パブリック・ドメイン映画を廉価版DVD10枚組のボックス・セット(書籍扱い流通)で毎月2セット、リリースしているコスミック出版からのDVDは、今年4月にも『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』第1集~3集の全30本を観直しましたが、コスミック出版は以前にも『フランス映画名作コレクション』2巻を発売しており、『ジャン・ギャバンの世界』では5作が『フランス映画名作コレクション』と重複していました。今年5月、6月、7月に渡って発売された『フランス映画パーフェクトコレクション』の3集では『ジャン・ギャバンの世界』とは重複がありませんが『フランス映画名作コレクション』からは各巻3作ずつが重複していますが、コスミック出版のボックス・セットはパブリック・ドメイン版としてはマスターも良質で重複作品にもマスターの改善があり、他社の廉価版パブリック・ドメイン版よりも画質・音質に優れ、字幕翻訳もこなれていて読み易く、コンパクトな10枚組用ボックスでピクチャー・レーベル仕様でもあり、定評ある名作に併せてサッシャ・ギトリ、マックス・オフュルス、ジャック・ベッケルらの日本未公開、日本・世界初DVD化作品などの珍しい作品、廃盤・単品発売では高価な作品も収録され、しかも10枚組で2,000円を切る価格です。『フランス映画パーフェクトコレクション』は9月末に続巻が発売予定のようですが、3セット30本揃ったところで本国公開年代順に並べ直して観直してみることにしました。3セットの収録作品は、発売、収録順に、
[ フランス映画パーフェクトコレクション・天井桟敷の人々 ] 1. 天井桟敷の人々('45)、2. 巴里の空の下セーヌは流れる('51)、3. エドワールとキャロリーヌ('51)、4. 白い馬('53)、5. ル・ミリオン('31)、6. 外人部隊('34)、7. 犯人は21番に住む('42)、8. オルフェ('50)、9. 素晴らしき放浪者('32)、10. ブローニュの森の貴婦人たち('45)
[ フランス映画パーフェクトコレクション・巴里の屋根の下 ] 1. 禁じられた遊び('52)、2. にんじん('32)、3. 赤い手のグッピー('43)、4. 輪舞('50)、5. 巴里の屋根の下('30)、6. たそがれの女心('53)、7. あなたの目になりたい('43)、8. 肉体の悪魔('47)、9. 枯葉~夜の門~('46)、10. 花咲ける騎士道('52)
[ フランス映画パーフェクトコレクション・舞踏会の手帖 ] 1. ゲームの規則('39)、2. アタラント号('34)、3. 毒薬('51)、4. 自由を我等に('31)、5. ぼくの伯父さんの休暇('53)、6. 舞踏会の手帖('37)、7. 悪魔が夜来る('42)、8. パルムの僧院('48)、9. ミモザ館('35)、10. 双頭の鷲('48)
――前回の『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』全3集の30作はギャバンが主演作品で玉石混淆でしたが、それと今回の3集の30作で'30年~'50年代初頭のフランス映画の代表的作品はほとんど観られますし、漏れている作品も続巻以降に収録されていくでしょう。作品選択や著名作・隠れた名作の散らし方も確かな見識が働いてるのがわかり、コスミック出版の廉価版10枚組DVDボックスは『西部劇パーフェクトコレクション』『戦争映画パーフェクトコレクション』『ミュージカル・パーフェクトコレクション』『海賊映画パーフェクトコレクション』『ホラー映画パーフェクトコレクション』『冒険映画パーフェクトコレクション』など日本未公開、日本初・世界初DVD化作品の宝庫になっているので見逃せません。なお作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。
●9月1日(土)
『巴里の屋根の下』Sous les toits de Paris (Societe des Films Sonores Tobis, 1930)*90min, B/W : 1930年1月2日フランス公開
監督:ルネ・クレール(1898-1981)、主演:アルベール・プレジャン、ポーラ・イルリ
・街角で出会ったアルベールとポーラ。ある晩部屋の鍵をなくしたポーラは彼のアパートに泊めてもらうが、彼は泥棒に間違えられ刑務所送りに……。パリの下町で精一杯生きる人々の人情を描いた作品。
ルネ・クレールのトーキー作品第1作で日本公開昭和6年(1931年)5月31日、キネマ旬報ベストテン第2位。ちなみに外国映画のサウンド・トーキー作品に日本語訳スーパー字幕が開発・実施された最初の作品が同年2月11日公開の『モロッコ』'30で、キネマ旬報ベストテン第1位を獲得したのがジョセフ・フォン・スタンバーグ監督、ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒ主演の同作で、ルーベン・マムーリアン監督、ゲイリー・クーパー主演の『市街』'31が3位、クレールのトーキー作品第2作『ル・ミリオン』'31が第4位と続きます。スタンバーグ作品は5位に『間諜X27』'31、10位に『アメリカの悲劇』'31が入っていますから日本での本格的なトーキー作品の外国映画公開元年の昭和6年はスタンバーグとクレールの年でもあったと言えそうで、サウンド・トーキー映画の完成型を真っ先に見せたスタンバーグが『西班牙狂想曲』'34を最後に急激に凋落し、クレールも『最後の億万長者』'34の本国での不評(日本では2位の『外人部隊』を押さえてキネマ旬報ベストテン第1位)からイギリス~アメリカへと渡り、フランス映画界への復帰は戦後の『沈黙は金』'47になるのを思うと、サイレント期の業績も十分あるとはいえこの両者の全盛期の短さは日本映画に与えたスタンバーグとクレールの影響力を考えても感慨深いのですが、スタンバーグとクレールは一見まるで異なる作風の映画監督に見えて案外近い血筋だったのではないかと思えてきます。