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『アンナと過ごした4日間』Cztery noce z Anna / 4 Nights with Anna (Alfama Films=Skopia Film, Poland/France'2008)*94min, Color; 日本公開2009年10月17日・東京国際映画祭審査員特別賞受賞; Trailer, Extract : https://youtu.be/Irj2jSvUrjE : https://youtu.be/nWEeOlfChXo
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○出演=アルトゥル・ステランコ(レオン)、キンガ・プレイス(アンナ)、イエジー・フェドロヴィチ(病院長)、バルバラ・コウォジェイスカ(祖母)、レドバド・クリンストラ(裁判官)、ヤクブ・スタノフスキ(警官)
○解説(キネマ旬報映画データベースより) 看護師の部屋を毎晩覗いていた孤独な中年男はある晩、大胆な行動に出る。さびれた地方都市を舞台に、切なく哀しい恋を詩的に描いたラブストーリー。監督は、「早春」のイェジー・スコリモフスキ。出演は、「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」のアルトゥール・ステランコ。第21回東京国際映画祭審査員特別賞受賞。
○あらすじ(同上) ポーランドのさびれた地方都市。レオン(アルトゥール・ステランコ)は病院の火葬場で働き、年老いた祖母と2人で暮らしている。病院の看護師・アンナ(キンガ・プレイス)は、宿舎に住んでいる。レオンは夜になると、双眼鏡でアンナの部屋を覗いていた。数年前、レオンは川へ釣りに行った。雲行きが怪しく、そろそろ引き上げようとしたとき、川上から大きな牛の死体が流れてきた。レオンが驚いていると、猛烈な雨が降り出す。レオンは雨を避けようと、近くの廃工場に行く。すると、異様な叫び声が聞こえる。レオンが近づくと、アンナが男に乱暴されていた。レオンはその場を逃げ出し、警察に通報する。しかし、現場に釣りの道具を置き忘れていたため、レオンが容疑者として逮捕されてしまう。レオンは釈放されると、アンナを遠くから見守るのが習慣になる。レオンは勤め先の病院をリストラされ、祖母も亡くす。すると彼は、アンナが寝る前に飲むお茶の砂糖に睡眠薬を混ぜる。そして彼女が熟睡しているうちに、部屋に忍び込むようになる。1日目は、彼女の服のボタンのほつれを直す。2日目は床を拭き、アンナの足の指にペディキュアを塗る。3日目はアンナの誕生日で、正装して花束と指輪を届け、部屋の片づけをした。4日目は、壊れた鳩時計を回収する。しかし、直した時計を戻しに部屋に入ろうとしたところを警察にみつかってしまう。
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映像と音声は必ずしも同機せず、主人公の行動に後の警察官からの尋問、2回の裁判(アンナのレイプ事件、主人公自身の家宅侵入事件)の音声が重なる場面も多く、完全に時制が一本化されるのは家宅侵入事件の審理場面からです。この裁判(民事ではなく刑事なので原告は警察署)には看護婦アンナも傍聴人として出席していますが、行動の一切の自供確認のあと女性検察官に動機を尋ねられた主人公は「愛です」声が小さい、と二たび「愛です」と答えさせられます。アンナは嫌悪感を露わにした表情で退席します。拘置所に面会に来たアンナと主人公は初めて一対一で対面します。アンナは受け取れない、と指輪を返し、レイプ事件の犯人は主人公ではないと納得した、もう面会には来ない、と主人公に告げます。そして釈放されて自宅に戻った主人公が見たものは……と、結末については賛否両論あるでしょう。