サイレント映画とサウンド映画の違いをわかりやすく喩えれば、文語体・正字の草書で書かれた文章と口語体・略字の楷書で書かれた文章の違いと言えばいかがでしょうか。義務教育の中学校の授業で古文・漢文は生徒の誰もが手こずり何の役にたつものかと疑問に思うものですが、古典文法は実際には近代文語文法の基礎をなしていて、現代口語文法はさらに文語文法と基本構造は同一であり、19世紀まで識字教育にはアーリア文化圏ではローマ語が必修だったのと軌を一にしています。サイレント映画の映像文法は和漢混淆文(漢字仮名混じり文)から文語文法として統一され、それが口語文法にシフトしていったようにサウンド映画に移っていったので、サイレント時代末期には文語口語折衷体にまで近づいていたと言えます。しかしサイレント時代の円熟期にはそれは強固で柔軟に十分な発達を示していたので、森鴎外の批評や小説は文語文でも口語文でもとっつきづらい文体ですが一貫して文語文法を基礎にした文体で書いていたのがその理由だとわかります。サイレント映画はD・W・グリフィスが'09年の「小麦の買い占め」~'12年の「ピッグ・アレイの銃士たち」、'13年の「エルダーブッシュ峡谷の戦い」らの中短編を経て初長編『アッシリアの遠征(ベッスリアの女王)』を習作に、本格的大作『国民の創生』'15の大成功と商業的失敗作『イントレランス』'16で限界まで挑み、『散り行く花』を含む'19年の小品6連作で繊細さを獲得し、再び大作メロドラマ『東への道』'20、歴史大作『嵐の孤児』'21、心理サスペンス『恐怖の一夜』'22でピークに達する過程でほとんどの技法を確立しました。同時代にも個性的で有力な監督はいましたが、グリフィスの築いた映画文法がもっとも一貫し、普遍的な汎用性があったのです。フランス映画、イタリア映画、北欧映画、ソヴィエト映画、日本映画にもグリフィスの映像技法・文体の摂取が行われました。このサイレント映画文法自体が現代映画を観る目には一種の古文・漢文のように映り、しかもドイツ映画はグリフィスによるサイレント映画文法の規範を著しく歪曲して用いたと見なせます。今回ご紹介する3作のうち『戦(おのの)く影』はサイレント時代のドイツ映画でも手法の独創と徹底で突出した傑作になっていますが、それを見分けるだけの鑑賞力を極端に要求する作品で、これを自信を持って他人様にお薦めできるほど理解できたか問われれば、果たしてこれを隅々まで賞味できたかはおぼつかないとお詫びするしかありません。
●11月16日(金)
『戦(おのの)く影』Schatten - Eine nachtliche Halluzination (監=アルトゥール・ロビソン、Pan-Film GmbH'23.10.16)*83min, B/W, Silent; 日本公開大正14年(1925年)9月18日(尺数不詳) : https://youtu.be/kMh5HOi5wdM
[ 解説 ] 欧州で最初に製作された無字幕映画で、1923年10月に発売された。原作者のアルビン・グラウ氏は美術家であるがためか、全巻絵画的な美に優れている。監督はアルトゥール・ロビソン氏。主役は「カラマーゾフ兄弟」「コーカサスの春」等出演のフリッツ・コルトナー氏、新進のルート・ワイヤー嬢、アレクサンダー・グラナッハ氏等である。表現派映画の代表作の一つ。無声。
[ あらすじ ] 十八世紀の中頃ライン地方のある城主(フリッツ・コルトナー)は美しい夫人(ルート・ワイヤー)を持ちながら苦しい日を続けていた。それは夫人が美しい武士(グスタフ・フォン・ヴァンゲンハイム)と名も知れぬ三人の騎士(オイゲン・レックス、マックス・ギュルストルフ、フェルディナンド・フォン・アルテン)に取りまかれて甘い恋の戯れを楽しんでいたからである。ある夜の晩餐の席へ不思議な影絵使の老人(アレクサンダー・グラナッハ)が来て、座興に影絵を使わせるうち一座の人々は勿論、廊下の侍僕までが老人の催眠術にかかって恐ろしい幻覚の世界が始まる。――城主は苦しみに耐えかねているうち夫人の室で夫人と若者とが抱き合っているのを見て憤り、家に伝わる四振の剣と他の日頃愛用する自分の剣をとり、綱をもって夫人を宴の卓に縛りつけ四人の男に剣を渡して殆ど裸体になって身をもがく夫人を同時に刺せと命じる。夫人を心から恋している若者は拒んだが、いたずら者の三人の騎士達は遂に三つの剣を柔らかい夫人の胸に刺した。城主は四人の為に窓から下の舗石へ突き落とされて死ぬ。――恐ろしさに茫然たる一座の人々は催眠術から醒めた。男達は悪夢に悩んだ如く悄然と帰って行く、城主と夫人とは再び昔の愛にかえる。
