前回の『天罰』は1920年にロン・チェイニーが出演した6作の作品中4作目に公開(8月)されたものでしたが、今回取り上げる最初の『大北の生』と次作『法の外』は『天罰』に続き'20年度のチェイニー映画の5作目、6作目に当たります。『天罰』が強烈だったので『大北の生』と『法の外』はそれほどでもありませんが、1921年度のチェイニー出演作は3作のうち先に公開された2作は散逸しており、唯一フィルムが残っている'21年度作品の『ハートの一』では再び異様な作品になっているのは『天罰』と同じウォーレス・ワースリー(1878-1944)監督、ガヴァナー・モリス(1976-1953)原作という組み合わせだったのもあるでしょう。『法の外』では『気儘な女』'19で初顔合わせになった、長編映画になってからのチェイニー出演作最多監督になったトッド・ブラウニング(1880-1962)が再び監督を勤めており、日本公開時にも注目された作品のひとつになったようです。今回の3作はいずれも日本劇場公開作品らしいのですが、キネマ旬報の「近着外国映画紹介」に取り上げられたのは『法の外』だけのようで、『大北の生』と『ハートの一』については邦題と公開作品というだけで他に日本語による紹介文がなく、アメリカ映画協会(AFI=American Film Institute)の映画データ・サイトによるあらすじに依りました。ロン・チェイニーの出演映画は日本盤DVDで発売されているのは『ノートルダムの傴僂男』と『オペラの怪人』だけなのが現状ですが(息子のロン・チェイニー・ジュニアの出演作品は多数日本盤発売されています)、チェイニーの映画でフィルムの現存する作品は輸入盤DVDの廉価盤で多く出回っていますし、サイレント映画ですからサウンド・トーキー映画のヒアリングよりも高校授業の英語力程度で読める分、鑑賞の敷居は高くありません。興味をお持ちいただければ、リンクでぜひ実物をご覧ください。この感想文が、その際の鑑賞のご参考にでもなれば幸いです。
●8月4日(土)
『大北の生』Nomads of the North (監=デイヴィッド・ハートフォード、First National Association'20.Oct.11)*103min(Original length, 109min), B/W (Tinted), Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/hiafjJ7bJX4
○あらすじ(American Film Instituteより) モントリオールの北西15マイルのカナダ森林地帯のフォート・オーゴッド。集落で唯一の女性ナネット・ローランド(ベティ・ブライス)は、狩りに行って2年になる恋人ラオール・チャロラー(ロン・チャニー)の帰りを待っている。ナネットを恋慕する町の有力者で仲買人ダンカン(メルボルン・マクドゥエル)の息子、バッキー・マクドゥーガル(フランシス・マクドナルド)は、事業に失敗し病も重いナネットの父親(スポッティスウッド・エイトキン)への財政援助の代償にナネットに結婚を迫るが拒絶され、流れ者(チャールズ・A・スマイリー)に偽りのチャロラーの訃報を届けさせて自分との結婚を承諾させる。親熊とはぐれた子熊が育つのを待って愛犬と子熊を連れて山を下りてきたチャロラーは、ナネットの父の死とナネットとバッキーの結婚式の知らせに教会に駆けつけ、真実を知ったナネットはバッキーとの婚約を破棄して結婚式を中止させる。流れ者を用心棒に連れたバッキーはナネットの家に移り住んでいたチャロラーを襲撃し、マクドゥガルは格闘中に転倒して死に、チャロラーは殺人犯としてバッキー父子に領事のオコナー大佐(ルイス・ストーン)の拘置所に拘束される。ナネットの手引きで脱獄したチャロラーはナネットとともに国境近くの山林に逃げて、3年が経って子熊と愛犬は成獣に育ち、チャロラーとナネットの間には赤ん坊も生まれるが、バッキーとオコナー大佐が遂にチャロラーたちの山小屋を突き止めて逮捕しに来る。外出中のチャロラーをオコナー大佐が探しに出た隙にナネットはバッキーに襲われて無理矢理縛られてしまうが、熊と愛犬がナネットを助ける。悪天候で一旦引き返したオコナー大佐は負傷したバッキーを途中の山小屋で休ませ、再び赴いてチャロラーを逮捕するが突然の落雷で山火事が起こり、全勝した山からチャロラーとナネットは赤ん坊と熊と愛犬とともに、オコナー大佐を助けて降りてくる。山小屋ごとバッキーの焼死を確かめたオコナー大佐は、チャロラーの焼死を証言する約束をしてチャロラーとナネットたちを見逃して帰っていく。
本作はチェイニーというよりはベティ・ブライス(1893-1972)の主演映画で、チェイニーが登場するのは全編の1/4が過ぎた頃ですし、映画としてもメロドラマ作品なので1920年の普通映画として観た方がいいでしょう。チェイニーは純朴善良誠実な山男役で、『仮面の男』や『勝利』の仇役の狡猾残忍な将校上がりのドイツ・スパイやいかさまギャンブラーのナイフ使い、『天罰』のこの世のすべてを呪ったような主人公とは別人のようです。しかし「千の顔を持つ男」チェイニーは怪人の印象ばかりが強いものの『天罰』でもスーツ姿でわかる通りむしろ美男子と言っていい顔立ちで、本作のように窮地に陥れられた柔和な男を演じれば、実年齢がすでに37歳ですから本作の内容ならまだ20代の青年俳優の方が良かったかもしれませんが、心優しく繊細な人柄の役を演じて違和感がありません。ベティ・ブライスはサイレント時代に『シバの女王』'21を代表作とし、トーキー以降は性格俳優となって'64年に『マイ・フェア・レディ』'64の出演を最後に引退するまで60作近いサウンド・トーキー映画にも出演していたというキャリアの長い女優だそうで、また監督のデイヴィッド・ハートフォード(1873-1932)も俳優兼監督としてサイレント時代に活躍した人だそうで、ヘンリー・キング監督の『丘を越えて』'31に出演したのが遺作となったそうですから生涯現役映画人だったようです。監督としての代表作は『Back to God's Country』'19が上げられるそうですが、グリフィスより2歳年上なのを考慮しても手堅く破綻のない腕前ながらあまりに保守的な作風なのが本作からもうかがえ、本作もチェイニー準主演映画でなければ歴史に埋もれてしまっていたかもしれません。カナダの山奥ものと言えば『白き処女地』や『大自然の凱歌』が思い浮かびますし、ホークスの『大自然の凱歌』はともかくデュヴィヴィエの『白き処女地』と比較するならこの『大北の生』の方が良くないか、とも思えますが、『白き処女地』もジャン・ギャバンの準主演で名を残しているので、あの映画も男たちよりもマドレーヌ・ルノーのヒロイン映画でした。カナダ、雪山、山林、山奥というと欧米人のイメージでは男性主人公による男の映画というより(『大自然の凱歌』は男の映画でしたが)、可憐なヒロインがひっそりと暮らしているイメージなのかもしれません。山もの映画ではグリフィス門下生のエリッヒ・フォン・シュトロハイムの初監督・主演映画の『アルプス颪』'19という強烈なのがあり、悪役映画としてもサイレント映画史上画期的な性格造型と鮮烈なリアリズム演出で度胆を抜いた作品でしたが、ああいう超弩級の作品と較べるのはフェアではないので、ハートフォードはごく月並みな映画監督だったかもしれませんが、月並みでも1920年に映画はこのくらい安定した水準に達していたという良い見本にもなっています。本作は前回に観た『仮面の人』『勝利』『天罰』のどれよりも地味ですし、また『勝利』のクライマックスの火山の噴火のように唐突に山火事が映画のクライマックスになって発生しますが、これは当時亡くなったジャック・ロンドン(1876-1916)に代わる人気大衆作家だったというジェームズ・オリヴァー・カーウッド(1878-1927)の'19年の原作小説自体がそういう筋書きだったのでしょう。単純な内容ながら映画としての落ち着いた話法では、前回ご紹介した3作よりも本作に軍配を上げてもいいほどです。
