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映画日記2018年9月11日・12日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(6)

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 この映画日記感想文は始めた頃は簡潔に映画1本に数行~十数行、短く感想だけを書いていたのですが、加齢現象とは怖いもので徐々に長くなり、というのも歳を取ると次にいつ同じ映画を観直す機会が来るか心許なく、今回は観直す機会を得たものの次はあるのかという気持と、もし観直す機会がまたあっても前に観た時の感想を覚えていられる自信もおぼつかないわけです。本や映画は1回読むなり観るなりで十分という方もいらっしゃると思いますが筆者は業か不幸か本も映画・音楽もしつこく何度もくり返し翫賞するたちで、以前観たのが相当前ならもちろん、あまり間を置かなくても同じ映画をまるで違う目で見るようになることもある。そういう次第で続けるごとにこの映画感想文も1作1作が長くなり、今回は古くは中学生頃に観たことのある作品も並ぶ往年のフランス映画名作群ですから長くなるのを覚悟して1回2作ずつ取り上げているのですが、春先に『ジャン・ギャバンの世界』全3集・30作を1回3作ずつ書いた時の方がわれながら締まりがある感想文になっており、しかも1日1本ずつ観進めているから1日置きにしても観てから感想文を書くまで進めるごとにズレが出てくる。現時点では22作まで観直し進めているのに今回の『フランス映画パーフェクトコレクション』はまだ11・12本目です。しかし1回2作ずつの方針を今さら変えるのも調子が崩れるので、今回からはこれまでよりもやや短めの感想文にまとめるように心がけることにします。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月11日(火)
『犯人は21番に住む』L'Assassin habite... au 21 (Continental-Films, Liote=Films Sonores Tobis, 1942)*79min, B/W : 1942年7月8日フランス公開
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー(1907-1977)、主演:ピエール・フレネー、シュジー・ドレール
・パリで連続殺人事件が起きる。犯人は死体のそばに必ず「ムッシュー・デュラン」と書かれた名刺を残していた。殺人鬼デュランが、ジュノ大通り21番にある下宿屋の住人だという情報を手に入れた探偵ヴェンスは……。

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 日本公開昭和23年(1948年)12月7日、DVDでは「21番」となっていますが正式な公開題は「犯人は二十一番に住む」です。前書きのように感想文を簡略にしたいと思ったきっかけは本作が珍しいベルギー戦前の本格推理小説作家S・A・ステーマン(1908-1970)の同題の代表作('39年)の映画化作品でクルーゾーの出世作になった作品であり、ステーマンは戦前の日本ではそこそこ知られた作家で、'70年代に『マネキン人形殺害事件』(角川文庫)、『六死人』と本作の原作が新訳刊行されましたが(創元推理文庫)、古臭い二流の本格推理小説として珍作扱いされた作家です。ベルギー作家ですから犯罪心理サスペンスが主流のフランス語圏が生んだ本格推理小説作家としては珍重された存在ですが、少し年長の英米作家のエラリー・クイーンやJ・ディクスン・カーと較べても奇矯な犯罪の設定に工夫がある代わりに、本格推理小説としてはアンフェアなトリックを平然と使うので結末の解明まで読むと愕然となるのがステーマン作品の特徴で、意外性狙いでもこれでは悪い冗談ではないかと推理小説マニアの間ではネタ扱いされているような作風の作家です。F・W・ムルナウやフリッツ・ラングへの傾倒から映画人を志したというアンリ=ジョルジュ・クルーゾーはドイツ映画界でミステリー/サスペンス映画の脚本家からキャリアを始め、最初の脚本作品はステーマンの『六死人』の脚色でその後もステーマン作品を多く脚色しているそうですから、フランス映画界で本格的な監督デビュー作がステーマン原作の本作になったのもクルーゾーのドイツ時代のキャリアを買った映画会社とクルーゾーの双方にとってもっとも手堅い企画だったのでしょう。