『霧の波止場』Le quai des brumes
90分 モノクロ 1938年5月18日(仏)/日本公開1949年12月30日
監督 : マルセル・カルネ
出演 : ミシェル・モルガン
脱走兵のジャンはル・アーブルでネリーという女と出会う。彼女は名付け親にしつこくつきまとわれていたが……。つかの間の恋と悲劇的な結末が「詩的レアリスム」と言われる
マルセル・カルネ監督の渾身の一作。
脚本ジャック・プレヴェール、撮影オイゲン・シュフタン、美術アレクサンドル・トローネル、音楽モーリス・ジョベールとスタッフもカルネ映画で名を上げることになる一流中の一流で、グレゴール・ラビノヴィッチとシネ・アリアンヌ社製作、パテ映画撮影所で撮影時され、パテ映画社配給の本作はパテ映画社の監督デュヴィヴィエがギャバン映画で築いてきた路線を踏襲した内容なのは設定や人物配置からも明らかなのですが、監督始めとしてスタッフが交替しただけでこんなに面目を一新した仕上がりになるのかと目を見張るような映画です。カルネの映画はのちのヌーヴェル・ヴァーグの映画監督たちから良いのは俳優とプレヴェールの脚本を始めとしたスタッフたちが良いだけじゃないか、と憎まれ口を叩かれるようになりますが、師のフェデーよりも硬質ながら抒情味が強く、本作で下敷きにしたデュヴィヴィエの諸作よりも映像の統一が上手く演出が細密で端正であり、悪口を言おうとすればあまりに優等生的すぎる映画じゃないかといったところです。先に精度や技法と言ったのはそこにあり、シナリオの構成から撮影と美術の緻密さ、音楽の洗練まで本作のカルネは『望郷』のデュヴィヴィエを上回る成果を上げています。しかしそれは技術的な精度の向上であって、綿密なリフォーム作業であっても質的に新しいものを作り出したのではない、という冷静な判断に観客をとどまらせます。カルネ自身もそれは承知していたことでしょう。しかし『望郷』のような映画を作ろうという多くの後世の映画監督には『霧の波止場』の抜群の完成度の方が実践的な学習材料になり、それは他のカルネ作品『ジェニイの家』や『北ホテル』'38についても言えます。デュヴィヴィエやルノワールが特に大きな意味を持たせず使っていたギャバンの食事シーンに着目したのもカルネのカンの良さで、ギャバンという俳優はどんな映画のどんな状況でも食事だけはいつもうまそうに食べてみせる俳優です。たぶん『愛慾』のグレミヨンはそれに気づいていて、『愛慾』のギャバンは悪女のミレーユ・バランにここぞという時には食事の約束をすっぽかされる男です。いつどんな時でも食事だけはうまそうに食う男が食事の約束をすっぽかされるのですからいかに相手の女に馬鹿にされているかわかる。本作もどんな時でも食事がうまいギャバンのキャラクターが生かされた映画で、こうした丁寧な演出が光るからこそ『霧の波止場』を『望郷』より高く買うプロの映画人が多いのだろうと思います。ただ『望郷』が観客の記憶の中で美化されていくような大づかみな映画なのに対して本作は細部までこと細かな映画であるため全体的には大きな印象を残しにくい、小ぶりな映画のように見えてくる。本作は名作中の名作ですし、カルネほどの名手にしても、それが欠点では決してないだけに、映画の仕上がりのあり方の難しさを感じます。
●4月14日(土)
『獣 人』La bete humaine
100分 モノクロ 1938年12月23日(仏)/1940年2月19日(米)/日本公開1950年7月15日
監督 : ジャン・ルノワール
出演 : シモーヌ・シモン
機関士のジャックは、駅長のルボーと妻セヴリーヌが犯した殺人事件の唯一の目撃者だった。捜査が進む中でセヴリーヌとジャックは恋に落ちる。二人はルボーを殺す計画を立て始めるが……。
本作はもともとギャバン自身がパリ・フィルム・プロダクション製作で蒸気機関車運転手を演じる映画を思いつきジャン・グレミヨンに脚本・監督を依頼しましたがギャバンの気に入るシナリオにならなかったので、グレミヨンはゾラの『獣人』の映画化を代案に提案しました。ギャバンは『獣人』映画化を採用しましたがグレミヨンではなくルノワールに脚本・監督を依頼して大傑作となった本作が実現したそうで、グレミヨンには気の毒ですがグレミヨンが手がけたらルノワールほどの重量感は出なかったと思います。ルノワールはエミール・ゾラの小説の映画化はサイレント時代の『ナナ』'26、またゾラの師ギュスターヴ・フロベール原作の映画化『ボヴァリー夫人』'33もあり、言うまでもなくルノワールの父上はフロベールやゾラの同時代の巨匠画家ピエール=オーギュスト・ルノワールですからもとより親近感がある。またデュヴィヴィエが大づかみなだけにやや粗っぽく、カルネが細密なためにやや小ぶりに見えてくるような問題はルノワールにはまったく起こらないのは技法的分析抜きに現実を直観的に把握し映画に映し撮ることができる力がある。この現実とはルノワールの実生活の現実と同じか、もっと強力なほどに映画という虚構の中の現実を作り出し真実性を感じ取ることができる、そうした直接性を持った現実です。