[ フランス映画パーフェクトコレクション~情婦マノン] 1.『肉体の冠』'52、2.『悪魔の美しさ』'50、3.『北ホテル』'38、4.『旅路の果て』'39、5.『ピクニック』'36、6.『女だけの都』'35、7.『情婦マノン』'49、8.『罪の天使たち』'43、9.『美女と野獣』'46、10.『うたかたの恋』'36
続刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』も数巻まとまったところでまとめて観直し感想文を載せたいと思います。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。
『パルムの僧院』La Chartreuse de Parme (Les films Andre Paulve, Scalera Film, 1948)*166min, B/W : 1948年2月21日イタリア公開・5月21日フランス公開
監督:クリスチャン=ジャック(1904-1994)、主演:ジェラール・フィリップ、ルネ・フォール、マリア・カザレス
・エルネスト4世の圧政に苦しむパルム公国。ファブリスはナポリから帰省し、叔母ジーナのもとを訪れる。ジーナは逞しい美青年に成長した甥に恋心を抱くが……。文豪スタンダールの『赤と黒』と並ぶ代表作の映画化。
[ 解説 ] スタンダールの『パルムの僧院』の映画化で、脚本はフランスの探偵小説家ピエール・ヴェリ、ピエール・ジャリ、クリスチャン・ジャックの共同執筆で、台詞もヴェリが担当している。監督は「幻の馬」「カルメン(1946)」「幻想交響楽」のクリスチャン・ジャック、撮影は「偽れる装い」「密告」のニコラ・エイエ、音楽はレンツォ・ロッセリーニ、装置ドオボンヌ、衣裳アンネンコフというスタッフで、「王様」「オルフェ」のアンドレ・ポオルヴェ・プロダクション一九四八年度の作品である。主演者は「すべての道はローマへ」のジェラール・フィリップ、我が国に初登場のマリア・カザレス(本映画によりロカルノ映画祭女優演技賞を得ている)、「憂愁夫人」のルネ・フォール、「火の接吻」のルイ・サルー以下、アッチリオ・ドッテジオ、チュリオ・カルミナチ、リュシアン・コエデル、ルイ・セニエ、マリア・ミキ、エンリコ・グロリ、アルド・シルヴァーニ、クラウディオ・ゴーラ等が助演している。
[ あらすじ ] ナポリで気楽で放縦な学生々活を終え故郷のパルム(パルマ)に帰って来たファブリス(ジェラール・フィリップ)は伯母のサンセヴェリナ公爵夫人(マリア・カザレス)に迎えられた。数年ぶりに見る甥の姿に、肉身としての彼女の愛情は忽ち激しい恋心に変った。小胆で愚かなエルネスト四世(ルイ・サルー)が権力を振うパルムの宮殿で、大夜会が催された折典獄ファビオ・コンチ(アルド・シルヴァーニ)の娘クレリア(ルネ・フォール)もファブリスの面影を深く心に焼きつけた。だが彼女には大金特の四十男クレサンジ侯爵(クラウディオ・ゴーラ)という婚約者があった。エルネスト四世は公爵夫人に夢中であったが、彼女はとり合わず、ひたすらファブリスに思いを燃した。警視総監ラッシ(リュシアン・コエデル)は、公爵夫人の情人である総理大臣モスカ伯爵(チュリオ・カルミナチ)を憎み、彼の追放を策していた。ファブリスは可憐なマリエッタ(マリア・ミキ)という女優と恋し合ったが、彼女の前の恋人の道化役者ジレッチ(エンリコ・グロリ)に発見されたとき彼を刺し殺してしまった。ファブリスは捕われ城砦に幽閉された。彼は独房の小窓から見える庭園に清らかなクレリアの姿を見出して心を慰めていたが、毎日顔を合わす若い二人の間には無言のうちに、いつかはげしい恋が生れた。ラッシの陰謀でファブリスは二十年の禁固刑を宣告された。公爵夫人は大公の卑劣さを面罵し、自分の力で彼を脱獄させよぅと決心した。クレリアもまたファブリスを毒殺するという計画を獄卒グリロ(ルイ・セニエ)から聞き、炭焼党の首領フェラント・パラ(アッチリオ・ドッテジオ)に助力を求めた公爵夫人に加担してファブリスを脱獄させた。この事件でクレリアの父は罷免され、彼女はクレサンジ侯と結婚せねばならなかった。サンセヴェリナ公爵夫人はファブリスを追手の届かぬマジュール湖畔に伴って静養させたが、ファブリスが今も深くクレリナを恋していることを知ると、彼女の結婚の近いことを告げて諦めさせようとした。ファブリスは身の危険をかえりみずパルムに走ったが、再び捕えられた。公爵夫人は彼を救うため大公の意に屈したが、直後、彼女に思いを寄せるフェラント・パラが大公を暗殺した。間もなく彼女はモスカ伯爵と結婚し、空しい幸福を求めて遠くパルムの国外へと去った。クレリアに再会したファブリスは、ただ一度最後に許し合っただけで、彼女の幸福を乱さないために、パルムの僧院の奥深く身をかくした。