本作はまだ戦時下の作品ですが、クルーゾーは戦後フランスの新進映画監督ではルネ・クレマン(1913-1996)と並ぶ出世頭で、'53年の『恐怖の報酬』までに世界三大国際映画祭であるヴェネツィア国際映画祭、カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭のグランプリを制覇した最初の監督になったほどで、この興行的にも批評面でも成功を収めた本格的監督デビュー作『犯人は二十一番に住む』は本作推理小説のストレートな映画化作品ですから、冒頭に引いたDVDの紹介文程度の前知識で先入観なしに観るのがいちばんです。キネマ旬報の昭和23年の近着外国映画紹介では作品の性格もあって戦前の紹介文ほど長ったらしい詠嘆調ではありませんが、データ的観点から結末のトリックや犯人解明まで明かしているので、思わずネタにしたくなるような珍品本格推理映画の本作をまだ未見で原作も未読で、珍品本格推理小説並びに映画が好物の方はご覧になるまでここから先の紹介文は飛ばしてください。本作を原作・映画ともまず見ないだろうという方はこのままどうぞ。
[ 解説 ]「椿姫(1934)」「幻の馬車」のピエール・フレネーが主演する探偵映画で、S・A・ステーマン作の探偵小説を作者と監督のアンリ・ジョルジュ・クルーゾオが共同脚色したもの。クルーゾオは脚色者であった人、撮影は「にんじん」「最後の戦闘機」のアルマン・ティラール、音楽は「われ等の仲間」のモーリス・イヴェンの担当である。助演者は新進のシュジ・ドレール、「港の掠奪者」のピエール・ラルケ、「奥様は唄に首ったけ」のノエル・ロックヴェール、「珊瑚礁」のフロランシー、ジャン・ティシェ、オデット・タラザク、マクシミエンヌ、「どん底」のルネ・ジェナンらである。
[ あらすじ ] モンマルトル界隈で奇怪な殺人事件がひん発した。死体にデュラン氏と記した名刺が添えてあるのが常である。しかも警察は犯人の目星さえつかない。そこで本庁の名探偵ウエンス(ピエール・フレネー)が登場する。彼の愛人ミラ・マルウ(シュジ・ドレール)は女優志願だが、興行主に世間をアッといわせたら採用するといわれ、探偵の助手となった。六人目(ルネ・ジェナン)の殺人があった夜ウエンスは現場附近で、殺人者は二十一番地に住んでいることを知る。探偵はジュノオ街二十一番地の下宿屋に見当をつけ、神父に変装して下宿人となる。彼につづいてミラも下宿する。下宿屋ミモザ館の下宿人は小説を書いている老女キュック嬢(マクシミリエンヌ)、ララポール教授(ジャン・ティシェ)と名乗る奇術師、医者だというランツ(ノエル・ロックヴェール)、コラン氏(ピエール・ラルケ)、盲目の拳闘家キッド・ロバート(ジャン・デスポー)、その情婦ヴァニヤ(ユゲット・フィフィア)等奇妙な者ばかりで、女将ポアン夫人(オデット・タラザク)も変人に近い。ウエンスが何者であるかもすぐに見破られ、正体を見せざるを得なかった。皮肉にもキュック嬢の死体が浴槽の中で発見され、新聞活字でデュラン氏と名刺代りに置いてあった。 探偵のモネー(ルイ・フロランシー)はランツを疑ったが、ウエンスはコランを逮捕した。ところがその翌朝ウエンスは部屋の戸の外で、デュラン氏の名刺を握っている死体を発見した。コランは釈放された。勝ちほこったモネーはランツを逮捕した。そして責められたランツが白状した時、デュラン氏署名の殺人がさらに行われてランツは釈放された。下宿人が皆、疑いが晴れたので、ポアン夫人はミモザ館で祝賀会を開いた。ウエンスとミラも招待された。コランとランツとララポールはベートーヴェンの三重奏をはじめた。ウエンスは思い当る所があり外へ出たが、ララポールがピストルをつきつけ、建築中のビルの中庭に連れ込んだ。コランとランツも現れてウエンスの逃げ場はない。殺人者は三位一体であった。ウエンスが危くみえた時、ミラ・マルウが案内した警官隊が乗り込んだ。三悪人は手を挙げた。
