バスター・キートン・プロダクションは'28年の『キートンの蒸気船』まで10本の長編を発表して解散し、キートンは大手映画会社MGMと専属契約しますが、MGMの方針はキートンをいち俳優として扱い、製作・企画・監督・脚本はMGM側のスタッフが担当するというものでした。キートンは『恋愛三代記』以前にもヒット舞台劇の映画化作品『馬鹿息子』'20に単発で俳優専業で出演経験がありましたが、キートンをチャップリンやロイドに並ぶ存在にしたと言えるキートン自身のプロダクションの作品群の後、キートン自身の自主性の発揮する余地のないMGMの製作体制は作品自体の質の低下もあってキートンをアルコール依存症に陥らせ、1933年度にはほとんど一方的にキートンはMGMとの契約を打ち切られます。チャップリンとロイドが旺盛な創作力と観客の嗜好を巧みに一致させて一時代を築き、名声を保ったまま引退までを演出してのけたのとは、キートンの処世の不器用さは対照的でした。またチャップリン、ロイドは自作映画の決定版マスター・プリントを保管していたので今日でも最上の状態で全盛期の全作品を観ることができますが、キートン作品はプロデューサーのスケンクもキートンも原盤を保管しておらず、またMGM時代の作品すらもがプリントの保管がずさんで、現存する流通プリントで観るしかありません。作品数でも全盛期の期間でも、また全盛期の人気でもキートンはチャップリンとロイドには及ばない人でしたが、チャップリンにもロイドにもなくてキートン映画にしかない突き抜けた感覚があり、一度観たら忘れられない強烈なイメージにあふれる点ではチャップリンやロイドをしのぐとも言える俳優兼映画監督です。それはバスター・キートン・プロダクション作品の10本の長編を頂点に、凋落著しいMGMでの俳優専業作品でも残照のように映画の見所となっています。入手の容易な日本版現行ソフトのヴァージョン・画質がまちまちなのが残念で、またキートンの最高傑作は短編19編にあるとの見方もできますが、短編作品についてはまたの機会に譲ります。キートン映画の面白さはチャップリンやロイド作品以上に視覚的な鮮やかさ、意外性によるので果たして感想文で上手くお伝えできるか、何とかやってみようと思います。
『キートンの馬鹿息子』The Saphead (監督ハーバート・ブラシェ、メトロ'20)*70min, B/W, Sillent; 本国公開1920年10月18日; https://youtu.be/ZAGct5dYE2k
本作はキートンがジョー・M・スケンクが設立したバスター・キートン・プロダクションで自作自演の短編を製作し始めてから単発の依頼でメジャーのメトロ社の長編映画の主演に抜擢されたもので、もとはダグラス・フェアバンクスが'13年に主演したヒット舞台劇でした。映画化も当然フェアバンクスに打診されたのですがフェアバンクスはこの頃すでに映画界のトップスターになっており、主演以外は舞台劇でヒットした時のキャストが揃ったもののフェアバンクスが出られないのではどうするか、と本人に相さた所、フェアバンクスの指名でキートンが主役に抜擢されたという経緯があります。フェアバンクスの慧眼はさすがですが、本作ではキートンはあくまで舞台劇の映画化の主演を勤めたにとどまる点でこの映画はコメディではあるけれどキートン喜劇とは言えず、また'70年代にプリントが発掘されるまで長い間散佚作品と思われていたので本作は二重に重視されてこなかったキートン主演の初長編です。映画自体は'20年のコメディ風サイレント・ドラマ長編としてはごく標準的な出来で、注目すべきは後年キートン・プロダクションでの長編のいくつか、『海底王キートン』'24や『キートンのラスト・ラウンド』'26で演じる金持ちの馬鹿息子キャラクターの原型が見られることくらいでしょう。見所はムキになってヘンリエッタ金鉱の株を買い占める証券取引所の場面ですが、映画全体のギャグは稀薄でキートンが階段で転ける、路面電車から転げ落ちるなど些末なものにとどまります。スラップスティックではなくドラマが主体の映画なので喜劇映画のキートンを求めると物足りないのは仕方ないのですが、ロスコー・アーバックル主演・監督の短編喜劇14本('17~'19年)の助演時代に確立したキートンのトレード・マークである無表情("Stone Face")はこの長編コメディ映画でもすでに発揮されており、キートン・プロダクションの短編はまだ同年9月に第1作「キートンのマイホーム」One Weekが公開、ヒットしたばかりでしたし、キートンがキートン・プロダクションで長編に乗り出すのも'23年3月公開の短編19作「キートンの捨小舟」The Love Nestの次作、『キートンの恋愛三代記』'23.9からですから本作の出演経験は役立ったと思われます。