[ 八木重吉(1898-1927)大正13年=1924年5月26日、長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳 ]
始めた時には八木重吉の第1詩集『秋の瞳』'25(大正14年10月刊)についてこんなに割り切れない、読み方に手こずる詩集だとは予想していませんでした。これまで取り上げた詩集でも北村透谷(1868-1894)の第1詩集(長編詩)で刊行直前に著者透谷自身によって刊行中止にされた『楚囚之詩』1889(明治22年4月刊行中止)を読んできた時がもっとも回数がかかり、次いで高村光太郎(1883-1956)の生前最後の詩集『典型』'50(昭和25年刊)、萩原朔太郎(1886-1942)の最後の詩集『氷島』'34(昭和9年刊)、三好達治(1900-1964)の第1詩集『測量船』'30(昭和5年刊)などが10数回を費やしてもまだ踏み込みきれない慚愧の念の残る詩集でしたが、透谷は日本の最初の現代詩詩人と言えるだけに透谷と並ぶ中西梅花(1866-1898、詩集『新軆梅花詩集』1891=明治24年)との比較と合わせて詩集の成立そのものが大事件であり、また原文も難しいので逐字的に読んでいく作業にも手間がかかるので長くなるのも相応の理由がありました。透谷が八木重吉の学生時代にもっとも心酔した詩人だったのは詩集『秋の瞳』について八木重吉全集を読み返して初めて気づいたことで、以前は読み過ごしていたのですが、透谷と梅花について補足すると明治20年代前半の現代詩揺籃期でもこの二人は突出していて、新興文学形式としての現代詩はイギリス詩の翻訳や形式的模倣から始まり(『新軆詩抄』1882=明治15年)、『楚囚之詩』と同年の夏に刊行された森鴎外中心の外国文学者グループによる訳詩集『於母影』でようやく文学的内実を備えた翻訳詩が登場しましたが、透谷や梅花は明治30年(1897年)の島崎藤村(1872-1943)の画期的な詩集『若菜集』に収録された詩編のように、数行数連という典型的な抒情詩の概念もないスタート地点から詩を書き始めた、ということです。藤村がまとまった形で示した抒情詩の形式は『於母影』や年長の盟友透谷の晩年のコンパクトな抒情詩をより日本語の詩として練れた形式・文体に整備したもので、そこに後発の詩人である藤村の優位性がありました。また宮崎湖處子(1864-1922)、国木田獨歩(1871-1908)ら少数の佳作を残した詩人もいましたが、明治20年代の詩人の大半は現代詩の抒情詩を和歌(短歌)や俳諧、漢詩の発想からしか書けないか、またはやはり日本文学の古典的形式である紀行文・随筆的内容を西洋詩の形式である行分け詩に移す発想しか持てなかったので、現代詩というまったく新しい文学形式に旧来の日本文学の発想とは異なる新しい発想を備えた詩をまとまった形で提示してみせた先駆者は透谷と梅花の二人になるのです。
しかし透谷と梅花はともに明治20年代の日本に適合することができず、生前決して経済的に恵まれた文筆活動を送れず、伝記的研究では20代のうちに精神疾患の発症が確認され、透谷は自宅療養中に縊死自殺(享年24歳)し、梅花は施設入院を経て帰宅中急逝(享年31歳)しています。梅花は晩年数年まったく友人・知人からは消息を断っており、歿後に伝聞で逝去が伝わったので、自殺とも伝えられましたが入院期間も長く、当時の精神医療は世界的に中世から行われていたように慢性的患者の陽性症状を抑えるため隔離監禁を長く続けるというもので(これは脳医学による薬物療法の発達まで20世紀後半まで続けられ、今日でも陽性症状中の患者に対しては行われています)、病相にある患者は非常に食欲にムラがある上に栄養学も未発達でしたので、一般的に考えられる死因としては慢性的な栄養失調状態で衰弱が進み、退院して自宅療養した方が良いと実家へ帰され、そこで日本の風土病である肺病を発症して急逝したというのがもっとも可能性の高い死因と推定されます。日本の現代詩の最初の詩人である透谷、梅花の二人ともが円滑な社会生活を送れず、死因に結びつくことになった精神疾患を患うほど多大なストレスを抱えていた、社会的弱者にして傷つきやすい感受性の持ち主だったのは痛ましいことで、またそれほどの精神的危機に向かっていく種類の詩人だったからこそ透谷と梅花は日本の現代詩の祖とも言える本質的な詩人と認めるに足る業績を残せたので、それは時代の風潮に対して調和的な性格の詩人たちにはできないことでした。こうした内面に危機を抱えた詩人の系譜は明治後期に蒲原有明と石川啄木、大正時代に山村暮鳥を数えることができます。有明、啄木、暮鳥についてもこれまでその詩集を個別に採り上げてきました。
