またゴジラ映画を筆頭に日本製の怪獣映画はモンスター映画としての国際性のみならず特撮の質が高いことで諸外国でも人気があり、輸出商品としての需要もあったので、海外市場からの収入も堅実な分野だったのです。『モスラ対ゴジラ』は英語圏では日本版オリジナル・ヴァージョンは『Mothra Vs. Godzilla』、アメリカ版吹き替え編集ヴァージョンは『Godzilla Vs. The Thing』で、これはモスラ単独初登場作品『モスラ』'61のアメリカ版吹き替え編集ヴァージョンが『The Thing』であることに由来します。『三大怪獣 地球最大の決戦』はキングギドラ初登場の作品で、実際は単体初登場作品が『空の大怪獣ラドン』'56のラドンも出てきますからゴジラ、モスラ、ラドン、キングギドラの四怪獣なのですが、四大怪獣では語呂が悪いのと地球側怪獣だけなら三大怪獣ともこじつけられるのでこうなったのでしょう。そこら辺ややこしくなるので英語圏タイトルは日本版オリジナル・ヴァージョン、アメリカ版吹き替え編集ヴァージョンとも『Ghidorah, The Three-Headed Monster』に統一されています。年2作ゴジラも初めてでしたが翌年も連続ゴジラ映画は初めてなので次作はシンプルに『怪獣大戦争』ですが、英語圏では日本版オリジナル・ヴァージョンは『Invasion Of Astro-Monster』と宇宙人侵略が強調され、アメリカ版吹き替え編集ヴァージョンは『Godzilla Vs. Monster Zero』と誤解を招きはしないかと思うようなタイトルになっています。また子供時代にゴジラ映画をご覧になった方には、『三大怪獣 地球最大の決戦』は「金星人の王女さまが出てくる」「モスラがゴジラとラドンにキングギドラとの戦いの共闘を呼びかける」「ザ・ピーナッツが怪獣語の通訳をする」、『怪獣大戦争』は「ゴジラが5回シェーをする」「X星人の女性(の顔)が全員水野久美」「ニック・アダムズの声がいかした納谷悟朗」といえばそういやそんなゴジラ映画があったな、と思い浮かべていただけるのではないでしょうか。そういう次第で、今回も一度目は気楽に、二度目はメモを採りながらどうにか感想文をひねり出してみましたが、敵はオリンピックとテレビではゴジラ映画のシリーズ化と内容の変化は避けられなかったと今さらながら製作側の苦渋もうかがわれ、内容の低年齢化をあげつらうのも酷な気がするのです。
『モスラ対ゴジラ』(東宝'64)*本多猪四郎監督, 89min, Color; 昭和39年4月29日公開
○あらすじ(同上) 南海の孤島インファント島沖に台風X号が発生、大暴風雨となった。新産業計画として発足した倉田浜干拓工事現場も、壊滅してしまった。新聞記者酒井(宝田明)と中西純子(星由里子)は、流木の中から、放射能を含んだ異様な牙を発見した。その頃、静の浦の海上に、三〇メートルもある巨大な卵が漂着した。この巨大な卵を囲んで三浦博士(小泉博)以下学界の面々が調査したが、正体がつかめなかった。そして巨卵は興行師熊山(田島義文)と政界ボス虎畑(佐原健二)が買い取り、商売に利用しようとたくらんでいた。三浦博士らは、酒井、純子らと対策を練ったが、そこえ妙なるメロディと共に小美人(ザ・ピーナッツ)がインファント島からモスラの卵を返して欲しいとやって来た。しかしこの小美人をも商売の対象とした熊山らのために、人間社会に失望してインファント島へ帰っていった。一方倉田浜干拓地では、大音響と共に海底が地割れし、不死身の大怪獣ゴジラが出現した。恐ろしい放射能を吐き、蓄積したエネルギーをぶちまける巨竜に、何ら防禦の道はなかった。三浦博士と酒井、純子の三人は、モスラを頼ってインファント島へ行った。願を聞いたモスラは、大きく羽ばたいて静の浦へと進撃した。巨大な孵化装置の上にのっている卵を間にゴジラとモスラの対戦が始った。放射能を吐くゴジラと、金色の猛毒粉をふりまくモスラだが、遂に老蝶モスラは、ゴジラの放射能で消滅した。しかし卵からかえった二匹のモスラは、毒糸でゴジラをからめとり、海底深くしずめていった。
