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映画日記2018年11月7日~9日/サイレント時代のドイツ映画(3)

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 映画感想投稿サイトなどを見ると稀に極端なサイレント時代の映画全般へのこき下ろし感想文を見かける時もあり、それがプロットやストーリーなど脚本レベルのものなら好きずきですが、セットや衣装、俳優のメイクや演技の所作となるとだんだん独断的な意見になっていき、視線統一(切り返しショットなどの視線の一致。"イマジナリー・ライン"などと呼ぶ人もいます)やカット割り、モンタージュなどサイレント時代ならではの映像演出技法まで「幼稚、稚拙」で片づけるとなるとそうした見識には問題があります。サイレント時代の映画というとほとんど90年~100年以上前に作られていますが、それらは外国映画はもちろん日本映画ですらせいぜい最近50年の日本人の日常的な感覚からはまったく異なる感覚・知覚によって作られ、観られていたもので、'30年代~'50年代が20世紀映画の黄金時代だったのもその時代には作り手・観客ともサイレント時代の映画の感覚とサウンド映画の折衷感覚を維持していたからだと思えます。日本人が外国映画を楽しむ時に観ているのは日本映画と重なる部分か、まったく異なる意匠に驚くかのどちらかであり、これは美術や音楽、文学などのジャンルでも同様なので、知覚に違和感をもたらす構造や感覚の違いには寛容性がないとも言え、これは日本人の他国への文化態度のみならずどこの文化圏でも異なる文化圏の文化には似たような障壁を抱えるでしょうが、完結性の強い文化圏国家ほど本質的な排他性も強いのは大いに考えられるので、それが先に上げたサイレント映画全般への蔑視のような料簡の狭い意見にもなって現れることもあるでしょう。筆者は昔ロックの中古LPを集めていて、旧共産圏のLPのコーナーでは毎回遠近法を無視した歪んだような気持悪いイラスト、汚い発色のインク印刷、粗末な紙質のジャケットに悶絶しましたが(特にギリシャ盤……)、「気持悪い」「汚い」「粗末」とは全部日本人の感覚なので、これらはそのままひっくり返る場合だってあります。
 本題のドイツのサイレント時代の映画ですが、ドイツは開国以来日本と関係の深い国で狭い国土や地方分権制度からの中央集権化まで政治体制的にも類似した歴史を持った国でしたが、完全な内陸国と列島国というまったく対照的な地誌的条件が対照的でもあれば似通った面もある文化を作り出した、とも言えます。孤立した列島国の日本では外来文化はひとまず片っ端から摂取せねばならず自国向けの加工産出はそれからで、一方国境の向こうは他国だらけの内陸国ドイツでは農林水産業のうち水産は河川・湖養殖か輸入頼りで農林は奮わずとにかく輸出入が産業の基本になったので、日本もドイツも別々の理由から文化もナショナリズムと無国籍性の混淆した何だか変なものになったので、この時代のドイツ映画の強みは他のヨーロッパ諸国はもちろんアメリカ映画ですら作れない、極端に実験的な映画を娯楽映画の枠組みで平気で作ることができたことでした。むしろ実験性そのものがドイツ映画の売り物になる娯楽的要素だったので、輸出率が高かったために今日でも現存する代表的作品で'20年代ドイツ映画をたどれるのは羨ましいことで、映画輸入国ではあっても輸出国ではなかった'20年代日本映画が散発的にしか残っておらず、数少ない現存作品を観る限り当時の日本映画の水準も国際的なレベルに達していたのが認められるのを思うと、これらのドイツ映画に対応していた日本映画が漠然と想像される("イマジナリー・ライン"うんぬんを難じるイメージの貧しい観点では見えてこないでしょうが)のです。

●11月7日(水)