高村光太郎の『典型』、萩原朔太郎の『氷島』については内容の自伝的性格、また各々の最後の詩集であることから詩歴全般を見渡すことになり、おのずと回数を重ねることになりました。事情は三好達治の詩歴の出発点である第1詩集『測量船』でも変わりません。詩歴の長く屈曲に富んだ高村、萩原、三好のような詩人の最後、または最初の詩集を読むのはその業績全般を意識せずにはいられませんし、それは『典型』『氷島』『測量船』といった詩集の出来不出来、またそれらが各々の詩歴の中でも独特な、例外的詩集と見なせるとしても変わりません。そうした詩人たちと較べると、八木は八木よりも若い年齢で夭逝した北村透谷、石川啄木よりも詩人としての出発は遅く、歿後刊行の第2詩集で八木自身が晩年の病床で編集を済ませていた詩集『貧しき信徒』'28(昭和3年刊)でも第1詩集『秋の瞳』から大きな作風の変遷はないので、検討する角度はそれほど広がりはないように思われます。なのに詩集『秋の瞳』は読み返せば読み返すほど不可解な面が際立ってくる詩集で、まっすぐ歩いているつもりなのに同じところをぐるぐる回っているような砂漠や雪原のような広漠なつかみ難さがあり、コンパスの針を惑わせるような方位が定まらない変な磁場が働いていて、確たる読解を拒むような性格があります。これは八木の詩について、あまり問題にされてこなかったことです。
前数回では八木重吉の第1詩集『秋の瞳』を読み返し、その全117編の収録詩編を、
●(a)生活詩・心境詩(詩的表現が断片的に過ぎ、生活報告や心境告白に留まるもの)……40編
●(b)箴言詩(警喩詩・思想詩・断章詩=詩としては断章的で、警句や意見表明の次元で成立するもの)……41編
●(c)純粋詩(一編の詩として自律性の高い、独立した短詩と見なせるもの)……36編
――と、分けてきました。八木の詩の謎めいた箴言的性格(それを宗教性とも言えるでしょう)が露骨に現れているのが(b)の詩群で、
えんぜるになりたい
花になりたい
(「花になりたい」全行)
無造作な くも、
あのくものあたりへ 死にたい
(「無造作な 雲」全行)
このかなしみを
ひとつに 統(す)ぶる 力(ちから)はないか
(「かなしみ」全行)
死 と 珠 と
また おもふべき 今日が きた
(「死と珠(たま)」全行)
わたしは
玉に ならうかしら
わたしには
何(なん)にも 玉にすることはできまいゆえ
(「玉(たま)」全行)
ぐさり! と
やつて みたし
人を ころさば
こころよからん
(「人を 殺さば」全行)
この しのだけ
ほそく のびた
なぜ ほそい
ほそいから わたしのむねが 痛い
(「しのだけ」全行)
すずめが とぶ
いちじるしい あやうさ
はれわたりたる
この あさの あやうさ
(「朝の あやうさ」全行)
あき空を はとが とぶ、
それでよい
それで いいのだ
(「鳩が飛ぶ」全行)
わたしの まちがひだつた
わたしのまちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる
(「草に すわる」全行)
くらげ くらげ
くものかかつた 思ひきつた よるの月
(「夜の 空の くらげ」全行)
巨人が 生まれたならば
人間を みいんな 植物にしてしまうにちがいない
(「人間」全行)
花が 咲いた
秋の日の
こころのなかに 花がさいた
(「秋の日の こころ」全行)
赤い 松の幹は 感傷
(「感傷」全行)
かへるべきである ともおもわれる
(「おもひ」全行)
このひごろ
あまりには
ひとを 憎まず
すきとほりゆく
郷愁
ひえびえと ながる
(「郷愁」全行)
宇宙の良心―耶蘇
(「宇宙の 良心」全行)
彫(きざ)まれたる
空よ
光よ
(「空 と 光」)