『アンナと過ごした4日間』と次作『エッセンシャル・キリング』でミニシアター系ながら初めて日本で広い観客層にお目見えした(かつての『早春』は青春スター映画として、『ライトシップ』は単発すぎ、『バリエラ』はアートシアター系小規模公開で'60年代東欧アヴァンギャルド映画の代表作として回顧的な見方をされたため現役監督の感が薄かった)と言えるスコリモフスキですが、映画祭上映で高く評価され特別賞受賞作となり前評判が高かったものの、本当にスコリモフスキ作品については賛否両論半ばするのもはっきりした形になりました。通例賛否両論というと問題作としては話題性のある肯定的なニュアンスを含みますが、時制が複雑(最初の編集段階では時系列順の編集で全長3時間近かったのを、半分の長さに圧縮した分時制を組み替えたそうです)かつ描写が細密な割にはぶっきらぼうで、主人公にもヒロインにも感情移入できず、描かれた内容もストーカー映画となるとヒロインが主人公に示した通りに本作には嫌悪感か、そこまでいかなくても(むしろ嫌悪感までいたらないからこそ)面白くない映画、という反応も多かったのです。
スコリモフスキ自身は本作を完全に自分の意図を実現できた作品として誇っており、スコリモフスキの映画をデビュー長編『身分証明書』から少なくとも日本公開された本作までの10作を観ている観客であれば、本作が『不戦勝』『バリエラ』から『早春』でより具体化し、『ザ・シャウト』や名作『ムーンライティング』の達成を経てより密度の高い映像文体を獲得し、映像手法(本作は初のデジタル撮影作品ですが、ため息の出るような鮮明で美しい画質なのも出色です)の上でもテーマの上でも一貫していることは、スコリモフスキはいつも疎外された孤独な人間を描いてきましたから、感情移入というのとは別の人間的共感、共感とは言いづらくても人間性の中の真実を描いて本作はスコリモフスキの傑作のひとつになったと実感できます。しかしそれがかつてないほどわかりやすく、見事に表現された(主人公を演じたアルトゥル・ステランコは舞台畑の俳優で本作が映画初主演になるそうですが、ずんぐりした体型、左右非対称な斜視気味の顔立ちといい、ぎこちない動きといい本作の主人公はこの俳優あっての説得力でしょうし、ごく平凡な容姿のヒロインのキンガ・プレイスも現実から切り取ってきたような存在感がある、キャスティングも冴えた映画です)作品ですが、本当に広い観客層に観られるようになってみると反応は決して肯定的なものばかりではなかったと判明したと言えます。時制の錯綜も映画を圧縮し密度を高めるには良く作用していると思われ、時系列順に3時間近かった最初の編集ではもっと主人公のネガティヴな面の描写が多かったとスタッフが証言していますし、観直さないとわからないようなものではなく初見でも映画後半まで観れば理解できます。しかし初期作品からのスコリモフスキを知らなければ抵抗感が強いというのも実際の反響からは明らかで、サイレント時代からの各国・数々の映画を十分に知った上でスコリモフスキ作品の位置づけをできる鑑賞力、というのも'70年代、'80年代までとは違い21世紀の映画観客の意識は相当に変化しており、それが本作ほどの傑作に対しても専門的・非専門的な両極端の評価に現れたと思えます。
●5月10日(木)
『エッセンシャル・キリング』Essential Killing (Skopia Film=Recorded Picture Company (RPC), Element Pictures, Mythberg Films, Cylinder Production, Poland/Norway/Ireland/Hungary'2010)*85min, Color; 日本公開2011年7月30日・ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞・主演男優賞受賞; Trailers, Full Movie : https://youtu.be/_0CR2N4xbfQ : https://youtu.be/HPtGZQvxXUs : https://youtu.be/wgH2FmFJqTQ