『ゲニーネ』Genuine, die Tragoedie eines seltsamen Hauses (監=ロベルト・ヴィーネ、Decla-Bioscop'20.9.2)*44min(Fragment & Abridged), B/W, Silent; 日本公開大正11年(1922年)10月20日(尺数不詳) : https://youtu.be/1agMYcNNJPY

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 本作は『カリガリ博士』の次に発表されたヴィーネ作品ですが、企画・製作・撮影は『カリガリ博士』着手前にほぼ完了しており、同作の監督を予定していたフリッツ・ラングが『蜘蛛 第2部:ダイヤの船』を監督するために企画が進んでいた『カリガリ博士』のピンチヒッターを優先するために完成と公開は『カリガリ博士』の次になった事情があり、脚本がカール・マイヤーなので『カリガリ博士』のプロトタイプでもあれば完成は後回しにされたため同じ監督による後続作にもなっていて、公開当時から映画ジャーナリズムには『カリガリ博士』より先立つ製作の作品とプレスに断り書きがあったようです。つまり本作は『カリガリ博士』製作に先立って撮影された部分と『カリガリ博士』後に改訂・追加再撮影された部分が混在していると思われ、評価はおおむね不評(『カリガリ博士』と比較された不利はありますが)だったので公開期間は短く、完全全長版プリントは残っていません。幸い早いうちに倉庫入り作品になって残存プリントは『カリガリ博士』より良好なオリジナル・ポジが残っており、残存部分は全長版の6割方といったところでしょうが染色レストア・マスターはスチール写真、残存フィルムで字幕を補って一応中編映画としての体をなしています(『他人と違って』'19や後出の『彷徨える影』'20と同じ修復手法です)。ヴィーネは多作家で『カリガリ博士』(2月公開)、本作(9月公開)の1920年には4月と11月に公開作があり、年内公開予定で8月完成したもう1作は配給スケジュール上'21年7月公開になっており、'20年に完成した監督作品だけでも5作あります。『カリガリ博士』が2月26日封切りなら『ゲニーネ』はおおむね'19年12月後半~'20年1月初頭まで製作・撮影され、ラング監督予定で脚本・スタッフ・キャストが決まりセット準備も進んでいた『カリガリ博士』はヴィーネがラングの抜けた殻に入ったヤドカリ仕事のように上映スケジュールに間に合わせて手っ取り早く仕上げた作品だったのも察せられ、ラング自身は演出前に抜けたようですが作品の性質上美術やメイク、衣装合わせでスタッフとキャストが一堂に会する機会はヴィーネ就任前のプリプロダクション段階からあったでしょうし、プロデューサーや助監督による部分的なリハーサル・テストも行われていたのは十分考えられることです。脚本段階で2人の脚本家の共作を監督予定段階でラングが改稿したばかりか、セット美術や衣装・メイクにも工夫が凝らされ、それに応じた照明・撮影と、何より作品内容をよく理解した俳優の演技もあって、『カリガリ博士』は一貫性に留意しながら一種非個人的な、集団製作ならではの多彩な性格を備えた作品でした。一方『ゲニーネ』はというと、日本公開同時のキネマ旬報の近着外国映画紹介を見てみましょう。『カリガリ博士』の日本公開の評判のあとだけあって相応に丁寧な紹介で、実質的な復原短縮版の現行プリントしか観ることができない現在、貴重な文献になっています。ここではドイツ映画の「表現派」というのがはっきりドイツ映画の新傾向として画期的な流派と認知されたのがうかがえる紹介なのが注目され、『カリガリ博士』以前の企画・製作だった事情は意図的に伏せられてもいます。
[ 解説 ]「カリガリ博士」と同じく原作はカール・マイヤー氏、監督はロベルト・ヴィーネ氏である。場面構成、背景、演技等すべて表現派様式を取り入れたもので、主演は「マダム・ルカミエー」等出演のドイツ名優フェルン・アンドラ嬢である。無声。
