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映画日記2018年5月29日~31日/セルビアの大島渚?ドゥシャン・マカヴェイエフ(1932-)の'60年代作品

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 旧ユーゴスラビア(現セルビア)、ベオグラード出身の映画監督ドゥシャン・マカヴェイエフ(1932-)は短編映画の監督を経て'65年の『人間は鳥ではない』で長編デビュー、カンヌ国際映画祭で注目を集め、第2作『愛の調書、又は電話交換手失踪事件』'67も西側諸国で好評を博し、第3作『保護なき純潔』'68でベルリン国際映画祭銀熊賞 (審査員グランプリ)を受賞し翌年は同映画祭の審査員を務めて国際的映画監督の地位を固めました。マカヴィエフと同年生まれの映画監督にはフランソワ・トリフォー、大島渚がいますから、まだ世界的に映画が活況だった'60年代に、デビューが比較的遅かったとはいえ'68年までに3作とは少ない感じもしますが、マカヴェイエフより6歳若く長編監督デビューは1年早いポーランドのイエジー・スコリモフスキも'60年代には5作(うち1作はベルギー製作)、チェコスロバキアや東ドイツ、ソヴィエト連邦など当時の社会主義国は一国での新作映画製作本数自体が少ないので、第1作から国際的な注目を集めていたマカヴェイエフは目立った存在で、それは社会主義国の映画には珍しく性を中心にした実存的テーマが扱われていたからとも言えます。
 近作を除きマカヴェイエフ作品はすべて日本公開されていますから邦題のみ記しますが、マカヴェイエフが亡命映画監督になったのは第4作『WR:オルガニズムの神秘』'71がユーゴスラビアでは上映禁止になったからで、同作は西ドイツで西ドイツ=ユーゴスラビア合作映画として公開され、第5作『スウィート・ムービー』'74はフランス=カナダ=西ドイツ合作映画として製作・公開、第6作『モンテネグロ』'81はスウェーデン映画、第7作『コカコーラ・キッド』'85はオーストラリア映画、第8作『マニフェスト』'88はアメリカ映画になり、第9作『ゴリラは真昼、入浴す。』'93は東西融和後のユーゴスラビア連邦共和国とドイツの合作で長編映画はそれが最新作になり、'94年にイギリスで1時間のテレビ用ドキュメンタリー映画『A Hole in the Soul』、'96年にデンマークのオムニバス映画『Danske piger viser alt (Danish Girls Show Everything)』の1話を担当していますが、これらは日本未公開になっています。『WR:オルガニズムの神秘』は日本では一般劇場未公開のうちから映画祭上映で話題になり研究書「キネマ旬報別冊・世界の映画作家」シリーズの第21巻『性に挑むシネアストたち』'73としてベルナルド・ベルトリッチ、マカヴェイエフ、ケン・ラッセルの3人集が刊行されていたほどですが、一般公開されたのは『WR:オルガニズムの神秘』から当初最新作『コカコーラ・キッド』までが一挙上映された'87年になりました。当日もっとも話題になったのはフランスとカナダではすぐに上映禁止作品になりスイーツとスカトロジーを結びつけた『スウィート・ムービー』(全裸のチョコレートまみれ、ウンコまみれという悪趣味の極みが話の種になりました)で、『WR:オルガニズムの神秘』『モンテネグロ』も好評を博し、'91年にはユーゴスラビア時代の初期3作を含み最新作『マニフェスト』までの8作の連続上映が行われています。劇場用長編映画の最新作『ゴリラは真昼、入浴す。』は東西融和後の旧共産圏へのレクイエム的テーマで、以来25年間テレビ用ドキュメンタリー1本、オムニバス映画への参加1話(短編)きりで、日本盤映像ソフトもVHSテープ時代にされたきりで、日本盤DVD化が遅れている映画監督のひとりでもあります。
