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●3月17日(土)
『嘆きの天使』Der Blaue Engel (Ufa, 1930)*103mins, B/W, 日本公開昭和6年(1931年)5月13日; https://youtu.be/UlRdQLUsZhU
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○あらすじ(同上) 英語科を担当しているイマヌエル・ラート教授(エミール・ヤニングス)は、或る時受持ちの学生が取り落した淫猥な絵葉書写真から容易ならざる事実を知った。彼の受持の生徒の或る者が女買いをしている。相手はキャバレーに出演している踊り子である。教授は責任上その事実をたしかめるために生まれて始めてキャバレーなる場所の扉を開いた。案内されたのはローラ(マルレーネ・ディートリッヒ)という問題の踊り子の部屋である。謹厳そのものゝような教授の生まじめな態度に興味を覚えたものかローラはいろいろと歓待する。彼女のあでやかさは教授に訪れて来た目的を忘れさせたばかりでなく、言いようのない魅惑を感じさせた。翌日になって夜が来ると教授は校舎続きの殺風景な一室に閉じ篭っていることが耐えられなかった。そして彼は遂いに意を決した如く一番上等なモーニングを着、髪の毛をくしけずって街に出て行った。そしてその晩、教授は遂々家に帰って来なかった。次の朝、いつもより気むずかしい顔をして教授が教室へ出て来ると、学生達が恋にはしゃいでいる。何気なく振向くと黒板は楽書でいっぱいである。教授は真紅になって学生達を怒鳴りつけた。学生達は、その怒鳴り声をいいしおにしてさわぎ立てる。遂いに校長が出て来て静かに教授を連れて行ってしまった。それから間もなくラート前教授がキャバレーの踊り子ローラと結婚したという耳珍しい噂を後に残して、彼等は巡業の旅に出た。だが旅の日を重ねるうち、貯えの金も使い果たした教授は、我が妻の裸体写真を酒場で売り歩くほどにまで身を落して行った。こうして二年三年と月日がたった。巡業団の出し物もだんだん種が尽きて来た。何か一花咲かす手段として首をひねった団長(クルト・ゲロン)は一つの名案を思いついた。それは教授を道化者に変装させ、団長が得意とする手品のお相手を勤めさせることであった。この相談を持ちかけられた時、ラートは一旦断った。が、可愛いローラと二人で食っていかねばならぬことを考えた時、彼は承諾せずにはいられなかった。こうしてラートは生活のため人前に恥を忍んで旅から旅をめぐり歩いた。商売に抜け目のない団長はラートのこの浅間しく尾羽打ち枯らした姿を種にしてたんまり儲けようと、昔ラートが教授をしていた町で蓋を明けることに腹をきめ早速そこへ乗り込んだ。団長の思惑は流石に当って客はぎっしり詰めかけて来た。ラートがダブダブのカラーをして鼻をふくらませて舞台に出ると客は一斉にどっと笑った。犬の様な今の自分の道化姿を見て笑っている者の中にはその以前手塩にかけた教え子もあるであろうとラートの胸の中は煮え返るようであった。しかしこの時こんな思いをラートにさせておきながらローラは何をしていたか。彼女はラートが舞台に出ているのをいいことにしてかねてから情を通じていた一座の若い男(ハンス・アルバース)と接吻を交わしていた。舞台のラートの眼にローラのこの不しだらが眼に入った。彼は突然舞台から降りるとローラへ恨めしそうな、悲しそうな一暼をのこして力なき足どりで何処かへ去ってしまった。その夜が明けて暁の色がほのぼのと町を染めかけた頃、鼻の先を黒々と塗ったダブダブのカラーをつけたラートの果敢なく息絶えた体が、昔の中学校の英語教室に発見された。