このボックス・セットの『巴里の屋根の下』は、続くクレール作品『ル・ミリオン』『自由を我等に』ともどもクレジット・タイトル前に「Nouvelle Edition」と出ますからいつの時点かわかりませんがニュー・プリント版が原版らしく他社から出ているDVDより鮮明な画質が嬉しく、2、3年前に他社からのDVDで観直した際には10代の頃に初めて観た時の感動はまったく蘇ってきませんでしたが、今回は良い画質の版で観直して少年時代の感動にも納得がいく気がしました。そして観ながら今年春先観直したばかりのスタンバーグ作品を思い出さずにはいられませんでした。スタンバーグの異国情緒と悲劇性はクレールのパリの下町情緒と人情味とはかけ離れて見えますが、映画作品の虚構の基礎が感覚的な審美性にあり、美的感覚では徹底しているのにほとんど内容らしい内容がないことでもスタンバーグとクレールは似ていて、この場合内容というのは虚構の中にも存在し得る生命的な真実性を指します。一言で言えば作り物ということですが、たいがいの映画はかりそめにでも人生観や生活訓を挿しこんでしまうのにスタンバーグやクレールは審美的感覚からそういうことはしないし、また観客に伝えたいのも美的感覚以上のものではないでしょう。その点スタンバーグの方が徹底しているのは悲劇性すら審美的な様式でしかないからで、クレールの人情味はクレールの人柄から来る自然な持ち味に感じられます。本作がどのように日本に紹介されたかは公開当時のキネマ旬報の「近着外国映画紹介」の記載があるので、引いてみます。
[ 解説 ]「幕間」「イタリアの麦藁帽子」「二人の臆病男」の監督者としてフランス映画界に於て最も注目されているルネ・クレール氏の第一回全発声作品で、氏自ら原作脚色台詞を執筆したものである。キャメラは「燈台守」のジョルジュ・ペリナール氏がローレエ氏を助手としてクランクし、前衛派のジョルジュ・ラコンブ氏がマルセル・カルネ氏、ウッサン氏、ド・シャーク氏と共に助監督をつとめている。主役は「ヴェルダン 歴史の幻想」のアルベール・プレジャン氏が演じ新進のポーラ・イレリー嬢、「カルメン(1926)」「東洋の秘密」のガストン・モド氏が助演し、エドモンド・グレヴィル氏、ビル・ボケッツ氏、ポール・オリヴィエ氏等も出演している。台詞はフランス語である。
[ あらすじ ] パリの場末の裏町に二人の若者が住んでいる。アルベエル(アルベール・プレジャン)は歌を歌って歌譜を売るのが商売、ルイ(エドモン・T・グレヴィル)は露店商人である。二人はいつも連立っているので美しいルーマニア娘のポーラ(ポーラ・イルリ)に逢った時も一緒だった。そこで彼等は彼女に挨拶をする者を賽ころで決める。しかしその間に界隈の不良の親分フレッド(ガストン・モド)が彼女をカフェに誘い入れて了う。翌日アルベエルは歌を売っていて聴衆の中にポーラを見出して近づきになるがフレッドが出現したので手をひく。フレッドはポーラを好餌と目して口説きにかかると、彼女はフレッドの荒っぽさに心を惹かれ、晩にはダンスへ行くことを承諾する。其晩バル・ミュゼットでアルベエルとルイとは彼女がフレッドと踊っているのを見て失望する。フレッドは素早くポーラの部屋の鍵を彼女の手提げ袋から抜取って了い彼女に無理に接吻しようとする。ポーラは怒ってフレッドの頬を打ってダンス場を跳出して了う。アルベエルはルイと別れて帰る途上彼女と出会い、うちに帰るにも鍵を取られて困っているポーラに自分の宿に来いと勧める。彼女は彼の招待を受けた。其夜二人は寝台を挟んで床の上に別々に寝た。これが縁となりポーラはアルベエルの愛情にほだされて結婚することになる。嬉しさに有頂点となった彼は準備を始める。が彼の知合いの泥棒(ビル・ボケッツ)から贓品がはいっていると知らないで鞄を預かっていたために窃盗の嫌疑をうけてアルベエルは拘引投獄される。自分の荷物を纏めてアルベエルの許へ来ようとしたポーラは彼が曵かれて行く姿を見た。彼が二週間入牢している間にポーラはルイと親しくなり夢中に惚れて了う。そして彼に対する嫉妬からフレッドに誘われるままにミュゼットに踊りに行く。その日はアルベエルが無罪放免された日だった。彼は酔ってミュゼットに行きフレッドが怒りの眼を剥いているのに関せずポーラと踊った。当然の結果裏町の一隅で決闘が始まる。多勢に無勢でアルベエルが危ないところをポーラの急報を受けて駆けつけたルイの機転の発砲で助かる。騒ぎを聞いて集まった警官達にフレッド一味は一網打尽される。カフェに落付いて無事を悦び合ったアルベエルはポーラがルイと深く愛し合っているのを知って、親友に彼女を譲った。翌る日いつもの街角で歌を売るアルベエルは妙に淋しそうに見えた。