――らが(b)に分けられる代表的な詩編ですが、これらは通常なら詩の書き出し、または結句のみを取り出してきたような断章をそのまま表題つきの1編の詩として提示しているところに異常な感覚があります。一方、1編の詩として成立していると認められる(c)群の詩も、一般的な詩としてはあまりに短くあっけない印象を与えるものです。煩を厭わず(c)群に分けられると見なせる36編を全部上げてみましょう。表題を外して読めばこれらも断章的性格の強さの方が純粋詩としての完結感よりも高いことがわかります。また、逆に言えば行数・連数の多い「詩」らしい詩編よりも、そうした断章的短詩であるほど八木の詩は成功しているのもわかります。次回ではこれら(c)群の詩(純粋詩)を、作品内容としては対照的なはずの(a)群の詩(生活詩・心境詩)と比較してみたいと思います。
八木重吉詩集『秋の瞳』
大正14年(1925年)8月1日・新潮社刊
息を ころせ
いきを ころせ
あかんぼが 空を みる
ああ 空を みる
(「息を 殺せ」全行)
白い 枝
ほそく 痛い 枝
わたしのこころに
白い えだ
(「白い枝」全行)
いづくにか
ものの
落つる ごとし
音も なく
しきりにも おつらし
(「朗(ほが)らかな 日」全行)
鉛(なまり)のなかを
ちようちよが とんでゆく
(「鉛と ちようちよ」全行)
やぶれたこの 窓から
ゆふぐれ 街なみいろづいた 木をみたよる
ひさしぶりに 美しい夢をみた
(「美しい 夢」全行)
ことさら
かつぜんとして 秋がゆふぐれをひろげるころ
たましいは 街を ひたはしりにはしりぬいて
西へ 西へと うちひびいてゆく
(「ひびく たましい」全行)
そらを 指す
木は かなし
そが ほそき
こずゑの 傷いたさ
(「空を 指(さ)す 梢(こずゑ)」全行)
赤んぼが わらふ
あかんぼが わらふ
わたしだつて わらふ
あかんぼが わらふ
(「赤ん坊が わらふ」全行)
こころよ
では いつておいで
しかし
また もどつておいでね
やつぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行つておいで
(「心 よ」全行)
はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀しかつたのです
ひかりは
ありと あらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 息を あたへました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福(いわわ)れながら
(「貫ぬく 光」全行)
わがこころ
そこの そこより
わらひたき
あきの かなしみ
あきくれば
かなしみの
みなも おかしく
かくも なやまし
みみと めと
はなと くち
いちめんに
くすぐる あきのかなしみ
(「秋の かなしみ」全行)
ほそい
がらすが
ぴいん と
われました
(「ほそい がらす」全行)
彫られた 空の しづけさ
無辺際の ちからづよい その木地に
ひたり! と あてられたる
さやかにも 一刀の跡
(「彫られた 空」全行)
くものある日
くもは かなしい
くもの ない日
そらは さびしい
(「雲」全行)
ある日の こころ
山となり
ある日の こころ
空となり
ある日の こころ
わたしと なりて さぶし
(「在る日の こころ」全行)
おさない日は
水が もの云ふ日
木が そだてば
そだつひびきが きこゆる日
(「幼い日」全行)
おほぞらを 水 ながれたり
みづのこころに うかびしは
かぢもなき 銀の 小舟(おぶね)、ああ
ながれゆく みづの さやけさ
うかびたる ふねのしづけさ
(「おほぞらの 水」全行)
こころ
そらの はるけさを かけりゆけば
豁然と ものありて 湧くにも 似たり
ああ こころは かきわけのぼる
しづけき くりすたらいんの 高原
(「そらの はるけさ」全行)
霧が ふる
きりが ふる
あさが しづもる
きりがふる
(「霧が ふる」全行)
空が 凝視(み)てゐる
ああ おほぞらが わたしを みつめてゐる
おそろしく むねおどるかなしい 瞳
ひとみ! ひとみ!