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本作は渥美マリがディートリッヒ、千秋実がヤニングスの役割で女子高ミッションスクールの神父兼教師と生徒の不良少女に置き換えて『夜のいそぎんちゃく』'70(大映、弓削太郎)としてリメイクされますが、学校兼チャペルの門の前で千秋実がのたれ死ぬラストまで実に豪快なストレート・リメイクでした。それほど本作は男を誘惑ししぼり取るだけしぼり取って破滅させるファム・ファタール映画、いわゆる悪女映画の古典となったのですが、本作以前にもハリウッド初のヴァンプ(吸血鬼=悪女)女優セダ・バラ主演の大ヒット作『愚者ありき』'15以来の悪女映画の系譜がサイレント時代にすでにあって、これは自然主義的テーマですから19世紀からあるパターンのドラマで、映画以前に演劇作品にもありました。G・W・パプストがルイズ・ブルックス主演で映画化した『パンドラの箱』'28の原作戯曲『地霊』1995と『パンドラの箱』'03の二部作が代表的なものです。つまり本作の直前にもパプストの傑作『パンドラの箱』があったのですが、本作の強みはいち早くトーキー映画の技法を会得して作品化してみせたことです。本作は朝の酒場に納品される鶏の喧騒から下宿の女主人に起こされ朝食を済ませるヤニングスのカットバックで始まります。ヤニングスは口笛を吹いて鳥籠をのぞきペットの小鳥が死んでいるのを知る。朝食を運んできた女主人が「歌うのを止めたのね」とつまんでダストシュートに捨てる。本作全編のモチーフを集約する不吉で見事なオープニングです。音楽はキャバレーの実演場面に限られ現実音だけでサウンドが構成されますが、サイレント映画の映像で現実音を暗示させていたスタンバーグが本作では現実音は前提なのでカットごと、ことにフィックスショットが各段に長くなり、時間経過の緩急を感じさせるのが主眼になっています。もちろん分析的に短いカットの積み重ねで場面構成をしているシーンもありますが、冒頭とラストは意識的な時間操作のための長回しが使われています。生徒を懲罰するために初めて行った酒場でローラ・ローラに引きあわされ、その後度々通うようになる。生徒の大騒ぎから学校にバレて開き直ってローラ・ローラへの求婚の意思を校長に宣言してしまいクビになる。ローラ・ローラに求婚し結婚するがすぐに髪結いの亭主となる。メイク用具の焼きごての温度を日めくりカレンダーに押し当てて試し、カレンダーが次々オーヴァーラップでめくれて1925年から1929年になる。すると同じ楽屋風景でも道化のメイクをするげっそりと老いぼれたヤニングスが鏡に向かっている。本作はあくまでヤニングスの主演作品であってディートリッヒが悪女なのではなくヤニングスが転落していく過程に人によっては嫌悪感をもよおすほどの迫力があり、観直しておや、と思うほどディートリッヒは健康的にセクシーであってもむしろ裏表のない純真なキャラクターで、ロジェ・ヴァディムの『素直な悪女』'56のブリジッド・バルドーが大した悪女ではなくベルイマンの『不良少女モニカ』'53のハリエット・アンディションが大した不良少女でもない、単に気まぐれで率直なだけなので男が勝手に振り回されるのと同じです。スタンバーグがあまりに鮮やかにヤニングスを陰惨に破滅させたためにディートリッヒが際立って印象に残るので悪女映画の極めつけに見えますが、極めつけなのは映画トーキー化間もない'30年にトーキー技法の極めつけをものしたスタンバーグの腕の冴えで、本作は内容の割に技法的な必然から映画全体がやや長めになりましたが、次作『モロッコ』では早くもより複雑なプロットを冗長さを削ぎ圧縮した表現で、かつ緩急の効いた快調なテンポで一気に観せる作品に成功します。昭和6年はスタンバーグのトーキー作品が『モロッコ』2月、本作が5月、『間諜X27』8月、最新作でこの時期唯一の非ディートリッヒ出演作『アメリカの悲劇』11月と4作も公開されたため、キネマ旬報ベストテンには本作のみが入りませんでしたが(『モロッコ』1位、『間諜X27』5位、『アメリカの悲劇』10位)これは票が割れて割を食ったというところでしょう。欧米映画でもトーキーがようやく練れてきたのが'33年~'35年だったのは'30年代前半の映画を観れば観るほど痛感され、サイレントからの移行は容易でなかったのが知れますが、まさにスタンバーグのトーキー時代全盛期が'35年までだったのは時代がスタンバーグの水準に追いつくまで5年かかった、そしてその頃にはスタンバーグ映画は飽きられてしまっていたということです。