 ――アメリカ推理小説の近代化をなしとげた推理作家ヴァン・ダインに推理小説の不文律を論じたエッセイがあり、その本旨は推理小説でこれをやるとアンフェアで読者は興醒めになるという推理小説読者の立場に立った説得力のある具体的な指摘なのですが、意外性のために下男や女中など脇役的な人物や小説の視点人物を犯人にしたり、共犯者や秘密の抜け穴・隠れ家を謎の決め手にしたり、未知や架空の武器や毒物による殺人や自殺は読者には推理しようがなく、犯罪動機は現実的で単純な方がよく(よって狂人や殺人狂を犯人にするのは正道から外れており)、連続殺人の犯人は単独犯であるべきで複数犯にするのはあまりに安易であると原則的には至極もっともな意見でした。アガサ・クリスティーや横溝正史は片っ端からヴァン・ダインの不文律を破って名作を書きまし、ヴァン・ダイン自身が上記の原則を必ずしも厳守しているとは言えないのですが、ステーマンの場合は不文律を破って迷作を書くのが芸風という面白い人で、本作では殺人現場に必ず犯人が名刺を残すという悪趣味な趣向が実は犯人側のトリックになっているのはいいのですが、ヴァン・ダインの不文律を逆手に取ったら何だか結局犯人は何が目的で犯行をくり返していたのかよくわからないような、動機にまったく説得力の欠けた連続殺人事件になってしまいました。アンフェアなだけでなく作者のハッタリだけが空回りしている珍品なのはそのせいですが、推理小説のようなエンターテインメントではそういうのもありなので、映画ではなおのこと生身の人間の演じるドラマで見せてくれるのですからなまじ本格推理小説仕立てのプロットだけに「なんちゃって本格ミステリー」ぶりが皮肉なユーモアさえかもし出しています。ステーマンの原作は本気で推理小説の常道を逆手に取った凝った作品を目指したものだと思いますが、クルーゾーの映画化は本格ミステリー映画の要素を満たしつつそのパロディにまで踏みこんでいて、そもそもクルーゾーが脚本家時代からステーマン作品の映画化に熱心だったのもステーマンの推理小説が豪快に出鱈目だったからに違いなく、6人の連続殺人などという『六死人』にしても、映画冒頭で6人目(!)の被害者の殺害シーンがありさらに3人が殺される本作も殺害人数だけでも冗談に近いので、現実の殺人事件はただただ陰惨なだけなのを思えばクルーゾーの映画はブラック・ユーモアの感覚で描かれた一種のユートピア映画で、このユートピアとは殺人事件が面白おかしいエンターテインメントとして展開される世界です。クルーゾーやルネ・クレマンが食えない職人なのはその点で、強烈な問題作を巧みに作りながら実は技術的な完成度だけを磨き上げた映画であることもこの両者には共通していて、クレマンの『禁じられた遊び』'52はブニュエルが手放しで絶賛した映画でありクルーゾーの『悪魔のような女』'55はヒッチコックが嫉妬した映画でした。もちろんそれはオーソン・ウェルズがデ・シーカの『靴みがき』'46を賞賛したのと同様、映画監督がちっとも私情を持ちこんでいない映画だからで、新しがりの谷崎潤一郎は70歳過ぎて『悪魔のような女』の日本公開をいち早く観て面白くてたまらず、改装したばかりの日本では最新の自宅の水洗トイレに大便を済ますたびに死体が風呂場から浮いてくる『悪魔のような女』の場面を思い出しながら水中のウンコをしげしげと眺める、というのをわざわざ短編小説に仕上げていますが、クルーゾーの映画では殺人事件は排便、死体はウンコのようなものなので谷崎潤一郎の悪趣味な感動は正確に勘所を押さえています。『犯人は二十一番に住む』はフランスがドイツ軍の占領下にあった時期の製作・公開ですが、これを正義による秩序の回復物語としてフランスのレジスタンス精神の暗喩と見るのはそれこそ悪い冗談でしょう。たとえクルーゾーにそういう媚びがあったとしてもです。

●9月12日(水)
『悪魔が夜来る』Les visiteurs du soir (Productions Andre Paulve, Scalera Films, 1942)*120min, B/W : 1942年12月5日フランス公開
監督:マルセル・カルネ(1906-1996)、主演:アルレッティ、マリー・デア、フェルナン・ルドー
・ユーグ公の城でアンヌ姫とルノーの婚約の祝宴が開かれていた。そこへジルとドミニクという美しい吟遊詩人が現れるが、正体は悪魔の使いだった。二人はそれぞれアンヌ姫とルノーを誘惑し、幸せを壊そうとするが……。

