近作を除きマカヴェイエフ作品はすべて日本公開されていますから邦題のみ記しますが、マカヴェイエフが亡命映画監督になったのは第4作『WR:オルガニズムの神秘』'71がユーゴスラビアでは上映禁止になったからで、同作は西ドイツで西ドイツ=ユーゴスラビア合作映画として公開され、第5作『スウィート・ムービー』'74はフランス=カナダ=西ドイツ合作映画として製作・公開、第6作『モンテネグロ』'81はスウェーデン映画、第7作『コカコーラ・キッド』'85はオーストラリア映画、第8作『マニフェスト』'88はアメリカ映画になり、第9作『ゴリラは真昼、入浴す。』'93は東西融和後のユーゴスラビア連邦共和国とドイツの合作で長編映画はそれが最新作になり、'94年にイギリスで1時間のテレビ用ドキュメンタリー映画『A Hole in the Soul』、'96年にデンマークのオムニバス映画『Danske piger viser alt (Danish Girls Show Everything)』の1話を担当していますが、これらは日本未公開になっています。『WR:オルガニズムの神秘』は日本では一般劇場未公開のうちから映画祭上映で話題になり研究書「キネマ旬報別冊・世界の映画作家」シリーズの第21巻『性に挑むシネアストたち』'73としてベルナルド・ベルトリッチ、マカヴェイエフ、ケン・ラッセルの3人集が刊行されていたほどですが、一般公開されたのは『WR:オルガニズムの神秘』から当初最新作『コカコーラ・キッド』までが一挙上映された'87年になりました。当日もっとも話題になったのはフランスとカナダではすぐに上映禁止作品になりスイーツとスカトロジーを結びつけた『スウィート・ムービー』(全裸のチョコレートまみれ、ウンコまみれという悪趣味の極みが話の種になりました)で、『WR:オルガニズムの神秘』『モンテネグロ』も好評を博し、'91年にはユーゴスラビア時代の初期3作を含み最新作『マニフェスト』までの8作の連続上映が行われています。劇場用長編映画の最新作『ゴリラは真昼、入浴す。』は東西融和後の旧共産圏へのレクイエム的テーマで、以来25年間テレビ用ドキュメンタリー1本、オムニバス映画への参加1話(短編)きりで、日本盤映像ソフトもVHSテープ時代にされたきりで、日本盤DVD化が遅れている映画監督のひとりでもあります。
今回取り上げた3作は定評あるアメリカの映画復刻レーベル、クライテリオン社から2009年に3枚組ボックスセット『Criterion Collection: Eclipse 18: Dusan Makavejev』として発売されており、『WR:オルガニズムの神秘』(特典映像に『A Hole in the Soul』収録)と『スウィート・ムービー』はやはりクライテリオン社から2007年に単品で同時発売されています。膨大な古典~現代映画を復刻しているクライテリオン社でさえもボックス・セットの裏面解説を「ドゥシャン・マカヴェイエフのような映画作家は他にいない。'60年代に劇映画とドキュメンタリーの壁と映画のあらゆるルールをゴダール、カサヴェテス、クリス・マルケルが打ち破ってきても、マカヴェイエフの存在は孤立している」と書いています。いろいろ諸国の映画サイトを参照してみましたが、「ジャンル」の欄に「Grotesque」とだけ書いてある映画監督は初めて見ました。今年88歳となると新作は難しいでしょうが、いま一度、昨今の事情では劇場公開が厳しいならせめてひと通り(と言ってもマカヴェイエフほど寡作だと全部ですが)日本盤DVD化だけでもされないものでしょうか。
『人間は鳥ではない』Covek nije tica (アヴァラ・フィルム・ベオグラード'65)*78min, B/W, 1:1.66; 日本公開平成3年(1991年)9月15日・カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作品
