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現代詩の起源(19); 八木重吉遺稿詩集『貧しき信徒』昭和3年刊(ii)詩集『貧しき信徒』収録詩編の出典・未収録生前発表詩

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[ 八木重吉(1898-1927)大正13年=1924年5月26日、長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳 ]

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 八木重吉の第1詩集『秋の瞳』全117編(大正14年=1925年8月1日新潮社刊)が作者手控えの、大正10年春以来の詩稿をまとめた大正12年(1923年)1月~大正14年(1925年)3月までの小詩集40冊=1,455編の中から1編も『秋の瞳』に選ばなかった14冊=641編を対象外としても26冊=814編から97編を選択し、書き下ろしと見られる初稿不詳詩編20編を加えた成立事情は以前ご案内しました。全103編からなる第2詩集『貧しき信徒』は八木が病床にあった昭和2年(1927年)5月頃に編集を終え、第1詩集でも自費出版の仲介をした年長の再従兄弟の小説家・編集者、加藤武雄に託されましたが、同年10月の八木の逝去には刊行が間に合わず、翌年2月に追悼出版となります。八木重吉が小詩集単位にまとめていた膨大な未発表詩稿からは、『秋の瞳』『貧しき信徒』未収録の未発表詩編が徐々に『八木重吉詩集』(山雅房・昭和17年7月刊)、『八木重吉詩集』(創元社・昭和23年3月刊)、『信仰詩集 神を呼ぼう』(新教出版社・昭和25年3月刊)と増補改訂を経て、一旦『定本 八木重吉詩集』(彌生書房・昭和33年4月刊)に集成されます。同書は834編を収録していましたが、その刊行直後にさらに未発表詩編(小詩集11冊)が発見され、360編を収録した『<新資料 八木重吉詩稿> 花と空と祈り』(彌生書房・昭和34年12月刊)が加わりました。しかし八木重吉の詩作の全貌がようやく明らかになったのは初の『八木重吉全集』全3巻(筑摩書房・昭和57年9月、10月、12月刊)の刊行を見てからで、『八木重吉詩集(山雅房版)』から『定本 八木重吉詩集』では未定稿と見なされ、抄出に留められていた膨大な未発表小詩集が同全集で判明している限りほぼ完全に翻刻されたのです。詩集『秋の瞳』収録詩編初出小詩集一覧は以前に掲げましたので、全集解題によって『貧しき信徒』の時期の小詩集も一覧にしてみます。