宝田明と小泉博がそれぞれ『ゴジラ』'54、『ゴジラの逆襲』'55の時から見違えるような落ち着いた俳優になっているのがまず安心して観ていられますし、本作を観るとやはり『ゴジラの逆襲』の小田基義監督は脚本に恵まれなかったとともに不向きだったのかな、と本作の本多猪四郎監督の手際と較べると思わないではいられません。小田監督も東宝と新東宝を股にかけたプログラム・ピクチャーのベテランであり、新東宝では木下恵介脚本で後に木下自身の監督作となる『日本の悲劇』'53を企画した意欲的姿勢もあり、前年に東宝の特撮変身人間シリーズ三部作『美女と液体人間』'58(佐原健二主演、本多猪四郎監督)、『電送人間』'60(鶴田浩二主演、福田淳監督)、『ガス人間第一号』'60(三橋達也主演、本多猪四郎監督。また番外編として本多猪四郎監督作品『マタンゴ』'63)の先駆作となった『透明人間』'54を手がけて成功させていますが、巨大怪獣ものはまた別の難しさがあったということでしょう。『モスラ対ゴジラ』に戻れば、この映画にしても特に監督の個性や演出の妙を意識させることはないのですが、プログラム・ピクチャーとしては『ゴジラ』'54より柔軟になっている。テンポも快調だしシークエンスごとの密度にもムラがなく、自然な展開(と感じさせる無理のない演出)で快適に観ていられます。たぶん『ゴジラの逆襲』を本多監督が手がける段取りになっていたら続編に回された課題が大きすぎて、『ゴジラ』同様監督自身の共同脚本によって引き受けたとしても『ゴジラ』自体があれ1作で完結した映画だった分『ゴジラ』の続編であってしかも別の作品にするには『ゴジラの逆襲』のようにはあっけない出来では終われなかったでしょう。本多監督は『ゴジラ』の次の監督作の撮入予定が入っていたので『ゴジラの逆襲』の監督は実質的にゴジラの発案者で生みの親である東宝プロデューサーの田中友幸(1910-1997)が小田基義監督に回すに任せたので、『キングコング対ゴジラ』で再びゴジラ映画の監督を勤めることになっても先に『ゴジラの逆襲』がありましたからシリーズ第2作でなら抱えこむことになったプレッシャーは稀薄だったと思いますし、その上『キングコング対ゴジラ』はキングコングを主役と決めて作られた企画でしたからなおさらです。この時期本多監督の社会派的視点は変身人間シリーズ作品の方に現れていると考えられ、本多監督(8作)に次いでゴジラ映画を多く手がける(5作)ことになる福田淳監督の『電送人間』も含め変身人間シリーズ三部作と番外編『マタンゴ』は人間の我欲をまともに描いていることで後の円谷プロのテレビシリーズ『怪奇大作戦』'68につながる恐怖映画の異色作になっています。ひるがえって本作はモスラの卵や双子小美人を見世物にしようとする悪役の名前も熊山、虎畑と言う具合で明快なプログラム・ピクチャーであり、のち「ウルトラQ」のニュース取材民間機パイロットや「ウルトラマン」の長官役になる佐原健二が悪党役でなかなかこれもはまっているので面白いのですが、本作はすでに同年12月公開の『三大怪獣 地球最大の決戦』の企画と並行していたでしょうからゴジラの最期は続編を暗示した生死不明の敗退になっており、東京オリンピック開催はこの年10月10日から24日までの2週間ですが、すでに映画観客動員数にはオリンピック開催の事前特集番組とテレビ普及ではっきりと衰退が現れていたとすれば、ゴールデンウイーク映画の本作の健闘は讃えられてしかるべきでしょう。モスラはもともとインファント島の守り神、ザ・ピーナッツ演じる双子小美人は(インファント島の島民は別に小人でも何でもないので)一種の妖精なので『モスラ』でも自衛はしても攻撃はしない存在だったので今回はゴジラ退治に日本を助ける役割を勤めることになり、本作はゴジラが悪役怪獣として出てくる昭和シリーズでは最後の作品でもあります。本多監督の手堅い演出で次作、次々作とゴジラは徐々に人間の味方となっていきます。このあたりの1作ごとのゴジラの変化も案外スムーズに行われているのはシリーズ定着=プログラム・ピクチャー化のための周到な計算以上に丁寧なサービス精神がうかがわれ、これはこれで娯楽映画のあり方としては正統な手法であるとも認めないではいられません。
●6月20日(水)
『三大怪獣 地球最大の決戦』(東宝'64)*本多猪四郎監督, 93min, Color; 昭和39年12月20日公開
