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映画日記2019年1月28日・29日/サイレント短編時代のバスター・キートン(6)

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 今回の2編で'22年度の7作のキートン短編のご紹介は終わり、あとは'23年度の短編「キートンの空中結婚(キートンの昇天)」(1月公開)、「捨小舟」(3月公開)でキートンのサイレント時代の短編は終わり『滑稽恋愛三代記(キートンの恋愛三代記)』 The Three Ages (Metro'23.Sep.24)から始まる12作のサイレント長編時代に移ります。キートンのメジャー映画社からの長編はトーキー時代も含めて昨年6月に先にハロルド・ロイドの長編をご紹介したあとの7月に、マルクス兄弟の長編のご紹介と感想文に先立ってご紹介し、感想文を書きました。ロイドの長編、キートンの長編の時に書いた感想文とこの1月になって観直して書いた短編の感想文では長さが変わらず、むしろ短編の方が詳細で長い感想文になってしまうとは思いもよらなかったことで、昨年12月のエッサネイ社時代('15年~'16年・15編)とミューチュアル社('16年~'17年・12編)の初期短編時代のチャップリンの場合は1回3編で8,000字~長くても10,000字に収まった(それでも20分程度の短編には長いですが)のに、ロイドやキートンの短編をご紹介するのは長編映画をご紹介するのと同等かそれ以上の手間がかかるのです。ロイドやキートン自身の長編をご紹介した時よりも短編の方が紹介が難しく、これは内容をお伝えするのにまず設定とプロット、ストーリーをご紹介して感想文で肉づけしていけば良い長編に較べて、ロイドやキートンの短編は設定こそあれ映画の内容は細部(具体的なギャグ)の累積がプロットとストーリーを生み出すような作りになっているためで、チャップリンの短編のようにすでに長編のミニチュア版のようにプロットとストーリーがしっかり骨格をなしているのとは性格が異なるので、細部の累積を記述していくとむしろ長編映画をご紹介するよりも長くなるという現象が起こる。12月はチャップリンの初期短編を観て早い時期にすでにチャップリンの到達していた完成度に感嘆し、半年前に観直したロイドやキートンの長編よりすでに巨匠の風格と辛辣な内容、着想や表現の鋭さに感嘆したのでこれはロイドやキートンも短編時代の作品を観直さなければと初めて連続して観た(それまでは順不同に1編1編を観てきたので、年代順に続けて観るような見方はしてきていなかった)のですが、正月明けくらい毎日短編だけを観て軽く感想文を流したいものだという手抜きの機会を期待していたのもありました。しかしロイドやキートンの短編は観る時間こそ20分強といったところですが、集中力は80分~120分の長編映画を観る労力に匹敵するもので、感想文となると果てのなく記憶を呼び覚まさなければならないようなものです(前回の「キートンの北極無宿」などその最たるものです)。キートン主演・監督・脚本のサイレント短編19編の残り4編は'22年度の最後の2編と長編移行直前の'23年の2編に切りが良く分かれますから今回と次回で2編ずつに分かちますが、たかだか短編2編の感想文を書くのも小論文のテスト並みに気合いを入れてかからないと手がつけようもないのがキートン短編で、手抜きの余地などあるわけはなくどうせ短編だろうというのは甘く見ていたことになりました。今回も四苦八苦して何とか仕上げた感想文なので、読んでもわけがわからないぞという方はぜひリンクを引いた無料動画サイトで実物をご覧ください。これを文字に起こし感想文にまとめる作業がいかに無謀なものか、キートンのサイレント短編映画を1編でもご覧になればご理解いただけると思います。

