『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』Night of The Living Dead (The Walter Reade Organization/Continental Distributing'68)*96min, B/W; アメリカ公開'68年10月1日
監督 : ジョージ・A・ロメロ
主演 : デュアン・ジョーンズ、ジュディス・オディア、カール・ハードマン、マリリン・イーストマン、キース・ウェイン、ジュディス・リドリー 、ラッセル・ストライナー
・父の墓参りの途中、バーバラと兄のジョニーはゾンビに襲われた。倒れた兄を置き去りにしてバーバラが近くの民家に逃げ込むと、そこには黒人青年ベンのほか5人が隠れていた。やがて周囲はゾンビの群れで溢れ……。
――ゾンビ映画は'70年代のオカルト映画ブーム以降のホラー映画の過激化からスプラッター・ホラー色の強いものが主流になってしまい、本作もそういう作品かと思って避けている方もいらっしゃるかもしれませんが、最初に遭遇するゾンビはヒロインもうっかり挨拶しようとして近づいてしまうくらい普通の初老の紳士のなりですし、腐敗したような姿のゾンビが現れたり死体を喰らったりするシーンは主要登場人物たちから犠牲者が出始める映画の3/4過ぎ以降で、それもくどい描き方ではありません。本質的には本作は外部からの攻撃を防ぎ脱出・逃走の手段を図る室内劇で、テーマは登場人物たちが「生き残る」ことに尽きますから、戦争映画の塹壕戦や戦艦・潜水艦ドラマ、銀行や学校・交通機関などの乗っ取り立てこもり犯罪サスペンスなどと同じ仕組みであり、スプラッター・ホラー要素よりも逃げこんだ館に居合わせた登場人物たちの生き残るための人間ドラマが、悪化する外部状況に伴って展開する極限状況というシチュエーションのためのゾンビ映画ですから、映画作りとしては真っ当すぎるほど真っ当です。登場人物たちの類型的な図式化も少ない人数で効果的なドラマ作りをするには人数も性別、性格、役割も適切で、中年期までの人間も余命を意識した老人のように、極限状態に近づけば近づくほどその人物の本質的な人間性が露わになるので、監督(原案者との共同脚本)のロメロがまだ20代のこの作品でも人間性への洞察力は確かです。若いカップルのトムとジュディ、怪我をして意識不明の少女の娘カレン連れの中年夫婦ハリーとヘレン、行動力のあり意志の強い黒人青年ベンと茫然自失の白人ヒロインのバーバラ、という組み合わせで展開される立てこもりドラマの密度は黒澤明の監督第1作『姿三四郎』'43に小津安二郎が「10点満点で100点あげてもいい」と絶讃したのに匹敵するもので、本作は『姿三四郎』よりは少し長いですが90分台でこの引き締まった内容は、現代映画としてはインディペンデント映画監督ならではの気概を感じます。『北北西に進路を取れ』でアルバイトした時から映画の基本を学ぶ一方でハリウッド式製作システムに疑問を抱いたというロメロは、のち大成するもハリウッドの製作システムとは生涯相性が悪かったそうですが、これだけ作家性の強い作品から長編劇映画のキャリアを始めたからにはハリウッドの求めるスター主義、企画主義、撮影効率には馴染めなかったのも無理ないところで、本作が一見閉じたホラー映画仕立てのドラマながら社会的な隠喩や、時代思潮への批判的コメンタリーになっているのも自然に滲み出ているので、まずメッセージありきの映画ではないのにコンパクトな内容以上のスケールを獲得しています。28歳のインディペンデント映画監督の第1作でこれほどの作品になったのはアメリカ映画界の歴史と厚みを思い知らせられ、反主流の側から作られて主流映画をしのぐ正統派の傑作が生まれたことを含め、本作はすでに公開50周年になりますが、この頃起こった何度目かのアメリカ映画の転換期(メジャーでは「アメリカン・ニュー・シネマ」という形で現れます)の嚆矢とも言うべき金字塔になりました。そしてその完成度、映画としての高い志、節度、端正さではメジャー作品も舌を巻く出来を示しているのです。
●10月21日(日)
『月光石』The Ghoul (Gaumont British'33)*80min, B/W; イギリス公開'33年8月・アメリカ公開'34年1月
監督 : T・ヘイズ・ハンター
主演 : ボリス・カーロフ、セドリック・ハードウィック、アーネスト・セジガー、アンソニー・ブッシェル、ドロシー・ハイソン
・病気で死に瀕死したモーラン教授は、生き返るために掌に月光石を包帯で巻いてこの世を去る。弁護士のブロウトンは教授の死後、墓を暴くが、月光石は見つからない。彼は助手のレーンが盗んだと確信したが……。
[ 解説 ]「フランケンシュタイン」「魔の家」のボリス・カーロフが主演する怪奇映画で、フランク・キングとレナード・ハインズの原作をローランド・パートウィーーとジョン・ヘイスティングス・ターナーが共同脚色し、全て「死後の霊魂」をものしたT・ヘイス・ハンターが監督に当り、「クウレ・ワムペ」のギュンター・グランプが撮影した。助演者は「魔の家」のアーネスト・セジガー、「南欧横断列車510」のセドリック・ハードウィック、ドロシー・ハイスン、アンソニー・ブッシェル等である。