 今回取り上げた3作は定評あるアメリカの映画復刻レーベル、クライテリオン社から2009年に3枚組ボックスセット『Criterion Collection: Eclipse 18: Dusan Makavejev』として発売されており、『WR:オルガニズムの神秘』(特典映像に『A Hole in the Soul』収録)と『スウィート・ムービー』はやはりクライテリオン社から2007年に単品で同時発売されています。膨大な古典~現代映画を復刻しているクライテリオン社でさえもボックス・セットの裏面解説を「ドゥシャン・マカヴェイエフのような映画作家は他にいない。'60年代に劇映画とドキュメンタリーの壁と映画のあらゆるルールをゴダール、カサヴェテス、クリス・マルケルが打ち破ってきても、マカヴェイエフの存在は孤立している」と書いています。いろいろ諸国の映画サイトを参照してみましたが、「ジャンル」の欄に「Grotesque」とだけ書いてある映画監督は初めて見ました。今年88歳となると新作は難しいでしょうが、いま一度、昨今の事情では劇場公開が厳しいならせめてひと通り(と言ってもマカヴェイエフほど寡作だと全部ですが)日本盤DVD化だけでもされないものでしょうか。

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●5月29日(火)
『人間は鳥ではない』Covek nije tica (アヴァラ・フィルム・ベオグラード'65)*78min, B/W, 1:1.66; 日本公開平成3年(1991年)9月15日・カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作品

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○監督・脚本=ドゥシャン・マカヴェイエフ/製作=ドゥシャン・ペルコヴィチ/撮影=アレクサンドル・ペトコヴィッチ/美術=ドラガン・イヴコフ/音楽=ペータル・ベルガモ/編集=リュビ
○出演=ヤネス・ヴローヴェッツ(ルディンスキ)、ミレナ・ドラヴィッチ(ライカ)、ストーレ・アランデロヴィチ(バルブロヴィチ)、エヴァ・ラース(バルブロヴィチの妻)
○解説(キネマ旬報映画データベースより) セックスと政治が共存する、ドゥシャン・マカヴェイエフ監督の記念すべき長編処女作。身分の違うふたりの男の愛情生活と政治的立場を対比的に描き、そこから官僚制を批判している。さらに筋そのものとは関係なくサーカスでのキワモノ的映像がインサートされるなどマカヴェイエフに特徴的な多層構造の萌芽も見られる。
○あらすじ(同上) 新しい機械を設置するため、エンジニアのルディンスキ(ヤネス・ヴローヴェッツ)が工場に派遣されてきた。彼は床屋で魅力的な理容師ライカ(ミレナ・ドラヴィッチ)に出会い恋仲になる。だが仕事が忙しく、彼はライカをかまってやれない。そのため彼女はトラック運転手と浮気を始める。一方、工場で働くバルヴロヴィチ(ストーレ・アランデロヴィチ)は、酒場でケンカ騒ぎに巻き込まれ連行される。ルディンスキの部下ということでようやく釈放され家に帰ると、お気に入りのドレスがなくなったため妻(エヴァ・ラース)が泣いている。それを無視し、どなり散らすバルヴロヴィチ。ルディンスキとライカはなおも情事を続けていたがライカの恋はすでに冷めてしまっていた。やがて工場は完成し、記念の式典でベートーヴェンの第九交響曲の合唱が始まる。だが、そのころライカは運転手とともにいた。

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 クレジット・タイトルでは映画の副題に「A LOVE FILM」(アメリカ版DVD英語字幕)とサブタイトルが入り、クレジット・タイトルに続いて、スタジオでマイクに向かった男(ロコ・チルコヴィッチ、この男は映画本編では催眠術師のロコとして登場します)が一気にある衝動的な恋愛事件についてまくしたてる姿を最初は低い位置から仰角で、次第に男の顔の位置まで上昇してくる長い長いワンシーン・ワンカットのプロローグ(画面右側には次々と映画内の題材・テーマらしい単語がクレジット・ロール風に流れ続ける)が終わると、騒がしい作業現場が見下ろせる工事現場の事務室で映画本編の登場人物の男が長電話をまくしたてているこれまた長いショットに「監督/ドゥシャン・マカヴィエフ」と出て映画は本編のドラマに入ったのがようやくわかります。