●3月18日(日)
『モロッコ』Morocco (Paramount, 1930)*92mins, B/W, 日本公開昭和6年(1931年)2月11日・キネマ旬報外国映画ベストテン第1位
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○あらすじ(同上) モロッコ駐屯の独国外国人部隊の一兵卒にトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)という米国人がいた。彼は人を人とも思わぬ不敵の男で、女なんかは一時の慰み物くらいにしか心得ず、飽きれば弊覆のごとくに捨てて省みないという風だった。彼の最近の情人、外国人部隊のシーザー士官(ウルリッヒ・ハウプト)の妻君(イヴ・サザーン)がそろそろ鼻について来た矢先に、彼はエイミー・ジョリー(マルレーネ・ディートリッヒ)という妖艶なキャバレーの歌姫と相識った。エイミーは金持ちの優男ラ・ベシュール(アドルフ・マンジュウ)をはじめ、自分に言い寄る許多の男達の騒ぐのを尻目にかけて、人々の注意をひくために、ことさらトムに特別の好意を示し、密かに彼女のアパートでトムを逢い引きした。トムは彼女が海千山千のしたたか者で、男なんかへをも思っていないことを知り、彼女に異常の興味を覚え、じりじりと彼女の魅力にひきつけられたが、彼女の虜となることをおそれ、すげなく彼女の許を去って街に出た所、そこには例の士官の妻が彼を待ち受けていた。エイミーも彼の後を追って街にやって来た所、彼が他の女と逢っているのを見て嫉妬を感じこれを邪魔しようとしたので、士官の妻が立腹し、野次馬や乞食共を買収してエイミーに襲いかからせた。彼女を庇おうとしたトムは街を騒がせたかどで軍隊に捕らえられ、懲罰の意味で危険な使命に服することを申し渡された。任務に赴く日トムは別れを告げるために彼女のもとを訪れたがラ・ベシェールが彼女に求婚しているのを立ち聞きし、ラ・ベシェールとの結婚が彼女を安楽と幸福に導くべきことを悟って彼女に当てた一通の手紙を残してこっそりその場を立ち去った。やがてトムは無事に危険な使命を果たしたが今更エイミーに会うことを欲せず、そのまま砂漠の中にある淋しい分遺所に留まる決心をした。一方エイミーは彼が負傷したことを聞き、ラ・ベシェールにせがんでとうとうその分遺所に連れて来てもらった。ラ・ベシェールはとうてい自分の恋が遂げられないことを知り、トムに力を貸して脱走させようと提議し、エイミーもまた彼と一緒に逃げることを希望した。しかしトムは若し真に自分を愛してくれるなら、彼女もまた立派な兵士の如く勇敢でなければいけないと行って脱走しようとはしなかった。やがて彼が部隊と共に砂漠に向かって行軍を起こした時、部隊の後に付き従っていくボロをまとい髪ふり乱した女軍の一隊があった。それは兵士達の赴くところどこまでも行こうとする彼等の妻や愛人達の一隊で、エイミーのけなげな姿がその中に見いだされたのはもちろんであった。