ひろやかな ひとみ、ふかぶかと
かぎりない ひとみのうなばら
ああ、その つよさ
まさびしさ さやけさ
(「空が 凝視(み)てゐる」全行)
やまぶきの 花
つばきのはな
こころくらきけふ しきりにみたし
やまぶきのはな
つばきのはな
(「こころ 暗き日」全行)
蒼白い きりぎしをゆく
その きりぎしの あやうさは
ひとの子の あやうさに似る、
まぼろしは 暴風(はやて)めく
黄に 病みて むしばまれゆく 薫香
悩ましい 「まあぶる」の しづけさ
たひらかな そのしずけさの おもわに
あまりにもつよく うつりてなげく
悔恨の 白い おもひで
みよ、悔いを むしばむ
その 悔いのおぞましさ
聖栄のひろやかさよ
おお 人の子よ
おまへは それを はぢらうのか
(「蒼白い きりぎし」全行)
ああ
はるか
よるの
薔薇
(「夜の薔薇(そうび)」全行)
うちけぶる
おもひでの 瓔珞
悔いか なげきか うれひか
おお、きららしい
かなしみの すだま
ぴらる ぴらる
ゆうらめく むねの 妖玉
さなり さなり
死も なぐさまぬ
らんらんと むしばむ いのり
(「蝕む 祈り」全行)
わが 哀しみの 秋に似たるは
みにくき まなこ病む 四十女の
べつとりと いやにながい あご
昨夜みた夢、このじぶんに
『腹切れ』と
刀つきつけし 西郷隆盛の顔
猫の奴めが よるのまに
わが 庭すみに へどしてゆきし
白魚(しらうを)の なまぬるき 銀のひかり
(「哀しみの 秋」全行)
各(ひと)つの 木に
各(ひと)つの 影
木 は
しづかな ほのほ
(「静かな 焔」全行)
しろい きのこ
きいろい きのこ
あめの日
しづかな日
(「あめの 日」全行)
ちさい 童女が
ぬかるみばたで くびをまわす
灰色の
午后の 暗光
(「暗光」全行)
秋が くると いふのか
なにものとも しれぬけれど
すこしづつ そして わづかにいろづいてゆく、
わたしのこころが
それよりも もつとひろいもののなかへくづれて ゆくのか
(「秋」全行)
おもたい
沼ですよ
しづかな
かぜ ですよ
(「沼と風」全行)
まひる
けむし を 土にうづめる
(「毛蟲を うづめる」全行)
白き
秋の 壁に
かれ枝もて
えがけば
かれ枝より
しづかなる
ひびき ながるるなり
(「秋の 壁」全行)
このよひは ゆくはるのよひ
かなしげな はるのめがみは
くさぶえを やさしき唇(くち)へ
しつかと おさへ うなだれてゐる
(「ゆくはるの 宵」全行)
なくな 児よ
哭くな 児よ
この ちちをみよ
なきもせぬ
わらひも せぬ わ
(「哭くな 児よ」全行)
春は かるく たたずむ
さくらの みだれさく しづけさの あたりに
十四の少女の
ちさい おくれ毛の あたりに
秋よりは ひくい はなやかな そら
ああ けふにして 春のかなしさを あざやかにみる
(「春」全行)
やなぎも かるく
春も かるく
赤い 山車(だし)には 赤い児がついて
青い 山車には 青い児がついて
柳もかるく
はるもかるく
けふの まつりは 花のようだ
(「柳も かるく」全行)
(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。回ごとの論旨のまとまりの便宜上、記述・引用の重複はご容赦ください。)
(以下次回)
始めた時には八木重吉の第1詩集『秋の瞳』'25(大正14年10月刊)についてこんなに割り切れない、読み方に手こずる詩集だとは予想していませんでした。