次のシーンでは男は床屋で若い女理容師に髪をカットしてもらっていて、理髪中に親しくなった二人はそこで理容師がシフト交替になったらしく、一緒に街に出ます。一方、女性歌手が甘ったるい歌を歌う酒場のシーンが交互にインサートされ、酒場ではやがて乱闘が始まります。乱闘からひとりの男がつまみ出され、帰宅すると大事なドレスがなくなった、と妻が泣きわめいている。夫は取りあわないが妻は隣人の女(ツィヴォージン・パヴロヴィッチ)が自分のドレスを着ているのを見かけて「私の夫に手を出したわね!」とつかみあいになる。一方、若い女理容師は主人公と帰り道で別れた後、トラック運転手(ボリス・ドヴォルニック)にナンパされるが軽くかわします。キネマ旬報のあらすじを映画に即して観ながらメモを取っていくとこういう具合になりますが、次に工事の作業員たちに次々と催眠術をかける催眠術師ロコの姿になり、登場人物たちの行動、情事が工場建設と平行して描かれ、アクシデントのシーンでは「これは意図して仕組まれたシーンではない」と字幕が出る、という調子。そんな具合に工事建設が完了し建設記念式典にベートーヴェンの第九交響曲の「歓喜の歌」が演奏・歌唱されるクライマックスになり、式典に列席して「歓喜の歌」に聴きいる主人公と、トラック運転手とカーセックスしているヒロインが平行して描かれ、外に出た主人公はトラック車中にいるヒロインに気づいてホースで窓に水を放水し、ヒロインは哄笑して窓ガラスに手のひらを当てます。主人公とヒロインは林の中を散歩しながら「もう俺を愛していないのか?」「そうよ」しかし主人公のプロポーズは受ける、というヒロインに主人公はヒロインの相手の男の歳を訊きます。「22、3くらいよ」と聞いて激昂した主人公はヒロインの胸倉をつかもうとしますが、ヒロインは叫んで逃げて行きます。町にはサーカスがやってきていて綱渡りの軽業師、蛇呑み芸人らの姿にヒロインは見入り、帰宅した主人公は洗面台の鏡に映った自分の顔を殴り、鏡はひび割れます。そして大ロングで主人公が荒野を去っていく姿に「人はずっと同じ催眠術にかかって歴史をつむいできた……古代ギリシャ、ローマ時代から、そして今も」とナレーションが流れ、「歓喜の歌」が高まり映画は終わります。
 '60年代にデビューしたヨーロッパの新鋭映画監督の作品というと、旧共産圏であってもアントニオーニとゴダールの作風との類縁はどうしても気になるもので、その辺の事情に寄り道すると長くなりますがあと3人上げるとベルイマン、フェリーニ、レネがいます。戦後ヨーロッパ映画は彼らの作品によって'60年前後でほぼ煮詰まっていたと言えて、新人監督がオリジナリティのある映画を作ろうとすると汎用性のあるベルイマン、フェリーニ、レネの手法を参照はできても、アントニオーニやゴダールは似せるつもりはないのにアントニオーニやゴダールの映画に自然に似てきてしまう、というのが当時の精鋭監督たちの抱えていたアンビヴァレンツでした。共産圏の芸術家は庶民が西側諸国の最新文化に遮断されていたのに対して自国文化の向上のためそれらの研究と移入を奨励されていたので映画監督も例に洩れなかったのですが、戦後の民主主義国の文化は共産圏の文化官僚の推進してきた啓蒙主義的リアリズムとは対立する性質のもので、'60年代の旧共産圏の新人映画監督の多くが'60年代末のソヴィエト連邦による圧迫がもたらした保守主義の強化から作風の転換や自主的亡命を迫られたのはそうした背景があったからでした。マカヴェイエフの'60年代の長編3作はいずれも78分、68分と短いものですが同時代のポーランドのスコリモフスキ作品も同様で、スコリモフスキ作品とは異なる理由としても国家検閲による制限を感じないではいられません。本作は男性主人公はあらすじで主人公とした人物の他にその部下の労働者がいて、映画の冒頭はこの二人は対比的に描かれており管理職格の主人公と部下の労働者の階層格差を描く意図があったと思われますが、結局部下の方は映画が進むにつれて作品から消えてしまっている。また主人公とヒロインの関係も同様で、伏線らしき描写や小道具が印象的に用いられているのに大半が結末までいたっても回収されず、完成した現行のヴァージョンはかなりの部分が削除されたのではないか、と思われます。