(大正13年=1924年5月26日、長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳)
詩集『秋の瞳』
大正14年(1925年)8月1日・新潮社刊
現東京都町田市出身の詩人・八木重吉(1898-1927)はイギリスのロマン派詩に傾倒する中学校の英語教師で無教会派プロテスタント・クリスチャンだった人ですが、八木が第1詩集『秋の瞳』を編纂していた最中、もっとも意識していたと思われるプロテスタントの牧師詩人・山村暮鳥(1884-1924)については大正13年(1924年)1月付のノートの日本の明治大正の詩人32人・詩集80冊の筆頭に暮鳥の既刊詩集『三人の處女』'13(大正2年5月刊)、『聖三稜玻璃』'15(大正4年12月刊)、『小さな穀倉より』'17(大正6年9月刊)、『穀粒』(『小さな穀倉より』はエッセイ集、大正10年7月刊の『穀粒』'21は自選詩集になり、また八木は大正7年11月刊の詩集『風は草木にささやいた』'18を見落としています)を上げていたこと、大正13年秋に八木は大正10年以来まとめてきた手製の小詩集40冊のうち26冊から『秋の瞳』のための選出・決定稿づくりを始めたこと、同年12月に暮鳥が病没し暮鳥生前に印刷完了していた詩集『雲』が早くも大正14年(1925年)1月刊行され八木が発売即購入した証言があること、大正13年秋までの詩編97編に書き下ろし詩編20編を加えた詩集『秋の瞳』の編纂完了が大正14年初夏と思われることで、八木の詩集に暮鳥の影響が表れているかどうかを意識して読むのも詩集『秋の瞳』の鑑賞の手がかりになると思われます。
八木は当時大半の青年詩人がそうしていたような同人誌活動は一切しないまま書き貯めていた1,500編あまりの詩編から117編(うち書き下ろし20編)の第1詩集『秋の瞳』を大正14年(1925年)8月に編纂刊行し、当時中堅詩人中の大家だった佐藤惣之助(1890-1942)の勧誘で佐藤主宰の同人誌「詩之家」同人になりましたが、ボヘミアン的な詩人づきあいは一切なかった人です。また佐藤に少し遅れて草野心平(1903-1988)主宰の同人誌で「歴程」の前身「銅鑼」にも誘われましたが(当時の青年詩人の大半は2、3の同人誌にかけもち加入していました)、佐藤への義理立てから同人加入は遠慮しています。八木は大正15年='26年(12月より昭和元年)3月に肺結核を発病し5月から休職して入院生活に入り、翌昭和2年('27年)10月26日に逝去します。晩年2年の闘病と病没の間に「詩之家」「銅鑼」、また佐藤と草野の紹介で多くの詩誌に作品を発表し、病床で第2詩集『貧しき信徒』(没後昭和3年='28年2月刊)の編纂を終えてからの病没でした。『貧しき信徒』は生前発表作品を含む103編を収録していますが、第1詩集『秋の瞳』以降晩年2年間にも1,000編以上の詩稿を残していました。生前刊行の5倍以上の詩集を未発表のまま逝去した詩人には山村暮鳥の他にもやはり生前唯一の詩集『春と修羅』'24(大正13年4月刊)が見出され草野心平の「銅鑼」同人になった宮澤賢治(1896-1933)がいますが、八木は散佚詩稿を推定すれば3,000編、未亡人によって保存され全集にまとめられた詩編だけでも2,800編(うち一部は未発表遺稿詩集刊行のため草野心平を通して「歴程」最年長同人の高村光太郎が委託され、岩手県に疎開した高村に代わって高村の信頼する詩人・宮崎稔が保管していましたが、戦争激化のため未刊行になっていました)という詩人は生前の反響という手がかりがほとんどないため鑑賞が難しく、また八木は自作の解説にも一般的な詩論についてもまったく興味を持たず、生前発表の詩論もなければ遺稿にも残さなかった詩人でした。
今回は以前この「現代詩の起源(5); 山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』」として2年前に掲載した作文を抄出して、八木重吉に先立つ、山村暮鳥という詩人の特異性を見てみたいと思います。暮鳥の評価は現在でも安定せず、暮鳥と肩を並べる孤立した詩人である宮澤賢治、中原中也(1907-1937)が多くの愛読者を持ち、八木重吉が読み継がれているのと較べてもほとんど読まれておらず、研究者や現代詩の注意深い読者以外にはキリスト教詩人、また群馬の郷土詩人としてわずかに愛読され続けているだけで、それも唯一暮鳥の詩集でも一見平易で親しみやすい『雲』と、『聖三稜玻璃』収録詩編の中で唯一ポピュラーな巻末近くの、
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。
(「風景 純銀もざいく」全行・大正4年=1915年6月「詩歌」)
で知られるくらいで、この「風景 純銀もざいく」も発表・詩集刊行時には奇を衒った無内容な詩と批判の的になった作品です。以下2年前の本文から一部を直し、暮鳥詩集『聖三稜玻璃』についての作文を抄出します。だいたいのことは以下の文章で尽くしているつもりです。
『聖三稜玻璃』初版
四方貼函入り型押し三方山羊革表紙特製本
にんぎょ詩社・大正4年(1915年)12月10日発行
(着色型押し三方山羊革表特紙本)
草野心平編『聖三稜玻璃』再刻版
十字屋書店・昭和22年(1947年)7月発行
聖三稜玻璃 山村暮鳥
(ダ・ヴィンチ装画)
太陽は神々の蜜である
天涯は梁木である
空はその梁木にかかる蜂の巣である
輝く空氣はその蜂の卵である。
Chandogya Upa. III I. I.
