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●3月8日(木)
『山椒大夫』(大映京都撮影所/大映'54)*118min(オリジナル124分), B/W; 昭和29年3月31日公開 : https://youtu.be/zatYe_fHq5g
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○あらすじ 平安末期、七年前左遷された平正氏の家族玉木(田中絹代)とその子厨子王(花柳喜章)と安寿(香川京子)、女中の姥竹の四人は越後の浜辺で人買いにだまされ、母玉木は佐渡へ売られ、姥竹は自殺し、厨子王と安寿の兄妹は丹後の大尽山椒大夫(進藤英太郎)に売られる。激しい労働と残酷な仕打ちの中で出家した大夫の息子太郎(河野秋武)に励まされながら十年が流れた。佐渡から売られてきた小萩(小園蓉子)の口から兄妹は母の消息をきき、安寿は厨子王に逃亡をすすめ、自分は追手をはばんだのち投身自殺をとげた。都へ出た厨子王は後に平正道として丹後の国守に任じられ、さっそく人買いや奴隷を禁じ佐渡の母と対面するのであった。キネマ旬報ベストテン第キネマ旬報第9位。ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作である。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
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それでも順撮りの幸徳か、芝居相手まで輝かせてしまう田中絹代の威光か、ラストシーンの母子再会では花柳喜章の頼りなさが生きていて、実はさめざめと泣いてしまえる溝口映画はこの感想文の筆者の場合『折鶴お千』と本作2作きりなのですが、初公開当時から現在まで本作の評価が国内では安定しないのは貴種の生まれが証明されて丹後の国守、平正道になってからの主人公の行動です。周囲の忠告を押し切って人身売買禁止令を発布し、山椒大夫を領地追放にして解放奴隷たちに自由を告げてかつて山椒大夫の命令で額に焼印を押した奴隷に陳謝し、妹安寿の死を知って嗚咽をこらえ、旧山椒大夫邸を職場として働くもよし移るもよしと告げてから高台の御所に戻り、母の行方を捜すために国守を辞職する。退職願いを書いて立ち上がると山椒大夫邸炎上の報を受け、廊下に出るとはるか麓の山林の中で遠く、山椒大夫邸が煙を上げている。次のシーンでは早くも母の売られて行った佐渡での母捜しになるのですが、本作を『ベン・ハー』や『スパルタカス』と並ぶ奴隷解放革命映画として見ても貴種生まれの特権を利用した権力の行使でしかないところに真の革命とは言えない古い発想の残滓があり(つまり水戸黄門と同じレベルです)、解放奴隷の生計を保障する発想もないから鋸挽きの刑の代わりに山椒大夫邸を炎上させたが結局暴徒化した解放奴隷たちが分け合い営む本拠すら無に帰してしまったことへの責任すら取らないで辞職してしまう。当然後任の国守は奴隷制の確約に荘園中を回るだろうし、溝口は奴隷解放革命が当時にあっては私有財産制の強制廃止に等しい無政府主義だったのを気づかないのか。厨子王=平正道は一時的な無政府主義を施行しただけで何の継続的改革も行わず佐渡へ行ってしまったが、為政者としての父の戒めの遂行を結局放棄してしまったも同然ではないか。おそらく依田氏が本作について抱いた澱み、暗さというのはそうした批判をすべて予期していたからで、政治映画として見れば『元禄忠臣蔵』より思想的一貫性もない、この主人公の選択は破滅への志向として何も残さない(『元禄忠臣蔵』の赤穂浪士たちの反逆も赤穂藩民たちの願いをかなえ、赤穂藩民のコミュニティー意識を継続させるための犠牲的行為でした)、思想として突き当たりを感じさせるものになってしまったのではないか。しかしこれは日本人が自国の映画として観るからであって、案外欧米、特にヨーロッパ諸国ではさほど違和感なく受け入れられたようです。歴史の浅い新興国で未開地開拓国のアメリカはともかく、近~現代の革命は場当たり的に前の為政者を倒した為政者が正反対の政策を打ち出し、失策すればすぐ次の為政者に倒されるのくり返しで、恒久的な理想的改革理念などないことを自国、また周辺隣国のさまざまな歴史的悲惨から知り抜いている。ひょっとしたら周りの国守との戦争になるか、身内から暗殺される前に山椒大夫にだけ的を絞って目的遂行したらさっさと要職から逃げ出しおおせた主人公を策士としては優秀で的確な決断力がある、という見方もできるのです。しでかしたことが大それていすぎたために国守としての継続的改革など望みようがなかった、と考えれば生きて母との再会を果たした方が確実で、主人公としては母と抱き合った浜辺でそのまま息絶えてもいいほどの思いでしょうからゴダールがラストカットに死と永遠の究極のイメージを見たのは早とちりではなくて、誰もが厨子王と母玉木のその後などまったく想像できないはずです。そこから逆算すれば、本作の政治的歴史観の錯誤などどれほどの問題になるでしょうか。
●3月9日(金)