[ あらすじ ] ゲニーネ(フェルン・アンドラ)は美しい女であったが血液宗教の女優であった為、血を欲求する女であった。彼女は奴隷市場でメロ(エルンスト・グロナウ)という風変わりな老人に買われ、篭の鳥の様に可愛がられたが血液に対する欲求が激しくなった。この不思議の家に唯一人出入りする理髪師グイヤード(ヨーン・ゴットウット)の甥フロリアン(ハンス・ハインツ・フォン・トワルドウスキー)はゲニーネを一度見て以来全く彼女の美に打たれ、彼女の命ずるままにメロを刺し殺した。メロの血潮に狂喜した彼女が、やがてフロリアンの血潮も彼女が欲する様になったのを知って彼は危うく逃れ帰ったが、その夜から怪しい熱病に犯された。メロの孫パーシー(ハラルト・パウルゼン)が久し振りにこの家を訪れた時、ゲニーネは彼に対して初めて恋を知った。パーシーの友人(ルイス・ブロディ)がメロの手記により彼女の素性を知り、真の人間に救いあげようとした時、失恋したフロリアンはゲニーネを殺し自分も相重なって死んだ。
 ――ドイツでは心理学・精神分析学が早くから発達したため(今日のような精神医学に変わるには脳生理学による脳内分泌物の薬物コントロールという「医学化」が必要でしたが)、実際に臨床治療を受診できるのは一部の富裕層でしかなかったこともあり、民間の心理学・精神分析学への理解は性的なニュアンスの強い変態行為=変質的嗜好者の判定・解明といった通俗的なもので、『カリガリ博士』や『ゲニーネ』はそういう観客の理解の次元に立った映画です。先に『他人とは違って』'19のような真摯に社会的偏見に抗議した映画も作られていたのをご紹介しましたが、『カリガリ博士』の「夢遊病者を実行犯にした殺人狂の存在を妄想して怯える精神障害者」、『ゲニーネ』の「人血嗜飲症の狂人の美女に魅了され破滅していく男たち」があんまりな設定なのは「マザーコンプレックスの青年が過保護な母親を殺して母親との二重人格が発現した時には女性嫌悪の殺人狂になる話」と同じくらい俗悪な心理学・通俗精神分析学の低俗化なのですが、映画では時代の思潮を反映した低俗な発想は俳優の肉体と映像の具体性によって説得力を持てば差し支えないのも事実です。『ゲニーネ』は企画・製作・撮影自体は『カリガリ博士』に先立って行われていたにしてもポスト・プロダクションは『カリガリ博士』製作・完成・公開後なので、撮影された素材に多少なりとも追加撮影し、編集による脚本構成の改変やアイリス、フィルター処理によって『カリガリ博士』の次作らしい作品に仕立てた映画でもあります。日本公開時にも本作は手法の不統一やテーマの分裂から『カリガリ博士』には及ばないものとされ、フリッツ・ラングは『カリガリ博士』でのヴィーネの功績と成功を称えながらも『ゲニーネ』の失敗を暗に着想の二番煎じとにおわせています。奇矯な老人メロとゲニーネの関係にカリガリ博士と眠り男チェザーレとの関係との対応があり、またゲニーネがフローリアンを籠絡してメロを殺させたあとはこの二人の関係が軸になるかと思いきや第3の男パーシーの出現でゲニーネは更正に向かうも、パーシーはゲニーネの正体を知った友人に警告され、失恋したフローリアンはゲニーネと無理心中する、と後半は吸血嗜好の異常性癖からテーマの離れた割と普通の破滅メロドラマになるので、テーマの分裂と手法の不統一を難じる評価はそこにあるとおもわれます。しかし悪趣味老人メロの隠居屋敷のこれでもかというくらい悪趣味な室内装飾(引きこもり小説の先駆、ユイスマンス『さかしま』1884の頽廃貴族青年の贅を凝らした地下室装飾描写の影響もあるでしょう)のインパクトと、それをとらえた現存プリントの鮮明な画質もあって、演出は『カリガリ博士』以前のヴィーネがドイツ映画のそれまでの主流だったという文芸メロドラマ路線の監督だった出自のわかる舞台劇映画風の平坦なものながら、ヒロインの吸血嗜好美女ゲニーネのメイクや衣装はのち'70年代末の女性パンク・ロッカーのスージー・スーやニナ・ハーゲンがそのまま真似たような、今時で言えばゴスの元祖を意図せずやっており、映画としての生の力は『カリガリ博士』よりもこちらの方が勝っているのではないかと感じさせる強引さがある。