あらすじをご覧になれば一目瞭然ですが、本作はカナダの山奥を舞台にしてはいるものの、話の内容はほとんど人情西部劇です。ハリウッド映画は見事に調教された動物(それと達者な子役)を話に絡める伝統がありますが、本作は年代的にもかなり早い例で、犬は当然ながら子熊、成長した熊も着ぐるみなどではなく動物に演技させています。赤ん坊も撮影現場ですから普通の赤ん坊ならとてもこうはいきませんが、相当馴らした赤ん坊を起用しているようで天使のようににこにこと笑っています。山火事のクライマックスはユニヴァーサル・スタジオに作ったオープン・セットの森林を6台のカメラで撮影したものだそうで、チェイニーとブライスは崩れたセットで火傷を負って10日間入院して撮影中断になったといいますから大変な撮影だったのがわかりますが、その割には盛り上がらないというか、どうせ助かる話の筋が読めてしまいますし、海や川や雪山で遭難したのと違って山火事からの逃げ方にあまり工夫は仕組みようがないので、どうやって脱出するかといったサスペンスは山火事では作り出しようがないとも言えます。せいぜい焼け落ちて倒れてきた木に挟まったオコナー大佐を助けるとか、熊や犬が器用に主人公たちについて来るのが見ものなくらいで、こういう撮影は大変なのに映像にしてしまうとそれほど効果のない場面というのはよくあることですから、『レベッカ』のような館の全焼はいざ知らず、山火事が効果を上げた映画といっても他に思いつかず、たぶん他にあまり例がない(つまり、大して効果がないのでやらない)山火事のシーンを反面教師のように観るという見方もできます。サスペンスを上げるためにはもっと密閉された状況か、迷ってしまうような状況が必要だったということです。しかしこの次作が『法の外』なのを思うと、1920年後半のチェイニーは8月『天罰』公開、10月本作公開、12月『法の外』公開と、話題作に恵まれて充実した時期に入っていたのがわかります。またこの時期にはまだチェイニーに依頼されるのが異常な性格の配役ばかりではなかったのも、本作がカナダ国立美術館の保存作品に選ばれて散佚しなかったからこそ確かめられるので、チェイニーが割と普通の愛憎ロマンス映画の男性主人公を演じているのも本作ならではの見所になっていると言えるでしょう。
●8月5日(日)
『法の外』Outside the Law (監=トッド・ブラウニング、Universal Film Manufacturing Company'20.Dec.26)*75min(Original length, 75min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/QX1SknogTTU
[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より)「スタムブールの處女」を完成して以来約1個年を費やしプリシラ・ディーン嬢を主役として製作されたトッド・ブラウニング氏の監督映画で、製作に25万ドルを要したと伝えられる。最近「宝島(1920)」「ヴィクトリー」等でめきめきとその悪役振りを認められたロン・チャニー氏がブラック・マイク・シルヴァという暗黒街の頭分と、ジョー・ワングと言う中国人の下男の2役を、実に明確に演じ分けている。ディーン嬢の相手は夫君ウィーラー・オークマン氏で、最後の辺りの猛烈な格闘は「スタムブールの處女」以上遥かに凄いものであった。壮麗な舞台装置と巧妙を極めた光線の使用は緊張した筋をより以上に引き立たしめている。中華街に用いてある淡紅色の染色が美しい印象を残した。中華街内部のセットにも他の映画に見たようなグロテスクな滑稽味はほとんど見られず、真実味が漂っていた。原作者であり監督者であるトッド・ブラウニング氏の頭の緻密さが全編に見られる。8巻の長尺を息も継がせない。
[ あらすじ ](同上) かつては相当有名であった悪漢のサイレント・マッドン(ラルフ・ルイス)は、サンフランシスコの中華街に住んで、中国人チャング・ロウ(E・アリン・ウォーレン)の訓練によって改心している。ロウは法律よりも宗教の力を信じている男で、かつてから自己の信ずるところを説いていた。金鉱石のように汚れなき、しかし堅い心を持った乙女なるマッドンの娘モリー(プリシラ・ディーン)も、昔は父と共に悪事を働いたこともあったが、今は父と共に平和な日を送っている。かつてマッドンの部下であったブラック・マイク・シルヴァ(ロン・チャニー)は「名誉」とか「恐怖」とかを知らぬ恐ろしい男で、今は暗黒街の頭分である。心得違いにも彼はマッドンに復讐しようと決心して、自ら警官を銃殺してその罪をマッドンに被せる。マッドンは証拠不十分として8カ月の禁固に処せられた。その留守中にシルヴァはモリーをも警官に捕らえさせようとしてビル・バラード(ウィーラー・オークマン)をして彼女と共に仕事をさせ彼女だけを捕らえさせようとしたが、ビルはシルヴァを裏切って、スペンサ(メルボーン・マクドウェル)ー家から盗み出した宝石を彼に渡さずモリーと共に隠れ住んだ。数カ月の後彼らの隠れ家を突き止めたシルヴァは2人を襲ったが、その場に探偵に踏み込まれ、モリーの機知から2人は逃れてチャング・ロウの家に帰ってきた。2人は正当な道を歩むべことを悟って、宝石をスペンサー家に戻すことにしていた。シルヴァは再び手下と共にここを襲ってきた。大格闘の幕は切って落とされた。シルヴァは中国人の下男ジョー・ワング(ロン・チャニー)に狙撃され、2階から下に墜落し重傷の身を街上まで這い出したが力尽きて死ぬ。チャング・ロウは警官に宝石を返してモリーとビルが正道を歩むべきことを誓った。
監督トッド・ブラウニング(1880-1962)は本作ではルシエン・ハバード(1888-1971)と共同脚本も勤めていますが、そもそも本作はブラウニング自身の原作によるもので、ルシエン・ハバードはチェイニー作品では後の『狼の血』'22も手がけており、最大の成功はプロデューサーに転身してウィリアム・A・ウェルマン監督のアカデミー作品賞第1回受賞作『つばさ』'27を製作したことでしたからブラウニングとは異なる指向の脚本家だったとも思えます。ブラウニングもそもそもは、後のユニヴァーサルの怪奇映画路線を定着させた『吸血鬼ドラキュラ』'31や、MGMの社運を傾かせた『怪物団(フリークス)』'32の異色のカルト映画監督というより、グリフィスの『イントレランス』'16の助監督から出てラオール・ウォルシュ(『国民の創生』'15の助監督と出演)に次ぎ、シュトロハイムより早く(もっとも、シュトロハイムがグリフィス作品に参加したのはウォルシュやブラウニングより遅く、『世界の心』'18でしたが)グリフィス門下生監督として'17年から監督デビューしていた実力派で、怪奇というよりは猟奇映画路線が専門になったのは後のチェイニーとのコンビ作『三人』'25以降でした。本作はチャイナタウンやギャングが登場する犯罪映画ですが、まだ怪奇または猟奇というよりも社会派の問題作の色合いが強いものです。ブラウニングは本作を'30年にエドワード・G・ロビンソン主演でトーキー作品にセルフ・リメイクしており、ロビンソン主演のギャング映画と言えばギャング映画の大ブームを引き起こしたマーヴィン・ルロイ監督の『犯罪王リコ』'31ですから、その前年に『犯罪王リコ』のようなリアリズム映画ではないにせよロビンソン主演のギャング映画を作った功績もある、アメリカ映画史の陰で実は非常に重要な役割を果たしてきた監督で、その極端な結果がアメリカ映画史上にもっとも悪名高い怪作『怪物団』で、『怪物団』の興行的大失敗から極端に作品のペースが減ったブラウニングは『怪物団』の後4作を不如意な製作環境で撮り、'39年の『Miracles for Sale』を最後に引退を余儀なくされます。短編時代はともかく、チェイニーの出演した長編映画で10作を監督した最多チェイニー作品監督でもあります。本作も『大北の生』同様チェイニー作品というよりもプリシラ・ディーン(1896-1987)の主演のヒロイン映画として製作されたもので、チェイニーの序列はディーンとディーンの父親役のラルフ・ルイスに次いで3番目で、ディーンの恋人役で実生活でも夫だったウィーラー・オークマン(4番目)よりは上です。