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本作は初めて観れば誰もが強烈なインパクトを受け、観直す機会があると案外ちゃちいなと思ってみくびってしまいますが、時を置いてさらに数回、さんざんさまざまな国のいろいろな時代の映画を観て、その間当然人生にもあれこれあったりしたあげくにふと観ると、当初思っていたよりもずっと素晴らしい名作としみじみ沁みてくる種類の映画です。そこらへんが通俗映画の名作でも『望郷』'37、『カサブランカ』'42、『第三の男』'49などにはない邪心のない本作の爽やかさで、本作にはキザかっこいいクーパーとあだな魅力のディートリッヒと金持ちいい人無償の愛のマンジューのちょっとかっこつけ方が古くさい、でもそこがいい人情噺があるだけで、惚れあっているのにばればれのツンデレを貫くクーパーとハリウッドに来ていっそう身体の線が引き締まりメイクとファッションに磨きをかけたディートリッヒと一挙手一投足が余裕の中年の魅力で迫るマンジューを堪能すればいいので、原作こそあれジュールス・ファースマンの脚本も冴えまくっています。ホークスがベン・ヘクトやファースマン、ガームスを長く重用しながら(またハサウェイの親友でありながら)ムルナウとフォード、ルビッチ、マッケリーを賞賛してスタンバーグの名を上げないのは同時代のハリウッド監督の誰もがスタンバーグに出し抜かれた気分だったからに違いなく、イギリスではヒッチコックが、フランスではクレールがしてやられた思いだったでしょう。当時ハリウッド業界内ではどれだけスタンバーグが偽オーストラリア人監督とバレていたかはわかりませんが、正真正銘ドイツ映画の『嘆きの天使』で有無を言わさない実力はトーキーで早くも実証済みです。やはりクーパー主演、マンジュー共演のパラマウント映画『戦場よさらば』'32(キネマ旬報ベストテン6位)は大ベテランのフランク・ボーゼージ監督作で、ボーゼージだって名手なのですが『モロッコ』が'30年で『戦場よさらば』が'32年作なのはあまりの質の差にあぜんとします。『戦場よさらば』はまだ全然トーキー技法の試行期作品という感じなのです。『モロッコ』は戦場ロマンスでエキゾチシズム作品なのですが、スタンバーグの独創は映画をムード作品としてだけ磨きをかけている点で、戦争や外国というのはムードの演出のため、ファースマン脚本の狙いは違うでしょうがスタンバーグはプロットやストーリーなど映画を劇映画らしく設定し名場面を盛りこむための器としか使っておらず、当然人間を描こうなどとは考えてもいません。そこがスタンバーグのディートリッヒ主演作7作でも『嘆きの天使』と『モロッコ』以降を分ける点で、『嘆きの天使』はムードだけの作品とは言えないでしょう。ただしトーキー技法の会得には『嘆きの天使』のテーマ性は早道でした。そして『モロッコ』は本当にムードだけで、サイレント時代の『紐育の波止場』をもっと華やかに劇的にしたものだと気づきます。ムードだけを追求した手法という汎用性から『モロッコ』以降のスタンバーグ&ディートリッヒ作品は'30年作のフランスの詩的レアリズム映画、'40年代~'50年代のフィルム・ノワール作品の雛型になり得たわけです。スタンバーグの勝負師的資質がもっとも輝いていたのがディートリッヒとのコンビ作前半のリー・ガームス撮影になる本作、『間諜X27』、『上海特急』のエキゾチック三部作だったのは偶然ではないでしょう。
●3月19日(月)
『間諜X27』Dishonored (Paramount, 1931)*91mins, B/W, 日本公開昭和6年(1931年)8月12日・キネマ旬報外国映画ベストテン第5位