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 日本公開昭和23年(1948年)7月27日、これもキネマ旬報に熱い熱い近着外国映画紹介があり、後からご紹介しますが、本作はミケランジェロ・アントニオーニが助監督を勤めた作品としてもアントニオーニ出世後に知られるようになり、筆者はアントニオーニの映画は大好きですがマルセル・カルネの映画の大半は苦手です。だからと言って避けては通れない巨匠がカルネなので観る機会がある限り洩れなく観ることにしていて、日本公開作と映像ソフト発売作は十数本のほぼ全部、しかも二度三度観ているのですが、好きなカルネの映画は1本もない、せいぜい『ジェニイの家』'36、『北ホテル』'38と『夜の門』'46くらいしかないと白状しておきます。フランス映画史で外せない監督であり戦後間もない時期までのカルネ作品がことごとく名作視されているのも理解はできるのですが、これが駄目なのは自分の鑑賞眼の方に問題があるのだろうと匙を投げたくなるのが筆者にとってのカルネ映画で、とりわけ苦手、いっそ嫌いと言ってもいいのが本作『悪魔が夜来る』です。しかし筆者が少年時代から頼りにしている映画ガイドを上げると本作はカルネきっての名作として次作『天井桟敷の人々』'44に次ぐ名作中の名作とされており、筈見恒夫『映画作品辞典』(アテネ文庫・昭和29年刊)では「第二次大戦さなかにマルセル・カルネが監督した作品。(中略)……悪魔はナチス・ドイツに擬せられ、石となってもなお止まぬ心臓の鼓動に自由フランスの雄叫びが感じられた。(下略)」とされ、田中純一郎『日本映画発達史III・戦後映画の解放』(中央公論社・昭和32年刊)では「(前略)姫と男は相抱いたまま石像となったが、心臓は生きていて一つになり、悪魔が怒り狂っていくらむち打っても、鼓動しつづける。マルセル・カルネの試みたレジスタンス精神が、この象徴的な恋愛物語を通して知的に表現され、多くのインテリ・ファンに感動を与えた」と賞賛され、また本作は昭和23年度キネマ旬報ベストテン外国映画第7位でもありますが、キネマ旬報社刊の『フランス映画史』(岡田晋、田山力哉共著・昭和50年刊)ではクルーゾーの『密告』'43がフランスの田舎町を舞台にした風刺的なサスペンス映画だったことからドイツの映画会社によってフランス人の狭量な気質を描いた映画と喧伝され、「そのためクルーゾーは、戦時一時、対独協力者のようにいわれたが、政治的センスをもたぬ作家が、政治に利用されたとみるべきだろう」とした上で続けて「逆に今日、抵抗精神を高く評価されるのがマルセル・カルネである。彼は一九四二年、ジャック・プレヴェールのシナリオで『悪魔が夜来る』をつくったが、そこに誰にも犯されないフランス人の心をうたい上げた。有名なラスト・シーン……(中略)……悪魔はいうまでもなくヒトラーでありドイツである。石になっても魂を失わない恋人たちはフランスである。フランス人にだけわかる比喩を使って、ユダヤ人作家ときめつけられたカルネは、精一杯率直に自分の心情を語っている」としています。フランス人にだけわかる比喩がなぜ昭和23年の日本で多くのインテリ・ファンに感動を与えた作品でもあるのか困惑しますが、その公開当時のキネマ旬報近着外国映画紹介を見てみましょう。解説の「楽園の子供達」とはのち昭和27年に『天井桟敷の人々』として公開される作品のことです。
[ 解説 ] 戦後「楽園の子供達」で名をあげたマルセル・カルネの戦時中の一九四二年監督作品で、彼の処女作「ジェニイの家」の脚本を書いたジャック・プレヴェールが、ピエール・ラロシュと協力してシナリオを書卸した。撮影・装置ともに「悲恋」と同じくそれぞれロジェ・ユベール及びジョルジュ・ヴァケヴィッチが担当している。音楽は「山師ボオトラン」と同じくモーリス・ティリエ作曲、シャルル・ミュンク指揮で、パリ・コンセルヴァトワール交響楽団が演奏している。出演者は「あらし(1939)」のアルレッティ、「港の掠奪者」のジュール・ベリー、新人マリー・デア、アラン・キュニー及びマルセル・エラン、老朽フェルナン・ルドウ、ガブリエル・ガブリオ、ピエール・ラブリ等の顔ぶれである、なおこの映画は一九四二年フランス映画コンクールに第一席を占めた作品である。