『噂の女』(大映京都撮影所/大映'54)*84min, B/W; 昭和29年6月10日公開 : https://youtu.be/0E24iCquQsw (trailer)
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○あらすじ 京都島原。夫なきあと女手一つで遊女や仲居、女中達をきり回す井筒屋女将の初子(田中絹代)は東京で音楽を学ぶ一人娘雪子(久我美子)の自殺未遂事件にあう。雪子は家に戻され、初子の年下の恋人の医師的場(大谷友右衛門)の診察を受ける。雪子は家業が廓であることと恋人との不仲を悲観した末の自殺未遂であった。雪子が次第に的場に好意を感じていくのを知り、初子は身を引こうとする。しかし的場の雪子に対する愛が打算以外の何ものでもないことを知った雪子は的場と別れ、失恋と疲労に倒れた初子を看病しながら家業を継ぐ決意を固めるのであった。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
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溝口の入院が'56年5月、逝去が8月ですから企画は溝口の死より先だったと思いますが、本作への小津の回答が'57年4月公開の『東京暮色』だったのではないかと思うくらい『東京暮色』は小津映画でも溝口の諸作の暗さに近づいた作品でした。小津の場合父子の関係を描いた映画では息子、娘ともテーマにし、母子では息子との関係をあつかった作品はありましたが、母娘に焦点を当てたのは『東京暮色』と『秋日和』'60の2作になり、肉親間の人間関係の洞察では小津の領域は溝口よりはるかに広いのですが、肉親の女同士の愛憎関係、特に母娘は意識的に避けていて、戦後の小津作品は名作佳作揃いですが姉妹を描いた佳作『宗方姉妹』'50はあっても母娘(山田五十鈴と有馬稲子)を突き放して描こうとした『東京暮色』は戦後唯一の失敗作と目されるほど不評だったもので、『秋日和』の明るい母娘(原節子と司葉子)で挽回を図ったもののやはり小津は女性に焦点を合わせると優しい描き方こそ本領を発揮した人だと思わせられます。溝口の本作は当時キャッチコピーで「笑いと涙」と謳われた通りにふすま越しの1フレームで母(田中絹代)が娘(久我美子)に関係を隠している愛人の医師といちゃついている様子をうかがっている場面などコメディ演出を意識した箇所(田中絹代のパトロン役の進藤英太郎も『山椒大夫』とは別人のように本作では気のいい助平親父です)もあちこちにあるのですが、溝口は小津とは逆でコメディ調に和ませようとしてもまったく向かないのです。田中絹代と久我美子は実年齢通り容貌も演技も十分母娘の世代的な隔たりを感じさせるのですが、一人の男を巡る関係に説得力がなく、姉妹の確執のように見えてくるのが母娘という設定を裏切っています。田中絹代の母はしっかり者すぎて、医院の開業で世間に顔向けしたいと動機が語られてもこの若い愛人の医師のような男に惚れているとは見えないのが致命的で、一人の男を挟むとしたら田中絹代の年齢に近い食えない中年の色男を配した方が良かったでしょう。『雪夫人絵図』で聡明可憐な女中役だった久我美子も失恋の痛手につけこまれたとしてもやはり本作の青年医師のような男に惚れるとは思えないのが二重に説得力を欠き、結局母娘ともこの男に愛想をつかすのが大して面白くもなくなっている。本作の映画オリジナル・シナリオは難航したそうで最初は川口松太郎が原案を書く予定でしたが何を提案しても溝口が不満で「こんなことで日本映画界はどうなるんでしょうね」「おれだって懸命に書いてるんだよ」「しかしあんたは世界的文豪ではないでしょう」「そりゃおれは世界的文豪じゃないさ」「それがわかればいいんです」と悶着したせいで川口が原案から降りたらしく、また一時は求婚する意思があった田中絹代が溝口映画最後の出演作になったのは、だいたい娘役から起用していたヒロインを母親役に使ってしまうともうそれからは主演女優には使わない監督が多いのですが、本作の前年に田中絹代の監督デビューの企画があり(新東宝『恋文』'53、以降'62年までに全6作)、その際方々からコメントを求められるたび「田中の頭で監督ができますか」と一笑に伏していたのが不和のきっかけになったというのが定説です。つくづくひと言多い人ですが、依田氏が母娘の決別で終わらせるプランを断固として娘からの和解に固執したのは溝口自身だったそうで、依田氏が回想録でも決別の方が良かったと書いているように理解の上の決別という結末に向かって収斂していくシナリオでしたら、いつもの溝口節と言われるような作品になったとしても演出の調子ももっと集中したものになったと思われる弱みがあります。しかし『雪夫人絵図』から連続7作の力作、溝口にしてみれば戦後13作目で『雪夫人絵図』以前もおろそかな仕事はなかったのですから、田中絹代へのきつい演出も今回は緩めて軽く仕上げたかったのでしょう。舞妓の姉が病死し何度も舞妓にしてくれと訪ねて来るたび帰していた妹の少女を客間に待たせて、すっかり代理女将が板についた久我美子が呼び出しに出て店の舞妓を送り出す店前の路地の奥行きのある構図で映画は終わります。こうした所はやっぱり抜群にうまいなあ、と感じいるだけの作品ではあるのです。
