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現代詩の起源・番外編 / 八木重吉「明日」

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(大正10年、東京高等師範学校卒業頃の八木重吉、満23歳)

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(手稿小詩集「ことば(大正14年6月7日)」より「あかんぼもよびな」直筆稿)

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  明 日         八 木 重 吉

まづ明日も目を醒まそう
誰れがさきにめをさましても
ほかの者を皆起すのだ
眼がハッキリとさめて気持ちもたしかになったら
いままで寝ていたところはとり乱してゐるから
この三畳の間へ親子四人あつまらう
富子お前は陽二を抱いてそこにおすわり
桃ちやんは私のお膝へおててをついて
いつものようにお顔をつっぷすがいいよ
そこで私は聖書をとり
馬太伝六章の主の祈りをよみますから
みんないっしよに祈る心にならう
この朝のつとめを
どうぞしてたのしい真剣なつとめとして続かせたい
さお前は朝飯のしたくにおとりかかり
私は二人を子守してゐるから
お互ひに心をうち込んでその務を果そう
もう出来たのか
では皆ご飯にしよう
桃子はアブちやんをかけてそこへおすわり
陽ちやんは母ちやんのそばへすわって
皆おいちいおいちいいって食べようね
七時半ごろになると
私は勤めに出かけねばならない
まだ本当にしっくり心にあった仕事とは思はないが
とにかく自分に出来るしごとであり
妻と子を養ふ糧も得られる
大勢の子供を相手の仕事で
あながちに悪るい仕事とも思はれない
心を尽せば
少しはよい事もできるかもしれぬ
そして何より意義のあると思ふことは
生徒たちはつまり『隣人』である
それゆえに私の心は
生徒たちにむかってゐるとき
大きな修練を経てゐるのだ
何よりも一人一人の少年を
基督其人の化身とおもわねばならぬ
そればかりではない
同僚も皆彼の化身とおもわねばならぬ
(自分の妻子もそうである)
そのきもちで勤めの時間をすごすのだ
その心がけが何より根本だ
絶えずあらゆるものに額(ぬか)づいてゐよう
このおもひから
存外いやなおもひも霽(は)れていくだらう
進んで自分も更に更に美しくなり得る望みが湧こう
そうして日日をくらしていったら
つまらないと思ったこの職も
他の仕事と比べて劣ってゐるとはおもわれなくもなるであらう、
こんな望みで進むのだ、
休みの時間には
基督のことをおもひすごそう、
夕方になれば
妻や子の顔を心にうかべ乍ら家路をたどる、
美しいつつましい慰めの時だ、
よく晴れた日なら
身体(からだ)いっぱいに夕日をあび
小学生の昔にかへったつもりで口笛でも吹きながら
雨ふりならば
傘におちる雨の音にききいりながら
砂利の白いつぶをたのしんであるいてこよう
もし暴風の日があるなら
一心に基督を念じてつきぬけて来よう、
そしていつの日もいつの日も
門口には六つもの瞳がよろこびむかへてくれる、
私はその日勤め先での出来事をかたり
妻は留守中のできごとをかたる
なんでもない事でもお互ひにたのしい
そして、お互ひに今日一日
神についての考へに誤りはなかったかをかんがへ合せてみよう
又それについて話し合ってみよう、
しばらくは
親子四人他愛のない休息の時である、
私も何もかもほったらかして子供の相手だ、
やがて揃って夕食をたべる、
ささやかな生活でも
子供を二人かかえてお互ひ夕暮れ時はかなり忙しい、
さあ寝るまでは又子供等の一騒ぎだ、
そのうち奴(やっ)こさん達ちは
倒れた兵隊さんの様に一人二人と寝入ってしまふ、
私等は二人で
子供の枕元で静かに祈りをしよう、
桃子たちも眼をあいてゐたらいっしよにするのだ
ほんとうに
自分の心に
いつも大きな花を持ってゐたいものだ
その花は他人を憎まなければ蝕まれはしない
他人を憎めば自ずとそこだけ腐れてゆく、
この花を抱いて皆ねむりにつこう、

 (手稿小詩集「晩秋」大正14年11月22日編より)

 現・東京都町田市出身の詩人、八木重吉(1898-1927)は生前に2冊の公刊詩集を編んでおり、第1詩集『秋の瞳』(全117編)は大正14年(1925年)8月に刊行されましたが、翌年八木は結核の進行の診断を受け、病床で編まれた第2詩集『貧しき信徒』(全103編)は生前の刊行が間に合わず、八木が昭和2年10月に亡くなった翌昭和3年(1928年)2月に遺稿詩集として追悼出版されました。その後『秋の瞳』と『貧しき信徒』からの抜粋に詩集未収録の詩誌発表詩、手稿原稿のまま遺されていた未発表詩を加えた選詩集が間を置いて数冊刊行されましたが、昭和33年(1958年)4月に彌生書房から刊行された『定本八木重吉詩集』は生前の2詩集に既発表・未発表の詩から選ばれた614編を加えて全834編を収録し、定本と名銘つ通り全詩集を意図したものでした。しかし『定本八木重吉詩集』刊行直後にさらに戦時中に刊行を果たせなかった大量の未発表詩稿が発見され、それらも『定本』を追補するものとして彌生書房から『花と空と祈り(新資料)』全360編として翌昭和34年12月に刊行されましたが、八木の詩稿の全貌が明らかになったのは八木没後55年を経た昭和57年(1982年)9月~12月刊行の初の『八木重吉全集』全3巻で、そこで『定本八木重吉詩集』では抄出だった未発表詩が実際には八木自身が公刊を予定せず小詩集単位でまとめていたものであり、肉筆原稿の現存する限りでも第1詩集『秋の瞳』の時期には大正10年春以来の詩稿をまとめた大正12年(1923年)1月~大正14年(1925年)3月までの小詩集40冊=1,455編があり、『秋の瞳』には書き下ろし20編が含まれ、さらに第2詩集『貧しき信徒』の時期には大正14年4月~詩集編纂の昭和2年(1927年)5月までに小詩集32冊=1,213編があり、2編が詩集書き下ろしであることも判明しました。上記だけで『定本』と『花と空と祈り(新資料)』を合わせた1,194編の倍以上の2,690編におよび、さらに八木自身によって破棄されたかもしれない詩稿、散佚した可能性のある詩稿を想像すると、八木自身が公刊を意図した詩集、全117編の『秋の瞳』と全103編の『貧しき信徒』は八木の書いた詩の10分の1程度だったということになります。