○あらすじ(同上) 一九××年。日本は異常な温暖異変に襲われていた。××放送「20世紀の神話」取材班進藤(夏木陽介)、直子(星由里子)はこの異常現象をテーマにキャンペーンをしようと連日大奮闘。そんなとき金星人を自称する女予言者、サルノ王女(若林映子)が現れ、地球の大変動を告げた。サルノ王女の予言は当った。阿蘇火山からラドンが復活し、北極海からはゴジラが眠りからさめ行動を開始した。そして、さらに金星を死の星とした宇宙怪獣キングギドラが現れ地球は大混乱におちいった。キングギドラの誕生をまのあたりに見た帝都工大の村井助教授(小泉博)は、キングギドラを撃退するにはモスラ、ゴジラ、ラドンらの力を借りる以外にないと考え、モスラの支配者、インファント島の小美人(ザ・ピーナッツ伊藤エミ、伊藤ユミ)に協力をたのんだ。一方横浜に上陸したゴジラは横浜を全滅させ、ラドンと松本市で対決し、さらに小競合を続けながら富士山頂近くでにらみあっていた。が、そこに割って入ったのが小美人の要請でインファント島からやって来たモスラである。モスラの仲裁にもかかわらずゴジラとラドンの敵対心を柔らげることはできなかった。モスラは単身キングギドラに向った。しかしモスラもキングギドラの敵では無く、危機におちいった。が、モスラ危しとみたゴジラとラドンは力を合せてキングギドラにむかった。さすがのキングギドラも、この三怪獣の攻撃に降参して地球を去っていった。
本作の見所は何といってもキングギドラ、長い三つ首の翼竜で腕はないのに二足歩行で尻尾は2本といういかれた造型の最強怪獣の登場に尽きますが、欠点はと言えばクライマックスであるはずのゴジラ、モスラ(幼虫)、ラドンとの戦いがちっとも盛り上がらず、正確にはモスラ幼虫の共闘の呼びかけがゴジラとラドンに聞き入れられずモスラ幼虫が一匹でキングギドラに向かって行き、ならばおれもとゴジラとラドンもキングギドラに向かっていくあたりまでは期待させるのですが、そこから先は延々取っ組み合いになるだけで最後はキングギドラは根負けしたような具合で飛び去って行くのでゴジラ、モスラ幼虫、ラドンが共闘してキングギドラを撃退したという風にはまったく見えないのです。どうも続編再登場の余地を残して終わらせる癖がゴジラ映画にはついてしまったようで、これは後発の大映の『ガメラ』'65が第2作『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』'66以降第3作『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』'67、第4作『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』'68ときっちり相手の怪獣にトドメを刺しているのに倣ってスター級の怪獣は残すが1作限りの相手はトドメを刺すようになってようやく解消されます。本作『三大怪獣 地球最大の決戦』と次作『怪獣大戦争』では宿敵キングギドラを追っ払っただけ、という不完全燃焼な終わり方をするので(『怪獣大戦争』ではキングギドラを一時的に操っていたX星人が自爆しますが)、'54年の『ゴジラ』のように初代ゴジラが絶命するか、『モスラ対ゴジラ』のように戦いの最中寿命の尽きた成虫モスラが殉死するかといったカタルシスがない、ということになる。本作は『ローマの休日』'53の設定を換骨奪胎して、さらに5,000年前にキングギドラに滅ぼされて地球に逃れてきた金星人の遺伝的記憶が現代の中近東の王女の意識を乗っ取るとアイディアはなかなか面白く、さらにザ・ピーナッツがモスラに頼んでモスラがゴジラとラドンに地球の脅威キングギドラ撃退のため共闘を呼びかける、その怪獣語の会話を星由里子たちにザ・ピーナッツが通訳するのが当時の観客からも失笑を買ったそうですが、現役人気双子デュオ歌手のザ・ピーナッツのイメージが強かった当時はともあれおとぎ話の妖精として観てしまえばそういう能力の存在なのだろうと見てしまうのはおかしいでしょうか。これは伊藤姉妹の滑舌が抜群に明瞭で言葉づかいも過剰なくらい丁寧な標準語であり、非現実的なほどにインファント島の小美人という虚構になりきっているからでもあると思います。