こゝは天上で
粉雪がふつてゐる……
生きてゐる陰影
わたしは雪のなかに跪いて
その銀の手をなめてゐる。
(『聖三稜玻璃』序詩・無題)
大正時代の詩人・山村暮鳥(1884-1924)の第2詩集『聖三稜玻璃』(大正4年=1915年)は先立つ第1詩集『三人の處女』'13(大正2年5月刊)が島崎藤村の序文を掲げ、まだ明治時代の作風を残しているのとは一変して、明治新体詩とはまったく異なる発想で明治以降の現代詩の特異点となった問題作です。世界的に見ても画家ヴァシーリー・カンディンスキー(1866-1944)らによるドイツ表現主義の機関誌「青騎士」の運動が1911年~1914年にあり、ドイツとスイスに渡ってダダイズム運動が形をなしたのが1915年、詩人トリスタン・ツァラ(1896-1963)が「ダダ宣言」を発表して国際的な反響を呼んだのが翌1916年ですから『聖三稜玻璃』の成立は完全に偶然の同時代現象です。「青騎士」は日本に紹介されていたので発表当時も「こんな奇怪な詩はドイツの青騎士にある程度だろう」と評した書評がありましたが、「青騎士」は美術中心の芸術運動でしたし、暮鳥が「青騎士」を知っていたとしても『聖三稜玻璃』には「青騎士」の影響は皆無でしょう。当然始まって間もないダダ運動など知るべくもない時期に『聖三稜玻璃』は書かれていたのです。
日本に初めてダダイズムが文芸記事に紹介されたのが大正9年(1920年)、20歳の少年詩人高橋新吉(1901-1987)が翻訳家・エッセイストの辻潤(1884-1944)を訪ねて兄事するようになったのが翌大正10年(1921年)で、同年には詩人平戸廉吉(1893-1922)が「日本未来派宣言運動」を発表します。平戸は精力的にマニフェストと詩のビラを街頭で配布し注目されましたが翌年28歳で急逝し、遺稿集『平戸廉吉詩集』の刊行は10年後になりました(昭和6年=1931年刊)。少年詩人吉行エイスケ(1906-1940)主宰の同人詩誌「ダダイズム」創刊が大正11年(1922年)で、日本初のダダイズム詩集『ダダイスト新吉の詩』が辻潤編で刊行され毀誉褒貶を呼んだのが大正12年(1923年)です。以降、代表的な日本のダダ詩集は大正14年(1925年)の北川冬彦(1900-1990)『三半規管喪失』、遠地輝武(1901-1967)『夢と白骨の接吻』、萩原恭次郎(1899-1938)『死刑宣告』、尾形亀之助(1900-1942)『色ガラスの街』、大正15年(1926年)の小野十三郎(1903-1996)『半分開いた窓』、北川冬彦『検温器と花』と続き、昭和期に入るとダダの詩人たちは共産主義、モダニズム、抒情詩に移行してしまうのでダダは高橋新吉の一人一派に縮小し、詩誌「歴程」(草野心平主宰)の庶民的アナーキズムの気風に吸収された観がありますが、昭和8年に享年37歳で逝去した宮沢賢治(1896-1933)の生前唯一の自費出版詩集『春と修羅』(大正13年=1924年刊)は刊行当時ダダイズムの詩集として目利きの詩人たちに読まれ、年長の高村光太郎(1883-1956/詩集『道程』大正3年=1914年)、ほぼ同年の辻潤や金子光晴(1895-1975)、少し年少の高橋新吉や草野心平(1933-1988)、まだ10代の中原中也(1907-1937)に大きな影響を与えました。特に中原は高橋新吉と宮沢賢治の影響からダダイストとして出発した詩人です。中原は夭逝後に急激に名声を高めたので、かけ持ちしていた同人誌「歴程」「文学界」「四季」では中原の功績の奪いあいが起きる、という喜劇がありました。
