バスター・キートン3回目の今回はある意味ふり出しに戻った回で、短編第7作の「キートンのハイ・サイン」は公開順は7編目ですがキートンがジョセフ・スケンク・プロダクション内で先輩コメディ・スターのロスコー・"ファッティ"・アーバックル作品の助演・助監督・脚本協力から独立した主演俳優兼監督・脚本で作った初短編でした。しかし主演デビュー作には出来が不十分と考えたキートンとスケンクによって「キートンのハード・ラック」は一旦お蔵入りにされ、次に作った「文化生活一週間」が満足いく出来になったことから公開順では同作がキートン自身の監督・脚本による初主演短編になったのです。'20年には9月の「文化生活一週間」から10月、11月、12月と4編を発表したキートンは、'21年には2月、3月と第6作までを発表し、4月初公開となった旧作「キートンのハイ・サイン」以降は5月、10月、11月と製作ペースが落ちて年間で6編となり、'22年度は1月、3月、5月、7月、8月、10月、11月の7編を公開し、'23年度は1月、3月と2編の短編で短編時代を終え、キートン主演・監督・脚本の長編第1作『キートンの恋愛三代記(滑稽恋愛三代記)』を'23年9月に公開します。「キートンのハイ・サイン」ではヒロインはロスコー・アーバックル映画に出演していたバーティン・バーケット(1898-1994)で、バーケットは'17年デビュー、'28年の結婚引退まで60編以上のサイレント作品に出演した女優でしたが後年に未亡人となったあと、80歳過ぎてドロシー・ストラットン主演のSFコメディ『ギャラクシーナ』'80、エリオット・グールド主演のファンタジー・コメディ『デビルとマックス/悪魔が天使?』'81などに出演しており、前者はプレイボーイ誌の年間プレイメイトNo.1モデル主演の低予算映画ですが、後者はディズニー製作のメジャー作品ですから、端役とはいえサイレント時代の伝説的女優起用というアメリカ映画の層の厚さが感じさせられます。
さてキートンは、全短編が2巻で、主演デビュー年の'20年こそ9月を始めに毎月新作公開でしたが、'21年には前年製作のお蔵入り作品「キートンのハイ・サイン」含め6編、'22年には7編ですから、チャップリンで言えば2巻短編をほぼ隔月で年間8編発表した'16年、ロイドも同様に2巻短編をほぼ隔月で年間6編発表した'20年に相当するのが'21年・'22年のキートンで、チャップリンが短編製作に入念になり寡作になったのが2巻短編4編の'17年で、年間に2編の3巻中編に移行するのが'18年~'19年、初長編が1年以上ブランクを置いた'21年2月で次の長編が'23年と、中編から長編の移行に慎重で、かつ長編時代はめっきり寡作になったのに対して、ロイドの3巻中編時代は'3編の3巻中編(と2巻短編1編)の'21年のみで、'21年12月には初長編を公開し以降年2作ペースで長編時代に入っています。キートンは中編時代がなく'23年の短編最終作から半年後に初長編を公開しており、'24年以降はロイド同様年2作ペースで長編時代に入っていますから、'14年デビュー即主演・監督兼任のチャップリン、'15年主演デビュー('13年~'15年前半は助演でしたが)のロイドと較べて、子役時代からの芸歴があり'17年~'20年に14編の助監督・脚本協力を兼ねた助演短編があるとはいえ、チャップリンより6歳・ロイドより2歳年少だけでなくキートンは映画キャリアがまだ浅いうちに主演・監督兼任になったとも(それはキートンよりさらに過酷に子役芸人から叩き上げてきたチャップリンも同様でしたが)、習作時代や模索時代を経ずに自作の作風を確立したとも言えるので、プロデューサーのスケンクに急かされたとも言えますしチャップリンのように'16年には自作のプロデュース権を確立した、またはロイドのようにプロデューサーがロイドを看板俳優としてプロダクションを設立して盟友関係にあったハル・ローチでプロダクションにファミリー的結束があったというのでもなく、ビジネスにうといキートンはスケンクには養父子のように逆らえず、スケンクの采配で作品製作ペースが決まった面もあります。キートン長編中最大の製作費をかけた畢生の傑作『キートンの大列車追跡(キートン将軍)』'27の大赤字のあと、スケンクはキートンから監督権を奪い、さらに大手MGMに契約俳優として売ってしまいます。スケンクがキートンに好き勝手な内容の製作を許していたのは短編時代と'24年までの長編までと言ってよく、スケンクの企画でもヒット長編を出したキートンが勝ち取ったのが念願の大作『キートンの大列車追跡』で、それがキートンのキャリアの頂点とともに挫折点になったのを思うと、短編時代のキートン作品ののびやかさがまばゆくもはかなく見えるのです。
●1月19日(土)
「キートンのハイ・サイン 」The High Sign (監督・脚本=キートン&エディ・クライン、Metro'21.Apr.12)*22min, B/W, Silent : https://youtu.be/6qY6_jAxjUk
前書きに書いたような事情でキートン主演・監督・脚本の最初の完成作品ながら1年半あまりお蔵入りにされ第7作として公開された本作ですが、ヒロインが第1作~第3作のシビル・シーリーでも、第4作~第6作のヴァージニア・フォックスでもなくロスコー・アーバックル喜劇常連のバーティン・バーケットだな、というくらいで公開順にこれを第7作の新作として観た当時の観客も、DVDの収録順に第7作として観る今日の視聴者にもまったく違和感がないのが本作「キートンのハイ・サイン」です。奇跡的なまでに首尾一貫性があり起承転結が決まった「文化生活一週間」でキートンの映画になじめば第2作「キートンの囚人13号」以降はいきあたりばったりだったりその上夢オチだったりするとりとめのない作風がキートンの本流になっていて、そうした印象と「文化生活一週間」の完成度の高さが何ら矛盾せず、「文化生活一週間」も振り返って見ればとりとめのない悪夢の連続映画だったのが腑に落ちるので、キートンの作風自体は「文化生活一週間」が例外的だったのではありません。ただ「キートンのハイ・サイン」が主演・監督・脚本デビュー作としては弱いというのはキートンやスケンクの賢明な判断で、キートンの作風にある程度なじんでいないとこれはちょっとひねりのある悪漢退治のドタバタ喜劇で観過ごされてしまうような小品にとどまっていると見えます。これまでのキートン短編を観てきた観客、視聴者ならば本作もキートンらしさ、キートンならではの特色を楽しめるので、前作「キートンのハード・ラック」で出鱈目の限りを尽くしたからにはもうこれを出してもいいだろうと本作を引っ張り出してきたのは(「キートンのハード・ラック」が少々やり過ぎ、思いつきに過ぎた観があったこともあり)良いタイミングだったようにも思えます。