○出演=ヤネス・ヴローヴェッツ(ルディンスキ)、ミレナ・ドラヴィッチ(ライカ)、ストーレ・アランデロヴィチ(バルブロヴィチ)、エヴァ・ラース(バルブロヴィチの妻)
○解説(キネマ旬報映画データベースより) セックスと政治が共存する、ドゥシャン・マカヴェイエフ監督の記念すべき長編処女作。身分の違うふたりの男の愛情生活と政治的立場を対比的に描き、そこから官僚制を批判している。さらに筋そのものとは関係なくサーカスでのキワモノ的映像がインサートされるなどマカヴェイエフに特徴的な多層構造の萌芽も見られる。
○あらすじ(同上) 新しい機械を設置するため、エンジニアのルディンスキ(ヤネス・ヴローヴェッツ)が工場に派遣されてきた。彼は床屋で魅力的な理容師ライカ(ミレナ・ドラヴィッチ)に出会い恋仲になる。だが仕事が忙しく、彼はライカをかまってやれない。そのため彼女はトラック運転手と浮気を始める。一方、工場で働くバルヴロヴィチ(ストーレ・アランデロヴィチ)は、酒場でケンカ騒ぎに巻き込まれ連行される。ルディンスキの部下ということでようやく釈放され家に帰ると、お気に入りのドレスがなくなったため妻(エヴァ・ラース)が泣いている。それを無視し、どなり散らすバルヴロヴィチ。ルディンスキとライカはなおも情事を続けていたがライカの恋はすでに冷めてしまっていた。やがて工場は完成し、記念の式典でベートーヴェンの第九交響曲の合唱が始まる。だが、そのころライカは運転手とともにいた。
'60年代にデビューしたヨーロッパの新鋭映画監督の作品というと、旧共産圏であってもアントニオーニとゴダールの作風との類縁はどうしても気になるもので、その辺の事情に寄り道すると長くなりますがあと3人上げるとベルイマン、フェリーニ、レネがいます。戦後ヨーロッパ映画は彼らの作品によって'60年前後でほぼ煮詰まっていたと言えて、新人監督がオリジナリティのある映画を作ろうとすると汎用性のあるベルイマン、フェリーニ、レネの手法を参照はできても、アントニオーニやゴダールは似せるつもりはないのにアントニオーニやゴダールの映画に自然に似てきてしまう、というのが当時の精鋭監督たちの抱えていたアンビヴァレンツでした。共産圏の芸術家は庶民が西側諸国の最新文化に遮断されていたのに対して自国文化の向上のためそれらの研究と移入を奨励されていたので映画監督も例に洩れなかったのですが、戦後の民主主義国の文化は共産圏の文化官僚の推進してきた啓蒙主義的リアリズムとは対立する性質のもので、'60年代の旧共産圏の新人映画監督の多くが'60年代末のソヴィエト連邦による圧迫がもたらした保守主義の強化から作風の転換や自主的亡命を迫られたのはそうした背景があったからでした。マカヴェイエフの'60年代の長編3作はいずれも78分、68分と短いものですが同時代のポーランドのスコリモフスキ作品も同様で、スコリモフスキ作品とは異なる理由としても国家検閲による制限を感じないではいられません。本作は男性主人公はあらすじで主人公とした人物の他にその部下の労働者がいて、映画の冒頭はこの二人は対比的に描かれており管理職格の主人公と部下の労働者の階層格差を描く意図があったと思われますが、結局部下の方は映画が進むにつれて作品から消えてしまっている。また主人公とヒロインの関係も同様で、伏線らしき描写や小道具が印象的に用いられているのに大半が結末までいたっても回収されず、完成した現行のヴァージョンはかなりの部分が削除されたのではないか、と思われます。ぶっきらぼうな放り投げたような結末になっているのはスコリモフスキ作品でも見られたことですが、スコリモフスキの映画は意図通りに観客の意表を突いて着地した完結感があるのに、マカヴェイエフの本作はあまりに曖昧で飛躍が過ぎるように感じられます。