これまで取り上げた詩集でも北村透谷(1868-1894)の第1詩集(長編詩)で刊行直前に著者透谷自身によって刊行中止にされた『楚囚之詩』1889(明治22年4月刊行中止)を読んできた時がもっとも回数がかかり、次いで高村光太郎(1883-1956)の生前最後の詩集『典型』'50(昭和25年刊)、萩原朔太郎(1886-1942)の最後の詩集『氷島』'34(昭和9年刊)、三好達治(1900-1964)の第1詩集『測量船』'30(昭和5年刊)などが10数回を費やしてもまだ踏み込みきれない慚愧の念の残る詩集でしたが、透谷は日本の最初の現代詩詩人と言えるだけに透谷と並ぶ中西梅花(1866-1898、詩集『新軆梅花詩集』1891=明治24年)との比較と合わせて詩集の成立そのものが大事件であり、また原文も難しいので逐字的に読んでいく作業にも手間がかかるので長くなるのも相応の理由がありました。透谷が八木重吉の学生時代にもっとも心酔した詩人だったのは詩集『秋の瞳』について八木重吉全集を読み返して初めて気づいたことで、以前は読み過ごしていたのですが、透谷と梅花について補足すると明治20年代前半の現代詩揺籃期でもこの二人は突出していて、新興文学形式としての現代詩はイギリス詩の翻訳や形式的模倣から始まり(『新軆詩抄』1882=明治15年)、『楚囚之詩』と同年の夏に刊行された森鴎外中心の外国文学者グループによる訳詩集『於母影』でようやく文学的内実を備えた翻訳詩が登場しましたが、透谷や梅花は明治30年(1897年)の島崎藤村(1872-1943)の画期的な詩集『若菜集』に収録された詩編のように、数行数連という典型的な抒情詩の概念もないスタート地点から詩を書き始めた、ということです。藤村がまとまった形で示した抒情詩の形式は『於母影』や年長の盟友透谷の晩年のコンパクトな抒情詩をより日本語の詩として練れた形式・文体に整備したもので、そこに後発の詩人である藤村の優位性がありました。また宮崎湖處子(1864-1922)、国木田獨歩(1871-1908)ら少数の佳作を残した詩人もいましたが、明治20年代の詩人の大半は現代詩の抒情詩を和歌(短歌)や俳諧、漢詩の発想からしか書けないか、またはやはり日本文学の古典的形式である紀行文・随筆的内容を西洋詩の形式である行分け詩に移す発想しか持てなかったので、現代詩というまったく新しい文学形式に旧来の日本文学の発想とは異なる新しい発想を備えた詩をまとまった形で提示してみせた先駆者は透谷と梅花の二人になるのです。
しかし透谷と梅花はともに明治20年代の日本に適合することができず、生前決して経済的に恵まれた文筆活動を送れず、伝記的研究では20代のうちに精神疾患の発症が確認され、透谷は自宅療養中に縊死自殺(享年24歳)し、梅花は施設入院を経て帰宅中急逝(享年31歳)しています。梅花は晩年数年まったく友人・知人からは消息を断っており、歿後に伝聞で逝去が伝わったので、自殺とも伝えられましたが入院期間も長く、当時の精神医療は世界的に中世から行われていたように慢性的患者の陽性症状を抑えるため隔離監禁を長く続けるというもので(これは脳医学による薬物療法の発達まで20世紀後半まで続けられ、今日でも陽性症状中の患者に対しては行われています)、病相にある患者は非常に食欲にムラがある上に栄養学も未発達でしたので、一般的に考えられる死因としては慢性的な栄養失調状態で衰弱が進み、退院して自宅療養した方が良いと実家へ帰され、そこで日本の風土病である肺病を発症して急逝したというのがもっとも可能性の高い死因と推定されます。日本の現代詩の最初の詩人である透谷、梅花の二人ともが円滑な社会生活を送れず、死因に結びつくことになった精神疾患を患うほど多大なストレスを抱えていた、社会的弱者にして傷つきやすい感受性の持ち主だったのは痛ましいことで、またそれほどの精神的危機に向かっていく種類の詩人だったからこそ透谷と梅花は日本の現代詩の祖とも言える本質的な詩人と認めるに足る業績を残せたので、それは時代の風潮に対して調和的な性格の詩人たちにはできないことでした。こうした内面に危機を抱えた詩人の系譜は明治後期に蒲原有明と石川啄木、大正時代に山村暮鳥を数えることができます。有明、啄木、暮鳥についてもこれまでその詩集を個別に採り上げてきました。