――台詞はフランス語、とあるのはサイレント時代、またトーキー最初期にはヨーロッパ映画は国際版として日本公開版は英語版だったことも多かったので、本作(また、続くクレール作品)のようなセミ・ミュージカル仕立ての場合フランス語原版であることも重要だったからです。冒頭、楽譜売りの主人公が路上で営業中に(こうした、街角でアコーディオン伴奏で歌を歌い、楽譜を売る商売の景色も日本の観客にはフランス文化への憧憬を誘ったでしょう)スリがせっせと客の時計や財布をする場面はつい先月観てきたロン・チェイニー主演映画の情景を思い出しましたが(このスリの存在が映画後半、主人公が入獄するきっかけを作ることになります)、'20年代のロン・チェイニー主演映画は暗い情念にどろっとしていたので、アメリカの大衆映画でさえ実はサイレント時代は明朗快活な作品など主流ではなかったのはリリアン・ギッシュ映画やグレタ・ガルボ映画が悲劇ばかりだったことでも想像でき、メアリー・ピックフォード主演映画の名作『雀』'26でも沼地の中の強制労働孤児施設からの決死の脱出劇で、悪党たちは底なし沼にはまって死にます。喜劇映画が一方にあったにせよアメリカ映画のドラマ作品はサイレント時代にはハッピーエンドに終わる映画でも決して明るくはなかったと言えそうで、その極みみたいなチェイニー映画(しかも続いてカール・Th・ドライヤーの映画を観直してもいます)の記憶が新しいうちに『巴里の屋根の下』を観ると、クレールの映画の明るさ、軽やかさがトーキー時代の幕開けにどれほど新鮮だったか痛感します。スタンバーグが鬼才だったとすればクレールは才人の典型みたいな映画監督だったでしょうし、両者がほぼ同時に画期的なサウンド・トーキー作品を作り、数年のうちに凋落したのは才能の磨耗というより表現領域の幅が広くなかっただけで、本作のラザール・メールソンによる映画全景のセット美術は手法こそ違え現代のコンピューター・グラフィック技術を発想面では先取りしたものです(クレールは「手帳サイズで映画を観られる技術」を予言した人でもありました)。クレール映画のパリがいかに虚構のパリであるかはルノワールの『素晴らしき放浪者』'32やアナトール・リトヴァクの『リラの心』'32のロケーション撮影のうす汚いパリを観ても目が覚めるようで、スタンバーグと行き詰まり方が違ったのはそうした映画世界の理想化にあったと思われます。フランス本国より現在では日本を筆頭とした国外での映画史的評価の方が高いのもそこにあり、より徹底した審美主義映画監督スタンバーグの再評価に及ばないのもスタンバーグの非情な作家性に対してクレールの映画が甘さを残しているからと思います。しかし全景セット撮影にしても、それが古びて観えようと、この映画の軽やかさ、伸びやかさはまばゆいもので、すべての映画が格別の名作でなくてもいいではありませんか。
●9月2日(日)
『ル・ミリオン』Le Million (Films Sonores Tobis, 1931)*81min, B/W : 1931年4月15日フランス公開
監督:ルネ・クレール(1898-1981)、主演:アナベラ、ルネ・ルフェーブル
・借金だらけの貧乏な画家ミシェルがある日、宝くじで大当たりする。しかし肝心のくじが見当たらない。ボロ上着のポケットに入れたのを思い出すが、上着は恋人のベアトリスが持っていて、困っていた老人にあげてしまい……。
本作は'67年にカナダのオタワの映画保存協会の世界40か国の批評家アンケートで「映画史上の喜劇映画ベストテン」を選出し、本作は第7位(実質的には6位タイ)に選ばれました。参考までにベストテンを上げると、第1位『黄金狂時代』'25、第2位『キートンの大列車追跡』'26、第3位『オペラは踊る』'35、第4位『ぼくの伯父さんの休暇』'53、第5位『吾輩はカモである』'33、第5位(タイ)『モダン・タイムス』'36、第7位『ル・ミリオン』'31、第7位(タイ)『マダムと泥棒』'55、第9位『イタリア麦の帽子』'27、第10位『ロイドの要心無用』'23となっています。戦後作品『ぼくの伯父さんの休暇』と『マダムと泥棒』は穏当な作品に花を持たせたというところで、クレール作品は『ル・ミリオン』とサイレント作品『イタリア麦の帽子』が選出されているのが目を惹きます。チャップリン、ロイド、キートン、マルクス兄弟は順当で、『黄金狂時代』とともに選ばれているのが『モダン・タイムス』、またマルクス兄弟では『オペラは踊る』が『吾輩はカモである』より上位なのは現在では異論を呼ぶでしょう。クレール作品でも喜劇映画としてはサイレント作品『イタリア麦の帽子』の方がセミ・ミュージカル仕立ての『ル・ミリオン』より純度は高いと言えますが、トーキー喜劇としての大胆な試みとしては『ル・ミリオン』は斬新な成功作になったので、当時まだ現役監督の長老格だったクレールへの敬意を表した2作入選だったのだろうと思われます。ミュージカル度は前作『巴里の屋根の下で』よりぐっと高く、映画は主人公の宝くじ当選を祝う祝宴から回想形式の枠物語の体裁で冒頭場面の続きに戻って終わりますが、歌い踊る下町の人々の群集劇としての側面もありますし、バレリーナのヒロインが行為で警官に追われた実は老スリのスリ集団の親玉チューリップ爺さんことクロシャール(ポール・オリヴィエ)に当選した宝くじが裏ポケットに入っていると知らずに主人公のボロ上着を与えてしまい、盗品販売店を開いているクロシャールがオペラ『ラ・ボエーム』でボヘミアンのボロ衣装を探しに来たオペラ歌手ソプラネリ(コンスタンティン・ストレスコ)に売ってしまうので主人公と、主人公を出し抜こうとする友人プロスペル(ルイ・アリベール)が恋人アナベラ、モデルのヴァンダを巻き込み、さらにスリ集団が上着を狙って大混乱になる、という話で、百万長者の宝くじをめぐる金銭欲の風刺という要素こそあれ、内容がないと言えば前作『巴里の屋根の下』に輪をかけて無内容な映画ですが、これはもともとそういう狙いの映画なのです。日本公開昭和6年(1931年)9月29日の本作は前述の通りキネマ旬報ベストテン第4位に輝きましたが、これも公開当時のキネマ旬報の近着外国映画紹介を引いてみましょう。