本作は汽車から転がり落ちたキートンがメリーゴーラウンドを通りかかってメリーゴーラウンドで回転中の客から新聞を拝借し、通りのベンチでその新聞を広げるキートンの姿から始まります。新聞は広げれば広げるほどでかくなり(つまり2メートル四方ほどをそのまま折りたたんだ巨大な新聞で)キートンは新聞をかぶって四苦八苦読み、「凄腕ガンマン募集」の求人広告を見つけます(その時通りかかった通行人がメリーゴーラウンドの客だったらしく、折りたたんだ新聞を憤然と取っていきます)。キートンは塀のそばでコーラ瓶を飲んでいる男(アル・セント・ジョン)を尻目に塀に並んで立っている瓶で射撃練習をしますが、キートンが左の瓶に狙いをつけると右の瓶に、右に狙いをつけると左の瓶に当たり、ようやく中央の瓶を狙い通り撃ち落としたキートンはセント・ジョンの喝采を浴び、セント・ジョンが置いた瓶を狙いますが弾はセント・ジョンの尻に当たってキートンはすたすた立ち去ります。このセント・ジョンもアーバックル映画の常連俳優でアーバックルの甥だそうで、キャストをアーバックル映画から借りている点も含めて本作はまだアーバックル映画の助演・助監督・脚本協力時代との連続性が指摘されています。キートンは射撃の腕前を見込まれて射的場のある銃器店に雇われますが、実はこの銃器店は「Blinking Buzzards」を名乗るギャングの経営で、強盗殺人承りの店でもあり、議員のニッケルナーサー氏の暗殺を依頼されたばかりです。ニッケルナーサー氏は娘(バーティン・バーケット)に殺害予告状を見せて対策を相談します。店の内情を知らないキートンは店番をしながら命じられた射撃練習をさぼるために的の鐘が鳴る紐を路地の野良犬につなぎますが、犬が猫と喧嘩し大暴れになって鳴り続ける鐘をごまかすためにかえって銃を撃ちまくらねばならなくなったり、射的場の客に銃を渡すとホールドアップさせられて売上箱を盗まれたり、次の客は一撃で全部の的を撃ち落として景品がすっからかんになったりと客の対応に追われます。そこにニッケルナーサー氏父娘が現れ、殺し屋に狙われているからボディーガードを依頼したいと頼み、娘の懇願にキートンはホイホイと引き受けて閉店後にうかがいます、と約束してしまいます。父娘が去ったあとキートンは銃器店のボスに全員が集合している店の奥に呼ばれ、次の仕事は今夜こいつだ、と他でもない、ニッケルナーサー氏の写真を見せられます。
ギャングの店だったかと気づいたキートンは平静を装い命令を受けますが、もちろん父娘への約束が優先です。早々父娘の家に駆けつけたキートンは、全部の部屋に抜け穴や仕掛けがしてあると教えられますが、そこにギャングの一団がやって来るのが窓から見えます。キートンは撃つから殺されたふりをして、と適当に部屋の隅を撃ちニッケルナーサー氏はうつ伏せに倒れて死んだふりをし、娘は悲鳴を上げて、踏みこんできた一味にキートンは殺しました、と報告し、一味が去るとキートンは早く逃げましょうと父娘をせかしますが、ギャングの一人(チャールズ・ドレティー)がキートンが来ないのに不審を抱いて戻ってきて逃げようとしていた三人は見つかってしまいます。ギャングの一団は戻ってきて、そこからあとは抜け穴や仕掛けだらけのからくり屋敷になった家の中で三人はぐれて逃げまわり、からくりを利用してギャングたちを屋敷から弾き出しますが、残った一人(イングラム・ピケット)が娘を追い詰め誘拐しようとするところを、背後から忍び寄ったキートンが一撃で叩きのめして、キートンとバーケットは抱きあい、エンドマーク。と、からくり屋敷を使った追っかけと悪党退治はキートンらしい趣向でもあるのですが、第四の壁(スクリーン前面)を抜いて二階と一階へのエレベーター式追っかけや落下を見せる見せ方などはキートン独自というより当時のスラップスティック喜劇の典型的な手法で、冒頭の当たり前のようにメリーゴーラウンドの客から新聞をすりとるキートン、とキートンらしいとぼけた発想と描写、新聞が開くとつながっていて2メートル四方にもなる意表をついたギャグなどは好調ですが、全体にキートンの短編らしい奇想天外さに乏しい。殺し屋と狙われた相手の両方に雇われる趣向もうまくできていますが、キートン短編に共通してある悪夢的雰囲気には乏しいのです。「どこでもなく、どこかしらで、あるところで(…Nowhere…Anywhere…Somewhere…)」と字幕から始まるようにキートンらしい出だしから違和感なく観られるものの、今回キートンにしては筋書きらしい筋書きもあり妙にきっちりした作品も作るんだなと思い、実はお蔵入りになっていた「文化生活一週間」以前の最初の主演・監督・脚本短編だったと知ると、助演時代から独立したキートンの唯一の習作と言えるのが本作で、キートンも自覚していた荒唐無稽さ、奇想天外さ、悪夢っぽさをきちんと定着してみせたのが「文化生活一週間」「キートンの囚人13号」だったのがわかる、そういう意味では本作のまとまりの良さはキートンが根本は当時の喜劇映画短編のツボを心得ていたことを示す実例となっています。また次作「キートンの強盗騒動(悪太郎)」の充実は、本作公開によって構想・撮影ともに、ゆとりをもった製作期間を置くことができたからとも思えます。
(なおハイ・サインとはギャング同士の合図を指します)
●1月20日(日)
「キートンの強盗騒動(悪太郎)」The Goat (監・脚=バスター・キートン&マル・セント・クレア、Metro'21.May.18)*27min, B/W, Silent : https://youtu.be/q06pdBWMKNg