[ 詩集『貧しき信徒』収録詩編初出小詩集一覧 ]
1○詩稿 桐の疏林(大正14年4月19日編)詩48編、生前発表詩4編、『貧しき信徒』収録1編
2○詩稿 赤つちの土手(大正14年4月21日編)詩39編
3○春のみづ(大正14年4月29日編)詩8編、生前発表詩5編
4○詩稿 赤いしどめ(大正14年5月7日編)詩32編、生前発表詩1編、『貧しき信徒』収録2編
5○詩稿 ことば(大正14年6月7日)詩67編、生前発表詩9編、『貧しき信徒』収録7編
6○詩稿 松かぜ(大正14年6月9日)詩18編
7○詩稿 論理は熔ける(大正14年6月12日)詩37編
8○詩稿 美しき世界(大正14年8月24日編、「此の集には愛着の詩篇多し、重吉」と記載)詩43編、生前発表詩10編、『貧しき信徒』収録11編
9○詩・うたを歌わう(大正14年8月26日)詩27編、生前発表詩1編、『貧しき信徒』収録7編
10○詩・ひびいてゆこう(大正14年9月3日編)詩21編、生前発表詩3編、『貧しき信徒』収録3編
11○詩・花をかついで歌をうたわう(大正14年9月12日編、「愛着の詩篇よ」と記載)詩34編、生前発表詩6編、『貧しき信徒』収録8編
12○詩・母の瞳(大正14年9月17日編)詩24編、生前発表詩5編、『貧しき信徒』収録5編
13○詩・木と ものの音(大正14年9月21日編)詩24編、生前発表詩1編、『貧しき信徒』収録1編
14○詩・よい日(大正14年月日)詩41編、生前発表詩2編
15○詩・しづかな朝(大正14年10月8日編)詩40編、生前発表詩3編、『貧しき信徒』収録2編
16○詩・日をゆびさしたい(大正14年10月18日編)詩34編、生前発表詩7編、『貧しき信徒』収録6編
17○雨の日(大正14年10月編、自薦詩集、推定約20編・現存10編、既出小詩集と重複)
18○詩・赤い寝衣(大正14年11月3日)詩43編、生前発表詩5編、『貧しき信徒』収録6編
19○晩秋(大正14年11月22日編)詩67編、生前発表詩3編、『貧しき信徒』収録3編
20○野火(大正15年1月4日編)詩102編、生前発表詩7編、『貧しき信徒』収録7編
21○麗日(大正15年1月12日編)詩32編、生前発表詩6編、『貧しき信徒』収録4編
22○鬼(大正15年1月22日編)詩40編、生前発表詩2編、『貧しき信徒』収録2編
23○赤い花(大正15年2月7日編)詩54編、生前発表詩5編、『貧しき信徒』収録3編
24○信仰詩篇(大正15年2月27日編)115詩編、生前発表詩9編、『貧しき信徒』収録9編
25○[欠題詩群](大正15年2月以後作)詩29編、生前発表詩3編、『貧しき信徒』収録3編
26○[断片詩稿](推定大正14年作)詩15編
27○ノオトA(大正15年3月11日)詩117編、生前発表詩6編、『貧しき信徒』収録6編
28○ノオトB(大正15年5月4日)詩19編
29○ノオトC(大正15年5月)詩5編
30○ノオトD(大正15年6月)詩24編
31○ノオトE(昭和元年12月)詩29編、生前発表詩2編、『貧しき信徒』収録5編
32○歿後発表詩(原稿散佚分)詩38編

 ――以上、第1詩集『秋の瞳』編纂後に始まる八木重吉の手稿は小詩集(病床ノオト)32冊分(うち25、26は未整理分で、32は生前発表された詩編中小詩集に出典がないもの)を数え、総数では1,213編(17は全編重複により除外)に上ります。そのうち生前発表詩にも『貧しき信徒』にも採られていない小詩集(病床ノオト)が7部あり(2、6、7、26、28、29、30)、7部で157編ですが、これを分けて小詩集32冊=1,213編とし、選出対象小詩集25冊=1,056編・未選出7冊=157編としても、『秋の瞳』の時期の小詩集40冊=1,455編、うち選出対象小詩集26冊=814編・未選出14冊=641編とは取捨選択の比率が大きく異なります。筑摩書房版『八木重吉全集』での調査では、詩集『貧しき信徒』の収録詩編全103編の制作時期は、
・大正14年(1925年)4月~12月=62編
・大正15年(1926年)1月~3月=28編
・大正15年3月~昭和2年(1927年)の病床ノオトより=11編
・年代不詳=2編
 ――となり、全103編中90編が生前に各種の詩誌・新聞雑誌に発表されていたのが判明しました。『貧しき信徒』未収録の生前発表詩も29編ありますから(うち24編は小詩集から、残り5編は直接雑誌発表)、ほぼ4年間に渡る制作時期から同人詩誌などの発表舞台を経ずに完全に未発表の117編が選ばれた第1詩集『秋の瞳』とは、大正14年春~大正15年春までの1年間の制作から発表詩90編を中心に103編を集めた第2詩集『貧しき信徒』は制作期間も詩集成立過程自体も大きく異なるものでした。