仕事しか頭にない男と気移りしやすい女の恋愛ではアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』'62の設定を借りてきていますし、出演俳優自身による注釈的コメントの多用はゴダールの諸作を連想させますが、『人間は鳥ではない』でもっとも強い印象を残すのは映像の異様な圧迫感で、マカヴェイエフは素早い挿入カット以外はスコリモフスキ、タルコフスキーらと同様にカットが長く、ほとんど1シーン・ワンカットの手法を取っており、これもアントニオーニとの類似になっているとしてもカメラ・アングルやレンズ選択と焦点深度があからさまに不自然で、長回しの難点は映像そのものよりもカメラを意識させてしまう場合があることですが、マカヴェイエフの場合は長回しによって視覚の歪みを生じるような映像を作っていて、カメラを意識させるというより遠近法の狂いに強烈な密度を感じさせます。しかも本作は検閲削除の結果か意図してかシークエンス単位でもぶつ切れの未完結感がはなはだしく、不完全なラッシュフィルムの集積のような完成度の低さが逆に切迫したリアリティを持って迫ってくる作品になっています。アメリカ盤DVDのパッケージに水を浴びた窓に車中から手を合わせた逆光の素晴らしく冴えたカットが使われており、こうした感覚の冴えが全編に満ちています。「『人間は鳥ではない』は映画史上もっとも自信に溢れて大胆不敵なデビュー作のひとつである」とDVD裏の解説で賞賛されている本作ですが、これはなかなか賛同を得られないかもしれません。
●5月30日(水)
『愛の調書、又は電話交換手失踪事件』Ljubavni slucaj ili tragedija sluzbenice P.T.T. (アヴァラ・フィルム・ベオグラード'67)*68min, B/W, 1:1.66; 日本公開平成3年(1991年)9月1日
○出演=エヴァ・ラース(イザベラ)、スロボダン・アリグリディチ(アーメッド)
○解説(キネマ旬報映画データベースより)「モンテネグロ」「スウィート・ムービー」などで知られる鬼才ドゥシャン・マカヴェイエフが、その"セクスポル"スタイルを確立した作品。実際に起きた殺人事件を題材にしたドラマに実在の犯罪学者ジヴォン・アレクシッチ博士が分析を加え、さらにこれも実在の性科学者であるアレクサンダル・コスティッチ博士が古代から現代に至るセックスについてレクチャーしていくという構成を取っている。これに加えて十月革命などのニューズリールがカットインされ、物語そのものとこれらが渾然一体となってマカヴェイエフ・ワールドを作り上げていく。
○あらすじ(同上) ザグレブで電話交換手として働くイザベラ(エヴァ・ラース)は、アラブ系の衛生検査官アーメッド(スロボダン・アリグリディチ)と出会い、恋に落ちた。やがてふたりは同棲するようになり、当然のようにイザベラは妊娠する。しかし、彼女はアーメッドを裏切り、逆上したアーメッドはイザベラを井戸の中に突き落とすのだった。
ロシア革命のニュース映画はジガ・ヴェルトフの『熱狂』'31から採られたものだそうで、また'50年代のユーゴスラビアの通俗情痴メロドラマを模した低予算映画(低予算だった前作『人間は鳥ではない』よりさらに低予算で作られたそうです)の本作は、マカヴェイエフが実際に警察関係者から取材したのが題材になっているそうですから一種のモデル映画でもありますが、コメンタリーや実写フィルム、象徴的なのか異化効果のためか寸劇的場面の挿入が見られるのはブニュエルのシュルレアリスト時代の作品『黄金時代』'30を直接連想させます。『黄金時代』もサソリの生態のドキュメンタリー・フィルムと学術的解説から始まり、社交界への悪意ある風刺や「狂気の愛」の権化になった男の行動が誇張したスラップスティック調にもリアリズム調にもシュルレアリスム調にも描かれる、というブニュエル青年時代の才気に満ちた初期作品で、同作の上映禁止からもともとスペイン出身でフランスで映画人になったブニュエルは映画監督の道を閉ざされ、宣伝・製作スタッフに転身してスペインに戻り、大戦中にアメリカに亡命、さらにメキシコに渡って、『黄金時代』以来の長編映画監督復帰まで16年かかっています。