本作は腹を空かせて歩いているキートンが蹄鉄が落ちているのを見つける、何だつまらないと路傍に座ると次に通りかかった男(ジョン・ハヴェス)が蹄鉄を広い、諺をかついで後ろに投げて数歩歩くと札束でふくれ上がった財布を拾います。垂涎の表情でその様子を見ていたキートンは男の投げた蹄鉄を慌てて探し出し、期待をこめて腕を振り回して背後に投げますが、警官(エディ・クライン)の頭に当たってしまって追いかけられてしまう。その時犬を連れて歩いていた美人(ヴァージニア・フォックス)が通りかかった男が犬の曳き紐に足を絡めたことで因縁をつけられ、警官から逃げていたキートンは偶然男を突き飛ばして男をのしてしまい美人に感謝されます。市外電車に飛び乗って警官をまいたキートンは街をぶらぶらし、たまたま鉄格子が通りに面した刑務所で囚人のデッド・ショット・ダン(マル・セント・クレア)が顔写真を撮影されているのを見ますが、囚人は準備中のカメラマンの隙をついてシャッターを押して鉄格子越しのキートンの写真をとり、自分の写真が撮られる時にはカメラにこっそり布をかぶせてしまいます。キートンは招待された夕食まで時間をつぶそうと街をぶらぶらしますが、通りを行く人びとがキートンの顔を見るなり逃げ出すので不審に思い、人だかりがしている掲示板に寄って見ると「凶悪犯デッド・ショット・ダン脱獄!生死を問わず懸賞金5,000ドル」のでかい掲示板に鉄格子を握ったキートンの顔写真がでかでかと掲示されています。周囲の人びとはキートンに気づくと一斉に逃げ出します。困ったキートンは指名手配写真の前で思案しますが、逃げ出した女性が落とした髪飾りをみつけて指名手配写真に貼りつけ髭をつけます。そこに運悪く警察署長(ジョー・ロバーツ)がやってきます。キートンはもじもじしますが手配写真とは違うだろと関係ないふりをする。しかしキートンがU字型に貼りつけた髭は下がってへの字になり、しまいには落ちてしまって、警察署長はキートンを指名手配犯の写真の男と気づき、キートンはまた一目散に逃げ出します。キートンは何とか隠れようとしますが、キートンの指名手配写真は街じゅういたるところにポスターで貼られ、新聞にも載っています。キートンが行くところはどこでも町民が恐怖から逃げ出します。キートンは逃走中に、別のギャング団を張りこみ中の警官隊に見つかり、警官隊とギャング団のどさくさまぎれに発煙筒を拾って周囲を煙に巻いて難を逃れます。一方警察署長はキートンを追って街じゅうでさんざんな目にあいます。キートンは先に犬の件で助けた女性とばったり出くわし、家の夕食に招待されます。運良くキートンが指名手配中と知らない女性にも女性の母親にも歓迎され、キートンは夕食の席につきますが、食前の祈りの最中父親が帰ってきてキートンの真向かいに座り食前の祈りに加わります。祈りを済ませて顔を上げたキートンは女性の父親が警察署長なのに気づき、警察署長も形相を変えて妻と娘を別室に行くよう命令します。家の中で追いかけ、さらにアパートの廊下に逃げだしたキートンはエレベーターを使って上へ下へと逃げ回り、電話でヴァージニアを呼び出して二人で図って警察署長を欺き、停止したエレベーターの天辺に落ちた警察署長を屋上に弾き出します。ヴァージニアを連れてアパートを出たキートンたち二人は隣の家具店の「家庭を持ちたいカップルは当店へ!」という看板を見ると、欣喜雀躍として二人で入っていき、エンドマーク。
本作は短編でずっと監督・脚本の共同クレジットを分けあっていたエディ・クラインではなくマル・セント・クレアが共同監督・脚本になっていますが、クラインが共同監督の時もセント・クレアが俳優で出ていたように本作でもクラインが俳優として出演していて、キートンのサイレント短編19編のうち15編はクライン共同監督・脚本、2編がセント・クレア共同監督・脚本、2編はキートン単独あつかいですが、作風にもスタッフ・俳優(配役)もほとんど変わらないため、チャップリンは言うにおよばずロイドやアーバックルらと同じくほぼ完全に主演俳優が監督を兼ねて企画・製作・撮影を主導していたと思われ、ロイドのようにプロダクションとの密接なファミリー的チーム制から監督・脚本は専任監督・専任脚本家にクレジットを与えた例もあれば、キートンのように体技性が強く大道具小道具に凝るため第二監督の役割を果たす人物が必要でもあり、またビジネスマン気質で多忙なジョセフ・スケンクに代わってプロデューサー補として現場についている人物も必要だったのでクラインやセント・クレアが共同監督・脚本あつかいになっていたと考えられ、要はキートン作品ではあっても権利はスケンク・プロが保有するための措置だったのでしょう。「キートンの囚人13号」から「キートンの案山子」「キートンの化物屋敷」ときてプロット・ストーリーともどんどんいきあたりばったりのナンセンス作品が続き、「キートンのハード・ラック」で頂点に達した人を食ったおとぼけ路線に、お蔵入りにしていた「キートンのハイ・サイン」はアーバックルの助演・助監督時代のもっときっちりした喜劇短編らしい短編を思い出させもし、またお蔵入り作品の公開で新作準備に時間がかけられたことから、本作は脱獄囚の囚人に手違いで撮られた指名手配写真を警察も怪しまなければキートンも潔白を証明しようとは考えもせず逃げ回るのがキートン流の不条理喜劇なので、殺人犯指名手配手配の掲示板を見たキートンは、ヴァージニア・フォックスに絡んでいた男にぶつかって男が気絶した様子を思い出し、あの時殺してしまったのかと思いこむ、というフラッシュ・バックが入りますが、事故だとかフォックスを助けるための正当防衛だとか潔白の証を立てる発想はまったくなく、警察署長の父をエレベーターで弾き飛ばしたキートンとフォックスは何の反省や疑問もなく大喜びで結婚の支度に家具屋に入っていきます。面白いことばかりが起きる世界をユートピアと呼ぶなら、黒澤明の『用心棒』やゴダールの『気狂いピエロ』だってユートピアを描いた映画であるように、キートンの映画もまた純粋なユートピア映画で、それは悪夢であれバッドエンドであれヴァイオレンスであれ関係なく面白いことばかりという点でユートピアなので、キートンに較べればまだチャップリンやロイドの映画も面白さや主人公の抱えた責務、モラルの基準で現実に即している面が強い分、ユートピアとしての純度ではキートンに軍配が上がる、と言えます。本作がキートンの短編としてはかっちりしたプロット・ストーリーの中で十分に無責任でモラルを欠いた面白さが堪能できる快作であるゆえんです。また本作は中盤、汽車に飛び乗って警官から逃げたキートンが汽車の先頭にちょこんと座り、猛突進する汽車が隣町でカメラに向かって一直線に走ってきて停まると平然として座っているキートンのアップになる、という、えも言えないとぼけた印象的ショットもあり、この冴えた映像感覚は最初に作られたお蔵入り作品「キートンのハイ・サイン」にはなかったものなのを気づかされます。
●1月21日(月)
「キートンの即席百人芸(キートンの一人百役)」The Playhouse (監・脚=キートン&エディ・クライン、First National'21.Oct.6)*22min, B/W, Silent : https://youtu.be/LxWF5gIBiiA