[ 解説 ]「巴里の屋根の下」に次ぐルネ・クレール作品で、ジョルジュ・ベル、マルセル・ギュモー合作の喜劇に基いてクレールが台本を作った。キャメラも前作と同じくジョルジュ・ペリナールとジョルジュ・ローレの担任。歌詞もクレールが執筆し、アルマン・ベルナール、ジョルジュ・ヴァン・パリス及びフィリップ・パレが作曲した。主演俳優は舞台出身のエネ・ルフェーヴル、アベン・ガンスに見出されたアナベラ及びヴァンダ・グレヴィルがそれぞれ娘役と妖婦役とを勤め、「巴里の屋根の下」のルイ・アリベール、ポール・オリヴィエ、歌劇俳優のコンスタンティン・ストレスコ等が助演。
[ あらすじ ] パリ、モンマルトルの小汚いアパートの一室を画家のミシェル(ルネ・ルフェーヴル)と彫刻家のプロスペル(ルイ・アリベール)とは共同のアトリエとしている。ミシェルには許嫁がある。ベアトリス(アナベラ)というオペラ・リリック座のダンサーでミシェル等のアトリエと向き合った部屋に彼女は住んでいる。というのはミシェルがかなり浮気だったからで、今朝も彼女は繕ってやった古い上着を持って来てやるとミシェルは美しい有閑婦人ヴァンダ(ヴァンダ・グレヴィル)と抱合っているので怒って了う。そして警官に追われて彼女の部屋に逃込んできたスリの親分クロシャール(ポール・オリヴィエ)に気前よく其の上着を遣った。一方ミシェルは大勢の借金取りに攻められているとプロスペルが富くじが当ったといって駆込んでくる。ミシェルは百万フランの金持ちになって跳んで喜んだが、肝腎の富くじ券が見つからない。やっと古い上着のポケットに仕舞い忘れていたのを思い出したが、その時にはクロシャールはオペラ・リリック座のテノール歌手ソプラネリ(コンスタンティン・ストレスコ)に売払っていた。でミシェルがクロシャールの骨董店へ行って尋ねるとクロシャールはソプラネリから掏摸取った時計を見せて、此の時計の持主に売ったという。そこへソプラネリの訴えで警官がやって来て、ミシェルを掏摸と間違えて警察へ引張られ留置場に投込まれる。身分を証明して貰うつもりで呼んで貰ったプロスペルは上着の行方だけきくとミシェルは見たことも無い男だと証言する。プロスペルは先に富くじ券を見付けたら半分貰う約束をしたので是が非でも、先に手に入れるつもりなのだ。でミシェルは借金取り連中を呼んでやっと証明して貰って釈放された。それからオペラ・リリック座の楽屋裏で、ミシェル、プロスペル、それにクロシァールの部下大勢がソプラネリが舞台に着て出ている上着を取ろうとして大騒ぎを起す。が結局上着はミシェルとベアトリスが乗ったタクシーの屋根の上にあったのである。それと気付いて取るとクロシャールの部下が拳銃をつきつけて奪って了った。ミシェルの部屋では借金取りや近所の人達が集まって景気よくシャンパンを飲んで浮かれている。ミシェルか落胆して富くじ券は見つからない、と言おうとするところへ、クロシャールが持って来てくれたので、ミシェルは始めて陽気になった。
――ルネ・クレール(1898-1981)はのちの映画史家ジョルジュ・サドゥールにより、フランス'30年代の「詩的リアリズム」の映画監督として、ジャック・フェデー(1885-1948)、ジャン・ルノワール(1894-1979)、ジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)、マルセル・カルネ(1906-1996)と並ぶ5大大家とされましたが、最年少のカルネは21歳年上のフェデーの助監督出身であり、クレールはデュヴィヴィエより2歳年下ですがサイレント時代の商業映画経験はデュヴィヴィエよりずっと少なく、またデュヴィヴィエより2歳年上のルノワールはサイレント時代の第1作から自己の独立プロの監督でした。年齢的に開きがあるばかりでなく、フランス'30年代の「詩的リアリズム」映画の特徴は主な脚本家をシャルル・スパーク(1903-1975)、ジャック・プレヴェール(1900-1977)とする「ペシミスティックでメランコリックな犯罪メロドラマ」とされますが、スパークが'30年代に脚本を提供したのはフェデー(『外人部隊』'33、『ミモザ館』'34、『女だけの都』'35)、デュヴィヴィエ(『地の果てを行く』'35、『我等の仲間』'36、『旅路の果て』'39)、ルノワール(『どん底』'36、『大いなる幻影』'37)の3者でカルネ作品は戦後作『嘆きのテレーズ』'52のみになり、プレヴェールの'30年代脚本提供はルノワールの『ランジュ氏の犯罪』'36以外はカルネの監督デビュー作『ジェニイの家』'36から戦後作『枯葉~夜の門』'46までカルネ専属で、例外的にジャン・グレミヨン(1902-1959)監督作『曳き船』'41、『高原の情熱』'44があり、スパークもグレミヨン作品『愛慾』'37、『不思議なヴィクトル氏』'38の脚本家ですが、グレミヨンはメランコリックな作風と作品の質の高さにもかかわらず主要な「詩的リアリズム」の監督とはされません。スパーク脚本作品でもルノワール作品はメランコリックでもペシミスティックでも犯罪メロドラマでもなく、デュヴィヴィエの'30年代作品でも『白き処女地』'34、『ゴルゴダの丘』'35、『望郷』'37、『舞踏会の手帖』'37などがスパーク脚本ではありません。ルネ・クレールはスパーク脚本・プレヴェール脚本作品もなければメランコリックでもペシミスティックでも犯罪メロドラマでもなく「詩的リアリズム」の定義から外れますし、フェデー作品ではスパークの役割はフェデーとの共同脚本で、サイレント時代からの巨匠フェデーを'30年代のスパーク共同脚本作品3作だけで'30年代の「詩的リアリズム」映画監督と見なすには無理があるでしょう。ルノワールの『十字路の夜』'32、『トニ』'35、『獣人』'38などはグレミヨンの『愛慾』『曳き船』同様、詩的どころではない純然たるリアリズム映画ですし、結局サドゥールの言う'30年代「詩的リアリズム」の「メランコリックでペシミスティックな犯罪メロドラマ」映画はデュヴィヴィエとカルネの一部の作品、煎じつめればデュヴィヴィエの『地の果てを行く』'35と『望郷』'37、カルネの『霧の波止場』'38と『陽は昇る』'39くらいのものでしょう。ただし当時の狭いフランス映画界は映画人同士は仲間意識でとても親しかったそうで、この楽しい映画『ル・ミリオン』のヒロイン、アナベラは本作で人気女優になり、ジャン・ギャバンの出世作のひとつで外人部隊ものの『地の果てを行く』はクレジット上はアナベラ主演作品、ギャバンはまだクレジット序列2番目になります。『地の果てを行く』のアナベラもなかなか好演なのですが、『ル・ミリオン』の溌剌とした庶民の端役バレリーナ役のアナベラがと思うと、「詩的リアリズム」映画の功罪を思わずにはいられません。