ブニュエルはメキシコでの『皆殺しの天使』'62(カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞受賞)の後、『小間使いの日記』'63からはフランス映画界に復帰して国際的大家になっており、『人間は鳥ではない』のカンヌ国際映画祭コンペティション上映の際にマカヴェイエフが戦後上映禁止を解かれた『黄金時代』を観る機会があったとは嗜好や感覚の近さから十分考えられることで、かえってブニュエルへの親近感がなかったとは考えづらいことです。本作はマカヴェイエフ自身が「セクスポル」作品の第1作としている、作風の確立を自認した作品でもあり、長編デビュー作『人間は鳥ではない』と異なるのは題材的には恋愛映画としてさらに悲劇的内容になっていのに、性科学や犯罪学などの学術的視点をパロディ的にあしらうことで結果的にはブラック・ユーモア色が非常に強いことで、68分という短さも検閲削除を経たからかもしれませんが、サイレント時代のスラップスティック喜劇がやはり同等の長さのものが多く、ブニュエルの『黄金時代』がちょうど1時間だったように短さ、あっけなさというのも映画では効果的に働く場合もあります。また世相風俗映画としても本作で描かれたベオグラードの都会文化は前作同様猥雑で、同じ東欧でもチェコスロバキアやポーランド、ハンガリーより成立が雑多で人口流入、人種・民族の混淆が激しい内情をうかがわせます(これはユーゴスラビアでのみアルバムをリリースしているイギリスのロック・バンドの存在からでも推測されます)。インサートされる「ネズミにチーズを……」は主人公が浄水場の衛生管理官で、仕事がてら書き進めているネズミ駆除対策の論文からですが(生ゴミをあさるネズミにチーズを与えて慣れさせた後に餌やりを断つと、チーズに慣れたネズミは生ゴミを食べることができず餓死する、という趣旨です)、本作で描かれる情痴事件の暗喩であるとともに主人公の奇想でもあって、映画ばかりか登場人物さえもどこか狂っているのが前作以上に激しい。'60年代ユーゴスラビア映画の傑作とされる本作はクレジット・タイトルにヒロインのヌードのシルエットがインサートされ、これも前代未聞の手法だったと言われます。ぶっきらぼうなエンディングですが前作のような曖昧さはなく、前作と観較べるとマカヴェイエフ自身が自己のスタイルの確立作と見なすのも納得のいく作品で、アントニオーニやゴダールの影響下からの飛躍が認められます。ただしあまりに小品なので『人間は鳥ではない』と本作はあわせて1本、と観るべき作品とも言えます。そして次作『保護なき純潔』ではマカヴェイエフのアプローチは一気にビッグ・バンを迎えることになります。
●5月31日(木)
『保護なき純潔』Nevinost bez zastite (アヴァラ・フィルム・ベオグラード'68)*79min, Tinted B/W / Color, 1:1.33; 日本公開平成3年(1991年)8月17日・ベルリン国際映画祭銀熊賞 (審査員グランプリ)受賞
○出演=ドラゴリューブ・アレクシッチ、アナ・ミロサフリェヴィチ
○解説(キネマ旬報映画データベースより)「モンテネグロ」「スウィート・ムービー」などで知られる鬼才ドゥシャン・マカヴェイエフが、少年時代のヒーローだった軽業師ドラゴリューブ・アレクシッチの姿を追ったセミ・ドキュメンタリー・ドラマ。アレクシッチの監督・主演により1942年に製作されながらも、ナチの命令により公開禁止となった映画「保護なき純潔」にオマージュが捧げられている。ユーゴの地方語セルビア語で初めて作られたトーキー映画であるこの作品に出演した人々が、当時のことを語っていく中に、「保護なき純潔」の映像が挿入され、インタビュー、ニュースフィルム、さらに上映されることのなかった映画という多層構造にマカヴェイエフらしさが漂う。ベルリン国際映画祭審査員特別賞を受賞。
○あらすじ(同上) ※本作はドキュメンタリーのためストーリーはありません。