'21年5月公開の前作「キートンの強盗騒動」から本作は10月と間が空いたのは、短編主演デビュー以来の配給先のメトロ映画社からファースト・ナショナル社への配給委託に代わった事情があるでしょう。半年あまり間が空いた代わりに企画と構想は溜まったようで、翌'22年のキートンは年間7編の短編を公開しますが、配給が代わっただけで製作はジョセフ・スケンク・プロダクションなので配給上では移籍第1弾、通算9作目の本作も次作「キートンの漂流」(同年11月公開)、また'22年度前半の作品と製作順は前後していたり、同時進行で製作されていた可能性も大いにあります。ファースト・ナショナル社は映画館のトラストが映画会社主導の配給体制に対向して'18年に発足させた映画会社で、そういう新参映画社だったため看板スターが求められ、チャップリンが週給1万ドルという当時の映画俳優最高の破格のギャラとプロデュースの全権の条件を勝ち取った映画会社です。会社の成り立ちが映画館のトラストだったため配給体制はしっかりしており、'18年中にチャップリンは初中編「犬の生活」と第2中編「担え銃」で喜劇映画の枠を超えたアメリカ最高の映画監督・俳優になりました。チャップリンは初長編『キッド』'21(2月公開)のあと寡作になり、第2長編『偽牧師』'23(2月公開)を最後にD・W・グリフィス、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードの4大映画人でユナイテッド・アーティスツ社を設立して移籍しますが(グリフィスは'27年に脱落してしまいますが)、ほとんど新作を作らなくなってしまったチャップリン(『キッド』と『偽牧師』の間には'21年9月に短編「のらくら」、'22年4月に短編「給料日」のみ)の代わりに喜劇短編を求めていた同社にスケンクがメトロ以上での条件でのキートンの売りこみを図ったのでしょう。のちにスケンクはグリフィスが借金苦のため他社からの依頼もこなさなければならず、ユナイテッド・アーティスツから独立せざるを得なくなった時、グリフィスに代わるユナイテッド社の重役の地位に割りこみます。さて本作はチャップリンのエッサネイ社第12作「チャップリンの寄席見物」('15年11月公開)のキートン版と言うべき趣向が前半を占める短編ですが、チャップリンが大衆芝居の大衆席の大騒ぎ客と特別席の迷惑客の二役を演じ客席も舞台も大混乱に陥らせていく「チャップリンの寄席見物」のような明確なプロットがあるわけではなく、キートンの場合は劇場じゅうの人物が全員キートン、という気の遠くなるような、手間こそかかれ単調な果てしない多重露出撮影によるトリック撮影で旧邦題通りの「一人百役」をやっているのが見所です。それが前半で、後半は全然別の話になり、2巻短編をこれほど明確に前半・後半と1巻ずつ分けている構成はキートンには珍しく、趣向で見せる異色作を配給先移籍第1弾に持ってくるのはインパクトはありますが、スケンクにしろキートンにしろ大胆なことをしたものです。映画はキートンが劇場の切符を買って入場する場面から始まります。舞台はミンストレル・ショーをやっていて、黒塗りの白人役者が10人あまり横並びで漫談をやっているのが前座なのですが、これが全員キートンで、二人一組のバルコニー席に座ったキートンはプログラムを広げるとキャストとスタッフ名が全員キートンで、キートンは「キートンだらけでできてる出し物みたいだね」と隣の女性に話しかけると隣の女性もキートンで、他の席の紳士淑女、おばあちゃんと孫、初老の夫と派手な服装の若妻と、観客も全員キートンです。出演俳優ばかりでなくオーケストラも指揮者から団員まで全員キートンで、ダンサーが出てくればやはりキートンですし、舞台裏や楽屋の裏方、スタッフも全員キートンという具合。調教師(エディ・クライン)に猿を任されたキートンは猿に逃げられてしまい、猿の代わりに舞台に出たキートンが猿を演じていて目を廻すと、舞台監督兼俳優の上司のジョー・ロバーツがうなされているキートンをどやしてキートンは夢から醒める、と前半は夢オチに終わります。後半はロバーツの一座の舞台裏と芝居騒動に双子の美人ダンサーの一方(ヴァージニア・フォックス)と恋に落ちたキートンが、しょっちゅうフォックスでない方といちゃつこうとしてどつかれ、芝居がはねたどさくさまぎれに結婚しようと連れ出すとまた間違えて、今度はフォックス本人を連れ出してすたすたと簡易結婚式場に入っていく場面で、エンドマーク。
と、この映画はまたもや夢オチの前半がキートンの一人百役を見せる以外は芝居の内容も客席と舞台の絡みもほとんど筋書きらしい筋書きもなく、「キートンだらけでできてるみたいだね」というのは、グリフィスと並ぶ'10年代の短編時代~長編主流の'20年代半ばまでの映画王のひとりトーマス・S・インス(1882-1924)へのあてこすりだそうで、芸能一家育ちのインスは'06年に俳優から映画界入りしましたが'10年にはメアリー・ピックフォード主演短編で監督デビューし(1875年生まれのグリフィスは'09年監督デビュー)、グリフィスが独立プロを起こし大ヒットした超大作『国民の創生』を公開したのは'15年でしたが、インスは'12年に大ヒットした短編「大平原の戦い」の収入でカリフォルニア州南部に土地を買いインスヴィルと名づけた村を開いて撮影所とし、「アメリカ最初の西部劇スター」ウィリアム・S・ハート主演短編で大成功した'13年末からはほとんど監督に携わらなくなります。その代わりスタッフ・チームにコンテや演出まで指定した撮影台本を監修し、撮影スタッフとキャストを指名して完全なプロデューサー・システムで映画を作り、主演俳優こそクレジットしましたが映画のクレジットには監督やカメラマンすら記さずプロデュース、原作、脚本、脚色などすべてのスタッフ・クレジットがトーマス・S・インス、という具合でした(グリフィスが『イントレランス』'16を製作した時はさすがに本腰を入れて、事前情報で洩れていた『イントレランス』の内容に対向する内容の『シヴィリゼーション』'16を『イントレランス』より早く公開する、ということもありましたが)。インス門下からはフランク・ボーゼージ、ヘンリー・キング、フレッド・ニブロ、ランバート・ヒルヤーなど一流、第一線の監督が出ていますが、こうした監督が活躍したのはインスの下を離れてからで、インス映画はウィリアム・S・ハート西部劇や『シヴィリゼーション』が歴史的重要性で語られてもグリフィスやマック・セネット、チャップリンのように優れた映画とはほとんど見なされていません。のち長編作品でグリフィスのパロディやオマージュを捧げるキートンがグリフィスの信奉者でインスを偽物視していたのは大いにあり得ますし、晩年のインタビューでは短編ではエディ・クラインを共同監督・脚本にして相談役にもしていた、トーマス・S・インスのような独裁的やり方はしたくなかったしそう見られたくなかったと発言していますから、「一人で映画の全部をやる悪夢」はインスへのあてつけばかりでなく、スタッフ名はちゃんとクレジットしながらインス以上に独裁的だったチャップリンや、まったく未開のヴィジョンと映画技法に挑んで独裁的にならざるを得なかったグリフィスのような映画人への脅威と畏敬の念を自己パロディのかたちでやってみたもの、とも言えるのかもしれません。しかしサイレント時代のキートン短編はクラインがつこうがセント・クレアがつこうがキートン単独だろうが原案・脚本・演出すべてにキートンの個性が通っており、しかもロイドほどにはファミリー的チーム制は強固で多彩かつ多才なブレインに恵まれていたとは思えないので、製作体制はむしろチャップリンに近いものだったでしょう。ただしチャップリンのように意志的に独裁的だったのではない分、本作「キートンの即席百人芸」のようなお遊び的作品では特に、それが作風のとりとめのなさ、まとまりのなさ(またはなげやりな雰囲気)、気ままさにも見える出来に反映しているような感じも受けます。