――本作はタイトルに「1830年頃」と添えられる以外は徹底的に無字幕で、映画は3部に分かれていますが文字タイトルで「Akt 1」と出るのではなく、影絵の手が指を立てるショットが挿入されるだけです。最初にプロローグとして完全に影絵芝居だけのシークエンスがあり、美しく浮気症な夫人をめぐる館の人間模様が描かれ、館影絵芝居師が到着し、影絵をお見せいたしましょうと持ち出すまでが第1部です。影絵芝居が始まり、当初影絵芝居から始まった映像が現実人物に入れ替わってゆき、ついに影絵舞台が現実の寝室の下着姿の夫人と青年騎士の抱擁場面に変わるにいたり、窓の外から様子をうかがっていた城主が召使いに命じて妻を捕縛させるまでが第2部、そしてまだ恍惚の表情を浮かべている夫人と好色な笑みで夫人を捕縛する召使いの姿から始まり、城主がテーブルに4本の剣を置いて青年騎士と他の3人の夫人の取り巻き騎士たちに剣を取るよう迫り、騎士たちは城主ではなく夫人を刺す方を選び、夫人を刺した3人は青年騎士とともに城主を窓から突き落とし、地面に横たわる城主が絶命すると、そこで一同は影絵芝居の場面を観ている姿に戻ります。影絵芝居師とともに騎士たちは去り、愛情を取り戻した様子の城主夫妻が見送ります。本作の城主夫人(ルート・ワイヤー)は非常に官能的に描かれており、映画全体の耽美的な映像の頽廃性はこの頃ドイツを去ってハリウッド監督になるエルンスト・ルビッチ作品の他には類例を見ないほどで、ドイツ表現主義映画は歪みや汚らしさを類型的な美と対照させるのが多く見られますが、本作のようにシンプルなシチュエーションと断片(断片単位では逆に窃視症的な覗き見的な長いショット)的な映像で露骨にエロティックで頽廃的な耽美性を打ち出した作風は'70年代のドイツ映画作家のヴェルナー・シュレーターやシュレーター影響下のファスビンダー(ファスビンダーには汚穢趣味もありますが)やダニエル・シュミットらを思わせ、アルトゥール・ロビソン(Arthur Robison, 1883-1935)はシカゴ生まれのアメリカ人で(アルトゥールはアーサーのドイツ語読み)、ドイツに渡って'16年にリヒャルト・オズヴァルドのプロダクションから映画界に入り、ナチス政権成立後もドイツにとどまり、遺作は『プラーグの大学生』'35の再リメイクだった異色の出自の人です。本作でも脚本を手がけているように自作脚本(原作も)を原則にしていた監督らしく、シュレーターら後世のインディペンデント監督との類縁性は映像の発想と脚本の発想を同一に重視する姿勢にもあるでしょう。本作の製作を可能にしたのも当時のドイツの表現主義映画の潮流あってこそでしょうが、これはドイツ表現主義映画の枠に囚われない独創的な幻想映画で、本作を幾多の作品から見出してきたウォーやゴダールの慧眼もさすがです。
●11月17日(土)
『蠱惑の街』Die Strasse - Der Film einer Nacht (監=カール・グルーネ、Stern-Film'23.11.29)*95min, B/W, Silent; 日本公開大正14年(1925年)9月18日(尺数不詳) : https://youtu.be/eCd35pF_XeQ
[ 解説 ] この映画の監督者カール・グルーネ氏は「シャロレー伯爵」「エックスプロージョン」等によってその手腕を我が国にも認められた人。オイゲン・クレッパー氏とルチー・ヘーフリッヒ嬢とはかって揃って名映画「鼠」に出演した事がある。アウド・エゲデ・ニッセン嬢は古くは「デセプション」「ドクトル・マブゼ」近くは「寵姫ズムルン」に活躍した女優である。全六巻中に僅かに九つの字幕しかない準無字幕映画で、近頃珍しいものの一つである。無声。