チャップリンは66本(+準主演長編1作)、ロイドには198編(!)の短編時代を経て長編に乗り出したのに較べて、キートンは助演時代の短編14本('17~'19年)・自作自演時代になって短編19本('20~'23年)と大きな経歴の開きがあり、また結果的にはチャップリンやロイドの主演長編に先駆けて、舞台劇コメディの映画化という消極的な役ですし単発企画のいち俳優としてですが、長編映画の主役を勤めたのはまだ売り出し中の新人キートンには絶好のチャンスだったはずで、すでに一家をなしていたチャップリンやロイドには回ってこない役ですしキートンのキャラクターにも良く合っています。キートンの主演を除けば本作は1920年の平均的なサイレント時代のコメディ・ドラマ映画の典型で、そつない出来で可もなく不可もないよりは見所があるのはひとえにキートンの出演が目を惹くからでもあり、また出演者たちもヒット舞台から演じてきた俳優だけあってこの後のキートン・プロダクション作品の出演俳優たちより各段に上手く、後のキートン長編からさかのぼって観れば普通映画で好演しているキートンの姿を楽しめる作品です。また100年近い歴史の濾過を経ているので'20年の普遍のサイレント映画はかえって歴史に埋没してしまっており、特に話題作でも名作でも格別のヒット作でもない普遍の映画というのが本作の稀少価値とも言えるので、『キートンの恋愛三代記』以降の代表作をひと通り観てから観ればなかなか愛すべき出演作として楽しめます。また本作単体で観ても、キートンだけが他の俳優たちを抜いた存在感を放っているのが感じられるのではないでしょうか。
●7月2日(月)
『キートンの恋愛三代記(滑稽恋愛三代記)』The Three Ages (共同監督エディ・クライン、バスター・キートン・プロダクション=メトロ'23)*47min, B/W, Sillent; 本国公開1923年9月24日; https://youtu.be/yw8kcQc6YUo
結末で結婚式場から花嫁をさらってくる、相手の男は結婚詐欺師というのは『猛進ロイド』'24も同じですが、サイレント時代の映画では結婚詐欺師が実に頻繁に登場するのは現実に多かったのか映画という虚構でのみ流行した趣向だったのかはよくわかりません。本作は凝った複雑な構成とも、石器時代、古代ローマ時代、現代アメリカとも話の進行は同じなので単純とも言えるのですが、映画史家トム・ダーディスの評伝『バスター・キートン』では実質的には短編3編を並列的に構成した、長編と呼ぶには過渡的な作品と目されています。ダーディスは喜劇映画の長編化の功績ではロイドをもっとも重視していますが、本作公開の'23年9月にはロイドの第5長編『ロイドの巨人征服』が先に公開されているので、ロイド作品を長編第1作『ロイドの水兵』'21.12、第2作『豪勇ロイド』'22.9、第3作『ドクター・ジャック』'22.12、第4作『ロイドの要心無用』'23.4と辿ってくるとその間キートンは短編製作時代だったわけで、チャップリンの『キッド』'21.2以来の長編第2作が'23年2月公開の『偽牧師』で、メロドラマ作品『巴里の女性』'24を挟むとはいえ喜劇映画の第3長編『黄金狂時代』が'25年8月までかかっているのを思うとロイド作品の着実な発表ペースと質の高さが痛感されます。チャップリン作品は彫拓を重ねた名作揃いですがロイドはもっと柔軟でしかもよくこなれた娯楽性がある。ロイドがすでに『要心無用』や『巨人征服』を作った頃にチャップリンの『偽牧師』は大人向けで渋みが効きすぎ、ようやくキートンが自身の監督で作った長編が『恋愛三代記』と思うとキートン作品はいかにも荒っぽく、まだ短編喜劇の作風の延長にあるような強引さが目立ちます。こんなに感触の違いがあるとは今まで思わなかったので、先月ロイドの長編をひと通り観直したばかりだからこそ感じるのでしょうが、同時代の観客にはスマートなロイド喜劇に較べてキートン作品は野暮ったさが難点になっていただろうと想像に難くないのです。