[ あらすじ ] 埃及学者モアラント教授(ボリス・カーロフ)は臨終の床に侍僕のレイング(アーネスト・セジガー)を呼び、「永劫の光」と呼ぶ宝石を自分の掌に入れて包帯を巻かせた。彼はこうする事によって天国へ行けると信じていたのである。そして彼の死体は埃及風の墓場に葬られた。レイングはこの宝石はモアラント家の相続者たる教授の甥ラルフ(アンソニー・ブッシェル)及びベティー・ハーロウ(ドロシー・ハイソン)に与えらるべきものとの考えから盗み出してしまった。ところがこの宝石を狙うものにモアラント家の法律顧問ブロートン(セドリック・ハードウィック)、アラビア人ドラゴレ(ハロルド・ハス)等があった。彼等は巳にモアラント教授の死体から「永劫の光」が盗み去られたことを知り、暗中飛躍を始めた。ラルフは叔父が死んだことも通知に接せず、葬式にも立会はされなかったので、ブロートンを訪問した末、ベティーとその友人のケイニー(キャスリーン・ハリソン)と共にモアラント邸に乗込んだ。これより先き、レイングはベティーに「永劫の光」を渡そうとして果たさなかったのである。その夜は丁度満月の夜だった。故教授はもしも「永劫の光」を奪う者あらば、満月の夜に蘇って取殺すと宣誓していたが、満月が墓場の扉に光を投げた時、モアラント教授の姿が音もなく扉を開いて現れた。そしてレイングは蘇生した教授の手に扼殺されて最後を遂げた。教授は「永劫の光」を奪い返すや、墓場に戻り、埃及神像の掌にそれを乗せて、狂信者の法悦に浸って死んでしまった。そして遂に「永劫の光」を狙う人々の争闘が始まったが、悪漢(ラルフ・リチャードソン)達は駆けつけた警官隊に捕えられ、ラルフとベティーに宝石は与えられた。
――以上がキネマ旬報掲載のあらすじですが、併せて掲載されているキャスト表を見るとスペルミスが非常に多い。ほとんどは日本語表記するとわかりませんが、たとえばヒロインのドロシー・ハイスンの役名はベティ・ハーロウ(Harlow)ではなく実際はハーロン(Harlon)です。もっとも現行版はチェコスロバキアで発見されたチェコ上映版プリントに新規に英語のクレジット・タイトルを起こしたものらしいので、その過程で起こったスペル違いかもしれません。映画はと言えば、どれだけおざなりな代物かというと、教授の葬儀に牧師として登場するハートリー牧師(ラルフ・リチャードソン)が偽牧師で宝石泥棒の真犯人とわかるのも伏線もなければハートリー牧師の人となりも描かれないので唐突なだけですし、コメディエンヌのケイニーが宝石を拾ってさらに悪徳弁護士ブロウトンとエジプト富豪ドラゴアがケイニーを追いつめると警官隊が包囲して事件解決、とはあんまりです。この映画は(1)アヌビス神信仰によって蘇る死者のボリス・カーロフが抱く復活の鍵の宝石と、(2)お化け屋敷の中の宝石争奪戦と、(3)復活した死者のボリス・カーロフが盗まれた宝石を取り返すためにさまよい人を襲うのと、宝石を奪い合う悪党たちにはボリス・カーロフの復活の神秘などどうでもいいですし、カーロフは一旦宝石を取り返したら満足して今度は本当に成仏してしまうので、宝石の奪い合いはまだまだ続きます。これはお化け屋敷映画に死者復活ものを組み合わせた構成で、エジプト学者の死んで復活する教授役のカーロフはゾンビというよりミイラの性質が強いので、復活のためにはアナビス神を祀った台座と満月と満月の光とアナビス神信仰を結晶させるための宝石「月光石」の3条件が揃わなくてはなりません。そこらへんが一度観てすんなりわかるかというと、語り口が下手なせいで場面場面の内容がちっとも観客の頭に整理されて入って来ず、シナリオがずさんなせいで悪党たちがエジプト学者復活の怪奇現象と宝石「月光石」の関連をどう認識しているかもわからないまま映画は結末まで進んでしまいます。古代エジプトの宝石どころか死者蘇生の魔力を秘めた魔石となれば宝石自体の価値どころではなくなるはずですが、この映画の悪党たち(主人公とヒロインも)は「お化け屋敷の宝探し」の次元の登場人物たちなので、シリアスに死者蘇生のホラー映画を演じているのはボリス・カーロフだけ、つまりそういう演出がなされているのはボリス・カーロフ絡みのシーンだけで、最後に宝石泥棒逮捕のどたばたで屋敷は炎上しますが、これも怪奇映画のお約束で蘇った死者の遺体は滅びたということになりますが、この映画の登場人物たちはそれも気づいていないのです。ひょっとしたら脚本家や監督、プロデューサーまで気づいておらず、ユニヴァーサル・ホラーのラストシーンの真似をしただけかもしれません。このイギリスのメジャー映画社のブリティッシュ・ゴーモン作品がいかに取り柄のない映画か、にもかかわらずボリス・カーロフの『フランケンシュタイン』『魔の家』『ミイラ再生』に続く作品としてカーロフ主演という一点で歴史的作品になっているかを思うと、せっかくカーロフを起用し、カーロフ絡みのシーンだけは主演俳優の力量で魅力的になっているだけに、どうしてこざかしい宝石争奪戦映画にしてしまったのか、カーロフ一本で押すべきだったのではないかと悔やまれますが、これはもともとの原作小説に死者蘇生をねじ込んだことに原因があるようです。つまり企画自体に無理があったのを無理矢理作ってしまったゆえの駄作なので、35年後のインディペンデント映画の名作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』とは較べるべくもない代物です。しかし古今東西、世の映画の大半は『月光石』と同レベルと思えば、ことさら本作をあげつらうほどでもないでしょう。