャストなのですが、だったら本作前半~中盤の2/3のハドソンとクインの対照劇は『折れた矢』'50のようなインディアン側に立った戦後西部劇の風潮を中途半端に取り入れただけに終わってはいないか。ハドソンとクインがともに名優でキャラクターに見あった好演で中盤までは進むためにますます本作の不徹底は惜しまれ、2月公開の前作の海洋SFアドベンチャー『海底の大金塊』は興行収入125万ドル、本作も140万ドルとユニヴァーサル社のB級予算映画としては『シマロン・キッド』(125万ドル)や『征服されざる西部』(150万ドル)と同等のヒット作だけに、観客もクインが中盤2/3で殺されてしまう展開には意外性があるとも、何でクイン殺しちゃうんだよと悔しがるのと両方の反応があったのではないでしょうか。娯楽映画のユニヴァーサル社はミステリー映画でも西部劇でもアドベンチャーでも怪奇映画でも結末は勧善懲悪ハッピーエンドなのがお約束なので、クインやハドソンの人物像を突き詰めてしまうと本作では両者とも破滅を免れない。そこでクインは中盤2/3までで殺され、ハドソンの無罪が証明される作劇にしたのがユニヴァーサル流なのでしょうが、本作はベティカー自身も本当はこうじゃないんだがなあと思っているのが透けて見えるような面があり、結末のあわやハドソン処刑か、という時に突如現れたセミノール族が矢を構えて処刑場を囲んで真相を明らかにする、という場面には後半ようやくベティカーの本音が表れたような手際が見られます。しかしヒロインにせっかくのバーバラ・ヘイルを得ていながら本作のヒロインは存在感皆無で、そんなところもベティカーらしい愛嬌を感じます。
●5月21日(火)
『平原の待伏せ』The Man from the Alamo (ユニヴァーサル'53.Aug.7)*79min, Technicolor, Standard : 日本公開昭和33年('58年)12月24日
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 米墨戦争中に、アラモの砦にたてこもり、メキシコ軍を迎えうって全滅したアメリカ守備隊の史実をもとに、その砦から抜け出して卑怯者の汚名をきせられた男を主人公とする西部劇。ナイヴン・ブッシュとオリヴァー・クロフォードの原作を「決斗ウエストバウンド」のバッド・ボーティカー監督が映画化した。脚色はスティーヴ・フィッシャーと「黄金を追う男」のダニエル・D・ビューチャンプ。撮影監督は「愛する時と死する時」のラッセル・メティ。音楽はフランク・スキナー。近頃西部劇によく出演する「偽将軍」のグレン・フォード、「全艦発進せよ」のジュリア・アダムスが主演し、「ジャイアンツ」のチル・ウィルスズ、「アリババの復讐」のヒュー・オブライエン、ヴィクター・ジョリー、ネヴィル・ブランド、ジョン・デイ等が助演する。製作アーロン・ローゼンバーグ。
○あらすじ(同上) 1936年。メキシコ侵入軍に対して、少数の米軍がアラモの砦を死守していた。オックス・ボウの町がメキシコ軍の攻撃を受けようとしていることが知らされ、家族をそこに残している兵達は苦しんだ。そして、クジによってジョン・ストラウド(グレン・フォード)が、秘かに砦を脱して急を知らせに行くことになった。事情を知らぬ人々にとっては、彼は卑怯者に見えた。ストラウドが町についた時、既に妻子は殺され町は全滅していた。生存者のメキシコ少年カルロス(マルク・キャベル)から、虐殺の犯人はメキシコ人を装う白人だと聞いた彼は、フランクリンの町に向かった。逃れた老人や女子供はそこに集結していた。護衛のラーマ中尉(ヒュー・オブライエン)はストラウドを脱走者として牢にぶちこんだ。カルロス少年は新聞社社長ゲージ(チル・ウィルス)と金持のアンダーズ未亡人(マイラ・マーシュ)にあずけられた。ラマー中尉の妻ケート(ジーン・クーパー)と姉妹の、娘のベス(ジュリア・アダムス)は彼を可愛がってくれた。避難民の馬車隊は北方に旅立った。牢の中でストラウドはドーズ(ネヴィル・ブランド)という白人匪賊の仲間の1人を知り、妻子の仇を討つため彼に加担し、町を襲ってきた一味に助けられて親分のジェス(ヴィクター・ジョリー)を知った。一味は避難民の馬車隊を襲った。急を告げるためストラウドは仲間の1人とわざと喧嘩して発砲し、目的を達したが、自分も撃たれて傷を負った。その彼をベスとカルロス少年が助けた。はじめてストラウドは自分の脱走の理由を語り、本隊を救援に行くラマー中尉の後を引き受けて馬車隊護衛の任についた。そして老人や婦人にも銃をもたせて待機させ、機略をもって、襲ってくるジェス一味に対戦した。護衛隊の去ったことを知ったジェスは一味を二手に分けて街道と裏山から襲撃して来た。機転を利かしたストラウドは馬車で街道をふさぎ婦人達に銃をもたせ至近距離に入ったら発砲するよう云いつけ老人達を裏山の岩陰に配置させた。時機を見たストラウドの合図で勇敢な馬車隊の人々は一斉に火蓋を切った。意外の反撃にひるんだ匪賊達は浮き足立ったが憎しみをこめた銃弾は彼らを倒していった。驚く首領ジェスを追いつめ、ストラウドは宿敵を倒し、仇をとって汚名をそそいだ。援軍に加わるために出発する彼を、婚約したベスが見送った。