[ フランス映画パーフェクトコレクション・天井桟敷の人々 ] 1. 天井桟敷の人々('45)、2. 巴里の空の下セーヌは流れる('51)、3. エドワールとキャロリーヌ('51)、4. 白い馬('53)、5. ル・ミリオン('31)、6. 外人部隊('34)、7. 犯人は21番に住む('42)、8. オルフェ('50)、9. 素晴らしき放浪者('32)、10. ブローニュの森の貴婦人たち('45)
[ フランス映画パーフェクトコレクション・巴里の屋根の下 ] 1. 禁じられた遊び('52)、2. にんじん('32)、3. 赤い手のグッピー('43)、4. 輪舞('50)、5. 巴里の屋根の下('30)、6. たそがれの女心('53)、7. あなたの目になりたい('43)、8. 肉体の悪魔('47)、9. 枯葉~夜の門~('46)、10. 花咲ける騎士道('52)
[ フランス映画パーフェクトコレクション・舞踏会の手帖 ] 1. ゲームの規則('39)、2. アタラント号('34)、3. 毒薬('51)、4. 自由を我等に('31)、5. ぼくの伯父さんの休暇('53)、6. 舞踏会の手帖('37)、7. 悪魔が夜来る('42)、8. パルムの僧院('48)、9. ミモザ館('35)、10. 双頭の鷲('48)
――前回の『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』全3集の30作はギャバンが主演作品で玉石混淆でしたが、それと今回の3集の30作で'30年~'50年代初頭のフランス映画の代表的作品はほとんど観られますし、漏れている作品も続巻以降に収録されていくでしょう。作品選択や著名作・隠れた名作の散らし方も確かな見識が働いてるのがわかり、コスミック出版の廉価版10枚組DVDボックスは『西部劇パーフェクトコレクション』『戦争映画パーフェクトコレクション』『ミュージカル・パーフェクトコレクション』『海賊映画パーフェクトコレクション』『ホラー映画パーフェクトコレクション』『冒険映画パーフェクトコレクション』など日本未公開、日本初・世界初DVD化作品の宝庫になっているので見逃せません。なお作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。
●9月1日(土)
『巴里の屋根の下』Sous les toits de Paris (Societe des Films Sonores Tobis, 1930)*90min, B/W : 1930年1月2日フランス公開
監督:ルネ・クレール(1898-1981)、主演:アルベール・プレジャン、ポーラ・イルリ
・街角で出会ったアルベールとポーラ。ある晩部屋の鍵をなくしたポーラは彼のアパートに泊めてもらうが、彼は泥棒に間違えられ刑務所送りに……。パリの下町で精一杯生きる人々の人情を描いた作品。
ルネ・クレールのトーキー作品第1作で日本公開昭和6年(1931年)5月31日、キネマ旬報ベストテン第2位。ちなみに外国映画のサウンド・トーキー作品に日本語訳スーパー字幕が開発・実施された最初の作品が同年2月11日公開の『モロッコ』'30で、キネマ旬報ベストテン第1位を獲得したのがジョセフ・フォン・スタンバーグ監督、ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒ主演の同作で、ルーベン・マムーリアン監督、ゲイリー・クーパー主演の『市街』'31が3位、クレールのトーキー作品第2作『ル・ミリオン』'31が第4位と続きます。スタンバーグ作品は5位に『間諜X27』'31、10位に『アメリカの悲劇』'31が入っていますから日本での本格的なトーキー作品の外国映画公開元年の昭和6年はスタンバーグとクレールの年でもあったと言えそうで、サウンド・トーキー映画の完成型を真っ先に見せたスタンバーグが『西班牙狂想曲』'34を最後に急激に凋落し、クレールも『最後の億万長者』'34の本国での不評(日本では2位の『外人部隊』を押さえてキネマ旬報ベストテン第1位)からイギリス~アメリカへと渡り、フランス映画界への復帰は戦後の『沈黙は金』'47になるのを思うと、サイレント期の業績も十分あるとはいえこの両者の全盛期の短さは日本映画に与えたスタンバーグとクレールの影響力を考えても感慨深いのですが、スタンバーグとクレールは一見まるで異なる作風の映画監督に見えて案外近い血筋だったのではないかと思えてきます。このボックス・セットの『巴里の屋根の下』は、続くクレール作品『ル・ミリオン』『自由を我等に』ともどもクレジット・タイトル前に「Nouvelle Edition」と出ますからいつの時点かわかりませんがニュー・プリント版が原版らしく他社から出ているDVDより鮮明な画質が嬉しく、2、3年前に他社からのDVDで観直した際には10代の頃に初めて観た時の感動はまったく蘇ってきませんでしたが、今回は良い画質の版で観直して少年時代の感動にも納得がいく気がしました。