実際本作はチェイニーの演じるNo.2のボスが、服役中のNo.1ボス(ラルフ・ルイス)の娘であるディーンの見張りと共犯者役にオークマンを任命し、オークマンとディーンの間にロマンスが芽生えるのがメイン・プロットなので、ディーンとオークマンの二人が主役の映画です。チェイニー演じるNo.2のボスは比重を落としてしまえばほとんどいてもいなくてもいい役割なので、映画はチェイニーの出番をいかに生かすかでかなりの無理が生じています。オリジナル由来なのか後世の修復が原因か、カットバック描写で一部混乱した箇所もあり、『ハートの一』でも同様のカットバックの混乱箇所がありますが、本作は華僑の賢人のチャング・ロウ(E・アリン・ウォーレン)の視点、ディーンとオークマンの犯罪組織から足を洗おうとする若いカップルの視点にギャングのNo.2ボスのチェイニーの視点と、3つの視点から平行して描かれ、このうち前2者の視点は常に交わっているのにチェイニー側の視点は単に平行しているだけで華僑のチャング・ロウともディーンとオークマンの二人とも関わりなしに進むのに難点があり、結末でチェイニーがチャング・ロウの家に全員集まったところで殴りこみに来てチャング・ロウの門弟のアー・ウィン(チェイニー二役、キネマ旬報の役名は実際の映画では変わっています)に返り討ちに遭うのがとってつけたようになっている難があります。エドワード・G・ロビンソン主演のトーキー版リメイクは未見ながら、文献によればストーリーは同様のようですが、チェイニー演じるNo.2ボスの描き方次第でどうにでもなるはずなので、本作はチェイニーが多忙だったか、チェイニーが他のメイン・キャストと絡むシーンが全然ないのです。
キネマ旬報の「近着外国映画紹介」の解説では本作は絶賛に近い紹介がされており、トッド・ブラウニング監督作のプリシラ・ディーン主演作は『スタムブールの處女』'20の前に『気儘な女』'19があり、『スタムブールの處女』は未見ですが『気儘な女』はなかなか面白い犯罪メロドラマで、チェイニーもスリの役で助演出演していました。ディーンはまだアメリカ映画の主流が短編時代の'12年に16歳でデビューしていますが、映画のトーキー化間もなく'32年を最後に引退していますからほぼ純粋にサイレント映画時代の女優と言っていいでしょう。本作はギャングのボスである父が服役中にギャング稼業から足を洗いたい(警察やギャング仲間の間では「シルキー・モリー」と呼ばれている)ディーンに足を洗わせまいと、No.2のボスのチェイニーが若い衆のオークマンにディーンと宝石泥棒をするよう命じるのですが、すぐに警察にマークされ外出できなくなってしまいます。同じアパートに住んでいる幼稚園児くらいの男の子(スタンリー・ゴールサルス)がオークマンになついて、子供好きのオークマンは凧を作ってやったりするのをディーンは軽蔑しますが、子供はディーンにもなついてくるのでいつの間にかディーンも男の子を可愛がるようになってしまいます。男の子を迎えにきた母親から男の子の父は警察の捜査官(ウィルトン・タイラー)であることがわかり、オークマンはディーンを説得して宝石を返して自首して犯罪から足を洗おう、と当初から立場が逆転するのですが、ディーンは映画冒頭では父のラルフ・ルイスとともに華僑のE・アリン・ウォーレンから論語を学んでいて、父親ともどもギャングから足を洗おうとしているのを、No.2のチェイニーがボスのルイスを罠にかけてルイスは懲役刑を食らうことになり、チェイニーの策略とは気づかないディーンとルイスは論語の教えに従って生きようとしても世間は犯罪者扱いするではないか、と華僑のウォーレンの教えを疑うようになってしまいます。オークマンの改心からディーンと、刑期を終えて帰ってきたルイスもようやくチェイニーの策略に気づくのですが、キネマ旬報の解説通りなら製作期間1年、製作費も当時としてはA級大作級の25万ドルがかかっているというのは凝ったチャイナタウンのセットに反映している割には、映画の筋書きには動きが乏しい観があります。主人公カップルが宝石泥棒しに紛れこむ富豪スペンサー(メルボーン・マクドウェル)家のパーティー場面など、舞台劇で言えば場面転換は多彩なのですが、ギャングの若衆のひとりのオークマンが改心するのがドラマの要になっているのに、オークマンが最初から好青年に描かれているためせっかくの設定があまり生かされていないのです。チェイニーは'20年に6作の映画に出演していますが、'20年度の最後の作品になった本作ではスケジュール面で他のキャストと絡むシーンが作れなかったのではないか、と思われます。クライマックスはオークマンの裏切り(改心)を知ったチェイニーがチャイナタウンのウォーレン宅にかくまわれているディーン父娘とオークマンに殴りこみに来るアクション・シーンですが、チェイニーを返り討ちに遭わせるウォーレンの門弟アー・ウィンはチェイニーの一人二役なので、このクライマックスは門前払い同様にあっという間に射殺する、射殺されるチェイニーの独り舞台と言っていいので、ディーン父娘とオークマンの本当の仇敵であり、ギャングから足を洗う障害であるチェイニーの出番が少なすぎるばかりでなく、直接対決するシーンが描かれずに映画が始終してしまうのが作劇上の弱点になっています。それが本作の公開当時は看過されたのは、当時の観客にとっては本作はあくまでプリシラ・ディーン主演のヒロイン映画の犯罪メロドラマだったからでしょう。ハリウッド映画らしい達者な子役も実に可愛いらしく、娯楽映画らしい大衆性がありますが、後世の観客は何と言ってもブラウニング監督のチェイニー出演作として観るので、後年のブラウニング監督作に特徴的な邪悪さ、悪漢としてのチェイニーの存在感が乏しいのが気にかかりますし、『天罰』で監督ワースリーが描き、チェイニーが演じて見せたように、チェイニーは悪の化身であっても、もっと複雑な性格を演じることのできる俳優です。むしろ本作はオークマンの演じた役をチェイニーがもっと屈折して演じるべき作品だったでしょう。本作は残されたスチール写真からなどではチェイニー演じる中国人のアー・ウィンは実際の映画より出番は多かったと推定され、また本作は'20年代半ばにフィルムが散佚し、50年あまりを経た1975年にフィルムが発見された作品になるそうです。ブラウニング自身の原作は狙いは良く、ユニークな作品になっていますが(チャイナタウンは当時も今もアメリカ人の多くにとって神秘的な魔窟ですし、ギャングの世界もそうです)、本作ではまだブラウニングの描きたかったものが十分に実現できなかったような印象を受けます。
●8月6日(月)
『ハートの一』The Ace of Hearts (監=ウォーレス・ワースリー、Goldwyn Pictures Corporation'21.Oct.21)*75min(Original length, 75min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/1OSqiFG1qPs
○あらすじ(American Film Instituteより) ファラロン(ロン・チェイニー)とフォレスト(ジョン・バワーズ)が参加している、9人のメンバーからなる過激派の秘密結社は、街の有力者の腐敗を監視して次々と暗殺する計画を立てて実行していた。暗殺の実行者はメンバーの中からハートのエースを引いた者が担当することになっていた。ファラロンはメンバー唯一の女性、リリス(レアトリス・ジョイ)を愛していたが、次の暗殺計画の謀議でハートのエースを引いたフォレストはそれをきっかけにリリスに求婚し、リリスも求婚を承諾する。メンバー中の化学者が製造したレストランの爆弾テロによる暗殺計画は、実行犯になるフォレストも死を覚悟しなければならないもので、ファラロンから計画の内容を聞いたリリスは計画実行が近づくにつれ不安になり、遂にフォレストとの逃避行を持ちかけるようになった。計画実行当日、アジトで待機するメンバーたちが爆弾テロのニュースを待っていると、駆け落ちの約束をして待ち合わせていたカップルがレストランにいたためテロを中止した、とフォレストが時限爆弾を持って帰ってきた。フォレストはリリスを連れて去り、残りの7人のメンバーはフォレストとリリス暗殺の実行犯を決めるためカードを引くが、ハートのエースを引いたファラロンはリリスとフォレストを守るため時限爆弾を起動させており、ファロランは哄笑しながら秘密結社のメンバーとアジトごと自爆する。列車で遠方の山奥の町に降りたフォレストとリリスは号外の新聞でビルの爆破事件と7人の死者、うち一人の遺体はハートのエースのカードを手に握っていたという記事を読み、山林の中に消えていく。