さてキートンは、全短編が2巻で、主演デビュー年の'20年こそ9月を始めに毎月新作公開でしたが、'21年には前年製作のお蔵入り作品「キートンのハイ・サイン」含め6編、'22年には7編ですから、チャップリンで言えば2巻短編をほぼ隔月で年間8編発表した'16年、ロイドも同様に2巻短編をほぼ隔月で年間6編発表した'20年に相当するのが'21年・'22年のキートンで、チャップリンが短編製作に入念になり寡作になったのが2巻短編4編の'17年で、年間に2編の3巻中編に移行するのが'18年~'19年、初長編が1年以上ブランクを置いた'21年2月で次の長編が'23年と、中編から長編の移行に慎重で、かつ長編時代はめっきり寡作になったのに対して、ロイドの3巻中編時代は'3編の3巻中編(と2巻短編1編)の'21年のみで、'21年12月には初長編を公開し以降年2作ペースで長編時代に入っています。キートンは中編時代がなく'23年の短編最終作から半年後に初長編を公開しており、'24年以降はロイド同様年2作ペースで長編時代に入っていますから、'14年デビュー即主演・監督兼任のチャップリン、'15年主演デビュー('13年~'15年前半は助演でしたが)のロイドと較べて、子役時代からの芸歴があり'17年~'20年に14編の助監督・脚本協力を兼ねた助演短編があるとはいえ、チャップリンより6歳・ロイドより2歳年少だけでなくキートンは映画キャリアがまだ浅いうちに主演・監督兼任になったとも(それはキートンよりさらに過酷に子役芸人から叩き上げてきたチャップリンも同様でしたが)、習作時代や模索時代を経ずに自作の作風を確立したとも言えるので、プロデューサーのスケンクに急かされたとも言えますしチャップリンのように'16年には自作のプロデュース権を確立した、またはロイドのようにプロデューサーがロイドを看板俳優としてプロダクションを設立して盟友関係にあったハル・ローチでプロダクションにファミリー的結束があったというのでもなく、ビジネスにうといキートンはスケンクには養父子のように逆らえず、スケンクの采配で作品製作ペースが決まった面もあります。キートン長編中最大の製作費をかけた畢生の傑作『キートンの大列車追跡(キートン将軍)』'27の大赤字のあと、スケンクはキートンから監督権を奪い、さらに大手MGMに契約俳優として売ってしまいます。スケンクがキートンに好き勝手な内容の製作を許していたのは短編時代と'24年までの長編までと言ってよく、スケンクの企画でもヒット長編を出したキートンが勝ち取ったのが念願の大作『キートンの大列車追跡』で、それがキートンのキャリアの頂点とともに挫折点になったのを思うと、短編時代のキートン作品ののびやかさがまばゆくもはかなく見えるのです。
●1月19日(土)
「キートンのハイ・サイン 」The High Sign (監督・脚本=キートン&エディ・クライン、Metro'21.Apr.12)*22min, B/W, Silent : https://youtu.be/6qY6_jAxjUk
前書きに書いたような事情でキートン主演・監督・脚本の最初の完成作品ながら1年半あまりお蔵入りにされ第7作として公開された本作ですが、ヒロインが第1作~第3作のシビル・シーリーでも、第4作~第6作のヴァージニア・フォックスでもなくロスコー・アーバックル喜劇常連のバーティン・バーケットだな、というくらいで公開順にこれを第7作の新作として観た当時の観客も、DVDの収録順に第7作として観る今日の視聴者にもまったく違和感がないのが本作「キートンのハイ・サイン」です。奇跡的なまでに首尾一貫性があり起承転結が決まった「文化生活一週間」でキートンの映画になじめば第2作「キートンの囚人13号」以降はいきあたりばったりだったりその上夢オチだったりするとりとめのない作風がキートンの本流になっていて、そうした印象と「文化生活一週間」の完成度の高さが何ら矛盾せず、「文化生活一週間」も振り返って見ればとりとめのない悪夢の連続映画だったのが腑に落ちるので、キートンの作風自体は「文化生活一週間」が例外的だったのではありません。ただ「キートンのハイ・サイン」が主演・監督・脚本デビュー作としては弱いというのはキートンやスケンクの賢明な判断で、キートンの作風にある程度なじんでいないとこれはちょっとひねりのある悪漢退治のドタバタ喜劇で観過ごされてしまうような小品にとどまっていると見えます。これまでのキートン短編を観てきた観客、視聴者ならば本作もキートンらしさ、キートンならではの特色を楽しめるので、前作「キートンのハード・ラック」で出鱈目の限りを尽くしたからにはもうこれを出してもいいだろうと本作を引っ張り出してきたのは(「キートンのハード・ラック」が少々やり過ぎ、思いつきに過ぎた観があったこともあり)良いタイミングだったようにも思えます。本作は汽車から転がり落ちたキートンがメリーゴーラウンドを通りかかってメリーゴーラウンドで回転中の客から新聞を拝借し、通りのベンチでその新聞を広げるキートンの姿から始まります。新聞は広げれば広げるほどでかくなり(つまり2メートル四方ほどをそのまま折りたたんだ巨大な新聞で)キートンは新聞をかぶって四苦八苦読み、「凄腕ガンマン募集」の求人広告を見つけます(その時通りかかった通行人がメリーゴーラウンドの客だったらしく、折りたたんだ新聞を憤然と取っていきます)。キートンは塀のそばでコーラ瓶を飲んでいる男(アル・セント・ジョン)を尻目に塀に並んで立っている瓶で射撃練習をしますが、キートンが左の瓶に狙いをつけると右の瓶に、右に狙いをつけると左の瓶に当たり、ようやく中央の瓶を狙い通り撃ち落としたキートンはセント・ジョンの喝采を浴び、セント・ジョンが置いた瓶を狙いますが弾はセント・ジョンの尻に当たってキートンはすたすた立ち去ります。