芥川龍之介の自殺(昭和2年=1927年)後に川端康成とともに文壇の重鎮になった小説家は横光利一ですが、親友同士だった横光と川端は同時代の青年詩人たちと積極的に交流して、芥川の友人だった小説家・詩人の佐藤春夫、室生犀星(佐藤、室生ともに出自は詩人でしたが)とともに同人誌詩人たちを商業誌に紹介しました。生前に自費出版詩集と童話集を1冊ずつしか持てなかった宮澤賢治の膨大な遺稿が、草野心平中心の「歴程」グループとの縁で全6巻の全集刊行に実現したのも横光利一の口利きです。彼ら新しい世代の詩人・小説家たちは少数の例外を除く明治文学とは断絶している、という共通点がありました。その例外とは小説では自然主義小説の落ちこぼれだった徳田秋聲、岩野泡鳴、近松秋江であり、現代詩では明治39年(1906年)の伊良子清白(1877-1946)『孔雀船』と薄田泣菫(1888-1945)『白羊宮』、明治41年(1909年)の蒲原有明(1876-1952)『有明集』と岩野泡鳴(1973-1920)『闇の盃盤』があり、明治42年(1910年)に北原白秋(1885-1942)が『邪宗門』、三木露風(1889-1964)が『廃園』でデビューすると明治の新体詩人たちは一夜にして旧世代の存在と目され沈黙に入りますが、その最高の詩集だけは読み継がれていきます。明治43年(1911年)には日本初の口語自由詩集と謳われた川路柳虹(1888-1959)『路傍の花』が白秋・露風に続く新しい世代の詩人のトップランナーに柳虹を持ち上げ、オーガナイザーとしての素質から柳虹は大正詩壇のボスになりますが、日本初の口語詩集なら9月刊の『路傍の花』に先んじて河井醉茗(1874-1965)『霧』が同年5月に刊行されていました。もっとも柳虹は醉茗に師事しており、また高踏派的作風ながら線が細く白秋ほどのカリスマを持たない露風と共同で詩誌を主宰しアマチュア詩人たちにとってもっとも模倣しやすい大正現代詩の型を作り上げました。ですが柳虹指導下の大半の詩人たちの詩意識は、26歳の夭逝翌年に『啄木遺稿』(大正2年=1913年)で明治38年(1905年)の詩集『あこがれ』以降から最晩年の連作「心の姿の研究」や「呼子と口笛」、批評や批評が初めて単行本化された石川啄木(1886-1912)、また啄木と並び称されていた高村光太郎の第一詩集『道程』には遠く及ばなかったのは言うまでもありません。
川路柳虹が師であり顔の広い醉茗を介して門下生としていた若手詩人たちのうち、相互影響のあった「自由詩社」「自然と印象」「早稲田詩社」のグループは中軸メンバーに福士幸次郎(1889-1946/詩集『太陽の子』大正3年=1914年)や加藤介春(1885-1946/詩集『獄中哀歌』大正3年=1914年)、三富朽葉(1989-1917/『三富朽葉詩集』大正15年=1926年)がおり河井醉茗~川路柳虹の師系は彼ら実力のあるマイナー詩人を結びつけ、地味ながら活動の場を与えたことに功績があるでしょう。福士は後輩詩人たちに人格的影響を与えた風格があり、朽葉の遺稿詩集(訳詩、批評と論文、日記と書簡を含む全集)は青年詩人たちにかつての『啄木遺稿』に相当する必読書になりました。介春は萩原朔太郎(1886-1942)が詩集『転身の頌』(大正6年=1917年)の日夏耿之介(1890-1971)とともにもっとも共感する感性を表明した詩人です。また、大正期の詩集では千家元麿(1999-1948)『自分は見た』(大正7年=1918年)、西條八十(1982-1970)『砂金』(大正8年=1919年)、村山槐他多1896-1919)『槐多の歌へる』(大正9年=1920年)、佐藤惣之助(1890-1942)『深紅の人』(大正10年=1921年)を数えておくべきでしょう。堀口大學編・訳『月下の一群』(大正14年=1925年)や柳虹門下の金子光晴『こがね蟲』(大正12年=1923年)、白秋門下の吉田一穂(1898-1973)の『海の聖母』(大正15年=1926年)になると、宮澤賢治の『春と修羅』同様、作風はすでに昭和に足をかけたものになります。
暮鳥がもっとも芸術的に近い位置にいたのが大正元年~2年(1912~1913年)に相次いで白秋主宰の詩誌「朱欒」に依り、白秋門下生三羽烏と呼ばれた吉川惣一郎こと大手拓次(1887-1934/詩集『藍色の蟇』昭和11年=1936年)、萩原朔太郎(詩集『月に吠える』大正6年=1917年、『青猫』大正12年=1923年)、室生犀星(詩集『愛の詩集』『純情小曲集』共大正7年=1918年)でした。「自然と印象」グループから出た暮鳥は『聖三稜玻璃』の発行を挟んだ大正4年~5年(1915~1916年)、室生犀星・萩原朔太郎と短期に終わった同人誌「卓上噴水」「LE PRISM」「感情」を共にしますが、独身で自由業(無職とも言いますが)だった若い犀星・萩原が親友になったようには、年長で伝道師の牧師職だった所帯持ちの暮鳥は気風が合わず、密接な交友はその2年間だけでした。