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●1月28日(月)
「キートンの電気屋敷(電気館)」The Electric House (監督・脚本=キートン&エディ・クライン、First National'22.Oct.)*22min, B/W, Silent : https://youtu.be/a9bXV0ac1S4

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 映画は州立大学の卒業式から始まります。字幕タイトル「植物学の学士号を取得したことを認め、卒業を証書します」卒業生の列にキートン、その隣にジョー・ロバーツ扮する卒業生、その隣に女学生の卒業生が並んでいます。ひとしきり卒業証書が授与されたあと、学部長が「ところでわが家の電化設備を依頼したいが、できる者はいるかね?」ロバーツが立って学部長の前に進みますが、学部長は卒業証書を見て「残念だがご遠慮したい」すごすごと戻るロバーツ。学部長は小首を傾げてキートンの手から卒業証書を取り、字幕タイトル「電気工学の学士号を取得したことを認め、卒業を証書します」学部長はよろしい、君に依頼したい、とキートンを連れて行きます。ロバーツは自分の卒業証書を見ると、字幕タイトル「マニキュアおよび美容の教授資格を取得したことを認め、卒業を証書します」ぽかんとするロバーツ、すると隣の女学生卒業生がその卒業証書を奪い返します。一方学部長の屋敷に連れて行かれ、植物学学士号を取得したはずなのに電気工学学士と誤認されたキートンは、学部長の令嬢(ヴァージニア・フォックス)に歓待されすっかりやる気になってしまいます。任せてください、と請け負うキートン。「一家が旅行から帰ると……」キートンは出来ました、とさっそく学部長に改装した屋敷内を案内し、まず裏庭のプールがレバーで自動に満水になり、空っぽになる仕組みを披露します。次にキートンはボタンを押すと電動エスカレーター式に昇降する階段で学部長を驚かせますが、学部長はエスカレーターで登った勢いで階上正面のガラス窓を突き破って裏庭のプールに落下してしまいます。キートンは着替えた学部長をこれだけじゃありませんよとビリヤード台のある書斎に床の自動式廊下で案内すると、ボタン一つで本が本棚から突き出してまた戻す装置を見せ、さらに機械仕掛けの全自動式ビリヤード台と床から出てくるカクテル・バー装置を見せ、ひとしきりビリヤードを実演して機械式のビリヤードのセットの具合を見せます。夕食の席ではキッチンから楕円形の食卓にレールを一周して料理を配り皿を回収するミニチュアの配膳列車を見せ、食卓中央は回転式の調味料台でぐるっと各人に調味料が行き渡るようになっており、回収された皿はキッチン内で子猫たちが舐めたあとで調理婦のおばさん用に自動式皿洗い機に入って出てきます。キートンは令嬢の寝室で電気式壁収納ベッドとベッドが収納されると代わりに側面から出てくるテーブルを説明して見せ、一家は翌日さっそく学部長の友人一家(ジョー・キートン、マイラ・キートン、ルイーズ・キートン)や知人たちに仕掛けを披露しに招きます。字幕タイトル「本物の電気工学士が仕返しにやって来た」ジョー・ロバーツが屋敷の電気配線室に忍びこみ、配線をことごとく反対に、または滅茶苦茶につなぎ合わせ変えます。書斎は機械の暴走でめちゃくちゃになり、食卓はミニチュア配膳車が暴走し、キッチンは自動式皿洗い機から次々と皿が飛びかいます。調理婦はトランクに隠れますが、それはキートンが道具箱に使っている大トランクで、道具箱を運んであちこちの故障を治そうとやってきたキートンは重くなったトランクを苦労して背負い、階段を上がろうとしますがキートンが上がろうとしても階段は下降してくるのでちっとも階段を昇ることはできず、かと思うとキートンが転げ落ちたあとの階段は急に上昇して、トランクを二階の窓から裏庭のプールに投げ出してしまいます。