――この通り、あらすじだけなら原作小説『パルムの僧院』を圧縮簡略化したものなのですが、原作の粛々としたムードはジェラール・フィリップとマリア・カザレスのはじけた演技と溌剌とした存在感で一新されています。スタンダールは伯母の公爵夫人と甥の若いファブリス侯爵に近親相姦的愛情を託したと思われますし、それをもっと濃厚にしたベルトルッチの『革命前夜』はスタンダールの政治的挫折感の反映でも的はずれな解釈ではないのですが、フィリップのファブリスはもっと気分屋で軽率気楽な夢想家ですし、カザレスの公爵夫人は皇帝を手玉に取るほどあまりに堂々とした風格なので甥っ子のやんちゃ坊主とは養母と養子の愛情(しかも坊主の方は甘えん坊なので大してありがたがっていない)くらいに見え、行動も非常に理性的で現実的です。簡略化されているにせよ言動は原作小説通りなのに俳優を通して肉体化されるとこれほど根本的な性格から異なってしまうのも映画ならではの面白い現象で、脚本はジャック・ベッケルの佳作『赤い手のグッピー』の原作・脚本家ピエール・ヴェリと監督クリスチャン=ジャックの共作ですが、同じ脚本でもこれをもしファブリス役にダニエル・ジェラン、公爵夫人役にアルレッティを配していたらもっと翳りのある映画になっていたはずで、その方が原作のムードには近いかもしれませんが後味に澱の残るような作品にもなっただろうと思えます。イタリア・フランス混合スタッフ&キャストで原作と監督と主演はフランス人でも、公開もイタリア先行だったようにこれはイタリアが舞台のイタリア映画をフランス人が作った作品と見た方がよく、その場合本作の内容には軍事政権から解放されたイタリアの気分に即した時事的な側面もあるかもしれませんし、3時間近い規模、前後編に分かれる構成といいイタリア版『天井桟敷の人々』のようなものを、というイタリア側からのリクエストがあったかもしれません。だとしたら本作のあっけらかんとした仕上がりはかえってなかなかの見識なのではないか、とも思えてきます。そうして見れば本作も端役にいたるまでの人物配置や生かし方も堂に入ったもので、繊細な人間ドラマというより人を食った歴史絵巻としての大味な面白みがあります。それがサイレント時代の映画のような大味さでも構わないではありませんか。
●9月20日(木)
『双頭の鷲』L'Aigle a Deux Tetes (Les Films Ariane, Sirius Films, Les Films Vog, 1948)*87min, B/W : 1948年9月22日フランス公開
監督:ジャン・コクトー(1889-1963)、主演:エドウィジュ・フィエール、ジャン・マレー
・警官に追われた反体制派の青年が女王の部屋に逃げ込んできた。女王はその青年が亡き国王に瓜二つだったため、召使いとして任命する。その青年との間で芽生える恋の行方は……。J・コクトー監督の渾身の傑作。
[ 解説 ]「美女と野獣」と同じくジャン・コクトーが脚本を書きおろし、自ら監督した一九四七年作品。撮影は「旅路の果て」「血の仮面」のクリスチァン・マトラが監督、音楽は「美女と野獣」「ルイ・ブラス」のジョルジュ・オーリックが作曲、美術監督は「美女と野獣」「ルイ・ブラス」のクリスチャン・ベラール、装置担当も同様ジョルジュ・ヴァケヴィッチである。主演は「しのび泣き」「フロウ氏の犯罪」のエドウィジュ・フィエールと「美女と野獣」「ルイ・ブラス」のジャン・マレーが、コクトオ原作の舞台劇と同じく顔を会わせる。助演は練達のジャン・ドビュクール及びジャック・ヴァレンヌ、舞台にも映画にも活躍しているシルヴィア・モンフォール「ルイ・ブラス」のジル・ケアン、エドワード・スターリング、アブダラー等である。