 八木重吉の詩はほとんどが短詩、それも10行にも満たないものが公刊された2詩集では大半で、極端なものは1~4行で、しかも凝集された短詩ほど八木の場合優れた詩が多いのはよく知られるところですが、全集で手稿小詩集を読むと、特に詩作の初期には必ずしも八木は短詩ばかりを書たのではなかったのがわかります。しかし公刊第1詩集『秋の瞳』編纂の頃には八木は自分の詩は短詩に本領があるのを自覚していたのが『秋の瞳』編纂中までにまとめていた40冊の小詩集からの選択から推察することができ、『貧しき信徒』の時期には小詩集にも八木は日録的な詩、生活訓や信仰(八木は熱烈な無教会派キリスト教信徒でした)信条的な詩以外はほとんど短詩に専念した詩人になりました。第2詩集『貧しき信徒』は『秋の瞳』よりさらに短詩に絞ってまとめられた詩集です。肉筆原稿の画像を掲載した短詩「あかんぼもよびな」はこの時期の現存する5番目の手稿小詩集「ことば」からですが、『貧しき信徒』の時期の手稿小詩集で珍しく長い詩が今回引いた「明日」です。「明日」を含む手稿小詩集「晩秋」は『貧しき信徒』期では現存する19番目の小詩集で、詩67編がまとめられ、うち生前に詩誌に発表された詩が3編あり、3編とも『貧しき信徒』に収録されました。


   森

 日がひかりはじめたとき
 森の中をみてゐたらば
 森のなかに祭のやうに人をすひよせるものをかんじた


   素朴な琴

 この明るさのなかへ
 ひとつの素朴な琴をおけば
 秋の美くしさに耐へかね
 琴はしづかに鳴りいだすだろう


   響(ひびき)

 秋はあかるくなりきつた
 この明るさの奥に
 しづかな響があるようにおもわれる


 ――この3編が大正14年11月22日編の手稿小詩集「晩秋」67編から八木の生前に詩誌に発表され、公刊第2詩集『貧しき信徒』に再収録されたもので、「森」は大正15年2月「詩之家」に大正15年1月4日編の手稿小詩集「野火」からの6編と合わせて7編同時発表され、「素朴な琴」「響(ひびき)」は同じ大正15年2月「若草」に総題「短詩集」4編として大正14年11月3日の手稿小詩集「赤い寝衣」からの2編と同時発表されました。八木の第1詩集『秋の瞳』をいち早く認め、それまで詩の投稿ばかりか同人誌参加すらしたことがなかった八木を同人に勧誘したのは「詩之家」を主宰していた当時の中堅詩人・佐藤惣之助で、八木はその恩義から佐藤の後で「銅鑼」(のちの「学校」「歴程」)に勧誘してきた草野心平には同人参加は遠慮し寄稿者にとどまるのですが、この大正15年2月の「詩之家」「若草」では「若草」では「素朴な琴」が4編の巻頭詩で、「詩之家」7編の巻頭詩は手稿小詩集「野火」からの次の詩でした。


   神の道

 自分が
 この着物さへも脱いで
 乞食のようになつて
 神の道にしたがわなくてもよいのか
 かんがへの末は必ずここへくる


 八木は詩誌への連続発表が病状悪化から叶わなくなるまで「詩之家」にはほとんど毎月発表を続け、「詩之家」には特に自信作を選んでいたと思われます。この「神の道」も八木の『貧しき信徒』期の代表作ですが、『貧しき信徒』の中でも抜きん出て名高い詩編になったのは「素朴な琴」で、アンソロジーへの編入や引用の頻度からも八木の最高の詩と見なされているようです。八木が小詩集「晩秋」から詩誌発表し、公刊詩集『貧しき信徒』に選出した「森」「素朴な琴」「響(ひびき)」の3編とも、また「晩秋」の中でも後期の八木には珍しい長詩「明日」より詩的凝集度では勝っているでしょう。長詩「明日」を短詩に凝縮したのが「神の道」なのも、赤ん坊の息子を描いて「明日」よりも「あかんぼもよびな」の方が鮮やかなのも明らかです。しかし短詩の単位では表現しきれないものを書こうとしているのも「明日」からは伝わってくるのは確かなので、もはや健康上の制約すらあった第2詩集『貧しき信徒』の編纂には短詩を断章にした連作詩集という意図もあったのではないかと思えるのです。

(引用詩は筑摩書房・昭和57年10月刊『八木重吉全集』第二巻に依り、かなづかい・小文字表記も原文に従いました。)

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