キートンは階段を上がりますが停止し下降する階段を避けて欄干を滑り落ち、ようやく二階に上がって窓からのぞくとトランクから調理婦が出てきてトランクが沈むのを見たキートンは道具箱はあきらめ、令嬢の寝室では令嬢が壁収納ベッドに挟まれて足首だけ出してばたばたしているので力いっぱいベッドを下げますが、側面から出てきたテーブルに突き飛ばされます。キートンは書斎に行き紳士たちの大混乱と非難を浴び、突き出してきた本に後頭部をどやされた紳士は背後にいたキートンをぶちのめします。キートンは自動式廊下で部屋の外に運ばれますがキートンの首だけ敷居にかかったところで左右からスライド式のドアがぴたっと閉まりキートンは廊下に首だけ出してはさまれます。字幕タイトル「こちらの電気技師も負けてはいない」電気配線室に原因がある、誰かが忍びこんだと見当をつけたキートンはキッチンから金盥はじめ金属製のキッチン用品を電気配線室の天窓から放りこむと、配電線ばかりの電気配線室はショートして火花に包まれ、キートンがさらに金属製品を放りこむとジョー・ロバーツがほうほうの体で這い出てきて逃げて行きます。キートンは一件落着かと一旦は追いかけたロバーツをあきらめ戻りますが、学部長はキートンに「二度と顔を見せるな!」と怒り、令嬢にもそっぽを向かれてしまいます。キートンは首に岩を結わえたロープを巻いて裏庭のプールに飛びこみ、令嬢は慌ててレバーを引いて水を抜きますがキートンはプールの床でぐったりしているのを見て、学部長はレバーを引いて再びプールを満水にして立ち去ります。令嬢はレバーを引いて水を抜きますが、キートンの姿はなく、カットは変わって屋敷の裏の茂みの排水溝からキートンが水に流されて這い出て、そばに浮浪者が座っている岩によじ登り、エンドマーク。
 本作もキートンの他の作品を思い出させる場面が多々あり、先行作品ではオートマティック式食卓は「キートンの案山子」、エスカレーター式階段は「キートンの化物屋敷」に先例があり(工夫や趣向はまったく異なりますが)、冒頭の卒業式シーンは長編『キートンの大学生』'27の高校の卒業式に引き継がれます。また書斎のキートンのビリヤードの珍芸は長編『キートンの探偵学入門』'24と、得意芸やアイディアの使い回しでも作品ごとに異なるヴァリエーションなのでそのままの転用ということはほとんどない。その点では、キートンより多作家だった時期の作品が残っているからかチャップリンやロイドの方が案外同じギャグの流用が多いのは意外な気もします。チャップリンやロイドの場合はドラマの展開に注意が向かうのではめこまれるギャグは流用でもあまり気になりませんが、キートンの場合はギャグにこそ映画の本体があるので基本アイディアとしては同じでも使い回し方に二番煎じにならないよう気をつけている、ということもできます。キートン短編には夢オチが多い印象がありますが、前回の「キートンの北極無宿」までで夢オチは「キートンの囚人13号」「キートンの化物屋敷」「キートンの即席百人芸(の前半)」「キートンの北極無宿」と4編、全19編でもサイレント短編最終作「捨小舟」が夢オチですが、悪夢的展開の作品は「キートンのハード・ラック」までの初期7編や「キートン半殺し」「キートンの鍛冶屋」、「キートンの空中結婚」(次回紹介)でも曖昧だったり唐突だったりするので、夢オチでなくても夢オチと印象がかぶってしまう作品が多い。傑作「キートンの船出」「キートンの白人酋長」「キートンの警官騒動」もそうですし、今回の2編も夢オチと見まがうばかりの落とし方です。サイレント映画とトーキー以降のサウンド映画はリアリティの水準に大きな違いがありますが、サイレント映画がムルナウの『最後の人』'24で大きくトーキー以降の映画文法に変化したのは主観ショットと客観ショットの混在によってすでにサウンド映画以降のリアリティの水準を準備していたからで、チャップリンもトーキー時代にあえてサイレント映画に仕上げた長編『街の灯』'31では映画はサイレントでありながら映像文体はサウンド・トーキー映画にすでに変化しています。