[ あらすじ ] 女王(エドウィジュ・フィエール)は絶世の美人の誉が高いけれども十年このかたベールに面を包んで、近衛の仕官達はもとより侍従のものもほとんど女王の面影に接した者はない。女王が愛するフレデリック王と結婚の祝典を挙げたのは、ちょうど十年前しかも密月を過そうとクランツの城へ赴く途中王は駅馬車の中で暗殺されたのである。それ以来十年、不思議に国民の信頼を得て覆面の女王は国を治めて来たのである。これを痛くも憎んだのは亡き王の母君の大公爵夫人(イヴォンヌ・ド・ブレー)である。彼女におもねって権勢を得ようとする警視総監フェーン伯爵(ジャック・ヴァレンヌ)は、秘密出版物を利用して女王を中傷するかたわら、偽の無政府主義者を買収して女王暗殺の機械をねらっている。若い熱心な無政府主義者のスタニスラス(ジャン・マレー)は、君主専政の封建制度を覆さんと考え、アヅラエルというペンネームで女王誹謗の詩を書き、フェーン伯一脈にそそのかされて、女王暗殺を志しているというのは、スタニスラスが故フレデリック王に生き写しの顔なので、女王に近ずかせる便宜になると思ったからである。女王が思いでのクランツの城へ行った夜、伯の命令で折からの雷雨の中を警察と犬に追われてスタニスラスはクランツ城の女王の部屋に飛込んだのである。その夜は女王が催した舞踏会の夜で、多くの客が招待されて来たが女王は侍女エディット(シルヴィア・モンフォール)を代理として出席させ、自らは部屋にとじこもった。亡夫が愛したワルツの音を聞きながら女王はあたかも故王と相対しているが如く盃を挙げ、亡き人に話かけているところへ、手傷を追って息も絶え絶えのスタニスラスが転げ込んで来たのである。女王は彼が何者であるか、その使命が何であるか知っている。彼こそは女王が十年間待ち望んでいた死の運命の使者なのである。彼女を愛する夫の許へ導いてくれる死の天使なのである。女王は死の天使を手厚く介抱する。この美しい女王をスタニスラスは殺す術を知らぬ。女王はエディットの代りに彼を「読書役」に任命する。こうして女王と故王に生写しの暗殺者との間に、不思議な愛が生れ、女王はエディットも侍従長フェリックス・ヴィレンシュタイン公爵(ジャン・ドビュクール)もともに大公爵夫人のスパイであること、スタニスラスはフェーン伯爵に使われている人形にすぎないこと等、恐ろしい宮廷の実状を話し、自らの不幸を嘆ずる。女王が黒人の召使い(アーメット・アブダラー)をつれて朝の遠乗りに出掛けている間に伯爵はスタニスラスに使命を果せば自由を与えようという。一時に女王は帰京される。それまで待ってくれと彼は答える。女王が遠乗から帰ると毒薬入の指輪が見えない。城の前庭には供奉の近衛兵が既に勢ぞろいしている。毒を仰いだスタニスラスが女王に愛の言葉をもとめると、下野の分際で無礼であろう、下らぬとむち打つぞ、女王はうそをつくのがクレオパトラ以来の習わしじゃという。逆上した男は短剣を女王の背に突き立てる。殺してほしい故にののしった、私はそなたを愛する――女王はそういうと刺されたまま階段を上って窓辺から近衛の兵隊に敬礼を返し、はたと倒れる。スタニスラスは女王の許へと駆け上ったが毒が回って力尽き階段からころげ落ちて息絶える。
――最小限に動きのないドラマの底流に怒涛のマグマが渦巻いているような、このじれったい千日手の結末はいわば無理心中で終わるわけで、終わりのないのが千日手ですからもういずれにせよ殺されるか、みずから死を選ぶかしかないヒロインにとって、最愛の相手に殺されるというのが唯一のハッピーエンドになるので、戦前のイメージからは軽薄才子のモダニストだったようなコクトーが実はギリシャ悲劇からフランス古典悲劇までの正統的悲劇の発想を押さえていたのを示すドラマになっています。しかしこれを発想したとしても戯曲、その上映画化もするとなるとコクトー自身による監督だから企画が通ったようなもので、他の監督では引き受け手がいないか映画化そのものが見送られてしまったでしょう。国際的成功を収めたメルヘン的趣向の作品『美女と野獣』は本作製作のための布陣だったのかもしれないと思うほどこれは映画化そのものが挑戦ですが、コクトー映画の目印とも言える『オルフェ』につながっていく鏡もちゃんと出てきますし、王妃と暗殺者が「双頭の鷲」という対照・対応関係も『美女と野獣』の変型なので、観ているうちは全体がつかめず記憶の中で整理され、観直した時に驚嘆するような仕掛けが全編にあります。ジャン・マレーが少し出るのが20分目あたり、負傷して王妃の前に転がり出るのがさらに10分後ならば、このヒロインの王妃も冒頭20分ヴェールで顔を隠したままですし、結末の背中に刺さるナイフ、階段を転落するジャン・マレーを追うカメラ自体の階段落ちなど一瞬たりとも気が抜けない張りつめた映画で、この質感はフランス映画には違いなくてもコクトーの映画以外には'30年代~'50年代を通して似たものがなく、これもむしろ'20年代のサイレント時代の映画からの(クリスチャン=ジャックの『パルムの僧院』のサイレント的大味さとも違う)直接のコクトー流発展のように見えるのです。