(創元社『全詩集大成・現代日本詩人全集13』昭和30年1月刊より、西脇順三郎肖像写真)
ま さ か り 西脇順三郎
夏の正午
キハダの大木の下を通つて
左へ曲つて
マツバボタンの咲く石垣について
寺の前を過ぎて
小さな坂を右へ下りて行つた
苦しむ人々の村を通り
一軒の家から
ディラン・トマスに似ている
若い男が出て来た
私の前を歩いて行つた
ランニングを着て下駄をはいて
右へ横切つた
近所の知り合いの家に
立ち寄つた
「ここの衆
まさかりを貸してくんねえか」
永遠
(昭和38年3月筑摩書房刊『西脇順三郎全詩集』内『(未刊新詩集)宝石の眠り』書き下ろし)
西脇順三郎(1894-1982)の9冊目の詩集になる『西脇順三郎全詩集』所収の未刊新詩集『宝石の眠り』に書き下ろし収録された名作。詩人69歳の作品。88歳の長寿を全うした西脇順三郎は大学の英文学教授だった人で、30代初めの在職留学中にイギリスで刊行した英文詩集もありましたが、40歳を目前にした昭和8年(1933年)に初めて日本語の詩集を出すもその後は戦後まで詩作を断ちました。昭和22年(1947年)54歳で第2詩集を刊行後は69歳の全詩集刊行、70歳の退職を経て80歳まで旺盛な詩作を続け、晩年8年間は郷里に戻って沈黙に入りましたが、沒後の全詩集はその後のほぼ10年分だけでも生前の全詩集の1.5倍あまりの大冊になっており、金子光晴(1895-1975)とともにもっとも豊かな創作力を誇った詩人です。
西脇氏は「詩の本質は諧謔である」と正統的な英文学由来の詩観を持っていた人で、また自分の詩のテーマを「人生ははかない」「永遠は遠い」と極端に単純化した人でした。掲載した写真は「著者近影」ならぬ「著者遠影」というべき人を食ったものですが、全16巻に84人の明治・大正・昭和詩人の全詩集(この全集の刊行時まで)を収録した創元社の『全詩集集大成・現代日本詩人全集』では収録詩人全員の肖像写真が収録巻各巻に掲載されていて、物故詩人は遺族からの提供写真、現存詩人は撮り下ろしとなっており、昭和30年当時62歳、第4詩集『近代の寓話』まで出していた西脇順三郎は春山行夫、北園克衛、竹中郁、村野四郎との5人1巻ですが、物故詩人の遺族提供写真にしろ創元社の全集刊行時現存詩人の撮り下ろし写真にしろ、84人中83人はちゃんと「著者近影」写真なのに西脇順三郎だけこれです。西脇自身による希望によってこういう撮り下ろし写真になったということでしょう。
またこの全集は自筆原稿の複写筆跡(下掲)と、現存詩人の場合は書き下ろしの書き下ろし「自伝」、物故詩人の場合は詩人自身に自筆自伝があればそれを採録し、そうでなければ遺族か近しい詩人、創元社全集編集委員による書き下ろし「小伝」が1ページ当てられているのですが、西脇順三郎は「自伝」と題する詩を自伝代わりに提供して掲載されており、これは第5詩集『第三の神話』にも収録されることになる半生の連想的な回想ふうの詩です。原稿用紙の升目を無視した筆跡はその詩「自伝」の最後の7行ですから、これが「自伝」という題目の詩であって全集編者から希望された本来の「自伝」でないのは明らかでしょう。この全集の編集委員は金子光晴、三好達治、草野心平、伊藤信吉、村野四郎といった人たちで「歴程」系は草野心平、「四季」系は三好達治、プロレタリア詩人系は伊藤信吉、モダニズム系は村野四郎、明治・大正詩人は一番年長の金子光晴と詩史研究家でもある伊藤という具合だったろうと思われますし、当時晩年の高村光太郎ですら愛弟子の草野心平が頼んだか自伝を書き下ろしているのに、誰も西脇順三郎のおとぼけぶりを注意できなかったのは「この人はこういう人だから」で通ってしまったからなのでしょう。さらに、62歳の時点で西脇順三郎は全詩集のうち1/4までしかさしかかっていなかったのです。