キートンの短編では視点人物の不在が当然だったサイレント映画でもとりわけ視点の変換が謎めいている、客観ショットでないなら目撃者が存在もしていない「第4の壁」(絵画、演劇、映画などで観客側に存在する架空の壁)からの主観ショットというものが発生していて、「キートンの船出」「キートンの白人酋長」「キートン半殺し」「キートンの鍛冶屋」や本作の最終ショットもそうですし、次作「成功成功」の最終ショットもそうで、映画を終わらせるための唐突な視点の切り替えがあり、これは結果的に夢オチと同じような効果ばかりかもっと過激な場合「キートンの警官騒動」のようにエンドマークのイラストが結末になっている、というはっきりとメタ映画的な、短編全体をカッコでくくって突き放してしまう効果まで生んでいます。まだ完成度において集中力が欠けていた初期7編よりも'22年に入った短編は焦点自体はよりぴったりと合った作品に仕上がっているだけに、結末の唐突さは「ここまでの話は全部ウソ」とどんでん返しのような感触をもたらすので、映画が現実感に回収されるチャップリンやロイドとはそこがはっきり違うキートンならではの奇妙な味になっている。本作は小道具・大道具の仕掛けに凝った分盛りだくさんながら「文化生活一週間」の新婚住居のポータブル・ハウス1軒に焦点を絞った成功にはおよばず、いわば仕掛けが多すぎる分興味が全体に均等化してしまった、失敗作ではありませんが凝ったほどには盛り上がらなかったキートンとしては標準的な出来(それでも十分高いものですが)にとどまった佳作止まりの作品ですが、投げやりなラストショットでこの佳作は印象的な作品になっています。まるでルノワールの『素晴らしき放浪者(原題「水から現れたブーデュ」)』'32のような、とは持ち上げすぎでしょうか。

●1月29日(火)
*「成功成功(キートンの白日夢)」Day Dreams (監・脚=キートン&エディ・クライン、First National'22.Nov.)*19min, B/W, Silent : https://youtu.be/t0ToSegYnA8

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 この短編は恋人(ルネ・アドレー)との結婚を恋人の父親(ジョー・キートン)から許可を取りつけようとしたキートンが、都会で成功したら許してやるがしくじったら自殺せよ、とデスクのピストルを示される場面から始まります。それからキートンが都会から送ってくる手紙をアドレーが読むが、実は……という平行オムニバス形式で進みます。「200人の患者が入院する療養所の所長になりました」という手紙にアドレーは大病院を想像しますが、実際のキートンは犬猫病院の管理人で、ペットを預けたり請け出したりする客と逃げ回る犬猫でてんてこまいで、犬と喧嘩して茂みに逃げこんだ猫と間違えて野生のスカンクを捕まえてきて客に渡したキートンは首になるばかりか、毛布を羽織って衣類全部を埋葬処分するはめになります。「療養所で誤解があり、ウォール街を一掃する仕事に転職しました。大物株主たちが毎日訪れてきます」株式市場で活躍するキートンを思うアドレー。実際のキートンはウォール街の街路の掃除夫で、底抜けのキャリア式バケツと知らず集めても集めても片づかない路上のゴミと格闘し、たまたま蓋を開けていたマンホールの上にバケツを停めてゴミが片づいたのできょとんとしますが、マンホールから出てきた工事夫にぶちのめされます。そこに市長選の候補者(ジョー・ロバーツ)の演説が楽隊つきで向かいの路上で始まり、キートンは山のように降り積もる紙テープと格闘し、思いついて火を放ったところ候補者や楽隊たちの方まで紙テープの山は延焼し、キートンは慌てて消火ホースで火を消し始めますが、噴出する水の勢いで楽隊たちや候補者は押し流され、候補者などはバス・ドラムを頭から底抜けにかぶってしまいます。