このセント・ジョンもアーバックル映画の常連俳優でアーバックルの甥だそうで、キャストをアーバックル映画から借りている点も含めて本作はまだアーバックル映画の助演・助監督・脚本協力時代との連続性が指摘されています。キートンは射撃の腕前を見込まれて射的場のある銃器店に雇われますが、実はこの銃器店は「Blinking Buzzards」を名乗るギャングの経営で、強盗殺人承りの店でもあり、議員のニッケルナーサー氏の暗殺を依頼されたばかりです。ニッケルナーサー氏は娘(バーティン・バーケット)に殺害予告状を見せて対策を相談します。店の内情を知らないキートンは店番をしながら命じられた射撃練習をさぼるために的の鐘が鳴る紐を路地の野良犬につなぎますが、犬が猫と喧嘩し大暴れになって鳴り続ける鐘をごまかすためにかえって銃を撃ちまくらねばならなくなったり、射的場の客に銃を渡すとホールドアップさせられて売上箱を盗まれたり、次の客は一撃で全部の的を撃ち落として景品がすっからかんになったりと客の対応に追われます。そこにニッケルナーサー氏父娘が現れ、殺し屋に狙われているからボディーガードを依頼したいと頼み、娘の懇願にキートンはホイホイと引き受けて閉店後にうかがいます、と約束してしまいます。父娘が去ったあとキートンは銃器店のボスに全員が集合している店の奥に呼ばれ、次の仕事は今夜こいつだ、と他でもない、ニッケルナーサー氏の写真を見せられます。
ギャングの店だったかと気づいたキートンは平静を装い命令を受けますが、もちろん父娘への約束が優先です。早々父娘の家に駆けつけたキートンは、全部の部屋に抜け穴や仕掛けがしてあると教えられますが、そこにギャングの一団がやって来るのが窓から見えます。キートンは撃つから殺されたふりをして、と適当に部屋の隅を撃ちニッケルナーサー氏はうつ伏せに倒れて死んだふりをし、娘は悲鳴を上げて、踏みこんできた一味にキートンは殺しました、と報告し、一味が去るとキートンは早く逃げましょうと父娘をせかしますが、ギャングの一人(チャールズ・ドレティー)がキートンが来ないのに不審を抱いて戻ってきて逃げようとしていた三人は見つかってしまいます。ギャングの一団は戻ってきて、そこからあとは抜け穴や仕掛けだらけのからくり屋敷になった家の中で三人はぐれて逃げまわり、からくりを利用してギャングたちを屋敷から弾き出しますが、残った一人(イングラム・ピケット)が娘を追い詰め誘拐しようとするところを、背後から忍び寄ったキートンが一撃で叩きのめして、キートンとバーケットは抱きあい、エンドマーク。と、からくり屋敷を使った追っかけと悪党退治はキートンらしい趣向でもあるのですが、第四の壁(スクリーン前面)を抜いて二階と一階へのエレベーター式追っかけや落下を見せる見せ方などはキートン独自というより当時のスラップスティック喜劇の典型的な手法で、冒頭の当たり前のようにメリーゴーラウンドの客から新聞をすりとるキートン、とキートンらしいとぼけた発想と描写、新聞が開くとつながっていて2メートル四方にもなる意表をついたギャグなどは好調ですが、全体にキートンの短編らしい奇想天外さに乏しい。殺し屋と狙われた相手の両方に雇われる趣向もうまくできていますが、キートン短編に共通してある悪夢的雰囲気には乏しいのです。「どこでもなく、どこかしらで、あるところで(…Nowhere…Anywhere…Somewhere…)」と字幕から始まるようにキートンらしい出だしから違和感なく観られるものの、今回キートンにしては筋書きらしい筋書きもあり妙にきっちりした作品も作るんだなと思い、実はお蔵入りになっていた「文化生活一週間」以前の最初の主演・監督・脚本短編だったと知ると、助演時代から独立したキートンの唯一の習作と言えるのが本作で、キートンも自覚していた荒唐無稽さ、奇想天外さ、悪夢っぽさをきちんと定着してみせたのが「文化生活一週間」「キートンの囚人13号」だったのがわかる、そういう意味では本作のまとまりの良さはキートンが根本は当時の喜劇映画短編のツボを心得ていたことを示す実例となっています。また次作「キートンの強盗騒動(悪太郎)」の充実は、本作公開によって構想・撮影ともに、ゆとりをもった製作期間を置くことができたからとも思えます。
(なおハイ・サインとはギャング同士の合図を指します)
●1月20日(日)
「キートンの強盗騒動(悪太郎)」The Goat (監・脚=バスター・キートン&マル・セント・クレア、Metro'21.May.18)*27min, B/W, Silent : https://youtu.be/q06pdBWMKNg
本作は腹を空かせて歩いているキートンが蹄鉄が落ちているのを見つける、何だつまらないと路傍に座ると次に通りかかった男(ジョン・ハヴェス)が蹄鉄を広い、諺をかついで後ろに投げて数歩歩くと札束でふくれ上がった財布を拾います。垂涎の表情でその様子を見ていたキートンは男の投げた蹄鉄を慌てて探し出し、期待をこめて腕を振り回して背後に投げますが、警官(エディ・クライン)の頭に当たってしまって追いかけられてしまう。その時犬を連れて歩いていた美人(ヴァージニア・フォックス)が通りかかった男が犬の曳き紐に足を絡めたことで因縁をつけられ、警官から逃げていたキートンは偶然男を突き飛ばして男をのしてしまい美人に感謝されます。市外電車に飛び乗って警官をまいたキートンは街をぶらぶらし、たまたま鉄格子が通りに面した刑務所で囚人のデッド・ショット・ダン(マル・セント・クレア)が顔写真を撮影されているのを見ますが、囚人は準備中のカメラマンの隙をついてシャッターを押して鉄格子越しのキートンの写真をとり、自分の写真が撮られる時にはカメラにこっそり布をかぶせてしまいます。キートンは招待された夕食まで時間をつぶそうと街をぶらぶらしますが、通りを行く人びとがキートンの顔を見るなり逃げ出すので不審に思い、人だかりがしている掲示板に寄って見ると「凶悪犯デッド・ショット・ダン脱獄!生死を問わず懸賞金5,000ドル」のでかい掲示板に鉄格子を握ったキートンの顔写真がでかでかと掲示されています。周囲の人びとはキートンに気づくと一斉に逃げ出します。困ったキートンは指名手配写真の前で思案しますが、逃げ出した女性が落とした髪飾りをみつけて指名手配写真に貼りつけ髭をつけます。そこに運悪く警察署長(ジョー・ロバーツ)がやってきます。キートンはもじもじしますが手配写真とは違うだろと関係ないふりをする。