欠損部分を字幕やスチールで何とかつないだ短縮版なのも映画の未完成感を強めているのですが、良くも悪くもきちんとまとまっている『カリガリ博士』以上に扇情的で猟期性が露わで、変な映画を観た印象が尾を引くのは出来をうんぬんできる次元ではない不完全版映画の『ゲニーネ』の方なので、本作が修復復原版が作られて初DVD化されたのは2014年とごく近年のことで、これを公開時に観たラングや田中純一郎氏(『日本映画発達史』)が失敗作と片づけたのもわかりますが、今観てもなお面白い俗悪な楽しさはヴィジュアル面だけ取っても『ゲニーネ』の方にあります。それは本作がより冗長で散漫な完全版プリントで残されていたとしても変わらないと思われるのです。

●11月8日(木)
『巨人ゴーレム』Der Golem, wie er in die Welt kam (監=パウル・ヴェゲナー/カール・ボエゼ、UFA'20.10.29)*87min, B/W, Silent; 日本公開大正12年(1923年)10月26日(63分版) : https://youtu.be/ArHM_UArtPI (English Version)

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 サイレント映画史上著名な本作も『プラーグの大学生』『カリガリ博士』に負けず劣らず名のみ高く、『カビリア』'14や『鉄路の白薔薇』'23と並ぶこけおどし大作で、名高い割にはあまり見所の少ない作品です。2時間半の『カビリア』、4時間半の『鉄路の白薔薇』と較べれば短いだけ観やすいともあっけないとも言え、エキストラは大勢出てきますがやっぱりあまり迫力のない構図でこれはグリフィスはもちろん『カビリア』のパオロ・フォスコ、『戦争と平和(戦渦の呪い)』'19のアベル・ガンスの足元にも及ばず、主要人物も少ないと言っても父・息子・義娘の三角関係だけ(!)で4時間半を費やしたガンスの『鉄路の白薔薇』ほどではないですが、ゴーレム(パウル・ヴェゲナー)は当然として、ユダヤ教徒救済のためにゴーレムを作るユダヤ人ゲットーの主席ラビ(律法学者・司祭師)のロウ(アルバート・シュタインリュック)、その娘ミリアム(リダ・サルモノヴァ)、娘の恋人で非ユダヤ人の騎士フローリアン(ローター・ムーゼル)、ラビの助手で名無しの下僕(エルンスト・ドイッチ)くらいで、あとはユダヤ人たちの長老(ハンス・スツルム)とか領主の皇帝(オットー・ゲビュール)とか映画のサゲにゴーレム(パウル・ヴェゲナー)と相対する幼女(ロニ・ネスト)らが登場しますが、こうして登場人物を列挙するだけでほとんど映画内容の紹介は済んでしまうので、泥人形にユダヤ教徒の印である五芒星(ペンタグラム)をはめ込むと命が宿って動き出す(口はきけない)、五芒星を外すと泥人形に帰るのがゴーレムの仕組みです。輸入盤DVDのジャケットにもなっている映画結末の幼女との相対シーン、ぎくしゃく両手足を突っ張ったままの歩行など本作は『フランケンシュタイン』'31の映画上の原型になっているのは違いなく、五芒星(ペンタグラム)はユダヤ人の印でもありますが『狼男』'41の印にも使われ、だいたい黒魔術系は五芒星(ペンタグラム)がひんぱんにシンボルに使われるのでキリスト教圏ではキリスト教徒以外の非キリスト教徒は五芒星で片づけられてしまっている(キリスト教圏以外の異教徒はまた別ですが)のも、映画では本作あたりが古い発祥かもしれません。パウル・ヴェゲナーはゴーレムは『ゴーレム』'15(日本公開大正5年)、パロディ短編「Der Golem und die Tanzerin(ゴーレムと踊り子)」'17に続く自作自演のゴーレム映画で、フィルムが現存しているのはこの'20年版だけで、'15年作品のセルフ・リメイクになるという本作は'20年2月公開の『カリガリ博士』の成功を受けて表現主義映画の流行に乗ったリメイクと推定されていますから、'15年作品が発掘される可能性は低い(監督・主演のヴェゲナー自身が廃棄した可能性が高い)ながら、怪奇色は『カリガリ博士』を参考にした今回の方が強いと思われます。