筆者は長らくロイドとキートンならキートン映画の方が衝撃力と訴求力に富むと愛着を持っていたので、今回ほぼ続けてロイド作品とキートン作品をまとめて観直すと、丁寧で粗のないロイドの映画の後ではキートンの映画はあまりに強引でムラが多いのに面食らう思いがしました。ロイド作品が古びても洗練された感覚は伝わってくるのに対して、キートン作品の古びかたは映画の仕上がりの粗さに見えてくる損があります。ギャグのアイディアの豊富さや奇抜さ、起爆力、絶妙な体技などはキートンは抜きん出ており、石器時代の投石勝負や代書屋に遺言(石盤に刻む)、古代ローマ時代の馬車対犬ぞり、現代編の細かいギャグとオチなどキートン・プロダクションのブレインと一緒に生み出したとしてもチャップリンやロイドの日常的現実の延長をちょっとずらしたところから発想する、または完全に空想の世界にするギャグとは違った意表の突き方で、もっと成功した作品ではキートンのギャグは悪夢のリアリティと共通するセンスが指摘されるゆえんです。本作も『馬鹿息子』とは違い、すでに短編19作を送り出したマネジメントのジョセフ・M・スケンクがプロデューサーのバスター・キートン・プロダクション作品で、キートンが主演・監督を兼ね、共同監督を立ててはいるものの監督権はキートンにある作品だけあって50分を切る尺(現存フィルム。オリジナルは60分を超えていたようです)にギャグ盛りだくさんで、メモを採りながら見るとギャグをメモしているのかストーリーを追っているのかわからなくなります。次作の長編第2作『荒武者キートン』からドラマらしい設定が取り入れられますが、本作は粗っぽい仕上がりでも短編と長編の過渡期的な構成であってもそれが本作ならではの魅力にもなっているのも否定できず、本作に先立ち『豪勇ロイド』で祖母が語るロイドの祖父の南北戦争時代の武勇伝のカットバックや、チャップリンのデビュー年の短編にも石器時代ものがありましたが、長編全篇を3時代のエピソードの同時進行のカットバックで見せるのは同工異曲の恋敵ものとしても思い切った試みで、実質的に長編監督第1作ならではの意欲が感じられ、チャップリンやロイドのようなスムーズな映画づくりに巧みでないだけなおさら肩を持ちたくなる面があります。完成度では『馬鹿息子』とは比較にならないほど拙く見え、知らずに両作品を観たらほとんどの人が本作の方が製作年代の古い長編映画の確立期以前の作品のように感じるでしょう。しかしそれもキートンが標準的な長編映画と違ったものを作ろうとしたと思えば、本作は一見すると拙く見えるほど破天荒な出来ゆえに、意欲的な長編第1作として鮮烈な印象を残す作品になっているとも言えます。出来はまだ短編時代の傑作「キートンのマイホーム」や「キートンの警官騒動」The Cops ('22)に及びませんが、次作『荒武者キートン』では早くも短編時代の傑作に匹敵する長編作品に成功するのです。
●7月3日(火)
『荒武者キートン』Our Hospitality (共同監督ジョン・ブライストン、バスター・キートン・プロダクション=メトロ'23)*68min, B/W, Sillent; 本国公開本国公開1923年11月19日; https://youtu.be/cRNObtP_Fgo
原題の『Our Hospitality』の語義は「最高のおもてなし」ですからちゃんと意味のあるタイトルなのですが、ほとんどの長編が'70年代のリヴァイヴァル公開時に原題に近い題名に改題された時も本作は大正時代の初公開時の邦題が踏襲されています。本作はキネマ旬報ベストテンに唯一選出されたキートン作品で、第2回(1925年/大正14年)の「娯楽的に優れたる映画」第8位になり、同年の同部門第1位はラオール・ウォルシュの『バグダッドの盗賊』、第5位に『猛進ロイド』が入っています。キネマ旬報ベストテンは第1回と第2回は外国映画のみで「芸術的に優れたる映画」と「娯楽的に優れたる映画」に分けてベストテンが行われ、第3回から日本映画・外国映画(一本化)それぞれのベストテンになり、トーキー導入年に一時的に発声映画(トーキー)部門と無声映画(サイレント)部門に分かれましたがこれもすぐに一本化しています。