ゴールドウィン・ピクチャーズのTM画面に続いてタイトル代わりにハートのエースのカードが映されてクレジット・タイトルが始まる本作は全10章に区分され、「第1章・秘密結社」「第2章・計画」「第3章・ハートのエース」「第4章・他人の幸福」「第5章・目覚め」「第6章・大売り出し」「第7章・長生きしすぎた男」「第8章・号外!号外!」「第9章・長生きしすぎた男たち」「第10章・エースは去った」とそれぞれ章ごとにタイトル字幕が出ます。1921年のロン・チェイニー出演作は一時的にペースが落ちていて、ベティ・コンプソン(後にスタンバーグの名作『紐育の波止場』'28に主演)とチェイニーの主演の『For Those We Love』が3月公開、ノア・ビアリー(シニア)やアンナ・メイ・ウォンとともに主演した9月公開の『Bits of Life』があり、前者はロマンティック・ラヴ・ロマンス映画、後者はオムニバス映画の走りでチェイニーは中国人役で出演しているそうですが、この2作ともフィルム散佚作品になっていてスチール写真や宣伝資料、映画評などで内容が伝えられているだけで、実物を観ることはできません。忘れた頃に南米や旧共産圏で発掘される可能性はあるので、'14年~逝去する'30年までに長編83作に出演し、現存作品47作(不完全版含む)、散佚作品36作というのがチェイニー作品の現状ですが、公開作品中75%以上が散佚していると言われるサイレント時代のアメリカ映画にあって、チェイニーの出演作はまだしも残っている方です。また、本作は'20年8月公開の『天罰』の原作・監督であるガヴァナー・モリス(1976-1953)原作、ウォーレス・ワースリー(1878-1944)監督の再コンビ作であり、『天罰』が正真正銘チェイニーが主演の、チェイニーでなければ実現しなかった名作だったことを思えば、本作はチェイニーがビリング(配役序列)のトップではなくヒロイン役のレアトリス・ジョイと男性主人公役のジョン・バワーズが主演カップルで、ロン・チェイニーは第三の男役ですが、今回も映画の悲劇性を一身に引き受けているのはチェイニーの演じる、アナーキスト・グループ内でも自分の居場所を失ってしまった自滅的叛逆者です。腐敗した権力者・有力者を調査して次々と暗殺していくアナーキストのテロリスト・グループを描いた本作はテーマとしてはジョン・フォードの『男の敵』'35やヒッチコックの『サボタージュ』'36の先駆的作品ですが、『男の敵』や『サボタージュ』が名高い文学作品の映画化であるのに対して『天罰』と本作の原作者のモリスはパルプ・マガジン作家で、現代日本で言えば「ラノベ」やコミックス原作映画みたいなもので、悪趣味と俗悪の代名詞なのが当時のパルプ・ノヴェルなので、ジョセフ・コンラッドが原作のモーリス・トゥーヌール監督作『勝利』'19とは事情が違います。しかし純粋芸術の分野とは言えない小説や映画では、悪趣味で俗悪と見える趣向がものを言う場合もしばしばあります。チェイニーはしばしば文芸映画に分類されるような作品にも出演していますが、フランスの大衆小説が原作の『オペラの怪人』'25と並んでチェイニーの2大代表作である、ワースリーが監督の『ノートルダムの傴僂男』'23がヴィクトル・ユゴー原作の文芸映画でありながらチェイニー映画そのものになったのは、原作小説の文学性によるものではないでしょう。
トッド・ブラウニングに次いでチェイニー出演作を多く手がけたのがウォーレス・ワースリーですが、ブラウニングが真のチェイニー映画と言えるものを作るのは、しばらく間を置いた'25年の『三人』『黒い鳥』からなので、この時期にはワースリーの監督作品の方がチェイニーの真価を引き出した映画になっています。『法の外』もなかなかの作品なのですが、まだ本当にチェイニーに最高の存在感を発揮させた映画とは言えなかったきらいがあります。『ハートの一』はアナーキストの秘密結社による爆弾テロという題材のチェイニーの失恋映画で、映画全体にあまり人物の動きがない点でも『法の外』と偶然の類似がありますが、『法の外』ではそれが映画の難点になっているのに対して『ハートの一』ではクライマックスぎりぎりまで映画が静的なのが緊迫感を生んでいるのは爆弾テロ計画の決行というリミットに向かって映画が進んでいるからで、『法の外』ではクライマックスまで人物を動かさないのが停滞感をもたらしてしまっていましたが、『ハートの一』では爆弾テロが決行されても中止されても一大事になる、というカタストロフに向かいます。ワースリーの演出も効果的な様式性を生かしたもので、暗殺実行犯を決めるための時計回りのカード配りの場面が反復されますが、一周目は円卓型のテーブルとほぼ平行な角度で、二周目はテーブルを真上から俯瞰でとらえて映されます。こうした様式性は実行犯に選ばれたバワーズが給仕として潜りこんだレストランでも生かされていて、テロの目的の権力者が朝食をとりに現れるのを待つバワーズが椅子に時限爆弾を仕掛けた後、目的の人物がいつもの時刻に現れるまで、バワーズは目的のテーブルの隣のテーブルに駆け落ちの約束をして待ち合わせて、すっかり自分たちだけの世界に入りこんでいる、自分とヒロインと同じ年頃の若いカップルが気になってためらい続けて、レストラン内のあちこちが微妙に異なるか同じままかを同じ構図のショットがくり返されてバワーズの焦燥感を伝える、といった具合で、'21年と言えばドイツではロベルト・ヴィーネ、フリッツ・ラング、F・W・ムルナウらの表現主義映画の隆盛期、フランスではアベル・ガンスの影響下にマルセル・レルビエ、ルイ・デリュック、ジャン・エプスタンらが印象派映画を作っていた頃ですが、チャップリンの『キッド』のような巨大な個人的才能によるものとは違うだけ、アメリカ映画史上で特に傑出した監督とも言われることのないワースリーのような監督の映画がごく当たり前のようにドイツ映画やフランス映画の実験的手法よりも自然で、かつこなれた映像技法を、ごく通俗的な娯楽映画の見かけを取りながら大胆に披露していて、しかも通俗犯罪メロドラマとしての大衆性は押さえながら、愛の敗者としての孤独、報われない愛への絶望といった非常に痛切なテーマをきちんと語りきっている点ではヨーロッパの芸術映画よりもずっと進んでいたと言ってもいいと思えます。本作の真の主人公はそういう意味でもチェイニーなのですが、作劇上チェイニーはクライマックスまでずっと耐え忍んだあげくアナーキスト・グループを巻きこんで自爆するという壮絶な役なので、それまでのドラマは主人公カップルが担っており、またチェイニーは彼らのために秘密結社ごと自爆するので主人公カップルは生き延びてチェイニーの死を知らなければストーリーが完結しないので、物語上の主人公はあくまでテロリスト・グループから足を洗うカップルが担うことになります。本作は実は一旦異なる結末で作られて試写を観たプロデューサーのゴールドウィンが撮り直しを命じたそうで、最初の結末では逃げ延びて山奥で暮らし、赤ん坊も設けた主人公カップルがある日外出して戻るとハートのエースのカードが山小屋近くの木の枝に挟んであるのを見つけ、家に入ると雙腕・雙脚になったアナーキスト・グループのリーダー(ハーディー・カークランド)が訪ねてきていて、チェイニーが破壊活動ではなく愛が世界を変えると説いて爆弾を爆発させ、他のメンバーは皆爆死して自分だけが大怪我を負って生き残った、今ではチェイニーの言ったことの方が正しかったと認める、と主人公たちに語って終わる結末だったそうです。つまり主人公たちが秘密結社のアジトを出て行った後、主人公たちを暗殺せんとカードを配ってチェイニーがその間に時限爆弾のスイッチを入れ、ハートのエースを引いて「Kismet(宿命)!」と哄笑し、なぜ笑うと訊かれてあと2秒でわかるさ、と答えた途端に大爆発、そして主人公カップルは逃避行先で爆発事件の号外を見る、という第9章、第10章は撮り直しの成果だったということです。脚本家のルース・ワイトマンの脚本は最初から現在観られる映画通りではなかったわけで、生き残ったリーダーが間接的に爆破事件を語るよりも明らかに実際にそのシーンを描き全員が爆死する方がインパクトが強いですし、映画としても一貫性があります。主人公たちが赤ん坊まで設けて無事に暮らすまで描くのは蛇足めいているし、生き残りのリーダーが改心して出てくるなどという興ざめな結末でなくて正解で、ゴールドウィンはあまり良く言われないプロデューサーで映画の良し悪しなどわからない金の亡者のように伝えられますが、ちゃんと観る目はあったのです。主人公の自爆死で終わる映画は後に数々ありますが、1921年の時点ではひょっとしたら映画史上初の結末だったのではないでしょうか。