消火の終えたキートンをロバーツが楽隊たちを指揮して水のあふれるマンホールに突き落として半殺しにします。「芸術的分野に興味を持ち舞台に立つことになりました。演目はシェークスピアのハムレットです」髑髏を手にした王子姿のキートンを思い浮かべるアドレー。実際のキートンは軽喜劇の騎兵姿のダンサーで、幕が下りても客席側に残ってしまい、舞台監督から騎兵姿のまま劇場の外に蹴り出されます。勢いあまったキートンは警邏中の警官に衝突し、警官は騎兵姿で路上をうろつくキートンを怪しんで追ってきます。街中の用品店店頭、見本の前で店主と話す客は店主が見本を手に取った隙に店主のポケットから財布をすり盗りますが、店主は通りかかった警官を呼び止めます。スリはとっさに平台に並んだ服のポケットに財布を隠し、警官に身体検査されて立ち去ります。警官が去り店主が引っこみ、店先の逆側のマネキン人形に化けていたキートンが台から下りて、騎兵服の上から店頭の服を重ね着しますが、店主が出てきて代金を請求します。キートンは困りますがズボンのポケットに財布を発見、店主に支払おうとして財布を店主に気づかれ警官を呼ばれてベルトをしていないキートンはズボンを落として逃げ、警官を巻いて再び店頭に戻ってズボンを調達し、そこに現れた警官に握手するふりをしてマネキンの手を握らせて一目散に逃げます。「観客の熱狂で自由になるのも困難なほどでした」群れをなす警官がキートンを追います。キートンは市電に飛び乗って警官を巻きますが、市電に乗っていた警官に追われて飛び下り、街中を走ってまた市電に突き当たり乗ろうとしますが市電の中は全員警官で次々下りてキートンを追ってきます。キートンは港を離れる船のデッキに飛び乗り桟橋の警官たちに手を振りますが、船はそのまま出航せず方角を変えるために桟橋に横づけし直し始め、キートンは船の側面から逃げようとしますが、船の水車輪(パドルホイール)の上に落ちてしまいます。そして水車輪は徐々に回り始め、輪の中に落ちたキートンは輪の回転が激しくなるにつれて全速力で輪の中で走り続けなければならなくなり、ついには回転に追いつかず輪の中で両手両足を突っ張るも勢いに負けて長続きせず、回転に巻きこまれて振り回された挙げ句、水車輪の外にはじき出されます。村。郵便配達夫が馬車に乗せてボロボロになったキートンを運んできます。配達夫はキートンを肩に乗せてアドレーの家に配達し、父が受け取り伝票にサインします。恋人の父は約束は守ってもらおう、と引き出しからピストルを出してきてキートンに渡し、キートンはピストルを受け取ってよろよろと画面外に消えますが、字幕タイトル「自殺に失敗しました」とよろよろと戻ってきます。恋人の父はキートンを窓辺に連れて行き、カットは家の外に切り替わって窓から叩き出されるキートンの姿で、エンドマーク(絶句)。
 と、この短編も「キートンの警官騒動」を思い出さずにはいられない後半の展開が二番煎じにはまったく陥っておらず、栗鼠や二十日鼠のカゴの運動用の車輪のような水車輪の中を疾走し、突っ張り、転がり回るキートンという強烈なイメージでキートン短編中の名作になっています。何をやっても失敗する男、というキートンの十八番の役柄を手紙形式のオムニバス仕立ての平行描写で描いたのもさり気ない趣向ですが本作を上手くエピソードの羅列ではない短編に仕上げており、この趣向はのちにロイドが長編の大傑作『ロイドの要心無用』'23の前半で生き生きと使っており、すぐ先例を思い出せませんがのちのミュージカル・ヒットした小説『パル・ジョーイ』も親友あてに都会での出世譚を綴る書簡体小説でしたが、明らかにホラ吹きとわかるのが趣向になっている、というのはマーク・トゥエイン以来のアメリカ文学の伝統にあり、トゥエイン以前のホーソーン、ポー、メルヴィル、ソーロー、ホイットマンら開拓文化のアメリカにはもともとホラ話の伝統が文化全体にあったので、カウボーイからブルースマン、ジャズマンにいたるまでアメリカの文化的英雄はホラ話の集積と言えるので、裏返せばそれは失敗に次ぐ失敗の集積と同じことになります。