『聖三稜玻璃』からの影響は萩原の『月に吠える』、犀星の『純情小曲集』に明らかですが十分に萩原や犀星の個性によって咀嚼されたものであり、萩原・犀星とも『聖三稜玻璃』を論じた重要な批評を数回に渡って書いていますが暮鳥を高く評価した上で『聖三稜玻璃』の限界や欠陥を突いたものになっています。それは萩原が犀星に、犀星が萩原には持たなかった不満でした。もっとも近い理解者(同人誌仲間)からも『聖三稜玻璃』は無条件で賞賛されたのではなく、この孤立は10年後に暮鳥が逝去するまで深まっていくのです。つまり今回延々述べた大正期の現代詩史は、まったく暮鳥を疎外して展開されたものでした。暮鳥に匹敵する孤立を抱えていたのは長い詩歴に生前刊行詩集を1冊も持てなかった大手拓次くらいでしょう。
山羊革表紙特製本という豪華装丁の限定版で自費出版された『聖三稜玻璃』は第2次大戦後に草野心平編の再刻本(『聖三稜玻璃』に他の詩集からの代表作を合わせたもの)が刊行されるまで新潮社『現代詩人全集』(昭和4年・石川啄木、三富朽葉との3人集)など選詩集への再録で部分的にしか読めなかったので、河出書房『日本現代詩体系』(昭和28年)に全編が収録されてからは文学全集類にようやく全編収録されるようになりましたが、『道程』や『月に吠える』、『純情小曲集』や宮澤賢治詩集、中原中也詩集のように親しまれてはいないでしょう。暮鳥はプロテスタント聖公会伝道師(牧師)でしたが、詩集の口絵にはレオナルド・ダ・ヴィンチの聖女を描いたデッサンが使われ、これはカトリックのイコンなのは言うまでもありません。題辞に引かれている「Chandogya Upa.」は仏教の聖典チャーンドーギヤ・ウパニシャッドで、ウパニシャッド(釈迦伝)でも最古に属する紀元前800年~500年に成立した巻です。詩集タイトルの「三稜玻璃」は三角錐のプリズムを差し、この詩集が聖なるプリズムからの屈折光を描いた詩編であるという自作解説ですが、このプロテスタント、古代仏教、カトリック、おそらく汎東洋的自然救済、芸術至上主義の手当たり次第の混合は本来なら統一のかなう美的感覚ではなく、詩集刊行当時の批判的評価のほとんどが『聖三稜玻璃』の文学的完成度の低さ、支離滅裂さを非難したものでした。それは大正4年時点でこの詩集を評価する尺度がなかったことに他なりませんが、1915年に不可解だった詩集が2018年になっても依然として不可解なまま読まれているのは稀有なことで、それは今年刊行された自費出版本が売れもせず好評でもなく2118年にも読まれ続ける可能性を考えればどれほど驚異的か推して知るべしでしょう。
(山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』について・完)
(以下次回)
詩集『秋の瞳』
大正14年(1925年)8月1日・新潮社刊
現東京都町田市出身の詩人・八木重吉(1898-1927)はイギリスのロマン派詩に傾倒する中学校の英語教師で無教会派プロテスタント・クリスチャンだった人ですが、八木が第1詩集『秋の瞳』を編纂していた最中、もっとも意識していたと思われるプロテスタントの牧師詩人・山村暮鳥(1884-1924)については大正13年(1924年)1月付のノートの日本の明治大正の詩人32人・詩集80冊の筆頭に暮鳥の既刊詩集『三人の處女』'13(大正2年5月刊)、『聖三稜玻璃』'15(大正4年12月刊)、『小さな穀倉より』'17(大正6年9月刊)、『穀粒』(『小さな穀倉より』はエッセイ集、大正10年7月刊の『穀粒』'21は自選詩集になり、また八木は大正7年11月刊の詩集『風は草木にささやいた』'18を見落としています)を上げていたこと、大正13年秋に八木は大正10年以来まとめてきた手製の小詩集40冊のうち26冊から『秋の瞳』のための選出・決定稿づくりを始めたこと、同年12月に暮鳥が病没し暮鳥生前に印刷完了していた詩集『雲』が早くも大正14年(1925年)1月刊行され八木が発売即購入した証言があること、大正13年秋までの詩編97編に書き下ろし詩編20編を加えた詩集『秋の瞳』の編纂完了が大正14年初夏と思われることで、八木の詩集に暮鳥の影響が表れているかどうかを意識して読むのも詩集『秋の瞳』の鑑賞の手がかりになると思われます。