●8月4日(土)
『大北の生』Nomads of the North (監=デイヴィッド・ハートフォード、First National Association'20.Oct.11)*103min(Original length, 109min), B/W (Tinted), Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/hiafjJ7bJX4
○あらすじ(American Film Instituteより) モントリオールの北西15マイルのカナダ森林地帯のフォート・オーゴッド。集落で唯一の女性ナネット・ローランド(ベティ・ブライス)は、狩りに行って2年になる恋人ラオール・チャロラー(ロン・チャニー)の帰りを待っている。ナネットを恋慕する町の有力者で仲買人ダンカン(メルボルン・マクドゥエル)の息子、バッキー・マクドゥーガル(フランシス・マクドナルド)は、事業に失敗し病も重いナネットの父親(スポッティスウッド・エイトキン)への財政援助の代償にナネットに結婚を迫るが拒絶され、流れ者(チャールズ・A・スマイリー)に偽りのチャロラーの訃報を届けさせて自分との結婚を承諾させる。親熊とはぐれた子熊が育つのを待って愛犬と子熊を連れて山を下りてきたチャロラーは、ナネットの父の死とナネットとバッキーの結婚式の知らせに教会に駆けつけ、真実を知ったナネットはバッキーとの婚約を破棄して結婚式を中止させる。流れ者を用心棒に連れたバッキーはナネットの家に移り住んでいたチャロラーを襲撃し、マクドゥガルは格闘中に転倒して死に、チャロラーは殺人犯としてバッキー父子に領事のオコナー大佐(ルイス・ストーン)の拘置所に拘束される。ナネットの手引きで脱獄したチャロラーはナネットとともに国境近くの山林に逃げて、3年が経って子熊と愛犬は成獣に育ち、チャロラーとナネットの間には赤ん坊も生まれるが、バッキーとオコナー大佐が遂にチャロラーたちの山小屋を突き止めて逮捕しに来る。外出中のチャロラーをオコナー大佐が探しに出た隙にナネットはバッキーに襲われて無理矢理縛られてしまうが、熊と愛犬がナネットを助ける。悪天候で一旦引き返したオコナー大佐は負傷したバッキーを途中の山小屋で休ませ、再び赴いてチャロラーを逮捕するが突然の落雷で山火事が起こり、全勝した山からチャロラーとナネットは赤ん坊と熊と愛犬とともに、オコナー大佐を助けて降りてくる。山小屋ごとバッキーの焼死を確かめたオコナー大佐は、チャロラーの焼死を証言する約束をしてチャロラーとナネットたちを見逃して帰っていく。
本作はチェイニーというよりはベティ・ブライス(1893-1972)の主演映画で、チェイニーが登場するのは全編の1/4が過ぎた頃ですし、映画としてもメロドラマ作品なので1920年の普通映画として観た方がいいでしょう。チェイニーは純朴善良誠実な山男役で、『仮面の男』や『勝利』の仇役の狡猾残忍な将校上がりのドイツ・スパイやいかさまギャンブラーのナイフ使い、『天罰』のこの世のすべてを呪ったような主人公とは別人のようです。しかし「千の顔を持つ男」チェイニーは怪人の印象ばかりが強いものの『天罰』でもスーツ姿でわかる通りむしろ美男子と言っていい顔立ちで、本作のように窮地に陥れられた柔和な男を演じれば、実年齢がすでに37歳ですから本作の内容ならまだ20代の青年俳優の方が良かったかもしれませんが、心優しく繊細な人柄の役を演じて違和感がありません。ベティ・ブライスはサイレント時代に『シバの女王』'21を代表作とし、トーキー以降は性格俳優となって'64年に『マイ・フェア・レディ』'64の出演を最後に引退するまで60作近いサウンド・トーキー映画にも出演していたというキャリアの長い女優だそうで、また監督のデイヴィッド・ハートフォード(1873-1932)も俳優兼監督としてサイレント時代に活躍した人だそうで、ヘンリー・キング監督の『丘を越えて』'31に出演したのが遺作となったそうですから生涯現役映画人だったようです。監督としての代表作は『Back to God's Country』'19が上げられるそうですが、グリフィスより2歳年上なのを考慮しても手堅く破綻のない腕前ながらあまりに保守的な作風なのが本作からもうかがえ、本作もチェイニー準主演映画でなければ歴史に埋もれてしまっていたかもしれません。カナダの山奥ものと言えば『白き処女地』や『大自然の凱歌』が思い浮かびますし、ホークスの『大自然の凱歌』はともかくデュヴィヴィエの『白き処女地』と比較するならこの『大北の生』の方が良くないか、とも思えますが、『白き処女地』もジャン・ギャバンの準主演で名を残しているので、あの映画も男たちよりもマドレーヌ・ルノーのヒロイン映画でした。カナダ、雪山、山林、山奥というと欧米人のイメージでは男性主人公による男の映画というより(『大自然の凱歌』は男の映画でしたが)、可憐なヒロインがひっそりと暮らしているイメージなのかもしれません。山もの映画ではグリフィス門下生のエリッヒ・フォン・シュトロハイムの初監督・主演映画の『アルプス颪』'19という強烈なのがあり、悪役映画としてもサイレント映画史上画期的な性格造型と鮮烈なリアリズム演出で度胆を抜いた作品でしたが、ああいう超弩級の作品と較べるのはフェアではないので、ハートフォードはごく月並みな映画監督だったかもしれませんが、月並みでも1920年に映画はこのくらい安定した水準に達していたという良い見本にもなっています。本作は前回に観た『仮面の人』『勝利』『天罰』のどれよりも地味ですし、また『勝利』のクライマックスの火山の噴火のように唐突に山火事が映画のクライマックスになって発生しますが、これは当時亡くなったジャック・ロンドン(1876-1916)に代わる人気大衆作家だったというジェームズ・オリヴァー・カーウッド(1878-1927)の'19年の原作小説自体がそういう筋書きだったのでしょう。単純な内容ながら映画としての落ち着いた話法では、前回ご紹介した3作よりも本作に軍配を上げてもいいほどです。