[ あらすじ ] 真昼から夜へかけて――黄昏の巷――汗から享楽への一転換。「街」は自ら働き、動く。漸く家庭生活に倦怠を覚えた四十代の男が一夕ふと「街」の蟲惑に心唆られて、家を飛び出しその夜一夜に経験する種々の冒険とそれに伴う悲しみと喜びとの物語である。忠実な妻(ルチー・ヘーフリッヒ)の晩餐を振り捨て夢遊病者の如く黄昏の燈火の「街」へと出て行く一人の「夫」(オイゲン・クレッパー)――綺羅びやかな飾り窓――ポケットの小切手――女――歓楽。ふと側に若い女が立っている――売笑婦(アウド・エゲデ・ニッセン)――婬らな悲惨な会話。 同じ街の貧しい屋根裏の家庭――老いた盲人(マックス・シュレック)と息子の無頼漢(アントン・エトホーファー)と孫(サッシャ)。その無頼漢こそ、さきの売春婦を手先にして所謂「仕事」をしているのである。盲人と小児の惨めさに引きかえ、一軒のカフェーでは田舎の紳士(レオンハルト・ハスケル)をよい椋鳥めと女は手練手管を尽している。あの「夫」はゆくりなくも、そこへ入って来る。カルタの賭博で「夫」は儲ける。 肉に飢え歓楽を追う二人の男は女の室で飽く迄遊び続けるが、遂に田舎大尽は悪漢の為に刺され「夫」は嫌疑者として拘留される。魔の様な夢から醒めた「夫」は縊死し様とする時、神の如き小児の唇から出た言葉で悪漢の罪状が露れ彼は鉄窓から出て来る。混乱した頭を窓に押しあてながら下の「街」を茫然と見下ろす「夫」と、一夜を寝ずに明かし今同じく窓から見下ろす妻の心は初めて一つの静安な喜びを見付けた。
――本作はカール・グルーネと共同脚本家によるシナリオですが、原案はカール・マイヤーとなっています。サブタイトルは『ある夜の映画(Der Film einer Nacht)』とされ、大都会ウィーンのロケーション撮影以外にはプロット自体は「家庭生活に倦怠して遊蕩してきた夫が懲りて家庭生活に安寧を見出す」という割と典型的なもので、当時のドイツ映画の小市民劇にはよくある話になるようです。『朝から夜中まで』は破滅に向かって放蕩一直線でしたが、基本的には着想自体に変わりはないので本作の結末も見せかけのハッピーエンドと見ることもできるでしょう。勧善懲悪に話を持って行ってしまうのは良し悪しですが、本作も主人公をカモにしようとし、また田舎紳士を強盗殺害した冤罪を主人公に着せる悪党(娼婦のヒモ)がいるのですが、悪党の悪事がバレて自殺寸前で釈放される本作の主人公と、『朝から夜中まで』の自己懲罰のように警察に追いつめられる横領犯の銀行員の主人公に本質的な差はないと言えるので、ギャンブルや女遊びといった卑俗な遊蕩しか発想がないのも共通していますから、職場の大金の横領というのっぴきならない踏み外しから始まった『朝から夜中まで』の主人公があの程度の犯罪と遊蕩で「ECCE HOMO(この人を見よ)」というのも大見得ですが、本作はその点中庸とは言えて、この内容で1時間半の長さはもっとドラマチックな内容と構成を持つ『破片』や『裏階段』が1時間程度の作品であることからも長さ自体がちょとした冒険です。その点では本作は細部を延々と長く描く、特にギャンブルのシークエンスでは主人公が大負けしてネクタイピンと結婚指輪しか賭けるものがなくまるまでと、そこから大逆転して全員お手上げの大勝ちするまでを延々描き、それから娼婦が田舎紳士を連れこんでカモろうとするのと主人公がカモにしそこねた娼婦のヒモとその相棒に追跡されるシーンのカットバック、娼婦が窓から主人公を再度カモにしようと田舎紳士を待たせて主人公を招き入れ、追ってきたヒモと相棒が田舎紳士とはちあわせて行きがかり上強盗殺害して主人公に冤罪が被せられる顛末と、結末付近では犯罪サスペンス要素も加わってそれなりに娯楽映画らしい展開にもなります。『吸血鬼ノスフェラトゥ』のマックス・シュレックが盲目の爺さん役なのがキャスティングを見ずに判別できる人はいないでしょう。