ぶっきらぼうな放り投げたような結末になっているのはスコリモフスキ作品でも見られたことですが、スコリモフスキの映画は意図通りに観客の意表を突いて着地した完結感があるのに、マカヴェイエフの本作はあまりに曖昧で飛躍が過ぎるように感じられます。仕事しか頭にない男と気移りしやすい女の恋愛ではアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』'62の設定を借りてきていますし、出演俳優自身による注釈的コメントの多用はゴダールの諸作を連想させますが、『人間は鳥ではない』でもっとも強い印象を残すのは映像の異様な圧迫感で、マカヴェイエフは素早い挿入カット以外はスコリモフスキ、タルコフスキーらと同様にカットが長く、ほとんど1シーン・ワンカットの手法を取っており、これもアントニオーニとの類似になっているとしてもカメラ・アングルやレンズ選択と焦点深度があからさまに不自然で、長回しの難点は映像そのものよりもカメラを意識させてしまう場合があることですが、マカヴェイエフの場合は長回しによって視覚の歪みを生じるような映像を作っていて、カメラを意識させるというより遠近法の狂いに強烈な密度を感じさせます。しかも本作は検閲削除の結果か意図してかシークエンス単位でもぶつ切れの未完結感がはなはだしく、不完全なラッシュフィルムの集積のような完成度の低さが逆に切迫したリアリティを持って迫ってくる作品になっています。アメリカ盤DVDのパッケージに水を浴びた窓に車中から手を合わせた逆光の素晴らしく冴えたカットが使われており、こうした感覚の冴えが全編に満ちています。「『人間は鳥ではない』は映画史上もっとも自信に溢れて大胆不敵なデビュー作のひとつである」とDVD裏の解説で賞賛されている本作ですが、これはなかなか賛同を得られないかもしれません。

●5月30日(水)
『愛の調書、又は電話交換手失踪事件』Ljubavni slucaj ili tragedija sluzbenice P.T.T. (アヴァラ・フィルム・ベオグラード'67)*68min, B/W, 1:1.66; 日本公開平成3年(1991年)9月1日

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○監督・脚本=ドゥシャン・マカヴェイエフ/製作=アレクサンダル・クルスティチ/撮影=アレクサンドル・ペトコヴィッチ/美術=ヴラディサラフ・ラシチ/編集=カタリナ・シュトヤノヴィチ
○出演=エヴァ・ラース(イザベラ)、スロボダン・アリグリディチ(アーメッド)
○解説(キネマ旬報映画データベースより)「モンテネグロ」「スウィート・ムービー」などで知られる鬼才ドゥシャン・マカヴェイエフが、その"セクスポル"スタイルを確立した作品。実際に起きた殺人事件を題材にしたドラマに実在の犯罪学者ジヴォン・アレクシッチ博士が分析を加え、さらにこれも実在の性科学者であるアレクサンダル・コスティッチ博士が古代から現代に至るセックスについてレクチャーしていくという構成を取っている。これに加えて十月革命などのニューズリールがカットインされ、物語そのものとこれらが渾然一体となってマカヴェイエフ・ワールドを作り上げていく。
○あらすじ(同上) ザグレブで電話交換手として働くイザベラ(エヴァ・ラース)は、アラブ系の衛生検査官アーメッド(スロボダン・アリグリディチ)と出会い、恋に落ちた。やがてふたりは同棲するようになり、当然のようにイザベラは妊娠する。しかし、彼女はアーメッドを裏切り、逆上したアーメッドはイザベラを井戸の中に突き落とすのだった。