 八木重吉はまったく詩誌への投稿も同人詩誌活動への参加もせず、再従兄弟の加藤武雄のつてで第1詩集『秋の瞳』を自費出版した詩人でしたが、同詩集は当時精力的だった中堅詩人の佐藤惣之助の目にとまり佐藤の主宰する同人詩誌「詩之家」に同人参加することになります。佐藤に遅れてもっと若い世代の草野心平から草野の主宰する詩誌「銅鑼」へ誘われますが、こちらへは「詩之家」への義理立てから同人参加はせず寄稿者に止まりました。もっとも「詩之家」と違って、「銅鑼」の場合は同人参加費の負担もありかけ持ちを止まったかもしれません。「銅鑼」「学校」「歴程」と続く草野の主宰誌は高村光太郎でさえも同人費を払って参加して成り立っていたほどでした。また詩誌に作品を発表するようになっても家庭を持ち中学校の英語教師だった八木は詩人たちとのボヘミアン的な交際はなく、ほとんど詩集の寄贈や礼状、近況報告やお祝い、連絡程度の手紙のやり取り程度だったようです。それは第1詩集『秋の瞳』刊行から半年ほどで肺結核の発症があり、2か月間の入院を経て絶対安静の病床生活になったからでもあります。八木が逝去したのは昭和2年10月ですが、絶筆と言えるのが同年5月ですから晩年の重篤と、昭和2年3月の詩集『貧しき信徒』編纂がいかに八木にとって最後の力をふりしぼったものかを示すようです。大正15年=昭和元年は元号が変わったためにややこしいですが、簡略な年表にすると、

・1925年(大正14年)8月…『秋の瞳』刊行
・1926年(大正15年)3月…結核発症により休職、5月より重篤化
・1926年(12月、大正15年→昭和元年改元)
・1927年(昭和2年)3月…病床で『貧しき信徒』編纂開始(~5月完成)
・1927年…5月絶筆、10月26日逝去

 ――この年表に照らすと、

[ 詩集『貧しき信徒』収録詩編初出小詩集一覧 ]
24○信仰詩篇(大正15年2月27日編)115詩編、生前発表詩9編、『貧しき信徒』収録9編
25○[欠題詩群](大正15年2月以後作)詩29編、生前発表詩3編、『貧しき信徒』収録3編
<26○[断片詩稿](推定大正14年作)詩15編>
27○ノオトA(大正15年3月11日)詩117編、生前発表詩6編、『貧しき信徒』収録6編
28○ノオトB(大正15年5月4日)詩19編
29○ノオトC(大正15年5月)詩5編
30○ノオトD(大正15年6月)詩24編
31○ノオトE(昭和元年12月)詩29編、生前発表詩2編、『貧しき信徒』収録5編

 ――が、結核の発症で倒れる前後の最後の作品群に当たるのがわかります。また小詩集からの生前発表詩の選出がそのまま詩集『貧しき信徒』に生かされていることからも、詩集編纂に先立って八木にとっての自信作選出はほぼ出来上がっていたと思えます。第1詩集『秋の瞳』以降に八木重吉が制作した詩編は現存するだけで総数1,213編に上り、生前に詩誌・新聞雑誌に発表した詩編は119編、うち90編は歿後刊行を見た全103編収録の第2詩集『貧しき信徒』に採録されました。『貧しき信徒』未収録の生前発表詩が『貧しき信徒』収録詩編に次ぐか、同等に重要と見られるゆえんです。また詩集収録詩編ではなく単独に雑誌発表詩編として読むと、これらは意外に詩集収録詩編よりも独立性の高い詩編と取れるのです。これら詩集未収録生前発表詩編は八木自身によって詩集『貧しき信徒』補遺として併せて読まれるだけの精選を経ていると見てもいいでしょう。

八木重吉詩集『貧しき信徒』
昭和3年(1928年)2月20日・野菊社刊

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●『貧しき信徒』未収録生前発表詩29編

   いきどほり

 わたしの
 いきどほりを
 殺したくなつた


   かけす

 かけす が
 とんだ、
 わりに
 ちひさな もんだ
 かけすは
 くぬ木ばやしが すきなのか、な


   路

 消ゆるものの
 よろしさよ
 桐の 疏林に きゆるひとすぢに
 ゆるぎもせぬこのみち


   丘

 ぬくい 丘で
 かへるがなくのを きいてる
 いくらかんがへても
 かなしいことがない

  (以上4編、大正14年7月17日「読売新聞」)