ちなみに本作はカメラマン2人体制でひとりはのちすぐに大成するカール・フロイントですが、フロイントらしい見事なカットは幼女のシーンくらいでしょうか。ヴェゲナーの監督手腕自体は、さすがに『プラーグの大学生』'13よりはメリハリのついたカット割りにも工夫が見られますが、これはドイツ映画界全体の技術的向上とも取れます。ジュリアン・デュヴィヴィエによるフランス=チェコ合作『巨人ゴーレム』'36は本作の数世紀後にラビ・ロウの作ったゴーレムを掘り出して悪用を企むという宮廷陰謀劇みたいな続編です。本作のキネマ旬報近着外国映画紹介もあっさりしたもので、大した映画ではないとはいえ国際的話題作になったくらいですからもう少し詳しく解説してもいいじゃないかと言いたくなるものです。
[ 解説 ] 表現派映画の一偉彩である。(無声、五篇)
[ あらすじ ] 昔ある都の一偶ゲトという一区域にユダヤ民族が囚われ既に大虐殺に遭おうとした時一族の博士の頭たる男(アルバート・シュタインリュック)がゴーレムという不思議な土偶を創造し其に生気を与え其の都の王(オットー・ゲビュール)を救わしめ一族の解放を得た。その祝賀の宴の最中に博士の下僕(エルンスト・ドイッチ)がゴーレムを悪用した為、ゴーレムは手のつけられぬ乱暴を演じた。しかし無邪気な子供の悪戯から不図ゴーレムは生気を失い一族は事なきを得た。
 ――実際の映画があっけないものなのでゴーレム製作の試行錯誤や娘ミリアムと騎士フローリアンの恋など絡めても仕方のないようなものなので、本作はゴーレムに扮したパウル・ヴェゲナー(泥人形だから全身白塗りで体と一体化したような分厚い白塗り衣装を着ています)の元祖ゴーレムぶりを楽しめばいい映画で、ゴーレム製作過程まではともかく、ゴーレム製作完成以降はゴーレム不在の場面はつなぎみたいなもので、最小限のドラマ要素しかないのも仕方ないでしょう。『カビリア』の超巨大セットとエキストラの物量作戦は超巨大セットを建築できるだけの巨大オープン・スタジオを建設できるイタリアの日照に恵まれた気象条件に支えられていましたし、ほとんどが田舎の雪山場面に目まぐるしい機関車のモンタージュで占められた『鉄路の白薔薇』は超スローテンポのシンプルな父子義娘の三角関係ドラマに超高速モンタージュ(ほとんどフィルムのコマ単位)の偏執的な映像技法の徹底自体が見所でした。『カリガリ博士』とともに映画史上ホラー映画の創生の役割を果たしたとされる『巨人ゴーレム』は、巨人と邦題こそあれ製作者のラビよりは大柄なもののラビの助手や騎士フローリアンのような長身の男性と背丈は同じくらいですが、泥人形ですから体幹が太く衣装が一体化しているので肥満ではなく全身が寸胴型で、カリガリ博士が催眠術による夢遊病者の操作殺人者ならばこちらは古代ユダヤ律法の信仰能力による人造人間の製作というアイディアで、名作『フランケンシュタイン』の雛型にもなればデュヴィヴィエ版の続編をヒントに日本版ゴーレムの『大魔神』三部作(大映'66)という、これは本当に迫力のある名作を生みました。また胸元に手のひら大の五芒星(ペンタグラム)がはめ込まれると命を得る、外されると泥人形に帰るのも愛嬌のあるアイディアで、城門中で大暴れしたあと城門を開けて外に出て、子供たちが草むらの中で遊んでいるのに歩み寄る。分別のつく子供たちはみんな逃げ出すがあどけない幼女だけがぽつんと残って、向き合ったゴーレムに手に握った玉(果実?)を差し出してにっこりする。ゴーレムの表情が少しだけ和らいで幼女を抱き上げ、幼女はちょうど目の前の五芒星を抜き取ってしまう。ゴーレムは硬直して幼女はすとんと落ち、そのままゴーレムは倒れる。発見した民衆がゴーレムのまわりに集まって祝い、五芒星がアップになってエンドマーク、と、実に素朴な伝承説話のような話です。