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○出演=ヴィンセント・ギャロ(ムハンマド)、エマニュエル・セニエ(マルガレート)、フィリップ・ゴス(軍医)
○解説(キネマ旬報映画データベースより) 米軍に追われるアラブ人兵士の逃走劇を描くサバイバル・アクション。イスラエル、ポーランド、ノルウェーの壮大な風景描写が見どころ。監督は「アンナと過ごした4日間」のイェジー・スコリモフスキー。出演は「バッファロー'66」のヴィンセント・ギャロ。第67回ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞・主演男優賞受賞。
○あらすじ(同上) 上空をアメリカ軍のヘリコプターが飛行し、地上ではアメリカ兵が偵察活動を行っているアフガニスタンの荒涼とした大地。ひとり洞窟に潜んでいたムハンマド(ヴィンセント・ギャロ)は、手に持ったバズーカでアメリカ兵を吹き飛ばして逃走する。ヘリコプターはムハンマドを追い、攻撃する。倒れたムハンマドは爆音で一時的に聴力を失くし、アメリカ軍の捕虜となる。収容所に連行されたムハンマドは、激しい拷問を受ける。さらに軍用機で別の場所に移送され、護送車で移動していたとき、深夜の山道で動物を避けそこなった車が、崖から転落するという事故に巻き込まれる。ムハンマドは、事故の混乱に乗じて逃亡を計る。民間人を殺して車を奪い、手錠を外したムハンマドは、雪に閉ざされた深い森に逃げ込む。どこまでも続く森を逃走する間も、上空にはヘリコプターが旋回し、追っ手がムハンマドの後を追っていた。深夜、故郷にいる妻と子供の姿を夢に見たムハンマドは、蟻や木の幹を食べ、製材業者のトラックにただ乗りし、木の実を食べ、襲った女の母乳を吸って、やみくもに逃げ続ける。やがて、森の中の1軒の家に辿りつく。ムハンマドは、入口で倒れる。その家でひとり暮らしている女マルガレート(エマニュエル・セニエ)は、彼を家に入れ介抱する。翌朝、女はムハンマドに馬を与え、無言で見送る。
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こうした逃亡劇は通常追う側・追われる側のどちらにもその根拠となる背景が語られ、いずれか、あるいは両方の立場に感情移入しながら固唾を飲むようにして描かれるもの、という原則があります。本作は(どうやら)アラブ人ゲリラ兵らしき男のかなり無作為的なテロ殺人と、それを追う(どうやら)アメリカ軍らしき構図で始まりますが、背景の説明になるであろう拷問場面でも拷問自体が延々描かれるだけで尋問らしい尋問は男が英語を解さないし身ぶり手ぶりの次元でも完全黙秘なのですぐ拷問に入る、その後男はすぐ護送車の転覆事故に乗じて雪原に脱走してしまいますし、逃走中のほとんどの場面が男ひとりきりで運転者を殺害して車を盗む、釣り人から魚を盗む、赤ん坊に授乳していた母親を脅迫し乳をむさぼるといった数少ない対人場面でもまるで言葉を発しません。その間にアメリカ軍側の動きが描かれるわけでもなく、背景の見えない主人公に感情移入しようがないので、まずそうした描き方だけでかなりの観客に退屈と拒絶反応を引き起こしたようです。『アンナと過ごした4日間』のつむじのアホ毛が印象的な、転んでばかりいる主人公もそうでしたが、さかのぼって『早春』のジョン・モルダー=ブラウン、『出発』のジャン=ピエール・レオーにしてもスコリモフスキ自身が主人公を演じた『身分証明書』『不戦勝』にしても、スコリモフスキの映画の主人公は過去や自分について語らないし周辺人物が補足説明もしない。自分語りや過去語りばかりで話を固める近年の映画とはまるで違い、むしろサイレント映画からの直接の発展と言えるような映像意識と文体があります。