   椿

 つばきの花が
 ぢべたへおちてる、
 あんまり
 おほきい木ではないが
 だいぶ まだ 紅いものがのこつてる
 じつにいい木だ
 こんな木はすきだ


   心

 死のうかと おもふ
 そのかんがへが
 ひよいと のくと
 じつに
 もつたいない こころが
 そこのところにすわつてた


   筍

 もうさう藪の
 たけのこは
 すこし くろくて
 うんこのやうだ
 ちつちやくて
 生きてるやうだ


   春

 ふきでてきた
 と いひたいな
 あをいものが
 あつちにも
 こつちにもではじめた
 なにか かう
 まごまごしてゐてはならぬ
 といふふうな かんがへになる


   顔

 悲しみを
 しきものにして
 しじゆう 坐つてると
 かなしみのないやうな
 いいかほになつてくる
 わたしのかほが


   絶望

 絶望のうへへすわつて
 うそをいつたり
 憎くらしくおもうたりしてると
 嘘や
 にくらしさが
 むくむくと うごきだして
 ひかつたやうなかほをしてくる


   雲

 いちばんいい
 わたしの かんがへと
 あの 雲と
 おんなじくらゐすきだ


   断章

 ときたま
 そんなら
 なにが いいんだ
 とかんがへてみな
 たいていは
 もつたいなくなつてくるよ


   春

 あつさりと
 うまく
 春のけしきを描きたいな
 ひよい ひよい と
 ふでを
 かるくながして
 しまひに
 きたない童(コドモ)を
 まんなかへたたせるんだ

  (以上9編、大正14年8月「文章倶楽部」)


   原つぱ

 ずゐぶん
 ひろい 原つぱだ
 いつぽんのみちを
 むしやうに あるいてゆくと
 こころが
 うつくしくなつて
 ひとりごとをいふのがうれしくなる


   松林

 ほそい
 松が たんとはえた
 ぬくい まつばやしをゆくと
 きもちが
 きれいになつてしまつて
 よろよろとよろけてみたりして
 すこし
 ひとりでふざけたくなつた

  (以上2編、大正14年9月「文章倶楽部」)


   栗

 あかるい、日のなかにすわつて
 栗の木をみてゐると
 栗の実でももいで
 もつてゐたいやうな気がしてくる


   よい日

 よい日
 あかるい日

 こゝろをてのひらへもち
 こゝろをみてゐたい


   山

 あかるい日
 山をみてゐると
 こゝろが かがやいてきて
 なにかものをもつて
 じつと立つてゐたいやうな気がしてくる

  (以上3編、大正14年11月「詩之家」)


   竹を切る

 こどものころは
 ものを切るのがおもしろい
 よく ひかげにすわつて
 竹をきりこまざいてゐた


   とんぼ

 ゆふぐれ
 岡稲(おかぼ)はふさぶさとしげつてゐる
 とんぼがひかつてる
 おかぼのうへにうかんでる

  (大正14年12月「近代詩歌」)


   冬

 あすこの松林のとこに
 お婆さんがねんねこ袢襦を着て
 くもつて寒い寒いのに
 赤い頭布の赤ん坊を負ぶつてゐるのがうすく見える
 ほら 始終ゆすつてゐるだらう
 あれにひき込まれそうにわくわく耐らなくなつてきた


   朝

 門松の古いのを庭隅へほつておいたら
 雀がたくさんはいりこんでゐる
 ひどい霜で奴等弱つてゐるな


   冬

 真つ赤な子供が
 どこかで素裸で哭いてゐる
 そつと哭いてゐるがとても寄りつけない


   冬

 外へ出てゐたが
 明るいのがさびしくなり
 家へはいつて来た


   冬

 朝から昼
 それから晩と
 うつつてゆく冬の気持ちは
 つい気づかずにしまふ位かすかではあるが
 一度親しみをもつと忘れられない


   冬

 しづかな日に
 ぼんやり庭先きの葉のない桜などみてゐたら
 なんだかうつすらした凄い気持ちになつた


   冬

 桃子とふざけながら
 たのしい気持でゐても
 ときたま赤いような寂しさをみたとおもふ

  (以上7編、大正15年3月「詩之家」)


   暗い心

 ものを考へると
 暗いこころに
 夢のようなものがとぼり
 花のようなものがとぼり
 かんがへのすえは輝いてしまう

  (大正15年9月「詩之家」)


   無題

 藪田君が今日見舞に来てくれてうれしかつた

  (昭和2年5月「生誕」)


(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(以下次回)

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