あらすじをご覧になれば一目瞭然ですが、本作はカナダの山奥を舞台にしてはいるものの、話の内容はほとんど人情西部劇です。ハリウッド映画は見事に調教された動物(それと達者な子役)を話に絡める伝統がありますが、本作は年代的にもかなり早い例で、犬は当然ながら子熊、成長した熊も着ぐるみなどではなく動物に演技させています。赤ん坊も撮影現場ですから普通の赤ん坊ならとてもこうはいきませんが、相当馴らした赤ん坊を起用しているようで天使のようににこにこと笑っています。山火事のクライマックスはユニヴァーサル・スタジオに作ったオープン・セットの森林を6台のカメラで撮影したものだそうで、チェイニーとブライスは崩れたセットで火傷を負って10日間入院して撮影中断になったといいますから大変な撮影だったのがわかりますが、その割には盛り上がらないというか、どうせ助かる話の筋が読めてしまいますし、海や川や雪山で遭難したのと違って山火事からの逃げ方にあまり工夫は仕組みようがないので、どうやって脱出するかといったサスペンスは山火事では作り出しようがないとも言えます。せいぜい焼け落ちて倒れてきた木に挟まったオコナー大佐を助けるとか、熊や犬が器用に主人公たちについて来るのが見ものなくらいで、こういう撮影は大変なのに映像にしてしまうとそれほど効果のない場面というのはよくあることですから、『レベッカ』のような館の全焼はいざ知らず、山火事が効果を上げた映画といっても他に思いつかず、たぶん他にあまり例がない(つまり、大して効果がないのでやらない)山火事のシーンを反面教師のように観るという見方もできます。サスペンスを上げるためにはもっと密閉された状況か、迷ってしまうような状況が必要だったということです。しかしこの次作が『法の外』なのを思うと、1920年後半のチェイニーは8月『天罰』公開、10月本作公開、12月『法の外』公開と、話題作に恵まれて充実した時期に入っていたのがわかります。またこの時期にはまだチェイニーに依頼されるのが異常な性格の配役ばかりではなかったのも、本作がカナダ国立美術館の保存作品に選ばれて散佚しなかったからこそ確かめられるので、チェイニーが割と普通の愛憎ロマンス映画の男性主人公を演じているのも本作ならではの見所になっていると言えるでしょう。
●8月5日(日)
『法の外』Outside the Law (監=トッド・ブラウニング、Universal Film Manufacturing Company'20.Dec.26)*75min(Original length, 75min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/QX1SknogTTU
[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より)「スタムブールの處女」を完成して以来約1個年を費やしプリシラ・ディーン嬢を主役として製作されたトッド・ブラウニング氏の監督映画で、製作に25万ドルを要したと伝えられる。最近「宝島(1920)」「ヴィクトリー」等でめきめきとその悪役振りを認められたロン・チャニー氏がブラック・マイク・シルヴァという暗黒街の頭分と、ジョー・ワングと言う中国人の下男の2役を、実に明確に演じ分けている。ディーン嬢の相手は夫君ウィーラー・オークマン氏で、最後の辺りの猛烈な格闘は「スタムブールの處女」以上遥かに凄いものであった。壮麗な舞台装置と巧妙を極めた光線の使用は緊張した筋をより以上に引き立たしめている。中華街に用いてある淡紅色の染色が美しい印象を残した。中華街内部のセットにも他の映画に見たようなグロテスクな滑稽味はほとんど見られず、真実味が漂っていた。原作者であり監督者であるトッド・ブラウニング氏の頭の緻密さが全編に見られる。8巻の長尺を息も継がせない。
[ あらすじ ](同上) かつては相当有名であった悪漢のサイレント・マッドン(ラルフ・ルイス)は、サンフランシスコの中華街に住んで、中国人チャング・ロウ(E・アリン・ウォーレン)の訓練によって改心している。ロウは法律よりも宗教の力を信じている男で、かつてから自己の信ずるところを説いていた。金鉱石のように汚れなき、しかし堅い心を持った乙女なるマッドンの娘モリー(プリシラ・ディーン)も、昔は父と共に悪事を働いたこともあったが、今は父と共に平和な日を送っている。かつてマッドンの部下であったブラック・マイク・シルヴァ(ロン・チャニー)は「名誉」とか「恐怖」とかを知らぬ恐ろしい男で、今は暗黒街の頭分である。心得違いにも彼はマッドンに復讐しようと決心して、自ら警官を銃殺してその罪をマッドンに被せる。マッドンは証拠不十分として8カ月の禁固に処せられた。その留守中にシルヴァはモリーをも警官に捕らえさせようとしてビル・バラード(ウィーラー・オークマン)をして彼女と共に仕事をさせ彼女だけを捕らえさせようとしたが、ビルはシルヴァを裏切って、スペンサ(メルボーン・マクドウェル)ー家から盗み出した宝石を彼に渡さずモリーと共に隠れ住んだ。数カ月の後彼らの隠れ家を突き止めたシルヴァは2人を襲ったが、その場に探偵に踏み込まれ、モリーの機知から2人は逃れてチャング・ロウの家に帰ってきた。2人は正当な道を歩むべことを悟って、宝石をスペンサー家に戻すことにしていた。シルヴァは再び手下と共にここを襲ってきた。大格闘の幕は切って落とされた。シルヴァは中国人の下男ジョー・ワング(ロン・チャニー)に狙撃され、2階から下に墜落し重傷の身を街上まで這い出したが力尽きて死ぬ。チャング・ロウは警官に宝石を返してモリーとビルが正道を歩むべきことを誓った。
監督トッド・ブラウニング(1880-1962)は本作ではルシエン・ハバード(1888-1971)と共同脚本も勤めていますが、そもそも本作はブラウニング自身の原作によるもので、ルシエン・ハバードはチェイニー作品では後の『狼の血』'22も手がけており、最大の成功はプロデューサーに転身してウィリアム・A・ウェルマン監督のアカデミー作品賞第1回受賞作『つばさ』'27を製作したことでしたからブラウニングとは異なる指向の脚本家だったとも思えます。ブラウニングもそもそもは、後のユニヴァーサルの怪奇映画路線を定着させた『吸血鬼ドラキュラ』'31や、MGMの社運を傾かせた『怪物団(フリークス)』'32の異色のカルト映画監督というより、グリフィスの『イントレランス』'16の助監督から出てラオール・ウォルシュ(『国民の創生』'15の助監督と出演)に次ぎ、シュトロハイムより早く(もっとも、シュトロハイムがグリフィス作品に参加したのはウォルシュやブラウニングより遅く、『世界の心』'18でしたが)グリフィス門下生監督として'17年から監督デビューしていた実力派で、怪奇というよりは猟奇映画路線が専門になったのは後のチェイニーとのコンビ作『三人』'25以降でした。本作はチャイナタウンやギャングが登場する犯罪映画ですが、まだ怪奇または猟奇というよりも社会派の問題作の色合いが強いものです。ブラウニングは本作を'30年にエドワード・G・ロビンソン主演でトーキー作品にセルフ・リメイクしており、ロビンソン主演のギャング映画と言えばギャング映画の大ブームを引き起こしたマーヴィン・ルロイ監督の『犯罪王リコ』'31ですから、その前年に『犯罪王リコ』のようなリアリズム映画ではないにせよロビンソン主演のギャング映画を作った功績もある、アメリカ映画史の陰で実は非常に重要な役割を果たしてきた監督で、その極端な結果がアメリカ映画史上にもっとも悪名高い怪作『怪物団』で、『怪物団』の興行的大失敗から極端に作品のペースが減ったブラウニングは『怪物団』の後4作を不如意な製作環境で撮り、'39年の『Miracles for Sale』を最後に引退を余儀なくされます。短編時代はともかく、チェイニーの出演した長編映画で10作を監督した最多チェイニー作品監督でもあります。本作も『大北の生』同様チェイニー作品というよりもプリシラ・ディーン(1896-1987)の主演のヒロイン映画として製作されたもので、チェイニーの序列はディーンとディーンの父親役のラルフ・ルイスに次いで3番目で、ディーンの恋人役で実生活でも夫だったウィーラー・オークマン(4番目)よりは上です。実際本作はチェイニーの演じるNo.2のボスが、服役中のNo.1ボス(ラルフ・ルイス)の娘であるディーンの見張りと共犯者役にオークマンを任命し、オークマンとディーンの間にロマンスが芽生えるのがメイン・プロットなので、ディーンとオークマンの二人が主役の映画です。チェイニー演じるNo.2のボスは比重を落としてしまえばほとんどいてもいなくてもいい役割なので、映画はチェイニーの出番をいかに生かすかでかなりの無理が生じています。オリジナル由来なのか後世の修復が原因か、カットバック描写で一部混乱した箇所もあり、『ハートの一』でも同様のカットバックの混乱箇所がありますが、本作は華僑の賢人のチャング・ロウ(E・アリン・ウォーレン)の視点、ディーンとオークマンの犯罪組織から足を洗おうとする若いカップルの視点にギャングのNo.2ボスのチェイニーの視点と、3つの視点から平行して描かれ、このうち前2者の視点は常に交わっているのにチェイニー側の視点は単に平行しているだけで華僑のチャング・ロウともディーンとオークマンの二人とも関わりなしに進むのに難点があり、結末でチェイニーがチャング・ロウの家に全員集まったところで殴りこみに来てチャング・ロウの門弟のアー・ウィン(チェイニー二役、キネマ旬報の役名は実際の映画では変わっています)に返り討ちに遭うのがとってつけたようになっている難があります。エドワード・G・ロビンソン主演のトーキー版リメイクは未見ながら、文献によればストーリーは同様のようですが、チェイニー演じるNo.2ボスの描き方次第でどうにでもなるはずなので、本作はチェイニーが多忙だったか、チェイニーが他のメイン・キャストと絡むシーンが全然ないのです。