しかしキートンがU字型に貼りつけた髭は下がってへの字になり、しまいには落ちてしまって、警察署長はキートンを指名手配犯の写真の男と気づき、キートンはまた一目散に逃げ出します。キートンは何とか隠れようとしますが、キートンの指名手配写真は街じゅういたるところにポスターで貼られ、新聞にも載っています。キートンが行くところはどこでも町民が恐怖から逃げ出します。キートンは逃走中に、別のギャング団を張りこみ中の警官隊に見つかり、警官隊とギャング団のどさくさまぎれに発煙筒を拾って周囲を煙に巻いて難を逃れます。一方警察署長はキートンを追って街じゅうでさんざんな目にあいます。キートンは先に犬の件で助けた女性とばったり出くわし、家の夕食に招待されます。運良くキートンが指名手配中と知らない女性にも女性の母親にも歓迎され、キートンは夕食の席につきますが、食前の祈りの最中父親が帰ってきてキートンの真向かいに座り食前の祈りに加わります。祈りを済ませて顔を上げたキートンは女性の父親が警察署長なのに気づき、警察署長も形相を変えて妻と娘を別室に行くよう命令します。家の中で追いかけ、さらにアパートの廊下に逃げだしたキートンはエレベーターを使って上へ下へと逃げ回り、電話でヴァージニアを呼び出して二人で図って警察署長を欺き、停止したエレベーターの天辺に落ちた警察署長を屋上に弾き出します。ヴァージニアを連れてアパートを出たキートンたち二人は隣の家具店の「家庭を持ちたいカップルは当店へ!」という看板を見ると、欣喜雀躍として二人で入っていき、エンドマーク。
本作は短編でずっと監督・脚本の共同クレジットを分けあっていたエディ・クラインではなくマル・セント・クレアが共同監督・脚本になっていますが、クラインが共同監督の時もセント・クレアが俳優で出ていたように本作でもクラインが俳優として出演していて、キートンのサイレント短編19編のうち15編はクライン共同監督・脚本、2編がセント・クレア共同監督・脚本、2編はキートン単独あつかいですが、作風にもスタッフ・俳優(配役)もほとんど変わらないため、チャップリンは言うにおよばずロイドやアーバックルらと同じくほぼ完全に主演俳優が監督を兼ねて企画・製作・撮影を主導していたと思われ、ロイドのようにプロダクションとの密接なファミリー的チーム制から監督・脚本は専任監督・専任脚本家にクレジットを与えた例もあれば、キートンのように体技性が強く大道具小道具に凝るため第二監督の役割を果たす人物が必要でもあり、またビジネスマン気質で多忙なジョセフ・スケンクに代わってプロデューサー補として現場についている人物も必要だったのでクラインやセント・クレアが共同監督・脚本あつかいになっていたと考えられ、要はキートン作品ではあっても権利はスケンク・プロが保有するための措置だったのでしょう。「キートンの囚人13号」から「キートンの案山子」「キートンの化物屋敷」ときてプロット・ストーリーともどんどんいきあたりばったりのナンセンス作品が続き、「キートンのハード・ラック」で頂点に達した人を食ったおとぼけ路線に、お蔵入りにしていた「キートンのハイ・サイン」はアーバックルの助演・助監督時代のもっときっちりした喜劇短編らしい短編を思い出させもし、またお蔵入り作品の公開で新作準備に時間がかけられたことから、本作は脱獄囚の囚人に手違いで撮られた指名手配写真を警察も怪しまなければキートンも潔白を証明しようとは考えもせず逃げ回るのがキートン流の不条理喜劇なので、殺人犯指名手配手配の掲示板を見たキートンは、ヴァージニア・フォックスに絡んでいた男にぶつかって男が気絶した様子を思い出し、あの時殺してしまったのかと思いこむ、というフラッシュ・バックが入りますが、事故だとかフォックスを助けるための正当防衛だとか潔白の証を立てる発想はまったくなく、警察署長の父をエレベーターで弾き飛ばしたキートンとフォックスは何の反省や疑問もなく大喜びで結婚の支度に家具屋に入っていきます。面白いことばかりが起きる世界をユートピアと呼ぶなら、黒澤明の『用心棒』やゴダールの『気狂いピエロ』だってユートピアを描いた映画であるように、キートンの映画もまた純粋なユートピア映画で、それは悪夢であれバッドエンドであれヴァイオレンスであれ関係なく面白いことばかりという点でユートピアなので、キートンに較べればまだチャップリンやロイドの映画も面白さや主人公の抱えた責務、モラルの基準で現実に即している面が強い分、ユートピアとしての純度ではキートンに軍配が上がる、と言えます。本作がキートンの短編としてはかっちりしたプロット・ストーリーの中で十分に無責任でモラルを欠いた面白さが堪能できる快作であるゆえんです。また本作は中盤、汽車に飛び乗って警官から逃げたキートンが汽車の先頭にちょこんと座り、猛突進する汽車が隣町でカメラに向かって一直線に走ってきて停まると平然として座っているキートンのアップになる、という、えも言えないとぼけた印象的ショットもあり、この冴えた映像感覚は最初に作られたお蔵入り作品「キートンのハイ・サイン」にはなかったものなのを気づかされます。
●1月21日(月)
「キートンの即席百人芸(キートンの一人百役)」The Playhouse (監・脚=キートン&エディ・クライン、First National'21.Oct.6)*22min, B/W, Silent : https://youtu.be/LxWF5gIBiiA
'21年5月公開の前作「キートンの強盗騒動」から本作は10月と間が空いたのは、短編主演デビュー以来の配給先のメトロ映画社からファースト・ナショナル社への配給委託に代わった事情があるでしょう。半年あまり間が空いた代わりに企画と構想は溜まったようで、翌'22年のキートンは年間7編の短編を公開しますが、配給が代わっただけで製作はジョセフ・スケンク・プロダクションなので配給上では移籍第1弾、通算9作目の本作も次作「キートンの漂流」(同年11月公開)、また'22年度前半の作品と製作順は前後していたり、同時進行で製作されていた可能性も大いにあります。ファースト・ナショナル社は映画館のトラストが映画会社主導の配給体制に対向して'18年に発足させた映画会社で、そういう新参映画社だったため看板スターが求められ、チャップリンが週給1万ドルという当時の映画俳優最高の破格のギャラとプロデュースの全権の条件を勝ち取った映画会社です。会社の成り立ちが映画館のトラストだったため配給体制はしっかりしており、'18年中にチャップリンは初中編「犬の生活」と第2中編「担え銃」で喜劇映画の枠を超えたアメリカ最高の映画監督・俳優になりました。