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 映画は「人間はいかに適応していくことができるか」「いかに人間性の概念は変化していくか」「それでも残るものは?」というアヴァン・タイトルから性科学者のアレクサンダル・コスティッチ博士が書斎で人類史とセックス観の変遷に関する口上(人は常に性器やセックスを誇張してとらえてきた、それは性が人間存在の自意識の要であるからで、などなど)をひとくさり述べ、それからようやく映画はクレジット・タイトルに入って、休憩中に歓談するヒロインたちの姿が映し出されます。ヒロインたちが職場に就くと仕事場は電話交換手の仕事であることがようやくわかります。仕事を終えて街に出る電話交換手の娘たちが映され、続いてそのうちのひとりらしい若い女性の殺人事件の現場検証が描かれ、犯罪学者のジヴォン・アレクシッチ博士がホワイトボードに書き込みしながら一般犯罪と性犯罪についての特性とこの事件との照応を語ります。続いて映画は電話交換手のハンガリー系のヒロインとその恋人のアラブ系の主人公との仲むつまじい様子を映しますが、ヒロインと主人公の関係が描かれるのと平行して現場検証、検死や検死解剖が描かれて行きますから顔の映されない被害者はどうやらこのヒロインで、そのヒロインが殺されるにいたる過程がカット・バックされているとわかってくる。意味ありげに「ネズミにチーズを与えると/与えるたびに食べつくす」「チーズを与える、食べつくす/それがネズミの習慣になる」「突然チーズが与えられなくなっても/ネズミのチーズへの欲求は止まない」「そしてチーズを与えられないネズミに/終わりがやってくる時がくる」とインタータイトルがインサートされます。性科学講義、新居を構えて同棲を始めたヒロインと主人公が描かれ、やがてそれぞれの仕事のシフトのすれ違いと、主人公が1か月出張中にヒロインが職場に出入りする郵便配達員に心移りする顛末が描かれます。主人公が出張から戻ると愛情は冷え切っていて、しかもヒロインは妊娠している。ここで全裸に全身白塗りの男女が何もない舞台にスポットライトを浴びて次々とギリシャ彫刻風の静止ポーズでさまざまな体位を取る場面がインサートされます。酒に溺れやけになって家を飛び出した主人公をヒロインは追いますが、地下浄水場で自殺を図ろうとした主人公とヒロインはもみ合いになってヒロインは水路に落ちてしまい、主人公は殺人犯として逮捕される。映画はヒロインと主人公がスーツケースを引いて去っていくショットに行進曲(たぶんユーゴスラビアでは公共行事の定番曲と思われる民衆歌)のコーラスが重なって終わります。『愛の調書、又は電話交換手失踪事件』とかっこいい、またミステリアスなタイトルが印象的な本作はドキュメンタリー調かシュルレアリスム調かわからないような調子を行きつ戻りつしますし、またヒロインがハンガリー系、主人公がアラブ系であるユーゴスラビアの歴史的背景を示すためにロシア革命のニュース映画がインサートされる具合に政治的な言及もあり、市井のごくありふれた情痴事件を意味ありげにしています。
 ロシア革命のニュース映画はジガ・ヴェルトフの『熱狂』'31から採られたものだそうで、また'50年代のユーゴスラビアの通俗情痴メロドラマを模した低予算映画(低予算だった前作『人間は鳥ではない』よりさらに低予算で作られたそうです)の本作は、マカヴェイエフが実際に警察関係者から取材したのが題材になっているそうですから一種のモデル映画でもありますが、コメンタリーや実写フィルム、象徴的なのか異化効果のためか寸劇的場面の挿入が見られるのはブニュエルのシュルレアリスト時代の作品『黄金時代』'30を直接連想させます。『黄金時代』もサソリの生態のドキュメンタリー・フィルムと学術的解説から始まり、社交界への悪意ある風刺や「狂気の愛」の権化になった男の行動が誇張したスラップスティック調にもリアリズム調にもシュルレアリスム調にも描かれる、というブニュエル青年時代の才気に満ちた初期作品で、同作の上映禁止からもともとスペイン出身でフランスで映画人になったブニュエルは映画監督の道を閉ざされ、宣伝・製作スタッフに転身してスペインに戻り、大戦中にアメリカに亡命、さらにメキシコに渡って、『黄金時代』以来の長編映画監督復帰まで16年かかっています。ブニュエルはメキシコでの『皆殺しの天使』'62(カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞受賞)の後、『小間使いの日記』'63からはフランス映画界に復帰して国際的大家になっており、『人間は鳥ではない』のカンヌ国際映画祭コンペティション上映の際にマカヴェイエフが戦後上映禁止を解かれた『黄金時代』を観る機会があったとは嗜好や感覚の近さから十分考えられることで、かえってブニュエルへの親近感がなかったとは考えづらいことです。