[ あらすじ ] 十五世紀、中世の騎士道はなやかであったころのフランス。ユーグ男爵(フェルナン・ルドウ)どのの壮大な城では、姫のアンヌ(マリー・デア)と騎士ルノオ(マルセル・エラン)の婚約ひ露の宴がたけなわであった。近郷はもとより遠い旅の芸人たちも多勢集められて、色々の余興が席をにぎわせている中に、吟遊詩人の兄弟もまじっていた。しかし、まことは兄弟でも吟遊詩人でもなく、かつては恋人同志であった男女で、悪魔(ジュール・ベリー)に魂を売り、悪魔の命令をうけ、アンヌとルノオの幸福を破壊するためにつかわされた、悪魔の使者であった。男はジル(アラン・キュニー)、女はドミニック(アルレッティ)といった。ジルの歌はたちまちアンヌの心をとらえ、ドミニックの美しい脚はルノオの眼を奪った。宴も終って参会者一同が、みやびやかなダンスに打興じ始めたとき、ドミニックが静かに琴を鳴らすと、楽士は音楽を、踊る人々はダンスを、ピタリとやめて石像のように動かなくなった。ジルはアンヌの手を、ドミニックはルノオの手を、それぞれとって庭に立出で、恋をささやくと二人は恋の奴となり、婚約のことも忘れて了う。その夜ドミニックは男やもめのユーグ男爵の部屋に姿をあらわし、女であることを示して男爵の胸にも愛のほのおを燃え立たせた。しかしジルはひたむきに彼を愛するアンヌのまごころに動かされ、使命を忘れ果てて人間の本心にもどって彼女を愛する。悪魔は怒って旅の貴族を装って雷雨の一夜、城に乗込む。狩の日ルノオはドミニックと男爵のランデヴーの姿を見ると、しっとは烈しい仲たがいとなり、二人は決闘をすることとなった。野試合に事よせて真剣の勝負をしたが、悪魔の力添えで男爵が勝ち、若いルノオがあえなく殺された。男爵はもはやドミニックのとりこであった。悪魔の命令で城を去って行く彼女を追って、狂気の如くユーグ男爵は馬を走らせた。違約したジルはろうにつながれ、ろう番にむちうたれてもアンヌを愛する誠を捨てない。悪魔はジルを自由にしてやるから、おれのいうことをきけと彼女を口説いた。その甘言にのるなと叫ぶジルの痛々しい姿を見ると、やさしいアンヌは恋人をこれ以上苦しませたくないばかりに、悪魔の申出でを承知した。開放されたジルは一切を忘れて、アンヌがだれだかも分らず、城を出てゆく。アンヌはそれを見ても彼を愛する一念はかわらず、狩の日ジルと初めてキッスを交した泉のほとりへ、ただ一度だけ行かせてと悪魔に頼む。悪魔は怒ったが、彼女の願をかなえてやる。アンヌがジルに泉の水を手にくんで飲ませると、彼は愛するアンヌを思い出した。二人の愛が復活したのを見ると、悪魔はかんべん成らぬとばかり、二人とも石になれ!とのろった。ジルとアンヌは相抱いたまま石像となったが、二人の心臓は生きていて、一つに化し、一つの鼓動をうっている。狂ったように怒った悪魔は石像を烈しくむちうつ。しかも石像の心臓は鼓動し続けた。悪魔をあざけるようにいつまでも。
 ――キネマ旬報外国映画紹介、気合入っています。「ジルとアンヌは相抱いたまま石像となったが、二人の心臓は生きていて、一つに化し、一つの鼓動をうっている。(中略)……悪魔をあざけるようにいつまでも」と、戦前のセンスのままのサイレント映画の弁士口調です。カルネが監督デビュー作からずっとコンビを組んできたジャック・プレヴェールは詩人かつ名脚本家と名高い人ですし、デュヴィヴィエの『望郷』'37をすぐさま換骨奪胎したカルネの『霧の波止場』'38が『望郷』とは各段にきめ細かい映画になったのはプレヴェールの手腕が大きいですし、カルネ作品以外にもジャン・グレミヨンの名作『曳き船』'41は『霧の波止場』と同じジャン・ギャバンとミシェル・モルガンを主演にさらにしみじみとした情感のにじむ作品でした。しかし甘ったれた歴史メルヘン的寓話劇『悪魔が夜来る』はプレヴェール脚本でも最悪で、それを演出映像化したカルネのセンスも最悪なら、美術、撮影、音楽、俳優の配役と演技もこれほどひどい映画はすぐさま思いつかないほどで、カルネ作品でも戦後の凋落の一歩とされる『港のマリィ』'50でもまだ本作よりは軽い狙いの分ましではないでしょうか。何がどう間違ってこんな幼稚な発想の学芸会映画を力みかえって作ったものか、これがもし「レジスタンス精神」というものならのぼせ上がって客観性を失った錯乱の産物としか思えません。これだけ今回ひどい映画と見えたなら次に観る機会があればその時はまだしも見所が見えてくるでしょう。今回だって映画の冒頭しばらく、現実音と劇中音楽しか使わない演出に多少は期待して観たのです。映画をけなすのは本位でないので、本作を好きな方はごめんなさい。筆者はインテリの映画ファンではないのでこういう映画は苦手だというだけのことです。

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