――いきなりアラモ砦の戦いを「1936年」と間違っていますが、本作の場合おそらく英語版プレスシートに「In the Year '36 of Nineteenth, ~」とあるのを19世紀(つまり1800年代)の36年ではなくNineteenthの'36年だから「1936年」と誤訳してしまったのでしょうが、これを配給会社もキネマ旬報編集部もおかしいと気づかず指摘されてもいないのかいまだにキネマ旬報の映画データベース・サイトにそのまま載っているのは問題で、'36年のアラモ砦映画が知られていなかったとしてもジョン・ウェインの大作『アラモ』'60のあとでは歴史的なアラモ砦の籠城戦は日本のアメリカ映画観客にもはっきり印象づけられたでしょう。本作のグレン・フォードは籠城戦の全滅がほぼ決定的になった局面でアラモ戦の敗北を市民に知らせ避難させるためにくじ引きで戦線を離脱して避難勧告の使命を受けた兵卒なのですが、すでに国境近辺のアメリカ・メキシコ人混淆の町は全滅して主人公の妻子も殺されており、しかもメキシコ側についてメキシコ人を装った白人組織の仕業なのが助けた生き残りのメキシコ人の少年カルロスから知らされる。主人公はまだ戦火のおよんでいないフランクリン市に着いて危機を知らせますが、市民はとまどい、市の護衛軍の隊長(またもやヒュー・オブライエン)は主人公をデマを流すアラモ戦線からの脱走兵と見なします。主人公は逮捕されカルロスは町の新聞社社長役のチル・ウィルスが後見人となって裕福な未亡人とその娘のジュリー・アダムスに可愛いがられますが、カルロスは主人公を第二の父のように慕っており主人公の主張の証人でもあるので、未亡人やアダムス、アダムスの姉で護衛軍隊長の妻、新聞社社長はカルロスを通して主人公を信用するようになる。牢に入れられ押送される主人公は戦争に乗じた白人組織の一員と知り合い仲間になるふりをして組織からの町への襲撃に乗じて組織に加わり、その襲撃によってようやく護衛軍は町への脅威に気づき市民を避難させるのですが、市民を避難させる馬車隊を急襲しようとする組織に護衛軍の注意を向けるため主人公はわざと組織内で内紛を起こし、馬車隊の危機を救って脱出してくる。護衛軍や市民たちはようやく主人公を信用するようになりますが、その時別の急襲された町へと護衛軍に急遽呼び出しがかかる。躊躇する護衛軍に主人公は行かなきゃまた全滅する町が出る、自分の妻子の住む町が全滅したようにとうながし、護衛軍を出発させ避難民の馬車隊の自衛軍の指揮を執る、と鮮やかに物語は展開し、負け犬から始まった主人公が汚名をそそぎ危機的状況の救世主となるまでを珍しく首尾一貫して描いており、『シマロン・キッド』や『征服されざる西部』『最後の酋長』で中盤から後半にかけて前半の設定がどうもあらぬところに行ってしまっていた脚本上の無理がないのが本作を筋の通った作品にしており、その代わりエモーションの濃度では『征服されざる西部』や『最後の酋長』より主人公への抑圧がストーリーによって解消されている分きれいに流されてしまった観もあります。妻子を虐殺された男の執念の復讐譚という構図ではフィルム・ノワールと西部劇の違いこそあれ『復讐は俺に任せろ』と本作のグレン・フォードは同じ境遇の主人公で、本作も主人公は妻子の復讐を果たすのですが、新たな恋人アダムスが早くも現れて行動原理は市民全員の避難・救出に拡大されているので、虐殺された妻子の復讐は付け足しになってしまっている。緊張感の持続、躍動感と緩急に富んだ映像、特にクライマックスの見事な構図の連続とユニヴァーサル時代の6作の西部劇中でも完成度は随一の作品なだけに、主人公の怨恨の掘り下げが足りないのだけは本作の不足点になっている。もっともそれを入れると映画が渋滞するのであえて軽く流したとも思えますが、犯罪マフィア映画の『復讐は俺に任せろ』よりも話の規模が戦争西部劇と大きい分だけ主人公の行動原理を私怨に限定できなかったと思えば、闊達かつなめらかな本作の仕上がりにそこまで求めるのは欲張りすぎかもしれません。