これにはザ・ピーナッツが猛烈に多忙な売れっ子歌手なので、身長30センチメートル(もっと小さく見えますし、統一されていないようにも見えますが)という特殊な設定を生かしてザ・ピーナッツの映像・音声だけは別撮り・別録音して合成編集されているため、双子小美人の言動はアドリブの余地のない様式的な印象を与えることにも由来していると思われます。ザ・ピーナッツが若林映子を預言者の金星人と信じるのも当然なので、そもそもゴジラのいる世界ですからどんな超自然現象やご都合主義が起ころうが何の不思議もないので、『モスラ対ゴジラ』の悪党同様本作の悪党も巻き添えを食って死にますし、本作のザ・ピーナッツはテレビ番組「あの人は今」のリクエストに応えて親善来日している設定です。つまり田中友幸プロデューサーと本多猪四郎監督が円谷英二特撮監督とともに作ってきたゴジラ映画は、シリーズ化の定着を目指すとともにいよいよ方向性が明快になってきたということで、それは次作で翌年のお正月映画として封切られた『怪獣大戦争』ではなおさらはっきり打ち出されるものです。
●6月21日(木)
『怪獣大戦争』(東宝'65)*本多猪四郎監督, 94min, Color; 昭和40年12月19日公開
○あらすじ(同上) 一九××年――宇宙に新惑星X星が出現した。宇宙パイロット富士一夫(宝田明)とグレン(ニック・アダムス、声・納谷悟朗)はX星探険に派遣された。X星には地球よりはるかに科学の進んだX星人がいた。が、今X星は宇宙怪獣キングギドラのために地上には住めなくなり地中に身を隠していた。X星の統制官は富士たちに、キングギドラを退治するために地球に住むゴジラとラドンを貸してくれと申しいれた。そのころ地球上では富士の妹ハルノ(沢井桂子)の恋人で発明狂鳥居哲夫(久保明)がつくった不協和音を発する女性用護身器を、世界教育社員と称する波川女史(水野久美)が買いたいと申し出ていた。それから数日後X星人は地球上に現われ、眠っていたゴジラを湖底から、ラドンを火口から、それぞれ無重力コースにのせてX星に運び去った。ところがこれはX星人の謀略であった。X星人にとって最大の敵ゴジラとラドンを連れ去ったX星人は直ちに地球に宣戦布告をしてきた。キングギドラもX星人の発する誘導電波であやつられていたのだった。そして今やゴジラもラドンもX星人の誘導電波にあやつられ地球を攻撃してきたのだ。そのころ地球上の科学者桜井博士(田崎潤)は、怪獣をあやつるX星人の誘導電波を断ち切るための妨害電波の完成を急いでいた。一方のグレンと哲男は、ふとしたことから波川女史がX星人であることを知った。が、波川女史は、X星人の誓いにそむいてグレンに恋をし、X星人のために抹殺されてしまった。だが波川女史はグレンに哲男がつくった女性用護身器が発する不協和音が宇宙人のウィーク・ポイントであることを知らせた。桜井博士の妨害電波も完成し、荒れ狂う三匹の怪獣にあびせられた。哲男の発明した不協和音も拡大されてX星人に送られた。苦心の研究は実り、誘導電波を断ち切られたゴジラとラドンは再びキングギドラと対決して、見事に撃退した。不協和音のためにX星人も全滅した。ゴジラとラドンは海底に沈み、地球上にはまた平和がよみがえった。
本作にモスラと、モスラとセットで出演するのが欠かせないザ・ピーナッツが出せなかったのはさすがに3作連続モスラ登場ではモスラがレギュラー怪獣化しすぎるのもあったでしょうし、おそらく俳優のギャランティで最高なのはザ・ピーナッツだったからでもあり、また多忙なザ・ピーナッツが抜き撮りとは言えモスラともども金星に赴く筋立て(ゴジラとラドンは冬眠中拉致してくればいいですが、モスラは双子小美人の許諾が必要と面倒な手続きが要ります)はシナリオがややこしくなり、双子小美人の祈りで行動するモスラに電磁波操縦装置というと、ジュラ期恐竜のゴジラや翼竜のラドンと違って、もともと神秘的な存在のモスラが電磁波操縦と双子小美人の祈りのどちらに従うかと面倒な話になります。そこで本作は主人公は『モスラ対ゴジラ』では新聞記者・酒田だった宝田明が宇宙飛行士・富士として出てくるので、モスラおよびザ・ピーナッツの登場は外したのでしょう。