八木は当時大半の青年詩人がそうしていたような同人誌活動は一切しないまま書き貯めていた1,500編あまりの詩編から117編(うち書き下ろし20編)の第1詩集『秋の瞳』を大正14年(1925年)8月に編纂刊行し、当時中堅詩人中の大家だった佐藤惣之助(1890-1942)の勧誘で佐藤主宰の同人誌「詩之家」同人になりましたが、ボヘミアン的な詩人づきあいは一切なかった人です。また佐藤に少し遅れて草野心平(1903-1988)主宰の同人誌で「歴程」の前身「銅鑼」にも誘われましたが(当時の青年詩人の大半は2、3の同人誌にかけもち加入していました)、佐藤への義理立てから同人加入は遠慮しています。八木は大正15年='26年(12月より昭和元年)3月に肺結核を発病し5月から休職して入院生活に入り、翌昭和2年('27年)10月26日に逝去します。晩年2年の闘病と病没の間に「詩之家」「銅鑼」、また佐藤と草野の紹介で多くの詩誌に作品を発表し、病床で第2詩集『貧しき信徒』(没後昭和3年='28年2月刊)の編纂を終えてからの病没でした。『貧しき信徒』は生前発表作品を含む103編を収録していますが、第1詩集『秋の瞳』以降晩年2年間にも1,000編以上の詩稿を残していました。生前刊行の5倍以上の詩集を未発表のまま逝去した詩人には山村暮鳥の他にもやはり生前唯一の詩集『春と修羅』'24(大正13年4月刊)が見出され草野心平の「銅鑼」同人になった宮澤賢治(1896-1933)がいますが、八木は散佚詩稿を推定すれば3,000編、未亡人によって保存され全集にまとめられた詩編だけでも2,800編(うち一部は未発表遺稿詩集刊行のため草野心平を通して「歴程」最年長同人の高村光太郎が委託され、岩手県に疎開した高村に代わって高村の信頼する詩人・宮崎稔が保管していましたが、戦争激化のため未刊行になっていました)という詩人は生前の反響という手がかりがほとんどないため鑑賞が難しく、また八木は自作の解説にも一般的な詩論についてもまったく興味を持たず、生前発表の詩論もなければ遺稿にも残さなかった詩人でした。
今回は以前この「現代詩の起源(5); 山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』」として2年前に掲載した作文を抄出して、八木重吉に先立つ、山村暮鳥という詩人の特異性を見てみたいと思います。暮鳥の評価は現在でも安定せず、暮鳥と肩を並べる孤立した詩人である宮澤賢治、中原中也(1907-1937)が多くの愛読者を持ち、八木重吉が読み継がれているのと較べてもほとんど読まれておらず、研究者や現代詩の注意深い読者以外にはキリスト教詩人、また群馬の郷土詩人としてわずかに愛読され続けているだけで、それも唯一暮鳥の詩集でも一見平易で親しみやすい『雲』と、『聖三稜玻璃』収録詩編の中で唯一ポピュラーな巻末近くの、
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。
(「風景 純銀もざいく」全行・大正4年=1915年6月「詩歌」)
で知られるくらいで、この「風景 純銀もざいく」も発表・詩集刊行時には奇を衒った無内容な詩と批判の的になった作品です。以下2年前の本文から一部を直し、暮鳥詩集『聖三稜玻璃』についての作文を抄出します。だいたいのことは以下の文章で尽くしているつもりです。
『聖三稜玻璃』初版
四方貼函入り型押し三方山羊革表紙特製本
にんぎょ詩社・大正4年(1915年)12月10日発行
(着色型押し三方山羊革表特紙本)
草野心平編『聖三稜玻璃』再刻版
十字屋書店・昭和22年(1947年)7月発行
聖三稜玻璃 山村暮鳥
(ダ・ヴィンチ装画)
太陽は神々の蜜である
天涯は梁木である
空はその梁木にかかる蜂の巣である
輝く空氣はその蜂の卵である。
Chandogya Upa. III I. I.