本作はマカヴェイエフ自身が「セクスポル」作品の第1作としている、作風の確立を自認した作品でもあり、長編デビュー作『人間は鳥ではない』と異なるのは題材的には恋愛映画としてさらに悲劇的内容になっていのに、性科学や犯罪学などの学術的視点をパロディ的にあしらうことで結果的にはブラック・ユーモア色が非常に強いことで、68分という短さも検閲削除を経たからかもしれませんが、サイレント時代のスラップスティック喜劇がやはり同等の長さのものが多く、ブニュエルの『黄金時代』がちょうど1時間だったように短さ、あっけなさというのも映画では効果的に働く場合もあります。また世相風俗映画としても本作で描かれたベオグラードの都会文化は前作同様猥雑で、同じ東欧でもチェコスロバキアやポーランド、ハンガリーより成立が雑多で人口流入、人種・民族の混淆が激しい内情をうかがわせます(これはユーゴスラビアでのみアルバムをリリースしているイギリスのロック・バンドの存在からでも推測されます)。インサートされる「ネズミにチーズを……」は主人公が浄水場の衛生管理官で、仕事がてら書き進めているネズミ駆除対策の論文からですが(生ゴミをあさるネズミにチーズを与えて慣れさせた後に餌やりを断つと、チーズに慣れたネズミは生ゴミを食べることができず餓死する、という趣旨です)、本作で描かれる情痴事件の暗喩であるとともに主人公の奇想でもあって、映画ばかりか登場人物さえもどこか狂っているのが前作以上に激しい。'60年代ユーゴスラビア映画の傑作とされる本作はクレジット・タイトルにヒロインのヌードのシルエットがインサートされ、これも前代未聞の手法だったと言われます。ぶっきらぼうなエンディングですが前作のような曖昧さはなく、前作と観較べるとマカヴェイエフ自身が自己のスタイルの確立作と見なすのも納得のいく作品で、アントニオーニやゴダールの影響下からの飛躍が認められます。ただしあまりに小品なので『人間は鳥ではない』と本作はあわせて1本、と観るべき作品とも言えます。そして次作『保護なき純潔』ではマカヴェイエフのアプローチは一気にビッグ・バンを迎えることになります。

●5月31日(木)
『保護なき純潔』Nevinost bez zastite (アヴァラ・フィルム・ベオグラード'68)*79min, Tinted B/W / Color, 1:1.33; 日本公開平成3年(1991年)8月17日・ベルリン国際映画祭銀熊賞 (審査員グランプリ)受賞

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○監督・脚本=ドゥシャン・マカヴェイエフ/製作総指揮=ボシュコ・サヴィチ/製作=ラトコ・イリッチ/撮影=ブランコ・ペラック、ステヴァン・ミスコビッチ/編集=イヴァンカ・ヴカソヴィチ
○出演=ドラゴリューブ・アレクシッチ、アナ・ミロサフリェヴィチ
○解説(キネマ旬報映画データベースより)「モンテネグロ」「スウィート・ムービー」などで知られる鬼才ドゥシャン・マカヴェイエフが、少年時代のヒーローだった軽業師ドラゴリューブ・アレクシッチの姿を追ったセミ・ドキュメンタリー・ドラマ。アレクシッチの監督・主演により1942年に製作されながらも、ナチの命令により公開禁止となった映画「保護なき純潔」にオマージュが捧げられている。ユーゴの地方語セルビア語で初めて作られたトーキー映画であるこの作品に出演した人々が、当時のことを語っていく中に、「保護なき純潔」の映像が挿入され、インタビュー、ニュースフィルム、さらに上映されることのなかった映画という多層構造にマカヴェイエフらしさが漂う。ベルリン国際映画祭審査員特別賞を受賞。
○あらすじ(同上) ※本作はドキュメンタリーのためストーリーはありません。