高村光太郎の『典型』、萩原朔太郎の『氷島』については内容の自伝的性格、また各々の最後の詩集であることから詩歴全般を見渡すことになり、おのずと回数を重ねることになりました。事情は三好達治の詩歴の出発点である第1詩集『測量船』でも変わりません。詩歴の長く屈曲に富んだ高村、萩原、三好のような詩人の最後、または最初の詩集を読むのはその業績全般を意識せずにはいられませんし、それは『典型』『氷島』『測量船』といった詩集の出来不出来、またそれらが各々の詩歴の中でも独特な、例外的詩集と見なせるとしても変わりません。そうした詩人たちと較べると、八木は八木よりも若い年齢で夭逝した北村透谷、石川啄木よりも詩人としての出発は遅く、歿後刊行の第2詩集で八木自身が晩年の病床で編集を済ませていた詩集『貧しき信徒』'28(昭和3年刊)でも第1詩集『秋の瞳』から大きな作風の変遷はないので、検討する角度はそれほど広がりはないように思われます。なのに詩集『秋の瞳』は読み返せば読み返すほど不可解な面が際立ってくる詩集で、まっすぐ歩いているつもりなのに同じところをぐるぐる回っているような砂漠や雪原のような広漠なつかみ難さがあり、コンパスの針を惑わせるような方位が定まらない変な磁場が働いていて、確たる読解を拒むような性格があります。これは八木の詩について、あまり問題にされてこなかったことです。
前数回では八木重吉の第1詩集『秋の瞳』を読み返し、その全117編の収録詩編を、
●(a)生活詩・心境詩(詩的表現が断片的に過ぎ、生活報告や心境告白に留まるもの)……40編
●(b)箴言詩(警喩詩・思想詩・断章詩=詩としては断章的で、警句や意見表明の次元で成立するもの)……41編
●(c)純粋詩(一編の詩として自律性の高い、独立した短詩と見なせるもの)……36編
――と、分けてきました。八木の詩の謎めいた箴言的性格(それを宗教性とも言えるでしょう)が露骨に現れているのが(b)の詩群で、
えんぜるになりたい
花になりたい
(「花になりたい」全行)
無造作な くも、
あのくものあたりへ 死にたい
(「無造作な 雲」全行)
このかなしみを
ひとつに 統(す)ぶる 力(ちから)はないか
(「かなしみ」全行)
死 と 珠 と
また おもふべき 今日が きた
(「死と珠(たま)」全行)
わたしは
玉に ならうかしら
わたしには
何(なん)にも 玉にすることはできまいゆえ
(「玉(たま)」全行)
ぐさり! と
やつて みたし
人を ころさば
こころよからん
(「人を 殺さば」全行)
この しのだけ
ほそく のびた
なぜ ほそい
ほそいから わたしのむねが 痛い
(「しのだけ」全行)
すずめが とぶ
いちじるしい あやうさ
はれわたりたる
この あさの あやうさ
(「朝の あやうさ」全行)
あき空を はとが とぶ、
それでよい
それで いいのだ
(「鳩が飛ぶ」全行)
わたしの まちがひだつた
わたしのまちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる
(「草に すわる」全行)
くらげ くらげ
くものかかつた 思ひきつた よるの月
(「夜の 空の くらげ」全行)
巨人が 生まれたならば
人間を みいんな 植物にしてしまうにちがいない
(「人間」全行)
花が 咲いた
秋の日の
こころのなかに 花がさいた
(「秋の日の こころ」全行)
赤い 松の幹は 感傷
(「感傷」全行)
かへるべきである ともおもわれる
(「おもひ」全行)
このひごろ
あまりには
ひとを 憎まず
すきとほりゆく
郷愁
ひえびえと ながる
(「郷愁」全行)
宇宙の良心―耶蘇
(「宇宙の 良心」全行)
彫(きざ)まれたる
空よ
光よ
(「空 と 光」)
