『赤い手のグッピー』Goupi mains rouges (Les Films Minerva, 1943)*100min, B/W : 1943年4月14日フランス公開
監督:ジャック・ベッケル(1906-1960)、主演:フェルナン・ルドー、ジョルジュ・ロラン
・フランスの田舎で代々暮らしている大家族のグッピー一族。一族は財産を守るために近親結婚をし、お互いをあだ名で呼び合うという不思議な習慣があった。ある日、パリで働いていたムッシューが帰省すると……。
[ 解説 ] '37年発表のピエール・ヴェリ原作の探偵小説の映画化。フランスの片田舎に住むグッピー一族の間で起こった殺人事件を描く。監督は「穴」のジャック・ベッケル、原作・脚本はピエール・ヴェリ、撮影はピエール・モンタゼル、音楽はジャン・アルファロが担当。
[ あらすじ ] パリから600キロ離れた村に暮らすグッピー一族は、その財産をよそ者に渡さないために血族結婚を繰り返し、お互いをあだ名で呼びあっていた。長老エンペラー(モーリス・シャッツ)を筆頭にメスー(アルトゥール・ドゥベール)と妻チザン(ジェルメーヌ・ケルジャン)、息子夫婦(ルネ・ジェナン、マルセル・エニア)とその娘ミュゲ(ブランシェット・ブリュノワ)の大家族。村の外にもはぐれ者の赤い手(フェルナン・ルドウ)とトンカン(ロベール・ル・ヴィギャン)がいた。ある日、メスーは昔離婚した妻の息子ムッシュー(ジョルジュ・ローラン)がパリで重役になっていると聞き、ミュゲと結婚させようと呼び寄せる。駅についたムッシューは、ミュゲを好きなトンカンにいたずらされて家にたどり着けない。この日、牛のお産がありエンペラーを残し皆出掛けていた。エンペラーは、禁止されているのに酒を飲み、お金を数えながら倒れてしまう。ちょうどやって来たトンカンはそれを盗んで逃げる途中、顔を見られたチザンを殺す。さて帰ってきた人々は死体に驚くが、警察は呼べない。グッピー一族が、村の噂になることなど許されないからだ。悪いことに現場にムッシューの櫛が落ちていて、彼は犯人とされてしまう(彼は驚いて逃げてしまった)。そうこうしているうちに、エンペラーが息を吹き返し、人々は一族の宝のありかが彼の死とともに不明になってしまわなかったことを喜んだ。トンカンは焦って、メスーにミュゲと結婚させて欲しいと言いに行くが断わられ、腹いせに警察に密告する。赤い手は捜査を命じられ、全ての真犯人がトンカンであることと、一族の宝の在処を突きとめる。トンカンは木の上にたてこもるが、墜落死する。ミュゲは秘かに好意を抱いていたムッシュー(実は重役ではなかった。メスーの勘違い)と結婚する。赤い手はエンペラーに口の達者なうちに、一族の宝の在処を伝えておけと言うが、彼は誰かが知っていればいい、必ず代々伝わっていく。ちょうど若い2人が子孫を残していくようにな、と言うだけだった。
――映画タイトルの人物「赤い手のグッピー」を演じるのはフェルナン・ルドゥ(1897-1993)で、ルドゥは舞台畑の人でルノワールの『獣人』'38やカルネの『悪魔が夜来る』'42を始め96歳の沒年まで100本あまりの映画出演作があるそうですが、どちらかというと名バイプレーヤーなので主演作の代表作というと本作になるそうです。映画はどちらかといえばヒロインのミュゲ役のブランシェット・ブリュノワをめぐるトンキン役のロベール・ル・ヴィギャンとムッシュー役のジョルジュ・ローランが普通は主演俳優とされる具合に進んでいくのですが、実は一族の中で特殊な位置にいてすべてを見通している赤い手のグッピー(登場人物は全員グッピー姓なので一族内だけで通じるニックネームで呼びあっています)が主役になる、非常に巧妙で自然なドラマ構成で、脚本も良いのでしょうがミステリー仕立てのドラマを作為的なはったりには見せない演出が光ります。『アタラント号』'34の監督ジャン・ヴィゴ(1905-1934)が夭逝せずに円熟した映画監督になっていたらこういう映画を作ったんじゃないかと思わせるほどで、実は本作のわかりづらさもそこから来るのですが、本作のように姻戚関係が込み入ったドラマだと自国の映画だったら話し方や風貌から自然に関係がわかるのですが、外国の外国語映画で登場人物が田舎のある一族ばかり、しかもナレーションや説明的な台詞はなく身なりや日常的な会話から姻戚関係・人間関係を読み取らなければならないとなると、日本語字幕の翻訳だけではまだ理解しきれず、ちょっとしたやり取りも観落とさず推察・解釈しなければならない。日本人にとって集中力を要する映画なのはそのためで、キネマ旬報のあらすじには省かれていますが一族でいちばん低い身分にあつかわれ虐待されているマリー(リーヌ・ノロ)と知的障害者の息子ジャン(アルベール・レミー)の母子がいて、実はこの母子の存在がドラマで非常に重要な役割を果たしています。