ま さ か り 西脇順三郎
夏の正午
キハダの大木の下を通つて
左へ曲つて
マツバボタンの咲く石垣について
寺の前を過ぎて
小さな坂を右へ下りて行つた
苦しむ人々の村を通り
一軒の家から
ディラン・トマスに似ている
若い男が出て来た
私の前を歩いて行つた
ランニングを着て下駄をはいて
右へ横切つた
近所の知り合いの家に
立ち寄つた
「ここの衆
まさかりを貸してくんねえか」
永遠
(昭和38年3月筑摩書房刊『西脇順三郎全詩集』内『(未刊新詩集)宝石の眠り』書き下ろし)
西脇順三郎(1894-1982)の9冊目の詩集になる『西脇順三郎全詩集』所収の未刊新詩集『宝石の眠り』に書き下ろし収録された名作。詩人69歳の作品。88歳の長寿を全うした西脇順三郎は大学の英文学教授だった人で、30代初めの在職留学中にイギリスで刊行した英文詩集もありましたが、40歳を目前にした昭和8年(1933年)に初めて日本語の詩集を出すもその後は戦後まで詩作を断ちました。昭和22年(1947年)54歳で第2詩集を刊行後は69歳の全詩集刊行、70歳の退職を経て80歳まで旺盛な詩作を続け、晩年8年間は郷里に戻って沈黙に入りましたが、沒後の全詩集はその後のほぼ10年分だけでも生前の全詩集の1.5倍あまりの大冊になっており、金子光晴(1895-1975)とともにもっとも豊かな創作力を誇った詩人です。
西脇氏は「詩の本質は諧謔である」と正統的な英文学由来の詩観を持っていた人で、また自分の詩のテーマを「人生ははかない」「永遠は遠い」と極端に単純化した人でした。掲載した写真は「著者近影」ならぬ「著者遠影」というべき人を食ったものですが、全16巻に84人の明治・大正・昭和詩人の全詩集(この全集の刊行時まで)を収録した創元社の『全詩集集大成・現代日本詩人全集』では収録詩人全員の肖像写真が収録巻各巻に掲載されていて、物故詩人は遺族からの提供写真、現存詩人は撮り下ろしとなっており、昭和30年当時62歳、第4詩集『近代の寓話』まで出していた西脇順三郎は春山行夫、北園克衛、竹中郁、村野四郎との5人1巻ですが、物故詩人の遺族提供写真にしろ創元社の全集刊行時現存詩人の撮り下ろし写真にしろ、84人中83人はちゃんと「著者近影」写真なのに西脇順三郎だけこれです。西脇自身による希望によってこういう撮り下ろし写真になったということでしょう。
またこの全集は自筆原稿の複写筆跡(下掲)と、現存詩人の場合は書き下ろしの書き下ろし「自伝」、物故詩人の場合は詩人自身に自筆自伝があればそれを採録し、そうでなければ遺族か近しい詩人、創元社全集編集委員による書き下ろし「小伝」が1ページ当てられているのですが、西脇順三郎は「自伝」と題する詩を自伝代わりに提供して掲載されており、これは第5詩集『第三の神話』にも収録されることになる半生の連想的な回想ふうの詩です。原稿用紙の升目を無視した筆跡はその詩「自伝」の最後の7行ですから、これが「自伝」という題目の詩であって全集編者から希望された本来の「自伝」でないのは明らかでしょう。この全集の編集委員は金子光晴、三好達治、草野心平、伊藤信吉、村野四郎といった人たちで「歴程」系は草野心平、「四季」系は三好達治、プロレタリア詩人系は伊藤信吉、モダニズム系は村野四郎、明治・大正詩人は一番年長の金子光晴と詩史研究家でもある伊藤という具合だったろうと思われますし、当時晩年の高村光太郎ですら愛弟子の草野心平が頼んだか自伝を書き下ろしているのに、誰も西脇順三郎のおとぼけぶりを注意できなかったのは「この人はこういう人だから」で通ってしまったからなのでしょう。さらに、62歳の時点で西脇順三郎は全詩集のうち1/4までしかさしかかっていなかったのです。