キネマ旬報の「近着外国映画紹介」の解説では本作は絶賛に近い紹介がされており、トッド・ブラウニング監督作のプリシラ・ディーン主演作は『スタムブールの處女』'20の前に『気儘な女』'19があり、『スタムブールの處女』は未見ですが『気儘な女』はなかなか面白い犯罪メロドラマで、チェイニーもスリの役で助演出演していました。ディーンはまだアメリカ映画の主流が短編時代の'12年に16歳でデビューしていますが、映画のトーキー化間もなく'32年を最後に引退していますからほぼ純粋にサイレント映画時代の女優と言っていいでしょう。本作はギャングのボスである父が服役中にギャング稼業から足を洗いたい(警察やギャング仲間の間では「シルキー・モリー」と呼ばれている)ディーンに足を洗わせまいと、No.2のボスのチェイニーが若い衆のオークマンにディーンと宝石泥棒をするよう命じるのですが、すぐに警察にマークされ外出できなくなってしまいます。同じアパートに住んでいる幼稚園児くらいの男の子(スタンリー・ゴールサルス)がオークマンになついて、子供好きのオークマンは凧を作ってやったりするのをディーンは軽蔑しますが、子供はディーンにもなついてくるのでいつの間にかディーンも男の子を可愛がるようになってしまいます。男の子を迎えにきた母親から男の子の父は警察の捜査官(ウィルトン・タイラー)であることがわかり、オークマンはディーンを説得して宝石を返して自首して犯罪から足を洗おう、と当初から立場が逆転するのですが、ディーンは映画冒頭では父のラルフ・ルイスとともに華僑のE・アリン・ウォーレンから論語を学んでいて、父親ともどもギャングから足を洗おうとしているのを、No.2のチェイニーがボスのルイスを罠にかけてルイスは懲役刑を食らうことになり、チェイニーの策略とは気づかないディーンとルイスは論語の教えに従って生きようとしても世間は犯罪者扱いするではないか、と華僑のウォーレンの教えを疑うようになってしまいます。オークマンの改心からディーンと、刑期を終えて帰ってきたルイスもようやくチェイニーの策略に気づくのですが、キネマ旬報の解説通りなら製作期間1年、製作費も当時としてはA級大作級の25万ドルがかかっているというのは凝ったチャイナタウンのセットに反映している割には、映画の筋書きには動きが乏しい観があります。主人公カップルが宝石泥棒しに紛れこむ富豪スペンサー(メルボーン・マクドウェル)家のパーティー場面など、舞台劇で言えば場面転換は多彩なのですが、ギャングの若衆のひとりのオークマンが改心するのがドラマの要になっているのに、オークマンが最初から好青年に描かれているためせっかくの設定があまり生かされていないのです。チェイニーは'20年に6作の映画に出演していますが、'20年度の最後の作品になった本作ではスケジュール面で他のキャストと絡むシーンが作れなかったのではないか、と思われます。クライマックスはオークマンの裏切り(改心)を知ったチェイニーがチャイナタウンのウォーレン宅にかくまわれているディーン父娘とオークマンに殴りこみに来るアクション・シーンですが、チェイニーを返り討ちに遭わせるウォーレンの門弟アー・ウィンはチェイニーの一人二役なので、このクライマックスは門前払い同様にあっという間に射殺する、射殺されるチェイニーの独り舞台と言っていいので、ディーン父娘とオークマンの本当の仇敵であり、ギャングから足を洗う障害であるチェイニーの出番が少なすぎるばかりでなく、直接対決するシーンが描かれずに映画が始終してしまうのが作劇上の弱点になっています。それが本作の公開当時は看過されたのは、当時の観客にとっては本作はあくまでプリシラ・ディーン主演のヒロイン映画の犯罪メロドラマだったからでしょう。ハリウッド映画らしい達者な子役も実に可愛いらしく、娯楽映画らしい大衆性がありますが、後世の観客は何と言ってもブラウニング監督のチェイニー出演作として観るので、後年のブラウニング監督作に特徴的な邪悪さ、悪漢としてのチェイニーの存在感が乏しいのが気にかかりますし、『天罰』で監督ワースリーが描き、チェイニーが演じて見せたように、チェイニーは悪の化身であっても、もっと複雑な性格を演じることのできる俳優です。むしろ本作はオークマンの演じた役をチェイニーがもっと屈折して演じるべき作品だったでしょう。本作は残されたスチール写真からなどではチェイニー演じる中国人のアー・ウィンは実際の映画より出番は多かったと推定され、また本作は'20年代半ばにフィルムが散佚し、50年あまりを経た1975年にフィルムが発見された作品になるそうです。ブラウニング自身の原作は狙いは良く、ユニークな作品になっていますが(チャイナタウンは当時も今もアメリカ人の多くにとって神秘的な魔窟ですし、ギャングの世界もそうです)、本作ではまだブラウニングの描きたかったものが十分に実現できなかったような印象を受けます。
●8月6日(月)
『ハートの一』The Ace of Hearts (監=ウォーレス・ワースリー、Goldwyn Pictures Corporation'21.Oct.21)*75min(Original length, 75min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/1OSqiFG1qPs
○あらすじ(American Film Instituteより) ファラロン(ロン・チェイニー)とフォレスト(ジョン・バワーズ)が参加している、9人のメンバーからなる過激派の秘密結社は、街の有力者の腐敗を監視して次々と暗殺する計画を立てて実行していた。暗殺の実行者はメンバーの中からハートのエースを引いた者が担当することになっていた。ファラロンはメンバー唯一の女性、リリス(レアトリス・ジョイ)を愛していたが、次の暗殺計画の謀議でハートのエースを引いたフォレストはそれをきっかけにリリスに求婚し、リリスも求婚を承諾する。メンバー中の化学者が製造したレストランの爆弾テロによる暗殺計画は、実行犯になるフォレストも死を覚悟しなければならないもので、ファラロンから計画の内容を聞いたリリスは計画実行が近づくにつれ不安になり、遂にフォレストとの逃避行を持ちかけるようになった。計画実行当日、アジトで待機するメンバーたちが爆弾テロのニュースを待っていると、駆け落ちの約束をして待ち合わせていたカップルがレストランにいたためテロを中止した、とフォレストが時限爆弾を持って帰ってきた。フォレストはリリスを連れて去り、残りの7人のメンバーはフォレストとリリス暗殺の実行犯を決めるためカードを引くが、ハートのエースを引いたファラロンはリリスとフォレストを守るため時限爆弾を起動させており、ファロランは哄笑しながら秘密結社のメンバーとアジトごと自爆する。列車で遠方の山奥の町に降りたフォレストとリリスは号外の新聞でビルの爆破事件と7人の死者、うち一人の遺体はハートのエースのカードを手に握っていたという記事を読み、山林の中に消えていく。