そして観ながら今年春先観直したばかりのスタンバーグ作品を思い出さずにはいられませんでした。スタンバーグの異国情緒と悲劇性はクレールのパリの下町情緒と人情味とはかけ離れて見えますが、映画作品の虚構の基礎が感覚的な審美性にあり、美的感覚では徹底しているのにほとんど内容らしい内容がないことでもスタンバーグとクレールは似ていて、この場合内容というのは虚構の中にも存在し得る生命的な真実性を指します。一言で言えば作り物ということですが、たいがいの映画はかりそめにでも人生観や生活訓を挿しこんでしまうのにスタンバーグやクレールは審美的感覚からそういうことはしないし、また観客に伝えたいのも美的感覚以上のものではないでしょう。その点スタンバーグの方が徹底しているのは悲劇性すら審美的な様式でしかないからで、クレールの人情味はクレールの人柄から来る自然な持ち味に感じられます。本作がどのように日本に紹介されたかは公開当時のキネマ旬報の「近着外国映画紹介」の記載があるので、引いてみます。
[ 解説 ]「幕間」「イタリアの麦藁帽子」「二人の臆病男」の監督者としてフランス映画界に於て最も注目されているルネ・クレール氏の第一回全発声作品で、氏自ら原作脚色台詞を執筆したものである。キャメラは「燈台守」のジョルジュ・ペリナール氏がローレエ氏を助手としてクランクし、前衛派のジョルジュ・ラコンブ氏がマルセル・カルネ氏、ウッサン氏、ド・シャーク氏と共に助監督をつとめている。主役は「ヴェルダン 歴史の幻想」のアルベール・プレジャン氏が演じ新進のポーラ・イレリー嬢、「カルメン(1926)」「東洋の秘密」のガストン・モド氏が助演し、エドモンド・グレヴィル氏、ビル・ボケッツ氏、ポール・オリヴィエ氏等も出演している。台詞はフランス語である。
[ あらすじ ] パリの場末の裏町に二人の若者が住んでいる。アルベエル(アルベール・プレジャン)は歌を歌って歌譜を売るのが商売、ルイ(エドモン・T・グレヴィル)は露店商人である。二人はいつも連立っているので美しいルーマニア娘のポーラ(ポーラ・イルリ)に逢った時も一緒だった。そこで彼等は彼女に挨拶をする者を賽ころで決める。しかしその間に界隈の不良の親分フレッド(ガストン・モド)が彼女をカフェに誘い入れて了う。翌日アルベエルは歌を売っていて聴衆の中にポーラを見出して近づきになるがフレッドが出現したので手をひく。フレッドはポーラを好餌と目して口説きにかかると、彼女はフレッドの荒っぽさに心を惹かれ、晩にはダンスへ行くことを承諾する。其晩バル・ミュゼットでアルベエルとルイとは彼女がフレッドと踊っているのを見て失望する。フレッドは素早くポーラの部屋の鍵を彼女の手提げ袋から抜取って了い彼女に無理に接吻しようとする。ポーラは怒ってフレッドの頬を打ってダンス場を跳出して了う。アルベエルはルイと別れて帰る途上彼女と出会い、うちに帰るにも鍵を取られて困っているポーラに自分の宿に来いと勧める。彼女は彼の招待を受けた。其夜二人は寝台を挟んで床の上に別々に寝た。これが縁となりポーラはアルベエルの愛情にほだされて結婚することになる。嬉しさに有頂点となった彼は準備を始める。が彼の知合いの泥棒(ビル・ボケッツ)から贓品がはいっていると知らないで鞄を預かっていたために窃盗の嫌疑をうけてアルベエルは拘引投獄される。自分の荷物を纏めてアルベエルの許へ来ようとしたポーラは彼が曵かれて行く姿を見た。彼が二週間入牢している間にポーラはルイと親しくなり夢中に惚れて了う。そして彼に対する嫉妬からフレッドに誘われるままにミュゼットに踊りに行く。その日はアルベエルが無罪放免された日だった。彼は酔ってミュゼットに行きフレッドが怒りの眼を剥いているのに関せずポーラと踊った。当然の結果裏町の一隅で決闘が始まる。多勢に無勢でアルベエルが危ないところをポーラの急報を受けて駆けつけたルイの機転の発砲で助かる。騒ぎを聞いて集まった警官達にフレッド一味は一網打尽される。カフェに落付いて無事を悦び合ったアルベエルはポーラがルイと深く愛し合っているのを知って、親友に彼女を譲った。翌る日いつもの街角で歌を売るアルベエルは妙に淋しそうに見えた。
――台詞はフランス語、とあるのはサイレント時代、またトーキー最初期にはヨーロッパ映画は国際版として日本公開版は英語版だったことも多かったので、本作(また、続くクレール作品)のようなセミ・ミュージカル仕立ての場合フランス語原版であることも重要だったからです。冒頭、楽譜売りの主人公が路上で営業中に(こうした、街角でアコーディオン伴奏で歌を歌い、楽譜を売る商売の景色も日本の観客にはフランス文化への憧憬を誘ったでしょう)スリがせっせと客の時計や財布をする場面はつい先月観てきたロン・チェイニー主演映画の情景を思い出しましたが(このスリの存在が映画後半、主人公が入獄するきっかけを作ることになります)、'20年代のロン・チェイニー主演映画は暗い情念にどろっとしていたので、アメリカの大衆映画でさえ実はサイレント時代は明朗快活な作品など主流ではなかったのはリリアン・ギッシュ映画やグレタ・ガルボ映画が悲劇ばかりだったことでも想像でき、メアリー・ピックフォード主演映画の名作『雀』'26でも沼地の中の強制労働孤児施設からの決死の脱出劇で、悪党たちは底なし沼にはまって死にます。喜劇映画が一方にあったにせよアメリカ映画のドラマ作品はサイレント時代にはハッピーエンドに終わる映画でも決して明るくはなかったと言えそうで、その極みみたいなチェイニー映画(しかも続いてカール・Th・ドライヤーの映画を観直してもいます)の記憶が新しいうちに『巴里の屋根の下』を観ると、クレールの映画の明るさ、軽やかさがトーキー時代の幕開けにどれほど新鮮だったか痛感します。