構成面ではホラー映画の源流でしょうし映画史上最初の人造人間もの、感情も感覚も疲労もない人造人間の創造の着想という意義も大きいですが、ゴーレム出現以降はゴーレムだけに目を奪われるのは映画としては真っ当な作りですし、胸元の五芒星が唯一のパワー源というのもさまざまなヴァリエーションを生んで無数の後継作品に転用されるアイディアです。『カリガリ博士』同様「最初に」画期的なアイディアを広めた作品という意義が大きく、ニューヨークのユダヤ系移民地区ではイデッシュ語(ユダヤ語)字幕版の特別上映が歓迎されたそうで(移民一世にはイデッシュ語しか話せない世代もいる時代でした)民族的な意義もあるでしょうが、本作は表現主義的なハッタリよりも民話的な素朴さに本来の良さがあるような小品と見た方が正当でしょう。

●11月9日(金)
『彷徨える影』Das wandernde Bild (監=フリッツ・ラング、May Film'20.12.25)*67mins, B/W, Silent; 日本未公開 : https://youtu.be/KgojfUY276w

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 本作と次作『彼女を巡る四人の男』'21は'80年代にブラジルでフィルムが再発見され、オランダで所蔵されていた『ハラキリ』'19とともに'87年にレストア修復されました。映画会社の記録では『ハラキリ』は本来110分相当の長さ(現存フィルムは80%)、『彷徨える影』は90分(現存フィルムは75%)、『一人の女と~』は80分相当(現存フィルムは85%)の長さだったと判明しているそうです。欠落部分はシナリオや資料から字幕で補ってあるのですが、8割残存ならまだしも本作のように全体の1/4が欠落しているとなるとどこまでが作意による省略で、どこからがやむを得ないシーン脱落か構成が判然としなくなってきます。ヨーエ・マイ(1880-1954、代表作『アスファルト』'29で知られる独立プロ製作者兼フリー監督)のプロダクションで製作された本作は、自殺と見られる事故死を遂げた大学教授ゲオルク(ハンス・マー)の内縁の夫人イルムガルト(ミア・マイ)がやはり大学教授の亡夫の双子の兄ジョン(ハンス・マー/二役)と再婚後、精神的疲労の療養のために現夫と夫の実家のある雪山の観光地に汽車で訪れるシーンから始まりますが、映画は始まりから現在進行形で謎めいたムードのまま進み、山小屋の番人とヒロインが不意の吹雪で山小屋に避難したのを、二人をつけていた現夫が嫉妬からダイナマイトで起こした雪崩で雪で埋もれた山小屋に二人が閉じ込められて、番人が実は自殺したはずのゲオルクだったとわかる中盤まで過去の事情はわからず進んで行きます。ヒロインが眠る傍らでゲオルクが回想するシーンで映画は一気に発端にさかのぼり、自由恋愛主義者の哲学教授ゲオルクと大学生のヒロインの恋が描かれていき、ヒロインは妊娠したため正式な入籍を懇願するもゲオルクは主義上の理由から拒否、ヒロインは子供を私生児にしたくないので教授の双子の兄ジョンからのプロポーズを受け入れ、傷心のゲオルク教授は遭難自殺を装って山小屋の番人の隠者生活に入り、一方ヒロインと結婚した教授の兄ジョンは弟ゲオルクを思い続けるヒロインに嫉妬から家庭内暴力を振るうようになり、そのストレスから夫婦とも疲れ果てて田舎の実家に逃げてきた、とようやく物語の設定が明らかになります。ずいぶん思い切った倒置叙述方法の上に字幕説明で代替した欠落シーンが多いので、前半の謎だらけの登場人物たちの行動がどこまでラングの意図なのかよくわからない不満が残ります。長い長い字幕は本来の映画の字幕と欠落映像をシノプシスにした字幕の区別が縁どりで分けてありますから、この回想シーンは本来ならそれなりにたっぷり映像で描かれていたようですが、大学を舞台にした恋の発端、ヒロインがゲオルクの屋敷に住んで公認の内縁関係になった前後(女中が陰口を叩きます)、ヒロインから妊娠を打ち明けられるが入籍を拒否するゲオルク、ジョンからのプロポーズを受けるヒロインと要所要所だけはシーン単位で映像も字幕も残っていますが、シノプシス字幕だけで山場から山場に跳ぶので何だかよくわからないが謎だらけ、しかもちゃんと伏線を回収しきっているかもよくわからないまま、自殺を装って隠者になったゲオルクが実家近くの雪山に備えられた等身大のマリア像に「この像が動くまで里には戻るまい」と誓うシーンが回想されます。映画は山小屋で番人の正体がゲオルクとわかるまでが第1幕、そして山小屋の中でゲオルクの回想が始まるのが第2幕の2部構成になっています。