また一族では当主メスー(アルトゥール・ドゥベール)の息子ディクトン(ルネ・ジェナン)の娘ミュゲを前妻の息子ムッシュー(つまり義理の伯父と姪)を結婚させようとしているのですが、マリーとジャンの母子に率先してつらく当たっているのが殺害されるメスーの妻チザン(ジェルメーヌ・ケルジャン)で、この被害者は実に嫌なガミガミ婆さんに描かれています。しかし一族の資産を分散させないため血族結婚をくり返しているというこの田舎の村の、100歳の長老長老エンペラー(モーリス・シャッツ)から四世代に渡る10数人のグッピー一族は、現代日本人には注意して観ないと一族と使用人の区別も、中年以上の人物は年齢差もよくわからないので、たぶんマリーとジャンの母子は当主メスーと妻チザンの義従妹か義姪の母子と思われますが、それも会話や待遇からようやく推察・解釈される程度です。そうしたローカル性がこの映画では外国人観客から観たわかりにくさにもなっている一方、地に足のしっかりついた映画全体の土くさい説得力にもなっていて、ミステリー仕立てですから最初と観直した時の見方が違ってくるのもありますが、時期もそう変わらない作品と思うとカルネの『悪魔が夜来る』よりこちらの方が田舎のホームドラマに徹している分、よほど時流に左右されない映画づくりに成功しているように思え、また人間性や人生への落ちついた洞察に基づく映画という気がするのです。
●9月14日(金)
『あなたの目になりたい』Donne-moi tes yeux (CIMEP, U.F.P.C., 1943)*90min, B/W : 1943年12月24日フランス公開
監督:サッシャ・ギトリ(1885-1957)、主演:サッシャ・ギトリ、ジュヌヴィエーヴ・ギトリ
・彫刻家のフランソワは、展覧会で出会ったモデルのカトリーヌが気に入り、胸像のモデルを依頼する。やがて二人は恋に落ち、結婚を約束するが、次第にフランソワの態度が冷たくなっていき……。
[ 内容 ](「Oricon」データベースより) 彫刻家のフランソワ(サッシャ・ギトリ)は、ある美術展で若くて美しい娘カトリーヌ(ジュヌヴィエーヴ・ギトリ)に出会い、一目で気に入りモデルを頼む。二人は相思相愛になるが、突然フランソワはカトリーヌに冷たい態度で接するようになる。カトリーヌはフランソワの突然の変化を理解できずにいたが、彼のその態度にはある理由があった…。トリュフォーやゴダールが敬愛したフランス演劇、映画界の巨人サッシャ・ギトリが占領下時代に撮りあげた優美で切ないメロドラマ。
――サッシャ・ギトリは'40年代~'50年代にはマルセル・パニョル(1895-1974)と並んでフランスの国民的劇作家兼映画人とされる地位を築いた人で、ギトリは俳優でもありましたから本作の主役も堂々とした名優ぶりで、ただパニョルもそうですし今回たまたま並んだジャック・ベッケル、ベッケルの師匠のジャン・ルノワール同様自然な人情味が映画でははったりの稀薄な分フランスのローカル作家に人気がとどまっていたこともあって、ルノワールは第二次世界大戦中から10年間ハリウッドで映画製作し、その成果もあり戦後国際的な再評価が進みましたし、その弟子のベッケルも筋の良さを早くから認められましたが、ギトリやパニョルはまだフランス以外の欧米諸国では再評価の途上にあり、ギトリ戦後の代表作のひとつで今回『フランス映画パーフェクトコレクション』にも収録された『毒』'50は昨2017年にアメリカ随一の古典映画復刻レーベルCritirion Collectionから初Blu-rayディスク化されたばかりです。本作『あなたの目になりたい』は簡単に言ってしまえば難病恋愛メロドラマで、最近の日本の映画やアニメでも難病恋愛メロドラマの人気は相変わらずなのですが、日本映画やアニメでは青春ものでそれをやるのを初老の男とやや婚期遅れの若い女でやっているのが本作で、含蓄のある映画にするには登場人物はそれなりに奥行きのある人生経験を感じさせる年配でなければという当たり前のことが行われて、それがしみじみとした佳作になっている要因でもあります。またこれは映画が世界的に青春映画ばかりになってしまう以前の映画だからこそ自然にできたので、戦後映画の監督の企画には青春映画でなければ犯罪サスペンス映画、その他ジャンル映画という具合に年齢相応の映画づくりが難しくなった事情もあるでしょう。本作などは中年後期の監督による中年以上の観客向けの映画ですから、こういう映画は自国の映画ほど身にしみるので、たぶんギトリやパニョルの映画は日本では小津安二郎や成瀬巳喜男(小津や成瀬の国際的評価はギトリやパニョルより目覚ましいですが)と近い位置にあるのではないでしょうか。