ギャンブル~冤罪サスペンスのシークエンスになるとさすがに台詞字幕なしにはいかなかったのも本来意図した実験性だけでは映画が持たなくなっていてそれなりに結末に収拾していく作りにせずにはいられなかったのが露わになっていて、『日本映画発達史』で田中純一郎氏が記憶で改竄してしまったような夢想と現実の交錯する構成ならともかく(それは2本立て公開の『戦(おのの)く影』がやっていました)本作は表現主義とリアリズムに片足ずつをかけて実際は不徹底なリアリズム映画になってしまったところに実験性があるという妙な性格の映画になっているとも言えます。それがつまらないというわけではなく映画自体は100年近く昔のウィーン市街の世相映画として観ごたえはあるので、『戦(おのの)く影』とは逆に本作は今日ではごく普通に作られた娯楽映画に見えますし、それが本作の本来の内容ではないかと思えます。
●11月18日(日)
『除夜の悲劇』Sylvester: Tragoedie einer Nacht (監=ループ・ピック、Rex-Film GmbH-UFA'24.1.4)*66min, B/W, Silent; 日本公開昭和2年(1927年)11月25日(尺数不詳) : https://youtu.be/g8Nsjaf1Ceo
[ 解説 ]「最後の人」「カリガリ博士」の原作者カール・マイヤー氏が執筆した映画台本によってループ・ピック氏が監督したもので、「蠱惑の街」「エックスプロージョン」等出演のオイゲン・クレッパー氏が主役を勤め、エディット・ポスカ嬢とフリーダ・リヒャルト嬢が共演している。大晦日の騒然たる空気の中に起る悲劇を描いた無字幕映画である。無声。
[ あらすじ ] 除夜、聖シルヴェスターの祭りの夜、消えて行く年の最後の日、人は生れ人は死ぬ。悔恨と咏嘆と少しの希望の日、人々は昂奮し町は上気している。どこの料理店も来るべき新年を迎える客で一杯だ。町角のとある酒場――ここの主人(オイゲン・クレッパー)は結婚してまだ間もなかった。可愛い妻(エディット・ポスカ)と子のために仕事にいそしむ彼。幸福そうな彼の住居に今夜は久しぶりで老婆(フリーダ・リヒャルト)が顔を出した。老婆は良人の母であった。生れてから面倒を見てやって来た我子は今では他の若い女のものになりかけている。姑と嫁との永遠に融け切れない感情。主人は店に出た。残った母と妻との間の不快な空気。表の雑音が聞える。部屋の中に飾られた二つの写真。美しい額に入れられた妻の肖像に引かえて母親の肖像の何というみじめな扱われ方、口火は切られた。姑と嫁は争い始めた。主人は驚いて入って来た。和解の努力も空しく妻は子を抱いて出て行く。表は灯の渦だった。時計は冷たく十二時五分前を指していた。妻と子を失った主人は母に憎悪を感じ出て行ってくれと言おうとしたがどうして云えよう。彼はそこに泣き崩れた。妻は子を抱いて戻って来た。そしてまだ姑が居るのを見ると黙ってはいなかった。良人を中心にまた恐ろしい争いが始まる。その醜さに主人は呆然として次の室に入る。扉に錠が下された。突然耳をつんざくピストルの音。母と妻が漸く室に入った時には主人は冷たい死骸となっていた。その時街の時計は十二時を打った。シャンパンの盃のふれ合う音、爆竹、花火。十二時が過ぎると街は正気に戻ってゆく。人々は散り散りに帰って行く。ひからびた古テープが木枯に悲しんでいる。母と妻とは主人の死体の前で黙っている。ゆり篭の子供は無心に泣いている。古き年は逝き、新しき年は訪れた。しかし来る年も来る年も人間の醜い争いは続けられるのだ。お互いに了解し合わぬ所にはいつも憎い悪が炎のように燃えるのだ。
――主演の大衆酒場の髭面の主人役のオイゲン・クレッパーが『蠱惑の街』の青年から中年にさしかかるあたりでついつい夜遊びに魔が差す主人公と同じ俳優というのも言われなければわからないくらい、本作でのクレッパーはおっさん然としていてなかなかのものですし、妻役のエディット・ポスカは『破片』ではヴェルナー・クラウスの演じる鉄道踏切番の娘役でしたが、店の営業の合間に居間で老母と妻との晩餐中に主人公が店に顔を出すたびに二人きりになった老母と妻の間が険悪になり、ついには口論からつかみあいになって妻が赤ん坊を連れて家出をしかけ、戻ってきても雰囲気は険悪で、時計が0時を指し除夜の鐘が鳴るとともに店からの戸口を開けて浮かれた客たちが店主の居間になだれ込んできて老母と妻にテープを投げる、老母も妻も座りこんでうなだれている。