 第2部後半はダイナマイト犯で雪の岩山を警官に追われるジョンの逃亡追跡劇と、山小屋からの救助活動がパラレルで描かれ、救出された二人は山頂に追いつめられたジョンに投降を呼びかけるため駆けつけますが、ジョンはゲオルクに襲いかかり格闘中に足を滑らせて山頂から転落死します(この兄弟は一人二役ですが、この格闘シーンは山頂という仰角の構図にロングで代役を使ってうまくこなしています)。ゲオルクは山小屋に戻り、ヒロインは夫の実家に戻ります。吹雪の日に実家の義妹は嵐の晩に難産で産褥で亡くなり、赤ちゃんだけでも避難させましょうと新生児を里に届けるため嬰児を抱いたヒロインの山を下りる姿が、ふと山小屋から出た主人公には「マリア像が動いた」奇蹟と見えて主人公も里へ下りハッピーエンドになり、当時の映画の宣伝資料から採られた愛の奇蹟を祝うシノプシス字幕で映画は終わります。何だか無理矢理こじつけたような帳尻合わせのような結末ですが、北欧映画に流行していたキリスト教的神秘主義のドイツ表現主義版かもしれません。本作からラングはおたがい再婚同士の夫人、テア・フォン・ハルボウ(1888-1954)との共同脚本でドイツ時代最後の『怪人マブゼ博士』'32までの全作品を作るようになり、本作が女性映画になったのも、これまで自作脚本ばかりで映画を作ってきたラングにとってハルボウとの脚本で新しい試みをしてみたかったのでしょう。本作はもともとフラッシュバック構成だった映画が、欠損部分のシノプシス字幕補填によってなおさらわかりづらくなってしまった不運がありますが、当時のドイツ映画としては画期的にロケーション撮影が多く、バイエルン・アルプスの雪山や湖が鮮明な画質とあいまって素晴らしい効果を上げており、'30年代ドイツの山岳映画や'50年代ドイツの郷土映画の先駆を指摘されてもいます。身近では主人公が全盲になってスイス山中に隠居生活を送る『鉄路の白薔薇』第2部「白の交響楽」に先立つもので、ラングとガンスの影響関係はまったく考えられませんが、本作きりで組んだ名カメラマン、グイード・ゼーバーの手腕が大きいでしょう。ドイツ映画が生んだカール・フロイントとルドルフ・マテの2大カメラマンも日差しに乏しいドイツ映画の室内セット撮影に対応したカメラマンでしたから、本作きりのゼーバーの起用はまさに千載一遇のチャンスでした。室内セットでは逆光の照明が多いので人物の表情が暗いのは『死滅の谷』以降ますます目立つ技法になっていきます。本作がラングの表現主義映画という定着した評価はタイミング的には該当するでしょうし、ストーリーからは感じられますが、映像作品の実物を観ると表現主義っぽさは飛躍の多さから来る偶然の産物からの印象ではないか、と思えます。バイエルン地方はカトリックだからマリア像があるのですが、自由恋愛主義者の主人公がマリア像に誓いを立てるというのは挫折感のすえとは言え飛躍がある設定上の無理もあります。もっともドイツ表現主義映画の大半は本質的には題材や物語はそれほど重要ではありませんし、本作は犯罪や過去の因縁絡みとは言え異常性を描いた映画ではないだけ良識的な作品です。ラングとしてもデクラ社ではなくヨーエ・マイの独立プロでマイ夫人を主演に作った映画だからこそできた意欲作だったはずで、完全版だったらもっと良い作品だったか、あるいは冗長な仕上がりだったのかわからないのがもどかしい映画ではあります。

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