モスラを外したなら代わりにアンギラスや田中プロデューサー&本多監督の東宝怪獣『宇宙大怪獣ドゴラ』'64のドゴラなどはどうかとたぶん企画段階では検討されたでしょうが、アンギラスは『ゴジラの逆襲』ですでにゴジラに殺られていますし宇宙の凶悪エネルギー体怪獣ドゴラ(クラゲみたいなやつです)は世界観が違いすぎるのでゴジラ映画には相乗りできない、とどちらも即座に却下されたに違いなく、また5,000年前に金星を死の星にしたはずのキングギドラがクレヨンしんちゃん映画レベルの悪役宇宙人X星人にあっさり操縦されているなど、だいぶ本作も後年第1作『ゴジラ』'54を除く昭和ゴジラ映画シリーズの全般的イメージに近づいてきました。モスラの説得なしにキングギドラを撃退するゴジラも初めて描かれたので、1作ごとにゴジラの立場も変化しています。東宝では『フランケンシュタイン対海底怪獣バラゴン』'65(本多監督、ニック・アダムズ、高島忠夫、水野久美主演)や『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』'66で日米合作の特撮路線も始まっていたので、ニック・アダムズと水野久美の主演から本作は'65年8月公開の『フランケンシュタイン対海底怪獣バラゴン』の姉妹作とも言えて、X星調査は日米共同ですしX星に着くと宝田明が最初にするのは手頃な丘に日章旗と星条旗を立てに行くことです。ゴジラの「シェー!」で有名な本作ですがX星で4回、地球に戻って1回やっていますが、電撃または宇宙空間なので「シェー!」を意識せずに観ればそれほど取ってつけたようには見えません。ゴジラのシーンは当然円谷英二特撮監督によるものですが、シェーをさせるアイディアも円谷英二が乗り乗りだったそうですから敗戦国の悲哀をこめた『ゴジラ』'54から10年が経ってそれほどスタッフのゴジラ映画への意識も変化したということでしょう。『ゴジラの逆襲』以降ゴジラ映画は東京湾でオキシジェン・デストロイヤーで倒された初代ゴジラの存在が前提となった2代目ゴジラになっているはずなので、それは宝田明の役も違えば、前作にも志村喬の塚本博士が登場するので(『ゴジラ』では山根博士)パラレルワールド的ではありますが、初代ゴジラ出現から10年経って何度となく2代目ゴジラが現れてもオキシジェン・デストロイヤーに代わる対ゴジラ兵器が開発されていないことにも国民的な総意があると言えて、敗戦国日本は再軍備を禁止された国との前提が現実の日本とゴジラ映画の中の日本をつなげています。シリーズの方向性が明確になってきたのは要するにゴジラ映画は怪獣好きな子供の見る夢にだんだん近づいてきたということで、X星人がクレヨンしんちゃん映画の悪役宇宙人なのは当然で、クレヨンしんちゃん映画の方がゴジラ映画の末裔である冒険ファンタジーなので(しんちゃん映画も東宝です)、水野久美のような子供にもわかる「きれいなおねいさん」が悪役側のヒロインとして出てくるのが何より証拠となっていて(「なぜ全員同じ顔なんだ!?」と宝田明が叫ぶと、X星人は「君たちは美しい女性は嫌いか?」と答えます)、次回ご紹介する第10作『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』'69では遂に怪獣好きの子供の空想の世界として作品そのものがメタ映画化するという現象も起こります。シリーズ第4作~第6作『モスラ対ゴジラ』『三大怪獣 地球最大の決戦』『怪獣大戦争』は'64年・'65年の2年のうちにすでにそうした方向への転換が1作ごとに自然に進行していて、これらが'70年代にも短縮版編集されて「東宝チャンピオンまつり」の目玉作品として新作と交互に再公開され、テレビ放映頻度も高い作品になったのは、観客の嗜好がすでに初代『ゴジラ』や変身人間三部作のような陰鬱な特撮映画からは離れたのを痛感させられます。田中プロデューサー、本多監督、円谷特撮監督にはどちらの志向もあり、今回の3作も十分に丁寧に作られた面白い映画です。そしてたぶん、このあたりで止めておけばゴジラ映画の水準の高さを示す有終の美となったところで、次作・次々作の第7作『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』'66、第8作『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』'67はタイトルが示す通りいよいよファミリー向け怪獣映画化します。しかしそれ自体は悪いことでしょうか?