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 キネマ旬報映画データベースのあらすじでは「※本作はドキュメンタリーのためストーリーはありません。」とあっさり済まされてしまっている本作ですが、実際はドキュメンタリー映画の大半はストーリーを仮構する中に取材フィルムを挟んでいく、または取材フィルムをストーリーの体をなすように構成する方が一般的なので「ドキュメンタリーのためストーリーはありません」とは言い訳にならないというか、的を射ていない表現です。本作で掘り当てた「ドキュメンタリー映像によるフィクション」という鉱脈が次作『WR:オルガニズムの神秘』では「演じられたドキュメンタリー」になり、再びそのフィクション要素のみを拡大して『スウィート・ムーヴィー』以降の作品になったという点で本作はようやくマカヴェイエフ作品が通常のドラマ構造を踏み外した映画作りに本格的に参入したのを告げる映画でもありますが、時制や視点、異種の素材をシャッフルしてカットバックする手法は前作『愛の調書、又は電話交換手失踪事件』でかなり徹底的にやっていました。ベルイマンの『野いちご』'57、レネの『二十四時間の情事』'59、フェリーニの『81/2』'63のように過去時制や仮想されたエピソードはメイン・プロットに奉仕してドラマを補強する役割だったのを『愛の調書~』ではかなり倒錯的に、メイン・プロットを装飾的エピソードが圧倒するような作りに近づけていましたが、『保護なき純潔』ではもう全面攻撃でどこから話を始めたらいいやら感想文に困るような、映画の焦点がどこにあるとすればいいのか全編観終えると途方にくれるような凝りに凝った入れ子構造の作品になっていて、しかも凝り方があえて方法的な統一を図らない思いつきの羅列の観があり、その規則性の欠如と奔放さが映画まるごとの特徴になっているのでどこを切り口にして感想を述べたらいいかとりつくしまがない。侯孝賢の『戯夢人生』'93(カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作)は中国支配~日本支配下にあった20世紀前半の台湾史を人間国宝級の老伝統的人形芝居師・李天禄が自分の生い立ち・芸歴とともに語るというドキュメンタリー映画でしたが、李天禄はたぶん若い頃は調子のいい遊び人の芸人だったんだろうなと思わせる好々爺で面白い映画でしたが、趣向は『保護なき純潔』と『戯夢人生』は似たようなもので、戦前セルビアの芸人で「鋼鉄の男」として知られたアクロバット芸人、ドラゴリューブ・アレクシッチのワンマンショー映画と言えるものです。戦前撮影のアレクシッチの高層ビルの間の綱渡り、高い塔の上に自動車タイヤを縦に置きその上に頭だけで倒立する曲芸映像が紹介され、現在58歳(逆算すると1909年か10年生まれ)のアレクシッチ自身への取材では上半身裸のマッチョなアレクシッチが58歳の今なお鉄板を頭突きで曲げ、歯で加えてへし折り、鉄の鎖を食いちぎる芸を得々として披露し、美女を左右にはべらせてポーズをとると全盛期から使っているというアレクシッチへの応援歌「鋼鉄の男アレクシッチ」が流れる、といった具合です。戦前、'30年代のアレクシッチは20代にしてセルビア~クロアチアでは絶大な人気を誇り、セルビアに住む子供だった頃('32年生まれ)のマカヴェイエフの憧れだったのですが、第二次世界大戦勃発で1941年にセルビアを含むユーゴ諸国はドイツ軍に白旗を上げて占領され、アレクシッチは曲芸公演を禁止されてしまう。そこで思いついたのが映画製作で、スタッフを集めカメラマンのつてでドイツからフィルムを調達し製作監督主演でセルビア初のトーキー映画『保護なき純潔』を完成しました。セルビア初というのは、ユーゴスラビアは四つの公用語があってセルビア=クロアチア語は公用語でも地方語だったからです。映画は'41年に着手され、公開予告を掲げた映画館に上映中のデマが流れて観客が殺到する製作中からの話題作になりましたが、ドイツ軍の検閲を通らず上映禁止のまま防空壕の中に埋められてしまいます。戦後になるとフィルム入手経路からアレクシッチへの対独協力疑惑がかかってやはり映画は陽の目を見ませんでした。そして幻の作品『保護なき純潔』の所在を知ったマカヴェイエフが「これはすごい。ヌーヴェル・ヴァーグ以上だ。ゴダールなんて目じゃない」と絶賛する同作が、B/Wフィルムの着色カラー版でハイライト部分の抜粋に再構成されて、完成から26年を経てようやく観客の目に触れることになったのです。