客たちが続き部屋を見ると酒場の主人が倒れている。自殺は暗示されていますがキネマ旬報のあらすじにあるようにピストル自殺やピストルの銃声へのリアクションは描かれていません。今回本作を観直したのはリンクを引いたYouTubeにアップされているヴァージョンですが、「欠落カットはシナリオから黒地の説明タイトルに起こしてある」という通りならば、5、16、26、46、52カット目が欠落していることになり、字幕説明によるとこれらは風にそよぐ森林や街頭風景、岸に寄せる波といった風景の挿入ショットで、波が映されていたという52カット目の次には乳母車に乗せられたまま泣きじゃくる赤ん坊、新年の街頭風景で終わりますから全54カットの映画です。現行版56分55秒のヴァージョンでクレジット・タイトルは1分半として、1カット平均1分あまりというのはサイレント時代にあっても異様な長さです。現代映画の多くは90分~2時間の長さに800~1,000カット以上を含み、1,500カット以上の映画も少なくなく、アニメでは2,000カット以上の作品もあります。世界初の本格的劇映画とされるエドウィン・S・ポーターの短編「大列車強盗」'03も7分半に14カットのカット割り(モンタージュ)をしてあり、イェジー・スコリモフスキの『不戦勝』'65のように78分の長編映画で35カットなどというのは意識的な手法でなければできません。本作のカメラマンではありませんが、手持ちカメラ撮影の手法を確立したのは『最後の人』でのカール・フロイントというのが映画史の定説ながら、本作の街頭風景撮影にも手持ちカメラ撮影が行われているのは同じカール・マイヤー脚本の無字幕映画だけに監督の違い、カメラマンの違いを越えて『最後の人』が『除夜の悲劇』を参照した形跡がうかがえます。ただし本作は手持ちカメラを主観ショットに用いる発想にはいたっていません。またピックが本作で頻繁に挿入した屋外風景ショットは時間経過や歳末の雰囲気の描写以外にドラマ進行への象徴的意味を含ませてあると思われ、これはガンスの『戦争と平和(戦渦の呪い)』'19影響下にマルセル・レルビエの『海の人』'20やルイ・デリュックの『狂熱』'22、ジャン・エプスタンの『まごころ』'23などフランスの印象派映画の手法でもあり、ピックがフランス映画から感化されたか偶然の同時現象かわかりませんが、人工セットを使った表現主義映画の象徴的手法とも明らかに違っていて、歳末の街頭風景はムード設定、森林のそよぎは郊外風景としても内陸国ドイツで波打つ海の光景がインサートされるのは不自然で、これを主人公や妻、老母の精神的動揺と解釈しないと間尺に合わないところに難があります。また『破片』から進んだ手法を使おうとして、どのカットも長い屋外風景ショットの頻繁な挿入がかえって室内劇を中断させ、全体的にドラマの効果が弱くなっているのは映画が後半になりドラマ自体は密度が高まるべき場面ほど気になってくるので、映画冒頭しばらくは長回しの街頭風景ショットや森林の挿入ショットがローカル色を感じさせて良い感じなだけに、いつの間にか何を見せたい映画なのか焦点がぼやけてくるのも手法と主題の主客転倒が見られます。無字幕手法自体はよくこなれている本作はマイヤー脚本の「室内劇映画」三部作中の最高傑作と世評高く、公開時には「これ以上の絶対映画はない」というほど絶讃されたそうですが、無字幕映画の徹底が挿入ショットの多用という夾雑物を呼びこみ、密度も完成度も『破片』や『裏階段』におよばないばかりか映画全体の一貫性・統一感も後退したものになっています。しかし『最後の人』の出現を予感させる要素は前2作にはなかったものですし、『戦(おのの)く影』や『蠱惑の街』にもないもので、こういう橋渡し的な役割(ただし『最後の人』にはフランス印象派映画との共鳴性はまったくありませんが)を果たした映画というのもある、そういう映画の好見本になっている興味はあります。それがたどれるのも後世の観客(視聴者)の特権というものです。