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○あらすじ(同上) 世界大戦が始まってから2年、1915年の秋、オーストリアはウィーンの裏町に幾多の売春婦たちが崩れ行く祖国を眺めながら寂しく日を送っていた。その中から強く祖国を愛する1人の女(マルレーネ・ディートリッヒ)が、オーストリア秘密探偵局長に拾い上げられた。そしてスパイX27号として彼女の名は陸軍省機密書類の奥ふかく記録されたのである。仮装舞踏会の一夜、X27号の任務の手は売国奴ヒンダウ大佐(ワーナー・オーランド)に近づいてその夜の中に彼を自殺させた。その直後、彼女の手はオーストリア将役の仮面を被った敵国ロシアのスパイ、クラノウ(ヴィクター・マクラグレン)の身辺にのびた。けれどお互いにスパイであることをしりながら2人は熱烈な恋に陥り始めた。この恋のいまだ日浅くして彼は逃れてロシアに帰り、続いて重大な任務を帯びたX27号がロシアに潜入した。数日の後X27号は国境近きロシアの将校宿舎に住み込んでいたが、不幸にもクラノウに捕らえられて銃殺を申し渡された。けれども恋にもゆる彼の情けにより、彼女は再び祖国の土を踏むことができた。その年も暮れて冬が来た。X27号の罠にかかった多くのロシア兵は続々として将軍(ウィルフレッド・ルーカス)の前に引き出された。その中に愛するクラノウを見いだした彼女は、その恋ゆえに任務を売って彼を逃がしてやった。その罪は反逆、刑は死に該当。辛辣なる判決の後、彼女は売国奴X27号とされ静かに獄屋に下った。やがて明け方近く純白の雪の上に時ならぬ鮮血をとばしてX27号の若き生命は終わった。
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すでに数人の重要スパイを籠絡し破滅させたディートリッヒがマクラグレンの貫禄に惚れてしまい、マクラグレンもディートリッヒに惚れてしまう。逮捕に追いこむ前にマクラグレンはロシアに呼び戻されてしまうのですが、田舎女に変装してロシアに潜入したディートリッヒ(この田舎女メイクのディートリッヒの別人ぶりは呆気にとられるほどです)の素性をロシア諜報部トップのマクラグレンが見抜き、逮捕させるが銃殺刑寸前に逃亡の隙を作ってディートリッヒを逃がす。またまた舞台はオーストリアに戻って、今度はマクラグレン率いる潜入スパイ組織がまるごと検挙される。そしてディートリッヒがマクラグレンを逃がし、ディートリッヒが叛逆罪で銃殺刑に処せられる壮絶なラストにいたるのですが、ディートリッヒがスパイ就任時に諜報部の案内役をした若い下士官(バリー・ノートン)が処刑の迎えに来る。あなたと歩くのはこれが2回目ね、とディートリッヒが微笑む。下士官は銃殺刑の発射合図役をさせられ、小太鼓のロールが終わって合図のタイミングに銃剣を放り出して「女は殺さない!男も殺さない!誰も殺さない!殺しあいに何の意味があるんだ!」と絶叫して連れ去られ、代わりに諜報部局長がやり直す。カットは割ってありますが、フルサイズの構図でディートリッヒが銃弾に倒れるカットは『女と男のいる舗道』のラストシーンを連想させられます。本作も最小限の現実音だけのサウンド構成が素晴らしい効果を生んでおり、台詞はほんとに最小限しかありません。映画はクレジットの後に「第一次大戦時のオーストリア軍諜報部のファイルにスパイX27号の記録は記されている。もし彼女が優秀なスパイであったなら……」という一枚字幕で始まりますが、すっきり意味の通らないその前書きがどういう意味だったかが結末まで観てようやく腑に落ちるようになっている。『モロッコ』よりさらに設定も話も単純化されているだけにシーンごとの映像の濃密さは本作の方が上です。マクラグレンが登場するのが映画の中盤少し前からなので恋のかけひきに比重は重くなく、前半の娼婦に身を落とし、さらに「この世でもっとも卑劣な」女スパイとなった戦争未亡人ディートリッヒの孤独がひしひしと伝わってくるので、誇り高いロシアからの潜入スパイのマクラグレンとのけっこう無理のある恋も自然に納得させられてしまう。これはムード作品としては同じ指向の同時期のルネ・クレールのパリ連作(『巴里の屋根の下』'30~『巴里祭』'32)より数等上の魔術的作品です。『救ひを求むる人々』'25の監督が実はこういう指向の映画作家だったとは驚くべきことで、君子豹変すの喩えとはこういうのを言うのでしょうか。