ゴールドウィン・ピクチャーズのTM画面に続いてタイトル代わりにハートのエースのカードが映されてクレジット・タイトルが始まる本作は全10章に区分され、「第1章・秘密結社」「第2章・計画」「第3章・ハートのエース」「第4章・他人の幸福」「第5章・目覚め」「第6章・大売り出し」「第7章・長生きしすぎた男」「第8章・号外!号外!」「第9章・長生きしすぎた男たち」「第10章・エースは去った」とそれぞれ章ごとにタイトル字幕が出ます。1921年のロン・チェイニー出演作は一時的にペースが落ちていて、ベティ・コンプソン(後にスタンバーグの名作『紐育の波止場』'28に主演)とチェイニーの主演の『For Those We Love』が3月公開、ノア・ビアリー(シニア)やアンナ・メイ・ウォンとともに主演した9月公開の『Bits of Life』があり、前者はロマンティック・ラヴ・ロマンス映画、後者はオムニバス映画の走りでチェイニーは中国人役で出演しているそうですが、この2作ともフィルム散佚作品になっていてスチール写真や宣伝資料、映画評などで内容が伝えられているだけで、実物を観ることはできません。忘れた頃に南米や旧共産圏で発掘される可能性はあるので、'14年~逝去する'30年までに長編83作に出演し、現存作品47作(不完全版含む)、散佚作品36作というのがチェイニー作品の現状ですが、公開作品中75%以上が散佚していると言われるサイレント時代のアメリカ映画にあって、チェイニーの出演作はまだしも残っている方です。また、本作は'20年8月公開の『天罰』の原作・監督であるガヴァナー・モリス(1976-1953)原作、ウォーレス・ワースリー(1878-1944)監督の再コンビ作であり、『天罰』が正真正銘チェイニーが主演の、チェイニーでなければ実現しなかった名作だったことを思えば、本作はチェイニーがビリング(配役序列)のトップではなくヒロイン役のレアトリス・ジョイと男性主人公役のジョン・バワーズが主演カップルで、ロン・チェイニーは第三の男役ですが、今回も映画の悲劇性を一身に引き受けているのはチェイニーの演じる、アナーキスト・グループ内でも自分の居場所を失ってしまった自滅的叛逆者です。腐敗した権力者・有力者を調査して次々と暗殺していくアナーキストのテロリスト・グループを描いた本作はテーマとしてはジョン・フォードの『男の敵』'35やヒッチコックの『サボタージュ』'36の先駆的作品ですが、『男の敵』や『サボタージュ』が名高い文学作品の映画化であるのに対して『天罰』と本作の原作者のモリスはパルプ・マガジン作家で、現代日本で言えば「ラノベ」やコミックス原作映画みたいなもので、悪趣味と俗悪の代名詞なのが当時のパルプ・ノヴェルなので、ジョセフ・コンラッドが原作のモーリス・トゥーヌール監督作『勝利』'19とは事情が違います。しかし純粋芸術の分野とは言えない小説や映画では、悪趣味で俗悪と見える趣向がものを言う場合もしばしばあります。チェイニーはしばしば文芸映画に分類されるような作品にも出演していますが、フランスの大衆小説が原作の『オペラの怪人』'25と並んでチェイニーの2大代表作である、ワースリーが監督の『ノートルダムの傴僂男』'23がヴィクトル・ユゴー原作の文芸映画でありながらチェイニー映画そのものになったのは、原作小説の文学性によるものではないでしょう。
トッド・ブラウニングに次いでチェイニー出演作を多く手がけたのがウォーレス・ワースリーですが、ブラウニングが真のチェイニー映画と言えるものを作るのは、しばらく間を置いた'25年の『三人』『黒い鳥』からなので、この時期にはワースリーの監督作品の方がチェイニーの真価を引き出した映画になっています。『法の外』もなかなかの作品なのですが、まだ本当にチェイニーに最高の存在感を発揮させた映画とは言えなかったきらいがあります。『ハートの一』はアナーキストの秘密結社による爆弾テロという題材のチェイニーの失恋映画で、映画全体にあまり人物の動きがない点でも『法の外』と偶然の類似がありますが、『法の外』ではそれが映画の難点になっているのに対して『ハートの一』ではクライマックスぎりぎりまで映画が静的なのが緊迫感を生んでいるのは爆弾テロ計画の決行というリミットに向かって映画が進んでいるからで、『法の外』ではクライマックスまで人物を動かさないのが停滞感をもたらしてしまっていましたが、『ハートの一』では爆弾テロが決行されても中止されても一大事になる、というカタストロフに向かいます。ワースリーの演出も効果的な様式性を生かしたもので、暗殺実行犯を決めるための時計回りのカード配りの場面が反復されますが、一周目は円卓型のテーブルとほぼ平行な角度で、二周目はテーブルを真上から俯瞰でとらえて映されます。こうした様式性は実行犯に選ばれたバワーズが給仕として潜りこんだレストランでも生かされていて、テロの目的の権力者が朝食をとりに現れるのを待つバワーズが椅子に時限爆弾を仕掛けた後、目的の人物がいつもの時刻に現れるまで、バワーズは目的のテーブルの隣のテーブルに駆け落ちの約束をして待ち合わせて、すっかり自分たちだけの世界に入りこんでいる、自分とヒロインと同じ年頃の若いカップルが気になってためらい続けて、レストラン内のあちこちが微妙に異なるか同じままかを同じ構図のショットがくり返されてバワーズの焦燥感を伝える、といった具合で、'21年と言えばドイツではロベルト・ヴィーネ、フリッツ・ラング、F・W・ムルナウらの表現主義映画の隆盛期、フランスではアベル・ガンスの影響下にマルセル・レルビエ、ルイ・デリュック、ジャン・エプスタンらが印象派映画を作っていた頃ですが、チャップリンの『キッド』のような巨大な個人的才能によるものとは違うだけ、アメリカ映画史上で特に傑出した監督とも言われることのないワースリーのような監督の映画がごく当たり前のようにドイツ映画やフランス映画の実験的手法よりも自然で、かつこなれた映像技法を、ごく通俗的な娯楽映画の見かけを取りながら大胆に披露していて、しかも通俗犯罪メロドラマとしての大衆性は押さえながら、愛の敗者としての孤独、報われない愛への絶望といった非常に痛切なテーマをきちんと語りきっている点ではヨーロッパの芸術映画よりもずっと進んでいたと言ってもいいと思えます。本作の真の主人公はそういう意味でもチェイニーなのですが、作劇上チェイニーはクライマックスまでずっと耐え忍んだあげくアナーキスト・グループを巻きこんで自爆するという壮絶な役なので、それまでのドラマは主人公カップルが担っており、またチェイニーは彼らのために秘密結社ごと自爆するので主人公カップルは生き延びてチェイニーの死を知らなければストーリーが完結しないので、物語上の主人公はあくまでテロリスト・グループから足を洗うカップルが担うことになります。本作は実は一旦異なる結末で作られて試写を観たプロデューサーのゴールドウィンが撮り直しを命じたそうで、最初の結末では逃げ延びて山奥で暮らし、赤ん坊も設けた主人公カップルがある日外出して戻るとハートのエースのカードが山小屋近くの木の枝に挟んであるのを見つけ、家に入ると雙腕・雙脚になったアナーキスト・グループのリーダー(ハーディー・カークランド)が訪ねてきていて、チェイニーが破壊活動ではなく愛が世界を変えると説いて爆弾を爆発させ、他のメンバーは皆爆死して自分だけが大怪我を負って生き残った、今ではチェイニーの言ったことの方が正しかったと認める、と主人公たちに語って終わる結末だったそうです。つまり主人公たちが秘密結社のアジトを出て行った後、主人公たちを暗殺せんとカードを配ってチェイニーがその間に時限爆弾のスイッチを入れ、ハートのエースを引いて「Kismet(宿命)!」と哄笑し、なぜ笑うと訊かれてあと2秒でわかるさ、と答えた途端に大爆発、そして主人公カップルは逃避行先で爆発事件の号外を見る、という第9章、第10章は撮り直しの成果だったということです。脚本家のルース・ワイトマンの脚本は最初から現在観られる映画通りではなかったわけで、生き残ったリーダーが間接的に爆破事件を語るよりも明らかに実際にそのシーンを描き全員が爆死する方がインパクトが強いですし、映画としても一貫性があります。主人公たちが赤ん坊まで設けて無事に暮らすまで描くのは蛇足めいているし、生き残りのリーダーが改心して出てくるなどという興ざめな結末でなくて正解で、ゴールドウィンはあまり良く言われないプロデューサーで映画の良し悪しなどわからない金の亡者のように伝えられますが、ちゃんと観る目はあったのです。主人公の自爆死で終わる映画は後に数々ありますが、1921年の時点ではひょっとしたら映画史上初の結末だったのではないでしょうか。