本作は2家の因縁の争いという『ロミオとジュリエット』から西部劇までお馴染みのテーマですが、まず1830年の世相風俗考証をギャグに生かしているのが抜群で、キートンの漕ぐ自転車はペダルのない足で地面を蹴って進む自転車ですし、汽車は遊園地のちんちん電車以下の代物で追いかけてくる犬の方が速いほどですし、線路に牛馬が足を引っ掛けて立ち往生していると線路の方をずらして進むような塩梅で、この1830年型の復原機関車は撮影後に博物館が価値を認めて買い取ったそうです。偶然隣合わせて親しくなったヒロインが仇家の娘だったという偶然も映画をサクサク進めるための方便で、このヒロインはキートン夫人となるナタリー・タルマッジが演じていますが、ロイドの初期長編のヒロインのミルドレッド・デイヴィスがロイド夫人になって円満な家庭を築いたようにはいかず、離婚後まで引きずる家庭不和が始終することになります。キートンが仇家の夕食に招かれ、滞在中は形だけ友好的だが一歩外に出たら撃たれる、という状況になるブラック・ユーモアはさすがで、命からがら逃げ出す、追跡されて岩壁から大河に落ちる、河辺でキートンを心配して探しにきていたヒロインがボートで助けようとするが転覆する、滝壷に転落するヒロインを間一髪でキートンがロープの遊泳でアクロバティックに救う、というクライマックスは、さすがに滝壷転落救出だけはセット撮影だそうですが実物大の岩壁と大河と滝壷、とんでもない高低差と水量ですから、安全面を配慮してあっても実際に実演しているわけで、セットであろうと驚異的な場面には違いありません。仇家の腹の探り合いのシーンも面白いですが、1830年の汽車とクライマックスの滝壷転落救出が何と言っても見所になっている映画です。『恋愛三代記』がグリフィスの『イントレランス』を下敷きにしているように、この救出シーンはやはりグリフィスの『東への道』Way Down East (1920)の氷河に流されるヒロイン(リリアン・ギッシュ)を主人公(リチャード・バーセルメス)が氷河を伝って救出するクライマックスに由来するものでしょう。『恋愛三代記』でも本作でもそうですが、キートンは痩身で小柄で(実際はさほど小柄でもないでしょうが、他の出演者はみんな大柄な役者を選んでいるので小男に見え、またヒロインと並ぶとほぼ同じ背丈ですから決して男性としては小柄に見えます)、それがクライマックスでは爆発的な身体能力を見せるのはロイドと共通しますが、キートンはさらに如才なく機知に富む(または極端に純情だったり、呑気だったり神経質だったり)ロイドのキャラクターと違って無表情でボーッとしていてたいがい困惑している、という不器用を絵に描いたようなキャラクターですから、爆発力はロイド映画のクライマックスより大きなものです。またロイド映画は小ギャグを積み重ねていきスムーズにギャグとストーリーが連動するものですが、キートンのギャグは前後の脈絡なく突然降りかかってきてそれが連続するのか一難去ってひと安心なのかもわからないような不規則なタイミングで現れます。チャップリンやロイドの映画はギャグとストーリーがグラフにするなら丸く安定した周期性を描いてクライマックスに向けて周期が高まっていくようなものですが、キートン映画の進行をグラフにすれば破線だらけの鋭角的な折れ線グラフを描いて予測のつく軌跡など読み取れるものではないでしょう。本作は『恋愛三代記』と違ってキャラクターの配置、ストーリーの統一など長編らしい構成を備えた作品になって、ムードの演出とドラマティックな展開、圧巻のクライマックスなどキートンの長編映画の最高傑作のひとつと言えるものですが、あまり破格な落差のテンションで展開されるため長編ではあっても長編規模で描かれた短編、という感じもしてくる感じが強く、チャップリンやロイドの長編では主人公はドラマを通して性格の変化や、性格は変わらずとも外界との関係の変化、認識の変化を経験するので、一般に長編映画とはそういうものです。しかしキートンの映画ではキートンはクライマックスでは勇敢になっても性格は映画の冒頭で登場した時と変わらないので、それが全盛期にあってもチャップリン、ロイドに次ぐとは言えその他大勢の喜劇俳優の中のトップクラスに留めることになったと考えられます。バスター・キートン・プロダクション時代のキートン作品は短編19本、長編10作すべて傑作名作秀作佳作異色作と言えるものですが、公開当時にあっては長編らしいドラマ性の単純さ・稀薄さがチャップリンやロイドほど広い観客をつかめなかったのは、後世では逆にその点がキートンの再評価に結びついたと思うと評価の盛衰についても考えさせられるものがあります。