――らが(b)に分けられる代表的な詩編ですが、これらは通常なら詩の書き出し、または結句のみを取り出してきたような断章をそのまま表題つきの1編の詩として提示しているところに異常な感覚があります。一方、1編の詩として成立していると認められる(c)群の詩も、一般的な詩としてはあまりに短くあっけない印象を与えるものです。煩を厭わず(c)群に分けられると見なせる36編を全部上げてみましょう。表題を外して読めばこれらも断章的性格の強さの方が純粋詩としての完結感よりも高いことがわかります。また、逆に言えば行数・連数の多い「詩」らしい詩編よりも、そうした断章的短詩であるほど八木の詩は成功しているのもわかります。次回ではこれら(c)群の詩(純粋詩)を、作品内容としては対照的なはずの(a)群の詩(生活詩・心境詩)と比較してみたいと思います。
八木重吉詩集『秋の瞳』
大正14年(1925年)8月1日・新潮社刊
息を ころせ
いきを ころせ
あかんぼが 空を みる
ああ 空を みる
(「息を 殺せ」全行)
白い 枝
ほそく 痛い 枝
わたしのこころに
白い えだ
(「白い枝」全行)
いづくにか
ものの
落つる ごとし
音も なく
しきりにも おつらし
(「朗(ほが)らかな 日」全行)
鉛(なまり)のなかを
ちようちよが とんでゆく
(「鉛と ちようちよ」全行)
やぶれたこの 窓から
ゆふぐれ 街なみいろづいた 木をみたよる
ひさしぶりに 美しい夢をみた
(「美しい 夢」全行)
ことさら
かつぜんとして 秋がゆふぐれをひろげるころ
たましいは 街を ひたはしりにはしりぬいて
西へ 西へと うちひびいてゆく
(「ひびく たましい」全行)
そらを 指す
木は かなし
そが ほそき
こずゑの 傷いたさ
(「空を 指(さ)す 梢(こずゑ)」全行)
赤んぼが わらふ
あかんぼが わらふ
わたしだつて わらふ
あかんぼが わらふ
(「赤ん坊が わらふ」全行)
こころよ
では いつておいで
しかし
また もどつておいでね
やつぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行つておいで
(「心 よ」全行)
はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀しかつたのです
ひかりは
ありと あらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 息を あたへました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福(いわわ)れながら
(「貫ぬく 光」全行)
わがこころ
そこの そこより
わらひたき
あきの かなしみ
あきくれば
かなしみの
みなも おかしく
かくも なやまし
みみと めと
はなと くち
いちめんに
くすぐる あきのかなしみ
(「秋の かなしみ」全行)
ほそい
がらすが
ぴいん と
われました
(「ほそい がらす」全行)
彫られた 空の しづけさ
無辺際の ちからづよい その木地に
ひたり! と あてられたる
さやかにも 一刀の跡
(「彫られた 空」全行)
くものある日
くもは かなしい
くもの ない日
そらは さびしい
(「雲」全行)
ある日の こころ
山となり
ある日の こころ
空となり
ある日の こころ
わたしと なりて さぶし
(「在る日の こころ」全行)
おさない日は
水が もの云ふ日
木が そだてば
そだつひびきが きこゆる日
(「幼い日」全行)
おほぞらを 水 ながれたり
みづのこころに うかびしは
かぢもなき 銀の 小舟(おぶね)、ああ
ながれゆく みづの さやけさ
うかびたる ふねのしづけさ
(「おほぞらの 水」全行)
こころ
そらの はるけさを かけりゆけば
豁然と ものありて 湧くにも 似たり
ああ こころは かきわけのぼる
しづけき くりすたらいんの 高原
(「そらの はるけさ」全行)
霧が ふる
きりが ふる
あさが しづもる
きりがふる
(「霧が ふる」全行)
空が 凝視(み)てゐる
ああ おほぞらが わたしを みつめてゐる
おそろしく むねおどるかなしい 瞳
ひとみ! ひとみ!