クロノジカルにまとめると以上のような内容になりますが、映画は(1)着色版『保護なき純潔』(継母に無理矢理金持ちの男に嫁がせられそうになった娘が恋人の青年=アレクシッチに救出される、というサスペンス風メロドラマ)のハイライト部分の抜粋、(2)存命するスタッフ、キャストへのインタビュー、(3)戦前の大スター・アクロバット芸人ドラゴリューブ・アレクシッチのアクロバット芸の記録映像、(4)ナチス政権下ドイツ軍に占領されるユーゴスラビア~セルビア・クロアチアの記録映像や歴史考察、(5)58歳になるアレクシッチへの取材と今なお往年の芸を再現してみせる「鋼鉄の男」アレクシッチの雄姿、がクロノジカルでは全然なく、ナレーションまたは字幕によるコメンタリーでモザイク状、またはシャッフルしたように何重にも配置されています。『保護なき純潔』のヒロインは今は歌手をしておりわざわざ屋外インタビューでピアノ伴奏で素っ頓狂な歌をフルコーラス(拷問です)を歌い、着色版『保護なき純潔』はB/W映像に人物の唇だけや乱闘後の傷口だけが下手くそ(ほぼ例外なくはみ出しています)に赤く着色されていたり、衣服の模様だけがやけに凝った着色と思えば普通に外景シーン、室内シーン、昼、夜と青、赤、黄、緑と全面染色されていたりと馬鹿馬鹿しくかつ不統一で、ハイライト・シーンには逐一「アレクシッチはいかに不屈の精神を備えた男か」「アレクシッチが鋼鉄の男と呼ばれる由縁は何か」「アレクシッチはいかに思慮深く慎ましい男か」「アレクシッチはいかに不正を許さず正義を貫く男であるか」とコメンタリー字幕つきで抜粋場面が流れます。塔の天辺に自動車のタイヤを立てその上で逆立ちして頭だけで倒立する20代のアレクシッチの曲芸映像は圧巻ですが58歳になっても頭突きだけで鉄板をへし曲げる姿には言葉もなく、ニュース映像とセルビアの世相史が風刺画のアニメーション化で示されるインサートがあちこち挟まれますし、先の『保護なき純潔』本編(と言って良いなら)のハイライト・シーン抜粋で着色・染色がいよいよ滅茶苦茶になってくるのが青く染色された屋外のビルの屋上から空中ブランコの要領で窓を割って飛び込んでくるアレクシッチとヒロインに暴行しようとしている金持ちの男との乱闘なのですが、室内ではB/W画面にヒロインの唇と頬が赤く着色されているのもすでに奇妙ですが男二人が乱闘するほど顔面に青あざ、赤あざの着色と唇の端や鼻から赤いものが垂れている。映画全体が安定したカラー映像なのは現在の取材部分だけなのですが、古いB/W映像が引用される場合も常に染色・着色の加工があるので、それが割と単純なニュース映像でも色彩加工によって異なる意味を表す効果があります。『保護なき純潔』公開予定の看板を掲げた映画館に観客が殺到しているニュース映像などよく残っていたものだと思いますが、フィルムの質感、人々の身なりや街の情景からもフィルム自体は本物のニュース映像と思われるものの、看板だけははめ込み合成かもしれないので、1942年の上映禁止映画『保護なき純潔』の発見というのは事実だとしても完成作品として残っていたのか、ハイライト・シーンに抜粋された部分を中心に未完成のラッシュ・フィルムだけが残っていたのかも上映されたことがない作品だけに大いに怪しくなってきます。映画は二人の若い美女を左右にはべらせて自宅らしき玄関先でパンツ一枚でガッツポーズをとった現在・58歳のアレクシッチと、『保護なき純潔』のラストシーンらしき若きアレクシッチと同作のヒロインのキスシーンでオリジナル版『保護なき純潔』のエンド・クレジットとこのドキュメンタリー『保護なき純潔』のエンド・クレジットがごっちゃになったエンド・クレジットで終わります。ちなみにアレクシッチ版『保護なき純潔』は継母に無理矢理金持ちに嫁がされそうになる娘、それを救う恋人の主人公という設定がドイツ軍へのユーゴスラビア政府の降伏、ドイツ軍の占領を暗示し抵抗への蜂起を呼びかけたもの、と解釈されたのが上映禁止の理由と推察されています。この帳尻の合い方もどこか臭いではありませんか。