スコリモフスキの登場当時には説明過多で技巧過多に陥っていた主流映画にいきなりプリミティヴな感覚と映像で現れた新人という驚きがあって、それはロッセリーニやブレッソンからベルイマン、アントニオーニらを経てヌーヴェル・ヴァーグの監督たちに代表される新しい映画の一環として受けとめられましたが、時代が一巡してまた主流映画には一種の標準的な型ができていて、ほとんど20年ぶりにカムバックしてきたスコリモフスキの作風は初期作品よりさらに徹底して強靭にプリミティヴな映画になっていたため新鮮な話題性もありましたがやはりこれを受け入れられない観客層、つまらない映画とする観客層もあった。'60年代~'80年代まではまだ主流映画に対する反主流映画への寛容な受容意識があり、主流映画ばかりが映画ではないという見方がありましたから「つまらん」「わからない」では済まさない評価基準がありましたが、21世紀ともあれば、しかも70代の長老監督ともなれば「つまらない」「わからない」が通る。それは前作『アンナ~』より設定面で明快な逃亡アクション映画の体裁を取った分、本作へはいっそう風当たりも強かったように思います。
デジタル撮影されたという前作は解像度の高さと自然な発色が人間の視力以上の映像でポーランドの田舎町を超現実的な世界のように見せていましたが、35mmフィルムに戻って撮影されたという本作の映像もほとんど白と黒だけの雪景色と黒い灌木、主人公の流す血の赤をアナログ・フィルムならではの鮮明でもあれば全体的には柔らかい質感で、前作の相当な低予算、本作のかなりの大予算もあってのことでしょうが、さすがの使い分けです。本作で主人公以外に重要な役柄は傷が悪化してふらふらになった主人公がたどり着いた森の奥の家に住む聾唖者の女性で、ロマン・ポランスキー夫人のエマニュエル・セニエが演じており、主人公は当然押し入ろうとしますがセニエが聾唖なのに気づき、また主人公に何の警戒も恐怖も示さず招き入れるのでこの映画で初めて人間的な交流が描かれます。セニエは主人公の傷口を手当てし、食事を出し、見回りの警備隊が来ると聾唖で何も知らないと納得させて追い返します。当然主人公とセニエだけのシーンもまた無言で、セニエもまったく詮索しませんし主人公から何か説明するようなこともしません。セニエに白い馬をもらい見送られた主人公は、まだ癒えていない傷口が馬上で開いて苦痛の表情で馬の首にすがりつき、馬の白い毛並みに赤い血が流れます。そして……と、全体では本作は傑作『アンナと過ごした4日間』にはおよばず佳作どまりかと思われ、映画の意図を酌んだ上でも中盤以降は単調をまぬがれず、主演のギャロは健闘していますがアラブ人ゲリラ兵には見えないので遮二無二あれこれを生食するのもややわざとらしく見えますが、逃亡映画では定番とは言えエマニュエル・セニエの家の場面で泣かせ、その後すぐに映画は結末を迎えます。えっ、と思う間に黒地にタイトル「Essential Killing」がエンドマーク代わりに出てクレジット・ロールが流れ、スコリモフスキのように50年あまりに渡るキャリアの監督の初期作品から近作まで観ると昔の簡単なクレジットから徐々に長くなる一方で、本作など5分あまりがクレジット・ロールですが、スコリモフスキの映画はいつもラスト・カットであっと言わせる(これにかけてはアントニオーニと並びます)とは知ってはいるものの、本作のラスト・カットは映画全編の重みがかかったもので一気に涙が溢れます。中盤たるいとかギャロの芝居がとか煮え切らなかった部分への不満がセニエの家のシークエンスからこのラストで全部帳消しになり、それでも全編に渡って充実した感じではないですから佳作どまりという印象は消えませんが、それまでのやや作為性を感じさせる単調さもこの結末に一気に流しこむためのものと思えば泣けてきます。この結末が本当にドラマの終わりなのかという点では『早春』にも通じますが、『早春』では主人公の少年の妄執が息苦しいままなのに対して本作は痛切な解放感があります。そこに向かって収斂していく映画と思うなら、本作は退屈とも難解とも言えないでしょう。ラストだけ泣かせるなんて臭い映画みたいですが、馬で終わる映画に悪いわけはないではありませんか。