ひろやかな ひとみ、ふかぶかと
かぎりない ひとみのうなばら
ああ、その つよさ
まさびしさ さやけさ
(「空が 凝視(み)てゐる」全行)
やまぶきの 花
つばきのはな
こころくらきけふ しきりにみたし
やまぶきのはな
つばきのはな
(「こころ 暗き日」全行)
蒼白い きりぎしをゆく
その きりぎしの あやうさは
ひとの子の あやうさに似る、
まぼろしは 暴風(はやて)めく
黄に 病みて むしばまれゆく 薫香
悩ましい 「まあぶる」の しづけさ
たひらかな そのしずけさの おもわに
あまりにもつよく うつりてなげく
悔恨の 白い おもひで
みよ、悔いを むしばむ
その 悔いのおぞましさ
聖栄のひろやかさよ
おお 人の子よ
おまへは それを はぢらうのか
(「蒼白い きりぎし」全行)
ああ
はるか
よるの
薔薇
(「夜の薔薇(そうび)」全行)
うちけぶる
おもひでの 瓔珞
悔いか なげきか うれひか
おお、きららしい
かなしみの すだま
ぴらる ぴらる
ゆうらめく むねの 妖玉
さなり さなり
死も なぐさまぬ
らんらんと むしばむ いのり
(「蝕む 祈り」全行)
わが 哀しみの 秋に似たるは
みにくき まなこ病む 四十女の
べつとりと いやにながい あご
昨夜みた夢、このじぶんに
『腹切れ』と
刀つきつけし 西郷隆盛の顔
猫の奴めが よるのまに
わが 庭すみに へどしてゆきし
白魚(しらうを)の なまぬるき 銀のひかり
(「哀しみの 秋」全行)
各(ひと)つの 木に
各(ひと)つの 影
木 は
しづかな ほのほ
(「静かな 焔」全行)
しろい きのこ
きいろい きのこ
あめの日
しづかな日
(「あめの 日」全行)
ちさい 童女が
ぬかるみばたで くびをまわす
灰色の
午后の 暗光
(「暗光」全行)
秋が くると いふのか
なにものとも しれぬけれど
すこしづつ そして わづかにいろづいてゆく、
わたしのこころが
それよりも もつとひろいもののなかへくづれて ゆくのか
(「秋」全行)
おもたい
沼ですよ
しづかな
かぜ ですよ
(「沼と風」全行)
まひる
けむし を 土にうづめる
(「毛蟲を うづめる」全行)
白き
秋の 壁に
かれ枝もて
えがけば
かれ枝より
しづかなる
ひびき ながるるなり
(「秋の 壁」全行)
このよひは ゆくはるのよひ
かなしげな はるのめがみは
くさぶえを やさしき唇(くち)へ
しつかと おさへ うなだれてゐる
(「ゆくはるの 宵」全行)
なくな 児よ
哭くな 児よ
この ちちをみよ
なきもせぬ
わらひも せぬ わ
(「哭くな 児よ」全行)
春は かるく たたずむ
さくらの みだれさく しづけさの あたりに
十四の少女の
ちさい おくれ毛の あたりに
秋よりは ひくい はなやかな そら
ああ けふにして 春のかなしさを あざやかにみる
(「春」全行)
やなぎも かるく
春も かるく
赤い 山車(だし)には 赤い児がついて
青い 山車には 青い児がついて
柳もかるく
はるもかるく
けふの まつりは 花のようだ
(「柳も かるく」全行)
(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。回ごとの論旨のまとまりの便宜上、記述・引用の重複はご容赦ください。)
(以下次回)