スタンバーグが鬼才だったとすればクレールは才人の典型みたいな映画監督だったでしょうし、両者がほぼ同時に画期的なサウンド・トーキー作品を作り、数年のうちに凋落したのは才能の磨耗というより表現領域の幅が広くなかっただけで、本作のラザール・メールソンによる映画全景のセット美術は手法こそ違え現代のコンピューター・グラフィック技術を発想面では先取りしたものです(クレールは「手帳サイズで映画を観られる技術」を予言した人でもありました)。クレール映画のパリがいかに虚構のパリであるかはルノワールの『素晴らしき放浪者』'32やアナトール・リトヴァクの『リラの心』'32のロケーション撮影のうす汚いパリを観ても目が覚めるようで、スタンバーグと行き詰まり方が違ったのはそうした映画世界の理想化にあったと思われます。フランス本国より現在では日本を筆頭とした国外での映画史的評価の方が高いのもそこにあり、より徹底した審美主義映画監督スタンバーグの再評価に及ばないのもスタンバーグの非情な作家性に対してクレールの映画が甘さを残しているからと思います。しかし全景セット撮影にしても、それが古びて観えようと、この映画の軽やかさ、伸びやかさはまばゆいもので、すべての映画が格別の名作でなくてもいいではありませんか。
●9月2日(日)
『ル・ミリオン』Le Million (Films Sonores Tobis, 1931)*81min, B/W : 1931年4月15日フランス公開
監督:ルネ・クレール(1898-1981)、主演:アナベラ、ルネ・ルフェーブル
・借金だらけの貧乏な画家ミシェルがある日、宝くじで大当たりする。しかし肝心のくじが見当たらない。ボロ上着のポケットに入れたのを思い出すが、上着は恋人のベアトリスが持っていて、困っていた老人にあげてしまい……。
本作は'67年にカナダのオタワの映画保存協会の世界40か国の批評家アンケートで「映画史上の喜劇映画ベストテン」を選出し、本作は第7位(実質的には6位タイ)に選ばれました。参考までにベストテンを上げると、第1位『黄金狂時代』'25、第2位『キートンの大列車追跡』'26、第3位『オペラは踊る』'35、第4位『ぼくの伯父さんの休暇』'53、第5位『吾輩はカモである』'33、第5位(タイ)『モダン・タイムス』'36、第7位『ル・ミリオン』'31、第7位(タイ)『マダムと泥棒』'55、第9位『イタリア麦の帽子』'27、第10位『ロイドの要心無用』'23となっています。戦後作品『ぼくの伯父さんの休暇』と『マダムと泥棒』は穏当な作品に花を持たせたというところで、クレール作品は『ル・ミリオン』とサイレント作品『イタリア麦の帽子』が選出されているのが目を惹きます。チャップリン、ロイド、キートン、マルクス兄弟は順当で、『黄金狂時代』とともに選ばれているのが『モダン・タイムス』、またマルクス兄弟では『オペラは踊る』が『吾輩はカモである』より上位なのは現在では異論を呼ぶでしょう。クレール作品でも喜劇映画としてはサイレント作品『イタリア麦の帽子』の方がセミ・ミュージカル仕立ての『ル・ミリオン』より純度は高いと言えますが、トーキー喜劇としての大胆な試みとしては『ル・ミリオン』は斬新な成功作になったので、当時まだ現役監督の長老格だったクレールへの敬意を表した2作入選だったのだろうと思われます。ミュージカル度は前作『巴里の屋根の下で』よりぐっと高く、映画は主人公の宝くじ当選を祝う祝宴から回想形式の枠物語の体裁で冒頭場面の続きに戻って終わりますが、歌い踊る下町の人々の群集劇としての側面もありますし、バレリーナのヒロインが行為で警官に追われた実は老スリのスリ集団の親玉チューリップ爺さんことクロシャール(ポール・オリヴィエ)に当選した宝くじが裏ポケットに入っていると知らずに主人公のボロ上着を与えてしまい、盗品販売店を開いているクロシャールがオペラ『ラ・ボエーム』でボヘミアンのボロ衣装を探しに来たオペラ歌手ソプラネリ(コンスタンティン・ストレスコ)に売ってしまうので主人公と、主人公を出し抜こうとする友人プロスペル(ルイ・アリベール)が恋人アナベラ、モデルのヴァンダを巻き込み、さらにスリ集団が上着を狙って大混乱になる、という話で、百万長者の宝くじをめぐる金銭欲の風刺という要素こそあれ、内容がないと言えば前作『巴里の屋根の下』に輪をかけて無内容な映画ですが、これはもともとそういう狙いの映画なのです。日本公開昭和6年(1931年)9月29日の本作は前述の通りキネマ旬報ベストテン第4位に輝きましたが、これも公開当時のキネマ旬報の近着外国映画紹介を引いてみましょう。
[ 解説 ]「巴里の屋根の下」に次ぐルネ・クレール作品で、ジョルジュ・ベル、マルセル・ギュモー合作の喜劇に基いてクレールが台本を作った。キャメラも前作と同じくジョルジュ・ペリナールとジョルジュ・ローレの担任。歌詞もクレールが執筆し、アルマン・ベルナール、ジョルジュ・ヴァン・パリス及びフィリップ・パレが作曲した。主演俳優は舞台出身のエネ・ルフェーヴル、アベン・ガンスに見出されたアナベラ及びヴァンダ・グレヴィルがそれぞれ娘役と妖婦役とを勤め、「巴里の屋根の下」のルイ・アリベール、ポール・オリヴィエ、歌劇俳優のコンスタンティン・ストレスコ等が助演。