●3月10日(土)
『近松物語』(大映京都撮影所/大映'54)*97min(オリジナル102分), B/W; 昭和29年11月23日公開 : https://youtu.be/qomQiXaBtA0 (trailer)
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○あらすじ 京の大経師の若妻おさん(香川京子)は兄の無心から、金の工面を手代の茂兵衛(長谷川一夫)に相談した。茂兵衛は店の金を一時用立てたが、主人の以春(進藤英太郎)から疑われる身となる。おさんは茂兵衛を思慕する女中お玉(南田洋子)の寝所へ以春がのりこむところをいさめようとして待受けるが、かえって逆に以春に茂兵衛との仲を疑われる。ついに茂兵衛とおさんは駆落ちした。その途中で茂兵衛はおさんへの強い慕情を打明けるのであった。大経師の家は不義者を出したかどでとりつぶされることになり、当時の刑法でおさんと茂兵衛も追手に捕われた。刑場にひかれていく二人の顔は真の愛情を貫いた思いで幸せにみちているのであった。近松門左衛門の浄瑠璃劇「大経師昔暦」の映画化。キネマ旬報ベストテン第5位。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
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本作は封建社会の建て前と本音にも目配りは利いており、おさんの夫が必死になるのも若妻への心配や嫉妬などではなくただただ大店の大経師家が不義密通者を出したとあっては直ちにお家取り潰しになるからですし、茂兵衛おさんを捕まえてもおさんは幽閉、茂兵衛はどさくさ紛れに別の罪状をつけて丸く治めるつもりなのですが、もうおさんと茂兵衛は本気で駆け落ちしているので最後は全員破滅するしかない。小舟の抱擁の後はその推移を追っていくだけとも言えるので映画はほぼ前半2/3で尽きていますが、そこから先はおさんと茂兵衛の覚悟は揺るぎないので大経師家と道中の二人のカットバックで見せていく。『西鶴一代女』のように男から男へ、つかの間の幸せからまた暗転へ境遇を転がり続けていくのでもなければ『雨月物語』のようにサブ・プロットに工夫のある展開でもなく、『山椒大夫』のように大規模な歴史劇でもありませんから、本作は不義の恋人たちに的を絞った分小舟のクライマックスからはやや冗長にも感じ、観終えて尺数を見ると2時間たっぷりあったような気がしてきて、溝口得意の作中時間経過の錯覚をあえて採用しています。長谷川一夫も演じていて順撮りにもかかわらずシーンのつながりがわからず、「こんな馬鹿な本はあるかい」と文句を言うことたびたびだったそうですが、舞台映画ともにベテラン千両役者の長谷川でもカットを割らない溝口の長回しはこのまま使うのか別のカットと組み合わせるのか戸惑っていたのでしょう。『残菊物語』は花柳章太郎と話し合いの上で長回ししていたし、香川京子は『山椒大夫』の出演でワンシーン・ワンカットの入水自殺まで演じていましたからずっとロングで長回しの演技を要求されるのに慣れていたでしょうが、『山椒大夫』の花柳喜章とまではいかなくても長谷川の演技にやや慌ただしさを感じます。芸能人が拍手する時にわざとらしいくらい両手を胸元まで持ち上げるようにアップ、ミディアム、ロング、切り返しといったカメラ・ポジションを意識してしまうのか、そうしないと気が入らないのか、溝口のようにロングで長回しのショットで追うと長谷川一夫のあちこちが動きすぎているように見えるのです。花柳章太郎の千両役者ぶりは小さな所作で全身の演技を見せる伝統的で様式的なものでしたが、長谷川の千両役者ぶりは悠然と構えた香川京子と組み合わせるて達者に演じすぎているように見える場面がままあり、溝口は役者が音を上げるほど何度もリハーサルをくり返して駄目出しして撮りたいイメージに近づける演出法が習慣だったといいますが、本作の長谷川一夫にはフリッツ・ラング式に足元の線に沿って歩いて止まったら顔を上げて腕を引いて、と人形演技を要求した方が早かったのではないか。かなり無駄な動きをそぎ落としてもここまでだったと思われ、スターの華はさすがの存在感があるだけにミスキャストとは言えないので微妙なところです。映画冒頭しばらくは風邪で寝こんだ役になっているのも、作劇上の工夫なのは依田氏がシナリオ作業裏話で解説しているのもあるでしょうが、最初から溌剌とした色男ぶりを見せられては長谷川ばかりが悪目立ちしてしっとりとした香川京子のおさんを立てた運びにならない、という計算もあったのではないでしょうか。また本作は見事な名作ですが、『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』と続いてきた古典歴史劇ものとしてはテーマが純一な分本作ではやれることを行き着いてしまった観があり、ここから同系統の発展は二番煎じにしかならないが再びそれまでの作品の混沌には戻れないとも思わせるもので、ではどうなったかというのが次回の'55年の2作、そして'56年の遺作で、溝口の作品はあと3作きりなのです。