それがキートンのキャラクターに生きている、ということです。また本作のヒロイン、ルネ・アドレーはキートンの短編のヒロイン女優中最大のヒット作を持つ人で、アメリカではサイレント時代が完全に終焉した'30年の集計ではトーキー作品のミュージカル映画『シンギング・フール』(純益500万ドル)がトップに立ちましたが(同作は今日まったく忘れられています)、当時の時点では2位~6位まではサイレント時代の映画で、2位がルドルフ・ヴァレンティノ主演作『黙示録の四騎士』'20(純益450万ドル)、3位がフレッド・ニブロ版『ベン・ハー』'25(純益400万ドル)、4位が純益同額タイ(純益350万ドル)で『ビッグ・パレード』'25、『国民の創生』'15、『幌馬車』'23が並び、サイレント作品としては1位『黙示録の四騎士』、2位『ベン・ハー』、3位が『ビッグ・パレード』『国民の創生』『幌馬車』になりますが、他でもない『ビッグ・パレード』のヒロイン女優がルネ・アドレーで、MGMのスター女優になったアドレーの主演したのちのメロドラマ西部劇『侵略の湖』'29にはキートンのカメオ出演があるそうです。本作は1編きりのキートン短編のヒロイン出演になったアドレーもいいですが、キートンの実父であるジョー・キートンが実に無情な残酷な恋人の父親役、というのもブラック・ユーモアに転じていて、ジョー・キートンは実父だけあってキートンそっくりの端正な二枚目で、しかも無表情でこんな人が恋人の父親は絶対に嫌だ、というかキートンと実の父子(本当に父子だから当たり前ですが)に見えます。キリスト教で「放蕩息子の帰還」というと日本では菊池寛が「父帰る」に翻案した通り、放蕩そのものを人生経験・試練として許す、という点にニュアンスがかかっています。男性の方でボロボロの生活経験(例えば離婚・入獄など)をくぐって実家に帰宅し実の父親(しかもクリスチャン)に「放蕩息子の帰還だな」と吐き捨てるように言われた恵まれた人生経験を持った方にはおわかりいただけると思いますが、キリスト教の教義では「放蕩息子の帰還」は「罪の許し」であっても、実生活でこの表現が使われる時には肉親こその深い侮蔑や身内の恥、厄介者というニュアンスの方がはるかに強いのが現実原則というもので、なんともはや身も蓋もない話ですが、キートンの本作はそういう意味では壮大なホラ話かつあまりにベタな現実的オチがつく。キートン映画のキートンのように壮大なヘマばかりやらかす人生は映画の虚構ですが(しかしキートン本人は映画の中のキートンのキャラクターに限りなく近かった、と伝えられます)、キートンの場合はキートンならではの無類のキャラクターのリアリティがあり、そういうキートンだからこそ船の水車輪(パドルホイール)の中でリスやハツカネズミのように走り回る、というのが板につくので、偉大なチャップリンやロイドですらもこんな荒唐無稽なギャグは思いついても演らない、似あわないでしょう。馬鹿馬鹿しいことを真剣にやってそれがえもいわれぬムードをかもし出す、という点でキートンの体を張ったギャグは実存的な「無償の行為」とかいっそ詩情とまで言える無意味な感動にまで高まるので、実の父親が演じる相手に窓から叩き出される、という自虐的なんだかリアリティがありすぎるのかわからないような映画を自作自演するほど映画を私物化して、しかもそこに不条理なまでの必然があり、作品を輝かさせているとは他に映画ではめったにないものです。「映画とは何か?人生のすべてがあるものだ、つまり戦場だ」と名言を残した映画監督はサミュエル・フラーですが、最高のキートン映画もまた人生のすべての矛盾、不条理を凝縮させたような出来を示しています。しかも20分そこそこの短編映画の中にです。

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