ルノワールのリアリズムは現実に映画を似せよう、現実を写実した映画を作ろうというものではなくルノワールの作り出した映画はそのまま観客のいる現実と地続きの現実であって、『トニ』'34で照りつける陽射しや『ピクニック』'36で降る雨、『南部の人』'45で流れる川は映画の結構のためにそうあるのではなく現実に陽射し、雨、川がそこにあり、俳優たちも映画監督の演出下で厳密な演技をしているのではなくしばしばドラマとして見れば唐突で心理的な必然を欠いて見えもします。『獣人』はそれがルノワールの映画でも極端に表れた作品で、原作小説に非常に忠実な脚本(ルノワール単独執筆)ですがこんな無茶苦茶な話はあるまいと思うくらい登場人物たちはでたとこまかせで動いていて、プロットやストーリーといった概念すらなく一筆書きのようにして出来上がったように見える。ゾラの小説はそんなことはなくてしつこいくらい人物たちの性格と行動を念入りに読者に納得させるように書いている。ルノワールはゾラの小説の真実性を信じたので、小説の念入りなしつこさは俳優たちの肉体的存在感に託して小説のあらすじと場面だけを映画に映しました。ドラマ構成や登場人物たちの心理を説明するような台詞や映像を追加するようなこともない。そういう意味では本作は親切心に欠けたぶっきらぼうな映画です。俳優たちの演技や台詞が唐突ででたとこまかせに見えるのは、この映画ではそれが真実だからで本作ほど優しくもあれば率直で、狂暴でもある振幅の大きい役柄のギャバンは思いつかないくらいです。本作のヒロインの映画で最後の台詞は「何で私なの!」です。フリッツ・ラングも「勝ち目はないな」と感嘆した途方もない映画の本作は全然万人向けではないかもしれませんが、もう映画としての次元が他のギャバン主演作とは違います。本作は他社から単品発売もありますが、そちらは単品DVDで5,000円もします。1,800円の10枚組『ジャン・ギャバンの世界 第1集』なら『獣人』に豪華なオマケが9本もついてきます。この機会に未見の方はぜひご検討をお勧めします。
●4月15日(日)
『珊瑚礁』Le recif de corail
90分 モノクロ 1939年3月1日(仏)/日本公開1940年10月
監督 : モーリス・グレーズ
出演 : ミシェル・モルガン
オーストラリアのブリスベンのとあるアパートで、住人の男を殺したレナール。アパートを訪れたアンナは、通報せずに彼を逃がすのだった。レナールはアボイ刑事の目を逃れ、ポートランド号という船に乗り込むが……。
しかし何なのかなこの映画は。冒頭はまるで状況説明なしに殺した男の部屋で茫然としているギャバンの姿から始まり、そこへやってきた殺した男の愛人らしい女アンナ(ジェニー・ブリュネー)に早く逃げなさいと言われ、やっと舞台はオーストラリアとわかってギャバンはポートランド号の船長ジョリフ(ルイ・フロランシー)に拾われ、警部アボイ(ピエール・ルノワール)から逃れて船出するのすが、映画が進んで40分経過後メキシコに到着するまでギャバンは何もやることがないのです。メキシコ航路の途中でイギリス人の老人ホブソン(サテュルナン・ファーブル)が住む平和な珊瑚礁の島に寄っても船長からは何の仕事の指示もされないので仕方なくぶらぶらするだけ、水夫の仕事を手伝おうとすると「雇った仕事だけしてくれればいい」と止められる。結局ギャバンが拾われたのは警備船が近づいた時だけ偽船長に仕立てるためだったのがわかる。だからメキシコに密航が成功したらさっさとお払い箱にされてしまいます。そこで現地人に混じって生活を始めてすぐ嫌な縁談から逃げてきたという若いイギリス人女性リリアン・ホワイト(ミシェル・モルガン)に出会って恋仲になるのですが、アボイ警部がギャバンを訪ねてきてギャバンの殺した男は懸賞金つきのお尋ね者の犯罪者だったからギャバンは無罪とわかる。しかしモルガンの方も実は逃走中だった指名手配中の殺人犯だったのが露見してしまう。折りから伝染病が流行ってモルガンは倒れてしまい、アボイ警部が医者を連れてきて何とか回復する。ギャバンとモルガンはジョリフ船長の船で珊瑚礁の島に逃げようとしてアボイ警部に見つかるが、アボイ警部はモルガンは伝染病で死んだらしいねと船長に告げてギャバンとモルガンを見逃す、とこれでも脚本シャルル・スパークなのかと思うような間の抜けた話で、監督のモーリス・グレッツェ(1898-1974)はサイレント時代からのヴェテランらしいのですが'23年の監督デビューから'51年の引退作まで監督作品22本という作品数からも推察つくように代表作らしい代表作もヒット作もない監督のようです。寡作即二流監督というわけではなく寡作の一流監督だって映画史には数多いのですが、『珊瑚礁』の監督は忘れられるべくして忘れられた存在らしい。本作はギャバンとモルガン共演だけが見所の資料映像のような裏『霧の波止場』ですらない凡作でしょう。しかしこれも単品で5,000円払って買ったら地団駄を踏むような映画かもしれませんが、10枚組1,800円の激安廉価版DVDボックスの1枚として観るとこういう映画もあったということで観ておいて損はないなと思えてきます。若い映画青年時代のトリュフォーやゴダールが通いつめていたという、1日6本~8本立てで所蔵映画を手当たり次第に上映していた伝説的なアンリ・ラングロワのシネマテーク・フランセーズも、こうしたコスミック出版的な映画との出会いの場だったと思われるのです。