こゝは天上で
粉雪がふつてゐる……
生きてゐる陰影
わたしは雪のなかに跪いて
その銀の手をなめてゐる。
(『聖三稜玻璃』序詩・無題)
大正時代の詩人・山村暮鳥(1884-1924)の第2詩集『聖三稜玻璃』(大正4年=1915年)は先立つ第1詩集『三人の處女』'13(大正2年5月刊)が島崎藤村の序文を掲げ、まだ明治時代の作風を残しているのとは一変して、明治新体詩とはまったく異なる発想で明治以降の現代詩の特異点となった問題作です。世界的に見ても画家ヴァシーリー・カンディンスキー(1866-1944)らによるドイツ表現主義の機関誌「青騎士」の運動が1911年~1914年にあり、ドイツとスイスに渡ってダダイズム運動が形をなしたのが1915年、詩人トリスタン・ツァラ(1896-1963)が「ダダ宣言」を発表して国際的な反響を呼んだのが翌1916年ですから『聖三稜玻璃』の成立は完全に偶然の同時代現象です。「青騎士」は日本に紹介されていたので発表当時も「こんな奇怪な詩はドイツの青騎士にある程度だろう」と評した書評がありましたが、「青騎士」は美術中心の芸術運動でしたし、暮鳥が「青騎士」を知っていたとしても『聖三稜玻璃』には「青騎士」の影響は皆無でしょう。当然始まって間もないダダ運動など知るべくもない時期に『聖三稜玻璃』は書かれていたのです。
日本に初めてダダイズムが文芸記事に紹介されたのが大正9年(1920年)、20歳の少年詩人高橋新吉(1901-1987)が翻訳家・エッセイストの辻潤(1884-1944)を訪ねて兄事するようになったのが翌大正10年(1921年)で、同年には詩人平戸廉吉(1893-1922)が「日本未来派宣言運動」を発表します。平戸は精力的にマニフェストと詩のビラを街頭で配布し注目されましたが翌年28歳で急逝し、遺稿集『平戸廉吉詩集』の刊行は10年後になりました(昭和6年=1931年刊)。少年詩人吉行エイスケ(1906-1940)主宰の同人詩誌「ダダイズム」創刊が大正11年(1922年)で、日本初のダダイズム詩集『ダダイスト新吉の詩』が辻潤編で刊行され毀誉褒貶を呼んだのが大正12年(1923年)です。以降、代表的な日本のダダ詩集は大正14年(1925年)の北川冬彦(1900-1990)『三半規管喪失』、遠地輝武(1901-1967)『夢と白骨の接吻』、萩原恭次郎(1899-1938)『死刑宣告』、尾形亀之助(1900-1942)『色ガラスの街』、大正15年(1926年)の小野十三郎(1903-1996)『半分開いた窓』、北川冬彦『検温器と花』と続き、昭和期に入るとダダの詩人たちは共産主義、モダニズム、抒情詩に移行してしまうのでダダは高橋新吉の一人一派に縮小し、詩誌「歴程」(草野心平主宰)の庶民的アナーキズムの気風に吸収された観がありますが、昭和8年に享年37歳で逝去した宮沢賢治(1896-1933)の生前唯一の自費出版詩集『春と修羅』(大正13年=1924年刊)は刊行当時ダダイズムの詩集として目利きの詩人たちに読まれ、年長の高村光太郎(1883-1956/詩集『道程』大正3年=1914年)、ほぼ同年の辻潤や金子光晴(1895-1975)、少し年少の高橋新吉や草野心平(1933-1988)、まだ10代の中原中也(1907-1937)に大きな影響を与えました。特に中原は高橋新吉と宮沢賢治の影響からダダイストとして出発した詩人です。中原は夭逝後に急激に名声を高めたので、かけ持ちしていた同人誌「歴程」「文学界」「四季」では中原の功績の奪いあいが起きる、という喜劇がありました。