 クロノジカルにまとめると以上のような内容になりますが、映画は(1)着色版『保護なき純潔』(継母に無理矢理金持ちの男に嫁がせられそうになった娘が恋人の青年=アレクシッチに救出される、というサスペンス風メロドラマ)のハイライト部分の抜粋、(2)存命するスタッフ、キャストへのインタビュー、(3)戦前の大スター・アクロバット芸人ドラゴリューブ・アレクシッチのアクロバット芸の記録映像、(4)ナチス政権下ドイツ軍に占領されるユーゴスラビア~セルビア・クロアチアの記録映像や歴史考察、(5)58歳になるアレクシッチへの取材と今なお往年の芸を再現してみせる「鋼鉄の男」アレクシッチの雄姿、がクロノジカルでは全然なく、ナレーションまたは字幕によるコメンタリーでモザイク状、またはシャッフルしたように何重にも配置されています。『保護なき純潔』のヒロインは今は歌手をしておりわざわざ屋外インタビューでピアノ伴奏で素っ頓狂な歌をフルコーラス(拷問です)を歌い、着色版『保護なき純潔』はB/W映像に人物の唇だけや乱闘後の傷口だけが下手くそ(ほぼ例外なくはみ出しています)に赤く着色されていたり、衣服の模様だけがやけに凝った着色と思えば普通に外景シーン、室内シーン、昼、夜と青、赤、黄、緑と全面染色されていたりと馬鹿馬鹿しくかつ不統一で、ハイライト・シーンには逐一「アレクシッチはいかに不屈の精神を備えた男か」「アレクシッチが鋼鉄の男と呼ばれる由縁は何か」「アレクシッチはいかに思慮深く慎ましい男か」「アレクシッチはいかに不正を許さず正義を貫く男であるか」とコメンタリー字幕つきで抜粋場面が流れます。塔の天辺に自動車のタイヤを立てその上で逆立ちして頭だけで倒立する20代のアレクシッチの曲芸映像は圧巻ですが58歳になっても頭突きだけで鉄板をへし曲げる姿には言葉もなく、ニュース映像とセルビアの世相史が風刺画のアニメーション化で示されるインサートがあちこち挟まれますし、先の『保護なき純潔』本編(と言って良いなら)のハイライト・シーン抜粋で着色・染色がいよいよ滅茶苦茶になってくるのが青く染色された屋外のビルの屋上から空中ブランコの要領で窓を割って飛び込んでくるアレクシッチとヒロインに暴行しようとしている金持ちの男との乱闘なのですが、室内ではB/W画面にヒロインの唇と頬が赤く着色されているのもすでに奇妙ですが男二人が乱闘するほど顔面に青あざ、赤あざの着色と唇の端や鼻から赤いものが垂れている。映画全体が安定したカラー映像なのは現在の取材部分だけなのですが、古いB/W映像が引用される場合も常に染色・着色の加工があるので、それが割と単純なニュース映像でも色彩加工によって異なる意味を表す効果があります。『保護なき純潔』公開予定の看板を掲げた映画館に観客が殺到しているニュース映像などよく残っていたものだと思いますが、フィルムの質感、人々の身なりや街の情景からもフィルム自体は本物のニュース映像と思われるものの、看板だけははめ込み合成かもしれないので、1942年の上映禁止映画『保護なき純潔』の発見というのは事実だとしても完成作品として残っていたのか、ハイライト・シーンに抜粋された部分を中心に未完成のラッシュ・フィルムだけが残っていたのかも上映されたことがない作品だけに大いに怪しくなってきます。映画は二人の若い美女を左右にはべらせて自宅らしき玄関先でパンツ一枚でガッツポーズをとった現在・58歳のアレクシッチと、『保護なき純潔』のラストシーンらしき若きアレクシッチと同作のヒロインのキスシーンでオリジナル版『保護なき純潔』のエンド・クレジットとこのドキュメンタリー『保護なき純潔』のエンド・クレジットがごっちゃになったエンド・クレジットで終わります。ちなみにアレクシッチ版『保護なき純潔』は継母に無理矢理金持ちに嫁がされそうになる娘、それを救う恋人の主人公という設定がドイツ軍へのユーゴスラビア政府の降伏、ドイツ軍の占領を暗示し抵抗への蜂起を呼びかけたもの、と解釈されたのが上映禁止の理由と推察されています。この帳尻の合い方もどこか臭いではありませんか。

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