[ あらすじ ] パリ、モンマルトルの小汚いアパートの一室を画家のミシェル(ルネ・ルフェーヴル)と彫刻家のプロスペル(ルイ・アリベール)とは共同のアトリエとしている。ミシェルには許嫁がある。ベアトリス(アナベラ)というオペラ・リリック座のダンサーでミシェル等のアトリエと向き合った部屋に彼女は住んでいる。というのはミシェルがかなり浮気だったからで、今朝も彼女は繕ってやった古い上着を持って来てやるとミシェルは美しい有閑婦人ヴァンダ(ヴァンダ・グレヴィル)と抱合っているので怒って了う。そして警官に追われて彼女の部屋に逃込んできたスリの親分クロシャール(ポール・オリヴィエ)に気前よく其の上着を遣った。一方ミシェルは大勢の借金取りに攻められているとプロスペルが富くじが当ったといって駆込んでくる。ミシェルは百万フランの金持ちになって跳んで喜んだが、肝腎の富くじ券が見つからない。やっと古い上着のポケットに仕舞い忘れていたのを思い出したが、その時にはクロシャールはオペラ・リリック座のテノール歌手ソプラネリ(コンスタンティン・ストレスコ)に売払っていた。でミシェルがクロシャールの骨董店へ行って尋ねるとクロシャールはソプラネリから掏摸取った時計を見せて、此の時計の持主に売ったという。そこへソプラネリの訴えで警官がやって来て、ミシェルを掏摸と間違えて警察へ引張られ留置場に投込まれる。身分を証明して貰うつもりで呼んで貰ったプロスペルは上着の行方だけきくとミシェルは見たことも無い男だと証言する。プロスペルは先に富くじ券を見付けたら半分貰う約束をしたので是が非でも、先に手に入れるつもりなのだ。でミシェルは借金取り連中を呼んでやっと証明して貰って釈放された。それからオペラ・リリック座の楽屋裏で、ミシェル、プロスペル、それにクロシァールの部下大勢がソプラネリが舞台に着て出ている上着を取ろうとして大騒ぎを起す。が結局上着はミシェルとベアトリスが乗ったタクシーの屋根の上にあったのである。それと気付いて取るとクロシャールの部下が拳銃をつきつけて奪って了った。ミシェルの部屋では借金取りや近所の人達が集まって景気よくシャンパンを飲んで浮かれている。ミシェルか落胆して富くじ券は見つからない、と言おうとするところへ、クロシャールが持って来てくれたので、ミシェルは始めて陽気になった。
――ルネ・クレール(1898-1981)はのちの映画史家ジョルジュ・サドゥールにより、フランス'30年代の「詩的リアリズム」の映画監督として、ジャック・フェデー(1885-1948)、ジャン・ルノワール(1894-1979)、ジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)、マルセル・カルネ(1906-1996)と並ぶ5大大家とされましたが、最年少のカルネは21歳年上のフェデーの助監督出身であり、クレールはデュヴィヴィエより2歳年下ですがサイレント時代の商業映画経験はデュヴィヴィエよりずっと少なく、またデュヴィヴィエより2歳年上のルノワールはサイレント時代の第1作から自己の独立プロの監督でした。年齢的に開きがあるばかりでなく、フランス'30年代の「詩的リアリズム」映画の特徴は主な脚本家をシャルル・スパーク(1903-1975)、ジャック・プレヴェール(1900-1977)とする「ペシミスティックでメランコリックな犯罪メロドラマ」とされますが、スパークが'30年代に脚本を提供したのはフェデー(『外人部隊』'33、『ミモザ館』'34、『女だけの都』'35)、デュヴィヴィエ(『地の果てを行く』'35、『我等の仲間』'36、『旅路の果て』'39)、ルノワール(『どん底』'36、『大いなる幻影』'37)の3者でカルネ作品は戦後作『嘆きのテレーズ』'52のみになり、プレヴェールの'30年代脚本提供はルノワールの『ランジュ氏の犯罪』'36以外はカルネの監督デビュー作『ジェニイの家』'36から戦後作『枯葉~夜の門』'46までカルネ専属で、例外的にジャン・グレミヨン(1902-1959)監督作『曳き船』'41、『高原の情熱』'44があり、スパークもグレミヨン作品『愛慾』'37、『不思議なヴィクトル氏』'38の脚本家ですが、グレミヨンはメランコリックな作風と作品の質の高さにもかかわらず主要な「詩的リアリズム」の監督とはされません。スパーク脚本作品でもルノワール作品はメランコリックでもペシミスティックでも犯罪メロドラマでもなく、デュヴィヴィエの'30年代作品でも『白き処女地』'34、『ゴルゴダの丘』'35、『望郷』'37、『舞踏会の手帖』'37などがスパーク脚本ではありません。ルネ・クレールはスパーク脚本・プレヴェール脚本作品もなければメランコリックでもペシミスティックでも犯罪メロドラマでもなく「詩的リアリズム」の定義から外れますし、フェデー作品ではスパークの役割はフェデーとの共同脚本で、サイレント時代からの巨匠フェデーを'30年代のスパーク共同脚本作品3作だけで'30年代の「詩的リアリズム」映画監督と見なすには無理があるでしょう。ルノワールの『十字路の夜』'32、『トニ』'35、『獣人』'38などはグレミヨンの『愛慾』『曳き船』同様、詩的どころではない純然たるリアリズム映画ですし、結局サドゥールの言う'30年代「詩的リアリズム」の「メランコリックでペシミスティックな犯罪メロドラマ」映画はデュヴィヴィエとカルネの一部の作品、煎じつめればデュヴィヴィエの『地の果てを行く』'35と『望郷』'37、カルネの『霧の波止場』'38と『陽は昇る』'39くらいのものでしょう。ただし当時の狭いフランス映画界は映画人同士は仲間意識でとても親しかったそうで、この楽しい映画『ル・ミリオン』のヒロイン、アナベラは本作で人気女優になり、ジャン・ギャバンの出世作のひとつで外人部隊ものの『地の果てを行く』はクレジット上はアナベラ主演作品、ギャバンはまだクレジット序列2番目になります。『地の果てを行く』のアナベラもなかなか好演なのですが、『ル・ミリオン』の溌剌とした庶民の端役バレリーナ役のアナベラがと思うと、「詩的リアリズム」映画の功罪を思わずにはいられません。