チャップリンは初長編『キッド』'21(2月公開)のあと寡作になり、第2長編『偽牧師』'23(2月公開)を最後にD・W・グリフィス、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードの4大映画人でユナイテッド・アーティスツ社を設立して移籍しますが(グリフィスは'27年に脱落してしまいますが)、ほとんど新作を作らなくなってしまったチャップリン(『キッド』と『偽牧師』の間には'21年9月に短編「のらくら」、'22年4月に短編「給料日」のみ)の代わりに喜劇短編を求めていた同社にスケンクがメトロ以上での条件でのキートンの売りこみを図ったのでしょう。のちにスケンクはグリフィスが借金苦のため他社からの依頼もこなさなければならず、ユナイテッド・アーティスツから独立せざるを得なくなった時、グリフィスに代わるユナイテッド社の重役の地位に割りこみます。さて本作はチャップリンのエッサネイ社第12作「チャップリンの寄席見物」('15年11月公開)のキートン版と言うべき趣向が前半を占める短編ですが、チャップリンが大衆芝居の大衆席の大騒ぎ客と特別席の迷惑客の二役を演じ客席も舞台も大混乱に陥らせていく「チャップリンの寄席見物」のような明確なプロットがあるわけではなく、キートンの場合は劇場じゅうの人物が全員キートン、という気の遠くなるような、手間こそかかれ単調な果てしない多重露出撮影によるトリック撮影で旧邦題通りの「一人百役」をやっているのが見所です。それが前半で、後半は全然別の話になり、2巻短編をこれほど明確に前半・後半と1巻ずつ分けている構成はキートンには珍しく、趣向で見せる異色作を配給先移籍第1弾に持ってくるのはインパクトはありますが、スケンクにしろキートンにしろ大胆なことをしたものです。映画はキートンが劇場の切符を買って入場する場面から始まります。舞台はミンストレル・ショーをやっていて、黒塗りの白人役者が10人あまり横並びで漫談をやっているのが前座なのですが、これが全員キートンで、二人一組のバルコニー席に座ったキートンはプログラムを広げるとキャストとスタッフ名が全員キートンで、キートンは「キートンだらけでできてる出し物みたいだね」と隣の女性に話しかけると隣の女性もキートンで、他の席の紳士淑女、おばあちゃんと孫、初老の夫と派手な服装の若妻と、観客も全員キートンです。出演俳優ばかりでなくオーケストラも指揮者から団員まで全員キートンで、ダンサーが出てくればやはりキートンですし、舞台裏や楽屋の裏方、スタッフも全員キートンという具合。調教師(エディ・クライン)に猿を任されたキートンは猿に逃げられてしまい、猿の代わりに舞台に出たキートンが猿を演じていて目を廻すと、舞台監督兼俳優の上司のジョー・ロバーツがうなされているキートンをどやしてキートンは夢から醒める、と前半は夢オチに終わります。後半はロバーツの一座の舞台裏と芝居騒動に双子の美人ダンサーの一方(ヴァージニア・フォックス)と恋に落ちたキートンが、しょっちゅうフォックスでない方といちゃつこうとしてどつかれ、芝居がはねたどさくさまぎれに結婚しようと連れ出すとまた間違えて、今度はフォックス本人を連れ出してすたすたと簡易結婚式場に入っていく場面で、エンドマーク。
と、この映画はまたもや夢オチの前半がキートンの一人百役を見せる以外は芝居の内容も客席と舞台の絡みもほとんど筋書きらしい筋書きもなく、「キートンだらけでできてるみたいだね」というのは、グリフィスと並ぶ'10年代の短編時代~長編主流の'20年代半ばまでの映画王のひとりトーマス・S・インス(1882-1924)へのあてこすりだそうで、芸能一家育ちのインスは'06年に俳優から映画界入りしましたが'10年にはメアリー・ピックフォード主演短編で監督デビューし(1875年生まれのグリフィスは'09年監督デビュー)、グリフィスが独立プロを起こし大ヒットした超大作『国民の創生』を公開したのは'15年でしたが、インスは'12年に大ヒットした短編「大平原の戦い」の収入でカリフォルニア州南部に土地を買いインスヴィルと名づけた村を開いて撮影所とし、「アメリカ最初の西部劇スター」ウィリアム・S・ハート主演短編で大成功した'13年末からはほとんど監督に携わらなくなります。その代わりスタッフ・チームにコンテや演出まで指定した撮影台本を監修し、撮影スタッフとキャストを指名して完全なプロデューサー・システムで映画を作り、主演俳優こそクレジットしましたが映画のクレジットには監督やカメラマンすら記さずプロデュース、原作、脚本、脚色などすべてのスタッフ・クレジットがトーマス・S・インス、という具合でした(グリフィスが『イントレランス』'16を製作した時はさすがに本腰を入れて、事前情報で洩れていた『イントレランス』の内容に対向する内容の『シヴィリゼーション』'16を『イントレランス』より早く公開する、ということもありましたが)。インス門下からはフランク・ボーゼージ、ヘンリー・キング、フレッド・ニブロ、ランバート・ヒルヤーなど一流、第一線の監督が出ていますが、こうした監督が活躍したのはインスの下を離れてからで、インス映画はウィリアム・S・ハート西部劇や『シヴィリゼーション』が歴史的重要性で語られてもグリフィスやマック・セネット、チャップリンのように優れた映画とはほとんど見なされていません。のち長編作品でグリフィスのパロディやオマージュを捧げるキートンがグリフィスの信奉者でインスを偽物視していたのは大いにあり得ますし、晩年のインタビューでは短編ではエディ・クラインを共同監督・脚本にして相談役にもしていた、トーマス・S・インスのような独裁的やり方はしたくなかったしそう見られたくなかったと発言していますから、「一人で映画の全部をやる悪夢」はインスへのあてつけばかりでなく、スタッフ名はちゃんとクレジットしながらインス以上に独裁的だったチャップリンや、まったく未開のヴィジョンと映画技法に挑んで独裁的にならざるを得なかったグリフィスのような映画人への脅威と畏敬の念を自己パロディのかたちでやってみたもの、とも言えるのかもしれません。しかしサイレント時代のキートン短編はクラインがつこうがセント・クレアがつこうがキートン単独だろうが原案・脚本・演出すべてにキートンの個性が通っており、しかもロイドほどにはファミリー的チーム制は強固で多彩かつ多才なブレインに恵まれていたとは思えないので、製作体制はむしろチャップリンに近いものだったでしょう。ただしチャップリンのように意志的に独裁的だったのではない分、本作「キートンの即席百人芸」のようなお遊び的作品では特に、それが作風のとりとめのなさ、まとまりのなさ(またはなげやりな雰囲気)、気ままさにも見える出来に反映しているような感じも受けます。