芥川龍之介の自殺(昭和2年=1927年)後に川端康成とともに文壇の重鎮になった小説家は横光利一ですが、親友同士だった横光と川端は同時代の青年詩人たちと積極的に交流して、芥川の友人だった小説家・詩人の佐藤春夫、室生犀星(佐藤、室生ともに出自は詩人でしたが)とともに同人誌詩人たちを商業誌に紹介しました。生前に自費出版詩集と童話集を1冊ずつしか持てなかった宮澤賢治の膨大な遺稿が、草野心平中心の「歴程」グループとの縁で全6巻の全集刊行に実現したのも横光利一の口利きです。彼ら新しい世代の詩人・小説家たちは少数の例外を除く明治文学とは断絶している、という共通点がありました。その例外とは小説では自然主義小説の落ちこぼれだった徳田秋聲、岩野泡鳴、近松秋江であり、現代詩では明治39年(1906年)の伊良子清白(1877-1946)『孔雀船』と薄田泣菫(1888-1945)『白羊宮』、明治41年(1909年)の蒲原有明(1876-1952)『有明集』と岩野泡鳴(1973-1920)『闇の盃盤』があり、明治42年(1910年)に北原白秋(1885-1942)が『邪宗門』、三木露風(1889-1964)が『廃園』でデビューすると明治の新体詩人たちは一夜にして旧世代の存在と目され沈黙に入りますが、その最高の詩集だけは読み継がれていきます。明治43年(1911年)には日本初の口語自由詩集と謳われた川路柳虹(1888-1959)『路傍の花』が白秋・露風に続く新しい世代の詩人のトップランナーに柳虹を持ち上げ、オーガナイザーとしての素質から柳虹は大正詩壇のボスになりますが、日本初の口語詩集なら9月刊の『路傍の花』に先んじて河井醉茗(1874-1965)『霧』が同年5月に刊行されていました。もっとも柳虹は醉茗に師事しており、また高踏派的作風ながら線が細く白秋ほどのカリスマを持たない露風と共同で詩誌を主宰しアマチュア詩人たちにとってもっとも模倣しやすい大正現代詩の型を作り上げました。ですが柳虹指導下の大半の詩人たちの詩意識は、26歳の夭逝翌年に『啄木遺稿』(大正2年=1913年)で明治38年(1905年)の詩集『あこがれ』以降から最晩年の連作「心の姿の研究」や「呼子と口笛」、批評や批評が初めて単行本化された石川啄木(1886-1912)、また啄木と並び称されていた高村光太郎の第一詩集『道程』には遠く及ばなかったのは言うまでもありません。
川路柳虹が師であり顔の広い醉茗を介して門下生としていた若手詩人たちのうち、相互影響のあった「自由詩社」「自然と印象」「早稲田詩社」のグループは中軸メンバーに福士幸次郎(1889-1946/詩集『太陽の子』大正3年=1914年)や加藤介春(1885-1946/詩集『獄中哀歌』大正3年=1914年)、三富朽葉(1989-1917/『三富朽葉詩集』大正15年=1926年)がおり河井醉茗~川路柳虹の師系は彼ら実力のあるマイナー詩人を結びつけ、地味ながら活動の場を与えたことに功績があるでしょう。福士は後輩詩人たちに人格的影響を与えた風格があり、朽葉の遺稿詩集(訳詩、批評と論文、日記と書簡を含む全集)は青年詩人たちにかつての『啄木遺稿』に相当する必読書になりました。介春は萩原朔太郎(1886-1942)が詩集『転身の頌』(大正6年=1917年)の日夏耿之介(1890-1971)とともにもっとも共感する感性を表明した詩人です。また、大正期の詩集では千家元麿(1999-1948)『自分は見た』(大正7年=1918年)、西條八十(1982-1970)『砂金』(大正8年=1919年)、村山槐他多1896-1919)『槐多の歌へる』(大正9年=1920年)、佐藤惣之助(1890-1942)『深紅の人』(大正10年=1921年)を数えておくべきでしょう。堀口大學編・訳『月下の一群』(大正14年=1925年)や柳虹門下の金子光晴『こがね蟲』(大正12年=1923年)、白秋門下の吉田一穂(1898-1973)の『海の聖母』(大正15年=1926年)になると、宮澤賢治の『春と修羅』同様、作風はすでに昭和に足をかけたものになります。
暮鳥がもっとも芸術的に近い位置にいたのが大正元年~2年(1912~1913年)に相次いで白秋主宰の詩誌「朱欒」に依り、白秋門下生三羽烏と呼ばれた吉川惣一郎こと大手拓次(1887-1934/詩集『藍色の蟇』昭和11年=1936年)、萩原朔太郎(詩集『月に吠える』大正6年=1917年、『青猫』大正12年=1923年)、室生犀星(詩集『愛の詩集』『純情小曲集』共大正7年=1918年)でした。「自然と印象」グループから出た暮鳥は『聖三稜玻璃』の発行を挟んだ大正4年~5年(1915~1916年)、室生犀星・萩原朔太郎と短期に終わった同人誌「卓上噴水」「LE PRISM」「感情」を共にしますが、独身で自由業(無職とも言いますが)だった若い犀星・萩原が親友になったようには、年長で伝道師の牧師職だった所帯持ちの暮鳥は気風が合わず、密接な交友はその2年間だけでした。『聖三稜玻璃』からの影響は萩原の『月に吠える』、犀星の『純情小曲集』に明らかですが十分に萩原や犀星の個性によって咀嚼されたものであり、萩原・犀星とも『聖三稜玻璃』を論じた重要な批評を数回に渡って書いていますが暮鳥を高く評価した上で『聖三稜玻璃』の限界や欠陥を突いたものになっています。それは萩原が犀星に、犀星が萩原には持たなかった不満でした。もっとも近い理解者(同人誌仲間)からも『聖三稜玻璃』は無条件で賞賛されたのではなく、この孤立は10年後に暮鳥が逝去するまで深まっていくのです。つまり今回延々述べた大正期の現代詩史は、まったく暮鳥を疎外して展開されたものでした。暮鳥に匹敵する孤立を抱えていたのは長い詩歴に生前刊行詩集を1冊も持てなかった大手拓次くらいでしょう。
山羊革表紙特製本という豪華装丁の限定版で自費出版された『聖三稜玻璃』は第2次大戦後に草野心平編の再刻本(『聖三稜玻璃』に他の詩集からの代表作を合わせたもの)が刊行されるまで新潮社『現代詩人全集』(昭和4年・石川啄木、三富朽葉との3人集)など選詩集への再録で部分的にしか読めなかったので、河出書房『日本現代詩体系』(昭和28年)に全編が収録されてからは文学全集類にようやく全編収録されるようになりましたが、『道程』や『月に吠える』、『純情小曲集』や宮澤賢治詩集、中原中也詩集のように親しまれてはいないでしょう。暮鳥はプロテスタント聖公会伝道師(牧師)でしたが、詩集の口絵にはレオナルド・ダ・ヴィンチの聖女を描いたデッサンが使われ、これはカトリックのイコンなのは言うまでもありません。題辞に引かれている「Chandogya Upa.」は仏教の聖典チャーンドーギヤ・ウパニシャッドで、ウパニシャッド(釈迦伝)でも最古に属する紀元前800年~500年に成立した巻です。詩集タイトルの「三稜玻璃」は三角錐のプリズムを差し、この詩集が聖なるプリズムからの屈折光を描いた詩編であるという自作解説ですが、このプロテスタント、古代仏教、カトリック、おそらく汎東洋的自然救済、芸術至上主義の手当たり次第の混合は本来なら統一のかなう美的感覚ではなく、詩集刊行当時の批判的評価のほとんどが『聖三稜玻璃』の文学的完成度の低さ、支離滅裂さを非難したものでした。それは大正4年時点でこの詩集を評価する尺度がなかったことに他なりませんが、1915年に不可解だった詩集が2018年になっても依然として不可解なまま読まれているのは稀有なことで、それは今年刊行された自費出版本が売れもせず好評でもなく2118年にも読まれ続ける可能性を考えればどれほど驚異的か推して知るべしでしょう。
(山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』について・完)
(以下次回)